オルガナ
オルガナ(Orγana, Orqïna 生没年不詳)は、中央アジアを支配したチャガタイ・ハン国の第4代君主(1252年 - 1260年)。オルクナ Orqïna ともいわれる。ペルシア語史料『集史』では اورقنه خاتون Ūrqana Khātūn/Ūrqina Khātūn と表される。
オルガナはオイラト王家の当主クドカ・ベキの次男トレルチと、チンギス・カンとその第1皇后ボルテとの第二皇女チチェゲンとの娘である。同父母兄弟には、ブカ・テムル、ボル・トゥア、バルス・ブカがおり、同父母姉妹にはトルイ家のアリクブケの第一正妃イルチガミシュや同じくフレグの第二正妃グユク・ハトゥンがいる。チンギス・カンは治世の後半に自らの息子や孫たちとオイラト王家の子弟たちとの通婚を緊密にしていたことが知られているが、オルガナは姉妹がトルイ家やジョチ家に嫁ぐ例が多かった中で、チャガタイ家に嫁ぐことになった。
彼女は美貌の持ち主だったといわれ、はじめチャガタイ家のモエトゥケンの息子で第2代君主・カラ・フレグの妃となり、その間にムバーラク・シャーが生まれている。チャガタイはチンギス・カンの西征のおりにバーミヤーンで長男モエトゥケンを失った後、モエトゥケンの四男であったカラ・フレグを自らの後継者と定めた。オルガナはチャガタイ家の次期当主の筆頭正妃となったが、『集史』オイラト部族誌によると、チャガタイは彼女を大変可愛がり、オルクナ・バリ( اورقنه بارى Ūrqana Bārī :「バリ」は「嫁」の意味)と呼んでいたという。
カラ・フレグは1246年に第3代モンゴル帝国皇帝・グユクの内政干渉を受けて廃され、叔父のイェス・モンケが第3代君主となった。ところがイェス・モンケは酒色に溺れて政務を顧みず、オルガナが事実上の統治者として統治を行なった。グユクの死後、モンケが皇帝になると、モンケのチャガタイ家粛清に協力し、1252年に夫カラ・フレグがチャガタイ家の所領に到着する前にアルタイ方面の道中で死去した後、イェス・モンケを処刑した。
その後はモンケの後ろ盾を得て事実上の君主となったが、これはトルイ家の傀儡として立てられたに近かったとされる[要出典]。1259年にモンケが死去し、クビライとアリクブケが後継をめぐって争うと(モンゴル帝国帝位継承戦争)、オルガナはアリクブケを支持し、その即位式にも参列した。しかし華北という肥沃な領土を掌握するクビライに対抗するため、アリクブケはチャガタイ・ハン国に干渉してオルガナを廃し、自らと親しかったアルグを新君主に据えた。ただし、美貌の持ち主だったためにアルグの妃になるように強要され、オルガナはカラ・フレグとの間の息子であるムバーラク・シャーを後継者にしてくれることを条件に受け入れたという。
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