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カラ・フレグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カラ・フレグQara Hülegü, ? - 1252年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第2代君主(在位:1242年 - 1246年, 1251年)。チンギス・カンの次男チャガタイの長男であるモエトゥケンの四男、つまりチンギス・カンの曾孫である。オイラト王家出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバーラク・シャーを儲けた。『元史』では合剌旭烈大王、『集史』などのペルシア語表記では قرا هولاكو Qarā Hūlākū、『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』では(一部、『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』でも) قرا هولاووQarā Hūlāwū とも書かれる。

生涯

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モエトゥケンはホラズム・シャー朝討伐戦でチンギス・カンがバーミヤーンを包囲している最中に矢傷を受けて戦死し、チャガタイはその他の実子たちのうち三男ベルガシを後継者にしたが、ベルガシも13歳で亡くなった。このため、チャガタイはモエトゥケンの四男であったカラ・フレグを後継者として指名し、1242年にチャガタイが死去すると後継者となった。

バトゥモンケグユクによる後継者争いでは中立を保っていたが、叔父のイェス・モンケはグユクを強力に支持した。このため1246年にグユクがカアンとして即位すると、若年であるから当主にふさわしくないとしてグユクの介入を受けて当主の座を追われ、新たにイェス・モンケが即位した。

グユクの死後、1251年にモンケが即位すると、グユク支持者だったイェス・モンケはモンケの介入を受けて廃され、代わってカラ・フレグが復位することになった。しかしカラ・フレグは正式に当主として承認してもらうためにモンケの許に赴く途中で病死したという。

カラ・フレグ没後のチャガタイ・ウルス当主の変遷

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カラ・フレグが死去した後、モンケから命じられたイェス・モンケの処刑は妃であったオルクナが執行し、チャガタイ家の統治も彼女が代行した。オルクナとの実子であったムバーラク・シャーはカレ・フレグが亡くなった時はまだ幼少だったようで、モンケの治世中はオルクナが当主を代行してチャガタイ家を取り仕切った。1259年にモンケが死去し、クビライアリクブケが後継をめぐって争うことになった。(モンゴル帝国帝位継承戦争)この最中、クビライの意向によってブリの長男アビシュカをチャガタイ家の当主となるよう派遣され、寡婦となっていたオルクナ・ハトゥンに娶らせようとした。しかし、その道中でアリクブケの軍が彼を捕縛してアリクブケのもとへ連行し、アリクブケに組みしていたモンケの長男アスタイによって処刑された。今度は、アリクブケの命令により、アビシュカに替わってチャガタイの六男バイダルの息子であったアルグがチャガタイ家の家督を受継ぐよう命じられた。

このように、モンケの他界後、チャガタイ家の当主が空位のままであったことからモンゴル帝国の皇帝位の継承問題に影響される形で、その家督を巡ってクビライアリクブケ両陣営で争奪する様相を見せ、また当主位の継承がカラ・フレグの寡婦であったオルクナとの婚姻も併せて交替する事態となった。ムバーラク・シャーがチャガタイ家の家督を継いだのはクビライがアリクブケを破り、アルグも没した1266年であった。しかし、このムバーラク・シャーの家督もカラ・フレグの甥であったバラクに実力で奪われる事になる。

宗族

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カラ・フレグの正妃は、オイラト王家のトレルチ・キュレゲンとチンギス・カンの娘チェチェゲンとの娘であったオルクナ・ハトゥンであり、彼女との間にムバーラク・シャーを儲けている。他にトゥグルク・シャーとバイラームという娘たちがいたらしい。トゥグルク・シャーはスルドス部族出身のマング=テムルという部将に嫁ぎ、イディ・クルトカという娘を儲けた。このイディ・クルトカはイルハン朝ガザンの妃となっている。

モエトゥケン
不詳(『五族譜』『高貴系譜』によると、ナイマン部族出身の側室)
兄弟
長兄 バイジュ
次兄 ブリアビシュカの父で、ブカ・テムル、ナリクの祖父)
三兄 イェスン・トア(バラクの父)
后妃
オルクナ・ハトゥン
男子
ムバーラク・シャー (母はオルクナ・ハトゥン)
女子
トゥグルク・シャー
バイラーム?
先代
チャガタイ
チャガタイ・ウルスの君主
1242年 - 1246年
次代
イェス・モンケ
先代
イェス・モンケ
チャガタイ・ウルスの君主
1251年
次代
オルクナ・ハトゥン(監国)

脚注

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