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'''平田 洋'''(ひらた ひろし、[[1975年]][[11月25日]] - )は、[[愛知県]][[豊田市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。 |
'''平田 洋'''(ひらた ひろし、[[1975年]]〈[[昭和]]50年〉[[11月25日]] - )は、[[愛知県]][[豊田市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]]・右投右打)<ref name="94選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='94プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]|volume=第18巻第5号(通算:第191号 / 1994年3月号増刊)|publisher=[[日本スポーツ出版社]]|date=1995-03-15|page=38}}</ref>。 |
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[[豊田大谷高等学校|豊田大谷高校]]時代から高校球界屈指の剛腕投手として注目され<ref name="中日新聞1993-10-08"/>、{{by|1993年}}の[[1993年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で地元球団である[[中日ドラゴンズ]]([[セントラル・リーグ|セ・リーグ]])から1位指名を受けた<ref name="中日新聞1993-11-20 夕刊"/>。入団当初から「将来の[[エース (野球)|エース]]」と高く期待されたが<ref name="94中日ファンブック"/>、プロ入り後は一軍でわずか2試合のみ先発登板して0勝1敗とまったく活躍できず、プロ入り5年目の{{by|1998年}}限りで[[戦力外通告]]を受けた<ref name="中日新聞1998-10-07"/>。 |
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[[豊田大谷高等学校|豊田大谷高]]から[[1993年]]ドラフト1位で[[中日ドラゴンズ|中日]]に入団。 |
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実は中日だけではなく[[オリックス・バファローズ|オリックス]]もドラフト1位で指名する方針だったことや当時寮生活を送っていた豊田大谷高まで関係者が挨拶に来ていたことをドラフト会議後に放送された『[[サンデードラゴンズ]]』においてゲスト出演していた平田本人が明かしていた。 |
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=== 高校時代まで === |
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[[豊田市立挙母小学校]]・[[豊田市立崇化館中学校]]出身で<ref name="94中日ファンブック"/>、小学校5年生の時に<ref name="中日新聞1993-07-09"/>父親が監督を務めていた[[少年野球]]チームで野球を始めた<ref name="中日新聞1993-10-08"/>。 |
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野球を始めてから投手一筋で<ref name="中日新聞1993-10-08"/>、中学卒業時には後に[[全国高等学校野球選手権愛知大会|愛知県大会]]で敗れた[[享栄高等学校|享栄高校]]を含め多くの強豪高校を抱える高校からスカウトされた末に[[豊田大谷高等学校|豊田大谷高校]]へ進学し<ref name="週ベ1993-08-23">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ベースボール]]|title=高校野球特集 地方大会で消えた「BIG4」の気になる“これから” プロ志望の147キロ右腕に12球団スカウトも「ドラフト1位」の太鼓判! 平田洋[豊田大谷]|volume=48|date=1993-08-23|issue=35|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|language=ja|page=115}} - 同特集記事で[[平尾博嗣|平尾博司]]([[埼玉県立大宮東高等学校|埼玉県立大宮東高校]])・[[高橋由伸]]([[桐蔭学園中学校・高等学校|桐蔭学園高校]])・[[岡島秀樹]]([[東山中学校・高等学校|東山高校]])とともに取り上げられている。</ref>、高校時代は2年生({{by|1992年}})でエースになった<ref name="中日新聞1992-07-29"/>。同年夏の県大会では[[愛知県立鶴城丘高等学校|県立西尾実業高校]]相手に17奪三振を記録し、相手打線を1被安打のみに抑え完封勝利したほか<ref>『中日新聞』1992年7月20日朝刊名古屋市民版16頁「高校野球愛知大会 第4日 岩瀬(西尾東)ノーヒットノーラン 豊田大谷の平田、17奪三振で完封」(中日新聞社)</ref>、続く[[愛知県立安城東高等学校|県立安城東高校]]戦では10奪三振を記録して完封勝利を挙げ、創部5年目の同校を初めて5回戦進出に導いた<ref>『中日新聞』1992年7月26日朝刊愛知県内総合版17頁「高校野球愛知大会 第10日 西三河対決、豊田大谷に軍配」(中日新聞社)</ref>。しかし同校にとって初の「[[愛知私学4強|私学4強]]」相手の公式戦対決となった準々決勝・[[東邦高等学校|東邦高校]]戦では<ref name="中日新聞1992-07-29"/>これまでの「力で相手打線をねじ伏せる」勝負は通用せず、13被安打・10失点を喫して6回[[コールドゲーム]]で敗戦してしまった<ref name="中日新聞1993-07-09"/>。しかし当時の野球部監督・後藤篤は平田を「3年生もよくやったが、ここまで来れたのは平田の力も大きい」と高く評価しており、平田も敗戦後に「来年はスピード・コントロールを付けて絶対に甲子園へ行きたい」と抱負を述べていた<ref name="中日新聞1992-07-29">『中日新聞』1992年7月29日朝刊名古屋市民総合版17頁「92夏・白球を追って/ “ブルドッグ野球”確かな一歩 豊田大谷の後藤監督 何よりの土産8強 王者に真っ向 さわやかに散る」(記者:村井博美)</ref>。 |
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だが平田が中日入りを熱望し、オリックスへの入団を拒否する構えを見せたため結局オリックスは平田の獲得を諦め、[[平井正史]]を1位指名する方針に変えたというエピソードが番組内でのドキュメンタリーにて放送された。 |
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高校2年生の秋には最高球速・146 [[キロメートル毎時|km/h]]の速球を武器に初の全国レベル大会となる[[明治神宮野球大会]]に出場し、中央球界からも注目されるようになった<ref name="中日新聞1993-07-09"/>。一方で3年生へ進級する直前の{{by|1993年}}3月中旬には打撃マシンでバントを練習していた時にボールを直接右肩に当てたことで腱板損傷亜脱臼の重傷を負い、春の県大会を棒に振るとともに周囲を心配させたほか<ref name="中日新聞1993-07-09"/>、腰痛にも悩まされた<ref name="中日新聞1993-12-04"/>。しかし当時着用していた背番号11を励みに腰痛を克服して復活し<ref name="中日新聞1993-12-04"/>、5月初めには復調して練習試合を重ね、速球([[直球]])は基礎体力・下半身の強化により148 km/hまで上がっていた<ref name="中日新聞1993-07-09">『中日新聞』1993年7月9日朝刊第二運動スポーツ面26頁「車の街に剛腕球児あり 豊田大谷・平田 うなる148キロ」(中日新聞社)</ref>。それに加え「力勝負だけだと打たれるから打たせて取ることも考えよう」として新たに変化球をマスターし、2種類の[[カーブ (球種)|カーブ]](三振を取るカーブ・ストライクを取るカーブ)や[[フォークボール]]を習得した<ref name="中日新聞1993-07-09"/>。それらの球を武器に6月中旬に開催された三河地区の公式戦では4被安打・1与四球・10奪三振・自責点1点の8回コールドゲームで完投勝利を収め、後にドラフト1位で指名した中日の担当[[スカウト (勧誘)|スカウト]]・[[法元英明]]は当時から平田を「高校生であれほど速い球を投げる投手はいない。体格も良く体にバネがある」と高く評価していた<ref name="中日新聞1993-07-09"/>。 |
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甲子園出場の経験は無いものの、潜在能力の高さから「高校ナンバーワン投手」と評価されていた<ref>1998年[[日刊スポーツ]]発行プロ野球選手写真名鑑</ref>、当初から本格派右腕として[[速球]]を武器に将来のエースとして期待されていた。 |
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1993年夏の愛知県大会では1回戦・[[愛知県立知多東高等学校|県立知多東高校]]戦([[半田市営半田球場]])でプロ野球12球団のスカウトたちが見守る中、最速145 km/hの速球を投げるなどして相手打線を圧倒し、4回に3安打を浴びて2失点を許したものの10奪三振を奪う好投を見せ、チームも4対2で勝利した<ref>『中日新聞』1993年7月19日東海総合版15頁「高校野球愛知大会 第4日 豊田大谷9回に底力 エース平田は10三振奪う 半田球場 1回戦 豊田大谷4-2知多東」(中日新聞社)</ref>。4回戦・[[愛知県立津島北高等学校|県立津島北高校]]戦([[豊橋市民球場]])では初回いきなり先頭打者へ直球で四球を与えてしまい「上半身と下半身がバラバラになっている」と次打者からセットポジションに切り替えて投げた<ref name="中日新聞1993-07-25"/>。結果、自己最多タイとなる公式戦3度目の17奪三振を記録して完封勝利を収めたが、この時は試合後に「試合前にも監督からコントロールを重視するように言われたからその通りに投げた。厳しい試合展開で勝つことしか頭になかったから記録は意識していなかった」と述べたほか<ref>『中日新聞』1993年7月25日名古屋市民版16頁「高校野球愛知大会 第10日 本人も驚く快記録 豊橋市民球場 4回戦 豊田大谷4-0津島北」(中日新聞社)</ref>、自身の投球結果を「制球だけ気を付けて投げたのにこんなに三振が取れるとは、球が手元て伸びていたからだろう」と分析した<ref name="中日新聞1993-07-25">『中日新聞』1993年7月25日第12版第二運動スポーツ面24頁「全国高校野球地方大会 24日 快腕平田(豊田大谷)17奪三振 制球重視でも打者ナデ切り」(中日新聞社)</ref>。準々決勝・[[愛知産業大学工業高等学校|東海工業高校]]戦([[名古屋市瑞穂公園]]野球場)では<ref name="中日新聞1993-07-29"/>1回表・2番打者相手にカウント1-3と一時制球を乱したが、ベンチから「力を抜け」という声を聞いてからは力みを抜いて投げ相手の裏をかく投球により2被安打・10奪三振で相手打線を完封し<ref>『中日新聞』1993年7月29日朝刊愛知県内総合版19頁「一投一打 10奪三振で完封した豊田大谷・平田洋投手 力み消え右腕うなる」(記者:尾木信之)</ref>、チームも8対0で7回コールド勝ちした{{Efn2|東海工業高校には当時、平田より1学年下(2年生)の[[井本直樹]](社会人野球を経て[[1993年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2000年ドラフト]]で中日から3位指名)がいた<ref>『中日新聞』2000年11月18日朝刊第二運動スポーツ面26頁「プロ野球ドラフト 2位洗平 即1軍宣言 竜8人指名 3位・井本 逆境越えた苦労人 『岩瀬さん手本に』」(中日新聞社)</ref>。}}<ref name="中日新聞1993-07-29">『中日新聞』1993年7月29日朝刊愛知県内総合版19頁「高校野球愛知大会 第14日 “夢”へ進撃豊田大谷 投打に東海工圧倒 瑞穂球場 準々決勝 豊田大谷8-0東海工(7回コールドゲーム)」(中日新聞社)</ref>。しかし続く準決勝・[[享栄高等学校|享栄高校]]戦(瑞穂球場){{Efn2|享栄高校には当時平田と同い年で同年のドラフト会議にてオリックスから4位指名された[[福留宏紀]]がおり、福留はプロ入り後に「今は話題度で平田に負けているが、数年後に再戦した際には負けたくない」と抱負を述べていた<ref>『中日新聞』1994年2月21日夕刊2面2頁「ゆうかんさろん/ ライバル平田と再戦に夢膨らむ」(中日新聞社)</ref>。}}では8回まで相手打線を完封し<ref name="中日新聞1993-07-30"/>、同大会中の連続無失点イニング記録を34まで伸ばしたが<ref name="週ベ1993-08-23"/>、1点リードで迎えた9回裏に走者1人の場面で平田と投げ合った享栄の投手・谷川輝幸を打者として迎えたところ、渾身の内角低め直球を打たれて左翼席へ飛び込む逆転サヨナラ2点本塁打を被弾しサヨナラ負けを喫した<ref name="中日新聞1993-07-30">『中日新聞』1993年7月30日朝刊愛知県内総合版19頁「高校野球愛知大会 第15日 剛腕・平田に球運無情 谷川、劇的2ラン 享栄が9回サヨナラ 豊田大谷惜敗 瑞穂球場 準決勝 享栄2-1豊田大谷」(中日新聞社)</ref>。この痛恨の一球に平田はマウンド上で泣き崩れ、試合終了の挨拶を終えてベンチに戻る最中にもグラウンドに突っ伏して号泣した{{Efn2|後藤監督は試合後に「追加点のチャンスに的確な指示を出せず、最後まで平田に負担を掛けて子供たちに申し訳ないことをした」と自らを責め、泣き崩れる選手たちに「土壇場で悔しい思いをしたから、これからもたった一球の大切さがわかるだろう」と話した<ref>『中日新聞』1993年7月30日朝刊愛知県内総合版19頁「球児の詩 たった一球…砕けた“夢” 涙の豊田大谷ナイン 『あすから練習だ』成長の糧に、また挑戦」(記者:渡部圭)</ref>。}}<ref>『中日新聞』1993年7月30日朝刊愛知県内総合版19頁「平田、こらえきれず号泣」(中日新聞社)</ref>。 |
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契約金は1億円で当時の高校生としては中日球団の史上最高額だった。 |
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=== 中日からドラフト1位指名 === |
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ルーキーイヤーの[[1994年]]、2軍では1年間先発ローテーションを守り通すなど活躍。だが、[[ナゴヤ球場]]での[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦でプロ初登板した際、4失点。1/3回を投げるに留まった。その試合でバッテリーを組んだ[[中村武志]]は「38球のうち良かったのは1球だけだった」と語っている。 |
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惜しくも[[第75回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]出場を逃したが、34イニング連続無失点のほか6試合38イニングで52奪三振を記録したその剛腕は早くからプロ野球界から注目を集め<ref name="中日新聞1993-10-08"/>、『中日新聞』記者・村井博美は「もっと大きな舞台(プロ野球)であの速球を見ることができそうだ」と期待を寄せていた<ref>『中日新聞』1993年7月30日朝刊第12版第一運動スポーツ面25頁「快腕平田に無念幕切れ」(記者:村井博美)</ref>。また懸案事項だった右肩腱板損傷についても「『その後遺症は100%ない』と言ってよい」(巨人・[[関東孝雄]]スカウト)段階まで回復しており<ref name="週ベ1993-08-23"/>、同年の[[1993年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]を控えて高校生では[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東高校]]・[[平井正史]]とともに「ドラフト1位候補」と高く評価されていた<ref name="中日新聞1993-10-08"/>。 |
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一方で平田本人は地元・愛知県[[名古屋市]]に本拠地([[ナゴヤ球場]])を置く[[中日ドラゴンズ]]への入団を熱望しており<ref name="中日新聞1993-10-08"/>、ドラフト会議前(後述のプロ球団接触解禁後)には中日以外にも[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]・[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]・[[読売ジャイアンツ]](巨人)や[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]など7球団が訪れて対面調査を行ったが<ref name="中日新聞1993-11-06"/>、平田は挨拶に訪れた7球団のスカウトに対し<ref name="中日新聞1993-11-20"/>「プロ野球でプレーしたいが地元の中日以外は入団拒否する。中日で活躍する自分の姿を家族・周囲の人に間近で見てもらいたい」と公言し<ref name="中日新聞1993-10-08">『[[中日新聞]]』1993年10月8日朝刊第一運動スポーツ面27頁「ドラフト 剛腕・平田1位指名へ 中日、即戦力 未来のエースとり 本人も熱望 豊田大谷高…地元の逸材」([[中日新聞社]])</ref>、中日以外の球団からの勧誘はすべて断っていた<ref name="中日新聞1993-11-06"/>。その相思相愛ぶりに対し巨人・[[伊藤菊雄]]スカウトは「『平田君が中日で決まり』なんて誰が決めたんだ」と引き下がらない姿勢を見せていた一方<ref name="週ベ1993-11-01">{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ベースボール]]|title=11・20新ドラフトに揺れる男たち 浪人覚悟で夢の中日入り熱望 平田洋〈豊田大谷高〉|volume=48|date=1993-11-01|issue=48|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|language=ja}}</ref>、獲得を狙っていた球団の中には豊田大谷高へ電話で「平田君は中日に行くのが一番いい」と「獲得断念」の意向を伝えた球団もあったほどだった<ref name="中日新聞1993-11-06"/>。 |
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その後も度重なる故障で伸び悩み[[1997年]]オフの契約時には[[台湾]]留学の話も出た<ref>1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑</ref>。 |
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中日球団としても過去に[[槙原寛己]]・[[工藤公康]]{{Efn2|{{by|1981年}}の[[1981年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で槙原(愛知県[[大府市]]出身・[[愛知県立大府高等学校|県立大府高校]])は巨人から1位指名を受けたほか、同期の工藤(愛知県[[名古屋市]][[天白区]]出身・[[愛知工業大学名電中学校・高等学校|名古屋電気高校]])も[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から6位指名を受け、それぞれ入団した。同ドラフト会議で中日は槙原・工藤と同期でともに「'''愛知[[三羽烏]]'''」とうたわれた[[浜田一夫]](豊田市出身・[[愛知中学校・高等学校|愛知高校]])を2位指名・獲得したが<ref>{{Cite journal|和書|title='85プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第9巻第3号(通算:第88号 / 1985年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1985-03-31|page=37}}</ref>、浜田はプロ未勝利のまま現役を引退している。}}・[[松井秀喜]]<ref group="注">松井は[[石川県]][[能美郡]][[根上町]](現:[[能美市]])出身で、[[星稜中学校・高等学校|星稜高校]]時代の{{by|1992年}}に[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で中日・巨人・阪神・[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]の4球団から1位指名を受け、抽選により巨人が交渉権を獲得した。</ref>と地元の逸材選手獲得を逃し続けた苦い経験があったことから、早い時期から地元出身でかつ「将来性はもちろん即戦力の期待もかかる」逸材だった平田に関心を示していた<ref name="中日新聞1993-10-08"/>。そのため1993年10月7日までに「ドラフト会議で平田を1位指名する」と方針を決めた中日球団社長・中山了は「逆指名してくれて非常に嬉しい。それに対し誠意を示す意味でも1位指名する。スカウトからは『地元出身選手では星稜・[[小松辰雄]]以来の逸材』と報告を受けている」とコメントしたほか、当時の監督・[[高木守道]]も「1位で指名しなければ他球団に奪われてしまう選手。即戦力として計算できるだろう」とコメントしていた<ref name="中日新聞1993-10-08"/>。 |
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[[1998年]]には[[背番号]]11を同い年で大卒新人の[[川上憲伸]]に明け渡し、代わりに与えられた背番号17もシーズン途中入団の新外国人[[サムソン・リー]]が強く希望したため剥奪されて再度背番号60に変更となり、同年限りで[[戦力外通告]]を受けた。 |
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平田は1993年10月14日に[[日本高等学校野球連盟|愛知県高等学校野球連盟]](愛知県高野連)宛に郵送した「野球部員登録抹消届」を受理されたことでプロ野球球団との接触が可能になり、スカウトの事前調査に応じることが可能な身分となった<ref name="中日新聞1993-10-15">『中日新聞』1993年10月15日朝刊第一運動スポーツ面27頁「豊田大谷高の平田 野球部員登録抹消 高野連が受理」(中日新聞社)</ref>。その5日後となる1993年10月20日には豊田大谷高校で中日・[[法元英明]]スカウトが12球団で最も速く平田と交渉して「1位指名する」と伝え、平田も改めて「中日でプレーしたい。他球団から指名がないことを祈っている。仮に他球団が指名権を獲得した場合は入団拒否する」と中日入り希望をアピールした{{Efn2|『中日新聞』報道では「[[社会人野球]]に進む」(1993年10月21日朝刊)と報道された<ref name="中日新聞1993-10-21"/>一方でドラフト会議前日(1993年10月19日)には「万が一他球団が交渉権を獲得したら1年間浪人する」と発言していた<ref name="中日新聞1993-11-20"/>。また『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)の取材に対しては「社会人からの勧誘はすべて断った。中日に入れなければ1年間浪人して[[1994年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|翌年のドラフト]]を待つ」と宣言していた<ref name="週ベ1993-11-01"/>。}}<ref name="中日新聞1993-10-21">『中日新聞』1993年10月21日朝刊第一運動スポーツ面23頁「平田(豊田大谷)への球団あいさつ 意中の中日 先陣『他球団指名権なら社会人へ』」(中日新聞社)</ref>。さらに1993年11月5日に豊田大谷高で中日・[[岡田英津也]]球団編成部長から初めて挨拶を受け「君はこれから大きく伸びる。頑張ってほしい」と激励された際にも改めて「中日以外は入団拒否」の意向を伝え<ref name="中日新聞1993-11-06">『中日新聞』1993年11月6日朝刊第二運動スポーツ面26頁「改めて“中日宣言” 豊田大谷高の平田 球団部長あいさつ」(中日新聞社)</ref>、中日球団もドラフト会議前日(1993年11月19日)までに編成会議にて「平田を1位・[[鳥越裕介]]([[明治大学硬式野球部|明治大学]])を2位で指名する」と確認した<ref>『中日新聞』1993年11月18日朝刊第一運動スポーツ面29頁「1位平田、2位鳥越 3位は大型野手狙う 中日、編成会議で確認」(中日新聞社)</ref><ref>『中日新聞』1993年11月18日朝刊第二運動スポーツ面28頁「平田、鳥越の指名最終確認 中日編成会議」(中日新聞社)</ref>。 |
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その後[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]の入団テストを受け合格するも1軍昇格はならず、同年で戦力外通告を受け、引退した。 |
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ドラフト会議当日(1993年11月20日)まで「オリックスが強行1位指名する可能性がある」と囁かれてはいたが<ref name="中日新聞1993-11-20">『中日新聞』1993年11月20日朝刊第二運動スポーツ面28頁「『中日だけと確信』 平田(豊田大谷高)気持ちは竜戦士」(中日新聞社)</ref>、オリックスは結局平田を断念して宇和島東高校・[[平井正史]]を1位指名した<ref name="中日新聞1993-11-20 夕刊">『中日新聞』1993年11月20日夕刊第一社会面13頁「豊田大谷高の剛腕・平田投手“夢”ストレート 中日指名 思わずガッツポーズ」(中日新聞社)</ref>。結局ほか11球団から重複指名を受けず中日の単独指名が確定した直後、平田は記者会見で「仮に[[落合博満|落合(博満)]]さん<ref group="注">落合は当時[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA)権を取得して去就が注目されており、その後権利を行使して巨人へ移籍した。</ref>が他球団へ移籍すれば対戦機会が巡ってくるので、その時は内角球で思い切り勝負したい。そのために早く一軍に上がりたい」とコメントした<ref name="中日新聞1993-11-20 夕刊"/>。中日球団にとって地元出身の高校生ドラフト1位指名選手は[[1986年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1986年]]・[[近藤真市|近藤真一]](享栄高校)以来だった<ref name="94中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '94ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1994-03-16|page=4|ISBN=978-4806202714}}</ref>。 |
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{{要出典範囲|現役引退後は地元の企業に就職し、軟式野球部でプレーしていた。|date=2016年5月}} |
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=== プロ入り後 === |
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==== 1994年 ==== |
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ドラフト会議前から「中日は打撃が素晴らしいチームだから[[強竜打線|強力なバック]]に支えられて投げてみたい。腰を痛めた時に励みにした背番号だから背番号は'''11'''番が欲しい」と公言しており<ref name="中日新聞1993-11-20"/>、1993年12月3日には初めての入団交渉に臨んだ<ref name="中日新聞1993-12-03">『中日新聞』1993年12月3日朝刊第一運動スポーツ面27頁「平田きょうにも仮契約 中日1位」(中日新聞社)</ref>。そして同日、自宅で第1回交渉に臨むと推定契約金1億1,000万円・推定年俸840万円で契約合意して仮契約を締結し、背番号も希望通りの'''11'''番に決まった{{Efn2|平田以降、中日の高卒新人投手が背番号10番台を着用した事例は15年後の{{by|2009年}}に入団した[[伊藤準規]]([[岐阜県立岐阜城北高等学校|岐阜県立岐阜城北高校]]から[[2008年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]2位指名)までなかった<ref>{{Cite news|title=中日伊藤にエースの称号!背番号「18」|newspaper=日刊スポーツ|date=2008-12-14|author=福岡吉央|url=https://www.nikkansports.com/baseball/professional/draft/2008/news/p-bb-tp1-20081214-440059.html|accessdate=2020-01-22|publisher=日刊スポーツ新聞社|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200122073807/https://www.nikkansports.com/baseball/professional/draft/2008/news/p-bb-tp1-20081214-440059.html|archivedate=2020年1月22日}}</ref>。}}<ref name="中日新聞1993-12-04">『中日新聞』1993年12月4日朝刊第一運動スポーツ面27頁「『中日・平田』が誕生 球団史上最高 契約金1億1000万円 開幕一軍を力強く宣言 背番号『11』」(中日新聞社)</ref>。契約金1億1,000万円は当時球団史上最高額で、球界全体でも高校生としては巨人・[[松井秀喜]]([[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1992年ドラフト]]1位)に次ぐ高い評価だった<ref name="中日新聞1993-12-04"/>。仮契約後に豊田市内のホテルで記者会見した際には高校生ながら「開幕一軍を目指す。そのために自主トレが始まるまでランニングで下半身を強化する」「(当時のエース)[[今中慎二|今中(慎二)]]さんのように常に2桁勝利できるような投手になりたい。(巨人に移籍した)落合さんと対戦する機会があったら内角真っすぐで勝負したい」と宣言した<ref name="中日新聞1993-12-04"/>。 |
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1993年12月22日に行われた入団発表では会見で「やっと気持ちが落ち着いた。[[ノーラン・ライアン]]投手のように長く野球ができて、年をとっても速球で勝負できるような選手になりたい」と決意を述べた<ref name="中日新聞1993-12-23">『中日新聞』1993年12月23日朝刊第一運動スポーツ面19頁「新鮮竜5人“戦誓” 平田『開幕一軍目指す』」(中日新聞社)</ref>。またこの時までには高木政権下で高卒新人としては初めて春季沖縄[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]に参加することが内定していたが「目標はあくまで開幕一軍だ。今も毎日5キロメートル(km)のランニングを続けている。キャンプ初日から投げられるように頑張る。キャンプでうまく調整できれば直球・カーブはプロでも通用すると思う。来年3月に地元・豊田市([[豊田市運動公園野球場]])で予定されているオープン戦では1イニングだけでも投げたい」と述べた{{Efn2|過去の高校生新人選手では[[小松辰雄]]のように「球速ならプロの投手にも負けない」と豪語した選手はいたが、入団発表の席で「開幕一軍」を口にした高卒新人は「おそらく平田が初めて」だった<ref name="中日新聞1994-01-17">『中日新聞』1994年1月17日朝刊第一運動スポーツ面25頁「94年竜ニューパワー(1) ドラフト1位 豊田大谷高 18歳 平田洋 焦らず鍛え抜く」(中日新聞社)</ref>。しかしその一方で沖縄春季キャンプの切符獲得が微妙な情勢となった際には「プロは球速だけでは通用しない。球の切れ・繊細な制球力も必要だから鍛え抜くしかない」と慎重な発言もしており、今中も当時の平田について「プロとして大きな目標を持つことは大切だが、平田はまだその根拠がない。今は焦らないことだ」と述べていた<ref name="中日新聞1994-01-17"/>。}}<ref name="中日新聞1993-12-23"/>。 |
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その後、平田ら新人選手5人(平田・鳥越・[[笹山洋一]]・[[遠藤政隆]]・[[工藤友也]])は'''{{by|1994年}}'''1月6日に名古屋市[[西区 (名古屋市)|西区]]内の合宿所へ入寮し<ref name="中日新聞1993-12-23"/>、翌7日 - 9日にかけて屋内練習場で初の自主トレに臨んだ<ref name="中日新聞1994-01-08">『中日新聞』1994年1月8日朝刊第一運動スポーツ面23頁「中日“新鮮力” 平田ら5人 プロ第1歩 屋内練習場で自主トレ開始」(中日新聞社)</ref>。1994年2月1日に[[沖縄県]][[石川市]](現:[[うるま市]])で中日球団の春季キャンプ( - 1994年3月3日)が開始されたが<ref name="中日新聞1994-02-01">『中日新聞』1994年2月1日夕刊3面3頁「プロ野球一斉にキャンプイン 竜戦士Vへ始動」(中日新聞社)</ref>、平田は高校の卒業試験のため沖縄入りが2月5日まで遅れ、第2クール初日の<ref name="中日新聞1994-02-06">『中日新聞』1994年2月6日朝刊第一運動スポーツ面25頁「卒業試験も終わった 平田『やるぞ』 沖縄入り」(中日新聞社)</ref>翌2月6日から一軍練習に合流した{{Efn2|平田以降、中日の高卒新人投手が一軍に合流した事例は15年後の{{by|2009年}}に入団した[[髙島祥平]]([[帝京中学校・高等学校|帝京高校]]から[[2008年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]4位指名)までなかった<ref>{{Cite news|title=【ドラニュース】145キロルーキー高島1軍抜てき!|newspaper=中日スポーツ|date=2009-02-23|edition=紙面から|author=清水裕介|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/200902/CK2009022302000040.html|accessdate=2020-01-22|publisher=中日新聞社|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090224195245/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/200902/CK2009022302000040.html|archivedate=2009年2月24日}}</ref>。}}<ref name="中日新聞1994-02-07">『中日新聞』1994年2月7日朝刊第二運動スポーツ面20頁「平田が合流 プロ“洗礼”動きは軽快」(中日新聞社)</ref>。 |
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しかし春季キャンプでは周囲から「ゴールデンルーキー」と持ち上げられていた一方、高卒新人ながらいきなり1人で一軍キャンプに参加することとなったことから精神的な疲労が肉体疲労にまで及び、集中力を奪われるようになった{{Efn2|当時、平田は「毎日『もう1人同級生が欲しい』と思う」と漏らしていたほか、キャンプ中に行われた[[大韓民国]](韓国)・[[KBOリーグ]]の[[LGツインズ]]との練習試合中にはバックネット裏でふんぞり返ってアイスコーヒーを飲んでいたところ、投手[[プロ野球コーチ|コーチ]]・[[水谷啓昭]]から「みっともない。もう帰れ」と厳しく叱咤されていた<ref name="中日新聞1994-02-17"/>。水谷は『中日新聞』記者・末次秀行の取材に対し「先輩の投球や相手の攻め方など、平田には見るべきものがたくさんあるはずだ。いくら素質があっても今の姿勢ではダメだ」と厳しい評価を下しており、末次も「平田は大物の片鱗を見せているが、一軍キャンプに参加している投手22人では最も落ち着きがなく球もばらついている。プロ野球で生きていくために一番大切なことは恥をかかないことだ。(エースとして活躍した)小松もそう言っているが、誰もができることをおろそかにしてはいけない』と言っている」と述べていた<ref name="中日新聞1994-02-17"/>。}}<ref name="中日新聞1994-02-17">『中日新聞』1994年2月17日朝刊第三運動スポーツ面26頁「94年竜球の春/ 高校生ルーキー平田 “下積み”しっかりと」(中日新聞社)</ref>。またプロ入り後に髪の毛を伸ばしたところ、コーチから「切ってこい」と一喝されたことで戸惑いを感じ、それ以降も練習・寮生活で年長者に気を遣うことが苦痛になっていた{{Sfn|田口|2014|p=111}}。 |
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平田はキャンプ終了後も沖縄で調整を続けていたが肩の痛みを訴え、1994年3月7日には首脳陣から「体作りができていない」と判断されて三軍でトレーニングを積むこととなった<ref name="中日新聞1994-03-08">『中日新聞』1994年3月8日朝刊第一運動スポーツ面21頁「プロ野球短信 故障の平田、三軍へ【中日】」(中日新聞社)</ref>。その後、1994年3月21日には[[二軍]](ファーム)の交流試合として開かれた[[中日ドラゴンズ (ファーム)|中日二軍]]([[ウエスタン・リーグ]])対[[読売ジャイアンツ (ファーム)|巨人]]([[イースタン・リーグ]])戦で「プロ初登板」を果たし、最速146 km/hの速球で2回1被安打に抑えたほか、松井秀喜との対戦でも左飛に打ち取った<ref name="中日新聞1994-03-26">『中日新聞』1994年3月26日朝刊第二運動スポーツ面24頁「竜投期待の平田 地元・豊田で一軍デビュー きょう2番手 『無心で投げる』」(中日新聞社)</ref>。 |
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1994年3月25日には二軍から離れて一軍主力組に合流し、翌26日に地元・豊田市の[[豊田市運動公園野球場]]で開かれたオープン戦対オリックス・ブルーウェーブ戦で先発・今中の後を継いで2番手投手として登板した<ref name="中日新聞1994-03-26"/>。この「一軍デビュー」前には「地元という意識はない。最後まで入団を誘ってくれたオリックス相手に無様な投球はしたくない。一軍入りを考えると力んでしまうので無心で投げたい」と抱負を述べていたが<ref name="中日新聞1994-03-26"/>、力みから制球が定まらず<ref name="中日新聞1994-03-27 2"/>、直球も139 km/h止まりだった<ref name="中日新聞1994-03-27"/>。5回は2死を取るも一・二塁の場面で[[田口壮]]に四球を与え<ref name="中日新聞1994-03-27">『中日新聞』1994年3月26日朝刊第一運動スポーツ面25頁「投攻守/ 地元マウンドで金縛り 痛恨2アーチ プロの“洗礼”」(記者:斎田太郎)</ref>、続く鈴木一朗(開幕直前に登録名を「[[イチロー]]」へ変更)から満塁本塁打を被弾した{{Efn2|この満塁本塁打は後に[[日本プロ野球]](NPB)のみならず[[メジャーリーグベースボール]](MLB)で活躍した打者・鈴木(イチロー)にとってはオリックスの新監督だった[[仰木彬]]ら首脳陣から高い評価を取り付けるとともに「イチロー」への登録名変更のきっかけともなった一方<ref name="中日スポーツ2018-12-28"/>、地元の先輩からプロの洗礼を浴びせられ「みんなが見ているのに情けない」と落胆した平田にとっては「蟻地獄に思えるもの」だった<ref name="中日新聞1994-03-27"/>。}}<ref name="中日スポーツ2018-12-28">{{Cite news|title=安打製造機・イチロー伝説 中日とのOP戦満塁弾から始まった|newspaper=[[中日スポーツ]]|date=2018-12-28|edition=2018年7月24日 紙面から|author=特別取材班|url=https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/heiseimonogatari/CK2018122802100017.html|accessdate=2019-08-13|publisher=[[中日新聞社]]|publication-date=2018-07-24|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190813130325/https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/heiseimonogatari/CK2018122802100017.html|archivedate=2019年8月13日}}</ref>。さらに6回には[[岡田彰布]]から高めの速球を狙い撃ちされソロ本塁打を被弾し、結果的に敗戦投手になったが<ref name="中日新聞1994-03-27 2">『中日新聞』1994年3月26日朝刊第一運動スポーツ面25頁「オープン戦 26日 豊田(9000人) オリックス7-2中日」(中日新聞社)</ref>、大量失点後の6回にはキャブレラ([[フランシスコ・カブレラ]])相手に捕手から出されたフォークボールのサインを拒否し、インローに投げて三邪飛に打ち取ったことで『中日新聞』記者・斎田太郎から「確かなことを学んだ」と評された<ref name="中日新聞1994-03-27"/>。また[[中利夫]]はこの試合を報じた『中日新聞』朝刊で「プロの洗礼は気にする必要はない。鈴木にはど真ん中、岡田にも高めの真っすぐと力んで手投げになったことによる制球ミスで本塁打を被弾したが、それ以外は打者を力で封じた。徹底的に走り込んで体作りをすれば制球力の課題を乗り越えられるはず。焦らず後半戦以降に照準を合わせれば良い」と評価していた<ref name="中日新聞1994-03-27 3">『中日新聞』1994年3月26日朝刊第一運動スポーツ面25頁「中利夫の目 球に力あり体をつくれ」(中日新聞社)</ref>。 |
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結局、目標としていた開幕一軍入りは叶わず他の新人4人とともにファームで開幕を迎えることとなり{{Efn2|当時開幕一軍スタートとなった新人選手17人のうち高卒新人選手は横浜・[[大家友和]]のみで、中日・巨人で一軍スタートした新人選手は皆無だった<ref name="中日新聞1994-04-06"/>。}}<ref name="中日新聞1994-04-06">『中日新聞』1994年4月6日朝刊第一運動スポーツ面27頁「プロ野球 9日開幕 セ・パ一軍枠選手を公示 野中(テスト入団)・落合“サクラ咲ク” 全新人ファーム始動 フォーム改造森田無念」(中日新聞社)</ref>、後述の二軍合流まではファームの練習で[[打撃投手]]を務めつつ三軍でランニング・投球フォーム固めなどの調整を続けていたが、大幅な軌道修正を強いられたことで「平田の胸の内に潜んでいた『過信』を取り除くこと」([[稲葉光雄]]二軍投手コーチ)から始めざるを得なくなった<ref name="中日新聞1994-05-24"/>。そのため単調な基本練習の繰り返しとなったことで平田自身も飽きを感じるようになり、「1日の練習でどこか手を抜く」と感じた稲葉から「1秒1秒を大切にしろ」と叱咤されることも多かったが、4月に入ると足腰が鍛えられ体重移動の無駄がなくなったことで球速・球の切れのみならず精神面においても磨きがかかり、稲葉から二軍昇格の推薦を得ることができた<ref name="中日新聞1994-05-24"/>。二軍昇格直前には豊田市運動公園野球場で打撃投手を務めたが、このころには[[水谷寿伸]]二軍投手コーチから「球が生き生きとしていて『早く試合で投げさせてくれ』と訴えているようだ。気持ちの伝わってくる球を久しぶりに見た」と評価されていたほか、入団時から体重を11 [[キログラム|kg]]減量していた平田自身も「今までずっと基本練習の繰り返しだったが、(打撃投手は実戦とは違い「打者に打たせる仕事」とはいえ)打者に向かえたことは嬉しかった」と述べていた<ref name="中日新聞1994-05-24"/>。 |
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5月24日には三軍から二軍に合流し、同日からのウエスタン・リーグ(ウ・リーグ)で開催された対[[阪神タイガース (ファーム)|阪神タイガース]]3連戦にて実戦デビューを果たすこととなった<ref name="中日新聞1994-05-24">『中日新聞』1994年5月24日朝刊第一運動スポーツ面27頁「中日のルーキーたちは今 平田、さあ実戦デビュー」(記者:末次秀行)</ref>。その後は二軍初勝利が7月26日(対[[大阪近鉄バファローズ (ファーム)|近鉄バファローズ]]14回戦・ナゴヤ球場)までもつれ込み、それまでに5敗を喫したが{{Sfn|ベースボール・マガジン社|1994|p=562}}、最終的には二軍でチーム唯一の規定投球回数到達を果たし{{Sfn|ホームラン|1995|p=38}}、18試合82回2/3イニングを投げて3勝6敗・防御率4.03の成績を残してウ・リーグ投手成績ランキング11位(全14人)に入った{{Sfn|ホームラン|1995|p=215}}。 |
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7月17日に[[札幌市円山球場]]で開催された[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスター]]の全ウエスタン代表選手として選出された<ref>『中日新聞』1994年6月11日朝刊第一運動スポーツ面35頁「山部ら新人17人出場 Jrオールスター」(中日新聞社)</ref>。そして7月22日にはドラフト2位の鳥越や[[中山裕章]]・[[井上一樹]]とともに[[出場選手登録|一軍選手登録(一軍40人枠入り)]]を果たし<ref>『中日新聞』1994年7月23日朝刊第一運動スポーツ面25頁「中日・平田が一軍 セ・パ合計6新人昇格 両リーグ公示」(中日新聞社)</ref>、初先発の6日前に先発を言い渡された<ref name="中日新聞1994-08-12 2">『中日新聞』1994年8月12日朝刊第一運動スポーツ面21頁「平田ほろ苦デビュー サヨナラ歓喜に胸熱く」(記者:末次秀行)</ref>。8月9日に出場選手登録されると<ref>『中日新聞』1994年8月10日朝刊第12版第一運動スポーツ面21頁「セ・リーグ公示(9日)」(中日新聞社)</ref>、8月11日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]第20回戦([[ナゴヤ球場]])で捕手・[[中村武志]]とバッテリーを組み一軍公式戦初先発・初登板を果たした<ref name="中日新聞1994-08-12">『中日新聞』1994年8月12日朝刊第一運動スポーツ面21頁「セ・リーグ第19節11日 ナゴヤ・夜(35000人) 中日6-5ヤクルト 中日12回サヨナラ勝ち 5点差大逆転 首位に5差接近」(中日新聞社)</ref>。しかし臨んだ初先発のマウンドではわずか1/3回を投げただけでヤクルト打線相手に4失点してKOされ、同年はそれ以降一軍登板できなかった{{Efn2|この時の平田の投球成績は「3与四球・4失点・防御率108.00」で{{Sfn|田口|2014|p=110}}、速球・変化球ともに芳しくなく、平田本人も「緊張して何が何だかわからなかった。自分の球はあったような、なかったような…」と形容するほど散々なものだった<ref name="中日新聞1994-08-12 2"/>。なおチームはその後3回にも追加点を許し5点差に突き放されるが、その後反撃して5対5の同点で延長戦に持ち込み、同点の延長12回裏に[[大豊泰昭]]と[[アロンゾ・パウエル]]がヤクルト・[[高津臣吾]]を打ち崩してそれぞれ出塁すると<ref name="中日新聞1994-08-12"/>、1死一・二塁で[[清水雅治]]が遊撃ゴロに倒れたが<ref name="朝日新聞1994-08-12">『[[朝日新聞]]』1994年8月12日東京朝刊第14版第一スポーツ面21頁「中日6-5ヤクルト 中日、12回サヨナラ勝ち 巨人3連敗 5ゲーム差 ヤクルトが単独最下位」([[朝日新聞東京本社]])</ref>、併殺を狙ったヤクルトの二塁手・[[新井潔]]が一塁へ悪送球した隙に走者・大豊が生還してサヨナラ勝利を収めた<ref name="中日新聞1994-08-12"/>。}}{{Sfn|ホームラン|1995|p=38}}。 |
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閉幕後には『中日新聞』紙上にて「持ち球であるストレートの球威を失ったことが気がかり。下半身の強化など徹底した体づくりが必要だ」と評価され<ref>『中日新聞』1994年10月21日夕刊3面3頁「プロ野球 ルーキーこの1年 大きな期待 大きな壁 阪神・藪先発ローテ入り 中日・平田体づくりが必要 ダイエー・渡辺秀スライダー抜群」(中日新聞社)</ref>、[[小松辰雄]]コーチの下で練習に取り組んだ{{Sfn|田口|2014|p=111}}。この秋季キャンプでは「高校時代の投球を取り戻すこと」が目標だったため投球フォーム改造は行われなかったが、その後平田は結果が出ないとフォーム改造を余儀なくされたことで最適なフォームを見い出せずプロ野球界を去ることとなった{{Sfn|田口|2014|p=111}}。<!--同年オフには推定年俸800万円(前年比40万円減)で契約更改した{{Sfn|ホームラン|1995|p=38}}。後述の記述と矛盾が生じるためCO--> |
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==== 1995年以降 ==== |
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プロ2年目の'''{{by|1995年}}'''2月1日に開幕した沖縄キャンプでは「下半身の強化に成功して課題の体重移動が楽になり、球筋が定まった。抑え気味でも球速140 km/hを超えるほど」の球威を身に着けた<ref name="中日新聞1995-02-02">『中日新聞』1995年2月2日朝刊第一運動スポーツ面25頁「プロ野球キャンプイン 若竜気合 ベテラン闘志 平田 抑えても140キロ超 ミットも破る…大活躍の予感」(中日新聞社)</ref>。その球威はブルペン捕手を務めた[[加藤安雄]]コーチが受け損ねてミットの網が切れるほどで、同じように高校生でドラフト1位指名を受けて入団・活躍した[[鈴木孝政]]・小松辰雄両投手コーチからも「今季は一軍でやれる」と高く評価されており『中日新聞』紙上では「キャンプ初日から羽ばたき大活躍の予感を漂わせている」と報道された<ref name="中日新聞1995-02-02"/>。このことから投手コーチからは「いの一番に一軍に昇格させたい投手」と高く評価されていたが、同年に新しく投手コーチに就任した鈴木は「確かに(前年とは)別人になっておりスター性もある。中日の目玉になれる素材だが、まだ覚えさせるべきことがたくさんある。半端なまま一軍に送り出すと昨季の繰り返しになるから二軍で経験を積ませるべきだ」と評価していた<ref name="中日新聞1995-02-16">『中日新聞』1995年2月16日夕刊3面3頁「鍛える新コーチ(5) 中日・鈴木孝政 投手王国へ夢 心の壁に挑む」(記者:橋本和男)</ref>。 |
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一方で同年開幕前には[[今中慎二]]とともに春の自主トレを行ったが、その際に今中から「お前は危機感も貪欲さも欠けている。俺は2年目({{by|1990年}})に隣で(当時ドラフト1位の新人)[[与田剛|与田(剛)]]さんが投げていた球を見て『これはいかん』と緊張した。『今年が勝負』ということがわからないのか!」と叱咤されていた<ref name="中日新聞1995-07-28">『中日新聞』1995年7月28日朝刊第一運動スポーツ面27頁「我慢ならんぞ 中日崩壊の検証(4) 育たぬ新人 指針なき現場、フロント」(中日新聞社)</ref>。結局は開幕時点で2年目にして初の一軍40人枠入りを果たし<ref>『中日新聞』1995年4月4日朝刊第一運動スポーツ面19頁「野口、平田ら若竜“合格”」(中日新聞社)</ref>、1995年4月27日には一軍に合流した<ref name="中日新聞1995-07-28"/>。しかし当時は腰痛で投球どころかウォーミングアップすらできない状態{{Efn2|当時の平田の体調は投手コーチ・[[高橋三千丈]]が「ここまで(状態が)悪いなんて知らなかった」と絶句するほどだった<ref name="中日新聞1995-07-28"/>。}}だったためその日の練習を休み、翌日には再び二軍に戻ると5月5日に故障者選手登録された<ref name="中日新聞1995-07-28"/>。1995年7月までの1年半で平田を指導したコーチは10人に上っていたが、当時の中日は育成への指針のみならず一軍・二軍間の連携すら取れておらず{{Efn2|かつて[[広島東洋カープ]]で監督を務めた[[古葉竹識]]は『中日新聞』の取材に対し「広島ではあり得ないようなことが中日で起きている。広島は若手育成のために球団が一体となっており、明確な目標・教える側の忍耐がしっかりしており、一・二軍の連携もうまく取れている(中日とは異なり、フロントから報告されたデータを基に一・二軍合同会議で練習方針を決めて同じ選手に同じコーチが指導し続ける)が、中日はそれができていない(フロントは選手を獲得して終わり、現場は指名選手をただ待つだけで一・二軍の連携も取れていない)。教えて崩してしまったバランスはなかなか元に戻らない」と指摘していた<ref name="中日新聞1995-07-28"/>。}}、平田が育たない苛立ちは互いの批判にすり替わっていた<ref name="中日新聞1995-07-28"/>。同時期に[[山部太]](ヤクルト)・[[河原純一]](巨人)・[[波留敏夫]]([[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]])・[[藪恵壹]](阪神)と[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]各球団に新戦力が台頭していた一方、中日は彼らと対比されるはずの存在だった平田が戦力になっていない状態で{{Efn2|同シーズン前半戦では二軍ウ・リーグで2勝3敗と勝ち負けを繰り返しており、中山球団社長は後半戦に向けて一軍首脳陣入れ替えを通告した際に『[[中日新聞]]』([[中日新聞社]])記者から「フロントにも重い責任があるのではないか?」と尋ねられても「新人が戦力になっていないからだ」と述べていた<ref name="中日新聞1995-07-28"/>。}}、7月12日に二軍戦で完投勝利を挙げた際にも最後の打者に投じた直球は131 km/hしかなかった<ref name="中日新聞1995-07-28"/>。 |
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1995年9月7日にはナゴヤ球場で開かれた対[[阪神タイガース]]第21回戦で中村とバッテリーを組み先発登板したが<ref name="朝日新聞1995-09-07"/>、1回表の立ち上がりで[[和田豊]]と[[星野おさむ|星野修]]から連打を浴びると[[スコット・クールボー]]に変化球を打たれて左翼席へ飛び込む21号本塁打を被弾した<ref name="中日新聞1995-09-07"/>。2回表には星野から右前適時打を浴びると3回表には2死から投手・[[竹内昌也]]に3点本塁打を浴びるなど大炎上し<ref name="中日新聞1995-09-07"/>、3回8被安打2被本塁打8失点と散々な成績で<ref name="朝日新聞1995-09-07"/>、結果的にこれが最後の一軍登板となってしまった。その後中日は阪神の先発・竹内(同日の勝利投手)を打ち崩して6回までに7点を得たが<ref name="中日新聞1995-09-07">『中日新聞』1995年9月8日朝刊第一運動スポーツ面29頁「阪神9-7中日 先発・平田8失点KO」(中日新聞社)</ref>、最終的にチームは9対7で敗戦して同シーズン70敗目を喫し、平田も敗戦投手となった<ref name="朝日新聞1995-09-07">『朝日新聞』1995年9月8日東京朝刊第14版第一スポーツ面25頁「阪神9-7中日 2年目平田、8失点」(朝日新聞東京本社)</ref>。同日の最高球速は136 km/hと入団当時の面影がなく、平田本人も「言葉もない」とうなだれるもので、期待を裏切られた[[島野育夫]]監督代行<ref group="注">同年の中日はシーズン途中で高木が監督を辞任し、監督代行を務めたヘッドコーチの[[徳武定祐]]もまたシーズン途中で休養したため、島野が同シーズン閉幕まで「監督代行の代行」を務めていた。</ref>は「力がないなら、ないなりに制球に気を付けるなどすべきだろう。『投げて打たれた』では話にならない」と立腹していたほか<ref name="中日新聞1995-09-07"/>、[[村田広光]]トレーニングコーチも当時の平田を「入団時から体重が10 kgも減って体形が変わっている。一回り大きくなるはずがそうならないのは精神的なものだ。もっとがめつくならないと球もいかない」と評していた<ref name="中日新聞1995-09-07"/>。同年は二軍ウ・リーグでも18試合に登板して104回1/3イニングを投げたが3勝5敗・防御率3.97(投手成績ランキング15人中11位)の成績に終わり{{Sfn|ホームラン|1996|p=215}}、オフの11月28日には前年比160万円減額の年俸800万円で契約更改した<ref>『中日新聞』1995年11月29日朝刊第一運動スポーツ面27頁「中日“厳冬”更改始まる 若手 20%以上減が続出」(中日新聞社)</ref>。 |
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同年秋の[[教育リーグ#黒潮リーグ&よさこい・高知リーグ|黒潮リーグ]]・秋季キャンプではスピード・球威とも徐々に本来の姿へ近づけ、2年間の遅れを取り戻すとともに今中・[[山本昌]]の両左腕に次ぐ先発投手が不足していた一軍投手陣に割って入ることが期待されていたが<ref name="96中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '96ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1996-03-13|page=63|ISBN=978-4806203131}}</ref>、監督が[[星野仙一]]に交代した'''{{by|1996年}}'''は「不言実行」をモットーに[[先発ローテーション]]入りを目指したものの開幕前に脇腹を痛め<ref>{{Cite journal|和書|journal=週刊ベースボール|title=ニューウェーブ 21世紀型ヒーローを先取り 本音直撃Q&A 平田洋(中日)|volume=51|date=1996-05-06|issue=20|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja}}</ref>、プロ入り3年目で初の一軍登板なしに終わった{{Sfn|ホームラン|1997|p=215}}。同年は[[オーバースロー]]から[[サイドスロー]]に転向したが、球速は全盛期より10 km/h以上低下し{{Sfn|田口|2014|p=110}}、二軍でも22試合に登板・99回2/3イニングを投げて2勝8敗・防御率3.97と大きく負け越し、同シーズン閉幕後には推定年俸750万円(前年比50万円減額)で契約更改した{{Sfn|ホームラン|1997|p=215}}。 |
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'''{{by|1997年}}'''シーズン前は、自らオフを返上し、ナゴヤ球場で自主トレを続けたが<ref name="97中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '97ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1997-03-18|page=72|ISBN=978-4806203360}}</ref>、同年も二軍で9試合・32回を投げて0勝3敗の成績に終わった<ref name="98選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='98プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第22巻第4号(通算:第236号 / 1998年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1998-03-31|page=105}}</ref>。同年オフの契約時には、[[中華職業棒球大聯盟|台湾球界]] (CPBL) へ留学する話{{Efn2|name="金森"|1997年オフには、金森隆浩([[1994年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1994年のドラフト]]1位)が武者修行として台湾球界の[[統一ライオンズ]]へ野球留学した<ref>『中日スポーツ』1997年12月16日朝刊第5版3頁「金森 台湾行き決まる」(中日新聞社 記者:加藤)</ref>。結局、金森は1年後(1999年)に中日に復帰したものの、同年限りで戦力外通告を受け、現役を引退している。}}が出たほか<ref name="98日刊名鑑">{{Cite book|和書|title='98プロ野球選手写真名鑑|publisher=[[日刊スポーツ出版社]]|date=1998-04-18|series=日刊スポーツグラフ|isbn=978-4817205421|page=55}}</ref>、年俸は前年比50万円減額の700万円となった<ref name="98選手名鑑"/>。またプロ入りから着用していた背番号11も同い年である[[川上憲伸]](明治大学から[[1997年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年ドラフト1位]])の入団に伴い剥奪され、12月18日に背番号を'''17'''に変更されることが発表された<ref>『中日新聞』1997年12月19日朝刊第一運動スポーツ面21頁「彦野は8から57に背番号を変更」(中日新聞社)</ref>。 |
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'''{{by|1998年}}'''は、開幕直後の4月25日に韓国KBOの[[LGツインズ]]から新外国人として[[李尚勲]](登録名:サムソン・リー)が加入した。これに伴い、平田は背番号17をサムソン(韓国時代から背番号17を着用)に充てるため、再び剥奪される格好となり、自身の背番号は'''60'''に変更された<ref>『中日新聞』1998年4月26日朝刊第二運動スポーツ面28頁「李尚勲投手、中日入団を発表 登録名はサムソン・リー 韓国でのニックネーム 『旧約聖書の長髪怪力』 背番号『17』チーム合流」(中日新聞社)</ref>。同年は背水の覚悟で臨んだが、一軍登板はなく、二軍ウ・リーグで中継ぎとして7試合に登板し<ref name="中日スポーツ1998-10-07">『中日スポーツ』1998年10月7日朝刊第5版2頁「平田に戦力外通告 猪俣、北野にも」(中日新聞社)</ref>、1勝0敗・防御率1.69の成績を残したのみだった<ref name="99選手名鑑">{{Cite journal|和書|title='99プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第23巻第3号(通算:第246号 / 1999年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1999-03-31|page=177}}</ref>。中日時代最後の登板は6月11日で、夏場には練習中、ノックの打球を顔に受けて負傷した<ref name="中日スポーツ1998-10-07"/>。そして同年10月6日、[[北野勝則]]・[[猪俣隆]]両投手とともに[[ナゴヤドーム]]で、児玉光雄球団代表補佐から[[戦力外通告]]を受けた<ref name="中日新聞1998-10-07">『中日新聞』1998年10月7日朝刊第一運動スポーツ面25頁「中日 『戦力外』まず3人 平田、北野、猪俣に通告」(中日新聞社)</ref><ref name="中日スポーツ1998-10-07"/>。この際、球団側から前年の[[金森隆浩]]と同じく、友好関係にあった台湾プロ野球・[[中信兄弟|兄弟エレファンツ]]でプレーすることも提案されたが<ref group="注" name="金森"/>、態度を保留した<ref name="中日スポーツ1998-10-07"/>。その後、ドラフト前のスカウトとの面談時に断りを入れた経緯のあった近鉄バファローズ({{by|1999年}}シーズン開幕前に「[[大阪近鉄バファローズ]]」へ球団名変更)の[[日向市お倉ヶ浜総合公園野球場|日向]]秋季キャンプに参加し<ref name="99日刊名鑑">{{Cite book|和書|title='99プロ野球選手写真名鑑|publisher=日刊スポーツ出版社|date=1999-04-13|series=日刊スポーツグラフ|isbn=978-4817250582|page=122}}</ref>、入団テストを受けて合格し<ref>『中日新聞』1998年11月13日朝刊第二運動スポーツ面32頁「プロ野球短信 平田はテスト合格【近鉄】」(中日新聞社)</ref>、同年12月18日に同じ秋季キャンプで入団テストに合格した[[谷口功一 (野球)|谷口功一]](前[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]])とともに近鉄球団への入団が発表された<ref>『中日新聞』1998年12月18日朝刊第三運動スポーツ面23頁「プロ野球短信 平田らの入団発表【近鉄】」(中日新聞社)</ref>。 |
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'''{{by|1999年}}'''シーズンは、[[大石清]]投手コーチの指導により、潜在能力の開花が期待され<ref name="99日刊名鑑"/>、年俸600万円・背番号'''62'''で野球人生を賭けて臨んだ<ref>{{Cite book|和書|title=プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑 '99|editor=[[フジテレビジョン]]『[[プロ野球ニュース]]』|publisher=ザ・マサダ|date=1999-03-05|edition=第1刷発行|page=188}}</ref>。しかし、新天地となった近鉄でも一軍出場はならず、[[大阪近鉄バファローズ (ファーム)|二軍]](ウ・リーグ)でも16試合登板・投球回32イニング(規定投球回数は80イニング)・2勝2敗・防御率3.66の成績に終わった{{Sfn|ベースボール・マガジン社|1999|p=570}}。同年10月6日には[[大森剛]]・[[佐藤裕幸]]・[[渕脇芳行]]・[[谷内聖樹]]・[[中川隆治]]・[[田中宏和 (野球)|田中宏和]]の6選手(野手3人・投手3人)とともに戦力外通告を受け{{Efn2|12月2日に[[日本野球機構]](NPB)[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]事務局から[[自由契約]]選手として公示された<ref>『中日新聞』1999年12月3日朝刊第一運動スポーツ面35頁「小宮山ら104人自由契約 保留選手名簿など公示」(中日新聞社)</ref>。}}<ref>『朝日新聞』1999年10月7日東京朝刊第二スポーツ面26頁「近鉄は大森選手らに戦力外通告(プロ野球短信)」(朝日新聞東京本社)</ref>、同年限りで現役を引退した。 |
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=== 引退後 === |
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現役引退後は母校の関係者から勧誘されて故郷・豊田市の[[豊田鉄工]]に就職し、2020年5月時点では同社広久手工場で工長(生産現場の監督・統括)を務めている<ref>{{Cite news|title=ほっとした戦力外通告「プロ野球の世界では負け組。でも社会人では勝ち組に…」94年中日・ドラフト1位の今は32人の部下を持つ工場の現場監督|newspaper=[[中日スポーツ]]|date=2020-05-28|url=https://www.chunichi.co.jp/article/63396|accessdate=2020-05-28|publisher=中日新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200528063905/https://www.chunichi.co.jp/article/63396|archivedate=2020年5月28日}}</ref>。 |
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== 選手としての特徴・人物 == |
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崇化館中学校の卒業文集には「将来はプロ野球選手になりたい」と書いていたほか<ref name="中日新聞1993-07-09"/>、高校時代に平田を指導した監督・後藤篤はドラフト直前に『週刊ベースボール』の取材に対し「平田は金・出場機会など現実的な視点を抜きに、幼少期から純粋な気持ちで『中日へ行きたい』と考えていた」と証言した<ref name="週ベ1993-11-01"/>。 |
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高校時代は長身から投げ下ろす最高時速148 km/hの[[直球]](速球)が武器で<ref name="中日新聞1993-10-08"/>、[[選抜高等学校野球大会|春]]・[[全国高等学校野球選手権大会|夏]]とも甲子園未出場ながら全12球団が獲得に向けて調査したほどの逸材だった<ref name="94中日ファンブック"/>。高校時代には目標とする選手として[[桑田真澄]](巨人)<ref name="中日新聞1993-07-09"/>や[[ノーラン・ライアン]]を挙げていた{{Efn2|高校時代にはライアンの著書を意識改革の参考にしていたほか<ref name="中日新聞1993-07-09"/>、ドラフト直前には「[[伊良部秀輝|伊良部(秀輝)]]さん([[千葉ロッテマリーンズ]])から“和製ライアン”の称号を奪いたい」と抱負を述べていた<ref name="週ベ1993-11-01"/>。また『中日ドラゴンズ '94ファンブック』では平田が見開き1面+1ページの計3ページを使い「逸材!将来のエース」の見出しで取り上げられており、「『誰々2世』と呼ばれることを嫌い、自らのアイデンティティを強く主張する姿はまさに『投手になるために生まれてきたような性格』の持ち主だ」と評されていたほか、平田自身も「ライアンのように息長く活躍して100勝100セーブを達成したい」と抱負を述べていた<ref name="94中日ファンブック"/>。}}<ref name="94中日ファンブック"/><ref name="中日新聞1993-12-23"/>。また中日入り直後には当時チームのエースだった[[今中慎二]]を目標として挙げていた<ref name="中日新聞1993-12-04"/>。 |
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平田を担当したスカウト・[[法元英明]]は「地元でこれだけの逸材はいない。甲子園に出場した投手より実力は上だ」と高く評価しており<ref name="中日新聞1993-10-21"/>、「肘の出方・腕のしなり・下半身の使い方を鍛えればまだ球速は早くなる。将来は球速150 km/hも夢ではない」と期待を寄せていたが<ref name="週ベ1993-08-23"/>、1994年シーズン終盤にはフォームを見失い、130 km/h台の球速を出すことがやっとの状態だった<ref name="95中日ファンブック">{{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ '95ファンブック|series=中日ドラゴンズファンブック|publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)|date=1995-03-11|page=50|ISBN=978-4806202912}}</ref>。変化球は高校時代からの持ち球だった2種類の[[カーブ (球種)|カーブ]](三振を取るカーブ・ストライクを取るカーブ)や[[フォークボール]]<ref name="中日新聞1993-07-09"/>・[[チェンジアップ]]に加え<ref name="中日新聞1994-03-27 3"/>、プロ入り後に[[スライダー (球種)|スライダー]]を習得した<ref name="中日新聞1994-05-24"/>。 |
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一方で田口は著書にて「平田がプロで大成できなかった理由の1つはプロ向きの性格でなかったことだ。年上の人間ばかりに囲まれ、気を遣いながら練習・寮生活を送ることが苦痛になっていた。またプロ入り後に体のキレを失ったことに加え、高校時代の投球を取り戻すことを目標に1年目秋季キャンプでは小松コーチの下でトレーニングに取り組んだが、結果が出ないとフォーム改造を余儀なくされフォームを見失った」と述べている{{Sfn|田口|2014|p=111}}。 |
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なお中日時代(1998年開幕前)は独身だったが<ref name="98日刊名鑑"/>、近鉄移籍時点(1999年開幕前)では2歳年上の女性と結婚しており1児(1歳の女児)がいた<ref name="99日刊名鑑"/>。 |
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=== 年度別投手成績 === |
=== 年度別投手成績 === |
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{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}} |
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}} |
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58行目: | 111行目: | ||
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}} |
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}} |
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|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |
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|1||1||0||0||0||0||0||0||--||----||7||0.1||2||1||3||||0||0||0||0||4||4||108.00||15.00 |
|1||1||0||0||0||0||0||0||--||----||7||0.1||2||1||3||-||0||0||0||0||4||4||108.00||15.00 |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1995}} |
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|1||1||0||0||0||0||1||0||--||.000||19||3.0||8||2||2||||0||4||0||0||8||8||24.00||3.33 |
|1||1||0||0||0||0||1||0||--||.000||19||3.0||8||2||2||-||0||4||0||0||8||8||24.00||3.33 |
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!colspan="2"|通算:2年 |
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|2||2||0||0||0||0||1||0||--||.000||26||3.1||10||3||5||||0||4||0||0||12||12||32.40||4.50 |
|2||2||0||0||0||0||1||0||--||.000||26||3.1||10||3||5||-||0||4||0||0||12||12||32.40||4.50 |
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|} |
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=== 記録 === |
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* 初登板・初先発登板:1994年8月11日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]20回戦([[ナゴヤ球場]])、1/3回4失点で勝敗つかず<ref name="中日新聞1994-08-12"/><ref name="朝日新聞1994-08-12"/><ref>{{Cite news|title=平田 洋(大阪近鉄バファローズ) {{!}} 個人年度別成績|newspaper=NPB.jp 日本野球機構|author=|url=https://npb.jp/bis/players/01903889.html|accessdate=2020-10-23}}</ref> |
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* 初奪三振:1995年9月7日、対[[阪神タイガース]]21回戦(ナゴヤ球場)<ref name="朝日新聞1995-09-07"/> |
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=== 背番号 === |
=== 背番号 === |
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* '''11''' (1994年 - 1997年) |
* '''11''' (1994年 - 1997年) |
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* '''17''' (1998年 - 同年 |
* '''17''' (1998年開幕 - 同年4月24日) |
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* '''60''' (1998年 |
* '''60''' (1998年4月25日 - 同年終了) |
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* '''62''' (1999年) |
* '''62''' (1999年) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|title=ベースボール・レコード・ブック 1995|series=日本プロ野球記録年鑑|publisher=[[ベースボール・マガジン社]](発行人:池田哲雄)|date=1994-12-25|edition=第1版第1刷発行|editor=ベースボール・マガジン社編集|pages=200-202|isbn=978-4583031712|ref={{SfnRef|ベースボール・マガジン社|1994}}}} |
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* {{Cite journal|和書|title='95プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第19巻第3号(通算:第202号 / 1995年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1995-03-15|pages=38, 215頁|ref={{SfnRef|ホームラン|1995}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|title='96プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第20巻第4号(通算:第213号 / 1996年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1996-03-31|pages=91, 215頁|ref={{SfnRef|ホームラン|1996}}}} |
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* {{Cite journal|和書|title='97プロ野球 12球団全選手百科名鑑|journal=ホームラン|volume=第21巻第4号(通算:第225号 / 1997年3月号増刊)|publisher=日本スポーツ出版社|date=1997-03-31|pages=49, 215頁|ref={{SfnRef|ホームラン|1997}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=ベースボール・レコード・ブック 2000|series=日本プロ野球記録年鑑|publisher=[[ベースボール・マガジン社]](発行人:池田哲雄)|date=1999-12-25|edition=第1版第1刷発行|editor=ベースボール・マガジン社編集|pages=|isbn=978-4583036229|ref={{SfnRef|ベースボール・マガジン社|1999}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後|author=田口元義|series=[[別冊宝島]]|publisher=[[宝島社]]|date=2014-03-21|edition=第1刷発行|pages=108-111|ISBN=978-4800220929|ref={{SfnRef|田口|2014}}}} |
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== 関連項目 == |
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== 外部リンク == |
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[[Category:存命人物]] |
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2024年9月15日 (日) 03:20時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県豊田市 |
生年月日 | 1975年11月25日(49歳) |
身長 体重 |
180 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1993年 ドラフト1位 |
初出場 | 1994年8月11日 |
最終出場 | 1995年9月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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平田 洋(ひらた ひろし、1975年〈昭和50年〉11月25日 - )は、愛知県豊田市出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)[1]。
豊田大谷高校時代から高校球界屈指の剛腕投手として注目され[2]、1993年のドラフト会議で地元球団である中日ドラゴンズ(セ・リーグ)から1位指名を受けた[3]。入団当初から「将来のエース」と高く期待されたが[4]、プロ入り後は一軍でわずか2試合のみ先発登板して0勝1敗とまったく活躍できず、プロ入り5年目の1998年限りで戦力外通告を受けた[5]。
来歴
[編集]高校時代まで
[編集]豊田市立挙母小学校・豊田市立崇化館中学校出身で[4]、小学校5年生の時に[6]父親が監督を務めていた少年野球チームで野球を始めた[2]。
野球を始めてから投手一筋で[2]、中学卒業時には後に愛知県大会で敗れた享栄高校を含め多くの強豪高校を抱える高校からスカウトされた末に豊田大谷高校へ進学し[7]、高校時代は2年生(1992年)でエースになった[8]。同年夏の県大会では県立西尾実業高校相手に17奪三振を記録し、相手打線を1被安打のみに抑え完封勝利したほか[9]、続く県立安城東高校戦では10奪三振を記録して完封勝利を挙げ、創部5年目の同校を初めて5回戦進出に導いた[10]。しかし同校にとって初の「私学4強」相手の公式戦対決となった準々決勝・東邦高校戦では[8]これまでの「力で相手打線をねじ伏せる」勝負は通用せず、13被安打・10失点を喫して6回コールドゲームで敗戦してしまった[6]。しかし当時の野球部監督・後藤篤は平田を「3年生もよくやったが、ここまで来れたのは平田の力も大きい」と高く評価しており、平田も敗戦後に「来年はスピード・コントロールを付けて絶対に甲子園へ行きたい」と抱負を述べていた[8]。
高校2年生の秋には最高球速・146 km/hの速球を武器に初の全国レベル大会となる明治神宮野球大会に出場し、中央球界からも注目されるようになった[6]。一方で3年生へ進級する直前の1993年3月中旬には打撃マシンでバントを練習していた時にボールを直接右肩に当てたことで腱板損傷亜脱臼の重傷を負い、春の県大会を棒に振るとともに周囲を心配させたほか[6]、腰痛にも悩まされた[11]。しかし当時着用していた背番号11を励みに腰痛を克服して復活し[11]、5月初めには復調して練習試合を重ね、速球(直球)は基礎体力・下半身の強化により148 km/hまで上がっていた[6]。それに加え「力勝負だけだと打たれるから打たせて取ることも考えよう」として新たに変化球をマスターし、2種類のカーブ(三振を取るカーブ・ストライクを取るカーブ)やフォークボールを習得した[6]。それらの球を武器に6月中旬に開催された三河地区の公式戦では4被安打・1与四球・10奪三振・自責点1点の8回コールドゲームで完投勝利を収め、後にドラフト1位で指名した中日の担当スカウト・法元英明は当時から平田を「高校生であれほど速い球を投げる投手はいない。体格も良く体にバネがある」と高く評価していた[6]。
1993年夏の愛知県大会では1回戦・県立知多東高校戦(半田市営半田球場)でプロ野球12球団のスカウトたちが見守る中、最速145 km/hの速球を投げるなどして相手打線を圧倒し、4回に3安打を浴びて2失点を許したものの10奪三振を奪う好投を見せ、チームも4対2で勝利した[12]。4回戦・県立津島北高校戦(豊橋市民球場)では初回いきなり先頭打者へ直球で四球を与えてしまい「上半身と下半身がバラバラになっている」と次打者からセットポジションに切り替えて投げた[13]。結果、自己最多タイとなる公式戦3度目の17奪三振を記録して完封勝利を収めたが、この時は試合後に「試合前にも監督からコントロールを重視するように言われたからその通りに投げた。厳しい試合展開で勝つことしか頭になかったから記録は意識していなかった」と述べたほか[14]、自身の投球結果を「制球だけ気を付けて投げたのにこんなに三振が取れるとは、球が手元て伸びていたからだろう」と分析した[13]。準々決勝・東海工業高校戦(名古屋市瑞穂公園野球場)では[15]1回表・2番打者相手にカウント1-3と一時制球を乱したが、ベンチから「力を抜け」という声を聞いてからは力みを抜いて投げ相手の裏をかく投球により2被安打・10奪三振で相手打線を完封し[16]、チームも8対0で7回コールド勝ちした[注 1][15]。しかし続く準決勝・享栄高校戦(瑞穂球場)[注 2]では8回まで相手打線を完封し[19]、同大会中の連続無失点イニング記録を34まで伸ばしたが[7]、1点リードで迎えた9回裏に走者1人の場面で平田と投げ合った享栄の投手・谷川輝幸を打者として迎えたところ、渾身の内角低め直球を打たれて左翼席へ飛び込む逆転サヨナラ2点本塁打を被弾しサヨナラ負けを喫した[19]。この痛恨の一球に平田はマウンド上で泣き崩れ、試合終了の挨拶を終えてベンチに戻る最中にもグラウンドに突っ伏して号泣した[注 3][21]。
中日からドラフト1位指名
[編集]惜しくも夏の甲子園出場を逃したが、34イニング連続無失点のほか6試合38イニングで52奪三振を記録したその剛腕は早くからプロ野球界から注目を集め[2]、『中日新聞』記者・村井博美は「もっと大きな舞台(プロ野球)であの速球を見ることができそうだ」と期待を寄せていた[22]。また懸案事項だった右肩腱板損傷についても「『その後遺症は100%ない』と言ってよい」(巨人・関東孝雄スカウト)段階まで回復しており[7]、同年のドラフト会議を控えて高校生では宇和島東高校・平井正史とともに「ドラフト1位候補」と高く評価されていた[2]。
一方で平田本人は地元・愛知県名古屋市に本拠地(ナゴヤ球場)を置く中日ドラゴンズへの入団を熱望しており[2]、ドラフト会議前(後述のプロ球団接触解禁後)には中日以外にも近鉄バファローズ・ヤクルトスワローズ・読売ジャイアンツ(巨人)やオリックス・ブルーウェーブなど7球団が訪れて対面調査を行ったが[23]、平田は挨拶に訪れた7球団のスカウトに対し[24]「プロ野球でプレーしたいが地元の中日以外は入団拒否する。中日で活躍する自分の姿を家族・周囲の人に間近で見てもらいたい」と公言し[2]、中日以外の球団からの勧誘はすべて断っていた[23]。その相思相愛ぶりに対し巨人・伊藤菊雄スカウトは「『平田君が中日で決まり』なんて誰が決めたんだ」と引き下がらない姿勢を見せていた一方[25]、獲得を狙っていた球団の中には豊田大谷高へ電話で「平田君は中日に行くのが一番いい」と「獲得断念」の意向を伝えた球団もあったほどだった[23]。
中日球団としても過去に槙原寛己・工藤公康[注 4]・松井秀喜[注 5]と地元の逸材選手獲得を逃し続けた苦い経験があったことから、早い時期から地元出身でかつ「将来性はもちろん即戦力の期待もかかる」逸材だった平田に関心を示していた[2]。そのため1993年10月7日までに「ドラフト会議で平田を1位指名する」と方針を決めた中日球団社長・中山了は「逆指名してくれて非常に嬉しい。それに対し誠意を示す意味でも1位指名する。スカウトからは『地元出身選手では星稜・小松辰雄以来の逸材』と報告を受けている」とコメントしたほか、当時の監督・高木守道も「1位で指名しなければ他球団に奪われてしまう選手。即戦力として計算できるだろう」とコメントしていた[2]。
平田は1993年10月14日に愛知県高等学校野球連盟(愛知県高野連)宛に郵送した「野球部員登録抹消届」を受理されたことでプロ野球球団との接触が可能になり、スカウトの事前調査に応じることが可能な身分となった[27]。その5日後となる1993年10月20日には豊田大谷高校で中日・法元英明スカウトが12球団で最も速く平田と交渉して「1位指名する」と伝え、平田も改めて「中日でプレーしたい。他球団から指名がないことを祈っている。仮に他球団が指名権を獲得した場合は入団拒否する」と中日入り希望をアピールした[注 6][28]。さらに1993年11月5日に豊田大谷高で中日・岡田英津也球団編成部長から初めて挨拶を受け「君はこれから大きく伸びる。頑張ってほしい」と激励された際にも改めて「中日以外は入団拒否」の意向を伝え[23]、中日球団もドラフト会議前日(1993年11月19日)までに編成会議にて「平田を1位・鳥越裕介(明治大学)を2位で指名する」と確認した[29][30]。
ドラフト会議当日(1993年11月20日)まで「オリックスが強行1位指名する可能性がある」と囁かれてはいたが[24]、オリックスは結局平田を断念して宇和島東高校・平井正史を1位指名した[3]。結局ほか11球団から重複指名を受けず中日の単独指名が確定した直後、平田は記者会見で「仮に落合(博満)さん[注 7]が他球団へ移籍すれば対戦機会が巡ってくるので、その時は内角球で思い切り勝負したい。そのために早く一軍に上がりたい」とコメントした[3]。中日球団にとって地元出身の高校生ドラフト1位指名選手は1986年・近藤真一(享栄高校)以来だった[4]。
プロ入り後
[編集]1994年
[編集]ドラフト会議前から「中日は打撃が素晴らしいチームだから強力なバックに支えられて投げてみたい。腰を痛めた時に励みにした背番号だから背番号は11番が欲しい」と公言しており[24]、1993年12月3日には初めての入団交渉に臨んだ[31]。そして同日、自宅で第1回交渉に臨むと推定契約金1億1,000万円・推定年俸840万円で契約合意して仮契約を締結し、背番号も希望通りの11番に決まった[注 8][11]。契約金1億1,000万円は当時球団史上最高額で、球界全体でも高校生としては巨人・松井秀喜(1992年ドラフト1位)に次ぐ高い評価だった[11]。仮契約後に豊田市内のホテルで記者会見した際には高校生ながら「開幕一軍を目指す。そのために自主トレが始まるまでランニングで下半身を強化する」「(当時のエース)今中(慎二)さんのように常に2桁勝利できるような投手になりたい。(巨人に移籍した)落合さんと対戦する機会があったら内角真っすぐで勝負したい」と宣言した[11]。
1993年12月22日に行われた入団発表では会見で「やっと気持ちが落ち着いた。ノーラン・ライアン投手のように長く野球ができて、年をとっても速球で勝負できるような選手になりたい」と決意を述べた[33]。またこの時までには高木政権下で高卒新人としては初めて春季沖縄キャンプに参加することが内定していたが「目標はあくまで開幕一軍だ。今も毎日5キロメートル(km)のランニングを続けている。キャンプ初日から投げられるように頑張る。キャンプでうまく調整できれば直球・カーブはプロでも通用すると思う。来年3月に地元・豊田市(豊田市運動公園野球場)で予定されているオープン戦では1イニングだけでも投げたい」と述べた[注 9][33]。
その後、平田ら新人選手5人(平田・鳥越・笹山洋一・遠藤政隆・工藤友也)は1994年1月6日に名古屋市西区内の合宿所へ入寮し[33]、翌7日 - 9日にかけて屋内練習場で初の自主トレに臨んだ[35]。1994年2月1日に沖縄県石川市(現:うるま市)で中日球団の春季キャンプ( - 1994年3月3日)が開始されたが[36]、平田は高校の卒業試験のため沖縄入りが2月5日まで遅れ、第2クール初日の[37]翌2月6日から一軍練習に合流した[注 10][39]。
しかし春季キャンプでは周囲から「ゴールデンルーキー」と持ち上げられていた一方、高卒新人ながらいきなり1人で一軍キャンプに参加することとなったことから精神的な疲労が肉体疲労にまで及び、集中力を奪われるようになった[注 11][40]。またプロ入り後に髪の毛を伸ばしたところ、コーチから「切ってこい」と一喝されたことで戸惑いを感じ、それ以降も練習・寮生活で年長者に気を遣うことが苦痛になっていた[41]。
平田はキャンプ終了後も沖縄で調整を続けていたが肩の痛みを訴え、1994年3月7日には首脳陣から「体作りができていない」と判断されて三軍でトレーニングを積むこととなった[42]。その後、1994年3月21日には二軍(ファーム)の交流試合として開かれた中日二軍(ウエスタン・リーグ)対巨人(イースタン・リーグ)戦で「プロ初登板」を果たし、最速146 km/hの速球で2回1被安打に抑えたほか、松井秀喜との対戦でも左飛に打ち取った[43]。
1994年3月25日には二軍から離れて一軍主力組に合流し、翌26日に地元・豊田市の豊田市運動公園野球場で開かれたオープン戦対オリックス・ブルーウェーブ戦で先発・今中の後を継いで2番手投手として登板した[43]。この「一軍デビュー」前には「地元という意識はない。最後まで入団を誘ってくれたオリックス相手に無様な投球はしたくない。一軍入りを考えると力んでしまうので無心で投げたい」と抱負を述べていたが[43]、力みから制球が定まらず[44]、直球も139 km/h止まりだった[45]。5回は2死を取るも一・二塁の場面で田口壮に四球を与え[45]、続く鈴木一朗(開幕直前に登録名を「イチロー」へ変更)から満塁本塁打を被弾した[注 12][46]。さらに6回には岡田彰布から高めの速球を狙い撃ちされソロ本塁打を被弾し、結果的に敗戦投手になったが[44]、大量失点後の6回にはキャブレラ(フランシスコ・カブレラ)相手に捕手から出されたフォークボールのサインを拒否し、インローに投げて三邪飛に打ち取ったことで『中日新聞』記者・斎田太郎から「確かなことを学んだ」と評された[45]。また中利夫はこの試合を報じた『中日新聞』朝刊で「プロの洗礼は気にする必要はない。鈴木にはど真ん中、岡田にも高めの真っすぐと力んで手投げになったことによる制球ミスで本塁打を被弾したが、それ以外は打者を力で封じた。徹底的に走り込んで体作りをすれば制球力の課題を乗り越えられるはず。焦らず後半戦以降に照準を合わせれば良い」と評価していた[47]。
結局、目標としていた開幕一軍入りは叶わず他の新人4人とともにファームで開幕を迎えることとなり[注 13][48]、後述の二軍合流まではファームの練習で打撃投手を務めつつ三軍でランニング・投球フォーム固めなどの調整を続けていたが、大幅な軌道修正を強いられたことで「平田の胸の内に潜んでいた『過信』を取り除くこと」(稲葉光雄二軍投手コーチ)から始めざるを得なくなった[49]。そのため単調な基本練習の繰り返しとなったことで平田自身も飽きを感じるようになり、「1日の練習でどこか手を抜く」と感じた稲葉から「1秒1秒を大切にしろ」と叱咤されることも多かったが、4月に入ると足腰が鍛えられ体重移動の無駄がなくなったことで球速・球の切れのみならず精神面においても磨きがかかり、稲葉から二軍昇格の推薦を得ることができた[49]。二軍昇格直前には豊田市運動公園野球場で打撃投手を務めたが、このころには水谷寿伸二軍投手コーチから「球が生き生きとしていて『早く試合で投げさせてくれ』と訴えているようだ。気持ちの伝わってくる球を久しぶりに見た」と評価されていたほか、入団時から体重を11 kg減量していた平田自身も「今までずっと基本練習の繰り返しだったが、(打撃投手は実戦とは違い「打者に打たせる仕事」とはいえ)打者に向かえたことは嬉しかった」と述べていた[49]。
5月24日には三軍から二軍に合流し、同日からのウエスタン・リーグ(ウ・リーグ)で開催された対阪神タイガース3連戦にて実戦デビューを果たすこととなった[49]。その後は二軍初勝利が7月26日(対近鉄バファローズ14回戦・ナゴヤ球場)までもつれ込み、それまでに5敗を喫したが[50]、最終的には二軍でチーム唯一の規定投球回数到達を果たし[51]、18試合82回2/3イニングを投げて3勝6敗・防御率4.03の成績を残してウ・リーグ投手成績ランキング11位(全14人)に入った[52]。
7月17日に札幌市円山球場で開催されたジュニアオールスターの全ウエスタン代表選手として選出された[53]。そして7月22日にはドラフト2位の鳥越や中山裕章・井上一樹とともに一軍選手登録(一軍40人枠入り)を果たし[54]、初先発の6日前に先発を言い渡された[55]。8月9日に出場選手登録されると[56]、8月11日の対ヤクルトスワローズ第20回戦(ナゴヤ球場)で捕手・中村武志とバッテリーを組み一軍公式戦初先発・初登板を果たした[57]。しかし臨んだ初先発のマウンドではわずか1/3回を投げただけでヤクルト打線相手に4失点してKOされ、同年はそれ以降一軍登板できなかった[注 14][51]。
閉幕後には『中日新聞』紙上にて「持ち球であるストレートの球威を失ったことが気がかり。下半身の強化など徹底した体づくりが必要だ」と評価され[60]、小松辰雄コーチの下で練習に取り組んだ[41]。この秋季キャンプでは「高校時代の投球を取り戻すこと」が目標だったため投球フォーム改造は行われなかったが、その後平田は結果が出ないとフォーム改造を余儀なくされたことで最適なフォームを見い出せずプロ野球界を去ることとなった[41]。
1995年以降
[編集]プロ2年目の1995年2月1日に開幕した沖縄キャンプでは「下半身の強化に成功して課題の体重移動が楽になり、球筋が定まった。抑え気味でも球速140 km/hを超えるほど」の球威を身に着けた[61]。その球威はブルペン捕手を務めた加藤安雄コーチが受け損ねてミットの網が切れるほどで、同じように高校生でドラフト1位指名を受けて入団・活躍した鈴木孝政・小松辰雄両投手コーチからも「今季は一軍でやれる」と高く評価されており『中日新聞』紙上では「キャンプ初日から羽ばたき大活躍の予感を漂わせている」と報道された[61]。このことから投手コーチからは「いの一番に一軍に昇格させたい投手」と高く評価されていたが、同年に新しく投手コーチに就任した鈴木は「確かに(前年とは)別人になっておりスター性もある。中日の目玉になれる素材だが、まだ覚えさせるべきことがたくさんある。半端なまま一軍に送り出すと昨季の繰り返しになるから二軍で経験を積ませるべきだ」と評価していた[62]。
一方で同年開幕前には今中慎二とともに春の自主トレを行ったが、その際に今中から「お前は危機感も貪欲さも欠けている。俺は2年目(1990年)に隣で(当時ドラフト1位の新人)与田(剛)さんが投げていた球を見て『これはいかん』と緊張した。『今年が勝負』ということがわからないのか!」と叱咤されていた[63]。結局は開幕時点で2年目にして初の一軍40人枠入りを果たし[64]、1995年4月27日には一軍に合流した[63]。しかし当時は腰痛で投球どころかウォーミングアップすらできない状態[注 15]だったためその日の練習を休み、翌日には再び二軍に戻ると5月5日に故障者選手登録された[63]。1995年7月までの1年半で平田を指導したコーチは10人に上っていたが、当時の中日は育成への指針のみならず一軍・二軍間の連携すら取れておらず[注 16]、平田が育たない苛立ちは互いの批判にすり替わっていた[63]。同時期に山部太(ヤクルト)・河原純一(巨人)・波留敏夫(横浜ベイスターズ)・藪恵壹(阪神)とセ・リーグ各球団に新戦力が台頭していた一方、中日は彼らと対比されるはずの存在だった平田が戦力になっていない状態で[注 17]、7月12日に二軍戦で完投勝利を挙げた際にも最後の打者に投じた直球は131 km/hしかなかった[63]。
1995年9月7日にはナゴヤ球場で開かれた対阪神タイガース第21回戦で中村とバッテリーを組み先発登板したが[65]、1回表の立ち上がりで和田豊と星野修から連打を浴びるとスコット・クールボーに変化球を打たれて左翼席へ飛び込む21号本塁打を被弾した[66]。2回表には星野から右前適時打を浴びると3回表には2死から投手・竹内昌也に3点本塁打を浴びるなど大炎上し[66]、3回8被安打2被本塁打8失点と散々な成績で[65]、結果的にこれが最後の一軍登板となってしまった。その後中日は阪神の先発・竹内(同日の勝利投手)を打ち崩して6回までに7点を得たが[66]、最終的にチームは9対7で敗戦して同シーズン70敗目を喫し、平田も敗戦投手となった[65]。同日の最高球速は136 km/hと入団当時の面影がなく、平田本人も「言葉もない」とうなだれるもので、期待を裏切られた島野育夫監督代行[注 18]は「力がないなら、ないなりに制球に気を付けるなどすべきだろう。『投げて打たれた』では話にならない」と立腹していたほか[66]、村田広光トレーニングコーチも当時の平田を「入団時から体重が10 kgも減って体形が変わっている。一回り大きくなるはずがそうならないのは精神的なものだ。もっとがめつくならないと球もいかない」と評していた[66]。同年は二軍ウ・リーグでも18試合に登板して104回1/3イニングを投げたが3勝5敗・防御率3.97(投手成績ランキング15人中11位)の成績に終わり[67]、オフの11月28日には前年比160万円減額の年俸800万円で契約更改した[68]。
同年秋の黒潮リーグ・秋季キャンプではスピード・球威とも徐々に本来の姿へ近づけ、2年間の遅れを取り戻すとともに今中・山本昌の両左腕に次ぐ先発投手が不足していた一軍投手陣に割って入ることが期待されていたが[69]、監督が星野仙一に交代した1996年は「不言実行」をモットーに先発ローテーション入りを目指したものの開幕前に脇腹を痛め[70]、プロ入り3年目で初の一軍登板なしに終わった[71]。同年はオーバースローからサイドスローに転向したが、球速は全盛期より10 km/h以上低下し[58]、二軍でも22試合に登板・99回2/3イニングを投げて2勝8敗・防御率3.97と大きく負け越し、同シーズン閉幕後には推定年俸750万円(前年比50万円減額)で契約更改した[71]。
1997年シーズン前は、自らオフを返上し、ナゴヤ球場で自主トレを続けたが[72]、同年も二軍で9試合・32回を投げて0勝3敗の成績に終わった[73]。同年オフの契約時には、台湾球界 (CPBL) へ留学する話[注 19]が出たほか[75]、年俸は前年比50万円減額の700万円となった[73]。またプロ入りから着用していた背番号11も同い年である川上憲伸(明治大学から同年ドラフト1位)の入団に伴い剥奪され、12月18日に背番号を17に変更されることが発表された[76]。
1998年は、開幕直後の4月25日に韓国KBOのLGツインズから新外国人として李尚勲(登録名:サムソン・リー)が加入した。これに伴い、平田は背番号17をサムソン(韓国時代から背番号17を着用)に充てるため、再び剥奪される格好となり、自身の背番号は60に変更された[77]。同年は背水の覚悟で臨んだが、一軍登板はなく、二軍ウ・リーグで中継ぎとして7試合に登板し[78]、1勝0敗・防御率1.69の成績を残したのみだった[79]。中日時代最後の登板は6月11日で、夏場には練習中、ノックの打球を顔に受けて負傷した[78]。そして同年10月6日、北野勝則・猪俣隆両投手とともにナゴヤドームで、児玉光雄球団代表補佐から戦力外通告を受けた[5][78]。この際、球団側から前年の金森隆浩と同じく、友好関係にあった台湾プロ野球・兄弟エレファンツでプレーすることも提案されたが[注 19]、態度を保留した[78]。その後、ドラフト前のスカウトとの面談時に断りを入れた経緯のあった近鉄バファローズ(1999年シーズン開幕前に「大阪近鉄バファローズ」へ球団名変更)の日向秋季キャンプに参加し[80]、入団テストを受けて合格し[81]、同年12月18日に同じ秋季キャンプで入団テストに合格した谷口功一(前西武ライオンズ)とともに近鉄球団への入団が発表された[82]。
1999年シーズンは、大石清投手コーチの指導により、潜在能力の開花が期待され[80]、年俸600万円・背番号62で野球人生を賭けて臨んだ[83]。しかし、新天地となった近鉄でも一軍出場はならず、二軍(ウ・リーグ)でも16試合登板・投球回32イニング(規定投球回数は80イニング)・2勝2敗・防御率3.66の成績に終わった[84]。同年10月6日には大森剛・佐藤裕幸・渕脇芳行・谷内聖樹・中川隆治・田中宏和の6選手(野手3人・投手3人)とともに戦力外通告を受け[注 20][86]、同年限りで現役を引退した。
引退後
[編集]現役引退後は母校の関係者から勧誘されて故郷・豊田市の豊田鉄工に就職し、2020年5月時点では同社広久手工場で工長(生産現場の監督・統括)を務めている[87]。
選手としての特徴・人物
[編集]崇化館中学校の卒業文集には「将来はプロ野球選手になりたい」と書いていたほか[6]、高校時代に平田を指導した監督・後藤篤はドラフト直前に『週刊ベースボール』の取材に対し「平田は金・出場機会など現実的な視点を抜きに、幼少期から純粋な気持ちで『中日へ行きたい』と考えていた」と証言した[25]。
高校時代は長身から投げ下ろす最高時速148 km/hの直球(速球)が武器で[2]、春・夏とも甲子園未出場ながら全12球団が獲得に向けて調査したほどの逸材だった[4]。高校時代には目標とする選手として桑田真澄(巨人)[6]やノーラン・ライアンを挙げていた[注 21][4][33]。また中日入り直後には当時チームのエースだった今中慎二を目標として挙げていた[11]。
平田を担当したスカウト・法元英明は「地元でこれだけの逸材はいない。甲子園に出場した投手より実力は上だ」と高く評価しており[28]、「肘の出方・腕のしなり・下半身の使い方を鍛えればまだ球速は早くなる。将来は球速150 km/hも夢ではない」と期待を寄せていたが[7]、1994年シーズン終盤にはフォームを見失い、130 km/h台の球速を出すことがやっとの状態だった[88]。変化球は高校時代からの持ち球だった2種類のカーブ(三振を取るカーブ・ストライクを取るカーブ)やフォークボール[6]・チェンジアップに加え[47]、プロ入り後にスライダーを習得した[49]。
一方で田口は著書にて「平田がプロで大成できなかった理由の1つはプロ向きの性格でなかったことだ。年上の人間ばかりに囲まれ、気を遣いながら練習・寮生活を送ることが苦痛になっていた。またプロ入り後に体のキレを失ったことに加え、高校時代の投球を取り戻すことを目標に1年目秋季キャンプでは小松コーチの下でトレーニングに取り組んだが、結果が出ないとフォーム改造を余儀なくされフォームを見失った」と述べている[41]。
なお中日時代(1998年開幕前)は独身だったが[75]、近鉄移籍時点(1999年開幕前)では2歳年上の女性と結婚しており1児(1歳の女児)がいた[80]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994 | 中日 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 7 | 0.1 | 2 | 1 | 3 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 108.00 | 15.00 |
1995 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 19 | 3.0 | 8 | 2 | 2 | - | 0 | 4 | 0 | 0 | 8 | 8 | 24.00 | 3.33 | |
通算:2年 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 26 | 3.1 | 10 | 3 | 5 | - | 0 | 4 | 0 | 0 | 12 | 12 | 32.40 | 4.50 |
記録
[編集]- 初登板・初先発登板:1994年8月11日、対ヤクルトスワローズ20回戦(ナゴヤ球場)、1/3回4失点で勝敗つかず[57][59][89]
- 初奪三振:1995年9月7日、対阪神タイガース21回戦(ナゴヤ球場)[65]
背番号
[編集]- 11 (1994年 - 1997年)
- 17 (1998年開幕 - 同年4月24日)
- 60 (1998年4月25日 - 同年終了)
- 62 (1999年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 東海工業高校には当時、平田より1学年下(2年生)の井本直樹(社会人野球を経て2000年ドラフトで中日から3位指名)がいた[17]。
- ^ 享栄高校には当時平田と同い年で同年のドラフト会議にてオリックスから4位指名された福留宏紀がおり、福留はプロ入り後に「今は話題度で平田に負けているが、数年後に再戦した際には負けたくない」と抱負を述べていた[18]。
- ^ 後藤監督は試合後に「追加点のチャンスに的確な指示を出せず、最後まで平田に負担を掛けて子供たちに申し訳ないことをした」と自らを責め、泣き崩れる選手たちに「土壇場で悔しい思いをしたから、これからもたった一球の大切さがわかるだろう」と話した[20]。
- ^ 1981年のドラフト会議で槙原(愛知県大府市出身・県立大府高校)は巨人から1位指名を受けたほか、同期の工藤(愛知県名古屋市天白区出身・名古屋電気高校)も西武ライオンズから6位指名を受け、それぞれ入団した。同ドラフト会議で中日は槙原・工藤と同期でともに「愛知三羽烏」とうたわれた浜田一夫(豊田市出身・愛知高校)を2位指名・獲得したが[26]、浜田はプロ未勝利のまま現役を引退している。
- ^ 松井は石川県能美郡根上町(現:能美市)出身で、星稜高校時代の1992年にドラフト会議で中日・巨人・阪神・福岡ダイエーホークスの4球団から1位指名を受け、抽選により巨人が交渉権を獲得した。
- ^ 『中日新聞』報道では「社会人野球に進む」(1993年10月21日朝刊)と報道された[28]一方でドラフト会議前日(1993年10月19日)には「万が一他球団が交渉権を獲得したら1年間浪人する」と発言していた[24]。また『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)の取材に対しては「社会人からの勧誘はすべて断った。中日に入れなければ1年間浪人して翌年のドラフトを待つ」と宣言していた[25]。
- ^ 落合は当時フリーエージェント(FA)権を取得して去就が注目されており、その後権利を行使して巨人へ移籍した。
- ^ 平田以降、中日の高卒新人投手が背番号10番台を着用した事例は15年後の2009年に入団した伊藤準規(岐阜県立岐阜城北高校からドラフト2位指名)までなかった[32]。
- ^ 過去の高校生新人選手では小松辰雄のように「球速ならプロの投手にも負けない」と豪語した選手はいたが、入団発表の席で「開幕一軍」を口にした高卒新人は「おそらく平田が初めて」だった[34]。しかしその一方で沖縄春季キャンプの切符獲得が微妙な情勢となった際には「プロは球速だけでは通用しない。球の切れ・繊細な制球力も必要だから鍛え抜くしかない」と慎重な発言もしており、今中も当時の平田について「プロとして大きな目標を持つことは大切だが、平田はまだその根拠がない。今は焦らないことだ」と述べていた[34]。
- ^ 平田以降、中日の高卒新人投手が一軍に合流した事例は15年後の2009年に入団した髙島祥平(帝京高校からドラフト4位指名)までなかった[38]。
- ^ 当時、平田は「毎日『もう1人同級生が欲しい』と思う」と漏らしていたほか、キャンプ中に行われた大韓民国(韓国)・KBOリーグのLGツインズとの練習試合中にはバックネット裏でふんぞり返ってアイスコーヒーを飲んでいたところ、投手コーチ・水谷啓昭から「みっともない。もう帰れ」と厳しく叱咤されていた[40]。水谷は『中日新聞』記者・末次秀行の取材に対し「先輩の投球や相手の攻め方など、平田には見るべきものがたくさんあるはずだ。いくら素質があっても今の姿勢ではダメだ」と厳しい評価を下しており、末次も「平田は大物の片鱗を見せているが、一軍キャンプに参加している投手22人では最も落ち着きがなく球もばらついている。プロ野球で生きていくために一番大切なことは恥をかかないことだ。(エースとして活躍した)小松もそう言っているが、誰もができることをおろそかにしてはいけない』と言っている」と述べていた[40]。
- ^ この満塁本塁打は後に日本プロ野球(NPB)のみならずメジャーリーグベースボール(MLB)で活躍した打者・鈴木(イチロー)にとってはオリックスの新監督だった仰木彬ら首脳陣から高い評価を取り付けるとともに「イチロー」への登録名変更のきっかけともなった一方[46]、地元の先輩からプロの洗礼を浴びせられ「みんなが見ているのに情けない」と落胆した平田にとっては「蟻地獄に思えるもの」だった[45]。
- ^ 当時開幕一軍スタートとなった新人選手17人のうち高卒新人選手は横浜・大家友和のみで、中日・巨人で一軍スタートした新人選手は皆無だった[48]。
- ^ この時の平田の投球成績は「3与四球・4失点・防御率108.00」で[58]、速球・変化球ともに芳しくなく、平田本人も「緊張して何が何だかわからなかった。自分の球はあったような、なかったような…」と形容するほど散々なものだった[55]。なおチームはその後3回にも追加点を許し5点差に突き放されるが、その後反撃して5対5の同点で延長戦に持ち込み、同点の延長12回裏に大豊泰昭とアロンゾ・パウエルがヤクルト・高津臣吾を打ち崩してそれぞれ出塁すると[57]、1死一・二塁で清水雅治が遊撃ゴロに倒れたが[59]、併殺を狙ったヤクルトの二塁手・新井潔が一塁へ悪送球した隙に走者・大豊が生還してサヨナラ勝利を収めた[57]。
- ^ 当時の平田の体調は投手コーチ・高橋三千丈が「ここまで(状態が)悪いなんて知らなかった」と絶句するほどだった[63]。
- ^ かつて広島東洋カープで監督を務めた古葉竹識は『中日新聞』の取材に対し「広島ではあり得ないようなことが中日で起きている。広島は若手育成のために球団が一体となっており、明確な目標・教える側の忍耐がしっかりしており、一・二軍の連携もうまく取れている(中日とは異なり、フロントから報告されたデータを基に一・二軍合同会議で練習方針を決めて同じ選手に同じコーチが指導し続ける)が、中日はそれができていない(フロントは選手を獲得して終わり、現場は指名選手をただ待つだけで一・二軍の連携も取れていない)。教えて崩してしまったバランスはなかなか元に戻らない」と指摘していた[63]。
- ^ 同シーズン前半戦では二軍ウ・リーグで2勝3敗と勝ち負けを繰り返しており、中山球団社長は後半戦に向けて一軍首脳陣入れ替えを通告した際に『中日新聞』(中日新聞社)記者から「フロントにも重い責任があるのではないか?」と尋ねられても「新人が戦力になっていないからだ」と述べていた[63]。
- ^ 同年の中日はシーズン途中で高木が監督を辞任し、監督代行を務めたヘッドコーチの徳武定祐もまたシーズン途中で休養したため、島野が同シーズン閉幕まで「監督代行の代行」を務めていた。
- ^ a b 1997年オフには、金森隆浩(1994年のドラフト1位)が武者修行として台湾球界の統一ライオンズへ野球留学した[74]。結局、金森は1年後(1999年)に中日に復帰したものの、同年限りで戦力外通告を受け、現役を引退している。
- ^ 12月2日に日本野球機構(NPB)コミッショナー事務局から自由契約選手として公示された[85]。
- ^ 高校時代にはライアンの著書を意識改革の参考にしていたほか[6]、ドラフト直前には「伊良部(秀輝)さん(千葉ロッテマリーンズ)から“和製ライアン”の称号を奪いたい」と抱負を述べていた[25]。また『中日ドラゴンズ '94ファンブック』では平田が見開き1面+1ページの計3ページを使い「逸材!将来のエース」の見出しで取り上げられており、「『誰々2世』と呼ばれることを嫌い、自らのアイデンティティを強く主張する姿はまさに『投手になるために生まれてきたような性格』の持ち主だ」と評されていたほか、平田自身も「ライアンのように息長く活躍して100勝100セーブを達成したい」と抱負を述べていた[4]。
出典
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参考文献
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- 「'96プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第20巻第4号(通算:第213号 / 1996年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1996年3月31日、91, 215頁。
- 「'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第21巻第4号(通算:第225号 / 1997年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1997年3月31日、49, 215頁。
- ベースボール・マガジン社編集 編『ベースボール・レコード・ブック 2000』(第1版第1刷発行)ベースボール・マガジン社(発行人:池田哲雄)〈日本プロ野球記録年鑑〉、1999年12月25日。ISBN 978-4583036229。
- 田口元義『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』(第1刷発行)宝島社〈別冊宝島〉、2014年3月21日、108-111頁。ISBN 978-4800220929。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 平田洋 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)