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「神武東征」の版間の差分

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Aitok I (会話 | 投稿記録)
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'''神武東征'''(じんむとうせい)は、[[磐余彦]]が日向<ref group="注" name="himuka">のちの[[令制国]]では、[[南九州]]に「[[日向国]]」が存在した。しかし、『[[日本書紀]]』によれば、「日向国」の名は[[景行天皇]](第12代天皇)の言葉に由来するので、神武東征の時点にはこの「日向」という地名はなかったと考えることもできる。そこで、日向は固有名詞ではなく、単に「[[太陽|日]]に向かっている地」という意か美称であると考えることもできる。</ref>を発ち、[[奈良盆地]]とその周辺を征服して、はじめて天皇位についた(神武天皇)という一連の説話をさす用語。
'''神武東征'''(じんむとうせい)は、[[磐余彦]]([[天照大神]]の5世孫)が日向<ref group="注" name="himuka">のちの[[令制国]]では、[[南九州]]に「[[日向国]]」が存在した。しかし、『[[日本書紀]]』によれば、「日向国」の名は[[景行天皇]](第12代天皇)の言葉に由来するので、神武東征の時点にはこの「日向」という地名はなかったと考えることもできる。そこで、日向は固有名詞ではなく、単に「[[太陽|日]]に向かっている地」という意か美称であると考えることもできる。</ref>を発ち、[[奈良盆地]]とその周辺を征服して、はじめて天皇位についた(神武天皇)という一連の説話をさす用語。


== 経過 ==
== 経過 ==
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'''[[甲寅]]年'''([[紀元前667年]]:日本書紀による)
'''[[甲寅]]年'''([[紀元前667年]]:日本書紀による)
: この年、日向<ref group="注" name="himuka"/>にあった磐余彦は、
: この年、日向<ref group="注" name="himuka"/>にあった磐余彦は、


: {{Quotation|[[天孫降臨|天祖の降跡]]より<ruby><rb>以逮</rb><rp>(</rp><rt>このかた</rt><rp>)</rp></ruby>、今一百七十九万二千四百七十余歳。而るを遼邈なる地、猶未だ王沢に<ruby><rb>霑</rb><rp>(</rp><rt>うるお</rt><rp>)</rp></ruby>わず。遂に<ruby><rb>邑</rb><rp>(</rp><rt>むら</rt><rp>)</rp></ruby>に君有り、<ruby><rb>村</rb><rp>(</rp><rt>ふれ</rt><rp>)</rp></ruby>に長有り、各自<ruby><rb>疆</rb><rp>(</rp><rt>さかい</rt><rp>)</rp></ruby>を分かちて用て相凌躒せしめつ。<ruby><rb>抑又</rb><rp>(</rp><rt>はたまた</rt><rp>)</rp></ruby>[[塩土老翁]]に聞きしに曰く、「東に美地有り、青山<ruby><rb>四</rb><rp>(</rp><rt>よも</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>周</rb><rp>(</rp><rt>めぐ</rt><rp>)</rp></ruby>れり。其の中に亦[[天磐船]]に乗りて飛び降れる者有り。」といいき。余<ruby><rb>謂</rb><rp>(</rp><rt>おも</rt><rp>)</rp></ruby>うに、彼地は必ず<ruby><rb>当</rb><rp>(</rp><rt>まさ</rt><rp>)</rp></ruby>に以て大業を恢弘し天の下に光宅するに足りぬべし。<ruby><rb>蓋</rb><rp>(</rp><rt>けだ</rt><rp>)</rp></ruby>し[[六合]]の中心か。<ruby><rb>厥</rb><rp>(</rp><rt>そ</rt><rp>)</rp></ruby>の飛び降れる者は、謂うに是[[饒速日]]か。何ぞ就きて都なさざらむや。}}
: {{Quotation|[[天孫降臨|天祖の降跡]]より<ruby><rb>以逮</rb><rp>(</rp><rt>このかた</rt><rp>)</rp></ruby>、今一百七十九万二千四百七十余歳。而るを遼邈なる地、猶未だ王沢に<ruby><rb>霑</rb><rp>(</rp><rt>うるお</rt><rp>)</rp></ruby>わず。遂に<ruby><rb>邑</rb><rp>(</rp><rt>むら</rt><rp>)</rp></ruby>に君有り、<ruby><rb>村</rb><rp>(</rp><rt>ふれ</rt><rp>)</rp></ruby>に長有り、各自<ruby><rb>疆</rb><rp>(</rp><rt>さかい</rt><rp>)</rp></ruby>を分かちて用て相凌躒せしめつ。<ruby><rb>抑又</rb><rp>(</rp><rt>はたまた</rt><rp>)</rp></ruby>[[塩土老翁]]に聞きしに曰く、「東に美地有り、青山<ruby><rb>四</rb><rp>(</rp><rt>よも</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>周</rb><rp>(</rp><rt>めぐ</rt><rp>)</rp></ruby>れり。其の中に亦[[天磐船]]に乗りて飛び降れる者有り。」といいき。余<ruby><rb>謂</rb><rp>(</rp><rt>おも</rt><rp>)</rp></ruby>うに、彼地は必ず<ruby><rb>当</rb><rp>(</rp><rt>まさ</rt><rp>)</rp></ruby>に以て大業を恢弘し天の下に光宅するに足りぬべし。<ruby><rb>蓋</rb><rp>(</rp><rt>けだ</rt><rp>)</rp></ruby>し[[六合]]の中心か。<ruby><rb>厥</rb><rp>(</rp><rt>そ</rt><rp>)</rp></ruby>の飛び降れる者は、謂うに是[[饒速日]]か。何ぞ就きて都なさざらむや。}}
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: と言って、東征に出た。
: と言って、東征に出た。


: [[10月5日 (旧暦)|10月5日]]、磐余彦はみずから諸皇子と水軍をひきいて東征に出発した。出航に関連して、[[起きよ祭り]]が残る。[[速吸之門|速吸の門]]に至った時、[[国津神|国神]]の[[椎根津彦|珍彦]](うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。[[筑紫国]](『古事記』では[[豊国]])[[宇佐郡|菟狭]]に至り、[[宇佐国造|菟狭国造]]の祖[[菟狭津彦]]・[[菟狭津媛]]が造った[[一柱騰宮]]に招かれもてなされた。この時、磐余彦は[[勅]]して、媛を侍臣の[[天種子]]([[中臣氏]]の遠祖)とめあわせた。
: [[10月5日 (旧暦)|10月5日]]、磐余彦はみずから諸皇子と水軍をひきいて東征に出発した。出航に関連して、[[起きよ祭り]]が残る。[[速吸之門|速吸の門]]に至った時、[[国津神|国神]]の[[椎根津彦|珍彦]](うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。[[筑紫国]](『古事記』では[[豊国]])[[宇佐郡|菟狭]]に至り、[[宇佐国造|菟狭国造]]の祖[[菟狭津彦]]・[[菟狭津媛]]が造った[[一柱騰宮]]に招かれもてなされた。この時、磐余彦は[[勅]]して、媛を侍臣の[[天種子]]([[中臣氏]]の遠祖)とめあわせた。


: [[11月9日 (旧暦)|11月9日]]、[[筑紫国]][[遠賀郡|崗]]水門に至った。『古事記』によれば、[[岡田宮]]に1年滞在したという。
: [[11月9日 (旧暦)|11月9日]]、[[筑紫国]][[遠賀郡|崗]]水門に至った。『古事記』によれば、[[岡田宮]]に1年滞在したという。
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: [[3月10日 (旧暦)|3月10日]]、[[河内国]][[草香邑]][[青雲白肩之津|青雲の白肩の津]]に至る。
: [[3月10日 (旧暦)|3月10日]]、[[河内国]][[草香邑]][[青雲白肩之津|青雲の白肩の津]]に至る。


: [[4月9日 (旧暦)|4月9日]]、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて[[生駒山|胆駒山]]を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に[[長髄彦]]という者があってその地を支配しており、軍を集めて[[孔舎衛坂]](くさえ の さか)で磐余彦たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦の兄[[五瀬]]は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を[[盾津]]と改称した。のちには[[蓼津]]といった。磐余彦はそこから船を出した。
: [[4月9日 (旧暦)|4月9日]]、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて[[生駒山|胆駒山]]を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に[[長髄彦]]という者があってその地を支配しており、軍を集めて[[孔舎衛坂]](くさえ の さか)で磐余彦たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦の兄[[五瀬]]は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を[[盾津]]と改称した。のちには[[蓼津]]といった。磐余彦はそこから船を出した。


: [[5月8日 (旧暦)|5月8日]]、[[茅渟]]の[[山城水門]](やまき の みなと)に至った。ここで五瀬の矢傷が重くなり、[[紀伊国]]の[[竈山]]にいたった時に薨じた。なお、『古事記』は崩地を紀国の[[男之水門|男の水門]]とする。
: [[5月8日 (旧暦)|5月8日]]、[[茅渟]]の[[山城水門]](やまき の みなと)に至った。ここで五瀬の矢傷が重くなり、[[紀伊国]]の[[竈山]]にいたった時に薨じた。なお、『古事記』は崩地を紀国の[[男之水門|男の水門]]とする。


[[ファイル:Tennō Jimmu.jpg|thumb|280px|八咫烏に導かれる神武天皇([[安達吟光]]画)]]
[[ファイル:Tennō Jimmu.jpg|thumb|280px|八咫烏に導かれる神武天皇([[安達吟光]]画)]]
: [[6月23日 (旧暦)|6月23日]]、[[名草郡|名草]]邑にいたり、[[名草戸畔]]という女賊を誅して、[[熊野郡|熊野]]の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦の兄[[稲飯]]と[[三毛入野]]は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯は海に入って[[鋤持神]]となり、三毛入野は[[常世郷]]に去ってしまった。磐余彦は息子の手研耳とともに熊野の[[荒坂津]]に進み[[丹敷戸畔]]を誅したが、土地の神(『古事記』によれば大熊)の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人[[熊野高倉下]]は、霊夢を見たと称して[[韴霊]](かつて[[武甕槌]]が所有していた剣。『古事記』によれば[[石上神宮]]に鎮座。)を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、[[八咫烏]]があらわれて軍勢を導いた。磐余彦は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。
: [[6月23日 (旧暦)|6月23日]]、[[名草郡|名草]]邑にいたり、[[名草戸畔]]という女賊を誅して、[[熊野郡|熊野]]の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦の兄[[稲飯]]と[[三毛入野]]は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯は海に入って[[鋤持神]]となり、三毛入野は[[常世郷]]に去ってしまった。磐余彦は息子の手研耳とともに熊野の[[荒坂津]]に進み[[丹敷戸畔]]を誅したが、土地の神(『古事記』によれば大熊)の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人[[熊野高倉下]]は、霊夢を見たと称して[[韴霊]](かつて[[武甕槌]]が所有していた剣。『古事記』によれば[[石上神宮]]に鎮座。)を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、[[八咫烏]]があらわれて軍勢を導いた。磐余彦は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。


: [[8月2日 (旧暦)|8月2日]]、[[宇陀郡|菟田県]]を支配する[[兄猾]]と[[弟猾]]の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦は[[道臣]]([[大伴氏]]の遠祖)を送ってこれを討たせた。なお、『古事記』によれば道臣だけでなく大久米([[久米氏]]の祖)もつかわされたという。磐余彦は軽兵を率いて[[吉野郡|吉野]]を巡り、住人達はみな従った。
: [[8月2日 (旧暦)|8月2日]]、[[宇陀郡|菟田県]]を支配する[[兄猾]]と[[弟猾]]の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦は[[道臣]]([[大伴氏]]の遠祖)を送ってこれを討たせた。なお、『古事記』によれば道臣だけでなく[[大久米]]([[久米氏]]の祖)もつかわされたという。磐余彦は軽兵を率いて[[吉野郡|吉野]]を巡り、住人達はみな従った。


: [[9月5日 (旧暦)|9月5日]]、磐余彦は菟田の[[高倉山]]に登ると[[八十梟帥]]や[[兄磯城]]の軍が充満しているのが見えた。磐余彦はにくんだ。磐余彦はこの夜の夢で[[天津神|天神]]より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって[[天神地祇]]をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、[[天の香山]]の巓の土を取りに行かせた。磐余彦はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。
: [[9月5日 (旧暦)|9月5日]]、磐余彦は菟田の[[高倉山]]に登ると[[八十梟帥]]や[[兄磯城]]の軍が充満しているのが見えた。磐余彦はにくんだ。磐余彦はこの夜の夢で[[天津神|天神]]より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって[[天神地祇]]をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、[[天の香山]]の巓の土を取りに行かせた。磐余彦はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。


: [[10月1日 (旧暦)|10月1日]]、磐余彦は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]、八咫烏に遣いさせ[[兄磯城]]・[[弟磯城]]を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は[[兄倉下]]、[[弟倉下]]とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
: [[10月1日 (旧暦)|10月1日]]、磐余彦は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]、八咫烏に遣いさせ[[兄磯城]]・[[弟磯城]]を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は[[兄倉下]]、[[弟倉下]]とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。


[[画像:Emperor Jimmu.jpg|thumb|right|200px|[[月岡芳年]]「[[大日本名将鑑]]」より「神武天皇」。[[明治時代]]初期の版画。]]
[[画像:Emperor Jimmu.jpg|thumb|right|200px|[[月岡芳年]]「[[大日本名将鑑]]」より「神武天皇」。[[明治時代]]初期の版画。]]
: [[12月4日 (旧暦)|12月4日]]、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ[[金鵄|金色の霊鵄]]があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は[[富雄町|鳥見]]という。長髄彦は磐余彦のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる[[櫛玉饒速日]]([[物部氏]]の遠祖)は[[天津神|天神]]の子で、昔[[天磐船]]に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日のもっている天神の子のしるしを磐余彦に示したが、磐余彦もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。『古事記』によれば天津瑞を献上したという。
: [[12月4日 (旧暦)|12月4日]]、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ[[金鵄|金色の霊鵄]]があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は[[富雄町|鳥見]]という。長髄彦は磐余彦のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる[[櫛玉饒速日]]([[物部氏]]の遠祖)は[[天津神|天神]]の子で、昔[[天磐船]]に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日のもっている天神の子のしるしを磐余彦に示したが、磐余彦もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。『古事記』によれば天津瑞を献上したという。


'''[[己未]]年'''([[紀元前662年]]:日本書紀による)
'''[[己未]]年'''([[紀元前662年]]:日本書紀による)
: [[2月21日 (旧暦)|2月21日]]、磐余彦は従わない[[新城戸畔]]、[[居勢祝]]、[[猪祝]]を討たせた。また高尾張邑に[[土蜘蛛]]という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を[[葛城]]と称した。
: [[2月21日 (旧暦)|2月21日]]、磐余彦は従わない[[新城戸畔]]、[[居勢祝]]、[[猪祝]]を討たせた。また高尾張邑に[[土蜘蛛]]という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を[[葛城]]と称した。


: [[3月7日 (旧暦)|3月7日]]以降、[[畝傍山]]の東南[[橿原]]の地に都をつくらせる。
: [[3月7日 (旧暦)|3月7日]]以降、[[畝傍山]]の東南[[橿原]]の地に都をつくらせる。


'''[[庚申]]年'''([[紀元前661年]]:日本書紀による)
'''[[庚申]]年'''([[紀元前661年]]:日本書紀による)
: [[8月16日 (旧暦)|8月16日]]、[[事代主]](『古事記』では[[大物主]])の娘の[[媛蹈鞴五十鈴媛]]を正妃とした。
: [[8月16日 (旧暦)|8月16日]]、[[事代主]](『古事記』では[[大物主]])の娘の[[媛蹈鞴五十鈴媛]]を正妃とした。


'''[[辛酉]]年'''(神武天皇元年、[[紀元前660年]]:日本書紀による)
'''[[辛酉]]年'''(神武天皇元年、[[紀元前660年]]:日本書紀による)
: [[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、磐余彦は[[橿原宮]](伝承地は[[橿原神宮]])に[[践祚|即位]]し(神武天皇)、正妃を[[皇后]]とした。天皇と皇后の間には、[[神八井耳]]と[[神渟名川耳]](のちの[[綏靖天皇]])の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳の誕生はそれ以前となる。
: [[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、磐余彦は[[橿原宮]](伝承地は[[橿原神宮]])に[[践祚|即位]]し(神武天皇)、正妃を[[皇后]]とした。天皇と皇后の間には、[[神八井耳]]と[[神渟名川耳]](のちの[[綏靖天皇]])の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳の誕生はそれ以前となる。


== 諸説 ==
== 諸説 ==

2018年8月9日 (木) 16:28時点における版

神武東征(じんむとうせい)は、磐余彦天照大神の5世孫)が日向[注 1]を発ち、奈良盆地とその周辺を征服して、はじめて天皇位についた(神武天皇)という一連の説話をさす用語。

経過

以下は、特記以外は主に『日本書紀』によって記載する。なお参考として『日本書紀』より換算した西暦を付記するが、考古学的なものではないことに注意。

甲寅紀元前667年:日本書紀による)

この年、日向[注 1]にあった磐余彦は、
天祖の降跡より以逮このかた、今一百七十九万二千四百七十余歳。而るを遼邈なる地、猶未だ王沢にうるおわず。遂にむらに君有り、ふれに長有り、各自さかいを分かちて用て相凌躒せしめつ。抑又はたまた塩土老翁に聞きしに曰く、「東に美地有り、青山よもめぐれり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降れる者有り。」といいき。余おもうに、彼地は必ずまさに以て大業を恢弘し天の下に光宅するに足りぬべし。けだ六合の中心か。の飛び降れる者は、謂うに是饒速日か。何ぞ就きて都なさざらむや。
と言って、東征に出た。
10月5日、磐余彦はみずから諸皇子と水軍をひきいて東征に出発した。出航に関連して、起きよ祭りが残る。速吸の門に至った時、国神珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国(『古事記』では豊国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦菟狭津媛が造った一柱騰宮に招かれもてなされた。この時、磐余彦はして、媛を侍臣の天種子中臣氏の遠祖)とめあわせた。
11月9日筑紫国水門に至った。『古事記』によれば、岡田宮に1年滞在したという。
12月27日安芸国に至り埃宮に居る。『古事記』によれば、多祁理宮に7年滞在したという。

乙卯紀元前666年:日本書紀による)

3月6日吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。なお、『古事記』では滞在期間を8年とする。

丙辰紀元前665年:日本書紀による)

引き続き高島宮に滞在。

丁巳紀元前664年:日本書紀による)

前年に同じ。

戊午紀元前663年:日本書紀による)

2月11日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。
3月10日河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。
4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえ の さか)で磐余彦たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦の兄五瀬は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦はそこから船を出した。
5月8日茅渟山城水門(やまき の みなと)に至った。ここで五瀬の矢傷が重くなり、紀伊国竈山にいたった時に薨じた。なお、『古事記』は崩地を紀国の男の水門とする。
八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)
6月23日名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦の兄稲飯三毛入野は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯は海に入って鋤持神となり、三毛入野は常世郷に去ってしまった。磐余彦は息子の手研耳とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神(『古事記』によれば大熊)の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌が所有していた剣。『古事記』によれば石上神宮に鎮座。)を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。
8月2日菟田県を支配する兄猾弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦は道臣大伴氏の遠祖)を送ってこれを討たせた。なお、『古事記』によれば道臣だけでなく大久米久米氏の祖)もつかわされたという。磐余彦は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。
9月5日、磐余彦は菟田の高倉山に登ると八十梟帥兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦はにくんだ。磐余彦はこの夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。
10月1日、磐余彦は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ兄磯城弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
月岡芳年大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。
12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日のもっている天神の子のしるしを磐余彦に示したが、磐余彦もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。『古事記』によれば天津瑞を献上したという。

己未紀元前662年:日本書紀による)

2月21日、磐余彦は従わない新城戸畔居勢祝猪祝を討たせた。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を葛城と称した。
3月7日以降、畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせる。

庚申紀元前661年:日本書紀による)

8月16日事代主(『古事記』では大物主)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。

辛酉(神武天皇元年、紀元前660年:日本書紀による)

1月1日、磐余彦は橿原宮(伝承地は橿原神宮)に即位し(神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳神渟名川耳(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳の誕生はそれ以前となる。

諸説

神武東征否定説

大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権をヤマト王権が主張する為に説話が形成されたとする説[1]がある。

水銀確保のための東征説

上垣外憲一は、近畿から四国にかけての水銀鉱脈を調べた松田壽男の『丹生の研究 歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)を参考に、神武東征が、水銀朱といった資源が枯渇した一族が経済基盤を求めて、紀ノ川筋の水銀鉱山を押さえ、宇陀の大和鉱山(現在操業停止)に侵入し、大和王権を3世紀後半に確立したものとする[2]。また、崇神天皇の時期に伊勢が大和王権にとって重要になるのも伊勢水銀鉱山(丹生鉱山)ゆえとする[3]

脚注

注釈

  1. ^ a b のちの令制国では、南九州に「日向国」が存在した。しかし、『日本書紀』によれば、「日向国」の名は景行天皇(第12代天皇)の言葉に由来するので、神武東征の時点にはこの「日向」という地名はなかったと考えることもできる。そこで、日向は固有名詞ではなく、単に「に向かっている地」という意か美称であると考えることもできる。

出典

  1. ^ 原島礼二 『神武天皇の誕生』 新人物往来社 1975年
  2. ^ 歴史読本編集部編 『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600400-0 pp.14 - 17.
  3. ^ 同『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 p.21.