兄磯城
兄磯城(えしき)とは、記紀等に伝わる古代日本の人物。大和国磯城(現在の奈良県桜井市あたり)の豪族。『古事記』では「兄師木」と表記されている。弟磯城(おとしき)の兄。
経歴
[編集]『日本書紀』巻第三によると、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこ の すめらみこと、神武天皇)の東征の際に、磐余彦の軍は高倉山に登った。国見丘には八十梟帥(やそたける)軍が構えており、女坂(めさか)に女軍(めいくさ)、男坂(おさか)に男軍(おいくさ)、墨坂(すみさか)に焃炭(おこしずみ)を置いていた(それぞれ現在の大宇陀町上宮奥付近、半坂付近、宇陀市榛原区西方の坂と言われている)。この時、磐余邑(いわれのむら)には兄磯城(えしき)の軍が満ち溢れており、皆要害(ぬみ)の地であり、道路が絶え塞がって、通れるところがなくなっていた[1]。
磐余彦は先に八十梟帥を倒し、道臣命(みちのおみのみこと)に司令して残党を宴饗(とよのあかり=酒宴)にかこつけて騙して皆殺しにした[2]。それから皇師(みいくさ)は磯城彦(しきひこ)を攻めようとして、使者を遣わして、兄磯城を呼び出そうとしたが、応じなかった。そこで八咫烏(やたのからす)を遣わし、このように告げた。
「天神(あまつかみ)の子(みこ)、汝(いまし)を召す。率(いざ)わ、率わ」 (天神の子がお前を呼んでいる、さあ、さあ)訳:宇治谷孟
兄磯城は以下のように答えた。
「天圧神(あめおすのかみ)至(いま)しつと聞きて、吾(あ)が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何(いかに)ぞ烏鳥(からす)の若此(かく)悪(あ)しく鳴く」 (天神が来たと聞いていきどおっている時に、なんで烏がこんなに悪く鳴くのか)訳:宇治谷孟
こう言って、弓を引いて、追い払った。この物語は、兄猾(えうかし)の話と酷似しており、あるいは『書紀』の撰者が両者の伝承を混同してしまった可能性がある。
もしくは、何らかの理由(物語の創作上のルール)により、「同様の話を2回繰り返さなければならなかった」とも考えられる。「兄は逆らい、弟は従う」。「敵を(押機・挟み撃ちで)挟んで殺す」。1回だけならいざ知らず、2回も起こるのは、あまりにも不自然であり、記紀神話には、全てではないにしても、創作部分(架空の作り話)も多く含まれていると考えられる。
八咫烏は、続けて弟磯城の家に行き、彼を従わせることに成功した。
磐余彦は諸将を集めて兄磯城をどうすべきか、と尋ねた。諸将は兄磯城が悪賢い賊であることを指摘し、「まず弟磯城に説得させ、それでも駄目なら兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)兄弟に交渉させ、それでも帰順しなければ、兵をあげてのぞんでも、遅くはないでしょう」と言った。
その後、椎根津彦(しいねつひこ)の計により、菟田川の水を取って墨坂の炭火を消し、女軍を忍坂に派遣して兄磯城軍の精兵をおびき出し、男軍を墨坂から出して挟み撃ちにした。度重なる戦いのため、さすがに磐余彦軍も疲勞困憊していたので、
「楯(たた)並(な)めて 伊那瑳(いなさ)の山の 木(こ)の間ゆも い行(ゆ)き贍(まも)らひ 戦へば 我(われ)はや飢(ゑ)ぬ 嶋(しま)つ鳥(とり) 鵜飼(うかひ)が徒(とも) 今(いま)助(す)けに来(こ)ね」 (伊那瑳の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹が空いた、鵜飼をする仲間達よ。いま、助けに来てくれよ)訳:宇治谷孟
という歌をつくって歌い、士気を高めた。そして、作戦通りに事がすすみ、兄磯城を斬り殺した、という[3]。
これとほぼ同じ歌が、『古事記』に久米歌として収録されている[4]。
そして、磐余彦は、長髄彦との最終決戦へと向かっていった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
- 『日本書紀』(一)、岩波文庫、1994年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本の歴史1 神話から歴史へ』、井上光貞:著、中央公論社、1965年
- 別冊歴史読本「謎の歴史書『古事記』『日本書紀』」歴史の謎シリーズ6、より「古代天皇の謎と問題点」p186 - p187、文:小林敏男、新人物往来社、1986年