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2018年7月28日 (土) 23:59時点における版
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川合 俊一 | |
プロフィール | |
---|---|
生年月日 | 1963年2月3日 |
現年齢 | 61歳 |
出身地 | 日本 新潟県 |
血液型 | A |
瞳の色 | 濃褐色 |
毛髪の色 | 黒髪 |
公称サイズ(2008年9月時点) | |
身長 / 体重 | 195 cm / 100 kg |
BMI | 26.3 |
スリーサイズ | 105 - 89 - 105 cm |
股下 / 身長比 | 104 cm / 53.3 % |
靴のサイズ | 28.5 cm |
活動 | |
デビュー | 1992年 |
ジャンル | タレント、キャスター |
モデル: テンプレート - カテゴリ |
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---|---|---|---|---|
基本情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
生年月日 | 1963年2月3日(61歳) | |||
出身地 | 新潟県糸魚川市 | |||
ラテン文字 | Shunichi Kawai | |||
身長 | 195センチメートル | |||
体重 | 100キログラム | |||
血液型 | A型 |
川合 俊一(かわい しゅんいち、1963年2月3日 - )は、日本の元プロビーチバレー選手、元インドア全日本男子代表主将(ポジションはセンタープレーヤー)。
現職は、日本ビーチバレーボール連盟会長、日本バレーボール協会強化事業本部付顧問[1][2]、NPO法人日本バレーボール・オリンピアンの会理事[3]、トヨタ自動車ビーチバレーボール部ゼネラルマネージャー[4]、ケイブロス代表取締役社長、タレント、バレーボール解説者。ワタナベエンターテインメント所属。
新潟県西頸城郡青海町(現:糸魚川市)出身[5]。8歳から東京都大田区本羽田で育つ[要出典]。明治大学付属中野高等学校、日本体育大学体育学部体育学科卒業[6]。
身長195センチメートル、体重100キログラム。血液型はA型。妻は女優の中野みゆき。湘南ベルマーレビーチバレーチームヘッドコーチの川合庶は実弟。
来歴
父親の勧めで「背がデカくなりそうだから、デカくなるスポーツやろう」と思い、最初はバスケを検討したが、入学した大田区立出雲中学校はバレーボールが強かったので、バレー部に入部したという[7]。
1981年、明大中野高等学校を卒業して日本体育大学に進学。同期には田中直樹もいた。バレーボール部コーチに、川合と同じくセンタープレーヤーだった元全日本の森田淳悟が就任した年でもあった。
1983年、翌年のロサンゼルス・オリンピック出場をかけたアジア選手権決勝(対中国戦[8])に、2セットを先取され後がない状況で途中出場。「一人時間差攻撃」や、当時珍しかった斜めに跳んで空中で相手のブロックを交わす「流れ攻撃」[11]などで[12]、逆転勝利に貢献した[13]。
1985年、日本体育大学を卒業し、富士フイルムに入社。同社の熊田康則、日本鋼管の井上謙(3人とも同学年)と共に「バレーボール界のビッグ3」と言われ[14]、日本男子バレーボール界をリードしていった。この年の神戸ユニバーシアード(8 - 9月)では、7大会ぶりの金メダル獲得に貢献した。秋には同じく斎藤勝監督のもと、ワールドカップにも出場した。
1989年、当時監督の南将之の依頼で全日本の主将に就任。前年のソウルオリンピックで引退するつもりだったが、それまでバレー人生でキャプテンを一度もやったことがなかったこともあり、翻意したという[15]。
1990年3月、富士フイルムを退社し、インドアバレーボールから引退。プロビーチバレーボール選手として世界各地のツアーに参戦する(1987年には第1回ビーチバレージャパンで前述の熊田とのペアで優勝していた)[6][16]。スポーツキャスターとして、1991年から8年間、日本テレビ『独占!!スポーツ情報』のキャスターを担当した。
2007年4月1日付で、日本ビーチバレー連盟会長に就任。
タレント活動の他に湘南ベルマーレスポーツクラブ・ビーチバレーチーム代表を務めている。
2010年11月、日本でのジオパークに指定された、出身地新潟県糸魚川市のジオパーク大使に任命された[5]。
2013年、奄美大島の観光大使に任命された。
2015年6月から放送の東海テレビ制作のテレビドラマ『明日もきっと、おいしいご飯〜銀のスプーン〜』でテレビドラマ初出演を果たす[17]。同年7月よりトヨタ自動車ビーチバレーボール部のゼネラルマネージャーに就任[4]。
人物
全日本では眞鍋政義らも、試合前に川合に髪型のセットを頼んだことがあったという[18]。
警戒心・防犯意識が強く、寝室にスタンガン、3段警棒、木刀、手錠を備えている[19]。また、幼少時に停電が多かった教訓から、自宅の各所に複数の懐中電灯を常備している[20]。
エピソード
バレーボール関連
- 川合がバレーボール選手からタレントになったのは、引退後に大学の後輩である瀬戸山正二とアメリカを旅しながら今後のことを考えていた時に、ロサンゼルスでビーチバレーに出会ったのがきっかけである。帰国後、「面白いから日本で流行らせたい。ならばテレビに出た方が手っ取り早い」と思い、つながりのあるテレビ局に声を掛けた。それからタレント活動を始めていく上で、バラエティー番組からスポーツキャスターなど仕事の幅が広がり、そして今日に至るという。また、引退後は会社(富士フイルム)に残って仕事をすることも出来たのだが、自分自身にサラリーマンは向いていないこと、机一つとっても自分のサイズに合わないなどの理由もあったという。
- 川合が代表を務める湘南ベルマーレスポーツクラブ・ビーチバレーチームでは、テレビでのキャラクターからは想像できないぐらいの「鬼コーチ」ぶりを発揮している。川合が練習に来るという情報を聞くと、怖くてさっさと帰ってしまう選手も存在する。
- バレー中継の解説者を1997年から行っており、当初は手厳しい言葉が多く、特にアジア対決(韓国・中国)においては「負けただけでは許されない」という言葉も飛んでいた。しかし現在、批判は皆無になっており、逆に善戦した試合は褒め称える場面が多くなった。
- バレーボール選手時代を知らない若年層からは、最初からタレント・司会者として認知されることが多いが、それについて川合は「それはそれで嬉しい」と語った。
- D&M社の「KS761」「KS861」など、「川合俊一プロデュース」モデルのバレーボール用の肘・膝サポーターが販売されている。
- ビーチバレーの発展のために、まずは競技のできるビーチの確保が必要だと考え、環境問題やビーチの保護に関心が高い。また、アメリカの元副大統領のゴア氏の映画不都合な真実に感銘を受け、2008年に早稲田大学の講堂に招き講演が実現した。
交友関係
- CHAGE and ASKAのASKAと交流がある。『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのコーナーで、ASKAが川合を次に指名していた。
- 日本体育大学に在籍中、教育実習生として母校・明大中野で、当時中学生の花田勝(元大相撲力士第66代横綱・3代若乃花)を教えていたことがある。
- 俳優松方弘樹には夫婦ともにお世話になっていたといい、出会わなかったら妻(中野みゆき)とも出会わなかっただろうと、訃報を受けた際にブログで述懐している。
その他
- 実家はトンカツ屋を経営している。
- 高校生の進路情報サイトで、母校の明大中野高校の生徒と対談する企画があり、後輩に当たる男子バレー部の生徒に「高校生の時の夢は何でしたか?」と聞かれた際に、「その時はファッションにすごく興味を持っていたのでバレーボール選手をやりながら、ブティックをやれたらいいなと思っていた」と答えている。(2004年、日本ドリコム運営のサイトにて)
- 結婚して間もないころ、夫婦で「ESSE」(扶桑社刊)の表紙を飾ったことがある。
- 学生時代の得意科目は数学であり、問題を解く早さには自信があったという。問題文を読んで出題の意図をつかみ、公式など盛り込むべきポイントをどこで使うかなどシミュレーションしたうえで解くという、論理的思考が後にバレーボールの試合で生きてきたとのことである。
球歴・受賞歴
- 所属チーム履歴
- 大田区立出雲中学校[21]→明治大学付属中野高等学校→日本体育大学→富士フイルム→プロビーチバレーボール
- 全日本代表としての主な国際大会出場歴
- 受賞歴
メディア
レギュラー
- こたえてちょーだい!(フジテレビ系)(2005年8月10日 - 8月19日まで腰部捻挫で入院の休養。代役として、フジテレビの山中秀樹アナウンサー(現・フリー)が務めていた)
- わかってちょーだい!(フジテレビ系)
- 奇跡の扉 TVのチカラ(テレビ朝日系)
- あさパラ!(読売テレビ、関西ローカル)
- みんなのケイバ 司会(東日本フジテレビ系、2008年1月6日 - 2009年12月27日)
- みんなのKEIBA 司会(東日本フジテレビ系、2010年1月10日 - 2010年12月26日)
セミレギュラー・ゲスト
- 邦ちゃんのやまだかつてないテレビ(フジテレビ系、1990年)
- クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!(日本テレビ)
- タモリのボキャブラ天国 (フジテレビ系)
ほか多数
テレビドラマ
- 明日もきっと、おいしいご飯〜銀のスプーン〜(2015年6月 - 、東海テレビ) - 早川 大洋 役
CM
その他の活動
- ケイブロス代表取締役社長
- 日本ビーチバレーボール連盟会長
- 湘南ベルマーレスポーツクラブ・ビーチバレーチーム代表
- 産業能率大学スポーツマネジメント研究所客員研究員
- いきいきスクール - 新潟県立新潟北高等学校にてトークショー(1997年11月12日)
脚注
- ^ 事業本部部員・委員会委員名簿 日本バレーボール協会
- ^ フジテレビ バレーボールワールドカップ2011 レジェンドインタビュー第三回
- ^ 会員情報一覧 NPO法人日本バレーボール・オリンピアンの会
- ^ a b "トヨタ自動車、ビーチバレーボール部を設立 社内の一体感向上と、地域振興や情報発信に積極的に取り組み" (Press release). トヨタ自動車株式会社. 22 July 2015.
- ^ a b 川合さんが大使に ジオパークをPR, 2010年11月27日 10時07分 上越タイムス
- ^ a b c 川合俊一 ホシノドリームズプロジェクト
- ^ SUZUKI presents「極上空間」小さなクルマ、大きな未来。 第140回 ゲスト: 川合俊一×大林素子 - BS朝日 12月21日(土)
- ^ この試合で下した中国も、その後出場権を得て、結果的にはロサンゼルス・オリンピックに出場した。
- ^ gooテレビ番組「スタジオパークからこんにちは」2016年11月11日放送
- ^ TVでた蔵 「スタジオパークからこんにちは」2016年11月11日放送
- ^ この技は他国も真似をし始めたが、膝を痛めやすいために衰退したという[9][10]。
- ^ TVでた蔵 フジテレビ|土曜プレミアム「有名人ギャップ大賞」|2016/01/30(土)放送
- ^ “ここ一番”に強いチームづくり 著名人が語る - NTT西日本 公共・文教・大企業のお客さま
- ^ スポーツナビ “モテ男”川合、ガイチら、男子バレーのイケメンを紹介
- ^ バレーボールワールドカップ2011 - フジテレビ
- ^ 川合庶, 日本のビーチバレーが今後進む道, 2009.03.13 11:17 AM
- ^ “川合俊一、ドラマ初出演で東山紀之に演技相談”. ORICON (2015年5月27日). 2015年5月27日閲覧。
- ^ 2015/08/02(日)放送 | TVでた蔵『ボクらの時代』 2015年8月2日放送
- ^ livedoor ニュース 『誰だって波瀾爆笑』 2009年11月8日放送
- ^ フジテレビ『芸能人こだわり王講座 イケタク』 2010年7月20日放送
- ^ プロフィール 川合 俊一 - K.bros
関連項目
- 新潟県出身の人物一覧
- 日本男子バレーボール代表選手の一覧
- 涙のバレーボール (河合瞬という登場人物がいるバレーボール漫画)
外部リンク
期間 | 司会者 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
1979.4 | 1983.9 | 松永二三男 | ||||
1983.10 | 1987.3 | 小倉淳 | ||||
1987.4 | 1989.3 | 神和住純 | 鷹西美佳 | |||
1989.4 | 1990.3 | 松尾雄治 | ||||
1990.4 | 1992.3 | 関谷亜矢子 | ||||
1992.4 | 1994.3 | 川合俊一 | 関谷亜矢子 | 小野坂昌也 | ||
1994.4 | 1998.9 | 松本志のぶ | ||||
1998.10 | 1999.3 | 藤井恒久 | ||||
1999.4 | 2000.3 | 松本志のぶ | 藤井恒久 | |||
2000.4 | 2000.9 | 長嶋一茂 | 山本真純 |