「島尾ミホ」の版間の差分
Miro-chy66 (会話 | 投稿記録) m →略歴・人物 |
梯久美子氏の著作を大枠に、ミホの生涯について加筆。後日書籍情報を追記する予定 タグ: サイズの大幅な増減 |
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{{Infobox 作家 |
{{Infobox 作家 |
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| name = 島尾 ミホ<br />(しまお みほ) |
| name = 島尾 ミホ<br />(しまお みほ) |
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| caption = <!--画像説明--> |
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| pseudonym = <!--ペンネーム--> |
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| birth_name = 長田 ミホ{{efn|自身では「三保」と漢字を当てることもあった{{sfn|梯|2016|pages=98-100}}。}}(おさだ みほ){{sfn|梯|2016|pages=98-100}} |
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| birth_date = [[1919年]][[10月24日]] |
| birth_date = [[1919年]][[10月24日]] |
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| birth_place = |
| birth_place = 出生地:[[鹿児島県]][[鹿児島市]]{{sfn|梯|2016|pages=98-100}}<br />出身地:鹿児島県[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[瀬戸内町]] [[加計呂麻島]] |
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| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1919|10|24|2007|3|25}} |
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1919|10|24|2007|3|25}} |
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| death_place = [[鹿児島県]][[奄美市]] |
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| resting_place = <!--墓地、埋葬地--> |
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| occupation = [[小説家]] |
| occupation = [[小説家]] |
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| language = <!--著作時の言語--> |
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| nationality = {{JPN}} |
| nationality = {{JPN}} |
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| ethnicity = <!--民族--> |
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| education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> |
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| subject = |
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| alma_mater = <!--出身校、最終学歴--> |
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| movement = |
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| period = [[1959年]] - [[2006年]] |
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| subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)--> |
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| movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> |
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| debut_works = 手記『錯乱の魂から蘇って』(1959年){{sfn|梯|2016|page=654}} |
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| spouse = [[島尾敏雄]](1946年 - 1986年死別) |
| spouse = [[島尾敏雄]](1946年 - 1986年死別) |
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| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)--> |
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| children = [[島尾伸三]](長男)<!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する--> |
| children = 2人:[[島尾伸三]](長男)、島尾マヤ(長女)<!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する--> |
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| relations = [[しまおまほ]](孫)<!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> |
| relations = [[しまおまほ]](孫)<!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> |
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| production = <!--所属--> |
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| influences = <!--影響を受けた作家名--> |
| influences = <!--影響を受けた作家名--> |
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| influenced = <!--影響を与えた作家名--> |
| influenced = <!--影響を与えた作家名--> |
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| awards = [[田村俊子賞]] |
| awards = [[田村俊子賞]](『海辺の生と死』、1975年度){{r|田村俊子賞}} |
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| debut_works = |
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| signature = <!--署名・サイン--> |
| signature = <!--署名・サイン--> |
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| website = <!--本人の公式ウェブサイト--> |
| website = <!--本人の公式ウェブサイト--> |
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| footnotes = <!--脚注・小話--> |
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'''島尾 ミホ'''(しまお みほ、[[1919年]][[10月24日]] - [[2007年]][[3月25日]])は[[日本]]の[[作家]]。[[奄美群島]][[加計呂麻島]]出身。 |
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'''島尾 ミホ'''(しまお みほ、[[1919年]]([[大正]]8年)[[10月24日]]{{sfn|梯|2016|pages=98-100}} - [[2007年]][[3月25日]]<ref name="mainichi170330">{{cite web|url=https://mainichi.jp/articles/20170330/ddl/k46/040/248000c|title=島尾ミホさん 奄美で追悼ミサ 出席者「神秘的な人だった」 /鹿児島|date=2017-03-30|accessdate=2018-12-30|publisher=[[毎日新聞]]|work=地方版}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.oguri.info/notes/post-164/|title=島尾ミホさんの訃報|date=2007-04-01|accessdate=2018-12-30|publisher=小栗康平オフィシャルサイト}}</ref><ref>{{cite web|url=https://imidas.jp/hotkeyperson/detail/P-00-302-07-04-H050.html|title= 島尾ミホ 「死の棘」のモデルとなった作家、死去|date=2007年3月|accessdate=2018-12-30|publisher=イミダス|work=時事用語事典}}</ref>)は、[[奄美群島]]・[[加計呂麻島]]出身の[[日本]]の[[作家]]。[[太平洋戦争]]中、加計呂麻島に駐屯していた第十八[[震洋]]特攻隊隊長の[[島尾敏雄]]と出会い、戦後結婚した後には、彼の代表作『[[死の棘]]』に登場する「妻」のモデルとなった。自身の小説では、『[[海辺の生と死]]』で第15回[[田村俊子賞]](1975年度)を受賞したほか<ref name="田村俊子賞">{{cite web|url=http://prizesworld.com/prizes/novel/tmts.htm|title=田村俊子賞受賞作一覧1-17回|publisher=文学賞の世界|accessdate=2018-12-30}}</ref><ref name="yomiuri170814">{{cite web|url=https://www.yomiuri.co.jp/life/travel/meigen/20170814-OYT8T50001.html|title=島尾敏雄・ミホ「なんとかして御目にかゝらせて…」|date=2017-08-14|accessdate=2018-12-30|author=文・鵜飼哲夫、写真・岩佐譲|publisher=[[読売新聞]]|work=YOMIURI ONLINE}}</ref>、『祭り裏』、短編「その夜」など故郷に題材を取った作品が多い。島尾敏雄との間には2子がおり、長男は写真家の[[島尾伸三]]、そしてその娘(ミホの孫)は漫画家の[[しまおまほ]]である。 |
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夫・[[島尾敏雄]]の代表作『[[死の棘]]』に登場する「妻」のモデル。『[[海辺の生と死]]』で[[田村俊子賞]]を受賞。他に『祭り裏』、短編「その夜」など故郷に題材を取った作品が多い。 |
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== 略歴・人物 == |
== 略歴・人物 == |
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=== 生い立ち === |
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鹿児島県鹿児島市生まれ。警察官の長田實一の長女として生まれる。2歳頃、奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)の[[按司|島長(しまおさ]])で祭事を司る「[[ノロ]]」の家系の大平文一郎(ミホの母方の伯父)の養女となる。戸籍上は出生時と同じ、長田ミホ。養父の意向で、成人してから大平家を嗣ぐかミホに決めさせたいとの思いで、未入籍。島尾と結婚するまで長田姓であった。巫女として育てられたという評論が長く浸透していたが、それは作品のイメージのためのもので、幼児洗礼を受けたクリスチャンである。東京の実父の元で女学校を卒業後就職、のちに島で小学校の[[代用教員]]を務める。加計呂麻には日本の「海軍[[特別攻撃隊]]」(特攻隊)の基地があり、[[日本海軍|海軍]]の[[震洋]]特攻隊長として島へ赴任してきた島尾敏雄と知り合う。その頃は大戦末期であり[[沖縄戦]]は終わり陥落していた。日本の敗色も濃かったが、戦時下の本土決戦を目前にし、軍人はどこでも大切に扱われる。聡明篤実な[[海軍士官]]であった島尾中尉は、島の人らから「隊長さま」と慕われた。島尾とは戦後の[[1946年]]に結婚。ミホは後々まで、[[軍服 (大日本帝国海軍)#第2種軍装|白い海軍の正装姿]]の若き日の敏雄・「隊長さま」の写真を、大切に自室に掲げた。「トシオはただの人。でも、『隊長さま』は、神さまでした」とミホは述懐する([[小栗康平]]談『御跡慕いて』 新潮2006年9月号参考)。 |
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ミホは[[1919年]]([[大正]]8年)[[10月24日]]に、長田實之(おさだ さねゆき)・マス夫妻の長女として、[[警察官]]だった父の任地、[[鹿児島県]][[鹿児島市]]で生まれた{{sfn|梯|2016|pages=98-100}}。長田夫妻はどちらも奄美出身で、實之はユカリッチュ(琉球時代に奄美へ派遣された支配者階級)・[[ノロ]]の家系に生まれていたほか{{sfn|梯|2016|page=110}}、マスの家系からは勝手世運動の中心となった[[丸田南里]]や<ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/area/kagoshima/articles/MTW20180213470490012.html|title=離島編7 奄美大島 黒糖地獄の中の英雄|date=2017-09-14|accessdate=2018-12-30|publisher=[[朝日新聞]]}}</ref>[[西郷隆盛]]の妻・[[愛加那]]が出ていた{{sfn|梯|2016|pages=132, 650}}。またマスは熱心な[[カトリック]]信者の家系で、ミホも生後1週間で幼児洗礼を受けている{{sfn|梯|2016|pages=98-100}}。ミホは生後1ヶ月で母マスに連れられて[[奄美大島]]に渡ったが、マスはすぐに病死し、1歳上の兄と共に、[[龍郷町]]瀬留で叔母(マスの妹)に育てられた{{sfn|梯|2016|pages=98-100}}。 |
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ミホは満2歳で、[[加計呂麻島]]・押角(おしかく)の大平文一郎・吉鶴夫妻の養女となった{{sfn|梯|2016|pages=98-100}}。養母・吉鶴(きちづる)は実父・實之の姉で、夫妻の間に実子が生まれなかったことから、弟夫婦の子を養子にもらえないか掛け合っていた{{sfn|梯|2016|pages=98-100}}。養女になった後も、大平家の籍には入らず長田姓のままだったが、これは成人してからミホ本人に選ばせようという養父・文一郎の意向であった(結局島尾敏雄と結婚するまで長田姓であった){{sfn|梯|2016|pages=98-100}}。ミホによれば大平家は[[南山王国|南山王]]に繋がる血筋であり、ミホの伝記({{harvnb|梯|2016}})を書いた[[梯久美子]]の調査によれば、大平家は[[奄美群島の歴史#琉球時代|喜志統親方]]の末裔で、押角地区の[[与人]]と[[ノロ]]を兼ねた有力者であった{{sfn|梯|2016|pages=124-125}}{{sfn|梯|2016|pages=614-615}}。実際大平夫妻は、押角地区で「ウンジュ」「アシェ」(母の意味)と呼ばれて特別に慕われていたという{{sfn|梯|2016|pages=121-122}}。巫女として育てられたという評論が長く浸透していたが、梯はミホが幼児洗礼を受けたクリスチャンであることから、作品のイメージのためだと指摘している<ref>{{cite web|url=https://www.sankei.com/life/news/161128/lif1611280009-n2.html|title=梯久美子さん「狂うひと」 島尾ミホの評伝 「死の棘」をめぐる夫婦の壮絶な闘い|date=2016-11-28|accessdate=2018-12-30|publisher=[[産経新聞]]|page=2}}</ref>。 |
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[[アレクサンドル・ソクーロフ]]監督の映画『ドルチェ-優しく』(2000)に主演した。島尾敏雄の間に息子の[[島尾伸三]](写真家)と娘の島尾マヤ(1950年 - 2002年)がいる。[[1986年]]11月に島尾敏雄が死去。その後は[[喪服]]を常に着続けた。 |
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ミホは[[1932年]]([[昭和]]7年)に押角[[尋常小学校]](後の[[鹿児島県小学校の廃校一覧#瀬戸内町|瀬戸内町立押角小学校]])を卒業後、日出高等女学校(現:[[日出中学校・高等学校]])に進学した{{sfn|梯|2016|page=136}}。この際、実母の死後東京に出ていた実父・實之を頼り、實之が経営していた[[万世橋]]の大衆料理店の2階で兄と共に暮らした{{sfn|梯|2016|page=137}}。郷里の養父・文一郎や、一時期ミホを育てていた叔母(実母の妹)から多額の仕送りがあったが、それらは實之が管理しており、毎月ぎりぎりの額を實之が住む[[神田 (千代田区)|神田]]まで取りに行く生活だったという{{sfn|梯|2016|page=146}}。また東京では長田姓を名乗っていた{{sfn|梯|2016|page=111}}。高等女学校5年次からは、兄の入隊と父の奄美帰りが重なり、親戚宅に移って生活した{{sfn|梯|2016|page=149-150}}。[[1937年]](昭和12年)に日出高等女学校を卒業後は、[[植物学者]]の[[北島君三]]の元で働き始め、同時に[[馬術]]や自動車の運転などを習うようになった{{sfn|梯|2016|page=149-150}}。翌1938年には、婚約者だった従兄を頼って、兄と共に[[朝鮮半島]]へ渡っている{{sfn|梯|2016|page=150-151, 153-154}}。その後、従兄の召集に伴い婚約は破談となり、ミホ自身も[[肺炎]]を患ったことがきっかけで、東京を引き上げて加計呂麻島に帰る選択をする(1938年){{sfn|梯|2016|page=150-151, 153-154}}。 |
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[[2007年]][[3月25日]]、[[脳内出血]]のため[[奄美市]]の自宅で死去。3月27日午前10時、独居のため、孫の[[しまおまほ]](文筆家・漫画家)によって発見された。[[享年]]89(満87歳没)。 |
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=== 島尾敏雄との出会い === |
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加計呂麻島に帰ってきたミホは、青年団の活動に参加するなどの例外を除けば、ほとんど何もせずに家で過ごしていたという{{sfn|梯|2016|page=150-151, 153-154}}。その後徴用逃れで半年ほど押角郵便局に勤め、1944年(昭和19年)11月に押角[[国民学校]]の[[代用教員]]となった{{sfn|梯|2016|page=150-151, 153-154}}。この直前の1944年7月には、養母・吉鶴が貝採り中に磯で亡くなっていた{{sfn|梯|2016|page=136}}。 |
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{{external media|image1={{cite web|url=https://www.nikkei.com/photo/special/article/?ng=DGXZZO90538470U5A810C1000000|title=文学周遊 島尾敏雄「その夏の今は」|publisher=[[日本経済新聞]]|accessdate=2018-12-30}}}} |
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[[File:Shimao-Toshio.png|thumb|1944年頃の島尾敏雄]] |
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加計呂麻には日本の「海軍[[特別攻撃隊]]」(特攻隊)の基地があり、ここへ[[大日本帝国海軍]]の[[震洋]]特攻隊長として1944年(昭和19年)11月に赴任してきたのが[[島尾敏雄]]であった{{sfn|梯|2016|page=40}}<ref>{{cite web|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/865007/|publisher=[[新潮社]]|accessdate=2018-12-30|title=島尾敏雄 『魚雷艇学生』}}</ref>。ふたりが初めて出会ったのは、ミホによれば1944年12月のことであった{{sfn|梯|2016|pages=61-64}}。その後、[[九州帝国大学]]文科を卒業していた敏雄が、大平家の蔵書を度々借りに来たことで交流が始まった{{sfn|梯|2016|pages=61-64}}{{r|373news150910}}。敏雄が赴任した頃には[[太平洋戦争]]は既に末期であり、赴任翌年の1945年には[[沖縄戦]]が激化して[[沖縄戦における集団自決|集団自決]]も起き始めていた。日本の敗色も濃かったが、戦時下の本土決戦を目前にして軍人はどこでも大切に扱われる時代でもあった。特攻隊である敏雄の隊が応戦することは無かったが、押角・呑之浦は空襲被害が少なかったこともあり、これらの集落では、敏雄をはじめとした島尾隊に守られているといった考えが広まっていた{{sfn|梯|2016|pages=45-47}}。敏雄は「隊長さま」と慕われ、部隊の施設があった場所は、戦後でも「シマオタイチョウ」と呼ばれるほどだったという{{sfn|梯|2016|pages=45-47}}。ミホは後々まで、[[軍服 (大日本帝国海軍)#第2種軍装|白い海軍の正装姿]]の若き日の敏雄・「隊長さま」の写真を、大切に自室に掲げた。「トシオはただの人。でも、『隊長さま』は、神さまでした」とミホは述懐している([[小栗康平]]談『御跡慕いて』 新潮2006年9月号参考)。 |
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ミホと敏雄は文通や部隊近くの浜辺での逢い引きを重ねるようになり、戦況が悪化して集落の人々が夜を疎開小屋で明かすようになってからは、文一郎をその小屋へ送り、大平家で夜を過ごすこともあった{{sfn|梯|2016|page=183}}。また終戦間近には、昼間から文一郎を小屋へ送ることもあったという{{sfn|梯|2016|page=183}}。敏雄に出撃命令が出た後、ミホは集落の集団自決には加わらず、浜で敏雄の出撃を見送ってから[[短剣]]で自決しようと考えていたが、結局出撃は行われないまま終戦を迎えた{{sfn|梯|2016|pages=192-194}}<ref name="373news150910">{{cite web|url=https://373news.com/_life/go_out/amami/20150910.php|title=海辺の愛と死~ミホとトシオの物語~|work=奄美なひととき|publisher=[[南日本新聞社]]|accessdate=2018-12-31|author=みたけきみこ|date=2015-09-10}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.sagatv.co.jp/document_q/%E6%AF%8D%E3%81%AE%E7%89%B9%E6%94%BB%EF%BD%9E%E6%AD%BB%E3%82%92%E8%A6%9A%E6%82%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E5%B3%B6%E5%B0%BE%E3%83%9F%E3%83%9B%E3%81%AE%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%93%E6%97%A5%EF%BD%9E/|title=母の特攻~死を覚悟した島尾ミホの8月13日~|work=ドキュメント九州|publisher=[[サガテレビ]]|date=2016-08-13|accessdate=2018-12-31}}</ref>。この時ミホが敏雄に宛てて出した手紙が以下の通りである。 |
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{{quotation|北門の側まで来てゐます。ついてはいけないでせうか。御目にかゝらせて下さい、御目にかゝらせて下さい、なんとかして御目にかゝらせて下さい、決して取乱したりいたしません。<br /> 八月十三日真夜 ミホ<br />敏雄様|大平ミホ、1945年8月13日{{sfn|梯|2016|pages=192-194}}}} |
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=== 結婚 === |
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敏雄は[[復員]]前の8月30日に文一郎へ結婚の申込みをし、手はずを整えるため実家のある[[神戸]]に向かった{{sfn|梯|2016|pages=213-214}}。ミホは11月下旬になってから闇船で奄美を出て、約1ヶ月をかけて鹿児島に向かった{{sfn|梯|2016|pages=220-221}}。敏雄と再会したのは翌1946年の1月になってからで、この間に実父・實之が亡くなっている(1946年1月){{sfn|梯|2016|pages=147, 222}}。ミホと敏雄は、それぞれ26歳・28歳だった[[1946年]](昭和21年)[[3月10日]]に神戸で結婚し、当初は敏雄の実家で生活した{{sfn|梯|2016|pages=224-225}}{{r|研究会p202}}<ref>{{cite journal|url=https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/16005/KJ00005484039.pdf|format=PDF|accessdate=2018-12-30|website=九州大学学術情報リポジトリ|title=一対の夫婦のカタルシス : ミホの周縁から|last=伊東|first=孝子|doi=0.15017/16005|journal=Comparatio|volume=5|<!--pages=130-140-->page=134|date=2001-03-20|publisher=九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会}}</ref>。1948年(昭和23年)7月には長男・[[島尾伸三|伸三]](写真家)、1950年(昭和25年)4月には長女・マヤが生まれた<ref>{{cite web|url=http://www.osiris.co.jp/mahochan.html|title=島尾伸三『まほちゃん』|publisher=OSIRIS|accessdate=2018-12-30}}</ref>{{sfn|梯|2016|pages=652-653}}。マヤが生まれる直前の1950年2月には、養父・文一郎が加計呂麻で死去した{{sfn|梯|2016|page=254}}。1949年頃には、ミホが[[久坂葉子]]と敏雄との関係を疑い、夫婦仲が険悪になっていた時期もあった{{sfn|梯|2016|page=255}}。 |
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=== 『死の棘』の妻として === |
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1952年9月、島尾家は上京し、[[江戸川区]][[小岩町]]に家を構える{{sfn|梯|2016|pages=257, 652-653}}<ref>{{cite web|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/116405/|publisher=新潮社|accessdate=2018-12-30|title=島尾敏雄 『「死の棘」日記』}}</ref><ref>{{cite web|url=http://odaka-kanko.jp/c-ijin/index06.html|title=島尾敏雄|publisher=小高観光協会|accessdate=2018-12-30}}</ref><ref name="研究会p202">{{harvtxt|奄美・島尾敏雄研究会(編集)|2005|page=202}}、[https://books.google.co.jp/books?id=hzUzeHUKimAC&pg=PA202&lpg=PA202 Googleブックス]({{accessdate|2018-12-30}})</ref>。同時期に敏雄は旗揚げ直後の文学サークル「現代の会」に加わり、ここで『死の棘』に登場する「あいつ」に相当する女性(ここではXと称する)と知り合った{{sfn|梯|2016|pages=267, 271}}。ミホは家計を支えるため、造花作りの内職をしたり、敏雄の師だった[[若杉慧]]の妻が営むバーで働いたこともあった{{sfn|梯|2016|pages=317, 368-369}}。 |
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1954年9月29日、ミホは敏雄の日記にあったXに関する17文字の記述を読んで錯乱し、敏雄を責め続けるようになる{{sfn|梯|2016|pages=311, 319, 321}}。ミホは翌1955年の1月から3月にかけて[[慶應義塾大学病院]]に入院したがほとんど効果は無く、ミホがXからの脅迫文を恐れたことから、島尾家はこの年の4月に[[千葉県]][[佐倉市]]へ転居する{{sfn|梯|2016|pages=334, 399}}<ref name="市川市展覧会170309">{{cite web|url=http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/bunpla_05simao.html|title=【終了しました】昭和の市川に暮らした作家 島尾 敏雄|date=2017-03-09|accessdate=2018-12-30|publisher=[[市川市]]}}</ref>。当初は精神分裂病(現:[[統合失調症]])が疑われたが、結局[[心因性反応]]という診断が付いての慶應病院入院となった{{sfn|梯|2016|page=425}}{{r|373news150910}}。この頃の島尾家は、ミホがXのことで敏雄を責め、敏雄の側も狂言自殺を図る有様であった{{sfn|梯|2016|page=354}}。佐倉に引っ越した数日後には、Xが文学仲間からの見舞金を集めて島尾家を訪れ、ミホとの乱闘騒ぎになる{{sfn|梯|2016|page=373}}。Xとの乱闘騒ぎがあった後、ミホは[[市川市]][[国府台 (市川市)|国府台]]にあった国立国府台病院(現:[[国立国際医療研究センター|国立国際医療研究センター国府台病院]])を受診し、1955年6月から10月にかけて、敏雄と共に4ヶ月半ほど入院する{{sfn|梯|2016|pages=400-403}}<ref name="奄美の人と文学p167">{{cite book|和書|url=https://books.google.co.jp/books?id=Ir3pSnhU4BoC&pg=PA167&lpg=PA167|page=167|accessdate=2018-12-30|title=奄美の人と文学|author=茂山忠茂|author2=秋元有子|publisher=図書出版 南方新社|year=2008|isbn=9784861241307}}</ref>。退院後は、入院中に奄美へ預けた子どもたちを追う形で、[[奄美大島]]の[[名瀬市]](現:[[奄美市]])へ移住した{{r|奄美の人と文学p167}}{{sfn|梯|2016|page=441}}。なお、入院直前までの騒ぎを敏雄が[[私小説]]に仕立てたのが、彼の代表作でもある『[[死の棘]]』である<ref>{{cite book|和書|url=https://books.google.co.jp/books?id=Yi1fNAosA1oC&pg=PA50&lpg=PA50|accessdate=2018-12-30|pages=47-50|title=乱読すれど乱心せず: ヤスケンがえらぶ名作50選|author=[[安原顯]]|publisher=[[春風社]]|year=2003|isbn=4921146675}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n242/n242_04.html|title=『死の棘』 島尾敏雄著|work=文学にみる障害者像|author=大津留直|publisher=障害保健福祉研究情報システム(DINF)|accessdate=2018-12-31}}</ref>。 |
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=== 奄美移住から後 === |
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名瀬への移住後、1956年12月に、敏雄は伸三・マヤと揃って[[洗礼]]を受けた{{sfn|梯|2016|page=460}}<ref>{{cite web|url=https://www.city.minamisoma.lg.jp/portal/sections/61/6180/61804/study/1975.html|title=島尾敏雄年譜|date=2018-12-25|accessdate=2018-12-30|publisher=[[南相馬市]]}}</ref>。直後の1957年1月に夫妻は加計呂麻島を訪れ、この年ミホは初の小説『妻よ再びわれに』を執筆している(未投稿となった){{sfn|梯|2016|pages=462-463, 472}}。移住後には、マヤが足の[[麻痺]]と[[失語症]](発話障害)を発症し、あちこちの病院を受診させている{{sfn|小林|2012|pages=2, 7-8}}{{sfn|梯|2016|pages=629-630}}。1959年には『[[婦人公論]]』に手記『錯乱の魂から蘇って』を寄せ、実質的な文壇デビューとなる{{sfn|梯|2016|page=654}}。 |
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ミホは1969年から1973年にかけて、同人誌『カンナ』に短編を投稿し、これに書き下ろし3作を加えて出版されたのが、『[[海辺の生と死]]』(1974年)であった{{sfn|梯|2016|page=474}}。この作品でミホは第15回[[田村俊子賞]](1975年度)を受賞した{{r|田村俊子賞|yomiuri170814}}。ふたりの子どもは九州へ進学し、1975年、島尾夫妻は[[指宿市]]へと転居する{{sfn|梯|2016|page=548}}。2年後には、マヤを伴って[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]へと移った(1983年まで在住){{sfn|梯|2016|page=548}}。1980年に敏雄が[[日本芸術院賞]]を受賞した際には、気乗りしなかった夫に代わって授賞式に代理出席した{{sfn|梯|2016|page=565}}。1983年には、マヤと共に家族3人で[[加治木町]](現:[[姶良市]])へ移り、同年の内に[[鹿児島市]][[吉野 (鹿児島市)|吉野町]]へ、更には翌年末に同市内[[宇宿 (鹿児島市)|宇宿町]]へと転居を繰り返した{{sfn|梯|2016|pages=573-574}}。同じ頃、『[[海 (雑誌)|海]]』に長編小説『海嘯』を連載していたが、1984年の雑誌休刊後、未完のまま放置されることになった(結局そのまま2015年に刊行){{sfn|梯|2016|pages=585}}。敏雄は[[1986年]](昭和61年)[[11月12日]]に、[[出血性脳梗塞]]のため[[鹿児島市立病院]]で死去したが{{sfn|梯|2016|pages=573-574}}<ref>{{cite web|url=https://www.sankei.com/region/news/171114/rgn1711140013-n1.html|title=生誕100年「語り継ぐ」 島尾敏雄命日に奄美で式典|date=2017-11-14|accessdate=2018-12-31|publisher=[[産経新聞]]}}</ref><ref>{{cite web|url=https://mainichi.jp/articles/20161027/k00/00m/040/010000c|title=「死の棘」創作の日常に迫る 鹿児島|date=2016-10-26|accessdate=2018-12-31|publisher=毎日新聞}}</ref>、ミホはこの後[[喪服]]で通したという{{r|mainichi170330}}<ref>{{cite web|url=https://honz.jp/articles/-/43525|title=『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』あの事件の真相が語られる?! |date=2016-11-16|accessdate=2018-12-31|publisher=honz.jp|author=東えりか}}</ref>。 |
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=== 敏雄の死後、晩年 === |
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[[File:Shimao-bungakuhi.jpg|thumb|1987年に設置された島尾敏雄文学記念碑(瀬戸内町)]] |
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1987年8月、ミホは連載をまとめて[[中央公論新社]]から短編集『祭り裏』を出版する<ref>{{cite web|url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784120016035|title=祭り裏|publisher=[[紀伊國屋書店]]|accessdate=2018-12-30}}</ref>。その後は敏雄の死後発刊された書籍や研究所に解説を寄せたり、『[[死の棘#「死の棘」日記|「死の棘」日記]]』として敏雄の日記の編集・公開にも協力した(1999年と2002年に連載後、2005年に書籍化){{sfn|梯|2016|page=588-589}}。梯久美子は、『「死の棘」日記』で、ミホの言説やXに関する記述が度々削除・編集されていることを指摘し、「絶対的な夫婦愛は、ミホが作り上げようとした神話だった」と述べている{{sfn|梯|2016|page=595-598, 601}}。ミホはこれに並行して、「『死の棘』の妻の場合」と題した文章を執筆しているが、これは結局未完・未発表となった{{sfn|梯|2016|page=592}}。生前の発表は、敏雄の死後3年で書いた『震洋搭乗』がまずあり{{sfn|梯|2016|pages=614-615}}、敏雄との結婚のために闇船を探した体験を基にした『[[新潮]]』平成18年9月号の「御跡慕いて—嵐の海へ」が最後となった{{sfn|梯|2016|pages=607-608}}。 |
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{{external media|video1={{YouTube|7FV02KtczaA|死の棘(予告)}} - 1990年の映画作品の予告編}} |
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敏雄による私小説『死の棘』は、[[1990年]]に[[小栗康平]]監督、[[松坂慶子]]・[[岸部一徳]]主演で映画化され<ref>{{cite web|url=http://www.oguri.info/movies/shinotoge/|title=死の棘|publisher=小栗康平オフィシャルサイト ─OGURI.info|accessdate=2018-12-31}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.twellv.co.jp/event/getsuyou-sp/015.html|title=死の棘 - 銀幕の大女優 BS12人の女|accessdate=2018-12-31|publisher=BSトゥエルビ}}</ref><ref>{{cite web|url=https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12180-126391/|title=岸部一徳 『死の棘』で知った“棒読み”を生かす芝居哲学|date=2018-11-17|publisher=@niftyニュース|accessdate=2018-12-31|author=NEWSポストセブン}}</ref>、[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを受賞するなど高い評価を得た<ref>{{cite web|url=https://www.cinematoday.jp/sp/tiff/2015/A0004732|title=日本映画を担う3人の監督たち<後編>世界の映画祭を総なめ! 巨匠、10年ぶりの新作で初のTIFF|date=2015-10-13|accessdate=2018-12-31|publisher=[[シネマトゥデイ]]}}</ref>。1992年にはマヤを呼び寄せて奄美大島・名瀬へ再移住した{{sfn|梯|2016|pages=621-622}}。毎年8月13日になると、戦時中に敏雄の出撃を見送るため夜を明かした呑之浦を訪れたという{{sfn|梯|2016|pages=621-622}}。 |
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1999年、ミホは娘マヤと共に、[[アレクサンドル・ソクーロフ]]監督の映画『[[ドルチェ 優しく]]』に主演した{{r|373news150910}}<ref>{{cite web|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b263564.html|title=ドルチェ-優しく|publisher=[[岩波書店]]|accessdate=2018-12-31}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.yidff.jp/2009/cat079/09c085-1.html|title=ドルチェ ― 優しく|publisher=山形国際ドキュメンタリー映画祭|accessdate=2018-12-31}}</ref>。この作品は[[第57回ヴェネツィア国際映画祭]]の招待作品となった{{sfn|梯|2016|page=627}}<ref>{{cite web|url=https://www.imdb.com/title/tt0263277/releaseinfo/|title=Dolce...(2000) - Release Info|accessdate=2018-12-31|publisher=[[IMDb]]}}<!--これ以外見つからなかったので--></ref>。この作品にも出演したマヤは、2002年8月3日に52歳で亡くなった<ref>{{cite web|url=http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20020805000669|title=島尾マヤさん死去/作家故島尾敏雄氏の長女|date=2002-08-05|publisher=[[四国新聞社]]|accessdate=2018-12-31}}</ref>。 |
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[[2007年]][[3月25日]]、[[脳内出血]]のため[[奄美市]]の自宅で死去{{sfn|梯|2016|pages=632-633}}{{r|373news150910}}。独居のため、孫の[[しまおまほ]](文筆家・漫画家)によって発見されたのは3月27日午前10時頃であった{{sfn|梯|2016|pages=632-633}}。[[享年]]89(満87歳没)<!--{{没年齢|1919|10|24|2007|3|25}} -->。墓はミホの希望により、島尾敏雄文学記念碑の奥にあり、分骨された敏雄の遺骨、またマヤと共に納められている{{sfn|梯|2016|pages=621-622}}。 |
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=== 没後 === |
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{{external media|video1={{YouTube|wi23Xq2SZBg|映画『海辺の生と死』予告篇 - スターサンズインフォ}}}} |
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ミホの没後、[[幻戯書房]]から未完の小説『海嘯』(2015年)とエッセイ集『愛の棘』(2016年)が発売された{{r|373news150910}}<ref name="dotplace170804">{{cite web|url=http://dotplace.jp/archives/28611|title=映画『海辺の生と死』越川道夫監督インタビュー〈前編〉|accessdate=2018-12-31|publisher=DotPlace|author=小林英治|date=2017-08-04}}</ref><ref>{{cite web|url=https://genkishobo.exblog.jp/23209245/|title=島尾ミホエッセイ集『愛の棘』装幀確定 |date=2016-06-09|publisher=Exciteブログ|author=幻戯書房News|accessdate=2018-12-31}}</ref><ref>{{cite web|url=https://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2016092900079.html|title=愛の棘 島尾ミホ著|date=2016-09-29|publisher=[[AERA]]|work=[[週刊朝日]]|author=西條博子|accessdate=2018-12-31}}</ref>。『海嘯』の解説は孫・しまおまほが担当した<ref>{{cite web|url=https://ja-jp.facebook.com/permalink.php?story_fbid=689943367880209&id=338575699683646|title=しまおまほさんには、島尾ミホ『海嘯』(幻戯書房)の解説を執筆していただいています。撮影は…ですね。|publisher=[[Facebook]]|author=[[幻戯書房]]|date=2017-07-22|accessdate=2018-12-31}}</ref>。敏雄の[[鹿児島県立図書館]]奄美分館長時代に島尾家が暮らした宿舎は、島尾夫妻の資料館として不定期開館している{{r|373news150910}}。2016年には[[梯久美子]]による伝記『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』([[新潮社]])が刊行され({{harvnb|梯|2016}})、第67回[[芸術選奨文部科学大臣賞]]評論等部門<ref>{{cite web|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08H7C_Y7A300C1CR8000/|title=庵野監督ら大臣賞 16年度の芸術選奨発表|date=2017-03-08|accessdate=2018-12-31|publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2017030801.pdf|date=2017-03-08|publisher=[[文化庁]]|format=PDF|title=平成28年度(第67回)芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定について|accessdate=2018-12-31}}</ref>、第39回[[講談社ノンフィクション賞]]<ref>{{cite web|url=https://www.bookbang.jp/article/535408|title=講談社3賞が決定 ノンフィクション賞に梯久美子さん、エッセイ賞に小泉今日子さん、科学出版賞に中川毅さん|accessdate=2018-12-31|date=2017-07-21|publisher=Book Bang}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2017.7.20.new.pdf|date=2017-07-20|accessdate=2018-12-31|format=PDF|publisher=[[講談社]]|title=第39回「講談社ノンフィクション賞」/第33回「講談社エッセイ賞」/第33回「講談社科学出版賞」決定のお知らせ}}</ref>、第68回[[読売文学賞]]評論・伝記賞を受賞した<ref>{{cite web|url=https://info.yomiuri.co.jp/contest/clspgl/detail/2363.html|title=第68回読売文学賞(2016年度)の受賞作と選評|accessdate=2018-12-31|publisher=[[読売新聞]]|date=2017-02-01}}</ref><ref>{{cite web|url=https://dokushojin.com/article.html?i=905|title=第68回読売文学賞贈賞式 開催される|date=2017-02-24|accessdate=2018-12-31|publisher=週刊 読書人ウェブ}}</ref><ref>{{cite web|url=https://dokushojin.com/article.html?i=972|title=第68回読売文学賞贈賞式|date=2017-03-07|accessdate=2018-12-31|publisher=週刊 読書人ウェブ}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.shinchosha.co.jp/news/article/644/|title=梯久美子『狂うひと』講談社ノンフィクション賞受賞!|accessdate=2018-12-31|publisher=[[新潮社]]}}</ref>。2017年には、ミホの同名小説を原案に、[[越川道夫]]監督の『[[海辺の生と死 (映画)|海辺の生と死]]』が制作され、[[満島ひかり]]がミホに相当するトエ役を演じた{{r|dotplace170804}}。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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*『[[海辺の生と死]]』創樹社 1974、[[中公文庫]] 1987 改版2013 |
*『[[海辺の生と死]]』創樹社 1974、[[中公文庫]] 1987 改版2013 |
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*『祭り裏』中央公論社 1987 |
*『祭り裏』中央公論社 1987 |
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*『海嘯』幻戯書房・銀河叢書 2015 |
*『海嘯』幻戯書房・銀河叢書 2015<!--https://books.google.co.jp/books/about/%E6%B5%B7%E5%98%AF.html?id=9SAPswEACAAJ&redir_esc=y--> |
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*『愛の棘 島尾ミホエッセイ集』幻戯書房 2016 |
*『愛の棘 島尾ミホエッセイ集』幻戯書房 2016 |
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===伝記=== |
===伝記=== |
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*[[梯久美子]]『狂うひと |
*[[梯久美子]]『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』新潮社 2016 |
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*『検証 島尾敏雄の世界』島尾伸三・[[志村有弘]]編、勉誠出版 2010 |
*『検証 島尾敏雄の世界』島尾伸三・[[志村有弘]]編、勉誠出版 2010 |
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*比嘉加津夫『島尾敏雄 言視舎評伝選』言視舎 2016 |
*比嘉加津夫『島尾敏雄 言視舎評伝選』言視舎 2016 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[小栗康平]] |
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* [[吉増剛造]] |
* [[吉増剛造]] |
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* [[ノロ]] - [[奄美]]・[[琉球]]地方の[[巫女]]・女性[[神官|祭司]] |
* [[ノロ]] - [[奄美]]・[[琉球]]地方の[[巫女]]・女性[[神官|祭司]] |
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* [[海辺の生と死 (映画)]] - 島尾の同名小説を原案にした2017年の映画。[[満島ひかり]]がミホに相当するトエ役を演じた。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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=== 参考文献 === |
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* {{cite book|和書|title=狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/477402/|publisher=[[新潮社]]|last=梯|first=久美子|authorlink=梯久美子|isbn=978-4-10-477402-9|date=2016-10-30|year=2016|ref=harv}} |
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* {{cite book|和書|url=https://books.google.co.jp/books?id=hzUzeHUKimAC|accessdate=2018-12-30|title=追想 島尾敏雄: 奄美沖縄鹿児島|editor=奄美・島尾敏雄研究会(編集)|publisher=図書出版 南方新社|year=2005|isbn=4861240727|ref=harv}} |
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* {{cite journal|publisher=[[駒澤大学]]学術機関リポジトリ|title=島尾敏雄『マホを辿って』へ至る過程―「深ぶかとした暗黒の未知の時の姿」を巡って―|url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33195/rns006-01-kobayashiosamu.pdf|accessdate=2018-12-30|format=PDF|last=小林|first=治|date=2012-09-24|year=2012|ref=harv}} |
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{{Normdaten}} |
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[[Category:日本の小説家]] |
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[[Category:日本の初等教育の教員]] |
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2018年12月30日 (日) 17:02時点における版
島尾 ミホ (しまお みほ) | |
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誕生 |
長田 ミホ[注釈 1](おさだ みほ)[1] 1919年10月24日 出生地:鹿児島県鹿児島市[1] 出身地:鹿児島県大島郡瀬戸内町 加計呂麻島 |
死没 |
2007年3月25日(87歳没) 鹿児島県奄美市 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1959年 - 2006年 |
ジャンル | 小説、手記など |
代表作 | 『海辺の生と死』(1974年) |
主な受賞歴 | 田村俊子賞(『海辺の生と死』、1975年度)[2] |
デビュー作 | 手記『錯乱の魂から蘇って』(1959年)[3] |
配偶者 | 島尾敏雄(1946年 - 1986年死別) |
子供 | 2人:島尾伸三(長男)、島尾マヤ(長女) |
親族 | しまおまほ(孫) |
島尾 ミホ(しまお みほ、1919年(大正8年)10月24日[1] - 2007年3月25日[4][5][6])は、奄美群島・加計呂麻島出身の日本の作家。太平洋戦争中、加計呂麻島に駐屯していた第十八震洋特攻隊隊長の島尾敏雄と出会い、戦後結婚した後には、彼の代表作『死の棘』に登場する「妻」のモデルとなった。自身の小説では、『海辺の生と死』で第15回田村俊子賞(1975年度)を受賞したほか[2][7]、『祭り裏』、短編「その夜」など故郷に題材を取った作品が多い。島尾敏雄との間には2子がおり、長男は写真家の島尾伸三、そしてその娘(ミホの孫)は漫画家のしまおまほである。
略歴・人物
生い立ち
ミホは1919年(大正8年)10月24日に、長田實之(おさだ さねゆき)・マス夫妻の長女として、警察官だった父の任地、鹿児島県鹿児島市で生まれた[1]。長田夫妻はどちらも奄美出身で、實之はユカリッチュ(琉球時代に奄美へ派遣された支配者階級)・ノロの家系に生まれていたほか[8]、マスの家系からは勝手世運動の中心となった丸田南里や[9]西郷隆盛の妻・愛加那が出ていた[10]。またマスは熱心なカトリック信者の家系で、ミホも生後1週間で幼児洗礼を受けている[1]。ミホは生後1ヶ月で母マスに連れられて奄美大島に渡ったが、マスはすぐに病死し、1歳上の兄と共に、龍郷町瀬留で叔母(マスの妹)に育てられた[1]。
ミホは満2歳で、加計呂麻島・押角(おしかく)の大平文一郎・吉鶴夫妻の養女となった[1]。養母・吉鶴(きちづる)は実父・實之の姉で、夫妻の間に実子が生まれなかったことから、弟夫婦の子を養子にもらえないか掛け合っていた[1]。養女になった後も、大平家の籍には入らず長田姓のままだったが、これは成人してからミホ本人に選ばせようという養父・文一郎の意向であった(結局島尾敏雄と結婚するまで長田姓であった)[1]。ミホによれば大平家は南山王に繋がる血筋であり、ミホの伝記(梯 2016)を書いた梯久美子の調査によれば、大平家は喜志統親方の末裔で、押角地区の与人とノロを兼ねた有力者であった[11][12]。実際大平夫妻は、押角地区で「ウンジュ」「アシェ」(母の意味)と呼ばれて特別に慕われていたという[13]。巫女として育てられたという評論が長く浸透していたが、梯はミホが幼児洗礼を受けたクリスチャンであることから、作品のイメージのためだと指摘している[14]。
ミホは1932年(昭和7年)に押角尋常小学校(後の瀬戸内町立押角小学校)を卒業後、日出高等女学校(現:日出中学校・高等学校)に進学した[15]。この際、実母の死後東京に出ていた実父・實之を頼り、實之が経営していた万世橋の大衆料理店の2階で兄と共に暮らした[16]。郷里の養父・文一郎や、一時期ミホを育てていた叔母(実母の妹)から多額の仕送りがあったが、それらは實之が管理しており、毎月ぎりぎりの額を實之が住む神田まで取りに行く生活だったという[17]。また東京では長田姓を名乗っていた[18]。高等女学校5年次からは、兄の入隊と父の奄美帰りが重なり、親戚宅に移って生活した[19]。1937年(昭和12年)に日出高等女学校を卒業後は、植物学者の北島君三の元で働き始め、同時に馬術や自動車の運転などを習うようになった[19]。翌1938年には、婚約者だった従兄を頼って、兄と共に朝鮮半島へ渡っている[20]。その後、従兄の召集に伴い婚約は破談となり、ミホ自身も肺炎を患ったことがきっかけで、東京を引き上げて加計呂麻島に帰る選択をする(1938年)[20]。
島尾敏雄との出会い
加計呂麻島に帰ってきたミホは、青年団の活動に参加するなどの例外を除けば、ほとんど何もせずに家で過ごしていたという[20]。その後徴用逃れで半年ほど押角郵便局に勤め、1944年(昭和19年)11月に押角国民学校の代用教員となった[20]。この直前の1944年7月には、養母・吉鶴が貝採り中に磯で亡くなっていた[15]。
画像外部リンク | |
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“文学周遊 島尾敏雄「その夏の今は」”. 日本経済新聞. 2018年12月30日閲覧。 |
加計呂麻には日本の「海軍特別攻撃隊」(特攻隊)の基地があり、ここへ大日本帝国海軍の震洋特攻隊長として1944年(昭和19年)11月に赴任してきたのが島尾敏雄であった[21][22]。ふたりが初めて出会ったのは、ミホによれば1944年12月のことであった[23]。その後、九州帝国大学文科を卒業していた敏雄が、大平家の蔵書を度々借りに来たことで交流が始まった[23][24]。敏雄が赴任した頃には太平洋戦争は既に末期であり、赴任翌年の1945年には沖縄戦が激化して集団自決も起き始めていた。日本の敗色も濃かったが、戦時下の本土決戦を目前にして軍人はどこでも大切に扱われる時代でもあった。特攻隊である敏雄の隊が応戦することは無かったが、押角・呑之浦は空襲被害が少なかったこともあり、これらの集落では、敏雄をはじめとした島尾隊に守られているといった考えが広まっていた[25]。敏雄は「隊長さま」と慕われ、部隊の施設があった場所は、戦後でも「シマオタイチョウ」と呼ばれるほどだったという[25]。ミホは後々まで、白い海軍の正装姿の若き日の敏雄・「隊長さま」の写真を、大切に自室に掲げた。「トシオはただの人。でも、『隊長さま』は、神さまでした」とミホは述懐している(小栗康平談『御跡慕いて』 新潮2006年9月号参考)。
ミホと敏雄は文通や部隊近くの浜辺での逢い引きを重ねるようになり、戦況が悪化して集落の人々が夜を疎開小屋で明かすようになってからは、文一郎をその小屋へ送り、大平家で夜を過ごすこともあった[26]。また終戦間近には、昼間から文一郎を小屋へ送ることもあったという[26]。敏雄に出撃命令が出た後、ミホは集落の集団自決には加わらず、浜で敏雄の出撃を見送ってから短剣で自決しようと考えていたが、結局出撃は行われないまま終戦を迎えた[27][24][28]。この時ミホが敏雄に宛てて出した手紙が以下の通りである。
北門の側まで来てゐます。ついてはいけないでせうか。御目にかゝらせて下さい、御目にかゝらせて下さい、なんとかして御目にかゝらせて下さい、決して取乱したりいたしません。
八月十三日真夜 ミホ
敏雄様 — 大平ミホ、1945年8月13日[27]
結婚
敏雄は復員前の8月30日に文一郎へ結婚の申込みをし、手はずを整えるため実家のある神戸に向かった[29]。ミホは11月下旬になってから闇船で奄美を出て、約1ヶ月をかけて鹿児島に向かった[30]。敏雄と再会したのは翌1946年の1月になってからで、この間に実父・實之が亡くなっている(1946年1月)[31]。ミホと敏雄は、それぞれ26歳・28歳だった1946年(昭和21年)3月10日に神戸で結婚し、当初は敏雄の実家で生活した[32][33][34]。1948年(昭和23年)7月には長男・伸三(写真家)、1950年(昭和25年)4月には長女・マヤが生まれた[35][36]。マヤが生まれる直前の1950年2月には、養父・文一郎が加計呂麻で死去した[37]。1949年頃には、ミホが久坂葉子と敏雄との関係を疑い、夫婦仲が険悪になっていた時期もあった[38]。
『死の棘』の妻として
1952年9月、島尾家は上京し、江戸川区小岩町に家を構える[39][40][41][33]。同時期に敏雄は旗揚げ直後の文学サークル「現代の会」に加わり、ここで『死の棘』に登場する「あいつ」に相当する女性(ここではXと称する)と知り合った[42]。ミホは家計を支えるため、造花作りの内職をしたり、敏雄の師だった若杉慧の妻が営むバーで働いたこともあった[43]。
1954年9月29日、ミホは敏雄の日記にあったXに関する17文字の記述を読んで錯乱し、敏雄を責め続けるようになる[44]。ミホは翌1955年の1月から3月にかけて慶應義塾大学病院に入院したがほとんど効果は無く、ミホがXからの脅迫文を恐れたことから、島尾家はこの年の4月に千葉県佐倉市へ転居する[45][46]。当初は精神分裂病(現:統合失調症)が疑われたが、結局心因性反応という診断が付いての慶應病院入院となった[47][24]。この頃の島尾家は、ミホがXのことで敏雄を責め、敏雄の側も狂言自殺を図る有様であった[48]。佐倉に引っ越した数日後には、Xが文学仲間からの見舞金を集めて島尾家を訪れ、ミホとの乱闘騒ぎになる[49]。Xとの乱闘騒ぎがあった後、ミホは市川市国府台にあった国立国府台病院(現:国立国際医療研究センター国府台病院)を受診し、1955年6月から10月にかけて、敏雄と共に4ヶ月半ほど入院する[50][51]。退院後は、入院中に奄美へ預けた子どもたちを追う形で、奄美大島の名瀬市(現:奄美市)へ移住した[51][52]。なお、入院直前までの騒ぎを敏雄が私小説に仕立てたのが、彼の代表作でもある『死の棘』である[53][54]。
奄美移住から後
名瀬への移住後、1956年12月に、敏雄は伸三・マヤと揃って洗礼を受けた[55][56]。直後の1957年1月に夫妻は加計呂麻島を訪れ、この年ミホは初の小説『妻よ再びわれに』を執筆している(未投稿となった)[57]。移住後には、マヤが足の麻痺と失語症(発話障害)を発症し、あちこちの病院を受診させている[58][59]。1959年には『婦人公論』に手記『錯乱の魂から蘇って』を寄せ、実質的な文壇デビューとなる[3]。
ミホは1969年から1973年にかけて、同人誌『カンナ』に短編を投稿し、これに書き下ろし3作を加えて出版されたのが、『海辺の生と死』(1974年)であった[60]。この作品でミホは第15回田村俊子賞(1975年度)を受賞した[2][7]。ふたりの子どもは九州へ進学し、1975年、島尾夫妻は指宿市へと転居する[61]。2年後には、マヤを伴って神奈川県茅ヶ崎市へと移った(1983年まで在住)[61]。1980年に敏雄が日本芸術院賞を受賞した際には、気乗りしなかった夫に代わって授賞式に代理出席した[62]。1983年には、マヤと共に家族3人で加治木町(現:姶良市)へ移り、同年の内に鹿児島市吉野町へ、更には翌年末に同市内宇宿町へと転居を繰り返した[63]。同じ頃、『海』に長編小説『海嘯』を連載していたが、1984年の雑誌休刊後、未完のまま放置されることになった(結局そのまま2015年に刊行)[64]。敏雄は1986年(昭和61年)11月12日に、出血性脳梗塞のため鹿児島市立病院で死去したが[63][65][66]、ミホはこの後喪服で通したという[4][67]。
敏雄の死後、晩年
1987年8月、ミホは連載をまとめて中央公論新社から短編集『祭り裏』を出版する[68]。その後は敏雄の死後発刊された書籍や研究所に解説を寄せたり、『「死の棘」日記』として敏雄の日記の編集・公開にも協力した(1999年と2002年に連載後、2005年に書籍化)[69]。梯久美子は、『「死の棘」日記』で、ミホの言説やXに関する記述が度々削除・編集されていることを指摘し、「絶対的な夫婦愛は、ミホが作り上げようとした神話だった」と述べている[70]。ミホはこれに並行して、「『死の棘』の妻の場合」と題した文章を執筆しているが、これは結局未完・未発表となった[71]。生前の発表は、敏雄の死後3年で書いた『震洋搭乗』がまずあり[12]、敏雄との結婚のために闇船を探した体験を基にした『新潮』平成18年9月号の「御跡慕いて—嵐の海へ」が最後となった[72]。
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死の棘(予告) - YouTube - 1990年の映画作品の予告編 |
敏雄による私小説『死の棘』は、1990年に小栗康平監督、松坂慶子・岸部一徳主演で映画化され[73][74][75]、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞するなど高い評価を得た[76]。1992年にはマヤを呼び寄せて奄美大島・名瀬へ再移住した[77]。毎年8月13日になると、戦時中に敏雄の出撃を見送るため夜を明かした呑之浦を訪れたという[77]。
1999年、ミホは娘マヤと共に、アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『ドルチェ 優しく』に主演した[24][78][79]。この作品は第57回ヴェネツィア国際映画祭の招待作品となった[80][81]。この作品にも出演したマヤは、2002年8月3日に52歳で亡くなった[82]。
2007年3月25日、脳内出血のため奄美市の自宅で死去[83][24]。独居のため、孫のしまおまほ(文筆家・漫画家)によって発見されたのは3月27日午前10時頃であった[83]。享年89(満87歳没)。墓はミホの希望により、島尾敏雄文学記念碑の奥にあり、分骨された敏雄の遺骨、またマヤと共に納められている[77]。
没後
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映画『海辺の生と死』予告篇 - スターサンズインフォ - YouTube |
ミホの没後、幻戯書房から未完の小説『海嘯』(2015年)とエッセイ集『愛の棘』(2016年)が発売された[24][84][85][86]。『海嘯』の解説は孫・しまおまほが担当した[87]。敏雄の鹿児島県立図書館奄美分館長時代に島尾家が暮らした宿舎は、島尾夫妻の資料館として不定期開館している[24]。2016年には梯久美子による伝記『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社)が刊行され(梯 2016)、第67回芸術選奨文部科学大臣賞評論等部門[88][89]、第39回講談社ノンフィクション賞[90][91]、第68回読売文学賞評論・伝記賞を受賞した[92][93][94][95]。2017年には、ミホの同名小説を原案に、越川道夫監督の『海辺の生と死』が制作され、満島ひかりがミホに相当するトエ役を演じた[84]。
著書
単著
共編著
- 『日本の伝説 23 奄美の伝説』島尾敏雄,田畑英勝共著 角川書店 1977
- 『島尾敏雄』馬渡憲三郎、安田孝、島尾伸三、志村有弘ほか共著 宮本企画 かたりべ叢書 1990
- 『島尾敏雄事典』志村有弘共編 勉誠出版 2000
- 『ドルチェ-優しく 映像と言語、新たな出会い』アレクサンドル・ソクーロフ・吉増剛造共著 岩波書店 2001
- 『ヤポネシアの海辺から 対談』石牟礼道子共著 弦書房 2003
- 『島尾敏雄・ミホ愛の往復書簡』中央公論新社〈中公選書〉 2017
伝記
- 梯久美子『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』新潮社 2016
- 『検証 島尾敏雄の世界』島尾伸三・志村有弘編、勉誠出版 2010
- 比嘉加津夫『島尾敏雄 言視舎評伝選』言視舎 2016
- 『島尾敏雄・ミホ 共立する文学 敏雄生誕100年・ミホ没後10年記念総特集』河出書房新社 2017
関連項目
脚注
注釈
出典
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参考文献
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