「夏泊半島」の版間の差分
WP:NC#PLACEおよびプロジェクト:島#記事名が重複する場合を参照 タグ: 取り消し |
m cewbot: ウィキ文法修正 10: 角括弧の終了違反 |
||
(2人の利用者による、間の23版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:青森県の半島.png|thumb|right|[[青森県]]における夏泊半島の位置]] |
|||
{{出典の明記|date=2012年10月26日 (金) 06:10 (UTC)}} |
|||
[[ |
[[ファイル:夏泊半島概略図.png|thumb|right|夏泊半島周辺の主要地形]] |
||
[[画像:Nastudomari Pen 01.jpg|thumb|right|夏泊半島の[[ランドサット]]画像]] |
|||
'''夏泊半島'''(なつどまりはんとう)は[[青森県]]中央部、[[陸奥湾]]に突き出た[[半島]]。[[津軽半島]]と[[下北半島]]に挟まれた陸奥湾の中で、この半島から東を[[野辺地湾]]、西を[[青森湾]]に分断する。半島部は[[奥羽山脈]]から連なってできた夏泊山地が海岸部まで差し迫っており、沿岸は風光明媚な海岸線が広がる。全域が[[東津軽郡]][[平内町]]の町域となっている。[[青森市]]から近いため、釣り場や[[海水浴]]、[[キャンプ場]]など日帰りの観光地として人気が高い。また、半島西部、基部には[[浅虫温泉]](青森市)がある。 |
|||
'''夏泊半島'''<ref name="地形3-巻頭"/>(なつどまりはんとう<ref name="コトバンク-ブリタニカ"/>)は[[青森県]]中央部、[[陸奥湾]]に突き出た[[半島]]<ref name="山渓1-66"/>。'''夏泊山地'''<ref name="地形3-巻頭"/>とも。 |
|||
==地理の概況== |
|||
[[陸奥湾]]([[青森県]])の中央付近に飛び出た半島部を夏泊半島と呼ぶ<ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="角川地名-夏泊半島"/>。陸奥湾は、夏泊半島を境にして、東の[[野辺地湾]]と西の[[青森湾]]に区分される<ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="平凡地名-平内町"/><ref name="コトバンク-ニッポニカ"/>。 |
|||
半島の全域は[[平内町]]([[東津軽郡]])に属しており<ref name="コトバンク-平凡百科"/>、おおむね[[小湊川]]支流の盛田川と[[高森山 (平内町・青森市)|高森山]]を半島の南限とする<ref name="GSJ上村不二雄"/><ref name="地形3-巻頭"/><ref name="百科-夏泊山地"/>{{refnest|group="注"|「夏泊半島の範囲」の厳密な定義はなく、資料により[[高森山 (平内町・青森市)|高森山]]までを含むものと、含めないものがある。}}。半島の中央部は'''夏泊山地'''となっている。半島の北端の突端部は'''夏泊崎'''と呼ばれ、その沖には[[大島 (陸奥湾)|大島]]がある<ref name="角川地名-夏泊半島"/>。 |
|||
海岸部は西側と東側で様相が異なっていて、「'''西浜'''」と呼ばれる西海岸では夏泊山地がそのまま海へと落ち込む断崖絶壁の地勢となっている<ref name="百科-夏泊山地"/>。この西海岸部には、'''油目崎'''や'''茂浦半島'''など、海上に突き出た険しい岬状地形がいくつかあり、双子島、茂浦島などの岩礁・小島が散在する<ref name="百科-夏泊山地"/><ref name="百科-夏泊半島"/>。「'''東浜'''」と呼ばれる東海岸も平地に乏しいが、[[海岸段丘]]や人工的に造られた砂浜がある<ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="角川地名-夏泊半島"/>。南東部の小湊川・盛田川流域には台地状の地形が広がっており、'''夏泊台地'''と称する<ref name="百科-夏泊山地"/><ref name="県庁-自然"/>。 |
|||
===地質=== |
|||
夏泊半島は全般的に[[三畳紀]]から[[ジュラ紀]]に形成された岩盤を基盤としており、半島の東海岸にある立石付近で観察されることから「立石層」と呼ばれている。この層は主に[[チャート (岩石)|チャート]]、[[石灰岩]]からなり、石灰岩には[[三畳紀]]後期からジュラ紀前期と推定される化石([[コノドント]])もみられる。また、一部に[[苦鉄質]][[凝灰岩]]もみられる<ref name="青森の地質"/><ref name="GSJ上村不二雄"/><ref name="百科-夏泊半島"/>。 |
|||
青森県北部ではふつう、基盤となる岩盤層の上に火山性の溶岩や角礫岩からなる岩盤層(「金ヶ沢層」など)が形成されているが、夏泊半島ではこれがみられない{{refnest|group="注"|このことは、[[中新世]]の前期には夏泊半島がすでに陸地化していたことと、東の津軽半島や西の下北半島では火山活動が活発だったのに対し、中央の夏泊半島付近ではあまり火山の活動が盛んではなかったことを示唆するとみられている。ただし調査が不十分のため不確かである<ref name="青森の地質"/>。}}。そのかわりに[[新第三紀]]に形成された礫岩や砂岩、凝灰岩からなる厚さ100メートルから150メートルの地層があり、弁慶内を模式地として「弁慶内層」と呼ばれる。弁慶内層は立石層を不整合に覆い、深いところは貝の化石を含む礫岩、上に行くと凝灰質砂岩となっている<ref name="青森の地質"/><ref name="GSJ上村不二雄"/>。 |
|||
弁慶内層の上には、厚さ230メートルから最大700メートルに達する「東滝層」があり、弁慶内層を整合に覆っている<ref name="青森の地質"/>。この層は深いところでは[[シルト]]や[[泥岩]]、その上に流紋岩質の凝灰角礫岩・溶岩、さらにその上に玄武岩質の溶岩、最上部に酸性の凝灰岩が堆積している<ref name="GSJ上村不二雄"/>。 |
|||
東滝層の上には、「間木層」(最大厚さ400メートル)、「浅所層」(厚さ180メートルから250メートル)が順番に整合して重なっている。間木層は泥岩・[[頁岩]]、浅所層は凝灰質の砂岩・シルト岩と凝灰岩からなる。半島の東部ではこの上に整合して「福島層」(主に凝灰質のシルト岩・砂岩、厚さ280メートルから300メートル)が重なっている。半島西部では「茂浦層」([[安山岩]]やデイサイト溶岩、火山砕屑岩からなる集塊岩、最大厚さ1600メートル)が浅所層や福島層に指交している<ref name="青森の地質"/><ref name="GSJ上村不二雄"/><ref name="百科-夏泊半島"/>。 |
|||
このほか一部では、夏泊半島の南西にある[[東岳山地]]由来の「東岳層」がみられる。これは石灰岩やチャート、泥質岩から構成されている<ref name="青森の地質"/><ref name="GSJ上村不二雄"/>。 |
|||
==半島北部の様相== |
|||
[[File:Oshima Island from Natsudomari Peninsula.jpg|thumb|right|半島北端の夏泊崎と大島]] |
|||
[[File:椿山海岸.jpg|thumb|right|椿山海岸([[日本の渚百選]])]] |
|||
===夏泊崎=== |
|||
夏泊半島の北端部を'''夏泊崎'''という<ref name="角川地名-夏泊崎"/>。その200メートル沖合には[[大島 (陸奥湾)|大島]]があり、干潮時には地続きとなる<ref name="角川地名-大島"/><ref name="平凡地名-大島"/>。 |
|||
岬付近の海岸沿いには江戸時代前半には村が形成されていたが、時期は不明瞭なものの<ref name="角川地名-大島"/>、廃村となった<ref name="百科-夏泊崎"/><ref name="平凡地名-田沢村"/>。集落跡には井戸があり、漁師の一時的な住居や放牧に利用されてきた。近年は観光客向けの土産物店などが集まっている<ref name="百科-夏泊崎"/>。 |
|||
===椿山と椿神社=== |
|||
夏泊崎の南側の後背地は海岸段丘になっていて、小高い草地の丘がある。この丘陵地は家畜の放牧地として利用されてきたが、いまは一部がゴルフ場などに利用されている<ref name="百科-夏泊崎"/><ref name="角川地名-夏泊崎"/>。 |
|||
この一帯は古くから'''椿山'''と呼ばれ{{refnest|group="注"|『日本歴史地名大系2 青森県の地名』によれば、「椿山」は、大島や夏泊崎を含む一帯の呼称<ref name="平凡地名-椿神社"/>。現在は一帯の丘陵地を「横峰」といい、そのうち椿神社の背後にある標高50メートルの丘に「椿山」の名が与えられている。}}、江戸時代から[[ツバキ]]の名所として全国的に知られていた<ref name="歴史散歩-141"/><ref name="平凡地名-椿神社"/>。いまは22[[ヘクタール]]あまりの丘陵地に約7000本の[[ヤブツバキ]]が自生する<ref name="歴史散歩-141"/><ref name="平凡地名-椿神社"/>。ここはツバキの自生地の北限として国の天然記念物「ツバキ自生北限地帯」になっている<ref name="百科-夏泊半島"/>(指定日:1922年(大正11年)10月12日<ref name="県庁-天然記念物"/><ref name="文化庁-天然記念物"/>){{refnest|group="注"|「ツバキ自生北限地帯」は、この夏泊半島の椿山と、[[秋田県]]の[[男鹿半島]]とが同時に指定を受けている<ref name="県庁-天然記念物"/><ref name="文化庁-天然記念物"/>。なお『青森県百科事典』p665では天然記念物の指定日を1952年(昭和27年)としているが、ここでは[[文化庁]]および[[青森県]]による1922年(大正11年)とした}}。 |
|||
江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した[[菅江真澄]](1754年 - 1859年)は、『津河呂の奥(津軽の奥)』の中で当地を「ここらの椿咲きたるは巨勢の春野{{refnest|group="注"|「巨勢の春野のたま椿」は、『[[万葉集]]』に「''巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を''」([[坂門人足]])と詠まれた[[巨勢山古墳群|巨勢山]]のこと。}}のたま椿も之をこそよばねと」と評した<ref name="歴史散歩-141"/>。また、[[松浦武四郎]](1818年 - 1888年)は『東奥航海日誌』のなかで、「一山椿木斗にして中に松二三株立てり」と記している<ref name="平凡地名-椿神社"/>。 |
|||
椿神社に伝わる[[棟札]]によれば、神社は[[元禄]]11年(1698年)に「椿宮女人神」として建立されたのが濫觴である<ref name="歴史散歩-141"/><ref name="平凡地名-椿神社"/>。菅江真澄『津河呂の奥(津軽の奥)』の伝えるところによると、平安時代末期の[[文治]]年間(1185年 - 1189年)、現地の女性が[[近畿地方]]からやってきた男性と結婚の約束をして送り出したが、約束した期日までに男が戻らなかったために、女性は椿山から海へ身を投げたのだという。まもなく帰ってきた男は、女がすでに亡き者となったのを知って嘆き、山の麓に祀った。このときに近畿から持ってきたツバキの実を植えたことから一帯にツバキが広まったとされており、本来は温暖な地に自生するツバキが本州北部の当地に生えているのはこのためだという<ref name="平凡地名-椿神社"/>。 |
|||
椿神社はのちに[[村社]]となり、女性神ではなく[[サルタヒコ]](旅行・恋愛の神)と[[シオツチノオジ]](航海の神)を奉斎するようになった。[[寛政]]9年(1797年)の『津軽俗説選』<ref name="百科-津軽俗説選"/>では、椿神社がサルタヒコを祀るようになったのは、おなじく「ツバキ」を冠する[[伊勢国]][[一宮]]の[[椿大神社]]([[三重県]][[鈴鹿市]])の主神がサルタヒコであったことからの伝播だろうという推論が紹介されている<ref name="平凡地名-椿神社"/>。 |
|||
椿神社付近の海岸では人工的な砂浜の養浜が行われており、5月から初夏にかけてツバキが赤い花を咲かせる椿山とその山麓の'''椿神社'''は、景勝地として[[日本の渚百選]](1996年)にも選ばれており、夏泊半島の代表的な観光地の一つとなっている<ref name="渚百選"/><ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="角川地名-夏泊半島"/><ref name="歴史散歩-141"/><ref name="平凡地名-椿神社"/>。 |
|||
==西浜(西海岸)== |
|||
[[ファイル:夏泊半島西浜地形図.png|thumb|right|夏泊半島の西海岸地形図]] |
|||
青森湾に面する夏泊半島の西海岸は、古くは「西浜」と呼ばれてきた<ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="角川地名-夏泊半島"/>。この西海岸は典型的な[[リアス式海岸|リアス式]]の沈降海岸で<ref name="平凡地名-茂浦村"/>、海岸線は切り立った[[海食崖]]や複雑な入り江、岩場や[[岩礁]]に富む<ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="角川地名-夏泊半島"/>。一帯は好漁場になっており、また製塩も盛んに行われた<ref name="平凡地名-茂浦村"/>。 |
|||
岬から南西側の海岸は久慈浜(久慈ノ浜)と称する<ref name="百科-夏泊崎"/>。その南にはリアス式の小さな岬があり、'''油目崎'''と呼ばれている<ref name="百科-夏泊山地"/>。 |
|||
===茂浦半島=== |
|||
'''茂浦半島'''は、夏泊半島の西側に突き出た、東西3キロメートルほどの岬である。周囲は断崖になっており、高いところでは落差100メートルほどにもなる。半島の先端部には双子島、半島の南には茂浦島があり、いずれも好漁場として知られる<ref name="百科-夏泊山地"/><ref name="角川地名-茂浦島"/>。 |
|||
半島の付け根にある茂浦地区では江戸時代に海水を煮詰めて製塩が行っていた。最盛期には年間6000俵もの塩を産出し、塩は青森に運ばれて米と交換されていた。地域には塩釜神社が祀られている<ref name="角川地名-茂浦"/><ref name="平凡地名-茂浦村"/>。 |
|||
茂浦は水産業の拠点にもなっており、1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて青森県が約2億円を投じ、県立の水産総合研究センター増養殖研究所(地方独立行政法人[[青森県産業技術センター]]、旧・青森県水産増殖センター)を開設した。同所は[[ホタテガイ]]の養殖研究などを担っており、青森県の水産業の重要基地に位置づけられている<ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="角川地名-茂浦島"/><ref name="増養殖"/>。 |
|||
茂浦半島から南へ1キロメートルほど沖合にある'''茂浦島'''は、周囲約1.4キロメートル、最高地の標高107メートルの無人島である。大正時代に[[キツネ]]の繁殖事業が試みられ、[[秩父宮]]・[[高松宮]]が1921年(大正10年)に養狐の状況を視察に訪れている。島でのキツネの繁殖自体には成功したが、成獣になると島から逃げ出したりするものがあり、事業化には至らなかった<ref name="角川地名-茂浦島"/>。 |
|||
==東浜(東海岸)== |
|||
[[ファイル:夏泊半島東浜地形図.png|thumb|right|東海岸地形図]] |
|||
野辺地湾に面する夏泊半島の東部は、隆起性の地盤になっていて、岩盤が延びている<ref name="百科-夏泊半島"/>。こちらには[[海岸段丘]]がみられ、[[更新世]]に形成された砂礫が堆積している<ref name="角川地名-夏泊半島"/>。西風の影響のない野辺地湾はこうした堆積物により浅い海になっていて、東海岸にはところどころに砂浜もみられる<ref name="百科-夏泊半島"/>。一部では人工的に砂浜を養生して海水浴場となっているところもある。半島北端の夏泊崎から、[[平内町]]中心部をなす[[小湊川]]の河口付近の小湊湊・小湊漁港にかけては、割合なだらかな海岸線になっており、その途中にあるいくつかの岬には鼻繰崎、安井崎などの呼称がある<ref name="百科-夏泊半島"/>。 |
|||
===立石洞穴=== |
|||
安井崎の500メートルほど北には、幅15メートル、高さ30メートルほどの巨岩がそびえ立っており、その根部に直径2メートルほどの海食洞がある<ref name="平凡地名-立石洞穴"/>。1945年(昭和20年)に軍がこの洞穴を火薬庫として利用するため土砂を排出したところ、[[縄文時代]]後期に遡る大量の人骨、[[海獣]]類の[[骨角器]]、貝殻、土器([[擦文時代|擦文式土器]])などが発見された<ref name="平凡地名-立石洞穴"/><ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="百科-夏泊崎"/>。 |
|||
この洞窟の存在は江戸時代から知られており、「平内七不思議」の一つとされている<ref name="平凡地名-立石洞穴"/>。 |
|||
===浅所海岸=== |
|||
[[File:Anatinae Anas A acuta crowd.jpg|right|thumb|浅所海岸の[[オナガガモ]]]] |
|||
小湊川の河口付近は[[三角州]]になっていて、小湊川にが運んだ土砂の堆積で遠浅になっている。一帯は'''[[浅所海岸]]'''と呼ばれ、[[ハクチョウ]]の渡来地としてよく知られており、「小湊のハクチョウおよびその渡来地」として国の特別天然記念物の指定を受けている<ref name="角川地名-浅所海岸"/><ref name="文化庁-ハクチョウ"/><ref name="百科-夏泊半島"/>(天然記念物としての指定は1922年(大正11年)、特別天然記念物としての指定は1952年(昭和27年)<ref name="百科-浅所海岸"/>)。 |
|||
==夏泊山地== |
|||
'''夏泊山地'''<ref name="県庁-自然"/>は、大地形としては[[奥羽山脈]]の一部となっており<ref name="コトバンク-ニッポニカ"/>、その北端部をなす<ref name="地形3-98"/><ref name="コトバンク-ブリタニカ"/>{{refnest|group="注"|奥羽山脈は、[[中新世]]の前半期(約2200万年前から1000万年前)頃から隆起を始めたもので、日本列島のなかでは比較的あたらしい山地系である<ref name="地形3-140"/>。そのため浸食や開析があまり進んでおらず、稜線が北から南までほとんど一本となって連なっているのが顕著な特徴とされている<ref name="地形3-98"/>。山地の稜線としては繋がっていないが、[[陸奥湾]]をはさんで[[下北半島]]の[[下北山地]]・[[恐山山地]]も奥羽山脈の一部とみる場合がある<ref name="地形3-巻頭"/><ref name="百科-東岳山地"/>。}}。山地系としては、南側の[[東岳山地]]<ref name="県庁-地形概況"/>(三角岳山地<ref name="地形3-巻頭"/>や十和田山地<ref name="地形3-巻頭"/>の異名もある)を経て、[[八甲田山地]]へと連なっている<ref name="地形3-98"/>。 |
|||
夏泊山地を構成する峰のなかでは、中央部の[[水ヶ沢山]](標高323.4メートル<ref name="山渓1-66"/>)が最高峰<ref name="百科-夏泊山地"/>。このほか山地の北端に位置する横峰(椿山)は[[ツバキ]]が自生する北限として知られる<ref name="百科-夏泊半島"/>。 |
|||
山地には巨岩が多く、[[修験道]]の信仰の対象になってきた。こうした山は「カンナビ」と呼ばれ、巨岩は「イワクラ」と称された<ref name="百科-夏泊山地"/>。 |
|||
==自然== |
==自然== |
||
夏泊半島の植生は、[[ミズナラ]]や[[イタヤカエデ]]が中心である。海岸付近では[[シナノキ]]が加わった風衝樹林が形成される。砂浜の海岸では人為的に植えられた[[クロマツ]]並木もみられる。内陸部では[[ヒノキアスナロ]]が林を形成しているほか、[[スギ]]の植樹も行われている<ref name="角川地名-夏泊半島"/>。このほか椿山は[[ヤブツバキ]]の自生北限として名高い<ref name="角川地名-夏泊半島"/>。 |
|||
全域が浅虫夏泊[[県立自然公園]]の指定区域。西海岸は[[海食]]作用による海食崖が見られる。一方、東海岸(椿山海岸)は[[椿]]の北限自生地として有名であり、約1万本ものヤマツバキが自生、国の[[天然記念物]]となっている。 |
|||
==歴史== |
|||
半島付け根にある浅所海岸は[[白鳥]]の渡来地として有名であり、“小湊のハクチョウおよびその渡来地”として国の[[天然記念物]]に指定されている。 |
|||
夏泊半島の南東基部にある[[小湊町 (青森県)|小湊]]は、[[野辺地湾]]の入江に面し、小湊川がつくる三角州と遠浅の[[浅所海岸]]、半島付近では数少ない平坦地である夏泊台地に囲まれている。一帯の丘陵地からは、縄文時代晩期から平安時代にかけての遺跡があり、数多くの石器や土器が見つかっている<ref name="角川地名-小湊"/>。 |
|||
歴史時代については、中世までの夏泊半島は史料に乏しく、あまりよくわかっていない。一帯は[[陸奥国]]の[[外が浜]]と呼ばれる広い地域に含まれている<ref name="角川地名-平内町-中世"/>。夏泊半島の南西に位置する[[浅虫温泉]]付近の善知島崎は、『[[吾妻鏡]]』に記録される[[建久]]1年(1190年)の合戦地とされる<ref name="角川地名-平内町-中世"/>。 |
|||
==地質== |
|||
先第三系の立石層(夏泊層)(チャート・石灰岩・凝灰岩)を不整合に中新世の地層が覆う。中新世の地層としては、火砕岩、火山角礫岩、凝灰岩、溶岩などからなる。 |
|||
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には「平内城」をめぐって[[北朝 (日本)|北朝方]]の[[曽我貞光]]と[[南朝 (日本)|南朝方]]の[[南部氏]]らが争ったとある<ref name="角川地名-平内町-中世"/>。しかし史料に登場する[[南部氏]]の拠点「平内城」は、その位置がどこであったかは不明確である<ref name="角川地名-小湊館"/>。所在については諸説あり、平内町内には、小湊、福館、沼館と候補地が3箇所ある<ref name="角川地名-平内町-中世"/>。戦国時代後期になると南部氏から分派した[[津軽氏]]の勢力下となり、小湊に砦(小湊館)が築かれた<ref name="角川地名-小湊館"/>。 |
|||
江戸時代初期には[[弘前藩]]の代官所が設置され<ref name="角川地名-小湊館"/>、のちに[[弘前藩]]支藩の[[黒石藩]]の管轄となって夏泊半島全域を治めた<ref name="歴史散歩-140"/>。江戸時代初期の[[正保]]2年(1645年)に作られた[[正保国絵図|津軽郡之絵図]]には、夏泊半島の沿岸北部には[[アイヌ]]の居住地があったことが記されている<ref name="角川地名-平内町-近世道"/>。[[浅所海岸]]に位置する雷電宮は歴代藩主の信仰を集めて保護され、[[松前藩]]主、幕府の[[巡見使]]も参詣していた<ref name="歴史散歩-142"/>。 |
|||
==産業== |
==産業== |
||
夏泊半島は耕作に適した平地に乏しいうえ、[[やませ]]や降雪の悪影響が著しく、農業はあまり盛んではなかった<ref name="百科-夏泊半島"/><ref name="平凡地名-平内町"/><ref name="角川地名-平内町-立地"/>。近代に入り、品種改良や機械化の導入により稲作はいくらか伸びたが、[[減反政策]]によって減少に転じた。このほか肉用[[牛]]の放牧、花卉生産の取り組みが行われた<ref name="角川地名-平内町-農林業"/>。林業は、江戸時代には製塩用の燃料とするため木材の伐採が行われていた。近代に入るとスギやマツの植林が始まった。このほかキノコ類の栽培が行われている<ref name="角川地名-平内町-農林業"/>。海産業は古くから盛んで、江戸時代には製塩業が栄え、ほかに[[ナマコ]]漁も行われていた<ref name="角川地名-平内町-イリコ"/>。近代に入ると漁師たちは[[ニシン]]、[[サケ]]、[[マス]]を求めて北海道や樺太へ出稼ぎに出た<ref name="角川地名-平内町-ホタテ"/>。 |
|||
上記に挙げた[[観光]]産業のほか、[[漁業]]が盛ん。とりわけ、[[ホタテ貝]]の[[養殖]]が盛んであり、平内町は国内随一の帆立貝産地として著名である。 |
|||
現代は[[ホタテガイ]]の[[養殖]]技術が確立されたことから、1960年代以降、陸奥湾全域でのホタテ養殖の中心地となった。[[平内町]]はホタテの産地として著名であり、養殖ホタテの水揚げ量全国1位(2016年<ref name="統計-2016ホタテ"/>)など、ながらく国内の水揚げ1位となっている<ref name="角川地名-平内町-ホタテ"/><ref name="平凡地名-平内町"/>。ホタテの漁獲量は平内町の総漁獲量の98%を超えており、ほかには[[カレイ]]、[[ヒラメ]]、[[アイナメ]]などが獲られている<ref name="角川地名-平内町-ホタテ"/>。ホタテに関連する産業として、加工業や建設業などの[[第二次産業]]も成長した<ref name="角川地名-平内町-1次産業"/>。 |
|||
浅所海岸のハクチョウ飛来地が天然記念物に指定されているなど、夏泊半島は全域が全域が[[浅虫夏泊県立自然公園]]に指定されている。[[青森県道9号夏泊公園線]]の開通により、観光産業にも公費が投じられ、小湊の[[夜越山森林公園]]などが整備された。このほか半島の各地には[[釣り]]、[[海水浴]]、[[キャンプ]]などの行楽地がある。平内町では、第一次産業と観光業の相乗効果を目指して、林業や水産業の試験場・生産地を組み入れた観光ルートを策定している<ref name="角川地名-平内町-観光"/>。 |
|||
小湊港は、近代に入って間もない時期から、北海道と本州を結ぶ[[青函航路]]の拠点港として着目されていた<ref name="角川地名-小湊港"/>。1891年(明治24年)に[[東北本線]]が開通して[[小湊駅]]と東京が鉄路で結ばれると、小湊港の拡張計画が策定されるが事業化には至らなかった。北海道からの[[石炭]]の輸送を目的として、1943年(昭和18年)に築港に着手したものの、[[太平洋戦争]]の時局下のために工事は進まず、1948年(昭和23年)に一部の埠頭の完成にこぎつけた。これにより[[第六青函丸]]を使用しての接岸実験、[[貨車]]航走の試験が行われ、小湊駅に貨物ターミナルが整備された。しかし最終的には拠点輸送港としての利用は見送られることになり、港湾施設は漁業用となり、敷地には漁業や加工業者の施設が建設された<ref name="角川地名-小湊港"/>。 |
|||
==交通== |
|||
夏泊半島の南の基部には、古くから小湊川支流の盛田川沿いに[[奥州街道]]が通じており、これが現在の[[国道4号]]となっている。半島の沿岸部には道は整備されておらず、内陸の山間地を小道が通じるのみで不便だった。近代になって沿岸を一周する[[青森県道9号夏泊公園線]]が整備され、日常生活や物流、観光に利用されるようになった<ref name="角川地名-平内町-立地"/>。 |
|||
夏泊半島は沿岸部の平地に乏しく、海岸にはほとんど道が通じていなかった。半島東北部の野内畑や田沢へは、小湊川の支流に沿って北上し、[[水ヶ沢山]]の鞍部(標高150メートル)を越える「'''小湊越'''」という約7キロメートルの峠道があるのみだった。そのためこの地域は日常生活に不便をきたしており、1953年(昭和28年)に小湊越の改修が行われ、自動車の通行が可能な道路となった。しかし半島を周回する[[青森県道9号夏泊公園線|県道9号]]の開通後は廃れ、崩壊が著しく自動車の通行は難しくなっている<ref name="角川地名-小湊越え"/>。 |
|||
青森湾に面した西海岸では、江戸時代の史料に浅虫温泉から茂浦まで磯辺道が通じていた<ref name="角川地名-平内町-近世道"/>。茂浦へは、盛田川の上流部を経由して小湊と往来する山道があり、その峠部は'''アネコ坂'''と称する。「アネコ」は、キツネが娘(アネコ)の姿で現れ、峠を往く人を化かすという伝承に由来するという。この峠道は1933年(昭和8年)に改修が行われて勾配が緩和され、[[青森県道9号夏泊公園線|県道9号]]もここを通るようになった<ref name="角川地名-アネコ坂"/>。 |
|||
鉄道は1891年(明治24年)に[[東北本線]]が全通、半島の南東基部に[[小湊駅]]、南西基部に[[浅虫温泉駅|浅虫駅]]が設けられた。その後1939年(昭和14年)に両駅の間に[[西平内駅]]が開業した。2010年(平成22年)に[[東北新幹線]]が青森まで延伸となった際に、東北本線は第3セクターの[[青い森鉄道]]に移管された。 |
|||
*[[青森県道9号夏泊公園線]] |
|||
*[[国道4号]] |
|||
*[[青い森鉄道線]]([[青い森鉄道]])[[小湊駅]]・[[西平内駅]] |
|||
==脚注== |
|||
===注釈=== |
|||
<references group="注"/> |
|||
===出典=== |
|||
{{Reflist|colwidth=30em |
|||
|refs= |
|||
<!-- --> |
|||
*<ref name="地形3-巻頭">『日本の地形3 東北』巻頭部「東北の地形区分」</ref> |
|||
*<ref name="地形3-98">『日本の地形3 東北』p98</ref> |
|||
*<ref name="地形3-140">『日本の地形3 東北』p140-141</ref> |
|||
*<ref name="百科-夏泊半島">『青森県百科事典』p665「夏泊半島」</ref> |
|||
*<ref name="百科-夏泊山地">『青森県百科事典』p665「夏泊山地」</ref> |
|||
*<ref name="百科-夏泊崎">『青森県百科事典』p665「夏泊崎」</ref> |
|||
*<ref name="百科-浅所海岸">『青森県百科事典』p45「浅所海岸」</ref> |
|||
*<ref name="百科-東岳山地">『青森県百科事典』p52「東岳山地」</ref> |
|||
*<ref name="百科-津軽俗説選">『青森県百科事典』p590「津軽俗説選」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-夏泊半島">『角川日本地名大辞典2 青森県』p685「夏泊半島」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-夏泊崎">『角川日本地名大辞典2 青森県』p685「夏泊崎」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-大島">『角川日本地名大辞典2 青森県』p187「大島」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-浅所海岸">『角川日本地名大辞典2 青森県』p82「浅所海岸」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-茂浦">『角川日本地名大辞典2 青森県』p922「茂浦」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-茂浦島">『角川日本地名大辞典2 青森県』p923「茂浦島」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-小湊">『角川日本地名大辞典2 青森県』p380「小湊」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-小湊館">『角川日本地名大辞典2 青森県』p381「小湊館」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-小湊越え">『角川日本地名大辞典2 青森県』p381「小湊越え」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-小湊港">『角川日本地名大辞典2 青森県』p381「小湊港」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-アネコ坂">『角川日本地名大辞典2 青森県』p95「アネコ坂」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-立地">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1321-1322「平内町 夏泊半島基部の町」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-中世">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1322「平内町 沿革 外ヶ浜と津軽田舎郡」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-近世道">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1322「平内町 沿革 奥州街道と磯辺道」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-イリコ">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1323「平内町 製塩とイリコ」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-1次産業">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1323「平内町 第1次産業の低下」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-ホタテ">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1323-1324「平内町 ホタテ貝養殖」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-農林業">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1324「平内町 農林業の推移」</ref> |
|||
*<ref name="角川地名-平内町-観光">『角川日本地名大辞典2 青森県』p1324「平内町 椿山と浅所海岸」</ref> |
|||
*<ref name="平凡地名-平内町">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p286「平内町」</ref> |
|||
*<ref name="平凡地名-田沢村">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p294「田沢村」</ref> |
|||
*<ref name="平凡地名-大島">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p294「大島」</ref> |
|||
*<ref name="平凡地名-椿神社">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p294「椿神社」</ref> |
|||
*<ref name="平凡地名-立石洞穴">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p293「立石洞穴」</ref> |
|||
*<ref name="平凡地名-茂浦村">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p295「茂浦村」</ref> |
|||
*<ref name="山渓1-66">『青森県の山』p66-67</ref> |
|||
*<ref name="歴史散歩-140">『青森県の歴史散歩』p140「夏泊半島を歩く」</ref> |
|||
*<ref name="歴史散歩-141">『青森県の歴史散歩』p141-142「夏泊半島を歩く 3 椿山の自然」</ref> |
|||
*<ref name="歴史散歩-142">『青森県の歴史散歩』p142「夏泊半島を歩く 4 雷電宮と浅所海岸」</ref> |
|||
*<ref name="県庁-地形概況">[[青森県庁]],あおもりポテンシャルビュー,[http://www6.pref.aomori.lg.jp/p-view/information/konnatoko/chikei/post-99.html 地形の概況] 2018年5月3日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="県庁-自然">[[青森県庁]],農林水産政策課,{{PDFlink|[http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/nourin/nosui/files/H26zu_1.pdf 青森県の自然]}} 2018年5月4日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="県庁-天然記念物">[[青森県庁]],文化財保護課,2009年3月31日付[https://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/education/kinen_tennen_1_02.html ツバキ自生北限地帯] 2018年5月3日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="文化庁-天然記念物">[[文化庁]],文化遺産オンライン,[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211750 ツバキ自生北限地帯] 2018年5月5日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="文化庁-ハクチョウ">[[文化庁]],文化遺産オンライン,[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/160458 小湊のハクチョウおよびその渡来地] 2018年5月5日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="渚百選">日本の森・滝・渚 全国協議会,[http://www.mori-taki-nagisa.jp/100/beach/038.html 椿山海岸] 2018年5月5日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="増養殖">青森県水産総合研究センター増養殖研究所,[http://www.aomori-itc.or.jp/public/zoshoku/ 沿革] 2018年5月6日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="統計-2016ホタテ">[[統計センター|独立行政法人統計センター]],[[政府統計共同利用システム|e-Stat]],海面漁業生産統計調査(2016年市町村別データ){{XLSlink|[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000031681681&fileKind=0 養殖魚種別収獲量 全国 2016年]}}、2018年5月11日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="コトバンク-ブリタニカ">『[[ブリタニカ国際大百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』「夏泊半島」[https://kotobank.jp/word/夏泊半島-108222 コトバンク版] 2018年5月3日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="コトバンク-ニッポニカ">[[小学館]],『[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]』「夏泊半島」[https://kotobank.jp/word/夏泊半島-108222 コトバンク版] 2018年5月3日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="コトバンク-平凡百科">[[平凡社]],『[[世界大百科事典|世界大百科事典 第2版]]』「夏泊半島」[https://kotobank.jp/word/夏泊半島-108222 コトバンク版] 2018年5月3日閲覧。</ref> |
|||
<!--地質--> |
|||
*<ref name="青森の地質">一般社団法人東北地質調査業協会,協会誌『大地』50号(2009年11月),「{{PDFlink|[http://www.tohoku-geo.ne.jp/information/daichi/img/50a/52.pdf 青森県の地質]}}」([[弘前大学]]大学院理工学研究科, 根本直樹・氏家良博), 2018年5月8日閲覧。</ref> |
|||
*<ref name="GSJ上村不二雄">国立研究開発法人[[産業技術総合研究所]]地質調査総合センター,上村不二雄,地域地質研究報告「{{PDFlink|[https://www.gsj.jp/data/50KGM/PDF/GSJ_MAP_G050_05016_1983_D.pdf 浅虫地域の地質]}}」(1983年), 2018年5月8日閲覧。</ref> |
|||
}} |
|||
===書誌情報=== |
|||
*『日本の地形3 東北』,小池一之・田村俊和・鎮西清高・宮城豊彦/編,[[東京大学出版会]],2005,2011(第3版),ISBN 978-4-13-064713-7 |
|||
*『[[日本歴史地名大系]]2 青森県の地名』,[[平凡社]],1982 |
|||
*『[[角川日本地名大辞典]]2 青森県』,[[角川書店]],1985 |
|||
*『[[都道府県別百科事典|青森県百科事典]]』,[[東奥日報|東奥日報社]],1981,ISBN 4-88561-000-1 |
|||
*新・分県登山ガイド改訂版1『 青森県の山』,いちのへ義孝/著,[[山と渓谷社]],2010,2014(初版第2刷),ISBN 978-4-635-02351-1 |
|||
*『青森県の歴史散歩』,青森県高等学校地方史研究会/編,[[山川出版社]],2007,ISBN 978-4-634-24602-7 |
|||
==関連項目== |
==関連項目== |
||
18行目: | 221行目: | ||
{{日本の半島}} |
{{日本の半島}} |
||
{{ウィキ座標2段度分秒|40|59|6.3|N|140|53|1|E|region:JP|display=title}} |
|||
{{DEFAULTSORT:なつとまりはんとう}} |
{{DEFAULTSORT:なつとまりはんとう}} |
||
[[category:日本の半島]] |
[[category:日本の半島]] |
2018年5月29日 (火) 00:22時点における版
夏泊半島[1](なつどまりはんとう[2])は青森県中央部、陸奥湾に突き出た半島[3]。夏泊山地[1]とも。
地理の概況
陸奥湾(青森県)の中央付近に飛び出た半島部を夏泊半島と呼ぶ[4][5]。陸奥湾は、夏泊半島を境にして、東の野辺地湾と西の青森湾に区分される[4][6][7]。
半島の全域は平内町(東津軽郡)に属しており[8]、おおむね小湊川支流の盛田川と高森山を半島の南限とする[9][1][10][注 1]。半島の中央部は夏泊山地となっている。半島の北端の突端部は夏泊崎と呼ばれ、その沖には大島がある[5]。
海岸部は西側と東側で様相が異なっていて、「西浜」と呼ばれる西海岸では夏泊山地がそのまま海へと落ち込む断崖絶壁の地勢となっている[10]。この西海岸部には、油目崎や茂浦半島など、海上に突き出た険しい岬状地形がいくつかあり、双子島、茂浦島などの岩礁・小島が散在する[10][4]。「東浜」と呼ばれる東海岸も平地に乏しいが、海岸段丘や人工的に造られた砂浜がある[4][5]。南東部の小湊川・盛田川流域には台地状の地形が広がっており、夏泊台地と称する[10][11]。
地質
夏泊半島は全般的に三畳紀からジュラ紀に形成された岩盤を基盤としており、半島の東海岸にある立石付近で観察されることから「立石層」と呼ばれている。この層は主にチャート、石灰岩からなり、石灰岩には三畳紀後期からジュラ紀前期と推定される化石(コノドント)もみられる。また、一部に苦鉄質凝灰岩もみられる[12][9][4]。
青森県北部ではふつう、基盤となる岩盤層の上に火山性の溶岩や角礫岩からなる岩盤層(「金ヶ沢層」など)が形成されているが、夏泊半島ではこれがみられない[注 2]。そのかわりに新第三紀に形成された礫岩や砂岩、凝灰岩からなる厚さ100メートルから150メートルの地層があり、弁慶内を模式地として「弁慶内層」と呼ばれる。弁慶内層は立石層を不整合に覆い、深いところは貝の化石を含む礫岩、上に行くと凝灰質砂岩となっている[12][9]。
弁慶内層の上には、厚さ230メートルから最大700メートルに達する「東滝層」があり、弁慶内層を整合に覆っている[12]。この層は深いところではシルトや泥岩、その上に流紋岩質の凝灰角礫岩・溶岩、さらにその上に玄武岩質の溶岩、最上部に酸性の凝灰岩が堆積している[9]。
東滝層の上には、「間木層」(最大厚さ400メートル)、「浅所層」(厚さ180メートルから250メートル)が順番に整合して重なっている。間木層は泥岩・頁岩、浅所層は凝灰質の砂岩・シルト岩と凝灰岩からなる。半島の東部ではこの上に整合して「福島層」(主に凝灰質のシルト岩・砂岩、厚さ280メートルから300メートル)が重なっている。半島西部では「茂浦層」(安山岩やデイサイト溶岩、火山砕屑岩からなる集塊岩、最大厚さ1600メートル)が浅所層や福島層に指交している[12][9][4]。
このほか一部では、夏泊半島の南西にある東岳山地由来の「東岳層」がみられる。これは石灰岩やチャート、泥質岩から構成されている[12][9]。
半島北部の様相
夏泊崎
夏泊半島の北端部を夏泊崎という[13]。その200メートル沖合には大島があり、干潮時には地続きとなる[14][15]。
岬付近の海岸沿いには江戸時代前半には村が形成されていたが、時期は不明瞭なものの[14]、廃村となった[16][17]。集落跡には井戸があり、漁師の一時的な住居や放牧に利用されてきた。近年は観光客向けの土産物店などが集まっている[16]。
椿山と椿神社
夏泊崎の南側の後背地は海岸段丘になっていて、小高い草地の丘がある。この丘陵地は家畜の放牧地として利用されてきたが、いまは一部がゴルフ場などに利用されている[16][13]。
この一帯は古くから椿山と呼ばれ[注 3]、江戸時代からツバキの名所として全国的に知られていた[19][18]。いまは22ヘクタールあまりの丘陵地に約7000本のヤブツバキが自生する[19][18]。ここはツバキの自生地の北限として国の天然記念物「ツバキ自生北限地帯」になっている[4](指定日:1922年(大正11年)10月12日[20][21])[注 4]。
江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した菅江真澄(1754年 - 1859年)は、『津河呂の奥(津軽の奥)』の中で当地を「ここらの椿咲きたるは巨勢の春野[注 5]のたま椿も之をこそよばねと」と評した[19]。また、松浦武四郎(1818年 - 1888年)は『東奥航海日誌』のなかで、「一山椿木斗にして中に松二三株立てり」と記している[18]。
椿神社に伝わる棟札によれば、神社は元禄11年(1698年)に「椿宮女人神」として建立されたのが濫觴である[19][18]。菅江真澄『津河呂の奥(津軽の奥)』の伝えるところによると、平安時代末期の文治年間(1185年 - 1189年)、現地の女性が近畿地方からやってきた男性と結婚の約束をして送り出したが、約束した期日までに男が戻らなかったために、女性は椿山から海へ身を投げたのだという。まもなく帰ってきた男は、女がすでに亡き者となったのを知って嘆き、山の麓に祀った。このときに近畿から持ってきたツバキの実を植えたことから一帯にツバキが広まったとされており、本来は温暖な地に自生するツバキが本州北部の当地に生えているのはこのためだという[18]。
椿神社はのちに村社となり、女性神ではなくサルタヒコ(旅行・恋愛の神)とシオツチノオジ(航海の神)を奉斎するようになった。寛政9年(1797年)の『津軽俗説選』[22]では、椿神社がサルタヒコを祀るようになったのは、おなじく「ツバキ」を冠する伊勢国一宮の椿大神社(三重県鈴鹿市)の主神がサルタヒコであったことからの伝播だろうという推論が紹介されている[18]。
椿神社付近の海岸では人工的な砂浜の養浜が行われており、5月から初夏にかけてツバキが赤い花を咲かせる椿山とその山麓の椿神社は、景勝地として日本の渚百選(1996年)にも選ばれており、夏泊半島の代表的な観光地の一つとなっている[23][4][5][19][18]。
西浜(西海岸)
青森湾に面する夏泊半島の西海岸は、古くは「西浜」と呼ばれてきた[4][5]。この西海岸は典型的なリアス式の沈降海岸で[24]、海岸線は切り立った海食崖や複雑な入り江、岩場や岩礁に富む[4][5]。一帯は好漁場になっており、また製塩も盛んに行われた[24]。
岬から南西側の海岸は久慈浜(久慈ノ浜)と称する[16]。その南にはリアス式の小さな岬があり、油目崎と呼ばれている[10]。
茂浦半島
茂浦半島は、夏泊半島の西側に突き出た、東西3キロメートルほどの岬である。周囲は断崖になっており、高いところでは落差100メートルほどにもなる。半島の先端部には双子島、半島の南には茂浦島があり、いずれも好漁場として知られる[10][25]。
半島の付け根にある茂浦地区では江戸時代に海水を煮詰めて製塩が行っていた。最盛期には年間6000俵もの塩を産出し、塩は青森に運ばれて米と交換されていた。地域には塩釜神社が祀られている[26][24]。
茂浦は水産業の拠点にもなっており、1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて青森県が約2億円を投じ、県立の水産総合研究センター増養殖研究所(地方独立行政法人青森県産業技術センター、旧・青森県水産増殖センター)を開設した。同所はホタテガイの養殖研究などを担っており、青森県の水産業の重要基地に位置づけられている[4][25][27]。
茂浦半島から南へ1キロメートルほど沖合にある茂浦島は、周囲約1.4キロメートル、最高地の標高107メートルの無人島である。大正時代にキツネの繁殖事業が試みられ、秩父宮・高松宮が1921年(大正10年)に養狐の状況を視察に訪れている。島でのキツネの繁殖自体には成功したが、成獣になると島から逃げ出したりするものがあり、事業化には至らなかった[25]。
東浜(東海岸)
野辺地湾に面する夏泊半島の東部は、隆起性の地盤になっていて、岩盤が延びている[4]。こちらには海岸段丘がみられ、更新世に形成された砂礫が堆積している[5]。西風の影響のない野辺地湾はこうした堆積物により浅い海になっていて、東海岸にはところどころに砂浜もみられる[4]。一部では人工的に砂浜を養生して海水浴場となっているところもある。半島北端の夏泊崎から、平内町中心部をなす小湊川の河口付近の小湊湊・小湊漁港にかけては、割合なだらかな海岸線になっており、その途中にあるいくつかの岬には鼻繰崎、安井崎などの呼称がある[4]。
立石洞穴
安井崎の500メートルほど北には、幅15メートル、高さ30メートルほどの巨岩がそびえ立っており、その根部に直径2メートルほどの海食洞がある[28]。1945年(昭和20年)に軍がこの洞穴を火薬庫として利用するため土砂を排出したところ、縄文時代後期に遡る大量の人骨、海獣類の骨角器、貝殻、土器(擦文式土器)などが発見された[28][4][16]。
この洞窟の存在は江戸時代から知られており、「平内七不思議」の一つとされている[28]。
浅所海岸
小湊川の河口付近は三角州になっていて、小湊川にが運んだ土砂の堆積で遠浅になっている。一帯は浅所海岸と呼ばれ、ハクチョウの渡来地としてよく知られており、「小湊のハクチョウおよびその渡来地」として国の特別天然記念物の指定を受けている[29][30][4](天然記念物としての指定は1922年(大正11年)、特別天然記念物としての指定は1952年(昭和27年)[31])。
夏泊山地
夏泊山地[11]は、大地形としては奥羽山脈の一部となっており[7]、その北端部をなす[32][2][注 6]。山地系としては、南側の東岳山地[35](三角岳山地[1]や十和田山地[1]の異名もある)を経て、八甲田山地へと連なっている[32]。
夏泊山地を構成する峰のなかでは、中央部の水ヶ沢山(標高323.4メートル[3])が最高峰[10]。このほか山地の北端に位置する横峰(椿山)はツバキが自生する北限として知られる[4]。
山地には巨岩が多く、修験道の信仰の対象になってきた。こうした山は「カンナビ」と呼ばれ、巨岩は「イワクラ」と称された[10]。
自然
夏泊半島の植生は、ミズナラやイタヤカエデが中心である。海岸付近ではシナノキが加わった風衝樹林が形成される。砂浜の海岸では人為的に植えられたクロマツ並木もみられる。内陸部ではヒノキアスナロが林を形成しているほか、スギの植樹も行われている[5]。このほか椿山はヤブツバキの自生北限として名高い[5]。
歴史
夏泊半島の南東基部にある小湊は、野辺地湾の入江に面し、小湊川がつくる三角州と遠浅の浅所海岸、半島付近では数少ない平坦地である夏泊台地に囲まれている。一帯の丘陵地からは、縄文時代晩期から平安時代にかけての遺跡があり、数多くの石器や土器が見つかっている[36]。
歴史時代については、中世までの夏泊半島は史料に乏しく、あまりよくわかっていない。一帯は陸奥国の外が浜と呼ばれる広い地域に含まれている[37]。夏泊半島の南西に位置する浅虫温泉付近の善知島崎は、『吾妻鏡』に記録される建久1年(1190年)の合戦地とされる[37]。
南北朝時代には「平内城」をめぐって北朝方の曽我貞光と南朝方の南部氏らが争ったとある[37]。しかし史料に登場する南部氏の拠点「平内城」は、その位置がどこであったかは不明確である[38]。所在については諸説あり、平内町内には、小湊、福館、沼館と候補地が3箇所ある[37]。戦国時代後期になると南部氏から分派した津軽氏の勢力下となり、小湊に砦(小湊館)が築かれた[38]。
江戸時代初期には弘前藩の代官所が設置され[38]、のちに弘前藩支藩の黒石藩の管轄となって夏泊半島全域を治めた[39]。江戸時代初期の正保2年(1645年)に作られた津軽郡之絵図には、夏泊半島の沿岸北部にはアイヌの居住地があったことが記されている[40]。浅所海岸に位置する雷電宮は歴代藩主の信仰を集めて保護され、松前藩主、幕府の巡見使も参詣していた[41]。
産業
夏泊半島は耕作に適した平地に乏しいうえ、やませや降雪の悪影響が著しく、農業はあまり盛んではなかった[4][6][42]。近代に入り、品種改良や機械化の導入により稲作はいくらか伸びたが、減反政策によって減少に転じた。このほか肉用牛の放牧、花卉生産の取り組みが行われた[43]。林業は、江戸時代には製塩用の燃料とするため木材の伐採が行われていた。近代に入るとスギやマツの植林が始まった。このほかキノコ類の栽培が行われている[43]。海産業は古くから盛んで、江戸時代には製塩業が栄え、ほかにナマコ漁も行われていた[44]。近代に入ると漁師たちはニシン、サケ、マスを求めて北海道や樺太へ出稼ぎに出た[45]。
現代はホタテガイの養殖技術が確立されたことから、1960年代以降、陸奥湾全域でのホタテ養殖の中心地となった。平内町はホタテの産地として著名であり、養殖ホタテの水揚げ量全国1位(2016年[46])など、ながらく国内の水揚げ1位となっている[45][6]。ホタテの漁獲量は平内町の総漁獲量の98%を超えており、ほかにはカレイ、ヒラメ、アイナメなどが獲られている[45]。ホタテに関連する産業として、加工業や建設業などの第二次産業も成長した[47]。
浅所海岸のハクチョウ飛来地が天然記念物に指定されているなど、夏泊半島は全域が全域が浅虫夏泊県立自然公園に指定されている。青森県道9号夏泊公園線の開通により、観光産業にも公費が投じられ、小湊の夜越山森林公園などが整備された。このほか半島の各地には釣り、海水浴、キャンプなどの行楽地がある。平内町では、第一次産業と観光業の相乗効果を目指して、林業や水産業の試験場・生産地を組み入れた観光ルートを策定している[48]。
小湊港は、近代に入って間もない時期から、北海道と本州を結ぶ青函航路の拠点港として着目されていた[49]。1891年(明治24年)に東北本線が開通して小湊駅と東京が鉄路で結ばれると、小湊港の拡張計画が策定されるが事業化には至らなかった。北海道からの石炭の輸送を目的として、1943年(昭和18年)に築港に着手したものの、太平洋戦争の時局下のために工事は進まず、1948年(昭和23年)に一部の埠頭の完成にこぎつけた。これにより第六青函丸を使用しての接岸実験、貨車航走の試験が行われ、小湊駅に貨物ターミナルが整備された。しかし最終的には拠点輸送港としての利用は見送られることになり、港湾施設は漁業用となり、敷地には漁業や加工業者の施設が建設された[49]。
交通
夏泊半島の南の基部には、古くから小湊川支流の盛田川沿いに奥州街道が通じており、これが現在の国道4号となっている。半島の沿岸部には道は整備されておらず、内陸の山間地を小道が通じるのみで不便だった。近代になって沿岸を一周する青森県道9号夏泊公園線が整備され、日常生活や物流、観光に利用されるようになった[42]。
夏泊半島は沿岸部の平地に乏しく、海岸にはほとんど道が通じていなかった。半島東北部の野内畑や田沢へは、小湊川の支流に沿って北上し、水ヶ沢山の鞍部(標高150メートル)を越える「小湊越」という約7キロメートルの峠道があるのみだった。そのためこの地域は日常生活に不便をきたしており、1953年(昭和28年)に小湊越の改修が行われ、自動車の通行が可能な道路となった。しかし半島を周回する県道9号の開通後は廃れ、崩壊が著しく自動車の通行は難しくなっている[50]。
青森湾に面した西海岸では、江戸時代の史料に浅虫温泉から茂浦まで磯辺道が通じていた[40]。茂浦へは、盛田川の上流部を経由して小湊と往来する山道があり、その峠部はアネコ坂と称する。「アネコ」は、キツネが娘(アネコ)の姿で現れ、峠を往く人を化かすという伝承に由来するという。この峠道は1933年(昭和8年)に改修が行われて勾配が緩和され、県道9号もここを通るようになった[51]。
鉄道は1891年(明治24年)に東北本線が全通、半島の南東基部に小湊駅、南西基部に浅虫駅が設けられた。その後1939年(昭和14年)に両駅の間に西平内駅が開業した。2010年(平成22年)に東北新幹線が青森まで延伸となった際に、東北本線は第3セクターの青い森鉄道に移管された。
脚注
注釈
- ^ 「夏泊半島の範囲」の厳密な定義はなく、資料により高森山までを含むものと、含めないものがある。
- ^ このことは、中新世の前期には夏泊半島がすでに陸地化していたことと、東の津軽半島や西の下北半島では火山活動が活発だったのに対し、中央の夏泊半島付近ではあまり火山の活動が盛んではなかったことを示唆するとみられている。ただし調査が不十分のため不確かである[12]。
- ^ 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』によれば、「椿山」は、大島や夏泊崎を含む一帯の呼称[18]。現在は一帯の丘陵地を「横峰」といい、そのうち椿神社の背後にある標高50メートルの丘に「椿山」の名が与えられている。
- ^ 「ツバキ自生北限地帯」は、この夏泊半島の椿山と、秋田県の男鹿半島とが同時に指定を受けている[20][21]。なお『青森県百科事典』p665では天然記念物の指定日を1952年(昭和27年)としているが、ここでは文化庁および青森県による1922年(大正11年)とした
- ^ 「巨勢の春野のたま椿」は、『万葉集』に「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を」(坂門人足)と詠まれた巨勢山のこと。
- ^ 奥羽山脈は、中新世の前半期(約2200万年前から1000万年前)頃から隆起を始めたもので、日本列島のなかでは比較的あたらしい山地系である[33]。そのため浸食や開析があまり進んでおらず、稜線が北から南までほとんど一本となって連なっているのが顕著な特徴とされている[32]。山地の稜線としては繋がっていないが、陸奥湾をはさんで下北半島の下北山地・恐山山地も奥羽山脈の一部とみる場合がある[1][34]。
出典
- ^ a b c d e f 『日本の地形3 東北』巻頭部「東北の地形区分」
- ^ a b 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「夏泊半島」コトバンク版 2018年5月3日閲覧。
- ^ a b 『青森県の山』p66-67
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『青森県百科事典』p665「夏泊半島」
- ^ a b c d e f g h i 『角川日本地名大辞典2 青森県』p685「夏泊半島」
- ^ a b c 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p286「平内町」
- ^ a b 小学館,『日本大百科全書(ニッポニカ)』「夏泊半島」コトバンク版 2018年5月3日閲覧。
- ^ 平凡社,『世界大百科事典 第2版』「夏泊半島」コトバンク版 2018年5月3日閲覧。
- ^ a b c d e f 国立研究開発法人産業技術総合研究所地質調査総合センター,上村不二雄,地域地質研究報告「浅虫地域の地質 (PDF) 」(1983年), 2018年5月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『青森県百科事典』p665「夏泊山地」
- ^ a b 青森県庁,農林水産政策課,青森県の自然 (PDF) 2018年5月4日閲覧。
- ^ a b c d e f 一般社団法人東北地質調査業協会,協会誌『大地』50号(2009年11月),「青森県の地質 (PDF) 」(弘前大学大学院理工学研究科, 根本直樹・氏家良博), 2018年5月8日閲覧。
- ^ a b 『角川日本地名大辞典2 青森県』p685「夏泊崎」
- ^ a b 『角川日本地名大辞典2 青森県』p187「大島」
- ^ 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p294「大島」
- ^ a b c d e 『青森県百科事典』p665「夏泊崎」
- ^ 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p294「田沢村」
- ^ a b c d e f g h 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p294「椿神社」
- ^ a b c d e 『青森県の歴史散歩』p141-142「夏泊半島を歩く 3 椿山の自然」
- ^ a b 青森県庁,文化財保護課,2009年3月31日付ツバキ自生北限地帯 2018年5月3日閲覧。
- ^ a b 文化庁,文化遺産オンライン,ツバキ自生北限地帯 2018年5月5日閲覧。
- ^ 『青森県百科事典』p590「津軽俗説選」
- ^ 日本の森・滝・渚 全国協議会,椿山海岸 2018年5月5日閲覧。
- ^ a b c 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p295「茂浦村」
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典2 青森県』p923「茂浦島」
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p922「茂浦」
- ^ 青森県水産総合研究センター増養殖研究所,沿革 2018年5月6日閲覧。
- ^ a b c 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p293「立石洞穴」
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p82「浅所海岸」
- ^ 文化庁,文化遺産オンライン,小湊のハクチョウおよびその渡来地 2018年5月5日閲覧。
- ^ 『青森県百科事典』p45「浅所海岸」
- ^ a b c 『日本の地形3 東北』p98
- ^ 『日本の地形3 東北』p140-141
- ^ 『青森県百科事典』p52「東岳山地」
- ^ 青森県庁,あおもりポテンシャルビュー,地形の概況 2018年5月3日閲覧。
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p380「小湊」
- ^ a b c d 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1322「平内町 沿革 外ヶ浜と津軽田舎郡」
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典2 青森県』p381「小湊館」
- ^ 『青森県の歴史散歩』p140「夏泊半島を歩く」
- ^ a b 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1322「平内町 沿革 奥州街道と磯辺道」
- ^ 『青森県の歴史散歩』p142「夏泊半島を歩く 4 雷電宮と浅所海岸」
- ^ a b 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1321-1322「平内町 夏泊半島基部の町」
- ^ a b 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1324「平内町 農林業の推移」
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1323「平内町 製塩とイリコ」
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1323-1324「平内町 ホタテ貝養殖」
- ^ 独立行政法人統計センター,e-Stat,海面漁業生産統計調査(2016年市町村別データ) (Microsoft Excelの.xls)、2018年5月11日閲覧。
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1323「平内町 第1次産業の低下」
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p1324「平内町 椿山と浅所海岸」
- ^ a b 『角川日本地名大辞典2 青森県』p381「小湊港」
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p381「小湊越え」
- ^ 『角川日本地名大辞典2 青森県』p95「アネコ坂」
書誌情報
- 『日本の地形3 東北』,小池一之・田村俊和・鎮西清高・宮城豊彦/編,東京大学出版会,2005,2011(第3版),ISBN 978-4-13-064713-7
- 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』,平凡社,1982
- 『角川日本地名大辞典2 青森県』,角川書店,1985
- 『青森県百科事典』,東奥日報社,1981,ISBN 4-88561-000-1
- 新・分県登山ガイド改訂版1『 青森県の山』,いちのへ義孝/著,山と渓谷社,2010,2014(初版第2刷),ISBN 978-4-635-02351-1
- 『青森県の歴史散歩』,青森県高等学校地方史研究会/編,山川出版社,2007,ISBN 978-4-634-24602-7