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「ユリウス暦」の版間の差分

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尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、[[カリグラ]]は9月を Germanicus <ref>「ゲルマニクス」はカリギュラの本名の最後の部分の名前であり、かつ自分の父([[ゲルマニクス]])の最初の部分の名前でもある。</ref>、[[クラウディウス]]は3月を Claudius、[[ネロ]]は4月を Neroneus <ref>[[ユリウス・クラウディウス朝]]の5人の皇帝のうち、自分の人名を月の名前に付けようとしなかったのは[[ティベリウス]]だけである。</ref>。[[ドミティアヌス]]は10月を Domitianus と改名した。9月については[[アントニヌス・ピウス]]が Antoninus と改名したほか、[[マルクス・クラウディウス・タキトゥス|タキトゥス]]が Tacitus と改名した。11月はピウスの妻の名をとって Faustina となったり Romanus となったりした。[[コンモドゥス]]に至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に1月は Amazonius、2月は Invictus、3月は Felix 、4月は Pius、5月は Lucius、6月は Aelius、7月は Aurelius、8月は自身の名である Commodus、9月は Augustus、10月は Herculeus、11月は Romanus、12月は Exsuperatorius であった。改名の企てはその皇帝の死とともに廃れ、すぐに元の月名に戻った。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月の Augustus だけだった。
尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、[[カリグラ]]は9月を Germanicus <ref>「ゲルマニクス」はカリギュラの本名の最後の部分の名前であり、かつ自分の父([[ゲルマニクス]])の最初の部分の名前でもある。</ref>、[[クラウディウス]]は3月を Claudius、[[ネロ]]は4月を Neroneus <ref>[[ユリウス・クラウディウス朝]]の5人の皇帝のうち、自分の人名を月の名前に付けようとしなかったのは[[ティベリウス]]だけである。</ref>。[[ドミティアヌス]]は10月を Domitianus と改名した。9月については[[アントニヌス・ピウス]]が Antoninus と改名したほか、[[マルクス・クラウディウス・タキトゥス|タキトゥス]]が Tacitus と改名した。11月はピウスの妻の名をとって Faustina となったり Romanus となったりした。[[コンモドゥス]]に至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に1月は Amazonius、2月は Invictus、3月は Felix 、4月は Pius、5月は Lucius、6月は Aelius、7月は Aurelius、8月は自身の名である Commodus、9月は Augustus、10月は Herculeus、11月は Romanus、12月は Exsuperatorius であった。改名の企てはその皇帝の死とともに廃れ、すぐに元の月名に戻った。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月の Augustus だけだった。

もっとも、Julius と、Augustus が本当に人名由来なのか、異論がある。そもそも、他の6つの固有名詞が神名由来なのに、たとえ神格化された人間だとしても、この2つの月の名称だけ人名由来なのは、いかにも据わりが悪い。この2つも神名由来だと考えるのが自然である。

「Julius」は氏族名「Jovilios」の短縮形と考えられており、この「Juvilios」氏族はローマの最高神「[[ユーピテル]]」に関連する一族、もしくは「ユーピテル」の子孫とされているのである。つまり「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとも考えられるからである。

具体的には、次の通りとなる。

* 1月 '''Jānuārius''' (ヤーヌアーリウス、物事の初めと終わりを司る境界と時間の神ヤーヌスの月)
* 2月 '''Februārius''' (フェブルアーリウス、浄罪と贖罪の神フェブルスの月)

* 3月 '''Martius''' (マルティウス、軍神マルスの月)
* 4月 '''Aprīlis''' (アプリーリス、美の女神ウェヌスの月)

* 5月 '''Māius''' (マーイウス、豊穣の女神マイアの月)

* 6月 '''Jūnius''' (ユーニウス、結婚生活を守護する女神ユーノーの月)
* 7月 '''Julius''' (ユリウス、主神ユーピテルの月)

* 8月 '''Augustus''' (アウグストゥス、究極の神の月)

「Jānuārius」(1月)の境界と時間の神「[[ヤーヌス]]」と「Februārius」(2月)の浄罪と贖罪の神「フェブルス」は、概念の上で不可分な、組となっている。

「Martius」(3月)は軍神「[[マルス]]」=ギリシア名「[[アレース]]」を指し、「Aprīlis」(4月)は美の女神「[[ウェヌス]]」=ギリシア名「[[アプロディーテー]]」を指し、[[ギリシア神話]]では「アレース」と「アプロディーテー」は愛人関係であり、組となっている。

であれば、「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとすれば、ユーピテルの妻「[[ユーノー]]」を指す「Jūnius」(6月)と組になり、また綴りや発音も語呂が合うことになる。

「Augustus」(威厳者・尊厳者)も、人間「[[アウグストゥス|オクタウィアヌス・アウグストゥス]]」のことではなく、他の7柱の神々を統合(習合)した「究極の神」「未知なる神」「偉大なる神」を指す尊称とも考えられる。

であれば、余った「Māius」(5月)こと豊穣の女神「[[マイア]]」は、「Augustus」(8月)こと究極の神「アウグストゥス」と対になる存在と考えられるわけである。

そして、この「7柱+1」は「[[七曜]]+1」と対応関係にあると考えるのが自然である。むしろ、「七曜+1」に合わせて、「Julius」と、「Augustus」が導入されたとも考えられる。

なお、古代ローマでは、一週間を8日(7日+「市の日」)とする観念があったとする説がある。

{|class="wikitable"
|-
!月名!!対応する神!!対応する七曜・元素
|-
|Jānuārius(1月)||ヤーヌス||日
|-
|Februārius(2月)||フェブルス||月
|-
|Martius(3月)||マルス||水
|-
|Aprīlis(4月)||ウェヌス||火
|-
|Māius(5月)||マイア||土
|-
|Jūnius(6月)||ユーノー||金
|-
|Julius(7月)||ユーピテル||木
|-
|Augustus(8月)||アウグストゥス||空
|}

だからこそ、他の皇帝による恣意的な人名由来の名称と違って、この2つの名称だけは現在まで存続していると考えられる。そして、9月から12月までが神名や人名に拠らず、[[ラテン語]]の数詞由来である理由も、上記の4組8柱で完成形だからと考えられるのである。


== 各月の長さ ==
== 各月の長さ ==

2017年10月8日 (日) 16:41時点における版

ユリウス暦(ユリウスれき、: Calendarium Iulianum: Calendario giuliano: Julian calendar)は、共和政ローマ最高神祇官独裁官執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日[1]から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。

ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年、ユリウス暦に換えて、太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。

なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。

概要

平均太陽年を365.25日とする太陽暦の一種であり、1年を365日とする年と4年に一度366日とする年を設けた。

      365日+1/4 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)

月は従来のローマ暦のものを基本的に踏襲し、月ごとの日数を調整して合計を平年の365日または閏年の366日とした。閏日が加えられる閏年は4年ごとに1回設けられ、ローマ暦時代の閏月と同じく2月に挿入された。

なお、ユリウス暦は「紀年法」ではなく、「暦法」である。ユリウス暦が採用されていた時代の紀年法には、45世紀頃、アレクサンドリアキリスト教徒が用いたディオクレティアヌス紀元(皇帝ディオクレティアヌスの即位(284年)を紀元とする)、それを6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウス525年頃の著書『復活祭の書』(復活祭暦表)でローマ建国紀元754年をイエス・キリスト生誕元年とするキリスト紀元(いわゆる西暦)がある。キリスト紀元は10世紀頃に一部の国で使われ始め、西ヨーロッパで一般化したのは15世紀以降のことであるという。ユリウス暦における置閏法の成立は、キリスト紀元の考案に先行するものであるが、閏年は偶然にも同紀元が4で割り切れる年と一致しており、グレゴリオ改暦の際にもこの法則が使われている[2]

制定の経緯については、ローマ暦#末期のローマ暦を参照のこと。

ユリウス暦の精度

ユリウス暦では、1年は365.25日 = 31 557 600 秒である。これに対して、実際の太陽年は、2015年時点で、31 556 925.168秒 = 約365.242 189 44日である。その差は、674.832 秒 = 11分14.832である。86 400秒( = 1日)/674.832 秒 = 128.032 であるから、約128年で1日のずれが、約1280年で10日ものずれが生ずることになる。ユリウス暦の制定後、約1500年が経過した1582年にグレゴリオ暦への改暦が行われたのはこのためである。

キリスト教への採用

キリスト教の多くの宗派が同暦を宗教暦として採用してからは、キリスト教の各行事を行う期日を定める基準としても使われるようになった。 ただし、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、新約聖書において太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されている[3]ため、復活祭の期日は、太陽暦であるユリウス暦のみでは決定できず、季節(太陽年)と月齢(太陰月)の双方に合わせる作業が必要となった。第一次ニケーア公会議325年に、「春分日であるユリウス暦3月21日の後の最初の満月の次の日曜日」を復活の主日とするように定めた。このように規定した結果、ユリウス暦の誤差が、復活祭の期日制定に直接影響することになった。確かに4世紀にはユリウス暦3月21日頃にあったと想定される実際の天文学的な春分日は、16世紀後半になると、10日も前のユリウス暦3月11日頃に到来するようになっていた。カトリック教会はこの事態を受けて、3月21日を天文学的春分日に出来る限り近づける暦法を制定[4]して改暦することとなった。これがグレゴリオ暦である。1582年2月24日[5]、グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を以って、グレゴリオ暦同年10月15日金曜日とし、以降グレゴリオ暦を実施することとした。しかし、改暦はローマ教皇の独断専行であってニケーア公会議の決定に反するとして、西ヨーロッパでも、プロテスタント地域を中心に、グレゴリオ暦をすぐには採用しない地域が多くあった。それでも、天文学的優秀性から、プロテスタント地域でも徐々に広まっていき、最後まで残ったイギリスが1752年に採用したことで、西ヨーロッパの全ての地域が公式にグレゴリオ暦を使用するようになった。更に正教会圏や、他の宗教の地域でもグレゴリオ暦が使われるようになっており、今でもユリウス暦を用いているのは、正教会の一部等となっている(詳しくは後述。またグレゴリオ暦の記事を参照)

運用

紀元前45年にカエサルがこの暦法を導入した際に閏年は4年に1回と決められたが、直後の紀元前44年にカエサルが暗殺された後、誤って3年に1回ずつ閏日が挿入された。この誤りを修正するため、ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前6年から紀元後7年までの13年間にわたって、3回分(紀元前5年、紀元前1年、紀元4年)の閏年を停止した[注釈 1]紀元8年からは正しく4年ごとに閏日を挿入している。

紀元前45年から紀元8年までの間に、どの年に閏年が置かれていたのかについては、詳しい記録が残っておらず、何度か論議になった。紀元前45年から3年ごとという学者もいれば、紀元前44年から3年ごとという学者もいた。1999年にローマ暦とエジプト暦の両方の日付が記載された紀元前24年当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元16年までの閏年の置かれ方は次のとおりである。

紀元前44年、紀元前41年、紀元前38年、紀元前35年、紀元前32年、紀元前29年、紀元前26年、紀元前23年、紀元前20年、紀元前17年、紀元前14年、紀元前11年、紀元前8年、(この間は閏年を置かず)、紀元8年、紀元12年、紀元16年(以後、4年ごと)。

紀元9年以降

紀元9年以降は以下のとおり運用されている。平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する。各月の長さは1月から順に次のとおり。

紀元9年以降のユリウス暦
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年間
(1)平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
(2)平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
(3)平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
(4)閏年 31日 29日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 366日

西暦年が4で割り切れる年を閏年とし、その年は、平年より1日多い366日とするために、2月の日数を1日増やして29日とする。

1月は季節でいうと冬至を過ぎた頃になる。

月名

現代日本語では各月は1月~12月の数字で表すことが多いが、古代ローマで使われていたローマ暦ではローマ神話やラテン語の数詞に由来する固有名があり、ユリウス暦でも月の名前はローマ暦のものを踏襲した。紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名に因んで Julius ( Iulius ) と呼ぶようになり、彼を継いだアウグストゥスが閏年の扱いを修正した際に、その名に因んで8月は Augustus となった。その名称は語形変化を被りながらも現代でも英語フランス語などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。

尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、カリグラは9月を Germanicus [6]クラウディウスは3月を Claudius、ネロは4月を Neroneus [7]ドミティアヌスは10月を Domitianus と改名した。9月についてはアントニヌス・ピウスが Antoninus と改名したほか、タキトゥスが Tacitus と改名した。11月はピウスの妻の名をとって Faustina となったり Romanus となったりした。コンモドゥスに至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に1月は Amazonius、2月は Invictus、3月は Felix 、4月は Pius、5月は Lucius、6月は Aelius、7月は Aurelius、8月は自身の名である Commodus、9月は Augustus、10月は Herculeus、11月は Romanus、12月は Exsuperatorius であった。改名の企てはその皇帝の死とともに廃れ、すぐに元の月名に戻った。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月の Augustus だけだった。

もっとも、Julius と、Augustus が本当に人名由来なのか、異論がある。そもそも、他の6つの固有名詞が神名由来なのに、たとえ神格化された人間だとしても、この2つの月の名称だけ人名由来なのは、いかにも据わりが悪い。この2つも神名由来だと考えるのが自然である。

「Julius」は氏族名「Jovilios」の短縮形と考えられており、この「Juvilios」氏族はローマの最高神「ユーピテル」に関連する一族、もしくは「ユーピテル」の子孫とされているのである。つまり「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとも考えられるからである。

具体的には、次の通りとなる。

  • 1月 Jānuārius (ヤーヌアーリウス、物事の初めと終わりを司る境界と時間の神ヤーヌスの月)
  • 2月 Februārius (フェブルアーリウス、浄罪と贖罪の神フェブルスの月)
  • 3月 Martius (マルティウス、軍神マルスの月)
  • 4月 Aprīlis (アプリーリス、美の女神ウェヌスの月)
  • 5月 Māius (マーイウス、豊穣の女神マイアの月)
  • 6月 Jūnius (ユーニウス、結婚生活を守護する女神ユーノーの月)
  • 7月 Julius (ユリウス、主神ユーピテルの月)
  • 8月 Augustus (アウグストゥス、究極の神の月)

「Jānuārius」(1月)の境界と時間の神「ヤーヌス」と「Februārius」(2月)の浄罪と贖罪の神「フェブルス」は、概念の上で不可分な、組となっている。

「Martius」(3月)は軍神「マルス」=ギリシア名「アレース」を指し、「Aprīlis」(4月)は美の女神「ウェヌス」=ギリシア名「アプロディーテー」を指し、ギリシア神話では「アレース」と「アプロディーテー」は愛人関係であり、組となっている。

であれば、「Julius」が「ユーピテル」のことを指しているとすれば、ユーピテルの妻「ユーノー」を指す「Jūnius」(6月)と組になり、また綴りや発音も語呂が合うことになる。

「Augustus」(威厳者・尊厳者)も、人間「オクタウィアヌス・アウグストゥス」のことではなく、他の7柱の神々を統合(習合)した「究極の神」「未知なる神」「偉大なる神」を指す尊称とも考えられる。

であれば、余った「Māius」(5月)こと豊穣の女神「マイア」は、「Augustus」(8月)こと究極の神「アウグストゥス」と対になる存在と考えられるわけである。

そして、この「7柱+1」は「七曜+1」と対応関係にあると考えるのが自然である。むしろ、「七曜+1」に合わせて、「Julius」と、「Augustus」が導入されたとも考えられる。

なお、古代ローマでは、一週間を8日(7日+「市の日」)とする観念があったとする説がある。

月名 対応する神 対応する七曜・元素
Jānuārius(1月) ヤーヌス
Februārius(2月) フェブルス
Martius(3月) マルス
Aprīlis(4月) ウェヌス
Māius(5月) マイア
Jūnius(6月) ユーノー
Julius(7月) ユーピテル
Augustus(8月) アウグストゥス

だからこそ、他の皇帝による恣意的な人名由来の名称と違って、この2つの名称だけは現在まで存続していると考えられる。そして、9月から12月までが神名や人名に拠らず、ラテン語の数詞由来である理由も、上記の4組8柱で完成形だからと考えられるのである。

各月の長さ

13世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコによれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1ヶ月おきに大の月と小の月がくるようになっていた。サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである。

紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数(ヨハネス・ド・サクロボスコ説)
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
30日 29日 30日 29日 30日 29日 30日 29日 30日 29日 30日 29日 354日

この暦の日数はユリウス暦の1年の日数に比べて11日少ない。サクロボスコは、ユリウス暦への改暦の際に2月を除く各月の日数が1日ずつ増やされ、閏日は2月末に付加されるようにした、と考えた。サクロボスコによれば、当初カエサルが制定した各月の日数は次のとおりである(かっこ内は閏年での日数、以下同じ)。

カエサルが制定した各月の日数(ヨハネス・ド・サクロボスコ説)
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
平年 31日 29日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 365日
閏年 31日 (30日) 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 31日 30日 366日

そして、皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた。

アウグストゥスが制定した各月の日数(ヨハネス・ド・サクロボスコ説)
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
平年 31日 28日 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 365日
閏年 31日 (29日) 31日 30日 31日 30日 31日 31日 30日 31日 30日 31日 366日

8月の日数を増やしたのは、アウグストゥスが、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる。この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた。

現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており[8]、サクロボスコの解釈は誤りとされる。ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月、5月、7月、10月はもともと大の月で固定されていた。ローマ暦とユリウス暦では大の月の第15日目・小の月の第13日目は「イードゥース」という特別な名で呼ばれていたため、月の日数への言及がなくても、ある年のある月のイードゥースに関する言及があれば、その月が大の月か小の月かを推測できるのである[9]。(ローマ暦を参照)

ローマ暦末期の各月の日数は、当時の壁に描かれた暦から、おそらく次のとおりである。

ローマ暦末期の各月の日数
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
29日 28日 31日 29日 31日 29日 31日 29日 29日 31日 29日 29日 355日

サクロボスコの見解は3世紀ケンソリヌス英語版5世紀マクロビウスとも食い違い、またユリウス暦初期のマルクス・テレンティウス・ウァロによって記録された紀元前37年の暦とも食い違う。また、前述した1999年にエジプトで発見された紀元前24年の暦ではすでに8月の日付が31日まであり、これとも食い違う[10]

新年初日

改暦直前のローマ暦は1月1日が新年初日で、これはユリウス暦でも踏襲した。しかし、各地ではユリウス暦の導入後もこれとは異なる日付を新年初日とした。エジプトのコプト暦では8月29日アレクサンドリア暦の閏年の後では8月30日)に新年が始まる。いくつかの暦では、アウグストゥスの誕生日9月23日に新年を合わせた。ビザンチン暦インディクティオに由来して9月1日に始まる(これは現在でも正教会典礼暦における新年である)。

中世のカレンダーはローマ人がしていたように1月から12月をそれぞれ28から31日までの日を含む12の縦の列として表示し続けたため、すべての西ヨーロッパ諸国(すなわちローマ・カトリック教会を信奉する諸国)は1月1日を「元日」(または同等の名称)と呼び続けた。しかし、これらの国のうちのほとんどは12月25日クリスマス)、3月25日受胎告知、春分の日)、あるいはフランスのように復活祭に新しい年を開始した(詳細については典礼暦を参照)。

2、3のイタリア都市国家を除くほとんどの西ヨーロッパ諸国は、グレゴリオ暦を採用する以前のまだユリウス暦を使っている間に(多くの場合は16世紀中に)、新しい年の最初の日を1月1日に移した。以下の表は各国が新年として1月1日を採用した年を示す。

1月1日を採用した年[11][12] 改暦した年
ヴェネツィア共和国 1522 1582
神聖ローマ帝国[13] 1544 1582
スペインポルトガル 1556 1582
プロイセンデンマークノルウェー 1559 1700
スウェーデン 1559 1753[14]
フランス 1564 1582
南ネーデルラント 1576[15] 1582
ロレーヌ 1579 1760
ネーデルラント連邦共和国のうち
ホラント州ゼーラント州
1583 1582
ホラント州ゼーラント州を除く
ネーデルラント連邦共和国
1583 1700
スコットランド 1600 1752
ロシア 1700 1918
トスカーナ 1721 1750
スコットランドを除く
大英帝国
1752 1752[16]
セルビア ? 1918

ユリウス暦を使用する正教会

現代の西方教会グレゴリオ暦を使用している。例外として、東方教会に分類されるがローマ教皇の教導下にある東方典礼カトリック教会の中には、ユリウス暦を使い続けているものがある[17]

正教会には現代でもユリウス暦を使用するものがある。ただし全ての正教会がユリウス暦を使用しているわけではなく[18]修正ユリウス暦と呼ばれる、2800年まではグレゴリオ暦と同じ日付となる新暦を使用している教会もある[19]

ユリウス暦を使用する教会では、21世紀ではユリウス暦とグレゴリオ暦の間に13日の差があるため、日付で固定される祭日は13日ずれて祝われる事になる。たとえば降誕祭(クリスマス)については、ユリウス暦の12月25日は20世紀・21世紀ではグレゴリオ暦の1月7日に相当し、西暦の1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる[18]。ただし復活大祭(パスハ)の計算のみは、フィンランド正教会エストニア正教会を除いてユリウス暦で計算され、全ての正教会で祝日の統一が行われている[19]

使用している暦 教会
ユリウス暦 エルサレム総主教庁アトス山コンスタンディヌーポリ総主教庁管掌だが、ユリウス暦を使用)、グルジア正教会ロシア正教会セルビア正教会日本ハリストス正教会ウクライナ正教会 (モスクワ総主教庁系)、各地の旧暦派正教会
修正ユリウス暦 コンスタンディヌーポリ総主教庁アレクサンドリア総主教庁アンティオキア総主教庁ギリシャ正教会キプロス正教会ルーマニア正教会ポーランド正教会ブルガリア正教会アメリカ正教会
グレゴリオ暦 フィンランド正教会エストニア正教会

ユリウス年

正確に365.25日を1年とする時間単位ユリウス年といい、天文学で広く用いられる。例えば1光年は、真空中のが1ユリウス年に進む距離である。

  • 1 ユリウス年 = 365.25日×86 400秒= 31 557 600 秒

注釈

  1. ^ 紀元前45年から紀元前5年までは40年である。したがって、4年に1度の閏年であれば、10回の閏年を入れるべきであった。しかし、誤って閏年を3年に1度置いたので、40÷3 = 13回の閏年を入れてしまった。そのため、13 - 10 = 3回分の閏年を省けばよいことになる。

脚注

  1. ^ 循環論法となってしまうため、参考として他の暦法の期日を示す。同日は中国暦初元3年11月29日、ユダヤ暦3716年4月29日である。計算はhttp://hosi.orgによる。
  2. ^ 改暦勅書の第9節
  3. ^ イエスの処刑は、ユダヤ教の過越しの日の前日すなわちニサン月14日(ヨハネによる福音書)または過越祭第一日目の同月15日(共観福音書)とある。
  4. ^ 改暦勅書(Inter gravissimas)6節および7節。"Quo igitur vernum aequinoctium, quod a patribus concilii Niaeni ad XII Kalendas Aprilis fuit constitutum, ad eamdem sedem restituatur..."いかにして(天文学的)春分をニケーア公会議で「固定」された3月21日に近づけるかが問題とされている。
  5. ^ 改暦勅書原文は1581年(anno Incarnationis dominicae MDLXXXI)と発布日を記す。記事で詳述するように中世以降のユリウス暦の新年は1月1日とは限らなかった。当時のローマ教皇庁自体、3月25日をユリウス暦新年とする暦法を採用していたため、2月24日は前年となる。
  6. ^ 「ゲルマニクス」はカリギュラの本名の最後の部分の名前であり、かつ自分の父(ゲルマニクス)の最初の部分の名前でもある。
  7. ^ ユリウス・クラウディウス朝の5人の皇帝のうち、自分の人名を月の名前に付けようとしなかったのはティベリウスだけである。
  8. ^ 詳細な証拠については、en:Julian calendarを参照
  9. ^ なお、イードゥースのほかにもノーナエという特別な名で呼ばれた日付があり、これを使っても月の日数を推定できる。
  10. ^ en:Julian calendarによれば、紀元前12年より前、祭事の日付による逆算ですでに2月の日数が28日であった証拠があるという。
  11. ^ John J. Bond, "Commencement of the Year", Handy-book of rules and tables for verifying dates with the Christian era, (London: 1875), 91–101.
  12. ^ Mike Spathaky Old Style and New Style Dates and the change to the Gregorian Calendar: A summary for genealogists
  13. ^ The source has Germany, whose current area during the sixteenth century was a major part of the Holy Roman Empire, a religiously divided confederation. The source is unclear as to whether all or only parts of the country made the change. In general, Roman Catholic countries made the change a few decades before Protestant countries did.
  14. ^ Sweden's conversion is complicated and took much of the first half of the 18th century. See Swedish calendar.
  15. ^ Per decree of 16 June 1575. Hermann Grotefend, "Osteranfang" (Easter beginning), Zeitrechnung de Deutschen Mittelalters und der Neuzeit (Chronology of the German Middle Ages and modern times) (1891–1898)
  16. ^ 1751 in England only lasted from 25 March to 31 December. The following dates 1 January to 24 March which would have concluded 1751 became part of 1752 when the beginning of the numbered year was changed from 25 March to 1 January.
  17. ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p353, ISBN 9780631232032
  18. ^ a b 質問: クリスマスは12月25日?ロシアでは1月7日に祝うと聞いたのですが
  19. ^ a b Revised Julian Calendar - OrthodoxWiki

関連項目