「天正遣欧少年使節」の版間の差分
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* [[松永伍一]]『天正の虹』(ファラオ企画、1991年) ISBN 4894091062 |
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* [[三浦哲郎]]『少年讃歌』 [[文藝春秋]] 1982年、のち文春文庫、第15回[[日本文学大賞]] |
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<!--* [http://web.archive.org/web/20040528105613/http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2004_04.html#ro NHKその時歴史が動いた 第173回日本の運命を背負った少年たち〜天正遣欧使節・ローマ教皇謁見の時〜] - 閉鎖。(2004年5月28日時点の[[インターネット |
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* [[村木嵐]]『マルガリータ』 [[文藝春秋]] 2010年、第17回[[松本清張賞]] |
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2017年9月4日 (月) 15:33時点における版
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。
目的
ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。
- 第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
- 第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。
使節団の構成
使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13~14歳であった。中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。
- 使節
- 随員
- ジョルジェ・ロヨラ修道士 使節の教育係、日本人
- コンスタンチノ・ドラード 印刷技術習得要員、日本人少年
- アグスチーノ 印刷技術習得要員、日本人少年
- アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。
- ヌーノ・ロドリゲス神父 ヴァリニャーノの後をついで一行に従う。
- ディオゴ・メスキータ神父 通訳、イエズス会員
- ロレンソ・メシア神父
- オリヴィエーロ修道士
関係年譜
- 1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日) 長崎港を出港。
- 1582年3月9日(天正10年旧暦2月15日) マカオ着。風を待つ。
- 1583年12月20日(天正11年旧暦11月7日) マラッカ・コチンをへてゴア着。
- 1584年8月10日 (天正12年旧暦7月5日)ポルトガルの首都リスボンに到着。サン・ロッケ教会が宿舎となる。リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれる。
- 1584年11月25日(天正12年旧暦10月23日) スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける。
- 1585年3月1日(天正13年旧暦1月30日)スペインのマヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る。イタリアの地を初めて踏む。
- 1585年3月2日(天正13年旧暦2月1日) 午後1時にピサに到着。ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見。その晩、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加。ピサ滞在中、斜塔や大聖堂をはじめとするピサのドゥオモ広場を訪れる。
- 1585年3月6日(天正13年旧暦2月5日)カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学する。この日は四旬節の初日である灰の水曜日であったため、トスカーナ大公とともに灰を受ける。
- 1585年3月7日(天正13年旧暦2月6日) フィレンツェに到着。シニョーリア広場にあるヴェッキオ宮殿に宿泊する。
- 1585年3月11日(天正13年旧暦2月10日) フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフで過ごす。
- 1585年3月23日(天正13年旧暦2月22日) ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
- 1585年5月1日(天正13年旧暦4月2日) グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席。
- 1585年6月3日(天正13年旧暦5月6日) ローマを出発。以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問。
- 1586年4月13日(天正14年旧暦2月25日) リスボンを出発。帰路につく。
- 1587年5月29日(天正15年旧暦4月23日) インドのゴアに到着。ヴァリニャーノに再会。コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる。また同月に長崎で大村純忠が死去。
- 1587年6月 豊後において大友宗麟が死去。
- 1587年7月 豊臣秀吉によるバテレン追放令発布。
- 1590年7月21日(天正18年旧暦6月20日) 使節団帰国。長崎に帰港。
- 1591年3月3日(天正19年閏1月8日) 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する。
使節団が持ち帰った西洋の文物
- 活版印刷機
- 西洋楽器
- 海図
記念碑等
- 4名全員の群像
- 伊東マンショ
- 千々石ミゲル
- 中浦ジュリアン
- 原マルティノ
天正遣欧少年使節を題材にした作品
小説
- 松永伍一『天正の虹』(ファラオ企画、1991年) ISBN 4894091062
- 三浦哲郎『少年讃歌』 文藝春秋 1982年、のち文春文庫、第15回日本文学大賞
- 村木嵐『マルガリータ』 文藝春秋 2010年、第17回松本清張賞
漫画
- 『子どもと十字架 天正遣欧少年使節』(吉川景都)
- 『サムライ・ラガッツィ -戦国少年西方見聞録-』(金田達也)
- 『天翔のクアドラブル』(新井隆広)
音楽
脚注
- ^ a b 出典 : 京都大学電子図書館、2014年8月閲覧
- ^ 出典 : 1-2 天正遣欧少年使節 - 大村市
- ^ 雲仙まるごとネット-千々石町観光情報
- ^ スポット詳細 千々石清左衛門碑 - じゃらん観光ガイド
参考文献
史料
- ※ 邦訳があるものに限る。
- 『天正少年使節関係史料 I』(覆刻版)東京大学史料編纂所〈大日本史料 第11編別巻〉、1982年。ISBN 4130905414。(初出は1959年)
- 『天正少年使節関係史料 II』(覆刻版)東京大学史料編纂所〈大日本史料 第11編別巻〉、1982年。ISBN 4130905422。(初出は1959年)
- 泉井久之助・長沢信寿・三谷昇二・角南一郎 訳『デ・サンデ天正遣欧使節記』雄松堂出版〈新異国叢書〉、1969年。
- 松田毅一 監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』同朋舎出版、1987年。
- 結城了悟『新史料 天正少年使節 1590年‐1990年』南窓社、2003年。ISBN 4816500391。
- ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳『フロイス日本史』中央公論新社〈中公文庫〉、2000年。
研究書籍
- 松田毅一『天正遣欧使節』(新装版)朝文社、2001年。ISBN 4886951562。(初出は1999年の講談社学術文庫)
- 若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』集英社〈集英社文庫〉、2003年。ISBN 4087753263。
- 橋口佐登司「天正少年使節原マルチノのルーツを探る一・二・三」『大村史談』24・25・26号、1983・1984年。
- 小佐々学「天正遣欧少年使節『中浦ジュリアン』の出自について」『大村史談』35号、1989年。
関連項目
外部リンク
- 天正少年使節の街 - 大村市観光振興課