「オラフ・トーン」の版間の差分
m Category:バイエルン・ミュンヘンの選手を除去; Category:FCバイエルン・ミュンヘンの選手を追加 (HotCat使用) |
|||
19行目: | 19行目: | ||
|背番号= |
|背番号= |
||
|利き足=右足 |
|利き足=右足 |
||
|クラブ={{Flagicon|DEU|size=17px}}[[シャルケ04]]<br />{{Flagicon|DEU|size=17px}}[[バイエルン・ミュンヘン]]<br />{{Flagicon|DEU|size=17px}}[[シャルケ04]] |
|クラブ={{Flagicon|DEU|size=17px}}[[シャルケ04]]<br />{{Flagicon|DEU|size=17px}}[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]<br />{{Flagicon|DEU|size=17px}}[[シャルケ04]] |
||
|年=1983-1988<br />1988-1994<br />1994-2002 |
|年=1983-1988<br />1988-1994<br />1994-2002 |
||
|出場(得点)= 157 (56)<br />148 (30)<br />166 (10)<!--国内リーグ戦に限る--> |
|出場(得点)= 157 (56)<br />148 (30)<br />166 (10)<!--国内リーグ戦に限る--> |
||
33行目: | 33行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1990-1126-024, Fußball-Deutschland-Cup, 1. FC Dynamo Dresden - FC Bayern München 1-0.jpg|thumb|left|[[バイエルン・ミュンヘン]]時代のトーン(右側)]] |
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1990-1126-024, Fußball-Deutschland-Cup, 1. FC Dynamo Dresden - FC Bayern München 1-0.jpg|thumb|left|[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]時代のトーン(右側)]] |
||
地元の有力クラブである[[シャルケ04]]の下部組織を経て、[[1983年]]に16歳でプロデビュー。当時[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]1部と2部を行き来していたクラブにあって、10代にして主力選手として活躍。身長170 cmと小柄ながら、攻撃的MFとして優れた状況判断力と豊富な運動量でチームを牽引した。 |
地元の有力クラブである[[シャルケ04]]の下部組織を経て、[[1983年]]に16歳でプロデビュー。当時[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]1部と2部を行き来していたクラブにあって、10代にして主力選手として活躍。身長170 cmと小柄ながら、攻撃的MFとして優れた状況判断力と豊富な運動量でチームを牽引した。 |
||
程なく[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]](当時)にも選出され、[[1984年]]12月16日の対[[サッカーマルタ代表|マルタ]]戦で代表デビューを果たした。[[1986年]]の[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップメキシコ大会]]や、地元開催となった[[1988年]]の[[UEFA欧州選手権1988|UEFA欧州選手権]]に臨む代表メンバーにも名を連ねている。 |
程なく[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]](当時)にも選出され、[[1984年]]12月16日の対[[サッカーマルタ代表|マルタ]]戦で代表デビューを果たした。[[1986年]]の[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップメキシコ大会]]や、地元開催となった[[1988年]]の[[UEFA欧州選手権1988|UEFA欧州選手権]]に臨む代表メンバーにも名を連ねている。 |
||
[[1988年]]に強豪[[バイエルン・ミュンヘン]]に移籍。ゲームメーカーとして攻撃陣の中核を担い、移籍初年度から2シーズン連続でリーグ優勝を成し遂げた。[[1990年]]には[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップイタリア大会]]の代表メンバーに選ばれ、自身は2試合の出場に留まったものの同国の3度目のワールドカップ優勝を経験した。なお準決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦ではPK戦の4人目のキッカーとして登場。これを確実に決め2大会連続の決勝進出に貢献している。 |
[[1988年]]に強豪[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]に移籍。ゲームメーカーとして攻撃陣の中核を担い、移籍初年度から2シーズン連続でリーグ優勝を成し遂げた。[[1990年]]には[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップイタリア大会]]の代表メンバーに選ばれ、自身は2試合の出場に留まったものの同国の3度目のワールドカップ優勝を経験した。なお準決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦ではPK戦の4人目のキッカーとして登場。これを確実に決め2大会連続の決勝進出に貢献している。 |
||
[[1994年]]からは故郷に戻りシャルケ04に復帰。この頃から[[リベロ (サッカー)|リベロ]]にポジション転向し、積極果敢な守備と前線への正確なパス供給、好機時の鋭い攻め上がりでチームを牽引した。[[1997年]]にはクラブ初の国際タイトルとなる[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]の獲得に貢献した。また[[1998年]]には[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップフランス大会]]において自身3度目となる代表選出を受け、負傷のため出場できなかった[[マティアス・ザマー]]に替わってリベロ役を務めた。 |
[[1994年]]からは故郷に戻りシャルケ04に復帰。この頃から[[リベロ (サッカー)|リベロ]]にポジション転向し、積極果敢な守備と前線への正確なパス供給、好機時の鋭い攻め上がりでチームを牽引した。[[1997年]]にはクラブ初の国際タイトルとなる[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]の獲得に貢献した。また[[1998年]]には[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップフランス大会]]において自身3度目となる代表選出を受け、負傷のため出場できなかった[[マティアス・ザマー]]に替わってリベロ役を務めた。 |
2017年8月29日 (火) 10:32時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
ラテン文字 | Olaf Thon | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1966年5月1日(58歳) | |||||
出身地 | ゲルゼンキルヒェン | |||||
身長 | 170 cm | |||||
体重 | 67 kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF, DF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1983-1988 1988-1994 1994-2002 |
シャルケ04 バイエルン・ミュンヘン シャルケ04 |
157 (56) 148 (30) 166 (10) | ||||
代表歴 | ||||||
1984-1998 | 西ドイツ | 52 (3) | ||||
監督歴 | ||||||
2010-2011 | VfB Hüls | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
オラフ・トーン(Olaf Thon, 1966年5月1日 - )は、ドイツ(旧西ドイツ)・ゲルゼンキルヒェン出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはミッドフィルダー、ディフェンダー(リベロ)。
経歴
地元の有力クラブであるシャルケ04の下部組織を経て、1983年に16歳でプロデビュー。当時ブンデスリーガ1部と2部を行き来していたクラブにあって、10代にして主力選手として活躍。身長170 cmと小柄ながら、攻撃的MFとして優れた状況判断力と豊富な運動量でチームを牽引した。
程なく西ドイツ代表(当時)にも選出され、1984年12月16日の対マルタ戦で代表デビューを果たした。1986年のワールドカップメキシコ大会や、地元開催となった1988年のUEFA欧州選手権に臨む代表メンバーにも名を連ねている。
1988年に強豪バイエルン・ミュンヘンに移籍。ゲームメーカーとして攻撃陣の中核を担い、移籍初年度から2シーズン連続でリーグ優勝を成し遂げた。1990年にはワールドカップイタリア大会の代表メンバーに選ばれ、自身は2試合の出場に留まったものの同国の3度目のワールドカップ優勝を経験した。なお準決勝のイングランド戦ではPK戦の4人目のキッカーとして登場。これを確実に決め2大会連続の決勝進出に貢献している。
1994年からは故郷に戻りシャルケ04に復帰。この頃からリベロにポジション転向し、積極果敢な守備と前線への正確なパス供給、好機時の鋭い攻め上がりでチームを牽引した。1997年にはクラブ初の国際タイトルとなるUEFAカップの獲得に貢献した。また1998年にはワールドカップフランス大会において自身3度目となる代表選出を受け、負傷のため出場できなかったマティアス・ザマーに替わってリベロ役を務めた。
2002年に36歳で引退。翌2003年1月にシャルケのホームスタジアム、アレーナ・アウフシャルケで行われた引退試合には6万席以上の客席が満員となるほどのファンが詰めかけた。
引退後はシャルケ04の監査役を経て、2010-2011シーズンにノルトライン=ヴェストファーレン州リーグのヒュルス (VfB Hüls) の監督を務めた。
獲得タイトル
- 代表チーム
- FIFAワールドカップ イタリア大会優勝(1990年)
- クラブ
- シャルケ04
- バイエルン・ミュンヘン
- ブンデスリーガ優勝(1988-1989・1989-1990・1993-1994シーズン)