「ジョルジ・デ・アモリン・カンポス」の版間の差分
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| 年2 = 1984-1989 | クラブ2 = {{Flagicon|BRA}} [[CRフラメンゴ|フラメンゴ]] | 出場2 = 188 | 得点2 = 7 |
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| 年3 = 1989-1992 | クラブ3 = {{Flagicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン|レバークーゼン]] | 出場3 = 87 | 得点3 = 9 |
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| 年4 = 1992-1995 | クラブ4 = {{Flagicon|GER}} [[バイエルン・ミュンヘン]] | 出場4 = 67 | 得点4 = 6 |
| 年4 = 1992-1995 | クラブ4 = {{Flagicon|GER}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]] | 出場4 = 67 | 得点4 = 6 |
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| 年5 = 1995-1998 | クラブ5 = {{Flagicon|JPN}} [[鹿島アントラーズ]] | 出場5 = 103 | 得点5 = 18 |
| 年5 = 1995-1998 | クラブ5 = {{Flagicon|JPN}} [[鹿島アントラーズ]] | 出場5 = 103 | 得点5 = 18 |
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| 年6 = 1999 | クラブ6 = {{Flagicon|BRA}} [[サンパウロFC|サンパウロ]] | 出場6 = 13 | 得点6 = 1 |
| 年6 = 1999 | クラブ6 = {{Flagicon|BRA}} [[サンパウロFC|サンパウロ]] | 出場6 = 13 | 得点6 = 1 |
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* [[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA]]:1回 ([[コパ・ウニオン|1987]]) |
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* [[キリンカップサッカー|キリンカップ]]:1回 (1988) |
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2017年8月29日 (火) 09:48時点における版
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名前 | ||||||||||||||
本名 |
ジョルジ・デ・アモリン・カンポス Jorge De Amorim Campos | |||||||||||||
ラテン文字 | JORGINHO | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 | ブラジル | |||||||||||||
生年月日 | 1964年8月17日(60歳) | |||||||||||||
出身地 | リオデジャネイロ | |||||||||||||
身長 | 175cm | |||||||||||||
体重 | 69kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | DF | |||||||||||||
利き足 | 右足 | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1982-1984 | アメリカ-RJ | 20 | (0) | |||||||||||
1984-1989 | フラメンゴ | 188 | (7) | |||||||||||
1989-1992 | レバークーゼン | 87 | (9) | |||||||||||
1992-1995 | バイエルン・ミュンヘン | 67 | (6) | |||||||||||
1995-1998 | 鹿島アントラーズ | 103 | (18) | |||||||||||
1999 | サンパウロ | 13 | (1) | |||||||||||
2000-2001 | ヴァスコ・ダ・ガマ | 28 | (2) | |||||||||||
2002 | フルミネンセ | 4 | (0) | |||||||||||
通算 | 510 | (42) | ||||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
1987-1996 | ブラジル | 64 | (3) | |||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
2006 | アメリカ-RJ | |||||||||||||
2006-2010 | ブラジル代表(アシスタント) | |||||||||||||
2010 | ゴイアス | |||||||||||||
2011 | フィゲイレンセ | |||||||||||||
2012 | 鹿島アントラーズ | |||||||||||||
2013 | フラメンゴ | |||||||||||||
2013 | ポンチ・プレッタ | |||||||||||||
2014 | アル・ワスル | |||||||||||||
2015-2016 | ヴァスコ・ダ・ガマ | |||||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。2017年1月13日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ジョルジーニョ (Jorginho) こと、ジョルジ・デ・アモリン・カンポス(Jorge De Amorim Campos、1964年8月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは右ディフェンダー (サイドバック) 、ミッドフィールダー(ボランチ)。
経歴
生い立ち
幼い頃に父親を事故で亡くし、貧しい少年時代を過ごした。13歳の時に地元リオデジャネイロのアメリカFCに入団した[1]。入団テストはセンターバックとして受けたが、身長不足のためサイドバックに転向し、機敏性と身体能力を武器にで頭角を現し、17歳の時に監督のエドゥの目に止まり、プロデビューを果たした[2]。
現役時代
1985年にCRフラメンゴに移籍し、ジーコらとともに1986年のリオ・デ・ジャネイロ州選手権と、1987年のブラジル全国選手権制覇に貢献した。1988年にはソウルオリンピックブラジル代表に選ばれ、銀メダルを獲得した。1989年にドイツのバイエル・レバークーゼンに海外移籍。そこでボランチに転向し、それ以後、クラブチームでは主にボランチとしてプレーした。1994年のワールドカップ・アメリカ大会では本来のポジションである右サイドバックとしてプレーし、母国のワールドカップ優勝に貢献した。
1995年に移籍した鹿島アントラーズではフィールド上で存在感を示し、数々のタイトル獲得の原動力となった[要出典]。1999年にブラジルに帰国し、3チームに所属し代表復帰を目指したが2003年に現役引退した。
引退後
引退後はいったん代理人業に従事するが、2006年に初めて在籍したクラブであるアメリカFCの監督として現場に復帰。同年夏からはドゥンガ監督のもとでブラジル代表のヘッドコーチに就任した。ワールドカップ・南アフリカ大会終了後は2010年にゴイアスEC、2011年にはフィゲイレンセFCの監督を歴任。フィゲイレンセでは、財政的に余力があるわけでもなく、知名度のある選手を補強することなく戦った同クラブを、シーズン終盤までコパ・リベルタドーレス出場権を争うチームに作り上げ、最終的に20チーム中の7位に導いた。この功績が評価され、ジョルジーニョは同年のリーグ最優秀監督候補の3人の中の1人に選出された。[3]
2012年、古巣である鹿島アントラーズの監督に就任[4]。同年のナビスコカップとスルガ銀行チャンピオンシップを制覇したが、1年限りで退任した。
2013年3月17日、古巣CRフラメンゴの監督に就任したが、6月7日に解任。8月25日、AAポンチ・プレッタの監督に就任。しかし、12月13日に解任。
2014年4月13日、2014-15シーズンからアル・ワスルFCの監督に就任する事が発表された[5]。
2015年8月17日、CRヴァスコ・ダ・ガマの監督に就任[6]。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2014年12月) |
敬虔なクリスチャンであり、誠実で温厚な性格で、ファンへの対応も丁寧だった。鹿島在籍時には、納豆も好んで食べていたと言う。
2000年、貧しい子供たちのための施設「Bola pra frente」(ボーラ・プラ・フレンチ)をリオ市郊外グァダルッピ地区に設立。
(Bola pra frente とは直訳すると「ボールを前へ」、即ち「前へ向けて進もう」という意)
ジョルジーニョ自身、経済的に苦しい少年時代を過ごしたことから同じ境遇にいる子供たちに人生の機会を与えたいと考えており、現在施設では6歳~17歳の約900人の少年少女たちがその年齢に合わせて学芸やスポーツ、職業訓練などを学んでいる。
個人成績
この節の加筆が望まれています。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1983 | アメリカ-RJ | 8 | 0 | ||||||||
1984 | 12 | 0 | |||||||||
1985 | フラメンゴ | 12 | 0 | ||||||||
1986 | 21 | 1 | |||||||||
1987 | 15 | 1 | |||||||||
1988 | 7 | 0 | |||||||||
1989 | |||||||||||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
1989-90 | レバークーゼン | ブンデスリーガ | 20 | 2 | |||||||
1990-91 | 30 | 2 | |||||||||
1991-92 | 37 | 5 | |||||||||
1992-93 | バイエルン | 33 | 3 | ||||||||
1993-94 | 24 | 2 | |||||||||
1994-95 | 10 | 1 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 鹿島 | - | J | 29 | 8 | - | 3 | 0 | 32 | 8 | |
1996 | - | 26 | 2 | 13 | 1 | 1 | 1 | 40 | 3 | ||
1997 | 2 | 31 | 5 | 12 | 7 | 5 | 4 | 48 | 16 | ||
1998 | 2 | 17 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 20 | 3 | ||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1999 | サンパウロ | 13 | 1 | ||||||||
2000 | ヴァスコ・ダ・ガマ | 13 | 1 | ||||||||
2001 | 22 | 1 | |||||||||
2002 | フルミネンセ | ||||||||||
2003 | |||||||||||
通算 | ブラジル | ||||||||||
ドイツ | ブンデスリーガ | 154 | 15 | ||||||||
日本 | J | 103 | 17 | 28 | 9 | 9 | 5 | 140 | 31 | ||
総通算 |
- その他の公式戦
- 1996年
- サントリーカップ 2試合0得点
- 1997年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1998年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- その他の国際公式戦
- 1997年 - 1998年
- アジアクラブ選手権 5試合2得点
- 1998年
- アジアカップウィナーズカップ 1試合0得点
代表歴
- 1983年 - 1995年 ブラジル代表
- 1987年 - コパ・アメリカ (GL敗退)
- 1988年 - ソウルオリンピック (銀メダル)
- 1990年 - FIFAワールドカップ (ベスト16、4試合0得点)
- 1994年 - FIFAワールドカップ (優勝、7試合0得点)
- 1995年 - コパ・アメリカ (準優勝)
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | ブラジル杯 | オープン杯 | |||
2006 | セリエC | アメリカ-RJ | ||||||||
2010 | セリエA | ゴイアス | 19位 | 33 | 38 | 8 | 9 | 21 | ベスト16 | |
2011 | フィゲイレンセ | 7位 | 58 | 38 | 15 | 13 | 10 | |||
年度 | 所属 | クラブ | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 |
2012 | J1 | 鹿島 | 11位 | 46 | 34 | 12 | 10 | 12 | 優勝 | ベスト4 |
獲得タイトル
選手時代
クラブ
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA:1回 (1987)
- キリンカップ:1回 (1988)
- ブンデスリーガ:1回 (1993-94)
- Jリーグ:2回 (1996, 1998)
- ヤマザキナビスコカップ:1回 (1997)
- 天皇杯:1回 (1997)
- FUJI XEROX SUPER CUP:2回 (1997, 1998)
個人
- Jリーグ最優秀選手賞 : 1996
- Jリーグベストイレブン : 1996
- ヤマザキナビスコカップMVP : 1997
- アントラーズ功労賞 : 2009
指導者時代
クラブ
- ヤマザキナビスコカップ:1回 (2012)
- スルガ銀行チャンピオンシップ:1回 (2012)
関連項目
脚注
- ^ 「南米あの人はいま」footballista、ソルメディア、2009年3月18日号、37頁
- ^ Sports Graphic Number、文藝春秋、1995年3月16日号、24-27頁
- ^ スポーツニッポン (2011年12月10日). “2011ブラジル全国選手権 中堅クラブを躍進させた元鹿島MFジョルジーニョ”. 2012年4月12日閲覧。
- ^ ジョルジーニョ氏の来季監督就任について合意 鹿島アントラーズ オフィシャルサイト
- ^ Qoly.jp (2014年4月14日). “アル・ワスル、ジョルジーニョ監督の就任を発表”. 2014年4月14日閲覧。
- ^ “元鹿島のジョルジーニョ、降格圏に沈むヴァスコの監督に就任”. Qoly.jp (2015年8月18日). 2016年6月25日閲覧。
外部リンク
- ジョルジーニョ(ジーコ公式サイト:ライブラリ / 名選手列伝)