コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ハンブルガーSV」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:FCバイエルン・ミュンヘン関連 - log
63行目: 63行目:


=== 1970年代から1980年代 ===
=== 1970年代から1980年代 ===
[[ファイル:Hamburger SV - Bayern München 1981-2.jpg|220px|thumb|1981年2月に行われた[[バイエルン・ミュンヘン]]戦。]]
[[ファイル:Hamburger SV - Bayern München 1981-2.jpg|220px|thumb|1981年2月に行われた[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦。]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1982-0915-037, Europapokal, BFC Dynamo-Hamburger SV 1-1.jpg|220px|thumb|1982年9月に行われた[[ベルリナーFCディナモ|ディナモ・ベルリン]]戦。]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1982-0915-037, Europapokal, BFC Dynamo-Hamburger SV 1-1.jpg|220px|thumb|1982年9月に行われた[[ベルリナーFCディナモ|ディナモ・ベルリン]]戦。]]
1972–73シーズンには[[DFLリーガポカール|DFBリーガポカール]]で優勝<ref name="70er"/>。国内リーグではゼーラーの引退と前後して下位に低迷したものの、{{仮リンク|クノ・クレッツァー|en|Kuno Klötzer}}監督の指揮の下で後にドイツ代表となる[[マンフレート・カルツ]]、[[フェリックス・マガト]]、{{仮リンク|カスパー・メメリング|de|Caspar Memering}}らが加入。1975–76シーズンにはDFBポカール決勝で[[1.FCニュルンベルク]]を2-0と下し2度目のタイトルを獲得すると、[[UEFAカップウィナーズカップ 1976-77]]ではベルギーの[[RSCアンデルレヒト]]を2–0と下して初のヨーロッパタイトルを獲得した<ref name="70er"/><ref>{{Cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/ecwc/history/season=1976/intro.html|title=1976/77: Hamburg end Anderlecht's dream|publisher=UEFA.com|accessdate=2014年9月15日}}</ref>。さらに[[1977年]]5月、イングランドの[[リヴァプールFC]]から当時の世界的選手の一人だった[[ケビン・キーガン]]が移籍<ref name="70er"/>。翌[[1978年]]1月にはゼネラルマネージャーとして[[ギュンター・ネッツァー]]、同年7月には監督としてユーゴスラビアの{{仮リンク|ブランコ・ゼベツ|en|Branko Zebec}}を招聘<ref name="70er"/>。ストライカーの[[ホルスト・ルベッシュ]]も加入し1978-79シーズンにはブンデスリーガ初優勝を果たした<ref name="70er"/>。
1972–73シーズンには[[DFLリーガポカール|DFBリーガポカール]]で優勝<ref name="70er"/>。国内リーグではゼーラーの引退と前後して下位に低迷したものの、{{仮リンク|クノ・クレッツァー|en|Kuno Klötzer}}監督の指揮の下で後にドイツ代表となる[[マンフレート・カルツ]]、[[フェリックス・マガト]]、{{仮リンク|カスパー・メメリング|de|Caspar Memering}}らが加入。1975–76シーズンにはDFBポカール決勝で[[1.FCニュルンベルク]]を2-0と下し2度目のタイトルを獲得すると、[[UEFAカップウィナーズカップ 1976-77]]ではベルギーの[[RSCアンデルレヒト]]を2–0と下して初のヨーロッパタイトルを獲得した<ref name="70er"/><ref>{{Cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/ecwc/history/season=1976/intro.html|title=1976/77: Hamburg end Anderlecht's dream|publisher=UEFA.com|accessdate=2014年9月15日}}</ref>。さらに[[1977年]]5月、イングランドの[[リヴァプールFC]]から当時の世界的選手の一人だった[[ケビン・キーガン]]が移籍<ref name="70er"/>。翌[[1978年]]1月にはゼネラルマネージャーとして[[ギュンター・ネッツァー]]、同年7月には監督としてユーゴスラビアの{{仮リンク|ブランコ・ゼベツ|en|Branko Zebec}}を招聘<ref name="70er"/>。ストライカーの[[ホルスト・ルベッシュ]]も加入し1978-79シーズンにはブンデスリーガ初優勝を果たした<ref name="70er"/>。
92行目: 92行目:
そして16位で迎えた最終節の[[VfLヴォルフスブルク]]戦、両チーム共に勝てば自力残留が決まる大一番を2-1で勝利し14位で残留を決めた。
そして16位で迎えた最終節の[[VfLヴォルフスブルク]]戦、両チーム共に勝てば自力残留が決まる大一番を2-1で勝利し14位で残留を決めた。


2010年以降、[[バイエルン・ミュンヘン]]を非常に苦手としており、0-6(2010-11),0-5(2011-12),2-9(2012-13),1-4(2013-14),0-8(2014-15),0-5(2015-16),0-8(2016-17)と7年連続で大敗している。また、過去10試合で44失点を記録し、1試合平均4.4ゴールを決められている計算となる<ref>{{Cite web|url=http://www.footballchannel.jp/2015/08/15/post101903/|title=酒井高のHSV、5失点大敗。バイエルン戦過去10試合で44失点を記録|publisher=フットボールチャンネル|accessdate=2015年8月15日}}</ref>。
2010年以降、[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]を非常に苦手としており、0-6(2010-11),0-5(2011-12),2-9(2012-13),1-4(2013-14),0-8(2014-15),0-5(2015-16),0-8(2016-17)と7年連続で大敗している。また、過去10試合で44失点を記録し、1試合平均4.4ゴールを決められている計算となる<ref>{{Cite web|url=http://www.footballchannel.jp/2015/08/15/post101903/|title=酒井高のHSV、5失点大敗。バイエルン戦過去10試合で44失点を記録|publisher=フットボールチャンネル|accessdate=2015年8月15日}}</ref>。


== タイトル ==
== タイトル ==

2017年8月29日 (火) 09:34時点における版

ハンブルガーSV
原語表記 Hamburger Sport-Verein
愛称 HSV(ハー・エス・ファウ)
クラブカラー 青と白と黒
創設年 1887年
所属リーグ ドイツ・ブンデスリーガ
所属ディビジョン 1部
ホームタウン ハンブルク
ホームスタジアム フォルクスパルクシュタディオン
収容人数 57,000
代表者 ドイツの旗 カール=エトガー・ヤルホフ
監督 ドイツの旗 マルクス・ギスドル
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ハンブルガー・シュポルト=フェァアインHamburger Sport-Verein)は、ドイツハンブルクに本拠地を置く総合スポーツクラブ。通称:ハンブルガーSV(ハンブルガー・エス・ファウ)、略称:HSV(ハー・エス・ファウ)。「Sport-Verein」(シュポルト=フェァアイン)とは英語で「スポーツクラブ」と訳せる言葉である。サッカー部門が特に知られており、トップチームは2016年の時点でブンデスリーガから降格した経験がない[1]。この他にもバドミントンバスケットボール野球ハンドボールをはじめ様々な種目のスポーツ部門を傘下に持つ[1]

歴史

創設期

ハンブルク市の旗や紋章に描かれた赤色はクラブのユニフォームカラーとして採用された。

1887年9月29日、「フェライネン・ヴァンツベック=マリーンターラーSC」と「ホッヘンフェルダーSC」が合併しSCゲルマニア英語版を創設[2]。同クラブはハンブルガーSVの前身となる3つのスポーツクラブのうちの一つであり、クラブはこの年を創設年としている[2]

1888年6月1日、ギムナジウムの学生により「ハンブルガーFC」を創設し、1914年に「ハンブルガーSV」と改称[2]1906年には「FCファルケ」が創設されたが、3つのクラブは第一次世界大戦終結後の1919年7月1日に「ハンブルガーSV」として合併した[2]。クラブの公式カラーは「ハンブルガーSV」や「SCゲルマニア」のカラーでもあったが採用されたが、それとは対照的にホーム用のユニフォームにはハンブルク市の旗や紋章の色でありハンザ同盟の色でもあると白を採用した[2]

ドイツ・サッカー選手権では1921-22シーズンに初の決勝進出を果たし1.FCニュルンベルクとの対戦となり再試合に持ち込まれたが2試合とも決着がつかずドイツサッカー連盟 (DFB) はハンブルガーSVを勝者と定めたが、クラブはこのタイトルを返上した[2]。翌1922-23シーズンに2大会連続で決勝進出をするとウニオン・オーバーシェーネヴァイデを3-0で下し初タイトルを獲得[2]、1927-28シーズンにはヘルタ・ベルリンを5-2で下し2度目のタイトルを獲得した[2]

1950年代から1960年代

1950年代から1960年代の中心選手・ウーヴェ・ゼーラー

1953年、後にドイツ代表となるウーヴェ・ゼーラーが入団[3]。1955-56シーズンのDFBポカールでは決勝戦でカールスルーエSCに敗れ準優勝に終わったが、1959–60シーズンのドイツ選手権では決勝で1.FCケルンを3-2と下し32年ぶり3度目のタイトルを獲得。ゼーラーは1960年から選定の始まった年間最優秀選手賞の最初の受賞者となった[3]。1962–63シーズンのDFBポカールでは決勝戦でボルシア・ドルトムントを3-0と下して初優勝を果たすと、国際舞台においてもUEFAカップウィナーズカップ 1967-68ではフランスのオリンピック・リヨンやウェールズのカーディフ・シティFCなどを下して決勝進出、決勝戦ではイタリアのACミランに敗れたものの準優勝の結果を残した[3]。ゼーラーは1964年[3]1970年[4]にも年間最優秀選手賞を受賞し人気選手となったが、一方で国内リーグでは1963年に発足したブンデスリーガの創設メンバーとなったものの[3]、ゼーラーの現役時代にはリーグタイトルを獲得することは出来なかった。

1970年代から1980年代

1981年2月に行われたバイエルン・ミュンヘン戦。
1982年9月に行われたディナモ・ベルリン戦。

1972–73シーズンにはDFBリーガポカールで優勝[4]。国内リーグではゼーラーの引退と前後して下位に低迷したものの、クノ・クレッツァー英語版監督の指揮の下で後にドイツ代表となるマンフレート・カルツフェリックス・マガトカスパー・メメリングドイツ語版らが加入。1975–76シーズンにはDFBポカール決勝で1.FCニュルンベルクを2-0と下し2度目のタイトルを獲得すると、UEFAカップウィナーズカップ 1976-77ではベルギーのRSCアンデルレヒトを2–0と下して初のヨーロッパタイトルを獲得した[4][5]。さらに1977年5月、イングランドのリヴァプールFCから当時の世界的選手の一人だったケビン・キーガンが移籍[4]。翌1978年1月にはゼネラルマネージャーとしてギュンター・ネッツァー、同年7月には監督としてユーゴスラビアのブランコ・ゼベツを招聘[4]。ストライカーのホルスト・ルベッシュも加入し1978-79シーズンにはブンデスリーガ初優勝を果たした[4]

UEFAチャンピオンズカップ 1979-80では準決勝でスペインのレアル・マドリードを下し決勝進出を果たすが、決勝ではブライアン・クラフの率いるイングランドのノッティンガム・フォレストFCに0-1で敗退[6][7]

1981年7月、 オーストリアのエルンスト・ハッペルが監督に就任[6]UEFAカップ1981-82では決勝戦でスウェーデンのIFKヨーテボリに敗れタイトルを逃したが[6][8]、1981-82シーズンのブンデスリーガでは36試合無敗記録を作り、1978-79シーズン以来2度目のタイトルを獲得[6]。27得点をあげたルベッシュが得点王となった[6]。翌1982-83にはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場しソ連のディナモ・キエフやスペインのレアル・ソシエダを下して決勝戦へ進出すると、決勝ではイタリアのユヴェントスFCをマガトの決勝点で1-0と下し初優勝を収めた[6][9]。またブンデスリーガにおいても連覇を成し遂げるなど、クラブの歴史上において最も成功した瞬間を祝った[6]。その後、1986-87シーズンのブンデスリーガでは2位となり、DFBポカール決勝ではシュトゥットガルター・キッカーズを3-1と下して3度目のタイトルを獲得したが[6]、ハッペルは1987年6月限りで退任した。

1990年代から2000年代

ハッペルの退任を経て1990年代に入ると下位に低迷するようになり、1990–91シーズンに在籍したトーマス・ドルが当時の記録となる1600万ドイツマルクの移籍金でイタリアのSSラツィオへ移籍したことや、クラブOBのマガトの監督復帰やゼーラーの会長就任などが明るい話題となった[10]

1999-00シーズンにはフランク・パーゲルスドルフドイツ語版監督の指揮の下で好調を維持しリーグ戦を3位で終えると、UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01予選への出場権を獲得[10][11]。デンマークのブレンビーIFを下して1次グループリーグへ進出すると、イタリアのユヴェントスFCに対して1勝1引き分けと健闘したもののスペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャとギリシャのパナシナイコスFCに競り負けグループ3位で敗退した[11][12]

2004年、クラブOBのドルが監督に就任[11]。2005-06シーズンは3位でシーズンを終え[11]、オフには左サイドバックとしてファン・パブロ・ソリン、ディフェンスラインの要としてヴァンサン・コンパニヨリス・マタイセン、FWにはブバカル・サノゴダニエル・リュボヤを獲得したが、2006-07シーズンは攻守の歯車がかみ合わず、一時期は2部降格圏をさまようまで成績が低迷、ドルからフープ・ステフェンス英語版への監督交代で建て直しに成功したが、2000-01シーズン以来の出場となったUEFAチャンピオンズリーグ 2006-07では、予備戦3回戦でCAオサスナに勝ち抜き本戦出場を決めたものの、アーセナルポルトCSKAモスクワと同組となったグループリーグでは第5節まで連敗を続け、最終節のホームで迎えたCSKAモスクワ戦で勝利したものの、1勝5敗でグループリーグ最下位での敗退となった[13]

2008年、オランダのマルティン・ヨルが監督に就任[11]。2008–09シーズンのDFBポカールとUEFAカップ 2008-09はともに準決勝進出を果たすが、いずれもヴェルダー・ブレーメンに敗れ決勝進出を逃した[11][14]2009年、ヨルの後任としてブルーノ・ラッバディアが監督に就任[11]。UEFAカップから改編されたUEFAヨーロッパリーグ 2009-10では準決勝進出を果たすが、イングランドのフラムFCに敗れた[11][15]

2010年代

2010-11シーズンからはアルミン・フェーが監督に就任したが、シーズンを通じて成績が低迷し2011年3月に行われたバイエルン・ミュンヘン戦で0-6と大敗すると、監督を解任された[11]。最終的に8位でシーズンを終えたが、それまで維持し続けていたUEFA主催の国際大会への出場権を失った[11]。2011-12シーズンは開幕から下位に低迷し[16]、2011年10月にトルステン・フィンクが監督に就任した後も成績が伸び悩むなどクラブ史上初の降格も現実味を帯びたが[17]15位で辛うじて残留を果たし、翌2012-13シーズンは7位でシーズンを終えた。

2013-14シーズンも引き続きフィンクが指揮を執ったがシーズン最中に解任され[18]、オランダのベルト・ファン・マルワイクが監督に就任したがチーム状態を立て直すことは出来ず2014年2月に解任[19]。後任にミルコ・スロムカが就任すると[20]最終的に16位となり、SpVggグロイター・フュルトとの入れ替え戦の末にかろうじて残留を決めた[1][21]

2014-15シーズンも不振を抜けられず、昇格組のパーダーボルンに完封負けするなど1分2敗となり、9月15日にスロムカ監督を解任した[1][22]

ブルーノ・ラッバディア監督就任後に最後の数試合で勝ち点10を獲得。特に最終節の前までは自動降格圏内の17位であったが、最終戦のシャルケ戦を2-0でものにし、最終的には逆転で昨シーズンに続き16位となった。山田大記の所属するカールスルーエSCとの入れ替え戦は、第1戦のホームを1-1で引き分けるも、第2戦のアウェー戦を延長戦の末、2-1の勝利で残留を果たした。なおセレッソ大阪から復帰したゴイコ・カチャルはシーズン終盤の31節から33節にかけて3連続ゴールを決め残留に貢献した[23]

2016-17シーズンは開幕5試合で勝ち点1に留まりラッバディアは解任され、後任にマルクス・キズドルが就任。その後も未勝利が続いたが、12節でようやく初勝利を挙げる。 そして16位で迎えた最終節のVfLヴォルフスブルク戦、両チーム共に勝てば自力残留が決まる大一番を2-1で勝利し14位で残留を決めた。

2010年以降、バイエルン・ミュンヘンを非常に苦手としており、0-6(2010-11),0-5(2011-12),2-9(2012-13),1-4(2013-14),0-8(2014-15),0-5(2015-16),0-8(2016-17)と7年連続で大敗している。また、過去10試合で44失点を記録し、1試合平均4.4ゴールを決められている計算となる[24]

タイトル

国内タイトル

  • 北ドイツ・サッカー選手権:10回
    • 1921, 1922, 1923, 1924, 1925, 1928, 1929, 1931, 1932, 1933
  • ガウリーガ・ノルトマルク:4回
    • 1937, 1938, 1939, 1941
  • ガウリーガ・ハンブルク:1回
    • 1945
  • シュタッツリーガ・ハンブルク:1回
    • 1946

国際タイトル

過去の成績

出典[25]
シーズン ディビジョン DFBポカール
リーグ 順位
1963-64 ブンデスリーガ1部 6位 30 11 10 9 69 60 +9 32 1回戦敗退
1964-65 ブンデスリーガ1部 11位 30 11 5 14 46 56 -10 27 2回戦敗退
1965-66 ブンデスリーガ1部 9位 34 13 8 13 64 52 +12 34 準々決勝敗退
1966-67 ブンデスリーガ1部 14位 34 10 10 14 37 53 -16 30 準優勝
1967-68 ブンデスリーガ1部 13位 34 11 11 12 51 54 -3 33 1回戦敗退
1968-69 ブンデスリーガ1部 6位 34 13 10 11 55 55 0 36 準々決勝敗退
1969-70 ブンデスリーガ1部 6位 34 12 11 11 57 54 +3 35 2回戦敗退
1970-71 ブンデスリーガ1部 5位 34 13 11 10 54 63 −9 37 準々決勝敗退
1971-72 ブンデスリーガ1部 10位 34 13 7 14 52 52 0 33 2回戦敗退
1972-73 ブンデスリーガ1部 14位 34 10 8 16 53 59 −6 28 2回戦敗退
1973-74 ブンデスリーガ1部 12位 34 13 5 16 53 62 −9 31 準優勝
1974-75 ブンデスリーガ1部 4位 34 18 7 9 55 38 +17 43 2回戦敗退
1975-76 ブンデスリーガ1部 2位 34 17 7 10 59 32 +27 41 優勝
1976-77 ブンデスリーガ1部 6位 34 14 10 10 67 56 +11 38 2回戦敗退
1977-78 ブンデスリーガ1部 10位 34 14 6 14 61 67 −6 34 4回戦敗退
1978-79 ブンデスリーガ1部 1位 34 21 7 6 78 32 +46 49 1回戦敗退
1979-80 ブンデスリーガ1部 2位 34 20 8 6 86 35 +51 48 3回戦敗退
1980-81 ブンデスリーガ1部 2位 34 21 7 6 73 43 +30 49 準々決勝敗退
1981-82 ブンデスリーガ1部 1位 34 18 12 4 95 45 +50 48 準決勝敗退
1982-83 ブンデスリーガ1部 1位 34 20 12 2 79 33 +46 52 3回戦敗退
1983-84 ブンデスリーガ1部 2位 34 21 6 7 75 36 +39 48 3回戦敗退
1984-85 ブンデスリーガ1部 5位 34 14 9 11 58 49 +9 37 1回戦敗退
1985-86 ブンデスリーガ1部 7位 34 17 5 12 52 35 +17 39 1回戦敗退
1986-87 ブンデスリーガ1部 2位 34 19 9 6 69 37 +32 47 優勝
1987-88 ブンデスリーガ1部 6位 34 13 11 10 63 68 −5 37 準決勝敗退
1988-89 ブンデスリーガ1部 4位 34 17 9 8 60 36 +24 43 準々決勝敗退
1989-90 ブンデスリーガ1部 11位 34 13 5 16 39 46 −7 31 1回戦敗退
1990-91 ブンデスリーガ1部 5位 34 16 8 10 60 38 +22 40 3回戦敗退
1991-92 ブンデスリーガ1部 12位 38 9 16 13 32 43 −11 34
1992-93 ブンデスリーガ1部 11位 34 8 15 11 42 44 −2 31 2回戦敗退
1993-94 ブンデスリーガ1部 12位 34 13 8 13 48 52 −4 34 ベスト16
1994-95 ブンデスリーガ1部 13位 34 10 9 15 43 50 −7 29 2回戦敗退
1995-96 ブンデスリーガ1部 5位 34 12 14 8 52 47 +5 50 1回戦敗退
1996-97 ブンデスリーガ1部 13位 34 10 11 13 46 60 −14 41 準決勝敗退
1997-98 ブンデスリーガ1部 9位 34 11 11 12 38 46 −8 44 2回戦敗退
1998-99 ブンデスリーガ1部 7位 34 13 11 10 47 46 +1 50 ベスト16
1999-2000 ブンデスリーガ1部 3位 34 16 11 7 63 39 +24 59 3回戦敗退
2000-01 ブンデスリーガ1部 13位 34 10 11 13 58 58 0 41 2回戦敗退
2001-02 ブンデスリーガ1部 11位 34 10 10 14 51 57 −6 40 2回戦敗退
2002-03 ブンデスリーガ1部 4位 34 15 11 8 46 36 +10 56 ベスト16
2003-04 ブンデスリーガ1部 8位 34 14 7 13 47 60 −13 49 ベスト16
2004-05 ブンデスリーガ1部 8位 34 16 3 15 55 50 +5 51 1回戦敗退
2005-06 ブンデスリーガ1部 3位 34 21 5 8 53 30 +23 68 3回戦敗退
2006-07 ブンデスリーガ1部 7位 34 10 15 9 43 37 +6 45 1回戦敗退
2007-08 ブンデスリーガ1部 4位 34 14 12 8 47 26 +21 54 準々決勝敗退
2008-09 ブンデスリーガ1部 5位 34 19 4 11 49 47 +2 61 準決勝敗退
2009-10 ブンデスリーガ1部 7位 34 13 13 8 56 41 +15 52 2回戦敗退
2010-11 ブンデスリーガ1部 8位 34 12 9 13 46 52 −6 45 2回戦敗退
2011-12 ブンデスリーガ1部 15位 34 8 12 14 35 57 −22 36 3回戦敗退
2012-13 ブンデスリーガ1部 7位 34 14 6 14 42 53 −11 48 1回戦敗退
2013-14 ブンデスリーガ1部 16位 34 7 6 21 51 75 −24 27 準々決勝敗退
2014-15 ブンデスリーガ1部 16位 34 9 8 17 25 50 −25 35 2回戦敗退
2015-16 ブンデスリーガ1部 10位 34 11 8 15 40 46 −6 41 1回戦敗退
2016-17 ブンデスリーガ1部 14位 34 10 8 16 33 61 −28 38 準々決勝敗退
2017-18 ブンデスリーガ1部 34

現所属メンバー

2016-2017シーズン基本フォーメーション
2017年8月3日現在[26]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK ドイツ クリスティアン・マテニア
2 DF ドイツ デニス・ディークマイアー
4 DF オランダ リック・ファン・ドロンヘレン
5 DF アルバニア メルギム・マフライ
6 DF ブラジル ドウグラス・サントス
7 FW アメリカ合衆国 ボビー・ウッド
8 MF ドイツ ルイス・ホルトビー
9 DF ギリシャ キリアコス・パパドプーロス (副主将)
10 FW ドイツ ピエール=ミシェル・ラソッガ
11 FW ドイツ アンドレ・ハーン
12 MF ブラジル ワラシ
13 GK ドイツ ユリアン・ポラースベック
14 MF ドイツ アーロン・ハント
15 FW ドイツ ルカ・ヴァルトシュミット
16 MF スイス ヴァシリエ・ヤニチッチ
No. Pos. 選手名
17 MF セルビア フィリップ・コスティッチ
18 MF ガンビア ベーカリー・ジャッタ
19 FW ドイツ スヴェン・シプロック
20 MF スウェーデン アルビン・エクダル
22 DF ドイツ ビェルネ・テルケ
24 DF 日本 酒井高徳 ()★
25 MF ドイツ マッツ・コーラー
27 MF ドイツ ニコライ・ミュラー
28 DF ドイツ ギデオン・ユング
30 GK スイス アンドレアス・ヒルツェル
31 MF チュニジア モハメド・グアイダ
34 MF ドイツ フィン・ポラート
36 GK ドイツ トム・ミケル
38 DF ドイツ ヨナス・ベホウネク
43 FW トルコ バトゥハン・アルティンタス
監督

ローン移籍選手

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- MF クロアチア アレン・ハリロヴィッチ (ラス・パルマス)
No. Pos. 選手名
-- MF ドイツ アリアニト・フェラティ (アウエ)

歴代監督

出典[27]

歴代所属選手

GK

DF

MF

FW

その他のスポーツ

ドイツのスポーツクラブはその傘下にいろいろな種類のスポーツ部門を持つ「総合型スポーツクラブ」として知られているが、HSVにはほかに以下のものがある。

脚注

  1. ^ a b c d ハンブルガーSVのクラブデータ”. ブンデスリーガ公式ウェブサイト. 2014年9月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h Die Entstehungsgeschichte des Hamburger Sport-Vereins”. HSV.de. 2014年9月9日閲覧。
  3. ^ a b c d e Die Ära Uwe Seeler”. HSV.de. 2014年9月15日閲覧。
  4. ^ a b c d e f Die 70er Jahre”. HSV.de. 2014年9月15日閲覧。
  5. ^ 1976/77: Hamburg end Anderlecht's dream”. UEFA.com. 2014年9月15日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h Die 80er Jahre”. HSV.de. 2014年9月15日閲覧。
  7. ^ 1979/80: Shilton keeps Hamburg at bay”. UEFA.com. 2014年9月15日閲覧。
  8. ^ 1981/82: Eriksson plots Göteborg success”. UEFA.com. 2014年9月15日閲覧。
  9. ^ 1982/83: Magath thunderbolt downs Juve”. UEFA.com. 2014年9月15日閲覧。
  10. ^ a b Die 90er Jahre”. HSV.de. 2014年9月15日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j 2000 bis zur Gegenwart”. HSV.de. 2014年9月15日閲覧。
  12. ^ UEFA Champions League 2000/01 - History - Hamburg-Deportivo Lineups”. UEFA.com. 2014年9月15日閲覧。
  13. ^ UEFA Champions League 2006/07 - History - Hamburg-CSKA Moskva”. UEFA.com. 2014年9月15日閲覧。
  14. ^ Bremen fightback earns final place”. UEFA.com (2009年5月8日). 2014年9月15日閲覧。
  15. ^ 夢破れ、悲嘆に暮れるハンブルク”. UEFA.com (2010年4月30日). 2014年9月15日閲覧。
  16. ^ バーゼルのフィンク監督、不振のハンブルクへ”. UEFA.com (2011年10月13日). 2014年9月15日閲覧。
  17. ^ 巻き返しを図るリヨンとハンブルク”. UEFA.com (2012年3月9日). 2014年9月15日閲覧。
  18. ^ ハンブルクがフィンク監督を解任”. UEFA.com (2013年9月17日). 2014年9月15日閲覧。
  19. ^ ハンブルクがファン・マルバイク監督を解任”. UEFA.com (2014年2月16日). 2014年9月15日閲覧。
  20. ^ 降格の危機にも前を向くハンブルク”. UEFA.com (2014年5月6日). 2014年9月15日閲覧。
  21. ^ ハンブルク残留”. ブンデスリーガ公式ウェブサイト (2014年5月18日). 2014年9月15日閲覧。
  22. ^ ハンブルク、スロムカ監督解任”. ブンデスリーガ公式HP (2014年9月15日). 2014年9月16日閲覧。
  23. ^ Gojko Kacar - Spieler bei Hamburger SV - Bundesliga 2014/2015”. Fussballdaten. 2015年7月19日閲覧。
  24. ^ 酒井高のHSV、5失点大敗。バイエルン戦過去10試合で44失点を記録”. フットボールチャンネル. 2015年8月15日閲覧。
  25. ^ Archive”. Deutscher Fußball-Bund e.V.. 2014年8月10日閲覧。
  26. ^ Spieler”. HSV.de. 2017年8月3日閲覧。
  27. ^ Hamburger SV - Trainerhistorie”. kicker.de. 2014年9月9日閲覧。

外部リンク