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後任にオーナーは前任者と同じイタリア系アメリカ人のジェームズ・パロッタに、監督は[[ズデネク・ゼーマン]]の就任を発表。しかしリーグ戦での不振が要因でゼーマンは2013年2月2日に解任された。後任には長くローマでテクニカルスタッフを担当しているアウレリオ・アンドレアッツォーリが暫定的に指揮を執ることになった。2013年6月12日、[[LOSCリール・メトロポール|リール]]から[[リュディ・ガルシア]]の招聘。夏の移籍市場では、[[マイコン・ダグラス・シセナンド|マイコン]]、[[アデム・リャイッチ]]、[[ジェルヴィーニョ]]、[[ラジャ・ナインゴラン]]、[[ケヴィン・ストロートマン]]、[[メディ・ベナティア]]など実力者を多数獲得。2013-14シーズンは、セリエA記録となる開幕10連勝を達成、その後もインテルなどのライバルチームに勝利を収め、17節カターニャ戦まで無敗を維持した。
後任にオーナーは前任者と同じイタリア系アメリカ人のジェームズ・パロッタに、監督は[[ズデネク・ゼーマン]]の就任を発表。しかしリーグ戦での不振が要因でゼーマンは2013年2月2日に解任された。後任には長くローマでテクニカルスタッフを担当しているアウレリオ・アンドレアッツォーリが暫定的に指揮を執ることになった。2013年6月12日、[[LOSCリール・メトロポール|リール]]から[[リュディ・ガルシア]]の招聘。夏の移籍市場では、[[マイコン・ダグラス・シセナンド|マイコン]]、[[アデム・リャイッチ]]、[[ジェルヴィーニョ]]、[[ラジャ・ナインゴラン]]、[[ケヴィン・ストロートマン]]、[[メディ・ベナティア]]など実力者を多数獲得。2013-14シーズンは、セリエA記録となる開幕10連勝を達成、その後もインテルなどのライバルチームに勝利を収め、17節カターニャ戦まで無敗を維持した。


2014-15シーズンは、ベナティアが[[バイエルン・ミュンヘン]]に移籍したものの、[[コンスタンティノス・マノラス]]、[[アシュリー・コール]]、[[ウルビー・エマヌエルソン]]、[[フアン・マヌエル・イトゥルベ]]、[[セイドゥ・ケイタ]]、[[ダヴィデ・アストーリ]]らを獲得し冬の移籍市場では、[[ビクトル・イバルボ]]、[[セイドゥ・ドゥンビア]]、[[ニコラス・スポッリ]]を獲得。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では[[バイエルン・ミュンヘン]]、[[マンチェスター・シティ]]に勝ちきれずグループステージ敗退となった。[[UEFAヨーロッパリーグ]]ではベスト16で[[ACFフィオレンティーナ]]に敗れた。リーグ戦では[[SSラツィオ]]相手にトッティが2ゴールを挙げる活躍を見せた。
2014-15シーズンは、ベナティアが[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]に移籍したものの、[[コンスタンティノス・マノラス]]、[[アシュリー・コール]]、[[ウルビー・エマヌエルソン]]、[[フアン・マヌエル・イトゥルベ]]、[[セイドゥ・ケイタ]]、[[ダヴィデ・アストーリ]]らを獲得し冬の移籍市場では、[[ビクトル・イバルボ]]、[[セイドゥ・ドゥンビア]]、[[ニコラス・スポッリ]]を獲得。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]、[[マンチェスター・シティ]]に勝ちきれずグループステージ敗退となった。[[UEFAヨーロッパリーグ]]ではベスト16で[[ACFフィオレンティーナ]]に敗れた。リーグ戦では[[SSラツィオ]]相手にトッティが2ゴールを挙げる活躍を見せた。


2015-16シーズンは[[エディン・ジェコ]]、[[モハメド・サラー]]、[[ヴォイチェフ・シュチェスニー]]、[[アントニオ・リュディガー]]、[[イアゴ・ファルケ]]、[[リュカ・ディニュ]]らを獲得し、冬の移籍市場では、[[ディエゴ・ペロッティ]]、[[ステファン・エル・シャーラウィ]]らを獲得した。チャンピオンズリーグでは、決勝トーナメントに進んだものの、ベスト16で[[レアル・マドリード]]に2戦合計0-4で敗れた。リーグ戦では3位に終わった。
2015-16シーズンは[[エディン・ジェコ]]、[[モハメド・サラー]]、[[ヴォイチェフ・シュチェスニー]]、[[アントニオ・リュディガー]]、[[イアゴ・ファルケ]]、[[リュカ・ディニュ]]らを獲得し、冬の移籍市場では、[[ディエゴ・ペロッティ]]、[[ステファン・エル・シャーラウィ]]らを獲得した。チャンピオンズリーグでは、決勝トーナメントに進んだものの、ベスト16で[[レアル・マドリード]]に2戦合計0-4で敗れた。リーグ戦では3位に終わった。

2017年8月29日 (火) 09:25時点における版

ASローマ
原語表記 Associazione Sportiva Roma
愛称 i Giallorossi(黄と赤)
La Maggica(魔術師)
i Lupi(狼)
クラブカラー 橙色と赤
創設年 1927年
所属リーグ セリエA
ホームタウン ローマ
ホームスタジアム スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ
収容人数 72,698
代表者 アメリカ合衆国の旗 イタリアの旗 ジェームズ・パロッタ
監督 イタリアの旗 エウゼビオ・ディ・フランチェスコ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
コッパ・イタリア優勝杯を受け取る、キャプテンのトッティ(2007-08シーズン)

アッソチアツィオーネ・スポルティーバ・ローマ: Associazione Sportiva Roma)は、イタリアローマを本拠地とするサッカークラブチームである。単にローマとも表記される。

概要

1927年にファシスト政権によって取り決められた合併によって設立され、1951-52シーズンを除いた全シーズンでイタリアのトップディビジョンに参加している。

ローマはセリエAを3回(1941-42、1982-83、2000-01)、コッパ・イタリアを9回、スーペルコッパ・イタリアーナを3回制している。欧州の舞台では、1960-61インターシティーズ・フェアーズカップで優勝した。また、1983-84のヨーロピアンカップと1990-91のUEFAカップ決勝に進出したものの、それぞれリヴァプールインテルに敗れ、準優勝に終わっている。

2012年2月、『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2010-11シーズンのクラブ収入は1億4350万ユーロ(約160億円)であり、欧州第15位、イタリアではACミランインテルナツィオナーレ・ミラノユヴェントスFCに次ぐ第4位である[1]

エンブレムのオオカミのマークは古代ローマの建国神話におけるロムルスレムスの兄弟の逸話から取られたものである。サポーターはロマニスタと呼ばれる。

同じローマに本拠地を置くラツィオとはクラブ、サポーター共にライバル意識があり、2チームの対戦はローマ・ダービーと呼ばれるイタリアのダービーマッチとして知られている。

歴史

1927年夏、ファシスト党イタロ・フォッシ[2]によりイタリアサッカー選手権に参加していたローマを本拠地とするローマンSSアルバ=アウダチェフォルティトゥード=プロ・ローマSGSの3クラブが合併し、ASローマが設立された[2]。合併の目的は、当時強豪であった北イタリアのクラブのライバルとなる首都の強豪クラブを作ることだった[2]SSラツィオは、クラブの会員でイタリアサッカー連盟幹部のヴァカロ将軍の介入により、ローマの主要クラブとして唯一合併から免れた。

黄金期

1979-80シーズンにニルス・リードホルムが監督に就任し、コッパ・イタリアを制するとここから黄金期に突入する。ファルカンブルーノ・コンティらを擁したチームは1982-83シーズンにスクデットを獲得。翌シーズンのチャンピオンズカップでは決勝に進出するものの、決勝戦でリヴァプールにPK戦で敗退した。

リードホルムの後任にスヴェン・ゴラン・エリクソンが就任。エリクソン体制の2年目に、当時は絶頂期だったユヴェントスFCとの優勝争いを演じて、一時は首位を守ったが終盤に敗戦(暗黒の日曜日とも呼ばれた)して最終的にユヴェントスに優勝をさらわれることとなった。それから再び優勝争いに加わるのは2000-01シーズンになるまで待たなければならなかった。

低迷期

それ以降は上位と中位をさまよい、監督交代も日常茶飯事であったが、1990-91シーズンはカップ戦が好調で、コッパ・イタリアを制し、UEFAカップでも決勝に進出したが、インテルに敗れタイトルを逃した。

1992年にフランチェスコ・センシが買収し会長に就任(2008年まで)。フランチェスコ・トッティがデビューするなど明るい材料はあったが、この頃のセリエAは大きな変革期で、クラブはこの流れに乗り遅れた。センシが会長に就任して以降も負のサイクルは続き、タイトルとは無縁の日々が10年近くも続くことになった。

ファビオ・カペッロ監督時代

1999-2000シーズンには、ファビオ・カペッロを監督に招聘。カペッロの招聘は見事的中し、1年目から優勝争いに加わった。シーズン後半には攻撃力の高いトッティをFWとして起用するため中田英寿を新司令塔として獲得したが、中田がチームにフィットしなかった事と選手層の薄さを露呈し、チャンピオンズリーグ出場圏外まで順位を落とした(この年ライバルのラツィオは国内2冠を達成した)。

2000年にイタリア国内のクラブではラツィオに次いで株式を上場した。これにより補強資金を確保できたクラブは、2000-01シーズン開幕前にガブリエル・バティストゥータエメルソンワルテル・サムエルといった選手を補強した。バティストゥータ、マルコ・デルヴェッキオヴィンチェンツォ・モンテッラらを再び司令塔のポジションに戻ったトッティが操る攻撃陣、エメルソン、カフーアウダイール、サムエルの守備陣を擁したチームは序盤戦から首位を走り続け、失速することなく18シーズンぶり3回目のスクデットを獲得し、昨季の雪辱を見事に晴らした。

以降のシーズンもアントニオ・カッサーノらを補強して優勝争いに加わり、2001-02シーズンと2003-04シーズンには2位に食い込みUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。

クラブレコード更新

2004-05シーズンは、カペッロがユヴェントスへ移籍し、監督交代も相次ぎ、更にはカルチョ・スキャンダルの影響を受けて低迷した。UEFAチャンピオンズリーグではホームでのディナモ・キエフ戦が没収試合となり、以降ホームでのレアル・マドリード戦とバイエル・レバークーゼン戦を無観客で行わなければならなかった。終盤にはブルーノ・コンティが監督に就任し、コッパ・イタリアでは2年ぶりに決勝に進出した(それ以降のコッパ・イタリアでは6年で5回決勝に進出している)。

2005-06シーズンからルチアーノ・スパレッティが監督に就任すると、当時のリーグ新記録となる11連勝をローマ・ダービーにおいて達成したが、トッティの怪我が影響し中位に沈んだ。しかし、カルチョ・スキャンダルの影響を上位チームが受けたこともあり2位に浮上。

2006-07シーズン、2007-08シーズンも2位となり、特に2007-08シーズンは最終節まで首位インテルを追い詰めた。また、この2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグでベスト8に食い込むなど好成績を残した。更に、2006-07シーズンには16年ぶりにコッパ・イタリアを制し、翌年に連覇も達成した。そして本来CFタイプではないトッティをそのポジションに置く「ゼロトップ(トップレス)」はサッカー戦術の新潮流となった。

2008-09シーズンはCLではベスト16だったが、リーグ戦では6位と、優勝争いはおろか、CL出場権まで逃してた。2008年にセンシ会長が死去し、娘のロゼッラが会長を務めた。

2009-10シーズンは開幕から2連敗し、その責任を取ってスパレッティが監督を辞任。後任のクラウディオ・ラニエリによってチームは巻き返し、公式戦20戦無敗、リーグ24戦無敗のクラブレコードをローマ・ダービーにおいて更新。UEFAヨーロッパリーグでは決勝トーナメント1回戦で敗退したものの、セリエAではインテルと激しい優勝争いを繰り広げ、33節で最大14あった勝ち点差をひっくり返し首位に浮上した。しかし35節で再び2位に沈むと、最終節まで優勝の可能性を残しながらも2位に終わった。また、コッパ・イタリアでは2年ぶりに決勝に進出したが、インテルに敗れ準優勝となった。

2010-11シーズンは不振に陥り、クラウディオ・ラニエリ監督は2011年2月に解任。シーズン終了までヴィンチェンツォ・モンテッラが指揮を執った。

クラブの売却と新時代へ

ローマのオーナーであるセンシ家は長年資金難に悩まされており、2010年7月には経営権がイタリア最大の銀行グループウニクレーディトの管理下におかれるほどであった。2011年3月、米国大リーグ、ボストン・レッドソックスのパートナーであるイタリア系アメリカ人トーマス・R・ディベネデト英語版がオーナーの地位に就いた。パレルモでディレクターを務めたワルテル・サバティーニをスポーツディレクターとして招聘し、FCバルセロナB監督であったルイス・エンリケを招聘した。そして、2011年の夏の市場では大量補強を行い、ボージャン・クルキッチミラレム・ピアニッチホセ・アンヘルフェルナンド・ガゴエリク・ラメラパブロ・オズヴァルドといった若手選手を中心としつつ、マールテン・ステケレンブルフガブリエル・エインセといった選手を獲得した。しかし、結果は7位という欧州カップ戦に出られない成績に終わり、2012年5月、ルイス・エンリケ監督、オーナーのディベネデト氏は辞意を表明した。

後任にオーナーは前任者と同じイタリア系アメリカ人のジェームズ・パロッタに、監督はズデネク・ゼーマンの就任を発表。しかしリーグ戦での不振が要因でゼーマンは2013年2月2日に解任された。後任には長くローマでテクニカルスタッフを担当しているアウレリオ・アンドレアッツォーリが暫定的に指揮を執ることになった。2013年6月12日、リールからリュディ・ガルシアの招聘。夏の移籍市場では、マイコンアデム・リャイッチジェルヴィーニョラジャ・ナインゴランケヴィン・ストロートマンメディ・ベナティアなど実力者を多数獲得。2013-14シーズンは、セリエA記録となる開幕10連勝を達成、その後もインテルなどのライバルチームに勝利を収め、17節カターニャ戦まで無敗を維持した。

2014-15シーズンは、ベナティアがバイエルン・ミュンヘンに移籍したものの、コンスタンティノス・マノラスアシュリー・コールウルビー・エマヌエルソンフアン・マヌエル・イトゥルベセイドゥ・ケイタダヴィデ・アストーリらを獲得し冬の移籍市場では、ビクトル・イバルボセイドゥ・ドゥンビアニコラス・スポッリを獲得。UEFAチャンピオンズリーグではバイエルン・ミュンヘンマンチェスター・シティに勝ちきれずグループステージ敗退となった。UEFAヨーロッパリーグではベスト16でACFフィオレンティーナに敗れた。リーグ戦ではSSラツィオ相手にトッティが2ゴールを挙げる活躍を見せた。

2015-16シーズンはエディン・ジェコモハメド・サラーヴォイチェフ・シュチェスニーアントニオ・リュディガーイアゴ・ファルケリュカ・ディニュらを獲得し、冬の移籍市場では、ディエゴ・ペロッティステファン・エル・シャーラウィらを獲得した。チャンピオンズリーグでは、決勝トーナメントに進んだものの、ベスト16でレアル・マドリードに2戦合計0-4で敗れた。リーグ戦では3位に終わった。

2016-17シーズンはミラレム・ピャニッチがライバルであるユベントスに移籍し他にもアントニオ・サナブリアやリャイッチ、ファルケらも売却した。一方でエル・シャーラウィ、リュディガー、サラーを完全移籍で獲得し、トーマス・フェルマーレンフアンブルーノ・ペレスフェデリコ・ファシオらも獲得し、冬にもクレマン・グルニエを獲得。チャンピオンズリーグではプレーオフでFCポルトに敗れ、ヨーロッパリーグではオリンピック・リヨンに敗れた。

2017-18シーズンはFFPの規制もあり、資金捻出のためリュディガーをチェルシーFCに、サラーをリヴァプールFCに、レアンドロ・パレデスゼニト・サンクトペテルブルクに売却した。一方でフェイエノールトからリック・カルスドルプUSサッスオーロ・カルチョからロレンツォ・ペレグリーニとグレゴワール・デフレルを、PSVアイントホーフェンからエクトル・モレノを、オリンピック・リヨンからマキシム・ゴナロンマンチェスター・シティからアレクサンダル・コラロヴイスタンブール・バシャクシェヒルFKからジェンギズ・ウンデルらを獲得した。

サポーターとライバル関係

スタディオ・オリンピコでのローマファン達

ローマはユヴェントスインテルミランナポリに次いでイタリアで5番目にファンの多いサッカークラブであり、イタリアのサッカーファンの約7%がローマを応援している(2006年4月の調査)[3]。歴史的に、ローマ市のローマサポーターの大部分はインナーシティ、特にテスタッチョから来ている[4]

クラブの伝統的なウルトラス集団はCommando Ultrà Curva Sud(CUCSの略称で知られる)[5]であった。CUCSは多くの小さなグループの合併によって設立され、欧州サッカーの歴史において最も歴史あるグループの一つであると見なされていた[5]。しかしながら、1990年代中頃までに、CUCSはライバル派閥に取って代わられ、最後には解散した。この時以来、スタディオ・オリンピコクルヴァ・スッド(南スタンド)はより右翼的な集団[5]であるASローマ・ウルトラスやボーイズ、ジョヴィネッツァなどによって管理されている。しかしながら、最も古いグループであるFedayn政治に無関心であり、政治はローマの主要なアイデンティティではなく、全体のアイデンティティの単なる一部分である。

ローマの試合中のスタディオ・オリンピコ

最も知られているクラブアンセムは、アントネッロ・ベンディッティが歌った「Roma (non si discute, si ama)」(Roma Romaとしても知られている)である[6][7]。曲の題名は「ローマは議論の余地は無く、愛されるべき」といった意味であり、毎試合前に歌われる。同じ歌手による「Grazie Roma」はホームゲームで勝利した後に流れる。最近は、ザ・ホワイト・ストライプスの楽曲「セヴン・ネイション・アーミー」のリフも試合で広く親しまれるようになってきている[8]

ライバル関係

イタリアサッカーにおいて、ローマには多くのライバルがいる。最初のライバルは、共にスタディオ・オリンピコを本拠地とするラツィオである。この2チームのダービーマッチは「デルビー・デッラ・カピターレ」(首都ダービー)呼ばれる。過去には、1979-80シーズンの試合のおいてクルヴァ・スッドから発射された緊急照明弾が原因で起こったラツィオファンVincenzo Paparelliの死亡事故[9]や、死亡者が出たという根拠のないうわさに端を発したスタジアム外での暴力を受けて試合放棄となった2004年3月の事例[10]など、時折暴力沙汰が起こっている。

近年では、ローマファンはユヴェントス(1980年代にライバル関係が生まれた)やミランインテル(近年上昇している)といったセリエAの強豪も(リーグタイトルを争うことから)ライバルと考えている[5]

SSCナポリとも、「デルビー・デル・ソーレ」(太陽のダービー)を闘うライバル関係にある[11]

近年一部のローマサポーターとイングランドのクラブのファンとの間で数多くの衝突事例やその後のスタジアム外での暴力が起こっており[12]、多くのリヴァプールファンが刺される事件も起こった(ヘイゼルの悲劇も参照)。

それ以来、一部のイングランド人サポーターがローマにおいて暴力を受けたり刺される事件がさらに起こっている。2001年にリヴァプールがローマを訪ずれた際や、2006年のミドルスブラファンとの衝突、2007年のマンチェスターユナイテッドファンとの衝突などである。2009年3月、アーセナルサポーターを乗せた長距離バスがスタディオ・オリンピコのすぐ外でローマの「ウルトラス」の集団によって攻撃された。バスの窓ガラスは割られ、少なくとも一人が車両に乗り込み、火を放ち、サポーターの膝を刺した[13]

タイトル

国内タイトル

国際タイトル

親善大会(非公式大会)

過去の成績

シーズン リーグ 順位 コッパ・イタリア
1979-80 セリエA 06位 30 10 12 8 34 35 −1 32 優勝
1980-81 セリエA 02位 30 14 14 2 43 20 +23 42 優勝
1981-82 セリエA 03位 30 15 8 7 40 29 +11 38 準々決勝
1982-83 セリエA 01位 30 16 11 3 47 24 +23 43 準々決勝
1983-84 セリエA 02位 30 15 11 4 48 28 +20 41 優勝
1984-85 セリエA 07位 30 10 14 6 33 25 +8 34 ベスト16
1985-86 セリエA 02位 30 19 3 8 51 27 +24 41 優勝
1986-87 セリエA 07位 30 12 9 9 37 31 +6 33 ベスト16
1987-88 セリエA 03位 30 15 8 7 39 26 +13 38 ベスト16
1988-89 セリエA 08位 34 11 12 11 33 40 -7 34
1989-90 セリエA 06位 34 14 13 7 45 40 +5 41 準決勝
1990-91 セリエA 09位 34 11 14 9 43 37 +6 36 優勝
1991-92 セリエA 05位 34 13 14 7 37 31 +6 40 準々決勝
1992-93 セリエA 10位 34 8 17 9 42 39 +3 33 準優勝
1993-94 セリエA 07位 34 10 15 9 35 30 +5 35 ベスト16
1994-95 セリエA 05位 34 16 11 7 46 25 +21 59 準々決勝
1995-96 セリエA 05位 34 16 10 8 51 34 +17 58 ベスト32
1996-97 セリエA 12位 34 10 11 13 46 47 −1 41 ベスト32
1997-98 セリエA 04位 34 16 11 7 67 42 +25 59 準々決勝
1998-99 セリエA 05位 34 15 9 10 69 49 +20 54 ベスト16
1999-2000 セリエA 06位 34 14 12 8 57 34 +23 54 準々決勝
2000-01 セリエA 01位 34 22 9 3 68 33 +35 75 ベスト16
2001-02 セリエA 02位 34 19 13 2 58 24 +34 70 準々決勝
2002-03 セリエA 08位 34 13 10 11 55 46 +9 49 準優勝
2003-04 セリエA 02位 34 21 8 5 68 19 +49 71 準々決勝
2004-05 セリエA 08位 38 11 12 15 55 58 −3 45 準優勝
2005-06 セリエA 02位 38 19 12 7 70 42 +28 69 準優勝
2006-07 セリエA 02位 38 22 9 7 74 34 +40 75 優勝
2007-08 セリエA 02位 38 24 10 4 72 37 +35 82 優勝
2008-09 セリエA 06位 38 18 9 11 64 61 +3 63 準々決勝
2009-10 セリエA 02位 38 24 8 6 68 41 +27 80 準優勝
2010-11 セリエA 06位 38 18 9 11 59 52 +7 63 準決勝
2011-12 セリエA 07位 38 16 8 14 60 54 +6 56 準々決勝
2012-13 セリエA 06位 38 18 8 12 71 56 +15 62 準優勝
2013-14 セリエA 02位 38 26 7 5 72 25 +47 85 準決勝
2014-15 セリエA 02位 38 19 13 6 54 31 +23 70 準々決勝
2015-16 セリエA 03位 38 23 11 4 83 41 +42 80 ベスト16
2016-17 セリエA 02位 38 28 3 7 90 38 +52 87 準決勝
2017-18 セリエA 0 38

現所属メンバー

セリエA2017-2018 開幕戦フォーメーション
2017年7月23日現在

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK ブラジル アリソン
2 DF ブラジル レアンドロ・カスタン
4 MF ベルギー ラジャ・ナインゴラン () (第3主将)
5 DF ブラジル フアン・ジェズス
6 MF オランダ ケヴィン・ストロートマン
7 MF イタリア ロレンツォ・ペッレグリーニ
8 FW アルゼンチン ディエゴ・ペロッティ ()
9 FW ボスニア・ヘルツェゴビナ エディン・ジェコ
11 DF セルビア アレクサンダル・コラロヴ
15 DF メキシコ エクトル・モレノ
16 MF イタリア ダニエレ・デ・ロッシ ()
17 FW トルコ ジェンギズ・ウンデル
No. Pos. 選手名
18 GK ルーマニア ボグダン・ロボンツ
20 DF アルゼンチン フェデリコ・ファシオ ()
21 MF フランス マキシム・ゴナロン
23 FW フランス グレゴワール・デフレル
24 MF イタリア アレッサンドロ・フロレンツィ (副主将)
25 DF ブラジル ブルーノ・ペレス
26 DF オランダ リック・カルスドルプ
30 MF ブラジル ジェルソン
33 DF ブラジル エメルソン・パルミエリ ()
44 DF ギリシャ コスタス・マノラス
92 FW イタリア ステファン・エル・シャーラウィ ()

括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

監督

ローン移籍

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
23 FW フランス グレゴワール・デフレル (サッスオーロ)
No. Pos. 選手名
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- GK ポーランド ウカシュ・スコルプスキ (エンポリ)
-- DF ボスニア・ヘルツェゴビナ エルヴィン・ズカノヴィッチ (ジェノア)
-- DF セネガル ムスタファ・セック (カルピ)
-- DF スロバキア ノルベルト・ギェンベール (ペスカーラ)
-- DF ポルトガル マリオ・ルイ (ナポリ)
-- MF フランス ウィリアム・ヴァンクール (マルセイユ)
No. Pos. 選手名
-- MF イタリア ダニエレ・ヴェルデ (エラス・ヴェローナ)
-- FW アルゼンチン エセキエル・ポンセ (リール)
-- FW コートジボワール セイドゥ・ドゥンビア (スポルティングCP)
-- FW ナイジェリア ウマル・サディク (トリノ)
-- FW パラグアイ フアン・イトゥルベ (ティフアナ)

歴代監督

歴代所属選手

脚注

  1. ^ Deloitte Football Money League 2012 2012年2月9日に国際監査法人『デロイト』が公表した2010-11シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング。
  2. ^ a b c La Storia” (Italian). AS Roma. 23 December 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月6日閲覧。
  3. ^ L'altra metà del pallone: Supporters of football clubs in Italy”. L'Expresso. オリジナルの2009年5月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090508122124/http://website.lineone.net/~view_from_the_terrace/italsce.html 2014年2月6日閲覧。 
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外部リンク

公式