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オープン戦でスパイクを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年は[[スパイク]]を履かないで打席に立った<ref name="ganbare">『[[ガンバレ日本プロ野球!?]]』([[J SPORTS]])2009 - 2010シーズンに出演した際に発言。[http://www.jsports.co.jp/movie/baseball/111003_ganbare_10.html その時のダイジェスト動画]</ref>。[[7月12日]]の対阪神戦で7回裏に[[吉田豊彦]]から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。同年の[[2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に監督推薦で出場し、[[松坂大輔]]から2点適時打を打つなどの大活躍で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)#各種表彰|MVP]]となる。この年は上記のスパイク履かない発言により結果踏ん張りが効かずまた前年の手首の骨折もあり流し打ちのスタイルになり、最終的にリーグ7位<ref>{{Cite web|url=http://bis.npb.or.jp/yearly/centralleague_2000.html|title=年度別成績 2000年 セントラル・リーグ|publisher=日本野球機構|accessdate=2015-09-02}}</ref> |
オープン戦でスパイクを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年は[[スパイク]]を履かないで打席に立った<ref name="ganbare">『[[ガンバレ日本プロ野球!?]]』([[J SPORTS]])2009 - 2010シーズンに出演した際に発言。[http://www.jsports.co.jp/movie/baseball/111003_ganbare_10.html その時のダイジェスト動画]</ref>。[[7月12日]]の対阪神戦で7回裏に[[吉田豊彦]]から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。同年の[[2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に監督推薦で出場し、[[松坂大輔]]から2点適時打を打つなどの大活躍で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)#各種表彰|MVP]]となる。この年は上記のスパイク履かない発言により結果踏ん張りが効かずまた前年の手首の骨折もあり流し打ちのスタイルになり、最終的にリーグ7位の打率.311という高打率を記録するが<ref>{{Cite web|url=http://bis.npb.or.jp/yearly/centralleague_2000.html|title=年度別成績 2000年 セントラル・リーグ|publisher=日本野球機構|accessdate=2015-09-02}}</ref>、[[契約更改]]で球団事務所から「18本塁打はとても少ない」と指摘された。 |
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小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務め、首脳陣から主将やチームリーダーとしての素質を認められ、球団事務所も指導者としての期待をかけていた。 |
小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務め、首脳陣から主将やチームリーダーとしての素質を認められ、球団事務所も指導者としての期待をかけていた。 |
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中日時代は自分以上に1年後輩の[[立浪和義]]の存在があったため「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している<ref name=realgian>自著書『リアルジャイアンから悩める君たちへ』より。</ref>。なお、[[落合博満]]は2012年1月13日に[[紀伊國屋ホール]]で開かれた著書『采配』([[ダイヤモンド社]])刊行記念の講演で「山崎と立浪は後ろ盾がしっかりしていてそれぞれ強力な派閥を持っており、仲が悪い」と発言したが<ref>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3604 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(1)「談志師匠ばりに言ってやる」 |date=2012-01-31 |newspaper=『[[アサヒ芸能]]』|publisher=[[徳間書店]] |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173315/http://www.asagei.com/excerpt/3604 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3607 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(2)「選手の性格で指導を変えた」 |date=2012-02-01 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173328/http://www.asagei.com/excerpt/3607 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3610 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している |date=2012-02-02 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173256/http://www.asagei.com/excerpt/3610 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3613 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(4)日本球界はコーチの給料が安い |date=2012-02-03 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173349/http://www.asagei.com/excerpt/3613 |archivedate=2017-06-17 }}</ref>、山崎自身は[[山本昌]]との対談で「ドラゴンズの野手ナンバーワンの座には常に立浪和義という存在がいたから、僕はナンバー2、3になってしまう。僕の中では『アイツには絶対に負けたくない』と張り合ってはいたが、別に仲が悪いわけではない」と発言している<ref>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/ |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(1/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『[[Sportiva]]』|publisher=[[集英社]] |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173133/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/ |archivedate=2017-06-18 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_2.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(2/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173238/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_2.php |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_3.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(3/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173239/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_3.php |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_4.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(4/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173241/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_4.php |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_5.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(5/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173244/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_5.php |archivedate=2017-06-17 }}</ref>。 |
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中日時代は自分以上に1年後輩の[[立浪和義]]の存在があり、「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している<ref name=realgian>自著書『リアルジャイアンから悩める君たちへ』より。</ref>。 |
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中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して[[藤島部屋]]などの多くの部屋からスカウトされた。元[[前頭]]筆頭・[[朝乃若武彦|朝乃若]](現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元[[十両]]2枚目・[[須佐の湖善誉|須佐の湖]]は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。 |
中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して[[藤島部屋]]などの多くの部屋からスカウトされた。元[[前頭]]筆頭・[[朝乃若武彦|朝乃若]](現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元[[十両]]2枚目・[[須佐の湖善誉|須佐の湖]]は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。 |
2017年6月17日 (土) 17:51時点における版
2012年8月28日、こまちスタジアムにて | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県知多市 |
生年月日 | 1968年11月7日(56歳) |
身長 体重 |
182 cm 100 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、左翼手、捕手 |
プロ入り | 1986年 ドラフト2位 |
初出場 | 1989年9月7日 |
最終出場 | 2013年10月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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山﨑 武司[1](やまさき たけし=現在の登録名、1968年11月7日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)。
旧登録名及び本名は、山崎 武司(読み方は現在の登録名と同じ。#表記名について、#登録名も参照)。現役引退後の2014年からは、野球解説者として活動するかたわら、カーレーサーとして四輪車レースへの参戦[2]や、俳優活動も行っている。
経歴
プロ入り前
愛知県知多市で誕生。小学校の4年の時に外野手として野球を始め、主に左翼手を守る。中学校の入学と同時に捕手になる。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校時代は無名の存在だったが、兄が愛知工業大学名電高等学校へ教育実習生として出入りしており、その口利きでテストを受けさせてもらい、同校に合格した。1年の秋から4番・捕手に定着。2年の時の夏は愛知大会の決勝戦で東邦高等学校に敗れた。2年の時の秋から3年の時の夏までは主将を務める。3年間で春と夏の全国大会に出場した経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。
1986年のドラフト会議で中日ドラゴンズが2位指名で交渉権を獲得し、契約金4000万円、年俸400万円(金額は推定)で入団[3]。背番号は「22」。
中日時代
入団直後にアメリカ合衆国へ野球留学。MLBロサンゼルス・ドジャース傘下のルーキーリーグ球団であるガルフ・コーストリーグ・ドジャースで三塁手としてプレーした。帰国後には捕手に戻る。この年は一軍出場がなかった。
同年も一軍出場はなく、1年間を通して二軍でプレーした。
9月7日の対広島東洋カープ戦では9回表に代打として一軍で初出場。9月10日の対ヤクルトスワローズ戦では9回裏、内藤尚行から初安打となる左前安打を放つ。10月15日の対広島戦で捕手として先発出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5盗塁を許す。正田はこの試合で中村武志から1盗塁を決めて、1試合6盗塁の日本プロ野球タイ記録を樹立。この試合の後、外野手に転向。一軍では、20試合に出場した。二軍では本塁打王と打点王を獲得する。
前年に引き続いて二軍の本塁打王と打点王を獲得する。しかしながら、一軍出場は前年から大幅に減り、5試合の出場に終わった。12月19日、実家近く(愛知県知多市内の名鉄常滑線の新舞子駅付近)のちゃんこ鍋屋を訪れた帰りに近隣の精肉店の火災に遭遇、元力士でちゃんこ鍋屋の店長である知人たちと協力して、乳幼児含めた子供たち5人を助け出し[4]、地元の消防署から表彰を受け、セントラル・リーグからも特別表彰を受けた。
5月9日の対横浜大洋ホエールズ戦では田辺学から一軍での初本塁打(場外ソロ本塁打)を放つ。この年は26試合に出場したが、打率.140と低調だった。
前年を上回る40試合に出場し、打撃成績も打率.236、4本塁打で前年より打撃成績は向上した。8月19日広島戦で川口和久からサヨナラ本塁打。
一軍では、前年と比べて大幅に出場機会が増え、77試合に出場し、打率.270、3本塁打17打点とまずまずの成績を残した。
前年シーズンオフにそれまで、一塁手のレギュラーだった落合博満がフリーエージェントで巨人へ移籍する。更に、大豊泰昭が左翼手から一塁手に転向したことで外野手のレギュラーに空きが出来たが、彦野利勝の故障からの復帰などもあって、出場機会が激減し、1年間を通して目立った活躍は出来なかった。
開幕前のキャンプではプロボクサー(WBC世界バンタム級チャンピオン)の薬師寺保栄に師事し、ボクシングの練習を取り入れた。山崎と同期のチームメイトである近藤真一が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。この年は前年のレギュラー外野陣やロッテから移籍のメル・ホールが不調で山崎の出番が増え、大豊も不調だったこともあり一塁での出場も増え、自身初の2桁本塁打となる16本塁打を放った。
去年の活躍もあり、この年は打順こそ下位であったが開幕からレフトに固定され、同じく下位に固定された大豊とともに快打を連発する(特に長打力に磨きがかかったのは、キャンプ時にメーカーの手違いで普段使ってるバットより長いバットが届きそれに気づかずキャンプを過ごしていたが本来使っていた長さの違うバットによりバッティングしっくりこず上手く打てなかったが本人的にはただの不調だと思っていた。終盤に長さが違う事に気がついたが、その長いバットで調整していたこともありバットを変えずにシーズンインしたことによって長打が増えたと後に本人が語っている。)。 6月19日の対巨人戦では8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮に続いて、本塁打を放つ。山崎の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。松井秀喜、大豊とタイトルを争った本塁打部門では39本の山崎が38本の松井と大豊を抑えて本塁打王を獲得した。なお、この年は打率はリーグ4位の.322、打点もルイス・ロペスに次ぐ107打点を記録している。また、同年はリーグ最高長打率(.625)もを記録しベストナインに選ばれた。
中日の本拠地がナゴヤ球場から外野が広いナゴヤドームへ移転し、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。チームもリーグ最下位に沈んだ。
トレードで阪神タイガースへ移籍した大豊に代わり、左翼手から一塁手に転向する。8月18日の対ヤクルト戦では2回表にマーク・エーカーから史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は松井、江藤智に次ぐリーグ3位。最多勝利打点の16打点で表彰され、最優秀JCB・MEP賞を受賞する。11月1日のセントラル・リーグ東西対抗戦では3ランホームランを放ち、MVPとなった。
打順は主に6番を任される。5月9日の対広島戦で3打席連続本塁打を放つ。一時期は不調に陥りスタメンを外れることもあったが、9月26日の対阪神戦では福原忍から逆転サヨナラ3ラン本塁打を放っている。山崎によるとこの年から内野守備走塁コーチに就任した高代延博と確執があり高代の進言によりスタメンを外れることが多くなり山崎は高代について、「監督に媚を売る指導者は必要ない」と著書に記している[5]。この年、中日はリーグ優勝を争っていたが、この前日には山崎は先発出場せず、この日も本塁打を放つまでは0安打だった。前日までの起用のされ方に不満を持っていた山崎は本塁打を放った後、一塁へ走る際にベンチにいた監督の星野仙一に向かって、「おっさんボケ〜!俺を出しとけば、ちゃんと打つんじゃ!」と言い放った。[6]9月30日、11年振りのリーグ優勝を決めた対ヤクルト戦で一塁手の守備の途中、打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折。このため、ビールかけも見守ることしかできなかった。当然、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズに出場することもできなかった。
オープン戦でスパイクを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年はスパイクを履かないで打席に立った[7]。7月12日の対阪神戦で7回裏に吉田豊彦から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。同年のオールスターゲームに監督推薦で出場し、松坂大輔から2点適時打を打つなどの大活躍でMVPとなる。この年は上記のスパイク履かない発言により結果踏ん張りが効かずまた前年の手首の骨折もあり流し打ちのスタイルになり、最終的にリーグ7位の打率.311という高打率を記録するが[8]、契約更改で球団事務所から「18本塁打はとても少ない」と指摘された。
10月6日の対広島戦で史上376人目となる通算1000試合出場を記録する。この年、チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改で球団事務所から今度は「打率.238、51打点が最低だ。」と指摘される。この評価に納得せず、フリーエージェント宣言し、一時は金銭面で好条件を提示した横浜ベイスターズ移籍へ傾くが、シーズン後に新しく監督となった山田久志の慰留もあり[9]、最終的には中日と3年契約を結んで残留した。
この年はオープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格となる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により、7月から一軍復帰。7月26日の対阪神戦では同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けする。試合後、監督の山田は「どこかでブツッと切れてしまう。まるでお通夜みたいなもんだ。それと使った俺が悪いんだけど、チームを奈落の底に突き落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけどな。」と発言する。正確にはこの発言が山崎を指したものか不明であったが、山崎は「蔵本じゃない。今日は俺だ。俺が打っていれば、ミスもなかったんだ。」と話した。しかし、先述のように山田の慰留で中日に残留した経緯もあり、後に自身の著書で「山崎って名指しで言えよ!」と不信感を顕わにしていた[10]。この後はほとんど出場機会がなく、二軍戦にも出場しない時が多かった[11]。結局わずか26試合の出場に終わり打率1割台と不本意なシーズンで終わった。レギュラーシーズン終了後、自ら球団にトレードを直訴し平井正史との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。移籍後の背番号は「5」。
オリックス時代
8月19日のダイエー戦で2回表に倉野信次から史上77人目となる通算200号本塁打を放った。この年、110試合に出場したものの規定打席には到達せず低打率に苦しんだ。だがチームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放った。しかしチームは2年連続でリーグ最下位に終わった。
4月27日からの西武ライオンズの3連戦で監督の伊原春樹は地元出身選手として先発出場を約束。初日は4番・指名打者として先発出場して3打数、2安打と活躍したが、この試合中に負傷した谷佳知が翌日に3番・指名打者として先発出場する。山崎は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショック[12]を受け、試合開始前に帰宅。その直前には監督室にバットを放り投げ、ゼネラル・マネージャーの中村勝広に伊原の解任を直訴するなどの行為を行った[13]。これが「職場放棄」などと見なされ、翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる。この「ボイコット事件」について山崎本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている[14]。これ以降、2軍落ちを何度も経験し、9月には自身の実家に戻った。レギュラーシーズン最終戦の前には伊原から和解を求める電話があったが、再びチームに戻ることはなかった[15]。しかし、伊原とは退団後に和解し、雑談や会話をすることもあると自著で語っている[16]。
最終的に同年は62試合の出場にとどまり、4本塁打、打率.245と前年より調子を落としてシーズンを終了した。この時に中日・オリックスにて人間関係のトラブルにより野球がまともにできずそれに嫌気をさして一度は引退を考え、追って球団事務所からも戦力外通告を受けたが、団野村からの電話と高校の先輩・工藤公康の説得と長男からの応援により、現役続行を決意した。同時期に新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスの監督・田尾安志に評価され入団オファーを受けたが一度は断ったものの、上記にもあった説得や田尾からも熱烈な誘いも有り承諾。12月11日、正式に契約。背番号は「7」。
楽天時代
3月26日、チーム史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズ開幕戦では5番・指名打者で先発出場。開幕直後に右手に死球を受けて二軍で治療に専念するなど、レギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦に入ると、徐々に調子を上げ、5月7日の巨人戦では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月になったばかりの時は4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は4番・指名打者として定着する。7月2日の日本ハム戦では3回裏に江尻慎太郎から史上234人目、通算1000本安打となる左前安打を放つ。プロ入り19年目の年での達成であった。7月27日の対日本ハム戦の試合前に宮城県仙台市内の小学校を訪問。子供たちに「本塁打を打つ。」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。田尾の指導によるフォームの改造が、この年の118試合に出場して5年ぶりの規定打席到達、チーム最多の25本塁打や後年の好成績を残せるようになった要因の一つだと本人は挙げている。[17]
この年から新しく監督として野村克也が就任。4番の座は、この年西武から移籍してきたホセ・フェルナンデスに譲る。6月17日の対巨人戦では工藤から2打席連続本塁打を、7月29日の対西武戦では涌井秀章から楽天初となる逆転満塁本塁打を放つ。なお、この本塁打はパシフィック・リーグ通算900本目の満塁本塁打である。8月5日には日本プロ野球史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕からの小さな目標として来たので、達成出来て嬉しいですね。」と喜びを語った。しかし、122試合に出場したものの打率.241に終わり、ホームランも19本しか打てず、不調だった。
開幕当初こそ不調が続いたが、徐々に調子を上げた。4月1日の対オリックス戦の3回裏に、吉井理人からまずホセ・フェルナンデスが満塁本塁打を放ち、再び満塁になり山崎も吉井から満塁本塁打を放った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目、パシフィック・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパシフィック・リーグ初)、同一投手から2本は史上初。開幕後1ヶ月間は安打の半分が本塁打という「本塁打か三振か」の状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。5月2日の対ソフトバンク戦で先発投手は山崎が苦手としている和田毅だったが、「どうせ打てないなら、ダラダラ打ってやろう。」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったら、和田相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて、和田の配球の傾向を野村から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山崎自身は「こんにゃく打法」と呼んでいた5月は打率.342、12本塁打、27打点と復調。チーム初の月間MVPを獲得。自身にとっては中日に在籍していた1996年6月以来10年11ヶ月振りで、この期間は史上最長でもある。また、両リーグでの月間MVP受賞は史上13人目。5月27日の対横浜戦で那須野巧から場外本塁打を放ち、本塁打記録は両リーグ最速で20号に到達した。この場外本塁打は場外の露店の商品(アニメ『Yes!プリキュア5』のキュアアクアのお面)に命中。その後、主にビジター球場の外野スタンドでは当てた商品と同一商品を持って応援するファンの姿が見受けられるようになった。この店主は「店を長いことやって来たけど、場外本塁打が飛んで来たのは初めて。私は幸せ者だよ。」と喜んでいたという。6月14日、史上152人目となる通算1500試合出場を達成する。この本塁打量産時はフェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。
指名打者として選出されたオールスターゲームの第1戦の代打出場出の活躍の他に、第2戦の第1打席の先制の2ラン本塁打、第2打席の二塁打の活躍により、優秀選手賞とガリバー賞に選ばれ、賞品としてポルシェ・カイエンを獲得した。レギュラーシーズン前半の好調は、配球を読むようになったことと構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは、野村が試合中にベンチで若い投手と捕手に打者の心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。手の遊びを大きくしたきっかけは5月2日の試合であった。これ以降、この年のセ・パ交流戦終了時点で27本塁打、レギュラーシーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。
8月27日にはこの日に誕生日を迎えた長女の前で39号と40号の本塁打を放つ。9月15日には11年振りとなる100打点を記録。最終的に43本、108打点の自己最高記録でタフィ・ローズを上回り、タイトルを獲得、ベストナイン指名打者部門にも選ばれた。打点王は初、本塁打王とベストナインは11年振りとなる。21年目での40本塁打、100打点での本塁打王、打点王は史上初。なお、山崎は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打、本塁打王は王貞治、門田博光に並び、100打点、打点王は王、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合、ローズに次ぐ3人目。また、39歳での本塁打王、打点王の獲得は40歳で両タイトルを獲得した門田に次ぐ歴代2位の記録である。
この年、フェラーリ・F512Mを楽天オークションに出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。この年のタイトル獲得を記念し、愛車のランボルギーニ・ムルシエラゴがドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。
この年から3年間、野村の指示によって、楽天の主将とチームリーダーを務める。楽天のチームの応援歌「越えろ!楽天イーグルス(歌:℃-ute)」のプロモーション・ビデオに出演。この年に発生した岩手・宮城内陸地震には復興支援金として、このレギュラーシーズンに打った本塁打1本に付き10万円、総額280万円を宮城県栗原市に寄付した。その寄付の感謝の意味を込め、市役所は翌年に栗原市営栗駒球場の愛称を「山崎武司球場」とした[18]。レギュラーシーズンでは4月3日の対ロッテ戦で久保康友から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。4月は打率.374、7本塁打、21打点で月間MVPに選ばれる。その後は調子を落としたものの、オールスターゲームには同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選ばれる。7月31日の第1戦では9回裏に久保田智之からサヨナラ打を放ち、MVPに選ばれる。なお、両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。賞金300万円の使い道について、「どぉれ、(スポンサーである)マツダの特注ミニカーでも作るかぁ!」と冗談半分で話した。最終成績は打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップであった。
6月14日の対横浜戦で松家卓弘から本塁打を放ち、史上5人目となる両リーグ150号本塁打を達成。7月8日の対ロッテ戦では史上102人目の通算1500安打を達成したものの、チャンスで打てないことが多かった。しかし、オールスター明けからは大事な場面で打つことが増え、特に8月16日の対ロッテ戦で8回までチームは0得点、6点ビハインドの状況で唐川侑己から史上23人目の通算350号3ラン本塁打を放つと、9回裏二死の2点ビハインドの場面ではブライアン・シコースキーから同点2ラン本塁打を放った。この試合は結局、延長12回裏に小坂誠がサヨナラ打を放ったことで6点差をひっくり返した劇的な勝利を収め、この試合以降、チームは29勝16敗という飛躍的な成績を挙げた。最終的に打率は.246と低かったものの、39本塁打、107打点と両部門リーグ2位という成績で打線を牽引し、チーム史上初の2位とクライマックスシリーズ出場に貢献した。40代での本塁打30本到達は王、門田、ローズに次いで4人目。打点は前述の王、衣笠の記録を更新する実働21年目での100打点到達となった。また、41歳を迎える年での100打点到達は門田、ローズ、金本知憲の40歳を超える史上初の記録。また、本塁打は楽天移籍後の150本塁打到達となり、中日時代に記録した本塁打と合わせて史上7人目となる2球団での150本塁打も記録。クライマックスシリーズでは40代以上では初となるポストシーズン2本の本塁打、7打点を挙げたが、チームは第2ステージで日本ハムに敗れた。同年、ベストナインの指名打者部門に2年振りに選ばれた。
5月14日の対広島戦ではエリック・スタルツから自身初となる代打満塁本塁打を放ち、5月23日の対中日戦では楽天以外の既存11チームと大阪近鉄バファローズからの本塁打を達成[19]。オールスターゲームでは、第1戦では中日時代の元チームメイトの岩瀬仁紀から本塁打を放ち、ベストプレー賞を獲得。第2戦では東野峻から本塁打を放ち、40代での現役選手ではプロ野球史上初の2本の本塁打で存在感を示すも、この年の前半は大不振に陥り、交流戦で12チームトップとなる11本塁打を放って一時は復調したものの、交流戦後に再び不振に陥った。後半では復調し、チームトップの28本塁打93打点を挙げたが、打率は.239と前半の不調が響いた形となり、チームも4年ぶりのリーグ最下位に沈んだ。
この年は中日時代にも監督だった星野が監督に就任。前年に加入したランディ・ルイーズの一塁手の守備に不安があることに伴い、守備力重視を掲げる星野の構想から指名打者の山崎と一塁手のルイーズの役割が実質的には入れ替えとなった。3月11日に東日本大震災が発生し、楽天の本拠地がある仙台市など東北地方の太平洋側から茨城県、千葉県旭市の一部にかけて津波の被害を受けた。そして本拠地のKスタ宮城も一部損壊するなどの被害を受けたことから被災地球団の4番打者として開幕を迎えることとなった。6月11日の中日戦では史上2人目となる40代での100号本塁打を中田賢一から放つも、同試合の最終打席で空振り三振をした際に、右手薬指を剥離骨折して戦線離脱を余儀なくされる。1ヶ月後の7月19日に戦線復帰し、8月18日の西武戦で菊池雄星から史上17人目となる通算400号本塁打を放った。8月31日の対西武戦でも菊池から3ラン本塁打を放ち、7年連続で2桁本塁打を達成した。この年は東日本大震災を経験して、楽天のチームメイトたちと被災地を訪問しながら、地元の小学校の子供たちを激励した。そうした過去のボランティア活動などが評価され、2011年度ゴールデンスピリット賞を受賞した[20]。しかし、若返りを図るチーム方針により、この年限りで戦力外通告を受け10月10日に退団が発表された[21]。山崎本人は「まだやれる自信はある。」と発言し、現役続行を希望した。この年は前述の離脱もあり102試合の出場で打率こそ.229になったものの、怪我がありながら、11本塁打、48打点は貧打に喘いだチーム内ではトップ(打点は松井稼頭央とトップタイ)だった。山崎によると、星野から直接「来年の構想に入っていない。」と言われたという[22]。また、コーチの要請が球団からはあったが、断ったとのこと[23]。12月8日、中日への移籍が決定。10年ぶりの古巣復帰を果たすことになり[24]、背番号は楽天時代と同じ「7」に決まった。また、楽天から中日へ移籍した初の選手となった。年俸3000万円と大幅に落ちたものの、出来高は最大1億円という契約となった。
中日復帰後
チームメイトであるトニ・ブランコとの競争の中、オープン戦で4本塁打を放つなど結果を出し、3月30日の開幕戦は4番・一塁手で出場した。開幕戦での4番は2010年に金本が記録した41歳11カ月を上回る43歳4カ月のセントラル・リーグ最年長記録となった。その後も4番・一塁手として出場していたものの、4月25日に野本圭と共にインフルエンザB型に感染していたことが判明し、登録を抹消された。7月14日の巨人戦の3回裏、復帰後初の本塁打をD.J.ホールトンから放った。翌日の試合では決勝の適時二塁打を放ち、古巣復帰後初のお立ち台に上がった。しかし、1年を通して90試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、13打点と期待に沿う活躍は出来なかった。また、レギュラーシーズン終盤には左手薬指の骨折もあり、一時は本人も引退を考えていたが、チームは来年も山崎を戦力の1人として考えていたため、山崎本人も現役続行を決断した。12月5日の契約更改交渉で300万円減の2700万円に出来高払いを加えてサインし、来年の現役続行が決定した。
開幕一軍入りを果たし、主に代打での起用で6試合に出場したが、7打数1安打で打率.143と打撃不振に陥り、4月8日に出場選手登録を抹消された。交流戦開始の5月14日に再登録され、同日の日本ハム戦では6回に代打として起用され、同点に追いつく適時三塁打を放った。なお、この三塁打でセントラル・リーグ最年長三塁打を記録。金本の44歳3ヶ月を抜く、44歳6ヶ月で記録を更新。試合は中日が勝利し、決勝の犠飛を放ったマット・クラークと一緒にお立ち台に上がった。5月17日の対楽天戦では9回裏に代打として起用され、自身7度目のサヨナラ打となる2点適時打を放ち、セントラル・リーグ最年長サヨナラ打を記録した。しかし、7月27日に出場登録を抹消されたことを受けて、現役引退を決め、同月29日に正式に今季限りでの引退を表明[25]。10月1日の対阪神戦では3番・二塁手として先発出場したが、1回表の打席のみの出場で1回裏の守備から森野将彦に交代したため、二塁手を守ることはなかった。
現役引退後
2014年からは、ニッポン放送・東海テレビ・東海ラジオ・テレビ愛知の野球解説者[26][27]、FOX SPORTS『BASEBALL CENTER』のアナリスト[28]、夕刊フジの野球評論家[29]を務める。
2014年3月18日、中日より同21日の対楽天オープン戦(ナゴヤドーム)を「山崎武司引退試合」とし、一日限定で支配下選手として登録されることが発表[30]、3月20日に支配下選手登録された[31]。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2010年の立浪和義以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのは山崎が初である。プロ野球の最低年俸は420万円と決まっているため、1日限定の契約金は、それを300日で割った1万4千円だった。背番号は、支配下選手登録上では20とされた[31]が、試合では中日で2002年まで使用した22を球団と登録上22番だった大野雄大の了承を得た上で使用し[32]、4番指名打者で出場[33]。初回1死一、二塁で迎えた打席では、則本昂大から二ゴロ併殺打に終わった[33]。24日に再び任意引退公示[34]がなされた。
モータースポーツ活動
現役時代から自動車レースにも興味を持っていたことから、アマチュアドライバーとしてProject μとINGINGのサポートを受けてトヨタ主催の「GAZOO Racing 86/BRZ Race」に参戦する方針を2014年初めに明らかにした。参戦に向けてモータースポーツライセンスを新たに取得する必要があることや、プロ野球シーズン中は解説者としての活動を優先することから、同年のシリーズにはスポット扱いで参戦するとした[2][35]。その後7月26日、富士スピードウェイにて行われた第6戦にてデビュー。かつての背番号にちなんだ7番のゼッケンを背負い、決勝Bレースを30位で完走した[36][37]。
人物
小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務め、首脳陣から主将やチームリーダーとしての素質を認められ、球団事務所も指導者としての期待をかけていた。
中日時代は自分以上に1年後輩の立浪和義の存在があったため「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している[38]。なお、落合博満は2012年1月13日に紀伊國屋ホールで開かれた著書『采配』(ダイヤモンド社)刊行記念の講演で「山崎と立浪は後ろ盾がしっかりしていてそれぞれ強力な派閥を持っており、仲が悪い」と発言したが[39]、山崎自身は山本昌との対談で「ドラゴンズの野手ナンバーワンの座には常に立浪和義という存在がいたから、僕はナンバー2、3になってしまう。僕の中では『アイツには絶対に負けたくない』と張り合ってはいたが、別に仲が悪いわけではない」と発言している[40]。
中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して藤島部屋などの多くの部屋からスカウトされた。元前頭筆頭・朝乃若(現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元十両2枚目・須佐の湖は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。
1998年の正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。1999年にも出場して2年連続優勝するが、対戦相手の片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負い、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。
愛称は「ジャーマン」、「ジャイアン」[38]、「キン肉マン」、「タケシ」、「ヤマ」など。風貌と性格、「たけし」という名前から、漫画『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」にあやかり、「ジャイアン」とあだ名された[38]。山崎の氏名は「山崎武司」、ジャイアンの氏名は「剛田武」である。これは中日と楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味もある。中村は中日時代から監督やファンに「タケシ」と呼ばれていて、山崎は普通に「山崎」と呼ばれていた。2011年に山崎が出した著書にも「リアルジャイアン」の言葉が使われている[38]。楽天時代でその他のコーチたちからも「タケシ」と呼ばれていた。自身曰く、ジャイアン同様音痴でもあると言う[38]。
趣味はミニカー収集で、2011年現在では自宅に約5000台のミニカーがある。ミニカーメーカーの京商と専門誌がタイアップしたドイツツアーにミニカーのコレクターとして特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌『ミニカーファン』に掲載された。ラジコンカーも収集しており、2005年まで山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催していた。自宅にはセグウェイがある。また、趣味のミニカーとラジコンカーは飾ってあるが、野球関係のものは飾らずに箱に入れたままになっている。2008年末に『SPORTS STADIUM』で自宅が紹介された際、その年のオールスターMVPのトロフィーや、2007年二冠王のトロフィーなどを「もらって以来初めて箱から出した。」と語っていた。
愛車はフェラーリ、メルセデス・ベンツ。2011年にはランボルギーニ・アヴェンタドールを「日本輸入第1号車」という条件付で契約している(結果としては第2号車になった)。また、「引退したらランボルギーニ・カウンタックを『観賞用』として購入する。」とも公言している。前述のとおりプロ野球引退後はアマチュアのレーシングドライバーとしても活動している。少なくとも、プロ入りしてから30台は車の乗り継ぎをしてきたとのこと[41]。
少年時代から車好きで、プロ入りしてすぐにトヨタ・ソアラを購入。毎年のように車を買い替え、20歳にしてBMWを所持していた。この当時山崎は二軍暮らしの寮住まいであり、「寮生は車を所持してはいけない」という決まりがあったが、山崎は実家に車を置いて、たびたび兄に寮まで持って来てもらってはこっそり乗り回していた(その際、チームメイトには兄の車だと偽っていた)。その後、メルセデス・ベンツ・500SLを購入、一度だけ球場まで乗り込んだが、小松辰雄に見つかり叱られた。
好物はエビフライ。山崎がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山崎弁当」には、山崎の「とにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にしたい。」という強い希望に応えて、大きなエビを頭から丸ごと使ったエビフライが入っていた。「間違いなく売り上げは日本一です。」という。2007年8月27日には約18cmの巨大エビフライ入りの「山崎でらうまカレー」、2008年4月19日には地元の愛知県の名産の手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。
酒が全く飲めないが[7]、周囲からは勝手に酒豪扱いされることも多い[42]。楽天時代は仙台・国分町にある知人の店でよく食事をしていたが、そのせいで「国分町のドンペリを全部集めて飲んでた」と噂を立てられたこともあった[42]。食事が楽しみであるが、その反面体調管理にも気を配っている[43]。
中日時代に児童施設を慰問したことがきっかけで、ボランティア活動を行うようになり、現役時代には毎年シーズンオフになればサンタクロースの扮装で施設慰問をするのが恒例になっている。
中日時代の応援歌はナゴヤ球場時代のもの(『名古屋はええよ!やっとかめ』の替え歌)とナゴヤドーム移転後のものが存在する。ナゴヤドーム時代のものは楽天時代にも使われ、ナゴヤ球場時代のものは中日復帰後に使われている。
日本球界において通算400本塁打達成者で2000本安打を達成していないのは彼と田淵幸一、タフィ・ローズの3名のみである。
表記名について
1999年5月21日からは登録名を本名の姓の「山崎」から「山﨑」[1]へ変更した。
中日では2001年から2003年にかけて、山崎賢太(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」「山崎賢」となっていた。また、楽天では2006年から2009年にかけて、山崎隆広(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」、「山崎隆」となっていた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 中日 | 20 | 35 | 29 | 2 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 1 | 0 | 11 | 0 | .172 | .286 | .207 | .493 |
1990 | 5 | 8 | 7 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .429 | .500 | .571 | 1.071 | |
1991 | 26 | 51 | 43 | 2 | 6 | 2 | 0 | 1 | 11 | 2 | 0 | 1 | 1 | 0 | 7 | 0 | 0 | 18 | 2 | .140 | .260 | .256 | .516 | |
1992 | 40 | 117 | 106 | 6 | 25 | 5 | 0 | 4 | 42 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | 1 | 26 | 6 | .236 | .308 | .396 | .704 | |
1993 | 77 | 187 | 163 | 14 | 44 | 12 | 0 | 3 | 65 | 17 | 0 | 0 | 1 | 2 | 20 | 0 | 1 | 43 | 6 | .270 | .349 | .399 | .748 | |
1994 | 38 | 50 | 42 | 7 | 11 | 3 | 0 | 3 | 23 | 13 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 13 | 0 | .262 | .380 | .548 | .928 | |
1995 | 66 | 233 | 203 | 28 | 59 | 10 | 0 | 16 | 117 | 39 | 2 | 0 | 1 | 3 | 21 | 2 | 5 | 56 | 5 | .291 | .366 | .576 | .943 | |
1996 | 127 | 502 | 453 | 83 | 146 | 20 | 0 | 39 | 283 | 107 | 1 | 1 | 0 | 3 | 42 | 2 | 4 | 95 | 11 | .322 | .382 | .625 | 1.007 | |
1997 | 130 | 483 | 421 | 45 | 108 | 19 | 2 | 19 | 188 | 54 | 0 | 1 | 0 | 1 | 55 | 4 | 6 | 66 | 14 | .257 | .350 | .447 | .797 | |
1998 | 131 | 516 | 439 | 52 | 112 | 17 | 1 | 27 | 212 | 86 | 0 | 3 | 0 | 6 | 63 | 0 | 8 | 95 | 14 | .255 | .355 | .483 | .838 | |
1999 | 113 | 410 | 354 | 59 | 87 | 16 | 0 | 28 | 187 | 75 | 1 | 0 | 1 | 1 | 50 | 1 | 4 | 99 | 11 | .246 | .345 | .528 | .873 | |
2000 | 118 | 473 | 427 | 55 | 133 | 29 | 3 | 18 | 222 | 68 | 3 | 2 | 0 | 3 | 39 | 4 | 4 | 74 | 15 | .311 | .372 | .520 | .892 | |
2001 | 111 | 398 | 365 | 46 | 87 | 16 | 0 | 25 | 178 | 51 | 0 | 1 | 1 | 1 | 24 | 2 | 7 | 95 | 13 | .238 | .297 | .488 | .785 | |
2002 | 26 | 83 | 78 | 2 | 15 | 2 | 0 | 2 | 23 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 26 | 1 | .192 | .241 | .295 | .536 | |
2003 | オリックス | 110 | 401 | 358 | 42 | 83 | 21 | 1 | 22 | 172 | 68 | 0 | 0 | 0 | 4 | 36 | 0 | 3 | 95 | 11 | .232 | .304 | .480 | .784 |
2004 | 62 | 166 | 151 | 18 | 37 | 8 | 0 | 4 | 57 | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 1 | 2 | 41 | 5 | .245 | .313 | .377 | .690 | |
2005 | 楽天 | 118 | 430 | 383 | 51 | 102 | 22 | 1 | 25 | 201 | 65 | 0 | 1 | 0 | 2 | 38 | 2 | 7 | 80 | 8 | .266 | .342 | .525 | .867 |
2006 | 122 | 479 | 419 | 40 | 101 | 21 | 1 | 19 | 181 | 67 | 0 | 2 | 0 | 2 | 51 | 1 | 7 | 116 | 6 | .241 | .332 | .432 | .764 | |
2007 | 141 | 594 | 506 | 86 | 132 | 27 | 2 | 43 | 292 | 108 | 1 | 1 | 0 | 7 | 71 | 6 | 10 | 142 | 28 | .261 | .359 | .577 | .936 | |
2008 | 142 | 589 | 510 | 63 | 141 | 21 | 0 | 26 | 240 | 80 | 1 | 1 | 0 | 1 | 73 | 5 | 5 | 118 | 21 | .276 | .372 | .471 | .842 | |
2009 | 142 | 611 | 536 | 73 | 132 | 27 | 0 | 39 | 276 | 107 | 3 | 0 | 0 | 4 | 67 | 4 | 4 | 114 | 23 | .246 | .332 | .515 | .847 | |
2010 | 141 | 598 | 540 | 58 | 129 | 26 | 1 | 28 | 241 | 93 | 1 | 0 | 0 | 6 | 45 | 1 | 7 | 147 | 10 | .239 | .303 | .446 | .749 | |
2011 | 102 | 402 | 362 | 26 | 83 | 15 | 1 | 11 | 133 | 48 | 0 | 1 | 0 | 8 | 28 | 0 | 4 | 89 | 10 | .229 | .286 | .367 | .653 | |
2012 | 中日 | 90 | 215 | 191 | 9 | 40 | 13 | 0 | 1 | 56 | 13 | 1 | 0 | 0 | 2 | 18 | 1 | 4 | 44 | 5 | .209 | .288 | .293 | .582 |
2013 | 51 | 71 | 62 | 1 | 13 | 1 | 1 | 0 | 16 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 4 | 11 | 5 | .210 | .310 | .258 | .568 | |
通算:25年 | 2249 | 8102 | 7148 | 869 | 1834 | 355 | 14 | 403 | 3426 | 1205 | 14 | 16 | 5 | 57 | 795 | 37 | 97 | 1715 | 230 | .257 | .337 | .479 | .816 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- ベストナイン:3回 (外野手部門:1996年 指名打者部門:2007年、2009年)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (1998年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1996年)
- 月間MVP:3回 (1996年6月、2007年5月、2008年3・4月)
- 「ジョージア魂」賞:1回 (2010年度第9回)
- オールスターゲームMVP:2回 (2000年第2戦、2008年第1戦)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回 (2007年第2戦)
- オールスターゲームベストプレー賞:1回 (2010年第1戦)
- 報知プロスポーツ大賞(野球部門パシフィック・リーグ):1回 (2007年)
- ゴールデンスピリット賞:1回 (2011年)
記録
初記録
- 初出場:1989年9月7日、対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)、9回表に遠田誠治の代打として出場
- 初打席・初三振:同上の試合で9回表に川端順から三振
- 初安打:1989年9月10日、対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に内藤尚行から左前安打
- 初打点:1989年9月13日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、8回表に西本聖の代打として出場、松本豊から
- 初二塁打:1989年9月16日、対広島東洋カープ21回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に川口和久から
- 初先発出場:1989年10月4日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、8番・捕手として出場
- 初本塁打:1991年5月9日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)、5回表に田辺学から場外ソロ
- 初盗塁:1995年6月1日、対横浜ベイスターズ10回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に二盗(投手:五十嵐英樹、捕手:秋元宏作)
節目の記録
- 100本塁打:1998年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(神宮球場)、2回表にマーク・エーカーから左越えソロ ※史上198人目
- 150本塁打:2000年7月12日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に吉田豊彦から左越えソロ ※史上114人目
- 1000試合出場:2001年10月6日、対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)、9回裏に一塁手として出場 ※史上376人目
- 200本塁打:2003年8月19日、対福岡ダイエーホークス22回戦(福岡ドーム)、2回表に倉野信次から左中間へ逆転2ラン ※史上77人目
- 1000本安打:2005年7月2日、対北海道日本ハムファイターズ6回戦(フルキャストスタジアム宮城)、3回裏に江尻慎太郎から左前安打 ※史上234人目
- 1000三振:2006年8月1日、対福岡ソフトバンクホークス11回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、3回表に新垣渚から ※史上39人目
- 250本塁打:2006年8月5日、対オリックス・バファローズ12回戦(フルキャストスタジアム宮城)、1回裏に吉井理人から左越え3ラン ※史上49人目
- 1500試合出場:2007年6月14日、対中日ドラゴンズ4回戦(フルキャストスタジアム宮城)、4番・指名打者として先発出場 ※史上152人目
- 300本塁打:2008年4月3日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に久保康友から左越えソロ ※史上32人目
- 両リーグ150本塁打:2009年6月14日、対横浜ベイスターズ4回戦(クリネックススタジアム宮城)、7回裏に松家卓弘から左中間へソロ ※史上5人目
- 1500本安打:2009年7月8日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に荻野忠寛から中越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上102人目
- 1000打点:2009年8月13日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(クリネックススタジアム宮城)、6回裏に藤岡好明から左前2点適時二塁打 ※史上35人目
- 350本塁打:2009年8月16日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に唐川侑己から左中間へ3ラン ※史上23人目
- 300二塁打:2009年9月19日、対千葉ロッテマリーンズ21回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に根本朋久から右中間二塁打 ※史上54人目
- 3000塁打:2010年4月8日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、6回表にボビー・ケッペルから左越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上46人目
- 1500三振:2010年7月7日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(クリネックススタジアム宮城)、2回裏に大嶺祐太から ※史上9人目
- 2000試合出場:2010年9月22日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、4番・指名打者として先発出場 ※史上42人目
- 40代での100本塁打:2011年6月11日、対中日ドラゴンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に中田賢一から左中間ソロ ※史上2人目
- 400本塁打:2011年8月18日、対埼玉西武ライオンズ14回戦(西武ドーム)、9回表に菊池雄星から左越えソロ ※史上17人目
- 350二塁打:2012年7月26日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に館山昌平から右前二塁打 ※史上34人目
その他の記録
- 年齢別最多本塁打:39歳で43本塁打、41歳で39本塁打
- シーズン100打点到達の最年長記録:41歳
- 代打満塁本塁打:2010年5月14日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、6回表にエリック・スタルツから
- オールスターゲーム出場:6回 (ファン投票:2007年、2011年 選手間投票:2008年、2010年 監督推薦:1996年、2000年)
- オールスターゲーム(2010年度)で40代での最多2本塁打
- セントラル・リーグ最年長二塁打:44歳6ヶ月、2013年6月1日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、4回表に大谷翔平から二塁打
- セントラル・リーグ最年長三塁打:44歳6ヶ月、2013年5月14日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に宮西尚生から右前適時三塁打
- セントラル・リーグ最年長サヨナラ打:44歳6ヶ月、2013年5月17日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に青山浩二から左前2点適時打
背番号
- 22 (1987年 - 2002年、2014年)
- 5 (2003年 - 2004年)
- 7 (2005年 - 2013年)
- 20 (2014年)※登録上のもの[31]。試合では大野雄大の22をつけて出場した[32][33]。
登録名
- 山崎 武司 (やまさき たけし、1987年 - 1999年5月20日)
- 山﨑 武司[1] (読み同じ、1999年5月21日 - 2014年)
関連情報
著書
- 『野村監督に教わったこと:僕が38歳で二冠王になれた秘密』(講談社、2008年2月、ISBN 4062145332)
- 『野村監督に教わったこと:部下は上司で生き変わる』(講談社+α文庫、2010年1月、ISBN 4062813416)
- 『奇跡の超弾道:進化を続ける心技体』(ベースボール・マガジン社新書、2010年9月、ISBN 4583102976)
- 『今、意味がないと思うことに価値がある』(ベストセラーズ、2010年11月、ISBN 4584132801)
- 『リアルジャイアンから悩める君たちへ』(マーブルトロン、2011年5月、ISBN 4879196347)
- 『復活力:東北、ありがとう』(あさ出版、2011年12月、ISBN 4860634918)
- 『進化』(あさ出版、2013年4月、ISBN 4860635981)※山本昌との共著
- 『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』(宝島社、2014年1月、ISBN 480021940X)
- 『40代からの退化させない肉体:進化する精神』(講談社+α新書、2014年4月、ISBN 4062728516)
関連書籍
- 『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』(美山和也・加藤慶・田口元義共著、宝島SUGOI文庫、2012年5月、ISBN 9784796697262)
出演
テレビ番組
- 炎の体育会TV(2014年2月1日) - マスクドスラッガーとして出演した。
- 侍プロ野球(CBCテレビゲスト解説・TBSテレビ副音声ゲスト)
- 「ドラHOTプラス」(2014年-、東海テレビ)
- 「Enjoy! Baseball」(2014年-、東海テレビ)※フジテレビ主管制作の対読売ジャイアンツ戦全国中継・フジテレビ制作関東ローカルおよびBSフジ向けのパ・リーグ公式戦中継や同系列の仙台放送・テレビ西日本制作中継にも出演
- 「テレビ愛知 10チャンベースボール」(2014年-、テレビ愛知)
- 「BASEBALL CENTER」(2014年-、FOX SPORTS ジャパン)
- 「黄金鯱伝説グランスピアー 2ndシーズン」(2014年5月10日) - 少年の父親(武)役
- 大相撲中継(2014年名古屋場所10日目ゲスト解説 NHK総合テレビジョン)
- 水曜日のダウンタウン(2014年8月27日) - 300キロのピッチングマシンに挑戦した。
- 「全力離婚相談」第2話(2015年1月13日、NHK総合テレビ) - 樺島 役
ラジオ番組
- 「ニッポン放送ショウアップナイター」(2014年 - 、ニッポン放送)
- 「東海ラジオ ガッツナイター」(2014年 - 、東海ラジオ)
- 「ドラヂカラ!!」(2016年9月 - 、水・木曜担当)
CM
- EMIミュージック・ジャパン「今井美樹ベストアルバム『Premium Ivory -The Best Songs Of All Time-』」(2015年)[44]
PV
脚注・参考文献
- ^ a b c 「﨑」の字は、機種依存文字(CJK互換漢字)である(Unicodeでは、U+FA11)。参考外部リンク…本来の表記と異なる変換文字を含む選手一覧 - 日本野球機構オフィシャルサイト(データは2013年3月29日現在)
- ^ a b 前中日・山崎氏がカーレーサー転身(『デイリースポーツ』2014年1月9日付記事)
- ^ 『朝日新聞』1986年12月7日付朝刊 (14版、18面)
- ^ 「中日新聞」1990年12月20日朝刊 「猛煙の中 山崎選手(中日)超美技 元力士らと連係子供3人を救出 知多で肉店全焼」 なお、この日山崎は中学時代に野球、相撲部に在籍していた知人と一緒に愛知県名古屋市内に出かけ、ちゃんこ鍋屋に戻ってきたところだった。同紙取材に対し精肉店一家の女性の「子供が中にいる。助けて!」という叫び声を聞き、「夢中で裏の戸口を開けて入った。煙がひどく、一旦外に出て、深呼吸してから子供を助けたんだよ。」と振り返っている。救出された子供のうち1人は声も出さずにいたが、山崎が頬を叩くと意識を取り戻したという。
- ^ 山崎武司著、さらば、プロ野球 ~ジャイアンの27年、2014年、宝島社、P78-80
- ^ マルコポロリ!SPパ・リーグ残酷物語番外編
- ^ a b 『ガンバレ日本プロ野球!?』(J SPORTS)2009 - 2010シーズンに出演した際に発言。その時のダイジェスト動画
- ^ “年度別成績 2000年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2015年9月2日閲覧。
- ^ 2014年1月21日、22日放送の『ドラ魂KING』の「連続野球私小説」での自身の発言より。[信頼性要検証]
- ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.123-124
- ^ 美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.15
- ^ 『週刊アサヒ芸能』2014年3月6日号に掲載されたテリー伊藤との対談によると、このことに我慢できず伊原に抗議したが伊原は逆に「スタメンを決めるのは俺だ。」と一喝したため、山崎は怒って暴言を吐いたとのこと。参照リンク…テリー伊藤対談「山崎武司」(1)各監督との確執のホントのところ - 『アサ芸プラス』2014年3月4日配信
- ^ 美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.17-18
- ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132
- ^ 美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.18
- ^ 山﨑武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132。なお、伊原とは「子育て論で話が合う部分もある」と言う。
- ^ 山﨑武司(元プロ野球選手)<前編>「逆境を救ってくれた2人の恩師」
- ^ 「山崎武司球場」が誕生 栗駒球場に愛称 栗原市 - 河北新報(Yahoo!ニュースよりアーカイブ。2009年9月29日(火) 11時53分掲載、2015年11月3日閲覧)
- ^ 山崎、鉄平…元中日勢が大活躍スポーツニッポン2010年5月23日配信
- ^ 山崎、心優しきジャイアン ホームラン基金&被災地支援に力…ゴールデンスピリット賞 スポーツ報知 2011年11月15日閲覧
- ^ “山崎、涙の退団発表 コーチ打診断り現役続行希望”. 中日スポーツ (2011年10月10日). 2011年12月8日閲覧。
- ^ 山崎武司著、さらば、プロ野球 ~ジャイアンの27年、2014年、宝島社、P99
- ^ 山崎楽天退団で涙の現役宣言 コーチ断る - 日刊スポーツ 2011年10月10日
- ^ “山崎、中日と3000万円+出来高で契約”. デイリースポーツ (2011年12月8日). 2011年12月8日閲覧。
- ^ 中日・山崎 今季限りで現役引退「けじめとして決意した。」スポーツニッポン2013年7月29日配信
- ^ 『週刊ベースボール』2014年2月22日増刊号「2014プロ野球全選手カラー写真名鑑」より、「2014野球評論家名鑑」を参照。
- ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2014』P277掲載のプロフィールでは、活動先についてテレビ愛知のみ明記されず。
- ^ FOX SPORTSで 千葉ロッテ・福岡ソフトバンク・オリックスの プロ野球公式戦 主催試合を完全生中継! オープン戦も計35試合放送!(FOX SPORTS ジャパン株式会社) - 『PR TIMES』2014年2月18日13時14分
- ^ 【メッタ斬り 生涯ジャイアン】山崎武司氏が新連載! 田中よ、ダルを見下ろしたれ 1年間ローテ守れば15勝以上は絶対する (1/3ページ) - ZAKZAK 2014年1月30日付
- ^ 山崎武司氏 中日と“1日限りの契約”で21日引退試合 - スポーツニッポン2014年3月18日配信
- ^ a b c “支配下選手登録 (2014年度シーズン途中・2月以降)”. 日本野球機構. 2014年3月20日閲覧。
- ^ a b “山崎選手と選手契約”. 中日ドラゴンズ (2014年3月20日). 2014年3月20日閲覧。
- ^ a b c 山崎氏「4番・指名打者」でスタメン 初回“最後の打席”は併殺打スポーツニッポン2014年3月21日配信
- ^ “任意引退選手(2014年度)”. 日本野球機構 (2014年3月24日). 2014年3月24日閲覧。
- ^ 山崎武司さんレースデビューへ。86/BRZに参戦 - オートスポーツ・2014年1月20日
- ^ “リザルト/ポイントランキング|GR 86/BRZ Race”. GAZOO Racing. 2014年8月19日閲覧。
- ^ 橋本隆志 (2014年7月26日). “【GAZOO Racing 86/BRZ Race 第6戦】ホームラン・キング山崎武司氏の初陣は30位完走”. Response.. 2014年8月19日閲覧。
- ^ a b c d e 自著書『リアルジャイアンから悩める君たちへ』より。
- ^ “落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(1)「談志師匠ばりに言ってやる」”. 『アサヒ芸能』 (徳間書店). (2012年1月31日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。
“落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(2)「選手の性格で指導を変えた」”. 『アサヒ芸能』 (徳間書店). (2012年2月1日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。
“落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している”. 『アサヒ芸能』 (徳間書店). (2012年2月2日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。
“落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(4)日本球界はコーチの給料が安い”. 『アサヒ芸能』 (徳間書店). (2012年2月3日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。 - ^ “山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(1/5ページ)”. 『Sportiva』 (集英社). (2015年12月7日). オリジナルの2017年6月18日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。
“山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(2/5ページ)”. 『Sportiva』 (集英社). (2015年12月7日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。
“山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(3/5ページ)”. 『Sportiva』 (集英社). (2015年12月7日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。
“山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(4/5ページ)”. 『Sportiva』 (集英社). (2015年12月7日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。
“山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(5/5ページ)”. 『Sportiva』 (集英社). (2015年12月7日). オリジナルの2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。 - ^ 2013年2月1日号のFRIDAYには、有名人の車特集として山崎のことが掲載された。
- ^ a b 【プロ野球】山﨑武司「一度でいいから日本シリーズの舞台に立ってみたい」 - Sportiva・2012年1月2日
- ^ 自著書『奇跡の超弾道』より
- ^ “今井美樹ベスト盤CMに元アスリート再登場”. ORICON (2015年9月18日). 2015年9月18日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 山﨑武司 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference
- 山崎武司後援会オフィシャルサイト - 山崎本人によるブログも開設されている。