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{{存命人物の出典明記|date=2013年7月}} |
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{{記事名の制約|title=山﨑武司}} |
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|選手名 = 山﨑 武司 |
| 選手名 = 山﨑 武司 |
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|写真のコメント = 2012年8月28日、[[秋田県立野球場|こまちスタジアム]]にて |
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| 画像説明 = [[中日ドラゴンズ]]時代<br />(2012年8月28日 [[秋田県立野球場|こまちスタジアム]]) |
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| 利き腕 = 右 |
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| 打席 = 右 |
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| 守備位置 = [[一塁手]]、[[外野手]]、[[捕手]]、[[指名打者]] |
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|ドラフト順位 = ドラフト2位 |
| ドラフト順位 = ドラフト2位 |
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|初出場 = 1989年9月7日 |
| 初出場 = 1989年9月7日 |
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|最終出場 = 2013年10月1日 |
| 最終出場 = 2013年10月1日(公式戦)<br />2014年3月21日(引退試合) |
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|経歴 = |
| 経歴 = |
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* [[愛知工業大学 |
* [[愛知工業大学名電中学校・高等学校|愛知工業大学名電高等学校]] |
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* [[中日ドラゴンズ]] (1987 - 2002) |
* [[中日ドラゴンズ]] (1987 - 2002) |
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* [[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]] (2003 - 2004) |
* [[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]] (2003 - 2004) |
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* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2005 - 2011) |
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2005 - 2011) |
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* 中日ドラゴンズ (2012 - 2014) |
* 中日ドラゴンズ (2012 - 2013, 2014) |
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{{Infobox YouTube personality |
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'''山﨑 武司'''<ref name="saki">「﨑」の字は、[[機種依存文字]]([[CJK互換漢字]])である(Unicodeでは、U+FA11)。参考外部リンク…[http://bis.npb.or.jp/players/note2013.html 本来の表記と異なる変換文字を含む選手一覧] - 日本野球機構オフィシャルサイト(データは2013年3月29日現在)</ref>(やまさき たけし=現在の登録名、[[1968年]][[11月7日]] - )は、[[日本]]<!--アメリカ野球留学の記述と整合性を取る意味から、国名より記述します。-->の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、[[外野手]]、[[捕手]])。 |
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'''山﨑 武司'''{{Efn2|name="saki"|「﨑」の字は[[機種依存文字]]([[CJK互換漢字]])(Unicodeでは、U+FA11)<ref>参考外部リンク…[https://npb.jp/bis/players/note2013.html 本来の表記と異なる変換文字を含む選手一覧] - 日本野球機構オフィシャルサイト(データは2013年3月29日現在)2020年8月22日閲覧。</ref>。}}(やまさき たけし〈現役引退時の[[登録名]]〉、旧登録名および本名:'''山崎 武司'''〈読み同じ、[[#登録名]]も参照〉、[[1968年]][[11月7日]] - )は、[[日本]]<!--アメリカ野球留学の記述と整合性を取る意味から、国名より記述します。-->の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]・[[外野手]]・[[捕手]]・[[指名打者]]、右投右打)。[[愛知県]][[知多市]]出身。 |
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愛称は「'''ジャイアン'''」<ref name="jsports20140319">{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20140322052538/https://www.jsports.co.jp/press/article/N2014031908090601.html |title=【中日好き】心優しい“ジャイアン”こと、山崎武司のラストゲームを前に |website=J SPORTS |date=2014-03-19 |accessdate=2018-03-12}}</ref>。 |
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現役時代は主に[[中日ドラゴンズ]]、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]で通算27年間にわたり活躍。通算403[[本塁打]]を記録した強打者であると共に、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]に2回({{by|1996年}}、{{by|2007年}})、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]に1回(2007年)輝いており、史上3人目の[[セントラル・リーグ|セ]]・[[パシフィック・リーグ|パ]]両リーグでの本塁打王の達成者{{R|jsports20140319}}。野球選手現役引退後の{{by|2014年}}以降は[[野球解説者]]として活動しているほか、カーレーサーとして[[自動車競技|四輪車レース]]にも参戦している<ref name="daily20140119">[https://www.daily.co.jp/baseball/2014/01/19/0006647195.shtml 前中日・山崎氏がカーレーサー転身](『[[デイリースポーツ]]』2014年1月9日付記事)</ref>。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== プロ入り前 === |
=== プロ入り前 === |
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幼少期から[[中日ドラゴンズ]]の本拠地・[[ナゴヤ球場]]へ野球観戦に行っていたが{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=69}}、周囲のほとんどが中日ファンであった一方で山﨑自身は[[読売ジャイアンツ]](巨人)のファンだった{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=69}}。これは[[九州]]出身である父親の影響に加え、山﨑自身も「他人と同じなのが嫌」という性格や「(当時巨人が強かったことから)強いチームへの憧れ」が要因だった<ref>{{Cite web ja |url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=002-20160317-01 |title=山本昌×山崎武司 中日OB対談「ドラゴンズ愛を貫くヤマヤマコンビ」 |website=週刊ベースボールONLINE |publisher=ベースボール・マガジン社 |date=2016-03-17 |accessdate=2020-04-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200425131432/http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=002-20160317-01 |archivedate=2020-04-25}}</ref>{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=69}}。 |
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[[愛知県]][[知多市]]で誕生。小学校の4年の時に[[外野手]]として野球を始め、主に[[左翼手]]を守る。中学校の入学と同時に[[捕手]]になる。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校時代は無名の存在だったが、兄が[[愛知工業大学附属中学校・名電高等学校|愛知工業大学名電高等学校]]へ教育実習生として出入りしており、その口利きでテストを受けさせてもらい、同校に合格した。1年の秋から4番・捕手に定着。2年の時の夏は愛知大会の決勝戦で[[東邦高等学校]]に敗れた。2年の時の秋から3年の時の夏までは主将を務める。3年間で春と夏の全国大会に出場した経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。 |
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[[知多市立佐布里小学校]]<ref name="97中日ファンブック">{{Cite book ja |title=中日ドラゴンズ '97ファンブック |series=中日ドラゴンズファンブック |publisher=中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売) |date=1997-03-18 |page=34 |ISBN=978-4806203360}}</ref>の4年の時に[[外野手]]として野球を始め、主に[[左翼手]]を守る。[[知多市立八幡中学校]]{{Efn2|中学の先輩には[[伊藤敦規]](元阪神ほか)が<ref name="知多ファイブ">{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121209-1057613.html |title=中日浅尾うれしい“知多ファイブ” |website=日刊スポーツ |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2012-12-09 |accessdate=2020-04-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200424162058/https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121209-1057613.html |archivedate=2020-04-24}}</ref>、後輩には2012年 - 2013年にチームメイトだった[[浅尾拓也]](山﨑より16歳年下)<ref name="浅尾">{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111224-880751.html |title=中日浅尾 山崎と「いっしょにお立ち台」 |website=日刊スポーツ |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2006-11-22 |accessdate=2020-04-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200424160121/https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111224-880751.html |archivedate=2020-04-24}}</ref>・[[小山雄輝]](元巨人)がいる{{R|知多ファイブ}}。山﨑は浅尾の義兄と八幡中時代に野球部でチームメイトだったほか、浅尾を野球教室で指導したこともあった{{Sfn|山﨑|2014|p=188}}。}}{{R|浅尾}}に入学すると同時に[[捕手]]になる。 |
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[[1986年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1986年のドラフト会議]]で[[中日ドラゴンズ]]が2位指名で交渉権を獲得し、契約金4000万円、年俸400万円(金額は推定)で入団<ref>『朝日新聞』1986年12月7日付朝刊 (14版、18面)</ref>。背番号は「'''22'''」。 |
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[[愛知県]][[名古屋市]]の[[愛知工業大学名電中学校・高等学校|愛知工業大学名電高等学校]]へ進学する。 |
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=== 中日時代 === |
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愛工大名電高校では2年から捕手のレギュラーに定着し{{Sfn|山﨑|2014|p=70}}、2年の時の夏は愛知大会の決勝戦で[[東邦高等学校]]に敗れた。高校2年の秋には[[中村豪 (野球)|中村豪]]監督の下で先輩などからの推薦により新主将に任命され{{Efn2|しかしこの時、自身は乗り気でなかったことから「人をまとめる役目はやりたくない。自分の野球ができなくなる」と中村監督に告げたところ、「[[体罰]]が当たり前の時代」でありながら滅多に選手を殴らなかった中村から平手打ちを受けた{{Sfn|山﨑|2014|pp=70-71}}。山﨑はこのことについて「中村監督は『山﨑は型にはめると伸びないタイプだが、組織としての規律を知ってもらいたい』という親心から自分を主将に任命したのだろう。自分も『これはやらないとまずい』と考えて主将を引き受けた」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|p=71}}。}}{{Sfn|山﨑|2014|pp=70-71}}、3年の時の夏までは主将を務める。3年間で全国大会に出場した経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。 |
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'''{{by|1987年}}''' |
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[[1986年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1986年度ドラフト会議]]を前に「指名確実」と高い評価を得ていたが、山﨑自身は巨人への入団を切望していた一方で「中日・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]・[[広島東洋カープ]]には絶対に行きたくない」と考えていた{{Sfn|山﨑|2014|p=25}}。これは高校を通じて巨人から指名の確約を得ていた{{Efn2|巨人のスカウトから「絶対うちが獲るから他の球団とは接触しないでくれ」「うちの1位指名は[[阿波野秀幸]]だが、外れ1位か2位で間違いなく君を指名する」と伝えられていたが、巨人は3球団競合の阿波野を抽選で外すと外れ1位で[[木田優夫]]、2位で[[水沢薫]]を指名し、チーム事情から結局2位までに山﨑を指名することはなかった<ref>{{Cite web ja |url=https://full-count.jp/2024/09/23/post1623016/ |title=巨人が指名"確約"も…まさかの裏切り 嫌だった中日入り「プロ行きません」 |website=Full-Count |date=2024-09-23 |accessdate=2024-09-23}}</ref>。}}ことに加え、「地元の中日に入団すると知り合いも多く、思う存分にプレーできないから。南海・広島は全国的に人気のある球団とは思わないから」という理由だった{{Sfn|山﨑|2014|p=25}}。そのため、ドラフト前に何度も挨拶に来た中日のスカウトには「(指名されても)行くつもりはない」と伝えていたが<ref name="gokujokukan">『[[極上空間]]』2016年4月9日放送{{出典無効 |date=2020-04}}</ref>結局、中日が2位指名で交渉権を獲得し{{Efn2|山﨑本人は「中日から指名を受けた直後はがっかりしたが、自分の目標はプロ野球選手になることだったし、『最悪でもセ・リーグなら』と考えていたので、やむなく中日入団を決意した。同時に指名する約束を反故にした巨人への闘志が沸き上がり、『巨人相手に活躍して自分の名前を全国に知らしめてやりたい』と決意した」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|p=27}}。}}、[[契約金]]4000万円・[[年俸]]400万円(金額は推定)で入団<ref>『朝日新聞』1986年12月7日付朝刊 (14版、18面)</ref>(実際の契約金は4300万円と本人談)<ref>{{YouTube|lU3PxSxIeR4|【近藤真一】史上初!初登板ノーヒットノーラン!近藤真一フィーバーの裏側「俺絶対真一に追いつけない」【山崎武司】【高橋慶彦】【プロ野球OBに会いに行く】}}</ref>。背番号は「'''22'''」。 |
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入団直後に[[アメリカ合衆国]]へ野球留学。[[メジャーリーグベースボール|MLB]][[ロサンゼルス・ドジャース]]傘下の[[マイナーリーグ|ルーキーリーグ]]球団である[[ガルフ・コーストリーグ]]・ドジャースで[[三塁手]]としてプレーした。帰国後には捕手に戻る。この年は一軍出場がなかった。 |
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=== 中日時代 === |
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'''{{by|1988年}}''' |
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入団直後は先輩たちから「若年寄」と呼ばれ、[[豊田誠佑]]らから「生意気だ」とよく怒られていたが{{Efn2|山﨑自身は「目上の人間にも媚びない自分を認めてくれたのか、最終的には可愛がってくれる先輩が多かった」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|p=126}}。}}{{Sfn|山﨑|2014|p=126}}、エースの[[小松辰雄]]らからは可愛がられていた{{Efn2|山﨑は小松について「公私ともに背中を追い続け『いつかこんな選手になりたい』と尊敬の念を強めていた。いつか必ず恩返ししたい」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|pp=128-129}}。}}{{Sfn|山﨑|2014|pp=126-128}}。プロ1年目の'''{{by|1987年}}'''は春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]で憧れていた[[落合博満]]と相部屋になったが、後に落合について自著で「落合さんだけは『後輩をかわいがる』という感覚が全くなく、誰であっても寄せ付けないオーラを発し続けていた。バッターとしては目標にしてもよいが、人間性は真似したくない」と述べている{{Efn2|指導者としての落合については「監督は選手の個性をうまく引き出せなければいけないが、落合さんにはそのような能力があるとは思えない」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|p=126}}。}}{{Sfn|山﨑|2014|pp=124-126}}。同年は一軍出場はなく、[[アメリカ合衆国]]へ野球留学。[[メジャーリーグベースボール|MLB]][[ロサンゼルス・ドジャース]]傘下の[[マイナーリーグ|ルーキーリーグ]]球団である[[ガルフ・コーストリーグ]]・ドジャースで[[三塁手]]としてプレーした。帰国後には捕手に戻る。しかし、中日入団後は2学年上の[[中村武志]]が正捕手の座を固めていた一方、自身は一軍での出場機会を得られず、捕手として育成されていたことから最大のセールスポイントだった打撃の練習を十分にできず、捕手であることに嫌気が差していた{{Sfn|山﨑|2014|p=27}}。 |
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'''{{by|1988年}}'''も一軍出場はなく、1年間を通して[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]([[ウエスタン・リーグ]])でプレーした。同年に中日の本拠地・[[ナゴヤ球場]]で開催された[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第2戦では[[ブルペン捕手]]を務めたがこの時には初めて巨人のスター選手たち([[中畑清]]ら)を目にして感動するとともに「俺もこの人たちに負けないように頑張ろう」と決意した{{Sfn|山﨑|2014|pp=26-27}}。 |
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同年も一軍出場はなく、1年間を通して[[中日ドラゴンズ (ファーム)|二軍]]でプレーした。 |
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'''{{by|1989年}}'''は二軍でウエスタン・リーグで二冠王(本塁打王・打点王)を獲得し{{Sfn|山﨑|2014|p=28}}、一軍でも20試合に出場した。同年9月7日の対[[広島東洋カープ]]戦では9回表に代打として一軍で初出場。9月10日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦では9回裏に[[内藤尚行]]から初安打となる左前安打を放つ。10月15日の対広島戦で捕手として先発出場するが、[[盗塁#最多盗塁|盗塁王]]を狙う[[正田耕三]]に5[[盗塁]]を許す。正田はこの試合で[[中村武志]]からも1盗塁を決め、1試合6盗塁の[[日本プロ野球]]タイ記録を樹立<ref>{{Cite web ja |url=https://www.baseball-story.jp/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/2018-03-09-%E5%BA%83%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E7%94%B0%E8%80%95%E4%B8%89%E3%81%AE1%E8%A9%A6%E5%90%886%E7%9B%97%E5%A1%81%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E8%A8%98%E9%8C%B2%E3%81%AE%E9%99%B0%E3%81%A7/ |title=広島正田耕三の1試合6盗塁のプロ野球記録の陰で |website=baseball-story |date=2018-03-09 |accessdate=2021-05-22}}</ref>。この試合後に首脳陣から「捕手失格」の烙印を押される格好となったが、結果的にはかねてから望んでいた野手([[外野手]])転向が叶うこととなった{{Sfn|山﨑|2014|p=28}}<ref>{{Cite web ja |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/195909 |title=【正田耕三 連載コラム】捕手・山崎武司を廃業させた89年の5盗塁 |website=東京スポーツ |date=2020-06-26 |accessdate=2021-05-22}}</ref>。 |
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'''{{by|1989年}}''' |
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'''{{by|1990年}}'''は前年に続き二軍で二冠王を獲得したが{{Sfn|山﨑|2014|p=28}}、一軍では5試合の出場に終わった。同年秋季のキャンプでは左翼手にコンバートされる{{R|中日スポーツ19911121}}。同年12月19日には知多市内の実家近く([[名鉄常滑線]]・[[新舞子駅]]付近)にて知人(元[[力士]])が経営する[[ちゃんこ鍋]]屋を訪れた帰りに近隣の[[精肉店]]の[[火災]]に遭遇し、ちゃんこ鍋屋店長たちと協力し、精肉店経営者一家(乳幼児含めた子供たち5人)を救出した{{Efn2|救出された子供のうち1人は声も出さずにいたが、山﨑が頬を叩くと意識を取り戻した{{R|中日新聞1990-12-20}}。山﨑はこの件に関して『[[中日新聞]]』([[中日新聞社]])記者の取材に対し「精肉店一家の女性の『子供が中にいる。助けて!』という叫び声を聞き、夢中で裏の戸口を開けて入った。煙がひどく、いったん外に出て深呼吸してから子供を助けた」と振り返っている{{R|中日新聞1990-12-20}}。}}<ref name="中日新聞1990-12-20">『[[中日新聞]]』1990年12月20日朝刊「猛煙の中 山崎選手(中日)超美技 元力士らと連係子供3人を救出 知多で肉店全焼」([[中日新聞社]])</ref>。この件で地元の消防署から表彰を受け、[[セントラル・リーグ]]からも特別表彰を受けた。 |
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[[9月7日]]の対[[広島東洋カープ]]戦では9回表に代打として一軍で初出場。[[9月10日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦では9回裏、[[内藤尚行]]から初安打となる左前安打を放つ。[[10月15日]]の対広島戦で捕手として先発出場するが、[[盗塁#最多盗塁|盗塁王]]を狙う[[正田耕三]]に5[[盗塁]]を許す。正田はこの試合で[[中村武志]]から1盗塁を決めて、1試合6盗塁の[[日本プロ野球]]タイ記録を樹立。この試合の後、[[外野手]]に転向。一軍では、20試合に出場した。二軍では本塁打王と打点王を獲得する。 |
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'''{{by|1991年}}'''は5月9日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]戦では[[田辺学]]からプロ初本塁打{{Sfn|山﨑|2014|p=28}}(場外ソロ本塁打)を放つ。しかし同年は26試合に出場したが、打率.140と低調だった。同年からは徐々に一軍での出場機会も増えていったが、しばらくは一軍と二軍を往復する生活で一軍の出場機会に飢えていた{{Sfn|山﨑|2014|p=28}}。同年オフの秋季キャンプでは、落合から「人命救助だけでなく、自分の身も助けないか!」と言われ、一心不乱に練習に打ち込んでいた<ref name="中日スポーツ19911121">『中日スポーツ』1991年11月21日第5版3頁「山崎 天性のパンチ 開花か退団か 来季は背水 未完の大器も6年目、ラストチャンス 「コラッ!ヘッドが動くぞ」」(中日新聞社)</ref>。落合やヘッドコーチの[[徳武定祐]]は当時、山崎の素質を高く評価しつつも、本人に野球に打ち込む姿勢や若手の台頭による危機感が不足していることを指摘していた{{R|中日スポーツ19911121}}。 |
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'''{{by|1990年}}''' |
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'''{{by|1992年}}'''は監督が[[星野仙一]]から[[高木守道]]に交代し、高木は山﨑を重宝していたこともあり、前年を上回る40試合に出場し、打撃成績も打率.236、4本塁打と向上。また、8月19日の広島戦では[[川口和久]]からサヨナラ本塁打を放った<ref>[https://hicbc.com/sports/dragons/article/?id=post-0-8 「平成ナゴヤ球場の逆転劇」ドラゴンズ・サヨナラ男列伝!]CBC</ref>。 |
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前年に引き続いて二軍の本塁打王と打点王を獲得する。しかしながら、一軍出場は前年から大幅に減り、5試合の出場に終わった。[[12月19日]]、実家近く(愛知県知多市内の[[名鉄常滑線]]の[[新舞子駅]]付近)の[[ちゃんこ鍋]]屋を訪れた帰りに近隣の[[精肉店]]の[[火災]]に遭遇、元[[力士]]でちゃんこ鍋屋の店長である知人たちと協力して、乳幼児含めた子供たち5人を助け出し<ref>「[[中日新聞]]」[[1990年]][[12月20日]]朝刊 「猛煙の中 山崎選手(中日)超美技 元力士らと連係子供3人を救出 知多で肉店全焼」 なお、この日山崎は中学時代に野球、相撲部に在籍していた知人と一緒に[[愛知県]][[名古屋市]]内に出かけ、ちゃんこ鍋屋に戻ってきたところだった。同紙取材に対し精肉店一家の女性の「子供が中にいる。助けて!」という叫び声を聞き、「夢中で裏の戸口を開けて入った。煙がひどく、一旦外に出て、深呼吸してから子供を助けたんだよ。」と振り返っている。救出された子供のうち1人は声も出さずにいたが、山崎が頬を叩くと意識を取り戻したという。</ref>、地元の消防署から表彰を受け、[[セントラル・リーグ]]からも特別表彰を受けた。 |
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'''{{by|1993年}}'''は大幅に一軍出場機会が増え、77試合に出場し、打率.270、3本塁打17打点の成績を残した。同年のシーズンオフには[[一塁手]]のレギュラーだった[[落合博満]]が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA)で巨人へ移籍したほか、[[大豊泰昭]]が左翼手から一塁手に転向したことで外野手のレギュラーに空きができた。 |
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'''{{by|1991年}}''' |
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'''{{by|1994年}}'''は[[彦野利勝]]が故障から復帰したことなどから出場機会が激減し、1年間を通して目立った活躍は出来なかった。 |
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[[5月9日]]の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]戦では[[田辺学]]から一軍での初本塁打(場外ソロ本塁打)を放つ。この年は26試合に出場したが、打率.140と低調だった。 |
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'''{{by|1995年}}'''は開幕前のキャンプでは[[プロボクサー]]([[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[バンタム級]][[チャンピオン]])の[[薬師寺保栄]]{{Efn2|山﨑と同期のチームメイトである[[近藤真市|近藤真一]]が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。}} に師事し、ボクシングの練習を取り入れた。同年はレギュラー外野陣およびロッテから移籍の[[メル・ホール]]や主軸の大豊も不調であったことから出場機会が増え、自身初の2桁本塁打となる16本塁打を放った{{Efn2|山﨑本人は「同年に初の二けた本塁打を記録したことで『プロでやっていける』と手応えを掴んだ」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|pp=28-29}}。}}。同年11月末の秋季キャンプ終了時には監督に復帰した[[星野仙一]](1991年以来)から「来年2月の春季キャンプまでに(当時110 kgの)体重を20 kg減量しろ」と命じられ、2か月で体重を88 kgまで減量した(22 kg減)<ref>{{Cite web ja |url=https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180110/spo1801100002-n1.html |title=【追悼・星野仙一 鉄拳制裁】山崎武司氏が激白 「体重20キロ落とせ」強制ノルマで本塁打王獲得 教え子の中で「引退しろ」に拒否したのは僕だけ (1/3ページ) |website=Zakzak |date=2018-01-10 |accessdate=2020-04-25 |publisher=産業経済新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200425130211/https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180110/spo1801100002-n1.html |archivedate=2020-04-25}}</ref>。 |
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'''{{by|1992年}}''' |
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'''{{by|1996年}}'''は減量が功を奏し、怪我に弱い体質が変わったことに加え、7,8分の力で打つことを覚え、これが同年に本塁打を量産できた要因となった{{R|97中日ファンブック}}。打順こそ下位だったが、開幕からレフトに固定され、同じく下位に固定された大豊とともに快打を連発した。6月19日の対巨人戦では8回裏に[[槙原寛己]]から5番・[[音重鎮]]に続いて本塁打を放ち、山﨑の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]に選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも監督推薦で出場する。チームメイトの大豊や[[松井秀喜]](巨人)・[[江藤智 (野球)|江藤智]](広島)と本塁打王のタイトルを争い{{Efn2|同年8月22日時点で山﨑は33本塁打、大豊と松井はそれぞれ32本塁打、江藤は30本塁打{{R|中日新聞1996-08-22}}。ただし、江藤は8月29日(当時は打率.314・32本塁打)の対巨人戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])で打球処理の際にバウンドした球を顔面にぶつけて<ref>『[[朝日新聞]]』1996年8月30日東京朝刊第14版第一運動面29頁「江藤(広)が負傷退場」([[朝日新聞東京本社]])</ref>骨折し、戦線離脱<ref>『中日新聞』1996年8月31日朝刊第一運動面37頁「江藤は今季絶望 眼窩底骨折」(中日新聞社)</ref>。これにより本塁打王争いからも脱落した。}}<ref name="中日新聞1996-08-22">『[[中日新聞]]』1996年8月22日夕刊三面3頁「セ本塁打王だれ?山崎<33>、大豊<32>、松井<32>、江藤<30> V争い絡み過熱 競り合いに強い『経験者』」([[中日新聞社]])</ref>、最終的には山﨑(39本塁打)が大豊・松井の両名(ともに38本塁打)を抑え、本塁打王を獲得した。打率はリーグ4位の.322、打点も[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]に次ぐ107打点を記録している。また、同年はリーグ最高長打率(.625)もを記録し[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に選ばれた。なお、同年5月1日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では5回裏に巨人の[[バルビーノ・ガルベス]]投手が投げた球速141 [[キロメートル毎時|km/h]]の速球が自身の頭部を掠めたことで激怒し<ref name="乱闘">{{Cite web ja |title=【4紙独断 野球殿堂】乱闘 見ている側も血がたぎる…シナリオなき闘い |website=中日スポーツ |date=2017-06-20 |edition=紙面から |author=渋谷真 |url=https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/yakyudendo/CK2017062002000233.html |accessdate=2020-04-25 |publisher=中日新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200425145239/https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/yakyudendo/CK2017062002000233.html |archivedate=2020-04-25}}</ref>、マウンドに詰め寄ってもガルベスが謝罪しなかったどころか応戦してきたことから{{Efn2|山﨑は「それまでは手で相手を殴ることは『人としてやってはいけない行為』と感じていたから、詰め寄った段階でもガルベスが頭を下げれば何もしないつもりだったが、逆にガルベスがグラブを外して先に左手で自分に殴り掛かってきたことで頭に血が上り応戦した。今でも自分の行為を間違っていたとは思わない」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|pp=160-161}}。}}殴り合いになり、両者とも退場処分を受けたほか{{Efn2|巨人の首脳陣はガルベスへの退場処分を不服として選手たちをロッカーに引き上げさせ、審判団に抗議した{{Sfn|山﨑|2014|p=161}}。巨人の[[長嶋茂雄]]監督は[[没収試合|放棄試合]]寸前まで態度を硬化させたが、最終的にはセ・リーグ連盟への提訴を条件に試合再開に応じた{{R|乱闘}}。}}、試合が30分以上も中断する大乱闘のきっかけになった{{Sfn|山﨑|2014|pp=160-161}}。山﨑自身は後に楽天時代にも[[タフィ・ローズ]](2007年){{Sfn|山﨑|2014|p=161}}、[[ジェレミー・パウエル]](2008年)と外国人選手を相手に騒動を起こしたが{{Sfn|山﨑|2014|p=162}}、自著ではそれらの経験を踏まえ外国人選手たちに対し「日本人であること、プロ野球選手として日本でプレーできることを誇りに思っているから日本を冒涜する行為は絶対に許さない。日本のルールを守らない者にプレーする資格はない」{{Sfn|山﨑|2014|p=159}}「アメリカに『謝ったら負け』という文化が浸透しているにしても、日本でプレーする以上は礼節を重んじ、真剣勝負の中で道を外したら謝罪すべき。日本で成功したければ日本の文化を学ぶべきだ」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|p=163}}。 |
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前年を上回る40試合に出場し、打撃成績も打率.236、4本塁打で前年より打撃成績は向上した。8月19日広島戦で[[川口和久]]からサヨナラ本塁打。 |
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'''{{by|1997年}}'''は中日の本拠地がナゴヤ球場から[[外野#野球|外野]]が広い[[ナゴヤドーム]]へ移転し、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。また、チームもリーグ最下位に終わった。 |
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'''{{by|1993年}}''' |
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'''{{by|1998年}}'''は昨年オフにトレードで[[阪神タイガース]]へ移籍した大豊に代わり、左翼手から一塁手に転向する。8月18日の対ヤクルト戦では2回表に[[マーク・エーカー]]から史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は松井(34本)、江藤(28本)に次ぐリーグ3位で、チームメイトの[[レオ・ゴメス]](26本)を上回り、チーム最多であった<ref>『[[読売新聞]]』1998年10月13日東京朝刊第14版スポーツ面25頁「セ・本塁打(終了)」([[読売新聞東京本社]]) - 『読売新聞』縮刷版 1998年(平成10年)10月号645頁。</ref>。最多勝利打点の16打点で表彰され、最優秀[[JCB・MEP賞]]を受賞する。同年オフには推定年俸9500万円で契約更改したが、最優秀JCB・MEP賞のタイトル料500万円を加味すると{{by|1999年}}度の年俸は実質1億円となった{{R|中日スポーツ19991229}}。11月1日のセントラル・リーグ東西対抗戦では3点本塁打を放ち、MVPとなった。 |
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一軍では、前年と比べて大幅に出場機会が増え、77試合に出場し、打率.270、3本塁打17打点とまずまずの成績を残した。 |
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'''{{by|1999年}}'''、チームは開幕11連勝を記録し、山崎本人もこの間は打率.343、2本塁打、12打点、4月の得点圏打率は.381と打撃好調だった<ref name="中日スポーツ19991208">{{Cite web ja |url=http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp1208-1.htm |title=山崎 来季はD党にどんな贈り物を? 江藤はこなかったけど、2人分働く |website=中日スポーツ |publisher=中日新聞社 |date=1999-12-08 |accessdate=2024-09-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010305195944/http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp1208-1.htm |archive-date=2001-03-05}}</ref>。同年は主に6番を任され、5月9日の対広島戦(広島市民球場)では球団史上8人目となる3打席連続本塁打を放ち、7打点を挙げた{{R|中日スポーツ19991208}}。同月はいずれもチームトップとなる9本塁打・20打点を記録したが、6月以降は打撃不振に陥り、同月は0本塁打・2打点に終わる{{R|中日スポーツ19991208}}。7月は打率は低調だったものの得点圏打率は.353と好調で、それぞれチームトップの7本塁打・19打点を記録し復調した{{R|中日スポーツ19991208}}。しかし8月は9試合を欠場し、得点圏では7打数0安打、打点はいずれもソロ本塁打による2点のみと再び低迷した{{R|中日スポーツ19991208}}。9月にリーグ優勝マジックが再々点灯して以降は7試合で4本塁打と復調したが{{R|中日スポーツ19991208}}、同月9日の対阪神戦(甲子園球場)では首の寝違えで欠場したゴメスに代わり、114試合目で同シーズン初となる4番でスタメン出場し、1回に[[川尻哲郎]]からチームにとって16試合ぶりとなる初回先制打を記録、3点ビハインドで迎えた8回にはバックスクリーンへ24号2点本塁打を放った<ref>{{Cite web ja |url=http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp0910-2.htm |title=山崎 上昇モード 今季初の4番で先制打&追撃弾 |website=中日スポーツ |publisher=中日新聞社 |date=1999-09-12 |accessdate=2024-09-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010305200218/http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp0910-2.htm |archive-date=2001-03-05}}</ref>。同月11日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では4回裏、2ストライク0ボールの場面で相手投手・[[伊藤智仁]]が外角低めに投げた球を見送ったところ、球審の[[西本欣司]]からストライクの判定を受け、抗議するも判定は変わらず、ベンチからバットや肘当てをグラウンドに投げ入れたことで侮辱行為として退場処分を受けた<ref>{{Cite web ja |url=http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp0912-1.htm |title=山崎 退場 ストライク判定に激高 |website=中日スポーツ |publisher=中日新聞社 |date=1999-09-12 |accessdate=2024-09-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010305200901/http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp0912-1.htm |archive-date=2001-03-05}}</ref>。同年のリーグ優勝決定前最後のホームゲームとなった9月26日の対阪神戦(ナゴヤドーム)では、2点ビハインドの2対4で迎えた9回裏に[[福原忍]]から28号となる逆転サヨナラ3点本塁打{{Efn2|同試合で中日は8回裏終了時点まで2対1とリードしていたが、9回表に抑えの[[宣銅烈]]が阪神の[[マーク・ジョンソン (内野手)|マーク・ジョンソン]]から20号逆転3点本塁打を被弾し、2対4で9回裏の攻撃を迎えていた{{R|東京新聞1999-09-27}}。}}を放ち、打った瞬間バンザイでサヨナラ本塁打を確信した<ref name="東京新聞1999-09-27">『[[東京新聞]]』1999年9月27日朝刊第二運動面20頁「セ・リーグ 阪神11連敗 ナゴヤドーム(25回戦中日18勝7敗) 中日5-4阪神」([[中日新聞東京本社]])</ref>。著書で山﨑本人は、この年から内野守備走塁コーチに就任した[[高代延博]]と確執があり、高代の進言によりスタメンを外れることが多くなったことについて言及した上で、高代について「監督に媚を売る指導者は必要ない」と批判している{{Sfn|山﨑|2014|pp=78-80}}。この年の中日はリーグ優勝を争っていたが、この前日には山﨑は先発出場せず、当日も本塁打を放つまでは無安打だった。前日までの起用のされ方に不満を持っていた山﨑は本塁打を放った後、一塁へ走る際にベンチにいた監督の[[星野仙一]]に向かって、「'''おっさんボケ〜!俺を出しとけば、ちゃんと打つんじゃ!'''」と言い放った<ref>[https://web.archive.org/web/20170223211433/https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/ktv/25624/491133/ マルコポロリ!SPパ・リーグ残酷物語番外編]</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/192018 今日の名言:おっさんボケェ!俺を使えば打てるんじゃ!!]</ref>。しかし、9月30日に11年ぶりのリーグ優勝を決めた対ヤクルト戦で一塁手の守備の途中、打者走者の[[真中満]]と交錯して左手首を骨折し、[[ビールかけ]]を見守ることしかできず、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]にも出場できなかった{{Efn2|結局、中日は日本シリーズでダイエーに1勝4敗で敗退したが、シリーズで活躍したダイエーのエース・工藤公康(愛工大名電高校の先輩)は「山﨑がいない打線だから楽だった」と発言したほか、メディアも中日の敗因として「山﨑不在」を挙げた{{Sfn|ベースボール・マガジン社|2016|p=71}}。}}{{R|中日スポーツ19991229}}。同年は4年ぶりに規定打席未到達に終わり、113試合に出場して打率.246、28本塁打・75打点と打撃成績は思わしくなかったが、オフの契約更改ではナゴヤドーム最終戦で放ったサヨナラ3点本塁打が高く評価され、前年比500万円増となる年俸1億円で契約更改した<ref name="中日スポーツ19991229">{{Cite web ja |url=http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp1229-1.htm |title=山崎 1億円プレーヤーに サヨナラ劇的弾500万円也 |website=中日スポーツ |publisher=中日新聞社 |date=1999-12-29 |accessdate=2024-09-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20010305201414/http://chuspo.chunichi.co.jp/dragons/topics/tp1229-1.htm |archive-date=2001-03-05}}</ref>。 |
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'''{{by|1994年}}''' |
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'''{{by|2000年}}'''はオープン戦でスパイクシューズを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年は[[スパイク]]を履かないで打席に立った<ref name="ganbare">『[[ガンバレ日本プロ野球!?]]』([[J SPORTS]])2009 - 2010シーズンに出演した際に発言。[http://www.jsports.co.jp/movie/baseball/111003_ganbare_10.html その時のダイジェスト動画]</ref>。7月12日の対阪神戦で7回裏に[[吉田豊彦]]から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。[[2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも監督推薦で出場し、[[松坂大輔]]から2点適時打を打つなどの活躍で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)#各種表彰|MVP]]となる。この年は上記のスタイルで出場を続けた結果踏ん張りが効かず、前年の手首の骨折もあって流し打ちのスタイルとなり、最終的にはリーグ7位となる打率.311と高打率を記録したが<ref>{{Cite web ja |url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_2000.html |title=年度別成績 2000年 セントラル・リーグ |website=NPB.jp 日本野球機構 |date= |accessdate=2015-09-02}}</ref>、[[契約更改]]では「18本塁打はとても少ない」と指摘された。 |
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前年シーズンオフにそれまで、[[一塁手]]のレギュラーだった[[落合博満]]が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]で巨人へ移籍する。更に、[[大豊泰昭]]が左翼手から一塁手に転向したことで外野手のレギュラーに空きが出来たが、[[彦野利勝]]の故障からの復帰などもあって、出場機会が激減し、1年間を通して目立った活躍は出来なかった。 |
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'''{{by|2001年}}'''は10月6日の対広島戦で史上376人目となる通算1000試合出場を達成。同年はチーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改では「打率.238、51打点が最低だ」と指摘される。この評価に納得せずFA宣言し、一時は好条件を提示した[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]への移籍へ傾くが{{Sfn|山﨑|2014|p=30}}、シーズン後に新しく監督となった[[山田久志]]の慰留もあり<ref>2014年1月21日、22日放送の『ドラ魂KING』の「連続野球私小説」での自身の発言より。{{要高次出典 |title=放送番組の類は、基本的にリアルタイム以外での検証が困難であるため。 |date=2014年3月}}</ref>、最終的には中日と3年契約を結んで残留した。 |
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'''{{by|1995年}}''' |
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'''{{by|2002年}}'''は[[オープン戦#日本プロ野球のオープン戦|オープン戦]]から不調で、4月末には二軍へ降格。二軍戦でも不調が続いたが、ゴメスの故障により、7月から一軍復帰。しかし、7月26日の対阪神戦では同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に[[英智|蔵本英智]]のエラーでサヨナラ負けする。試合後、監督の山田は「どこかでブツッと切れてしまう。まるでお通夜みたいなもんだ。それと使った俺が悪いんだけど、チームを奈落の底に突き落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけどな。」と発言する。正確にはこの発言が山﨑を指したものか不明であったが、山﨑は「蔵本じゃない。今日は俺だ。俺が打っていれば、ミスもなかったんだ。」と話した。しかし、先述のように山田の慰留で中日に残留した経緯もあり、後に自身の著書で「山﨑って名指しで言えよ!」と不信感を顕わにしていた<ref>山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.123-124</ref>。その後はほとんど出場機会がなく、二軍戦にも出場しない時が多かった<ref>美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.15</ref>。結局、同年は26試合の出場に終わり、打率も1割台と不本意なシーズンとなった。レギュラーシーズン終了後には自ら球団社長・西川順之助に「[[トレード]]してほしい」と直訴し{{Sfn|山﨑|2014|p=32}}、2003年1月上旬に[[平井正史]]との交換トレードで[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]へ移籍することが発表された{{Efn2|山﨑本人は「この時は悲しさよりむしろ『俺を出した中日を見返してやる』という意気込みの方が強かった」と述べている{{Sfn|山﨑|2014|p=33}}。}}{{Sfn|山﨑|2014|p=33}}。移籍後の背番号は「'''5'''」。 |
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開幕前のキャンプでは[[プロボクサー]]([[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[バンタム級]][[チャンピオン]])の[[薬師寺保栄]]に師事し、ボクシングの練習を取り入れた。山崎と同期のチームメイトである[[近藤真市|近藤真一]]が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。この年は前年のレギュラー外野陣やロッテから移籍の[[メル・ホール]]が不調で山崎の出番が増え、大豊も不調だったこともあり一塁での出場も増え、自身初の2桁本塁打となる16本塁打を放った。 |
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=== オリックス時代 === |
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'''{{by|1996年}}''' |
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'''{{by|2003年}}'''は8月19日のダイエー戦で2回表に[[倉野信次]]から史上77人目となる通算200号本塁打を放った。同年は110試合に出場し、低打率に苦しみ規定打席にも到達できなかったが、チームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放った。また、8月25日の日本ハム戦の2回裏の打席で投球の判定に対し[[白井一行]]球審に侮辱行為をしたとして退場処分を受けた。 |
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'''{{by|2004年}}'''は4月27日からの[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の3連戦([[ナゴヤドーム]])で監督の[[伊原春樹]]は地元出身選手として先発出場を約束。初戦は4番・[[指名打者]]として先発出場して3打数2安打と活躍した。ところが、この試合中に負傷した[[谷佳知]]が翌日に3番・指名打者として先発出場する。山﨑は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショック<ref>『週刊アサヒ芸能』2014年3月6日号に掲載されたテリー伊藤との対談によると、このことに我慢できず伊原に抗議したが伊原は逆に「スタメンを決めるのは俺だ。」と一喝したため、山﨑は怒って暴言を吐いたとのこと。参照リンク…[https://www.asagei.com/20876 テリー伊藤対談「山崎武司」(1)各監督との確執のホントのところ] - 『アサ芸プラス』2014年3月4日配信</ref>を受け、試合開始前に帰宅。その直前には監督室にバットを放り投げ、ゼネラル・マネージャーの[[中村勝広]]に伊原の解任を直訴するなどの行為を行った<ref>美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.17-18</ref>。これが「職場放棄」などと見なされ、翌日には懲罰的な意味で登録を抹消された。この「ボイコット事件」について山﨑本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている<ref>山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132</ref>。それ以降、一軍と二軍を何度も行き来することになり、9月にはチームを離れ自身の実家に戻った。また、レギュラーシーズン最終戦の前には伊原から和解を求める電話があったが、再びチームに戻ることはなかった<ref>美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.18</ref>。しかし、伊原とは退団後に和解し、雑談や会話をすることもあると自著で語っている<ref>山﨑武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132。なお、伊原とは「子育て論で話が合う部分もある」と言う。</ref>。 |
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去年の活躍もあり、この年は打順こそ下位であったが開幕からレフトに固定され、同じく下位に固定された大豊とともに快打を連発する(特に長打力に磨きがかかったのは、キャンプ時にメーカーの手違いで普段使ってるバットより長いバットが届きそれに気づかずキャンプを過ごしていたが本来使っていた長さの違うバットによりバッティングしっくりこず上手く打てなかったが本人的にはただの不調だと思っていた。終盤に長さが違う事に気がついたが、その長いバットで調整していたこともありバットを変えずにシーズンインしたことによって長打が増えたと後に本人が語っている。)。 |
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[[6月19日]]の対巨人戦では8回裏に[[槙原寛己]]から5番・[[音重鎮]]に続いて、本塁打を放つ。山崎の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]に選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも監督推薦で出場する。[[松井秀喜]]、大豊とタイトルを争った本塁打部門では39本の山崎が38本の松井と大豊を抑えて本塁打王を獲得した。なお、この年は打率はリーグ4位の.322、打点も[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]に次ぐ107打点を記録している。また、同年はリーグ最高長打率(.625)もを記録し[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に選ばれた。 |
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この年は最終的に62試合の出場に留まり、4本塁打、打率.245と前年から成績を落とし、この時に中日やオリックスで人間関係のトラブルから野球がまともにできず、嫌気が差して球団から[[戦力外通告]]も受けたため一度は引退を考えたが、[[団野村]]や高校の先輩・[[工藤公康]]の説得と長男からの応援により、現役続行を決意。同時期に新規参入の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の監督・[[田尾安志]]に評価され入団オファーを受け、山﨑は「野球はもう、結構です」と一度は断ったものの、団の「それだと俺も困るんだよ」との説得や、田尾からも熱烈な誘いも有り承諾した<ref>山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年</ref>。12月11日、正式に契約。背番号は長女の名前にちなんで「'''7'''」を選んでいる{{Efn2|当初オリックス時代の同僚で、分配ドラフトで加入した[[辻竜太郎]]が7に内定していたが、山崎自ら辻を説得した結果、最終的にはオリックス時代と同じ'''48'''となった<ref>広野功『広野功の楽天誕生秘話』。[[日刊ゲンダイ]]、2013年11月19日号、33面</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=D2UvajBYboQ 楽天の7番は違う選手のものだった!?山﨑武司が背番号へのこだわりを語る!【教えて武司さん#006】] - 山﨑武司チャンネル([[YouTube]])、2021年6月1日配信。</ref>。}}。 |
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'''{{by|1997年}}''' |
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=== 楽天時代 === |
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中日の本拠地がナゴヤ球場から[[外野#野球|外野]]が広い[[ナゴヤドーム]]へ移転し、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。チームもリーグ最下位に沈んだ。 |
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'''{{by|2005年}}'''は3月26日にチーム史上初の公式戦である[[千葉ロッテマリーンズ]]開幕戦では5番・指名打者で先発出場。開幕直後に右手に死球を受け、[[東北楽天ゴールデンイーグルス (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]])で治療に専念するなどレギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まった[[セ・パ交流戦]]より徐々に調子を上げ、5月7日の巨人戦では9回裏に[[前田幸長]]から球団史上初の代打本塁打を、6月には4試合連続の5本塁打を放ち、交流戦後には4番・指名打者に定着。7月2日の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では3回裏に[[江尻慎太郎]]から史上234人目、通算1000本安打となる左前安打を放つ。プロ入り19年目での達成となった。7月27日の対日本ハム戦の試合前に宮城県仙台市内の小学校を訪問し、子供たちに「本塁打を打つ。」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。当時、右打者のバッティングの基本である「右足重心」という言葉さえも知らなかった状態で、監督の田尾により基本を徹底的に指導された。田尾の指導によるフォームの改造により、118試合に出場して5年ぶりの規定打席到達、チーム最多の25本塁打を記録したが、後年にこのフォーム改造が楽天時代に好成績を残せるようになった要因の一つだと本人は挙げている<ref name="gendai20140110_01">{{Cite web ja |url=https://gendai.media/articles/-/38039 |title=[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]山﨑武司(元プロ野球選手)<前編>「逆境を救ってくれた2人の恩師」(スポーツコミュニケーションズ)(1/5) |website=現代ビジネス |date=2014-01-10 |accessdate=2024-03-12}}</ref>。田尾は後年「崩れているところがわかっていたので、バッティングを直せる自信があった。思った以上にやってくれた」と振り返っている<ref>[https://full-count.jp/2017/12/01/post95763/3/ 楽天創設時の首脳陣が明かす秘話 「我々3人の一番の失敗」は…]</ref>。同年9月25日まで行われた楽天のホーム最終3連戦(対ロッテ戦)で『[[河北新報]]』記者が観客50人からアンケートを取ったところ、同年の楽天のチームMVP(最優秀選手)には山﨑を挙げる意見(9票)が最多だった{{Efn2|次点は[[礒部公一]](8票)、3位は[[岩隈久志]]と田尾監督(いずれも6票){{R|河北新報20050927}}。}}<ref name="河北新報20050927">『[[河北新報]]』2005年9月27日朝刊第16版第二社会面32頁「羽ばたけイーグルス ホーム最終戦 観客50人に聞きました MVPは山崎内野手」([[河北新報社]])</ref>。 |
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'''{{by|2006年}}'''は新しく監督として[[野村克也]]が就任し、4番の座は西武から移籍してきた[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]に譲る。6月17日の対巨人戦では工藤から2打席連続本塁打、7月29日の対西武戦では[[涌井秀章]]から楽天初となる逆転満塁本塁打を放つ。なお、この本塁打はパシフィック・リーグ通算900本目の満塁本塁打である。8月5日には日本プロ野球史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕からの小さな目標として来たので、達成できて嬉しいですね。」と喜びを語った。しかし、122試合に出場したが打率.241、19本塁打と前年を下回った。 |
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'''{{by|1998年}}''' |
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'''{{by|2007年}}'''は開幕当初こそ不調が続いたが、前年より野村のアドバイスを積極的に取り入れたことがこの年より効果が表面化し、徐々に調子を上げた。4月1日の対オリックス戦の3回裏には[[吉井理人]]から[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]とともに満塁本塁打を放った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目、パシフィック・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパシフィック・リーグ初)、同一投手から2本は史上初となる。開幕後の1か月間は安打の半分が本塁打という状態で打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。5月2日の対[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦で先発投手は山﨑が苦手としている[[和田毅]]だったが、「どうせ打てないならダラダラ打ってやろう。」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったところ、和田を相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて、和田の配球の傾向を野村から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山﨑自身は「'''こんにゃく打法'''」と呼んでいた。5月17日の対日本ハム戦では自身2度目となる1試合3本塁打、5月27日の対横浜戦では[[那須野巧]]から場外本塁打を放ち、両リーグ最速で20号に到達し、5月は打率.342、12本塁打、27打点でチーム初の月間MVPを獲得。自身にとっては中日に在籍していた1996年6月以来10年11か月ぶりで、この期間は史上最長でもある。また、両リーグでの月間MVP受賞は史上13人目である。同月以降はフェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。6月14日に史上152人目となる通算1500試合出場を達成。その後も[[セ・パ交流戦]]終了時点で27本塁打、レギュラーシーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。レギュラーシーズン前半の好調は配球を読むようになったことと構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは野村が試合中にベンチで若い投手と捕手に打者の心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。また、「相手の配球を読んで打て」とのアドバイスも受けた<ref name="MoobieScoop">[https://hikakujoho.com/moviescoop/13734100002563/ 「日本プロ野球界の名将・野村克也によって復活した選手たち」] - CyberOwl(当時の社名はCyberSS。[[サイバーエージェント]]の関連会社)運営「Moobie Scoop!」(比較情報.com内のコンテンツ)。2017年6月12日発信、2018年5月24日閲覧。</ref>。 |
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トレードで[[阪神タイガース]]へ移籍した大豊に代わり、左翼手から一塁手に転向する。[[8月18日]]の対ヤクルト戦では2回表に[[マーク・エーカー]]から史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は松井、[[江藤智]]に次ぐリーグ3位。最多勝利打点の16打点で表彰され、最優秀[[JCB・MEP賞]]を受賞する。[[11月1日]]のセントラル・リーグ東西対抗戦では3ランホームランを放ち、MVPとなった。 |
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指名打者として選出された[[2007年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の第1戦の代打出場の活躍の他、第2戦の第1打席での先制2点本塁打、第2打席の二塁打の活躍により、優秀選手賞と[[オールスターゲーム (日本プロ野球)#各種表彰|ガリバー賞]]に選ばれ、賞品として[[ポルシェ・カイエン]]を獲得した。 |
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'''{{by|1999年}}''' |
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8月27日にはこの日誕生日だった長女の前で39号と40号本塁打を記録。9月15日には11年ぶりとなる100打点を記録し、最終的に43本、108打点{{R|MoobieScoop}}の自己最高記録で[[タフィ・ローズ]]を上回り、初の打点王と11年振りとなる本塁打王とベストナイン(指名打者部門)に輝いた。21年目での40本塁打、100打点での本塁打王、打点王は史上初。なお、山﨑は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打、本塁打王は[[王貞治]]、[[門田博光]]に並び、100打点、打点王は王、[[衣笠祥雄]]の20年目に次ぐ記録である。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合、ローズに次ぐ3人目。また、39歳での本塁打王、打点王の獲得は40歳で両タイトルを獲得した門田に次ぐ歴代2位の記録である。また、過去最高クラスの成績を残し、なおかつチーム全体のことをも考えるようになったため、[[野村再生工場]]の成功事例の一つともなった。 |
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打順は主に6番を任される。[[5月9日]]の対広島戦で3打席連続本塁打を放つ。一時期は不調に陥りスタメンを外れることもあったが、[[9月26日]]の対阪神戦では[[福原忍]]から逆転サヨナラ3ラン本塁打を放っている。山崎によるとこの年から内野守備走塁コーチに就任した[[高代延博]]と確執があり高代の進言によりスタメンを外れることが多くなり山崎は高代について、「監督に媚を売る指導者は必要ない」と著書に記している<ref>山崎武司著、さらば、プロ野球 ~ジャイアンの27年、2014年、[[宝島社]]、P78-80</ref>。この年、中日はリーグ優勝を争っていたが、この前日には山崎は先発出場せず、この日も本塁打を放つまでは0安打だった。前日までの起用のされ方に不満を持っていた山崎は本塁打を放った後、一塁へ走る際にベンチにいた監督の[[星野仙一]]に向かって、「'''おっさんボケ〜!俺を出しとけば、ちゃんと打つんじゃ!'''」と言い放った。<ref>[https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/ktv/25624/491133/ マルコポロリ!SPパ・リーグ残酷物語番外編]</ref>[[9月30日]]、11年振りのリーグ優勝を決めた対[[ヤクルト]]戦で一塁手の守備の途中、打者走者の[[真中満]]と交錯して左手首を骨折。このため、[[ビールかけ]]も見守ることしかできなかった。当然、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との[[1999年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に出場することもできなかった。 |
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山崎自身も「“野村再生工場”の中でも一番ハマったという自負はありますね。ヤクルトでの小早川(毅彦)さんなどもいますが、僕こそが一番の傑作だと思っています。タイトルも取っていますしね。だから野村再生工場の長男を自称しているんです」と語っている<ref name="postseven20210102">{{Cite web ja |url=https://www.news-postseven.com/archives/20210102_1623411.html?DETAIL |title=山崎武司氏 野村克也監督「三振、大いに結構」で本塁打量産 |website=NEWSポストセブン |date=2021-01-02 |accessdate=2021-11-13}}</ref>。 |
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'''{{by|2000年}}''' |
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また、野村就任以降の本塁打量産についても「僕は追い込まれると三振したくなくて思い切ったバッティングができなかったのですが、野村監督から『三振、大いに結構。なぜ三振したかが大切。三振もいい当たりも同じアウト。根拠さえあれば思い切って振ればいい。何も考えずに三振してくるのはアカン』と言われた。三振しても次に活かせばいいと考えられるようになり、三振が恐くなくなった」「楽天でホームランを量産できたのは、この言葉をかけられたからなんです」と語っている{{R|postseven20210102}}。 |
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オープン戦でスパイクを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年は[[スパイク]]を履かないで打席に立った<ref name="ganbare">『[[ガンバレ日本プロ野球!?]]』([[J SPORTS]])2009 - 2010シーズンに出演した際に発言。[http://www.jsports.co.jp/movie/baseball/111003_ganbare_10.html その時のダイジェスト動画]</ref>。[[7月12日]]の対阪神戦で7回裏に[[吉田豊彦]]から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。同年の[[2000年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に監督推薦で出場し、[[松坂大輔]]から2点適時打を打つなどの大活躍で[[オールスターゲーム (日本プロ野球)#各種表彰|MVP]]となる。この年は上記のスパイク履かない発言により結果踏ん張りが効かずまた前年の手首の骨折もあり流し打ちのスタイルになり、最終的にリーグ7位の打率.311という高打率を記録するが<ref>{{Cite web|url=http://bis.npb.or.jp/yearly/centralleague_2000.html|title=年度別成績 2000年 セントラル・リーグ|publisher=日本野球機構|accessdate=2015-09-02}}</ref>、[[契約更改]]で球団事務所から「18本塁打はとても少ない」と指摘された。 |
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この年、[[フェラーリ・F512M]]を[[楽天オークション]]に出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。この年のタイトル獲得を記念し、愛車の[[ランボルギーニ・ムルシエラゴ]]がドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。 |
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'''{{by|2001年}}''' |
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'''{{by|2008年}}'''は野村監督の指示により、この年から3年間主将とチームリーダーを務める。同年に発生した[[岩手・宮城内陸地震]]には復興支援金として、レギュラーシーズンに打った本塁打1本に付き10万円、総額280万円を[[宮城県]][[栗原市]]に寄付した。その寄付の感謝の意味を込め、市役所は翌年に栗原市営栗駒球場の愛称を「'''山﨑武司球場'''」とした<ref>[https://megalodon.jp/2015-1103-1338-24/news.yahoo.co.jp/pickup/659036 「山崎武司球場」が誕生 栗駒球場に愛称 栗原市] - [[河北新報]]([[Yahoo!ニュース]]よりアーカイブ。2009年9月29日 11時53分掲載、2015年11月3日閲覧)</ref>。シーズンでは4月3日の対ロッテ戦で[[久保康友]]から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。4月は打率.374、7本塁打、21打点で月間MVPに選ばれる。その後は調子を落としたものの、[[2008年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]には同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選ばれる。7月31日の第1戦では9回裏に[[久保田智之]]からサヨナラ打を放ち、MVPに選ばれる。なお、両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。最終的に打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップとなった。 |
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[[10月6日]]の対広島戦で史上376人目となる通算1000試合出場を記録する。この年、チーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改で球団事務所から今度は「打率.238、51打点が最低だ。」と指摘される。この評価に納得せず、[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]宣言し、一時は金銭面で好条件を提示した[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]移籍へ傾くが、シーズン後に新しく監督となった[[山田久志]]の慰留もあり<ref>2014年1月21日、22日放送の『ドラ魂KING』の「連続野球私小説」での自身の発言より。{{要高次出典|title=放送番組の類は、基本的にリアルタイム以外での検証が困難であるため。|date=2014年3月}}</ref>、最終的には中日と3年契約を結んで残留した。 |
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'''{{by|2009年}}'''は6月14日の対横浜戦で[[松家卓弘]]から本塁打を放ち、史上5人目となる両リーグ150号本塁打を達成。7月8日の対ロッテ戦にも史上102人目の通算1500安打を達成したが、チャンスで打てないことが多かった。しかし、オールスター明けからは大事な場面で打つことが増え、特に8月16日の対ロッテ戦では8回まで6点ビハインドの状況で[[唐川侑己]]から史上23人目の通算350号となる3点本塁打を放つと9回裏二死の2点ビハインドの場面では[[ブライアン・シコースキー]]から同点2点本塁打を放った。この試合は結局、延長12回裏に[[小坂誠]]がサヨナラ打を放ち、6点差をひっくり返す逆転勝利を収めた。この試合以降、チームは29勝16敗という飛躍的な成績を挙げた。最終的に打率こそ.246と低かったものの、39本塁打、107打点と両部門リーグ2位という成績で打線を牽引しベストナインの指名打者部門に2年ぶりに選出、またチーム史上初の2位とクライマックスシリーズ出場に貢献した。40代での本塁打30本到達は王、門田、ローズに次いで4人目。打点は前述の王、衣笠の記録を更新する実働21年目での100打点到達となった。また、41歳を迎える年での100打点到達は門田、ローズ、[[金本知憲]]の40歳を超える史上初の記録。また、本塁打は楽天移籍後の150本塁打到達となり、中日時代に記録した本塁打と合わせて史上7人目となる2球団での150本塁打も記録。クライマックスシリーズでは40代以上では初となるポストシーズン2本塁打、7打点を挙げたが、チームは第2ステージで日本ハムに敗れた。 |
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'''{{by|2002年}}''' |
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'''{{by|2010年}}'''は5月14日の対広島戦で[[エリック・スタルツ]]から自身初となる代打満塁本塁打を放ち、5月23日の対中日戦では楽天以外の既存11チームと大阪近鉄バファローズからの本塁打を達成した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/05/23/kiji/K20100523Z00001350.html 山崎、鉄平…元中日勢が大活躍] スポーツニッポン2010年5月23日配信</ref>。[[2010年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では第1戦で中日時代の元チームメイトの[[岩瀬仁紀]]から本塁打を放ちベストプレー賞を獲得。第2戦も[[東野峻]]から本塁打を放ち、40代での現役選手としては史上初の2本塁打で存在感を示した。しかし、前半は大不振で、交流戦では12球団トップとなる11本塁打を放って一時は復調したものの、交流戦後に再び不振に陥った。それでも後半に復調し、最終的にチームトップとなる28本塁打93打点を挙げたが、打率が.239と前半の不調が響き、チームも4年ぶりのリーグ最下位に終わった。 |
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この年は[[オープン戦#プロ野球のオープン戦|オープン戦]]から不調で、4月末に二軍へ降格となる。二軍戦でも不調が続いたが、[[レオ・ゴメス]]の故障により、7月から一軍復帰。[[7月26日]]の対阪神戦では同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に[[英智|蔵本英智]]のエラーでサヨナラ負けする。試合後、監督の山田は「どこかでブツッと切れてしまう。まるでお通夜みたいなもんだ。それと使った俺が悪いんだけど、チームを奈落の底に突き落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけどな。」と発言する。正確にはこの発言が山崎を指したものか不明であったが、山崎は「蔵本じゃない。今日は俺だ。俺が打っていれば、ミスもなかったんだ。」と話した。しかし、先述のように山田の慰留で中日に残留した経緯もあり、後に自身の著書で「山崎って名指しで言えよ!」と不信感を顕わにしていた<ref>山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.123-124</ref>。この後はほとんど出場機会がなく、二軍戦にも出場しない時が多かった<ref>美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.15</ref>。結局わずか26試合の出場に終わり打率1割台と不本意なシーズンで終わった。レギュラーシーズン終了後、自ら球団にトレードを直訴し[[平井正史]]との交換[[トレード]]で[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]へ移籍。移籍後の背番号は「'''5'''」。 |
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[[ファイル:Yamasaki takeshi.jpg|right|thumb|200px|フルスイングを披露する山﨑(2011年)]] |
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=== オリックス時代 === |
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'''{{by|2003年}}''' |
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'''{{by|2011年}}'''は中日時代の恩師である星野仙一が監督に就任。前年のシーズンに加入した[[ランディ・ルイーズ]]の一塁手の守備に不安があることに伴い、守備力重視を掲げる星野の構想から指名打者の山﨑と一塁手のルイーズの役割が入れ替えとなった。3月11日に発生した[[東日本大震災]]の被害を受けた被災地球団(本拠地[[仙台宮城球場|Kスタ宮城]]も影響を受ける)の4番打者として開幕を迎える。6月11日の中日戦では史上2人目となる40代での100号本塁打を[[中田賢一]]から放つも、同試合の最終打席で空振り三振をした際に、右手薬指を剥離骨折して戦線離脱を余儀なくされる<ref>[https://www.zakzak.co.jp/article/20180110-U6FAIJAJPBNUNAQJJD23RQSPTY/3/ 【追悼・星野仙一 鉄拳制裁】山崎武司氏が激白 「体重20キロ落とせ」強制ノルマで本塁打王獲得 教え子の中で「引退しろ」に拒否したのは僕だけ]</ref>。1か月後の7月19日に戦線復帰し、8月18日の西武戦で[[菊池雄星]]から史上17人目となる通算400号本塁打を放った。8月31日の対西武戦でも菊池から3点本塁打を放ち、7年連続で2桁本塁打を達成。この年は東日本大震災を経験し、楽天のチームメイトたちと被災地を訪問しながら地元の小学校の子供たちを激励した。そうした過去のボランティア活動などが評価され、2011年度[[ゴールデンスピリット賞]]を受賞した<ref>[https://web.archive.org/web/20111115025720/http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20111114-OHT1T00301.htm 山崎、心優しきジャイアン ホームラン基金&被災地支援に力…ゴールデンスピリット賞] スポーツ報知 2011年11月15日閲覧</ref>。しかし、若返りを図るチーム方針により、[[戦力外通告]]を受け、10月10日に退団が発表された<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20111010194445/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/npb/news/CK2011101002000091.html |title=山崎、涙の退団発表 コーチ打診断り現役続行希望 |website=中日スポーツ |date=2011-10-10 |accessdate=2011-12-08}}</ref>。山﨑本人は「まだやれる自信はある。」と発言し、現役続行を希望した。前述の離脱もあり7年ぶりに[[規定打席]]に到達できず、102試合の出場で打率こそ.229になったものの、11本塁打、48打点は貧打に喘いだチーム内ではトップ(打点は[[松井稼頭央]]とトップタイ)だった。山﨑によると星野から直接「来年の構想に入っていない」と通告された。また、コーチの要請が球団からはあったが、断ったとのこと<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111010-847642.html 山崎楽天退団で涙の現役宣言 コーチ断る] - [[日刊スポーツ]] 2011年10月10日</ref>。星野とぶつかることはなかったが、星野が就任した時から終わりを覚悟していたという。その後、退団を自ら申し出て最後は中日でしたいと考えていたことを後のインタビューで明かしている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.asagei.com/excerpt/20878 |title=テリー伊藤対談「山崎武司」(3)星野監督に“引退しろ”と言われたが… |website=アサ芸プラス |date=2014-03-06 |accessdate=2024-03-12}}</ref>。 |
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[[8月19日]]のダイエー戦で2回表に[[倉野信次]]から史上77人目となる通算200号本塁打を放った。この年、110試合に出場したものの規定打席には到達せず低打率に苦しんだ。だがチームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放った。しかしチームは2年連続でリーグ最下位に終わった。 |
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また、恩師である野村克也に去就について相談したところ、「お前は25年やってきた。実績もある。辞める、辞めないの決断は自分でしないといけない選手だ。人に言われて決めちゃいかん。まだやれると思うなら頑張れ」と現役続行を後押ししてもらったことも語っている<ref>{{Cite web ja |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/846039 |title=2度目の戦力外通告「辞めないで!」泣いた息子 引退か現役か…プロ野球選手が決断するとき【山崎武司の場合】(田口元義) |website=Number Web |date=2020-11-28 |accessdate=2021-11-13}}</ref>。 |
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'''{{by|2004年}}''' |
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12月8日に中日への移籍が決定。10年ぶりの古巣復帰を果たし<ref>{{Cite web ja |url=http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/12/08/0004669507.shtml |title=山崎、中日と3000万円+出来高で契約 |website=デイリースポーツ |date=2011-12-08 |accessdate=2011-12-08}}</ref>、背番号は楽天時代と同じ「'''7'''」。また、楽天から中日へ移籍した初の選手となった。年俸3000万円、出来高は最大1億円という契約となった。 |
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[[4月27日]]からの[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の3連戦で監督の[[伊原春樹]]は地元出身選手として先発出場を約束。初日は4番・[[指名打者]]として先発出場して3打数、2安打と活躍したが、この試合中に負傷した[[谷佳知]]が翌日に3番・指名打者として先発出場する。山崎は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショック<ref>『週刊アサヒ芸能』2014年3月6日号に掲載されたテリー伊藤との対談によると、このことに我慢できず伊原に抗議したが伊原は逆に「スタメンを決めるのは俺だ。」と一喝したため、山崎は怒って暴言を吐いたとのこと。参照リンク…[http://www.asagei.com/20876 テリー伊藤対談「山崎武司」(1)各監督との確執のホントのところ] - 『アサ芸プラス』2014年3月4日配信</ref>を受け、試合開始前に帰宅。その直前には監督室にバットを放り投げ、ゼネラル・マネージャーの[[中村勝広]]に伊原の解任を直訴するなどの行為を行った<ref>美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.17-18</ref>。これが「職場放棄」などと見なされ、翌日に懲罰的な意味で二軍へ降格させられる。この「ボイコット事件」について山崎本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている<ref>山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132</ref>。これ以降、2軍落ちを何度も経験し、9月には自身の実家に戻った。レギュラーシーズン最終戦の前には伊原から和解を求める電話があったが、再びチームに戻ることはなかった<ref>美山和也+加藤慶+田口元義『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』 宝島社、2012年、P.18</ref>。しかし、伊原とは退団後に和解し、雑談や会話をすることもあると自著で語っている<ref>山﨑武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132。なお、伊原とは「子育て論で話が合う部分もある」と言う。</ref>。 |
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=== 中日復帰後 === |
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最終的に同年は62試合の出場にとどまり、4本塁打、打率.245と前年より調子を落としてシーズンを終了した。この時に中日・オリックスにて人間関係のトラブルにより野球がまともにできずそれに嫌気をさして一度は引退を考え、追って球団事務所からも[[戦力外通告]]を受けたが、[[団野村]]からの電話と高校の先輩・工藤公康の説得と長男からの応援により、現役続行を決意した。同時期に新規参入の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の監督・[[田尾安志]]に評価され入団オファーを受けたが一度は断ったものの、上記にもあった説得や田尾からも熱烈な誘いも有り承諾。[[12月11日]]、正式に契約。背番号は「'''7'''」。 |
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'''{{by|2012年}}'''は山﨑と同じく中日復帰を果たした監督の高木が第1次高木監督時代と同様に山﨑を積極的に起用した。[[トニ・ブランコ]]との競争の中、オープン戦で4本塁打を放つなど結果を出し、3月30日の開幕戦は4番・一塁手で出場した。開幕戦での4番は2010年に金本が記録した41歳11か月を上回る43歳4か月のセントラル・リーグ最年長記録となった。その後も4番・一塁手として出場したものの、4月25日に[[野本圭]]と共にインフルエンザB型に感染していたことが判明し、登録を抹消された。7月14日の巨人戦の3回裏、復帰後初の本塁打を[[デニス・ホールトン]]から放った。翌日の試合では決勝の適時二塁打を放ち、古巣復帰後初のお立ち台に上がった。しかし、90試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、13打点と期待に沿う活躍は出来なかった。シーズン終盤には左手薬指の骨折もあり、一時は引退を考えていたが、チームは翌年も山﨑を戦力の1人として考えていたため、現役続行を決断。12月5日の契約更改では300万円減の2700万円に出来高払いを加えてサインし、現役続行が決定した。 |
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'''{{by|2013年}}'''は開幕一軍入りを果たし、主に代打での起用で6試合に出場したが、7打数1安打で打率.143と不振に陥り、4月8日には出場選手登録を抹消された。交流戦開始の5月14日に再登録され、同日の[[北海道日本ハムファイターズ]]戦では6回に代打として起用され、同点に追いつく適時三塁打を放った。なお、この三塁打でセントラル・リーグ最年長三塁打を記録し、金本の44歳3か月を抜く、44歳6か月で記録を更新した。試合は中日が勝ち、決勝の[[犠飛]]を放った[[マット・クラーク (野球)|マット・クラーク]]と共にお立ち台に上がった。5月17日の対楽天戦では9回裏に代打として起用され、[[青山浩二]]から自身7度目のサヨナラ打となる2点適時打を放ち、セントラル・リーグ最年長サヨナラ打を記録した。しかし、7月27日に出場登録を抹消されたことを受け、現役引退を決め、同月29日に正式に同年限りでの引退を表明<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/29/kiji/K20130729006317470.html 中日・山崎 今季限りで現役引退「けじめとして決意した。」] スポーツニッポン2013年7月29日配信</ref>。10月1日の対阪神戦では3番・二塁手として先発出場したが、1回表の打席のみの出場で1回裏の守備から[[森野将彦]]に交代したため、二塁手を守ることはなかった。山﨑をここ一番という場面で試合に使っていた監督の高木もこのシーズンをもって退任した。 |
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=== 楽天時代 === |
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'''{{by|2005年}}''' |
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=== 現役引退後 === |
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[[3月26日]]、チーム史上初の公式戦である[[千葉ロッテマリーンズ]]開幕戦では5番・指名打者で先発出場。開幕直後に右手に死球を受けて[[東北楽天ゴールデンイーグルス (ファーム)|二軍]]で治療に専念するなど、レギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まった[[セ・パ交流戦]]に入ると、徐々に調子を上げ、[[5月7日]]の巨人戦では9回裏に[[前田幸長]]から球団史上初の代打本塁打を、6月になったばかりの時は4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は4番・指名打者として定着する。[[7月2日]]の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では3回裏に[[江尻慎太郎]]から史上234人目、通算1000本安打となる左前安打を放つ。プロ入り19年目の年での達成であった。[[7月27日]]の対日本ハム戦の試合前に宮城県仙台市内の小学校を訪問。子供たちに「本塁打を打つ。」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。田尾の指導によるフォームの改造が、この年の118試合に出場して5年ぶりの規定打席到達、チーム最多の25本塁打や後年の好成績を残せるようになった要因の一つだと本人は挙げている。<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38039 山﨑武司(元プロ野球選手)<前編>「逆境を救ってくれた2人の恩師」]</ref> |
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{{by|2014年}}からは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[ニッポン放送]]・[[東海テレビ放送|東海テレビ]]・[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]・[[テレビ愛知]]の野球解説者<ref>『週刊ベースボール』2014年2月22日増刊号「2014プロ野球全選手カラー写真名鑑」より、「2014野球評論家名鑑」を参照。</ref><ref>『12球団全選手カラー百科名鑑2014』P277掲載のプロフィールでは、活動先についてテレビ愛知のみ明記されず。</ref>、[[FOXスポーツ|FOX SPORTS]]『[[BASEBALL CENTER]]』のアナリスト<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000023.000006648.html FOX SPORTSで 千葉ロッテ・福岡ソフトバンク・オリックスの プロ野球公式戦 主催試合を完全生中継! オープン戦も計35試合放送!(FOX SPORTS ジャパン株式会社)] - 『PR TIMES』2014年2月18日13時14分</ref>、[[夕刊フジ]]の[[野球評論家]]<ref>[https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140130/bbl1401300721000-n1.htm 【メッタ斬り 生涯ジャイアン】山崎武司氏が新連載! 田中よ、ダルを見下ろしたれ 1年間ローテ守れば15勝以上は絶対する (1/3ページ)] - ZAKZAK 2014年1月30日付</ref>を務める。 |
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2014年3月18日に中日より3月21日の対楽天オープン戦(ナゴヤドーム)を「山﨑武司[[引退試合]]」とし、一日限定で支配下選手として登録されることが発表<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/03/18/kiji/K20140318007799580.html 山崎武司氏 中日と“1日限りの契約”で21日引退試合] - スポーツニッポン2014年3月18日配信</ref>、3月20日に支配下選手登録された<ref name="npb_shihaika_2014">{{Cite web ja |url=https://npb.jp/announcement/2014/pn_registered.html |title=支配下選手登録 (2014年度シーズン途中・2月以降) |website=NPB.jp 日本野球機構 |date= |accessdate=2014-03-20}}</ref>。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2010年の[[立浪和義]]以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのは山﨑が初である。プロ野球の最低年俸は420万円と決まっているため、1日限定の契約金は、それを300日で割った1万4千円だった。背番号は、支配下選手登録上では20とされた{{R|npb_shihaika_2014}}が、試合では中日で2002年まで使用した22を球団と登録上22番だった[[大野雄大]]の了承を得た上で使用し<ref name="dragons_20140320">{{Cite web ja |url=http://dragons.jp/news/2014/14032001.html |title=山崎選手と選手契約 |website=中日ドラゴンズ |date=2014-03-20 |accessdate=2014-03-20}}</ref>、4番指名打者で出場<ref name="sponichi_20140321">[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/03/21/kiji/K20140321007818520.html 山崎氏「4番・指名打者」でスタメン 初回“最後の打席”は併殺打] スポーツニッポン2014年3月21日配信</ref>。初回一死一・二塁で迎えた打席では、[[則本昂大]]から二ゴロ併殺打に終わった{{R|sponichi_20140321}}。3月24日に再び任意引退公示<ref>{{Cite web ja |url=https://npb.jp/announcement/2014/pn_retired.html |title=任意引退選手(2014年度) |website=NPB.jp 日本野球機構 |date=2014-03-24 |accessdate=2014-03-24}}</ref>がなされた。 |
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'''{{by|2006年}}''' |
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{{by|2017年}}7月27日、楽天OBによる試合「滝風イオンメディック presents 楽天イーグルスレジェンドマッチ」にレジェンドイーグルスのメンバーとして参加<ref>{{Cite web ja |url=https://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00000488.html |title=【情報更新】7/27(木)は「滝風イオンメディック presents 楽天イーグルスレジェンドマッチ」を開催! |website=東北楽天ゴールデンイーグルス |date=2017-07-26 |accessdate=2017-08-31}}</ref>し、4番打者として出場。4回に対戦相手のTFUクラブの[[木村謙吾]]から左中間への適時二塁打を放ち、この試合のMVP賞を獲得した<ref>{{Cite web ja |url=https://tv.pacificleague.jp/vod/pc/topics/eagleslegend2017/21955 |title=【Eレジェンドマッチ】MVP獲得!! イーグルス・山崎武選手ヒーローインタビュー 2017/7/27 E-TFU |website=パ・リーグTV |date=2017-07-27 |accessdate=2017-08-31}}</ref>。 |
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この年から新しく監督として[[野村克也]]が就任。4番の座は、この年西武から移籍してきた[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]に譲る。[[6月17日]]の対巨人戦では工藤から2打席連続本塁打を、[[7月29日]]の対西武戦では[[涌井秀章]]から楽天初となる逆転満塁本塁打を放つ。なお、この本塁打はパシフィック・リーグ通算900本目の満塁本塁打である。[[8月5日]]には日本プロ野球史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕からの小さな目標として来たので、達成出来て嬉しいですね。」と喜びを語った。しかし、122試合に出場したものの打率.241に終わり、ホームランも19本しか打てず、不調だった。 |
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==== モータースポーツ活動 ==== |
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'''{{by|2007年}}''' |
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現役時代から自動車レースにも興味を持っていたことから、アマチュアドライバーとして[[プロジェクト・ミュー|Project μ]]と[[INGING]]のサポートを受けて[[トヨタ自動車|トヨタ]]主催の「[[86/BRZレース|GAZOO Racing 86/BRZ Race]]」に参戦する方針を2014年初めに明らかにした。参戦に向けて[[モータースポーツライセンス]]を新たに取得する必要があることや、プロ野球シーズン中は解説者としての活動を優先することから、同年のシリーズにはスポット扱いで参戦するとした{{R|daily20140119}}<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e5%b1%b1%e5%b4%8e%e6%ad%a6%e5%8f%b8%e3%81%95%e3%82%93%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%87%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%81%b8%e3%80%8286brz%e3%81%ab%e5%8f%82%e6%88%a6 山崎武司さんレースデビューへ。86/BRZに参戦] - オートスポーツ・2014年1月20日</ref>。その後7月26日、[[富士スピードウェイ]]にて行われた第6戦にて、[[トヨタ・86]]でレースデビュー。かつての背番号にちなんだ7番のゼッケンを背負い、決勝Bレースを30位で完走した<ref>{{Cite web ja |url=http://gazooracing.com/detail/3783582 |title=リザルト/ポイントランキング|GR 86/BRZ Race |website=GAZOO Racing |date= |accessdate=2014-08-19}}</ref><ref>{{Cite web ja |author=橋本隆志 |url=http://response.jp/article/2014/07/26/228588.html |title=【GAZOO Racing 86/BRZ Race 第6戦】ホームラン・キング山崎武司氏の初陣は30位完走 |website=Response. |date=2014-07-26 |accessdate=2014-08-19}}</ref>。その後も同レースのクラブマンシリーズ(アマチュアクラス)へ参戦を続け、2018年開幕戦では3位表彰台を獲得している<ref>{{Cite web ja |url=https://www.as-web.jp/domestic/354885/2 |title=6シーズン目の86/BRZが開幕。鈴鹿で織戸学がひさびさの勝利 |website=autosport web |date=2018-04-02 |accessdate=2021-05-22}}</ref>。 |
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==== 野村克也との関係 ==== |
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開幕当初こそ不調が続いたが、徐々に調子を上げた。[[4月1日]]の対オリックス戦の3回裏に、[[吉井理人]]からまず[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]が満塁本塁打を放ち、再び満塁になり山崎も吉井から満塁本塁打を放った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目、パシフィック・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパシフィック・リーグ初)、同一投手から2本は史上初。開幕後1ヶ月間は安打の半分が本塁打という「本塁打か三振か」の状態で、打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。[[5月2日]]の対[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦で先発投手は山崎が苦手としている[[和田毅]]だったが、「どうせ打てないなら、ダラダラ打ってやろう。」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったら、和田相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて、和田の配球の傾向を野村から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山崎自身は「'''こんにゃく打法'''」と呼んでいた5月は打率.342、12本塁打、27打点と復調。チーム初の月間MVPを獲得。自身にとっては中日に在籍していた1996年6月以来10年11ヶ月振りで、この期間は史上最長でもある。また、両リーグでの月間MVP受賞は史上13人目。[[5月27日]]の対横浜戦で[[那須野巧]]から場外本塁打を放ち、本塁打記録は両リーグ最速で20号に到達した。この場外本塁打は場外の露店の商品(アニメ『[[Yes!プリキュア5]]』のキュアアクアのお面)に命中。その後、主にビジター球場の外野スタンドでは当てた商品と同一商品を持って応援するファンの姿が見受けられるようになった。この店主は「店を長いことやって来たけど、場外本塁打が飛んで来たのは初めて。私は幸せ者だよ。」と喜んでいたという。[[6月14日]]、史上152人目となる通算1500試合出場を達成する。この本塁打量産時はフェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。 |
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楽天時代には野村就任の話を聞いて、自分とは野球観が合う訳がないと考えていたため、引退後のインタビューで、野球人生の終わりを当初は感じたという<ref>{{Cite web ja |url=https://www.asagei.com/excerpt/20877 |title=テリー伊藤対談「山崎武司」(2)野村監督との関係はどうだった? |website=アサ芸プラス |date=2014-03-05 |accessdate=2021-05-22}}</ref>。しかし関係が深まるにつれ、やりたくないとまで思っていた野球を再度面白いものだと思わせてくれた恩人として、現役時から現在に至るまで各方面で野村に対する感謝の意を述べている{{R|エムール睡眠20150202}}。 |
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「とにかく初めて野村監督とお話させてもらったときには全否定されましたね。うまくやっていけるのかなと、そんな不安で始まったんですけど、日に日にいいお言葉をいただいて、可愛がっていただきました。野村監督じゃなければ2回目のホームラン王は絶対になかった。足を向けて寝られないですね」「年をとってしまうとパワーもスピードも全てにおいて衰える。『最後に使うのは頭だぞ、頭を使え』と再三言われて。(最初は)どうやって(頭を)使っていいか分からなかったんですけど、タイトルを獲ることができた」「一番印象に残っていることは『野球を好きになれ』ということ。『もっともっと野球を好きになりなさい』と言われました」<ref>{{Cite web ja |url=https://full-count.jp/2020/02/11/post686529/ |title=山崎武司氏、野村克也さんに感謝 最も印象に残っている言葉は「野球を好きになれ」 |website=Full-Count |date=2020-02-11 |accessdate=2021-11-13}}</ref> |
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指名打者として選出された[[2007年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の第1戦の代打出場出の活躍の他に、第2戦の第1打席の先制の2ラン本塁打、第2打席の二塁打の活躍により、優秀選手賞と[[オールスターゲーム (日本プロ野球)#各種表彰|ガリバー賞]]に選ばれ、賞品として[[ポルシェ・カイエン]]を獲得した。レギュラーシーズン前半の好調は、配球を読むようになったことと構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは、野村が試合中にベンチで若い投手と捕手に打者の心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。手の遊びを大きくしたきっかけは[[5月2日]]の試合であった。これ以降、この年の[[セ・パ交流戦]]終了時点で27本塁打、レギュラーシーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。 |
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「実のところ、僕は子供の頃から『野球をやらされている』と思っていたので楽しくはなかった。大嫌いだった。現役を27年間やりましたが、野球が楽しいと思ったのは野村監督との4年間だけです」「僕にとって野村監督はオヤジです。野球以外でもかわいがってもらっていた。ずっとオヤジだと思って引退後も付き合っていました」{{R|postseven20210102}}。 |
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[[8月27日]]にはこの日に誕生日を迎えた長女の前で39号と40号の本塁打を放つ。[[9月15日]]には11年振りとなる100打点を記録。最終的に43本、108打点の自己最高記録で[[タフィ・ローズ]]を上回り、タイトルを獲得、ベストナイン指名打者部門にも選ばれた。打点王は初、本塁打王とベストナインは11年振りとなる。21年目での40本塁打、100打点での本塁打王、打点王は史上初。なお、山崎は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打、本塁打王は[[王貞治]]、[[門田博光]]に並び、100打点、打点王は王、[[衣笠祥雄]]の20年目に次ぐ記録である。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合、ローズに次ぐ3人目。また、39歳での本塁打王、打点王の獲得は40歳で両タイトルを獲得した門田に次ぐ歴代2位の記録である。 |
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「僕はこういう性格だから『監督を男にしたい』なんて思ったことがなかった。自分のため、家族のために野球をやっていた。でも野村のおやじだけは違った。唯一『胴上げしたい』と思った監督だった」<ref>{{Cite web ja |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20200212-3NRB2YXQVJJYXLVSBG3HQ7JGIQ/ |title=山崎武司氏、野村克也さん悼む「唯一、胴上げしたいと思った監督だった」 |website=zakzak |date=2020-02-12 |accessdate=2021-11-13}}</ref> |
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この年、[[フェラーリ・F512M]]を[[楽天オークション]]に出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。この年のタイトル獲得を記念し、愛車の[[ランボルギーニ・ムルシエラゴ]]がドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。 |
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== 選手としての特徴 == |
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'''{{by|2008年}}''' |
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楽天時代に大きくプレースタイルを変えている。それまでは配球など読まない、ただ来た球を打つタイプの選手であり、最初の監督だった星野が三振を嫌う監督だったので、三振をしてはいけないという恐怖心を常に持っていた<ref name="gendai20140110_03">{{Cite web ja |url=https://gendai.media/articles/-/38039?page=3 |title=[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]山﨑武司(元プロ野球選手)<前編>「逆境を救ってくれた2人の恩師」(スポーツコミュニケーションズ)(3/5) |website=現代ビジネス |date=2014-01-10 |accessdate=2024-03-12}}</ref>。しかし、野村に「三振だろうと、いい当たりだろうと、アウトはアウトだろう。そんなもん、根拠さえあれば思い切って振ってくればいいんだ。それでダメなら次、考えればいいだろ」と言われたことで三振を怖がらなくなり、野球がまた楽しくなったと述べている{{R|gendai20140110_03}}。また、三振を怖がらなくなったことでスイングから迷いが消え、野村から教えられた「思い切りの良さが一番大事」を実践するために配球データを洗ったり、野村のベンチ内でのぼやきを参考にして投球を読むことや考えることをするようになったという。技術面では、若い頃はボールに向かって行く打ち方をしていたが、後期は呼び込む打ち方をしていた<ref>{{Cite web ja |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2014/01/02/post_336/index.php |title=山﨑武司×中村剛也が語る「ホームランアーチストのプライド」 |website=web Sportiva |date=2014-01-02 |accessdate=2021-05-22}}</ref>。 |
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2000本安打を達成せず、400本塁打を達成した(日本球界では他に[[田淵幸一]]、[[タフィ・ローズ]]がいる)。 |
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この年から3年間、野村の指示によって、楽天の主将とチームリーダーを務める。楽天のチームの応援歌「[[越えろ!楽天イーグルス]](歌:[[℃-ute]])」のプロモーション・ビデオに出演。この年に発生した[[岩手・宮城内陸地震]]には復興支援金として、このレギュラーシーズンに打った本塁打1本に付き10万円、総額280万円を宮城県栗原市に寄付した。その寄付の感謝の意味を込め、市役所は翌年に栗原市営栗駒球場の愛称を「'''山崎武司球場'''」とした<ref>[http://megalodon.jp/2015-1103-1338-24/news.yahoo.co.jp/pickup/659036 「山崎武司球場」が誕生 栗駒球場に愛称 栗原市] - [[河北新報]]([[Yahoo!ニュース]]よりアーカイブ。[[2009年]][[9月29日]](火) 11時53分掲載、[[2015年]][[11月3日]]閲覧)</ref>。レギュラーシーズンでは[[4月3日]]の対ロッテ戦で[[久保康友]]から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。4月は打率.374、7本塁打、21打点で月間MVPに選ばれる。その後は調子を落としたものの、[[2008年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]には同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選ばれる。[[7月31日]]の第1戦では9回裏に[[久保田智之]]からサヨナラ打を放ち、MVPに選ばれる。なお、両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。賞金300万円の使い道について、「どぉれ、(スポンサーである)[[マツダ]]の特注ミニカーでも作るかぁ!」と冗談半分で話した。最終成績は打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップであった。 |
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== 人物 == |
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'''{{by|2009年}}''' |
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小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務めるなど、首脳陣からもその素質を認められ、球団も指導者としての期待をかけていた。 |
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中日時代は1年後輩の[[立浪和義]]の存在が自分以上にあったため「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している<ref name="realgian">自著書『リアルジャイアンから悩める君たちへ』より。</ref>。なお、[[落合博満]]は2012年1月13日に[[紀伊國屋ホール]]で開かれた著書『采配』([[ダイヤモンド社]])刊行記念の講演で「山﨑と立浪は後ろ盾がしっかりしていてそれぞれ強力な派閥を持っており、仲が悪い」と発言したが<ref>{{Cite web ja |url=http://www.asagei.com/excerpt/3610 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している |date=2012-02-02 |website=アサヒ芸能 |publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173256/http://www.asagei.com/excerpt/3610 |archivedate=2017-06-17}}</ref>、山﨑自身は[[山本昌]]との対談で「(立浪とは)別に仲が悪いわけではないが、中日の野手ナンバーワンの座には常に立浪がいたから自分はナンバー2, 3に甘んじていた<ref>{{Cite web ja |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/ |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(1/5ページ) |date=2015-12-07 |website=Sportiva |publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173133/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/ |archivedate=2017-06-18}}</ref>。自分の中では『立浪には絶対に負けたくない』と張り合っていた」と発言している<ref>{{Cite web ja |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_2.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(2/5ページ) |date=2015-12-07 |website=Sportiva |publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173238/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_2.php |archivedate=2017-06-17}}</ref>。 |
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[[6月14日]]の対横浜戦で[[松家卓弘]]から本塁打を放ち、史上5人目となる両リーグ150号本塁打を達成。[[7月8日]]の対ロッテ戦では史上102人目の通算1500安打を達成したものの、チャンスで打てないことが多かった。しかし、オールスター明けからは大事な場面で打つことが増え、特に[[8月16日]]の対ロッテ戦で8回までチームは0得点、6点ビハインドの状況で[[唐川侑己]]から史上23人目の通算350号3ラン本塁打を放つと、9回裏二死の2点ビハインドの場面では[[ブライアン・シコースキー]]から同点2ラン本塁打を放った。この試合は結局、延長12回裏に[[小坂誠]]がサヨナラ打を放ったことで6点差をひっくり返した劇的な勝利を収め、この試合以降、チームは29勝16敗という飛躍的な成績を挙げた。最終的に打率は.246と低かったものの、39本塁打、107打点と両部門リーグ2位という成績で打線を牽引し、チーム史上初の2位とクライマックスシリーズ出場に貢献した。40代での本塁打30本到達は王、門田、ローズに次いで4人目。打点は前述の王、衣笠の記録を更新する実働21年目での100打点到達となった。また、41歳を迎える年での100打点到達は門田、ローズ、[[金本知憲]]の40歳を超える史上初の記録。また、本塁打は楽天移籍後の150本塁打到達となり、中日時代に記録した本塁打と合わせて史上7人目となる2球団での150本塁打も記録。クライマックスシリーズでは40代以上では初となるポストシーズン2本の本塁打、7打点を挙げたが、チームは第2ステージで日本ハムに敗れた。同年、ベストナインの指名打者部門に2年振りに選ばれた。 |
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自身でも生意気かつ短気で喧嘩っ早い性格と自負しておりロサンゼルス留学の際には[[生原昭宏|アイク生原]]に「何故アマチュアの人にプロ野球選手が指導されなければいけないのか」と言い放った。またこのような性格から、死球(寸前含む)で投手や捕手に詰め寄ったり、審判の判定に納得がいかないと激昂する場面も多く見られ、現役時代6度の退場処分を受けている。 |
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'''{{by|2010年}}''' |
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このことを受けてアイク生原は山崎の実家に手紙を送り付け、その手紙を読んだ母親から山崎は叱責を受ける。 |
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[[5月14日]]の対広島戦では[[エリック・スタルツ]]から自身初となる代打満塁本塁打を放ち、[[5月23日]]の対中日戦では楽天以外の既存11チームと大阪近鉄バファローズからの本塁打を達成<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/05/23/kiji/K20100523Z00001350.html 山崎、鉄平…元中日勢が大活躍]スポーツニッポン2010年5月23日配信</ref>。[[2010年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では、第1戦では中日時代の元チームメイトの[[岩瀬仁紀]]から本塁打を放ち、ベストプレー賞を獲得。第2戦では[[東野峻]]から本塁打を放ち、40代での現役選手ではプロ野球史上初の2本の本塁打で存在感を示すも、この年の前半は大不振に陥り、交流戦で12チームトップとなる11本塁打を放って一時は復調したものの、交流戦後に再び不振に陥った。後半では復調し、チームトップの28本塁打93打点を挙げたが、打率は.239と前半の不調が響いた形となり、チームも4年ぶりのリーグ最下位に沈んだ。 |
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帰国後も山崎とアイク生原は交流があったものの同じく留学生であった山本昌が大活躍した為、関係は薄かった。 |
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ある時、アイク生原の妻に挨拶をした山崎は「あなた未だ野球を続けていたのね」と言われたという。 |
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中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して[[藤島部屋 (1982-1993)|藤島部屋]]などの多くの部屋からスカウトされた。元[[前頭]]筆頭・[[朝乃若武彦|朝乃若]](現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元[[十両]]2枚目・[[須佐の湖善誉|須佐の湖]]は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。 |
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[[file:Yamasaki takeshi.jpg|right|thumb|200px|フルスイングを披露する山崎(2011年)]] |
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2017年6月18日放送の『たけい荘Z〜壮だったのか!スポーツの極意〜』で「テレビ初!ガチンコ相撲対決」という企画に挑み、大相撲の幕内・石浦と簡易土俵で勝負した際には、頭をつけてハズ押し、右上手を引いて投げを打ち、踏ん張った石浦は土俵際で左下手で投げ返し、山﨑を転がした。「強い。まさか頭をつけてくるとは」と石浦は驚き、御嶽海は「どっちが関取かわからない」と称賛。山﨑は「めちゃくちゃうれしい」と関取に投げられて感激していた<ref>[https://web.archive.org/web/20170620212043/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170618-OHT1T50159.html 「どっちが関取かわからない」元中日・山崎武司氏が石浦と相撲勝負で投げの打ち合い] 2017年6月18日18時22分 スポーツ報知</ref>。 |
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'''{{by|2011年}}''' |
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この年は中日時代にも監督だった星野が監督に就任。前年に加入した[[ランディ・ルイーズ]]の一塁手の守備に不安があることに伴い、守備力重視を掲げる星野の構想から指名打者の山崎と一塁手のルイーズの役割が実質的には入れ替えとなった。[[3月11日]]に[[東日本大震災]]が発生し、楽天の本拠地がある[[仙台市]]など東北地方の[[太平洋]]側から[[茨城県]]、[[千葉県]][[旭市]]の一部にかけて津波の被害を受けた。そして本拠地の[[仙台宮城球場|Kスタ宮城]]も一部損壊するなどの被害を受けたことから被災地球団の4番打者として開幕を迎えることとなった。[[6月11日]]の中日戦では史上2人目となる40代での100号本塁打を[[中田賢一]]から放つも、同試合の最終打席で空振り三振をした際に、右手薬指を剥離骨折して戦線離脱を余儀なくされる。1ヶ月後の[[7月19日]]に戦線復帰し、[[8月18日]]の西武戦で[[菊池雄星]]から史上17人目となる通算400号本塁打を放った。[[8月31日]]の対西武戦でも菊池から3ラン本塁打を放ち、7年連続で2桁本塁打を達成した。この年は東日本大震災を経験して、楽天のチームメイトたちと被災地を訪問しながら、地元の小学校の子供たちを激励した。そうした過去のボランティア活動などが評価され、2011年度[[ゴールデンスピリット賞]]を受賞した<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20111114-OHT1T00301.htm 山崎、心優しきジャイアン ホームラン基金&被災地支援に力…ゴールデンスピリット賞] スポーツ報知 2011年11月15日閲覧</ref>。しかし、若返りを図るチーム方針により、この年限りで[[戦力外通告]]を受け[[10月10日]]に退団が発表された<ref>{{Cite web|date=2011-10-10|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/npb/news/CK2011101002000091.html|title=山崎、涙の退団発表 コーチ打診断り現役続行希望|publisher=中日スポーツ|accessdate=2011-12-08}}</ref>。山崎本人は「まだやれる自信はある。」と発言し、現役続行を希望した。この年は前述の離脱もあり102試合の出場で打率こそ.229になったものの、怪我がありながら、11本塁打、48打点は貧打に喘いだチーム内ではトップ(打点は[[松井稼頭央]]とトップタイ)だった。山崎によると、星野から直接「来年の構想に入っていない。」と言われたという<ref>山崎武司著、さらば、プロ野球 ~ジャイアンの27年、2014年、[[宝島社]]、P99</ref>。また、コーチの要請が球団からはあったが、断ったとのこと<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20111010-847642.html 山崎楽天退団で涙の現役宣言 コーチ断る] - [[日刊スポーツ]] 2011年10月10日</ref>。[[12月8日]]、中日への移籍が決定。10年ぶりの古巣復帰を果たすことになり<ref>{{Cite web|date=2011-12-08|url=http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/12/08/0004669507.shtml|title=山崎、中日と3000万円+出来高で契約|publisher=デイリースポーツ|accessdate=2011-12-08}}</ref>、背番号は楽天時代と同じ「'''7'''」に決まった。また、楽天から中日へ移籍した初の選手となった。年俸3000万円と大幅に落ちたものの、出来高は最大1億円という契約となった。 |
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=== 中日復帰後 === |
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'''{{by|2012年}}''' |
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チームメイトである[[トニ・ブランコ]]との競争の中、オープン戦で4本塁打を放つなど結果を出し、[[3月30日]]の開幕戦は4番・一塁手で出場した。開幕戦での4番は2010年に金本が記録した41歳11カ月を上回る43歳4カ月のセントラル・リーグ最年長記録となった。その後も4番・一塁手として出場していたものの、[[4月25日]]に[[野本圭]]と共にインフルエンザB型に感染していたことが判明し、登録を抹消された。[[7月14日]]の巨人戦の3回裏、復帰後初の本塁打を[[D.J.ホールトン]]から放った。翌日の試合では決勝の適時二塁打を放ち、古巣復帰後初のお立ち台に上がった。しかし、1年を通して90試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、13打点と期待に沿う活躍は出来なかった。また、レギュラーシーズン終盤には左手薬指の骨折もあり、一時は本人も引退を考えていたが、チームは来年も山崎を戦力の1人として考えていたため、山崎本人も現役続行を決断した。[[12月5日]]の契約更改交渉で300万円減の2700万円に出来高払いを加えてサインし、来年の現役続行が決定した。 |
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'''{{by|2013年}}''' |
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開幕一軍入りを果たし、主に代打での起用で6試合に出場したが、7打数1安打で打率.143と打撃不振に陥り、[[4月8日]]に出場選手登録を抹消された。交流戦開始の[[5月14日]]に再登録され、同日の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では6回に代打として起用され、同点に追いつく適時三塁打を放った。なお、この三塁打でセントラル・リーグ最年長三塁打を記録。金本の44歳3ヶ月を抜く、44歳6ヶ月で記録を更新。試合は中日が勝利し、決勝の[[犠飛]]を放った[[マット・クラーク]]と一緒にお立ち台に上がった。[[5月17日]]の対楽天戦では9回裏に代打として起用され、自身7度目のサヨナラ打となる2点適時打を放ち、セントラル・リーグ最年長サヨナラ打を記録した。しかし、7月27日に出場登録を抹消されたことを受けて、現役引退を決め、同月29日に正式に今季限りでの引退を表明<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/29/kiji/K20130729006317470.html 中日・山崎 今季限りで現役引退「けじめとして決意した。」]スポーツニッポン2013年7月29日配信</ref>。10月1日の対阪神戦では3番・二塁手として先発出場したが、1回表の打席のみの出場で1回裏の守備から[[森野将彦]]に交代したため、二塁手を守ることはなかった。 |
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=== 現役引退後 === |
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{{by|2014年}}からは、[[ニッポン放送]]・[[東海テレビ放送|東海テレビ]]・[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]・[[テレビ愛知]]の野球解説者<ref>『週刊ベースボール』2014年2月22日増刊号「2014プロ野球全選手カラー写真名鑑」より、「2014野球評論家名鑑」を参照。</ref><ref>『12球団全選手カラー百科名鑑2014』P277掲載のプロフィールでは、活動先についてテレビ愛知のみ明記されず。</ref>、[[FOXスポーツ|FOX SPORTS]]『[[BASEBALL CENTER]]』のアナリスト<ref>[http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000023.000006648.html FOX SPORTSで 千葉ロッテ・福岡ソフトバンク・オリックスの プロ野球公式戦 主催試合を完全生中継! オープン戦も計35試合放送!(FOX SPORTS ジャパン株式会社)] - 『PR TIMES』2014年2月18日13時14分</ref>、[[夕刊フジ]]の[[野球評論家]]<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140130/bbl1401300721000-n1.htm 【メッタ斬り 生涯ジャイアン】山崎武司氏が新連載! 田中よ、ダルを見下ろしたれ 1年間ローテ守れば15勝以上は絶対する (1/3ページ)] - ZAKZAK 2014年1月30日付</ref>を務める。 |
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2014年[[3月18日]]、中日より[[3月21日|同21日]]の対楽天オープン戦(ナゴヤドーム)を「山崎武司[[引退試合]]」とし、一日限定で支配下選手として登録されることが発表<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/03/18/kiji/K20140318007799580.html 山崎武司氏 中日と“1日限りの契約”で21日引退試合] - スポーツニッポン2014年3月18日配信</ref>、[[3月20日]]に支配下選手登録された<ref name="npb_shihaika_2014">{{Cite web|url=http://www.npb.or.jp/players/2014pn_registered.html|title=支配下選手登録 (2014年度シーズン途中・2月以降)|accessdate=2014-03-20|publisher=日本野球機構}}</ref>。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2010年の[[立浪和義]]以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのは山崎が初である。プロ野球の最低年俸は420万円と決まっているため、1日限定の契約金は、それを300日で割った1万4千円だった。背番号は、支配下選手登録上では20とされた<ref name="npb_shihaika_2014" />が、試合では中日で2002年まで使用した22を球団と登録上22番だった[[大野雄大]]の了承を得た上で使用し<ref name="dragons_20140320">{{Cite web|url=http://dragons.jp/news/2014/14032001.html|title=山崎選手と選手契約|date=2014-03-20|accessdate=2014-03-20|publisher=中日ドラゴンズ}}</ref>、4番指名打者で出場<ref name="sponichi_20140321">[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/03/21/kiji/K20140321007818520.html 山崎氏「4番・指名打者」でスタメン 初回“最後の打席”は併殺打]スポーツニッポン2014年3月21日配信</ref>。初回1死一、二塁で迎えた打席では、[[則本昂大]]から二ゴロ併殺打に終わった<ref name="sponichi_20140321" />。[[3月24日|24日]]に再び任意引退公示<ref>{{Cite web|url=http://www.npb.or.jp/players/2014pn_retired.html|title=任意引退選手(2014年度)|date=2014-03-24|accessdate=2014-03-24|publisher=日本野球機構}}</ref>がなされた。 |
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==== モータースポーツ活動 ==== |
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現役時代から自動車レースにも興味を持っていたことから、アマチュアドライバーとして[[プロジェクト・ミュー|Project μ]]と[[INGING]]のサポートを受けて[[トヨタ自動車|トヨタ]]主催の「[[GAZOO]] Racing [[トヨタ・86|86]]/[[スバル・BRZ|BRZ]] Race」に参戦する方針を2014年初めに明らかにした。参戦に向けて[[モータースポーツライセンス]]を新たに取得する必要があることや、プロ野球シーズン中は解説者としての活動を優先することから、同年のシリーズにはスポット扱いで参戦するとした<ref name=daily140119 /><ref>[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=4&no=53952 山崎武司さんレースデビューへ。86/BRZに参戦] - オートスポーツ・2014年1月20日</ref>。その後7月26日、[[富士スピードウェイ]]にて行われた第6戦にてデビュー。かつての背番号にちなんだ7番のゼッケンを背負い、決勝Bレースを30位で完走した<ref>{{Cite web |url=http://gazooracing.com/detail/3783582 |title=リザルト/ポイントランキング|GR 86/BRZ Race |publisher=[[GAZOO]] Racing |accessdate=2014-08-19}}</ref><ref>{{Cite web |author=橋本隆志 |date=2014-07-26 |url=http://response.jp/article/2014/07/26/228588.html |title=【GAZOO Racing 86/BRZ Race 第6戦】ホームラン・キング山崎武司氏の初陣は30位完走 |publisher=[[Response.]] |accessdate=2014-08-19}}</ref>。 |
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== 人物 == |
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小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務め、首脳陣から主将やチームリーダーとしての素質を認められ、球団事務所も指導者としての期待をかけていた。 |
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中日時代は自分以上に1年後輩の[[立浪和義]]の存在があったため「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している<ref name=realgian>自著書『リアルジャイアンから悩める君たちへ』より。</ref>。なお、[[落合博満]]は2012年1月13日に[[紀伊國屋ホール]]で開かれた著書『采配』([[ダイヤモンド社]])刊行記念の講演で「山崎と立浪は後ろ盾がしっかりしていてそれぞれ強力な派閥を持っており、仲が悪い」と発言したが<ref>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3604 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(1)「談志師匠ばりに言ってやる」 |date=2012-01-31 |newspaper=『[[アサヒ芸能]]』|publisher=[[徳間書店]] |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173315/http://www.asagei.com/excerpt/3604 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3607 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(2)「選手の性格で指導を変えた」 |date=2012-02-01 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173328/http://www.asagei.com/excerpt/3607 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3610 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している |date=2012-02-02 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173256/http://www.asagei.com/excerpt/3610 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3613 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(4)日本球界はコーチの給料が安い |date=2012-02-03 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173349/http://www.asagei.com/excerpt/3613 |archivedate=2017-06-17 }}</ref>、山崎自身は[[山本昌]]との対談で「ドラゴンズの野手ナンバーワンの座には常に立浪和義という存在がいたから、僕はナンバー2、3になってしまう。僕の中では『アイツには絶対に負けたくない』と張り合ってはいたが、別に仲が悪いわけではない」と発言している<ref>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/ |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(1/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『[[Sportiva]]』|publisher=[[集英社]] |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173133/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/ |archivedate=2017-06-18 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_2.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(2/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173238/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_2.php |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_3.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(3/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173239/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_3.php |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_4.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(4/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173241/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_4.php |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_5.php |title=山本昌×山﨑武司「いつか強いドラゴンズを復活させたい」(5/5ページ) |date=2015-12-07 |newspaper=『Sportiva』|publisher=集英社 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170617173244/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2015/12/07/post_661/index_5.php |archivedate=2017-06-17 }}</ref>。 |
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中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して[[藤島部屋]]などの多くの部屋からスカウトされた。元[[前頭]]筆頭・[[朝乃若武彦|朝乃若]](現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元[[十両]]2枚目・[[須佐の湖善誉|須佐の湖]]は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。 |
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1998年の正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。1999年にも出場して2年連続優勝するが、対戦相手の[[片岡篤史]]が右肩[[脱臼]]の重傷を負い、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。 |
1998年の正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。1999年にも出場して2年連続優勝するが、対戦相手の[[片岡篤史]]が右肩[[脱臼]]の重傷を負い、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。 |
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愛称は |
愛称は「'''ジャイアン'''」{{R|realgian}}、「'''キン肉マン'''」、「'''タケシ'''」、「'''ヤマ'''」など。風貌と性格、「たけし」という名前から、漫画『[[ドラえもん]]』のキャラクターである「[[剛田武|ジャイアン]]」にあやかり、「ジャイアン」とあだ名された{{R|realgian}}。山﨑の氏名は「山﨑武司」、ジャイアンの氏名は「剛田武」である。これは中日と楽天でチームメイトであった[[中村武志]]と区別する意味もある。中村は中日時代から監督やファンに「タケシ」と呼ばれていて、山﨑は普通に「山﨑」と呼ばれていた。2011年に山﨑が出した著書にも「リアルジャイアン」の言葉が使われている{{R|realgian}}。楽天時代でその他のコーチたちからも「タケシ」と呼ばれていた。自身曰く、ジャイアン同様[[音痴]]でもあると言う{{R|realgian}}。 |
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趣味は[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]収集で、2011年現在では自宅に約5000台のミニカーがある。ミニカーメーカーの[[京商]]と専門誌がタイアップしたドイツツアーにミニカーのコレクターとして特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌『ミニカーファン』に掲載された。[[ラジコン]]カーも収集しており、2005年まで[[山本昌]]とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催していた。自宅には[[セグウェイ]]がある。また、趣味のミニカーとラジコンカーは飾ってあるが、野球関係のものは飾らずに箱に入れたままになっている。2008年末に『[[SPORTS STADIUM]]』で自宅が紹介された際、その年のオールスターMVPのトロフィーや、2007年二冠王のトロフィーなどを「もらって以来初めて箱から出した。」と語っていた。 |
趣味は[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]収集で、2011年現在では自宅に約5000台のミニカーがある。ミニカーメーカーの[[京商]]と専門誌がタイアップしたドイツツアーにミニカーのコレクターとして特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌『ミニカーファン』に掲載された。[[ラジコン]]カーも収集しており、2005年まで[[山本昌]]とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催していた。自宅には[[セグウェイ]]がある。また、趣味のミニカーとラジコンカーは飾ってあるが、野球関係のものは飾らずに箱に入れたままになっている。2008年末に『[[SPORTS STADIUM]]』で自宅が紹介された際、その年のオールスターMVPのトロフィーや、2007年二冠王のトロフィーなどを「もらって以来初めて箱から出した。」と語っていた。 |
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愛車は[[フェラーリ]]、[[メルセデス・ベンツ]]。2011年には[[ランボルギーニ・アヴェンタドール]]を「日本輸入第1号車」という条件付で契約し |
愛車は[[フェラーリ]]、[[メルセデス・ベンツ]]。2011年には[[ランボルギーニ・アヴェンタドール]]を「日本輸入第1号車」という条件付で契約し、結果としては第2号車になった。また、「引退したら[[ランボルギーニ・カウンタック]]を『観賞用』として購入する。」とも公言していた。前述の通りプロ野球引退後はアマチュアのレーシングドライバーとしても活動している。少なくとも、プロ入りしてから30台は車の乗り継ぎをしてきたとのこと{{Efn2|2013年2月1日号のFRIDAYには、有名人の車特集として山﨑のことが掲載された。}}<ref>{{Cite web ja |url=https://www.carsensor.net/contents/editor/category_1585/_30453.html |title=現役レーサーで元ホームラン王の山崎武司が語る「僕が車を好きなワケ」:旬ネタ |website=日刊カーセンサー |date=2015-07-10 |accessdate=2024-03-12}}</ref>。 |
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少年時代から車好きで、プロ入りしてすぐに[[トヨタ・ソアラ]]を購入。毎年のように車を買い替え、20歳にして[[BMW]]を所持していた。この当時山 |
少年時代から車好きで、プロ入りしてすぐに[[トヨタ・ソアラ]]を購入。毎年のように車を買い替え、20歳にして[[BMW]]を所持していた。この当時山﨑は二軍暮らしの寮住まいであり、「寮生は車を所持してはいけない」という決まりがあったが、山﨑は実家に車を置いて、たびたび兄に寮まで持って来てもらってはこっそり乗り回していた(その際、チームメイトには兄の車だと偽っていた)。その後、[[メルセデス・ベンツ・SLクラス|メルセデス・ベンツ・500SL]]を購入、一度だけ球場まで乗り込んだが、当時[[メルセデス・ベンツ・W126|メルセデス・ベンツ・560SEL]]を愛用していた[[小松辰雄]]に見つかり叱られた。 |
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好物は[[エビフライ]]。山 |
好物は[[エビフライ]]。山﨑がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山﨑弁当」には、山﨑の「とにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にしたい。」という強い希望に応えて、大きなエビを頭から丸ごと使ったエビフライが入っていた。「間違いなく売り上げは日本一です。」という。2007年8月27日には約18cmの巨大エビフライ入りの「山﨑でらうまカレー」、2008年4月19日には地元の愛知県の名産の手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。 |
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酒が全く飲めないが |
酒が全く飲めないが{{R|ganbare}}、周囲からは勝手に酒豪扱いされることも多い<ref name="sportiva20120102">[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2012/01/02/post_105/ 【プロ野球】山﨑武司「一度でいいから日本シリーズの舞台に立ってみたい」] - Sportiva・2012年1月2日</ref>。楽天時代は仙台・[[国分町 (仙台市)|国分町]]にある知人の店でよく食事をしていたが、そのせいで「国分町の[[ドン・ペリニヨン (ワイン)|ドンペリ]]を全部集めて飲んでた」と噂を立てられたこともあった{{R|sportiva20120102}}。食事が楽しみであるが、その反面体調管理にも気を配っている<ref>自著書『奇跡の超弾道』より</ref>。若い頃は、食事に関しても適当だと認めており、睡眠も雑だったが楽天時代に改めた<ref name="エムール睡眠20150202">{{Cite web ja |url=https://nemuri-kurashi.jp/special_talk/1714/ |title=山崎武司<スポーツコメンテーター>やんちゃなホームラン王をリーダーに育てた師の存在 |website=エムール睡眠・生活研究所 |date=2015-02-02 |accessdate=2024-03-12}}</ref>。 |
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中日時代に児童施設を慰問したことがきっかけで、ボランティア活動を行うようになり、現役時代には毎年シーズンオフになればサンタクロースの扮装で施設慰問をするのが恒例になっている。 |
中日時代に児童施設を慰問したことがきっかけで、ボランティア活動を行うようになり、現役時代には毎年シーズンオフになればサンタクロースの扮装で施設慰問をするのが恒例になっている。 |
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中日時代の応援歌は[[ナゴヤ球場]]時代のもの(『[[名古屋はええよ!やっとかめ]]』の替え歌)と[[ナゴヤドーム]]移転後のものが存在する。ナゴヤドーム時代のものは楽天時代にも使われ、ナゴヤ球場時代のものは中日復帰後に使われている。 |
中日時代の応援歌は[[ナゴヤ球場]]時代のもの(『[[名古屋はええよ!やっとかめ]]』の替え歌)と[[ナゴヤドーム]]移転後のものが存在する。ナゴヤドーム時代のものは楽天時代にも使われ、ナゴヤ球場時代のものは中日復帰後に使われている。また、楽天時代の2008年にはチームの応援歌「[[越えろ!楽天イーグルス]](歌:[[℃-ute]])」のプロモーション・ビデオに出演した。 |
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野球では右投げ右打ちであったが、食事の際には[[箸]]や[[スプーン]]を左手で持つ{{R|gendai20140110_01}}<ref>[https://twitter.com/tyamasaki7/status/1628926515718283264 「東海ラジオの前野アナウンサーにかき氷食べました?と聞かれてからかき氷が頭から離れず北谷の美味しいかき氷食べに来ちゃいました!!! ドラゴンズも打線が元気を出してきて、明るい兆しが見えてきました! 頑張れ、ドラゴンズ!!! https://t.co/FMbZx59G8o」 / Twitter]</ref>。ペンは右手<ref>[https://web.archive.org/web/20190814064444/https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201908/CK2019081402000244.html 【龍の背に乗って】8月13日は「左利きの日」 プロの「左」の使い方]</ref>。 |
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1999年5月21日からは登録名を戸籍上の表記の「山崎」から「'''山﨑'''」<ref group="注" name="saki" />へ変更した。但し「﨑」は常用外漢字の為、使用に制限がある一部メディアでは常用漢字の「'''崎'''」で表記される。 |
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日本球界において通算400本塁打達成者で2000本安打を達成していないのは彼と[[田淵幸一]]、[[タフィ・ローズ]]の3名のみである。 |
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中日では2001年から2003年にかけて、[[山﨑賢太]](姓の読み方は「'''やまざき'''」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」「山﨑賢」となっていた。また、楽天では2006年から2009年にかけて、[[山崎隆広]](姓の読み方は「'''やまざき'''」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」、「山崎隆」となっていた。 |
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=== 表記名について === |
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[[1999年]][[5月21日]]からは登録名を本名の姓の「山崎」から「'''山﨑'''」<ref name="saki" />へ変更した。 |
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日本プロ野球において、先発投手が9イニング[[完全試合]]状態を継続しながらも、9回終了時に0-0だったためその時点で記録が成立せず延長戦となり、延長10回に登板して安打を許し記録達成を逃した事例は僅か2回だけであるが、山﨑は最初の2005年8月27日、[[西武ドーム|インボイスSEIBUドーム]]における[[埼玉西武ライオンズ|西武]][[西口文也]]の事例においては対戦相手の4番打者として、2例目となった2022年5月6日、[[ナゴヤドーム|バンテリンドームナゴヤ]]における中日[[大野雄大]]の事例においては[[サンテレビジョン]]の生中継解説者として、いずれも現場に立ち合うという稀有な経験をしている。なお山﨑以外には、2005年の試合において西武の監督だった[[伊東勤]]も、2022年の試合において[[NHK BS1]]の解説者として、両現場に立ち合っていた。 |
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中日では{{by|2001年}}から{{by|2003年}}にかけて、[[山崎賢太]](姓の読み方は「'''やまざき'''」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」「山崎賢」となっていた。また、楽天では{{by|2006年}}から{{by|2009年}}にかけて、[[山崎隆広]](姓の読み方は「'''やまざき'''」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」、「山崎隆」となっていた。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
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=== タイトル === |
=== タイトル === |
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* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:2回 (1996年、2007年) |
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:2回 (1996年、2007年) ※両リーグでの獲得は史上3人目 |
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* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:1回 (2007年) |
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:1回 (2007年) |
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* [[勝利打点|最多勝利打点]]:1回 (1998年) |
* [[勝利打点|最多勝利打点]]:1回 (1998年) ※特別賞 |
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=== 年度別守備成績 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |
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!年度!!試合!!企図数!!許盗塁!!盗塁刺!!阻止率 |
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|- |
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|1989||8||||9||1||.100 |
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|- |
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!通算 |
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|8||||9||1||.100 |
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|} |
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=== 表彰 === |
=== 表彰 === |
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* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 |
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回([[外野手]]部門:1996年 [[指名打者]]部門:2007年、2009年) |
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* 最優秀[[JCB・MEP賞]]:1回 |
* 最優秀[[JCB・MEP賞]]:1回(1998年) |
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* 優秀JCB・MEP賞:1回 |
* 優秀JCB・MEP賞:1回(1996年) |
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* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:3回 |
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:3回(打者部門:1996年6月、2007年5月、2008年3・4月) |
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* [[「ジョージア魂」賞]]:1回 |
* [[「ジョージア魂」賞]]:1回(2010年度第9回) |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回 |
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回({{NPBオールスター|2000年}}第2戦、{{NPBオールスター|2008年}}第1戦) |
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* オールスターゲーム優秀選手賞:1回 |
* オールスターゲーム優秀選手賞:1回({{NPBオールスター|2007年}}第2戦) |
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* オールスターゲームベストプレー賞:1回 |
* オールスターゲームベストプレー賞:1回({{NPBオールスター|2010年}}第1戦) |
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* オールスターゲーム [[IDOM|ガリバー]]賞:1回(2007年)<ref>{{Cite web ja |url=https://221616.com/idom/news/press/20071004-6954.html |title=2007ガリバーオールスターゲーム 「ガリバー賞」 楽天山﨑武司選手に、お好きな車1台を贈呈 |website=ガリバーインターナショナル |date=2007-10-04 |accessdate=2017-09-11}}</ref> |
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* [[報知プロスポーツ大賞]](野球部門パシフィック・リーグ):1回 (2007年) |
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* [[報知プロスポーツ大賞]](野球部門パシフィック・リーグ):1回(2007年) |
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* [[ゴールデンスピリット賞]]:1回 (2011年) |
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* [[ベスト・ファーザー イエローリボン賞#ベスト・ファーザー賞 in 関西|ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」]](2008年) |
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* [[ゴールデンスピリット賞]]:1回(2011年) |
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* [[タニタ健康大賞]](2011年) |
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=== 記録 === |
=== 記録 === |
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'''節目の記録''' |
'''節目の記録''' |
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* 100本塁打:1998年8月18日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]18回戦([[明治神宮野球場|神宮球場]])、2回表に[[マーク・エーカー]]から左越えソロ |
* 100本塁打:1998年8月18日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]18回戦([[明治神宮野球場|神宮球場]])、2回表に[[マーク・エーカー]]から左越えソロ ※史上198人目 |
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* 150本塁打:2000年7月12日、対[[阪神タイガース]]15回戦([[ナゴヤドーム]])、7回裏に[[吉田豊彦]]から左越えソロ |
* 150本塁打:2000年7月12日、対[[阪神タイガース]]15回戦([[ナゴヤドーム]])、7回裏に[[吉田豊彦]]から左越えソロ ※史上114人目 |
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* 1000試合出場:2001年10月6日、対[[広島東洋カープ]]28回戦(広島市民球場)、9回裏に[[一塁手]]として出場 |
* 1000試合出場:2001年10月6日、対[[広島東洋カープ]]28回戦(広島市民球場)、9回裏に[[一塁手]]として出場 ※史上376人目 |
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* 200本塁打:2003年8月19日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]22回戦([[福岡ドーム]])、2回表に[[倉野信次]]から左中間へ逆転2ラン |
* 200本塁打:2003年8月19日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]22回戦([[福岡ドーム]])、2回表に[[倉野信次]]から左中間へ逆転2ラン ※史上77人目 |
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* 1000本安打:2005年7月2日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]6回戦([[宮城球場|フルキャストスタジアム宮城]])、3回裏に[[江尻慎太郎]]から左前安打 |
* 1000本安打:2005年7月2日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]6回戦([[宮城球場|フルキャストスタジアム宮城]])、3回裏に[[江尻慎太郎]]から左前安打 ※史上234人目 |
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* 1000三振:2006年8月1日、対福岡ソフトバンクホークス11回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、3回表に[[新垣渚]]から |
* 1000三振:2006年8月1日、対福岡ソフトバンクホークス11回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、3回表に[[新垣渚]]から ※史上39人目 |
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* 250本塁打:2006年8月5日、対[[オリックス・バファローズ]]12回戦(フルキャストスタジアム宮城)、1回裏に[[吉井理人]]から左越え3ラン |
* 250本塁打:2006年8月5日、対[[オリックス・バファローズ]]12回戦(フルキャストスタジアム宮城)、1回裏に[[吉井理人]]から左越え3ラン ※史上49人目 |
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* 1500試合出場:2007年6月14日、対[[中日ドラゴンズ]]4回戦(フルキャストスタジアム宮城)、4番・[[指名打者]]として先発出場 |
* 1500試合出場:2007年6月14日、対[[中日ドラゴンズ]]4回戦(フルキャストスタジアム宮城)、4番・[[指名打者]]として先発出場 ※史上152人目 |
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* 300本塁打:2008年4月3日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に[[久保康友]]から左越えソロ |
* 300本塁打:2008年4月3日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に[[久保康友]]から左越えソロ ※史上32人目 |
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* 両リーグ150本塁打:2009年6月14日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]4回戦(クリネックススタジアム宮城)、7回裏に[[松家卓弘]]から左中間へソロ |
* 両リーグ150本塁打:2009年6月14日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]4回戦(クリネックススタジアム宮城)、7回裏に[[松家卓弘]]から左中間へソロ ※史上5人目 |
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* 1500本安打:2009年7月8日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に[[荻野忠寛]]から中越え2ランで本塁打を放ち達成 |
* 1500本安打:2009年7月8日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に[[荻野忠寛]]から中越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上102人目 |
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* 1000打点:2009年8月13日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(クリネックススタジアム宮城)、6回裏に[[藤岡好明]]から左前2点適時二塁打 |
* 1000打点:2009年8月13日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(クリネックススタジアム宮城)、6回裏に[[藤岡好明]]から左前2点適時二塁打 ※史上35人目 |
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* 350本塁打:2009年8月16日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に[[唐川侑己]]から左中間へ3ラン |
* 350本塁打:2009年8月16日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に[[唐川侑己]]から左中間へ3ラン ※史上23人目 |
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* 300二塁打:2009年9月19日、対千葉ロッテマリーンズ21回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に[[根本朋久]]から右中間二塁打 |
* 300二塁打:2009年9月19日、対千葉ロッテマリーンズ21回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に[[根本朋久]]から右中間二塁打 ※史上54人目 |
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* 3000塁打:2010年4月8日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦([[札幌ドーム]])、6回表に[[ボビー・ケッペル]]から左越え2ランで本塁打を放ち達成 |
* 3000塁打:2010年4月8日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦([[札幌ドーム]])、6回表に[[ボビー・ケッペル]]から左越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上46人目 |
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* 1500三振:2010年7月7日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(クリネックススタジアム宮城)、2回裏に[[大嶺祐太]]から ※史上9人目 |
* 1500三振:2010年7月7日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(クリネックススタジアム宮城)、2回裏に[[大嶺祐太]]から ※史上9人目 |
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* 2000試合出場:2010年9月22日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、4番・指名打者として先発出場 |
* 2000試合出場:2010年9月22日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、4番・指名打者として先発出場 ※史上42人目 |
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* 40代での100本塁打:2011年6月11日、対中日ドラゴンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に[[中田賢一]]から左中間ソロ |
* 40代での100本塁打:2011年6月11日、対中日ドラゴンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に[[中田賢一]]から左中間ソロ ※史上2人目 |
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* 400本塁打:2011年8月18日、対[[埼玉西武ライオンズ]]14回戦([[西武ドーム]])、9回表に[[菊池雄星]]から左越えソロ |
* 400本塁打:2011年8月18日、対[[埼玉西武ライオンズ]]14回戦([[西武ドーム]])、9回表に[[菊池雄星]]から左越えソロ ※史上17人目 |
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* 350二塁打:2012年7月26日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に[[館山昌平]]から右前二塁打 |
* 350二塁打:2012年7月26日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に[[館山昌平]]から右前二塁打 ※史上34人目 |
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'''その他の記録''' |
'''その他の記録''' |
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* 年齢別最多本塁打:39歳で43本塁打、41歳で39本塁打 |
* 年齢別最多本塁打:39歳で43本塁打、41歳で39本塁打 |
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* シーズン100打点到達の最年長記録:41歳 |
* シーズン100打点到達の最年長記録:41歳 |
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* 代打満塁本塁打:2010年5月14日、対広島東洋カープ2回戦([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])、6回表に[[エリック・スタルツ]]から |
* 代打満塁本塁打:2010年5月14日、対広島東洋カープ2回戦([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])、6回表に[[エリック・スタルツ]]から |
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* セントラル・リーグ最年長二塁打:44歳6か月、2013年6月1日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、4回表に[[大谷翔平]]から<!-- 詳細求む -->二塁打 |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:6回 (ファン投票:2007年、2011年 選手間投票:2008年、2010年 監督推薦:1996年、2000年) |
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* セントラル・リーグ最年長三塁打:44歳6か月、2013年5月14日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に[[宮西尚生]]から右前適時三塁打 |
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* セントラル・リーグ最年長サヨナラ打:44歳6か月、2013年5月17日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に[[青山浩二]]から左前2点適時打 |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:6回(ファン投票:{{NPBオールスター|2007年|2011年}}、選手間投票:{{NPBオールスター|2008年|2010年}}、監督推薦:{{NPBオールスター|1996年|2000年}}) |
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* オールスターゲーム(2010年度)で40代での最多2本塁打 |
* オールスターゲーム(2010年度)で40代での最多2本塁打 |
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* セントラル・リーグ最年長二塁打:44歳6ヶ月、2013年6月1日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、4回表に[[大谷翔平]]から<!-- 詳細求む -->二塁打 |
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* セントラル・リーグ最年長三塁打:44歳6ヶ月、2013年5月14日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に[[宮西尚生]]から右前適時三塁打 |
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* セントラル・リーグ最年長サヨナラ打:44歳6ヶ月、2013年5月17日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に[[青山浩二]]から左前2点適時打 |
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=== 背番号 === |
=== 背番号 === |
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* '''22''' |
* '''22'''(1987年 - 2002年、2014年) |
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* '''5''' |
* '''5'''(2003年 - 2004年) |
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* '''7''' |
* '''7'''(2005年 - 2013年) |
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* '''20''' |
* '''20'''(2014年)※引退試合出場のための登録上のもの{{R|npb_shihaika_2014}}。引退試合では[[大野雄大]]の22をつけて出場した{{R|dragons_20140320|sponichi_20140321}}。 |
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=== 登録名 === |
=== 登録名 === |
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* '''山崎 武司''' |
* '''山崎 武司'''(やまさき たけし、1987年 - 1999年5月20日) |
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* '''山﨑 武司'''<ref name="saki" |
* '''山﨑 武司'''<ref group="注" name="saki"/>(読み同じ、1999年5月21日 - 2014年) |
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== 関連情報 == |
== 関連情報 == |
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=== 著書 === |
=== 著書 === |
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*『野村監督に教わったこと:僕が38歳で二冠王になれた秘密』(講談社、2008年2月、ISBN 4062145332) |
* 『野村監督に教わったこと:僕が38歳で二冠王になれた秘密』(講談社、2008年2月、ISBN 4062145332) |
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**『野村監督に教わったこと:部下は上司で生き変わる』(講談社+α文庫、2010年1月、ISBN 4062813416) |
** 『野村監督に教わったこと:部下は上司で生き変わる』(講談社+α文庫、2010年1月、ISBN 4062813416) |
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*『奇跡の超弾道:進化を続ける心技体』(ベースボール・マガジン社新書、2010年9月、ISBN 4583102976) |
* 『奇跡の超弾道:進化を続ける心技体』(ベースボール・マガジン社新書、2010年9月、ISBN 4583102976) |
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*『今、意味がないと思うことに価値がある』(ベストセラーズ、2010年11月、ISBN 4584132801) |
* 『今、意味がないと思うことに価値がある』(ベストセラーズ、2010年11月、ISBN 4584132801) |
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*『リアルジャイアンから悩める君たちへ』(マーブルトロン、2011年5月、ISBN 4879196347) |
* 『リアルジャイアンから悩める君たちへ』(マーブルトロン、2011年5月、ISBN 4879196347) |
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*『復活力:東北、ありがとう』(あさ出版、2011年12月、ISBN 4860634918) |
* 『復活力:東北、ありがとう』(あさ出版、2011年12月、ISBN 4860634918) |
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*『進化』(あさ出版、2013年4月、ISBN 4860635981)※[[山本昌]]との共著 |
* 『進化』(あさ出版、2013年4月、ISBN 4860635981)※[[山本昌]]との共著 |
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* |
* {{Cite book|和書|author=山﨑武司|title=さらば、プロ野球:ジャイアンの27年|publisher=宝島社|date=2014-01-25|edition=第1刷発行|ISBN=978-4800219404|ref={{SfnRef|山﨑|2014}}}} |
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*『40代からの退化させない肉体:進化する精神』(講談社+α新書、2014年4月、ISBN 4062728516) |
* 『40代からの退化させない肉体:進化する精神』(講談社+α新書、2014年4月、ISBN 4062728516) |
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* 『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』(宝島社、2020年5月、ISBN 978-4299004833)※[[古田敦也]]、[[宮本慎也]]、[[赤星憲広]]ほかとの共著 |
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=== 関連書籍 === |
=== 関連書籍 === |
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*『プロ野球 |
* 『プロ野球:戦力外通告を受けた男たちの涙』(美山和也・加藤慶・田口元義共著、宝島SUGOI文庫、2012年5月、ISBN 9784796697262) |
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=== 出演 === |
=== 出演 === |
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==== テレビ番組 ==== |
==== テレビ番組 ==== |
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*[[炎の体育会TV]](2014年2月1日) - マスクドスラッガーとして出演 |
* 「[[炎の体育会TV]]」(2014年2月1日、2021年5月15日) - マスクドスラッガーとして出演 |
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* [[ |
* 「[[SAMURAI BASEBALL]]」([[CBCテレビ]]ゲスト解説・[[TBSテレビ]]副音声ゲスト) |
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*「[[ドラHOTプラス]]」([[2014年]]-、[[東海テレビ]]) |
* 「[[ドラHOTプラス]]」([[2014年]]-、[[東海テレビ]]) |
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*「[[ |
* 「[[野球道 (フジテレビ系列)|野球道]]」(2014年-、東海テレビ)※ローカル中継は『DRAGONS LIVE』のタイトルで放送。年度により[[フジテレビジョン|フジテレビ]]主管制作の対読売ジャイアンツ戦全国中継・フジテレビ制作関東ローカルおよび[[BSフジ]]向けのパ・リーグ公式戦中継、CS放送向けの「[[SWALLOWS BASEBALL LIVE]]」や同系列の[[仙台放送]]・[[テレビ新広島]]・[[テレビ西日本]]制作中継にも出演する場合あり |
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*「[[テレビ愛知 10チャンベースボール]]」(2014年-、[[テレビ愛知]]) |
* 「[[テレビ愛知 10チャンベースボール]]」(2014年-、[[テレビ愛知]]) |
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*「[[BASEBALL CENTER]]」(2014年 |
* 「[[BASEBALL CENTER]]」(2014年、[[FOX SPORTS ジャパン]]) |
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* [[大相撲中継]](2014年名古屋場所10日目ゲスト解説 [[NHK総合テレビジョン]]) |
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*「[[黄金鯱伝説グランスピアー|黄金鯱伝説グランスピアー 2ndシーズン]]」(2014年5月10日) - 少年の父親(武)役 |
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* [[水曜日のダウンタウン]](2014年8月27日、2017年8月2日) - 時速300キロのピッチングマシンに挑戦。2度目は「ホームランバー」の棒を集めて作ったバットで本塁打に挑戦。 |
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*[[大相撲中継]](2014年名古屋場所10日目ゲスト解説 [[NHK総合テレビジョン]]) |
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* [[ニノさん]](2021年4月3日、日本テレビ)‐異種格闘技衝撃力ダービー{{Efn2|他の出場者は現役の格闘家の「[[那須川天心]]」と元サッカー選手「[[本並健治]]」。}} |
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*[[水曜日のダウンタウン]](2014年8月27日) - 300キロのピッチングマシンに挑戦した。 |
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*「[[全力離婚相談]]」第2話(2015年1月13日、NHK総合テレビ) - 樺島 役 |
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==== テレビドラマ ==== |
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* 「[[黄金鯱伝説グランスピアー|黄金鯱伝説グランスピアー 2ndシーズン]]」(2014年5月10日) - 少年の父親(武)役 |
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* 「[[全力離婚相談]]」第2話(2015年1月13日、NHK総合テレビ) - 樺島 役 |
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* 「[[八月は夜のバッティングセンターで。]]」第2話(2021年7月15日、[[テレビ東京]])本人 役<ref>{{Cite web ja |url=https://mantan-web.jp/article/20210707dog00m200075000c.html |title=山崎武司:「ハチナイ」に本人役で出演 気迫のスイング披露 演技は「ヘタクソだと思われるかも」 |website=MANTANWEB(まんたんウェブ) |date=2021-07-08 |accessdate=2021-07-15}}</ref> |
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==== ラジオ番組 ==== |
==== ラジオ番組 ==== |
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*「[[ニッポン放送ショウアップナイター]]」(2014年 - 、[[ニッポン放送]]) |
* 「[[ニッポン放送ショウアップナイター]]」(2014年 - 、[[ニッポン放送]]) |
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*「[[東海ラジオ ガッツナイター]]」(2014年 - 、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]) |
* 「[[東海ラジオ ガッツナイター]]」(2014年 - 、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]) |
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* 「[[ドラヂカラ!!]]」(2016年9月 - 、水・木曜担当) |
* 「[[ドラヂカラ!!]]」(2016年9月 - 2019年3月、東海ラジオ、水・木曜担当) |
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* 「山﨑武司 ホームラン魂!」(2022年10月 - 2023年3月、東海ラジオ) |
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==== CM ==== |
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* [[EMIミュージック・ジャパン]]「[[今井美樹]]ベストアルバム『Premium Ivory -The Best Songs Of All Time-』」(2015年)<ref>{{Cite web|url= |
* [[EMIミュージック・ジャパン]]「[[今井美樹]]ベストアルバム『Premium Ivory -The Best Songs Of All Time-』」(2015年)<ref>{{Cite web ja |url=https://www.oricon.co.jp/news/2059345/full/ |title=今井美樹ベスト盤CMに元アスリート再登場 |website=ORICON |date=2015-09-18 |accessdate=2015-09-18}}</ref> |
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*[[今井美樹]]「[[卒業写真 (荒井由実の曲)|卒業写真]]」 |
* [[今井美樹]]「[[卒業写真 (荒井由実の曲)|卒業写真]]」 |
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== 脚注 |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|title=中日ドラゴンズ80年史 シリーズ1 1974-1999|editor=池田哲雄|publisher=ベースボール・マガジン社|date=2016-03-16|page=69|isbn=978-4583624235|ref={{SfnRef|ベースボール・マガジン社|2016}}}} |
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== 関連項目 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* 選手の通算成績と情報 [http://www.baseball-reference.com/minors/player.cgi?id=yamasa001tak Baseball-Reference] |
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* [http://www.yamasakitakeshi.com/ 山 |
* [http://www.yamasakitakeshi.com/ 山﨑武司オフィシャルサイト] - 山﨑本人によるブログも開設されている。 |
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* {{Twitter|tyamasaki7|山﨑武司}} |
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* {{YouTube|playlist = PLOWmjac8jeuZ1F5YQriBkGwhwT0mWbMGn|山本昌&山﨑武司 プロ野球 やまやま話}} |
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* [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19680005/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE |
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2024年9月23日 (月) 10:03時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県知多市 |
生年月日 | 1968年11月7日(56歳) |
身長 体重 |
182 cm 110 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、外野手、捕手、指名打者 |
プロ入り | 1986年 ドラフト2位 |
初出場 | 1989年9月7日 |
最終出場 |
2013年10月1日(公式戦) 2014年3月21日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
山﨑 武司 | |
---|---|
YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2021年1月27日 - |
ジャンル | 野球 |
登録者数 | 1.77万人 |
総再生回数 | 220万回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2022年12月7日時点。 |
山﨑 武司[注 1](やまさき たけし〈現役引退時の登録名〉、旧登録名および本名:山崎 武司〈読み同じ、#登録名も参照〉、1968年11月7日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手・外野手・捕手・指名打者、右投右打)。愛知県知多市出身。
愛称は「ジャイアン」[2]。
現役時代は主に中日ドラゴンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスで通算27年間にわたり活躍。通算403本塁打を記録した強打者であると共に、本塁打王に2回(1996年、2007年)、打点王に1回(2007年)輝いており、史上3人目のセ・パ両リーグでの本塁打王の達成者[2]。野球選手現役引退後の2014年以降は野球解説者として活動しているほか、カーレーサーとして四輪車レースにも参戦している[3]。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]幼少期から中日ドラゴンズの本拠地・ナゴヤ球場へ野球観戦に行っていたが[4]、周囲のほとんどが中日ファンであった一方で山﨑自身は読売ジャイアンツ(巨人)のファンだった[4]。これは九州出身である父親の影響に加え、山﨑自身も「他人と同じなのが嫌」という性格や「(当時巨人が強かったことから)強いチームへの憧れ」が要因だった[5][4]。
知多市立佐布里小学校[6]の4年の時に外野手として野球を始め、主に左翼手を守る。知多市立八幡中学校[注 2][8]に入学すると同時に捕手になる。
愛知県名古屋市の愛知工業大学名電高等学校へ進学する。 愛工大名電高校では2年から捕手のレギュラーに定着し[10]、2年の時の夏は愛知大会の決勝戦で東邦高等学校に敗れた。高校2年の秋には中村豪監督の下で先輩などからの推薦により新主将に任命され[注 3][11]、3年の時の夏までは主将を務める。3年間で全国大会に出場した経験はなかったものの、通算56本塁打を放つ。
1986年度ドラフト会議を前に「指名確実」と高い評価を得ていたが、山﨑自身は巨人への入団を切望していた一方で「中日・南海ホークス・広島東洋カープには絶対に行きたくない」と考えていた[13]。これは高校を通じて巨人から指名の確約を得ていた[注 4]ことに加え、「地元の中日に入団すると知り合いも多く、思う存分にプレーできないから。南海・広島は全国的に人気のある球団とは思わないから」という理由だった[13]。そのため、ドラフト前に何度も挨拶に来た中日のスカウトには「(指名されても)行くつもりはない」と伝えていたが[15]結局、中日が2位指名で交渉権を獲得し[注 5]、契約金4000万円・年俸400万円(金額は推定)で入団[17](実際の契約金は4300万円と本人談)[18]。背番号は「22」。
中日時代
[編集]入団直後は先輩たちから「若年寄」と呼ばれ、豊田誠佑らから「生意気だ」とよく怒られていたが[注 6][19]、エースの小松辰雄らからは可愛がられていた[注 7][21]。プロ1年目の1987年は春季キャンプで憧れていた落合博満と相部屋になったが、後に落合について自著で「落合さんだけは『後輩をかわいがる』という感覚が全くなく、誰であっても寄せ付けないオーラを発し続けていた。バッターとしては目標にしてもよいが、人間性は真似したくない」と述べている[注 8][22]。同年は一軍出場はなく、アメリカ合衆国へ野球留学。MLBロサンゼルス・ドジャース傘下のルーキーリーグ球団であるガルフ・コーストリーグ・ドジャースで三塁手としてプレーした。帰国後には捕手に戻る。しかし、中日入団後は2学年上の中村武志が正捕手の座を固めていた一方、自身は一軍での出場機会を得られず、捕手として育成されていたことから最大のセールスポイントだった打撃の練習を十分にできず、捕手であることに嫌気が差していた[16]。
1988年も一軍出場はなく、1年間を通して二軍(ウエスタン・リーグ)でプレーした。同年に中日の本拠地・ナゴヤ球場で開催されたオールスターゲーム第2戦ではブルペン捕手を務めたがこの時には初めて巨人のスター選手たち(中畑清ら)を目にして感動するとともに「俺もこの人たちに負けないように頑張ろう」と決意した[23]。
1989年は二軍でウエスタン・リーグで二冠王(本塁打王・打点王)を獲得し[24]、一軍でも20試合に出場した。同年9月7日の対広島東洋カープ戦では9回表に代打として一軍で初出場。9月10日の対ヤクルトスワローズ戦では9回裏に内藤尚行から初安打となる左前安打を放つ。10月15日の対広島戦で捕手として先発出場するが、盗塁王を狙う正田耕三に5盗塁を許す。正田はこの試合で中村武志からも1盗塁を決め、1試合6盗塁の日本プロ野球タイ記録を樹立[25]。この試合後に首脳陣から「捕手失格」の烙印を押される格好となったが、結果的にはかねてから望んでいた野手(外野手)転向が叶うこととなった[24][26]。
1990年は前年に続き二軍で二冠王を獲得したが[24]、一軍では5試合の出場に終わった。同年秋季のキャンプでは左翼手にコンバートされる[27]。同年12月19日には知多市内の実家近く(名鉄常滑線・新舞子駅付近)にて知人(元力士)が経営するちゃんこ鍋屋を訪れた帰りに近隣の精肉店の火災に遭遇し、ちゃんこ鍋屋店長たちと協力し、精肉店経営者一家(乳幼児含めた子供たち5人)を救出した[注 9][28]。この件で地元の消防署から表彰を受け、セントラル・リーグからも特別表彰を受けた。
1991年は5月9日の対横浜大洋ホエールズ戦では田辺学からプロ初本塁打[24](場外ソロ本塁打)を放つ。しかし同年は26試合に出場したが、打率.140と低調だった。同年からは徐々に一軍での出場機会も増えていったが、しばらくは一軍と二軍を往復する生活で一軍の出場機会に飢えていた[24]。同年オフの秋季キャンプでは、落合から「人命救助だけでなく、自分の身も助けないか!」と言われ、一心不乱に練習に打ち込んでいた[27]。落合やヘッドコーチの徳武定祐は当時、山崎の素質を高く評価しつつも、本人に野球に打ち込む姿勢や若手の台頭による危機感が不足していることを指摘していた[27]。
1992年は監督が星野仙一から高木守道に交代し、高木は山﨑を重宝していたこともあり、前年を上回る40試合に出場し、打撃成績も打率.236、4本塁打と向上。また、8月19日の広島戦では川口和久からサヨナラ本塁打を放った[29]。
1993年は大幅に一軍出場機会が増え、77試合に出場し、打率.270、3本塁打17打点の成績を残した。同年のシーズンオフには一塁手のレギュラーだった落合博満がフリーエージェント(FA)で巨人へ移籍したほか、大豊泰昭が左翼手から一塁手に転向したことで外野手のレギュラーに空きができた。
1994年は彦野利勝が故障から復帰したことなどから出場機会が激減し、1年間を通して目立った活躍は出来なかった。
1995年は開幕前のキャンプではプロボクサー(WBC世界バンタム級チャンピオン)の薬師寺保栄[注 10] に師事し、ボクシングの練習を取り入れた。同年はレギュラー外野陣およびロッテから移籍のメル・ホールや主軸の大豊も不調であったことから出場機会が増え、自身初の2桁本塁打となる16本塁打を放った[注 11]。同年11月末の秋季キャンプ終了時には監督に復帰した星野仙一(1991年以来)から「来年2月の春季キャンプまでに(当時110 kgの)体重を20 kg減量しろ」と命じられ、2か月で体重を88 kgまで減量した(22 kg減)[31]。
1996年は減量が功を奏し、怪我に弱い体質が変わったことに加え、7,8分の力で打つことを覚え、これが同年に本塁打を量産できた要因となった[6]。打順こそ下位だったが、開幕からレフトに固定され、同じく下位に固定された大豊とともに快打を連発した。6月19日の対巨人戦では8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮に続いて本塁打を放ち、山﨑の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。チームメイトの大豊や松井秀喜(巨人)・江藤智(広島)と本塁打王のタイトルを争い[注 12][32]、最終的には山﨑(39本塁打)が大豊・松井の両名(ともに38本塁打)を抑え、本塁打王を獲得した。打率はリーグ4位の.322、打点もルイス・ロペスに次ぐ107打点を記録している。また、同年はリーグ最高長打率(.625)もを記録しベストナインに選ばれた。なお、同年5月1日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では5回裏に巨人のバルビーノ・ガルベス投手が投げた球速141 km/hの速球が自身の頭部を掠めたことで激怒し[35]、マウンドに詰め寄ってもガルベスが謝罪しなかったどころか応戦してきたことから[注 13]殴り合いになり、両者とも退場処分を受けたほか[注 14]、試合が30分以上も中断する大乱闘のきっかけになった[36]。山﨑自身は後に楽天時代にもタフィ・ローズ(2007年)[37]、ジェレミー・パウエル(2008年)と外国人選手を相手に騒動を起こしたが[38]、自著ではそれらの経験を踏まえ外国人選手たちに対し「日本人であること、プロ野球選手として日本でプレーできることを誇りに思っているから日本を冒涜する行為は絶対に許さない。日本のルールを守らない者にプレーする資格はない」[39]「アメリカに『謝ったら負け』という文化が浸透しているにしても、日本でプレーする以上は礼節を重んじ、真剣勝負の中で道を外したら謝罪すべき。日本で成功したければ日本の文化を学ぶべきだ」と述べている[40]。
1997年は中日の本拠地がナゴヤ球場から外野が広いナゴヤドームへ移転し、守備の負担が増えたことなどから打撃成績を大幅に落とす。また、チームもリーグ最下位に終わった。
1998年は昨年オフにトレードで阪神タイガースへ移籍した大豊に代わり、左翼手から一塁手に転向する。8月18日の対ヤクルト戦では2回表にマーク・エーカーから史上198人目となる通算100号本塁打を放つ。27本塁打は松井(34本)、江藤(28本)に次ぐリーグ3位で、チームメイトのレオ・ゴメス(26本)を上回り、チーム最多であった[41]。最多勝利打点の16打点で表彰され、最優秀JCB・MEP賞を受賞する。同年オフには推定年俸9500万円で契約更改したが、最優秀JCB・MEP賞のタイトル料500万円を加味すると1999年度の年俸は実質1億円となった[42]。11月1日のセントラル・リーグ東西対抗戦では3点本塁打を放ち、MVPとなった。
1999年、チームは開幕11連勝を記録し、山崎本人もこの間は打率.343、2本塁打、12打点、4月の得点圏打率は.381と打撃好調だった[43]。同年は主に6番を任され、5月9日の対広島戦(広島市民球場)では球団史上8人目となる3打席連続本塁打を放ち、7打点を挙げた[43]。同月はいずれもチームトップとなる9本塁打・20打点を記録したが、6月以降は打撃不振に陥り、同月は0本塁打・2打点に終わる[43]。7月は打率は低調だったものの得点圏打率は.353と好調で、それぞれチームトップの7本塁打・19打点を記録し復調した[43]。しかし8月は9試合を欠場し、得点圏では7打数0安打、打点はいずれもソロ本塁打による2点のみと再び低迷した[43]。9月にリーグ優勝マジックが再々点灯して以降は7試合で4本塁打と復調したが[43]、同月9日の対阪神戦(甲子園球場)では首の寝違えで欠場したゴメスに代わり、114試合目で同シーズン初となる4番でスタメン出場し、1回に川尻哲郎からチームにとって16試合ぶりとなる初回先制打を記録、3点ビハインドで迎えた8回にはバックスクリーンへ24号2点本塁打を放った[44]。同月11日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では4回裏、2ストライク0ボールの場面で相手投手・伊藤智仁が外角低めに投げた球を見送ったところ、球審の西本欣司からストライクの判定を受け、抗議するも判定は変わらず、ベンチからバットや肘当てをグラウンドに投げ入れたことで侮辱行為として退場処分を受けた[45]。同年のリーグ優勝決定前最後のホームゲームとなった9月26日の対阪神戦(ナゴヤドーム)では、2点ビハインドの2対4で迎えた9回裏に福原忍から28号となる逆転サヨナラ3点本塁打[注 15]を放ち、打った瞬間バンザイでサヨナラ本塁打を確信した[46]。著書で山﨑本人は、この年から内野守備走塁コーチに就任した高代延博と確執があり、高代の進言によりスタメンを外れることが多くなったことについて言及した上で、高代について「監督に媚を売る指導者は必要ない」と批判している[47]。この年の中日はリーグ優勝を争っていたが、この前日には山﨑は先発出場せず、当日も本塁打を放つまでは無安打だった。前日までの起用のされ方に不満を持っていた山﨑は本塁打を放った後、一塁へ走る際にベンチにいた監督の星野仙一に向かって、「おっさんボケ〜!俺を出しとけば、ちゃんと打つんじゃ!」と言い放った[48][49]。しかし、9月30日に11年ぶりのリーグ優勝を決めた対ヤクルト戦で一塁手の守備の途中、打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折し、ビールかけを見守ることしかできず、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズにも出場できなかった[注 16][42]。同年は4年ぶりに規定打席未到達に終わり、113試合に出場して打率.246、28本塁打・75打点と打撃成績は思わしくなかったが、オフの契約更改ではナゴヤドーム最終戦で放ったサヨナラ3点本塁打が高く評価され、前年比500万円増となる年俸1億円で契約更改した[42]。
2000年はオープン戦でスパイクシューズを忘れたが、当時の監督だった星野には忘れたとは言えないということで、「今年はこれ(スパイクを履かないスタイル)で試合に出る。」ということにした。そのため、この年はスパイクを履かないで打席に立った[51]。7月12日の対阪神戦で7回裏に吉田豊彦から史上114人目となる通算150号本塁打を放つ。オールスターゲームにも監督推薦で出場し、松坂大輔から2点適時打を打つなどの活躍でMVPとなる。この年は上記のスタイルで出場を続けた結果踏ん張りが効かず、前年の手首の骨折もあって流し打ちのスタイルとなり、最終的にはリーグ7位となる打率.311と高打率を記録したが[52]、契約更改では「18本塁打はとても少ない」と指摘された。
2001年は10月6日の対広島戦で史上376人目となる通算1000試合出場を達成。同年はチーム最多の25本塁打を放ったが、契約更改では「打率.238、51打点が最低だ」と指摘される。この評価に納得せずFA宣言し、一時は好条件を提示した横浜ベイスターズへの移籍へ傾くが[53]、シーズン後に新しく監督となった山田久志の慰留もあり[54]、最終的には中日と3年契約を結んで残留した。
2002年はオープン戦から不調で、4月末には二軍へ降格。二軍戦でも不調が続いたが、ゴメスの故障により、7月から一軍復帰。しかし、7月26日の対阪神戦では同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けする。試合後、監督の山田は「どこかでブツッと切れてしまう。まるでお通夜みたいなもんだ。それと使った俺が悪いんだけど、チームを奈落の底に突き落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけどな。」と発言する。正確にはこの発言が山﨑を指したものか不明であったが、山﨑は「蔵本じゃない。今日は俺だ。俺が打っていれば、ミスもなかったんだ。」と話した。しかし、先述のように山田の慰留で中日に残留した経緯もあり、後に自身の著書で「山﨑って名指しで言えよ!」と不信感を顕わにしていた[55]。その後はほとんど出場機会がなく、二軍戦にも出場しない時が多かった[56]。結局、同年は26試合の出場に終わり、打率も1割台と不本意なシーズンとなった。レギュラーシーズン終了後には自ら球団社長・西川順之助に「トレードしてほしい」と直訴し[57]、2003年1月上旬に平井正史との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍することが発表された[注 17][58]。移籍後の背番号は「5」。
オリックス時代
[編集]2003年は8月19日のダイエー戦で2回表に倉野信次から史上77人目となる通算200号本塁打を放った。同年は110試合に出場し、低打率に苦しみ規定打席にも到達できなかったが、チームの日本人選手の中では最多の22本塁打を放った。また、8月25日の日本ハム戦の2回裏の打席で投球の判定に対し白井一行球審に侮辱行為をしたとして退場処分を受けた。
2004年は4月27日からの西武ライオンズの3連戦(ナゴヤドーム)で監督の伊原春樹は地元出身選手として先発出場を約束。初戦は4番・指名打者として先発出場して3打数2安打と活躍した。ところが、この試合中に負傷した谷佳知が翌日に3番・指名打者として先発出場する。山﨑は関係者も多数招待していた試合での先発落ちにショック[59]を受け、試合開始前に帰宅。その直前には監督室にバットを放り投げ、ゼネラル・マネージャーの中村勝広に伊原の解任を直訴するなどの行為を行った[60]。これが「職場放棄」などと見なされ、翌日には懲罰的な意味で登録を抹消された。この「ボイコット事件」について山﨑本人は、試合に出られる心理状態ではないという伊原の判断の下、許可があったために帰宅したと述べている[61]。それ以降、一軍と二軍を何度も行き来することになり、9月にはチームを離れ自身の実家に戻った。また、レギュラーシーズン最終戦の前には伊原から和解を求める電話があったが、再びチームに戻ることはなかった[62]。しかし、伊原とは退団後に和解し、雑談や会話をすることもあると自著で語っている[63]。
この年は最終的に62試合の出場に留まり、4本塁打、打率.245と前年から成績を落とし、この時に中日やオリックスで人間関係のトラブルから野球がまともにできず、嫌気が差して球団から戦力外通告も受けたため一度は引退を考えたが、団野村や高校の先輩・工藤公康の説得と長男からの応援により、現役続行を決意。同時期に新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスの監督・田尾安志に評価され入団オファーを受け、山﨑は「野球はもう、結構です」と一度は断ったものの、団の「それだと俺も困るんだよ」との説得や、田尾からも熱烈な誘いも有り承諾した[64]。12月11日、正式に契約。背番号は長女の名前にちなんで「7」を選んでいる[注 18]。
楽天時代
[編集]2005年は3月26日にチーム史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズ開幕戦では5番・指名打者で先発出場。開幕直後に右手に死球を受け、二軍(イースタン・リーグ)で治療に専念するなどレギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦より徐々に調子を上げ、5月7日の巨人戦では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月には4試合連続の5本塁打を放ち、交流戦後には4番・指名打者に定着。7月2日の日本ハム戦では3回裏に江尻慎太郎から史上234人目、通算1000本安打となる左前安打を放つ。プロ入り19年目での達成となった。7月27日の対日本ハム戦の試合前に宮城県仙台市内の小学校を訪問し、子供たちに「本塁打を打つ。」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。当時、右打者のバッティングの基本である「右足重心」という言葉さえも知らなかった状態で、監督の田尾により基本を徹底的に指導された。田尾の指導によるフォームの改造により、118試合に出場して5年ぶりの規定打席到達、チーム最多の25本塁打を記録したが、後年にこのフォーム改造が楽天時代に好成績を残せるようになった要因の一つだと本人は挙げている[67]。田尾は後年「崩れているところがわかっていたので、バッティングを直せる自信があった。思った以上にやってくれた」と振り返っている[68]。同年9月25日まで行われた楽天のホーム最終3連戦(対ロッテ戦)で『河北新報』記者が観客50人からアンケートを取ったところ、同年の楽天のチームMVP(最優秀選手)には山﨑を挙げる意見(9票)が最多だった[注 19][69]。
2006年は新しく監督として野村克也が就任し、4番の座は西武から移籍してきたホセ・フェルナンデスに譲る。6月17日の対巨人戦では工藤から2打席連続本塁打、7月29日の対西武戦では涌井秀章から楽天初となる逆転満塁本塁打を放つ。なお、この本塁打はパシフィック・リーグ通算900本目の満塁本塁打である。8月5日には日本プロ野球史上49人目となる通算250本塁打を達成。「開幕からの小さな目標として来たので、達成できて嬉しいですね。」と喜びを語った。しかし、122試合に出場したが打率.241、19本塁打と前年を下回った。
2007年は開幕当初こそ不調が続いたが、前年より野村のアドバイスを積極的に取り入れたことがこの年より効果が表面化し、徐々に調子を上げた。4月1日の対オリックス戦の3回裏には吉井理人からホセ・フェルナンデスとともに満塁本塁打を放った。1イニング2満塁本塁打は史上3度目、パシフィック・リーグでは2度目(2本とも柵越え本塁打はパシフィック・リーグ初)、同一投手から2本は史上初となる。開幕後の1か月間は安打の半分が本塁打という状態で打率は規定打席到達者内で最低ながら本塁打数は1位という時もあった。5月2日の対ソフトバンク戦で先発投手は山﨑が苦手としている和田毅だったが、「どうせ打てないならダラダラ打ってやろう。」と体の力を抜いて(手の遊びを大きくして)打ったところ、和田を相手に2打席連続本塁打という結果に繋がった(加えて、和田の配球の傾向を野村から指摘されたことも本塁打に繋がった)。この力を抜いて打つ打法を山﨑自身は「こんにゃく打法」と呼んでいた。5月17日の対日本ハム戦では自身2度目となる1試合3本塁打、5月27日の対横浜戦では那須野巧から場外本塁打を放ち、両リーグ最速で20号に到達し、5月は打率.342、12本塁打、27打点でチーム初の月間MVPを獲得。自身にとっては中日に在籍していた1996年6月以来10年11か月ぶりで、この期間は史上最長でもある。また、両リーグでの月間MVP受賞は史上13人目である。同月以降はフェルナンデスの不振もあって4番に座ることが多かった。6月14日に史上152人目となる通算1500試合出場を達成。その後もセ・パ交流戦終了時点で27本塁打、レギュラーシーズン55本塁打という日本記録ペースで本塁打を量産した。レギュラーシーズン前半の好調は配球を読むようになったことと構える手の遊びを大きくしたことを本人は挙げている。配球を読むようになったきっかけは野村が試合中にベンチで若い投手と捕手に打者の心理の指示をしているのを傍らで聞き、それを打撃に応用したということである。また、「相手の配球を読んで打て」とのアドバイスも受けた[70]。
指名打者として選出されたオールスターゲームの第1戦の代打出場の活躍の他、第2戦の第1打席での先制2点本塁打、第2打席の二塁打の活躍により、優秀選手賞とガリバー賞に選ばれ、賞品としてポルシェ・カイエンを獲得した。
8月27日にはこの日誕生日だった長女の前で39号と40号本塁打を記録。9月15日には11年ぶりとなる100打点を記録し、最終的に43本、108打点[70]の自己最高記録でタフィ・ローズを上回り、初の打点王と11年振りとなる本塁打王とベストナイン(指名打者部門)に輝いた。21年目での40本塁打、100打点での本塁打王、打点王は史上初。なお、山﨑は一軍の試合に出場していない年が2年あり、実働19年目での40本塁打、本塁打王は王貞治、門田博光に並び、100打点、打点王は王、衣笠祥雄の20年目に次ぐ記録である。なお、両リーグでの本塁打王の獲得は落合、ローズに次ぐ3人目。また、39歳での本塁打王、打点王の獲得は40歳で両タイトルを獲得した門田に次ぐ歴代2位の記録である。また、過去最高クラスの成績を残し、なおかつチーム全体のことをも考えるようになったため、野村再生工場の成功事例の一つともなった。
山崎自身も「“野村再生工場”の中でも一番ハマったという自負はありますね。ヤクルトでの小早川(毅彦)さんなどもいますが、僕こそが一番の傑作だと思っています。タイトルも取っていますしね。だから野村再生工場の長男を自称しているんです」と語っている[71]。
また、野村就任以降の本塁打量産についても「僕は追い込まれると三振したくなくて思い切ったバッティングができなかったのですが、野村監督から『三振、大いに結構。なぜ三振したかが大切。三振もいい当たりも同じアウト。根拠さえあれば思い切って振ればいい。何も考えずに三振してくるのはアカン』と言われた。三振しても次に活かせばいいと考えられるようになり、三振が恐くなくなった」「楽天でホームランを量産できたのは、この言葉をかけられたからなんです」と語っている[71]。
この年、フェラーリ・F512Mを楽天オークションに出展。1450万999円で落札されたが、落札者が直後にオークション会員を退会したため不成立となった。この年のタイトル獲得を記念し、愛車のランボルギーニ・ムルシエラゴがドイツのミニチャンプス社によって特別にミニカー化され、「ミニカーファン」にて抽選販売が行われた。パッケージには楽天のコーポレートカラーのラインとチームロゴと自身のサインのプリントが入った特別仕様である。
2008年は野村監督の指示により、この年から3年間主将とチームリーダーを務める。同年に発生した岩手・宮城内陸地震には復興支援金として、レギュラーシーズンに打った本塁打1本に付き10万円、総額280万円を宮城県栗原市に寄付した。その寄付の感謝の意味を込め、市役所は翌年に栗原市営栗駒球場の愛称を「山﨑武司球場」とした[72]。シーズンでは4月3日の対ロッテ戦で久保康友から史上32人目となる通算300号本塁打を放つ。4月は打率.374、7本塁打、21打点で月間MVPに選ばれる。その後は調子を落としたものの、オールスターゲームには同年より導入された選手間投票の指名打者部門で選ばれる。7月31日の第1戦では9回裏に久保田智之からサヨナラ打を放ち、MVPに選ばれる。なお、両リーグでのオールスターMVPは史上4人目である。最終的に打率.276、26本塁打、80打点で本塁打数はチームトップとなった。
2009年は6月14日の対横浜戦で松家卓弘から本塁打を放ち、史上5人目となる両リーグ150号本塁打を達成。7月8日の対ロッテ戦にも史上102人目の通算1500安打を達成したが、チャンスで打てないことが多かった。しかし、オールスター明けからは大事な場面で打つことが増え、特に8月16日の対ロッテ戦では8回まで6点ビハインドの状況で唐川侑己から史上23人目の通算350号となる3点本塁打を放つと9回裏二死の2点ビハインドの場面ではブライアン・シコースキーから同点2点本塁打を放った。この試合は結局、延長12回裏に小坂誠がサヨナラ打を放ち、6点差をひっくり返す逆転勝利を収めた。この試合以降、チームは29勝16敗という飛躍的な成績を挙げた。最終的に打率こそ.246と低かったものの、39本塁打、107打点と両部門リーグ2位という成績で打線を牽引しベストナインの指名打者部門に2年ぶりに選出、またチーム史上初の2位とクライマックスシリーズ出場に貢献した。40代での本塁打30本到達は王、門田、ローズに次いで4人目。打点は前述の王、衣笠の記録を更新する実働21年目での100打点到達となった。また、41歳を迎える年での100打点到達は門田、ローズ、金本知憲の40歳を超える史上初の記録。また、本塁打は楽天移籍後の150本塁打到達となり、中日時代に記録した本塁打と合わせて史上7人目となる2球団での150本塁打も記録。クライマックスシリーズでは40代以上では初となるポストシーズン2本塁打、7打点を挙げたが、チームは第2ステージで日本ハムに敗れた。
2010年は5月14日の対広島戦でエリック・スタルツから自身初となる代打満塁本塁打を放ち、5月23日の対中日戦では楽天以外の既存11チームと大阪近鉄バファローズからの本塁打を達成した[73]。オールスターゲームでは第1戦で中日時代の元チームメイトの岩瀬仁紀から本塁打を放ちベストプレー賞を獲得。第2戦も東野峻から本塁打を放ち、40代での現役選手としては史上初の2本塁打で存在感を示した。しかし、前半は大不振で、交流戦では12球団トップとなる11本塁打を放って一時は復調したものの、交流戦後に再び不振に陥った。それでも後半に復調し、最終的にチームトップとなる28本塁打93打点を挙げたが、打率が.239と前半の不調が響き、チームも4年ぶりのリーグ最下位に終わった。
2011年は中日時代の恩師である星野仙一が監督に就任。前年のシーズンに加入したランディ・ルイーズの一塁手の守備に不安があることに伴い、守備力重視を掲げる星野の構想から指名打者の山﨑と一塁手のルイーズの役割が入れ替えとなった。3月11日に発生した東日本大震災の被害を受けた被災地球団(本拠地Kスタ宮城も影響を受ける)の4番打者として開幕を迎える。6月11日の中日戦では史上2人目となる40代での100号本塁打を中田賢一から放つも、同試合の最終打席で空振り三振をした際に、右手薬指を剥離骨折して戦線離脱を余儀なくされる[74]。1か月後の7月19日に戦線復帰し、8月18日の西武戦で菊池雄星から史上17人目となる通算400号本塁打を放った。8月31日の対西武戦でも菊池から3点本塁打を放ち、7年連続で2桁本塁打を達成。この年は東日本大震災を経験し、楽天のチームメイトたちと被災地を訪問しながら地元の小学校の子供たちを激励した。そうした過去のボランティア活動などが評価され、2011年度ゴールデンスピリット賞を受賞した[75]。しかし、若返りを図るチーム方針により、戦力外通告を受け、10月10日に退団が発表された[76]。山﨑本人は「まだやれる自信はある。」と発言し、現役続行を希望した。前述の離脱もあり7年ぶりに規定打席に到達できず、102試合の出場で打率こそ.229になったものの、11本塁打、48打点は貧打に喘いだチーム内ではトップ(打点は松井稼頭央とトップタイ)だった。山﨑によると星野から直接「来年の構想に入っていない」と通告された。また、コーチの要請が球団からはあったが、断ったとのこと[77]。星野とぶつかることはなかったが、星野が就任した時から終わりを覚悟していたという。その後、退団を自ら申し出て最後は中日でしたいと考えていたことを後のインタビューで明かしている[78]。
また、恩師である野村克也に去就について相談したところ、「お前は25年やってきた。実績もある。辞める、辞めないの決断は自分でしないといけない選手だ。人に言われて決めちゃいかん。まだやれると思うなら頑張れ」と現役続行を後押ししてもらったことも語っている[79]。
12月8日に中日への移籍が決定。10年ぶりの古巣復帰を果たし[80]、背番号は楽天時代と同じ「7」。また、楽天から中日へ移籍した初の選手となった。年俸3000万円、出来高は最大1億円という契約となった。
中日復帰後
[編集]2012年は山﨑と同じく中日復帰を果たした監督の高木が第1次高木監督時代と同様に山﨑を積極的に起用した。トニ・ブランコとの競争の中、オープン戦で4本塁打を放つなど結果を出し、3月30日の開幕戦は4番・一塁手で出場した。開幕戦での4番は2010年に金本が記録した41歳11か月を上回る43歳4か月のセントラル・リーグ最年長記録となった。その後も4番・一塁手として出場したものの、4月25日に野本圭と共にインフルエンザB型に感染していたことが判明し、登録を抹消された。7月14日の巨人戦の3回裏、復帰後初の本塁打をデニス・ホールトンから放った。翌日の試合では決勝の適時二塁打を放ち、古巣復帰後初のお立ち台に上がった。しかし、90試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、13打点と期待に沿う活躍は出来なかった。シーズン終盤には左手薬指の骨折もあり、一時は引退を考えていたが、チームは翌年も山﨑を戦力の1人として考えていたため、現役続行を決断。12月5日の契約更改では300万円減の2700万円に出来高払いを加えてサインし、現役続行が決定した。
2013年は開幕一軍入りを果たし、主に代打での起用で6試合に出場したが、7打数1安打で打率.143と不振に陥り、4月8日には出場選手登録を抹消された。交流戦開始の5月14日に再登録され、同日の北海道日本ハムファイターズ戦では6回に代打として起用され、同点に追いつく適時三塁打を放った。なお、この三塁打でセントラル・リーグ最年長三塁打を記録し、金本の44歳3か月を抜く、44歳6か月で記録を更新した。試合は中日が勝ち、決勝の犠飛を放ったマット・クラークと共にお立ち台に上がった。5月17日の対楽天戦では9回裏に代打として起用され、青山浩二から自身7度目のサヨナラ打となる2点適時打を放ち、セントラル・リーグ最年長サヨナラ打を記録した。しかし、7月27日に出場登録を抹消されたことを受け、現役引退を決め、同月29日に正式に同年限りでの引退を表明[81]。10月1日の対阪神戦では3番・二塁手として先発出場したが、1回表の打席のみの出場で1回裏の守備から森野将彦に交代したため、二塁手を守ることはなかった。山﨑をここ一番という場面で試合に使っていた監督の高木もこのシーズンをもって退任した。
現役引退後
[編集]2014年からはフジテレビ・ニッポン放送・東海テレビ・東海ラジオ・テレビ愛知の野球解説者[82][83]、FOX SPORTS『BASEBALL CENTER』のアナリスト[84]、夕刊フジの野球評論家[85]を務める。
2014年3月18日に中日より3月21日の対楽天オープン戦(ナゴヤドーム)を「山﨑武司引退試合」とし、一日限定で支配下選手として登録されることが発表[86]、3月20日に支配下選手登録された[87]。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2010年の立浪和義以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのは山﨑が初である。プロ野球の最低年俸は420万円と決まっているため、1日限定の契約金は、それを300日で割った1万4千円だった。背番号は、支配下選手登録上では20とされた[87]が、試合では中日で2002年まで使用した22を球団と登録上22番だった大野雄大の了承を得た上で使用し[88]、4番指名打者で出場[89]。初回一死一・二塁で迎えた打席では、則本昂大から二ゴロ併殺打に終わった[89]。3月24日に再び任意引退公示[90]がなされた。
2017年7月27日、楽天OBによる試合「滝風イオンメディック presents 楽天イーグルスレジェンドマッチ」にレジェンドイーグルスのメンバーとして参加[91]し、4番打者として出場。4回に対戦相手のTFUクラブの木村謙吾から左中間への適時二塁打を放ち、この試合のMVP賞を獲得した[92]。
モータースポーツ活動
[編集]現役時代から自動車レースにも興味を持っていたことから、アマチュアドライバーとしてProject μとINGINGのサポートを受けてトヨタ主催の「GAZOO Racing 86/BRZ Race」に参戦する方針を2014年初めに明らかにした。参戦に向けてモータースポーツライセンスを新たに取得する必要があることや、プロ野球シーズン中は解説者としての活動を優先することから、同年のシリーズにはスポット扱いで参戦するとした[3][93]。その後7月26日、富士スピードウェイにて行われた第6戦にて、トヨタ・86でレースデビュー。かつての背番号にちなんだ7番のゼッケンを背負い、決勝Bレースを30位で完走した[94][95]。その後も同レースのクラブマンシリーズ(アマチュアクラス)へ参戦を続け、2018年開幕戦では3位表彰台を獲得している[96]。
野村克也との関係
[編集]楽天時代には野村就任の話を聞いて、自分とは野球観が合う訳がないと考えていたため、引退後のインタビューで、野球人生の終わりを当初は感じたという[97]。しかし関係が深まるにつれ、やりたくないとまで思っていた野球を再度面白いものだと思わせてくれた恩人として、現役時から現在に至るまで各方面で野村に対する感謝の意を述べている[98]。
「とにかく初めて野村監督とお話させてもらったときには全否定されましたね。うまくやっていけるのかなと、そんな不安で始まったんですけど、日に日にいいお言葉をいただいて、可愛がっていただきました。野村監督じゃなければ2回目のホームラン王は絶対になかった。足を向けて寝られないですね」「年をとってしまうとパワーもスピードも全てにおいて衰える。『最後に使うのは頭だぞ、頭を使え』と再三言われて。(最初は)どうやって(頭を)使っていいか分からなかったんですけど、タイトルを獲ることができた」「一番印象に残っていることは『野球を好きになれ』ということ。『もっともっと野球を好きになりなさい』と言われました」[99]
「実のところ、僕は子供の頃から『野球をやらされている』と思っていたので楽しくはなかった。大嫌いだった。現役を27年間やりましたが、野球が楽しいと思ったのは野村監督との4年間だけです」「僕にとって野村監督はオヤジです。野球以外でもかわいがってもらっていた。ずっとオヤジだと思って引退後も付き合っていました」[71]。
「僕はこういう性格だから『監督を男にしたい』なんて思ったことがなかった。自分のため、家族のために野球をやっていた。でも野村のおやじだけは違った。唯一『胴上げしたい』と思った監督だった」[100]
選手としての特徴
[編集]楽天時代に大きくプレースタイルを変えている。それまでは配球など読まない、ただ来た球を打つタイプの選手であり、最初の監督だった星野が三振を嫌う監督だったので、三振をしてはいけないという恐怖心を常に持っていた[101]。しかし、野村に「三振だろうと、いい当たりだろうと、アウトはアウトだろう。そんなもん、根拠さえあれば思い切って振ってくればいいんだ。それでダメなら次、考えればいいだろ」と言われたことで三振を怖がらなくなり、野球がまた楽しくなったと述べている[101]。また、三振を怖がらなくなったことでスイングから迷いが消え、野村から教えられた「思い切りの良さが一番大事」を実践するために配球データを洗ったり、野村のベンチ内でのぼやきを参考にして投球を読むことや考えることをするようになったという。技術面では、若い頃はボールに向かって行く打ち方をしていたが、後期は呼び込む打ち方をしていた[102]。
2000本安打を達成せず、400本塁打を達成した(日本球界では他に田淵幸一、タフィ・ローズがいる)。
人物
[編集]小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務めるなど、首脳陣からもその素質を認められ、球団も指導者としての期待をかけていた。
中日時代は1年後輩の立浪和義の存在が自分以上にあったため「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している[103]。なお、落合博満は2012年1月13日に紀伊國屋ホールで開かれた著書『采配』(ダイヤモンド社)刊行記念の講演で「山﨑と立浪は後ろ盾がしっかりしていてそれぞれ強力な派閥を持っており、仲が悪い」と発言したが[104]、山﨑自身は山本昌との対談で「(立浪とは)別に仲が悪いわけではないが、中日の野手ナンバーワンの座には常に立浪がいたから自分はナンバー2, 3に甘んじていた[105]。自分の中では『立浪には絶対に負けたくない』と張り合っていた」と発言している[106]。
自身でも生意気かつ短気で喧嘩っ早い性格と自負しておりロサンゼルス留学の際にはアイク生原に「何故アマチュアの人にプロ野球選手が指導されなければいけないのか」と言い放った。またこのような性格から、死球(寸前含む)で投手や捕手に詰め寄ったり、審判の判定に納得がいかないと激昂する場面も多く見られ、現役時代6度の退場処分を受けている。
このことを受けてアイク生原は山崎の実家に手紙を送り付け、その手紙を読んだ母親から山崎は叱責を受ける。 帰国後も山崎とアイク生原は交流があったものの同じく留学生であった山本昌が大活躍した為、関係は薄かった。 ある時、アイク生原の妻に挨拶をした山崎は「あなた未だ野球を続けていたのね」と言われたという。
中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して藤島部屋などの多くの部屋からスカウトされた。元前頭筆頭・朝乃若(現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元十両2枚目・須佐の湖は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。
2017年6月18日放送の『たけい荘Z〜壮だったのか!スポーツの極意〜』で「テレビ初!ガチンコ相撲対決」という企画に挑み、大相撲の幕内・石浦と簡易土俵で勝負した際には、頭をつけてハズ押し、右上手を引いて投げを打ち、踏ん張った石浦は土俵際で左下手で投げ返し、山﨑を転がした。「強い。まさか頭をつけてくるとは」と石浦は驚き、御嶽海は「どっちが関取かわからない」と称賛。山﨑は「めちゃくちゃうれしい」と関取に投げられて感激していた[107]。
1998年の正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。1999年にも出場して2年連続優勝するが、対戦相手の片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負い、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。
愛称は「ジャイアン」[103]、「キン肉マン」、「タケシ」、「ヤマ」など。風貌と性格、「たけし」という名前から、漫画『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」にあやかり、「ジャイアン」とあだ名された[103]。山﨑の氏名は「山﨑武司」、ジャイアンの氏名は「剛田武」である。これは中日と楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味もある。中村は中日時代から監督やファンに「タケシ」と呼ばれていて、山﨑は普通に「山﨑」と呼ばれていた。2011年に山﨑が出した著書にも「リアルジャイアン」の言葉が使われている[103]。楽天時代でその他のコーチたちからも「タケシ」と呼ばれていた。自身曰く、ジャイアン同様音痴でもあると言う[103]。
趣味はミニカー収集で、2011年現在では自宅に約5000台のミニカーがある。ミニカーメーカーの京商と専門誌がタイアップしたドイツツアーにミニカーのコレクターとして特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌『ミニカーファン』に掲載された。ラジコンカーも収集しており、2005年まで山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催していた。自宅にはセグウェイがある。また、趣味のミニカーとラジコンカーは飾ってあるが、野球関係のものは飾らずに箱に入れたままになっている。2008年末に『SPORTS STADIUM』で自宅が紹介された際、その年のオールスターMVPのトロフィーや、2007年二冠王のトロフィーなどを「もらって以来初めて箱から出した。」と語っていた。
愛車はフェラーリ、メルセデス・ベンツ。2011年にはランボルギーニ・アヴェンタドールを「日本輸入第1号車」という条件付で契約し、結果としては第2号車になった。また、「引退したらランボルギーニ・カウンタックを『観賞用』として購入する。」とも公言していた。前述の通りプロ野球引退後はアマチュアのレーシングドライバーとしても活動している。少なくとも、プロ入りしてから30台は車の乗り継ぎをしてきたとのこと[注 20][108]。
少年時代から車好きで、プロ入りしてすぐにトヨタ・ソアラを購入。毎年のように車を買い替え、20歳にしてBMWを所持していた。この当時山﨑は二軍暮らしの寮住まいであり、「寮生は車を所持してはいけない」という決まりがあったが、山﨑は実家に車を置いて、たびたび兄に寮まで持って来てもらってはこっそり乗り回していた(その際、チームメイトには兄の車だと偽っていた)。その後、メルセデス・ベンツ・500SLを購入、一度だけ球場まで乗り込んだが、当時メルセデス・ベンツ・560SELを愛用していた小松辰雄に見つかり叱られた。
好物はエビフライ。山﨑がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山﨑弁当」には、山﨑の「とにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にしたい。」という強い希望に応えて、大きなエビを頭から丸ごと使ったエビフライが入っていた。「間違いなく売り上げは日本一です。」という。2007年8月27日には約18cmの巨大エビフライ入りの「山﨑でらうまカレー」、2008年4月19日には地元の愛知県の名産の手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。
酒が全く飲めないが[51]、周囲からは勝手に酒豪扱いされることも多い[109]。楽天時代は仙台・国分町にある知人の店でよく食事をしていたが、そのせいで「国分町のドンペリを全部集めて飲んでた」と噂を立てられたこともあった[109]。食事が楽しみであるが、その反面体調管理にも気を配っている[110]。若い頃は、食事に関しても適当だと認めており、睡眠も雑だったが楽天時代に改めた[98]。
中日時代に児童施設を慰問したことがきっかけで、ボランティア活動を行うようになり、現役時代には毎年シーズンオフになればサンタクロースの扮装で施設慰問をするのが恒例になっている。
中日時代の応援歌はナゴヤ球場時代のもの(『名古屋はええよ!やっとかめ』の替え歌)とナゴヤドーム移転後のものが存在する。ナゴヤドーム時代のものは楽天時代にも使われ、ナゴヤ球場時代のものは中日復帰後に使われている。また、楽天時代の2008年にはチームの応援歌「越えろ!楽天イーグルス(歌:℃-ute)」のプロモーション・ビデオに出演した。
野球では右投げ右打ちであったが、食事の際には箸やスプーンを左手で持つ[67][111]。ペンは右手[112]。
1999年5月21日からは登録名を戸籍上の表記の「山崎」から「山﨑」[注 1]へ変更した。但し「﨑」は常用外漢字の為、使用に制限がある一部メディアでは常用漢字の「崎」で表記される。
中日では2001年から2003年にかけて、山﨑賢太(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」「山﨑賢」となっていた。また、楽天では2006年から2009年にかけて、山崎隆広(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」、「山崎隆」となっていた。
日本プロ野球において、先発投手が9イニング完全試合状態を継続しながらも、9回終了時に0-0だったためその時点で記録が成立せず延長戦となり、延長10回に登板して安打を許し記録達成を逃した事例は僅か2回だけであるが、山﨑は最初の2005年8月27日、インボイスSEIBUドームにおける西武西口文也の事例においては対戦相手の4番打者として、2例目となった2022年5月6日、バンテリンドームナゴヤにおける中日大野雄大の事例においてはサンテレビジョンの生中継解説者として、いずれも現場に立ち合うという稀有な経験をしている。なお山﨑以外には、2005年の試合において西武の監督だった伊東勤も、2022年の試合においてNHK BS1の解説者として、両現場に立ち合っていた。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 中日 | 20 | 35 | 29 | 2 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 1 | 0 | 11 | 0 | .172 | .286 | .207 | .493 |
1990 | 5 | 8 | 7 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .429 | .500 | .571 | 1.071 | |
1991 | 26 | 51 | 43 | 2 | 6 | 2 | 0 | 1 | 11 | 2 | 0 | 1 | 1 | 0 | 7 | 0 | 0 | 18 | 2 | .140 | .260 | .256 | .516 | |
1992 | 40 | 117 | 106 | 6 | 25 | 5 | 0 | 4 | 42 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | 1 | 26 | 6 | .236 | .308 | .396 | .704 | |
1993 | 77 | 187 | 163 | 14 | 44 | 12 | 0 | 3 | 65 | 17 | 0 | 0 | 1 | 2 | 20 | 0 | 1 | 43 | 6 | .270 | .349 | .399 | .748 | |
1994 | 38 | 50 | 42 | 7 | 11 | 3 | 0 | 3 | 23 | 13 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 13 | 0 | .262 | .380 | .548 | .928 | |
1995 | 66 | 233 | 203 | 28 | 59 | 10 | 0 | 16 | 117 | 39 | 2 | 0 | 1 | 3 | 21 | 2 | 5 | 56 | 5 | .291 | .366 | .576 | .943 | |
1996 | 127 | 502 | 453 | 83 | 146 | 20 | 0 | 39 | 283 | 107 | 1 | 1 | 0 | 3 | 42 | 2 | 4 | 95 | 11 | .322 | .382 | .625 | 1.007 | |
1997 | 130 | 483 | 421 | 45 | 108 | 19 | 2 | 19 | 188 | 54 | 0 | 1 | 0 | 1 | 55 | 4 | 6 | 66 | 14 | .257 | .350 | .447 | .797 | |
1998 | 131 | 516 | 439 | 52 | 112 | 17 | 1 | 27 | 212 | 86 | 0 | 3 | 0 | 6 | 63 | 0 | 8 | 95 | 14 | .255 | .355 | .483 | .838 | |
1999 | 113 | 410 | 354 | 59 | 87 | 16 | 0 | 28 | 187 | 75 | 1 | 0 | 1 | 1 | 50 | 1 | 4 | 99 | 11 | .246 | .345 | .528 | .873 | |
2000 | 118 | 473 | 427 | 55 | 133 | 29 | 3 | 18 | 222 | 68 | 3 | 2 | 0 | 3 | 39 | 4 | 4 | 74 | 15 | .311 | .372 | .520 | .892 | |
2001 | 111 | 398 | 365 | 46 | 87 | 16 | 0 | 25 | 178 | 51 | 0 | 1 | 1 | 1 | 24 | 2 | 7 | 95 | 13 | .238 | .297 | .488 | .785 | |
2002 | 26 | 83 | 78 | 2 | 15 | 2 | 0 | 2 | 23 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 26 | 1 | .192 | .241 | .295 | .536 | |
2003 | オリックス | 110 | 401 | 358 | 42 | 83 | 21 | 1 | 22 | 172 | 68 | 0 | 0 | 0 | 4 | 36 | 0 | 3 | 95 | 11 | .232 | .304 | .480 | .784 |
2004 | 62 | 166 | 151 | 18 | 37 | 8 | 0 | 4 | 57 | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 1 | 2 | 41 | 5 | .245 | .313 | .377 | .690 | |
2005 | 楽天 | 118 | 430 | 383 | 51 | 102 | 22 | 1 | 25 | 201 | 65 | 0 | 1 | 0 | 2 | 38 | 2 | 7 | 80 | 8 | .266 | .342 | .525 | .867 |
2006 | 122 | 479 | 419 | 40 | 101 | 21 | 1 | 19 | 181 | 67 | 0 | 2 | 0 | 2 | 51 | 1 | 7 | 116 | 6 | .241 | .332 | .432 | .764 | |
2007 | 141 | 594 | 506 | 86 | 132 | 27 | 2 | 43 | 292 | 108 | 1 | 1 | 0 | 7 | 71 | 6 | 10 | 142 | 28 | .261 | .359 | .577 | .936 | |
2008 | 142 | 589 | 510 | 63 | 141 | 21 | 0 | 26 | 240 | 80 | 1 | 1 | 0 | 1 | 73 | 5 | 5 | 118 | 21 | .276 | .372 | .471 | .842 | |
2009 | 142 | 611 | 536 | 73 | 132 | 27 | 0 | 39 | 276 | 107 | 3 | 0 | 0 | 4 | 67 | 4 | 4 | 114 | 23 | .246 | .332 | .515 | .847 | |
2010 | 141 | 598 | 540 | 58 | 129 | 26 | 1 | 28 | 241 | 93 | 1 | 0 | 0 | 6 | 45 | 1 | 7 | 147 | 10 | .239 | .303 | .446 | .749 | |
2011 | 102 | 402 | 362 | 26 | 83 | 15 | 1 | 11 | 133 | 48 | 0 | 1 | 0 | 8 | 28 | 0 | 4 | 89 | 10 | .229 | .286 | .367 | .653 | |
2012 | 中日 | 90 | 215 | 191 | 9 | 40 | 13 | 0 | 1 | 56 | 13 | 1 | 0 | 0 | 2 | 18 | 1 | 4 | 44 | 5 | .209 | .288 | .293 | .582 |
2013 | 51 | 71 | 62 | 1 | 13 | 1 | 1 | 0 | 16 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 4 | 11 | 5 | .210 | .310 | .258 | .568 | |
通算:25年 | 2249 | 8102 | 7148 | 869 | 1834 | 355 | 14 | 403 | 3426 | 1205 | 14 | 16 | 5 | 57 | 795 | 37 | 97 | 1715 | 230 | .257 | .337 | .479 | .816 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
[編集]年度別守備成績
[編集]年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
---|---|---|---|---|---|
1989 | 8 | 9 | 1 | .100 | |
通算 | 8 | 9 | 1 | .100 |
表彰
[編集]- ベストナイン:3回(外野手部門:1996年 指名打者部門:2007年、2009年)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回(1998年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(1996年)
- 月間MVP:3回(打者部門:1996年6月、2007年5月、2008年3・4月)
- 「ジョージア魂」賞:1回(2010年度第9回)
- オールスターゲームMVP:2回(2000年第2戦、2008年第1戦)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回(2007年第2戦)
- オールスターゲームベストプレー賞:1回(2010年第1戦)
- オールスターゲーム ガリバー賞:1回(2007年)[113]
- 報知プロスポーツ大賞(野球部門パシフィック・リーグ):1回(2007年)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2008年)
- ゴールデンスピリット賞:1回(2011年)
- タニタ健康大賞(2011年)
記録
[編集]初記録
- 初出場:1989年9月7日、対広島東洋カープ19回戦(広島市民球場)、9回表に遠田誠治の代打として出場
- 初打席・初三振:同上の試合で9回表に川端順から三振
- 初安打:1989年9月10日、対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に内藤尚行から左前安打
- 初打点:1989年9月13日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、8回表に西本聖の代打として出場、松本豊から
- 初二塁打:1989年9月16日、対広島東洋カープ21回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に川口和久から
- 初先発出場:1989年10月4日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、8番・捕手として出場
- 初本塁打:1991年5月9日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(横浜スタジアム)、5回表に田辺学から場外ソロ
- 初盗塁:1995年6月1日、対横浜ベイスターズ10回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に二盗(投手:五十嵐英樹、捕手:秋元宏作)
節目の記録
- 100本塁打:1998年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(神宮球場)、2回表にマーク・エーカーから左越えソロ ※史上198人目
- 150本塁打:2000年7月12日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に吉田豊彦から左越えソロ ※史上114人目
- 1000試合出場:2001年10月6日、対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)、9回裏に一塁手として出場 ※史上376人目
- 200本塁打:2003年8月19日、対福岡ダイエーホークス22回戦(福岡ドーム)、2回表に倉野信次から左中間へ逆転2ラン ※史上77人目
- 1000本安打:2005年7月2日、対北海道日本ハムファイターズ6回戦(フルキャストスタジアム宮城)、3回裏に江尻慎太郎から左前安打 ※史上234人目
- 1000三振:2006年8月1日、対福岡ソフトバンクホークス11回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、3回表に新垣渚から ※史上39人目
- 250本塁打:2006年8月5日、対オリックス・バファローズ12回戦(フルキャストスタジアム宮城)、1回裏に吉井理人から左越え3ラン ※史上49人目
- 1500試合出場:2007年6月14日、対中日ドラゴンズ4回戦(フルキャストスタジアム宮城)、4番・指名打者として先発出場 ※史上152人目
- 300本塁打:2008年4月3日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に久保康友から左越えソロ ※史上32人目
- 両リーグ150本塁打:2009年6月14日、対横浜ベイスターズ4回戦(クリネックススタジアム宮城)、7回裏に松家卓弘から左中間へソロ ※史上5人目
- 1500本安打:2009年7月8日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に荻野忠寛から中越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上102人目
- 1000打点:2009年8月13日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(クリネックススタジアム宮城)、6回裏に藤岡好明から左前2点適時二塁打 ※史上35人目
- 350本塁打:2009年8月16日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に唐川侑己から左中間へ3ラン ※史上23人目
- 300二塁打:2009年9月19日、対千葉ロッテマリーンズ21回戦(クリネックススタジアム宮城)、8回裏に根本朋久から右中間二塁打 ※史上54人目
- 3000塁打:2010年4月8日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、6回表にボビー・ケッペルから左越え2ランで本塁打を放ち達成 ※史上46人目
- 1500三振:2010年7月7日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(クリネックススタジアム宮城)、2回裏に大嶺祐太から ※史上9人目
- 2000試合出場:2010年9月22日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、4番・指名打者として先発出場 ※史上42人目
- 40代での100本塁打:2011年6月11日、対中日ドラゴンズ3回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回裏に中田賢一から左中間ソロ ※史上2人目
- 400本塁打:2011年8月18日、対埼玉西武ライオンズ14回戦(西武ドーム)、9回表に菊池雄星から左越えソロ ※史上17人目
- 350二塁打:2012年7月26日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に館山昌平から右前二塁打 ※史上34人目
その他の記録
- 年齢別最多本塁打:39歳で43本塁打、41歳で39本塁打
- シーズン100打点到達の最年長記録:41歳
- 代打満塁本塁打:2010年5月14日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、6回表にエリック・スタルツから
- セントラル・リーグ最年長二塁打:44歳6か月、2013年6月1日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、4回表に大谷翔平から二塁打
- セントラル・リーグ最年長三塁打:44歳6か月、2013年5月14日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に宮西尚生から右前適時三塁打
- セントラル・リーグ最年長サヨナラ打:44歳6か月、2013年5月17日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(ナゴヤドーム)、9回裏に青山浩二から左前2点適時打
- オールスターゲーム出場:6回(ファン投票:2007年、2011年、選手間投票:2008年、2010年、監督推薦:1996年、2000年)
- オールスターゲーム(2010年度)で40代での最多2本塁打
背番号
[編集]- 22(1987年 - 2002年、2014年)
- 5(2003年 - 2004年)
- 7(2005年 - 2013年)
- 20(2014年)※引退試合出場のための登録上のもの[87]。引退試合では大野雄大の22をつけて出場した[88][89]。
登録名
[編集]- 山崎 武司(やまさき たけし、1987年 - 1999年5月20日)
- 山﨑 武司[注 1](読み同じ、1999年5月21日 - 2014年)
関連情報
[編集]著書
[編集]- 『野村監督に教わったこと:僕が38歳で二冠王になれた秘密』(講談社、2008年2月、ISBN 4062145332)
- 『野村監督に教わったこと:部下は上司で生き変わる』(講談社+α文庫、2010年1月、ISBN 4062813416)
- 『奇跡の超弾道:進化を続ける心技体』(ベースボール・マガジン社新書、2010年9月、ISBN 4583102976)
- 『今、意味がないと思うことに価値がある』(ベストセラーズ、2010年11月、ISBN 4584132801)
- 『リアルジャイアンから悩める君たちへ』(マーブルトロン、2011年5月、ISBN 4879196347)
- 『復活力:東北、ありがとう』(あさ出版、2011年12月、ISBN 4860634918)
- 『進化』(あさ出版、2013年4月、ISBN 4860635981)※山本昌との共著
- 山﨑武司『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』(第1刷発行)宝島社、2014年1月25日。ISBN 978-4800219404。
- 『40代からの退化させない肉体:進化する精神』(講談社+α新書、2014年4月、ISBN 4062728516)
- 『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』(宝島社、2020年5月、ISBN 978-4299004833)※古田敦也、宮本慎也、赤星憲広ほかとの共著
関連書籍
[編集]- 『プロ野球:戦力外通告を受けた男たちの涙』(美山和也・加藤慶・田口元義共著、宝島SUGOI文庫、2012年5月、ISBN 9784796697262)
出演
[編集]テレビ番組
[編集]- 「炎の体育会TV」(2014年2月1日、2021年5月15日) - マスクドスラッガーとして出演
- 「SAMURAI BASEBALL」(CBCテレビゲスト解説・TBSテレビ副音声ゲスト)
- 「ドラHOTプラス」(2014年-、東海テレビ)
- 「野球道」(2014年-、東海テレビ)※ローカル中継は『DRAGONS LIVE』のタイトルで放送。年度によりフジテレビ主管制作の対読売ジャイアンツ戦全国中継・フジテレビ制作関東ローカルおよびBSフジ向けのパ・リーグ公式戦中継、CS放送向けの「SWALLOWS BASEBALL LIVE」や同系列の仙台放送・テレビ新広島・テレビ西日本制作中継にも出演する場合あり
- 「テレビ愛知 10チャンベースボール」(2014年-、テレビ愛知)
- 「BASEBALL CENTER」(2014年、FOX SPORTS ジャパン)
- 大相撲中継(2014年名古屋場所10日目ゲスト解説 NHK総合テレビジョン)
- 水曜日のダウンタウン(2014年8月27日、2017年8月2日) - 時速300キロのピッチングマシンに挑戦。2度目は「ホームランバー」の棒を集めて作ったバットで本塁打に挑戦。
- ニノさん(2021年4月3日、日本テレビ)‐異種格闘技衝撃力ダービー[注 21]
テレビドラマ
[編集]- 「黄金鯱伝説グランスピアー 2ndシーズン」(2014年5月10日) - 少年の父親(武)役
- 「全力離婚相談」第2話(2015年1月13日、NHK総合テレビ) - 樺島 役
- 「八月は夜のバッティングセンターで。」第2話(2021年7月15日、テレビ東京)本人 役[114]
ラジオ番組
[編集]- 「ニッポン放送ショウアップナイター」(2014年 - 、ニッポン放送)
- 「東海ラジオ ガッツナイター」(2014年 - 、東海ラジオ)
- 「ドラヂカラ!!」(2016年9月 - 2019年3月、東海ラジオ、水・木曜担当)
- 「山﨑武司 ホームラン魂!」(2022年10月 - 2023年3月、東海ラジオ)
CM
[編集]- EMIミュージック・ジャパン「今井美樹ベストアルバム『Premium Ivory -The Best Songs Of All Time-』」(2015年)[115]
PV
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c 「﨑」の字は機種依存文字(CJK互換漢字)(Unicodeでは、U+FA11)[1]。
- ^ 中学の先輩には伊藤敦規(元阪神ほか)が[7]、後輩には2012年 - 2013年にチームメイトだった浅尾拓也(山﨑より16歳年下)[8]・小山雄輝(元巨人)がいる[7]。山﨑は浅尾の義兄と八幡中時代に野球部でチームメイトだったほか、浅尾を野球教室で指導したこともあった[9]。
- ^ しかしこの時、自身は乗り気でなかったことから「人をまとめる役目はやりたくない。自分の野球ができなくなる」と中村監督に告げたところ、「体罰が当たり前の時代」でありながら滅多に選手を殴らなかった中村から平手打ちを受けた[11]。山﨑はこのことについて「中村監督は『山﨑は型にはめると伸びないタイプだが、組織としての規律を知ってもらいたい』という親心から自分を主将に任命したのだろう。自分も『これはやらないとまずい』と考えて主将を引き受けた」と述べている[12]。
- ^ 巨人のスカウトから「絶対うちが獲るから他の球団とは接触しないでくれ」「うちの1位指名は阿波野秀幸だが、外れ1位か2位で間違いなく君を指名する」と伝えられていたが、巨人は3球団競合の阿波野を抽選で外すと外れ1位で木田優夫、2位で水沢薫を指名し、チーム事情から結局2位までに山﨑を指名することはなかった[14]。
- ^ 山﨑本人は「中日から指名を受けた直後はがっかりしたが、自分の目標はプロ野球選手になることだったし、『最悪でもセ・リーグなら』と考えていたので、やむなく中日入団を決意した。同時に指名する約束を反故にした巨人への闘志が沸き上がり、『巨人相手に活躍して自分の名前を全国に知らしめてやりたい』と決意した」と述べている[16]。
- ^ 山﨑自身は「目上の人間にも媚びない自分を認めてくれたのか、最終的には可愛がってくれる先輩が多かった」と述べている[19]。
- ^ 山﨑は小松について「公私ともに背中を追い続け『いつかこんな選手になりたい』と尊敬の念を強めていた。いつか必ず恩返ししたい」と述べている[20]。
- ^ 指導者としての落合については「監督は選手の個性をうまく引き出せなければいけないが、落合さんにはそのような能力があるとは思えない」と述べている[19]。
- ^ 救出された子供のうち1人は声も出さずにいたが、山﨑が頬を叩くと意識を取り戻した[28]。山﨑はこの件に関して『中日新聞』(中日新聞社)記者の取材に対し「精肉店一家の女性の『子供が中にいる。助けて!』という叫び声を聞き、夢中で裏の戸口を開けて入った。煙がひどく、いったん外に出て深呼吸してから子供を助けた」と振り返っている[28]。
- ^ 山﨑と同期のチームメイトである近藤真一が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。
- ^ 山﨑本人は「同年に初の二けた本塁打を記録したことで『プロでやっていける』と手応えを掴んだ」と述べている[30]。
- ^ 同年8月22日時点で山﨑は33本塁打、大豊と松井はそれぞれ32本塁打、江藤は30本塁打[32]。ただし、江藤は8月29日(当時は打率.314・32本塁打)の対巨人戦(広島市民球場)で打球処理の際にバウンドした球を顔面にぶつけて[33]骨折し、戦線離脱[34]。これにより本塁打王争いからも脱落した。
- ^ 山﨑は「それまでは手で相手を殴ることは『人としてやってはいけない行為』と感じていたから、詰め寄った段階でもガルベスが頭を下げれば何もしないつもりだったが、逆にガルベスがグラブを外して先に左手で自分に殴り掛かってきたことで頭に血が上り応戦した。今でも自分の行為を間違っていたとは思わない」と述べている[36]。
- ^ 巨人の首脳陣はガルベスへの退場処分を不服として選手たちをロッカーに引き上げさせ、審判団に抗議した[37]。巨人の長嶋茂雄監督は放棄試合寸前まで態度を硬化させたが、最終的にはセ・リーグ連盟への提訴を条件に試合再開に応じた[35]。
- ^ 同試合で中日は8回裏終了時点まで2対1とリードしていたが、9回表に抑えの宣銅烈が阪神のマーク・ジョンソンから20号逆転3点本塁打を被弾し、2対4で9回裏の攻撃を迎えていた[46]。
- ^ 結局、中日は日本シリーズでダイエーに1勝4敗で敗退したが、シリーズで活躍したダイエーのエース・工藤公康(愛工大名電高校の先輩)は「山﨑がいない打線だから楽だった」と発言したほか、メディアも中日の敗因として「山﨑不在」を挙げた[50]。
- ^ 山﨑本人は「この時は悲しさよりむしろ『俺を出した中日を見返してやる』という意気込みの方が強かった」と述べている[58]。
- ^ 当初オリックス時代の同僚で、分配ドラフトで加入した辻竜太郎が7に内定していたが、山崎自ら辻を説得した結果、最終的にはオリックス時代と同じ48となった[65][66]。
- ^ 次点は礒部公一(8票)、3位は岩隈久志と田尾監督(いずれも6票)[69]。
- ^ 2013年2月1日号のFRIDAYには、有名人の車特集として山﨑のことが掲載された。
- ^ 他の出場者は現役の格闘家の「那須川天心」と元サッカー選手「本並健治」。
出典
[編集]- ^ 参考外部リンク…本来の表記と異なる変換文字を含む選手一覧 - 日本野球機構オフィシャルサイト(データは2013年3月29日現在)2020年8月22日閲覧。
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- ^ 山﨑武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年、P.127-132。なお、伊原とは「子育て論で話が合う部分もある」と言う。
- ^ 山崎武司 『野村監督に教わったこと』 講談社、2008年
- ^ 広野功『広野功の楽天誕生秘話』。日刊ゲンダイ、2013年11月19日号、33面
- ^ 楽天の7番は違う選手のものだった!?山﨑武司が背番号へのこだわりを語る!【教えて武司さん#006】 - 山﨑武司チャンネル(YouTube)、2021年6月1日配信。
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- ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2014』P277掲載のプロフィールでは、活動先についてテレビ愛知のみ明記されず。
- ^ FOX SPORTSで 千葉ロッテ・福岡ソフトバンク・オリックスの プロ野球公式戦 主催試合を完全生中継! オープン戦も計35試合放送!(FOX SPORTS ジャパン株式会社) - 『PR TIMES』2014年2月18日13時14分
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- ^ 自著書『奇跡の超弾道』より
- ^ 「東海ラジオの前野アナウンサーにかき氷食べました?と聞かれてからかき氷が頭から離れず北谷の美味しいかき氷食べに来ちゃいました!!! ドラゴンズも打線が元気を出してきて、明るい兆しが見えてきました! 頑張れ、ドラゴンズ!!! https://t.co/FMbZx59G8o」 / Twitter
- ^ 【龍の背に乗って】8月13日は「左利きの日」 プロの「左」の使い方
- ^ 「2007ガリバーオールスターゲーム 「ガリバー賞」 楽天山﨑武司選手に、お好きな車1台を贈呈」『ガリバーインターナショナル』2007年10月4日。2017年9月11日閲覧。
- ^ 「山崎武司:「ハチナイ」に本人役で出演 気迫のスイング披露 演技は「ヘタクソだと思われるかも」」『MANTANWEB(まんたんウェブ)』2021年7月8日。2021年7月15日閲覧。
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参考文献
[編集]- 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ80年史 シリーズ1 1974-1999』ベースボール・マガジン社、2016年3月16日、69頁。ISBN 978-4583624235。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 山﨑武司 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
- 山﨑武司オフィシャルサイト - 山﨑本人によるブログも開設されている。
- 山﨑武司 (@tyamasaki7) - X(旧Twitter)
- 山本昌&山﨑武司 プロ野球 やまやま話 - YouTubeプレイリスト
- 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE