「満潮 (駆逐艦)」の版間の差分
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{{Infobox 艦艇 |
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<div class="thumb tright"> |
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| 名称 =満潮 |
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{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |
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| 画像 = Michishio.jpg |
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|colspan="2"|[[File:Michishio.jpg|300px|1937年10月31日に撮影された満潮]] |
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| 発注 = [[②計画]] <ref name="昭和10年達116号">[[#達昭和10年9月]]p.21『達第百十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十年九月二十八日 海軍大臣 大角岑生|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 満潮(ミチシホ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 荒潮(アラシホ)』</ref> |
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|起工=[[1935年]]11月5日<ref name="艦船要目満潮">[[#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)]]p.20『満潮|(艦性能略)|藤永田造船所|10-11-5|12-3-15|12-10-31|(艦兵装略)』</ref> |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |
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|進水=[[1937年]]3月15日<ref name="艦船要目満潮" /> |
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|就役=1937年10月31日<ref name="艦船要目満潮" /> |
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|計画||[[マル2計画]] |
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|最後=[[1944年]]10月25日、スリガオ海峡で沈没 |
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|除籍=[[1945年]]1月10日 |
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| 基準排水量 = 約2,000t|公試排水量 = 2,400t |
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|全長=118.00m |
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|進水||[[1937年]][[3月15日]] |
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|全幅=10.386m |
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|吃水=3.71m(平均) |
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|就役||1937年[[10月31日]] |
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|機関=オール・ギアードタービン2基2軸<br />[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式重油専焼缶]]3基<br />51,000hp |
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|最大速力=35.0kt |
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|その後||[[1944年]][[10月25日]]戦没 |
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|航続距離=18ktで5,190浬 |
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|燃料=重油580t |
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|除籍||[[1945年]][[1月10日]] |
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|乗員=230名 |
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|兵装=50口径12.7cm連装砲 3基6門<br>25mm機銃 II×2<br>(または13mm機銃 II×2)<br>61cm4連装[[魚雷発射管]] 2基8門<br />(九〇式魚雷16本)<br />九一式爆雷×36 |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
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'''満潮'''(みちしお / みちしほ)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[朝潮型駆逐艦]]3番艦である<ref name="艦艇類別等級p8">[[#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)]]p.8『驅逐艦|一等|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』</ref>。[[1937年]](昭和12年)10月に竣工した<ref name="軍艦2600満潮">[[#軍艦2600年|日本軍艦集2600年版]]コマ39『一等驅逐艦 満潮(みちしほ) 基準排水量1,500噸、長さ108.55米、幅10.15米、平均吃水2.75米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管8門、起工昭和10年11月5日、進水昭和12年3月15日、竣工昭和12年10月31日、建造所藤永田造船所-荒潮と同型。この級は、あらゆる點において、我國最精鋭驅逐艦としての貫録を備へてゐる。』</ref>。1944年(昭和19年)10月、[[レイテ沖海戦]]でスリガオ海峡に突入し、米艦隊の雷撃を受けて沈没した。 |
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|[[排水量]]||基準:約2,000t、公試:2,400t |
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|全長||118.00m |
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|全幅||10.386m |
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|吃水||3.71m(平均) |
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|機関||オール・ギアードタービン2基2軸<br />[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式重油専焼缶]]3基<br />51,000hp |
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|最大速力||35.0kt |
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|航続距離||18ktで5,190浬 |
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|燃料||重油580t |
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|乗員||230名 |
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|武装(新造時)||50口径12.7cm連装砲 3基6門<br>25mm機銃 II×2<br>(または13mm機銃 II×2)<br>61cm4連装[[魚雷発射管]] 2基8門<br />(九〇式魚雷16本)<br />九一式爆雷×36 |
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</div> |
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'''満潮'''(みちしお / みちしほ)<ref name="昭和10年達116号">[[#達昭和10年9月]]p.21『達第百十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十年九月二十八日 海軍大臣 大角岑生|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 満潮(ミチシホ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 荒潮(アラシホ)』</ref>は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]<ref>[[#日本軍艦集2600年版]]p.39『一等驅逐艦 満潮(みちしほ) 基準排水量1,500噸、長さ108.55米、幅10.15米、平均吃水2.75米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管8門、起工昭和10年11月5日、進水昭和12年3月15日、竣工昭和12年10月31日、建造所藤永田造船所-荒潮と同型。この級は、あらゆる點において、我國最精鋭驅逐艦としての貫録を備へてゐる。』</ref>。[[朝潮型駆逐艦|一等駆逐艦朝潮型(満潮型)]]の3番艦である<ref>[[#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)]]p.8『驅逐艦|一等|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』</ref>。1944年(昭和19年)10月下旬の[[レイテ沖海戦]]に、『西村艦隊』に所属して参加、米艦隊の砲雷撃を受けて沈没した。艦名は[[海上自衛隊]]の潜水艦「[[みちしお (潜水艦・初代)|みちしお(初代)]]」と「[[みちしお (潜水艦・2代)|みちしお(2代)]]」に継承された。 |
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== 艦歴 == |
== 艦歴 == |
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=== 建造~開戦、2度の大破 === |
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[[1935年]](昭和10年)9月28日、[[藤永田造船所]]で建造する駆逐艦が満潮と命名された<ref name="昭和10年達116号"/>。11月5日に起工<ref name="艦船要目満潮" />、[[1937年]](昭和12年)3月15日に進水<ref name="艦船要目満潮"/><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070363000|昭和12年3月16日(火)海軍公報第3003号 p.7}}『○進水 驅逐艦満潮昨十五日株式會社藤永田造船所ニ於テ進水セリ』</ref>。10月31日に竣工し<ref name="艦船要目満潮"/>、 [[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]と第25駆逐隊を同日編制した。11-12月にかけて中支方面で活動し、帰投後に[[佐世保海軍工廠]]で[[蒸気タービン]]機関の改造工事を実施した([[朝潮型駆逐艦#臨機調事件|臨機調事件]])。 [[1938年]](昭和13年)1月、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]が編入された<!--何に?-->。3月20日、有田貢艦長が病死した<ref name="海秘人138">{{アジア歴史資料センター|A11114569300|故陸軍騎兵大尉生井杢之丞外一名位階追陞ノ件/故海軍大佐有田貢 p.7}}『海秘人第一三八號 昭和十三年三月二十二日 海軍大臣 米内光政 内閣総理大臣侯爵近衛文麿殿|故海軍大佐有田貢多年軍職ニ在リテ克ク其ノ任務ヲ盡シ功績顕著ノ者ニ候處不幸病ニ罹リ三月二十日死去候ニ付テハ特ニ位一級被追陞度別紙上奏書進達ス』</ref>。 |
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[[1935年]](昭和10年)9月28日、日本海軍は藤永田造船所で建造の駆逐艦を満潮、神戸川崎造船所で建造の駆逐艦を荒潮と命名した<ref name="昭和10年達116号"/>。満潮は[[藤永田造船所]]において同年11月5日に起工された<ref name="艦船要目満潮">[[#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)]]p.20『満潮|(艦性能略)|藤永田造船所|10-11-5|12-3-15|12-10-31|(艦兵装略)』</ref>。 |
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[[1937年]](昭和12年)3月15日に進水<ref name="艦船要目満潮"/><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070363000|昭和12年3月16日(火)海軍公報第3003号 p.7}}『○進水 驅逐艦満潮昨十五日株式會社藤永田造船所ニ於テ進水セリ』</ref>。のちに僚艦となる[[白露型駆逐艦]][[涼風 (駆逐艦)|涼風]]より4日遅い進水だった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070363000|昭和12年3月13日(土)海軍公報第3001号 p.4}}『○進水 驅逐艦涼風本月十一日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ』</ref>。 |
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7月6日、海軍は吹雪型駆逐艦[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]艦長[[佐藤康夫]]中佐を満潮艤装員長に任命した(後任の暁艦長[[篠田勝清]]中佐は、レイテ沖海戦時の戦艦[[山城 (戦艦)|山城]]艦長)<ref name="公報3152">昭和12年7月7日付 官報第3152号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959635 p.8</ref>。 |
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7月13日、藤永田造船所に満潮艤装員事務所を設置<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070366700|昭和12年7月17日(土)海軍公報(部内限)第2665号 p.22}}『○艤装員事務所設置 驅逐艦満潮艤装員事務所ヲ株式會社藤永田造船所構内ニ設置シ本月十三日ヨリ事務ヲ開始セリ』</ref>。 |
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同年10月31日に竣工した<ref name="艦船要目満潮"/>。佐藤満潮艤装員長も制式に満潮初代艦長となる<ref name="jirei84">{{アジア歴史資料センター|C13072072400|昭和12年10月31日(発令10月31日付)海軍辞令公報(号外)第84号 p.47}}</ref>。舞鶴工廠で建造された朝潮型2番艦大潮とは進水は満潮の方が早く、竣工は同日であった<ref name="艦船要目大潮">[[#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)]]p.20『大潮|(艦性能略)|舞鶴工廠|11-8-5|12-4-19|12-10-31|(艦兵装略)』</ref>。また重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]も竣工し、熊野初代艦長は[[西村祥治]]大佐(レイテ沖海戦時、西村艦隊司令官)だった<ref name="jirei84"/>。 |
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[[1939年]](昭和14年)11月1日、第25駆逐隊4隻は[[横須賀鎮守府]]へ転籍し、第8駆逐隊を編制した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070381800|昭和14年11月1日(水)海軍公報(部内限)第3349号 p.1}}』</ref>。11月15日に[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]・[[第二水雷戦隊]]に編入され、以後[[中国]]方面で活動した。 |
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1937年11月から12月にかけて中支方面で活動。 |
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12月1日、佐藤(満潮艦長)は馬公防備隊副長へ転任<ref name="jirei99">{{アジア歴史資料センター|C13072072700|昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 pp.27-28}}</ref>、後任の満潮艦長は[[有田貢]]中佐(有田は11月15日まで[[熱海型砲艦]]2番艦[[二見 (砲艦)|二見]]艦長)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072072500|昭和12年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(号外)第91号 p.25}}</ref><ref name="jirei99"/>。 |
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その帰投後、[[佐世保海軍工廠]]で[[蒸気タービン]]機関の改造工事を実施した([[朝潮型駆逐艦#臨機調事件|臨機調事件]])。 |
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[[太平洋戦争]]開戦時、第8駆逐隊は第二艦隊の指揮下で南方部隊本隊に加わっていた<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]付表第一『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』</ref>。[[マレー半島|マレー]]第一次上陸作戦、[[リンガエン湾]]上陸作戦を支援。[[1942年]](昭和17年)1月から[[アンボン]]、[[マカッサル]]攻略作戦に従事した。 |
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[[1938年]](昭和13年)1月上旬、朝潮型4番艦[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]](前年12月20日竣工)<ref>[[#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)]]p.20『荒潮|(艦性能略)|神戸川崎造船所|10-10-1|12-5-26|12-12-20|(艦兵装略)』</ref>が第25駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)を揃える。 |
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3月20日、有田(満潮艦長)が病死し<ref name="海秘人138">{{アジア歴史資料センター|A11114569300|故陸軍騎兵大尉生井杢之丞外一名位階追陞ノ件/故海軍大佐有田貢 p.7}}『海秘人第一三八號 昭和十三年三月二十二日 海軍大臣 米内光政 内閣総理大臣侯爵近衛文麿殿|故海軍大佐有田貢多年軍職ニ在リテ克ク其ノ任務ヲ盡シ功績顕著ノ者ニ候處不幸病ニ罹リ三月二十日死去候ニ付テハ特ニ位一級被追陞度別紙上奏書進達ス』</ref>、姉妹艦大潮艦長[[勝見基]]少佐が満潮駆逐艦長を兼務することになった<ref name="jirei154">{{アジア歴史資料センター|C13072073500|昭和13年3月24日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第154号 p.48}}</ref>。 |
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8月2日附で勝見少佐は[[白露型駆逐艦]]1番艦[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]駆逐艦長へ転任<ref name="jirei220">{{アジア歴史資料センター|C13072074200|昭和13年8月3日(発令8月2日付)海軍辞令公報(部内限)第220号 p.16}}</ref>。朝潮型4番艦荒潮艦長[[吉田義行]]中佐は荒潮駆逐艦長と満潮駆逐艦長の兼務を命じられ、また朝潮型1番艦朝潮艦長[[脇田喜一郎]]少佐が大潮の艦長を兼務することになった<ref name="jirei220"/>。 |
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[[1939年]](昭和14年)7月24日、吉田(荒潮艦長、満潮艦長)は兼務を解かれ、鈴木正明少佐(旅順防備隊分隊長)が満潮駆逐艦長となる<ref name="jirei362">{{アジア歴史資料センター|C13072076000|昭和14年7月25日(発令7月24日付)海軍辞令公報(部内限)第362号 p.46}}</ref>。 |
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8月16日、吉田(荒潮艦長)は水上機母艦[[能登呂 (水上機母艦)|能登呂]]副長へ転任される<ref name="jirei370">{{アジア歴史資料センター|C13072076200|昭和14年8月16日(発令8月16日付)海軍辞令公報(部内限)号外第370号 p.26}}</ref>。鈴木(満潮艦長)は駆逐艦2隻(満潮、荒潮)艦長の兼務を命じられた<ref name="jirei370"/>。 |
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9月25日、[[吉田正義]]少佐が荒潮艦長に任命され、鈴木少佐は兼務を解かれて満潮艦長に専念する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076300|昭和14年9月25日(発令9月25日付)海軍辞令公報(部内限)号外第382号 p.37}}</ref>。 |
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10月15日、鈴木(満潮艦長)は佐世保海兵団教官を命じられ、[[初春型駆逐艦]]3番艦[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]艦長[[大島一太郎]]少佐が満潮駆逐艦長に任命される<ref name="jirei391">{{アジア歴史資料センター|C13072076400|昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.22}}</ref>。 |
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11月、[[横須賀鎮守府]]へ転籍し、第25駆逐隊は'''第8駆逐隊'''と改名<ref name="海軍公報部内限3349">{{アジア歴史資料センター|C12070381800|昭和14年11月1日(水)海軍公報(部内限)第3349号 p.1}}『官房第五五八七號 本月十一月一日驅逐隊編制中改正竝ニ海軍定員令中改正施行ノ際現ニ左記上欄ノ隊ノ職員タル者ハ別ニ辭令ヲ用ヒズシテ各下欄ノ相當職員ニ補セラレタル義ト心得ベシ 昭和十四年十一月一日 海軍大臣』-『(従前ノ隊名)第八驅逐隊|(新隊名)第二十驅逐隊』-『第二十五驅逐隊|第八驅逐隊』-『呉防備隊|佐伯防備隊』</ref>。それまでの第8駆逐隊は第20駆逐隊([[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]《11月15日編入》)となった<ref name="海軍公報部内限3349"/>。 |
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11月15日附で[[伊集院松治]]大佐が第8駆逐隊司令に任命される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076700|昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.34}}</ref>。同時に[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]][[第二水雷戦隊]]に編入され、以後[[中国]]方面で活動した。 |
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[[1940年]](昭和15年)1月15日、大島(満潮艦長)は海軍水雷学校教官へ転任<ref name="jirei555">{{アジア歴史資料センター|C13072079500|昭和15年1月15日(発令1月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.12,15}}</ref>、睦月型2番艦[[如月 (睦月型駆逐艦)|如月]]艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072074800|昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第273号 p.32}}</ref>等を歴任した[[小倉正身]]少佐が満潮駆逐艦長となった<ref name="jirei555"/>。 |
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10月15日、伊集院(第8駆逐隊司令)は[[川内型軽巡洋艦]]3番艦[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]艦長へ転任、後任の8駆司令は[[森下信衛]]大佐(レイテ沖海戦時、戦艦大和艦長)となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072079000|昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 pp.31-32}}</ref>。 |
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太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月1日、森下(第8駆逐隊司令)は軽巡[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]の艦長を命じられ、第21駆逐隊司令[[阿部俊雄]]大佐が後任の第8駆逐隊司令に任命された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072081900|昭和16年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.3}}</ref>。 |
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=== 第八駆逐隊 === |
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[[太平洋戦争]]開戦時には、同型艦3隻(朝潮、大潮、荒潮)と引続き第8駆逐隊(駆逐隊司令[[阿部俊雄]]大佐)を編制されていた。さらに第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将(旗艦「愛宕」)の指揮下で南方部隊本隊(第四戦隊《[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]》、第三戦隊第2小隊《[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]》、第4駆逐隊《[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]] 》、第6駆逐隊第1小隊《[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]》、第8駆逐隊《[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、'''満潮'''、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]》)を編制していた<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]付表第一『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』</ref>。[[マレー半島|マレー]]第一次上陸作戦、[[リンガエン湾]]上陸作戦を支援、[[1942年]](昭和17年)1月より[[アンボン]]、[[マカッサル]]攻略作戦に従事した。 |
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{{main|バリ島沖海戦}} |
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日本軍は[[バリ島]]の攻略を計画し、第8駆逐隊と輸送船2隻は2月19日未明にバリ島に到着、兵員と物資の揚陸を始めた。夕刻に揚陸は完了したが、昼に空襲で輸送船相模丸が損傷し、満潮と荒潮が護衛して先にマカッサルに帰投を始めた<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]325-328頁</ref>。同日夜にロンボック海峡で朝潮と大潮が米蘭の連合艦隊と交戦、蘭駆逐艦ピートハインを撃沈したが大潮が損傷した。急報を受けて反転した満潮と荒潮がバダン海峡に突入し、2日午前3時47分に砲戦を開始した<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]331頁</ref><ref>[[#スラバヤ・バタビア沖海戦(S17)]]p.96 従軍記者の清水進はバリ島沖海戦の満潮乗員について「僕はその黙々としてやるといふ気持は、潜水艦なり駆逐艦は徹底してると思ふんです。艦長を中心にして、ピラミツド型に団結してゐるわけですね。例のバリ島沖の海戦で、こっちの駆逐艦が1隻傷ついたのです。後で艦長以下全員に集まって貰って座談會を開いたんですが、負傷者がドンドン出る、電流が切れてしまって艦内はまっ暗です。その時、甲板を「艦長は御無事だぞ!」と叫んで歩く聲がする。その聲を聴いて私は涙で出た。…それが今度は下に行って、艦内を隈なく廻って、さう皆に知らせて行く。それを着てみんなは非常に元気づいたといふのです。これなども、艦長を中心とする団結の非常に高い精神の発露だと感激しました。」と述懐している。</ref>。機関室に被弾した満潮は大破し64人が戦死、航行不能となったが、海峡を漂流しながら残敵の哨戒にあたった<ref>[[#S170216蘭印第2護衛隊詳報(2)]]p.8『満潮駆逐艦長|20日0904蘭印部隊|昨夜「バリー」海峡ニ依ル被害ニ対シ応急処置ニ努メツツアルモ機械室破壊ノ為今ノ処運転可能ノ見込ミ立タズ此ノ儘漂白當方面ノ哨戒ニ當リツツ損傷復旧ニ努ム 我ノ一「バルング」海峡中部0730』『満潮駆逐艦長|20日1057(宛略)一.被害 主機械室二番砲其ノ他数個所但シ浸水箇所ナシ/二.戦死64(戦死准士官以上3下士官兵38戦傷者准士官以上1下士官兵26)/三.機械室被弾ニ依リ運転不能ナリ/四.0830荒潮着曳航準備中0930』</ref><ref>[[#海軍作戦史大東亜戦争第一年]]p.58『この時傷ついた駆逐艦は次の報告を行った。『我れ単艦にて哨戒す』 恰もロンボク水道の真中であった。敵米、英、蘭連合艦隊が、豪州へ落ちんつれば、必らず通過しなければならぬ海上の関所である。『我れ哨戒す』 動けなくなった駆逐艦は、この水道で哨戒しながら動けぬながらも砲戦によって敵を撃滅せんとしたのである。』</ref>。午前6時、軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]と第21駆逐隊([[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]、[[子日 (初春型駆逐艦)|子日]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])が到着、若葉と子日が第8駆逐隊の僚艦と協力して満潮の救援を行った。午前10時、荒潮が満潮の曳航を始めたが、空襲の回避行動で曳索が切れ、満潮は至近弾でさらに浸水した<ref>[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]332頁</ref>。沈没は免れ、マカッサルに帰投した。[[山本五十六]]連合艦隊司令長官は後日、バリ島沖海戦を戦った第8駆逐隊に[[感状]]を与えた<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070429400|昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 pp.14-15}}『○感状 第八驅逐隊 昭和十七年二月十九日「バリ」島急襲攻略作戰ニ際シ同日夜半「ロンボク」海峡ニ於テ我ガ上陸ヲ阻止セントシテ來襲セル敵巡洋艦二隻及驅逐艦五隻以上ト遭遇スルヤ寡勢克ク勇戰忽チ敵驅逐艦四隻ヲ撃沈シ同巡洋艦二隻及驅逐艦一隻ヲ撃破遁走セシメタルノミナラズ爾后此ノ戰闘ニ於テ損傷ヲ受ケタル僚艦ヲ曳航翌晝間ニ於ケル敵機ノ猛爆ヲ冒シテ之ヲ味方泊地ニ移シ遂ニ救出ノ目的ヲ達シタルハ其ノ武勲顕著ナリト認ム 仍テ竝ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十二月八日 聯合艦隊司令長官 山本五十六』</ref>。 |
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20日午前6時、第一根拠地部隊指揮官[[久保九次]]少将率いる軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]、第21駆逐隊([[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]、[[子日 (初春型駆逐艦)|子日]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])が戦場に到着、長良、初霜がロンボック海峡北口を警戒し、残る艦で満潮の救援を行った<ref name="叢書(26)332">[[#戦史叢書26海軍進攻作戦]]332頁『第一次急襲部隊の引き揚げ』</ref>。午前10時、荒潮は満潮を曳航して退避を開始するが、空襲により回避行動をとったところ曳索が切れ、さらに満潮は至近弾で浸水してしまった<ref name="叢書(26)332"/>。だが沈没は免れ、マカッサルに帰投して応急修理を実施した。阿部司令は司令駆逐艦を大潮から朝潮に変更した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070410900|昭和17年3月25日(水)海軍公報(部内限)第4051号 p.20}}『○司令驅逐艦變更 第八驅逐隊司令ハ二月二十日司令驅逐艦ヲ大潮ヨリ朝潮ニ變更セリ』</ref>。 |
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3月16日、第8駆逐隊司令は[[小川莚喜]]中佐に交代し、前司令[[阿部俊雄]]大佐は第10駆逐隊([[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|夕雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]])司令に転任した<ref name="jirei1828">{{アジア歴史資料センター|C13072084600|昭和17年3月16日(発令3月14日付)海軍辞令公報(部内限)第828号 p.12}}</ref>。 |
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4月10日、第8駆逐隊は第四水雷戦隊(司令官[[西村祥治]]少将:旗艦、朝潮型7番艦[[夏雲 (駆逐艦)|夏雲]])に編入された(従来の旗艦[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]は[[日本軍のクリスマス島占領|クリスマス島攻略戦]]で大破)<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.9『本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ 途上十八日敵機動部隊ノ来襲ヲ聞キ我亦之ニ應ズル如ク増速セルモ荒天ノ為意ノ如クナラズ二十一日横須賀ニ歸着尓後整備作業ニ従事セリ』</ref>。 |
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マカッサルで応急修理後の2隻(大潮、満潮)は、4月16日-17日に台湾[[高雄市]]に立ち寄り<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.65『一七(天候略)一二〇〇9dg1D高雄発横須賀ニ向フ/大潮満潮高雄着|一八(天候略)一〇〇〇大潮満潮横須賀ニ向ケ高雄発』</ref>、4月22日に横須賀へ到着した<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.56『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』</ref><ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.66『二二(天候略)一五〇〇4dg横須賀着/一三三〇大潮満潮横須賀着』</ref>。[[横須賀海軍工廠]]で応急修理を実施<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.10『九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊ニ編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴満潮呉山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ』</ref>。 |
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5月9日、第四水雷戦隊に軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]が編入され、それと共に大潮は[[舞鶴海軍工廠]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]は[[横須賀海軍工廠]]、満潮は呉工廠での修理を下令された<ref name="S1704四水戦(2)9">[[#S1704四水戦日誌(2)]]pp.9-10『(二)経過概要(略)九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊に編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴満潮呉山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ/南方部隊ニ編入サレアリタル朝潮荒潮ハ十五日附ニテ同部隊ヨリ除カレ十八日呉着次期作戰準備ニ従事セリ』</ref>。10日、2隻(大潮、満潮)は横須賀を出発<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.51『一〇(天候略)一五〇〇大潮(満潮)舞鶴(呉)ニ向ケ横須賀発』</ref>。満潮は12日に呉到着<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.51『一二(天候略)〇八三〇夏雲出港一七〇〇皈着/満潮呉着|〇八三〇将旗ヲ山雲ニ移揚一八〇〇復皈』-『一三(天候略)朝潮荒潮マニラ着/一一〇〇大潮舞鶴着|夏雲工事完成』</ref>。 |
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修理中の5月15日、2隻(満潮、大潮)は第8駆逐隊から外された<ref>[[#内令昭和17年5月(2)]]p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』</ref>。同日附で朝潮型3隻(大潮、満潮、山雲)は特別役務艦に指定される<ref>[[#内令昭和17年5月(2)]]p.26『内令第八百五十一號 横須賀鎮守府予備駆逐艦 驅逐艦 大潮 驅逐艦 満潮 驅逐艦 山雲 右特別役務艦ト定ム|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。 |
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後日(同年12月8日)、[[山本五十六]]連合艦隊司令長官はバリ島沖海戦における第8駆逐隊に[[感状]]を与えた<ref name="バリ島沖海戦感状">{{アジア歴史資料センター|C12070429400|昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 pp.14-15}}『○感状 第八驅逐隊 昭和十七年二月十九日「バリ」島急襲攻略作戰ニ際シ同日夜半「ロンボク」海峡ニ於テ我ガ上陸ヲ阻止セントシテ來襲セル敵巡洋艦二隻及驅逐艦五隻以上ト遭遇スルヤ寡勢克ク勇戰忽チ敵驅逐艦四隻ヲ撃沈シ同巡洋艦二隻及驅逐艦一隻ヲ撃破遁走セシメタルノミナラズ爾后此ノ戰闘ニ於テ損傷ヲ受ケタル僚艦ヲ曳航翌晝間ニ於ケル敵機ノ猛爆ヲ冒シテ之ヲ味方泊地ニ移シ遂ニ救出ノ目的ヲ達シタルハ其ノ武勲顕著ナリト認ム 仍テ竝ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十二月八日 聯合艦隊司令長官 山本五十六』</ref>。 |
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満潮修理中の6月上旬に実施された[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]で第8駆逐隊(荒潮、朝潮)は第七戦隊(司令官[[栗田健男]]少将:[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]])の護衛として行動するが、2隻(荒潮、朝潮)は衝突事故を起こした重巡2隻(三隈、最上)を護衛中、アメリカ軍機の空襲を受けて三隈が沈没、最上も大破、荒潮、朝潮も小破という被害を受けた。第8駆逐隊に所属した朝潮型4隻(朝潮、大潮、荒潮、満潮)は4隻とも損傷し修理に従事した。 |
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8月20日、[[小倉正身]](満潮艦長)が[[夕雲型駆逐艦]]6番艦[[高波 (駆逐艦)|高波]]艤装員長(のち、高波初代駆逐艦長。[[ルンガ沖夜戦]]で高波沈没時に戦死)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093900|昭和18年10月22日(発令昭和17年11月30日付)海軍辞令公報(部内限)第1244号 p.17}}</ref>に任命された事にともない、朝潮型9番艦[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]艦長[[戸村清]]中佐は満潮駆逐艦長を命じられる<ref name="jirei926">{{アジア歴史資料センター|C13072086600|昭和17年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第926号 pp.44-45}}</ref>。霞以下第18駆逐隊(霞、[[霰 (駆逐艦)|霰]]、[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]])は米潜水艦[[グロウラー (潜水艦)|グロウラー]](''USS Growler, SS-215'')から襲撃され霰が沈没、不知火、霞も大破という損害を受けていた<ref>[[#潜水艦戦争]]196頁</ref>。 |
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10月20日、修理を終えた満潮は第8駆逐隊(朝潮、荒潮)に復帰した<ref>[[#内令昭和17年10月(4)]]pp.10-11『内令第千九百三十四號|驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「荒潮」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「弥生、」ヲ削ル』</ref>。また第8駆逐隊司令として朝潮型2番艦大潮初代艦長等を歴任した[[山代勝守]]大佐が着任<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072087400|昭和17年10月20日(発令10月20日付)海軍辞令公報(部内限)第968号 p.1}}</ref>。第8駆逐隊は[[ガダルカナル島の戦い]]に参加するためラバウルを経由して[[ブーゲンビル島]]の[[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]へ回航され、到着直後より駆逐艦輸送作戦([[鼠輸送]])に投入された<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]368頁</ref>。 |
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11月1日、増援部隊指揮官[[橋本信太郎]]第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]から重巡[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[初雪 (吹雪型駆逐艦)|初雪]])を率いて1日23時にショートランド泊地を出撃した<ref name="叢書(83)346">[[#戦史叢書83ガ島戦]]346-347頁『輸送の実施』</ref>。甲増援隊(指揮官[[高間完]]第四水雷戦隊司令官:[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]〔第四水雷戦隊旗艦〕、軽巡《天龍》、第2駆逐隊《[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]》、第27駆逐隊《[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]、[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]》、第6駆逐隊《[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]》、第11駆逐隊《[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]》)および乙増援隊(第8駆逐隊《満潮、朝潮〔荒潮欠〕》、第19駆逐隊《[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]》、[[望月 (駆逐艦)|望月]])も第一攻撃隊と前後してショートランド泊地を出撃した<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]346頁の編制では満潮のみとなっている。</ref><ref>[[#S1709八艦隊日誌(3)]]p.19『8dg(d×1缺)19dg(d×1缺)乙増援隊|11-2|「コリ」岬ニ入泊揚陸全部完了0020帰途ニ就ケリ』</ref>。損害は衣笠水偵1機と白雪触礁(損害軽微)だったが、甲増援隊はガ島揚陸地点での強風と波浪により[[艦載艇]]9隻を損失、一部物資を揚陸できなかった<ref name="叢書(83)346"/>。 |
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11月4日、ガ島周辺ではアメリカ軍巡洋艦部隊の行動が活発になっていたが、外南洋部隊主隊の巡洋艦(鳥海等)の出動は燃料不足の観点から見送られた<ref name="叢書(83)348">[[#戦史叢書83ガ島戦]]348-349頁</ref>。橋本三水戦司令官は旗艦を衣笠から浦波に変更して戦力を再編、甲増援隊(朝雲〔四水戦旗艦〕、第2駆逐隊《村雨、春雨、夕立》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》、第8駆逐隊《朝潮、満潮》)は4日23時30分にショートランド泊地を出撃<ref name="叢書(83)348"/>。乙増援隊(第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》、第11駆逐隊《白雪》、望月、天龍)は5日午前0時に同泊地を出撃した<ref name="叢書(83)348"/>。5日深夜、各隊はガ島揚陸に成功した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(3)]]p.19『甲、乙増援部隊|11-5|甲乙増援部隊ハ夫々「タサハロング」「エスペランス」ニ陸兵2400名及弾薬糧秣五六噸ヲ揚陸セリ』</ref>。だが、朝雲、天龍が米潜水艦に雷撃されるも損害はなかった<ref name="叢書(83)348"/>。この輸送作戦をもって橋本三水戦司令官は外南洋部隊増援部隊の指揮権を第二水雷戦隊司令官[[田中頼三]]少将に引き継ぎ、川内以下三水戦各艦と共にトラック泊地へ戻った<ref name="叢書(83)348"/>。 |
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11月6日、満潮は第七戦隊(司令官[[西村祥治]]少将、旗艦[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]])の指揮下に入った<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]]p.10『11月6日(満潮)指揮下ニ入ル』</ref>。 |
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11月7日、第四水雷戦隊司令官高間少将は軽巡天龍に旗艦を変更する<ref name="叢書(83)351">[[#戦史叢書83ガ島戦]]351-352頁『八日の輸送』</ref>。ガ島輸送は第9駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐(朝雲座乗)指揮下の乙増援隊(朝雲、望月、村雨、夕立、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮)によって実施されることになった<ref name="叢書(83)351"/>。7日23時にショートランド泊地を出撃、8日夜のガ島揚陸では望月に魚雷1本が命中するも不発だった<ref name="叢書(83)351"/>。輸送作戦は成功した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(3)]]p.20『4sd、8dg(d×1缺)望月|11-9|「タサハロング」ニ弾薬糧秣ヲ揚陸」ス進入時敵魚雷艇ノ雷撃ノ四本中一本望月ニ命中シタルモ不發砲撃ニ依リ一隻ヲ撃沈セリ帰途夕立白露ハ敵潜ヲ爆雷攻撃撃沈セリ』</ref>。 |
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11月10日、満潮は一時的に第七戦隊・第10駆逐隊司令(阿部俊雄大佐)の指揮下に入った<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]]p.36『11月11日0915支援隊指揮官→支援隊(鳥海、五十鈴)/満潮ヲ第十駆逐隊司令ノ指揮下ニ入ル』</ref>。 |
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11月12-13日、満潮は[[第三次ソロモン海戦]]に参加、外南洋部隊支援隊指揮官の西村少将(七戦隊司令官)は第七戦隊の重巡洋艦2隻([[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]])、軽巡[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、第10駆逐隊([[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]])と満潮を率いて[[ガダルカナル島]]海域に突入し同島にある[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場基地]]に対し夜間砲撃を実施する予定であった<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]355頁</ref>。だが満潮は13日にショートランド泊地でアメリカ軍大型機の爆撃を受けた<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]340頁</ref>。山代(8駆逐隊司令)によれば、2隻(満潮、朝潮)は海岸近辺に停泊していた<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]371頁</ref>。そこで爆撃を受け、満潮は至近弾により浸水<ref>[[#S1709八艦隊日誌(3)]]p.24『11月13日満潮至近弾ニ依リ大破浸水』</ref>、一時航行不能となる<ref>[[#S1711二水戦日誌(1)]]p.18『8dg司令/13日0428 8F司令長官[2sd司令官]/満潮爆撃ヲ受ケ缶室浸水艦尾沈下シツツアリシモ今ノ處持コタヘツツアリ救援中』</ref>。このため外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、五十鈴、朝潮)より僚艦朝潮が支援隊に編入され、第七戦隊(鈴谷、摩耶)のガ島砲撃を護衛している。外南洋部隊増援部隊所属の水雷戦隊(駆逐艦)はその後もショートランド泊地を拠点にガダルカナル島への輸送作戦に従事したが([[ルンガ沖夜戦]]等)、満潮はそのままショートランドで待機を続けた。 |
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12月21日、ニューギニア方面での行動を終えた姉妹艦の朝潮は[[カビエン]](ニューアイルランド島)を出発、ラバウルへ向かった<ref>[[#S1711七戦隊日誌(5)]]p.12『二一(天候略)地.〇六〇〇朝潮「ラバウル」ニ向ケ出港(以下略)』</ref>。12月22日、外南洋部隊指揮官[[三川軍一]]第八艦隊司令長官は、朝潮(第8駆逐隊司令)に対しショートランド泊地への移動を下令<ref name="S1712増援(3)39">[[#S1712増援部隊詳報(3)]]p.39『外南洋部隊指揮官|二十二日一二三〇8dg司令天霧駆艦長〔GF 11AF 4F各司令長官 總長 外南洋部隊各司令官 満潮駆艦長 明石艦長 軍務局長〕|外南洋部隊信電令作第一七九號 一.8dg司令ハ朝潮ヲ以テ満潮ヲ曳航二十四日以後成ルベク速ニショートランド發トラツクニ回航ノ上朝潮及満潮ノ修理ニ任ズベシ/二.天霧ハムンダニ對スル輸送任務終了セバ機宜津軽ト別動シショートランドニ回航スベシショートランド到着時ヲ以テ増援部隊ヨリ除キ附属トス/三.天霧ハ8dg(荒潮缺)ノ護衛ニ任ジタル後トラックニ於テ船体兵器ノ検査修理ニ任ズベシ護衛任務中8dg司令ノ指揮ヲ承クベシ』</ref>、同地に取り残されていた満潮をトラック泊地まで曳航するよう命じ、また駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]に対しては第8駆逐隊(朝潮、満潮)の護衛を命じた<ref name="S1712増援(3)39"/>。 |
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12月29日、朝潮型姉妹艦[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]が第8駆逐隊に復帰した<ref>[[#内令昭和17年12月(5)]]p.21『内令第二千四百二十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、大潮」ヲ加フ』</ref>。第8駆逐隊司令駆逐艦の任を大潮に変更後<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070429200|昭和18年1月15日(金)海軍公報(部内限)第4291号 p.26}}『○司令驅逐艦變更 第八驅逐隊司令ハ一月五日司令驅逐艦ヲ大潮ニ變更セリ』</ref>、朝潮は戦艦[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]や空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]等と共に日本本土へ帰投した。一方で、満潮はトラック泊地で工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]協力下で応急修理を実施した。 |
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4月10日、バリ島沖海戦で大潮、荒潮も損傷した第8駆逐隊は第四水雷戦隊に編入された<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.9『本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ 途上十八日敵機動部隊ノ来襲ヲ聞キ我亦之ニ應ズル如ク増速セルモ荒天ノ為意ノ如クナラズ二十一日横須賀ニ歸着尓後整備作業ニ従事セリ』</ref>。満潮と大潮はマカッサルで応急修理をした後、16日-17日に[[高雄市|高雄]]を経由して22日に横須賀に帰港した<ref>[[#S1704四水戦日誌(1)]]p.56,65-66『一七(天候略)一二〇〇9dg1D高雄発横須賀ニ向フ/大潮満潮高雄着|一八(天候略)一〇〇〇大潮満潮横須賀ニ向ケ高雄発』『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』『二二(天候略)一五〇〇4dg横須賀着/一三三〇大潮満潮横須賀着』</ref>。5月10日に横須賀を出発、12日に呉に到着<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]p.51『一〇(天候略)一五〇〇大潮(満潮)舞鶴(呉)ニ向ケ横須賀発』『一二(天候略)〇八三〇夏雲出港一七〇〇皈着/満潮呉着|〇八三〇将旗ヲ山雲ニ移揚一八〇〇復皈』</ref>。長期修理のため15日に特別役務艦に指定された<ref>[[#S1704四水戦日誌(2)]]pp.9-10『(二)経過概要(略)九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊に編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴 満潮呉 山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ/南方部隊ニ編入サレアリタル朝潮荒潮ハ十五日附ニテ同部隊ヨリ除カレ十八日呉着次期作戰準備ニ従事セリ』</ref><ref>[[#内令昭和17年5月(2)]]p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』『内令第八百五十一號 横須賀鎮守府予備駆逐艦 驅逐艦 大潮 驅逐艦 満潮 驅逐艦 山雲 右特別役務艦ト定ム|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。 |
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翌[[1943年]](昭和18年)1月15日、[[ガダルカナル島の戦い]]に従事していた陽炎型14番艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]艦長[[勝見基]]中佐が戦死。1月25日、戸村(満潮艦長)は谷風駆逐艦長を命じられ、朝潮型8番艦[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]艦長[[鈴木保厚]]中佐が後任の満潮駆逐艦長に任命される<ref name="jirei1042">{{アジア歴史資料センター|C13072089500|昭和18年1月27日(発令1月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1042号 p.29}}</ref>。 |
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2月14日附で第三水雷戦隊司令官は[[橋本信太郎]]少将から[[木村昌福]]少将へ交代し<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089700|昭和18年2月15日(発令2月14日付)海軍辞令公報(部内限)第1053号 pp.27-28}}</ref>、第8駆逐隊司令も2月15日附で山代大佐から[[佐藤康夫]]大佐(前職第9駆逐隊司令)に交代した<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089700|昭和18年2月15日(発令2月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.31}}『第九驅逐隊司令海軍大佐 佐藤康夫(五七二)補第八驅逐隊司令/第八驅逐隊司令海軍大佐 山代勝守(七八二)横須賀鎮守府附被仰付』</ref>。 |
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2月21日、米潜水艦[[アルバコア (SS-218)|アルバコア]] (''USS Albacore, SS-218'')の雷撃で姉妹艦の大潮が沈没、佐藤(8駆司令)は司令駆逐艦を荒潮に変更した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070429900|昭和18年3月17日(金)海軍公報(部内限)第4342号 p.17}}『○司令驅逐艦變更 第八驅逐隊司令ハ二月二十一日司令驅逐艦ヲ荒潮ニ變更セリ』</ref>。 |
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10月20日、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)に復帰した<ref name="S17内令1934">[[#内令昭和17年10月(4)]]pp.10-11『内令第千九百三十四號|驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「荒潮」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「弥生、」ヲ削ル』</ref>。満潮はラバウルを経由して[[ブーゲンビル島]]の[[ショートランド諸島|ショートランド泊地]]に到着、駆逐艦隊による[[ガダルカナル島]]への[[鼠輸送]]に投入された<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]368頁</ref>。満潮は11月2日に朝潮、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[綾波 (吹雪型駆逐艦)|綾波]]、[[望月 (駆逐艦)|望月]]、5日に朝潮、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]] 、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]、[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]、9日に朝潮、朝雲、望月、村雨、夕立、時雨、白露、夕暮と揚陸作戦を行い、いずれも成功した<ref>[[#S1709八艦隊日誌(3)]]p.19-20『8dg(d×1缺)19dg(d×1缺)乙増援隊|11-2|「コリ」岬ニ入泊揚陸全部完了0020帰途ニ就ケリ』『甲、乙増援部隊|11-5|甲乙増援部隊ハ夫々「タサハロング」「エスペランス」ニ陸兵2400名及弾薬糧秣五六噸ヲ揚陸セリ』『4sd、8dg(d×1缺)望月|11-9|「タサハロング」ニ弾薬糧秣ヲ揚陸」ス進入時敵魚雷艇ノ雷撃ノ四本中一本望月ニ命中シタルモ不發砲撃ニ依リ一隻ヲ撃沈セリ帰途夕立白露ハ敵潜ヲ爆雷攻撃撃沈セリ』</ref>。 |
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3月上旬、満潮の内地帰還が決まった<ref>[[#S1801二水戦日誌(4)]]p.21『GF司令長官(宛略)GF電令作第四九五號 AdB KdB各指揮官ハ長波浜風ヲシテ内地(所属軍港)ニ回航修理ヲ實施セシムベシ回航ノ際浜風ハ満潮ヲ横須賀ニ曳航舞風之ヲ護衛長波ハ南海丸ヲ内地西部迄護衛ノコトニ取計フベシ』</ref>。3月6日、満潮は陽炎型2隻([[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]])と共にトラックを出港、満潮は浜風に曳航されながらサイパンを経由して3月16日に館山に着いた<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]299頁</ref>。11月中旬まで横須賀や横浜船渠で修理整備をおこなった<ref>[[#S1806二水戦日誌(5)]]p.17『(四)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。 |
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海軍は[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場基地]]への大規模な艦砲射撃を計画し、満潮は作戦に備えて6日に第七戦隊(司令官[[西村祥治]]少将)の指揮下に入った<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]]p.10『11月6日(満潮)指揮下ニ入ル』</ref>。しかし12日夜に[[第三次ソロモン海戦]]が勃発し、出撃準備中の13日、ショートランド泊地の海岸近くで停泊中に米軍大型機の爆撃を受け<ref>[[#戦史叢書83ガ島戦]]340頁</ref>、至近弾で大破浸水し航行不能になった<ref>[[#佐藤 艦長続編(文庫)]]371頁</ref><ref>[[#S1709八艦隊日誌(3)]]p.24『11月13日満潮至近弾ニ依リ大破浸水』</ref><ref>[[#S1711二水戦日誌(1)]]p.18『8dg司令/13日0428 8F司令長官[2sd司令官]/満潮爆撃ヲ受ケ缶室浸水艦尾沈下シツツアリシモ今ノ處持コタヘツツアリ救援中』</ref>。 |
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修理中、満潮の姉妹艦は次々に沈没した。3月3日、駆逐艦4隻([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]])及び輸送船8隻が連合国軍機の空襲により沈没した([[ビスマルク海海戦]])。第8駆逐隊司令[[佐藤康夫]]大佐も朝潮と共に戦死した。4月1日、僚艦3隻(朝潮、荒潮、大潮)の除籍にともない第8駆逐隊は解隊された<ref>[[#内令昭和18年4月(1)]]p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』</ref>。また[[ネームシップ]]の朝潮の沈没により同日附で朝潮型駆逐艦は'''満潮型駆逐艦'''と改定されている<ref>[[#内令昭和18年4月(1)]]p.20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等ノ部中「白雪型」ヲ「初雪型」ニ改メ同項中「白雪、」ヲ、同白露型ノ項中「、村雨」ヲ削リ<strong>同「朝潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ</strong>同項中「、朝潮、大潮」「、「荒潮」「、峯雲」ヲ、同陽炎型ノ項中「時津風、」ヲ削ル(以下略)』</ref>。 |
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5月1日、鈴木(満潮艦長)は[[秋月型駆逐艦]]6番艦[[若月 (駆逐艦)|若月]]の艤装員長を命じられ、転任(5月31日より若月の初代艦長となる。若月の沈没時に戦死した。)<ref name="jirei1106">{{アジア歴史資料センター|C13072090800|昭和18年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1106号 p.45}}</ref>。満潮は艦長不在となった。 |
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12月22日、外南洋部隊は朝潮に満潮の曳航、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]に護衛を命じ、満潮はようやくショートランドからトラック泊地に移動した<ref name="S1712増援(3)39">[[#S1712増援部隊詳報(3)]]p.39『外南洋部隊指揮官|二十二日一二三〇8dg司令天霧駆艦長〔GF 11AF 4F各司令長官 總長 外南洋部隊各司令官 満潮駆艦長 明石艦長 軍務局長〕|外南洋部隊信電令作第一七九號 一.8dg司令ハ朝潮ヲ以テ満潮ヲ曳航二十四日以後成ルベク速ニショートランド發トラツクニ回航ノ上朝潮及満潮ノ修理ニ任ズベシ(略)』</ref>。満潮は工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]で応急修理を行った。<!--第8駆逐隊は12月29日に復帰した大潮が[[1943年]](昭和18年)2月21日、朝潮と荒潮が3月3日、それぞれ沈没した。-->3月6日に満潮は駆逐艦[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]の曳航と[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]の護衛でトラックを出港し、サイパンを経由して16日に館山に到着<ref>[[#S1801二水戦日誌(4)]]p.21『GF司令長官(宛略)GF電令作第四九五號 AdB KdB各指揮官ハ長波浜風ヲシテ内地(所属軍港)ニ回航修理ヲ實施セシムベシ回航ノ際浜風ハ満潮ヲ横須賀ニ曳航舞風之ヲ護衛長波ハ南海丸ヲ内地西部迄護衛ノコトニ取計フベシ』</ref><ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]299頁</ref>。その後、横須賀や横浜船渠に入渠した<ref>[[#S1806二水戦日誌(5)]]p.17『(四)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。4月1日、第8駆逐隊は解隊された<ref>[[#内令昭和18年4月(1)]]p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|(略)第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』</ref>。満潮は横須賀鎮守府の警備駆逐艦となり<ref name="S18内令581">[[#内令昭和18年4月(1)]]pp.27-28『内令第五百八十一號 横須賀鎭守府豫備驅逐艦 驅逐艦 満潮 右警備驅逐艦ト定メラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>、同日付で朝潮型駆逐艦の公文書上の表記は満潮型駆逐艦に改訂された<ref>[[#内令昭和18年4月(1)]]p.20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|(略)「朝潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ (略)』</ref>。 |
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=== 第二十四駆逐隊 === |
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10月15日、横須賀防備隊参謀[[原田昇]]中佐は満潮駆逐艦長に任命された<ref name="jirei1240">{{アジア歴史資料センター|C13072093800|昭和18年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1240号 p.25}}</ref>。 |
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10月31日附で満潮型駆逐艦満潮は[[第二水雷戦隊]](二水戦司令官[[高間完]]少将:旗艦[[能代 (軽巡洋艦)|能代]])・第24駆逐隊(駆逐隊司令[[久保田智 (海軍軍人)|久保田智]]大佐)に編入<ref>[[#S1806二水戦日誌(4)]]p.8『満潮 三十一日附 二水戦二四驅ニ編入』</ref>。[[白露型駆逐艦]]2隻([[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]])の僚艦となった<ref>[[#内令昭和18年10月(5)]]p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一駆逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』</ref>。 |
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第24駆逐隊は1942年(昭和17年)6月下旬に[[山風 (白露型駆逐艦)|山風]]を喪失してから3隻(海風、涼風、江風)で活動していたが、1943年(昭和18年)8月6日の[[ベラ湾夜戦]]で[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]を喪失、10月15日附で除籍された事により2隻編制(海風、涼風)に減少していた<ref>[[#内令昭和18年10月(4)]]p.8『内令第二千百五十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一驅逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四驅逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七驅逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十驅逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一驅逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル』</ref>。 |
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第24駆逐隊に加わった満潮は11月14日に修理を完了し、同月下旬に瀬戸内海へ移動した<ref>[[#S1806二水戦日誌(5)]]p.9『(2)24驅(海風涼風) 伊勢山城龍田隼鷹利根ヲ護衛「トラツク」ヨリ呉ニ回航後六日佐世保着 修理整備ニ従事中/満潮 横濱ニ在リテ修理整備中ノ所十四日完成同日横須賀ニ回航出撃準備實施二十二日横須賀發近海對潜掃蕩ニ従事ノ上二十四日桂島泊地着二十三日呉着二十七日呉發桂島泊地着諸訓練ニ従事中』</ref>。 |
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=== 護衛任務 === |
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12月1日、海風、涼風の修理が完了した<ref name="S1812二水戦(1)11">[[#S1812二水戦日誌(1)]]pp.11-12『(2)24dg(海風涼風)一日工事完成佐世保発徳山経由三日桂島着諸訓練ニ従事/九日鎮海ニ向ケ徳山発十日夕刻鎮海着十一日釜山着/十四日丁船團(日蘭丸良洋丸日美丸但馬丸)ヲ潮ト共ニ護衛釜山発仝日二三三〇頃潮雷後発見爆雷攻撃ヲ爲ス効果不明/十五日佐伯着十六日仝発二十六日「トラック」北水道二十七日「トラック」着/二十八日YBヨリ除カレUNBニ編入セラル南洋第二支隊海上第一旅団ヲ「トラック」ヨリ「マーシャル」方面ノ輸送ノタメ/三十日24dg(海風)潮丁船団第一分団(但馬日美丸)ヲ護衛「ブラウン」ヲ経テ「クェゼリン」ニ向ケ、涼風ch28丁船団第二分団(日蘭良洋丸)ヲ護衛「ポナペ」ニ向ケ夫々「トラック」発』</ref>。 |
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12月3日、第24駆逐隊(海風、涼風、満潮)は桂島泊地に集結<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.24『三日一〇一五(司令)24dg(宛略)24dg機密第〇三一〇一五番電 當隊(海風涼風満潮)三日一〇〇〇桂島錨地着』</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.19『(四)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。だが「満潮」は空母2隻(雲鷹、瑞鳳)護衛のため横須賀に回航され、別行動となった<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.12『満潮内海西部ニ在リテ諸訓練ニ従事中/六日桂島發七日横須賀着/十二日雲鷹瑞鳳ヲ護衛横須賀発十三日二〇三〇頃母島乾埼ノ305°8浬ニテ敵潜ヲ探知攻撃セルモ効果不明/十七日戊三號輸送第二部隊ニ編入セラル「トラック」着(略)』</ref>。 |
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12月12日、満潮は空母2隻([[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、[[雲鷹 (空母)|雲鷹]])を護衛して横須賀を出発<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.67『十二(天候略)満潮〇九四五横須賀発|満潮瑞鳳雲鷹ヲ護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発』</ref>、17日にトラック泊地へ到着した<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.68『十七(天候略)満潮〇八三七「トラツク」着|満潮瑞鳳雲鷹ヲ護衛任務終了「トラツク」着/司令官島風巡視|GF電令作第八六一号ニ依リ戊三号輸送部隊第二部隊ニ編入セラル』</ref>。 |
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21日、満潮は油槽船[[建川丸]]を護衛してトラック泊地を出発したが<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.68『二十一(天候略)満潮〇六〇〇「トラツク」発/2sd(能代)一一五二「トラツク」発/玉波一四〇〇呉着|2sd(能代)照川丸救難作業ノ爲一一五二「トラツク」発一九二三照川丸遭難現場着警戒ニ任ズ照川丸二〇二〇沈没救難隊帰途ニ就ク/満潮筥崎丸護衛ノ爲「トラツク」発 二海護電令作第二三二号ニ依リ照川丸遭難現場ニ急行一五四〇現場着対潜掃蕩実施(略)GF電令作第七七号ニ依リ照川丸救難隊編制セラル 兵力2sd(能代)17dg(浜風)6dg(電響)』</ref>、同日、油槽船の照川丸がトラック近海で米潜水艦[[スケート (潜水艦)|スケート]] (''USS Skate, SS-305'')の雷撃で撃沈された<ref name="戦史叢書海軍中部太平洋(2)531">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]531頁</ref>。満潮、天霧、隠岐、金城丸は救難隊(能代、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]])と合流し、照川丸の乗組員を救助して23日にトラックへ戻った<ref name="戦史叢書海軍中部太平洋(2)531"/><ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.8『(3)下旬 21日GF信令作第七七号ニ依リ照川丸救難隊編成セラレ(司令官)2sd指揮官トナリ浜風電響ヲ率ヒ仝日1100「トラック」発1930現場着、照川丸大火災掃蕩及護衛部隊(満潮隠岐金城丸天霧)ト共ニ警戒中2020沈没掃蕩部隊ヲ残シ翌22日帰着、満潮23日帰着』</ref>。 |
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12月29日、第七戦隊([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]])、駆逐艦2隻([[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、満潮)は戊三号輸送部隊第一部隊としてトラック泊地を出港、31日に[[ニューアイルランド島]]カビエンに到着して物資と兵員を揚陸し、1月1日にトラック泊地へ帰還した<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]527頁</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.10『満潮 戊三號輸送第一部隊トシテ一日「カビエン」ヨリ「トラツク」着任務終了仝日附仝部隊ノ編制ヲ解カル/二日UNBニ編入三日波船団乙梯団護衛ノ爲「トラツク」発六日仝船団ニ合同護衛ノ上七日「トラツク」着UNBノ指揮ヲ解カル/十日大和護衛「トラツク」発十五日徳山着補給ノ上/十六日愛國丸護衛徳山発十七日横須賀着整備ニ従事/二十四日靖國丸船団護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発/三十一日〇四〇〇頃7°20′N147°20′Eニ於テ靖國丸雷撃ヲ受ケ沈没〇八〇〇迄制圧セルモ敵情ヲ得ズ掃蕩ヲ打切リ船団ニ合同「トラツク」ニ向フ』</ref>。 |
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10月31日、満潮は第24駆逐隊([[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]])に編入した<ref>[[#内令昭和18年10月(5)]]p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一駆逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(4)]]p.8『満潮 三十一日附 二水戦二四驅ニ編入』</ref>。11月14日に修理を完了し、同月下旬に瀬戸内海へ移動、訓練に従事した<ref>[[#S1806二水戦日誌(5)]]p.9『(2)24驅(略) /満潮 横濱ニ在リテ修理整備中ノ所十四日完成同日横須賀ニ回航出撃準備實施二十二日横須賀發近海對潜掃蕩ニ従事ノ上二十四日桂島泊地着二十三日呉着二十七日呉發桂島泊地着諸訓練ニ従事中』</ref>。12月3日、修理を終えた第24駆逐隊3隻は桂島に集結<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.19、24『三日一〇一五(司令)24dg(宛略)24dg機密第〇三一〇一五番電 當隊(海風涼風満潮)三日一〇〇〇桂島錨地着』</ref>。このうち満潮は横須賀に回航した後、12日に空母2隻([[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、[[雲鷹 (空母)|雲鷹]])を護衛して横須賀を出発、17日にトラック泊地へ到着した<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.12『満潮内海西部ニ在リテ諸訓練ニ従事中/六日桂島發七日横須賀着/十二日雲鷹瑞鳳ヲ護衛横須賀発十三日二〇三〇頃母島乾埼ノ305°8浬ニテ敵潜ヲ探知攻撃セルモ効果不明/十七日戊三號輸送第二部隊ニ編入セラル「トラック」着(略)』p.67『十二(天候略)満潮〇九四五横須賀発|満潮瑞鳳雲鷹ヲ護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発』p.68『十七(天候略)満潮〇八三七「トラツク」着|満潮瑞鳳雲鷹ヲ護衛任務終了「トラツク」着/司令官島風巡視|GF電令作第八六一号ニ依リ戊三号輸送部隊第二部隊ニ編入セラル』</ref>。 |
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[[1944年]](昭和19年)1月10日、駆逐艦2隻(満潮、[[藤波 (駆逐艦)|藤波]])は[[大和型戦艦]]1番艦[[大和 (戦艦)|大和]]を護衛してトラック泊地を出発<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.77『十(天候略)藤波満潮〇六五〇「トラツク」発|藤波満潮大和ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラツク」発』</ref>、15日に瀬戸内海へ到着した<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.12『藤波 戊二號輸送部隊トシテ待機中二日「トラツク」発/四日「カビエン」着揚搭後即日発/五日「トラツク」着任務終了輸送部隊ノ編制ヲ解カル/十日満潮ト共ニ大和護衛「トラツク」発/十五日呉着入渠整備ニ従事/二十五日修理整備完了』</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.80『十五(天候略)満潮一四四八徳山着/藤波一六三〇呉着|長良長波曳航一四〇〇呉ニ回航ノ爲「トラツク」発/藤波大和ヲ護衛シ呉着満潮ハ徳山着』</ref>。 |
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満潮は徳山沖から横須賀へ移動した<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.18『(四)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。 |
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1月24日、駆逐艦3隻(満潮、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]])は輸送船3隻([[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]]、靖国丸、[[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]])を護衛して横須賀を出発、25日館山を出発、トラック経由でウェークへ向かうが、31日に靖国丸が米潜水艦[[トリガー (SS-237)|トリガー]] (''USS Trigger, SS-237'')の雷撃で喪失した<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]571頁</ref>。2月1日、輸送船団はトラック泊地に到着した<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.82『二十四(天候略)涼風〇五〇〇「トラツク」発/2sd(能代)32dg(早波)一三〇〇横須賀着/満潮一三四五横須賀発|(略)満潮靖国丸船団護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発』</ref>。 |
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この輸送作戦従事中の1月25日に、第24駆逐隊の涼風が米潜水艦[[スキップジャック (潜水艦)|スキップジャック]] (''USS Skipjack, SS-184'') の雷撃で撃沈されている<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]pp.9-10『涼風 丁輸送船団第二分団ヲ護衛一日「ポナペ」着(中略)十八日「トラック」歸着/十九日雲鷹救難ノ爲24dg(海風)浦風ト共ニ出撃セルモ命ニ依リ引返セリ/二十日伊良湖救難ノ爲出港翌二十一日入港/二十四日夕張丸興津丸日豊丸ヲ護衛「トラック」発「ブラウン」ニ向ケ航行中/二十五日二三〇五9°-0′N150°-27′ニ於テ敵潜発見攻撃中雷撃ヲ受ケ沈没』</ref>。 |
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2月1日、同隊の海風がトラック泊地近海で米潜水艦[[ガードフィッシュ (潜水艦)|ガードフィッシュ]](''USS Guardfish, SS-217'')の雷撃で撃沈された<ref>[[#S1812二水戦日誌(4)]]p.4『(1)2sd(能代)横須賀ニテ待機中 一日24dg(海風)「サイパン」ヨリ船団護衛「トラツク」南水道ニ入ラントスル頃雷撃ヲ受ケ沈没島風白露急遽之ガ救難ニ向ヒ三日迄敵潜掃蕩攻撃セルモ効果不明 24dg(満潮)一日船団護衛「トラツク」着六.七.八日不時着機捜索ノ爲出動/九日附24dg(満潮)白露YBヨリ除カレGF主隊ニ編入/十日武蔵護衛(玉波途中迄加入)横須賀ニ向ケ「トラツク」発』</ref>。第24駆逐隊は満潮1隻となり、海風より救助された久保田司令はその日のうちに満潮に移乗した<ref>[[#S1812二水戦日誌(4)]]p.19『二日〇八四五(司令)24dg(宛略)24dg機密第〇二〇八四五番電 二月一日司令駆逐艦ヲ海風ヨリ満潮ニ変更セリ』</ref><ref name="S1812二水戦(4)8">[[#S1812二水戦日誌(4)]]p.8『(2)24dg満潮 船団護衛一日「トラツク」着同日司令駆逐艦ヲ海風ヨリ変更/六日不時着機救難ノ爲「トラツク」発翌七日一〇五五命ニ依リ捜索ヲ止メ八日「トラツク」歸着/九日YB警戒隊ヨリ除カレGF主隊ニ編入セラル/十日玉波白露ト共ニ武藏瑞鳳千代田大淀ヲ護衛「トラツク」発十五日横須賀着/二十日燃料搭載ノ爲横須賀発鶴見着/二十一日補給終了横須賀着/二十四日白露ト共ニ武藏ヲ護衛横須賀発/二十九日「パラオ」着』</ref>。司令駆逐艦を満潮に変更した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070459400|昭和19年3月2日(木)海軍公報(部内限)第4630号 p.11}}『○司令驅逐艦變更 第二十四驅逐隊司令ハ司令驅逐艦ヲ満潮ニ變更セリ』</ref>。 |
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21日、満潮はタンカーを護衛してトラック泊地を出発した<ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.68『二十一(天候略)満潮〇六〇〇「トラツク」発/2sd(能代)一一五二「トラツク」発/玉波一四〇〇呉着|2sd(能代)照川丸救難作業ノ爲一一五二「トラツク」発一九二三照川丸遭難現場着警戒ニ任ズ照川丸二〇二〇沈没救難隊帰途ニ就ク/満潮筥崎丸護衛ノ爲「トラツク」発 二海護電令作第二三二号ニ依リ照川丸遭難現場ニ急行一五四〇現場着対潜掃蕩実施(略)GF電令作第七七号ニ依リ照川丸救難隊編制セラル 兵力2sd(能代)17dg(浜風)6dg(電響)』</ref>。同日、天霧などが護衛するタンカー照川丸が米潜水艦[[スケート (潜水艦)|スケート]]の雷撃で撃沈された。満潮は現場に急行して天霧、海防艦[[隠岐 (海防艦)|隠岐]]、金城丸と合流し、救難隊の軽巡[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]、駆逐艦[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、浜風と合同で救助し、23日にトラックへ戻った<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]531頁</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(1)]]p.8『(3)下旬 21日GF信令作第七七号ニ依リ照川丸救難隊編成セラレ(司令官)2sd指揮官トナリ浜風電響ヲ率ヒ仝日1100「トラック」発1930現場着、照川丸大火災掃蕩及護衛部隊(満潮隠岐金城丸天霧)ト共ニ警戒中2020沈没掃蕩部隊ヲ残シ翌22日帰着、満潮23日帰着』</ref>。 |
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2月10日附で久保田智大佐は[[横須賀鎮守府]]附となり<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072095700|昭和19年2月10日(発令2月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1320号}}pp.43-44で閲覧可能。</ref>、第24駆逐隊司令職を離れた(3月18日附で軽巡洋艦[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]艦長)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096800|昭和19年3月20日(発令3月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1380号}}p.7-8で閲覧可能。</ref>。 |
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同日、駆逐艦4隻(満潮、白露、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[玉波 (駆逐艦)|玉波]])は、大和型戦艦2番艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]、軽巡[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]、空母2隻([[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、[[千代田 (空母)|千代田]])を護衛してトラック泊地を出港、15日に横須賀へ到着した<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]616頁</ref><ref>[[#武藏上]]264頁</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(4)]]p.5『輸送護衛 24dg(満潮)白露(武藏瑞鳳千代田大淀)玉波(瑞鳳千代田)(以下略)』</ref>。2月24日、駆逐艦2隻(白露、満潮)は武蔵を護衛して横須賀を出発した<ref>[[#武藏上]]268頁(藤波は輸送船団護衛)</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(4)]]p.7『輸送護衛 24dg(満潮)白露(武藏) 32dg(早波)(秋津洲)藤波春雨(明石船団)…』</ref>。29日パラオに到着した<ref name="S1812二水戦(4)8"/><ref>[[#S1812二水戦日誌(4)]]p.40『二九日一八〇一(長官)GF(宛略)武藏満潮白露「パラオ」着』</ref>。 |
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3月29日、第四戦隊や第五戦隊の重巡5隻(愛宕、高雄、鳥海、妙高、羽黒)や第17駆逐隊([[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]])等と行動を共にしていた武蔵が<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.19『(宛略)YB機密第〇二一二二五番電 YB〔4S(摩耶欠)5S 2sd 27dg(春雨白露)24dg(満潮)藤波武藏17dg〕ヲ率ヰ「パラオ」発途上武藏満潮藤波白露ヲ呉ニ向ケ分離(三日午前着ノ予定)爾余「ダバオ」着』</ref>、米潜水艦[[タニー (潜水艦)|タニー]] (''USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282'')の雷撃で小破している<ref>[[#武藏上]]312頁</ref>。連合艦隊司令部は武蔵の護衛を第17駆逐隊から駆逐艦3隻(満潮、白露、藤波)に入れ替え、同3隻は武蔵を護衛して内地へ回航、4月3日に呉へ帰投した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.5『(3)満潮 藤波白露ト共ニ武藏護衛「パラオ」ヨリ回航中ノ所三日呉着七日山雲野分ニ合同爾後ノ経過山雲ト同断』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.21『三1300武藏(宛略)武藏満潮藤波白露呉着』</ref>。 |
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12月29日、重巡洋艦[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]とトラック泊地を出港、31日に[[ニューアイルランド島]]カビエンに到着して物資と兵員を揚陸し[[1944年]](昭和19年)、1月1日に帰還した<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]527頁</ref>。輸送任務を解かれ、10日に駆逐艦[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]と共に戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]を護衛してトラック泊地を出発、15日に瀬戸内海へ到着した<ref name="S1812二水戦(3)10">[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.10『満潮 戊三號輸送第一部隊トシテ一日「カビエン」ヨリ「トラツク」着任務終了仝日附仝部隊ノ編制ヲ解カル/二日UNBニ編入三日波船団乙梯団護衛ノ爲「トラツク」発六日仝船団ニ合同護衛ノ上七日「トラツク」着UNBノ指揮ヲ解カル/十日大和護衛「トラツク」発十五日徳山着補給ノ上/十六日愛國丸護衛徳山発十七日横須賀着整備ニ従事/二十四日靖國丸船団護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発/三十一日〇四〇〇頃7°20′N147°20′Eニ於テ靖國丸雷撃ヲ受ケ沈没〇八〇〇迄制圧セルモ敵情ヲ得ズ掃蕩ヲ打切リ船団ニ合同「トラツク」ニ向フ』</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.77『十(天候略)藤波満潮〇六五〇「トラツク」発|藤波満潮大和ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラツク」発』p.80『十五(天候略)満潮一四四八徳山着/藤波一六三〇呉着|長良長波曳航一四〇〇呉ニ回航ノ爲「トラツク」発/藤波大和ヲ護衛シ呉着満潮ハ徳山着』</ref>。その後、満潮は横須賀へ移動した<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.18『(四)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。24日、満潮は駆逐艦[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]と共に輸送船(特設巡洋艦)3隻([[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]]、[[靖国丸]]、[[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]])を護衛して横須賀を出発<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.82『二十四(天候略)涼風〇五〇〇「トラツク」発/2sd(能代)32dg(早波)一三〇〇横須賀着/満潮一三四五横須賀発|(略)満潮靖国丸船団護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発』</ref>、トラック経由でウェーク島へ向かうが、31日に靖国丸が米潜水艦[[トリガー (SS-237)|トリガー]]の雷撃で沈没した<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]571頁</ref>。2月1日、トラック泊地に到着した<ref name="S1812二水戦(3)10" /><ref>[[#S1812二水戦日誌(4)]]p.4『24dg(満潮)一日船団護衛「トラツク」着六.七.八日不時着機捜索ノ爲出動/九日附24dg(満潮)白露YBヨリ除カレGF主隊ニ編入/十日武蔵護衛(玉波途中迄加入)横須賀ニ向ケ「トラツク」発』</ref>。涼風は1月25日、海風は2月1日、米潜水艦の雷撃で沈没した。 |
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=== 第四駆逐隊 === |
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武蔵護衛中の3月31日、第24駆逐隊の解隊にともない満潮は第十戦隊(司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将:旗艦[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]])・第4駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]]p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十六駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十七駆逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八駆逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二駆逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四駆逐隊ノ項ヲ削ル』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(4)]]pp.9-10『(マ)三十一日1KdF電令作第二號ニ依リ丙作戰第六法用意乙軍隊区分発動下令當隊第二YBニ編入YB指揮官ノ指揮下ニ入ラシメラル同日附16dg解隊雪風17dg満潮4dg天津風1KF附属ニ夫々編入セラル』</ref>。第4駆逐隊は2月17日の[[トラック島空襲]]で駆逐艦[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]が喪失、舞風に座乗の[[磯久研磨]]司令が戦死、満潮型[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]及び[[陽炎型駆逐艦|不知火型(陽炎型)駆逐艦]][[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]の2隻となっており、満潮の編入で3隻編制(満潮、野分、山雲)となった。また後任の第4駆逐隊司令[[高橋亀四郎]]大佐<ref group="注釈">高橋は、第6駆逐隊司令、駆逐艦[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]初代艦長、駆逐艦[[初風 (駆逐艦)|初風]]初代艦長等を歴任。</ref>は、3月25日に任命されたばかりである<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096900|昭和19年3月25日(発令3月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1388号 p.2}}</ref>。 |
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2月10日、満潮、白露、初春、若葉、駆逐艦[[玉波 (駆逐艦)|玉波]]は戦艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]、軽巡[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]、空母[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、空母[[千代田 (空母)|千代田]]を護衛してトラック泊地を出港。15日に横須賀に到着し、千代田、瑞鳳、初春、若葉、玉波は呉に向かった<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]616頁</ref>。24日、白露と武蔵を護衛して横須賀を出発、2月29日にパラオに到着した<ref>[[#武藏上]]268頁</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(4)]] p.8『(2)24dg満潮 船団護衛一日「トラツク」着同日司令駆逐艦ヲ海風ヨリ変更/六日不時着機救難ノ爲「トラツク」発翌七日一〇五五命ニ依リ捜索ヲ止メ八日「トラツク」歸着/九日YB警戒隊ヨリ除カレGF主隊ニ編入セラル/十日玉波白露ト共ニ武藏瑞鳳千代田大淀ヲ護衛「トラツク」発十五日横須賀着/二十日燃料搭載ノ爲横須賀発鶴見着/二十一日補給終了横須賀着/二十四日白露ト共ニ武藏ヲ護衛横須賀発/二十九日「パラオ」着』ほかp.5,7,40</ref>。3月31日、第4駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和19年3月(5)]]p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十六駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十七駆逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八駆逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二駆逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四駆逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。この頃、潜水艦の攻撃で小破した武蔵を白露、藤波と共に護衛し、4月3日に呉へ帰投した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.5『(3)満潮 藤波白露ト共ニ武藏護衛「パラオ」ヨリ回航中ノ所三日呉着七日山雲野分ニ合同爾後ノ経過山雲ト同断』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.21『三1300武藏(宛略)武藏満潮藤波白露呉着』</ref>。 |
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4月7日、満潮は僚艦2隻(山雲、野分)と合同し、第4駆逐隊は内地で整備や訓練に従事した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.6『(ロ)(1)山雲 雪風ト共ニ瑞鳳龍鳳護衛横須賀ヨリ大宮島ニ向ケ航行中ノ所一日仝地着三日仝地発七日呉皈投護衛任務終了爾後整備補給ニ従事二十一日重油搭載ノ爲徳山ニ回航仝日大和摩耶ヲ護衛平群島ニ回航二十三日仝地着爾後内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事二十七日呉皈投月末迄整備補給ニ従事ス』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.12『(三)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。 |
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4月10日、司令駆逐艦を山雲から満潮に変更<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462100|昭和19年4月20日(木)海軍公報(部内限)第4670号 p.13}}『○司令驅逐艦變更 第四驅逐隊司令ハ四月十日司令驅逐艦ヲ山雲ヨリ満潮ニ變更セリ|第六驅逐隊司令ハ十二月二十日司令驅逐艦ヲ電ニ變更セリ』</ref>。 |
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[[第二航空戦隊]](司令官[[城島高次]]少将)の訓練にも協力した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.39『(宛略)1KdF機密第一六〇九五六番電 1KdF電令作第七號 一.第四駆逐隊内海西部ニ於テ訓練中第二航空戰隊司令官ハ訓練ニ関シ同隊ヲ指揮スベシ/二.第二航空戰隊司令官ハ第二航空戰隊ノ協議ニ應ジ第四駆逐隊ヲシテ同隊ノ訓練ニ協力セシムベシ』</ref>。 |
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=== 南西方面の戦い === |
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5月2日、満潮駆逐艦長は原田中佐から[[平田正明]]少佐に交代となった<ref name="jirei1459">{{アジア歴史資料センター|C13072098000|昭和19年5月3日(発令5月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1459号 p.39}}</ref>。 |
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4月7日、満潮は第4駆逐隊僚艦の[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]と合流し、内海で整備や訓練に従事した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.6『(ロ)(1)山雲 雪風ト共ニ瑞鳳龍鳳護衛横須賀ヨリ大宮島ニ向ケ航行中ノ所一日仝地着三日仝地発七日呉皈投護衛任務終了爾後整備補給ニ従事二十一日重油搭載ノ爲徳山ニ回航仝日大和摩耶ヲ護衛平群島ニ回航二十三日仝地着爾後内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事二十七日呉皈投月末迄整備補給ニ従事ス』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.12『(三)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。5月11日、第4駆逐隊と[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]、玉波、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]は武蔵と空母6隻([[第二航空戦隊]]〈[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]、[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]〉、[[第三航空戦隊]]〈[[千歳 (空母)|千歳]]、千代田、瑞鳳〉)を護衛して佐伯湾を出撃し、[[タウィタウィ州|タウイタウイ]]に向かった。16日に到着し、第4駆逐隊はタウイタウイ泊地の警戒や機動部隊の訓練に従事した<ref>[[#S1812十一水戦日誌(4)]]p.57『四日一五〇一(長官)1KdF(宛略)機密第〇四一五〇一番電 発第一機動艦隊長官 第一機動艦隊電令作第一四號第三項ニ依ル駆逐艦ヲ第四駆逐隊時雨玉波早霜秋霜ト定ム』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.4-5『(ロ)第四駆逐隊(満潮野分山雲)一日呉発二日平群島着2sf発着艦訓練警戒感ノ任務ニ従事四日別府沖ニ回航六日徳山ニ回航燃料補給ノ上七日佐伯ニ回航出撃準備完成十一日2sf3sf武藏ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ニ向ケ同地発十二日中城湾ニ仮泊燃料補給ノ上即日同地発十六日「タウイタウイ」着尚入港直前港外ニ於テ哨戒機発見ノ敵潜ヲ攻撃セルモ効果不明爾後月末迄同方面ニ於テ訓練警戒待機ニ任ズ/尚此ノ間十八日満潮野分山雲1sf発着艦警戒艦十九日満潮敵潜掃蕩二十二日山雲敵潜掃蕩二十三日野分第一哨艦三十一日満潮野分山雲2sf発着艦警戒艦等ノ任務ニ従事セリ』p.17</ref>。 |
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5月10日、平田少佐は佐世保鎮守府附となって艦長職務を解かれ、高橋亀四郎大佐(第4駆逐隊司令)が4駆司令と満潮駆逐艦長を兼務した<ref name="jirei1468">{{アジア歴史資料センター|C13072098100|昭和19年5月11日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1468号 p.39}}</ref>。 |
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5月11日、駆逐艦8隻('''満潮'''、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]、[[玉波 (駆逐艦)|玉波]])は戦艦武蔵と空母6隻([[第二航空戦隊]]《[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]、[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]》、[[第三航空戦隊]]《[[千歳 (空母)|千歳]]、[[千代田 (空母)|千代田]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]》)を護衛して内地([[佐伯港|佐伯湾]])を出撃し、[[タウィタウィ州|タウイタウイ]]に向かう<ref name="S1812十戦隊(6)4">[[#S1812十戦隊日誌(6)]]pp.4-5『(ロ)第四駆逐隊(満潮野分山雲)一日呉発二日平群島着2sf発着艦訓練警戒感ノ任務ニ従事四日別府沖ニ回航六日徳山ニ回航燃料補給ノ上七日佐伯ニ回航出撃準備完成十一日2sf3sf武藏ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ニ向ケ同地発十二日中城湾ニ仮泊燃料補給ノ上即日同地発十六日「タウイタウイ」着尚入港直前港外ニ於テ哨戒機発見ノ敵潜ヲ攻撃セルモ効果不明爾後月末迄同方面ニ於テ訓練警戒待機ニ任ズ/尚此ノ間十八日満潮野分山雲1sf発着艦警戒艦十九日満潮敵潜掃蕩二十二日山雲敵潜掃蕩二十三日野分第一哨艦三十一日満潮野分山雲2sf発着艦警戒艦等ノ任務ニ従事セリ』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.17『三〇 〇九二三(長官)1KdF(宛略)1KdF機密第三〇〇九三三番電 2sf3sf武藏進出時ノ警戒艦ハ4dg時雨玉波早霜秋霜霜月計八隻ヲ充當セシメラルゝ予定』</ref><ref>[[#S1812十一水戦日誌(4)]]p.57『四日一五〇一(長官)1KdF(宛略)機密第〇四一五〇一番電 発第一機動艦隊長官 第一機動艦隊電令作第一四號第三項ニ依ル駆逐艦ヲ第四駆逐隊時雨玉波早霜秋霜ト定ム』</ref>。艦隊は16日に到着<ref name="S1812十戦隊(6)4"/>。以後、第4駆逐隊はタウイタウイ泊地の警戒や、空母機動部隊の訓練に従事した<ref name="S1812十戦隊(6)4"/>。 |
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{{main|マリアナ沖海戦}} |
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6月1日、[[田中知生]]少佐(4月15日まで吹雪型駆逐艦[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]艦長)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072097300|昭和19年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1422号 p.20}}</ref>が満潮駆逐艦長に任命され、高橋大佐は兼務を解かれた(ひきつづき第4駆逐隊司令)<ref name="jirei1558">{{アジア歴史資料センター|C13072100500|昭和19年8月9日(発令6月1日付)海軍辞令公報(甲)第1558号 p.1}}</ref>。第4駆逐隊司令駆逐艦は6月12日から23日まで野分に変更された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070479800|昭和19年7月20日(木)海軍公報(部内限)第4744号 p.36}}『○司令驅逐艦變更 第四驅逐隊司令ハ左ノ通司令驅逐艦ヲ變更セリ 六月十二日満潮ヨリ野分ニ/六月二十三日野分ヨリ満潮ヘ』</ref>。 |
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6月下旬の[[マリアナ沖海戦]]において、満潮は[[第二航空戦隊]](隼鷹、飛鷹、龍鳳)の護衛として、戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]、駆逐艦部隊(時雨、五月雨、浜風、秋霜、早霜)等と乙部隊を編制していた<ref>[[#あ号作戦日誌(2)]]pp.19-20『(ロ)第四駆逐隊(1)満潮 (2)野分山雲』</ref>。20日の空襲で空母飛鷹が沈没すると、満潮は浜風<ref>[[#S1906十戦隊日誌]]p.10『(浜風)尚敵機ノ攻撃ニ依ル飛鷹沈没ニ際シテハ之ガ救助ニ任ジタリ』</ref>、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]等と乗組員を救助する<ref>[[#S1906第27駆日誌(1)]]p.11『1926 飛鷹大爆発 沈没 駆逐艦浜波秋霜早霜満潮飛鷹乗員救助ス』</ref>。飛鷹艦長・副長とも満潮に収容された<ref>[[#空母飛鷹海戦記]]213-214頁</ref>。満潮は他の駆逐艦が引き揚げたあとも単艦で飛鷹生存者を捜索し、日没後は探照灯まで使用して捜索を続けた<ref>[[#空母飛鷹海戦記]]219頁</ref>。なお浜風側の記録によれば、浜風も最後まで満潮と共に救援に従事しており、21日には満潮が浜風に洋上燃料補給を実施したという<ref>[[#武藏上]]499-500頁</ref>。 |
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6月1日、田中知生少佐が艦長に任命された<ref name="jirei1558">{{アジア歴史資料センター|C13072100500|昭和19年8月9日(発令6月1日付)海軍辞令公報(甲)第1558号 p.1}}</ref>。第4駆逐隊は機動部隊の護衛として[[マリアナ沖海戦]]に参加した(編制は同海戦参照)。6月20日に飛鷹が沈没し、満潮は浜風、秋霜、早霜等と乗組員の救助にあたった<ref>[[#S1906十戦隊日誌]]p.10『(浜風)尚敵機ノ攻撃ニ依ル飛鷹沈没ニ際シテハ之ガ救助ニ任ジタリ』</ref><ref>[[#S1906第27駆日誌(1)]]p.11『1926 飛鷹大爆発 沈没 駆逐艦浜波秋霜早霜満潮飛鷹乗員救助ス』</ref>。飛鷹艦長・副長とも満潮に収容された<ref>[[#空母飛鷹海戦記]]213-214頁</ref>。満潮は他の駆逐艦が引き揚げた後も単艦で捜索し、日没後は探照灯も使った<ref>[[#空母飛鷹海戦記]]219頁</ref>(浜風が同行の記録もあり<ref>[[#武藏上]]499-500頁</ref>)。海戦後、燃料が不足した浜風、時雨、秋霜、早霜、満潮は先に[[沖縄]]へ向かい<ref>[[#S1906第27駆日誌(1)]]p.12『21日 中城湾ニ向フ(浜風秋霜早霜満潮同航)』</ref>、23日に[[中城湾]]で僚艦の野分、山雲と合流した<ref>[[#S1906十戦隊日誌]]p.6『(2)野分山雲(略)22日中城湾着23日満潮ト合同司令駆逐艦ヲ同艦ニ復帰ス』</ref>。満潮は飛鷹の生存者を隼鷹に引き渡した<ref>[[#空母飛鷹海戦記]]224頁</ref>。 |
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フィリピンへ移動後の7月上旬、第4駆逐隊(満潮、山雲、野分)は[[ダバオ]]([[ミンダナオ島]])に取り残されていた[[扶桑型戦艦]]1番艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]の内地帰投を護衛することになる<ref>[[#S1812第4駆日誌(7)]]p.3『7月1日0445「ダバオ」発扶桑ヲ護衛シ「タラカン」ニ向フ』、p.11『5日1320将旗1KdB/(略)二.扶桑ハ呉ニ回航機銃増備其ノ他整備工事ノ上四駆扶桑艦長ノ指揮ヲ受ケ護衛ニ任ジタル後横須賀ニ回航速ニ修理整備ノ上出撃準備ヲ完成スベシ、爾後ノ行動ハ追テ令ス』</ref>。 |
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扶桑護衛中の7月10日、第10駆逐隊の解隊にともない姉妹艦[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]が第4駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和19年7月]]p.13『内令第八三八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日 海軍大臣|第四驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.4『(略)尚十日附第十駆逐隊解隊風雲ハ駆逐艦籍ヨリ除カレ朝雲ハ第四駆逐隊ニ編入十五日附冬月霜月ヲ以テ第四十一駆逐隊ヲ編成當隊ニ編入セラレタリ』</ref>。これにより第4駆逐隊は不知火型1隻(野分)、満潮型3隻(満潮、山雲、朝雲)の計4隻となった。 |
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7月14日、第4駆逐隊(満潮、山雲、野分)は[[高知県]]の西部[[宿毛湾]]で扶桑と分離、翌日[[横須賀]]に帰投した<ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.5『(ロ)第四駆逐隊(1)満潮 一日扶桑警戒艦トシテ補給ノ爲「タラカン」ニ向ケ「ダバオ」発二日「タラカン」着補給待機八日扶桑ノ警戒ニ任ジツゝ内地ニ向ケ同地発十四日宿毛着補給ノ上扶桑ト分離十五日横須賀着十七入渠二十二日出渠月末迄整備ニ任ズ、尚二十九日司令駆逐艦ヲ山雲ニ変更セリ/(2)野分山雲 山雲入渠セザリシ外両艦共二十七日迄経過概ネ満潮ト同断二十八日横鎮乙直接護衛部隊ニ編入三十日初月秋月ト共ニ瑞鳳警戒感トシテ父島方面ニ向ケ横須賀発輸送ノ護衛ニ任ズ』</ref>。7月末、山雲、野分は空母瑞鳳等と輸送任務に従事したが、満潮は横須賀で待機した<ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.12『(五)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。 |
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7月上旬、山雲、野分と共には[[ダバオ]]の戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]の内地回航を護衛した<ref>[[#S1812第4駆日誌(7)]]p.3『7月1日0445「ダバオ」発扶桑ヲ護衛シ「タラカン」ニ向フ』、p.11『5日1320将旗1KdB/(略)二.扶桑ハ呉ニ回航機銃増備其ノ他整備工事ノ上四駆扶桑艦長ノ指揮ヲ受ケ護衛ニ任ジタル後横須賀ニ回航速ニ修理整備ノ上出撃準備ヲ完成スベシ、爾後ノ行動ハ追テ令ス』</ref>。10日、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]が編制上、第4駆逐隊に編入された<ref>[[#内令昭和19年7月]]p.13『内令第八三八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日 海軍大臣|第四驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.4『(略)尚十日附第十駆逐隊解隊風雲ハ駆逐艦籍ヨリ除カレ朝雲ハ第四駆逐隊ニ編入十五日附冬月霜月ヲ以テ第四十一駆逐隊ヲ編成當隊ニ編入セラレタリ』</ref>。14日、満潮、山雲、野分は[[宿毛湾]]で扶桑と分かれ、15日に[[横須賀]]に帰投。満潮は修理と整備に当たった<ref>[[#S1907十戦隊日誌(1)]]p.5『(ロ)第四駆逐隊(1)満潮 一日扶桑警戒艦トシテ補給ノ爲「タラカン」ニ向ケ「ダバオ」発二日「タラカン」着補給待機八日扶桑ノ警戒ニ任ジツゝ内地ニ向ケ同地発十四日宿毛着補給ノ上扶桑ト分離十五日横須賀着十七入渠二十二日出渠月末迄整備ニ任ズ、尚二十九日司令駆逐艦ヲ山雲ニ変更セリ』</ref>。 |
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8月6日、第4駆逐隊(満潮、野分、山雲)は油槽船の[[帝洋丸 (タンカー)|帝洋丸]]を護衛して横須賀から内海西部へ移動、[[伊万里湾]]で帝洋丸と分離(同船は[[ヒ71船団]]に参加)<ref name="S1907十戦隊(2)4">[[#S1907十戦隊日誌(2)]]pp.4-5『(二)第四駆逐隊(1)満潮野分山雲 野分山雲乙直接護衛部隊ニ編入中ノ所二日横須賀着同日附同部隊ヨリ除カレ機動部隊本隊ニ復皈ス尚同日附司令駆逐艦ヲ満潮ニ変更セリ 満潮野分山雲六日帝洋丸護衛横須賀發下関海峡ヲ経テ十日伊万里湾着帝洋丸ト分離同日佐世保ニ回航榛名ト合同ス十五日榛名ノ警戒艦トシテ佐世保発二十一日昭南着電探改装工事施行ノ上満潮山雲二十五日野分二十七日夫々昭南発「リンガ」ニ回航爾後同方面ニアリテ訓練警戒待機ニ従事ス三十一日訓練ノ爲出動セリ尚十日附機動部隊本隊ヲ除カレ第一遊撃部隊ニ編入セラレタリ/(2)朝雲 哨艦竝ニ曳的艦任務ニ従事セザリシ外経過概ネ若月ト同断』</ref>、佐世保へ回航後、[[金剛型戦艦]][[榛名 (戦艦)|榛名]]と合同する<ref name="S1907十戦隊(2)4"/>。 |
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8月15日、4隻(榛名、満潮、野分、山雲)は佐世保を出港し<ref>[[#S1907十戦隊日誌(2)]]p.23『(宛略)榛名機密第一五一〇〇〇番電 榛名第四駆逐隊(朝雲缺)昭南ニ向ケ佐世保發一〇〇〇』</ref>。21日[[シンガポール]]到着<ref>[[#S1907十戦隊日誌(2)]]p.29『(宛略)榛名機密第二一一四〇〇番電 榛名第四駆逐隊(朝雲缺)昭南着一四〇〇』</ref>、第4駆逐隊各艦は[[レーダー]]改装工事をおこなったのち[[リンガ泊地]]へ移動<ref name="S1907十戦隊(2)4"/>、ようやく朝雲と合流した<ref>[[#S1907十戦隊日誌(2)]]p.9『(四)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。9月、旗艦矢矧と共にリンガ泊地で待機した<ref>[[#S1907十戦隊日誌(3)]]p.3『(イ)矢矧 本月中「リンガ」方面ニアリテ五日六日七日二十四日二十六日二十七日三十日夫々訓練ノ爲「リンガ」泊地内海ニ出動セル外碇泊諸訓練ニ従事スル傍ラ泊地ノ警戒竝ニ従事セリ尚十日捷一號作戰警戒發令セラルルヤ直ニ燃料満載出撃準備ヲ完成セルモ十一日同警戒解除セラレタリ』</ref><ref>[[#S1907十戦隊日誌(3)]]p.4『(二)第四駆逐隊(1)満潮野分朝雲 経過概ネ矢矧ト同断 (2)山雲 十九日昭南ニ回航入渠整備ニ従事二十六日「リンガ」ニ皈投セル外経過概ネ矢矧ト同断』</ref>。 |
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10月2日、第17駆逐隊(磯風、浦風、浜風、雪風)に護衛された第二戦隊(司令官[[西村祥治]]少将)の[[扶桑型戦艦]]2隻(山城、扶桑)がリンガ泊地に進出した<ref>[[#S1907十戦隊日誌(3)]]pp.4-5『(ホ)第十七駆逐隊(1)磯風浦風 十一日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断十二日浜風若月ト共ニ「リンガ」發「リンガ」進出豫定ノ第二戰隊警戒ノ爲呉ニ回航十九日同地着若月ト分離雪風ト合同修理工事施行ノ上二十二日第二戰隊警戒艦竝ニ輸送任務ヲ兼ネ同地発「ブルネイ」ヲ経テ「リンガ」進出ノ途上ニアリ(十月二日「リンガ」着)/(2)浜風 八日第一遊撃部隊交通艦ノ任務ヲ帯ビテ昭南ニ回航翌九日「リンガ」ニ皈投セル外経過概ネ磯風ト同断/(3)雪風 内海西部方面ニアリテ訓練警戒待機ニ従事中ノ所十九日磯風浦風浜風ト合同爾後ノ経過概ネ磯風ト同断』</ref><ref>[[#S1910十戦隊日誌]]p.15『(宛略)2S機密第〇二一四〇〇番電 第二戰隊第十七駆逐隊昭南島着』</ref>。 |
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8月6日、満潮、野分、山雲はタンカー[[帝洋丸 (タンカー)|帝洋丸]]を護衛して横須賀を出港、[[伊万里湾]]で帝洋丸と分かれた。佐世保へ向かい、戦艦[[榛名 (戦艦)|榛名]]と合流した。15日、4隻は佐世保を出港し、21日にシンガポールに到着した。第4駆逐隊の3隻は[[レーダー]]改装工事をおこなったのち[[リンガ泊地]]へ移動、朝雲と合流した<ref name="S1907十戦隊(2)4">[[#S1907十戦隊日誌(2)]]pp.4-5『(二)第四駆逐隊(1)満潮野分山雲 野分山雲乙直接護衛部隊ニ編入中ノ所二日横須賀着同日附同部隊ヨリ除カレ機動部隊本隊ニ復皈ス尚同日附司令駆逐艦ヲ満潮ニ変更セリ 満潮野分山雲六日帝洋丸護衛横須賀發下関海峡ヲ経テ十日伊万里湾着帝洋丸ト分離同日佐世保ニ回航榛名ト合同ス十五日榛名ノ警戒艦トシテ佐世保発二十一日昭南着電探改装工事施行ノ上満潮山雲二十五日野分二十七日夫々昭南発「リンガ」ニ回航爾後同方面ニアリテ訓練警戒待機ニ従事ス三十一日訓練ノ爲出動セリ尚十日附機動部隊本隊ヲ除カレ第一遊撃部隊ニ編入セラレタリ/(2)朝雲 哨艦竝ニ曳的艦任務ニ従事セザリシ外経過概ネ若月ト同断』</ref>。以降、[[捷号作戦|捷一号作戦]]の発動まで泊地周辺で訓練と待機が続いた<ref>[[#S1907十戦隊日誌(3)]]p.3-4『(イ)矢矧(略)』『(二)第四駆逐隊(1)満潮野分朝雲 経過概ネ矢矧ト同断』</ref>。 |
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10月上旬、第4駆逐隊(満潮、野分、朝雲、山雲)は矢矧以下第十戦隊各艦と共にリンガ泊地で待機した<ref>[[#S1910十戦隊日誌]]pp.4-5『(イ)矢矧 「リンガ」」ニ於テ訓練警戒待機中ノ所五日昭南ニ回航整備補給ニ任ジタル後八日「リンガ」皈着セリ尚一日四日九日十日十三日訓練ノ爲夫々港外ニ出動ス比島方面敵情ニ基キ十六日第一戰備完成十七日第二部隊ニ編入十八日「リンガ」出撃二十日「ブルネイ」着急速補給ノ上二十二日「ブルネイ」出撃「レイテ」湾突入ヲ目途トシテ進撃中(以下略)』</ref><ref name="S1910十戦隊満潮">[[#S1910十戦隊日誌]]pp.6-7『(ニ)(1)満潮 十六日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断 十七日野分ト共ニ昭南ニ回航雄鳳丸八紘丸ト合同之ヲ護衛シテ十八日昭南発「ブルネイ」ニ回航二十一日同地着急速補給同日朝雲山雲ト共ニ第三部隊ニ編入セラレ翌二十二日「ブルネイ」発「スール」海及「スリガオ」海峡ヲ経テ二十五日「レイテ」湾ニ突入所在敵水上艦艇ト交戰相當ノ戰果ヲ収メタルガ如キモ爾後消息不明トナレリ』</ref><ref name="S1910十戦隊朝雲">[[#S1910十戦隊日誌]]p.7『(3)朝雲山雲 十日「ベルハラ」衛所敵潜水艦ラシキモノ発見ノ報ニ依リ同水道ニ急行之ガ掃蕩ニ任ジタルモ誤認ナリシコト判明掃蕩ヲ止メ十一日錨地ニ皈投セル外十九日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断二十日「ブルネイ」入港ト同時ニ雄鳳丸船團ト合同之ガ護衛ニ任スル爲反転セルモ遂ニ會合スルヲ得ズ二十一日「ブルネイ」ニ歸投ス爾後ノ経過概ネ満潮ト同断』</ref>。 |
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=== 沈没 === |
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10月中旬以降の[[捷号作戦]]に於いて、第4駆逐隊は分散配備された<ref>[[#S1910十戦隊日誌]]p.12『四 麾下艦船部隊ノ行動所在』</ref>。油槽船団護衛のため2隻(満潮、野分)はリンガ在泊の栗田艦隊と分離してシンガポールへ移動、同地から船団を護衛して[[ボルネオ島]]北部[[ブルネイ]]に向かい、21日に到着する<ref name="S1910十戦隊野分">[[#S1910十戦隊日誌]]p.7『(2)野分 十四日第三哨艦トナレル外二十日迄ノ経過概ネ満潮ト同断二十一日第四駆逐隊ノ中野分ノミ第二部隊ニ残留二水戰ヨリ編入ノ清霜ト共ニ三番隊トナル/爾後二十四日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断二十五日「サマル」島東方ニ於ケル敵水上部隊トノ戰闘一段落後損傷艦筑摩ノ警戒ニ赴キタル儘爾後消息不明トナレリ』</ref>。 |
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{{main|レイテ沖海戦}} |
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同日附で、高橋亀四郎司令(満潮座乗)指揮下の3隻(満潮、朝雲、山雲)は第二戦隊司令官[[西村祥治]]少将(山城座乗)率いる第一遊撃部隊第三部隊『'''西村艦隊'''』([[山城 (戦艦)|山城]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]])に編入され、「野分」とは別行動でレイテ湾突入を目指した<ref name="S1910十戦隊満潮"/><ref name="S1910十戦隊朝雲"/>。「野分」のみ第十戦隊(司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将:旗艦矢矧)直属となり、第17駆逐隊([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]])と共に第一遊撃部隊(栗田艦隊)第二部隊(指揮官兼第三戦隊司令官[[鈴木義尾]]中将:戦艦《[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]》、重巡《熊野、鈴谷、筑摩、利根》等)に加わっている<ref>[[#捷号詳報(比島方面決戦)(6)]]p.4『(ハ)第七戦隊(旗艦熊野鈴谷筑摩利根)ハ第一遊撃部隊ノ第二部隊(3S、7S、10S《旗艦矢矧17dg野分》及清霜)ニ属シ第一部隊ト共ニ1YB主力トシテ「シビアン」海経由「サンベルナルヂノ」海峡突破「レイテ」泊地突入ヲ企図ス』</ref>。野分は[[夕雲型駆逐艦]][[清霜 (駆逐艦)|清霜]](第二水雷戦隊より臨時編入)と三番隊を編成した<ref name="S1910十戦隊野分"/>。 |
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10月17日、満潮と野分はシンガポールへ移り、タンカー雄鳳丸と八紘丸を護衛して21日に[[ボルネオ島]]北部[[ブルネイ]]に到着した<ref name="S1910十戦隊満潮"> [[#S1910十戦隊日誌]]pp.6-7『(ニ)(1)満潮 十六日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断 十七日野分ト共ニ昭南ニ回航雄鳳丸八紘丸ト合同之ヲ護衛シテ十八日昭南発「ブルネイ」ニ回航二十一日同地着急速補給同日朝雲山雲ト共ニ第三部隊ニ編入セラレ翌二十二日「ブルネイ」発「スール」海及「スリガオ」海峡ヲ経テ二十五日「レイテ」湾ニ突入所在敵水上艦艇ト交戰相當ノ戰果ヲ収メタルガ如キモ爾後消息不明トナレリ』</ref>。同日附の捷一号作戦の編制で、満潮、朝雲、山雲は第一遊撃部隊の第三部隊(司令官[[西村祥治]]中将)、野分は第二部隊(司令官[[鈴木義尾]]中将)に編入された。22日、西村中将は戦艦[[山城 (戦艦)|山城]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、重巡[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、満潮、朝雲、山雲を率いてブルネイを出撃し、25日未明に[[スリガオ海峡]]に突入した。 |
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魚雷艇の攻撃は撃退したが、続く米駆逐艦隊の魚雷攻撃で満潮、朝雲、山雲は次々に被雷し、戦闘不能になった<ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]p.13『・0220頃 第2番艦タル山雲ハ魚雷ヲ受ケ、航行不能トナル|・0230頃 満潮(左舷機械室命中)次テ朝雲(三番艦)一番砲下ニ命中、當時右前方ニdヲ認ム』</ref>。米軍側の記録によれば、駆逐艦ハッチンズが避退中の朝雲に魚雷5本を発射し、これが満潮に命中して26日午前3時58分に沈没した<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]209頁</ref><ref name="S1910十戦隊満潮" />。高橋駆逐隊司令をふくめ約230名が戦死した。朝雲と山雲も沈没し、西村艦隊は時雨を除いて全滅した。野分も同日中に撃沈され、第4駆逐隊は全滅した<ref>[[#S1910十戦隊日誌]]p.7『(2)野分 十四日第三哨艦トナレル外二十日迄ノ経過概ネ満潮ト同断二十一日第四駆逐隊ノ中野分ノミ第二部隊ニ残留二水戰ヨリ編入ノ清霜ト共ニ三番隊トナル/爾後二十四日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断二十五日「サマル」島東方ニ於ケル敵水上部隊トノ戰闘一段落後損傷艦筑摩ノ警戒ニ赴キタル儘爾後消息不明トナレリ』</ref>。[[1945年]](昭和20年)1月10日、満潮は駆逐艦籍から除籍され、第4駆逐隊も解隊された<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]pp.8-10『内令第二九號|(略)横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月|(略)右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣』</ref><ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|(略)』</ref>。艦名は[[海上自衛隊]]の潜水艦「[[みちしお (潜水艦・初代)|みちしお(初代)]]」と「[[みちしお (潜水艦・2代)|みちしお(2代)]]」に継承された。 |
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10月22日、西村艦隊はブルネイを出撃した<ref name="S1910十戦隊満潮"/>。 |
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10月25日未明、第4駆逐隊(満潮、朝雲、山雲)以下西村艦隊は[[スリガオ海峡]]に突入していった。アメリカ軍魚雷艇の攻撃を撃退したのち、西村艦隊はアメリカ軍駆逐艦隊の魚雷攻撃を受けた。この攻撃で戦艦扶桑が航行不能となった(のちに爆沈)<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]206頁</ref>。第4駆逐隊3隻(満潮、朝雲、山雲)は次々に被雷して戦闘不能となり、まもなく満潮と山雲は沈没した<ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]p.13『・0220頃 第2番艦タル山雲ハ魚雷ヲ受ケ、航行不能トナル|・0230頃 満潮(左舷機械室命中)次テ朝雲(三番艦)一番砲下ニ命中、當時右前方ニdヲ認ム』</ref>。アメリカ軍側の記録によれば、駆逐艦のハッチンズが避退中の朝雲に対して魚雷5本を発射するが命中せず、これが満潮に命中し満潮は0358に轟沈した<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]209頁</ref>。高橋駆逐隊司令をふくめ約230名が戦死した。被雷後の朝雲は低速で離脱を試みたが、米艦隊の追撃を受けて撃沈される<ref>[[#左近允、捷号作戦]]225頁</ref>。旗艦/戦艦山城は砲雷撃が集中して沈没、大破した重巡最上は撤退中に空襲を受けて駆逐艦[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]](志摩艦隊所属)により処分、志摩艦隊も空襲により軽巡[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]を喪失、西村艦隊からは駆逐艦時雨のみ生還した<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]227頁</ref>。田中(満潮)駆逐艦長は漂流中のところをアメリカ軍魚雷艇に救助された<ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]p.14『・満潮艦長 26日ニ50-60隻ノTBノ北上ヲ認メタ。約四十時間後意識不明ノママ米国TBニ救助セラル』</ref>。 |
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満潮の沈没後、田中艦長は漂流中に米魚雷艇に救助された<ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]p.14『・満潮艦長 26日ニ50-60隻ノTBノ北上ヲ認メタ。約四十時間後意識不明ノママ米国TBニ救助セラル』</ref>。戦死と判断され昇進が公報された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072106100|昭和20年7月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1856号 p.29}}</ref>が、終戦後に生存が判明し、満潮の除籍日付での解職に変更された<ref name="甲63" />。 |
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なお10月25-26日に沈没した重巡[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]の乗組員を救助したのち単艦で退避していた第4駆逐隊野分も、米艦隊と遭遇し撃沈されている<ref name="S1910十戦隊野分"/>。こうして第4駆逐隊は全滅した<ref>[[#S1910十戦隊日誌]]p.4『被害 矢矧 爆弾一直撃一、至近数発 砲弾直撃一/四駆 消息不明/十七駆 浜風二缶室火災ノ外各艦大ナル損傷ナシ』</ref>。 |
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[[1945年]](昭和20年)1月10日、駆逐艦満潮は満潮型駆逐艦<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]p.2『内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル 驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、<strong>同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ</strong>、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「 島風」ヲ削ル(以下略)』</ref>、 |
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帝国駆逐艦籍<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]pp.8-10『内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島|呉鎮守府在籍 軍艦 八十島|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、<strong>驅逐艦 満潮</strong>、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風、驅逐艦 島風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風、驅逐艦 卯月、驅逐艦 夕月、驅逐艦 初春|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波、驅逐艦 濱波、驅逐艦 沖波、驅逐艦 岸波 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣』</ref> |
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のそれぞれから除籍された。レイテ沖海戦で沈没した第4駆逐隊3隻(朝雲、山雲、野分)も満潮と同日附で除籍され、それに伴い第4駆逐隊も解隊された<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』</ref>。 |
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==歴代艦長== |
==歴代艦長== |
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;艤装員長 |
;艤装員長 |
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#[[佐藤康夫]] 中佐:1937年7月6日<ref |
#[[佐藤康夫]] 中佐:1937年7月6日<ref>[{{NDLDC|2959635/8}} 昭和12年7月7日付 官報第3152号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ8</ref> - 1937年10月31日<ref name="jirei84">{{アジア歴史資料センター|C13072072400|昭和12年10月31日(発令10月31日付)海軍辞令公報(号外)第84号 p.47}}</ref> |
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;駆逐艦長 |
;駆逐艦長 |
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#佐藤康夫 中佐:1937年10月31日<ref name="jirei84" /> - 1937年12月1日<ref name="jirei99"/> |
#佐藤康夫 中佐:1937年10月31日<ref name="jirei84" /> - 1937年12月1日<ref name="jirei99">{{アジア歴史資料センター|C13072072700|昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 pp.27-28}}</ref> |
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#有田貢 中佐:1937年12月1日<ref name="jirei99" /> - 1938年3月20日 病死<ref name="海秘人138"/> |
#有田貢 中佐:1937年12月1日<ref name="jirei99" /> - 1938年3月20日 病死<ref name="海秘人138"/> |
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#(兼)勝見基 少佐:1938年3月20日<ref name="jirei154"/> - 1938年8月2日<ref name="jirei220" |
#(兼)勝見基 少佐:1938年3月20日<ref name="jirei154">{{アジア歴史資料センター|C13072073500|昭和13年3月24日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第154号 p.48}}</ref> - 1938年8月2日<ref name="jirei220">{{アジア歴史資料センター|C13072074200|昭和13年8月3日(発令8月2日付)海軍辞令公報(部内限)第220号 p.16}}</ref> |
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#(兼)吉田義行 中佐:1938年8月2日<ref name="jirei220"/> - 1939年7月24日<ref name="jirei362" |
#(兼)吉田義行 中佐:1938年8月2日<ref name="jirei220"/> - 1939年7月24日<ref name="jirei362">{{アジア歴史資料センター|C13072076000|昭和14年7月25日(発令7月24日付)海軍辞令公報(部内限)第362号 p.46}}</ref> |
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#鈴木正明 少佐:1939年7月24日<ref name="jirei362"/> - 1939年10月15日<ref name="jirei391"/> |
#鈴木正明 少佐:1939年7月24日<ref name="jirei362"/> - 1939年10月15日<ref name="jirei391">{{アジア歴史資料センター|C13072076400|昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.22}}</ref> |
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#大島一太郎 少佐/中佐:1939年10月15日<ref name="jirei391" /> - 1940年11月15日<ref name="jirei555"/> |
#大島一太郎 少佐/中佐:1939年10月15日<ref name="jirei391" /> - 1940年11月15日<ref name="jirei555">{{アジア歴史資料センター|C13072079500|昭和15年1月15日(発令1月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.12,15}}</ref> |
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#小倉正身 少佐/中佐:1940年11月15日<ref name="jirei555" /> - 1942年8月20日<ref name="jirei926"/> |
#[[小倉正身]] 少佐/中佐:1940年11月15日<ref name="jirei555" /> - 1942年8月20日<ref name="jirei926">{{アジア歴史資料センター|C13072086600|昭和17年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第926号 pp.44-45}}</ref> |
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#戸村清 中佐:1942年8月20日<ref name="jirei926" /> - 1943年1月25日<ref name="jirei1042"/> |
#戸村清 中佐:1942年8月20日<ref name="jirei926" /> - 1943年1月25日<ref name="jirei1042">{{アジア歴史資料センター|C13072089500|昭和18年1月27日(発令1月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1042号 p.29}}</ref> |
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#鈴木保厚 中佐:1943年1月25日<ref name="jirei1042"/> - 1943年5月1日<ref |
#鈴木保厚 中佐:1943年1月25日<ref name="jirei1042"/> - 1943年5月1日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090800|昭和18年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1106号 p.45}}</ref> ※1943年10月15日まで艦長の発令なし |
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##(代理)相澤正 大尉:1943年1月28日<ref name="19430301yokochin-48">昭和18年3月1日付 横須賀鎮守府公報(部内限)第48号。</ref> - 1943年1月30日<ref name="19430301yokochin-48" /> |
##(代理)相澤正 大尉:1943年1月28日<ref name="19430301yokochin-48">昭和18年3月1日付 横須賀鎮守府公報(部内限)第48号。</ref> - 1943年1月30日<ref name="19430301yokochin-48" /> |
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#原口曻 中佐:1943年10月15日<ref |
#原口曻 中佐:1943年10月15日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093800|昭和18年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1240号 p.25}}</ref> - 1944年5月2日<ref name="jirei1459">{{アジア歴史資料センター|C13072098000|昭和19年5月3日(発令5月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1459号 p.39}}</ref> |
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#平田正明 少佐:1944年5月2日<ref name="jirei1459" /> - 1944年5月10日<ref name="jirei1468"/> |
#平田正明 少佐:1944年5月2日<ref name="jirei1459" /> - 1944年5月10日<ref name="jirei1468">{{アジア歴史資料センター|C13072098100|昭和19年5月11日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1468号 p.39}}</ref> |
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#(兼)高橋亀四郎 大佐:1944年5月10日<ref name="jirei1468"/> - 1944年6月1日<ref name="jirei1558"/> |
#(兼)高橋亀四郎 大佐:1944年5月10日<ref name="jirei1468"/> - 1944年6月1日<ref name="jirei1558"/> |
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#田中知生 少佐:1944年6月1日<ref name="jirei1558" /> - 1945年1月10日<ref |
#田中知生 少佐:1944年6月1日<ref name="jirei1558" /> - 1945年1月10日<ref name="甲63">{{アジア歴史資料センター|C13072158600|昭和21年2月19日付 第二復員省辞令公報 甲 第63号}}</ref>{{出典無効|date=2021-06-27 |title=出典とされているものに明示無し}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 --> |
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* {{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968||month=1|title=戦藻録 {{small|明治百年史叢書}}|publisher=原書房|isbn=|ref=戦藻録(1968)}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[ |
*<!-- ウガキ1968-01 -->{{Cite book|和書|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968||month=1|title=戦藻録 {{small|明治百年史叢書}}|publisher=原書房|isbn=|ref=戦藻録(1968)}} |
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* {{Cite book|和書|author= |
*<!-- オオクマ2016-10 -->{{Cite book|和書|author=大熊安之助ほか|authorlink=|year=2016|month=10|title=海軍水雷戦隊 {{small|駆逐艦と魚雷と軽巡が織りなす大海戦の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1629-4|ref=大熊ほか2016}} |
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**(113-124頁){{small|元大本営海軍部主席副官・海軍大佐}}有田雄三『近代海戦の尖兵"水雷屋"誕生秘話 {{small|軍縮条約の制約を克服すべく質の向上に邁進した精強水雷戦隊の八十年}}』 |
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** 命令誤認 <砲艦「橋立」艦長・山代勝守大佐の証言>(太平洋戦争時、橋立艦長、第8駆逐隊司令《昭和17年11月13日「満潮」被弾時》、第11駆逐隊司令等。) |
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*<!--コムラ2015-04-->{{Cite book|和書|author=古村啓蔵ほか|authorlink=古村啓蔵|year=2015|month=4|title=重巡十八隻 {{small|軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1590-7|ref=古村2015重巡}} |
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**(321-332頁)「丸」編集部『重巡洋艦ものしり雑学メモ』 |
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**(333-350頁){{small|戦史研究家}}落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』 |
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* {{Cite book|和書|author=左近允尚敏|authorlink=左近允尚敏|year=2010|month=10|title=捷号作戦はなぜ失敗したのか {{small|レイテ沖海戦の教訓}}|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4-12-004169-3|ref=左近允、捷号作戦}} |
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* {{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|year=1995|month=12|title=艦長たちの太平洋戦争 続編 {{small|17人の艦長が語った勝者の条件}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2106-9|ref=佐藤 艦長続編(文庫)}} |
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** 命令誤認 <砲艦「橋立」艦長・山代勝守大佐の証言>(太平洋戦争時、橋立艦長、第8駆逐隊司令〈昭和17年11月13日「満潮」被弾時〉、第11駆逐隊司令等。) |
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*<!-- サトウキヨオ2014 -->{{Cite book|和書|author=佐藤清夫|year=2004|month=1|origyear=1997|title=駆逐艦「野分」物語 {{small|若き航海長の太平洋海戦記}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2408-4|ref=佐藤清夫2004}} |
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*<!--シガ2016-04 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref=志賀2016物語}} |
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**(63-90頁){{small|戦史研究家}}大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり {{small|太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情}}』 |
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* {{Cite book|和書|author=志柿謙吉|coauthors=|year=2002||month=2|title=空母「飛鷹」海戦記 {{small|「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-1040-7|ref=空母飛鷹海戦記}} |
* {{Cite book|和書|author=志柿謙吉|coauthors=|year=2002||month=2|title=空母「飛鷹」海戦記 {{small|「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-1040-7|ref=空母飛鷹海戦記}} |
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*<!-- シゲモト2014-10 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref=重本2014}} |
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**(109-123頁){{small|戦史研究家}}落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ {{small|第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録}}』 |
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**(255-342頁){{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』 |
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* {{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2009|title=軍艦武藏 上巻|publisher=新潮文庫|isbn=978-4-10-127771-4|ref=武藏上}} |
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2009|title=軍艦武藏 上巻|publisher=新潮文庫|isbn=978-4-10-127771-4|ref=武藏上}} |
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* {{Cite book|和書| |
*<!-- テラウチ2015-09 -->{{Cite book|和書|author1=寺内正道ほか|authorlink1=寺内正道|authorlink=|year=2015|month=9|title=海軍駆逐隊 {{small|駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-47698-1601-0|ref=海軍駆逐隊}} |
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**(146-155頁){{small|戦史研究家}}海老原康之『夜戦の白眉 "第八駆逐隊" 朝潮型四隻の奮戦 {{small|朝潮、大潮、満潮、荒潮。第二水雷戦隊所属の精鋭たちのバリ島沖海戦}}』 |
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**(156-164頁){{small|戦史研究家}}丹羽年雄『第九駆逐隊の奮闘と壮烈なる最後 {{small|朝雲、山雲、峯雲、夏雲。スラバヤ沖からレイテまで朝潮型四隻の航跡}}』 |
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**(337-349頁){{small|戦史研究家}}村井至『太平洋戦争と日本の駆逐艦 {{small|満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘}}』 |
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* {{Cite book|和書|author=福田幸弘|authorlink=福田幸弘|year=1981|month=7|title=連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記|publisher=[[時事通信社]]|isbn=4-7887-8116-6|ref=サイパン・レイテ海戦記}} |
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* {{Cite book|和書|author=レオンス・ペイヤール著|coauthors=長塚隆二訳|title=潜水艦戦争 {{small|1939-1945}}|publisher=早川書房|year=1973|month=12|ISBN=|ref=潜水艦戦争}} |
* {{Cite book|和書|author=レオンス・ペイヤール著|coauthors=長塚隆二訳|title=潜水艦戦争 {{small|1939-1945}}|publisher=早川書房|year=1973|month=12|ISBN=|ref=潜水艦戦争}} |
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* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26海軍進攻作戦}} |
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=5|title=戦史叢書26 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書26海軍進攻作戦}} |
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* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=8|title=戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) {{small|ガ島撤収まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書83ガ島戦}} |
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1975|month=8|title=戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) {{small|ガ島撤収まで}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書83ガ島戦}} |
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* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。 |
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。 |
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*<!--マル2010-11-->{{Cite book|和書|author=「丸」編集部編|year=2010|month=11|title=重巡洋艦戦記 {{small|私は決定的瞬間をこの目で見た!}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1485-6|ref=丸2010重巡}} |
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**(7-26頁){{small|戦史研究家}}大浜啓一『日本重巡十八隻の戦歴』 |
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**(59-76頁){{small|元「最上」航海長・海軍大佐}}山内正規『七戦隊「三隈」と「最上」の衝突 {{small|ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇}}』 |
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**(217-232頁){{small|元「最上」高角砲指揮官・海軍大尉}}輿石辯『西村部隊「最上」スリガオ海峡の死闘』 |
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**(233-243頁){{small|当時第二艦隊司令長官・元海軍中将}}栗田健男述『レイテ湾突入ならず {{small|米戦略爆撃調査団に対する栗田長官の証言記録}}』 |
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*[ |
*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルライブラリー] - [[国立国会図書館]] |
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**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1940|month=7|title=日本軍艦集 2600年版|publisher=海軍研究社|ref= |
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|year=1940|month=7|title=日本軍艦集 2600年版|url={{NDLDC|1903831}}|publisher=海軍研究社|ref=軍艦2600年}} |
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**{{Cite book|和書|author=大本営海軍報道部監修、海軍報道班員現地報告|year=1942|month=7|chapter=清水進「バリ島沖海戦記」|title=スラバヤ・バタビア沖海戦|publisher=文藝春秋社|ref=スラバヤ・バタビア沖海戦(S17)}} |
**{{Cite book|和書|author=大本営海軍報道部監修、海軍報道班員現地報告|year=1942|month=7|chapter=清水進「バリ島沖海戦記」|title=スラバヤ・バタビア沖海戦|publisher=文藝春秋社|ref=スラバヤ・バタビア沖海戦(S17)}} |
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**{{Cite book|和書|author=七田今朝一|year=1943|month=3|title=海戦の変貌|publisher=大新社|ref=海戦の変貌}} |
**{{Cite book|和書|author=七田今朝一|year=1943|month=3|title=海戦の変貌|publisher=大新社|ref=海戦の変貌}} |
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**{{Cite book|和書|author=英文大阪毎日学習号編輯局 編|year=1943|month=6|title=大東亜戦争記録画報 前編|publisher=大阪出版社|ref=大東亜戦争記録画報前編}} |
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==注釈== |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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{{朝潮型駆逐艦}} |
{{朝潮型駆逐艦}} |
2024年11月26日 (火) 01:16時点における最新版
満潮 | |
---|---|
基本情報 | |
艦歴 | |
発注 | ②計画 [1] |
起工 | 1935年11月5日[2] |
進水 | 1937年3月15日[2] |
就役 | 1937年10月31日[2] |
最期 | 1944年10月25日、スリガオ海峡で沈没 |
除籍 | 1945年1月10日 |
要目 | |
基準排水量 | 約2,000t |
公試排水量 | 2,400t |
全長 | 118.00m |
最大幅 | 10.386m |
吃水 | 3.71m(平均) |
機関 |
オール・ギアードタービン2基2軸 ロ号艦本式重油専焼缶3基 51,000hp |
最大速力 | 35.0kt |
燃料 | 重油580t |
航続距離 | 18ktで5,190浬 |
乗員 | 230名 |
兵装 |
50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 II×2 (または13mm機銃 II×2) 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九〇式魚雷16本) 九一式爆雷×36 |
満潮(みちしお / みちしほ)は、日本海軍の朝潮型駆逐艦3番艦である[3]。1937年(昭和12年)10月に竣工した[4]。1944年(昭和19年)10月、レイテ沖海戦でスリガオ海峡に突入し、米艦隊の雷撃を受けて沈没した。
艦歴
[編集]建造~開戦、2度の大破
[編集]1935年(昭和10年)9月28日、藤永田造船所で建造する駆逐艦が満潮と命名された[1]。11月5日に起工[2]、1937年(昭和12年)3月15日に進水[2][5]。10月31日に竣工し[2]、 朝潮、大潮と第25駆逐隊を同日編制した。11-12月にかけて中支方面で活動し、帰投後に佐世保海軍工廠で蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機調事件)。 1938年(昭和13年)1月、荒潮が編入された。3月20日、有田貢艦長が病死した[6]。
1939年(昭和14年)11月1日、第25駆逐隊4隻は横須賀鎮守府へ転籍し、第8駆逐隊を編制した[7]。11月15日に第二艦隊・第二水雷戦隊に編入され、以後中国方面で活動した。
太平洋戦争開戦時、第8駆逐隊は第二艦隊の指揮下で南方部隊本隊に加わっていた[8]。マレー第一次上陸作戦、リンガエン湾上陸作戦を支援。1942年(昭和17年)1月からアンボン、マカッサル攻略作戦に従事した。
日本軍はバリ島の攻略を計画し、第8駆逐隊と輸送船2隻は2月19日未明にバリ島に到着、兵員と物資の揚陸を始めた。夕刻に揚陸は完了したが、昼に空襲で輸送船相模丸が損傷し、満潮と荒潮が護衛して先にマカッサルに帰投を始めた[9]。同日夜にロンボック海峡で朝潮と大潮が米蘭の連合艦隊と交戦、蘭駆逐艦ピートハインを撃沈したが大潮が損傷した。急報を受けて反転した満潮と荒潮がバダン海峡に突入し、2日午前3時47分に砲戦を開始した[10][11]。機関室に被弾した満潮は大破し64人が戦死、航行不能となったが、海峡を漂流しながら残敵の哨戒にあたった[12][13]。午前6時、軽巡長良と第21駆逐隊(若葉、子日、初霜)が到着、若葉と子日が第8駆逐隊の僚艦と協力して満潮の救援を行った。午前10時、荒潮が満潮の曳航を始めたが、空襲の回避行動で曳索が切れ、満潮は至近弾でさらに浸水した[14]。沈没は免れ、マカッサルに帰投した。山本五十六連合艦隊司令長官は後日、バリ島沖海戦を戦った第8駆逐隊に感状を与えた[15]。
4月10日、バリ島沖海戦で大潮、荒潮も損傷した第8駆逐隊は第四水雷戦隊に編入された[16]。満潮と大潮はマカッサルで応急修理をした後、16日-17日に高雄を経由して22日に横須賀に帰港した[17]。5月10日に横須賀を出発、12日に呉に到着[18]。長期修理のため15日に特別役務艦に指定された[19][20]。
10月20日、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)に復帰した[21]。満潮はラバウルを経由してブーゲンビル島のショートランド泊地に到着、駆逐艦隊によるガダルカナル島への鼠輸送に投入された[22]。満潮は11月2日に朝潮、浦波、敷波、綾波、望月、5日に朝潮、朝雲 、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、9日に朝潮、朝雲、望月、村雨、夕立、時雨、白露、夕暮と揚陸作戦を行い、いずれも成功した[23]。
海軍はヘンダーソン飛行場基地への大規模な艦砲射撃を計画し、満潮は作戦に備えて6日に第七戦隊(司令官西村祥治少将)の指揮下に入った[24]。しかし12日夜に第三次ソロモン海戦が勃発し、出撃準備中の13日、ショートランド泊地の海岸近くで停泊中に米軍大型機の爆撃を受け[25]、至近弾で大破浸水し航行不能になった[26][27][28]。
12月22日、外南洋部隊は朝潮に満潮の曳航、天霧に護衛を命じ、満潮はようやくショートランドからトラック泊地に移動した[29]。満潮は工作艦明石で応急修理を行った。3月6日に満潮は駆逐艦浜風の曳航と舞風の護衛でトラックを出港し、サイパンを経由して16日に館山に到着[30][31]。その後、横須賀や横浜船渠に入渠した[32]。4月1日、第8駆逐隊は解隊された[33]。満潮は横須賀鎮守府の警備駆逐艦となり[34]、同日付で朝潮型駆逐艦の公文書上の表記は満潮型駆逐艦に改訂された[35]。
護衛任務
[編集]10月31日、満潮は第24駆逐隊(海風、涼風)に編入した[36][37]。11月14日に修理を完了し、同月下旬に瀬戸内海へ移動、訓練に従事した[38]。12月3日、修理を終えた第24駆逐隊3隻は桂島に集結[39]。このうち満潮は横須賀に回航した後、12日に空母2隻(瑞鳳、雲鷹)を護衛して横須賀を出発、17日にトラック泊地へ到着した[40]。
21日、満潮はタンカーを護衛してトラック泊地を出発した[41]。同日、天霧などが護衛するタンカー照川丸が米潜水艦スケートの雷撃で撃沈された。満潮は現場に急行して天霧、海防艦隠岐、金城丸と合流し、救難隊の軽巡能代、駆逐艦電、響、浜風と合同で救助し、23日にトラックへ戻った[42][43]。
12月29日、重巡洋艦熊野、鈴谷、駆逐艦谷風とトラック泊地を出港、31日にニューアイルランド島カビエンに到着して物資と兵員を揚陸し1944年(昭和19年)、1月1日に帰還した[44]。輸送任務を解かれ、10日に駆逐艦藤波と共に戦艦大和を護衛してトラック泊地を出発、15日に瀬戸内海へ到着した[45][46]。その後、満潮は横須賀へ移動した[47]。24日、満潮は駆逐艦白露、雷と共に輸送船(特設巡洋艦)3隻(赤城丸、靖国丸、愛国丸)を護衛して横須賀を出発[48]、トラック経由でウェーク島へ向かうが、31日に靖国丸が米潜水艦トリガーの雷撃で沈没した[49]。2月1日、トラック泊地に到着した[45][50]。涼風は1月25日、海風は2月1日、米潜水艦の雷撃で沈没した。
2月10日、満潮、白露、初春、若葉、駆逐艦玉波は戦艦武蔵、軽巡大淀、空母瑞鳳、空母千代田を護衛してトラック泊地を出港。15日に横須賀に到着し、千代田、瑞鳳、初春、若葉、玉波は呉に向かった[51]。24日、白露と武蔵を護衛して横須賀を出発、2月29日にパラオに到着した[52][53]。3月31日、第4駆逐隊に編入された[54]。この頃、潜水艦の攻撃で小破した武蔵を白露、藤波と共に護衛し、4月3日に呉へ帰投した[55][56]。
南西方面の戦い
[編集]4月7日、満潮は第4駆逐隊僚艦の山雲、野分と合流し、内海で整備や訓練に従事した[57][58]。5月11日、第4駆逐隊と秋霜、早霜、玉波、時雨は武蔵と空母6隻(第二航空戦隊〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉、第三航空戦隊〈千歳、千代田、瑞鳳〉)を護衛して佐伯湾を出撃し、タウイタウイに向かった。16日に到着し、第4駆逐隊はタウイタウイ泊地の警戒や機動部隊の訓練に従事した[59][60]。
6月1日、田中知生少佐が艦長に任命された[61]。第4駆逐隊は機動部隊の護衛としてマリアナ沖海戦に参加した(編制は同海戦参照)。6月20日に飛鷹が沈没し、満潮は浜風、秋霜、早霜等と乗組員の救助にあたった[62][63]。飛鷹艦長・副長とも満潮に収容された[64]。満潮は他の駆逐艦が引き揚げた後も単艦で捜索し、日没後は探照灯も使った[65](浜風が同行の記録もあり[66])。海戦後、燃料が不足した浜風、時雨、秋霜、早霜、満潮は先に沖縄へ向かい[67]、23日に中城湾で僚艦の野分、山雲と合流した[68]。満潮は飛鷹の生存者を隼鷹に引き渡した[69]。
7月上旬、山雲、野分と共にはダバオの戦艦扶桑の内地回航を護衛した[70]。10日、朝雲が編制上、第4駆逐隊に編入された[71][72]。14日、満潮、山雲、野分は宿毛湾で扶桑と分かれ、15日に横須賀に帰投。満潮は修理と整備に当たった[73]。
8月6日、満潮、野分、山雲はタンカー帝洋丸を護衛して横須賀を出港、伊万里湾で帝洋丸と分かれた。佐世保へ向かい、戦艦榛名と合流した。15日、4隻は佐世保を出港し、21日にシンガポールに到着した。第4駆逐隊の3隻はレーダー改装工事をおこなったのちリンガ泊地へ移動、朝雲と合流した[74]。以降、捷一号作戦の発動まで泊地周辺で訓練と待機が続いた[75]。
沈没
[編集]10月17日、満潮と野分はシンガポールへ移り、タンカー雄鳳丸と八紘丸を護衛して21日にボルネオ島北部ブルネイに到着した[76]。同日附の捷一号作戦の編制で、満潮、朝雲、山雲は第一遊撃部隊の第三部隊(司令官西村祥治中将)、野分は第二部隊(司令官鈴木義尾中将)に編入された。22日、西村中将は戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦時雨、満潮、朝雲、山雲を率いてブルネイを出撃し、25日未明にスリガオ海峡に突入した。
魚雷艇の攻撃は撃退したが、続く米駆逐艦隊の魚雷攻撃で満潮、朝雲、山雲は次々に被雷し、戦闘不能になった[77]。米軍側の記録によれば、駆逐艦ハッチンズが避退中の朝雲に魚雷5本を発射し、これが満潮に命中して26日午前3時58分に沈没した[78][76]。高橋駆逐隊司令をふくめ約230名が戦死した。朝雲と山雲も沈没し、西村艦隊は時雨を除いて全滅した。野分も同日中に撃沈され、第4駆逐隊は全滅した[79]。1945年(昭和20年)1月10日、満潮は駆逐艦籍から除籍され、第4駆逐隊も解隊された[80][81]。艦名は海上自衛隊の潜水艦「みちしお(初代)」と「みちしお(2代)」に継承された。
満潮の沈没後、田中艦長は漂流中に米魚雷艇に救助された[82]。戦死と判断され昇進が公報された[83]が、終戦後に生存が判明し、満潮の除籍日付での解職に変更された[84]。
歴代艦長
[編集]- 艤装員長
- 駆逐艦長
- 佐藤康夫 中佐:1937年10月31日[86] - 1937年12月1日[87]
- 有田貢 中佐:1937年12月1日[87] - 1938年3月20日 病死[6]
- (兼)勝見基 少佐:1938年3月20日[88] - 1938年8月2日[89]
- (兼)吉田義行 中佐:1938年8月2日[89] - 1939年7月24日[90]
- 鈴木正明 少佐:1939年7月24日[90] - 1939年10月15日[91]
- 大島一太郎 少佐/中佐:1939年10月15日[91] - 1940年11月15日[92]
- 小倉正身 少佐/中佐:1940年11月15日[92] - 1942年8月20日[93]
- 戸村清 中佐:1942年8月20日[93] - 1943年1月25日[94]
- 鈴木保厚 中佐:1943年1月25日[94] - 1943年5月1日[95] ※1943年10月15日まで艦長の発令なし
- 原口曻 中佐:1943年10月15日[97] - 1944年5月2日[98]
- 平田正明 少佐:1944年5月2日[98] - 1944年5月10日[99]
- (兼)高橋亀四郎 大佐:1944年5月10日[99] - 1944年6月1日[61]
- 田中知生 少佐:1944年6月1日[61] - 1945年1月10日[84][出典無効]
参考文献
[編集]- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
- 大熊安之助ほか『海軍水雷戦隊 駆逐艦と魚雷と軽巡が織りなす大海戦の実相』潮書房光人社、2016年10月。ISBN 978-4-7698-1629-4。
- (113-124頁)元大本営海軍部主席副官・海軍大佐有田雄三『近代海戦の尖兵"水雷屋"誕生秘話 軍縮条約の制約を克服すべく質の向上に邁進した精強水雷戦隊の八十年』
- 古村啓蔵ほか『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7。
- (321-332頁)「丸」編集部『重巡洋艦ものしり雑学メモ』
- (333-350頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
- 左近允尚敏『捷号作戦はなぜ失敗したのか レイテ沖海戦の教訓』中央公論社、2010年10月。ISBN 978-4-12-004169-3。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9。
- 命令誤認 <砲艦「橋立」艦長・山代勝守大佐の証言>(太平洋戦争時、橋立艦長、第8駆逐隊司令〈昭和17年11月13日「満潮」被弾時〉、第11駆逐隊司令等。)
- 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社NF文庫、2004年1月(原著1997年)。ISBN 4-7698-2408-4。
- 志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7。
- (63-90頁)戦史研究家大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり 太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情』
- 志柿謙吉『空母「飛鷹」海戦記 「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦』光人社、2002年2月。ISBN 4-7698-1040-7。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- (109-123頁)戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録』
- (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後』
- 手塚正己『軍艦武藏 上巻』新潮文庫、2009年。ISBN 978-4-10-127771-4。
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
- (146-155頁)戦史研究家海老原康之『夜戦の白眉 "第八駆逐隊" 朝潮型四隻の奮戦 朝潮、大潮、満潮、荒潮。第二水雷戦隊所属の精鋭たちのバリ島沖海戦』
- (156-164頁)戦史研究家丹羽年雄『第九駆逐隊の奮闘と壮烈なる最後 朝雲、山雲、峯雲、夏雲。スラバヤ沖からレイテまで朝潮型四隻の航跡』
- (337-349頁)戦史研究家村井至『太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘』
- 福田幸弘『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6。
- レオンス・ペイヤール著、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。
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- (7-26頁)戦史研究家大浜啓一『日本重巡十八隻の戦歴』
- (59-76頁)元「最上」航海長・海軍大佐山内正規『七戦隊「三隈」と「最上」の衝突 ミッドウェー海戦もうひとつの悲劇』
- (217-232頁)元「最上」高角砲指揮官・海軍大尉輿石辯『西村部隊「最上」スリガオ海峡の死闘』
- (233-243頁)当時第二艦隊司令長官・元海軍中将栗田健男述『レイテ湾突入ならず 米戦略爆撃調査団に対する栗田長官の証言記録』
- 国立国会図書館デジタルライブラリー - 国立国会図書館
- 海軍研究社編輯部 編『日本軍艦集 2600年版』海軍研究社、1940年7月 。
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- Ref.C08030145800『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。(昭和19年4月野分戦時日誌)(昭和19年6月野分戦時日誌)
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- Ref.C08030037100『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)/自昭和十九年十月二十三日至同年十月二十六日 第七戦隊戦斗詳報(菲島沖海戦ヲ含ム)第七戦隊司令部』。
- Ref.C14061105800『捷1号作戦に於ける2YBの作戦経過概要 5F水雷主務参謀 中佐 森幸吉記憶』。
注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ a b #達昭和10年9月p.21『達第百十六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十年九月二十八日 海軍大臣 大角岑生|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 満潮(ミチシホ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 荒潮(アラシホ)』
- ^ a b c d e f #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『満潮|(艦性能略)|藤永田造船所|10-11-5|12-3-15|12-10-31|(艦兵装略)』
- ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』
- ^ 日本軍艦集2600年版コマ39『一等驅逐艦 満潮(みちしほ) 基準排水量1,500噸、長さ108.55米、幅10.15米、平均吃水2.75米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管8門、起工昭和10年11月5日、進水昭和12年3月15日、竣工昭和12年10月31日、建造所藤永田造船所-荒潮と同型。この級は、あらゆる點において、我國最精鋭驅逐艦としての貫録を備へてゐる。』
- ^ 「昭和12年3月16日(火)海軍公報第3003号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C12070363000 『○進水 驅逐艦満潮昨十五日株式會社藤永田造船所ニ於テ進水セリ』
- ^ a b 「故陸軍騎兵大尉生井杢之丞外一名位階追陞ノ件/故海軍大佐有田貢 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.A11114569300 『海秘人第一三八號 昭和十三年三月二十二日 海軍大臣 米内光政 内閣総理大臣侯爵近衛文麿殿|故海軍大佐有田貢多年軍職ニ在リテ克ク其ノ任務ヲ盡シ功績顕著ノ者ニ候處不幸病ニ罹リ三月二十日死去候ニ付テハ特ニ位一級被追陞度別紙上奏書進達ス』
- ^ 「昭和14年11月1日(水)海軍公報(部内限)第3349号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381800 』
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦付表第一『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦325-328頁
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦331頁
- ^ #スラバヤ・バタビア沖海戦(S17)p.96 従軍記者の清水進はバリ島沖海戦の満潮乗員について「僕はその黙々としてやるといふ気持は、潜水艦なり駆逐艦は徹底してると思ふんです。艦長を中心にして、ピラミツド型に団結してゐるわけですね。例のバリ島沖の海戦で、こっちの駆逐艦が1隻傷ついたのです。後で艦長以下全員に集まって貰って座談會を開いたんですが、負傷者がドンドン出る、電流が切れてしまって艦内はまっ暗です。その時、甲板を「艦長は御無事だぞ!」と叫んで歩く聲がする。その聲を聴いて私は涙で出た。…それが今度は下に行って、艦内を隈なく廻って、さう皆に知らせて行く。それを着てみんなは非常に元気づいたといふのです。これなども、艦長を中心とする団結の非常に高い精神の発露だと感激しました。」と述懐している。
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(2)p.8『満潮駆逐艦長|20日0904蘭印部隊|昨夜「バリー」海峡ニ依ル被害ニ対シ応急処置ニ努メツツアルモ機械室破壊ノ為今ノ処運転可能ノ見込ミ立タズ此ノ儘漂白當方面ノ哨戒ニ當リツツ損傷復旧ニ努ム 我ノ一「バルング」海峡中部0730』『満潮駆逐艦長|20日1057(宛略)一.被害 主機械室二番砲其ノ他数個所但シ浸水箇所ナシ/二.戦死64(戦死准士官以上3下士官兵38戦傷者准士官以上1下士官兵26)/三.機械室被弾ニ依リ運転不能ナリ/四.0830荒潮着曳航準備中0930』
- ^ #海軍作戦史大東亜戦争第一年p.58『この時傷ついた駆逐艦は次の報告を行った。『我れ単艦にて哨戒す』 恰もロンボク水道の真中であった。敵米、英、蘭連合艦隊が、豪州へ落ちんつれば、必らず通過しなければならぬ海上の関所である。『我れ哨戒す』 動けなくなった駆逐艦は、この水道で哨戒しながら動けぬながらも砲戦によって敵を撃滅せんとしたのである。』
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦332頁
- ^ 「昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 pp.14-15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070429400 『○感状 第八驅逐隊 昭和十七年二月十九日「バリ」島急襲攻略作戰ニ際シ同日夜半「ロンボク」海峡ニ於テ我ガ上陸ヲ阻止セントシテ來襲セル敵巡洋艦二隻及驅逐艦五隻以上ト遭遇スルヤ寡勢克ク勇戰忽チ敵驅逐艦四隻ヲ撃沈シ同巡洋艦二隻及驅逐艦一隻ヲ撃破遁走セシメタルノミナラズ爾后此ノ戰闘ニ於テ損傷ヲ受ケタル僚艦ヲ曳航翌晝間ニ於ケル敵機ノ猛爆ヲ冒シテ之ヲ味方泊地ニ移シ遂ニ救出ノ目的ヲ達シタルハ其ノ武勲顕著ナリト認ム 仍テ竝ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十二月八日 聯合艦隊司令長官 山本五十六』
- ^ #S1704四水戦日誌(1)p.9『本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ 途上十八日敵機動部隊ノ来襲ヲ聞キ我亦之ニ應ズル如ク増速セルモ荒天ノ為意ノ如クナラズ二十一日横須賀ニ歸着尓後整備作業ニ従事セリ』
- ^ #S1704四水戦日誌(1)p.56,65-66『一七(天候略)一二〇〇9dg1D高雄発横須賀ニ向フ/大潮満潮高雄着|一八(天候略)一〇〇〇大潮満潮横須賀ニ向ケ高雄発』『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』『二二(天候略)一五〇〇4dg横須賀着/一三三〇大潮満潮横須賀着』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)p.51『一〇(天候略)一五〇〇大潮(満潮)舞鶴(呉)ニ向ケ横須賀発』『一二(天候略)〇八三〇夏雲出港一七〇〇皈着/満潮呉着|〇八三〇将旗ヲ山雲ニ移揚一八〇〇復皈』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)pp.9-10『(二)経過概要(略)九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊に編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴 満潮呉 山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ/南方部隊ニ編入サレアリタル朝潮荒潮ハ十五日附ニテ同部隊ヨリ除カレ十八日呉着次期作戰準備ニ従事セリ』
- ^ #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』『内令第八百五十一號 横須賀鎮守府予備駆逐艦 驅逐艦 大潮 驅逐艦 満潮 驅逐艦 山雲 右特別役務艦ト定ム|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ #内令昭和17年10月(4)pp.10-11『内令第千九百三十四號|驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「荒潮」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「弥生、」ヲ削ル』
- ^ #佐藤 艦長続編(文庫)368頁
- ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.19-20『8dg(d×1缺)19dg(d×1缺)乙増援隊|11-2|「コリ」岬ニ入泊揚陸全部完了0020帰途ニ就ケリ』『甲、乙増援部隊|11-5|甲乙増援部隊ハ夫々「タサハロング」「エスペランス」ニ陸兵2400名及弾薬糧秣五六噸ヲ揚陸セリ』『4sd、8dg(d×1缺)望月|11-9|「タサハロング」ニ弾薬糧秣ヲ揚陸」ス進入時敵魚雷艇ノ雷撃ノ四本中一本望月ニ命中シタルモ不發砲撃ニ依リ一隻ヲ撃沈セリ帰途夕立白露ハ敵潜ヲ爆雷攻撃撃沈セリ』
- ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.10『11月6日(満潮)指揮下ニ入ル』
- ^ #戦史叢書83ガ島戦340頁
- ^ #佐藤 艦長続編(文庫)371頁
- ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.24『11月13日満潮至近弾ニ依リ大破浸水』
- ^ #S1711二水戦日誌(1)p.18『8dg司令/13日0428 8F司令長官[2sd司令官]/満潮爆撃ヲ受ケ缶室浸水艦尾沈下シツツアリシモ今ノ處持コタヘツツアリ救援中』
- ^ #S1712増援部隊詳報(3)p.39『外南洋部隊指揮官|二十二日一二三〇8dg司令天霧駆艦長〔GF 11AF 4F各司令長官 總長 外南洋部隊各司令官 満潮駆艦長 明石艦長 軍務局長〕|外南洋部隊信電令作第一七九號 一.8dg司令ハ朝潮ヲ以テ満潮ヲ曳航二十四日以後成ルベク速ニショートランド發トラツクニ回航ノ上朝潮及満潮ノ修理ニ任ズベシ(略)』
- ^ #S1801二水戦日誌(4)p.21『GF司令長官(宛略)GF電令作第四九五號 AdB KdB各指揮官ハ長波浜風ヲシテ内地(所属軍港)ニ回航修理ヲ實施セシムベシ回航ノ際浜風ハ満潮ヲ横須賀ニ曳航舞風之ヲ護衛長波ハ南海丸ヲ内地西部迄護衛ノコトニ取計フベシ』
- ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)299頁
- ^ #S1806二水戦日誌(5)p.17『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #内令昭和18年4月(1)p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|(略)第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
- ^ #内令昭和18年4月(1)pp.27-28『内令第五百八十一號 横須賀鎭守府豫備驅逐艦 驅逐艦 満潮 右警備驅逐艦ト定メラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ #内令昭和18年4月(1)p.20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|(略)「朝潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ (略)』
- ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一駆逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
- ^ #S1806二水戦日誌(4)p.8『満潮 三十一日附 二水戦二四驅ニ編入』
- ^ #S1806二水戦日誌(5)p.9『(2)24驅(略) /満潮 横濱ニ在リテ修理整備中ノ所十四日完成同日横須賀ニ回航出撃準備實施二十二日横須賀發近海對潜掃蕩ニ従事ノ上二十四日桂島泊地着二十三日呉着二十七日呉發桂島泊地着諸訓練ニ従事中』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.19、24『三日一〇一五(司令)24dg(宛略)24dg機密第〇三一〇一五番電 當隊(海風涼風満潮)三日一〇〇〇桂島錨地着』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.12『満潮内海西部ニ在リテ諸訓練ニ従事中/六日桂島發七日横須賀着/十二日雲鷹瑞鳳ヲ護衛横須賀発十三日二〇三〇頃母島乾埼ノ305°8浬ニテ敵潜ヲ探知攻撃セルモ効果不明/十七日戊三號輸送第二部隊ニ編入セラル「トラック」着(略)』p.67『十二(天候略)満潮〇九四五横須賀発|満潮瑞鳳雲鷹ヲ護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発』p.68『十七(天候略)満潮〇八三七「トラツク」着|満潮瑞鳳雲鷹ヲ護衛任務終了「トラツク」着/司令官島風巡視|GF電令作第八六一号ニ依リ戊三号輸送部隊第二部隊ニ編入セラル』
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.68『二十一(天候略)満潮〇六〇〇「トラツク」発/2sd(能代)一一五二「トラツク」発/玉波一四〇〇呉着|2sd(能代)照川丸救難作業ノ爲一一五二「トラツク」発一九二三照川丸遭難現場着警戒ニ任ズ照川丸二〇二〇沈没救難隊帰途ニ就ク/満潮筥崎丸護衛ノ爲「トラツク」発 二海護電令作第二三二号ニ依リ照川丸遭難現場ニ急行一五四〇現場着対潜掃蕩実施(略)GF電令作第七七号ニ依リ照川丸救難隊編制セラル 兵力2sd(能代)17dg(浜風)6dg(電響)』
- ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)531頁
- ^ #S1812二水戦日誌(1)p.8『(3)下旬 21日GF信令作第七七号ニ依リ照川丸救難隊編成セラレ(司令官)2sd指揮官トナリ浜風電響ヲ率ヒ仝日1100「トラック」発1930現場着、照川丸大火災掃蕩及護衛部隊(満潮隠岐金城丸天霧)ト共ニ警戒中2020沈没掃蕩部隊ヲ残シ翌22日帰着、満潮23日帰着』
- ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)527頁
- ^ a b #S1812二水戦日誌(3)p.10『満潮 戊三號輸送第一部隊トシテ一日「カビエン」ヨリ「トラツク」着任務終了仝日附仝部隊ノ編制ヲ解カル/二日UNBニ編入三日波船団乙梯団護衛ノ爲「トラツク」発六日仝船団ニ合同護衛ノ上七日「トラツク」着UNBノ指揮ヲ解カル/十日大和護衛「トラツク」発十五日徳山着補給ノ上/十六日愛國丸護衛徳山発十七日横須賀着整備ニ従事/二十四日靖國丸船団護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発/三十一日〇四〇〇頃7°20′N147°20′Eニ於テ靖國丸雷撃ヲ受ケ沈没〇八〇〇迄制圧セルモ敵情ヲ得ズ掃蕩ヲ打切リ船団ニ合同「トラツク」ニ向フ』
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.77『十(天候略)藤波満潮〇六五〇「トラツク」発|藤波満潮大和ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラツク」発』p.80『十五(天候略)満潮一四四八徳山着/藤波一六三〇呉着|長良長波曳航一四〇〇呉ニ回航ノ爲「トラツク」発/藤波大和ヲ護衛シ呉着満潮ハ徳山着』
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.18『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1812二水戦日誌(3)p.82『二十四(天候略)涼風〇五〇〇「トラツク」発/2sd(能代)32dg(早波)一三〇〇横須賀着/満潮一三四五横須賀発|(略)満潮靖国丸船団護衛「トラツク」ニ向ケ横須賀発』
- ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)571頁
- ^ #S1812二水戦日誌(4)p.4『24dg(満潮)一日船団護衛「トラツク」着六.七.八日不時着機捜索ノ爲出動/九日附24dg(満潮)白露YBヨリ除カレGF主隊ニ編入/十日武蔵護衛(玉波途中迄加入)横須賀ニ向ケ「トラツク」発』
- ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)616頁
- ^ #武藏上268頁
- ^ #S1812二水戦日誌(4) p.8『(2)24dg満潮 船団護衛一日「トラツク」着同日司令駆逐艦ヲ海風ヨリ変更/六日不時着機救難ノ爲「トラツク」発翌七日一〇五五命ニ依リ捜索ヲ止メ八日「トラツク」歸着/九日YB警戒隊ヨリ除カレGF主隊ニ編入セラル/十日玉波白露ト共ニ武藏瑞鳳千代田大淀ヲ護衛「トラツク」発十五日横須賀着/二十日燃料搭載ノ爲横須賀発鶴見着/二十一日補給終了横須賀着/二十四日白露ト共ニ武藏ヲ護衛横須賀発/二十九日「パラオ」着』ほかp.5,7,40
- ^ #内令昭和19年3月(5)p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十六駆逐隊ノ項ヲ削ル|第十七駆逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八駆逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二駆逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四駆逐隊ノ項ヲ削ル』
- ^ #S1812十戦隊日誌(5)p.5『(3)満潮 藤波白露ト共ニ武藏護衛「パラオ」ヨリ回航中ノ所三日呉着七日山雲野分ニ合同爾後ノ経過山雲ト同断』
- ^ #S1812十戦隊日誌(5)p.21『三1300武藏(宛略)武藏満潮藤波白露呉着』
- ^ #S1812十戦隊日誌(5)p.6『(ロ)(1)山雲 雪風ト共ニ瑞鳳龍鳳護衛横須賀ヨリ大宮島ニ向ケ航行中ノ所一日仝地着三日仝地発七日呉皈投護衛任務終了爾後整備補給ニ従事二十一日重油搭載ノ爲徳山ニ回航仝日大和摩耶ヲ護衛平群島ニ回航二十三日仝地着爾後内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事二十七日呉皈投月末迄整備補給ニ従事ス』
- ^ #S1812十戦隊日誌(5)p.12『(三)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1812十一水戦日誌(4)p.57『四日一五〇一(長官)1KdF(宛略)機密第〇四一五〇一番電 発第一機動艦隊長官 第一機動艦隊電令作第一四號第三項ニ依ル駆逐艦ヲ第四駆逐隊時雨玉波早霜秋霜ト定ム』
- ^ #S1812十戦隊日誌(6)p.4-5『(ロ)第四駆逐隊(満潮野分山雲)一日呉発二日平群島着2sf発着艦訓練警戒感ノ任務ニ従事四日別府沖ニ回航六日徳山ニ回航燃料補給ノ上七日佐伯ニ回航出撃準備完成十一日2sf3sf武藏ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ニ向ケ同地発十二日中城湾ニ仮泊燃料補給ノ上即日同地発十六日「タウイタウイ」着尚入港直前港外ニ於テ哨戒機発見ノ敵潜ヲ攻撃セルモ効果不明爾後月末迄同方面ニ於テ訓練警戒待機ニ任ズ/尚此ノ間十八日満潮野分山雲1sf発着艦警戒艦十九日満潮敵潜掃蕩二十二日山雲敵潜掃蕩二十三日野分第一哨艦三十一日満潮野分山雲2sf発着艦警戒艦等ノ任務ニ従事セリ』p.17
- ^ a b c 「昭和19年8月9日(発令6月1日付)海軍辞令公報(甲)第1558号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500
- ^ #S1906十戦隊日誌p.10『(浜風)尚敵機ノ攻撃ニ依ル飛鷹沈没ニ際シテハ之ガ救助ニ任ジタリ』
- ^ #S1906第27駆日誌(1)p.11『1926 飛鷹大爆発 沈没 駆逐艦浜波秋霜早霜満潮飛鷹乗員救助ス』
- ^ #空母飛鷹海戦記213-214頁
- ^ #空母飛鷹海戦記219頁
- ^ #武藏上499-500頁
- ^ #S1906第27駆日誌(1)p.12『21日 中城湾ニ向フ(浜風秋霜早霜満潮同航)』
- ^ #S1906十戦隊日誌p.6『(2)野分山雲(略)22日中城湾着23日満潮ト合同司令駆逐艦ヲ同艦ニ復帰ス』
- ^ #空母飛鷹海戦記224頁
- ^ #S1812第4駆日誌(7)p.3『7月1日0445「ダバオ」発扶桑ヲ護衛シ「タラカン」ニ向フ』、p.11『5日1320将旗1KdB/(略)二.扶桑ハ呉ニ回航機銃増備其ノ他整備工事ノ上四駆扶桑艦長ノ指揮ヲ受ケ護衛ニ任ジタル後横須賀ニ回航速ニ修理整備ノ上出撃準備ヲ完成スベシ、爾後ノ行動ハ追テ令ス』
- ^ #内令昭和19年7月p.13『内令第八三八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日 海軍大臣|第四驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
- ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.4『(略)尚十日附第十駆逐隊解隊風雲ハ駆逐艦籍ヨリ除カレ朝雲ハ第四駆逐隊ニ編入十五日附冬月霜月ヲ以テ第四十一駆逐隊ヲ編成當隊ニ編入セラレタリ』
- ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.5『(ロ)第四駆逐隊(1)満潮 一日扶桑警戒艦トシテ補給ノ爲「タラカン」ニ向ケ「ダバオ」発二日「タラカン」着補給待機八日扶桑ノ警戒ニ任ジツゝ内地ニ向ケ同地発十四日宿毛着補給ノ上扶桑ト分離十五日横須賀着十七入渠二十二日出渠月末迄整備ニ任ズ、尚二十九日司令駆逐艦ヲ山雲ニ変更セリ』
- ^ #S1907十戦隊日誌(2)pp.4-5『(二)第四駆逐隊(1)満潮野分山雲 野分山雲乙直接護衛部隊ニ編入中ノ所二日横須賀着同日附同部隊ヨリ除カレ機動部隊本隊ニ復皈ス尚同日附司令駆逐艦ヲ満潮ニ変更セリ 満潮野分山雲六日帝洋丸護衛横須賀發下関海峡ヲ経テ十日伊万里湾着帝洋丸ト分離同日佐世保ニ回航榛名ト合同ス十五日榛名ノ警戒艦トシテ佐世保発二十一日昭南着電探改装工事施行ノ上満潮山雲二十五日野分二十七日夫々昭南発「リンガ」ニ回航爾後同方面ニアリテ訓練警戒待機ニ従事ス三十一日訓練ノ爲出動セリ尚十日附機動部隊本隊ヲ除カレ第一遊撃部隊ニ編入セラレタリ/(2)朝雲 哨艦竝ニ曳的艦任務ニ従事セザリシ外経過概ネ若月ト同断』
- ^ #S1907十戦隊日誌(3)p.3-4『(イ)矢矧(略)』『(二)第四駆逐隊(1)満潮野分朝雲 経過概ネ矢矧ト同断』
- ^ a b #S1910十戦隊日誌pp.6-7『(ニ)(1)満潮 十六日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断 十七日野分ト共ニ昭南ニ回航雄鳳丸八紘丸ト合同之ヲ護衛シテ十八日昭南発「ブルネイ」ニ回航二十一日同地着急速補給同日朝雲山雲ト共ニ第三部隊ニ編入セラレ翌二十二日「ブルネイ」発「スール」海及「スリガオ」海峡ヲ経テ二十五日「レイテ」湾ニ突入所在敵水上艦艇ト交戰相當ノ戰果ヲ収メタルガ如キモ爾後消息不明トナレリ』
- ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.13『・0220頃 第2番艦タル山雲ハ魚雷ヲ受ケ、航行不能トナル|・0230頃 満潮(左舷機械室命中)次テ朝雲(三番艦)一番砲下ニ命中、當時右前方ニdヲ認ム』
- ^ #サイパン・レイテ海戦記209頁
- ^ #S1910十戦隊日誌p.7『(2)野分 十四日第三哨艦トナレル外二十日迄ノ経過概ネ満潮ト同断二十一日第四駆逐隊ノ中野分ノミ第二部隊ニ残留二水戰ヨリ編入ノ清霜ト共ニ三番隊トナル/爾後二十四日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断二十五日「サマル」島東方ニ於ケル敵水上部隊トノ戰闘一段落後損傷艦筑摩ノ警戒ニ赴キタル儘爾後消息不明トナレリ』
- ^ #秘公報昭和20年1月(2)pp.8-10『内令第二九號|(略)横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月|(略)右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣』
- ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|(略)』
- ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.14『・満潮艦長 26日ニ50-60隻ノTBノ北上ヲ認メタ。約四十時間後意識不明ノママ米国TBニ救助セラル』
- ^ 「昭和20年7月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1856号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106100
- ^ a b 「昭和21年2月19日付 第二復員省辞令公報 甲 第63号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072158600
- ^ 昭和12年7月7日付 官報第3152号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ8
- ^ a b 「昭和12年10月31日(発令10月31日付)海軍辞令公報(号外)第84号 p.47」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072400
- ^ a b 「昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 pp.27-28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「昭和13年3月24日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第154号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ a b 「昭和13年8月3日(発令8月2日付)海軍辞令公報(部内限)第220号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200
- ^ a b 「昭和14年7月25日(発令7月24日付)海軍辞令公報(部内限)第362号 p.46」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076000
- ^ a b 「昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.22」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400
- ^ a b 「昭和15年1月15日(発令1月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.12,15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ a b 「昭和17年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第926号 pp.44-45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086600
- ^ a b 「昭和18年1月27日(発令1月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1042号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089500
- ^ 「昭和18年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1106号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090800
- ^ a b 昭和18年3月1日付 横須賀鎮守府公報(部内限)第48号。
- ^ 「昭和18年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1240号 p.25」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093800
- ^ a b 「昭和19年5月3日(発令5月2日付)海軍辞令公報(部内限)第1459号 p.39」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098000
- ^ a b 「昭和19年5月11日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1468号 p.39」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098100