子日 (初春型駆逐艦)
子日 | |
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基本情報 | |
建造所 | 浦賀船渠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 初春型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | ①計画 [1] |
起工 | 1931年12月15日[2] |
進水 | 1932年12月22日[2] |
就役 | 1933年9月30日[2] |
最期 | 1942年7月5日戦没 |
除籍 | 1942年7月31日 |
要目(竣工時) | |
基準排水量 | 1,400t |
公試排水量 | 1,680t |
全長 | 109.5m |
最大幅 | 10.0m |
吃水 | 3.5m |
ボイラー | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | オール・ギアードタービン2基2軸 42,000hp |
最大速力 | 36.5ノット |
兵装 |
50口径12.7cm連装砲2基4門 同単装砲 1基1門 毘式四十粍機銃 2基 61cm3連装魚雷発射管3基9門 (八年式魚雷18本) |
子日(ねのひ)は、日本海軍の初春型駆逐艦2番艦である[3][4][5][6]。日本海軍の艦船名としては1905年(明治38年)竣工の神風型駆逐艦 (初代)子日に続いて2隻目。 1933年(昭和8年)9月に竣工した。戦闘詳報など公式記録で「子の日」「子ノ日」の表記もある[7]。1942年(昭和17年)7月、アリューシャン列島で潜水艦の攻撃を受け沈没した。
艦歴
[編集]建造~太平洋戦争開戦まで
[編集]浦賀船渠で仮称第60号駆逐艦として1931年(昭和6年)12月15日に起工した[2][8][9]。1932年(昭和7年)8月1日、艦艇類別等級表に初春型駆逐艦が新設され、3隻に初春、子日、若葉の艦名が与えられた[1][10]。12月22日に進水[2]。竣工前の1933年(昭和8年)9月、公試運転中の旋回性能試験で復原性能が著しく低いことが判明した。このため初春と同じ9月30日に竣工したが、すぐにバルジを増設する工事が行われた[2][11][12]。初春と子日は11月15日に第21駆逐隊を編制した。
しかし1934年(昭和9年)3月に友鶴事件が発生し、再び呉海軍工廠で大規模な改修工事に入った。初春と共に2番砲塔を後部に移すなど上部構造を含む大幅な変更を行い、外観も大きく変わった。建造中に同様の改装を行った4番艦初霜が9月27日、3番艦若葉が10月31日に竣工し、ようやく第21駆逐隊に同型4隻がそろった[13]。11月15日、第21駆逐隊は第一艦隊・第一水雷戦隊に編入した[14][15]。1935年(昭和10年)9月に第四艦隊事件が発生して船体強度の見直しが図られた結果、子日は佐世保工廠で三度目の大規模な工事を行い、最終的に最大速力が33ノットまで低下した[16]。
1939年(昭和14年)11月15日、第21駆逐隊は第二遣支艦隊第15戦隊に編入され、中国南部で活動した。1940年(昭和15年)7月、 ハノイに入港し仏印監視団の西原機関の無線局となった。さらにハイフォンに移動し9月までその役割を担った。11月15日、千本木十三四少佐が艦長に就任した[17]。
太平洋戦争緒戦
[編集]太平洋戦争開戦時、第21駆逐隊は第一艦隊と共に内海西部で待機した[18]。12月21日に小笠原諸島南西海面へ進出、真珠湾攻撃から帰投中の第一航空艦隊などを出迎えた[19]。1942年(昭和17年)1月、第21駆逐隊は輸送船団を護衛しダバオに入港した。1月25日、第21駆逐隊がスラウェシ島ケンダリを攻略した第一根拠地部隊(久保九次少将)に増援として合流した際、初春が軽巡洋艦長良と衝突して大破した[20]。子日は若葉と共に初春を護衛してダバオに戻った。
子日と初霜、若葉、長良は2月19日のバリ島攻略作戦に参加した。20日朝、バリ島沖海戦を戦った第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)と合流し、輸送船と共にマカッサルまで護衛した[21]。3月1日、スラバヤ沖海戦に敗れた連合軍艦隊の脱出を阻止するため、子日、若葉、初霜、測量艦筑紫でバリ海峡を警戒した[22]。米駆逐艦4隻が海峡に突入したが、損傷を与えられず逃走を許した。南方作戦と蘭印作戦が完了し、子日は内地に帰投した。4月20日、寺内三郎少佐が艦長に就任した[23]。
5月3日と4日、第二十一駆逐隊[24]は四国南方から九州東岸で対潜掃討を行った[25]。
北方への転戦、沈没
[編集]5月20日、第一水雷戦隊の「阿武隈」、第六駆逐隊、第二十一駆逐隊は北方部隊に編入[26]。第二十一駆逐隊は「阿武隈」などとともにAQ攻略部隊(AQはアッツ)として[27]AL作戦に参加した。
5月22日に「子日」、「若葉」は呉を出航し、5月24日に大湊に到着した[28]。AQ攻略部隊は5月29日に川内湾を出撃[29]。6月7日夜にアッツ島ホルツ湾外に到着し、8日には同島のチチャゴフを占領した[30]。9日、「阿武隈」、「子日」、「初霜」はセミチ島の掃海及び基地調査を行った[30]。10日にAQ攻略部隊の編制は解かれ、「子日」は単独で「富士山丸」の警戒に指定された[30]。11日に「富士山丸」と合流、以降は同船の護衛に従事した[31]。20日、第21駆逐隊はアッツ島周辺で水上機を展開する水上機部隊に編入された[32]。
21日、子日はアッツ島で富士山丸から給油中、艦尾方向800mで潜水艦を発見、爆雷で攻撃し、撃沈確実と報告した[7][33][34]。報告を受けた第五艦隊は潜水艦から機密文書を回収したいと考え、子日に現場に戻って沈没位置を特定するよう指示した[35]。「子日」は7月3日まで調査にあたったが沈没潜水艦は発見されず、その後水上機部隊との合流のためアガッツ島マクドナルド湾へと向かった[36]。
5日午後、視界2キロ以内の濃霧の中を速力9ノットで航海中、同島南端サバック岬(Cape Sabak)沖で米潜水艦トライトン が子日を雷撃した。12時50分に魚雷1本が右舷中央部に命中、艦体が前後に分かれて沈没した。[37][38]。寺内艦長等は転覆した船体に登り「子ノ日万歳」を唱えた後、行方不明になったという[39][40]。夏でも海水温が低い海域での遭難となり、乗員188名が戦死した[41]。
6日、水上機部隊はキスカ島での作戦をいったん中止し、駆逐艦電を捜索に派遣[40]。アガッツ島に上陸した生存者を発見、36名を救助した[42][43]。子日が撃沈された5日、キスカ島でも米潜水艦グロウラーの攻撃で駆逐艦 霰が沈没、霞と不知火が航行不能になり、北方部隊は増援部隊の帰投を決めた。7月31日、子日は帝国駆逐艦籍から除籍された[44]。
エピソード
[編集]上述の内容と合致しない点はあるが、海防艦「国後」副長であった相良辰雄によれば[45]、「国後」が北千島の前進根拠地に初めて入港したとき(具体的な場所や時期は書かれていない[46])、在泊中の「子日」が『貴艦はナニユエ本艦に敬礼サレザルヤ』と信号を送った。北村艦長が「ワレ国後ナリ」と返信を返すと、「国後」の艦長の方が階級が上のため「子日」艦長があわてて内火艇で謝りに来たという。
歴代艦長
[編集]艤装員長
[編集]艦長
[編集]- 植田弘之介 中佐:1933年9月30日[48] - 1935年11月9日[49]
- 長井純隆 少佐:1935年11月9日[49] - 1936年11月2日[50]
- (兼)丸安金兎 少佐:1936年11月2日[50] - 1936年12月1日[51]
- 岡本次郎 少佐:1936年12月1日[51] - 1937年12月1日[52]
- 新谷喜一 少佐:1937年12月1日[52] - 1939年10月10日[53]
- 杉岡幸七 少佐:1939年10月10日[53] - 1940年7月10日[54]
- 松本作次 少佐:1940年7月10日[54] - 1940年11月15日[17]
- 千本木十三四 少佐:1940年11月15日[17] - 1942年4月20日[23]
- 寺内三郎 少佐:1942年4月20日[23] - 7月5日戦死(任、海軍中佐)[55]
脚注
[編集]- ^ a b #達昭和7年8月pp.7-9『達第百六號 艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和七年八月一日 海軍大臣 岡田啓介|艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|驅逐艦 佐世保海軍工廠ニ於テ建造(昭和六年五月起工ノモノ)
初 春 |浦賀船渠株式會社子 日 |佐世保海軍工廠ニ於テ建造若 葉 |(略)』 - ^ a b c d e f #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『子日|一等駆逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|6-12-15|7-12-22|〃(8-9-30)|(艦装備略)』
- ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『驅逐艦|一等|初春型|初春、子日、若葉、初霜、有明、夕暮』
- ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.46『一等驅逐艦"子日 ねのひ" 全長102.96米、幅9.94米、平均喫水2.67米で、雲級雪級等の特型驅逐艦よりは一廻り艦型が小さく、月級に準ずるものであるが最新設計の新鋭驅逐艦である。同型艦に"初春 はつはる" "若葉 わかば" "初霜 はつしも" "有明 ありあけ" "夕暮 ゆふぐれ"の諸艦がある。更にそれにつゞいて "白露 しらつゆ" "夕立 ゆふだち" "時雨 しぐれ" "村雨 むらさめ" "五月雨 さみだれ" "春雨 はるさめ"等は排水量は同じく1,368頓であるが魚雷発射管が8門(四聯装)になつてゐる。昭和十一年末現在では村雨まで竣工してゐた。一等驅逐艦合計七十席98,837頓である。第二次補充計畫で目下建造中の諸艦は"朝潮" "大潮" "満潮" "荒潮" "夏雲" "山風" "江風" "海風" "涼風"の諸艦がある。』
- ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.52『一等驅逐艦"子日 ねのひ" 全要目{排水量1,368噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲5門 魚雷發射管6門 起工昭和6年12月 竣工昭和8年9月 建造所浦賀船渠會社} 同型艦同型艦に"初春 はつはる" "若葉 わかば" "初霜 はつしも" "有明 ありあけ" "夕暮 ゆうぐれ" "白露 しらつゆ" "時雨 しぐれ" "村雨 むらさめ" これが現在既成驅逐艦中の最新式のものである。全長102.96米、幅9.94米、平均吃水2.67米。この艦の竣工した以前に竣工してゐる吹雪級の要目と比較して見て大いさと云ひ又兵装と云ひすべてに於てやゝ縮小されてゐるのは一萬噸級巡洋艦の最新艦である愛宕級が、その以前に出来た那智級に比較してやゝ縮小された艦型となつてゐるのとよく似てゐて興味深い。必ずや此種の一等驅逐艦にもそれ以前の吹雪級一等驅逐艦に勝る何物かゞなくてはならぬ筈である。我が海軍の有する一等驅逐艦は既成艦71隻合計排水量計(基準)99,153噸、未成艦3隻合計噸數(基準)4,104噸である。』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.209『◎驅逐艦初春外二隻伊號第六十八潜水艦外一隻水雷艇千鳥外一隻掃海艇第十三號外一隻敷設艇夏島命名ノ件 昭和七年八月一日(達第一〇六) 艦艇製造費ヲ以テ昭和六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艇一隻ニ左ノ通命名ス|驅逐艦 佐世保海軍工廠ニ於テ建造(昭和六年五月起工ノモノ)
初 春 |浦賀船渠株式會社子 日 |佐世保海軍工廠ニ於テ建造若 葉 (略)』 - ^ a b #S17.06.17-06.30経過概要p.9『17-6|21|「キスカ」第一期防備施設概成ス 「アッツ」島「チチヤゴフ」湾ニテ富士山丸ニ横付補給中ノ 子ノ日 ハ艦尾800mニ敵(潜水艦)発見有効ナル爆雷攻撃(21dg/1sd 子ノ日)』
- ^ #第4055号子日pp.1-2『(宛略)艦船要目ニ関スル件照會 昭和六年十二月十五日駆逐艦仮称第六十號起工致候處(以下略)』
- ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『若葉|一等駆逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|6-12-12|9-3-18|9-10-31|(艦装備略)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.68『昭和七年八月一日(内令二四五)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦、巡洋艦、二等ノ部中夕張ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |最上型|最上、三隈| 驅逐艦、一等ノ部中吹雪型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |初春型|初春、子日、若葉(略)』
- ^ #第4459号子ノ日pp.1-2『驅逐艦初春(ハツハル)及駆逐艦子日(ネノヒ)竣工致候處千九百三十年「ロンドン」海軍條約第十條(ロ)項ニ依ル細目左記ノ通ニ付関係各國ニ通知方可然御取計相成度 記|驅逐艦名:子日(假称第六十號)|起工年月日:昭和六年(一九三一年)十二月十五日|竣工年月日:昭和八年(一九三三年)九月三十日(以下略)』
- ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『初春|一等駆逐艦|(艦要目略)|佐世保工廠|6-5-14|8-2-27|8-9-30|(艦装備略)』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.69-70『昭和八、一一、一五(内令三五二)|佐世保鎮守府|初春、子日|初霜(九、九、二七 三八〇)/若葉(九、一〇、三一 四二九)』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.47-48『昭和九、一一、一五(内令四七六)|聯合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 榛名、扶桑、山城、伊勢/第二戰隊/第八戰隊 長良、五十鈴、名取/第一水雷戰隊 阿武隈、第二十一、第二十二、第二十九驅逐隊/第一潜水戰隊 多摩、第七、第八潜水隊/第三潜水戦隊/第一航空戰隊 鳳翔、龍驤、第五驅逐隊』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.48-49『昭和一〇、一一、一五(内令四五八)|聯合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 長門、扶桑、山城、榛名/第三戰隊/第八戰隊 神通、長良、川内/第一水雷戰隊 阿武隈、第九、第二十一、第三十驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨、第十八、第十九、第二十八潜水隊/第一航空戰隊 鳳翔、龍驤、第五驅逐隊|昭和十年 聯合艦隊二、一(内令四二)鶴見|昭和十年(略)第一艦隊八、一五(内令三二一)伊勢(一戰)』
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.71『昭和一〇、一一、一五(内令四五九)|横須賀鎮守府| |第九驅逐隊|有明、夕暮|白露、時雨(一一、一一、一 四〇三)|/|佐世保鎮守府| |第二十一驅逐隊|初春、子日、初霜、若葉|/|第三十驅逐隊|睦月、如月、彌生、卯月|』
- ^ a b c 「昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 p.18-19」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ #海軍駆逐隊(2015)308頁
- ^ #S1612五航戦(経過)pp.3-4『(六)同夜機動部隊ハ南方ニ偽航路ヲ執リ爾後概ネ16節乃至20節ヲ以テ硫黄島ノ南方海面ヲ経テ21日朝父島ノ南西方約350浬ニ於テ第21、第27駆逐隊及第2補給隊ト合同豊後水道方面ニ向ヒツヽ警戒隊ハ第二補給隊ヨリ補給ヲ行ヒ同夜第二補給隊ヲ分離、23日0930豊後水道掃海水道外ニ達シ呉鎮守府防備部隊ノ警戒裡ニ内海ニ入リ1833廣島湾ニ假泊24日1345假泊地発1600呉ニ入港セリ』
- ^ #叢書26海軍進攻作戦210-213頁
- ^ #叢書26海軍進攻作戦332頁
- ^ #叢書26海軍進攻作戦478頁
- ^ a b c 「昭和17年4月20日(発令4月20日付)海軍辞令公報(部内限)第845号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200
- ^ 戦史叢書によれば「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」だが、昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(6)、第44画像では「初春」欠となっている。
- ^ 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、603ページ
- ^ 戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦、229ページ
- ^ 戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦、229-231ページ、戦史叢書第43巻 ミッドウェー海戦、234ページ
- ^ 昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(6)、6-7ページ
- ^ 戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦、254ページ
- ^ a b c 戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦、255ページ
- ^ #あ号作戦日誌(4)pp.6-8『十日(イ)子ノ日 富士山丸警戒ノ為待機点ニ向ケ「ホルツ」湾發/(ロ)當隊(子ノ日欠)主隊ニ合同ノ為「ホルツ」湾発(略)』『十一日(イ)當隊(子ノ日欠)「アムトチカ」島掃蕩軍事施設調査ノ為同島ニ向フ/(ロ)子ノ日 富士山丸ニ合同/(ハ)第二十一駆逐隊一小隊「コンスタンチン」港着』『十八日(イ)富士山丸、子ノ日「ホルツ」湾着/(ロ)富士山丸、子ノ日 待機点ニ向ケ「ホルツ」湾発』『十九日(イ)木曽 當隊ニ合同、多摩ニ對スル本職ノ直接指揮ヲ解ク/(ロ)富士山丸、子ノ日 補給ノ爲阿武隈ニ合同即日分離「アツツ」島ニ向フ』
- ^ #あ号作戦日誌(4)p.9『二十日(イ)第三軍隊區分発令セラレ當隊(驅逐隊欠)第二支援部隊ニ編入セラレ第五戰隊司令官ノ指揮下ニ入ル/(ロ)第二十一驅逐隊水上機部隊ニ編入セラル』p.11-12『四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #叢書29北東方面273頁
- ^ #第五艦隊日誌(2)p.37『月日/六月二一日|撃沈艦艇/子日|撃沈場所/「チチヤゴク」湾外』
- ^ #叢書29北東方面273頁(6月25日の第五艦隊参謀長の希望)『「子ノ日」ノ撃沈セル潜水艦ヨリ機密図書引揚ノ希望アルニ付一時「子ノ日」ヲ現場ニ派遣 水深調査、位置浮標設置方取計ハレ度』
- ^ 戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦、273-274ページ
- ^ #S17.07.01-07.15経過概要p.9『17-7|5|1300前|子日(21dg)「マクドナルド」湾口ニテ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク(1Sd/1F)|北方|魚雷命中沈没/艦長以下乗員多数ハ艦ト運命ヲ共ニス、一等兵曹以下三六名 電 ニ救助サル/占領直後「キスカ」湾口ニテ撃沈セル(潜水艦)ノ確認作業ヲ終リテ水上機部隊ニ合同ノ為「アガッツ」島ニ近接中濃霧ニテ視界二〇〇〇米以内ノタメ速力9kt、見張ガ充分ナラザル為ナルベシ』
- ^ #潜水艦戦争196頁
- ^ #S1705一水戦日誌(4)p.18『五日2240電駆逐艦長|六日0015第一水雷戰隊司令官|電機密第110番電 子日ハ五日1250霧中(視界二粁)「アガツ」島ドツク岬ニ半速ニテ接近中右舷梯附近ニ魚雷1命中艦体2ツニ切断瞬時ニ沈没ス驅逐艦長以下巓覆艦體ニアリテ子ノ日萬歳ヲ三唱セル後艦ト運命ヲ共ニセリ』
- ^ a b #S1705一水戦日誌(4)pp.20-21『六日1140水上機部隊指揮官|六日1450北方部隊指揮官、第一水雷戦隊司令官|水上機部隊機密第八五三番電 子日ハ「チチヤゴフ」ニ於ケル撃沈潜水艦捜索作業一段落後七月四日1700同地發當隊ニ合同ノ目的ヲ以テ行動セリ同日當隊ハ水上偵察機鳴神島進出準備ノタメ「アガツツ」「マクドナルド」湾ニ假泊ノ目的ヲ以テ濃霧ヲ冒シ同島南方海面ヲ北上中ナシリヲ以テ同艦ヲシテ同湾ニ於テ合同セシムベク五日0710同湾附近ヲ機宜行動天候ヲ通報スベキ旨發令セリ 然ルニ其ノ後天候ヲ!?!?〔原文〕ラザルヲ以テ1220之ガ催促電報ヲ発シタルニ之ニ對スル應答ヲ最後トシテ無線通信ヲ絶テリ以上ノ状況ヨリ判断シ子ノ日ハ「マクドナルド」湾附近ニ於テ敵潜ノ攻撃ヲ受ケ遭難セルモノト認メラルルヲ以テ基地進出ヲ暫ク見合シ本六日0830電ヲシテ同艦ノ捜索救助ニ急派セリ尚當方面連日濃霧ノ爲作業困難ナルモノデ天候回復セバ飛行機ヲ以テ捜索ニ協力セントス』
- ^ #海軍駆逐隊(2015)310頁
- ^ #電詳報其壱(1)1707pp.1-2『七月六日神川丸信令第二二號ニヨリ七月五日一二〇〇ヨリ無線連絡途絶エタル驅逐艦子ノ日捜索ノ爲「アガツ」島「マクドナルド」灣ニ至リ濃霧中附近一帯ヲ捜索中同島上ニ在リシ子ノ日生存者三十六名ヲ発見直ニ短艇ヲ卸シ救出後水上機部隊ニ合同セントシテ同島南方方面(北緯五二度一六分東経一七三度四八分)ヲ十六節ニテ西行中(艦内哨戒第一配備附近濃霧)仝日一六〇九右舷一四〇度三〇〇米ニ潜望鏡續イテ雷跡三ヲ発見之ヲ回避後反轉シテ二回ニ亙リ適確ナル爆雷攻撃ヲ實施セリ』
- ^ #叢書29北東方面274頁
- ^ #内令昭和17年7月(4)p.39『内令第千三百九十二號 呉鎮守府在籍 驅逐艦 霰|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 子日|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|昭和十七年七月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎』
- ^ 海防艦「国後」と北千島作戦、67-68ページ
- ^ 日本海防艦戦史、14ページには昭和17年とある
- ^ 昭和8年5月22日(月)官報第1914号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958386 p.5
- ^ a b 昭和8年10月2日(月)官報第2027号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958499 p.6佐藤・植田補職
- ^ a b 昭和10年11月11日(月)官報第2638号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959137 p.4
- ^ a b 昭和11年11月4日(水)官報第2953号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959435 p.8
- ^ a b 昭和11年12月2日 官報第2976号。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959458 p.23-24
- ^ a b 「昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 p.23、36」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ a b 「昭和14年10月10日(発令10月10日付)海軍辞令公報(部内限)第389号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400
- ^ a b 「昭和15年7月10日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第502号 p.20、21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078400
- ^ 「昭和17年8月12日(発令7月5日付)海軍辞令公報(部内限)第919号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086600
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』海軍大臣官房、1939年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』海軍大臣官房、1940年。
- 海軍研究社編輯部 編『日本軍艦集 2600年版』海軍研究社、1940年7月。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071974300。
- 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13072003500。
- 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年7月分(4)』。Ref.C12070164300。
- 『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(3)』。Ref.C12070164600。
- 『昭和7年達完/8月』。Ref.C12070095000。
- 『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日/除籍艦艇/駆逐艦(2)』。Ref.C14010006000。
- 『第3983号6.12.23若葉』。Ref.C05110623300。
- 『第4055号6.12.15子日』。Ref.C05110623400。
- 『第4459号8.10.7子ノ日』。Ref.C05110628600。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和16年12月/1.経過』。Ref.C13120032900。
- 『昭和16年12月8日~昭和18年8月31日 第1根拠地隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030246100。
- 『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌AL作戦(2)』。Ref.C08030019100。
- 『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030081200。
- 『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030081300。
- 『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030081400。
- 『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030081500。
- 『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030081600。
- 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)/表題は『あ号作戦』だが昭和17年6月の一水戦日誌収録』。Ref.C08030040100。
- 『昭和17年7月6日~昭和17年12月3日 駆逐艦電戦闘詳報原稿 その1(1)』。Ref.C08030752300。
- 『昭和17.4.11~昭和17.6.30 太平洋戦争経過概要 その2/17年6月1日~17年6月16日』。Ref.C16120632600。
- 『昭和17.4.11~昭和17.6.30 太平洋戦争経過概要 その2/17年6月17日~17年6月30日』。Ref.C16120632700。
- 『昭和17.7.1~昭和17.9.28 太平洋戦争経過概要 その3/17年7月1日~17年7月15日』。Ref.C16120633100。
- 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和17年7月』。Ref.C16120657100。
- 昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(6)、Ref.C08030080700
- 相良辰雄「海防艦「国後」と北千島作戦」『丸エキストラ 戦史と旅 No.34』(潮書房、2002年)
- 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- 戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後』
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
- 戦史研究家佐伯玲治『北方から南方へ第二十一駆逐隊の栄光 初春、子日、初霜、若葉。第一水雷戦隊の初春型駆逐艦四隻の転戦譜』
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- レオンス・ペイヤール著、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで』朝雲新聞社
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第43巻 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。