「ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の版間の差分
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{{talkheader}} |
{{talkheader}} |
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{{論争的}} |
{{論争的}} |
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{{良質な記事 |
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| 選考理由 = [[Wikipedia:月間新記事賞/2006年10月|月間新記事賞]] |
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| よみがな = せいきようふんりのれきし |
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{{出典検索|政教分離}} |
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{{calm talk}} |
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{{利用者:ArchiverBot/config |
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|archiveheader = {{archives}} |
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|maxarchivesize = 70K |
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|counter = 2 |
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|algo = old(75d) |
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|archive = ノート:政教分離の歴史/過去ログ%(counter)d |
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{{archives3}} |
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{{選考審査の記録 |
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== 分割を差し戻しました == |
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|現状ステータス = |
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|デフォルトソート = よおろつはにおけるせいきようふんりのれきし |
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|タイプ1 = |
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IP氏による恣意的な分割を差し戻しました。--[[特別:投稿記録/2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A|2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A]] 2016年12月23日 (金) 05:36 (UTC) |
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|過程1 = [[Wikipedia:月間新記事賞/2006年10月|月間新記事賞]] |
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#分割にあたって議論や合意形成がなされた痕跡がありません。 |
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|結果1 = 良質な記事自動選出 |
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#記事としては一貫性があり、分割する理由がないように思われます。 |
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|日付1 = 20061010 |
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#政教分離は「Separation of church and state」の訳語であり、その意味には制度と思想が含まれます。分割前の記述は教会と国家の分離の歴史記述としては思想・制度両面に及んでおり、網羅的ではないものの、いまのところ妥当なように思われます。 |
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#分割後の記事で新規作成のものに単純な事実誤認が確認しただけでも相当数あるように思います。記事内容が適切に分割されていないようです。分割の議論も分割先記事との整合性も含めて丁寧に検討された形跡がありません。 |
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#技術的な問題として、明らかにおかしな出典箇所があったので確認したところ出典情報が正しく継承されていないようです。修正する必要がありそうです。 |
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#IP氏はかなりの記述を出典不明やエッセイ的であるとして削除しているようですが、その選択は恣意的なように思われます。「要出典」タグの利用やノートでの議論などが行われていないようです。正教会の記述を削除するのは政教分離の本来の意味からも明らかに問題があるように思われます。 |
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#言語間リンクは英語版「中世の国家と教会」とのリンクになっており、分割前の記述の方が内容的にも妥当に思われます。記述に一貫性があると思われることから、むしろ分割より改名がよさそうな気がします。 |
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以上の理由から分割を不適当とし、差し戻しを行いました。--[[特別:投稿記録/2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A|2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A]] 2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC) |
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|タイプ2 = FAN |
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*[[#項目一部転記提案]]にて[[Wikipedia:ページの分割と統合]]に準じて転記をしました。反対意見が表明されなかったので実行しました。よって、痕跡がないとは偽りです。 |
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|過程2 = 政教分離の歴史 20070225 |
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*[[Wikipedia:過剰な内容の整理]]、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]、[[Wikipedia:出典を明記する]]に準じて推敲し、整理しました。2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の差し戻しでは出典のない独自研究が復帰され、私が出典を明記した箇所を削除しています(例えば、世界大百科事典「政教分離」を出典にした冒頭箇所)。[[WP:UNSOURCED|出典を示す責任は掲載を希望する側にあります]]。そこには「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」とあり、ノートへの移動も提案されています。参考文献も実際に使用されたのか、関連文献ではないでしょうか。脚注を用いて出典として利用してください。なんでもかんでも「関連があるから」と掲載するのは不適切です。[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか]]の「学術雑誌ではありません」では、「ウィキペディアの記事を、読者がその主題の分野に精通しているという前提で書いてはなりません。」とあり、これにも準じましたし、「政教分離の歴史」という題の記事で、西欧キリスト教の概説や宗教改革の変遷を書きすぎです。全文にわたって、「政教分離の歴史」との関連を示す根拠となる出典を提示してください。他の記事への執筆も検討してください。 |
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|結果2 = 不通過 |
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*「単純な事実誤認」「おかしな出典箇所」などはどの箇所のことか明示してください。 |
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*IP:110.132.106.234 氏の2016年12月18日 (日) 04:48および 2016年12月20日 (火) 18:02 の差し戻し、2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の 2016年12月23日 (金) 05:32の差し戻しも、ノートで提案されたうえで実行されていません。ノートでの提案は差し戻し後の2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC)に書かれています。 |
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*英語版の[[:en:Church and state in medieval Europe]]は13,441バイト程度の記事で、日本版の48万バイトの分量に対応していません。一つの記事として内容が過剰で、整理すべきです。 |
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*正教会の事情は、政教分離の歴史と関係があるとする出典がありません。出典がないので、独自研究とみなすほかありません。復帰するならば、出典を提示してください。また、完全に削除したのでもありません。 |
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以上のように問題点が何一つ改善されていないので、差し戻します。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月21日 (火) 05:01 (UTC) |
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|タイプ3 = GAN |
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:本記事の内容は膨大ですので、まず[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが問題点を一つずつ整理して提示してください。節ごとに内容を吟味して添削・加筆修正を行うのが適切と思われます。それぞれの箇所で[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの分割の問題点、分割後の記述の不適切さ、出典の誤記問題などについて逐一確認するのがよいでしょう。とりあえず記事内容を差し戻しました。本記事は良質な記事に選定されていますし、出典も明記されております。独断で記事を編集するのではなく、記事内容の充実のため、協力が必要です。まずは節ごとに適宜議論して推敲していきましょう。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:DEE0:C121:6510:9BAF:29CE|2001:268:C068:DEE0:C121:6510:9BAF:29CE]] 2017年2月21日 (火) 06:55 (UTC) |
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|過程3 = 政教分離の歴史 20101122 |
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:それと議論をスムーズに進めるために、本記事のテーマにおいて[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが全体の見通しとして真っ先に参照すべき、中心をなすと思われる文献がありましたら、提示してください。それを踏まえて記事内容を吟味できればスムーズになると思います。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD9F|2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD9F]] 2017年2月21日 (火) 07:15 (UTC) |
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|結果3 = 選考無効 |
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|タイプ4 = GAR |
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私の指摘に回答してください。出典のない文章は独自研究です。ウィキペディアは独自研究を掲載する場所ではありません。冒頭の「政教分離の歴史では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する、このように限定することの根拠は「基本的な視野」で詳しく記述する。なぜヨーロッパの国家としてビザンツ帝国が除外されうるかについても同様。基本的には森安達也の『近代国家とキリスト教』の理論枠組と観点に基づく。」でさえも、森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて「政教分離の歴史」を書くこと自体が独自研究であり、情報の合成です。自分でも認めているように、「キリスト教と国家」の記事を作るか、キリスト教史関連の別の記事で書くべき内容です。「基本的な視野」以下、出典のないものは削除対象です。信頼できる記述なのか、検証ができません。[[WP:UNSOURCED|出典を示す責任は掲載を希望する側にあります]]。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月21日 (火) 08:17 (UTC) |
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|過程4 = キリスト教国家論の歴史 20170704 |
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|結果4 = 除去 |
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}} |
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{{Section sizes}} |
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{{出典検索|政教分離}} |
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{{利用者:ArchiverBot/config |
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世界大百科事典「政教分離」項目によれば、「政教分離の画期としては[[叙任権闘争]],[[宗教戦争]],[[フランス革命]]がある」。そして、この説明は一般的にも理解されているものです。森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて古代から中世の関連国について書こうとすること、そしてそれを「政教分離の歴史」記事で書くこと自体が独自研究であり、不適切です。「政教分離の歴史」では、[[政教分離]]の歴史について書くべきです。文中で使用される語句について、古代からの歴史的変遷をすべて述べていくような態度は不適切です。「政教分離の歴史」について知りたい読者・閲覧者のことを配慮してください。自分の歴史認識を演説しないでください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月21日 (火) 08:26 (UTC) |
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|archiveheader = {{archives}} |
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:まず基本的なこととして、この記事のメインテーマは森安達也さんの『近代国家とキリスト教』に依拠している(と書かれていますので、その)ように思われます。また政教分離は「(Separation of)Church and state」の訳語ですから、森安さんの著作が「国家とキリスト教」についてのものであるならば、一応その見通しは正しいかもしれないと推測できます。そして記事は出典を明記しているように思われます。出典のある記述を削除したり分割したりすることはどのようにして正当化されるのか私にはわかりません。また[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの言い分を読みますと、記事を「国家とキリスト教」に改名すれば問題ないと思うのですが。なぜ分割されたのかわかりませんし、元の記事の出典情報が移動先にすべて移されていないのも問題ではないでしょうか。[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは記事の記述を移動するときに出典を確認していらっしゃったのでしょうか。そして出典は世界大百科事典というような辞典類の簡単な記述ではなく、お手数ですが、議論の進展のため、まずは[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの編集に際して依拠した文献を示してくださいますよう。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8|2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8]] |
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|maxarchivesize = 100K |
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:よりよい「政教分離の歴史」記事にするために、まずは全体の見通しについて[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが依拠すべきと考える文献を提示してくださいませ。いまのままでは[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの編集行為はそれこそ独自研究で行っているように思われますから、まずは文献を確認するところから始めませんか。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8|2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8]] 2017年2月21日 (火) 08:37 (UTC) |
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|counter = 10 |
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|minthreadsleft = 4 |
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|minthreadstoarchive = 2 |
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|algo = old(31d) |
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|archive = ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史/過去ログ%(counter)d |
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}} |
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{{Archive box| |
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* [[/過去ログ1]] |
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* [[/過去ログ2]] |
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* [[/過去ログ3]] |
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* [[/過去ログ4]] |
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* [[/過去ログ5]] |
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* [[/過去ログ6]] |
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* [[/過去ログ7]] |
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* [[/過去ログ8]] |
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* [[/過去ログ9]] |
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* [[/過去ログ10]] |search=yes}} |
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== 報告&改めて提案 == |
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まったく正しくないです。森安本はキリスト教と国家との関係について書かれた本であり、政教分離の歴史として書かれたものではありません。記事を「国家とキリスト教」に改名すればいいといいますが、それも不適切です。「政教分離」について、[[叙任権闘争]],[[宗教戦争]],[[フランス革命]]以降の世俗化までを概観していている記事は必要です。世界大百科事典は出典として有効です。[[WP:UNSOURCED|出典を示す責任は掲載を希望する側にあります]]。出典を提示できないなら削除された版を復帰することに明確に反対します。また、[https://ja-two.iwiki.icu/wiki/ノート:政教分離の歴史/過去ログ1 過去ログ1]を見ると、問題となっている版を書いたとおもわれるKanbun氏による版(2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD氏が差し戻している版もこの版なので、以下、Kanbun版と称します)についての議論でも、分割提案や長過ぎるという意見について差し戻しが繰り返されています。しかし、私は単に長過ぎるだけでなく、そもそも、この記事内容を書く場所としてこの記事は不適切であると指摘しています。したがって、Kanbun版は膨大な独自研究といえます。出典を明記するとは、自分の知っている参考文献のタイトルを並べることではありません。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月21日 (火) 08:45 (UTC) |
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=== 報告 === |
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:私には[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの論理は成り立たないように思われます。分割提案や長すぎるという点にはやはりどうしてそれが長すぎるのか、適切な形にすればどうすればよいかという議論が発生しますし、そこで個人の独自な視点の押し付け合いになってしまうのは問題があります。そのためウィキペディアでは中立的な観点と出典の明記という規則があり、それに則って折り合いをつけるべきではないでしょうか。方針文書はそのように推奨していると思われます。したがって、まずは文献情報を交換し、個々の節単位でその内容の妥当性を吟味すべきではないでしょうか。また政教分離というのは国家とキリスト教を代表とする宗教団体の分離をまずいい、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんのおっしゃっているのは「世俗化」とか「世俗主義」と言われるもののように思われます。そして周知の通り、ヨーロッパでは政教分離の歴史はまずキリスト教と世俗権力の関係性の問題とその分離という方向で決着したのであり、政教分離の歴史は国家とキリスト教の関係史であることは自明だと思われるのですが(この点について文献をあげろと言われればいくらでもあります、たとえば欧州中世史では山田欣吾『教会から国家へ』)、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんはどんな文献に依拠して議論をなさっているのでしょうか。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8|2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8]] 2017年2月21日 (火) 08:55 (UTC) |
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* {{報告}} ノートでの合意にもとづき、 |
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:「1 政教分離における歴史学的視座」にコントアウトを付し、 |
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:「2.2 古代のキリスト教思想(〜500年)」を「[[初期キリスト教]]」に移動し、 |
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:「2.3 キリスト教普遍世界(500年〜1500年)」を「[[中世ヨーロッパ]]」に移動しました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月23日 (金) 10:47 (UTC) |
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:* {{確認}} 合意部分の編集、ありがとうございます。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<small>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</small>] 2017年6月23日 (金) 11:29 (UTC) |
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:* {{確認}}[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんの編集を確認するとともに、全面的に支持します。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年6月23日 (金) 11:37 (UTC) |
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:* {{確認}} 編集ありがとうございます。正直このノートで話してきた事が全部無駄に終わるんじゃないかと不安でしたw。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年6月23日 (金) 12:35 (UTC) |
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:* {{確認}} Greenland4さん、おつかれさまです。ありがとうございます。--[[利用者:Moon.rise|Moon.rise]]([[利用者‐会話:Moon.rise|会話]]) 2017年6月23日 (金) 12:46 (UTC) |
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:* {{確認}} 移動編集ありがとうございます。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年6月23日 (金) 15:41 (UTC) |
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:* {{確認}} ありがとうございます。書式の微調整などを行いました。不備が見つかりましたら、修正をお願いします。残った案件は記事名の確定と、フランス革命などの追記(「竜頭蛇尾」状態の克服)でしょうか。記事のラストをどの部分にするのかも検討が必要ですね。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年6月23日 (金) 15:50 (UTC) |
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==== 関連する質問・提案・報告等 ==== |
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(サブ節化させていただきました) --[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月24日 (土) 15:45 (UTC) |
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(質問と提案)横からすみません。前回の改名提案の手続きはいつだったのでしょうか。[[Wikipedia:改名提案]]をみても探すことができませんでした。今回の[[Wikipedia:分割提案|分割提案]]はSusukaさんがやってくださって助かったのですが。もし、手続きをしていないのだとしたら、いったん分割前の名称「政教分離の歴史」に差し戻すべきではないでしょうか。そのうえで、あらためて「キリスト教国家論の歴史」など、正式に改名提案をおこなうべきではないかと思いますが、いかがでしょうか。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月24日 (土) 13:12 (UTC) |
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::Susuka(会話)さんが[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Wikipedia:改名提案&diff=prev&oldid=63319279 2017年3月11日 (土) 17:20]に提案されています。その後、議論停止案件で除去されました[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Wikipedia:改名提案&diff=63974931&oldid=63974631]。大和屋敷さんの「キリスト教国家論の歴史」の改名提案は [https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Wikipedia:改名提案&diff=64252392&oldid=64252219 2017年5月27日 (土) 12:09]です。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年6月24日 (土) 13:39 (UTC) |
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::: {{返信}}そうでしたか。過去ログはまったく見ていないのでトンチンカンな質問をしてしまいました。御丁寧な返答、ありがとうございました。提案を取り下げます。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月24日 (土) 13:44 (UTC) |
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* {{報告}} 本記事分割前の中世部分=新記事「[[中世ヨーロッパ]]」について、改名提案をおこないました。議論は[[ノート:中世ヨーロッパ]]にて。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月24日 (土) 13:35 (UTC) |
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* {{報告}} 本記事について[[Wikipedia:改名提案]]にて改名の手続きをおこない、記事冒頭に通知タグを添付しました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月24日 (土) 15:45 (UTC) |
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:: {{報告}} 本記事分割前の中世部分について、ノートでの合意が成立し、「[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]」への改名作業をおこないました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月1日 (土) 18:32 (UTC) |
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*{{報告}} [[レス・プブリカ]]を作成しました。 [[レス・プブリカ・クリスティアナ]]も作成予定です。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年6月25日 (日) 13:59 (UTC) |
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:{{コメント}} 121.107.209.16さん、新記事作成お疲れ様です。そして、ありがとうございます。上でYuukin0248さんもおっしゃっていますが、「要出典」タグ、「独自研究」タグが異様に貼られていて、本記事、「初期キリスト教」、「中世ヨーロッパ」(「中世ヨーロッパにおける教会と国家」に改名を提案中)、いずれも、よく練られた素晴らしい文章であるにもかかわらず、可読性がおおいに損なわれています。こういうタグが貼られてしまうと、どんなによいことが書いてあっても「文字列」にしかみえないような人も出てきてしまうので、実に不毛で情けない話です。これは、本改名提案とは別に今からでも着手できることであり、また、緊急に取り組まなければならないことでもあります。今は、出典に関しては以前より厳しくなっていて、極端な話、一つの文につき一つ以上の出典をつけなければならないような状況ですので、そのあたりもお含みいただいて、各自、可読性の向上に御協力くださいますよう、よろしくお願いいたします。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月26日 (月) 00:29 (UTC) |
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そもそも、政教分離の歴史で、米国における展開も非常に重要なのです。古代、中世の制度と諸国家の詳細な説明よりも、政教分離の歴史について、一般の読者に理解できるように書く努力をしてください。たとえば、 |
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:: {{コ}}言葉足らずでした。121.107.209.16さんには、分割後の2記事について「正確性」タグの除去などの作業をしていただいており、可読性が格段に向上しております。上のお願いは主として本記事にかかわることです。検証可能性に関しては、山川出版社の「宗教の世界史」シリーズなどでも相当補えるものと思います。 |
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*新 田 浩 司「[http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun14-2.3/03nitta.pdf 政教分離と市民宗教についての法学的考察]」『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第 14 巻 第2・3合併号 2012年1月 21頁〜 35頁 |
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::*{{Cite|和書|author=[[松本宣郎]]|title=キリスト教の歴史(I)|publisher=[[山川出版社]]|series=宗教の世界史|year=2009|month=8|isbn=4634431386}} |
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*井 上 修 一「[http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KO/0021/KO00210L001.pdf フランスにおける政教分離の法の展開]」佛教大学教育学部論集 第2 号(20 0年3月) |
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::よろしくお願いします。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月26日 (月) 00:56 (UTC) |
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*佐々木弘道「[http://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-064-079.pdf 合衆国憲法の政教分離条項]」 |
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などを参照して書くべきで、森安達也『近代国家とキリスト教』も該当箇所について参照することに反対しませんが、古代〜中世〜近代国家とキリスト教の通史をこの記事で書くことには明確に反対します。「[[政教分離]]」の歴史であって、キリスト教と国家の関係史は別の記事で書くべきです。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月21日 (火) 09:00 (UTC) |
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:根本的な問題として以上の論考は近代以後のものであり、近代以前を対象としていませんよね。しかしながら、一般にヨーロッパの政教分離の歴史は古代キリスト教思想と絡めつつ、中世以来の国家とキリスト教の合体と分離、その結果として国家が世俗化されて近代国家は生じてくるという国制史的視点に長い伝統があります。その点についてなぜ政教分離の歴史で扱うべきでないかという点について、全く文献的なフォローがされていないのは問題です。これは歴史学的には常識ではないかと思われるのですが、どうでしょうか。そしてそもそも[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは分割時には必ず必要となると思いますが、この記事の挙げる文献を確認していらっしゃるのですか。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8|2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8]] 2017年2月21日 (火) 09:06 (UTC) |
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::: その「要出典」は多くは私が付与したものですが、それは硯箱さんとの対立的な議論のなか、「そこまでいうなら出典くらい明記してください」という思いを込めて付けたものでした。しかしそれも過去の話で、分割が実現できましたので協力します。本音からいえば、山川各国史などで出典を明記することなど容易であったのに、硯箱さんが学会で一流と認知された学者の出典に厳密に依拠するべきだといった議論にもっていかれ、私もそれに感情的に反応したためにここまで長くなったのだと思います。勉強になりましたので、今となっては有益であるとは思えますが。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年6月28日 (水) 15:52 (UTC) |
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{{報告}}[https://ja-two.iwiki.icu/wiki/Template:%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 「政教分離の歴史」のテンプレート]]をつくっておきました。この記事のタイトルがどうなるかは別として、テンプレートくらいは必要だと判断しました。最低限、121.107.209.16さんのつくってくださった「[[イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史]]」の記事には貼るべきと考え、貼っておきました。他の記事への貼付はいましばらく待った方がよいと思いますので、今は、それだけにとどめておきます。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月1日 (土) 00:32 (UTC) |
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*本節を移動しました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月1日 (土) 19:54 (UTC) |
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:そうではありません。近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離であるというのは国制史の常識です。山田欣吾『教会から国家へ』の冒頭だけでも立ち読みしてください。そこに答えが書いてあります。ほかにも文献はいくらでもありますが、大学図書館であれば必ずあるのでそれを確認するのが一番簡単です。詭弁とののしられても[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの主張は文献的な裏付けがない以上、ウィキペディアでは独自研究です。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8|2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8]] 2017年2月21日 (火) 09:16 (UTC) |
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=== 改めて提案 === |
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「近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離である」と書いてあるなら、何頁に書いてありますか?引用して説明してください。しかし、そうした見解があるとしても、それは[[政教分離]]の記事で定義の一説として書くべきでしょうね。文献的な裏付けがないのはKanbun版です。[[中世国家論争]]や[[ヨーロッパ中世国家]]などを立項するのも検討してみてください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月21日 (火) 09:24 (UTC) |
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* {{提案}} みなさま、御確認ありがとうございました。図らずも無知浅学で我がまま気まま、礼儀知らずな私が、分不相応にもかかわらず進行役のようなかたちとなり、みなさまにたいへん不愉快な思いをさせてきたのではないかと思います。数々の不行き届きの段、お許しください。水に流していただけると幸いです。とくに硯箱さんには大変無礼なことを申し上げました。重ねてお詫び申し上げます。さて、前回提案の(1)~(6)のうち、前節報告のコメントアウトおよび移動編集によって、(1)~(3)は解決したことになります。121.107.209.16さん、Susukaさんには移動後の書式調整など御尽力いただきまして、ありがとうございました。移動後の各記事をみれば、いかにこの記事が精魂込められた素晴らしい記事であるかがわかろうかと思います。実は「[[初期キリスト教]]」「中世ヨーロッパ」ともにそれぞれ幅広い対象を扱う壮大な記事であり、古代史・中世史に詳しい方々から磨きがかけられ、さらに良い記事になっていくのではないかとおおいに期待されるのであり、各記事「再生」の場に立ち会えたこと、嬉しく思います。のこるは(4)~(6)、言い換えれば、「記事名」と「時代」ということですが、議論を通じて「空間的広がり(地域)」が新たな論点として浮かび上がったという段階ではないかと思います。「記事名」「時代」「地域」は、それぞれ互いに深く結びついており、これについては一連の御意見となろうかと思います。一挙に全部と欲張らず、とりあえず「記事名」にしぼって話を進めたらどうでしょう。少し整理をさせていただくと、 |
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:A 改名せず(「キリスト教国家論」を維持) |
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:B1 記事名「政教分離の歴史」(全世界を対象) |
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:B2 記事名「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象) |
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:B3 記事名「政教分離成立の歴史」 |
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:B4 B1~B3以外で「政教分離」を使用した記事名 |
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:C 「政教分離」を使用しない記事名 |
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このなかから選ぶということにしたら、いかがでしょうか。ここで気をつけたいのは、《「政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象)》は候補から外したいということです。これは騒動のもとになりますから、これだけは避けたい。そして、議論が長引いた場合でも、少なくともAではない=おそらくBのどれかになりそうということになったら、その段階から編集可能としてもよいのではないかと思います。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月23日 (金) 18:41 (UTC) |
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::{{提案}} (追加)差し出がましい提案かもしれませんが、いったんGA(良質な記事)は返上したらどうかと思います。おそらくは中世部分が評価されたうえでのGAだろうと思うので。ノートで完全合意が成立したら、そのときあらためてGAなりFAなりを目標にしたらよいのではないかと思います。共通の目標ができたら、かつての論争相手も編集協力者という関係に変化し、気持ちよくこの問題を終えることができるかもしれないからです。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月23日 (金) 20:03 (UTC) |
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:1ページ目に書いてあります。そもそも議論の出発点ですので、ぜひ確認してください。私はこの記事の著者でないので文献はすべて確認しておりませんが、おおむね過去に読んだことのあるものがほとんどです。その観点から言うと、少なくとも国制史的な視点はよく盛り込まれていると思われます。歴史記事の議論なのに、どうも議論が歴史学的な話になっていません。政教分離の歴史を編集したり分割したりしようと思うのでしたら、まず文献の確認はすべきだと思います。そして中世国家論争やヨーロッパ中世国家という記事を書くとなればより社会史的視点も必要になると思われますから、現状の内容にそぐわないと思われます。とにかく文献を確認していないのならば、確認するところから始めませんか。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8|2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8]] 2017年2月21日 (火) 09:27 (UTC) |
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::{{コメント}}では、言い出しっぺから。B1~B3のどれでもよいと思います。B1が簡潔さと自由度においてすぐれていて、B2とB3は厳密さにおいてすぐれていますが、そういう意味ではB3が意外とよいのではないかと思います。書き手の誤解も少なく、読み手が予備知識ゼロでも記事名自体が政教分離(原則)の起源が欧米にあることを「教える」ものだからです。理想はB1で、「後史」部分を硯箱さんが書いてくださるとたいへん良い記事になるのではないかと思います。私は無理です(やる気も能力もありません)。ただし、そうなったとしても、「固有」論は、少なくとも記事のなかでは封印していただきたいと思います。いくら固有だと言っても、現実には言葉そのものが固有に使われていないので固有にならないということで、結局わからなかったです。この議論には向いていないと痛感しました。B2でもよいと思います。以下の議事進行はどなたかにお願いして、おいとましたく思います。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月23日 (金) 19:01 (UTC)(少し加筆)--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年6月23日 (金) 19:20 (UTC) |
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::*{{コメント}} まず、Greenland4さん、TENさんにおかれましては、歴史学的観点による硯箱さんの主張を解説・補強してくださり、合意形成を引き出して下さるなどの大きなお働きについて、深く感謝しているということを述べさせてください。また、Moon.riseさん、ジャム・パンナさん、Susukaさんなどの常識的な見地からの発言や素朴な疑問・発言なども、大変参考になりました。Yuukin0248さんの簡潔なまとめ、アルトクールさんのご仲裁、初期から議論にご参加され進行役も務めて下さった雅ハルカさんと大和屋敷さん、そして最初に改善を試みて下さり非常に面倒な文献調査をしてくださった121.107.209.16さんにおかれましては、それぞれがWikipediaの記事をよくするために多くの時間を費やされたことと思います。それについても感謝しかありません。硯箱さんにも、記事名の改名に反対しない旨を再びご表明いただきましたことについて感謝いたします。 |
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:::現時点でいいと思う記事名は、 |
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:::*B4「政教分離原則成立史」 |
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:::*B4「政教分離」としてこの記事にして定義を書き歴史節を設ける(定義としては、意味は定まっていないとし、使用例を書くしかないでしょうが) |
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:::*B4「政教分離原則成立の歴史」 |
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:::*B3「政教分離成立の歴史」 |
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:::*B4「ヨーロッパにおける政教分離」としてこの記事が扱う範囲を定義部に記し歴史節を設ける |
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:::*「ヨーロッパの教会と国家」 |
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:::*B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」 |
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:::です。私は記事名に、「〜の歴史」とつけることに長らく反対の立場を取ってきました。理由としては、[[政教分離]]はときに[[政教分離原則]]、[[ライシテ]]、[[ライクリッキ]]などと同じ概念として使用されることがある言葉なので、「政教分離の歴史」だけだと「政教分離原則の歴史」などと勘違いされる恐れがあるからです。その点、「政教分離原則成立史」や「政教分離原則成立の歴史」であれば誤認はないんだろうと思います。「ヨーロッパの教会と国家」はそういう翻訳が多いと思ったためですが、Greenland4さんなどから「教会と国家」を見てどのように感じたかというコメントを拝見し、これも一般的にわかりづらい名前なんだろうと認識しました。また、121.107.209.16さんが[[イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史]]を新規立項してくださったので、「政教分離の歴史」を複数記事に担当させて「政教分離の歴史」シリーズの一つという位置づけで「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」のようにしていくのも、利便性が高まるといえるでしょう。この記事に何を加筆できるのかがまだ定まってないので、多めに挙げておこうと思います。 |
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:::硯箱さんが執筆された内容は、歴史学的知見に基づいていることが前提なのですが、「歴史学的知見」「歴史学的視座」というひと言で済ませてしまっては、Greenland4さん、TENさんのような深い知識をお持ちの方なら阿吽の呼吸で理解されるとはいえ、一般的には非常にわかりづらいんじゃないかと思ってます。一番分かりづらいのは、「歴史学的知見」に基づくと、なんで[[政教分離原則]]、[[ライシテ]]、[[ライクリッキ]]と違う概念を指すことになるのか、ということじゃないでしょうか。これについては、硯箱さんの、狭義の政教分離が[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=ノート:キリスト教国家論の歴史&diff=64542349&oldid=64542324 ライシテ]、[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=ノート:キリスト教国家論の歴史&diff=64542421&oldid=64542349 ライシズム]と同義として用いられるという発言で解決を見たと思います。当初から論点となってたのは、硯箱さんが主張されている「政教分離」は、一つの主張にすぎず、一般的には共有されてないために、それを一主張として記述するのはいいとしても、一般的には独自研究や雑多な記事の羅列にしか見えない、ということです。定義部には新たに、この記事における「政教分離」が、[[ライシテ]]や[[ライクリッキ]]ほどの狭義の意味を指さず、また、[[政教分離原則]]ほどの広義の意味を指さないということ、この記事において「政」が指す範囲と「教」が指す範囲等を簡潔に概説すべきじゃないかと思います。まあ、できれば硯箱さんが主張される「政教分離」の定義を執筆していただけると議論しやすくなるのですが、難しいでしょうかね。また、アメリカ合衆国やフランス革命以降の「政教分離」を[[政教分離原則#歴史]]のみで記述するなら、[[政教分離の歴史]]は[[政教分離原則#歴史]]へのリダイレクトがいいんじゃないかと思います。ちなみに、この議論の初期段階では、私はこの記事は「(中世)ヨーロッパの教会と国家」にすればいいと思ってましたので、アメリカ合衆国などは[[政教分離原則#歴史]]に書けば良いんじゃないの? と主張をしてたと記憶してます(履歴は見てませんがおそらく。文献で言うと『宗教の事典』でいう第三類型(アメリカ等)は[[政教分離原則]]にぜんぶ書けば良いという主旨の主張)。これらの分野について、(今後は硯箱さんが編集されないということなので)現時点で意欲的に執筆されてる121.107.209.16さんがどう考えられているのかも参考とさせてもらえればと思ってます。いったんGA(良質な記事)を返上し改めて目指すということについては、そのほうが良いでしょう。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年6月23日 (金) 21:16 (UTC) |
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:::{{コメント}}新しいロードマップを提示していただきありがとうございます。横槍をいれてばかりで[[利用者‐会話:Greenland4|会話]]さんにはストレスをかけていると思いますが、冷静な対応と議論の方向性の提示に本当に感謝しております。以下、意見です。 |
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:::歴史学的知見に基づいている、と言う表現が適切かはさておき、歴史分野に関連する書籍と照らして硯箱さんの書いている内容は総体的には違和感を感じるものでは無い、と言うのが個人的な感想ではあります(私の読む分野の本はちょっとこの記事の主題とは直接関わる領域の物ではありませんが)。長文からくる主張の分かりにくさや議論姿勢について思う所はありますが、主張されていることは独自研究と切って捨てることができるような突飛な話ではないという感想です。ただし、[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの言われる通り、そして昨日買ってきた書籍にある通り、政教分離と言う単語自体が多義性のある単語であるため、当然のように教会と国家の分離現象と言う意味で使用しては一般的には意味が解らないと言う意見に同意します。 |
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:::その上で、私の意見としては以下です。(上にあるほど好ましい記事名であると思います) |
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:::* B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」・・・(この場合「政教分離の歴史」は曖昧さ回避のようなページになるのかなと思っています)) |
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:::* B1「政教分離の歴史」(全世界を対象)・・・ただし冒頭に言葉の定義に関する簡潔な説明を設ける形式とするのが絶対条件 |
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:::また、反対の立場を述べるのは建設的でないかもしれませんが |
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:::* B3「政教分離成立の歴史」・・・(政教分離の多用な意味のうち、本記事の現状である「ヨーロッパにおける聖権と俗権の分離」と言う意味あいと適合しづらい名前に見えます) |
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:::には個人的に賛成しづらいです(大多数の方がそれでまとまるなら、仕方ないかもしれませんが・・) |
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:::* A「キリスト教国家論の歴史」・・(一言で言って「キリスト教国家論」が一体何なのかがわからないです。この名前にもとづいてこの記事がどう編集されていくのか、「政教分離の歴史」よりわかりづらくなると思います) |
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:::には明確に反対させてください。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年6月23日 (金) 22:06 (UTC) |
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:::{{コメント}} 専門的な知識から提案やコメントをされたGreenland4さんをはじめ、皆様が記事の改善のために議論に参加していただいたことに感謝します。 |
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:::さて、記事名に絞って話を進めることと、GA返上に賛成します。 |
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:::GA返上は、ここまで分割が行われているのですから必然です。分割された部分や現在の記事は無出典が多いですから、それらを直した上でGAは可能だと思います(それにしても、要出典が多いですね)。以下は、改名提案へのコメントです。 |
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:::* A 一応反対します。TENさんが『「キリスト教国家論」が何なのかわからない』と仰られていますが、その通りだと思います。 |
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:::* B1 反対はしません。結局、今回分割が進められた部分や「[[政教分離原則]]」への案内が行われるなど、この記事名で担えないことはありません。 |
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:::* B2 100%主観となってしまったため、表明しません。ただ、ぽてからさんも仰られたように「○○の歴史」を構成する記事となるため、わかりやすくなる。 |
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:::* B3 賛成寄りです。概要を読むに、政教分離が成立していった歴史を扱っているというのが読み取れますので、案の中ではかなり優れていると思います。 |
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:::* B4/C 意見はありませんが、「ヨーロッパの教会と国家」にも興味があります。 |
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:::と、いったところでしょうか。なかなか決め手がありませんので、申し訳ありません。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<small>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</small>] 2017年6月24日 (土) 00:25 (UTC) |
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:::{{コメント}} 皆様のご協力に心より感謝します。そして硯箱さんも分割に合意していただきありがとうございます。すでに内容豊かな[[初期キリスト教]]と[[中世ヨーロッパ]]に対しても今後私からも加筆をしていくこともあるかと思います。さて、記事名についてですが、B2の「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」でもいいのですが、私はB1「政教分離の歴史」でよろしいのではないかと考えます。 |
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:引用もできないのですか。困ったものです。そういう見解があったとしても中世西欧諸国家の変遷について細部にわたって書きすぎて、全体が見えなくなっており、その結果、「政教分離の歴史」について有益な情報が提供されていません。どのような歴史の説明がいいか。たとえば、前掲井上修一論文の冒頭では「オットー一世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝 国の最盛期には、キリスト教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、ときには教皇が皇帝や 君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。中世末になると宗教改革や初期資本主義 の進展によってローマ教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争することになっ た。近世に入り国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが18 〜 19世紀の革命によって決定的に崩壊し、次々と近代自由主義国家が誕生したのである。このような教会 権力と国王権力の激しい対立・抗争の歴史を経て自由主義思想が生まれ、教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や市民の信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保 障された」と解説されています。この概説に異論はありますか?ここの記事もこれくらい簡潔に説明されるべきです。「神聖ローマ帝国」が文中で登場したからといって、神聖ローマ帝国の歴史全てを説明しようとするKanbun版は間違っているし、不親切であり、読者のことを一切配慮しないし、政教分離の歴史についての理解をむしろ妨げるものでしょう。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月21日 (火) 09:42 (UTC) |
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:::私がこの記事への編集に関わったのは内容よりも、分量の過剰が最初に気になったためでした。しかし分量の問題もGreenland4さんの移動分割と硯箱さんによる合意によって解決いたしました。その意味では、残された記事の名前について私は特にこだわりはありません。 |
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:まず神聖ローマ帝国の国制史には長い伝統があり、神聖ローマ帝国は当初から近代的な国制を整えていたわけではありません。ハインリヒ2世によって一応の制度的成立を見る選挙王制・帝国教会政策から叙任権闘争、シュタウフェン朝による進展があり、神聖ローマ帝国の長い歴史を一言で説明するのが政教分離の「歴史」記事とはとても思えません。神聖ローマ帝国の歴史そのものが一つの政教分離史といってもよいくらいですよね。なんていうか[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは政教分離をただ単に近代に限定したいように思われます。それならばいっそ近代以後の「国家による宗教政策」みたいな記事を作った方が早くありませんか?細かい内容についてはこれから精査するとして、この記事の分割にこだわる理由が見えてこないのですが。提示された論文も政教分離の伝統が中世にさかのぼることは自明に論じてますし、政教分離の歴史を近代に限るべきという文献的な裏付けもないですよね?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8|2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8]] 2017年2月21日 (火) 09:48 (UTC) |
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:::*A 「キリスト教国家論」は大和屋敷さんのご提案ですが、この提案について私は一度賛同しながらのちに硯箱さんの異議を認めて撤回しています。なお、私は当時の改名議論では「キリスト教と国家」「教会と国家」などを提案していました。日本語や英語の各種事典でも「キリスト教と国家」「教会と国家」という項目は存在しますし、「政教分離」の英語の直訳は「教会と国家の分離」なので、本来の意味に忠実なのであればこれの方が適切なのですが、日本の一般用語としては全く定着していません。個人的には「政教分離」は誤訳と思っていますが、日本語として定着している以上、[[Wikipedia:記事名の付け方]]から賛成いたします。つまり、「キリスト教と国家」「教会と国家」は撤回しますし、また「キリスト教国家論」または「キリスト教国家」については、[[ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史/過去ログ7#「キリスト教国家論」の関連文献]]を読み込んだうえで新規立項するといいと思います。以前の改名議論は、分割以前の「古代・中世・近世総論」状態について、硯箱さんが記事の統一性の観点より分割に反対されていたので、しかたなく改名議論へとシフトチェンジしました。しかし、いまやその改名議論の前提である記事分量問題が解決いたしましたので、硯箱さんが文献を提示しつつ反論もされているので、もはや「キリスト教国家論」にこだわる理由もないのではないかと思います。大和屋敷さんもおそらくは同意されるのではないでしょうか。 |
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:{{コ}} 双方落ち着いてください。今3RR違反で1日ブロックにしていますので明日のこの時間まで'''編集しないでください'''。IPアドレスが切り替わったからといってノートを含めて編集してはいけません。 |
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:::*B1「政教分離の歴史」がベスト。 |
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: あと、分割についての合意ですが多数のページに影響与える提案になるため告知が不十分とも考えられます。コメント依頼を活用するなりして一度「分割前の状態」を出発点としてコメントを募ってください。--[[利用者:アルトクール|アルトクール]]([[利用者‐会話:アルトクール|会話]]) 2017年2月21日 (火) 10:00 (UTC) |
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:::*B2の「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」は可。「[[イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史]]と併存させるというのもいいと思いますが、硯箱さんも反対されていることですし、私はこだわりません。 |
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:::*B4、Cは「政教分離の歴史」に「成立」や「原則」といった語句を付与することに反対はしません。なお、「政教分離と政教分離原則は異なる」という見解に対しては、広義の政教分離と狭義の政教分離の違いであって、「政教分離とは、世俗化や近代化といった歴史的過程を経て、憲法上の政教分離原則として結実するまでの一連の過程、あるいはその過程における教会・宗教と国家の関係のこと」ではないかと思います。この定義は独自研究です(笑)。wikipedia技術上からいえば、「政教分離」(総論)と「政教分離 (法学)」を分けるというアイデアもあるかと思います。これもいま思いついただけのことを発言しているだけなので、私からこの点について学術的な議論をする気はありませんので軽く聞き流していただければと思います。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年6月24日 (土) 13:03 (UTC) |
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:::{{コメント}} Moon.riseです。合意部分の編集および、次段階の記事名まとめへと進んでまいりましたことを嬉しく思います。すべての皆様への感謝と、特に、これまで提案・進行して下さっているGreenland4さんへの感謝を申し上げさせてください。また、これまでの流れから、私からTENさんへの感謝も特に申し述べさせていただきたいです。 |
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== まず政教分離の歴史の枠組みについて合意しましょう == |
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:::さて、記事名についての意見です。 |
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:::*B2 記事名「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象) 私の意見ではこれがベストと思っております。理由はこれまでに挙げてきた通りではありますが、「記事の守備範囲を明確にする」これができることを重要と考えております。 |
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:::*B3 記事名「政教分離成立の歴史」 次いでこちらもよいと思っております。理由についてはほぼ同じです。こちらの場合には、すでにある「[[イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史]]」との併存について、きれいに整合するのかどうかが、ちょっと気にはなります。--[[利用者:Moon.rise|Moon.rise]]([[利用者‐会話:Moon.rise|会話]]) 2017年6月26日 (月) 11:45 (UTC) |
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:{{コメント}} みなさま、御意見ありがとうございました。もっとたくさんの意見表明があるかと思いましたが、5人にとどまりましたので、この意見表明をもとに記事名を決めていきたいと思います。「おいとまする」というのも無責任な話で、そこはお詫び申し上げるとともに撤回します。見通しもわるくなったので、改めて下に新しい節を設けてそこで審議しましょう。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月1日 (土) 18:54 (UTC) |
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まずお互いの誤解や不一致を克服するために、政教分離原則の成立に関する通説的理解を確認しましょう。おそらく以下の点については双方全く問題なく合意できると思います。政教分離原則の成立についての論点は多岐にわたりますが、大きく整理して3つに集約されるというのはおそらく異論は無いもののと思います。政教分離が以下の通説的理解に基づくべきことは合意できると思います。 |
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一つ目は、アウグスティヌス/ゲラシウス→ルターという二国家論の政治思想とテオクラシーの発展という思想史的背景に、 現実社会ではカロリング朝期の統治構造・財政における政教一致から中世を通じてそれぞれの領域と財政・統治機構の独立と棲み分けがおこなわれ、叙任権闘争を通じて神聖王権としてのあり方を否定され、ローマ法的君主権に自らを位置づけた皇帝権、一方で同時代周辺国家に形成された教皇権とも皇帝権とも異なる固有の王権理念などを見ながら、近世には宗教改革の進展に伴って領邦の宗派国家化の進展、アウクスブルクの宗教平和に至っての信教の属地主義の採用、ヴェストファーレン条約の結果としての信仰の内面化と政治秩序の世俗化(つまり国制上の政教分離)というような国家の世俗化過程を見ていくものがあります。現況の日本のドイツ国制史においては山田欣吾『教会から国家へ』の枠組みが基本的にはつねに参照されており、五十嵐修さんの『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』や千葉敏之さんの一連の神聖王権に関する研究もこの流れに沿っています。一方で関連して神の平和運動に関する膨大な研究とそれを権力構造と結びつける研究があります。同時に教皇庁の側についてはどちらかといえば叙任権闘争や両剣論を中心としたテオクラシーに関する論考が膨大にあり、理念史に傾いていた感がありましたが、実体としての教皇庁については個別に統治機構を詳しく論じた藤崎衛さんの『中世教皇庁の成立と展開』が最近現れました。 |
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二つ目は、中世におけるユダヤ人問題やロマ、周辺異教徒への伝道、イスラム教との関係からロックの近代的寛容論にいたるまでの寛容というキーワードで読み解く宗教社会史の立場があります。後期中世から近世に関しては宗教改革とそれに伴う、宗教戦争とナントの勅令などが画期と見なされており、ドイツ国制史とは別個にフランス国制史やガリカニスムなどと結びつけられ、ロック寛容論の流れを組む英米政教分離、フランス式ライシテまで射程が広がってきます。関連して、まず古代のキリスト教迫害問題とローマ帝国の対応を緻密かつ体系的に論じた保阪高殿さんの論考群が原点として重要で、つぎにキリスト教社会をこえた対象であるために周辺的ながら新井政美さんによる『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』という示唆に富む優れた著作があります。 |
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三つ目は、政治的正当性をキリスト教的な政治神学の流れに位置づけ、ホッブズによる主権論の世俗化を画期とする政治秩序の正当性論にキリスト教神学の根強い伝統を論じるとともに、一方で統治思想における世俗化を論じて、ナチズムまで射程に引き入れる政治哲学に関する研究です。エルンスト・カントローヴィッチの『王の二つの身体』、カール・シュミットの政治神学的論考群、レオ・シュトラウスなどが論じられます。最近この分野ではジョルジョ・アガンベンが『王国と栄光』で既存の政治神学的枠組み自体を問い直すような、注目すべき留保をつけていることが知られています。 |
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以上の三点の他に、実際には無神論という思想潮流が潜在的にありますが、これは政教分離の歴史としては共産主義的無神論が現れる近現代までは主流とはならないので、基本的には無神論の歴史として別個に扱われるのが普通と思われます。これについては邦語ではG・ミノアの浩瀚な通史が便利です。 |
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以上の細かい論点はほとんどすっ飛ばした、ざっくりとした概略については最近の細かな地域研究の広がりなどをとりあえず無視したうえで、通説に属するものとして、19世紀以来の長い歴史学研究の伝統にも則り、政教分離の歴史というものを書くならば、骨子としてまず第一に採用されるべきであるという点に関してはとくに問題が無いように思われますが、どうでしょうか。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC|2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC]] 2017年2月22日 (水) 10:05 (UTC) |
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== 改名に関する意見集成とそれを受けた議論 == |
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問題ありすぎです。ヨーロッパ国制史(Verfassungsgeschichte)という記事ならいいですかれど、「政教分離の歴史」からフランス革命やアメリカ合衆国の記述を削除する理由にはなりません。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月22日 (水) 14:47 (UTC) |
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=== 意見集成 === |
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:政教分離について、文献を挙げて批判してください。[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは歴史学とは直接関係のない法学の論文の、それも国制史が論じてきた政教分離の伝統的な本論とは異なる各論しか挙げていません。いまだに歴史学的文献を挙げていません。繰り返します。まずは歴史学的文献を挙げてください。現状では全く理由が示されておりません。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8|2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8]] 2017年2月22日 (水) 14:53 (UTC) |
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{|class="wikitable" cellspacing="0" |
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!提案項目||||A「キリスト教国家論の歴史」||B1「政教分離の歴史」<br/>(全世界対象)||B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」<br/>(主としてヨーロッパを対象)||B3「政教分離成立の歴史」||B4/C その他 |
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|Greenland4||||{{反対}}||{{賛成}}ベスト||{{賛成}}可||{{賛成}}わりとよい||意見なし |
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|ぽてから||||意見なし||{{反対}}||{{賛成}}よい||{{賛成}}よい||「政教分離原則成立史」<br/>「政教分離原則成立の歴史」<br/>「政教分離」歴史節<br/>「ヨーロッパにおける政教分離」歴史節 |
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|TEN||||{{反対}}||{{賛成}}||{{賛成}}||{{反対}}現状と不適合||意見なし |
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|Yuukun0248||||{{反対}}||{{賛成}}可||{{棄権}}||{{賛成}}かなりよい||意見なし。「ヨーロッパの教会と国家」には関心あり |
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|121.107.209.16||||{{反対}}分割後の名称としては不適||{{賛成}}ベスト||{{賛成}}可||{{賛成}}反対せず||「成立」「原則」を付すことに同意 |
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|Moon.rice||||意見なし||意見なし||{{賛成}}ベスト||{{賛成}}次点||意見なし |
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</table> |
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以上、私も含めて6人の意見が表明され、まとめると上のようになると思います。加除訂正ありましたら、各自で対応お願いします。方向性としては、A「キリスト教国家論の歴史」という現状の記事名を変更した方がよいことが改めて確認され、ここにはコンセンサスがあるとみてよいと思います。そして、新しい記事名称を選ぶとすればB1〜B3のなかからということでよいのではないでしょうか。「反対がない」という意味では、B2で決定ということになるわけですが、そういうふうに話を進めてよいのか、それも含めて御審議いただければと思います。なお、上に設けた「査読のコーナー」に記事名や記事の方向性を考える際の有力な手がかりが書き込まれる可能性もあると考えます。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月1日 (土) 21:13 (UTC) |
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:::文献をいくつも挙げて批判しています。文献は以下の分割提案で上げています。貴殿は他者の発言を理解しようとしないだけです。偽りはやめてください。2001IP氏自身が、なぜこのような構成になっているのか、その関連の出典を示さず、「これは常識だ」「本を読んだのか」などと聞きますが、出典がきちんと表示されている箇所を私は削除していません。出典を明示して執筆したり、フランス憲法や米憲法などを削除する貴殿と一緒にしないでほしい。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月22日 (水) 15:30 (UTC) |
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=== 意見集成をふまえた議論 === |
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*{{報告}} GA返上に関して異論はなかったため、'''[[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考/キリスト教国家論の歴史 20170704|再選考]]'''にかけました。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月4日 (火) 09:07 (UTC) |
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**{{報告}} [[Wikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考/キリスト教国家論の歴史 20170704]]の結果GA除去となりました。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月9日 (日) 04:05 (UTC) |
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*B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」がよさそうですね。早く議論を終わらせて、記事加筆に各自注力された方がよいのではないかと思います。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月4日 (火) 11:26 (UTC) |
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**{{BL|賛成}} 同感です。--[[利用者:Moon.rise|Moon.rise]]([[利用者‐会話:Moon.rise|会話]]) 2017年7月4日 (火) 13:58 (UTC) |
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**特に異論はありません。とりあえずは現状の記事名の問題についてはそれで解決できるかと思います。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月4日 (火) 17:02 (UTC) |
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**{{賛成}} 反対がないので問題ありませんし、「○○における政教分離の歴史」シリーズの作成も見込まれるかと思います。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月5日 (水) 07:35 (UTC) |
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:{{報告}}改名合意成立とみなし、記事を「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」に移動しました。みなさま、おつかれさまでした。ありがとうございました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月11日 (火) 11:52 (UTC) |
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::::これ、議論になってないですよね。通説的理解に基づいて本論をまず確認しようという話なのですけれども、各論の、それも分野の違う法学・法解釈の文献を挙げて、そのうえで一般に受け入れられていると思われる通史的な枠組みを提示しても、それに対して真っ正面から反論することもなく、一部の記述を削除したとかしないとか議論の推移と直接関係のないことを持ち出して、本論とは関係のない理由で相手の論理を全否定する。正直この調子では議論が成り立たないですよね。基本的な事柄についても普通に共通認識を形成することは出来ないのですか?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8|2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8]] 2017年2月22日 (水) 16:44 (UTC) |
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:* {{確認}} Greenland4さん、おつかれさまです。ありがとうございます。--[[利用者:Moon.rise|Moon.rise]]([[利用者‐会話:Moon.rise|会話]]) 2017年7月11日 (火) 12:12 (UTC) |
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:* {{確認}} 改名処理ありがとうございます。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月11日 (火) 21:18 (UTC) |
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:*{{確認}} お疲れ様です。これからは記事の加筆、出典追加に注力していくことになりますね。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月12日 (水) 09:33 (UTC) |
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*{{コ}} すみません。確認なんですが、ノート:政教分離の歴史の下に付いている[[ノート:政教分離の歴史/過去ログ1]]などは移動されないのでしょうか?--[[利用者:アルトクール|アルトクール]]([[利用者‐会話:アルトクール|会話]]) 2017年7月12日 (水) 16:12 (UTC) |
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== 「世俗化」「宗教改革史」への分割提案と出典の明記のお願い == |
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::{{報告}}移動の作業をおこないました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月12日 (水) 21:45 (UTC) |
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*本節を移動しました。--[[利用者:Moon.rise|Moon.rise]]([[利用者‐会話:Moon.rise|会話]]) 2017年7月17日 (月) 17:55 (UTC) |
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== 査読のコーナー == |
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アルトクール氏より以前の分割提案も不十分という指摘もあるので分割を再提案します。 |
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分割作業も済んで、だいぶ見通しもよくなり、あらためて記事名について、記事の指し示す範囲について論じることのできる環境が整ったように思います。とはいえ、実のところ「最初に改名ありき」という話でもないように思うのです。これが、硯箱さんも御指摘なさった「ウィキペディアの限界」であり、この記事のつづきが加筆されず、また、内容面での改善が何ら図られることもなく放置されることも充分に考えられるからです。そこで、現状の本記事の内容について、査読するコーナーを設けました。本記事が諸文献を渉猟して書かれた格調高い文であることは疑いのないところではありますが、しかし、「政教分離の歴史」ないし「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(の一部)を説明するものとして成功しているかどうかはまた別の話です。「欠席裁判」ということになってしまうかもしれませんが、ウィキペディアの場合、そこにいる人がまた新しい当事者になるというしくみであり、そこにいくばくかの可能性もあるわけですから、他の議論参加者がどうこうというような話ではなく、「記事の改善」だけにしぼって論じていただきたい。不毛な対立を避けるために、このコーナーのなかでは互いにコメントを付けあうことは禁止とします。ここでの議論参加者は少なくとも、議論を通じて政教分離について考え、学び、調べもしたと思います。ここはひとつ、各自、レポートを受理した指導教官のような気持ちになって本記事を査読・論評いただければと思います。みなさま、どうかよろしくお願いします。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月1日 (土) 19:39 (UTC) |
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政教分離原則は近代において法制化されたものです。2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC(以下、2001IP氏)が不当に削除した、1789年のフランス人権宣言第10条、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が代表的な例です。「近代に限定せよ」といっているのではなく、「近代以降の歴史を説明すべき」です。 |
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=== Greenland4(1) === |
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また、世界大百科事典「政教分離」項目によれば、政教分離の画期は[[叙任権闘争]],[[宗教戦争]],[[フランス革命]]。また、井上修 一「[http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KO/0021/KO00210L001.pdf フランスにおける政教分離の法の展開]」によれば、 |
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では、言い出した者から。まずもって、主筆者の執筆に向けた労苦と情熱には心から賛辞と感謝を申し上げたいと思います。そのうえでの話ですが、本記事にはいくつかの問題点があると思います。本記事が、当初から「政教分離の歴史」を企図して執筆されたことは明らかで、そのことは、「[[キリスト教国家論の歴史#宗教改革(プロテスタント側から)|宗教改革(プロテスタント側から)]]」節から「[[キリスト教国家論の歴史#ドイツの領邦教会制度|ドイツの領邦教会制度]]」節にかけて、「ルター派の側もザクセン選帝侯などが'''政治的理由'''から硬化した態度を取り…」(本文)、「かくして宗教改革は教義の問題をこえて'''政治問題'''と化した。」(本文)、「ドイツ国内の'''政治問題'''への宗教改革の関与を規定することになった」(画像キャプション)、「当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに'''政治的な傾向'''を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の'''政治的問題'''に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な'''政治問題'''に転化した。」(本文)…というふうに、しつこいぐらいに「宗教改革の政治問題化」というフレーズが繰り返されていることからもわかります。こういう書き方だと、読者には「政治問題化」したからこそ宗教改革から宗教戦争が派生したんだろうなというくらいは伝わるだろうし、その程度のことは漠然とであれ常識として元々知っていたという人も多いと思います。しかし、一番肝心なこと、そもそもルターらの言ったことが「『'''なぜ'''』政治問題になったのか」が書かれていません。ここにおいて「なぜ」「どうして」の問いが発せられていないので、説明がひじょうにわかりにくいものになっています。ルターが「'''聖書のどこを読んでも教会のことなんて書いていない'''」と言ったこと、これが大きかったわけです。あの局面でこれを言ったら必ず政治問題化するだろうということが、本記事を読んでも伝わらないのです。このことばこそ、当時、社会にあって絶大な権威と権力をもっていた教会を蒼ざめさせる力をもっていたし、教皇と張り合いながらも帝冠を教皇から戴いている立場の皇帝の心胆を寒からしめるものであった。ルネサンスの芸術も色あせてしまうほどの衝撃、「神聖ローマ」の名前に砂をかけ泥を塗るような驚き、今までプロレスをやってきた教皇・皇帝に対し、無粋ながらも外側から剣をもった観客が乱入したくらいのインパクトがあったわけです。経済的にはイタリアから搾取され、政治的には教皇・皇帝のどちらか、あるいは双方への屈服を余技なくされていたドイツ諸侯のなかには少なからずルターの言葉を「これはイケる」「使える」と思った人たちがいる。だからこそ「政治問題化」したのです。これは、割と小中学生にもわかる理屈でしょう。これに言及しただけで「宗教改革」で把握される諸事象のうち、「政教分離」につながる要素の半分は説明したことになるのではないかと思います。ところが、ルターらの聖書中心主義や万人司祭主義はずっと後の「[[キリスト教国家論の歴史#宗教改革派の諸思想|宗教改革派の諸思想]]」節に申し訳程度に出てくるだけで、それも専ら神学的話題としての言及であって、政治にあたえた影響はまったく考慮されていません。これだと、わかっている人もわからなくなってしまう。肝心なことは書かれておらず、その周辺のことばかり詳細に描かれているので、「流れがつかみにくい」「わかりにくい」「冗長なところが多い」、もっというと「歴史叙述になっていない」というのが第一点。長くなりそうなので、今日はここまで。他のみなさんの査読もお待ちします。<del>--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月2日 (日) 23:22 (UTC)</del>(リンクや字句の修正)--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月3日 (月) 01:18 (UTC) |
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*オットー世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝国の最盛期には、教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、教皇が皇帝や君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。 |
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*宗教改革や初期資本主義の進展によって教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争した。 |
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*近世に国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが、18 〜 19世紀の革命によって崩壊し、近代自由主義国家が誕生。教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保障された。 |
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この三点を骨格にするといいでしょう。趣旨はこの程度にしておくべきで、近代以前の歴史も「前史」として説明があってもいいですが、中世諸国家における変遷を逐一ここで説明するのは本末転倒で、過剰な内容となっており、バランスも含めてよくない状態です。2001IP氏が固執するKanbun版での、たとえばカロリング・ルネサンスについての記載は「政教分離の歴史」と全く無関係で、不要な箇所です。これも出典なしです。 |
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==== 査読を受けて ==== |
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2001IP氏のヨーロッパ国家形成史への興味はわかりますが、それは「政教分離の歴史」でなく、他の記事にしたらいかがですか、といっているのですし、自分でもそう言っていたではないですか。[[山田欣吾]]「教会から国家へ―古相のヨーロッパ」についてですが、これは「西洋中世国制史の研究」であって、いわゆる「政教分離の歴史」についての通史ではありません。ベッケンフェルデの世俗化理論を展開して、カール大帝のフランク帝国などを、「教会としての国家」として論じたものです。そのベッケンフェルデについて新保弼彬「[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/5334/slc005p037.pdf 世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)]」言語文化論究 (通号 5) 1994では以下のように紹介されています。「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点からではなく、先ず既定の政治的・宗教的統一世界から離脱し,次いで世俗性を帯びた(いわゆる政治的な)目的設定の普遍化へと向かい,やがては政教の分離にまで発展していく歴史的世俗化の過程を視野に入れながら近代国家の成立を論じた」と。そしてまた、世俗化の原理は、政教の分離を可能にするもので、叙任権闘争にも見出される、と。また、山田欣吾の研究は論文「[http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/2330/1/ronso0640500450.pdf Verfassungsgeschichteについて : W・シュレジンガーと O・ブルンナーの場合]」にあるように、Verfassungsgeschichte、つまり国制史の研究であると明記されています。『教会から国家へ』も、西洋中世国制史の研究シリーズと明記され、「[http://www.sobunsha.co.jp/detail.html?id=4-423-40011-1 初期中世の政治秩序を比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想する]」研究とされています。もしこうした紹介文で「政教分離史の視点から考察された研究」と明記されていれば、私は貴殿の主張を認めます。しかし、貴殿は何一つ提示していません。ご自身の解釈のみで、非常に恣意的な解釈にすぎません。kanbun版では「基本的視野」では、山田欣吾やベッケンフェルデらの世俗化理論を説明することなく、また、西洋中世国制史における世俗化理論と、法制史的な意味での政教分離原則との研究史上の関連を説明されていない。また、新保弼彬論文では、ベッケンフェルデの研究は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点」ではない、とされているが、kanbun版は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史」にとどまっています。それは、きちんと世俗化理論が説明がされずに、関連諸国家を悪い意味で「網羅」し、その結果、膨大な量がまとめているものの、果たしてこの記事が何についての記事なのかが不明瞭になっている。 |
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{{Notice|争いを招くような'''批判的な'''コメントはしないでください。}} |
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根本問題としてルターが教会を否定したことはありませんし、明確に教会に固有の救済的価値を認めています。基本文献であるマクグラスを読めば、この点は明確です。次に政治問題化した事情については二世界論が重要で領邦教会制度を思想的に援護することとなったことは明確にされているように思われます。政治状況については分割によって承前関係が失われているためにわかりにくくなっている観はあるとは思います。ところで、中世において政治思想が神学的文脈において考察されることについてはすでに歴史学上の常識であり、この点は将基面貴巳『ヨーロッパ政治思想の誕生』で研究動向が詳しく記載されております。この点についても承前関係がないためにここだけ読むと、なぜルターの思想が政治社会に影響を与えるのかということがわからないというのはありえることですが、歴史学に通じていらっしゃるのなら、ノートでの議論においてこの点に疑問を呈されるということは基本的にないように思われます。ワルター・ウルマン以降の政治思想史の学術的潮流をご存じであれば、この点について疑問は特にないでしょう。当時のドイツがイタリアから搾取されていたというのも明らかに現状の歴史学研究の成果に反するもの(アンドルー・ペティグリーを見よ)で、贖宥状の問題に関してもむしろそれはドイツの一大産業であり、宗教改革もその印刷革命の産業的興隆と商業的隆盛に支えられたものであることが定説となっています。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月3日 (月) 04:45 (UTC) |
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:ちょっと内容面ではまだ読み込み不十分なのであまり明瞭な査読はできないのですが、西洋政治史や政治思想史だけが歴史学ではないので、「歴史学を知っているなら疑問の余地はない」という言い回しは不適です。その理屈でいくと私は「なぜルターの思想が政治社会に影響を与えるのか」について疑問無しとはしないので、この記事には関与できないという感じになります(私が普段取り扱ってる分野では基本的にルターを問題にしないので・・)。端的に言って、この記事の問題点は読者に(そして執筆者に)事前知識を要求しすぎる点だと思うので、正直分割前の状態であっても「なぜ」の説明ができていたようには思われません。早い話、分割前の過去の多くの読者、執筆者が「なぜ」初期キリスト教や中世ヨーロッパの説明から始まっているのか、読んでわからなかった事実がありますし、それは現存部分についても同様に見えます。具体的にここ、と言えるほど読み込めていませんが、「歴史」と銘打ちつつ、事象の羅列になっていて「物語」が見えてこない印象です。上の査読の文章を読んでいても、歴史学研究の分野では硯箱さんが正しい(かどうかを判定する知識量が私にありませんが)かもわかりませんが、読んでいてに頭に入ってくるのは間違いなく(現在の記事の文章よりも)Greenland4さんの叙述の方です。この点、個別の内容はともかく文章構成についてはGreenland4さんの指摘通り因果関係(なぜ)の記述を強化し(かつ簡潔に)する必要があると考えます。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月3日 (月) 06:03 (UTC) |
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::正直わかりやすいからよいという基準で話をされても、事実と異なることをわかりやすいから記述せよという話になるなら、それは私には全く意味がわからない議論です。百科事典として簡潔性を期すのはもちろんですが、宗教改革に関わる研究で明らかに否定されている見方を採用すべきというのは私にはよくわかりません。中世政治思想の伝統と近代の社会思想や政治思想との連関性とそこにおける教会法論と神学の影響が再評価され、日本でも主要な政治思想史家がこれを支持し、すでに定説となっているのですが、それがわかりにくいから記述されるべきでないという議論であれば、それは明らかにおかしいのではないでしょうか。とはいえ、私自身は研究動向を述べているだけですから、それをどこまで記述に振り分けるかは別問題です(私だったら読者のために詳しく記載するでしょうが、ウィキペディアに記載されるべきかは判断を保留します)。「物語」として記すべきというのも私にはよくわかりません。繰り返しになりますが、政治状況についてはいささか説明不足なように思われますが、[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんの説明はかなり研究成果に反するものであるので、そりゃちょっとないんじゃない?という話です。社会における宗教熱の高まりと民衆信仰の拡大、前宗教改革的な思潮、特殊ドイツ的な政治状況、それらと物理的な印刷革命が結びついたことによって宗教改革は激化し、政治問題化さえしたということ、そもそも当時の人がみんながみんなルターに飛びついたというような単純な状況ではないことは、その著作の販売網についての研究によっても明らかです。因果関係の記述を強化することには全く賛成ですが、ありもしない因果関係を作る必要はないのではないでしょうか。TENさんの文章を読みますと、私が政治思想史だけを採用せよと言っているように思われている気がするのですが、私はあくまで[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんがルターの影響という話で「物語」を作られていたので、少なくとも思想史上の政治における影響については定説があるということを示したのみで、その他の社会史的・政治史的な研究動向についても簡潔ですが指摘していることはおわかりと思われますので、その点については確認していただきたく思います。私の発言の趣旨は歴史学全体を見通して、さすがにそのような説明はありえないという発言です。因果関係の不足そのものに対して反対しておらず、その不足はむしろ私も指摘していることをご確認下さい。社会史的な背景については渡邊伸『宗教改革と社会』および永田諒一『ドイツ近世の社会と教会』という邦人研究者による中心的な文献(学界でも文句なく信頼されている著作だが、どこまで盛り込むかは要検討)があり、関連する教義についてはマクグラスの大学教科書シリーズ(最低限これくらいは押さえたい)が翻訳されております。政治史については世界歴史大系で問題なくカヴァーできると思われます(この点に関して概説以上に踏み込む必要は感じません)。印刷革命についてはアンドルー・ペディグリーのものをはじめ、最近は様々な体系的著作の訳書が出されており、研究動向を踏まえるのは容易なはずです(印刷革命なくして贖宥状も宗教改革もないというのは通説)。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月3日 (月) 06:44 (UTC) |
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:::うーん、そうですねえ。「わかりやすいからよい」という話ではないです。Greenland4さんの記述内容に仮に誤りがあったとして、「これは違う、修正。」「これも違う、修正。」ではそこでどんづまりで話が先に進まないのです。私のとらえ方は本意ではない、とのことですが、なかなかにそれを最初の文章から読み取るのは困難です(^^; |
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:::で、せっかく因果関係の説明についての提案がなされたので、私の発想としては以下です。 |
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:::# (私の見解として)現状の記事は因果関係が分かりづらい。 |
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:::# Gleenrand4さんの叙述する因果関係の説明は非常にわかりやすく見える。 |
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:::# 硯箱さんの意見として、事実関係に誤りが見られるという指摘がある。 |
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:::# では、Gleenrand4さんの叙述構造をベースに、硯箱さんの指摘で内容を修正しつつわかりやすい文章を作る。 |
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:::という流れを想定したいところです。例えば現在の「概要」節などは、「1章では○○についての研究史を概観しつつ、筆者の立場を明らかにする」「2章では××の見解に基づき○○の今日的理解を詳述する」~というような、まさに歴史学分野の専門書や論文の概要や前文に典型的な構文になっています。が、百科辞典の概要で求められるものはこれではなく、どう考えてもGreenland4さんのもののような、全体像を把握できる簡潔な叙述だと思うのです。なので、概要、或いは宗教改革の節の冒頭にはGleenrand4さんの叙述のようなものを持ってきて(詳細の正誤ではなく、構成としての話です。)その上で、内容に研究動向と齟齬があるのであれば、研究動向に沿った内容に改めれば全体像のつかみやすい概要節が出来上がるのではないかなと思うのですけども。まあもうちょっと本を読んでからでないと具体的に私の方から提案はできませんが・・。 |
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:::ちなみに、「物語」と表現しましたが、個々の記述の骨組みとなる軸が必要というだけです。なお、蛇足で言うと、硯箱さんの言う研究分野の常識については、今のところ私では判定不能なので、上の話はあくまで指摘が的確であるという仮定の上での話です。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月3日 (月) 07:34 (UTC) |
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::::『世界歴史大系ドイツ史1』を読みましょう。現状日本で最も信頼できる概説書というだけあって、確認したところ、以上の論点はほとんど盛り込まれています。難しい議論に立ち入る必要はありませんが、せめて通説的見解だけは共有したいものです。いくら素人向けのウィキペディアとはいえ、ノートの議論においても、これぐらいの内容は常識として踏まえることは出来ないんでしょうかね。百科事典の概要については世界大百科事典などは研究史についての記述も簡略ながらあるので、一般的に研究史に配慮がないというのはどうかなと思います。そしてウィキペディアにそれが求められていないというのも、私には論理がよくわかりません。あまり細かく指摘するのは角が立つので言いたくないのですが、たとえば「社会にあって絶大な権威と権力をもっていた教会を蒼ざめさせる力をもっていたし、教皇と張り合いながらも帝冠を教皇から戴いている立場の皇帝の心胆を寒からしめるもの」についても、宗教改革の当初において教会組織に明確な打撃をルターは与えているように思われません(既知のとおりルターの支持者はカトリック側にも当初多数いた)し、皇帝はこの時期教皇から帝冠を戴いてません。実質的にはフリードリヒ1世の神聖皇帝理念以降徐々に皇帝権はローマ教皇の権威に依存しなくなっていましたが、カール5世の場合祖父のマクシミリアン帝以後、形式的にも戴冠されていないので、その主権においてローマ教皇の権威への依存度はほとんどありません。むしろイタリア戦争、オスマントルコ問題と新大陸支配の問題において教皇の協力を必要としていたという現実的な事情があった点を重視するのが一般的ではないでしょうか。正直これ一つだけでなく、指摘すればきりがないのですが、こういう議論は望みません。ただわかりやすいから正しいと思っていらっしゃるなら、これらの点を見れば明らかにおかしいのはさすがにわかるでしょう。これは純粋に査読的な話題です。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月3日 (月) 08:13 (UTC) |
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:::::うーん「わかりやすい」から「正しい」としているわけではないのです。また「研究史」が必要ない?という読解はどこからでてきたのかよくわかりません。単純に個々の事象の羅列をわかりやすい因果関係に乗った説明に直すべきというだけですが、まあこれ以上は不毛なので繰り返しません。現状、西欧中世以降の知識不足は否めないので、ご紹介頂いた『世界歴史大系ドイツ史1』は読んでみるとします。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月3日 (月) 09:16 (UTC) |
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::::::はっきり言ってしまうと、査読の問題になってしまうと、最低限の知識が共有されないと話を進めづらいということです(査読というのは内容的な適切性を検討することですから)。そして説明に唐突感があるのはこの記事が少なくとも以前には思想史的流れと社会史的流れを備えていたところがあるのですが、それが現状寸切りになっているところにあるのではないかということです。もちろん説明不足もあると思われるので、その点について加筆されるべきことは大いに頷けるのですが、ここらへんの話題についてノートの議論がかなりいい加減な理解になっているようなので、加筆するにはまず通説と基本文献を確認する必要はあるでしょう。因果関係をわかりやすくするのはそうですが、その前に因果関係を適切に整理すべきでしょう。そうでないと議論はいつまでも正しい道に向かいません。宗教改革の政治問題化の背景には前代の思想との関連性(元記事では前宗教改革思想とされていた)も問題になってきますし、叙任権闘争以来の帝国国制の独自性とハプスブルグ家の権力構造を述べざるを得なくなりましょう。ただそれを記述しきれるか、またそもそもそこまで記述するのが政教分離の歴史として適切かは別問題で、そうした議論をするには前提を共有していないと無理でしょうということです。その点、下手に説明を加えて書くより政治問題化したという事実だけ書いた方がよいようにも思われます(この話題はとても数行で済ますことは難しく、わかりやすくしようとするとどんどん重くなる印象です)。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月3日 (月) 09:39 (UTC) |
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::::::ちなみにたまたま見つけましたが、贖宥状に関して[[レオ10世による贖宥状]]という記事がかなり今日的な通説を丁寧に敷衍しています。贖宥状の売り上げの大部分が実際にはドイツ各地の教会建築に使われていたこと、贖宥状の問題が政治問題化した契機が1518年8月27日の教皇レオ10世の特使に対するドイツ諸侯の苦情表明にあったこと(このとき贖宥状販売に携わったマインツ大司教アルブレヒト自身もドイツ諸侯筆頭として贖宥状を批判している)などは抜けていますが、総じて適切と思われます。参考にできるでしょう。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月3日 (月) 11:36 (UTC) |
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このコーナーでは互いにコメントを付けあうことを禁止としたはずですが、まあいいでしょう。現状、因果関係がわからない書き方になっていることは合意されたようですから、それだけでも前進です。「二世界論」や「印刷革命」「商業の発展」「贖宥状販売」を一番前に持ってきたうえで「宗教改革の政治問題化」を書いた方が、読者に対しては親切であり、今よりは相当改善されるはずです。冒頭に近いところで一文のなかに3回も「宗教改革の政治問題化」を連呼してそれっきりなんてよりはよほどスマートで論理的ではあるでしょう。ただ、本当に「二世界論」が当時のドイツの諸侯なり農民なりを実際に動かしたものであるかは個人的にはかなり疑問ではありますね。当時の一般の人がアウグスティヌス神学にそれほど通じていたとも思えないし、神学者や教会関係者が「政治化」を主導して宗教戦争が起こったと書けば、それはそれでウソになるでしょう。「最新の研究動向」といえば聞こえはよいですが、そういう「後知恵」のようなものを中途半端に歴史に混ぜたところで読者は混乱するだけではないかということを私はむしろ心配します。こういう話題こそ脚注に逃がしてやって「[[二世界論]]」は別に独立記事としてつくった方がよいでしょう。手前味噌ながら、私もChokorin名でむかし「[[八宗体制論]]」という記事を立てました。これは、「[[鎌倉仏教]]」執筆の副産物なのですが、研究史は「研究史」と断って末尾に付す、それでも収まらないテーマや話題は独立記事として別項立てるというのが事典の書き方としては優れていると考えます。ハイパーリンクで別記事に一瞬で画面が切り替わり、複数記事の参照で全体像を理解しやすいというくらいしか、ウィキペディアにはメリットがないんですね。「素人のための百科事典」ではなく「素人がつくる百科事典」なのであり、その程度のものであることは社会的にも認知されているでしょう。私のなかでもウィキペディアはボケ防止くらいの意味しかありません。アマチュアリズムを信用できない人は、あまりここには来ない方がよい。ここで何もかも説明しようというのは、すこぶるスジの悪い話であり、そういうことをやりたいというのであれば、御自分でブログを立ち上げて、そのなかで思う存分やられた方がよいと思います。「[[コンフェッショナリズム]]」についてもそう。独立記事もないのに節名にもってきているでしょう。こういうコケ脅しはやめるべきであり、脚注で扱うべき内容や専門用語を前面にもってきて「俺様」ぶりを発揮する方がおられるので、記事名みたいなつまらない話で足元をすくわれてしまうのではないかと思ってしまうのですね。そういう意味では、現記事名は記事内容にピッタリ合っているのかもしれません。「[[中世都市]]」とか「[[ナントの勅令]]」とか、本当に現状のままでOKを出せますか。そのまま放置しているということは、査読したうえでOK出しているのとさほど変わらんのです。所詮ひとまかせなのですよ。で、話をもとにもどすと、「二世界論」というのは、おそらく学部生にとってすら馴染み薄い用語のはずであって、たぶん院生レベルのタームだろうと思います。ところが、「政教分離」というのは本来は中学公民レベルで登場する用語であり、だからこそ、むやみにむつかしくはできない。硯箱さんはいみじくも「そういう単純な話ではない」とおっしゃったけれども、「そういう単純な話ではない」というあたりからスタートしているからこそ、話がこじれるんです。「重箱の隅をつつく」のは最後でよいのであって、そのようなところから始まっているから、なかなか前進できないのだろうと思います。そしてまた、上級者向けの記事となるであろう「二世界論」「コンフェッショナリズム」を立てるという、そのほんのちょっとした手間を惜しむからおかしなことになっているんです。「ドイツがイタリアから搾取されていたというのも明らかに現状の歴史学研究の成果に反する」というのも、それはそうかもしれないが、じゃあ、当時のドイツの人びとがどう考えていたのかはまた全く別な話なのですね。少なくともイタリアからの贖宥状販売部隊が諸手を挙げて歓迎され、教会建築なんかの資金に使われてドイツの人たちはみんなそのことに満足していたというのなら、そもそも宗教戦争は起こらないはずなのであり、現にフランスでは販売部隊の入国は禁止されていたわけでしょう。そういうのも含めて脚注処理がよいと思います。で、神学の話は中世段階でやめた方がよいと思います。神学的内容を読者は求めていないのであり、それを突っ込んで勉強したい人は「[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]」という素晴らしい記事があるのですから、そちらにまわっていただいた方がよい。「中世ヨーロッパにおける教会と国家」のなかでルターの思想に深くふれたところでそこにクレームをつける人はいないと思います。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月3日 (月) 22:10 (UTC) |
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森安達也の『近代国家とキリスト教』を出典に、ともいうが、これも「政教分離の歴史」について書かれたものであると限定されているわけではない。「政教分離の歴史」よりも広い意味での「近代における国家と教会」について書かれたもの。 |
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:すいません、互いにコメント禁止、完全に頭からぬけていました。何にせよもう少し考えが整理できてからコメントします。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月4日 (火) 00:20 (UTC) |
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::[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんは開き直られている気がしますが、明らかに勉強不足で迂闊な発言をするのはよろしくないです。「少なくともイタリアからの贖宥状販売部隊が諸手を挙げて歓迎され、教会建築なんかの資金に使われてドイツの人たちはみんなそのことに満足していた」というのは史実ではありません。贖宥状の販売元締めはドイツのフッガー家、贖宥状の印刷業者はドイツ人で、販売者はドミニコ会員ですが、彼らもドイツ人です(民衆はラテン語を解しませんから、ドイツ語が話せる人が販売します)。また贖宥状はドイツ以外でも売られています。当時のドイツ人の意識を問題にするなら、これも慎重さが求められます。少なくとも当時ドイツ人の間にあったイタリア蔑視の風潮(ルターは軽蔑している相手を「イタリア人」と呼んでいます)とドイツ人ナショナリズムの問題が絡んできます。またフランスでも典型的な宗教戦争は起こっていますので、この[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんの論理は正直混濁していてよくわかりません(贖宥状問題がきっかけで宗教戦争になったという直接の因果関係を結ぶのは困難です)。何よりルターが政教分離の歴史で特筆されるとすれば、二世界論が出てくるのは当然で、大学生を対象とした教科書類に普通に載っているので、何を持って院生レベルと判断しているのかはわかりません(まず[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんは基本的な文献を読まれたことがあるのですか?政教分離の歴史において一般に政治的アウグスティヌス主義と呼ばれる二元論が重視されるのはハンス・ブルーメンベルクの著名な指摘も含めて、かなり常識的な範疇に属すと思われますが、ルターの二世界論はその典型的なものの一つです)。これを政教分離の歴史に書くべきでないという主張は根拠付けされているようには思われません。むしろルターの提題が政治問題化していく過程はそれこそ個別の記事で述べられるべきで、実際[[95ヶ条の論題]]にはそれが政治問題化する過程は背景説明などがやや不足している気がしますが、一通り書かれております。この記事で直接扱うべきことではないと思われます。少なくともルターの二世界論に比べれば、ヴォルムス勅令以前の贖宥状問題の政治問題化過程は蛇足に思え、政治問題化し宗教戦争につながったという書き方で済ませてよい気がします。ルターの二世界論をちゃんと理解しての発言とは思えません。そして記事のレベルとして中高生を対象にしているというのもおかしな話です。ウィキペディアは中高生向きの百科事典だったのでしょうか。対象を中高生に絞り、教科書気分で作られるなら、それはウィキブックスに書くほうがよいのではないでしょうか。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月4日 (火) 02:01 (UTC) |
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:::この項目は、互いにコメント禁止を前提として作られています。他人への批判ではなく、ご自身の主張をご表明いただけませんでしょうか。また、あらゆる知識に精通していないからという理由で批判することについては、今後一切ご遠慮いただけますと幸いでございます。ゼミの討論の場でも、学術的な議論の場でもございません。--[[利用者:雅ハルカ|雅ハルカ]]([[利用者‐会話:雅ハルカ|会話]]) 2017年7月4日 (火) 02:20 (UTC) |
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::::記事に関わる重要な論点について、互いにコメント禁止する必要性も感じませんし、たとえ一方的に宣言されていても、それによってノートでの通常的な議論が禁止されるというのは生産的とは思われません。また「あらゆる知識に精通していないからという理由で批判」というのは実におおげさで、正確には「基本的な問題を見落としている」点について意見のすりあわせが必要だろうと言うことを述べているだけです。学術的な議論の場でないというのも変な話で、ノートでの議論が学術的な話題に限られるわけではないことは確かですが、学術的な話題を議論することができないということではなく、むしろ専門家による学術的な内容を盛り込むことが方針文書で推奨されていることを踏まえれば、ノートの議論で学術的な議論が行われることに問題があるとは思われません。それも記事主題に直接関わることです。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月4日 (火) 02:54 (UTC) |
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:::あのですね。「[[鎌倉仏教]]」をもう一度よく御覧いただきたいのですね。最初に、中学のどの教科書でも書いてあるようなことを表で示して、中ほどに高校レベルで扱う「旧仏教の刷新」を説明し、最後に大学・一般向け(というほどではありませんが)、研究史に対する説明している。さらに、八宗体制論について学びたい人には別記事「[[八宗体制論]]」を用意している。普通は、そういう書き方をするものなんです。人にわからせよう、説明しようというのならば。最後まで読んでくれる人もいるかもしれないが、途中まで読んでくれて、でも、何ほどかのことがわかった、頭のなかで整理できたというのであれば、それはそれでいいわけでしょう? でも、この記事はそもそも「説明する」とは書いてなくて「概観する」と書いているんですね。そんな独りよがりのセリフは個人のブログのなかで吐いていただきたいのですよ。勉強不足は認めますが、しかしまあ、勉強したら少なくともこれよりはましな説明ができると思います。悩みは僻地に住んでいて、よい図書館がなくて文献がそろえられないことですね。いずれにせよ、中高生にもわかるように書くことは、一般読者にもわかりやすくなるはずだと思いますね。別段、読者を中高生に限定みたいな話はしていないはずです。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月4日 (火) 03:14 (UTC) |
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それだけでなく、歴史的世俗化の過程の結果に、近代の政教分離原則があるとは、すでに挙げた論文でも明らかである。しかし、貴殿は、そうした近代の政教分離については加筆を拒絶し、「近代以後の国家による宗教政策」などの記事に別に書けという。これでは話になりません。現在のkanbun版は、西欧史に詳しくないひとにとっては色々の情報が掲載されており秀逸な記事にも錯覚されますが、近代以降についての説明をしていない点からも、「政教分離の歴史」記事としては劣悪なものです。ただし、「世俗化」「ヨーロッパの中世国家」「中世の国家と教会」(これは貴殿が自ら提案したもの)などの記事としてはいいでしょう。もっと理論的な説明が冒頭であるべきですが。要するに、執筆内容の場所を間違えている。 |
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::::記事のスタイルの問題と内容の問題を混濁されていませんか?そもそも政教分離の歴史と鎌倉仏教を同一レベルで論じるというところがまずわからない(記事のスタイルとして[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんの書き方がスタンダードだとはどこにも書いていないうえ、記事ごとに対象読者が異なるのは普通。専門記事に専門的な内容がないのはおかしい)うえに、私の発言の主意は少なくともヴォルムス勅令前後の説明の不足そのものを言うのはわかるが、それはこの記事に書かれるべき内容かと言えばそうではないと思われることを言っています。そのうえで[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんは宗教改革そのものの背景について多く誤解されているように思われ、明らかに史実と異なる点については指摘する必要があって指摘したのです。政教分離の歴史として見たとき、ルターの二世界論を書かずにヴォルムス国会の政治的背景について深く掘り下げて書くことは、鎌倉仏教において法然の専修念仏を書かずに顕密体制や八宗体制を本論で論じるのと同じでしょと言っているのです(後世への影響を考えれば、思想史的な問題が中心になるべきところで思想面での直接的な問題を論じずに社会史的背景に注力するのはおかしい)。これでわかりますかね?--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月4日 (火) 03:38 (UTC) |
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:::::<small>ちなみにこれは完全な追伸ですが、話題に出たので付け加えると、現在の鎌倉仏教記事も顕密体制(八宗体制)論記事もとくにその中心的主題である「王法仏法相依」に関し、北条時頼期の幕政における宗教体制の転換、および後醍醐天皇の宗教政策の転換というかなり重要な論点がほぼ完全に抜け落ちているように思われます。また摂関期・院政期における宗教政策の影響という最も大事な論点が欠けているように思われます。この点現状の記事はやや内容的には古く思われ、好評を持って迎えられた今日的研究である上島享『日本中世社会の形成と王権』は踏まえられるべきように思われます。参考になれば幸いです。</small>--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月4日 (火) 05:19 (UTC) |
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::::::{{コメント}}上島享氏の名前もその書名も知っていますが、手元に書籍がない以上、中途半端に言及するわけにはいかないのですね。ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間じゃなくなっちゃいますから。硯箱さんの加筆は大歓迎ですよ。確かに私は大幅に手直しして加筆もしましたが、別段、記事自体は私のものでも何でもなくてウィキペディア財団のものですから。「参考になれば幸い」とおっしゃいましたが、遺漏や情報更新に関して私が全責任を負うということでもないのです。「持ち寄り」が大前提ですから。そこに言及した以上、あなたが書かなくてはならないという話にもなりかねないんですけどね(笑)。ウィキペディアに対する考え方は改められた方がよろしいかと思います。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月5日 (水) 23:36 (UTC) |
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以上の理由で、kanbun版の[[世俗化]]、[[世俗国家]]などへの分割を提案します。分割箇所は、「2.歴史的展開」の2.2から2.3。2.4まで含めてもいいでしょう。しかし、2.4は[[宗教改革史]]、[[宗教改革の歴史]]として分割する方が適切。 |
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:::::::なるほど、しかし田村圓澄も黒田俊雄も摂関期からの国家と仏教の関係の変化がその立論の中心にありお二方の主題もそこにある(鎌倉仏教が民衆的という性格を持つとすれば、その理由は寺院に対する王朝側の宗教政策の変化により、寺院の経済基盤の変化・王朝からの権門としての自立化、法会の大衆化、寺院内での諸階層の取り込みの進展、すなわち寺院の世俗化などの事象が民衆化の背景にあることは研究成果からも明白である。現況の鎌倉仏教記事では細かな学説史部分にこのような認識の一端は示されているが、なにより近年の鎌倉仏教の再評価は平安仏教の再評価そのものであることに鑑みれば、どこかで整理したその大筋が示される必要があることは火を見るより明らかであろう)ので、参考にしていながら、あえてそれを記載しない理由が私にはわかりませんね。わかりやすい説明を優先して学問的な理解の本筋を示さないというようなことをアマチュアリズムと称して[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんは正当化する傾向があるように思われます。しかしこのようなことはむしろアマチュアリズムに過剰な期待を寄せ、結果的に内容の悪化とアマチュアリズムなるものそのものへの不信を生む元ではないでしょうか。あくまでたまたま話題に出たのでついでに査読した感じですが、参考になれば幸いです。記事の過不足をアマチュアリズムなる概念をもって、さかんに論じられていましたので、ちょっと気になってしまいましてね。私からすると歴史学的に最も重要な不足のある記事を参考にと言われましても、はあ、その記事、でも大事なところ抜けてますよねとしか言い様がない。この流れの全体は結局アマチュアリズムそのものの否定につながっています。そして、こちらの記事の大事な部分を脚注なり別記事に持って行く根拠にもなりませんよねという話です。査読っていうのは記事内容の適切性をまず第一に考えるべきなのに、アマチュアリズムなる概念を理由に不適切な内容を根拠なく提示して混乱させるのはよろしくないと思います。ウィキペディアのアマチュアリズムがあるとすれば、それは無際限のアマチュアリズムではないのであって、信頼できる情報源を示して方針的に適切な内容を記載するという原則あってのアマチュアリズムです。勉強不足な人が勉強不足なまま、出典のない個人的感想を膨らませて書く場所ではありません。また私が申したように、この時期の政治関係は国制改革も複雑に絡んできますので、個々の事象に直接的な「なぜなに」は可読性の問題もあり、個々の事象の個別記事に記載されるべきでしょう。疑問を持った人が個別記事を読めばわかるようにハイパーリンクを張ればよい(本来はそういう構造になっているのがウィキペディアのスタンダードでしょう?)。とくに宗教改革の社会史的背景についてはここでそれほど深く触れる必要はないように思いますし、この記事が触れていないのは分割以前の記事に民衆信仰の高まりや公会議主義思想、全宗教改革的な教会改革論、人文主義など一通り書かれていたことにあり、記載がないわけではないので、それこそハイパーリンクで処理すればいいんじゃないですか。こだわる理由がわかりません。ましてや主要なコンテンツである二世界論を外せという主張は暴論でしかないので、根本的に主題への無理解を呈しているとしか言い様がありません。典型的な「木を見て森を見ず」式の主張に思われます。この節の始めで[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんは「レポートを受理した指導教官の気持ち」で査読することを提言されております。大上段に構えるのは結構ですが、勉強不足を早々に自ら認めさせられても文献一つも示すことが出来ないまま、ぐだぐだ言い訳をする人が「指導教官」とは片腹痛いのではないでしょうか。私は[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんをその記事履歴から非常に理性的で歴史学的な知識が豊富だと判断していたのですが、個別に実際にその執筆記事を検討したり、こうして議論で向かい合いますと、それも認識を改めねばならないかもしれません。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月6日 (木) 03:07 (UTC) |
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:::::::: {{返信}}なるほど。そこまで読んでくださいましたか。恐れ入ります。正直、だいぶ前に書いたものなので忘れていました。図書館に本を返すときにはいくらか気にするんですが、そのうち別のことが気になってそっちへ行っちゃうというところがあるんですね。おっしゃる通りです。私は歴史学的な知識は別段豊富ではないですよ。それは硯箱さんの買いかぶりです。むしろ御指摘のとおり、知らないことが多い。認識はあらためていただいて結構です。ただ、ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間ではなくなってしまうというのは、繰り返し申し上げたいところです。記事の私物化や編集権ということが他の人から指摘されていたようなので。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月6日 (木) 22:13 (UTC) |
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個々の節について、「政教分離の歴史」との関係について出典明記をお願いしても、一向に出す気配もないので、一括で分割提案します。 |
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:::::::::「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則、そのとおりです。私が問題視しているのは、では翻って最初にここの査読で[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんが提示した「割と小中学生にもわかる理屈」はとてもまともな本に書いてあるものとは思えないが、それを査読として提示するのはどうなのか、混乱の元にならないかということです。ここまでそういう文献に基づいて議論するということがこのノートではなおざりにされ続けています。私がこの記事を私物化していると主張している連中は、「ボクの考える政教分離」を振りかざして、この記事が独自研究といいながらやってきたわけですが、私がただ単に相手の主張が「そんなこと書籍を見ても書いてないでしょ、文献出せよ」と言っても出さない(ついでに文献を出しても読み間違っているので、指摘しても受け入れない)。「独自研究独自研究」と叫ぶが、私が「参考文献に書いてあるじゃねーか、見ろよ」と言っても見ないばかりか、「その参考文献が独自研究だ」みたいな意味不明な論理を展開する。そうして私が明らかにおかしなことを却下していることを記事を私物化していると印象づけ、編集権の主張だという(ついでに記事ほぼ全面に要出典を見境なしに貼り付けて、独自研究タグなども議論せずにどんどん貼っていく、駄々っ子のようで呆れましたが。典型的なタグ貼り荒らしですよ。最近のウィキペディアではこういう荒らしは容認されるようになっているらしいですが、上で【その「要出典」は多くは私が付与したものですが、それは硯箱さんとの対立的な議論のなか、「そこまでいうなら出典くらい明記してください」という思いを込めて付けたものでした。】というタグ貼り付け当事者の述懐があるように、体よく言ってはいますが、要は報復目的だということをゲロってます。要出典タグの本来の使い方は事実と異なる点について明確にすべき箇所に貼るもので、出典のないところに見境なく張るものではないことは周知の通りです)。馬鹿らしいでしょ。これが繰り返されているんですよ。で、[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんも結局皇帝と教皇のプロレスにルターが闖入みたいな話を作って、「ここに政教分離の歴史としての成分は50%くらいはあるぜ(ドヤ」みたいな話をしてしまってはやってることはこうした連中と変わらんでしょ、典型的な「ボクの考える~」論ですよ。「もっと冷静になれよ」という話です。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月7日 (金) 04:12 (UTC) |
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:::::::::: この記事の問題点は未完なところにあるのであり、10年間もスタブ状態が放っておかれたのですから、「ボクの考える政教分離」「こう書こうぜ」という論が噴出するのは当然だと思います。未完状態をどう解消していくのか、みなさんの御協力をあおぐのがよいかと思います。そのためのノートです。ノートでの議論については出典明記の義務はないはずです。ただ、本文に関しては、報復目的であれ何であれ、貼られたものを勝手にはがすわけにはいかないので、これについては手元に文献のそろっている硯箱さんに御協力をお願いしたいところです。TENさんは、一生懸命その作業をやってくださって、KANBUNさんの書かれた記事を守ろうとしてくださっており、たいへん頭が下がります。何とぞ、よろしくお願いします。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月7日 (金) 12:09 (UTC) |
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:::::::::::私も黙っておりましたが、TENさんの地道な作業には私も心から感謝を申し上げたいです。私自身は編集合戦を防ぐため加筆には加わらないという明確な約束事もあり、動けないので、地道にやって下さる方がいるのは実にありがたいです。私も文献情報をTENさんに具体的に教えた方がよいのかだいぶ迷いましたが、一方で私は敵も多いようなので、変なトラブルに巻き込まれないよう、あくまで独自にやってもらったほうがよいと思い、この点については見て見ぬふりを通しておりました。 |
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:::::::::::さて、しかし気になるのは【「ボクの考える政教分離」「こう書こうぜ」という論が噴出するのは当然だと思います。(中略)ノートでの議論については出典明記の義務はない】というような見解です。これは明らかに問題で、個々の「ボクの考える政教分離」を検証する文献的裏付けがなければ、これは要するに'''ノートで独自研究を始める'''ということですから、これは明白に方針文書に反する行動ですので、耳を疑うところがあります。なるほど、最近のウィキペディアの質の低下の原因と議論の流れのいい加減さはここにあったかと気づかされました。[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんほどの方でも、いやむしろ独自のアマチュアリズムを信奉しておられるらしい[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんだからこそなのでしょうね。ここのノートでも信頼できる文献の情報が独自研究で、文献に基づかない検証可能でもない情報を中立的な観点などと強弁する論理がまかり通っていましたが、その精髄を今この[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんの発言に見て、私は呆れましたね。なるほど、どうりであのようなプロレス理論になるんですねぇ……。そうであれば、もうほとんど言うことはないですねぇ、無駄でしょう。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月7日 (金) 12:51 (UTC) |
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::::::::::::{{返信}}「政教分離の歴史」というテーマはひじょうに大きなテーマであり、たとえば、そこにマキァヴェリ『国家論』を含めるかどうか、ルター「二世界論」を含めるかどうかというのは、大きな問題点として存在すると思うのです。それについてだけでも、AB両方含める、Aだけ含める、Bだけ含める、両方含めない、の4通りの意見が考えられます。こういうことに意見を戦わせることは不毛なことではないと考えます。それぞれの歴史観なり「政教分離」という事象に対する考え方の違いなのですから、おおいに論じ合えばよい。そして、「政教分離の歴史を考えるとき、「二世界論」は必須である」とか「マキァヴェリの思想は政教分離にとっては不要な情報である」というふうなことをわざわざ書いてある文献というのも考えにくいわけです。そこではお互い、自由で対等な立場で話し合えばよいと思うのです。ここにおいて自分はこの分野において通じているからとか、自分はプロだからなどということは持ち出すべきではないと考えます。もちろん、プロの参加を拒むという意味では決してありません。そこは誤解していただきたくないところです。『世界大百科事典』の記述に即していえば、政教分離成立過程には叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つの大きな画期があるということならば、叙任権闘争の前と後、宗教戦争の前と後、フランス革命の前と後で、教会と国家の関係がどう変わったかを書けばよいという考え方もあります。そういう考え方に立てば、宗教戦争のなかみを事細かく書く必要もないし、硯箱さんが「最低限に絞った」として書いてくださった「16世紀第一四半期の神聖ローマ帝国の政局」は不要かもしれない。単純に宗教戦争の始まる1500年段階の政教関係とそれが終わった1648年段階の政教関係を比較して、「だから宗教戦争は画期だったのだ」と書き上げる方法もある。これはあくまでも素人考えなわけですけれども、素人考えだからといって否定されるべきものではないでしょう。そして、あえていえば、こういう書き方からすれば、硯箱さんの精密正確な史実記載よりも、硯箱さんが馬鹿にしてやまない私のプロレス議論の方が「わかりやすい」のかもしれません。というのは、「聖書のどこにも教会のことなんか書いていない」という事実が(「聖書のみ」「信仰のみ」という考え方が宗教戦争を通じて)人びとに広く知られるようになったことの方がルター登場後の「最低限に絞った」史実の概略よりも「政教分離の歴史」というテーマに即しているという見方も成り立つからです。扱う対象が巨視的な視野を必要とするならば、テーマに直結した方がわかりやすいし、ある意味正確でもある。TENさんがフォローしてくださったのは、おそらくそういうことではないかと思います。そして、ものの知らない私であっても、本文に書くときはプロレスを事実としては書きませんよ。当たり前のことですが。私は、書籍に書いてあることをページも明示しながら書きます。いつも手前味噌ですみませんが、最近書いた「[[タンジマート]]」でも一文につき1~2の出典をつけています。今はこれくらいやらないとダメなんです。で、話をもとにもどしますが、読者が政局の詳細と「プロレス」のどちらを望んでいるかということに関していえば、これまた硯箱さんが軽蔑してやまない「素人目線」が必要だろうということなのです。そういう面からすれば、ノートでの議論で、いちいち「良心」だとか「常識」だとかを持ち出すプロというのは実にハタ迷惑な存在となるはずで、「良心がない」「常識がない」というのは人間に対する侮辱としてはおそらく最大級のものと思われるのに、何でたかが素人がつくる百科事典の議論で、素人の素朴な意見を言っただけなのにそこまでの侮辱を受けなくてはならないのかという話になるでしょう。議論のなかで文献の提示をしあうということは当然あってもいいわけですし、それには喧嘩にならないよう、誠実に向かいあう必要があります。しかし、それは大前提ではなく、必要に応じての話です。記事がある程度しっかりしていれば、ノートでの議論はそもそも発生しないものだからです。自分としては、あなたがKANBUNさんの労作をほんの少しでも大切に思う気持ちがあるのなら、どうして本文のルターに関する記事の「二世界論」に関する出典を付けてやらないのか?と思います。どんな大学生向けの教科書にも書いてあるのなら、その教科書を参考文献に掲げて該当文献のページを本文に添付してあげたらいいでしょう。そこで初めて検証可能性が生まれるのであって、単に「二世界論」というだけであっては、歴史学で扱う思想史上の概念なのか、そういう歴史認識を教義のなかに含めもつひとつの宗教的立場なのか判別もできないのです。本文に「要出典」「独自研究」というタグが貼られている以上、いつ誰によって削除されても仕方ないのであり、私の見解もそこから出ています。ノートで喧嘩しているヒマがあったら、何で出典を付けて差し上げないのですか。ほんの数分の作業でしょう。蛇足ながら、「政教分離における歴史学的視座」なる分割前のさまざまな論考、あれを冒頭に伏す時間があるんだったら、その分、啓蒙主義なりフランス革命なりについて加筆すればよかったでしょう。未完というのは、キツイ言い方をすれば欠陥記事なのであり、硯箱さんの行動は一生懸命墓穴を掘っているようにしかみえない。スタブ解消と要出典・独自研究タグの除去こそ、この記事を守るために硯箱さんが真っ先に行うべきことじゃないんでしょうか。それができない人ではないし、誰よりも上手に完璧にできる人のはずなのに、どうしてなさろうとしないのか、私には不思議でなりません。「喧嘩目的かよ、来るんじゃなかった」とは硯箱さん以外の議論参加者がおそらく誰しも感じていることであり、こういう膨大な議論もまた、本文をただ参照している人からみれば知らぬ存ぜぬの世界なのです。コップのなかの嵐をわざわざ覗きにくる酔狂な人もいません。(宗教の話や政治の話にはなるべくかかわらないし、かかわりたくないというのが普通です。)だからこそ、本文に関しては「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」原則をただちに実行にうつしてください。「賛成です」というのでなく、これはルールなのです。サッカーで手を使ってはいけないのと同じレベルのルールなのです。ルールが守れない人はどんな名プレイヤーでも退場が宣告されるでしょう。そして、なぜルールになっているのか納得できないというのなら方針文書を熟読なさってください。(TENさんだって、本来ならば10年前に書かれた記事の出典を添付するような、いわば人の尻ぬぐいをやらなくてはならないのは本意ではないでしょう。私はそこは本当に申し訳なく思います。ただ、私もおいおいお手伝いしようとは思っています)。返信無用です。よろしくお願いいたします。<del>--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月8日 (土) 01:47 (UTC)</del>(補筆)--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月8日 (土) 02:30 (UTC) |
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[[#分割を差し戻しました|出典がないことについてすでに何度も指摘しているのに、一向に話を聞きませんが]]、出典のない構成は、独自研究です。また、不当に削除された記載は復帰します。 |
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この宗教改革前後の流れを今日的な通説に即してかなり端折って整理すれば、まず15世紀後半から帝国の国政改革が進行しており、それに関連して『皇帝ジギスムントの改革』なる文書が一部で広まった(が、忘れられていた)。マクシミリアン1世の時代になると公会議運動に影響を受けた改革運動が実行に移されたが、これは皇帝と諸侯の調和的な関係を目指したにもかかわらず、実際に現れたのは様々な局面での皇帝と諸侯の対立であった。同時に中央集権化を進め、百年戦争を経て領域国家化したイギリス・フランスとの競合関係が意識され、国民性・国家性が意識されるようになり、【「ドイツ国民の」神聖ローマ帝国】という称号が公文書に採用されるとともに、選挙から戴冠式にいたる皇帝即位のプロセスのすべてでローマ教皇の関与は排除され、皇帝位はローマ教皇権の権威から完全に自立した。一方でこの時期帝位を世襲し始めたハプスブルク家は神聖ローマ帝国外に支配領域を拡大するようになり、諸侯はドイツ以外でハプスブルク家が遂行する政策や戦争に巻き込まれることを危惧し、協力することに消極的だった。実際ハプスブルク家は自家の支配下にある領域を接続することを意図した地政学的政策をとっており、それは神聖ローマ帝国一般の利害とは必ずしも一致していなかった。こうした状況は皇帝の政策の一つ一つに対して諸侯に疑心暗鬼を抱かせ、改革の必要性とは裏腹に実際の帝国改革の局面で改革を遅延させる逆ベクトルをしばしば発生させた。こうした事態が進んだ背景には当時ヨーロッパではコーポレーション的観念が一般化し、王冠概念・国庫概念の進展と錯綜しながら、国家を法人格で捉える考え方が一般化したことにある。また神の平和運動に連なる平和共同体思想の影響も見逃せない。神聖ローマ帝国ではこうした改革の努力は帝国統治院(しかし実質的な機能は限られた)と帝国クライスという形に結実し、英仏とは異質な、実質的な連邦国家が形成された。ルターの95箇条の論題は当初こうした帝国の政治問題とは無縁であり、ルター自身もそれを政治問題としてではなく、特殊な教義問題として提出していた。ルターの意図(贖宥状に関わる教義問題の明確化)に反して論題は(「贖宥状批判」の論として)ドイツ語訳されてパンフレットとして流布した。しかし贖宥状は1518年アウクスブルクでオスマントルコへの十字軍税を教皇特使が諸侯に求めたときに政治問題化することとなった。諸侯はドイツ人民の疲弊を理由に、教会へのこれ以上の金銭的奉仕に一致して反対した(帝国議会で贖宥状が議題に上ったのはこれが初めてで、しかも反対意見の第一項に十字軍税とともに記載された。またこれには贖宥状販売を主導していたマインツ大司教アルブレヒトも諸侯筆頭として署名しているが、背景には皇帝選挙を巡る複雑な政治的駆け引きと買収、妥協と帝国諸侯の一致を国内外に示す政治的効果への配慮があった。時期的にもきわめて注目すべきであるにも関わらず、従来ルターの動向のみに的を絞っていた宗教改革研究で、この十字軍税と贖宥状問題は比較的最近まで見過ごされてきた。従来の研究が見過ごしていたことからわかるように、これは市井の一ベストセラー作家であるルター個人の言動とは無関係な政治力学が働いていたものである)が、これも背景には公益性と結びついた国庫概念の影響や国民意識の高まりがあった。しかし教皇特使はこの背景に当時流布していたルターの影響を見(実際ルターは贖宥状批判の先鋒でもなかったし、贖宥状そのものを批判していたわけではないのでこれは厳密には目論見違いであるが)、ルターを敵視するドミニコ会の運動もあり、ルターを召喚し審問することになる。議論は平行線をたどったが、事態を通して教会に対する批判精神を高めたルターは1520年に一連の三大改革文書を発表し、明確に教皇権を攻撃するようになり、ルター問題は完全に政治化した。このなかでとくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』は「万人司祭主義」と義認教会論を展開し、また忘れられていた『皇帝ジギスムントの改革』に注意を向け、そのラディカルな改革精神を鼓吹した(ルターのこの論文の影響で『皇帝ジギスムントの改革』が広く知れ渡るにいたったことは有力説で、おそらく定説である)。教皇はこれに対し1521年破門を宣告し、皇帝はこの問題をヴォルムス国会で扱うこととした。ヴォルムス勅令によってルターは異端とされ帝国追放を受けたが、密かにザクセンに匿われることとなる。フランスでは王権による聖職者への課税が許されているのに対し、ドイツでは逆に諸侯や都市が教会への金銭的負担をしている現状につねづね不満を持っていた諸侯や都市はこれをきっかけに改革運動を展開していく。一方当初はルターに好意的だった言論界は破門前後に分裂して批判の応酬を始め、ルターとは無関係な遠隔の地域社会で進んでいた類似の改革運動も巻き込んで宗教改革問題は全ヨーロッパ規模で議論されるようになった。この過程で改革運動は急進的な社会変革運動として暴発する事態(騎士戦争・農民戦争)もあり、ルターや諸侯の意図を越えて帝国国制を動揺させることともなった。ルターはこうした事態に諸侯の世俗的権力を擁護する論陣(二世界論、領邦教会制の理論的根拠となる)を張り、諸侯の側も(プロテスタント・カトリック問わず)教会統制を強めた。この間国内問題やオスマン帝国問題を抱えた諸侯と皇帝は協力的であり、1526年のシュパイアー帝国議会では改革派に大幅な譲歩が見られた。しかし、1529年のシュパイアー帝国議会ではカトリック側の強硬な姿勢で26年の決定が覆され、改革派諸侯はこれに猛然と「プロテスト」した。1530年のアウクスブルク帝国議会の段階においてカール5世は対外問題(またカール5世はこの年帝国議会以前にボローニャで教皇のイタリア王とローマ皇帝としての戴冠を受けて協力関係を築いていることから正統信仰を擁護する立場を鮮明にする必要があった。この戴冠式はローマ教皇による伝統的な戴冠の最後の事例であるが、ドイツ諸侯は参加しておらず、もはやドイツ国制上に位置づけられたものではないとするのが定説)をほぼすべて解決しており、こじれたドイツ国内の問題を根本的に解決せんとし、改革派諸侯も当初は平和的解決に期待を寄せたが、結局決裂した。・・・・・・(以下本文)といった感じでしょうか。かなり最低限に絞りましたが--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月4日 (火) 11:05 (UTC) |
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{{コ}} 余談ですが、日本の宗教政策は聖徳太子の時代などは非常に重要ですが、[[鎌倉仏教]]は国家体制主導ではないですから、幕府の宗教政策などを強調する必要はありませんよね。宗教政策の影響を最も大事な論点などと言ってしまわれると、日本の宗教について無知なのだなあと思われますよ。ヨーロッパ風の考え方ですよね。[[鎌倉仏教]]を主要な開祖を中心に論じる視点は間違ってません。硯箱さんは、手元に蔵書をお持ちなのはわかりますけど、ご自分が思っていらっしゃるほど、宗教全般の知識が完璧というわけでもないということもご自覚頂き、謙虚に耳を傾けながら議論してもらえませんかね。百科事典なんですから、教科書レベルの一般常識論とのバランスをとることは必要でしょう。論じるまでもありません。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年7月6日 (木) 01:15 (UTC) |
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「歴史的展開」の「概要」は概要になっていないし、目次です。しかし目次はすでに表示されており、二重に表示することは不要で余計。よって削除を提案します。しかも、出典もない。また[ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ]の必要性がないので、表示に反対します。 |
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:ぽてからさんはさすがに勉強不足ですね。私から指摘する必要もないですし、このノートで個人的に向けた追伸の、直接記事内容に関係のない話題に食らいついてくる意味がわかりませんが、文献に基づいて議論することくらいしましょう。感想論ばかりで実がありませんし、上の発言は逆に無知をさらけ出しております。この場合、文献も示さずに好き勝手に印象論を語っている側と、学説史を丁寧に踏まえ、文献を示しながら議論を行っている側のどちらに謙虚さが求められるべきかについても正常な判断が出来ないということであれば、[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんに議論に参加している意味はあるのでしょうか。これまでのノートでのぽてから氏の発言を見ても、議論攪乱が目に余るところがあります。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月6日 (木) 03:07 (UTC) |
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:{{コメント2|横から失礼}} ここは査読の場です。雅ハルカさんも仰られていますが、お二方はお互いの知識への批判を避けることはできないでしょうか。不毛な争いを避けるためにコメント禁止にしているのですが、もう争いが起きてしまっています。他の方と意見が異なるのであれば、他人の意見を無視して自分1人で査読すれば良いじゃないですか。これ以上コメントせず、査読だけをすれば争う可能性はなくなります。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月6日 (木) 07:33 (UTC) |
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--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月22日 (水) 14:45 (UTC) |
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::査読というのは第一に内容面での誤りの有無をチェックするものです。構成面での議論をするなら、それは査読ではなく記事の通常議論です。そのうえで記事内容が基本的に正しい事象を伝えていることに対して、完全に明白に誤っている歴史認識を新たに採用せよという主張はとても査読とは思われません。査読とはまず先行研究を挙げ、そこで挙げられている事実との相違があるならそれを指摘し、研究史的流れを踏まえられているか、先行研究や史実での見落としがないかなど具体的な内容面を扱うものであり、現状はとても査読になっておりません。査読と称して結局のところ通常ノートと同じ議論をするなら、それは特別なルールを設ける必要を感じません。そもそもウィキペディアには現状十分に機能しているかは別として、「[[Wikipedia:査読依頼]]」という立派な査読の場があるのですから、そもそもノートでそれをやっている現状が場所を間違えているという本質的な問題をなぜ見逃すのでしょう?査読と称して、とても「査読」になっているとは思えない議論を場所違いも無視して現状やっているわけですが、単純にノートの使い方を間違えている気がします。それもお互いにコメント禁止と不必要な独自ルールを一方的に押しつけるのですから、困ったものです。<small>が、一方でこの査読という名の不可思議な議論が現状のウィキペディアの質というものをよく教えてくれており、個人的には単純に面白くはあります。実際私はこれまでずっとニヤニヤして笑いが止まらない。出鱈目で学問的な裏付けがないことをいかにもストーリーとして面白く仕立て、事実として存在するかのように粉飾し、それを必死に熱弁する、そういう姿を見ていると単純に面白くてしかたがないですね。とてもウィキペディアンとしての本節を全うしているとは思えませんが。これではいけないとウィキペディアの利用者は思わないのでしょうか。思わないんでしょうねぇ。この査読なる部分の議論を追うだけでも明白なのですが、実際面で検証可能性や中立的な観点がかくも容易に踏みにじられているということにコミュニティは問題意識を持っていないように思います。こういうのがアマチュアリズムなんでしょうかね。私は違うと思いますが。</small>--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月6日 (木) 08:27 (UTC) |
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:::査読という単語についてはともかくとして、売り言葉に買い言葉で反論をして、議論を停滞させるのはやめませんかということだと思います。反感を買う物言いをしているのは硯箱さんも同じです。方針文書の熟読をお願い致します。具体的には「[[wikipedia:礼儀を忘れない]]」や「[[wikipedia:善意にとる]]」となります。個人攻撃、相手をあざけったり馬鹿にしたりすることは「深刻な例」として紹介されていますのでご確認ください。[[特別:投稿記録/240F:60:DDAB:1:8853:57CD:2BF0:4847|240F:60:DDAB:1:8853:57CD:2BF0:4847]] 2017年7月6日 (木) 09:53 (UTC) |
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::::私個人としては実に議論が活発化しているように見えます。とくに直近議題になっているヴォルムス勅令前後の政治状況について、記事に盛り込むか盛り込まないかは別にして、認識を深めることは悪いことではないでしょう。また「反感を買う物言いをしているのは硯箱さんも同じです」「売り言葉に買い言葉」とおっしゃっているということは、つまり私の論争相手にも「売り言葉」なり問題発言が認められるということでしょうか。その点私も認識は一緒ですが、それはいいでしょう。私自身はとくにこの場で好感を求めているつもりもなく(人気集めをしているわけではありませんから)、事実そのものを多少相手を非難する形で述べているのみです。これは実際問題としてこの記事のノートではほとんど検証可能な文献を示すことが行われておらず、それは[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんさえ本来最も検証可能性が求められるべき「査読」をすると大上段なことを言いつつ、文献を一つも示さずに単なる感想論を展開しているので、根本的に正常な議論になってない、ということを申しているのです。これがウィキペディアの現状だとすれば、嘆かわしいとは思いませんか。まじめにやるだけ馬鹿を見る議論であることは確かでしょう。私は反応が面白いから一応続けてますが、アマチュアリズムというのは本来ボランタリズムに近い、動機や目的の非商業主義、純粋性、高潔性を言うのであって、一種の専門意識でもあり、[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんが言うような素人目線を言うのではありません。で、その動機や目的の高潔性という面で考えれば、少なくとも学術的な研究成果に完全に後ろ向きな時点で、ここでの議論はとてもそのような誠実性に基づいているとは思えない、ということです。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月6日 (木) 10:14 (UTC) |
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:::私が言葉足らずだったようです。改まったような形になりますが、補足します。既にGreenland4さんの発言で、「コメントを書きあうのは了承しよう」といった旨の表明をされています。しかし、コメントの中で「他人を批判する」というのは違うだろうと思って指摘した次第であります。「コメントをしないようにしてください」は'''撤回します'''が、(ぽてからさんも含め)お互い批判的なコメントは避けていただきたいと思います。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月6日 (木) 11:14 (UTC) |
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::::私はね、査読には賛成だったんですよ。査読って言うからには内容検討に入るってことですから、適切に査読されるなら、明らかに考えなしで貼られている要出典箇所が検討されるでしょうし、議論が前進すると思ったんです。ところが、実際[[利用者:Greenland4|Greenland4]]さんがやり始めたのは査読とは全く違う、ただの感想でしょう?それもまだ歴史的事実なり何らかの文献に即して話をしているならわかりますが、文献も何も見ないで、明らかに高校教科書でもそんな書き方せんでしょっていう記述をぶち上げて、「こう書こうぜ」みたいなのをごり押しする議論を始めちゃった。あーなんかウィキペディアでよくある、いつもの出てきたーと私は思いましたよ。曰く「素人目線」。正直ここまでずっとこんな議論ばっかりやってるんですけど、そろそろ記事の要出典箇所とかまじめに出典確認して修正しようと思わないんですかね?これこそ議論の停滞ですよ。私には半ばどうでもいいんですけど。はっきり言ってこの査読なる節の議論は結局のところ、これまで延々と繰り返されてきた「ボクの考える政教分離の歴史」みたいな話に戻っちゃってて、とても生産的とは思えない。ここまでずっとそれで平行線だったんだから、内容の適切性を吟味し、不足を加筆するという方向での本来求められている査読をしなきゃあかんでしょ。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月6日 (木) 11:30 (UTC) |
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::::つまり、査読するって言うなら、「○○の文献にはこう書いてあるんだけど、なんか記事のここの箇所は違うぞ。なんでこうなってんのかな?」みたいなちゃんと文献に基づいた査読をしないと意味がないでしょ。私は前からここでの議論には必要だと提案してますが、とくに査読に当たっては必ず文献を示して行う程度の縛りがないと、まず前進するとは思えません。いつまでも「ボクの考えた~」が続くのは不毛です。水掛論にならないためには相互コメント禁止なんか実際はどうでもよくて、検証可能性をまず第一にするというほどがよっぽど効果がある。少なくともこれまでの議論で繰り返されてきた文献の裏付けもなく根拠薄弱で感想だけしか言わないような煽り目的としか思われない愚にもつかない応酬は確実に減るでしょうし、生産性は格段に向上するはずです。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月6日 (木) 12:14 (UTC) |
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{{コ}} 暴言はお控えください。事実とは言えない暴言については除去しました。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年7月7日 (金) 05:24 (UTC) |
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:まず政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なるということを理解してください。正直議論が全くかみ合ってません。そもそも『教会から国家へ』は読まれたのですか?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8|2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8]] 2017年2月22日 (水) 14:55 (UTC) |
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:他者の発言の改竄(それも明確な論争相手に対する)は明確なマナー違反です。ぽてからさんのこうした節操のないところ、我慢のきかないところ、自制のない独りよがりな発言をする傾向が完全に議論攪乱になっていることをご理解ください。これまでの議論から明らかなように、たぶんどんなに個人攻撃的な表現だったとしても、[[利用者:ぽてから|ぽてから]]氏の発言の一部を私が暴言として除去したら、この御仁は私に対してそれを他者の発言改竄だと特筆大書して騒ぎ立てるはずです。しかし自分がやるのは構わない、そういう人です。どちらにせよ他者の発言の改竄はこうした不毛なやりあいにつながるので、やらないほうがよろしい。文献に基づいたフェアな議論だけをすればよいので、[[利用者:ぽてから|ぽてから]]氏は知識も、ましてや基本的な文献さえも踏まえるつもりはないようですし、文献に基づかずに記事に貢献するとも思えない特定個人ばかりに向けられた発言を繰り返したり、手前味噌で勝手にタグ貼りしている時点で、記事に向き合う誠実性において根本的な問題があることには変わりないのです。正常に文献に基づいて成立すべきはずの記事に対して、端的に言えばこうした行為はその破壊を目的としているわけですから、定義としては明確な荒らしです。--[[利用者:硯箱|硯箱]]([[利用者‐会話:硯箱|会話]]) 2017年7月7日 (金) 05:59 (UTC) |
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:それと気になってしようがないのですが、やたら権威付けされている、この井上修一さんという方はどういう方なのですか?専門は民事法学などとなっていますが。この論文にはどんな研究史的意義があるんです?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8|2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8]] 2017年2月22日 (水) 15:01 (UTC) |
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{{コメント}} 見てて呆れます。批判は'''やめてください'''。批判的なコメントからは建設的な議論は生まれませんし、その上このままでは議論が進みません。相手の行動に問題があると思うのならお互いに対しての、[[Wikipedia:コメント依頼|コメント依頼]]を提出してみてはいかがでしょうか。このままではこちらからコメント依頼を提出せざるを得なくなります。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月7日 (金) 08:53 (UTC) |
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::議論もなにも、なにひとつ他人の見解を聞こうとしていませんよね。「政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なる」なんて独自研究または演説はしないでください。カロリングルネサンスは書いてもいいが、近代における政教分離原則について書いてはならないとする理由はない。誰の論文であっても、査読体制のある大学紀要論文であれば、出典として使用できます。あなたが好む学者だけが「信頼できる情報源」なのではない。もうこれ以上は無理ですので、コメント依頼します。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月22日 (水) 15:25 (UTC) |
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:::正直山田欣吾『教会から国家へ』はドイツ中世史プロパーや政教分離論について歴史的な関心がある人なら外せない一冊であり、同書でも指摘されているとおり国制史的には国家の世俗化が近代国家形成であるというのは国制史的には定説で、そのうえさらにこの研究は伝統的な初期中世国制史の議論においての空白を埋めた画期的研究です。そもそも山田欣吾を知らないという時点で政教分離の歴史というかなり壮大な問題を論じられるのか?という疑問があります。そうした歴史学的な背景もなしで突然政教分離においては各論に近いライシテを教科書的に論じているように思える論文を出されて議論されても、そもそもの土台が違いすぎます。はっきり言ってしまえば[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが繰り返し決定版のように引用している箇所は井上論文の確信でも何でもなく、それこそ辞書的な流れを確認しただけの論文の序詞で、それほど重要な意味のあるものとは思えません。それに対し、『教会から国家へ』は少なくとも後進研究者にとって参照対象である国制史の理論的核を提供している画期的なもので、それは[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんがネット上で見つけてきたと思われる『教会から国家へ』について言及する各種論文にも明らかです。はっきり言ってしまえば、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さん自身が自ら『教会から国家へ』が重要著作であるとはしなくも証明しているにもかかわらず、自分に都合のよい論文や記述を集めて独自に研究をなさっているように思われます。そして今更ながらに気づきましたが、近代以後の記述がないのはおかしいという点については、単に現状の記事に記述されていないだけで近代については加筆すればよいだけではという当たり前の疑問がわいてきます。なんで加筆しないのでしょうか。近代以前に議論を限るという話には今までなっていない気がしますが。正直近代以後を加筆すべきという議論は分割とは関係ないですよね。自らを正当化するために私が発言していないことも私が言ったことにしてませんか?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:D8C2:51B3:5DC3:D122:8CFE|2001:268:C068:D8C2:51B3:5DC3:D122:8CFE]] 2017年2月22日 (水) 15:50 (UTC) |
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{{コメント}} 出典の明記タグを貼ることを「報復」などと受け取るとは恐れ入ります。「完璧な記事」であればタグを貼ることができないのです。未完成だから、完成してほしいといっていただけなのですが。論争が起こった場合、速やかに出典を明記することはウィキペディアでの常識ではないでしょうか。加筆にあたって編集者が素人かどうかなんてどうでもいいことですし、硯箱さんはプロを自認されていますが、お互いに匿名なのですからそれを証明することもできないし、必要もないのです(ビザンツ専門の方であろうとは推定しますが)。他人の知識不足を馬鹿にして悦に入るような態度は、啓蒙思想として間違っていませんか。啓蒙なんていらないと主張されるのなら、そういってください。硯箱さんが何のためにウィキペディアに参加されているのか分からないと、何人からも指摘されているではありませんか。単に「知識のない素人」を嘲りたいなら、匿名掲示板のご利用をおすすめします。私はこれらの記事初稿を書いた者でもないですし、出典を明記して改善させる義務もないのですが、ゆっくり加筆していきます。返答はもういいです。余談ですが、一般大衆の啓蒙を目的とした新書や選書などを硯箱さんが執筆する考えを持たれるといいですね、と思いましたが、出版社の編集担当の方の苦労が目に浮かびます。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月7日 (金) 15:34 (UTC) |
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:::2001IP氏は「[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=ノート:政教分離の歴史&diff=63100769&oldid=63100693 近代以降は別の記事に書いた方がよい]」といってます。近代以降の加筆は必要です。しかし、加筆したくても、それまでの叙述があまりに長く、長いだけでなく、無意味といっていいほど恣意的で、歴史の説明になっていません。Kanbun版は「山田欣吾にあこがれているファンによるメモ」レベルにすぎませんが、 しかしそれもヨーロッパ国制史、国家と教会史としてのメモであって、「政教分離の歴史」として不適切です。ウィキペディアは山田欣吾ファンでなくても執筆は可能です。これ以上、中世史研究の「常識」などと演説されても、何の関係もないので、無駄です。あくまで、「政教分離の歴史」を書くことに、この記事の改善を考えてみてください。[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか]]をもう一度読んでみましょう。[[WP:IINFO|ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません]]。井上論文はインターネットで確認できるから利用しています。2001IP氏は[[中世の国家と教会]]と自ら改名提案していましたが、撤回されたのですか?その改名提案が生きているなら、その方向で合意形成に務める方がいいかもしれません。私はそれならば合意できそうです。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月22日 (水) 16:30 (UTC) |
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::::「[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=ノート:政教分離の歴史&diff=63100769&oldid=63100693 近代以降は別の記事に書いた方がよい]」の部分、前後の文脈切り離してますよね?これこそ詭弁というものです。文意を正確にくみ取れば、「近代以後だけに記事を限定したいのであれば、近代以後限定の記事を作って近代以後は別の記事にして書けば良い」という意味であることは明白ですよね?少なくとも私はそういう意味で言っています。そして改名提案もまた一定の文脈での話であり、撤回したとかいう話ではなく、この節ではまず分割するかどうかと出典が正当であるかどうかを問う議論をしているのであって、それに即した議論とは別の話をもってきて論点をはぐらかすのはやめてください。ここではまず井上論文をもし[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが権威として持ち出すのであれば、それが山田欣吾『教会から国家へ』と比べて出典として適切なのかという点について第一に話し合われるべきであり、さらにその妥当性を吟味した上で分割の是非について問うというのがありうべき議論の形ではないのですか?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8|2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8]] 2017年2月22日 (水) 16:52 (UTC) |
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::::つまり、ここではまず、政教分離の歴史の本論を措定するに当たって、民事法関係の専門家井上論文の冒頭部分に基づいて本論を書くのか、日本のドイツ国制史における画期的業績であり、少なくとも2000年代を通じて国制史の基本文献として参照されてきた山田欣吾『教会から国家へ』のどちらをまず基本文献として採用すべきかという話であり、そこから話を進めないと議論が始まりません。--[[特別:投稿記録/106.161.160.131|106.161.160.131]] 2017年2月22日 (水) 17:00 (UTC)(←追記:なぜか突然回線を変えたわけでもないのにIPが振られたので右の発言は[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8|2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8]]と同一人物の物であることを補足します。IP戻りました--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8|2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8]] 2017年2月22日 (水) 17:04 (UTC)) |
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{{提案}} 一度この査読はクローズし、改名後の内容についての議論をすすめるのはいかがでしょうか。査読がもめたのは、既存の内容への批判から入ったためかもしれません。既存内容は全体のなかの一節としてはあってもいいとは思います。理想では[[宗教改革]]への移動がいいとは考えますが、宗教改革以降の加筆をすすめる方が建設的ですし、必要でしょう。 |
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:::::どちらも出典として有効です。どちら一つなんてどこのルールですか。出典があれば、明記する。第一に、まずはそれだけです。出典が一ヶ月ほど待って提示されない箇所は削除します。また、分割に反対か賛成かは表明してください。霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎるでしょう。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月22日 (水) 17:10 (UTC) |
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さて、「政教分離の歴史(仮)」記事内容についてですが、たたき台というと大げさですが、[[政教分離原則#歴史]]を転記して、さらにそれへ加筆をしていくというのはいかがでしょうか。というのも、これまでも議題になったように「政教分離とは何か」について学者、思想家でも様々な見解が存在します。それらの政教分離の定義または現在での議論については[[政教分離原則]]で加筆し、そしてその子記事として「政教分離の歴史」があるということでいいのではないでしょうか。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月7日 (金) 15:56 (UTC) |
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:すみません、ちょっと趣旨を理解しかねています。基本的に現状の記事の内容(というか骨格)は維持して加筆整理される感じだと思っていたのですが、内容を入れ替えるということでしょうか?--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月8日 (土) 15:37 (UTC) |
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::{{返信|TENさん}} 私への質問ですか?私は既存記事に加筆という考えです。入れ替えるということではありません。後に加筆された分量とのバランスを考慮して、宗教改革部分が分量過剰であるならば、そのときに分割転記を検討することはありえます。正直、なぜGreenland4さんがあらためて厳密に構成を練ろうとしてこの査読議論を開始したのかはよくわかっていません(加筆していけばよかったので)。無益であったと批判しているのでもなく、査読議論の理由を聞いているのでもありません。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月8日 (土) 15:55 (UTC) |
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:::{{返信|[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さん}}入れ替えるわけではないという件、了解しました。個人的には「政教分離原則」と「政教分離の歴史(この記事の現状)」は関連するテーマを扱ってはいるものの、原則的には違う種類の記事だと思っています。なので子記事ということにはならないかなと思うので、頭の中でうまく繋がっていない感じです。この査読については、私は意味はあるとは思いますが、改名の件と合わせて議論が拡散気味ですので一旦クローズには異議はないです。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月8日 (土) 23:40 (UTC) |
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*査読対象に対する論証ができず適切に編集方針がまとめられないので、他の編集検討者に暴言を述べることで議論を攪乱するような編集検討者はコミュニティを疲弊させるだけでしょう。なぜいつのまに編集に参加するようになったのですか。自分の決意表明くらい誠実に守りなさい。--[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]([[利用者‐会話:大和屋敷|会話]]) 2017年7月8日 (土) 03:19 (UTC)「査読クローズ」の提案は賛成です。記事の編集方針を確定するほうが重要でしょう。wikipediaは信頼できる情報源から検証可能性をもって加筆してありさえすれば、その記述内容が互いに矛盾していても許容されます(wikipedia外部の学説に対立があってもwikipediaに両論併記してもかまわない)。そもそもここで議論されているような主旨での査読など必要ないのです。ちゃんと引用されているかどうか、捏造や誤引用がないかどうかさえ確認すればよいのです。--[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]([[利用者‐会話:大和屋敷|会話]]) 2017年7月8日 (土) 03:23 (UTC) |
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中世だけが歴史ではありません。現代史も歴史です。1989年のフランスの[[ヒジャブ]]問題なども、歴史的経緯も説明すべきです。しかしその場合、[[ヒジャブ]]の説明で何万バイトもあったらどうしますか?--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月22日 (水) 17:15 (UTC) |
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::::あと根本的なことなのですが、まず現状の版は別に『教会から国家へ』に基づいてませんよね?私はあくまで現状の版は『教会から国家へ』と同じ国制史的視点から構成されているということを指摘しているだけで、現状の版を『教会から国家へ』に基づく形で調整していくのはこれからの話ですよね?つまり、この記事は別に山田欣吾ファンが書いたという話はどこにもなく、ただ単に『教会から国家へ』を読んでも明らかなように、ここで展開されている論理は少なくとも大枠は別に歴史学的知見から非常識なものではないということを言っています。それから論点のすりかえが著しいのですが、まず井上論文の出典としての妥当性を考慮しなければ、それに基づいて現状を間違いだ、分割すべきとする[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの議論があるので、現状の枠組みは『教会から国家へ』に代表される国制史的見解やその他のすでに挙げた文献に基づけば、分割する必要はとりあえずないという私の議論と決着がつきません。両立可能という話ではなかったはずです。さらに現状の記述が強引かどうかがまさに論点となっているわけで、『教会から国家へ』が出典として有効であるならば、子細の検討はともかくとして、少なくとも記載内容については妥当であるということになり、分割自体問題とならなくなりますよね?[[ヒジャブ]]の件についてはバイト数を問題にする詭弁ですので、わかっていると思いますが無視します。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8|2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8]] 2017年2月22日 (水) 17:21 (UTC) |
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=== 雅ハルカ(1) === |
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:気になったので、「霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎる」という点については擁護する必要があります。記事の冒頭記述はちょっと説明不足ですが、現在の歴史学研究では霊性と国家の関係というのは国制史的な国家の世俗化や近代国家成立論、信仰の自由成立史などにわたって大きなテーマです。ざっくり今日の歴史学的研究における共通理解のようなものを素描しますと、まず古代世界では国家による殉教とか迫害とかを霊性の問題として教父たちがさかんに論じているんですけど、国家の側から見ると霊性を理由に迫害などしてなくて、治安維持を目的とした政策やまた迫害と考えられている事象の一部は教父が霊性をキーワードに誤解していたキリスト教保護政策などであり、国家は霊性とか信仰なんてもんはそもそも問題にしてないよねっていう保坂先生の画期的研究が出ちゃってて、次にカロリング朝が西ゴートの神政政治(これを神政政治と定義してよいかという問題がありますけど、とりあえず無視します)をモデルにして教会として自らを位置づけて霊性を国家が独占して強力な権威を獲得した(理念の上でも教会と「王国」(regnum この用語は要注意)が一致していたかについては五十嵐氏による議論あり)っていうところからドイツ国制史の議論が始まります。これが中世の始まりで、中世ではキリスト教徒じゃなきゃ基本的に人間として扱われていない社会だったけど実際はどうなの?その場合は近代的寛容論とのつながりはどうなの?って主にイベリアとシチリアなんかの周辺地域を対象にいろいろな研究があり、それが各国の政教関係を中心に読み解かれたりもしています。カロリング朝没落後に一度国家=教会的枠組みが崩れてしまったけど、オットー朝がそれを神聖王権という形で立て直します。でもなんか王権が改革にのめりこみすぎたあと、ハインリヒ3世死後4世が成人するまでの間にある皇帝権力の空白期みたいな時期に、教会改革が進んだこととシチリア王国ができてイタリア情勢が変わったことから叙任権闘争がはじまっちゃって、王権は神聖王権としてのあり方を否定されます。この時点で理論的には霊性と俗性は分離しようって言うのはほとんど常識になったんですけど、実際のヨーロッパの権力構造は教会組織が国家に組み入れられていたので、叙任権だけを解決しても財政や統治機構的な分離はあとまわしになっていたけど、それが教皇庁の機構的整備によって進んでいきます。でもこの時期イギリスとかフランスではキリスト教的な霊性とは別種の、教皇に依存しない血統霊威っていう霊的権威を王権が主張するようになって、これをもとに中世後期から近世になって王権神授説っていうのが主張されるようになります。一方で霊性の国家からの分離が進んでいたドイツでは王権神授説なんてのは王権の権威付けにはとてもならなくて、当時の皇帝権論者はそれを時代遅れで迷信だと罵りつつ、うらやましがっていたりする。この血統霊威の観念はだんだん王個人と引き離されて法学的に修飾されて国体みたいなものになるんですけど、これが王権への反逆と王個人への抵抗を区別する根拠になって民主主義的な抵抗を正当化するものにつながっていく。ドイツでは宗教改革を契機に国制が本格的に世俗化していく。で、議論の中心は中世のキリスト教社会では政治権力の正統性は霊性につねに根拠があったんですけど、世俗国家はそうではない。どうしてそうなるかといえば国制における政教分離と政治思想的な理念における政教分離がこうして同時並行的にからみあいながら進んだからで、そもそも世俗的な国家からの霊性の剥奪という過程がないと、霊性を現世の出来事から区別するという論点は成り立たないというか発想されないのであって、信教の自由とか近代的な寛容論とかも出てこないし、社会的にマジョリティになることはない。だから政教分離原則ができるには先行する政治思想での政教分離と国家機構の政教分離が不可欠であったという議論が基本線。でも実際は各国の歴史的進展には差があって、それが近代社会での各国の政教分離原則の立ち位置の違いにつながっている・・・・・・という歴史学研究の通史のなかでは霊性とカロリング朝と、イエスの思想の政治思想史上の解釈の変遷史というのは中心テーマですし、そこに現状研究が集中しているのは事実ですから分量が多いのは自然だと思います。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:DACE:4539:3251:E40B:1CF7|2001:268:C068:DACE:4539:3251:E40B:1CF7]] 2017年2月23日 (木) 07:31 (UTC) |
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この記事に、「政教分離」の簡便な語句説明を置いたほうが望ましいのではございませんでしょうか。教科書では、「政教分離原則」を指して「政教分離」という語句を初めて目にすると思いますので、「政教分離」は、狭義の意味では政教分離原則を指して用いられることを、念のため書いておく場所としては、この記事がよろしいのではないかと存じます。その上で、この記事では「政教分離」をどのような意味で扱い、どこからどこまでを記すのかという概要を簡単に述べてあると親切ではないかと思われます。どこからどこまでがまだまとまっていないのかもしれませんけれども、冒頭でこの記事の範囲や意味づけを明らかにしておきさえすれば、記事名でここまで二転三転しなかったかもしれません。--[[利用者:雅ハルカ|雅ハルカ]]([[利用者‐会話:雅ハルカ|会話]]) 2017年7月4日 (火) 01:07 (UTC) |
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ルターの項目について述べますと、ルターの罪責意識や神への「憎悪」などの苦悩を経て聖書研究に没頭していく宗教改革的体験や、異端尋問でルターが自説の撤回を断固として拒否、贖宥状問題、波紋宣告など、教皇との対立やルターの同調者の増加などに触れたほうがよろしいのではないでしょうか。ルターはアウグスティヌスに従ってという面が強調されておりますが、自身の葛藤や経験がまるで省かれております。ルターの思想がなぜ、宗教改革運動に影響を与えたのかという点について、書かれるべき事が書かれておらず、その先にあるごく一部の最終的な結論のみと申しますか、過程が省かれていると言いますが、百科事典としては非常に不親切な内容となってしまっていると感じます。ひと言で申しますと、ルターの存在が、なぜ、宗教改革へ繋がっていくのかが、ふつうの学力を持つ人が呼んでも理解できない内容になってしまっていると考えております。--[[利用者:雅ハルカ|雅ハルカ]]([[利用者‐会話:雅ハルカ|会話]]) 2017年7月6日 (木) 06:03 (UTC) |
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井上論文の出典としての妥当性を疑うとはどんな意味なのでしょうか。学術論文や百科事典なども出典として有効です。[[Wikipedia:信頼できる情報源]]を読んでください。その上で、井上論文が情報源として無効であることを証明してください。「政教分離の歴史」は中世史学者の文献しか使えないわけではない。[[WP:NOTOPINION|ウィキペディアは演説台ではありません]]ので、編集に関係のない現在の研究の動向などの話はしないでください。あなたの個人的かつ主観的な評価をいくら演説しても説得力はゼロです。政教分離原則の前史について、演説は結構ですので、出典を明記してください。分量が多いのは「自然」ではないです。近代以降の記載が同量の分量あれば、バランスはとれるかもしれない。しかし、各国の事情を異常な分量で一つの記事でまとめるのは不適切です。それでしたら、ヨーロッパの政教分離史の概説をここにして、各国の情況は別の記事にしたらどうですか。ウィキペディアはせっかく各記事がリンクされているのですから、それを利用してください。そして、記事を私物化しないでください。自分でサイトを運営なさったらこんな議論(ともいえませんが)しなくて済みます。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 13:13 (UTC) |
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:まず井上修一論文は政教分離の歴史についての論文ではないし、そもそも'''歴史学の文献ですらない'''でしょう?[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さん自身が記事内容に対して出典の有効性の是非などを論じているように見えるのに、ご自身の出典は歴史学分野でもない論文の、それも論文の本論でもない前文部分でよくて、なぜか宗教史の森安達也さんの文献や国制史上の政教分離を論じている山田欣吾さんの文献を信用できないものと断じているのはどういうことなんですか?これを'''独自研究といわないとすれば何を独自研究というのか私にはわからないほどむちゃくちゃな言い分'''だし、ここまでの議論ずっとこんな調子で、まともな文献を提示してないじゃないですか。記事を私物化しようとしているのはどちらか明白だと思うんですけど。民事法関係、それも具体的には労働法においてたくさんの業績がある井上修一さんは結局この分野でどういう位置づけにあるのですか。井上さんの論文はライシテについてのもので、政教分離の歴史全体について、何か枠組みを提供しているものではないですよね?これ以上、常識外れの議論を続けるのならば、さすがにコメント依頼など考えざるを得ないですよ?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 13:30 (UTC) |
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=== TEN(1) === |
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山田本などを使用してはならないとはいってません。しかし、それらの本が「政教分離の歴史」として古代中世から中世諸国家の細部に渡って説明する全体の構成の出典としてなっていないということです。たとえば、 |
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ちょっと書き込み辛い流れなのですが・・・。もう少し穏やかな雰囲気を維持できないものでしょうか。硯箱さんの出典に基づいての議論という話には基本的に同意できるのですが、もう少し表現を考えるだけで、こんな言い争いを招く事なくその流れに移行できるはずなのです。私としてはGreenland4さんの提案がなければ、そもそも分割や改名の問題がここまで進むことはなかった(私は提案にのっかっていただけなので)と思いますし、Greenland4さんの知識に特に疑問を持つものではありません。仮に至らない点があったとしても(私がこういう表現をするのは正直身の程知らずですが・・)共通の道に最終的には行けると思っています。この話の流れでは実際の考えはどうあれこう言い返したくなってしまうでしょう・・・。 |
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で、苦言だけでは不毛なので、一応今日までの編集での現状の記事の所感について書いてみます。長文になりますが、流し読みいただけると嬉しく思います。本当はもう少しいろいろ調べてからにしたかったですが・・・。なお、この記事の記述まで全然到達できないので[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]についてでだけです(この記事のノートでやるのは不適切かもしれませんが、まあ皆ここを見ていると思いますので。) |
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* 要出典について。冒頭部分の記述を手に入れた本と見比べてみましたが、概ね関連しそうな書籍を漁れば本文をいじらず出典はつけていけそうな印象です。つまり、空想で書かれてはいないです。問題なのは出典元の本とページ番号が明記されていない箇所がある上に、元になった参考文献が膨大なのでそれを全部確認していくというのはおよそ現実的でない点です。実際に書くのに使われたのと別の書籍を使って出典をつけていくのが適切かというとあまり自信がないですけれども。 |
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* 独自研究について。上と一緒ですが、独自研究のタグが張られていた「ペテロの後継者」節の記述を『中世教皇史』(ジェフリー・バラクロウ)の記述と対照してみましたが、元々の出典にこの本がないのが疑問なレベルで一致しており(原著が20世紀半ばなので、元々の参考文献がバラクロウの記述を参照してるのではないかと思ってますが)、一般論としては独自研究タグは不要と判断して消しました。 |
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* 以上二点から考えてのまとめ。(上記だけの情報から全体を語ることになるので今後変わるかもしれませんが)全体としてもともとの分割前の記事にはそもそも独自性は乏しいのではないかと思ってます。その意味で独自研究タグが特定の記述にぼこぼこついているのはあまり適切ではないと思います。 |
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{{報告}}本節で行っていた[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]の記事内容修正についての議論を[[ノート:中世ヨーロッパにおける教会と国家]]に移動しました。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月8日 (土) 23:43 (UTC) |
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<!--また、要出典タグについて、非常に扱いづらい箇所に張られているものがあり取り扱いに迷います。具体的には例えば以下のものです。 |
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{{quotation| |
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{{要出典範囲|date=2017年3月|6世紀の[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た。}} |
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}} |
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これは[[東ローマ帝国]]や[[ユスティニアヌス]]について書かれた本であればどの本にでも載っていると言っていい内容だと思います。この記述に出典をつけようと思うと、私の手持ちの本だけでも10冊近くつけることができます。しかし、10冊分ここに脚注番号が付くのは冗長に過ぎますし、かといって10冊の中から1冊を選択しようとすると、その本を選択した理由は「特にありません」ということになります。私としてはこの一文に出典はいらないと思うのですがいかがでしょうか。 |
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とっかかり部分のみの確認なのですが、現状の印象としては、要出典タグについて残念ながら「あまり良く考えて張られていない」というのが私の所感になります。 |
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* 以下、離れた場所への返信。 |
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私の編集について、一応評価は悪くないということでありがたく思いますが、一応自分の立ち位置としてはGreenland4さんがおっしゃったような元の記述を守る意図はありません。単なる感想としては「読みづらいなぁ」というのが現状です。可読性を考えればやはり書き換えが必要と思います。中世史以降についてあまりまとめて勉強したことがないので、「要出典箇所を各自確認しましょう」という話を受けて読書がてら確認しているというだけになります。 |
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また、私がこの記事(の議論)に関与したのはつとめて興味本位に尽きるのであり、硯箱さんの代わりに記事の更生をするつもりは全くありません。硯箱さんが動ける動けないという話も私には関係のないことであり、原則論として言えば自分で編集できる状況を用意するように自分で努力すべきと思います。参考文献をご紹介いただけるとしたらありがたいですが、読むことは約束できません。タイトルやあちこちのレビューを見て興味がわけば読むことになるでしょう。この巨大な記事について誰であれ一人で最初から最後まで全てどうこうするというのは不可能でしょうし、それぞれが興味のある部分についてゆっくり手を加えていき、全体の整合性についてはノートで議論すればいいかなと思います。{{Unsigned2|TEN| 2017年7月7日 (金) 15:52|[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]}} |
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{{コメント}}[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]についてユスティニアヌスの例文ですが、それもやはり出典を明記していただきたいです。出典は1つでも10冊でも私は構いません。図書館にない本もありますし、中世史について大学でもない限りは十分所蔵されていなかったりするので、確認可能性が高まります。参考文献に列挙しているといって、脚注形式での記載がなければ、確認は非常に難しいです。そもそも、どの節がどの参考文献に依拠しているのかさえ明記していない箇所もあります。多くの図書館に所蔵されている百科事典や通史(各国史その他)であればそれだけ多くの人が確認できます。出典の明記の仕方については感覚の違いもあるでしょうが、私は、明記されていないのは不親切であると考えます。また、独自研究であるといわれても仕方ないと思います。「独自研究ではない」ということを証明するのは、主観やノートでの発言でなく、実際に出典を明記していくことだけで解決すると私は考えます。私も加筆をゆっくりやっていきます。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月7日 (金) 16:25 (UTC) |
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<blockquote>''政教分離とは、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという考え方である。歴史的にはジョン・ロックによって、信教の自由は人間の自然権であるという考えが提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化された。ただし国により制度的な実現方法には相違がある。''</blockquote> |
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::{{コメント}}そういう教科書レベルのことにも一々出典が必要かということに関していうと、2つの見解があろうかと思います。「通りすがりのガキが悪さする。困ったもんだ」という感想は誰しも持つかもしれませんが、特に対策不要と思う人がいてもいいし、念のため対策をとった方がいいと思う人もいるでしょう。ただ、対策をとらないことで一々喧嘩をするのも大人げない話です。ウィキペディアは、いろんな人が出入りする人通りの多い往来のようなところだと私は思っているので、最低限でいいから対策をとった方がよいでしょう。10冊もつける必要はありません。そのなかから1~2つ選ぶということでよいと思います。どのような概説書・教科書にも書いていてほとんど自明だということに関してならば、有名でその道の権威と思われる人の著作1つでよくないでしょうか。それで安心する読者が1人でもいればよいし、自分の場合も、書いた以上は、あまり勝手に削除されたくないなという気持ちがあるので、1つ付ければ読み手・書き手それぞれ収まるのではないかと思います。多ければ多いほど誤解は少なくなり、削除される危険は少なくなるのでたくさん付けた方がよいという考え方も当然あると思います。そのテーマにとって最重要と思われる記載には多くの出典付けてやってもよいと思います。あまり本筋でないことなら、1つでよいと思います。私の場合は、むかし書いたものについては出典なしタグ貼られても割とそのままにしていますし(さすがに文中に貼られることはほとんどなく、貼られた場合は逐一出典をつけていますけど)、今書くものについてはほとんど全文に出典つけるようにしています。4個になることもあります。複数文献を参照すればそれだけ著作権違反も少なくなる可能性が高まり、記事自体の信頼性も高まりますから2個標準がいいのかもしれませんね。最終的にはお任せしますが、一応私の考えを書いておきました。<del>--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月8日 (土) 04:40 (UTC)</del>(文面修正)--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月8日 (土) 21:00 (UTC) |
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これも出典が明記されていません。独自研究といわれても仕方ないです。反論するよりも、出典を脚注でつけたらどうですか?記事を私物化して、他の編集者による執筆を許可しない態度は、2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3氏のほうです。そもそも、私はkanbun版の復帰を一度受け入れて、再提案してるのです。他者の発言に一切耳を貸そうとしないのは、貴殿です。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 13:38 (UTC) |
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ここでなく向こうのノートでやるべきなので、これで最後にします。 |
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井上論文は「フランスにおける政教分離の法の展開」で、れっきとした政教分離関係文献です。歴史学ではないですが、法学の文献も使用していいですし、そもそも「歴史学文献以外は出典として使用できない」なんてウィキペディアの方針にありますか?--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 13:44 (UTC) |
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私が加筆する前の文章はこれです。 |
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:いや、これはそもそもフランスの、それも現代のライシテについて論じているものでしょう。ライシテの箇所での出典ならまだわかりますけど、歴史学的な研究とは論じている対象も地域も時代もその構想の範囲も異なるのに、一緒くたにして議論に持ち込むことは出来ないでしょうっていう当たり前の話なんですけど、これでわかりますか?'''歴史学的成果の話をしているのに、歴史学の文献ですらないってどういうこと?'''って話です。これ、単純な話ですよね?それになぜか私が削除したっていうような話になってますけど、私がしたのは分割の差し戻しであって、その後[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが分割後の記事に加筆するという話ならわかるんですが、そうではなくてもう一度分割を強行しようとして編集合戦になり、保護依頼されたのに[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが加筆をしているというふうに私は認識しています。そして'''編集をしたしないみたいな話を議論に紛れ込ませるのは本筋を外れるのでこれからはやめましょう'''。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 13:54 (UTC) |
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{{quotation|広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。}} |
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私が出典を明記して加筆した文章はこれです。 |
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::発言が意味不明ですよ。タイトルにあるようにライシテを含む政教分離についての論文です。法学の文献は使えない?山田欣吾に影響を与えた[[エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデ]]も法学者ですし、フランス革命が政教分離の画期であったといっています。フランスについて書いてならないと?冗談はやめましょう。とにかく、政教分離と世俗化については、新 保 弼 彬「[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/5334/slc005p037.pdf 世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)]」を用いて、冒頭の基本的視野に少しだけ加筆しておきます。足りないようでしたら、山田欣吾の著書をもとに書いてください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 14:19 (UTC) |
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{{quotation|広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は王国分割令を発布し、長子カールにアーヘンなどを含む帝国中枢であるフランキアを、ピピンにイタリア・バイエルン・アレマニア南部を、ルートヴィヒにアキタニアの支配権と領地分割を確認した[93]。しかし、皇帝権の継承については明記されていなかった[94]。ビザンツ帝国とは806年よりヴェネツィアで軍事衝突を繰り返していたが、810年にフランク王国とビザンツ帝国は和平し、ビザンツ皇帝とカールにお互いに「皇帝」の称号を認めた[95]。ピピンとカールマンは早逝していたので、唯一生き残ったルートヴィヒ(ルイ)をアーヘンにおいて813年9月に共治帝(共同皇帝)とした[96]。共同皇帝制度はビザンツで行われていた制度であった[97]。また、ルートヴィヒの戴冠式に教皇は参列しなかった[98]。翌814年1月に「キリスト教帝国」を夢見たカール大帝は亡くなった[99]。}} |
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「東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えて」と「ビザンツ皇帝とカールにお互いに「皇帝」の称号を認めた」とではやはり内容も違います。後者の出典が間違っているのでしょうか。それともウィキペディアが正しいのでしょうか。しかし、ウィキペディアには出典も明記されていない。出典を追加していく作業をしていくと、細かな間違いが見つかります。また、出典の本で間違っていると思われることもあります。「各国史ドイツ史」21ページの「教皇ステファヌス2世」はザカリアスの間違いではないか、など。しかし、それをさらに確認するには他の文献が必要です。やはり、出典はあればあるだけいいと思います。翻訳だと訳語の違いや誤訳の問題もありますし。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月7日 (金) 16:42 (UTC) |
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:::今争点になっている箇所について加筆しようとするなど、編集合戦につながる行為はおやめください。そして議論を無視しないでください。フランス革命うんぬんを加筆してはならないとか、ライシテを加えてはならないなどと言う話はそもそも出てきてませんし、ご自分の論理を強引に通そうとしないでください。そもそもここで話し合われていたのはまず'''井上論文を根拠とする分割提案は妥当か'''という議論であって、ご自身の提案でもあることですし、それに集中してくださいませんか。現状の記事に加筆をなさりたいというのであれば、つまりもう'''分割提案は撤回'''と言うことでよろしいんですよね?そこのところをまずはっきりさせましょう。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 14:31 (UTC) |
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::{{返信}}確かに記事に付随するノートでやるべきですね。詳細について何かあれば今後は向こうに書き込むようにしたいと思います。流れが途切れてしまうのも何なのでここで返信しますが、後で向こうのノートに移動したほうがいいかもしれません。 |
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::この文章に出典が必要ということであればそれはそれでいいかなと思います。ただ、この短い文章に出典を仮に7,8個つけると |
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::::加筆するのは、山田欣吾の論へと仲介するものとして、ベッケンフェルデの世俗化過程についてですよ。分割提案は、全体のバランス、分量についてのものです。その根拠は井上論文だけでなく、 |
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{{quotation| |
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*新保弼彬「[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/5334/slc005p037.pdf 世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)]」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994でも、「10世紀から20世紀にかけて」の世俗化、また「中世の叙任権闘争に始まり,16, 17世紀における宗教の分裂と内戦を通じて, ヨーロッパの宗教的・政治的統合体が徐々に 世俗化され,やがては政治的・社会的秩序へ と再編されていく幾世紀にも亙る歴史上の過程を見てきたわけであるが,この発展の流れ を近代的な意味における政治国家の成立に向 けて一挙に転換し,その極に到らしめたもの は言うまでもなくフランス革命であった。」とフランス革命を重視しています。 |
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6世紀の[[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た[1][2][3][4][5][6][7]。 |
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*山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 |
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}} |
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* 世界大百科事典第2版「政教分離」 |
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::となり、可読性がいいとはあまり思えません。かといって、そもそも記事が長すぎるという話があった点からすると、主要テーマではないユスティニアヌスの征服の経過はあまり詳述するのも個人的には?なので、ここでは本文に出典をつけるよりも本文の一部を[[東ローマ帝国#再興と挫折]]などへのリンクにしてしまい、出来事の詳細や検証可能性についてはそっちの記事に投げてしまうか、或いは注釈で末尾にちょっとした説明文を書いて出典はそこに逃がすという形式などはどうかと思いますがいかがでしょう。文脈としては「ユスティニアヌスが一時的に地中海の大部分を制圧した」という事実が重要なのであり、細かい詳細の正誤は本筋ではないように思います。なので、その検証可能性はそのテーマを本筋とする記事(か、注釈)を見て下さいという感じです。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月7日 (金) 17:45 (UTC) |
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でも、ベッケンフェルデの論文での中世叙任権闘争以降として論じています。もう一度いいます。中世叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?ベッケンフェルデを採用せず、山田欣吾は採用するというならば、山田欣吾はどこを政教分離の画期と見ているのですか。というか、ベッケンフェルデと山田欣吾が違う歴史認識であるとしても、両方の学説を紹介すればいいだけです。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 14:49 (UTC) |
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:::脚注の番号が増えたことで可読性を損ねることはないと私は考えます。分量についてはたしかに問題として残っています。他の記事例えば[[カロリング朝ルネサンス]]がある場合は、そちらへ移動し、記事には必要最小限の要約を残すという方法もあります。よろしければ、この節は[[ノート:中世ヨーロッパにおける教会と国家]]へ移動しませんか?--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月8日 (土) 15:36 (UTC) |
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:そもそもベッケンフェルデを読んでいるのですか?私のもとには今『法の理論22』があり、桜井訳のベッケンフェルデ当該論文もあるわけですが、あなたはそれをしっかり見てベッケンフェルデの話をしているのですか?ベッケンフェルデと山田欣吾『教会から国家へ』も手元にあり、確認できる状態なのですか?そうであるならば具体的なページ数を指摘しながら議論しますが、前にページ数を言っても読みもしなかったうえに真っ向から否定したじゃないですか。ネットで手に入るレポジトリ論文ではないのでコピペできないのですから、引用しきれないので要点をかいつまんで議論せざるを得ないのですが、そこのところはまず可能かお答えください。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 14:59 (UTC) |
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::::とりあえず該当記事のノートでやったほうがいいと思うので、節の議論を移動させることには同意です。ちょっと移動したいと思います。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月8日 (土) 23:18 (UTC)--> |
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::私が読んだのはすでに挙げたように新保論文に紹介されたものです。山田欣吾の本は高価ですし、図書館にも所蔵されていないので、入手できません。しかし、「要点」といわれてまた演説をされても、どうにもなりませんね。山田欣吾が「イエス、アウグスティヌス」または「霊性史」として、その本で論じているのか、論じているならば、ページ番号を書いてくれということです。そして、いつまでも回答しませんが、「叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命」の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 15:13 (UTC) |
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:::それについてはもとより反対などしておりませんし現状の記事も否定しているようには思えませんが、それは単に画期に過ぎません。日本史が「大化の改新、建武の新政、明治維新」といっているようなものです。画期だけを抽出して書いても意味がありません。文献がないならば、ページ数と要点だけ言っても演説したとか断じなさるのでしょう?それでは議論になりません。とりあえず基本原則として'''「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」'''という点は共通理解でよろしいですよね?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 15:22 (UTC) |
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:::{{コメント}}「査読」と銘打ったのは失敗だったと思います。そもそも、出典が明記されていなければ「査読」は不可能であり、未完の記事は査読対象にはなりません。地道な作業、お疲れ様です。とくにむかし他人が書かれたものを検証可能な状態にまでもっていく作業は並大抵の手間ではないと思います。本文=「本に書かれていることを書く」、ノート=「頭のなかにあることを書く」という前提で全員話しているのに、硯箱さんは、まるっきり逆に考えていることがわかりました。騒動の要因はこれだったのか?という感じ。上でもクローズ提案が出ていますので、そろそろクローズしたいと思います。申し訳ありませんでした。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月8日 (土) 20:58 (UTC) |
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::::原則としては当然賛同しますし、私の文章でもそれと矛盾せずに書いています(世俗化についての加筆は貴殿に反対されているため加筆していませんが)。本文に書く場合は、きちんと出典を脚注にして具体的なページ数を明記してほしいといっているのです。その上で、あまりに古代中世のデティルを説明し、関連性もよく分からない本筋から離れたものまでも詳細に書いてあるのは、バランスが悪い。また、しばしば、本当に出典に書いてあるのか分からない「エッセイ」とも疑われるものが混在していることを問題としているのです。「演説」といったのは、ノートでこんこんと述べられても検証できませんし、そうしたことは本文にきちんとした形式で書いていただければいいのです。カロリングルネッサンスにしても政教分離の歴史として重要な画期であるとどこかに書かれてあれば、記載に反対しません。しかし、その上でも、なお分量の問題があり、いくつかのサブ記事を作ること、あるいは、世俗化などの別の概念の記事にしたらいいのではないかということです。基本的に、この記事は、近代でいう狭義の[[政教分離原則]]の歴史の詳細についての記事であるべきで、その前史としての古代中世からの世俗化については別記事で書くといいのではないかということです。世俗化>政教分離>ライシテetc.という記事関係上の構造にすべきでしょう。フランス革命が画期であるとしても革命の細かな過程をここで膨大な分量で書くよりも、それは[[フランス革命]]記事に委ね、ここでは政教分離原則の発生について最小限必要なものにとどめるべきでしょうし、現在の版でも実際に最小限にとどめています。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 16:44 (UTC) |
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:::::論点がかみ合ってませんので、まずは下で提案した議論の仕切り直しに同意をお願いします。[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは論点を小出しにしたり、議論の途中で別の問題を提起したりされており、さらに名前空間側の編集を同時に行うなどされています。そういうことをされると私の側で議論の論点整理に困難が生じることから、仕切り直しましょう。ご同意を頂ければと思います。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 17:01 (UTC) |
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{{報告}}上記提案にもとづき本コーナーをクローズし、以下に「本記事の問題点とその改善/改名後の編集方針」という節を設けることにします。活発で有意義な話し合いになることを期待します。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月9日 (日) 17:41 (UTC) |
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== 本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについて == |
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== 本記事の問題点とその改善/改名後の編集方針について == |
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本論の議論や分割などの重要な議論の最中にもかかわらず、本論が確定せねば議論にならない各論の項目について、みだりに独自研究タグをはりつける行為は明白に議論妨害で議論を攪乱させます。まずは本論の出典、分割議論を確定させた上で、骨組みを組み立ててから各論の文献情報などについて確認すべきです。議論の焦点をぼかし、攪乱する原因となります。よって独自研究タグをはがします。本論の議論が終わってから各論について検討しましょう。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8|2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8]] 2017年2月22日 (水) 18:09 (UTC) |
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:記述を差し戻そうとしましたら、議論中にもかかわらず、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんがタグ貼り付けだけでなく、勝手に編集行為を行い加筆しているのを発見しました。これは明確な議論進行の無視と思われますし、編集合戦になりかねない重大な危険行為です。よって記事を議論開始時の状態に戻します。以後[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんはこのようなことを絶対になさらないでください。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8|2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8]] 2017年2月22日 (水) 18:15 (UTC) |
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改名提案がなされてから1週間が経ち、候補を「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」に絞り込んでからも1週間近くが経とうとしているので、このままでいけば少なくとも改名問題に関しては一応の決着がなされる見込みとなりました。みなさま、ありがとうございました。ただ、そうであってもいくつかの問題点は残るわけで、とくに本記事が、(1)未完状態(書きかけ状態)であること、(2)要出典箇所が多いことの2点は早急な改善を要するところで、(3)因果関係の強化、(4)説明的文章ではなく論文風になっていること、(5)専門用語と関連記事をどうするか、(6)概要節における要約や節末尾の「目次へ移動する」などが本当に必要か、(7)節や小見出しの構成、(8)盛り込む内容、(9)その他、も話し合われなければならない問題だと思います。「査読のコーナー」を設けたのは、こういう一切を話し合おうと思ったからで、硯箱さんが以前そういうことをおっしゃっていたので真っ先に駆けつけていろいろと御意見をお寄せくださるだろうと思っていました。自分としては、(1)を一番心配していて、これは改名されても加筆がここでとまってしまうと、内容と記事名のミスマッチの問題は解消されないのですから、私が来てから改名に向けて今まで話し合ってきたことは全部ムダになってしまう、これを何とかしたいという思いがありました。プロがみても未完のレポートに「優」はあげられないだろう、そういう話になるだろうことを期待しました。それでまた、私のなかではやはり、(0)記事名=「政教分離の歴史」がベストなのではないかという思いもありました。なのに、なぜか(3)の話をしてしまった。これは、みなさまにたいへん不愉快な思いをさせてしまう結果となりました。申し訳ありませんでした。しかし、ケガの功名というか、本記事の問題点があらためて浮き彫りになり、その原因が何であるか、このうちの何を優先させて取り組まなければならないかについてはだいぶみえてきたと思います。 |
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以下に所論を述べます。(6)については、可読性をかえって損なっているのでむしろ削除した方がよいと思います。(5)については、すでに取り組まれている方もいらっしゃいます。百科事典は基本的に「わからない人がわかりたくてひもとく」もののはずですから、そのなかにバンバン専門用語が登場するのは好ましくないと考えます。「読んだらかえってわからなくなった」というのでは困るわけです。専門用語や難解な用語は抑える方向、そういう用語を用いる場合は新記事を別に立てるという方向で合意がとれると思います。そこにおける新記事立項は、責任の所在という面でも効率の面からも難しい用語を使った人がやるべきで、そういう面倒なことはやりたくないという人はなるべく平易な文章にしましょうということでよいと思います。(3)(4)(7)は、総じて可読性にかかわってくることですが、今後の加筆者に委ねられるでしょう。(0)に関しては、「政教分離の歴史」としても「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」としても、実のところあまりかわらない気がします。「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」としてしまったら、「日本における政教分離の歴史」を別に立てなくてはならなくなるという程度の話です。しかし、「政教分離の歴史」としたうえで枝記事として「日本における政教分離の歴史」を立ててもよいわけで、どちらにしても大した論点ではない。本記事が最低限フランス革命まで書き上げなくてはならないことは変わらないわけです。ただ、以前「政教分離の歴史は、裏返せば国民国家形成の歴史である」というようなことをTENさんがおっしゃっていて、このフレーズをフランス革命の記述「こうして政教分離原則が確立し、国民国家が形成された。19世紀は国民主義の時代になった」と書いた後にさしはさむことで、それまでヨーロッパの話だったのを「国民国家の形成をめざす国々にとっては政教分離原則をどう採用していくのかが課題になったのだ」という話に転換させると、曲がりなりにも国民国家の形成が図られて植民地化をまぬがれた日本やトルコ、あるいはアメリカについても言及できるのではないかという着想が私にはあったので、そのほんのちょっとしたことで「政教分離の歴史」にもっていけるのではないかと思ったのです。これについてはしかし、あまりこだわる必要もなく、ひとまず「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」が完成してからやってもよい話です。 |
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[[Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすること]]を読んでください。出典が明記されていないのですし、議論中だからテンプレートをつける必要があります。問題を解決してから、はがしてください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 12:49 (UTC) |
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で、残るは(1)(2)(8)ですが、(1)については、このままの状態で放置されると、現状記事は「宗教改革と宗教戦争」あるいは「近世ヨーロッパにおける教会と国家」とでも名付けるよりほかない内容になっていて、このまま放置されると中世部分や宗教改革部分だけがまた肥大化して10年後も同じことが繰り返される恐れがあると思います。それだと、議論に今まで参加されてきた方々の徒労感はハンパないわけです。そこで、フランス革命前後の話は私が今後加筆していこうと思います。みなさま迷惑でなかったら、の話ですが。そしておいおい、啓蒙主義・絶対王政というふうに逆から書いていきたい。これについてはみなさまの御協力をおおいにお願いするところです。そして、啓蒙主義について書いていくならば、ルネサンスについても若干ふれざるをえないと思います。これは(8)にかかわることですが、ルネサンスからこってり書いてしまうと「竜頭蛇尾」状態はむしろ昂進してしまうので、それは避けたいと考えます。いずれにせよ、後回しの話です。(2)に関しては、私がフランス革命について書いている間に、やれる人がやれる範囲でやってくださるとありがたいです。ウィキペディアにおいて、「[[Wikipedia:出典を明記する]]」ということは非常に重要なルールとなっており、これがないものは「独自研究」として排除されても仕方のないものです。アマチュアリズムは何も私が勝手に言っていることではなく、ウィキペディアの基本精神・基本方針であり、「プロの真似して自分の見解を述べる」「プロの仕事を剽窃する」ということを排除するために、記事本文は「本に書いてあることだけを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」態度が必須なのです。言い換えれば、これがプロの仕事を奪わない知恵でもあるし、プロと共存する知恵でもあるわけです。その過程で著作権違反が見つかったらその都度対処していけばよいだけの話です。出典を付けることに関しては、あくまでも「お願い」です。これは、やりたくないのならやらなくても結構なんですが、その場合は「要出典タグ」等の貼られている文は削除して書き直していきます。そういう方向性でいいでしょうか? 各論についても、御意見をお寄せください。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月9日 (日) 20:01 (UTC) |
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出典をつけた加筆について理由なく、しかも削除を提案することなく、削除するのは、[[WP:VANDTYPES|白紙化]]といわれるもので、[[Wikipedia:荒らし]]の典型です。[[ファイル:Nuvola apps important.svg|30px|荒らし行為はやめてください。]] [[Wikipedia:荒らし|荒らし行為]]はやめてください。これ以上続ければ、ウィキペディアの編集ができなくなる[[Wikipedia:投稿ブロックの方針|投稿ブロック]]の対象となります。ご注意ください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 13:17 (UTC) |
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いろいろなことをいっぺんに言い過ぎたので、論点(問題点)を再掲します。 |
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2001IP氏が削除した文章ですが、 |
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*(0)記事名 |
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<blockquote> |
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*(1)未完状態(書きかけ状態)であること |
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962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[1]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[2]。しかし、その後の叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[3]。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[1]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[2]。アメリカ合衆国でも宗教的理由で迫害された人々が移住してきた歴史があるため、建国以来政教分離の原則が確立しており[4][5]、アメリカ合衆国憲法修正1条では国教の設置が禁止された[6]。(ただし、公定宗教は認められており、英国国教会、アメリカ合衆国大統領の就任式宣誓などは政教分離の原則違反にはならない)[6]。 |
|||
*(2)要出典箇所が多いこと |
|||
現在、多くの国で、信教の自由を保障するための政教分離原則が人権宣言や憲法で保障されるようになっている[1][2]。</blockquote> |
|||
*(3)因果関係の強化 |
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これのどこがなにを理由に削除されるべきなのですか。山田本を利用していないからですか? |
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*(4)説明的文章ではなく論文風になっていること |
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*(5)専門用語と関連記事をどうするか |
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*(6)概要節における要約や節末尾の「目次へ移動する」などが本当に必要か |
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*(7)節や小見出しの構成 |
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*(8)盛り込む内容 |
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*(9)その他 |
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(以上、追記)--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月10日 (月) 20:33 (UTC) |
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そして、フランス革命以降のフランスにおける法制の動向、そして米国の動向について削除するのも、滅茶苦茶すぎて話になりません。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 13:29 (UTC) |
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:{{返信}}まとめと進行、ありがとうございます。区分けしていただいた点について、長くなりますが現状自分で意見を出せるところだけ返信させていただきます。 |
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また、年表を削除した理由も不明ですし、いずれにしても、不当な白紙化に該当します。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 13:40 (UTC) |
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:(1)(8)個人的には仮にその節がサブスタブの状態であっても末尾部分まで骨組みになる節があったほうがいいとは思います。教会と国家の分離史としての記事であるという点に合意できればですが、仮に「ヨーロッパにおける」となるのであればこの点については問題は大きくないと予想します。加筆についてはそもそも許可が必要な類の話ではないはずですし「迷惑でなければ」などという気遣いは不要と考えます。学説的におかしいという指摘があれば順次確認と修正をすればいい話ですし、その確認と修正をする人間が最初の執筆者と同じである必要もないと思うので。。 |
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:そもそも内容の妥当性とかの前に、まず議論中は編集合戦になるような行動を慎みましょうよ、という当たり前の話だと思うんですけど、そういう最低限の礼節みたいなものも期待しちゃいけないんですか?まず議論中はとりあえず記事内容を現状維持しましょう。議論も現状の記事内容について何ですから、議論当事者同士が議論途中で好き勝手に加筆し始めたら議論も錯綜しますし、無用な対立になりますし、議論も混乱するでしょう?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 13:43 (UTC) |
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:(2)[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]の出典をいくつか確認する限り、全体として元々の記事は非常に参考文献に忠実に書かれているように思います。ので、隣接分野の書籍に当たれば概ね後付けできそうです。神学や思想史に絡む分野は私の手持ちでは今のところ弾が足りないので予測でしかないですが、恐らくこれも出典をつけること自体は手間さえかければ可能な気がしてます。とりあえず、確認可能な範囲について少しずつやっていけば、それだけで細かい議論なしに記事の品質は向上しそうなので有益と思います。 |
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:(3)私としては、実はこの点に関しては硯箱さんの見解に賛成で、一般的な学説(通説)でどう書かれてるかは抑えてから記述を強化したほうが望ましいと考えています。ただ実際にどのように加筆するかについての案が出せる知識がないので、今のところは意見なしです。 |
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:(4)(6)とりあえず「概要」のつくりが完全に論文のそれなので、概要節を治すだけでも大分良くなりそうな気がしています。基本的には各節の要約や目次へ移動などはいらないと思います。(各節の内容と合致させねばならず、加筆しづらい原因になっている気がします) |
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:(5)可能な限り平易になるようにとは思いますが、具体案がないので今のところ意見なしです。 |
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:(7)現状意見なしです。記事自体の主題について合意できたら何となく決まる気はします。 |
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:無出典箇所については、無いところを機械的に削除するよりは、文脈上必要なところは要出典のまま残す方がいいと思いますが、加筆者の裁量でいいのではないかと思います。 |
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:出典の追加はできる範囲でやりたいと思います。なお、何点か出典を追加したことについて、Greenland4さんと硯箱さんから「頭が下がる」的な言葉をいただいてますが、以前も書いた通り私のこの記事への関与は徹頭徹尾興味本位というか趣味の部類なので、特にお気遣い無用であります(出典確認を通じてヨーロッパ史について次に何を読めばいいのかが何となくわかるのが良いところです)。私としては楽しい作業としてやっているつもりです。 |
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::礼節をいうなら、出典くらいつけましょう。しばらく待ちますので。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 13:46 (UTC) |
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:::根本的な問題として、この記事ちゃんと参考文献挙げてますよね?はっきり言えば、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが現状の記述の参考文献や出典も確認せずに、ただ単にごねているようにしか私には思えない。私はすでに関係論文も挙げて、現在の記述はとくに問題ないということはちゃんと提示したはずですが。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 13:58 (UTC) |
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:最後に記事全体を通しての所感ですが、[[初期キリスト教]]、[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]、そしてこの記事と、個人的には記事内容にそって本を探していくと、中世史の枠組みや「教会と国家」というテーマ史についての輪郭が何となく見えてくる感じです。その意味でこの記事は、内容的には西欧史分野の記事として「書きかけ」ではあるもののちゃんと作ろうとしていたことがはっきり感じ取れる記事だと思います。できれば既存記事は活かせたらいいなぁと思います。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月10日 (月) 14:07 (UTC) |
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::::私が出典の明記といっているのは、[[WP:INCITE|本文中に注釈を挿入する]]という意味です。参考文献があるといっても、どの記述がどの文献を出典としているかは、明示しなくてはなりません。これは学術論文でも基本でしょう。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 14:05 (UTC) |
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::(7)に関していうと、あまりに細分化されすぎじゃないかという印象があります。そのうえで「ユグノーとフランス経済史」という小見出しが付けられているので唐突感がある(ようにみえる)。「ユグノーと近世フランス経済」または「ナントの勅令の経済への影響」あたりがよいと思いますが、もっと言えば「ナントの勅令」という大枠のなかで扱ってよいと思います。この記事が、空想で書いているわけではなく、むしろ文献に忠実に書かれているというのはおそらくそうなのだろうと思います。脚注を使って記述が文献によって参照できるスタイルで書かれていれば、むしろ良記事なのだろうと思います。それさえなされれば、実は独自研究呼ばわりされる要素はほとんどないものと思います。問題は、それをやれる人が少なく、やろうとする人もほとんどいないということだろうと思います。これについては、むかしは相当甘かったのです。参考文献をひらいてみると出典まる写しだったり、実はそんなこと書いていないということが多かったので、それではあかんということになった。いまの新着記事とか見ていただければすぐわかる話だろうと思います。スイスに関しては盟約団はじめ非常に詳細かつよくまとまっており、出典さえつけば、これだけで単独記事に仕上げられるレベルだと思います。ただ、歴史というからには事象を時系列に並べて因果関係を書かないとダメなのだと思います。その意味でシュマルカルデン戦争やアウクスブルク平和令がルターの思想の前に置かれているのはよろしくないと思います。「定説」に関しては、別に私はわかりやすい嘘をかけということを主張しているのではなく、史実についてはどんな学者が書いてもそれほど大きく食い違うことはないということを前提としています。細かい節を一度取り払って時系列に並べ替えてみる作業が必要かもしれません。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月11日 (火) 01:46 (UTC) |
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:::::具体的に争点のある箇所について出典の明記はなされるべきです。しかし、一般的に常識と考えられていたり、一般常識でなくてもその分野で前提とされているものなどについていちいちの注記を要求するというルールではないと思われます。そういった事柄については参考文献、あるいはノートなどの議論において他の文献で相応の記述が確認されれば普通は妥当と見なすのがウィキペディア的には正しいあり方ではないでしょうか。しかるに、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんはしかるべき争点を提示せずにいたずらに出典の明記を求めているようにも思え、さらに争点に対して回答が得られても文献と'''一字一句も同じでなければいけないというような極端な論理'''を展開しているように思われますが、これは大変問題があることのように思われます。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 14:12 (UTC) |
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{{コ}}改名お疲れ様でした。記事が整うまであとすこしですね。 |
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(1)は一番優先すべきことですね。Greenland4さんがフランス革命について書いてくださったので、見通しがたちました。私はひとまず、イギリスとアメリカについての要約を作成します。可能な限り短くするつもりですが、省略しすぎると経緯がわからなくなりそうなので、必要最小限のものをつくります。 |
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(2) 出典明記作業も継続します。 |
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(3) 出典の明記と加筆が進めば因果関係も強化されていくと思います。 |
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(4) 文章は私も固い方なのですが、できる限り平易にしていく方がいいと思います。 |
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(5) 専門用語、あるいは単独記事として意義のある用語や概念については、こちらでは要約にして単独記事にした方が見通しがよくなるのは間違いありません。[[領邦教会制度]]、[[スイス盟約者団]]、[[コンフェッショナリズム]]、モナルコマキなど。ただ、現在の分量バランスからいって重大とは感じられませんので、加筆が進んで「政教分離の歴史」がある程度まとまった時点で見直すのでもいいのかもしれません。 |
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(6) 編集作業のために必要だったのでしょうか。どうしても避けられない分量でそれが肥大した場合には必要かもしれませんが、私は削除していいと思います。 |
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(7) 「ユグノーとナントの勅令」でまとめるといいのではないでしょうか。 |
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(8)(9) について、TENさんの 2017年7月8日 (土) 23:40 (UTC)での[[政教分離原則]]とこの記事との関係についての回答を関連するものとしてこちらでいたします。多くの事典では「政教分離」として立項されており、また政教分離原則と政教分離は同義のように書かれています。[https://kotobank.jp/word/政教分離-85687 ブリタニカ、知恵蔵、大辞泉、大辞林、ニッポニカ]、また、政教分離を憲法に取り入れたアメリカ合衆国という経緯について歴史学事典、宗教の事典、OXford Reseach Encyclopediasでは言及されています[https://ja-two.iwiki.icu/wiki/ノート:政教分離の歴史/過去ログ4#.E4.BA.8B.E5.85.B8.E7.AD.89.E3.81.AE.E7.AB.8B.E9.A0.85.E7.8A.B6.E6.B3.81.E3.80.81.E3.81.8A.E3.82.88.E3.81.B3.E8.AB.B8.E8.AB.96.E6.96.87.E3.81.A7.E3.81.AE.E8.A8.80.E5.8F.8A.E7.8A.B6.E6.B3.81.E3.81.AE.E8.AA.BF.E6.9F.BB:.E5.88.86.E5.89.B2.E6.8F.90.E6.A1.88.E3.81.AE.E7.90.86.E7.94.B1.E3.81.A8.E3.81.97.E3.81.A6]。なお、CiNiiで政教分離原則を検索すると137件[http://ci.nii.ac.jp/search?q=政教分離原則&range=0&count=20&sortorder=1&type=0]、政教分離で検索すると735件[http://ci.nii.ac.jp/search?q=政教分離&range=0&count=20&sortorder=1&type=0]であり、論文タイトルを一見しても政教分離原則と政教分離を異なる意味で用いているようには思われません。また、以前硯箱さんが近代憲法については[[政教分離原則]]へ書き、「政教分離の歴史」ではヨーロッパの古代中世から近代までの歴史を書くと発言されました。ただし、硯箱さんも親記事(メイン記事)を[[政教分離原則]]、その歴史記事(すなわち子記事(サブ記事))としての「政教分離の歴史」という案については反対されなかったとおもいます。以前も発言したことですが、[[政教分離原則]]は政教分離へと改名提案してもいいのかもしれません。同じ意味なので改名もあまり意味はないかもしれませんが、「政教分離原則は政教分離とは異なる」という誤解をもし持たれる方がいるならば、改名した方が適切であるかもしれません。 |
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歪曲しますね。コメント依頼すればいいでしょう。「一般的に常識」というのが怪しいのです。挙げた箇所だけでなく、脚注でつけられていない箇所は、私的なエッセイが多いです。 |
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<blockquote>''近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。''</blockquote> |
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「国家の中の国家」と言われた教会って、誰がいっているのか、明記すべきです。 |
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それと、[[政教分離原則]]では20世紀以降の現代についてが主で、19世紀についてはかなり省略されています。19世紀についてどちらで書いてもいいのですが、フランス革命以後ということで[[ライシテ]]とここで書くか迷うところではありますが、これは後回しですね。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月12日 (水) 14:07 (UTC) |
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そして、霊性史としては、 |
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<blockquote>''今日の欧米では、国教制をとるにせよ(イギリス)、公法上の法人格を与えるにせよ(ドイツ)、私法上の組織として扱うにせよ(アメリカ・フランス)、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的であり、むしろこのような自由が認められない諸国に対して批判的である。しかし、今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている[* 7]。たとえば2005年10月28日に出された「自民党新憲法草案」が事実上の政教分離の緩和を目指しており、教育現場での神道教育の導入につながるのではないかという懸念がカトリック教会などから提示されている。[18][19][独自研究?]。そのため宗教と政治の関係を単純な公私の関係で割り切ることはできなくなりつつあるといえる。[独自研究?]''</blockquote> |
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:{{返信}}人の長文を咎めつつ長文になってしまいましたが、、、[[政教分離原則]]との関連について、思う所を述べておきたいと思います。以前、政教分離原則と(ヨーロッパにおける)政教分離の歴史が原則的に違う種類の記事だと書いたのは、一つには前もちらっと書きましたが、ヨーロッパの政教分離が単に政教分離原則(≒現代社会の政教分離)の成立史に留まらないものであるからです。それは国民国家の形成過程の一部であり、中世から近代における世俗権力と教会権力の関係史でもあります。 |
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と、唐突に自民党批判。とくに、「今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている。これはいわゆる愛国心教育に関わる問題である」はエッセイでしょう。 |
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:(適切な例えか自信がないですが、政教分離原則が「アメリカ合衆国」だとしたら政教分離の歴史は「アメリカ大陸の歴史」のようなもので、単純な一線上の関係にない、というべきでしょうか) |
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:本記事は基本的に西欧史の枠組みで記述されており、分野的には『西洋中世史研究入門』pp106-108が書くところの「教会と国家」と呼ばれる分野の記事であると私は把握しています。なので「政教分離原則」の子記事として本記事を構成するのはちょっと違和感を感じるところです。関係記事の一つであるのは間違いないと思いますけども。 |
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:なお、「政教分離」という用語については以前硯箱さんとのやり取りで言及しましたが、研究者自身が'''「政と教は分離されるべきであるとする考え方。この時の政と教はなんであるのかから始まり、信教の自由との関連まで、論者によってさまざまに用いられる厄介な言葉。」'''と述べるように、極めて広範な意味に使われ、また論者によって独自の観点から使用されることの多い用語であることから、この単語に「正しい定義」を与えて誰もが納得する記事内容を決めることが可能であるとは正直思えないです。提示頂いたCiniiの論文をいくつか読んでみましたが、「政教分離」と「政教分離原則」が同一であるかどうかは人によって統一的ではなく、しかも使い分けている人もいない人も、ある程度無意識的にそれをしているように見えます。 |
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正教会の箇所は、「政教分離の歴史」との関連がまったく不明です。山田を読め、といいますが、それのどこのページに書いてあるのかさえも書けないという、本当に読んだのか?という疑念もわいてきます。他人は検証できるように、ちゃんと脚注をつけてください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 14:30 (UTC) |
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:例えば伊藤潔志「教育基本法における「教育の宗教的中立性」と和解(1) 」[http://ci.nii.ac.jp/els/contents110009971122.pdf?id=ART0010522276]は、本記事と関連の深い内容を含んでいますが、「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である, と言って差し支えないだろう。」と結論しています。であるとすれば、この論文の結論での政教分離は、政教分離原則という単語とは置き換え不可能に思えます。 |
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:一方で青砥清一 「リェイダ市のブルカ禁止条例を無効とした事例 : スペイン最高裁2013年2月14日判決 」[https://kuis.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1231&item_no=1&page_id=13&block_id=17]では、本文中の「政教分離」と「政教分離原則」の多くは、(全部ではないですが)機械的に置換してもほぼ意味が通じそうです。 |
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:さらに松村昌廣 「文化相対主義を超えて-リベラル民主制国家の不倶戴天の敵としてのイスラム・テロリズム 」[http://ci.nii.ac.jp/els/contents110010016114.pdf?id=ART0010578534]では、政教分離と「政教分離の原則」という言い方ですが、両者は使い分けられています。 |
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:上記のような用法の多様性から考えて、現状では「政教分離原則は政教分離と同じもの」かどうかも論者によってある程度ぶれるもののように思われます。 |
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:従って「政教分離」という名前が付けられているから「この記事はこう言う記事なんだ」という設定自体が困難なように思います。なので以前の査読節で雅ハルカさんが「この記事では「政教分離」をどのような意味で扱い、どこからどこまでを記すのかという概要を簡単に述べてあると親切ではないかと思われます。」と仰っていましたが、この案には大賛成であります。 |
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:まずそこは今まで議論に出てきていませんし、そうした個別事例の問題であれば、そこから論じればよいのに、分割提案という形で話をしたのは[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんのほうです。[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんはそもそもそういった個別議論を展開していたのではなくて、まず古代中世に政教分離がさかのぼることの出典を求めていましたよね?分割提案をしながら個別に記事内容を検討するなんてことは正直不可能ですから、まずはいっぺんに論点を出したりしないで、個別に争点を解決していきませんか?まず'''ご自身の出された分割提案の議論に集中しましょう'''。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 14:38 (UTC) |
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:ちなみに、本記事の扱う時代範囲ですが、19世紀初頭以降、明確にここという切れ目を設定するのが難しいのでフランス革命・アメリカ独立革命あたりで筆をおくのが一番オーソドックスではないかと今のところは思っています。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月12日 (水) 17:04 (UTC) |
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:: {{返信}}切れ目の設定の難しさについてはTENさんのおっしゃる通りで、みなさま御承知の通り、王政復古後のフランス政体は目まぐるしく変化し、それにともなって政教関係も転変いちじるしいので単純に「分離の歴史」といえなくなる感じです。感覚的には、本文をナポレオンで終わらせて、ライシテにつながる部分は脚注に逃がしてやるような感じがいいのかなという気がしています。国民国家の形成過程というのを中央ヨーロッパにあてはめると神聖ローマ帝国の解体過程とだいぶ重なるわけですから、その点からもナポレオンで終わらせるのがわかりやすいでしょう。その点、本記事がスイスの宗教改革に着目しているのは伏線として優れていると思います。三十年戦争とヴェストファーレン条約の部分の加筆が望まれます。三十年戦争では旧教国フランスが新教側・反ハプスブルク側についたりして、そこでは戦争そのものの世俗化(脱宗教化)も指摘できるでしょう。ナポレオンに話をもどすと、ナポレオン政権自体が国民国家をつくる営み、革命の成果を国民国家づくりに反映させる営みに尽力し、それには成功したが、国民国家の枠を超えて世界帝国へ向かおうとして失敗し、国民国家に引き戻されたというふうに押さえられるのでその点からも一つの区切りとしてわかりやすいでしょう。いずれにせよ、従来、三十年戦争とフランス革命という2つの大きなヤマがなかったのは非常によろしくなかったと思います。そして、それぞれの歴史事象について「大テーマに即した歴史的意義」あるいは「画期性」というものを常に書いてやる必要がやはりあるだろうと思います。たとえば、アウクスブルクの宗教和議ではルター派教会は認められたけれどもカルヴァン派は異端として排除されたし、個人がカトリックかルター派かを選ぶ権利もなかった、しかし、宗教的多元性という意味では大きな一歩だったんだというようなこと、ナントの勅令やヴェストファーレン条約でも同様ですが、そこが弱いと雑多な史実の寄せ集めのようにみえてしまう(「独自研究」のそしりを受けてしまう)というのがあると思うので、そこはもっと踏み込んだ言及がなされるべきと考えます。とりあえずいまは、空白を埋めることと画期性の言及を同時にやっていくことが大切だと思います。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月12日 (水) 21:26 (UTC) |
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::厳密にいえば、これらは分割提案とは別件です。分割するにしても、出典のない「個人的なエッセイ」は、削除を検討されるべきものです。分割するにしても、分割前に情報源が確認できなければ削除すべきものです。個別に争点を解決していくためにも、こちらはこちらで回答してください。何度も言いますが、出典のない記述は、独自研究といわれても仕方ないです。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 15:06 (UTC) |
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:{{返信|Greenland4さん}} まとめ、ありがとうございます。私の範囲でコメントさせていただきます。(1)(8)と、もしかしたら(3)(5)(7)についてはは素人意見を述べます。例え本文が未完であれ、<small>(簡単ではないでしょうが)</small>政教分離の全体的な流れをまとめることができるはずです。年表形式としてまとめれば、そこから各節への加筆が進んでいくように思います。 |
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:::現在の記事内容の分割議論の途中で別件についても議論をするというのはとても無理です。まず分割議論に集中しましょう。お願いします。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 15:11 (UTC) |
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<div style="border:2px solid #090909; margin:0px 2em 0px;"> |
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* ○○年 - △△により■■がはじめられる |
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::「△△による■■」を参照 |
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</div> |
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:可読性については要考ですが、このほかに図を挿入するなどすると具体的な流れをつかみやすいように思います。 |
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:(2) 気が向いたので図書館へ行って、参考となる文献を借りたりして調べているのですが、元から「本とページ名がつけられていないところ」に出典を後付けするのは難しいなと感じます。このままではいつ記述が除去されても文句は言えません。それらか除去されてしまうと「全面書き換え」となるのかもしれないなと思います。以上です。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月15日 (土) 01:56 (UTC) |
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::{{コメント}}Yuukin0248さんのアイディアはたいへんよいと思います。ちょうどいま自分も全体構成を考えていて気になったことがあります。現状では、宗教改革・宗教戦争のところがドイツ、スイス、フランス、オランダ…というふうに国ごとに分けて記述されていますが、どうもこのままでいくとまとまりにくいように思うのです。もしかしたら、未完状態が長くつづいたのもそのせいなのかな?と思うほどです。1500年あたりから1800年あたりを扱うということでいくと、1650年はちょうど真ん中なわけですけど、「政教分離」というテーマにとっても折り返し地点のような意味をもっていて、1648年のヴェストファーレン条約というのはよくいわれるように主権国家体制の確立という画期的な意味をもっています。少なくとも今まではそういわれてきた。「帝国の死亡証明書」という表現もあったし、ドイツの領邦君主は外交主権を含むほとんど独立主権を獲得し、ドイツでもようやくカルヴァン派も認められたとか、いろんな意味があります。最近では過大評価されすぎとの指摘もあるようですが、従来説も無視できないのではないかと思っています。最新の研究動向や論点もそのうえで紹介した方がよいと考えます。カルヴァン派の影響の強いスイス・オランダという2つの連邦共和国が正式に独立を承認されたのもこの条約で、これはやはり宗教改革・宗教戦争のひとつの帰結として重要であろうと思います。そしてイギリスでは1649年にチャールズ1世が処刑され、清教徒(カルヴァン派)主導の議会による共和政が始まっていますから、その意味からも1648年・49年というのは分水嶺になりうるように思います。各国史をやるにしても、そのあたりでいったん切って1650年以後はあらためて別節でやった方が話がみえやすいのではないか。とくに三十年戦争は最初はボヘミア・ドイツの話だったのが、後半はヨーロッパ大戦の様相を呈するのですから各国史叙述がむつかしくなります。「小折り返し地点」というのも年表作成作業のなかから、もしかしたら見つかるかもしれない。フランス革命が一段落したら取りかかってみようと思います。なお、定義文・概要節をちょっと加筆改変してみました。不十分な点も多いと思うので、ぜひ加筆・修正をみなさまにお願いしたいです。どうかよろしくお願いします。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月15日 (土) 08:30 (UTC) |
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{{問}} 本記事をざっと読んだ限りですが、本記事の記載内容は「政教分離の歴史」というよりも「西欧におけるカトリック教会と国家の関係史」といったほうが良いのではないでしょうか。私は、まず記事名を前者から後者に変更したほうが話がスムーズに進むように思います。すると、世界中における宗教と国家の関係に応じて、例えば正教会については「東欧における正教会と国家の関係史」、日本においては「日本における宗教と政治の関係史」などとそれぞれ記事を立項することができます。これらをまとめた上位記事として、「宗教と国家」とか、それこそまさに「政教分離の歴史」などという記事を立てることができると思うのですが。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月24日 (金) 15:27 (UTC) |
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:::{{コメント}} やっぱり歴史には年表が必要なんですよね。受け入れてもらえそうで良かったです。『「概要」を読む→「年表」から本文への案内を踏む→「本文」を読む』の形態をとることになるのかなと思います。私もその形態であれば支持できます。現状の記事は、まとまりに欠けているんです。どちらかといえば「時」よりも「土地」で分けられているんですよね。現状のメリットは、スイスにおける歴史は掴みやすいが、全体的な「時」での歴史がまとまっておらず掴みづらいというデメリットがあるんですよね(国語力が、すいません)。物事に大きく影響を与えた「折り返し地点」を分け目に再編していくというのはよいテーマに思います。年表一行の詳細をサブ節(あるいはサブサブ節)一つ分ぐらいとって分けていく、というのがいいかなと思います。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月15日 (土) 09:04 (UTC) |
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:私はそもそも政教分離の歴史という記事名がまずいと思っております。これは政教分離がもともと国家と教会の機構的分離をいうという点では正しいのですが、政教分離というとどうしても近代的な政教分離原則を意識してしまいます。だから古代から話されたり特殊専門的な「霊性」という言葉が出てくると「?」となりますよね。意味は変わらないのですが、「聖俗分離の歴史」とすればだいぶ違和感はなくなる気はします。「西欧におけるカトリック教会と国家」というのに似た意味として「中世の国家と教会」というのも私は考えたのですが、こうした関係の意味を必ずしも明確にしない記事名は、これはこれでなんとなく別の方面から問題点を提起されそうな気もします。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 15:38 (UTC) |
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:私が「分離」という言葉を外したのは、政教「分離」の前段階として政教「一体化」といってもいい歴史的進展に結構な分量が割かれており、必ずしも「分離」のみを書いているわけではないためです。ならば、「国家と教会の関係」というテーマ史として(その関係の近疎・上下を問わず)語れるようなタイトルにしたらよいのではないか、と思った次第です。ちなみに、テーマ史が時代別に分割された前例としては『[[世界の一体化]]』が挙げられます。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月24日 (金) 15:52 (UTC) |
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::わかります。その点私も迷ったのですが、一方で結合から分離方向へ向かうという方向性においては逆はないので、その点を明確にしないと何かしら問題が出そうかなと。世界の一体化も一体化していくという方向付けがついていることで歴史記事としてうまく収斂していると思いまして。聖俗分離の歴史のいいところは、率直に言って「聖俗」という言葉が特殊学問的響きに近いので、歴史学的意味における記述内容であるこということにおそらく誤解が生じないということかなぁと。実は神学の側はこういう歴史学的見方に対して否定的です。国家とカトリック教会ってやるといずれ神学側から「いやちょっとそこは。」的なものがかなり出てくると思います。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 16:03 (UTC) |
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::::{{情報}} 年表はあったのですが[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=ヨーロッパにおける政教分離の歴史&oldid=63317155#.E5.B9.B4.E8.A1.A8]、硯箱さんに削除されちゃったんです[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=ヨーロッパにおける政教分離の歴史&diff=63319304&oldid=63317155]。この年表は不完全なものですが、もし活用いただけるならば復旧してください。新しく年表を作成してくださるのであれば、それはさらにありがたいことです。私は引き続き出典の明記作業をしてまいります。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月15日 (土) 15:22 (UTC) |
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:::::{{返信}}121.107.209.16さん、情報ありがとうございます。お示しいただいた年表をみると、ウェストファリア条約以前はだいたい3期に分けられるように思うのです。I期は16世紀初頭からアウクスブルク和議(1555年)までで、ドイツ・スイスでの宗教改革とそれを契機とした宗教戦争の話題が中心となるのではないかと思います。ただ、国王の離婚というまったくの「私事」を原因としてローマから独立した新しい教会=イギリス国教会が成立することにはやはり言及すべきであり、これは「宗教改革」という点では本筋ではないかもしれませんが、「旧教からの離脱」ないし「教会分裂」という点では軽視できないものをもっていると思います。1500年段階ではローマの教会しかなかったものが、1555年段階ではカトリック、ルター派、国教会に分裂している。これが次の展開を準備するでしょう。II期は1555年から三十年戦争の始まる1618年までで、ここではドイツの話題はあまり出てこない。アウクスブルク和議でひとまず、ある程度落ち着いたとみるべきです。しかし、オランダ独立戦争(1568年-1609年)とユグノー戦争(1562年-1598年)がほぼ並行して起こっている。ここで活躍するのはカルヴァン派で「教会分裂」という点では第二局面、「宗教戦争」という点ではドイツ・スイスからオランダ・フランスへと場所を変えての展開というふうになっています。イギリスではエリザベスが姉のメアリに閉じ込められたリ、スコットランドのメアリを閉じ込めたりして国教会vsカトリックの抗争が激しい。世界全体でみていくとスペイン全盛なんですが、1588年にアルマダ海戦、1596年に英仏蘭の対スペイン同盟結成などでスペイン没落のはじまりが予兆される時期でもあります。III期は三十年戦争(1618年-1648年)とイギリス清教徒革命(1640年-1660年)の時期で、再びドイツが主戦場になるのですが、これがI期とは違って列国の干渉を招くことから悲惨なことになります。イギリスでは抗争が国教会vs清教徒にシフトしていく。結果的にカルヴァン派が認められて「教会分裂」としては最終局面をむかえる一方、ハプスブルク家(スペイン王&神聖ローマ皇帝)の一人負けのようなかたちとなり、次のフランス絶対王政を準備する。そういう感じじゃないかと思います。現状では、フランスはいきなりナントの勅令廃止(1685年のフォンテーヌブロー勅令)まで行っちゃってるんですね。いくら何でも先走りすぎでしょう。これは、時期の面でも内容の面でもブルボン朝絶対王政のなかで語られるべき事象ではないかと思います。また、三十年戦争以降に出てくる思想というのは、ロックの政教分離思想にしても、ヴォルテールの反教権主義やルソーの市民宗教などにしても、宗教改革のころとは全然違うものとなっており、絶対王政と対抗しつつ、市民革命を準備するものとなっているので、やはり、その面の充実も図られるべきでしょう。いずれにせよ、時期区分を取り入れて編集しないとまとまらない感じはしています。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月15日 (土) 18:49 (UTC) |
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=== 2017-07-16から === |
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節編集が軽快になるよう、見た目上での節を新設しました。これを不適切と思われる方はどなたでも戻してもらってかまいません。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月16日 (日) 10:52 (UTC) |
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(インデント戻す){{報告}}「[[政教分離に関する歴史年表]]」の記事を新規に立てました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月16日 (日) 05:28 (UTC) |
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:{{返信|Greenland4さん}} 現在の記事内に新たに年表を作られても、記述が肥大化していく一方になることを危惧していましたので、別記事の立項ありがとうございます。年表の一段落に書かれていることは、こちらの記事(あるいは[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]、[[初期キリスト教]])でのサブ節(或いはサブサブ節)一つ分とるべきだと言いましたが、その提案に問題はないのかなと思います。コレに関しては年表記事との合同での合意事項ですので、あちらとのバランスが必要かなとは思うのですが。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月16日 (日) 10:52 (UTC) |
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::{{返信}}悩ましいところですが、こちらの記事と年表との節構成は別に完全に一致していなくてもよいのではないのかなと思います。年表は詳細になるか否かは別にして、順番(時系列)や絶対年代(年号)などは誰がやっても同じになるはずだし、そうであれば逆に、ノートを参照していない人、本記事編集にたずさわっていない人でも参加しやすいように、世紀ごとなど客観的な分類の方がよいと思います。そして、加筆のされ方も年表の場合だったら、たとえば宗教思想史の本を読んだら、それぞれの教会史について調べたら…というふうに、時代をまたいでまとまって加筆するみたいになっていくと思うので、一々本文を参照するものたいへんです。機械的にやれる方がよい。上のI、II、IIIという私の時期区分もあくまで便宜的なものですし、じっくり検討したら微調整が必要とかというふうになったら後々面倒です。ただ、記事を書いていく際には、年表があった方がずっと書きやすく、調べやすいことは確かです。それぞれが年表をみて時期区分や因果関係、画期性について各自考える材料とする。それは本文執筆やその後の記事改善に資すると思います。なので、年表の方は世紀ごとでよいのではないかというのが今の私の意見です。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月16日 (日) 12:20 (UTC) |
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議論が錯綜してますので、一度仕切り直しを提案いたします。[[利用者‐会話:アルトクール#解決の参考を教えて頂ければと思います。]]で頂いた助言から私なりに以下の流れでの議論を提案いたします。 |
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#既存の分割提案、出典要求、改名提案などすべての議論を中止、無効とする。 |
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#まず記事が歴史記事であるということから、とりあえず「国家と教会の分離の歴史」に対する歴史学的成果を中心に記述されることを確認する。 |
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#次に現状の「政教分離の歴史」というタイトルの妥当性を考慮し、必要であれば歴史学的記事としてふさわしい記事名に変更する。 |
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#記事の内容を精査し、節ごとに参考文献・出典を確認しながら歴史学的記事としてブラッシュアップする。 |
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#必要であれば分割する。 |
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以上、ご同意頂けますでしょうか。議論が拡散し、保護依頼中にもかかわらず、標準名前空間側の編集行為も行われており、編集合戦につながりかねませんのでこの記事の議論について、この流れで了解を取りたく思いますが、議論の提起者である[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの合意をいただきたく思います。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 16:53 (UTC) |
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:::{{返信|Greenland4さん}} 「年表は世紀ごとでいい」というのはその通りです。さて、年表の1行が、重要(政教分離の説明に必要不可欠)ではないものは、年表の1行に載せるに値しない。つまり、「記事の方で節を1つを取れるぐらいのことを、年表の箇条書きに書く」ということです。わかりやすく言うと「年表で目次を作る」といったことでしょうか。これに関してはまあ、完全に一致させるのは厳しいのは分かっています。しかし、「節1つ作られるくらいのことを年表に書かない」のはおかしいし、「こちらの記事では一段落程度の記述しかない」のもおかしいんです。そのあたりの兼ね合い(箇条書き1行≒節1つ)が難しいのではないかと思います。 |
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1の「無効」は反対します。しかし、議論の流れ次第ではもちろん取り下げもありえます。また、4のブラッシュアップのための期間を要求するということであれば、中止は合意します。2は、歴史の記事であるからといって、歴史学以外の、例えば法学や、あるいは現代史を書くための新聞記事などを利用することを不可とするのであれば、反対。記事名の件は、具体的な記事名をいってください。4、5は同意します。(しかし、5と1が矛盾していませんか?)--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 17:05 (UTC) |
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:::(ここからは蛇足ですが。)Wikipediaに完成はありませんので、あまりにも将来の編集者に負担がかかるようなこともできないのかなと思いますが、ある程度決めておかないと年表が肥大化してしまう恐れがあるのです。年表が肥大化し、詳細な情報まで書かれてしまうとそれは年表ではなくなり、ただの記事と化してしまいます。こんなことを恐れるのもどうかと思います。けれど、年表から記事へのの案内は{{Tl|Main}}系を使うつもりなので、箇条書き1行≒節1つのお話を始めました。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月17日 (月) 00:24 (UTC) |
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:議論の流れの話です。1→5の流れで議論を進めることをご了承くださいませんか?歴史学以外の内容についてはこの記事では盛り込まず、とりあえず別にするという形にしないと議論になりませんので、そこをまず了承してください。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 17:09 (UTC) |
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::::{{返信|Yuukin0248さん}} 現時点(7月17日)では「[[中世ヨーロッパにおける教会と国家]]」が30万8,041バイト、「[[ヨーロッパにおける政教分離の歴史]]」が16万5,312バイトであるのに対し、「[[政教分離に関する歴史年表]]」は1万4,572バイトなので、年表の肥大化はあまり心配しなくてもよいのではないかなと思います。年表の書き方としては箇条書きが基本ですから、現状より3倍増えたとしても4万5,000バイトですから、たとえば17世紀を前半と後半で分けるとか、そういう程度でよいと思います。重要なことはだいたいすでに網羅されているので、たとえば10倍に増えるなんてことはないでしょう。せいぜい3倍、それでもすごいという感じじゃないかと思います。ただ、1531年のカッペル和平のように、本記事「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」でも詳細に扱われていなくて、かといって単独記事も立てられていないような事項については、「どうして、この年表に載せるのか」というようなことを付記してやる必要はあろうかと思います。それは、単独記事ができたら除去してしまってもよい性格の「付記」です。ある意味、年表は編集者が座右にするものであり、「年表にあるのに本文に記載がない」→「じゃ、本文に盛り込もう」ということになると思いますし、逆も然りだと思います。年表で目次を作る案ですが、それは、本当に重要なものだけをピックアップするというのでいいんじゃないかなと思います。具体的には、「[[Template:政教分離の歴史]]」に年号入りで載っているレベル、あるいは本記事内で節前にmainタグが貼られるくらいのレベルのごく重要な事象に限定してよいと思います。そこはゴチック体にしてやって、「本記事を参照するならここですよ」くらいの案内を付けてやってもよいと思います。一節の主テーマにならないような細々なことに関しては不要だと思いますし、あまり緻密にやっちゃうとかえって身動きがとれなくなってしまうと思います。本記事の概要節内にあった「要約」がそういう感じだったんじゃないでしょうか。年表内にゴチック体があまり多くなるのも見た目がうるさくなってしまいます。年表は「眺めるもの」ですが、本文は「読むもの」なので、そうやってメリハリ付けていくしかないんじゃないかなと思います。いかがでしょうか。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月17日 (月) 12:53 (UTC) |
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::この記事では近代以降を扱うべきではないといっているのですか?--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 17:13 (UTC) |
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:::::{{返信|Greenland4さん}} 肥大化についてですが、少々認識が違うようですので補足します。バイト数はどうであれ、仰られた「眺める」年表に「読む」本文が、少しずつ加わっていくことを危惧しているのです。 |
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:::違います。歴史学的見地から大枠を構成すること、古代・中世・近世・近代においてだいたい何が記述されるべきかの基本的な部分は歴史学的文献によることを合意しようという話です。具体的には大枠のフレームとしては『教会から国家へ』で提示されている国制史的理解が現状もっとも歴史学的には受け入れられている(この点については異論はなかったはずです)と思われますので、それを用いることを想定しています。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 17:17 (UTC) |
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<div style="margin-left:5em">{{Quotation|1618 - 1648年: 三十年戦争|[[政教分離に関する歴史年表]]}}</div> |
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:::::であったものが |
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<div style="margin-left:5em">{{Quotation|1618 - 1648年: [[神聖ローマ帝国]]で三十年戦争。[[宗教改革]]による[[プロテスタント]]と[[カトリック]]との対立であったが、[[ヴェストファーレン条約]]の締結により終結した。|自作}}</div> |
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:::::となるとかなりの肥大化(というよりかは「冗長化」)です。目次化する案については、重要なもの(それを題材に独立記事ができているもの)を目立たせて案内することは可能かと思いますが、それによりまた「記事」「年表」それぞれのバランスが難しくなってきますね。意見が相違していても動きはありませんので、[[ノート:政教分離に関する歴史年表]]で提起してみます。--[[利用者:Yuukin0248|Yuukin0248]][<nowiki/>[[利用者‐会話:Yuukin0248|会話]]/<span style="font-size:0.8em">[[特別:投稿記録/Yuukin0248|履歴]]</span>] 2017年7月19日 (水) 09:19 (UTC) |
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{{返信|TENさん}} 研究者で見解が異なるのは狭義においてであり、広義においては大きくは一致しているとみなせませんでしょうか。政教分離の思想については硯箱さんがあげたようなマーク・リラのような現代思想家も展開させており、現代における政教分離に関する議論や研究についてもどこかで説明しなくてはなりません。その説明する場所は、やはり[[政教分離原則]]ではないでしょうか。政教分離の歴史の各ページの冒頭や注釈などで書くのも手ですが、この点はGreenland4さんと同じで、空白を埋めていくことが優先のように思います。お示しいただいた伊藤潔志論文で重要な指摘がなされていましたので、[[政教分離原則#政教分離と信教の自由と寛容]]に加筆しました。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月16日 (日) 13:38 (UTC) |
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::::『教会から国家へ』が「政教分離の歴史」として書かれているというのであれば、脚注を用いて明記してください。アルトクール氏の助言にあるように、分割提案と出典要求とでは、出典の明記の方が先に解決すべきなのは確かです。もし出典を明記するブラッシュアップをこれよりなさるのであれば、一ヶ月(あるいはどれくらい必要か目安をいってください)ほど議論や分割提案を停止するのは賛同します。しかし、待ってもブラッシュアップされない場合、また出典が明記されない「エッセイ」にとどまる場合は、その時にまた対処します。近代以降に関して、歴史学以外の情報源を使用してはならない、というのは同意できません。[[Wikipedia:信頼できる情報源]]には複数の出典を使用することが好ましいとありますし、法学者だから[[エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデ]]の「世俗化過程としての国家の成立」は使えない、となるのですか?井上論文が使えないというのであれば、それについてもまた議論しなくてはなりませんし、明確に反対します。また、百科事典を利用してはならない、というのは、ウィキペディアが百科事典であることを理解されていないのではないでしょうか。[[WP:NOTTEXTBOOK|ウィキペディアは学術論文でも名鑑でもありません]]。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 17:40 (UTC) |
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::::勘違いがあるのですが、『教会から国家へ』はベッケンフェルデの理論を引き継ぎ、発展させたもので、しかも両者ともに「国家と教会の分離が近代国家の成立」であるということでは共通しているだけでなく、じつは他の国制史家もこの点はすべて基本的に一致しているのです。そのうえで日本ではその国制史モデルの典型として『教会から国家へ』はスタンダードとしていつも言及されています。要は学界で最も受け入れられているのです。ベッケンフェルデの議論の足りないところを補って完成させたのが『教会から国家へ』だという了解で、両者を切り離す必要はありません。井上論文うんぬんについては競合しないよう、法学的な憲政史的意味の政教分離原則の歴史と法制史的な各国の政教分離関連法についてはそれこそ[[政教分離原則の歴史]]という記事を作って別個にすることで収容可能と考えております。こちらは当面政教分離の歴史としますが、歴史学的見地の「国家と教会の分離」という意味での政教分離の歴史とし、おいおい必要であれば改名していくという流れを想定しています。百科事典的にも二つの領域について混線することなく記述でき、大変整理されると思われます。どうでしょうか?--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 17:50 (UTC) |
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::::要は民事法の専門家の井上修一さんとドイツ国制史家山田欣吾さんの論文を重ねても扱っている時代もテーマも学問領域すら全く違うので、論点は重ならないので議論は平行線になります。どっちも盛り込んで喧嘩させたような記事を作るという無理をするのでなく、どちらも独立した別個の記事で汲み取るという共存をするほうが百科事典的には適切であると私は提案します。どちらも大切であるということは双方変わらないということはここまで合意できていると思うからです。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 17:58 (UTC) |
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:{{返信|121.107.209.16さん}}「政教分離と信教の自由と寛容」の分部、読みましたが、これは大切な指摘ですね。本記事でも啓蒙主義の説明のところに使えそうな感じですね。加筆、御紹介、両方ありがとうございました。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月17日 (月) 13:26 (UTC) |
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:::::それでは振り出しに戻るだけではないですか。ベッケンフェルデを『教会から国家へ』が継承発展させたのだろうとは周辺情報からも推定可能ですが、しかし、そもそも、『教会から国家へ』を聖典にして、それ以外を異端とするような言い方は[[Wikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化する]]に違反します。山田欣吾以外を出典として用いると論旨が崩れるようなものを書こうとしているのでしょうか?そうであれば、それは特殊な解釈であり、特殊な証拠が必要です。歴史学以外の文献を使用不可とする提案には断固反対しますし、「しきりなおし」提案にも反対します。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 18:02 (UTC) |
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聖典化してありがたがろうということを言ってるのではなく、国制史的理解の「信頼すべき情報源」として扱おうという話です。法制史的理解や憲政史的理解についてまでいっておりません。しかし文献の話はとりあえずおきたいと思います。肝心なところはそこにないからです。まず歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分け、こちらには'''歴史学的な意味での国家と教会の分離史'''だけを書くことにしようということだけ合意しましょう。そこから整理しましょう。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 18:08 (UTC) |
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ちなみに具体的に歴史学的にこの記事が書かれていることを記事内で明記し、憲政史的意味については別項にあることなどを配慮して記せば、中立的な観点的にも問題ないと思われます。観点記述の帰属化・明確化という点は問題ないからです。名称的に重複すると思われる事柄でも必要であれば分野別に記事を立て共存させることができるということはウィキペディアは基本的に認められています。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 18:14 (UTC) |
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:{{返信|121.107.209.16さん}} 現代における政教分離について[[政教分離原則]]で記述することに特に異論はありません。私の知りうる範囲では、政教分離という用語について(政教分離原則と)広義において一致しているとみなせるかどうかは、残念ながらそう言う観点で書いている本を見つけられないのでわかりません(すみません)。確認できる用例としては多様であり一概に言えないということがわかるのみです。変わり種の用例としてはこんなものも見つけました。 |
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::ですから、それだと振り出しですので、反対します。「歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分ける」根拠がありません。「歴史学的な意味での政教分離の歴史」が果たして、2001IP氏のような意味が「学会の定説」なのか、歴史学事典などではどのように記載されているのか、明示すればいいだけです。明示しないで演説ばかりされてもお互い無駄な浪費です。素直にまず出典を明記すればいいだけです。改めてKanbun版を読んでも、実に出典が書かれていないし、なんとなく思想史に興味がある人が関連性を明確に説明しない(できない)ままに、趣味的に恣意的に書いているようにしか見えません。しかし、ベッケンフェルデについての紹介論文(新保)を読むと、10世紀以降の世俗化から政教分離原則の法制化までの流れを納得できるわけです。私はインターネットでも確認できる情報源を提示して相互に確認できるよう努力してきました。しかし、あなたは本を持っていると主張するわりに(確認できないことです)、脚注で明記できないのは、やはり「政教分離の歴史」として書かれていないからではないかと疑わざるをえない。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 18:27 (UTC) |
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{{quotation| |
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このように「人生」が来世に及び、しかも現世がたかだか数十年しか続かないのに対し、来世が永遠に続くとなると、来世にかける思いは私たちの想像を絶するほど強くなり、来世の「人生」を決める神への忠誠心も極めて高くなる。5世紀の神学者アウグスティヌスは、この忠誠心が権力者に利用されることを懸念し「神の国」はこの世では決して実現しない天上の理想郷で、人が造ったはかない「地上の国」とは峻別すべきものと説いた。ところがこのような来世と現世の「'''政教分離'''」は古代ギリシア哲学を前提にした理論で、そうした教養を持たない中世の一般人には理解できない。<BR><BR> |
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:::だいいち、「しきりなおし」と称して、議論が拡散しているだけです。[[#本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについて]]では合意案を提示しているのに、それには答えようとしないのはなぜですか。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月24日 (金) 18:31 (UTC) |
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『ヨーロッパの歴史Ⅰ ヨーロッパ史の視点と方法』 草光俊雄 甚野尚志 p. 104 |
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:::では[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは「歴史学的な政教分離の歴史」と「法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史」を分けることに反対ということですね。とりあえずここは一度平行線と言うことにしましょう。まずはこの点について今後一致点を見つけるためにじっくり話していきましょう。それまでは他の議論はとりあえず中断でお願いします。この論点が解消されないと次の議論がそもそも成り立たないと思われますから。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3|2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3]] 2017年2月24日 (金) 18:33 (UTC) |
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:私の意見は「政教分離」という用語がどのような意味で使われているか、本記事中に説明が入った方が良いのではないか(政教分離という用語の定義が実情として一定していないので議論を招きやすい)と言うこと、本記事が単に「[[政教分離原則]]」の歴史節を拡張したもの、という位置づけではないということの2点であり、[[政教分離原則]]の記事で政教分離が概ね同義語として使用されるということには特に異論ありません。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2017年7月17日 (月) 16:26 (UTC) |
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まず記事内容については一致点がないので、議論は長引きそうなことが予想されます。そこでスムーズな議論進行のために以下の2点を最初に合意するのがよいと思われます。 |
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#記事内容にどのような学問の成果が反映されるべきか議論で合意されるまでは一連の編集合戦前の「2017年1月18日 (水) 12:03」の版を保存し、タグの貼り付けや加筆などはしない。 |
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#ただし、記事の出典がわかった場合は既存の記述の脚注の付記だけは認める。 |
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1点目につきましては議論途中で記述が増加したりタグ貼り付けが行われると議論が攪乱されるため、名前空間をなるべく議論に即した状態に保つとともに、編集合戦を防ぐと言うことを意図しております。 |
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2点目につきましては付近の記述の脚注に明記されているものを含め一応いくつか参考文献を手元に集め、確認したところ記事の記述の出典がほとんどわかったので、長引く議論の間に記事に脚注を追加していくことで、あらかじめ議論の絞り込みが可能と思われるためです。いくつか入手困難なものについては取り寄せなどしておりますが、今時点の判断で言えば、かなりの記述の出典は特定できる手応えがあります。 |
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そういうわけで、以上二点について遵守頂くということをまず合意して議論に戻りたいと思いますが、いかがでしょうか。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:F634:65A8:E026:8D64:8652|2001:268:C068:F634:65A8:E026:8D64:8652]] 2017年2月25日 (土) 04:53 (UTC) |
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:1は反対。問題があるからタグ付けを行うのですし、ノートでの議論に参加者を募る意味でもタグ付けや分割告知は必要です。また、私が加筆した部分について、何の問題があって削除しようとするのですか。「編集合戦」になるのは、議論も告知もなしに貴殿が削除するからです。自分だけがこの記事の編集権があると主張するようなことは、ウィキペディアでは不可能です。新保論文についても加筆を控えるようにいわれたままですが、いつまでも自分の「編集権」を主張するのはやめてください。私も今後必要あれば加筆もするし、タグ付けはしていきます。現在、合意不可能で平行してすすめるしかないといわれていますが、私の編集も、貴殿の編集も、他の方の編集も、制限されるべきではありません。ただし、これよりいままで出典がついていなかった箇所を修正していくということであれば、それまで私の方からは編集を控えることは考慮してもよいですが、2001IP氏の言い分に完全に同意したのではないし、編集はオープンであるべきでしょう。工事中テンプレートを貼ることに反対はしませんが、どれくらいの時間が必要なのかを明言してほしいです。半年間待ってくれといわれても困りますので。通常は工事中テンプレートは3日ほどです。しかし、すでにいったように私は一月ほど作業に時間がいるというのであれば、待ちます、といっています。これは相当の譲歩であるということはご理解ください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月25日 (土) 15:25 (UTC) |
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:疑問なのですが、独自研究タグなどは、出典が脚注などで明示された時点で削除していけるものです。それだけのことなのに、他人にのみ編集を遠慮してくれと要求するのは真意が分からないです。自分の論文とみなしているのか、勘ぐらざるをえませんが、それは記事の私物化といっていいですよ。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月25日 (土) 15:34 (UTC) |
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:「政教分離原則の歴史」と「政教分離の歴史」とを分けるという提案についてですが、[[政教分離原則#歴史]]を確認しますと、ここの記事の要約のような内容になっていました。出典もほとんどなく、独自研究としか思われない内容の記載もあります。これを2001IP氏が書いたのでしょうか。もしそうであれば、[[政教分離原則]]>[[政教分離の歴史]]という構造になっているのであり、それをさらに[[政教分離原則の歴史]]を設置してしまうと記事の関係がまったくわからなくなります。やはり、「中世ヨーロッパの国家と教会」という記事に移動し、ここは叙任権闘争、宗教改革、近代の革命という画期について書くということが一番効率がいいですが、この件について反対なのか、賛成なのかを全く答えようとしないから、会話になっていないのです。それと、アルトクール氏の所でのコメントで私が「ネットで確認できないものは信頼できる情報源ではない」などと主張しているみたいな歪曲をされていますが、これは完全な誤解、というより意図的としか思えない、つまり悪意ある歪曲です。私は山田本も他の大学紀要論文もいずれも有効といっています。他人の発言を歪曲して第三者に伝えるあなたの行動に、私は不信感を抱かざるをえません。歴史学の文献だけを採用し、法学文献は使用できないという提案に反対ということで、歴史学であっても、法学であっても、あるいは新聞でも、きちんと内容との関連性があれば、記載可能です。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月25日 (土) 16:09 (UTC) |
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::「政教分離原則の歴史」についてまとめるのが方向性として良さそうに思います。現状では宗教史のうちwikipedia編集者が政教分離に関係しそうだと独断で判断した事例を列挙しているだけであり、それが政教分離に係累する事例にあたるのかどうか2次史料、3次史料から裏付けが取れない状況にあります。なにより困るのは政教分離原則に関して記述している信頼できるほぼすべての論文が古代キリスト教だの中世キリスト教普遍世界だのに言及しておらず、wikipediaに加筆された膨大な情報についてはたして一読者として「こんなもの読む意味あるのか」と不安になってしまうことです。[[政教分離原則]]にも加筆したのですが[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%8E%9F%E5%89%87&type=revision&diff=41775399&oldid=41765867]【一般的な理解としては政教分離と[[信教の自由|信仰の自由の保障]]は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う[[世俗主義|国家の世俗化]]の産物とされる】ものだと思います。その周辺からの加筆が常識的であり、せいぜいそれ以前について加筆するについても信頼できる2次情報、3次情報に基づくべきでしょう。--[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]([[利用者‐会話:大和屋敷|会話]]) 2017年2月25日 (土) 20:13 (UTC) |
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:「一般的な理解としては政教分離と[[信教の自由|信仰の自由の保障]]は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う[[世俗主義|国家の世俗化]]の産物とされる」については、この中でいう政教分離が厳密には政教分離原則を指しているということを念頭に置けば、一般的理解として歴史学でも共通しております。多くの政教分離原則に関わる学問は近代以降のことを扱うので、こういう共通理解は伝統的であり、その点についてはおっしゃるとおりです。しかしながら歴史学ではそうした政教分離原則そのものを近世における特殊事象としてだけでなく、先行する古代中世ヨーロッパの政治社会そのものに広く存在した社会構造の進展の産物として把握しています。そのために国家と教会の分離という意味での政教分離という視点で国家の世俗化過程を問題にします。ベッケンフェルデ論文のように叙任権闘争を世俗化第一期、一般的な意味での政教分離原則の成立を世俗化第二期という形で理解するのはいまのところ学界では共通理解であり、それは山田欣吾『教会から国家へ』でより明確な形で言及され、基本的にはその問題関心と枠組みは学界共通のものとして共有されております。山田欣吾はベッテンフェルデが指摘した世俗化の過程の前段階としてカロリング朝の政教一致体制が重要であることを指摘し、カロリング朝国家を「教会」であると位置づけました(教会国家論)。そしてヨーロッパの長い政教分離過程の出発点にカロリング朝的教会国家体制をおき、9-11世紀におけるその展開と12世紀以降の世俗化過程という形で整理した枠組みを提供しました。個別論点について細かい相違はありますが、国家の世俗化過程、政教分離過程の大枠そのものに有力な異論が存在するということはありません。その点については[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが間接的に証明してくださったものと私は思っております。文献上の言及は多数ありますが、直接的に山田欣吾『教会から国家へ』のこの分野での影響力を伺わせるものとしては、現在のところ包括的なカール大帝期のカロリング朝研究の決定版ともなっている五十嵐修『王国・教会・帝国』での言及と修正(キリスト教帝国論)を見てもわかりますし、ビザンツ帝国での政教関係において重要な示唆を与えている大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ』も山田の教会国家論をスタンダードに山田が立論に当たって参照したベックの議論を発展させる形で議論しております。そのうえで近代的な政教分離原則に関わる信教の自由という点では、かねてより古代のコンスタンティヌス帝とリキニウス帝によるミラノ勅令が知られており、これに関してはキリスト教成立から勅令による古代における信教の自由の確立までを精緻かつ浩瀚に描き出した保坂高殿さんの研究があり、信教の自由の問題は歴史学的には近代国家におけるそれの成立にとどまっておりません。この研究は現状独立している感があり、カロリング朝以降へのつながりには空白があり、明確でないのですが、歴史学的な政教分離の問題関心はすでに近代国家成立という一事態を越えて、ヨーロッパ史上の社会全体における国家と宗教の関係を問うという広がりを見せております。こうした歴史研究の蓄積と2000年以降近年における展開を考えますと、狭い意味での政教分離原則の成立史とは別個に、この国家の世俗化過程全体についてはとくに政教分離原則そのものの成立史とは独立して書かれる必要性があると思われます。そもそも「【一般的な理解としては政教分離と[[信教の自由|信仰の自由の保障]]は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う[[世俗主義|国家の世俗化]]の産物とされる】もの」という点に関しては別して憲政史や法制史など直接的に近現代に関わる研究はあるものの、むしろその研究分野を考えれば、政教分離原則の歴史節に収めることは十分な可能なように思われますし、そのような記述に対して、分量的な問題があっての分割の必要性を除き独立させる必要性を感じません。それに対し、この記事で述べられている歴史学的な内容については政教分離原則の歴史の一般的理解とは位相を異にする歴史学的な研究展開と動向が記述されており、別個の記事として十分成り立つ物と思われます。したがって、記事名としての「政教分離の歴史」は適切かという問題点はありますが、記述そのものについて一般的理解を理由に限定することは困難なように思われます。政教分離の文献を調べれば紛れもなく一般的理解についての記述が大半を占めることは以上の点からも十分予想されますが、だから国家と教会の分離の意味での政教分離の歴史として歴史学的な国制史理解などが中心になることはありえないというのは成り立ちがたいように思われます。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018|2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018]] 2017年2月26日 (日) 01:01 (UTC) |
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{{コメント}} とはいえ、一般的に「政教分離」といえば第二期の「政教分離原則」がメインですよね?そういう読者が「政教分離の歴史を知りたい」という動機で『[[政教分離の歴史]]』の記事を閲覧したら、「何故、古代から延々とこのような議論をしているんだ?」と思ってしまうでしょう。ですので例えば、歴史学的に「政教分離」はいわゆる近代の「政教分離原則」と中世ヨーロッパにおける国家と教会の対立と分離(叙任権闘争など)の二つを扱う考え方が主流になっている、という上述の説明を記事の冒頭で説明するべきでしょう。その点について了解したうえで記事割りですが、 |
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* 『[[政教分離]]』一般的な説明。「〈政教分離の歴史〉への史学的視座」などという節を立て、歴史学の学会では二期に分けられることが主流であることを説明する。 |
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** 『[[古代から中世にかけての政教分離]]』第一期についての説明。叙任権闘争などの歴史的過程を記述する。 |
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** 『[[近代から現代にかけてに政教分離]]』第二期、いわゆる「政教分離原則」についての説明。分量が多い場合には、一般的な総則に留めて、更に以下の子記事を立てることを考える。 |
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*** 『[[各国における政教分離原則]]』 |
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*** 『[[政教分離原則の歴史]]』 |
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一例として提示します。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月26日 (日) 02:54 (UTC) |
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:[[利用者:Susuka|Susuka]]さんへの返信。他の関連記事との関係性はほかでの議論もありそうですから、とりあえずおいておいて、私は基本的には『[[古代から中世にかけての政教分離]]』に近い形(ほかにも改名の候補はありますが)で本記事を改名するのが適切であると思っています。「政教分離の歴史」という現在の名称自体にまず混乱の原因があるという点では一致しているように思えます。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018|2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018]] 2017年2月26日 (日) 03:07 (UTC) |
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:わかりました。記事の体系的な整理の議論については、しかるべき場所とタイミングにて行うとしましょう。まず本記事の改名を行うのには賛成ですが、そうなると近代の箇所や日本の政教分離の箇所の転記も同時に行う必要がありますね。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月26日 (日) 03:11 (UTC) |
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::はい。その点は全く賛成です。私の「しきりなおし」節冒頭の議論の流れもそのようにすることを前提に提案しております。改名してからまず冒頭に「〈政教分離の歴史〉への史学的視座」のような概説説明をつけ、日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していくことを念頭に置いています。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C81F:1129:92DF:4EC4:A375|2001:268:C068:C81F:1129:92DF:4EC4:A375]] 2017年2月26日 (日) 03:29 (UTC) |
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*「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところ」の意味が分かりません。日本には政教分離の歴史がないという判断に根拠はあるんでしょうか?このあたりの独善的な「仕分け」が信用できない一番の理由なのですが。本記事の場合、「基本的視野」「歴史的展開>概要」の項目がすべて独自研究の公表になっており、「wikipedia編集のさいの基本的視野」がおかしいのだと考えます。ここでは投稿者の独自の哲学を開陳しているだけであり信頼できる二次情報・三次情報の裏付けがない、ここからしておかしいのだと思いますよ。--[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]([[利用者‐会話:大和屋敷|会話]]) 2017年2月26日 (日) 18:33 (UTC) |
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:歴史学的な文献に基づいて、『[[古代から中世にかけての政教分離]]』に改名したら「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していく」という話です。それとも寡聞にして知らないのですが、古代中世日本史でヨーロッパのような国家と宗教組織の分離というような議論がおこなわれていたのでしょうか。また歴史学の言う政教分離は「国家と教会の分離」の意味なのですが、日本にキリスト教が伝来したのは一般に1549年とされておりますから、古代中世という時代区分においては、日本が外されることは一般通俗的にもとくに問題がないように思われます。次に歴史学的な政教分離論についてはすでに文献を示しているので裏付けがないというのはただ単に[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]さんがそういう文献を確認していない、そういう議論を知らないだけというように思えます。[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]さんの挙げた文献がとくに歴史学的な政教分離議論をフォローしているものでないことはすでに説明いたしました。歴史学的理解そのものについても文献が挙げられていますし、そういう議論が歴史学的に十分認知・共有されていることについてもすでに十分な量の文献が示されています。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C81F:9C83:7E94:5D68:8492|2001:268:C068:C81F:9C83:7E94:5D68:8492]] 2017年2月26日 (日) 22:15 (UTC) |
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*日本の政教分離の歴史について記述場所をなくすのはおかしいです。むしろアメリカの記述がそもそも無いのも違和感があります。中国やインド、イスラム(トルコ等)についての記述が可能な余地も残しておくべきです。キリスト教に焦点をおくにせよ政教分離の歴史について記述するばあい、一般的な視座としては叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命(世界大百科事典「政教分離」)まででしょう。ついで各国法制史における政教分離の経緯が記述されるのが通常だと考えます。上にも書きましたがwikipediaの当記事のばあい「基本的視野」がそもそも独自研究でありおかしいのだと考えます。とくに「霊性史」を視座においてしまっているからこの部分で膨大な(そして関係があるのか無関係なのかwikipedianには判定しようのない)記述のコレクションが出来てしまっているのだと考えます。--[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]([[利用者‐会話:大和屋敷|会話]]) 2017年2月27日 (月) 04:14 (UTC)「古代から中世にかけての政教分離」というカテゴリについても、すくなくともそのような視座に立つ底本があって、それをもとに執筆するような態度でなければ独自研究を展開するだけになるので不安です。日本の場合でも奈良仏教・平安仏教から国家論がすでに展開されており(たとえば[http://www.kyorin-u.ac.jp/univ/faculty/general_policy/student/journal/pdf/2016vol32no1_03iwakuma.pdf])それの要約を記述することは可能でしょう。また江戸期からの国学および神道における国家観は明治以降の政教分離に重大な影響を与えたわけですから、wikipedia読者(とりわけ日本の読者)の期待に沿う記事内容のはずです。かように考量すれば聖霊史をもとにしたキリスト教における国家観の歴史にのみ膨大な執筆スペースを用意できないことはご理解頂けるのではないかと考えます。--[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]([[利用者‐会話:大和屋敷|会話]]) 2017年2月27日 (月) 04:32 (UTC) |
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*{{コメント}} 私が先に提案した『[[古代から中世にかけての政教分離]]』が念頭に置いているのは、本記事の記述の多くを占めるカトリックと西欧国家との叙任権闘争などについての話なので、一意に定まる記事名にするなら『[[古代から中世にかけてのカトリックと西欧国家との関係]]』といったところになろうかと思われます。さきに大和屋敷さんが挙げられた奈良仏教・平安仏教の例は『[[古代から中世にかけての日本における宗教と政治との関係]]』といったところでしょうか(これを「同時代だから同一記事」とするのは、さすがに無理があると思います)。米国については『[[アメリカ合衆国における政教分離原則]]』などという記事名でしょう。やはり、他の場所に議論を移すなどして体系的な議論を行うべきでしょうか。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月27日 (月) 05:37 (UTC) |
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:[[利用者:Susuka|Susuka]]さんと同様の意見ですが、少し違う点から指摘いたします。[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]さんのいう政教分離が政教分離原則のことであり、現状ここで述べられている政教分離が歴史学的意味の国家と教会の分離のことであり、そもそも同じ政教分離といいながら概念としては違うということがあります。『[[古代から中世にかけての政教分離]]』という記事名に改名するという議論はそういう流れで出てきており、しかもこの点について現状の記述がその観点と異なる独自の研究であるという出典はありません。むしろ現状の記述が大枠において歴史学的理解に基づいた記述であることを裏付ける文献が提示されております。そのうえでそこに日本の記述が含まれないのは誤解を招くという議論であれば、日本の記述がなくても誤解しないような記事名を考えればよいのではないでしょうか。提示された文献についても直接的に歴史学的なものでないと思われますし、歴史学上の通説的理解と無理して並べるならば、むしろその研究がどれだけ一般的な影響力があるかという点について歴史学的見解に即した形で、[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]さんが求められたように、ご自身で2次資料、3次資料での裏付けを考慮し、提示する必要があるように思われます。議論の場所としてもそれを行うのは政教分離原則のノートで、たとえば歴史節の内容の加筆候補として提示しておこなうほうが適切なように思われます。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E8C9:F0F4:5FE:2BE3:CD41|2001:268:C068:E8C9:F0F4:5FE:2BE3:CD41]] 2017年2月27日 (月) 05:51 (UTC) |
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::出典がない独自研究と疑われる記述を行っているのは2001IP氏です。以下の資料が[[Wikipedia:信頼できる情報源]]に違反するということを証明しないと、あなたの主張は成立しません。 |
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::*新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994 |
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::*山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 |
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::*世界大百科事典第2版「政教分離」 |
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::*新 田 浩 司「政教分離と市民宗教についての法学的考察」『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第 14 巻 第2・3合併号 2012年1月 21頁〜 35頁 |
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::*井 上 修 一「フランスにおける政教分離の法の展開」佛教大学教育学部論集 第2 号(20 0年3月) |
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::*佐々木弘道「合衆国憲法の政教分離条項」成城法学(64) , pp.79 - 98 , 2001-01 --[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月27日 (月) 14:24 (UTC) |
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*{{コメント}} 今回の論争は、IP氏お二人がそれぞれ出典を提示して、「『政教分離の歴史』とはこういうものだ」と対立されているわけですよね?ならば、「『政教分離の歴史』については大きく見て二つの見方がある」と記載するのが、読者に対して誠実な対応であると思うのですが。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月27日 (月) 14:29 (UTC) |
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私も基本的に2つの観点を一つの記事で共存させるかはともかく、それぞれを個別のものとして読者にしかるべき形で提示するのが誠実な対応であるという点については全く同意見です。私から見ますと、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが現状の記述を執拗に否定し、そしてなぜか私が[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さん自身の提示した文献を否定したように考えてらっしゃるように[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが思われて、論争がどちらを取るかという方向で進んでいるようにおっしゃっているように思いますが、私はそういうことを言っているのではありません。私はそもそもこの記事の現状の内容に基づけば『政教分離の歴史』というタイトル自体が誤解を招いており、そのせいでしなくてもよい不毛な論争が発生しているように思いますので、この記事を歴史学的内容に純化し、しかるべき改名をすれば別して全体像としての政教分離の歴史なるものも新規作成可能であると思われますし、別に政教分離原則記事の歴史節という場所もあります。そうしたウィキペディアで用意されたいくつかの方法を用いれば、現在提示されている2つの観点は安定した形で両立共存可能であると思っています。1つの政教分離の歴史にこだわる必要はない、という立場です。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A|2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A]] 2017年2月27日 (月) 16:07 (UTC) |
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{{提案}} 例えば、お二人が『[[古代から中世にかけての政教分離]]』と『[[近代の政教分離原則]]』とを分担して作成することは出来ないのでしょうか。ここで論争を続けるよりは、余程Wikipediaの発展につながると思います。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月27日 (月) 16:32 (UTC) |
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:ここで展開されているような無意味な循環論争を防ぐためにも一つの記事での二つの観点の共存は無理に望まず、現状の記事をより主題を明確化した『[[古代から中世にかけての政教分離]]』というようなものに改名して、別して『[[近代の政教分離原則]]』を設けるというような形での決着はよいと思われます。<!--ただ『[[近代の政教分離原則]]』のような記事が政教分離原則の記事と独立するほど特筆性があるのかについては私はそれほど意義を感じない(なぜなら政教分離原則の記事も基本的には結局政教分離原則についての制度史的解説が大部分を占めることになることが予想されるため)という個人的な感想はありますが、反対するほど積極的なものではありません。-->政教分離原則は近代的な寛容精神に基づくものですから、この議論の決着もウィキペディアの方針的に問題なければ検証可能な二つの観点に等しく寛容なものであるといいと個人的には思います。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CCA2:5913:8007:BF97:9301|2001:268:C068:CCA2:5913:8007:BF97:9301]] 2017年2月28日 (火) 11:59 (UTC) |
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=== 差し戻し === |
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別して編集合戦を理由として保護依頼された記事に関しては基本的にその編集合戦の始まる前の版が保存されることが適切であるように思われます。また直接的には[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは分割とその後の差し戻しを問題として編集を行っており、編集合戦の主因はそこにあるものと思われます。しかるに、その後の分割提案についての議論最中に独自研究などの新たな観点を追加し、タグ添付を行いました。しかし分割議論と独自研究の議論を同時に進めることは率直に言って不可能です。まずは切り離して議論をする必要があり、そのため今回についてはそもそもの分割議論の始まりである「2017年1月18日 (水) 12:03」に差し戻し、その後の論点についてはまず必要とされる他の議論を片付けた上で行われるべきと思われます。さしあたってウィキペディアの慣例に則り「2017年1月18日 (水) 12:03」版に差し戻します。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018|2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018]] 2017年2月26日 (日) 02:51 (UTC) |
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:何をしているんですか?分割提案も撤回していないし、出典が明記されるべきところを明記されていません。何一つ問題が解決していませんし、議論中だからこそ、議論の告知が必要なのです。それを削除するのは、このノートでの議論を隠蔽しようとすることに他なりません。私だけでなく、Susukaさん、大和屋敷さん、そしてアルトクールさんも助言やコメントをされているではないですか。ウィキペディアは皆で編集するものです。自分の書いたものを他人にいじられたくないならば、他のサイトでやる方が賢明ですよ。それから、学会に所属しているといっていますが、それはもはや何の関係もありません。実名で編集されているならまだしも、お互いに匿名です。学会に所属しているかどうか確認できない以上、いくら学会での「常識」を主張しても、その出典はありますか?という話でしかありません。あなたが本当に日本のヨーロッパ中世史学会の人であるとしたら、その学会での議論レベルはこの程度なのかと思いますよ。ウィキペディアは色んな専門分野を持ったひと、プロアマ含めて色んな人が編集できるシステムです。そのことだけはご理解ください。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月27日 (月) 14:12 (UTC) |
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::[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは何か高度なことを論じておられると思うのですが、私には少し論理の飛躍があってよく理解できかねます。隠蔽工作したかのような話はどういう証拠や状況に基づいているのかという点についての説明が私にはよくわかりません。隠蔽するような意図でないことは上で慎重に説明したつもりですし、もし私が後ろめたいことがあり、議論の隠蔽を仮に望むならば、アルトクールさんに相談をして議論自体の妥当性や方針的な問題点について伺い、わざわざ議論に注目を集めることは普通しないと思います。私の行動はアルトクールさんにアドバイス頂いた内容を自分で判断してあくまで議論進行の上のことであり、攻撃意図のないこと、通例のウィキペディアの慣行上も適切であろうことを考慮した上での判断であることを表明しております。またアルトクールさんの応答自体に根拠づけをおこなっているわけではなく、個人的な判断により、個人的な責任において行ったことであり、アルトクールさん自身は親身に話を聞いてくださっただけで中立的な立場です。私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」というような話もしきりに出てくるのですが、事実誤認であるということをまず主張するとともに、その点についてはどうしてそう思われるのかという点についての十分な説明がなく、この突飛な主張は悪意によるものとは直接的には思いたくありませんが、やはりどことなく印象操作のように思えてしまいます。もちろん私の主張そのものが分割提案に対して現状の記述自体を保護する意図を持っていることは否めませんが、それは「自分が書いたもの」だからというのは[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの個人的感想にすぎません。私が歴史学界の話を出したのは私が歴史学界の権威を持ち出したり、個人的な歴史学界での立場などをひけらかしたりしたわけではなく、あくまで代表的な歴史学的著作に基づいて歴史学界での動向を一定の検証可能なものとして提示するためにおこなったのであります。直接的にどちらかの立場に優劣をつけようという意図があったわけではなく、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの行われる無作為的な文献の提示に対して、あくまで説明の必要上複数の歴史学文献を示して歴史学界の共通理解というものを素描いたしました。さらにそうした歴史学的政教分離については私の示したものだけでなく、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さん自身がお示しになった文献にも明確に言及しているものがありましたからその存在について検証可能性は満たされていることは議論参加者の共通理解であったはずです。その点について瑕疵があるという[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの論点は私の知る限り、ウィキペディアの方針文書から導き出すのは困難であるように思われます。分割による記述の移動も、独自研究による記述の削除も基本的には現状の記述を減らす結果となります。[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんは分割を提案したと思ったら独自研究を突然持ち出したりとしていらっしゃいます。そうした今までの議論の推移で強い削除的方向性で意見を主張なさっていることから、あまりこういうことは言いたくなかったのですが、私はむしろ現状の記述の大部分を認めたくない[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの強い意図を感じざるをえません。[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんの意味での政教分離の歴史は現状の記述を改名移動したあとに別して新規記事を作成するなり、政教分離原則記事の歴史節を利用すればすむ話のようにも思われます。現状の記述に対する検証可能な2次的な文献と、さらにその文献の認知度などについても具体的に検証できる3次的な文献もあるのに、現状の記述自体を直接的に独自研究だとするおおざっぱな主張はいささか乱暴に思え、理解しかねます。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A|2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A]] 2017年2月27日 (月) 15:50 (UTC) |
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:::「ノートでの議論があるときは、タグ添付や加筆をしてはならない」というのはウィキペディアの方針文書でありますか?むしろ、[[Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと|独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることはやってはいけない]]とされており、あなたの行動がそれに該当します。「現状の記述に対する検証可能な2次的な文献」があるといいますが、山田欣吾『教会から国家へ』は「基本的視野」の出典として明記されていません。他にも五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』、藤崎衛『中世教皇庁の成立と展開』などを提示しましたが、「政教分離の歴史」としては十分に関連性が証明されていません。[[国家の世俗化]]、[[神権政治]](テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょうが、それらをすべてこの記事で一括して説明しようとするのが、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]での「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に該当する疑いがあるのです。[[Wikipedia:出典を明記する|「参考文献」と「関連書籍」は違います]]。きちんと脚注を用いて、出典を明記してください。独自研究ではないかと疑われたくなければ、出典を明記すればいいだけです。分割提案と独自研究の指摘に対応するのは「不可能」といいますが、他人の指摘を理解しようとしないで、独自研究のまま放置して改善の努力をしないからでしょう。「無作為」とは意味不明ですが、私の提示した文献は「政教分離の歴史」に関連があります。Kanbun版は[[Wikipedia:検証可能性]]に違反し、[[Wikipedia:中立的な観点]]での「意見を事実として記さない」に違反し、[[Wikipedia:過剰な内容の整理]]に該当しているのではないかと指摘しているのです。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月28日 (火) 15:16 (UTC) |
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*{{問}} では、話を整理するために2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんに伺いたいのですが、2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんが提示されている文章には、政教分離と古代から中世にかけてのカトリック教会と西欧国家との関係性(叙任権闘争など)とのつながり(この関係性を「政教分離」と表現しているか、など)についてはどのように言及されているのでしょうか。簡単に要約していただくと議論の役に立つのですが。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月28日 (火) 15:42 (UTC) |
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:{{コメント}}割り込み失礼します。参考に「[[政教分離]]」について各種事典での説明は以下の通りです。 |
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::*[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]]:政治と宗教は分離されるべきであるという考え方。 アメリカ合衆国では憲法上の原則。 |
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::*知恵蔵:国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。国家と宗教とが未分化で明確に区別されていなかったり、両者が密接に結合している場合、個人の信教の自由は認められない。その意味で、政教分離と信教の自由は表裏一体の関係にある。政教分離の思想は欧米で生まれたもので、近代化と共に非キリスト教国にも浸透していった。 |
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::*百科事典[[マイペディア]]:国家権力と宗教を分離すること。信教の自由の必要条件をなす。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。 |
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::*[[世界大百科事典]]:「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。 中世世界においては,国家と宗教(キリスト教)の区別は未知の事柄であった。」 |
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::*[[日本大百科全書]](ニッポニカ):「国家と宗教とを分離させる憲法上の原則をいう。中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀ごろから宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」 |
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このように、マイペディアでは未開社会,古代・中世社会の「祭政一致」([[神権政治]])を、世界大百科事典では聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命を、日本大百科全書では17世紀以降宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度と説明しており、既存百科事典ではほとんどが近代以降に焦点をあてています。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月28日 (火) 15:57 (UTC) |
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[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんについての返信。[[Wikipedia:独自研究は載せない]]での「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」は2つの事実を合成して新たな事実を提示することで、ここに述べられている内容は直接的に文献から確認できるものでありますから、そういうものに当たるとするのはかなり難しいように思われます。少なくともこの記事は現状歴史学的な政教分離論をメインに論じており、それ以外の新しい事実を記載しているものではないと思われます。そしてそもそもそうした情報の合成は文献を確認せずに論じることは不可能なように思われますが、[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんはこれまでの議論でこの記事の文献や私が提示した文献を考証した形跡がなく、はっきり言ってしまえば単純な誤解により議論をこじらせております。だから「[[国家の世俗化]]、[[神権政治]](テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょう」というような率直にこれらの語義を十分に理解していないゆえと思われる突飛な主張が出てきたり、私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」と思っているというような印象操作に当たる主張を繰り返され、ご自身の論点の弱点を無理に取り繕うことをしてらっしゃるように思われます。現状の内容が[[Wikipedia:検証可能性]]に違反し、[[Wikipedia:中立的な観点]]での「意見を事実として記さない」に違反するという点についても、検証可能な文献を挙げてここに展開されている論理の存在は意見としてではなく、事実的に問題はないということを再三再四確認しておりますが、それについても関連する歴史学的な学説の存在やその学説の影響性まで示しても全く受け入れず、ご自身が提示した直接的には政教分離の歴史とは関わらない文献をその影響性や中立性、妥当性も考慮せずに提示し、土俵が違う議論を展開して煙に巻くという行動をとっていますね。それに山田欣吾『教会から国家へ』は現状の記述が独自研究でないという参考文献として提示されたもので、記事に直接的に利用されていないことで逆に本記事の記述の信頼性を保証しているものですが、そうした点についても言を左右にして、次々と方針を持ち出しては議論を拡散するという方法をとっています。はっきり言ってしまえばこのような議論の仕方は議論参加者にも無用の負担を強い、記事の改善も後回しにするもので、まさに[[Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない]]が問題視している行動そのものであるように思われます。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940|2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940]] 2017年2月28日 (火) 15:59 (UTC) |
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[[利用者:Susuka|Susuka]]さんへの返信。歴史学文献では説明は一般に数ページ単位で長くなるので、中略を入れると合成と思われかねないゆえ、一言で表現するものを探すと「西ヨーロッパにおいては国家教会というプロセスをとおって政教分離に達し」(森安達也『近代国家とキリスト教』pp.271-272)たという記述や「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(山田欣吾『教会から国家へ』p.1)などがそれに当たると思われます。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940|2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940]] 2017年2月28日 (火) 16:13 (UTC) |
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:2001IP氏は[[WP:IDIDNTHEARTHAT|「腕ずくで解決しようとしない」の「いつまでも納得しない」]]に当たるでしょう。さて、ようやく引用してもらいましたが、それだけで古代や中世からの総覧を行うのはやはり無理です。政教分離は近代の意味での使われ方ですし、到達点としての政教分離という意味です。古代から中世までの記載は、それぞれの記事に移動するなり、「教会と国家」のような記事として新規に作成すべきです。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月28日 (火) 16:22 (UTC) |
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:ということは、古代・中世と近代以降の二つに記事を分割するということで、お二人は合意できるということでしょうか。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年2月28日 (火) 16:25 (UTC) |
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::[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんへの返信。文献を読んでいらっしゃらないのに早合点しないでくださいませ。山田欣吾は以上の記述に続けて、p.2~p.15にかけて、その前段階としてのカロリング朝の意義を論じる教会国家論を展開しております。以上の部分は[[利用者:Susuka|Susuka]]さんの質問に答えて、政教分離と関連する文献であることを明確にするために提示した部分に過ぎません。 |
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::[[利用者:Susuka|Susuka]]さんへの返信。<del>私は合意可能と思っております。</del>訂正。「歴史学における政教分離」への改名を提案します。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940|2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940]] 2017年2月28日 (火) 16:31 (UTC) |
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:::「改名」だとリダイレクトになってしまうので、反対します。「政教分離の歴史」は記事として残したうえで、「古代・中世」と「近現代」を分割すると、記載がなくなります。分割するとして、なにをこの記事に残すのかを話した方がいいです。また、宗教戦争は[[宗教改革の歴史]]として分割する方がやはり適切でしょう。「近世における政教分離」というより、「宗教改革」の方が一般的です。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月28日 (火) 16:42 (UTC) |
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:::あるいは、「政教分離の歴史」は記事として残さない場合。「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を[[政教分離原則#歴史]]に移動するのもいいでしょう。その場合は、「政教分離の歴史」のリダイレクト先は[[政教分離原則]]です。そして、「政教分離原則#歴史」において「古代から中世にかけての教会と国家」「宗教改革の歴史」へのリンクをつける、というのはいかがでしょうか。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月28日 (火) 16:49 (UTC) |
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:::訂正。歴史学的政教分離論ではドイツ国制における政教分離(1803年)に終点をおくので、むしろ「歴史学における政教分離」という記事にしてしまうほうがわかりやすいかもしれません。宗教改革を独立させるという議論は普通に論外。「政教分離の歴史」がどこのリダイレクトかなどというのは正直私はどうでもいいです。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940|2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940]] 2017年2月28日 (火) 16:59 (UTC) |
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::::1.「古代から中世にかけての教会と国家」に同意できないのはなぜですか。 |
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::::2.また、「宗教改革を独立させるという議論は普通に論外」というのはこれまた論外ですね。わかりやすさ、一般の読者のことを考えてください。宗教改革が中世と近世のいずれの時期にあるとお考えなのですか。 |
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::::3.リダイレクトがどうでもいいというのならば、「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を[[政教分離原則#歴史]]に移動し、「政教分離の歴史」を[[政教分離原則]]へのリダイレクトとすることで同意されますね。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年2月28日 (火) 17:09 (UTC) |
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#基本的に現状の記述が歴史学的政教分離論であるから分割には反対というのが私の立場ですから、それに反する宗教改革だけの独立は全く論外です。 |
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#同上。読者のアクセシビリティを考えても歴史学的政教分離論が一体として記述されるのが望ましいことはいうまでもありません。 |
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#歴史学的政教分離論の記述が残されるならば、それ以外の歴史学的政教分離論に関わらない部分はどうでもよいですが、そのかわり本記事を基本的にそのままの状態で「歴史学における政教分離」に改名するという点を了承してくだされば同意いたします。そうでなければ歴史学的政教分離論についてのページがなくなりますから、同意は出来ません。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940|2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940]] 2017年2月28日 (火) 17:19 (UTC) |
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::::回答を書いていますが、加筆されましたね。加筆は歓迎しますが、私が出典を明記したものを削除するのはいただけません。しかし、議論も長くなりそうですし、[[政教分離原則]]への転記は合意されているので、まずは転記しておきます。ただし、議論の結果次第ではまたこの記事に復旧する可能性もあります。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年3月1日 (水) 16:36 (UTC) |
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:::::{{コメント|注意}} 「議論も長くなりそうですから」じゃなくて、きっちり「合意でいいですか?」「いいですよ」のキャッチボールをしてからやってください。編集の強行と変わりありません。--[[利用者:アルトクール|アルトクール]]([[利用者‐会話:アルトクール|会話]]) 2017年3月1日 (水) 16:58 (UTC) |
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*{{コ}} 近現代の政教分離については[[政教分離原則]]に主に加筆されたらどうですかね(アメリカの独立宣言以降、フランス革命以降など、国ごとに政教分離が明確化した時代以降でもかまいません)。[[政教分離原則#歴史]]も独自研究の状態なんですけど、重複になってます。これぜんぶ、「政教分離」という視点でまとめるより、17世紀以前の、宗教と政治が深く結びつき合ってた時代のことは[[宗教改革]]にまとめたほうがいいと思うんですが。その時代に、政教分離という概念はないですよね? どうも、「政教分離の歴史」と言い切ってるのは全体的に独自研究だなという印象を払拭できませんよね。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月1日 (水) 17:06 (UTC) |
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*いや、当記事の基本的な問題点は「執筆方針の視座が独自研究になっていること」なんですよ。霊性史(唯物的史観ではなく心のありようのつながりに焦点を当てた史観とでもいうもの、当記事の場合ですと教会にとっての国家論とでもいった視線)を基礎においており、こういう視点での研究は外部の信頼できる場所でおこなう分にはかまわないのですが、wikipediaは研究機関ではなく、あくまで「すでに現存する・信頼できる情報源をもとに執筆された・百科事典」ですので、霊性史史観からの執筆にはそもそも無理があるんです。というより底本がない。霊性史史観で執筆を始めると関係のありそうな事例をぜんぶ集めてくることになりますので、結果として当記事のような状態になっているのだと考えます。そうではなく「信教の自由のための制度的保障」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」(中山勉)を基本軸に、信頼できる3次情報から執筆してきて、2次情報で肉付けしていく方針をとれば視座が定まると思うのです。最初にどのような方向性で執筆してゆくかは、どういう情報源をコレクションしていくかに関わってくるので重要です。当記事と「政教分離>歴史」での役割分担については、あくまで「政教分離>歴史」は概要、こちらが本体という関係であって共通部分があってしかるべきです。--[[利用者:大和屋敷|大和屋敷]]([[利用者‐会話:大和屋敷|会話]]) 2017年3月1日 (水) 17:59 (UTC) |
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*政教分離原則とその制度的実現の歴史と国家機構と宗教組織の分離としての政教分離の歴史は関連がありますが、基本的に後者が長い過程を経てヨーロッパで実現され、前者はその成果にすぎないという点について本論でも明確に示されておりますし、この点については繰り返し3次情報まで示して歴史学界内の共通理解であるという点はすでに示しました。両者を混同している議論がここまで延々と繰り返されているのですが、はっきり言って無意味です。霊性史史観という言葉は寡聞にして聞きませんが、良心の自由・信仰の自由という問題も西ヨーロッパで独自に発展し、歴史学的には国家機構と宗教組織の分離とお互い影響を与え合い、一体とした形で進行したという点についても共通理解が成立しております。その際議論の核心となるキリスト教的な良心のことを一般的な良心とは異なるために特に霊性という神学的な言葉で言い表すのは慣行に過ぎません。霊性という言葉が気に入らないということであれば、それを「キリスト教的な良心」で置き換えて差し支えないものです。中山勉さんの論の引用箇所は直接的に現代の制度的政教分離を問題にしていることが明らかですから、果たして政教分離の歴史全体を見渡すものとして基礎に置くのにふさわしいのか、そもそもこれまでの議論で中山勉さんの文献は提示されてもおらず、突然もってこられてもそれをどう評価して良いのかは判断できかねます。それと政教分離という記事は現在なく政教分離原則へのリダイレクトになっており、あるのは政教分離原則の記事です。国家機構と宗教組織の分離という意味の政教分離と近代国家の一装置としての政教分離原則とその制度は概念として異なるものですから、政教分離原則の歴史節と政教分離の歴史記事が直接的にどちらがどちらを包摂する関係にあるということはないはずです。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:F624:42D:8F80:D852:D29D|2001:268:C068:F624:42D:8F80:D852:D29D]] 2017年3月2日 (木) 02:15 (UTC) |
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{{コメント}}文献について3点ほど。一点目。本記事の「[[ヨーロッパにおける政教分離の歴史#文献案内|文献案内]]」節は、詳細で後学の人の調査研究に資するところは大きいと思いますが、ちょっとボリューム的に肥大化しすぎているので、普段は隠すような仕様にできないかなと思います。もし、御存知の方がいたらぜひ御紹介お願いします。二点目。「文献案内」節に掲載されている古代・中世史関連の文献の扱いですが、本記事は分割してしまったので本記事が現状で扱っている時代とは直接関係がなくなってしまいました。これを移転したり削除したりしていいか。そのお伺い。三点目。これは、お願いですが、本文加筆執筆で参照した文献は、なるべく「[[ヨーロッパにおける政教分離の歴史#参考文献|参考文献]]」節の方に(「文献案内」節じゃなく)書誌情報を掲載していただきたいということ。以上、3点よろしくお願いします。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月17日 (月) 13:26 (UTC) |
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== 分割提案その2 == |
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2017年3月1日 (水) 07:27 (UTC) に「政教分離における歴史学的視座」節が加筆されました。例えば、この節を本記事の核にして、本記事をあくまで政教分離史の概略にとどめる、というのはどうでしょう。上述のふたつの政教分離のそれぞれについては本記事においては概略にとどめ、二つの記事に分割するというものです。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月2日 (木) 07:39 (UTC) |
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:仲介の労をとってくださっている[[利用者:Susuka|Susuka]]さんにまず感謝を。さて、基本的には分割という形での解決は望みません。というよりすでにしてその必要はなくなったように思われます。こちらの記事は歴史学的な政教分離の歴史を扱っており、政教分離原則の歴史ではないという立場を明確にし、「政教分離における歴史学的視座」節の信頼できる文献からの加筆によってそれを明確化しました。政教分離原則自体に関わる歴史については政教分離原則記事の歴史節があり、すでにそれぞれの概念はウィキペディア上で併存両立可能となっております。こちらを歴史学的内容でブラッシュアップした以上、内容の一貫性と独自研究の疑惑についても問題が解決されたと思われます。むしろ分割するならば、歴史学的政教分離論の立場での問題提起が求められますが、現状で歴史学的政教分離論の出典や文献を挙げての議論は一切なされていません。現状の政教分離原則視点の分割提案自体はそもそもの根拠がなくなっているように思われます。そして政教分離原則との混淆著しい議論がさらなるブラッシュアップを不可能にしていることがありますが、その原因は「政教分離の歴史」という記事名の「政教分離」の部分にあることは明らかなので、「聖俗分離の歴史」あるいは「歴史学における政教分離」、「政教関係の歴史」に変えるなど現状内容に即した適切な改名処理などは必要とは思われます。政教分離の考え方とその制度には多くの学問分野が関わっているために、政教分離という言葉に引きずられて本来の国家と宗教の機構的分離という歴史動態的意味に集中することが困難だからです。現在において政教分離というワードに言及する文献の大多数は政教分離原則をその直接の対象としているという当然の事実からも今後もそうした議論の混乱が起こることは予想されます。さて、分割という点に関しては以前詳しく述べたように歴史学的な関心の広がりを考えますと、詳しい各論の記述は読者の便にも必要と思われます。それは歴史学が個別研究の総体として全体的な概説を構成するという学問的な性質によっても細部にこだわるものだからです。またこの政教分離の過程は10世紀近くにわたる動態像として提示されているもので、さらに先行する政教一致的事象動態も含めるとキリスト教成立以来現代までの2000年史を包含することになります。法思想史、政治思想史、政治神学的研究と歴史学のこの分野の交流は広くかつ濃密で、用語上の統一性など分かちがたく、そうした各論的広がりをおぼろげながらでも提示するのがこの記事の趣旨のように思われます。もちろん分量的な問題などは観点としてまた別ですが。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D|2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D]] 2017年3月2日 (木) 10:05 (UTC) |
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*{{コメント}} では分割ではなく、『[[政教分離原則]]』および『[[政教分離の歴史]]』の両記事の更に上位記事として『[[政教分離]]』(仮称)などという記事が必要ですね。「【政教分離】という言葉には、歴史学的なものと、現在のいわゆる【政教分離原則】の二つの意味がある。現在【政教分離】が意味するのは後者であるが、本項では【政教分離】が二つの意味を持つことを概説する」などという記事はいかがでしょう。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月2日 (木) 10:32 (UTC) |
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::ここでの議論の混乱ぶりを踏まえますと、新たに『[[政教分離]]』という記事を作るのはまた大変そうで、また混乱が生じそうなので、現在ある『[[政教分離原則]]』の「歴史」節付近に「国家とキリスト教会の歴史的な機構分離については『[[政教分離の歴史]]』を参照とのこと」という形での案内を加えるのがよいかなと思っております。で、『[[政教分離の歴史]]』は政教分離原則そのものを意識させない記事名にして混乱を防ぐのが読者の益になるという観点です。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D|2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29D]] 2017年3月2日 (木) 10:42 (UTC) |
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*{{コメント}} では、最初に記事の解明を行うのがよろしいですね。記事名については、2001:268:C068:E414:42D:8F80:D852:D29Dさんに提示していただきたいです。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月4日 (土) 11:02 (UTC) |
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:文献案内は補助的なものですが、あっても悪いものではないと思います。見たい場合は見れるように隠してもいいと思いますし、分量肥大についてはご指摘の通りで、中世についてはあちらへ移動していいと思います。削除の必要はないと思います。書誌情報の明記は意識するようにします。明日以降、時間をみつけて中世への移動はします。--[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]] 2017年7月17日 (月) 14:47 (UTC) |
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*{{コメント}} 「政教分離における歴史学的視座」節は、ますます独自研究の分量が増えただけのことですよね。初めのほうは、[[エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデ]]の主張をもって、定説であるかのように記述されてますが、不適切でしょう。「政教分離」誕生以前は[[宗教改革]]の概念の一部に過ぎず、これを政教分離の歴史、と勝手に位置づけて自分の主張に合う学説だけを出典にされるなどは、Wikipediaで行うべきことではないでしょう。妥当な対処としては、大まかな分類でいうと、前半を[[宗教改革]]へ統合、後半を[[政教分離原則]]へ統合、関連する各学者の主張は主張として記述、となるでしょう。現状、重複記事になってるだけですね。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月4日 (土) 16:08 (UTC) |
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:政教分離の歴史を語る際に、494年まで遡る必要あるんですかね? 「政教分離の歴史」に関する文献で、494年から遡って述べてるものってあるんですか? ないなら、単なる独自研究であることが明らかになったと言えるでしょう。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月4日 (土) 16:11 (UTC) |
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:{{返信}} Moon.riseです。Greenland4さんへ。文献案内の節に折り畳み(二段階折り畳み)を追加してみました。--[[利用者:Moon.rise|Moon.rise]]([[利用者‐会話:Moon.rise|会話]]) 2017年7月17日 (月) 17:58 (UTC) |
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*【ぽてからさんへ】[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんのおっしゃっていることは近代的な[[政教分離原則]]と機構上および思想史上の国家と教会の分離過程としての[[政教分離]]を混同した議論で、そもそも前提が成り立っていません。ここの議論で延々と繰り返されてきた単なる誤解か常識論です。この記事が「政教分離の歴史」という記事名でなければそもそも成り立たない、そんな言葉遊びのような議論です。ですから今の議論の改名していくという流れであれば、もはや問題にならないと思われます。そして、ご批判の記事内容についてですが、ベッケンフェルデとそれを継承した山田欣吾の議論はいまや歴史学の概説書(たとえば『ヨーロッパの歴史と文化('09)』)においても言及される基本的な考え方で、すでに本議論の間に歴史学上の主要研究文献での言及とその継承が確認されているので、一学者の整理ではありますが、単なる一学者の説で無視され共有されていないとか評価未定で特筆するに当たらない、というものではありません。そもそもこうした議論は[[マックス・ヴェーバー]]以来の近代化論の系譜にもあり、ベッケンフェルデも彼自身が従来の常識を塗り替える新説を形成したわけでなく、ヘルマン・リュッペらの先行学説を整理して提示したというのが一般的な理解です。その点についてはすでに[[特別:投稿記録/121.107.209.16|121.107.209.16]]さんが示した文献においても確認されています。そのうえで思想史上の問題にもなりますから、494年に遡る云々については実際上その種の議論は意味がないと思われます。いくつかの画期を設定することに反対するわけではなく、実際画期はありますが、こうした議論はいつから明確に国家と教会の分離は始まったということは事件としては示せても、その背景思想や社会状況を含めると、いつという部分は明確には定まりません(とはいえ、自然法論など一部分野を除いていまのところキリスト教誕生以前に遡らないことは確かです)。少なくとも歴史学的議論は政教分離に関連してすでにキリスト教迫害史(政教分離なしで信仰の自由に至った)や初期ビザンツ帝国の教会政策との比較国制史にまで踏み込んでいます。それは近代政治史における有名ななぜ国家的枠組みにおいては国民性が先行していたように思われる東欧ではなく、西欧で近代化が典型的に進展したのかという議論(飯田芳弘さん)に関わりますし、最近上梓された阿部俊大さんのスペインにおける国家形成を問う研究(『レコンキスタと国家形成 アラゴン連合王国における王権と教会』)などもあり、歴史学的には関係学問分野も巻き込んだメジャーな議論で一学者が独立して展開しているというものではありません。そもそもが政教分離という言葉が本来は国家(的な政治秩序)と教会(的な宗教道徳的秩序)の分離をいうのですが、近代国家の政治的装置として国家とあらゆる宗教組織を原則的に分けるべきとする政教分離原則のイメージが強く、現代社会においては両者の議論は一体なので区別されません。しかし歴史的には今日のような制度的政教分離が行われている社会は稀なので、その歴史過程は特殊ヨーロッパ史的に政治秩序と教会倫理の分離過程、国家機構と教会組織の分離過程として理解されています。あくまでベッケンフェルデ=山田欣吾的「教会国家論」は学界で現在最も定着しているのでそれを挙げているだけで(とはいってもほかの説を第一に挙げることは不適当と思われますが)、個別各論ではそれに修正を加えた五十嵐修さんの「キリスト教帝国」論や千葉敏之さんの伝道王権論などを取り上げていくというのがよいと思われます。個人的には[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの「独自研究」に関する方針理解には些か問題があるように思われます。独自研究とはまだ信頼できる文献に発表されておらず検証可能性を満たしていないか、検証可能でも一般的に受け入れられてはいないと思われる一次研究のことで、文献的に十分な2次的3次的裏付けのある本記事の冒頭部分を指して使う物とはとても思えません。 |
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::{{返信}} Moon.riceさんのおかげでだいぶスッキリしました。ありがとうございました。これくらいスッキリしちゃうと、中世への移動は必要ないかもしれませんね。--[[利用者:Greenland4|Greenland4]]([[利用者‐会話:Greenland4|会話]]) 2017年7月18日 (火) 02:22 (UTC) |
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*【Susukaさんへ】ぽてからさんのような誤解が絶えないと思われますので、政教分離ではなく、「聖俗分離の歴史」への改名が適切と思われます。理由として聖俗という言葉は特殊キリスト教会的な用語であり、そのため西ヨーロッパ史に特殊に関わる歴史記事であることが明確になること、政教分離原則との混同が起きにくいこと、聖俗分離とすることで政教分離原則や制度的政教分離に纏わる世俗的イメージが薄らぎ、思想史上の政教分離と親和的になることが挙げられます。同時に聖俗分離という形で地域的限定を直接的に設けなければ、時代を超えて広がりつつ研究の現状を踏まえて当然衝突することが予想される時空的限界を緩和できると思われるからです。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26|2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26]] 2017年3月4日 (土) 17:35 (UTC) |
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*{{コメント}} 上述の議論を見た限りでは、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんとぽてからさんは、「現在の本記事の記事名と内容が一致していないので、現状を変更することが望ましい」という点では一致していますね。2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんは『[[聖俗分離の歴史]]』への変更、ぽてからさんは『[[宗教改革]]』との統合が望ましいと主張されています。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月4日 (土) 17:51 (UTC) |
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::率直に言って、私には[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの「『政教分離』誕生以前は宗教改革の概念の一部に過ぎず」というところは全く理解できません。そして本記事の内容は宗教改革については後半部で扱うだけですし、宗教改革がグレゴリウス改革まで遡る、あるいはそれと同質であるという理解はちょっとなじみがありません。むしろ従来その意義を強調されすぎた宗教改革に対して、グレゴリウス改革を含めた12世紀革命がむしろ強調されて提示されているというのが現在の学界の共通理解に近い(たとえば千葉敏之ら『ドイツ史研究入門』)ですし、はっきり言って文献的にしっかりとした根拠があるのか非常に怪しいです。気分で論じているような雰囲気を感じます。たとえば古典的な研究である野口洋二『グレゴリウス改革の研究』はまさに宗教改革に目がいきがちな歴史論を批判し、グレゴリウス改革にこそ独立した大きな意義を認めるべきという研究の流れを振り返っていますし、この視点は同じく邦文におけるグレゴリウス改革の中心的研究である井上雅夫『西洋中世盛期の皇帝権と法王権』ではすでにもはや当然のこととして、宗教改革など話にも出てきません。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26|2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26]] 2017年3月4日 (土) 18:09 (UTC) |
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*{{問}} 12世紀革命が強調されつつあるというのは、「宗教改革」の重要度が相対的に弱くなった、ということですか?たとえば、「"宗教改革"の定義が(扱われる時代的に)変化(あるいは前倒し)されつつある」という側面はないのでしょうか。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月4日 (土) 18:37 (UTC) |
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::宗教改革は宗教改革で別個の歴史事象です。はっきり言ってしまえば、宗教改革は活版印刷術の発明が前提とされており、歴史学的理解において、活版印刷術の発明なしで宗教改革に触れることは出来ません(アンドルー・ペティグリー『印刷という革命』)。この一点をもってしても基本的にグレゴリウス改革とは本質的に異なるものですし、その他の相違点はベッケンフェルデが論じているとおりです。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26|2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26]] 2017年3月4日 (土) 18:45 (UTC) |
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::(補足)思想史においても、たとえば自然法と神法の区別などは宗教改革ではかなり常識となっていますが、グレゴリウス改革期のグラティアヌス教令集では自然法=神法と捉えられています。この相違には理由があり、間にスコラ哲学による自然法論の進展が挟まっております。宗教改革とグレゴリウス改革ではその思想的状況も社会状況も全く異なっており、どちらも教会の改革を目指しているというかなりおおざっぱな外面は似ていても、実際に争われた論点や目標、問題関心、歴史的進展は全く異なっていますから、これを同質あるいは一連のものとしてひとくくりにする議論には率直に言って相当の無理があります。宗教改革はすでに政治秩序と宗教倫理の分離が相当程度進んだ思想・社会状況と活版印刷術の発明という決定的な変革を前提にした歴史事象で、国家と教会の未分化という問題と直面していたグレゴリウス改革とは全く異質です。--[[特別:投稿記録/110.132.106.234|110.132.106.234]] 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26|2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26]]のものです--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7|2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7]] 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)) |
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== 「ピエール=ジョセフ・セレスティン・フランソワ」 == |
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== 記事の内容整理の提案 == |
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(新たにセクションを作成--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月4日 (土) 19:52 (UTC)) |
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*{{コメント}} わかりました。では、現在の記事の記述のうちどこを残し、どこを転記させるか(その転記先はどこか)を、2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26さんに具体的に提案していただけないでしょうか。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月4日 (土) 19:13 (UTC) |
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::基本的に日本は関わりないので削除します(すでに政教分離原則記事にほぼ同内容がありますので、転記の必要なし)。それと政教分離原則成立後の近現代については、政教分離原則それ自体に関わる現在の記述はすべて転記か削除。残りはブラッシュアップしてなんとかドイツ国制史上の政教分離が定まったと一般に理解される1803年まで記述をつなげるのが目標と思われます。--[[特別:投稿記録/110.132.106.234|110.132.106.234]] 2017年3月4日 (土) 19:34 (UTC)(IPが変わりました。以上の発言は[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26|2001:268:C068:C188:9C30:F6C1:69A6:9A26]]のものです--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7|2001:268:C068:C188:7467:B2EF:201B:67F7]] 2017年3月4日 (土) 19:57 (UTC)) |
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*{{コメント}} [[特別:投稿記録/110.132.106.234|110.132.106.234]]さんより、本記事の整理方針についての具体的な提案が出されました。[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんをはじめ、他の議論参加者の皆さんの意見を待ちたいと思います。--[[利用者:Susuka|Susuka]]([[利用者‐会話:Susuka|会話]]) 2017年3月4日 (土) 19:52 (UTC) |
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*{{コメント}}:日本は完全に重複であり削除で良いでしょう。政教分離原則成立後の近現代については、[[政教分離原則#歴史]]に統合し、あとは統合先で整理すれば良いでしょう。[[政教分離の歴史#近代社会とキリスト教(1500年~1800年)]]は[[宗教改革]]へ統合すべきでしょう。それ以前は独自研究で削除でもかまわないんですけど、{{IPUser|121.107.209.16}}さんが分割された通りでいいんじゃないですかね。この分割行為は概ね適切だったと思いますね。新たに加筆された[[政教分離の歴史#政教分離における歴史学的視座]]については、[[世俗主義]]もイマイチですし、[[エルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデ]]の主張は個人記事へ転記してはいかがですかね。それ以外は、一部は[[霊性]]に転記できなくもないですが、削除でもかまわないでしょう。[[聖俗分離]]という記事もありませんが、独自な視点の寄せ集めを「聖俗分離の歴史」という記事名としたところで、[[WP:NOT#OR|独自の考えを発表する場]]になるだけですね。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月4日 (土) 21:21 (UTC) |
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::ここまでの議論でご指摘の部分が2次3次の文献から確認でき、独自研究でないということはかなり明らかになっていますが、そうした議論を無視して独自研究であるとする[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの意見にはいまのところ全く文献的な根拠がありません。方針文書を適切に解釈されているとは思えませんが、ご自身の主張についてしっかりと文献で示すことが出来ますか?はっきり言うと[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの主張は以前詳しく申しましたように根拠がないことをいつも思いつきでおっしゃってごねていらっしゃるようにしか思えません。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:C188:BDD6:6713:7688:2CE0|2001:268:C068:C188:BDD6:6713:7688:2CE0]] 2017年3月5日 (日) 01:57 (UTC) |
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*{{コメント}} 2次3次の文献から確認できたのは、やはり、現状、この記事は独自研究の状態でしかないってことですよね。中立的な観点を守って書かれればそれなりになる可能性はあるのに、これは絶対だ、と100%信じ込まれて、学説を学説として書かないなど書き方の問題も大きいんですよ。内容整理についてですが、まず、合意形成できそうな近現代の移動と、古代を中心とした無出典箇所の除去等、できるところから始めるほうが手っ取り早そうですね。現時点では完全に独自研究なんですけど、余計なところをそぎ取らないと議論がしにくいです。冒頭部からして、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」ってどう考えてもおかしいですよね。「ヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に」っていうか、キリスト教の教会と国家の関係性以外のことは不要じゃないんですか。だいたい、政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。まず、政教分離原則関連は移動、出典なしは除去、という内容整理を優先させて、残ったところをどうするかって議論にしませんか。そうすれば、[[政教分離の歴史#近代社会とキリスト教(1500年~1800年)]]は[[宗教改革]]との重複でしかないことがわかりやすくなるでしょう。--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月5日 (日) 08:45 (UTC) |
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::なんていうか全然わかってないですよね。まず独自研究の方針文書は信頼すべき文献からの記載を独自研究から明確に除外しており、認めております。そのうえで学説として書かない云々については、「政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する」という記述が、要はここに書かれている内容は歴史学的な学説に基づいて歴史を述べるんですよという意味です(この日本語難しいでしょうか)。「政教分離を論じる際に、教会成立以前のイエスやパウロの思想から記述する必要も全くないですし。」についてはすでに[[利用者:ぽてから|ぽてから]]さんの個人的感想でしかありません。要はぽてからさんの意見は一言で言うと「根拠はないけど、なんか独自研究だと思う」という個人的感想でしかなく、記事の発展に何ら資するものではないと思われます。さすがにここまで方針文書を恣意的に解釈されてしまうと、私としては呆れるしかないというところではあります。ほかでも類似の議論を展開していらっしゃるようですが、ご自覚なさっていらっしゃいますでしょうか。[[宗教改革]]との重複うんぬんとかについては文献的な裏付けも全く示されておらず、もはや何を言ってるのかわからないというのが私の述懐です(宗教改革が1800年まで続いていたと言いたい?以前はグレゴリウス改革を宗教改革に含めるというような別の奇抜な主張をしていらっしゃったと思いましたが、変わりました?)。--[[特別:投稿記録/2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527|2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527]] 2017年3月5日 (日) 09:07 (UTC) |
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{{コ}} 宗教改革が1800年まで続いていたとかいつ言いましたか? [[グレゴリウス改革]]を[[宗教改革]]に含めるなど言った覚えはありませんね。そのあたりは基本的に、[[グレゴリウス改革]]と重複記事になってるだけで出典もあまりないので除去で良いだろうと思って言及してなかっただけです。まあ、出典なしは除去してから、内容の話をしましょう。今の状況ですと、この記事は独自研究で削除したほうがいいくらいなんですよね。「政教分離における歴史学的視座」なんて節名で加筆された時点で、内容もあわせて完全に独自研究なわけなんですよ。 |
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{{Quotation| |
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[[WP:NOTTEXTBOOK|ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません]] |
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「ピエール=ジョセフ・セレスティン・フランソワ」(Pierre Joseph Célestin François)についてですが、[http://id.nii.ac.jp/1219/00000211/ セレスタン・ナントゥイユ Célestin Nanteuil]という表記があるのを見ると、「セレスティン」より「セレスタン」が適切ではないでしょうか。これ以上の知識はないので、コメントに留めますが。 --[[特別:投稿記録/163.49.215.38|163.49.215.38]] 2017年12月16日 (土) 09:14 (UTC) |
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ウィキペディアは百科事典的な参照資料であって、教科書ではありません。ウィキペディアの目的は事実の提示であって、主題について教えることではありません。}} |
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「政教分離における歴史学的視座」をいきなり持ってこられたことで、完全に「歴史学的視座」について教えるぞという内容になってしまってますよね。そうではなくて、このような学説がある、と学説を紹介(事実の提示)するのが、Wikipediaなんですよ。独自研究という概念を独自に解釈されているためだと思いますが、百科事典ではなく、教科書か学術レポートの一種になってしまってますよね。歴史学の課題レポートとして、この内容を提出されたら及第点を取られるくらいに良く書けているとは思うんですけど、百科事典的とは到底言えないという、この違い、わかっていただけませんかね? 「政教分離における歴史学的視座」などについては、編集対応によって百科事典的にできればいいんでしょうが、2001:268:C068:D7DE:30BD:B412:7D0D:9527さんが、独自研究ではなく中立的な観点に書き直すことができるかどうかにかかってますね。このままであれば、ケースEで削除依頼提出とするしかないでしょう。[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか]]も読まれてください。内容整理に関するコメントからズレてきてるみたいですが、まず、「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」をするだけで、わりとスリムになるんじゃないですかね。まずはじめに集中的に「政教分離原則関連は移動、出典なしは除去」を行うべき、ということについてコメントされてませんが、反対する理由はありませんでしょう?--[[利用者:ぽてから|ぽてから]]([[利用者‐会話:ぽてから|会話]]) 2017年3月5日 (日) 14:12 (UTC) |
2022年3月29日 (火) 15:52時点における最新版
ここは記事「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
この記事は論争のある話題を扱っています。記事に重要な変更を加える際にはその前にまずここで議論してください。また、情報を追加する際には完全な出典を明記するようにし、出典のない/ありそうにない情報はタグをつけるか除去することを検討してください。 |
この「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2006年10月10日 | 月間新記事賞 | 良質な記事自動選出 |
2. | 2007年2月25日 | 秀逸な記事の選考 | 不通過 |
3. | 2010年11月22日 | 良質な記事の選考 | 選考無効 |
4. | 2017年7月4日 | 良質な記事の再選考 | 除去 |
|
出典検索?: "政教分離" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · ジャパンサーチ · dlib.jp · ウィキペディア図書館 |
過去ログ一覧 |
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報告&改めて提案
[編集]報告
[編集]- 「1 政教分離における歴史学的視座」にコントアウトを付し、
- 「2.2 古代のキリスト教思想(〜500年)」を「初期キリスト教」に移動し、
- 「2.3 キリスト教普遍世界(500年〜1500年)」を「中世ヨーロッパ」に移動しました。--Greenland4(会話) 2017年6月23日 (金) 10:47 (UTC)
- 確認 合意部分の編集、ありがとうございます。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年6月23日 (金) 11:29 (UTC)
- 確認Greenland4さんの編集を確認するとともに、全面的に支持します。--硯箱(会話) 2017年6月23日 (金) 11:37 (UTC)
- 確認 編集ありがとうございます。正直このノートで話してきた事が全部無駄に終わるんじゃないかと不安でしたw。--TEN(会話) 2017年6月23日 (金) 12:35 (UTC)
- 確認 Greenland4さん、おつかれさまです。ありがとうございます。--Moon.rise(会話) 2017年6月23日 (金) 12:46 (UTC)
- 確認 移動編集ありがとうございます。--121.107.209.16 2017年6月23日 (金) 15:41 (UTC)
- 確認 ありがとうございます。書式の微調整などを行いました。不備が見つかりましたら、修正をお願いします。残った案件は記事名の確定と、フランス革命などの追記(「竜頭蛇尾」状態の克服)でしょうか。記事のラストをどの部分にするのかも検討が必要ですね。--Susuka(会話) 2017年6月23日 (金) 15:50 (UTC)
関連する質問・提案・報告等
[編集](サブ節化させていただきました) --Greenland4(会話) 2017年6月24日 (土) 15:45 (UTC)
(質問と提案)横からすみません。前回の改名提案の手続きはいつだったのでしょうか。Wikipedia:改名提案をみても探すことができませんでした。今回の分割提案はSusukaさんがやってくださって助かったのですが。もし、手続きをしていないのだとしたら、いったん分割前の名称「政教分離の歴史」に差し戻すべきではないでしょうか。そのうえで、あらためて「キリスト教国家論の歴史」など、正式に改名提案をおこなうべきではないかと思いますが、いかがでしょうか。--Greenland4(会話) 2017年6月24日 (土) 13:12 (UTC)
- Susuka(会話)さんが2017年3月11日 (土) 17:20に提案されています。その後、議論停止案件で除去されました[1]。大和屋敷さんの「キリスト教国家論の歴史」の改名提案は 2017年5月27日 (土) 12:09です。--121.107.209.16 2017年6月24日 (土) 13:39 (UTC)
- 返信 そうでしたか。過去ログはまったく見ていないのでトンチンカンな質問をしてしまいました。御丁寧な返答、ありがとうございました。提案を取り下げます。--Greenland4(会話) 2017年6月24日 (土) 13:44 (UTC)
- Susuka(会話)さんが2017年3月11日 (土) 17:20に提案されています。その後、議論停止案件で除去されました[1]。大和屋敷さんの「キリスト教国家論の歴史」の改名提案は 2017年5月27日 (土) 12:09です。--121.107.209.16 2017年6月24日 (土) 13:39 (UTC)
- 報告 本記事分割前の中世部分=新記事「中世ヨーロッパ」について、改名提案をおこないました。議論はノート:中世ヨーロッパにて。--Greenland4(会話) 2017年6月24日 (土) 13:35 (UTC)
- 報告 本記事についてWikipedia:改名提案にて改名の手続きをおこない、記事冒頭に通知タグを添付しました。--Greenland4(会話) 2017年6月24日 (土) 15:45 (UTC)
- 報告 本記事分割前の中世部分について、ノートでの合意が成立し、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」への改名作業をおこないました。--Greenland4(会話) 2017年7月1日 (土) 18:32 (UTC)
- 報告 レス・プブリカを作成しました。 レス・プブリカ・クリスティアナも作成予定です。--121.107.209.16 2017年6月25日 (日) 13:59 (UTC)
- コメント 121.107.209.16さん、新記事作成お疲れ様です。そして、ありがとうございます。上でYuukin0248さんもおっしゃっていますが、「要出典」タグ、「独自研究」タグが異様に貼られていて、本記事、「初期キリスト教」、「中世ヨーロッパ」(「中世ヨーロッパにおける教会と国家」に改名を提案中)、いずれも、よく練られた素晴らしい文章であるにもかかわらず、可読性がおおいに損なわれています。こういうタグが貼られてしまうと、どんなによいことが書いてあっても「文字列」にしかみえないような人も出てきてしまうので、実に不毛で情けない話です。これは、本改名提案とは別に今からでも着手できることであり、また、緊急に取り組まなければならないことでもあります。今は、出典に関しては以前より厳しくなっていて、極端な話、一つの文につき一つ以上の出典をつけなければならないような状況ですので、そのあたりもお含みいただいて、各自、可読性の向上に御協力くださいますよう、よろしくお願いいたします。--Greenland4(会話) 2017年6月26日 (月) 00:29 (UTC)
- 言葉足らずでした。121.107.209.16さんには、分割後の2記事について「正確性」タグの除去などの作業をしていただいており、可読性が格段に向上しております。上のお願いは主として本記事にかかわることです。検証可能性に関しては、山川出版社の「宗教の世界史」シリーズなどでも相当補えるものと思います。
- 松本宣郎『キリスト教の歴史(I)』山川出版社〈宗教の世界史〉、2009年8月。ISBN 4634431386。
- よろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2017年6月26日 (月) 00:56 (UTC)
- 言葉足らずでした。121.107.209.16さんには、分割後の2記事について「正確性」タグの除去などの作業をしていただいており、可読性が格段に向上しております。上のお願いは主として本記事にかかわることです。検証可能性に関しては、山川出版社の「宗教の世界史」シリーズなどでも相当補えるものと思います。
- その「要出典」は多くは私が付与したものですが、それは硯箱さんとの対立的な議論のなか、「そこまでいうなら出典くらい明記してください」という思いを込めて付けたものでした。しかしそれも過去の話で、分割が実現できましたので協力します。本音からいえば、山川各国史などで出典を明記することなど容易であったのに、硯箱さんが学会で一流と認知された学者の出典に厳密に依拠するべきだといった議論にもっていかれ、私もそれに感情的に反応したためにここまで長くなったのだと思います。勉強になりましたので、今となっては有益であるとは思えますが。--121.107.209.16 2017年6月28日 (水) 15:52 (UTC)
報告「政教分離の歴史」のテンプレート]をつくっておきました。この記事のタイトルがどうなるかは別として、テンプレートくらいは必要だと判断しました。最低限、121.107.209.16さんのつくってくださった「イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史」の記事には貼るべきと考え、貼っておきました。他の記事への貼付はいましばらく待った方がよいと思いますので、今は、それだけにとどめておきます。--Greenland4(会話) 2017年7月1日 (土) 00:32 (UTC)
- 本節を移動しました。--Greenland4(会話) 2017年7月1日 (土) 19:54 (UTC)
改めて提案
[編集]- 提案 みなさま、御確認ありがとうございました。図らずも無知浅学で我がまま気まま、礼儀知らずな私が、分不相応にもかかわらず進行役のようなかたちとなり、みなさまにたいへん不愉快な思いをさせてきたのではないかと思います。数々の不行き届きの段、お許しください。水に流していただけると幸いです。とくに硯箱さんには大変無礼なことを申し上げました。重ねてお詫び申し上げます。さて、前回提案の(1)~(6)のうち、前節報告のコメントアウトおよび移動編集によって、(1)~(3)は解決したことになります。121.107.209.16さん、Susukaさんには移動後の書式調整など御尽力いただきまして、ありがとうございました。移動後の各記事をみれば、いかにこの記事が精魂込められた素晴らしい記事であるかがわかろうかと思います。実は「初期キリスト教」「中世ヨーロッパ」ともにそれぞれ幅広い対象を扱う壮大な記事であり、古代史・中世史に詳しい方々から磨きがかけられ、さらに良い記事になっていくのではないかとおおいに期待されるのであり、各記事「再生」の場に立ち会えたこと、嬉しく思います。のこるは(4)~(6)、言い換えれば、「記事名」と「時代」ということですが、議論を通じて「空間的広がり(地域)」が新たな論点として浮かび上がったという段階ではないかと思います。「記事名」「時代」「地域」は、それぞれ互いに深く結びついており、これについては一連の御意見となろうかと思います。一挙に全部と欲張らず、とりあえず「記事名」にしぼって話を進めたらどうでしょう。少し整理をさせていただくと、
- A 改名せず(「キリスト教国家論」を維持)
- B1 記事名「政教分離の歴史」(全世界を対象)
- B2 記事名「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象)
- B3 記事名「政教分離成立の歴史」
- B4 B1~B3以外で「政教分離」を使用した記事名
- C 「政教分離」を使用しない記事名
このなかから選ぶということにしたら、いかがでしょうか。ここで気をつけたいのは、《「政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象)》は候補から外したいということです。これは騒動のもとになりますから、これだけは避けたい。そして、議論が長引いた場合でも、少なくともAではない=おそらくBのどれかになりそうということになったら、その段階から編集可能としてもよいのではないかと思います。--Greenland4(会話) 2017年6月23日 (金) 18:41 (UTC)
- 提案 (追加)差し出がましい提案かもしれませんが、いったんGA(良質な記事)は返上したらどうかと思います。おそらくは中世部分が評価されたうえでのGAだろうと思うので。ノートで完全合意が成立したら、そのときあらためてGAなりFAなりを目標にしたらよいのではないかと思います。共通の目標ができたら、かつての論争相手も編集協力者という関係に変化し、気持ちよくこの問題を終えることができるかもしれないからです。--Greenland4(会話) 2017年6月23日 (金) 20:03 (UTC)
- コメントでは、言い出しっぺから。B1~B3のどれでもよいと思います。B1が簡潔さと自由度においてすぐれていて、B2とB3は厳密さにおいてすぐれていますが、そういう意味ではB3が意外とよいのではないかと思います。書き手の誤解も少なく、読み手が予備知識ゼロでも記事名自体が政教分離(原則)の起源が欧米にあることを「教える」ものだからです。理想はB1で、「後史」部分を硯箱さんが書いてくださるとたいへん良い記事になるのではないかと思います。私は無理です(やる気も能力もありません)。ただし、そうなったとしても、「固有」論は、少なくとも記事のなかでは封印していただきたいと思います。いくら固有だと言っても、現実には言葉そのものが固有に使われていないので固有にならないということで、結局わからなかったです。この議論には向いていないと痛感しました。B2でもよいと思います。以下の議事進行はどなたかにお願いして、おいとましたく思います。--Greenland4(会話) 2017年6月23日 (金) 19:01 (UTC)(少し加筆)--Greenland4(会話) 2017年6月23日 (金) 19:20 (UTC)
- コメント まず、Greenland4さん、TENさんにおかれましては、歴史学的観点による硯箱さんの主張を解説・補強してくださり、合意形成を引き出して下さるなどの大きなお働きについて、深く感謝しているということを述べさせてください。また、Moon.riseさん、ジャム・パンナさん、Susukaさんなどの常識的な見地からの発言や素朴な疑問・発言なども、大変参考になりました。Yuukin0248さんの簡潔なまとめ、アルトクールさんのご仲裁、初期から議論にご参加され進行役も務めて下さった雅ハルカさんと大和屋敷さん、そして最初に改善を試みて下さり非常に面倒な文献調査をしてくださった121.107.209.16さんにおかれましては、それぞれがWikipediaの記事をよくするために多くの時間を費やされたことと思います。それについても感謝しかありません。硯箱さんにも、記事名の改名に反対しない旨を再びご表明いただきましたことについて感謝いたします。
- 現時点でいいと思う記事名は、
- B4「政教分離原則成立史」
- B4「政教分離」としてこの記事にして定義を書き歴史節を設ける(定義としては、意味は定まっていないとし、使用例を書くしかないでしょうが)
- B4「政教分離原則成立の歴史」
- B3「政教分離成立の歴史」
- B4「ヨーロッパにおける政教分離」としてこの記事が扱う範囲を定義部に記し歴史節を設ける
- 「ヨーロッパの教会と国家」
- B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」
- です。私は記事名に、「〜の歴史」とつけることに長らく反対の立場を取ってきました。理由としては、政教分離はときに政教分離原則、ライシテ、ライクリッキなどと同じ概念として使用されることがある言葉なので、「政教分離の歴史」だけだと「政教分離原則の歴史」などと勘違いされる恐れがあるからです。その点、「政教分離原則成立史」や「政教分離原則成立の歴史」であれば誤認はないんだろうと思います。「ヨーロッパの教会と国家」はそういう翻訳が多いと思ったためですが、Greenland4さんなどから「教会と国家」を見てどのように感じたかというコメントを拝見し、これも一般的にわかりづらい名前なんだろうと認識しました。また、121.107.209.16さんがイングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史を新規立項してくださったので、「政教分離の歴史」を複数記事に担当させて「政教分離の歴史」シリーズの一つという位置づけで「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」のようにしていくのも、利便性が高まるといえるでしょう。この記事に何を加筆できるのかがまだ定まってないので、多めに挙げておこうと思います。
- 硯箱さんが執筆された内容は、歴史学的知見に基づいていることが前提なのですが、「歴史学的知見」「歴史学的視座」というひと言で済ませてしまっては、Greenland4さん、TENさんのような深い知識をお持ちの方なら阿吽の呼吸で理解されるとはいえ、一般的には非常にわかりづらいんじゃないかと思ってます。一番分かりづらいのは、「歴史学的知見」に基づくと、なんで政教分離原則、ライシテ、ライクリッキと違う概念を指すことになるのか、ということじゃないでしょうか。これについては、硯箱さんの、狭義の政教分離がライシテ、ライシズムと同義として用いられるという発言で解決を見たと思います。当初から論点となってたのは、硯箱さんが主張されている「政教分離」は、一つの主張にすぎず、一般的には共有されてないために、それを一主張として記述するのはいいとしても、一般的には独自研究や雑多な記事の羅列にしか見えない、ということです。定義部には新たに、この記事における「政教分離」が、ライシテやライクリッキほどの狭義の意味を指さず、また、政教分離原則ほどの広義の意味を指さないということ、この記事において「政」が指す範囲と「教」が指す範囲等を簡潔に概説すべきじゃないかと思います。まあ、できれば硯箱さんが主張される「政教分離」の定義を執筆していただけると議論しやすくなるのですが、難しいでしょうかね。また、アメリカ合衆国やフランス革命以降の「政教分離」を政教分離原則#歴史のみで記述するなら、政教分離の歴史は政教分離原則#歴史へのリダイレクトがいいんじゃないかと思います。ちなみに、この議論の初期段階では、私はこの記事は「(中世)ヨーロッパの教会と国家」にすればいいと思ってましたので、アメリカ合衆国などは政教分離原則#歴史に書けば良いんじゃないの? と主張をしてたと記憶してます(履歴は見てませんがおそらく。文献で言うと『宗教の事典』でいう第三類型(アメリカ等)は政教分離原則にぜんぶ書けば良いという主旨の主張)。これらの分野について、(今後は硯箱さんが編集されないということなので)現時点で意欲的に執筆されてる121.107.209.16さんがどう考えられているのかも参考とさせてもらえればと思ってます。いったんGA(良質な記事)を返上し改めて目指すということについては、そのほうが良いでしょう。--ぽてから(会話) 2017年6月23日 (金) 21:16 (UTC)
- コメント新しいロードマップを提示していただきありがとうございます。横槍をいれてばかりで会話さんにはストレスをかけていると思いますが、冷静な対応と議論の方向性の提示に本当に感謝しております。以下、意見です。
- 歴史学的知見に基づいている、と言う表現が適切かはさておき、歴史分野に関連する書籍と照らして硯箱さんの書いている内容は総体的には違和感を感じるものでは無い、と言うのが個人的な感想ではあります(私の読む分野の本はちょっとこの記事の主題とは直接関わる領域の物ではありませんが)。長文からくる主張の分かりにくさや議論姿勢について思う所はありますが、主張されていることは独自研究と切って捨てることができるような突飛な話ではないという感想です。ただし、ぽてからさんの言われる通り、そして昨日買ってきた書籍にある通り、政教分離と言う単語自体が多義性のある単語であるため、当然のように教会と国家の分離現象と言う意味で使用しては一般的には意味が解らないと言う意見に同意します。
- その上で、私の意見としては以下です。(上にあるほど好ましい記事名であると思います)
- B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」・・・(この場合「政教分離の歴史」は曖昧さ回避のようなページになるのかなと思っています))
- B1「政教分離の歴史」(全世界を対象)・・・ただし冒頭に言葉の定義に関する簡潔な説明を設ける形式とするのが絶対条件
- また、反対の立場を述べるのは建設的でないかもしれませんが
- B3「政教分離成立の歴史」・・・(政教分離の多用な意味のうち、本記事の現状である「ヨーロッパにおける聖権と俗権の分離」と言う意味あいと適合しづらい名前に見えます)
- には個人的に賛成しづらいです(大多数の方がそれでまとまるなら、仕方ないかもしれませんが・・)
- A「キリスト教国家論の歴史」・・(一言で言って「キリスト教国家論」が一体何なのかがわからないです。この名前にもとづいてこの記事がどう編集されていくのか、「政教分離の歴史」よりわかりづらくなると思います)
- には明確に反対させてください。--TEN(会話) 2017年6月23日 (金) 22:06 (UTC)
- コメント 専門的な知識から提案やコメントをされたGreenland4さんをはじめ、皆様が記事の改善のために議論に参加していただいたことに感謝します。
- さて、記事名に絞って話を進めることと、GA返上に賛成します。
- GA返上は、ここまで分割が行われているのですから必然です。分割された部分や現在の記事は無出典が多いですから、それらを直した上でGAは可能だと思います(それにしても、要出典が多いですね)。以下は、改名提案へのコメントです。
- A 一応反対します。TENさんが『「キリスト教国家論」が何なのかわからない』と仰られていますが、その通りだと思います。
- B1 反対はしません。結局、今回分割が進められた部分や「政教分離原則」への案内が行われるなど、この記事名で担えないことはありません。
- B2 100%主観となってしまったため、表明しません。ただ、ぽてからさんも仰られたように「○○の歴史」を構成する記事となるため、わかりやすくなる。
- B3 賛成寄りです。概要を読むに、政教分離が成立していった歴史を扱っているというのが読み取れますので、案の中ではかなり優れていると思います。
- B4/C 意見はありませんが、「ヨーロッパの教会と国家」にも興味があります。
- と、いったところでしょうか。なかなか決め手がありませんので、申し訳ありません。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年6月24日 (土) 00:25 (UTC)
- 私がこの記事への編集に関わったのは内容よりも、分量の過剰が最初に気になったためでした。しかし分量の問題もGreenland4さんの移動分割と硯箱さんによる合意によって解決いたしました。その意味では、残された記事の名前について私は特にこだわりはありません。
- A 「キリスト教国家論」は大和屋敷さんのご提案ですが、この提案について私は一度賛同しながらのちに硯箱さんの異議を認めて撤回しています。なお、私は当時の改名議論では「キリスト教と国家」「教会と国家」などを提案していました。日本語や英語の各種事典でも「キリスト教と国家」「教会と国家」という項目は存在しますし、「政教分離」の英語の直訳は「教会と国家の分離」なので、本来の意味に忠実なのであればこれの方が適切なのですが、日本の一般用語としては全く定着していません。個人的には「政教分離」は誤訳と思っていますが、日本語として定着している以上、Wikipedia:記事名の付け方から賛成いたします。つまり、「キリスト教と国家」「教会と国家」は撤回しますし、また「キリスト教国家論」または「キリスト教国家」については、ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史/過去ログ7#「キリスト教国家論」の関連文献を読み込んだうえで新規立項するといいと思います。以前の改名議論は、分割以前の「古代・中世・近世総論」状態について、硯箱さんが記事の統一性の観点より分割に反対されていたので、しかたなく改名議論へとシフトチェンジしました。しかし、いまやその改名議論の前提である記事分量問題が解決いたしましたので、硯箱さんが文献を提示しつつ反論もされているので、もはや「キリスト教国家論」にこだわる理由もないのではないかと思います。大和屋敷さんもおそらくは同意されるのではないでしょうか。
- B1「政教分離の歴史」がベスト。
- B2の「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」は可。「イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史と併存させるというのもいいと思いますが、硯箱さんも反対されていることですし、私はこだわりません。
- B4、Cは「政教分離の歴史」に「成立」や「原則」といった語句を付与することに反対はしません。なお、「政教分離と政教分離原則は異なる」という見解に対しては、広義の政教分離と狭義の政教分離の違いであって、「政教分離とは、世俗化や近代化といった歴史的過程を経て、憲法上の政教分離原則として結実するまでの一連の過程、あるいはその過程における教会・宗教と国家の関係のこと」ではないかと思います。この定義は独自研究です(笑)。wikipedia技術上からいえば、「政教分離」(総論)と「政教分離 (法学)」を分けるというアイデアもあるかと思います。これもいま思いついただけのことを発言しているだけなので、私からこの点について学術的な議論をする気はありませんので軽く聞き流していただければと思います。--121.107.209.16 2017年6月24日 (土) 13:03 (UTC)
- コメント Moon.riseです。合意部分の編集および、次段階の記事名まとめへと進んでまいりましたことを嬉しく思います。すべての皆様への感謝と、特に、これまで提案・進行して下さっているGreenland4さんへの感謝を申し上げさせてください。また、これまでの流れから、私からTENさんへの感謝も特に申し述べさせていただきたいです。
- さて、記事名についての意見です。
- B2 記事名「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象) 私の意見ではこれがベストと思っております。理由はこれまでに挙げてきた通りではありますが、「記事の守備範囲を明確にする」これができることを重要と考えております。
- B3 記事名「政教分離成立の歴史」 次いでこちらもよいと思っております。理由についてはほぼ同じです。こちらの場合には、すでにある「イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史」との併存について、きれいに整合するのかどうかが、ちょっと気にはなります。--Moon.rise(会話) 2017年6月26日 (月) 11:45 (UTC)
- コメント みなさま、御意見ありがとうございました。もっとたくさんの意見表明があるかと思いましたが、5人にとどまりましたので、この意見表明をもとに記事名を決めていきたいと思います。「おいとまする」というのも無責任な話で、そこはお詫び申し上げるとともに撤回します。見通しもわるくなったので、改めて下に新しい節を設けてそこで審議しましょう。--Greenland4(会話) 2017年7月1日 (土) 18:54 (UTC)
改名に関する意見集成とそれを受けた議論
[編集]意見集成
[編集]以上、私も含めて6人の意見が表明され、まとめると上のようになると思います。加除訂正ありましたら、各自で対応お願いします。方向性としては、A「キリスト教国家論の歴史」という現状の記事名を変更した方がよいことが改めて確認され、ここにはコンセンサスがあるとみてよいと思います。そして、新しい記事名称を選ぶとすればB1〜B3のなかからということでよいのではないでしょうか。「反対がない」という意味では、B2で決定ということになるわけですが、そういうふうに話を進めてよいのか、それも含めて御審議いただければと思います。なお、上に設けた「査読のコーナー」に記事名や記事の方向性を考える際の有力な手がかりが書き込まれる可能性もあると考えます。--Greenland4(会話) 2017年7月1日 (土) 21:13 (UTC)
意見集成をふまえた議論
[編集]- 報告 GA返上に関して異論はなかったため、再選考にかけました。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月4日 (火) 09:07 (UTC)
- 報告 Wikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考/キリスト教国家論の歴史 20170704の結果GA除去となりました。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月9日 (日) 04:05 (UTC)
- B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」がよさそうですね。早く議論を終わらせて、記事加筆に各自注力された方がよいのではないかと思います。--Greenland4(会話) 2017年7月4日 (火) 11:26 (UTC)
- 賛成 同感です。--Moon.rise(会話) 2017年7月4日 (火) 13:58 (UTC)
- 特に異論はありません。とりあえずは現状の記事名の問題についてはそれで解決できるかと思います。--TEN(会話) 2017年7月4日 (火) 17:02 (UTC)
- 賛成 反対がないので問題ありませんし、「○○における政教分離の歴史」シリーズの作成も見込まれるかと思います。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月5日 (水) 07:35 (UTC)
- 報告改名合意成立とみなし、記事を「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」に移動しました。みなさま、おつかれさまでした。ありがとうございました。--Greenland4(会話) 2017年7月11日 (火) 11:52 (UTC)
- 確認 Greenland4さん、おつかれさまです。ありがとうございます。--Moon.rise(会話) 2017年7月11日 (火) 12:12 (UTC)
- 確認 改名処理ありがとうございます。--TEN(会話) 2017年7月11日 (火) 21:18 (UTC)
- 確認 お疲れ様です。これからは記事の加筆、出典追加に注力していくことになりますね。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月12日 (水) 09:33 (UTC)
- すみません。確認なんですが、ノート:政教分離の歴史の下に付いているノート:政教分離の歴史/過去ログ1などは移動されないのでしょうか?--アルトクール(会話) 2017年7月12日 (水) 16:12 (UTC)
- 報告移動の作業をおこないました。--Greenland4(会話) 2017年7月12日 (水) 21:45 (UTC)
- 本節を移動しました。--Moon.rise(会話) 2017年7月17日 (月) 17:55 (UTC)
査読のコーナー
[編集]分割作業も済んで、だいぶ見通しもよくなり、あらためて記事名について、記事の指し示す範囲について論じることのできる環境が整ったように思います。とはいえ、実のところ「最初に改名ありき」という話でもないように思うのです。これが、硯箱さんも御指摘なさった「ウィキペディアの限界」であり、この記事のつづきが加筆されず、また、内容面での改善が何ら図られることもなく放置されることも充分に考えられるからです。そこで、現状の本記事の内容について、査読するコーナーを設けました。本記事が諸文献を渉猟して書かれた格調高い文であることは疑いのないところではありますが、しかし、「政教分離の歴史」ないし「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(の一部)を説明するものとして成功しているかどうかはまた別の話です。「欠席裁判」ということになってしまうかもしれませんが、ウィキペディアの場合、そこにいる人がまた新しい当事者になるというしくみであり、そこにいくばくかの可能性もあるわけですから、他の議論参加者がどうこうというような話ではなく、「記事の改善」だけにしぼって論じていただきたい。不毛な対立を避けるために、このコーナーのなかでは互いにコメントを付けあうことは禁止とします。ここでの議論参加者は少なくとも、議論を通じて政教分離について考え、学び、調べもしたと思います。ここはひとつ、各自、レポートを受理した指導教官のような気持ちになって本記事を査読・論評いただければと思います。みなさま、どうかよろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2017年7月1日 (土) 19:39 (UTC)
Greenland4(1)
[編集]では、言い出した者から。まずもって、主筆者の執筆に向けた労苦と情熱には心から賛辞と感謝を申し上げたいと思います。そのうえでの話ですが、本記事にはいくつかの問題点があると思います。本記事が、当初から「政教分離の歴史」を企図して執筆されたことは明らかで、そのことは、「宗教改革(プロテスタント側から)」節から「ドイツの領邦教会制度」節にかけて、「ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り…」(本文)、「かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。」(本文)、「ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった」(画像キャプション)、「当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。」(本文)…というふうに、しつこいぐらいに「宗教改革の政治問題化」というフレーズが繰り返されていることからもわかります。こういう書き方だと、読者には「政治問題化」したからこそ宗教改革から宗教戦争が派生したんだろうなというくらいは伝わるだろうし、その程度のことは漠然とであれ常識として元々知っていたという人も多いと思います。しかし、一番肝心なこと、そもそもルターらの言ったことが「『なぜ』政治問題になったのか」が書かれていません。ここにおいて「なぜ」「どうして」の問いが発せられていないので、説明がひじょうにわかりにくいものになっています。ルターが「聖書のどこを読んでも教会のことなんて書いていない」と言ったこと、これが大きかったわけです。あの局面でこれを言ったら必ず政治問題化するだろうということが、本記事を読んでも伝わらないのです。このことばこそ、当時、社会にあって絶大な権威と権力をもっていた教会を蒼ざめさせる力をもっていたし、教皇と張り合いながらも帝冠を教皇から戴いている立場の皇帝の心胆を寒からしめるものであった。ルネサンスの芸術も色あせてしまうほどの衝撃、「神聖ローマ」の名前に砂をかけ泥を塗るような驚き、今までプロレスをやってきた教皇・皇帝に対し、無粋ながらも外側から剣をもった観客が乱入したくらいのインパクトがあったわけです。経済的にはイタリアから搾取され、政治的には教皇・皇帝のどちらか、あるいは双方への屈服を余技なくされていたドイツ諸侯のなかには少なからずルターの言葉を「これはイケる」「使える」と思った人たちがいる。だからこそ「政治問題化」したのです。これは、割と小中学生にもわかる理屈でしょう。これに言及しただけで「宗教改革」で把握される諸事象のうち、「政教分離」につながる要素の半分は説明したことになるのではないかと思います。ところが、ルターらの聖書中心主義や万人司祭主義はずっと後の「宗教改革派の諸思想」節に申し訳程度に出てくるだけで、それも専ら神学的話題としての言及であって、政治にあたえた影響はまったく考慮されていません。これだと、わかっている人もわからなくなってしまう。肝心なことは書かれておらず、その周辺のことばかり詳細に描かれているので、「流れがつかみにくい」「わかりにくい」「冗長なところが多い」、もっというと「歴史叙述になっていない」というのが第一点。長くなりそうなので、今日はここまで。他のみなさんの査読もお待ちします。--Greenland4(会話) 2017年7月2日 (日) 23:22 (UTC)(リンクや字句の修正)--Greenland4(会話) 2017年7月3日 (月) 01:18 (UTC)
査読を受けて
[編集]争いを招くような批判的なコメントはしないでください。 |
根本問題としてルターが教会を否定したことはありませんし、明確に教会に固有の救済的価値を認めています。基本文献であるマクグラスを読めば、この点は明確です。次に政治問題化した事情については二世界論が重要で領邦教会制度を思想的に援護することとなったことは明確にされているように思われます。政治状況については分割によって承前関係が失われているためにわかりにくくなっている観はあるとは思います。ところで、中世において政治思想が神学的文脈において考察されることについてはすでに歴史学上の常識であり、この点は将基面貴巳『ヨーロッパ政治思想の誕生』で研究動向が詳しく記載されております。この点についても承前関係がないためにここだけ読むと、なぜルターの思想が政治社会に影響を与えるのかということがわからないというのはありえることですが、歴史学に通じていらっしゃるのなら、ノートでの議論においてこの点に疑問を呈されるということは基本的にないように思われます。ワルター・ウルマン以降の政治思想史の学術的潮流をご存じであれば、この点について疑問は特にないでしょう。当時のドイツがイタリアから搾取されていたというのも明らかに現状の歴史学研究の成果に反するもの(アンドルー・ペティグリーを見よ)で、贖宥状の問題に関してもむしろそれはドイツの一大産業であり、宗教改革もその印刷革命の産業的興隆と商業的隆盛に支えられたものであることが定説となっています。--硯箱(会話) 2017年7月3日 (月) 04:45 (UTC)
- ちょっと内容面ではまだ読み込み不十分なのであまり明瞭な査読はできないのですが、西洋政治史や政治思想史だけが歴史学ではないので、「歴史学を知っているなら疑問の余地はない」という言い回しは不適です。その理屈でいくと私は「なぜルターの思想が政治社会に影響を与えるのか」について疑問無しとはしないので、この記事には関与できないという感じになります(私が普段取り扱ってる分野では基本的にルターを問題にしないので・・)。端的に言って、この記事の問題点は読者に(そして執筆者に)事前知識を要求しすぎる点だと思うので、正直分割前の状態であっても「なぜ」の説明ができていたようには思われません。早い話、分割前の過去の多くの読者、執筆者が「なぜ」初期キリスト教や中世ヨーロッパの説明から始まっているのか、読んでわからなかった事実がありますし、それは現存部分についても同様に見えます。具体的にここ、と言えるほど読み込めていませんが、「歴史」と銘打ちつつ、事象の羅列になっていて「物語」が見えてこない印象です。上の査読の文章を読んでいても、歴史学研究の分野では硯箱さんが正しい(かどうかを判定する知識量が私にありませんが)かもわかりませんが、読んでいてに頭に入ってくるのは間違いなく(現在の記事の文章よりも)Greenland4さんの叙述の方です。この点、個別の内容はともかく文章構成についてはGreenland4さんの指摘通り因果関係(なぜ)の記述を強化し(かつ簡潔に)する必要があると考えます。--TEN(会話) 2017年7月3日 (月) 06:03 (UTC)
- 正直わかりやすいからよいという基準で話をされても、事実と異なることをわかりやすいから記述せよという話になるなら、それは私には全く意味がわからない議論です。百科事典として簡潔性を期すのはもちろんですが、宗教改革に関わる研究で明らかに否定されている見方を採用すべきというのは私にはよくわかりません。中世政治思想の伝統と近代の社会思想や政治思想との連関性とそこにおける教会法論と神学の影響が再評価され、日本でも主要な政治思想史家がこれを支持し、すでに定説となっているのですが、それがわかりにくいから記述されるべきでないという議論であれば、それは明らかにおかしいのではないでしょうか。とはいえ、私自身は研究動向を述べているだけですから、それをどこまで記述に振り分けるかは別問題です(私だったら読者のために詳しく記載するでしょうが、ウィキペディアに記載されるべきかは判断を保留します)。「物語」として記すべきというのも私にはよくわかりません。繰り返しになりますが、政治状況についてはいささか説明不足なように思われますが、Greenland4さんの説明はかなり研究成果に反するものであるので、そりゃちょっとないんじゃない?という話です。社会における宗教熱の高まりと民衆信仰の拡大、前宗教改革的な思潮、特殊ドイツ的な政治状況、それらと物理的な印刷革命が結びついたことによって宗教改革は激化し、政治問題化さえしたということ、そもそも当時の人がみんながみんなルターに飛びついたというような単純な状況ではないことは、その著作の販売網についての研究によっても明らかです。因果関係の記述を強化することには全く賛成ですが、ありもしない因果関係を作る必要はないのではないでしょうか。TENさんの文章を読みますと、私が政治思想史だけを採用せよと言っているように思われている気がするのですが、私はあくまでGreenland4さんがルターの影響という話で「物語」を作られていたので、少なくとも思想史上の政治における影響については定説があるということを示したのみで、その他の社会史的・政治史的な研究動向についても簡潔ですが指摘していることはおわかりと思われますので、その点については確認していただきたく思います。私の発言の趣旨は歴史学全体を見通して、さすがにそのような説明はありえないという発言です。因果関係の不足そのものに対して反対しておらず、その不足はむしろ私も指摘していることをご確認下さい。社会史的な背景については渡邊伸『宗教改革と社会』および永田諒一『ドイツ近世の社会と教会』という邦人研究者による中心的な文献(学界でも文句なく信頼されている著作だが、どこまで盛り込むかは要検討)があり、関連する教義についてはマクグラスの大学教科書シリーズ(最低限これくらいは押さえたい)が翻訳されております。政治史については世界歴史大系で問題なくカヴァーできると思われます(この点に関して概説以上に踏み込む必要は感じません)。印刷革命についてはアンドルー・ペディグリーのものをはじめ、最近は様々な体系的著作の訳書が出されており、研究動向を踏まえるのは容易なはずです(印刷革命なくして贖宥状も宗教改革もないというのは通説)。--硯箱(会話) 2017年7月3日 (月) 06:44 (UTC)
- うーん、そうですねえ。「わかりやすいからよい」という話ではないです。Greenland4さんの記述内容に仮に誤りがあったとして、「これは違う、修正。」「これも違う、修正。」ではそこでどんづまりで話が先に進まないのです。私のとらえ方は本意ではない、とのことですが、なかなかにそれを最初の文章から読み取るのは困難です(^^;
- で、せっかく因果関係の説明についての提案がなされたので、私の発想としては以下です。
- (私の見解として)現状の記事は因果関係が分かりづらい。
- Gleenrand4さんの叙述する因果関係の説明は非常にわかりやすく見える。
- 硯箱さんの意見として、事実関係に誤りが見られるという指摘がある。
- では、Gleenrand4さんの叙述構造をベースに、硯箱さんの指摘で内容を修正しつつわかりやすい文章を作る。
- という流れを想定したいところです。例えば現在の「概要」節などは、「1章では○○についての研究史を概観しつつ、筆者の立場を明らかにする」「2章では××の見解に基づき○○の今日的理解を詳述する」~というような、まさに歴史学分野の専門書や論文の概要や前文に典型的な構文になっています。が、百科辞典の概要で求められるものはこれではなく、どう考えてもGreenland4さんのもののような、全体像を把握できる簡潔な叙述だと思うのです。なので、概要、或いは宗教改革の節の冒頭にはGleenrand4さんの叙述のようなものを持ってきて(詳細の正誤ではなく、構成としての話です。)その上で、内容に研究動向と齟齬があるのであれば、研究動向に沿った内容に改めれば全体像のつかみやすい概要節が出来上がるのではないかなと思うのですけども。まあもうちょっと本を読んでからでないと具体的に私の方から提案はできませんが・・。
- ちなみに、「物語」と表現しましたが、個々の記述の骨組みとなる軸が必要というだけです。なお、蛇足で言うと、硯箱さんの言う研究分野の常識については、今のところ私では判定不能なので、上の話はあくまで指摘が的確であるという仮定の上での話です。--TEN(会話) 2017年7月3日 (月) 07:34 (UTC)
- 『世界歴史大系ドイツ史1』を読みましょう。現状日本で最も信頼できる概説書というだけあって、確認したところ、以上の論点はほとんど盛り込まれています。難しい議論に立ち入る必要はありませんが、せめて通説的見解だけは共有したいものです。いくら素人向けのウィキペディアとはいえ、ノートの議論においても、これぐらいの内容は常識として踏まえることは出来ないんでしょうかね。百科事典の概要については世界大百科事典などは研究史についての記述も簡略ながらあるので、一般的に研究史に配慮がないというのはどうかなと思います。そしてウィキペディアにそれが求められていないというのも、私には論理がよくわかりません。あまり細かく指摘するのは角が立つので言いたくないのですが、たとえば「社会にあって絶大な権威と権力をもっていた教会を蒼ざめさせる力をもっていたし、教皇と張り合いながらも帝冠を教皇から戴いている立場の皇帝の心胆を寒からしめるもの」についても、宗教改革の当初において教会組織に明確な打撃をルターは与えているように思われません(既知のとおりルターの支持者はカトリック側にも当初多数いた)し、皇帝はこの時期教皇から帝冠を戴いてません。実質的にはフリードリヒ1世の神聖皇帝理念以降徐々に皇帝権はローマ教皇の権威に依存しなくなっていましたが、カール5世の場合祖父のマクシミリアン帝以後、形式的にも戴冠されていないので、その主権においてローマ教皇の権威への依存度はほとんどありません。むしろイタリア戦争、オスマントルコ問題と新大陸支配の問題において教皇の協力を必要としていたという現実的な事情があった点を重視するのが一般的ではないでしょうか。正直これ一つだけでなく、指摘すればきりがないのですが、こういう議論は望みません。ただわかりやすいから正しいと思っていらっしゃるなら、これらの点を見れば明らかにおかしいのはさすがにわかるでしょう。これは純粋に査読的な話題です。--硯箱(会話) 2017年7月3日 (月) 08:13 (UTC)
- うーん「わかりやすい」から「正しい」としているわけではないのです。また「研究史」が必要ない?という読解はどこからでてきたのかよくわかりません。単純に個々の事象の羅列をわかりやすい因果関係に乗った説明に直すべきというだけですが、まあこれ以上は不毛なので繰り返しません。現状、西欧中世以降の知識不足は否めないので、ご紹介頂いた『世界歴史大系ドイツ史1』は読んでみるとします。--TEN(会話) 2017年7月3日 (月) 09:16 (UTC)
- はっきり言ってしまうと、査読の問題になってしまうと、最低限の知識が共有されないと話を進めづらいということです(査読というのは内容的な適切性を検討することですから)。そして説明に唐突感があるのはこの記事が少なくとも以前には思想史的流れと社会史的流れを備えていたところがあるのですが、それが現状寸切りになっているところにあるのではないかということです。もちろん説明不足もあると思われるので、その点について加筆されるべきことは大いに頷けるのですが、ここらへんの話題についてノートの議論がかなりいい加減な理解になっているようなので、加筆するにはまず通説と基本文献を確認する必要はあるでしょう。因果関係をわかりやすくするのはそうですが、その前に因果関係を適切に整理すべきでしょう。そうでないと議論はいつまでも正しい道に向かいません。宗教改革の政治問題化の背景には前代の思想との関連性(元記事では前宗教改革思想とされていた)も問題になってきますし、叙任権闘争以来の帝国国制の独自性とハプスブルグ家の権力構造を述べざるを得なくなりましょう。ただそれを記述しきれるか、またそもそもそこまで記述するのが政教分離の歴史として適切かは別問題で、そうした議論をするには前提を共有していないと無理でしょうということです。その点、下手に説明を加えて書くより政治問題化したという事実だけ書いた方がよいようにも思われます(この話題はとても数行で済ますことは難しく、わかりやすくしようとするとどんどん重くなる印象です)。--硯箱(会話) 2017年7月3日 (月) 09:39 (UTC)
- ちなみにたまたま見つけましたが、贖宥状に関してレオ10世による贖宥状という記事がかなり今日的な通説を丁寧に敷衍しています。贖宥状の売り上げの大部分が実際にはドイツ各地の教会建築に使われていたこと、贖宥状の問題が政治問題化した契機が1518年8月27日の教皇レオ10世の特使に対するドイツ諸侯の苦情表明にあったこと(このとき贖宥状販売に携わったマインツ大司教アルブレヒト自身もドイツ諸侯筆頭として贖宥状を批判している)などは抜けていますが、総じて適切と思われます。参考にできるでしょう。--硯箱(会話) 2017年7月3日 (月) 11:36 (UTC)
- うーん「わかりやすい」から「正しい」としているわけではないのです。また「研究史」が必要ない?という読解はどこからでてきたのかよくわかりません。単純に個々の事象の羅列をわかりやすい因果関係に乗った説明に直すべきというだけですが、まあこれ以上は不毛なので繰り返しません。現状、西欧中世以降の知識不足は否めないので、ご紹介頂いた『世界歴史大系ドイツ史1』は読んでみるとします。--TEN(会話) 2017年7月3日 (月) 09:16 (UTC)
- 『世界歴史大系ドイツ史1』を読みましょう。現状日本で最も信頼できる概説書というだけあって、確認したところ、以上の論点はほとんど盛り込まれています。難しい議論に立ち入る必要はありませんが、せめて通説的見解だけは共有したいものです。いくら素人向けのウィキペディアとはいえ、ノートの議論においても、これぐらいの内容は常識として踏まえることは出来ないんでしょうかね。百科事典の概要については世界大百科事典などは研究史についての記述も簡略ながらあるので、一般的に研究史に配慮がないというのはどうかなと思います。そしてウィキペディアにそれが求められていないというのも、私には論理がよくわかりません。あまり細かく指摘するのは角が立つので言いたくないのですが、たとえば「社会にあって絶大な権威と権力をもっていた教会を蒼ざめさせる力をもっていたし、教皇と張り合いながらも帝冠を教皇から戴いている立場の皇帝の心胆を寒からしめるもの」についても、宗教改革の当初において教会組織に明確な打撃をルターは与えているように思われません(既知のとおりルターの支持者はカトリック側にも当初多数いた)し、皇帝はこの時期教皇から帝冠を戴いてません。実質的にはフリードリヒ1世の神聖皇帝理念以降徐々に皇帝権はローマ教皇の権威に依存しなくなっていましたが、カール5世の場合祖父のマクシミリアン帝以後、形式的にも戴冠されていないので、その主権においてローマ教皇の権威への依存度はほとんどありません。むしろイタリア戦争、オスマントルコ問題と新大陸支配の問題において教皇の協力を必要としていたという現実的な事情があった点を重視するのが一般的ではないでしょうか。正直これ一つだけでなく、指摘すればきりがないのですが、こういう議論は望みません。ただわかりやすいから正しいと思っていらっしゃるなら、これらの点を見れば明らかにおかしいのはさすがにわかるでしょう。これは純粋に査読的な話題です。--硯箱(会話) 2017年7月3日 (月) 08:13 (UTC)
- 正直わかりやすいからよいという基準で話をされても、事実と異なることをわかりやすいから記述せよという話になるなら、それは私には全く意味がわからない議論です。百科事典として簡潔性を期すのはもちろんですが、宗教改革に関わる研究で明らかに否定されている見方を採用すべきというのは私にはよくわかりません。中世政治思想の伝統と近代の社会思想や政治思想との連関性とそこにおける教会法論と神学の影響が再評価され、日本でも主要な政治思想史家がこれを支持し、すでに定説となっているのですが、それがわかりにくいから記述されるべきでないという議論であれば、それは明らかにおかしいのではないでしょうか。とはいえ、私自身は研究動向を述べているだけですから、それをどこまで記述に振り分けるかは別問題です(私だったら読者のために詳しく記載するでしょうが、ウィキペディアに記載されるべきかは判断を保留します)。「物語」として記すべきというのも私にはよくわかりません。繰り返しになりますが、政治状況についてはいささか説明不足なように思われますが、Greenland4さんの説明はかなり研究成果に反するものであるので、そりゃちょっとないんじゃない?という話です。社会における宗教熱の高まりと民衆信仰の拡大、前宗教改革的な思潮、特殊ドイツ的な政治状況、それらと物理的な印刷革命が結びついたことによって宗教改革は激化し、政治問題化さえしたということ、そもそも当時の人がみんながみんなルターに飛びついたというような単純な状況ではないことは、その著作の販売網についての研究によっても明らかです。因果関係の記述を強化することには全く賛成ですが、ありもしない因果関係を作る必要はないのではないでしょうか。TENさんの文章を読みますと、私が政治思想史だけを採用せよと言っているように思われている気がするのですが、私はあくまでGreenland4さんがルターの影響という話で「物語」を作られていたので、少なくとも思想史上の政治における影響については定説があるということを示したのみで、その他の社会史的・政治史的な研究動向についても簡潔ですが指摘していることはおわかりと思われますので、その点については確認していただきたく思います。私の発言の趣旨は歴史学全体を見通して、さすがにそのような説明はありえないという発言です。因果関係の不足そのものに対して反対しておらず、その不足はむしろ私も指摘していることをご確認下さい。社会史的な背景については渡邊伸『宗教改革と社会』および永田諒一『ドイツ近世の社会と教会』という邦人研究者による中心的な文献(学界でも文句なく信頼されている著作だが、どこまで盛り込むかは要検討)があり、関連する教義についてはマクグラスの大学教科書シリーズ(最低限これくらいは押さえたい)が翻訳されております。政治史については世界歴史大系で問題なくカヴァーできると思われます(この点に関して概説以上に踏み込む必要は感じません)。印刷革命についてはアンドルー・ペディグリーのものをはじめ、最近は様々な体系的著作の訳書が出されており、研究動向を踏まえるのは容易なはずです(印刷革命なくして贖宥状も宗教改革もないというのは通説)。--硯箱(会話) 2017年7月3日 (月) 06:44 (UTC)
このコーナーでは互いにコメントを付けあうことを禁止としたはずですが、まあいいでしょう。現状、因果関係がわからない書き方になっていることは合意されたようですから、それだけでも前進です。「二世界論」や「印刷革命」「商業の発展」「贖宥状販売」を一番前に持ってきたうえで「宗教改革の政治問題化」を書いた方が、読者に対しては親切であり、今よりは相当改善されるはずです。冒頭に近いところで一文のなかに3回も「宗教改革の政治問題化」を連呼してそれっきりなんてよりはよほどスマートで論理的ではあるでしょう。ただ、本当に「二世界論」が当時のドイツの諸侯なり農民なりを実際に動かしたものであるかは個人的にはかなり疑問ではありますね。当時の一般の人がアウグスティヌス神学にそれほど通じていたとも思えないし、神学者や教会関係者が「政治化」を主導して宗教戦争が起こったと書けば、それはそれでウソになるでしょう。「最新の研究動向」といえば聞こえはよいですが、そういう「後知恵」のようなものを中途半端に歴史に混ぜたところで読者は混乱するだけではないかということを私はむしろ心配します。こういう話題こそ脚注に逃がしてやって「二世界論」は別に独立記事としてつくった方がよいでしょう。手前味噌ながら、私もChokorin名でむかし「八宗体制論」という記事を立てました。これは、「鎌倉仏教」執筆の副産物なのですが、研究史は「研究史」と断って末尾に付す、それでも収まらないテーマや話題は独立記事として別項立てるというのが事典の書き方としては優れていると考えます。ハイパーリンクで別記事に一瞬で画面が切り替わり、複数記事の参照で全体像を理解しやすいというくらいしか、ウィキペディアにはメリットがないんですね。「素人のための百科事典」ではなく「素人がつくる百科事典」なのであり、その程度のものであることは社会的にも認知されているでしょう。私のなかでもウィキペディアはボケ防止くらいの意味しかありません。アマチュアリズムを信用できない人は、あまりここには来ない方がよい。ここで何もかも説明しようというのは、すこぶるスジの悪い話であり、そういうことをやりたいというのであれば、御自分でブログを立ち上げて、そのなかで思う存分やられた方がよいと思います。「コンフェッショナリズム」についてもそう。独立記事もないのに節名にもってきているでしょう。こういうコケ脅しはやめるべきであり、脚注で扱うべき内容や専門用語を前面にもってきて「俺様」ぶりを発揮する方がおられるので、記事名みたいなつまらない話で足元をすくわれてしまうのではないかと思ってしまうのですね。そういう意味では、現記事名は記事内容にピッタリ合っているのかもしれません。「中世都市」とか「ナントの勅令」とか、本当に現状のままでOKを出せますか。そのまま放置しているということは、査読したうえでOK出しているのとさほど変わらんのです。所詮ひとまかせなのですよ。で、話をもとにもどすと、「二世界論」というのは、おそらく学部生にとってすら馴染み薄い用語のはずであって、たぶん院生レベルのタームだろうと思います。ところが、「政教分離」というのは本来は中学公民レベルで登場する用語であり、だからこそ、むやみにむつかしくはできない。硯箱さんはいみじくも「そういう単純な話ではない」とおっしゃったけれども、「そういう単純な話ではない」というあたりからスタートしているからこそ、話がこじれるんです。「重箱の隅をつつく」のは最後でよいのであって、そのようなところから始まっているから、なかなか前進できないのだろうと思います。そしてまた、上級者向けの記事となるであろう「二世界論」「コンフェッショナリズム」を立てるという、そのほんのちょっとした手間を惜しむからおかしなことになっているんです。「ドイツがイタリアから搾取されていたというのも明らかに現状の歴史学研究の成果に反する」というのも、それはそうかもしれないが、じゃあ、当時のドイツの人びとがどう考えていたのかはまた全く別な話なのですね。少なくともイタリアからの贖宥状販売部隊が諸手を挙げて歓迎され、教会建築なんかの資金に使われてドイツの人たちはみんなそのことに満足していたというのなら、そもそも宗教戦争は起こらないはずなのであり、現にフランスでは販売部隊の入国は禁止されていたわけでしょう。そういうのも含めて脚注処理がよいと思います。で、神学の話は中世段階でやめた方がよいと思います。神学的内容を読者は求めていないのであり、それを突っ込んで勉強したい人は「中世ヨーロッパにおける教会と国家」という素晴らしい記事があるのですから、そちらにまわっていただいた方がよい。「中世ヨーロッパにおける教会と国家」のなかでルターの思想に深くふれたところでそこにクレームをつける人はいないと思います。--Greenland4(会話) 2017年7月3日 (月) 22:10 (UTC)
- すいません、互いにコメント禁止、完全に頭からぬけていました。何にせよもう少し考えが整理できてからコメントします。--TEN(会話) 2017年7月4日 (火) 00:20 (UTC)
- Greenland4さんは開き直られている気がしますが、明らかに勉強不足で迂闊な発言をするのはよろしくないです。「少なくともイタリアからの贖宥状販売部隊が諸手を挙げて歓迎され、教会建築なんかの資金に使われてドイツの人たちはみんなそのことに満足していた」というのは史実ではありません。贖宥状の販売元締めはドイツのフッガー家、贖宥状の印刷業者はドイツ人で、販売者はドミニコ会員ですが、彼らもドイツ人です(民衆はラテン語を解しませんから、ドイツ語が話せる人が販売します)。また贖宥状はドイツ以外でも売られています。当時のドイツ人の意識を問題にするなら、これも慎重さが求められます。少なくとも当時ドイツ人の間にあったイタリア蔑視の風潮(ルターは軽蔑している相手を「イタリア人」と呼んでいます)とドイツ人ナショナリズムの問題が絡んできます。またフランスでも典型的な宗教戦争は起こっていますので、このGreenland4さんの論理は正直混濁していてよくわかりません(贖宥状問題がきっかけで宗教戦争になったという直接の因果関係を結ぶのは困難です)。何よりルターが政教分離の歴史で特筆されるとすれば、二世界論が出てくるのは当然で、大学生を対象とした教科書類に普通に載っているので、何を持って院生レベルと判断しているのかはわかりません(まずGreenland4さんは基本的な文献を読まれたことがあるのですか?政教分離の歴史において一般に政治的アウグスティヌス主義と呼ばれる二元論が重視されるのはハンス・ブルーメンベルクの著名な指摘も含めて、かなり常識的な範疇に属すと思われますが、ルターの二世界論はその典型的なものの一つです)。これを政教分離の歴史に書くべきでないという主張は根拠付けされているようには思われません。むしろルターの提題が政治問題化していく過程はそれこそ個別の記事で述べられるべきで、実際95ヶ条の論題にはそれが政治問題化する過程は背景説明などがやや不足している気がしますが、一通り書かれております。この記事で直接扱うべきことではないと思われます。少なくともルターの二世界論に比べれば、ヴォルムス勅令以前の贖宥状問題の政治問題化過程は蛇足に思え、政治問題化し宗教戦争につながったという書き方で済ませてよい気がします。ルターの二世界論をちゃんと理解しての発言とは思えません。そして記事のレベルとして中高生を対象にしているというのもおかしな話です。ウィキペディアは中高生向きの百科事典だったのでしょうか。対象を中高生に絞り、教科書気分で作られるなら、それはウィキブックスに書くほうがよいのではないでしょうか。--硯箱(会話) 2017年7月4日 (火) 02:01 (UTC)
- この項目は、互いにコメント禁止を前提として作られています。他人への批判ではなく、ご自身の主張をご表明いただけませんでしょうか。また、あらゆる知識に精通していないからという理由で批判することについては、今後一切ご遠慮いただけますと幸いでございます。ゼミの討論の場でも、学術的な議論の場でもございません。--雅ハルカ(会話) 2017年7月4日 (火) 02:20 (UTC)
- 記事に関わる重要な論点について、互いにコメント禁止する必要性も感じませんし、たとえ一方的に宣言されていても、それによってノートでの通常的な議論が禁止されるというのは生産的とは思われません。また「あらゆる知識に精通していないからという理由で批判」というのは実におおげさで、正確には「基本的な問題を見落としている」点について意見のすりあわせが必要だろうと言うことを述べているだけです。学術的な議論の場でないというのも変な話で、ノートでの議論が学術的な話題に限られるわけではないことは確かですが、学術的な話題を議論することができないということではなく、むしろ専門家による学術的な内容を盛り込むことが方針文書で推奨されていることを踏まえれば、ノートの議論で学術的な議論が行われることに問題があるとは思われません。それも記事主題に直接関わることです。--硯箱(会話) 2017年7月4日 (火) 02:54 (UTC)
- この項目は、互いにコメント禁止を前提として作られています。他人への批判ではなく、ご自身の主張をご表明いただけませんでしょうか。また、あらゆる知識に精通していないからという理由で批判することについては、今後一切ご遠慮いただけますと幸いでございます。ゼミの討論の場でも、学術的な議論の場でもございません。--雅ハルカ(会話) 2017年7月4日 (火) 02:20 (UTC)
- Greenland4さんは開き直られている気がしますが、明らかに勉強不足で迂闊な発言をするのはよろしくないです。「少なくともイタリアからの贖宥状販売部隊が諸手を挙げて歓迎され、教会建築なんかの資金に使われてドイツの人たちはみんなそのことに満足していた」というのは史実ではありません。贖宥状の販売元締めはドイツのフッガー家、贖宥状の印刷業者はドイツ人で、販売者はドミニコ会員ですが、彼らもドイツ人です(民衆はラテン語を解しませんから、ドイツ語が話せる人が販売します)。また贖宥状はドイツ以外でも売られています。当時のドイツ人の意識を問題にするなら、これも慎重さが求められます。少なくとも当時ドイツ人の間にあったイタリア蔑視の風潮(ルターは軽蔑している相手を「イタリア人」と呼んでいます)とドイツ人ナショナリズムの問題が絡んできます。またフランスでも典型的な宗教戦争は起こっていますので、このGreenland4さんの論理は正直混濁していてよくわかりません(贖宥状問題がきっかけで宗教戦争になったという直接の因果関係を結ぶのは困難です)。何よりルターが政教分離の歴史で特筆されるとすれば、二世界論が出てくるのは当然で、大学生を対象とした教科書類に普通に載っているので、何を持って院生レベルと判断しているのかはわかりません(まずGreenland4さんは基本的な文献を読まれたことがあるのですか?政教分離の歴史において一般に政治的アウグスティヌス主義と呼ばれる二元論が重視されるのはハンス・ブルーメンベルクの著名な指摘も含めて、かなり常識的な範疇に属すと思われますが、ルターの二世界論はその典型的なものの一つです)。これを政教分離の歴史に書くべきでないという主張は根拠付けされているようには思われません。むしろルターの提題が政治問題化していく過程はそれこそ個別の記事で述べられるべきで、実際95ヶ条の論題にはそれが政治問題化する過程は背景説明などがやや不足している気がしますが、一通り書かれております。この記事で直接扱うべきことではないと思われます。少なくともルターの二世界論に比べれば、ヴォルムス勅令以前の贖宥状問題の政治問題化過程は蛇足に思え、政治問題化し宗教戦争につながったという書き方で済ませてよい気がします。ルターの二世界論をちゃんと理解しての発言とは思えません。そして記事のレベルとして中高生を対象にしているというのもおかしな話です。ウィキペディアは中高生向きの百科事典だったのでしょうか。対象を中高生に絞り、教科書気分で作られるなら、それはウィキブックスに書くほうがよいのではないでしょうか。--硯箱(会話) 2017年7月4日 (火) 02:01 (UTC)
- あのですね。「鎌倉仏教」をもう一度よく御覧いただきたいのですね。最初に、中学のどの教科書でも書いてあるようなことを表で示して、中ほどに高校レベルで扱う「旧仏教の刷新」を説明し、最後に大学・一般向け(というほどではありませんが)、研究史に対する説明している。さらに、八宗体制論について学びたい人には別記事「八宗体制論」を用意している。普通は、そういう書き方をするものなんです。人にわからせよう、説明しようというのならば。最後まで読んでくれる人もいるかもしれないが、途中まで読んでくれて、でも、何ほどかのことがわかった、頭のなかで整理できたというのであれば、それはそれでいいわけでしょう? でも、この記事はそもそも「説明する」とは書いてなくて「概観する」と書いているんですね。そんな独りよがりのセリフは個人のブログのなかで吐いていただきたいのですよ。勉強不足は認めますが、しかしまあ、勉強したら少なくともこれよりはましな説明ができると思います。悩みは僻地に住んでいて、よい図書館がなくて文献がそろえられないことですね。いずれにせよ、中高生にもわかるように書くことは、一般読者にもわかりやすくなるはずだと思いますね。別段、読者を中高生に限定みたいな話はしていないはずです。--Greenland4(会話) 2017年7月4日 (火) 03:14 (UTC)
- 記事のスタイルの問題と内容の問題を混濁されていませんか?そもそも政教分離の歴史と鎌倉仏教を同一レベルで論じるというところがまずわからない(記事のスタイルとしてGreenland4さんの書き方がスタンダードだとはどこにも書いていないうえ、記事ごとに対象読者が異なるのは普通。専門記事に専門的な内容がないのはおかしい)うえに、私の発言の主意は少なくともヴォルムス勅令前後の説明の不足そのものを言うのはわかるが、それはこの記事に書かれるべき内容かと言えばそうではないと思われることを言っています。そのうえでGreenland4さんは宗教改革そのものの背景について多く誤解されているように思われ、明らかに史実と異なる点については指摘する必要があって指摘したのです。政教分離の歴史として見たとき、ルターの二世界論を書かずにヴォルムス国会の政治的背景について深く掘り下げて書くことは、鎌倉仏教において法然の専修念仏を書かずに顕密体制や八宗体制を本論で論じるのと同じでしょと言っているのです(後世への影響を考えれば、思想史的な問題が中心になるべきところで思想面での直接的な問題を論じずに社会史的背景に注力するのはおかしい)。これでわかりますかね?--硯箱(会話) 2017年7月4日 (火) 03:38 (UTC)
- ちなみにこれは完全な追伸ですが、話題に出たので付け加えると、現在の鎌倉仏教記事も顕密体制(八宗体制)論記事もとくにその中心的主題である「王法仏法相依」に関し、北条時頼期の幕政における宗教体制の転換、および後醍醐天皇の宗教政策の転換というかなり重要な論点がほぼ完全に抜け落ちているように思われます。また摂関期・院政期における宗教政策の影響という最も大事な論点が欠けているように思われます。この点現状の記事はやや内容的には古く思われ、好評を持って迎えられた今日的研究である上島享『日本中世社会の形成と王権』は踏まえられるべきように思われます。参考になれば幸いです。--硯箱(会話) 2017年7月4日 (火) 05:19 (UTC)
- 記事のスタイルの問題と内容の問題を混濁されていませんか?そもそも政教分離の歴史と鎌倉仏教を同一レベルで論じるというところがまずわからない(記事のスタイルとしてGreenland4さんの書き方がスタンダードだとはどこにも書いていないうえ、記事ごとに対象読者が異なるのは普通。専門記事に専門的な内容がないのはおかしい)うえに、私の発言の主意は少なくともヴォルムス勅令前後の説明の不足そのものを言うのはわかるが、それはこの記事に書かれるべき内容かと言えばそうではないと思われることを言っています。そのうえでGreenland4さんは宗教改革そのものの背景について多く誤解されているように思われ、明らかに史実と異なる点については指摘する必要があって指摘したのです。政教分離の歴史として見たとき、ルターの二世界論を書かずにヴォルムス国会の政治的背景について深く掘り下げて書くことは、鎌倉仏教において法然の専修念仏を書かずに顕密体制や八宗体制を本論で論じるのと同じでしょと言っているのです(後世への影響を考えれば、思想史的な問題が中心になるべきところで思想面での直接的な問題を論じずに社会史的背景に注力するのはおかしい)。これでわかりますかね?--硯箱(会話) 2017年7月4日 (火) 03:38 (UTC)
- あのですね。「鎌倉仏教」をもう一度よく御覧いただきたいのですね。最初に、中学のどの教科書でも書いてあるようなことを表で示して、中ほどに高校レベルで扱う「旧仏教の刷新」を説明し、最後に大学・一般向け(というほどではありませんが)、研究史に対する説明している。さらに、八宗体制論について学びたい人には別記事「八宗体制論」を用意している。普通は、そういう書き方をするものなんです。人にわからせよう、説明しようというのならば。最後まで読んでくれる人もいるかもしれないが、途中まで読んでくれて、でも、何ほどかのことがわかった、頭のなかで整理できたというのであれば、それはそれでいいわけでしょう? でも、この記事はそもそも「説明する」とは書いてなくて「概観する」と書いているんですね。そんな独りよがりのセリフは個人のブログのなかで吐いていただきたいのですよ。勉強不足は認めますが、しかしまあ、勉強したら少なくともこれよりはましな説明ができると思います。悩みは僻地に住んでいて、よい図書館がなくて文献がそろえられないことですね。いずれにせよ、中高生にもわかるように書くことは、一般読者にもわかりやすくなるはずだと思いますね。別段、読者を中高生に限定みたいな話はしていないはずです。--Greenland4(会話) 2017年7月4日 (火) 03:14 (UTC)
- コメント上島享氏の名前もその書名も知っていますが、手元に書籍がない以上、中途半端に言及するわけにはいかないのですね。ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間じゃなくなっちゃいますから。硯箱さんの加筆は大歓迎ですよ。確かに私は大幅に手直しして加筆もしましたが、別段、記事自体は私のものでも何でもなくてウィキペディア財団のものですから。「参考になれば幸い」とおっしゃいましたが、遺漏や情報更新に関して私が全責任を負うということでもないのです。「持ち寄り」が大前提ですから。そこに言及した以上、あなたが書かなくてはならないという話にもなりかねないんですけどね(笑)。ウィキペディアに対する考え方は改められた方がよろしいかと思います。--Greenland4(会話) 2017年7月5日 (水) 23:36 (UTC)
- なるほど、しかし田村圓澄も黒田俊雄も摂関期からの国家と仏教の関係の変化がその立論の中心にありお二方の主題もそこにある(鎌倉仏教が民衆的という性格を持つとすれば、その理由は寺院に対する王朝側の宗教政策の変化により、寺院の経済基盤の変化・王朝からの権門としての自立化、法会の大衆化、寺院内での諸階層の取り込みの進展、すなわち寺院の世俗化などの事象が民衆化の背景にあることは研究成果からも明白である。現況の鎌倉仏教記事では細かな学説史部分にこのような認識の一端は示されているが、なにより近年の鎌倉仏教の再評価は平安仏教の再評価そのものであることに鑑みれば、どこかで整理したその大筋が示される必要があることは火を見るより明らかであろう)ので、参考にしていながら、あえてそれを記載しない理由が私にはわかりませんね。わかりやすい説明を優先して学問的な理解の本筋を示さないというようなことをアマチュアリズムと称してGreenland4さんは正当化する傾向があるように思われます。しかしこのようなことはむしろアマチュアリズムに過剰な期待を寄せ、結果的に内容の悪化とアマチュアリズムなるものそのものへの不信を生む元ではないでしょうか。あくまでたまたま話題に出たのでついでに査読した感じですが、参考になれば幸いです。記事の過不足をアマチュアリズムなる概念をもって、さかんに論じられていましたので、ちょっと気になってしまいましてね。私からすると歴史学的に最も重要な不足のある記事を参考にと言われましても、はあ、その記事、でも大事なところ抜けてますよねとしか言い様がない。この流れの全体は結局アマチュアリズムそのものの否定につながっています。そして、こちらの記事の大事な部分を脚注なり別記事に持って行く根拠にもなりませんよねという話です。査読っていうのは記事内容の適切性をまず第一に考えるべきなのに、アマチュアリズムなる概念を理由に不適切な内容を根拠なく提示して混乱させるのはよろしくないと思います。ウィキペディアのアマチュアリズムがあるとすれば、それは無際限のアマチュアリズムではないのであって、信頼できる情報源を示して方針的に適切な内容を記載するという原則あってのアマチュアリズムです。勉強不足な人が勉強不足なまま、出典のない個人的感想を膨らませて書く場所ではありません。また私が申したように、この時期の政治関係は国制改革も複雑に絡んできますので、個々の事象に直接的な「なぜなに」は可読性の問題もあり、個々の事象の個別記事に記載されるべきでしょう。疑問を持った人が個別記事を読めばわかるようにハイパーリンクを張ればよい(本来はそういう構造になっているのがウィキペディアのスタンダードでしょう?)。とくに宗教改革の社会史的背景についてはここでそれほど深く触れる必要はないように思いますし、この記事が触れていないのは分割以前の記事に民衆信仰の高まりや公会議主義思想、全宗教改革的な教会改革論、人文主義など一通り書かれていたことにあり、記載がないわけではないので、それこそハイパーリンクで処理すればいいんじゃないですか。こだわる理由がわかりません。ましてや主要なコンテンツである二世界論を外せという主張は暴論でしかないので、根本的に主題への無理解を呈しているとしか言い様がありません。典型的な「木を見て森を見ず」式の主張に思われます。この節の始めでGreenland4さんは「レポートを受理した指導教官の気持ち」で査読することを提言されております。大上段に構えるのは結構ですが、勉強不足を早々に自ら認めさせられても文献一つも示すことが出来ないまま、ぐだぐだ言い訳をする人が「指導教官」とは片腹痛いのではないでしょうか。私はGreenland4さんをその記事履歴から非常に理性的で歴史学的な知識が豊富だと判断していたのですが、個別に実際にその執筆記事を検討したり、こうして議論で向かい合いますと、それも認識を改めねばならないかもしれません。--硯箱(会話) 2017年7月6日 (木) 03:07 (UTC)
- コメント上島享氏の名前もその書名も知っていますが、手元に書籍がない以上、中途半端に言及するわけにはいかないのですね。ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間じゃなくなっちゃいますから。硯箱さんの加筆は大歓迎ですよ。確かに私は大幅に手直しして加筆もしましたが、別段、記事自体は私のものでも何でもなくてウィキペディア財団のものですから。「参考になれば幸い」とおっしゃいましたが、遺漏や情報更新に関して私が全責任を負うということでもないのです。「持ち寄り」が大前提ですから。そこに言及した以上、あなたが書かなくてはならないという話にもなりかねないんですけどね(笑)。ウィキペディアに対する考え方は改められた方がよろしいかと思います。--Greenland4(会話) 2017年7月5日 (水) 23:36 (UTC)
- 返信 なるほど。そこまで読んでくださいましたか。恐れ入ります。正直、だいぶ前に書いたものなので忘れていました。図書館に本を返すときにはいくらか気にするんですが、そのうち別のことが気になってそっちへ行っちゃうというところがあるんですね。おっしゃる通りです。私は歴史学的な知識は別段豊富ではないですよ。それは硯箱さんの買いかぶりです。むしろ御指摘のとおり、知らないことが多い。認識はあらためていただいて結構です。ただ、ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間ではなくなってしまうというのは、繰り返し申し上げたいところです。記事の私物化や編集権ということが他の人から指摘されていたようなので。--Greenland4(会話) 2017年7月6日 (木) 22:13 (UTC)
- 「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則、そのとおりです。私が問題視しているのは、では翻って最初にここの査読でGreenland4さんが提示した「割と小中学生にもわかる理屈」はとてもまともな本に書いてあるものとは思えないが、それを査読として提示するのはどうなのか、混乱の元にならないかということです。ここまでそういう文献に基づいて議論するということがこのノートではなおざりにされ続けています。私がこの記事を私物化していると主張している連中は、「ボクの考える政教分離」を振りかざして、この記事が独自研究といいながらやってきたわけですが、私がただ単に相手の主張が「そんなこと書籍を見ても書いてないでしょ、文献出せよ」と言っても出さない(ついでに文献を出しても読み間違っているので、指摘しても受け入れない)。「独自研究独自研究」と叫ぶが、私が「参考文献に書いてあるじゃねーか、見ろよ」と言っても見ないばかりか、「その参考文献が独自研究だ」みたいな意味不明な論理を展開する。そうして私が明らかにおかしなことを却下していることを記事を私物化していると印象づけ、編集権の主張だという(ついでに記事ほぼ全面に要出典を見境なしに貼り付けて、独自研究タグなども議論せずにどんどん貼っていく、駄々っ子のようで呆れましたが。典型的なタグ貼り荒らしですよ。最近のウィキペディアではこういう荒らしは容認されるようになっているらしいですが、上で【その「要出典」は多くは私が付与したものですが、それは硯箱さんとの対立的な議論のなか、「そこまでいうなら出典くらい明記してください」という思いを込めて付けたものでした。】というタグ貼り付け当事者の述懐があるように、体よく言ってはいますが、要は報復目的だということをゲロってます。要出典タグの本来の使い方は事実と異なる点について明確にすべき箇所に貼るもので、出典のないところに見境なく張るものではないことは周知の通りです)。馬鹿らしいでしょ。これが繰り返されているんですよ。で、Greenland4さんも結局皇帝と教皇のプロレスにルターが闖入みたいな話を作って、「ここに政教分離の歴史としての成分は50%くらいはあるぜ(ドヤ」みたいな話をしてしまってはやってることはこうした連中と変わらんでしょ、典型的な「ボクの考える~」論ですよ。「もっと冷静になれよ」という話です。--硯箱(会話) 2017年7月7日 (金) 04:12 (UTC)
- この記事の問題点は未完なところにあるのであり、10年間もスタブ状態が放っておかれたのですから、「ボクの考える政教分離」「こう書こうぜ」という論が噴出するのは当然だと思います。未完状態をどう解消していくのか、みなさんの御協力をあおぐのがよいかと思います。そのためのノートです。ノートでの議論については出典明記の義務はないはずです。ただ、本文に関しては、報復目的であれ何であれ、貼られたものを勝手にはがすわけにはいかないので、これについては手元に文献のそろっている硯箱さんに御協力をお願いしたいところです。TENさんは、一生懸命その作業をやってくださって、KANBUNさんの書かれた記事を守ろうとしてくださっており、たいへん頭が下がります。何とぞ、よろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2017年7月7日 (金) 12:09 (UTC)
- 私も黙っておりましたが、TENさんの地道な作業には私も心から感謝を申し上げたいです。私自身は編集合戦を防ぐため加筆には加わらないという明確な約束事もあり、動けないので、地道にやって下さる方がいるのは実にありがたいです。私も文献情報をTENさんに具体的に教えた方がよいのかだいぶ迷いましたが、一方で私は敵も多いようなので、変なトラブルに巻き込まれないよう、あくまで独自にやってもらったほうがよいと思い、この点については見て見ぬふりを通しておりました。
- さて、しかし気になるのは【「ボクの考える政教分離」「こう書こうぜ」という論が噴出するのは当然だと思います。(中略)ノートでの議論については出典明記の義務はない】というような見解です。これは明らかに問題で、個々の「ボクの考える政教分離」を検証する文献的裏付けがなければ、これは要するにノートで独自研究を始めるということですから、これは明白に方針文書に反する行動ですので、耳を疑うところがあります。なるほど、最近のウィキペディアの質の低下の原因と議論の流れのいい加減さはここにあったかと気づかされました。Greenland4さんほどの方でも、いやむしろ独自のアマチュアリズムを信奉しておられるらしいGreenland4さんだからこそなのでしょうね。ここのノートでも信頼できる文献の情報が独自研究で、文献に基づかない検証可能でもない情報を中立的な観点などと強弁する論理がまかり通っていましたが、その精髄を今このGreenland4さんの発言に見て、私は呆れましたね。なるほど、どうりであのようなプロレス理論になるんですねぇ……。そうであれば、もうほとんど言うことはないですねぇ、無駄でしょう。--硯箱(会話) 2017年7月7日 (金) 12:51 (UTC)
- この記事の問題点は未完なところにあるのであり、10年間もスタブ状態が放っておかれたのですから、「ボクの考える政教分離」「こう書こうぜ」という論が噴出するのは当然だと思います。未完状態をどう解消していくのか、みなさんの御協力をあおぐのがよいかと思います。そのためのノートです。ノートでの議論については出典明記の義務はないはずです。ただ、本文に関しては、報復目的であれ何であれ、貼られたものを勝手にはがすわけにはいかないので、これについては手元に文献のそろっている硯箱さんに御協力をお願いしたいところです。TENさんは、一生懸命その作業をやってくださって、KANBUNさんの書かれた記事を守ろうとしてくださっており、たいへん頭が下がります。何とぞ、よろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2017年7月7日 (金) 12:09 (UTC)
- 「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則、そのとおりです。私が問題視しているのは、では翻って最初にここの査読でGreenland4さんが提示した「割と小中学生にもわかる理屈」はとてもまともな本に書いてあるものとは思えないが、それを査読として提示するのはどうなのか、混乱の元にならないかということです。ここまでそういう文献に基づいて議論するということがこのノートではなおざりにされ続けています。私がこの記事を私物化していると主張している連中は、「ボクの考える政教分離」を振りかざして、この記事が独自研究といいながらやってきたわけですが、私がただ単に相手の主張が「そんなこと書籍を見ても書いてないでしょ、文献出せよ」と言っても出さない(ついでに文献を出しても読み間違っているので、指摘しても受け入れない)。「独自研究独自研究」と叫ぶが、私が「参考文献に書いてあるじゃねーか、見ろよ」と言っても見ないばかりか、「その参考文献が独自研究だ」みたいな意味不明な論理を展開する。そうして私が明らかにおかしなことを却下していることを記事を私物化していると印象づけ、編集権の主張だという(ついでに記事ほぼ全面に要出典を見境なしに貼り付けて、独自研究タグなども議論せずにどんどん貼っていく、駄々っ子のようで呆れましたが。典型的なタグ貼り荒らしですよ。最近のウィキペディアではこういう荒らしは容認されるようになっているらしいですが、上で【その「要出典」は多くは私が付与したものですが、それは硯箱さんとの対立的な議論のなか、「そこまでいうなら出典くらい明記してください」という思いを込めて付けたものでした。】というタグ貼り付け当事者の述懐があるように、体よく言ってはいますが、要は報復目的だということをゲロってます。要出典タグの本来の使い方は事実と異なる点について明確にすべき箇所に貼るもので、出典のないところに見境なく張るものではないことは周知の通りです)。馬鹿らしいでしょ。これが繰り返されているんですよ。で、Greenland4さんも結局皇帝と教皇のプロレスにルターが闖入みたいな話を作って、「ここに政教分離の歴史としての成分は50%くらいはあるぜ(ドヤ」みたいな話をしてしまってはやってることはこうした連中と変わらんでしょ、典型的な「ボクの考える~」論ですよ。「もっと冷静になれよ」という話です。--硯箱(会話) 2017年7月7日 (金) 04:12 (UTC)
- 返信 なるほど。そこまで読んでくださいましたか。恐れ入ります。正直、だいぶ前に書いたものなので忘れていました。図書館に本を返すときにはいくらか気にするんですが、そのうち別のことが気になってそっちへ行っちゃうというところがあるんですね。おっしゃる通りです。私は歴史学的な知識は別段豊富ではないですよ。それは硯箱さんの買いかぶりです。むしろ御指摘のとおり、知らないことが多い。認識はあらためていただいて結構です。ただ、ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間ではなくなってしまうというのは、繰り返し申し上げたいところです。記事の私物化や編集権ということが他の人から指摘されていたようなので。--Greenland4(会話) 2017年7月6日 (木) 22:13 (UTC)
- 返信 「政教分離の歴史」というテーマはひじょうに大きなテーマであり、たとえば、そこにマキァヴェリ『国家論』を含めるかどうか、ルター「二世界論」を含めるかどうかというのは、大きな問題点として存在すると思うのです。それについてだけでも、AB両方含める、Aだけ含める、Bだけ含める、両方含めない、の4通りの意見が考えられます。こういうことに意見を戦わせることは不毛なことではないと考えます。それぞれの歴史観なり「政教分離」という事象に対する考え方の違いなのですから、おおいに論じ合えばよい。そして、「政教分離の歴史を考えるとき、「二世界論」は必須である」とか「マキァヴェリの思想は政教分離にとっては不要な情報である」というふうなことをわざわざ書いてある文献というのも考えにくいわけです。そこではお互い、自由で対等な立場で話し合えばよいと思うのです。ここにおいて自分はこの分野において通じているからとか、自分はプロだからなどということは持ち出すべきではないと考えます。もちろん、プロの参加を拒むという意味では決してありません。そこは誤解していただきたくないところです。『世界大百科事典』の記述に即していえば、政教分離成立過程には叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つの大きな画期があるということならば、叙任権闘争の前と後、宗教戦争の前と後、フランス革命の前と後で、教会と国家の関係がどう変わったかを書けばよいという考え方もあります。そういう考え方に立てば、宗教戦争のなかみを事細かく書く必要もないし、硯箱さんが「最低限に絞った」として書いてくださった「16世紀第一四半期の神聖ローマ帝国の政局」は不要かもしれない。単純に宗教戦争の始まる1500年段階の政教関係とそれが終わった1648年段階の政教関係を比較して、「だから宗教戦争は画期だったのだ」と書き上げる方法もある。これはあくまでも素人考えなわけですけれども、素人考えだからといって否定されるべきものではないでしょう。そして、あえていえば、こういう書き方からすれば、硯箱さんの精密正確な史実記載よりも、硯箱さんが馬鹿にしてやまない私のプロレス議論の方が「わかりやすい」のかもしれません。というのは、「聖書のどこにも教会のことなんか書いていない」という事実が(「聖書のみ」「信仰のみ」という考え方が宗教戦争を通じて)人びとに広く知られるようになったことの方がルター登場後の「最低限に絞った」史実の概略よりも「政教分離の歴史」というテーマに即しているという見方も成り立つからです。扱う対象が巨視的な視野を必要とするならば、テーマに直結した方がわかりやすいし、ある意味正確でもある。TENさんがフォローしてくださったのは、おそらくそういうことではないかと思います。そして、ものの知らない私であっても、本文に書くときはプロレスを事実としては書きませんよ。当たり前のことですが。私は、書籍に書いてあることをページも明示しながら書きます。いつも手前味噌ですみませんが、最近書いた「タンジマート」でも一文につき1~2の出典をつけています。今はこれくらいやらないとダメなんです。で、話をもとにもどしますが、読者が政局の詳細と「プロレス」のどちらを望んでいるかということに関していえば、これまた硯箱さんが軽蔑してやまない「素人目線」が必要だろうということなのです。そういう面からすれば、ノートでの議論で、いちいち「良心」だとか「常識」だとかを持ち出すプロというのは実にハタ迷惑な存在となるはずで、「良心がない」「常識がない」というのは人間に対する侮辱としてはおそらく最大級のものと思われるのに、何でたかが素人がつくる百科事典の議論で、素人の素朴な意見を言っただけなのにそこまでの侮辱を受けなくてはならないのかという話になるでしょう。議論のなかで文献の提示をしあうということは当然あってもいいわけですし、それには喧嘩にならないよう、誠実に向かいあう必要があります。しかし、それは大前提ではなく、必要に応じての話です。記事がある程度しっかりしていれば、ノートでの議論はそもそも発生しないものだからです。自分としては、あなたがKANBUNさんの労作をほんの少しでも大切に思う気持ちがあるのなら、どうして本文のルターに関する記事の「二世界論」に関する出典を付けてやらないのか?と思います。どんな大学生向けの教科書にも書いてあるのなら、その教科書を参考文献に掲げて該当文献のページを本文に添付してあげたらいいでしょう。そこで初めて検証可能性が生まれるのであって、単に「二世界論」というだけであっては、歴史学で扱う思想史上の概念なのか、そういう歴史認識を教義のなかに含めもつひとつの宗教的立場なのか判別もできないのです。本文に「要出典」「独自研究」というタグが貼られている以上、いつ誰によって削除されても仕方ないのであり、私の見解もそこから出ています。ノートで喧嘩しているヒマがあったら、何で出典を付けて差し上げないのですか。ほんの数分の作業でしょう。蛇足ながら、「政教分離における歴史学的視座」なる分割前のさまざまな論考、あれを冒頭に伏す時間があるんだったら、その分、啓蒙主義なりフランス革命なりについて加筆すればよかったでしょう。未完というのは、キツイ言い方をすれば欠陥記事なのであり、硯箱さんの行動は一生懸命墓穴を掘っているようにしかみえない。スタブ解消と要出典・独自研究タグの除去こそ、この記事を守るために硯箱さんが真っ先に行うべきことじゃないんでしょうか。それができない人ではないし、誰よりも上手に完璧にできる人のはずなのに、どうしてなさろうとしないのか、私には不思議でなりません。「喧嘩目的かよ、来るんじゃなかった」とは硯箱さん以外の議論参加者がおそらく誰しも感じていることであり、こういう膨大な議論もまた、本文をただ参照している人からみれば知らぬ存ぜぬの世界なのです。コップのなかの嵐をわざわざ覗きにくる酔狂な人もいません。(宗教の話や政治の話にはなるべくかかわらないし、かかわりたくないというのが普通です。)だからこそ、本文に関しては「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」原則をただちに実行にうつしてください。「賛成です」というのでなく、これはルールなのです。サッカーで手を使ってはいけないのと同じレベルのルールなのです。ルールが守れない人はどんな名プレイヤーでも退場が宣告されるでしょう。そして、なぜルールになっているのか納得できないというのなら方針文書を熟読なさってください。(TENさんだって、本来ならば10年前に書かれた記事の出典を添付するような、いわば人の尻ぬぐいをやらなくてはならないのは本意ではないでしょう。私はそこは本当に申し訳なく思います。ただ、私もおいおいお手伝いしようとは思っています)。返信無用です。よろしくお願いいたします。
--Greenland4(会話) 2017年7月8日 (土) 01:47 (UTC)(補筆)--Greenland4(会話) 2017年7月8日 (土) 02:30 (UTC)
- 返信 「政教分離の歴史」というテーマはひじょうに大きなテーマであり、たとえば、そこにマキァヴェリ『国家論』を含めるかどうか、ルター「二世界論」を含めるかどうかというのは、大きな問題点として存在すると思うのです。それについてだけでも、AB両方含める、Aだけ含める、Bだけ含める、両方含めない、の4通りの意見が考えられます。こういうことに意見を戦わせることは不毛なことではないと考えます。それぞれの歴史観なり「政教分離」という事象に対する考え方の違いなのですから、おおいに論じ合えばよい。そして、「政教分離の歴史を考えるとき、「二世界論」は必須である」とか「マキァヴェリの思想は政教分離にとっては不要な情報である」というふうなことをわざわざ書いてある文献というのも考えにくいわけです。そこではお互い、自由で対等な立場で話し合えばよいと思うのです。ここにおいて自分はこの分野において通じているからとか、自分はプロだからなどということは持ち出すべきではないと考えます。もちろん、プロの参加を拒むという意味では決してありません。そこは誤解していただきたくないところです。『世界大百科事典』の記述に即していえば、政教分離成立過程には叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つの大きな画期があるということならば、叙任権闘争の前と後、宗教戦争の前と後、フランス革命の前と後で、教会と国家の関係がどう変わったかを書けばよいという考え方もあります。そういう考え方に立てば、宗教戦争のなかみを事細かく書く必要もないし、硯箱さんが「最低限に絞った」として書いてくださった「16世紀第一四半期の神聖ローマ帝国の政局」は不要かもしれない。単純に宗教戦争の始まる1500年段階の政教関係とそれが終わった1648年段階の政教関係を比較して、「だから宗教戦争は画期だったのだ」と書き上げる方法もある。これはあくまでも素人考えなわけですけれども、素人考えだからといって否定されるべきものではないでしょう。そして、あえていえば、こういう書き方からすれば、硯箱さんの精密正確な史実記載よりも、硯箱さんが馬鹿にしてやまない私のプロレス議論の方が「わかりやすい」のかもしれません。というのは、「聖書のどこにも教会のことなんか書いていない」という事実が(「聖書のみ」「信仰のみ」という考え方が宗教戦争を通じて)人びとに広く知られるようになったことの方がルター登場後の「最低限に絞った」史実の概略よりも「政教分離の歴史」というテーマに即しているという見方も成り立つからです。扱う対象が巨視的な視野を必要とするならば、テーマに直結した方がわかりやすいし、ある意味正確でもある。TENさんがフォローしてくださったのは、おそらくそういうことではないかと思います。そして、ものの知らない私であっても、本文に書くときはプロレスを事実としては書きませんよ。当たり前のことですが。私は、書籍に書いてあることをページも明示しながら書きます。いつも手前味噌ですみませんが、最近書いた「タンジマート」でも一文につき1~2の出典をつけています。今はこれくらいやらないとダメなんです。で、話をもとにもどしますが、読者が政局の詳細と「プロレス」のどちらを望んでいるかということに関していえば、これまた硯箱さんが軽蔑してやまない「素人目線」が必要だろうということなのです。そういう面からすれば、ノートでの議論で、いちいち「良心」だとか「常識」だとかを持ち出すプロというのは実にハタ迷惑な存在となるはずで、「良心がない」「常識がない」というのは人間に対する侮辱としてはおそらく最大級のものと思われるのに、何でたかが素人がつくる百科事典の議論で、素人の素朴な意見を言っただけなのにそこまでの侮辱を受けなくてはならないのかという話になるでしょう。議論のなかで文献の提示をしあうということは当然あってもいいわけですし、それには喧嘩にならないよう、誠実に向かいあう必要があります。しかし、それは大前提ではなく、必要に応じての話です。記事がある程度しっかりしていれば、ノートでの議論はそもそも発生しないものだからです。自分としては、あなたがKANBUNさんの労作をほんの少しでも大切に思う気持ちがあるのなら、どうして本文のルターに関する記事の「二世界論」に関する出典を付けてやらないのか?と思います。どんな大学生向けの教科書にも書いてあるのなら、その教科書を参考文献に掲げて該当文献のページを本文に添付してあげたらいいでしょう。そこで初めて検証可能性が生まれるのであって、単に「二世界論」というだけであっては、歴史学で扱う思想史上の概念なのか、そういう歴史認識を教義のなかに含めもつひとつの宗教的立場なのか判別もできないのです。本文に「要出典」「独自研究」というタグが貼られている以上、いつ誰によって削除されても仕方ないのであり、私の見解もそこから出ています。ノートで喧嘩しているヒマがあったら、何で出典を付けて差し上げないのですか。ほんの数分の作業でしょう。蛇足ながら、「政教分離における歴史学的視座」なる分割前のさまざまな論考、あれを冒頭に伏す時間があるんだったら、その分、啓蒙主義なりフランス革命なりについて加筆すればよかったでしょう。未完というのは、キツイ言い方をすれば欠陥記事なのであり、硯箱さんの行動は一生懸命墓穴を掘っているようにしかみえない。スタブ解消と要出典・独自研究タグの除去こそ、この記事を守るために硯箱さんが真っ先に行うべきことじゃないんでしょうか。それができない人ではないし、誰よりも上手に完璧にできる人のはずなのに、どうしてなさろうとしないのか、私には不思議でなりません。「喧嘩目的かよ、来るんじゃなかった」とは硯箱さん以外の議論参加者がおそらく誰しも感じていることであり、こういう膨大な議論もまた、本文をただ参照している人からみれば知らぬ存ぜぬの世界なのです。コップのなかの嵐をわざわざ覗きにくる酔狂な人もいません。(宗教の話や政治の話にはなるべくかかわらないし、かかわりたくないというのが普通です。)だからこそ、本文に関しては「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」原則をただちに実行にうつしてください。「賛成です」というのでなく、これはルールなのです。サッカーで手を使ってはいけないのと同じレベルのルールなのです。ルールが守れない人はどんな名プレイヤーでも退場が宣告されるでしょう。そして、なぜルールになっているのか納得できないというのなら方針文書を熟読なさってください。(TENさんだって、本来ならば10年前に書かれた記事の出典を添付するような、いわば人の尻ぬぐいをやらなくてはならないのは本意ではないでしょう。私はそこは本当に申し訳なく思います。ただ、私もおいおいお手伝いしようとは思っています)。返信無用です。よろしくお願いいたします。
この宗教改革前後の流れを今日的な通説に即してかなり端折って整理すれば、まず15世紀後半から帝国の国政改革が進行しており、それに関連して『皇帝ジギスムントの改革』なる文書が一部で広まった(が、忘れられていた)。マクシミリアン1世の時代になると公会議運動に影響を受けた改革運動が実行に移されたが、これは皇帝と諸侯の調和的な関係を目指したにもかかわらず、実際に現れたのは様々な局面での皇帝と諸侯の対立であった。同時に中央集権化を進め、百年戦争を経て領域国家化したイギリス・フランスとの競合関係が意識され、国民性・国家性が意識されるようになり、【「ドイツ国民の」神聖ローマ帝国】という称号が公文書に採用されるとともに、選挙から戴冠式にいたる皇帝即位のプロセスのすべてでローマ教皇の関与は排除され、皇帝位はローマ教皇権の権威から完全に自立した。一方でこの時期帝位を世襲し始めたハプスブルク家は神聖ローマ帝国外に支配領域を拡大するようになり、諸侯はドイツ以外でハプスブルク家が遂行する政策や戦争に巻き込まれることを危惧し、協力することに消極的だった。実際ハプスブルク家は自家の支配下にある領域を接続することを意図した地政学的政策をとっており、それは神聖ローマ帝国一般の利害とは必ずしも一致していなかった。こうした状況は皇帝の政策の一つ一つに対して諸侯に疑心暗鬼を抱かせ、改革の必要性とは裏腹に実際の帝国改革の局面で改革を遅延させる逆ベクトルをしばしば発生させた。こうした事態が進んだ背景には当時ヨーロッパではコーポレーション的観念が一般化し、王冠概念・国庫概念の進展と錯綜しながら、国家を法人格で捉える考え方が一般化したことにある。また神の平和運動に連なる平和共同体思想の影響も見逃せない。神聖ローマ帝国ではこうした改革の努力は帝国統治院(しかし実質的な機能は限られた)と帝国クライスという形に結実し、英仏とは異質な、実質的な連邦国家が形成された。ルターの95箇条の論題は当初こうした帝国の政治問題とは無縁であり、ルター自身もそれを政治問題としてではなく、特殊な教義問題として提出していた。ルターの意図(贖宥状に関わる教義問題の明確化)に反して論題は(「贖宥状批判」の論として)ドイツ語訳されてパンフレットとして流布した。しかし贖宥状は1518年アウクスブルクでオスマントルコへの十字軍税を教皇特使が諸侯に求めたときに政治問題化することとなった。諸侯はドイツ人民の疲弊を理由に、教会へのこれ以上の金銭的奉仕に一致して反対した(帝国議会で贖宥状が議題に上ったのはこれが初めてで、しかも反対意見の第一項に十字軍税とともに記載された。またこれには贖宥状販売を主導していたマインツ大司教アルブレヒトも諸侯筆頭として署名しているが、背景には皇帝選挙を巡る複雑な政治的駆け引きと買収、妥協と帝国諸侯の一致を国内外に示す政治的効果への配慮があった。時期的にもきわめて注目すべきであるにも関わらず、従来ルターの動向のみに的を絞っていた宗教改革研究で、この十字軍税と贖宥状問題は比較的最近まで見過ごされてきた。従来の研究が見過ごしていたことからわかるように、これは市井の一ベストセラー作家であるルター個人の言動とは無関係な政治力学が働いていたものである)が、これも背景には公益性と結びついた国庫概念の影響や国民意識の高まりがあった。しかし教皇特使はこの背景に当時流布していたルターの影響を見(実際ルターは贖宥状批判の先鋒でもなかったし、贖宥状そのものを批判していたわけではないのでこれは厳密には目論見違いであるが)、ルターを敵視するドミニコ会の運動もあり、ルターを召喚し審問することになる。議論は平行線をたどったが、事態を通して教会に対する批判精神を高めたルターは1520年に一連の三大改革文書を発表し、明確に教皇権を攻撃するようになり、ルター問題は完全に政治化した。このなかでとくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』は「万人司祭主義」と義認教会論を展開し、また忘れられていた『皇帝ジギスムントの改革』に注意を向け、そのラディカルな改革精神を鼓吹した(ルターのこの論文の影響で『皇帝ジギスムントの改革』が広く知れ渡るにいたったことは有力説で、おそらく定説である)。教皇はこれに対し1521年破門を宣告し、皇帝はこの問題をヴォルムス国会で扱うこととした。ヴォルムス勅令によってルターは異端とされ帝国追放を受けたが、密かにザクセンに匿われることとなる。フランスでは王権による聖職者への課税が許されているのに対し、ドイツでは逆に諸侯や都市が教会への金銭的負担をしている現状につねづね不満を持っていた諸侯や都市はこれをきっかけに改革運動を展開していく。一方当初はルターに好意的だった言論界は破門前後に分裂して批判の応酬を始め、ルターとは無関係な遠隔の地域社会で進んでいた類似の改革運動も巻き込んで宗教改革問題は全ヨーロッパ規模で議論されるようになった。この過程で改革運動は急進的な社会変革運動として暴発する事態(騎士戦争・農民戦争)もあり、ルターや諸侯の意図を越えて帝国国制を動揺させることともなった。ルターはこうした事態に諸侯の世俗的権力を擁護する論陣(二世界論、領邦教会制の理論的根拠となる)を張り、諸侯の側も(プロテスタント・カトリック問わず)教会統制を強めた。この間国内問題やオスマン帝国問題を抱えた諸侯と皇帝は協力的であり、1526年のシュパイアー帝国議会では改革派に大幅な譲歩が見られた。しかし、1529年のシュパイアー帝国議会ではカトリック側の強硬な姿勢で26年の決定が覆され、改革派諸侯はこれに猛然と「プロテスト」した。1530年のアウクスブルク帝国議会の段階においてカール5世は対外問題(またカール5世はこの年帝国議会以前にボローニャで教皇のイタリア王とローマ皇帝としての戴冠を受けて協力関係を築いていることから正統信仰を擁護する立場を鮮明にする必要があった。この戴冠式はローマ教皇による伝統的な戴冠の最後の事例であるが、ドイツ諸侯は参加しておらず、もはやドイツ国制上に位置づけられたものではないとするのが定説)をほぼすべて解決しており、こじれたドイツ国内の問題を根本的に解決せんとし、改革派諸侯も当初は平和的解決に期待を寄せたが、結局決裂した。・・・・・・(以下本文)といった感じでしょうか。かなり最低限に絞りましたが--硯箱(会話) 2017年7月4日 (火) 11:05 (UTC)
余談ですが、日本の宗教政策は聖徳太子の時代などは非常に重要ですが、鎌倉仏教は国家体制主導ではないですから、幕府の宗教政策などを強調する必要はありませんよね。宗教政策の影響を最も大事な論点などと言ってしまわれると、日本の宗教について無知なのだなあと思われますよ。ヨーロッパ風の考え方ですよね。鎌倉仏教を主要な開祖を中心に論じる視点は間違ってません。硯箱さんは、手元に蔵書をお持ちなのはわかりますけど、ご自分が思っていらっしゃるほど、宗教全般の知識が完璧というわけでもないということもご自覚頂き、謙虚に耳を傾けながら議論してもらえませんかね。百科事典なんですから、教科書レベルの一般常識論とのバランスをとることは必要でしょう。論じるまでもありません。--ぽてから(会話) 2017年7月6日 (木) 01:15 (UTC)
- ぽてからさんはさすがに勉強不足ですね。私から指摘する必要もないですし、このノートで個人的に向けた追伸の、直接記事内容に関係のない話題に食らいついてくる意味がわかりませんが、文献に基づいて議論することくらいしましょう。感想論ばかりで実がありませんし、上の発言は逆に無知をさらけ出しております。この場合、文献も示さずに好き勝手に印象論を語っている側と、学説史を丁寧に踏まえ、文献を示しながら議論を行っている側のどちらに謙虚さが求められるべきかについても正常な判断が出来ないということであれば、ぽてからさんに議論に参加している意味はあるのでしょうか。これまでのノートでのぽてから氏の発言を見ても、議論攪乱が目に余るところがあります。--硯箱(会話) 2017年7月6日 (木) 03:07 (UTC)
- 横から失礼 ここは査読の場です。雅ハルカさんも仰られていますが、お二方はお互いの知識への批判を避けることはできないでしょうか。不毛な争いを避けるためにコメント禁止にしているのですが、もう争いが起きてしまっています。他の方と意見が異なるのであれば、他人の意見を無視して自分1人で査読すれば良いじゃないですか。これ以上コメントせず、査読だけをすれば争う可能性はなくなります。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月6日 (木) 07:33 (UTC)
- 査読というのは第一に内容面での誤りの有無をチェックするものです。構成面での議論をするなら、それは査読ではなく記事の通常議論です。そのうえで記事内容が基本的に正しい事象を伝えていることに対して、完全に明白に誤っている歴史認識を新たに採用せよという主張はとても査読とは思われません。査読とはまず先行研究を挙げ、そこで挙げられている事実との相違があるならそれを指摘し、研究史的流れを踏まえられているか、先行研究や史実での見落としがないかなど具体的な内容面を扱うものであり、現状はとても査読になっておりません。査読と称して結局のところ通常ノートと同じ議論をするなら、それは特別なルールを設ける必要を感じません。そもそもウィキペディアには現状十分に機能しているかは別として、「Wikipedia:査読依頼」という立派な査読の場があるのですから、そもそもノートでそれをやっている現状が場所を間違えているという本質的な問題をなぜ見逃すのでしょう?査読と称して、とても「査読」になっているとは思えない議論を場所違いも無視して現状やっているわけですが、単純にノートの使い方を間違えている気がします。それもお互いにコメント禁止と不必要な独自ルールを一方的に押しつけるのですから、困ったものです。が、一方でこの査読という名の不可思議な議論が現状のウィキペディアの質というものをよく教えてくれており、個人的には単純に面白くはあります。実際私はこれまでずっとニヤニヤして笑いが止まらない。出鱈目で学問的な裏付けがないことをいかにもストーリーとして面白く仕立て、事実として存在するかのように粉飾し、それを必死に熱弁する、そういう姿を見ていると単純に面白くてしかたがないですね。とてもウィキペディアンとしての本節を全うしているとは思えませんが。これではいけないとウィキペディアの利用者は思わないのでしょうか。思わないんでしょうねぇ。この査読なる部分の議論を追うだけでも明白なのですが、実際面で検証可能性や中立的な観点がかくも容易に踏みにじられているということにコミュニティは問題意識を持っていないように思います。こういうのがアマチュアリズムなんでしょうかね。私は違うと思いますが。--硯箱(会話) 2017年7月6日 (木) 08:27 (UTC)
- 査読という単語についてはともかくとして、売り言葉に買い言葉で反論をして、議論を停滞させるのはやめませんかということだと思います。反感を買う物言いをしているのは硯箱さんも同じです。方針文書の熟読をお願い致します。具体的には「wikipedia:礼儀を忘れない」や「wikipedia:善意にとる」となります。個人攻撃、相手をあざけったり馬鹿にしたりすることは「深刻な例」として紹介されていますのでご確認ください。240F:60:DDAB:1:8853:57CD:2BF0:4847 2017年7月6日 (木) 09:53 (UTC)
- 私個人としては実に議論が活発化しているように見えます。とくに直近議題になっているヴォルムス勅令前後の政治状況について、記事に盛り込むか盛り込まないかは別にして、認識を深めることは悪いことではないでしょう。また「反感を買う物言いをしているのは硯箱さんも同じです」「売り言葉に買い言葉」とおっしゃっているということは、つまり私の論争相手にも「売り言葉」なり問題発言が認められるということでしょうか。その点私も認識は一緒ですが、それはいいでしょう。私自身はとくにこの場で好感を求めているつもりもなく(人気集めをしているわけではありませんから)、事実そのものを多少相手を非難する形で述べているのみです。これは実際問題としてこの記事のノートではほとんど検証可能な文献を示すことが行われておらず、それはGreenland4さんさえ本来最も検証可能性が求められるべき「査読」をすると大上段なことを言いつつ、文献を一つも示さずに単なる感想論を展開しているので、根本的に正常な議論になってない、ということを申しているのです。これがウィキペディアの現状だとすれば、嘆かわしいとは思いませんか。まじめにやるだけ馬鹿を見る議論であることは確かでしょう。私は反応が面白いから一応続けてますが、アマチュアリズムというのは本来ボランタリズムに近い、動機や目的の非商業主義、純粋性、高潔性を言うのであって、一種の専門意識でもあり、Greenland4さんが言うような素人目線を言うのではありません。で、その動機や目的の高潔性という面で考えれば、少なくとも学術的な研究成果に完全に後ろ向きな時点で、ここでの議論はとてもそのような誠実性に基づいているとは思えない、ということです。--硯箱(会話) 2017年7月6日 (木) 10:14 (UTC)
- 私が言葉足らずだったようです。改まったような形になりますが、補足します。既にGreenland4さんの発言で、「コメントを書きあうのは了承しよう」といった旨の表明をされています。しかし、コメントの中で「他人を批判する」というのは違うだろうと思って指摘した次第であります。「コメントをしないようにしてください」は撤回しますが、(ぽてからさんも含め)お互い批判的なコメントは避けていただきたいと思います。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月6日 (木) 11:14 (UTC)
- 私はね、査読には賛成だったんですよ。査読って言うからには内容検討に入るってことですから、適切に査読されるなら、明らかに考えなしで貼られている要出典箇所が検討されるでしょうし、議論が前進すると思ったんです。ところが、実際Greenland4さんがやり始めたのは査読とは全く違う、ただの感想でしょう?それもまだ歴史的事実なり何らかの文献に即して話をしているならわかりますが、文献も何も見ないで、明らかに高校教科書でもそんな書き方せんでしょっていう記述をぶち上げて、「こう書こうぜ」みたいなのをごり押しする議論を始めちゃった。あーなんかウィキペディアでよくある、いつもの出てきたーと私は思いましたよ。曰く「素人目線」。正直ここまでずっとこんな議論ばっかりやってるんですけど、そろそろ記事の要出典箇所とかまじめに出典確認して修正しようと思わないんですかね?これこそ議論の停滞ですよ。私には半ばどうでもいいんですけど。はっきり言ってこの査読なる節の議論は結局のところ、これまで延々と繰り返されてきた「ボクの考える政教分離の歴史」みたいな話に戻っちゃってて、とても生産的とは思えない。ここまでずっとそれで平行線だったんだから、内容の適切性を吟味し、不足を加筆するという方向での本来求められている査読をしなきゃあかんでしょ。--硯箱(会話) 2017年7月6日 (木) 11:30 (UTC)
- つまり、査読するって言うなら、「○○の文献にはこう書いてあるんだけど、なんか記事のここの箇所は違うぞ。なんでこうなってんのかな?」みたいなちゃんと文献に基づいた査読をしないと意味がないでしょ。私は前からここでの議論には必要だと提案してますが、とくに査読に当たっては必ず文献を示して行う程度の縛りがないと、まず前進するとは思えません。いつまでも「ボクの考えた~」が続くのは不毛です。水掛論にならないためには相互コメント禁止なんか実際はどうでもよくて、検証可能性をまず第一にするというほどがよっぽど効果がある。少なくともこれまでの議論で繰り返されてきた文献の裏付けもなく根拠薄弱で感想だけしか言わないような煽り目的としか思われない愚にもつかない応酬は確実に減るでしょうし、生産性は格段に向上するはずです。--硯箱(会話) 2017年7月6日 (木) 12:14 (UTC)
- 査読という単語についてはともかくとして、売り言葉に買い言葉で反論をして、議論を停滞させるのはやめませんかということだと思います。反感を買う物言いをしているのは硯箱さんも同じです。方針文書の熟読をお願い致します。具体的には「wikipedia:礼儀を忘れない」や「wikipedia:善意にとる」となります。個人攻撃、相手をあざけったり馬鹿にしたりすることは「深刻な例」として紹介されていますのでご確認ください。240F:60:DDAB:1:8853:57CD:2BF0:4847 2017年7月6日 (木) 09:53 (UTC)
- 査読というのは第一に内容面での誤りの有無をチェックするものです。構成面での議論をするなら、それは査読ではなく記事の通常議論です。そのうえで記事内容が基本的に正しい事象を伝えていることに対して、完全に明白に誤っている歴史認識を新たに採用せよという主張はとても査読とは思われません。査読とはまず先行研究を挙げ、そこで挙げられている事実との相違があるならそれを指摘し、研究史的流れを踏まえられているか、先行研究や史実での見落としがないかなど具体的な内容面を扱うものであり、現状はとても査読になっておりません。査読と称して結局のところ通常ノートと同じ議論をするなら、それは特別なルールを設ける必要を感じません。そもそもウィキペディアには現状十分に機能しているかは別として、「Wikipedia:査読依頼」という立派な査読の場があるのですから、そもそもノートでそれをやっている現状が場所を間違えているという本質的な問題をなぜ見逃すのでしょう?査読と称して、とても「査読」になっているとは思えない議論を場所違いも無視して現状やっているわけですが、単純にノートの使い方を間違えている気がします。それもお互いにコメント禁止と不必要な独自ルールを一方的に押しつけるのですから、困ったものです。が、一方でこの査読という名の不可思議な議論が現状のウィキペディアの質というものをよく教えてくれており、個人的には単純に面白くはあります。実際私はこれまでずっとニヤニヤして笑いが止まらない。出鱈目で学問的な裏付けがないことをいかにもストーリーとして面白く仕立て、事実として存在するかのように粉飾し、それを必死に熱弁する、そういう姿を見ていると単純に面白くてしかたがないですね。とてもウィキペディアンとしての本節を全うしているとは思えませんが。これではいけないとウィキペディアの利用者は思わないのでしょうか。思わないんでしょうねぇ。この査読なる部分の議論を追うだけでも明白なのですが、実際面で検証可能性や中立的な観点がかくも容易に踏みにじられているということにコミュニティは問題意識を持っていないように思います。こういうのがアマチュアリズムなんでしょうかね。私は違うと思いますが。--硯箱(会話) 2017年7月6日 (木) 08:27 (UTC)
暴言はお控えください。事実とは言えない暴言については除去しました。--ぽてから(会話) 2017年7月7日 (金) 05:24 (UTC)
- 他者の発言の改竄(それも明確な論争相手に対する)は明確なマナー違反です。ぽてからさんのこうした節操のないところ、我慢のきかないところ、自制のない独りよがりな発言をする傾向が完全に議論攪乱になっていることをご理解ください。これまでの議論から明らかなように、たぶんどんなに個人攻撃的な表現だったとしても、ぽてから氏の発言の一部を私が暴言として除去したら、この御仁は私に対してそれを他者の発言改竄だと特筆大書して騒ぎ立てるはずです。しかし自分がやるのは構わない、そういう人です。どちらにせよ他者の発言の改竄はこうした不毛なやりあいにつながるので、やらないほうがよろしい。文献に基づいたフェアな議論だけをすればよいので、ぽてから氏は知識も、ましてや基本的な文献さえも踏まえるつもりはないようですし、文献に基づかずに記事に貢献するとも思えない特定個人ばかりに向けられた発言を繰り返したり、手前味噌で勝手にタグ貼りしている時点で、記事に向き合う誠実性において根本的な問題があることには変わりないのです。正常に文献に基づいて成立すべきはずの記事に対して、端的に言えばこうした行為はその破壊を目的としているわけですから、定義としては明確な荒らしです。--硯箱(会話) 2017年7月7日 (金) 05:59 (UTC)
コメント 見てて呆れます。批判はやめてください。批判的なコメントからは建設的な議論は生まれませんし、その上このままでは議論が進みません。相手の行動に問題があると思うのならお互いに対しての、コメント依頼を提出してみてはいかがでしょうか。このままではこちらからコメント依頼を提出せざるを得なくなります。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月7日 (金) 08:53 (UTC)
コメント 出典の明記タグを貼ることを「報復」などと受け取るとは恐れ入ります。「完璧な記事」であればタグを貼ることができないのです。未完成だから、完成してほしいといっていただけなのですが。論争が起こった場合、速やかに出典を明記することはウィキペディアでの常識ではないでしょうか。加筆にあたって編集者が素人かどうかなんてどうでもいいことですし、硯箱さんはプロを自認されていますが、お互いに匿名なのですからそれを証明することもできないし、必要もないのです(ビザンツ専門の方であろうとは推定しますが)。他人の知識不足を馬鹿にして悦に入るような態度は、啓蒙思想として間違っていませんか。啓蒙なんていらないと主張されるのなら、そういってください。硯箱さんが何のためにウィキペディアに参加されているのか分からないと、何人からも指摘されているではありませんか。単に「知識のない素人」を嘲りたいなら、匿名掲示板のご利用をおすすめします。私はこれらの記事初稿を書いた者でもないですし、出典を明記して改善させる義務もないのですが、ゆっくり加筆していきます。返答はもういいです。余談ですが、一般大衆の啓蒙を目的とした新書や選書などを硯箱さんが執筆する考えを持たれるといいですね、と思いましたが、出版社の編集担当の方の苦労が目に浮かびます。--121.107.209.16 2017年7月7日 (金) 15:34 (UTC)
提案 一度この査読はクローズし、改名後の内容についての議論をすすめるのはいかがでしょうか。査読がもめたのは、既存の内容への批判から入ったためかもしれません。既存内容は全体のなかの一節としてはあってもいいとは思います。理想では宗教改革への移動がいいとは考えますが、宗教改革以降の加筆をすすめる方が建設的ですし、必要でしょう。 さて、「政教分離の歴史(仮)」記事内容についてですが、たたき台というと大げさですが、政教分離原則#歴史を転記して、さらにそれへ加筆をしていくというのはいかがでしょうか。というのも、これまでも議題になったように「政教分離とは何か」について学者、思想家でも様々な見解が存在します。それらの政教分離の定義または現在での議論については政教分離原則で加筆し、そしてその子記事として「政教分離の歴史」があるということでいいのではないでしょうか。--121.107.209.16 2017年7月7日 (金) 15:56 (UTC)
- すみません、ちょっと趣旨を理解しかねています。基本的に現状の記事の内容(というか骨格)は維持して加筆整理される感じだと思っていたのですが、内容を入れ替えるということでしょうか?--TEN(会話) 2017年7月8日 (土) 15:37 (UTC)
- 返信 (TENさん宛) 私への質問ですか?私は既存記事に加筆という考えです。入れ替えるということではありません。後に加筆された分量とのバランスを考慮して、宗教改革部分が分量過剰であるならば、そのときに分割転記を検討することはありえます。正直、なぜGreenland4さんがあらためて厳密に構成を練ろうとしてこの査読議論を開始したのかはよくわかっていません(加筆していけばよかったので)。無益であったと批判しているのでもなく、査読議論の理由を聞いているのでもありません。--121.107.209.16 2017年7月8日 (土) 15:55 (UTC)
- 返信 (121.107.209.16さん宛) 入れ替えるわけではないという件、了解しました。個人的には「政教分離原則」と「政教分離の歴史(この記事の現状)」は関連するテーマを扱ってはいるものの、原則的には違う種類の記事だと思っています。なので子記事ということにはならないかなと思うので、頭の中でうまく繋がっていない感じです。この査読については、私は意味はあるとは思いますが、改名の件と合わせて議論が拡散気味ですので一旦クローズには異議はないです。--TEN(会話) 2017年7月8日 (土) 23:40 (UTC)
- 返信 (TENさん宛) 私への質問ですか?私は既存記事に加筆という考えです。入れ替えるということではありません。後に加筆された分量とのバランスを考慮して、宗教改革部分が分量過剰であるならば、そのときに分割転記を検討することはありえます。正直、なぜGreenland4さんがあらためて厳密に構成を練ろうとしてこの査読議論を開始したのかはよくわかっていません(加筆していけばよかったので)。無益であったと批判しているのでもなく、査読議論の理由を聞いているのでもありません。--121.107.209.16 2017年7月8日 (土) 15:55 (UTC)
- 査読対象に対する論証ができず適切に編集方針がまとめられないので、他の編集検討者に暴言を述べることで議論を攪乱するような編集検討者はコミュニティを疲弊させるだけでしょう。なぜいつのまに編集に参加するようになったのですか。自分の決意表明くらい誠実に守りなさい。--大和屋敷(会話) 2017年7月8日 (土) 03:19 (UTC)「査読クローズ」の提案は賛成です。記事の編集方針を確定するほうが重要でしょう。wikipediaは信頼できる情報源から検証可能性をもって加筆してありさえすれば、その記述内容が互いに矛盾していても許容されます(wikipedia外部の学説に対立があってもwikipediaに両論併記してもかまわない)。そもそもここで議論されているような主旨での査読など必要ないのです。ちゃんと引用されているかどうか、捏造や誤引用がないかどうかさえ確認すればよいのです。--大和屋敷(会話) 2017年7月8日 (土) 03:23 (UTC)
雅ハルカ(1)
[編集]この記事に、「政教分離」の簡便な語句説明を置いたほうが望ましいのではございませんでしょうか。教科書では、「政教分離原則」を指して「政教分離」という語句を初めて目にすると思いますので、「政教分離」は、狭義の意味では政教分離原則を指して用いられることを、念のため書いておく場所としては、この記事がよろしいのではないかと存じます。その上で、この記事では「政教分離」をどのような意味で扱い、どこからどこまでを記すのかという概要を簡単に述べてあると親切ではないかと思われます。どこからどこまでがまだまとまっていないのかもしれませんけれども、冒頭でこの記事の範囲や意味づけを明らかにしておきさえすれば、記事名でここまで二転三転しなかったかもしれません。--雅ハルカ(会話) 2017年7月4日 (火) 01:07 (UTC)
ルターの項目について述べますと、ルターの罪責意識や神への「憎悪」などの苦悩を経て聖書研究に没頭していく宗教改革的体験や、異端尋問でルターが自説の撤回を断固として拒否、贖宥状問題、波紋宣告など、教皇との対立やルターの同調者の増加などに触れたほうがよろしいのではないでしょうか。ルターはアウグスティヌスに従ってという面が強調されておりますが、自身の葛藤や経験がまるで省かれております。ルターの思想がなぜ、宗教改革運動に影響を与えたのかという点について、書かれるべき事が書かれておらず、その先にあるごく一部の最終的な結論のみと申しますか、過程が省かれていると言いますが、百科事典としては非常に不親切な内容となってしまっていると感じます。ひと言で申しますと、ルターの存在が、なぜ、宗教改革へ繋がっていくのかが、ふつうの学力を持つ人が呼んでも理解できない内容になってしまっていると考えております。--雅ハルカ(会話) 2017年7月6日 (木) 06:03 (UTC)
TEN(1)
[編集]ちょっと書き込み辛い流れなのですが・・・。もう少し穏やかな雰囲気を維持できないものでしょうか。硯箱さんの出典に基づいての議論という話には基本的に同意できるのですが、もう少し表現を考えるだけで、こんな言い争いを招く事なくその流れに移行できるはずなのです。私としてはGreenland4さんの提案がなければ、そもそも分割や改名の問題がここまで進むことはなかった(私は提案にのっかっていただけなので)と思いますし、Greenland4さんの知識に特に疑問を持つものではありません。仮に至らない点があったとしても(私がこういう表現をするのは正直身の程知らずですが・・)共通の道に最終的には行けると思っています。この話の流れでは実際の考えはどうあれこう言い返したくなってしまうでしょう・・・。 で、苦言だけでは不毛なので、一応今日までの編集での現状の記事の所感について書いてみます。長文になりますが、流し読みいただけると嬉しく思います。本当はもう少しいろいろ調べてからにしたかったですが・・・。なお、この記事の記述まで全然到達できないので中世ヨーロッパにおける教会と国家についてでだけです(この記事のノートでやるのは不適切かもしれませんが、まあ皆ここを見ていると思いますので。)
- 要出典について。冒頭部分の記述を手に入れた本と見比べてみましたが、概ね関連しそうな書籍を漁れば本文をいじらず出典はつけていけそうな印象です。つまり、空想で書かれてはいないです。問題なのは出典元の本とページ番号が明記されていない箇所がある上に、元になった参考文献が膨大なのでそれを全部確認していくというのはおよそ現実的でない点です。実際に書くのに使われたのと別の書籍を使って出典をつけていくのが適切かというとあまり自信がないですけれども。
- 独自研究について。上と一緒ですが、独自研究のタグが張られていた「ペテロの後継者」節の記述を『中世教皇史』(ジェフリー・バラクロウ)の記述と対照してみましたが、元々の出典にこの本がないのが疑問なレベルで一致しており(原著が20世紀半ばなので、元々の参考文献がバラクロウの記述を参照してるのではないかと思ってますが)、一般論としては独自研究タグは不要と判断して消しました。
- 以上二点から考えてのまとめ。(上記だけの情報から全体を語ることになるので今後変わるかもしれませんが)全体としてもともとの分割前の記事にはそもそも独自性は乏しいのではないかと思ってます。その意味で独自研究タグが特定の記述にぼこぼこついているのはあまり適切ではないと思います。
報告本節で行っていた中世ヨーロッパにおける教会と国家の記事内容修正についての議論をノート:中世ヨーロッパにおける教会と国家に移動しました。--TEN(会話) 2017年7月8日 (土) 23:43 (UTC)
- コメント「査読」と銘打ったのは失敗だったと思います。そもそも、出典が明記されていなければ「査読」は不可能であり、未完の記事は査読対象にはなりません。地道な作業、お疲れ様です。とくにむかし他人が書かれたものを検証可能な状態にまでもっていく作業は並大抵の手間ではないと思います。本文=「本に書かれていることを書く」、ノート=「頭のなかにあることを書く」という前提で全員話しているのに、硯箱さんは、まるっきり逆に考えていることがわかりました。騒動の要因はこれだったのか?という感じ。上でもクローズ提案が出ていますので、そろそろクローズしたいと思います。申し訳ありませんでした。--Greenland4(会話) 2017年7月8日 (土) 20:58 (UTC)
報告上記提案にもとづき本コーナーをクローズし、以下に「本記事の問題点とその改善/改名後の編集方針」という節を設けることにします。活発で有意義な話し合いになることを期待します。--Greenland4(会話) 2017年7月9日 (日) 17:41 (UTC)
本記事の問題点とその改善/改名後の編集方針について
[編集]改名提案がなされてから1週間が経ち、候補を「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」に絞り込んでからも1週間近くが経とうとしているので、このままでいけば少なくとも改名問題に関しては一応の決着がなされる見込みとなりました。みなさま、ありがとうございました。ただ、そうであってもいくつかの問題点は残るわけで、とくに本記事が、(1)未完状態(書きかけ状態)であること、(2)要出典箇所が多いことの2点は早急な改善を要するところで、(3)因果関係の強化、(4)説明的文章ではなく論文風になっていること、(5)専門用語と関連記事をどうするか、(6)概要節における要約や節末尾の「目次へ移動する」などが本当に必要か、(7)節や小見出しの構成、(8)盛り込む内容、(9)その他、も話し合われなければならない問題だと思います。「査読のコーナー」を設けたのは、こういう一切を話し合おうと思ったからで、硯箱さんが以前そういうことをおっしゃっていたので真っ先に駆けつけていろいろと御意見をお寄せくださるだろうと思っていました。自分としては、(1)を一番心配していて、これは改名されても加筆がここでとまってしまうと、内容と記事名のミスマッチの問題は解消されないのですから、私が来てから改名に向けて今まで話し合ってきたことは全部ムダになってしまう、これを何とかしたいという思いがありました。プロがみても未完のレポートに「優」はあげられないだろう、そういう話になるだろうことを期待しました。それでまた、私のなかではやはり、(0)記事名=「政教分離の歴史」がベストなのではないかという思いもありました。なのに、なぜか(3)の話をしてしまった。これは、みなさまにたいへん不愉快な思いをさせてしまう結果となりました。申し訳ありませんでした。しかし、ケガの功名というか、本記事の問題点があらためて浮き彫りになり、その原因が何であるか、このうちの何を優先させて取り組まなければならないかについてはだいぶみえてきたと思います。
以下に所論を述べます。(6)については、可読性をかえって損なっているのでむしろ削除した方がよいと思います。(5)については、すでに取り組まれている方もいらっしゃいます。百科事典は基本的に「わからない人がわかりたくてひもとく」もののはずですから、そのなかにバンバン専門用語が登場するのは好ましくないと考えます。「読んだらかえってわからなくなった」というのでは困るわけです。専門用語や難解な用語は抑える方向、そういう用語を用いる場合は新記事を別に立てるという方向で合意がとれると思います。そこにおける新記事立項は、責任の所在という面でも効率の面からも難しい用語を使った人がやるべきで、そういう面倒なことはやりたくないという人はなるべく平易な文章にしましょうということでよいと思います。(3)(4)(7)は、総じて可読性にかかわってくることですが、今後の加筆者に委ねられるでしょう。(0)に関しては、「政教分離の歴史」としても「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」としても、実のところあまりかわらない気がします。「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」としてしまったら、「日本における政教分離の歴史」を別に立てなくてはならなくなるという程度の話です。しかし、「政教分離の歴史」としたうえで枝記事として「日本における政教分離の歴史」を立ててもよいわけで、どちらにしても大した論点ではない。本記事が最低限フランス革命まで書き上げなくてはならないことは変わらないわけです。ただ、以前「政教分離の歴史は、裏返せば国民国家形成の歴史である」というようなことをTENさんがおっしゃっていて、このフレーズをフランス革命の記述「こうして政教分離原則が確立し、国民国家が形成された。19世紀は国民主義の時代になった」と書いた後にさしはさむことで、それまでヨーロッパの話だったのを「国民国家の形成をめざす国々にとっては政教分離原則をどう採用していくのかが課題になったのだ」という話に転換させると、曲がりなりにも国民国家の形成が図られて植民地化をまぬがれた日本やトルコ、あるいはアメリカについても言及できるのではないかという着想が私にはあったので、そのほんのちょっとしたことで「政教分離の歴史」にもっていけるのではないかと思ったのです。これについてはしかし、あまりこだわる必要もなく、ひとまず「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」が完成してからやってもよい話です。
で、残るは(1)(2)(8)ですが、(1)については、このままの状態で放置されると、現状記事は「宗教改革と宗教戦争」あるいは「近世ヨーロッパにおける教会と国家」とでも名付けるよりほかない内容になっていて、このまま放置されると中世部分や宗教改革部分だけがまた肥大化して10年後も同じことが繰り返される恐れがあると思います。それだと、議論に今まで参加されてきた方々の徒労感はハンパないわけです。そこで、フランス革命前後の話は私が今後加筆していこうと思います。みなさま迷惑でなかったら、の話ですが。そしておいおい、啓蒙主義・絶対王政というふうに逆から書いていきたい。これについてはみなさまの御協力をおおいにお願いするところです。そして、啓蒙主義について書いていくならば、ルネサンスについても若干ふれざるをえないと思います。これは(8)にかかわることですが、ルネサンスからこってり書いてしまうと「竜頭蛇尾」状態はむしろ昂進してしまうので、それは避けたいと考えます。いずれにせよ、後回しの話です。(2)に関しては、私がフランス革命について書いている間に、やれる人がやれる範囲でやってくださるとありがたいです。ウィキペディアにおいて、「Wikipedia:出典を明記する」ということは非常に重要なルールとなっており、これがないものは「独自研究」として排除されても仕方のないものです。アマチュアリズムは何も私が勝手に言っていることではなく、ウィキペディアの基本精神・基本方針であり、「プロの真似して自分の見解を述べる」「プロの仕事を剽窃する」ということを排除するために、記事本文は「本に書いてあることだけを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」態度が必須なのです。言い換えれば、これがプロの仕事を奪わない知恵でもあるし、プロと共存する知恵でもあるわけです。その過程で著作権違反が見つかったらその都度対処していけばよいだけの話です。出典を付けることに関しては、あくまでも「お願い」です。これは、やりたくないのならやらなくても結構なんですが、その場合は「要出典タグ」等の貼られている文は削除して書き直していきます。そういう方向性でいいでしょうか? 各論についても、御意見をお寄せください。--Greenland4(会話) 2017年7月9日 (日) 20:01 (UTC)
いろいろなことをいっぺんに言い過ぎたので、論点(問題点)を再掲します。
- (0)記事名
- (1)未完状態(書きかけ状態)であること
- (2)要出典箇所が多いこと
- (3)因果関係の強化
- (4)説明的文章ではなく論文風になっていること
- (5)専門用語と関連記事をどうするか
- (6)概要節における要約や節末尾の「目次へ移動する」などが本当に必要か
- (7)節や小見出しの構成
- (8)盛り込む内容
- (9)その他
(以上、追記)--Greenland4(会話) 2017年7月10日 (月) 20:33 (UTC)
- 返信 まとめと進行、ありがとうございます。区分けしていただいた点について、長くなりますが現状自分で意見を出せるところだけ返信させていただきます。
- (1)(8)個人的には仮にその節がサブスタブの状態であっても末尾部分まで骨組みになる節があったほうがいいとは思います。教会と国家の分離史としての記事であるという点に合意できればですが、仮に「ヨーロッパにおける」となるのであればこの点については問題は大きくないと予想します。加筆についてはそもそも許可が必要な類の話ではないはずですし「迷惑でなければ」などという気遣いは不要と考えます。学説的におかしいという指摘があれば順次確認と修正をすればいい話ですし、その確認と修正をする人間が最初の執筆者と同じである必要もないと思うので。。
- (2)中世ヨーロッパにおける教会と国家の出典をいくつか確認する限り、全体として元々の記事は非常に参考文献に忠実に書かれているように思います。ので、隣接分野の書籍に当たれば概ね後付けできそうです。神学や思想史に絡む分野は私の手持ちでは今のところ弾が足りないので予測でしかないですが、恐らくこれも出典をつけること自体は手間さえかければ可能な気がしてます。とりあえず、確認可能な範囲について少しずつやっていけば、それだけで細かい議論なしに記事の品質は向上しそうなので有益と思います。
- (3)私としては、実はこの点に関しては硯箱さんの見解に賛成で、一般的な学説(通説)でどう書かれてるかは抑えてから記述を強化したほうが望ましいと考えています。ただ実際にどのように加筆するかについての案が出せる知識がないので、今のところは意見なしです。
- (4)(6)とりあえず「概要」のつくりが完全に論文のそれなので、概要節を治すだけでも大分良くなりそうな気がしています。基本的には各節の要約や目次へ移動などはいらないと思います。(各節の内容と合致させねばならず、加筆しづらい原因になっている気がします)
- (5)可能な限り平易になるようにとは思いますが、具体案がないので今のところ意見なしです。
- (7)現状意見なしです。記事自体の主題について合意できたら何となく決まる気はします。
- 無出典箇所については、無いところを機械的に削除するよりは、文脈上必要なところは要出典のまま残す方がいいと思いますが、加筆者の裁量でいいのではないかと思います。
- 出典の追加はできる範囲でやりたいと思います。なお、何点か出典を追加したことについて、Greenland4さんと硯箱さんから「頭が下がる」的な言葉をいただいてますが、以前も書いた通り私のこの記事への関与は徹頭徹尾興味本位というか趣味の部類なので、特にお気遣い無用であります(出典確認を通じてヨーロッパ史について次に何を読めばいいのかが何となくわかるのが良いところです)。私としては楽しい作業としてやっているつもりです。
- 最後に記事全体を通しての所感ですが、初期キリスト教、中世ヨーロッパにおける教会と国家、そしてこの記事と、個人的には記事内容にそって本を探していくと、中世史の枠組みや「教会と国家」というテーマ史についての輪郭が何となく見えてくる感じです。その意味でこの記事は、内容的には西欧史分野の記事として「書きかけ」ではあるもののちゃんと作ろうとしていたことがはっきり感じ取れる記事だと思います。できれば既存記事は活かせたらいいなぁと思います。--TEN(会話) 2017年7月10日 (月) 14:07 (UTC)
- (7)に関していうと、あまりに細分化されすぎじゃないかという印象があります。そのうえで「ユグノーとフランス経済史」という小見出しが付けられているので唐突感がある(ようにみえる)。「ユグノーと近世フランス経済」または「ナントの勅令の経済への影響」あたりがよいと思いますが、もっと言えば「ナントの勅令」という大枠のなかで扱ってよいと思います。この記事が、空想で書いているわけではなく、むしろ文献に忠実に書かれているというのはおそらくそうなのだろうと思います。脚注を使って記述が文献によって参照できるスタイルで書かれていれば、むしろ良記事なのだろうと思います。それさえなされれば、実は独自研究呼ばわりされる要素はほとんどないものと思います。問題は、それをやれる人が少なく、やろうとする人もほとんどいないということだろうと思います。これについては、むかしは相当甘かったのです。参考文献をひらいてみると出典まる写しだったり、実はそんなこと書いていないということが多かったので、それではあかんということになった。いまの新着記事とか見ていただければすぐわかる話だろうと思います。スイスに関しては盟約団はじめ非常に詳細かつよくまとまっており、出典さえつけば、これだけで単独記事に仕上げられるレベルだと思います。ただ、歴史というからには事象を時系列に並べて因果関係を書かないとダメなのだと思います。その意味でシュマルカルデン戦争やアウクスブルク平和令がルターの思想の前に置かれているのはよろしくないと思います。「定説」に関しては、別に私はわかりやすい嘘をかけということを主張しているのではなく、史実についてはどんな学者が書いてもそれほど大きく食い違うことはないということを前提としています。細かい節を一度取り払って時系列に並べ替えてみる作業が必要かもしれません。--Greenland4(会話) 2017年7月11日 (火) 01:46 (UTC)
改名お疲れ様でした。記事が整うまであとすこしですね。 (1)は一番優先すべきことですね。Greenland4さんがフランス革命について書いてくださったので、見通しがたちました。私はひとまず、イギリスとアメリカについての要約を作成します。可能な限り短くするつもりですが、省略しすぎると経緯がわからなくなりそうなので、必要最小限のものをつくります。 (2) 出典明記作業も継続します。 (3) 出典の明記と加筆が進めば因果関係も強化されていくと思います。 (4) 文章は私も固い方なのですが、できる限り平易にしていく方がいいと思います。 (5) 専門用語、あるいは単独記事として意義のある用語や概念については、こちらでは要約にして単独記事にした方が見通しがよくなるのは間違いありません。領邦教会制度、スイス盟約者団、コンフェッショナリズム、モナルコマキなど。ただ、現在の分量バランスからいって重大とは感じられませんので、加筆が進んで「政教分離の歴史」がある程度まとまった時点で見直すのでもいいのかもしれません。 (6) 編集作業のために必要だったのでしょうか。どうしても避けられない分量でそれが肥大した場合には必要かもしれませんが、私は削除していいと思います。 (7) 「ユグノーとナントの勅令」でまとめるといいのではないでしょうか。 (8)(9) について、TENさんの 2017年7月8日 (土) 23:40 (UTC)での政教分離原則とこの記事との関係についての回答を関連するものとしてこちらでいたします。多くの事典では「政教分離」として立項されており、また政教分離原則と政教分離は同義のように書かれています。ブリタニカ、知恵蔵、大辞泉、大辞林、ニッポニカ、また、政教分離を憲法に取り入れたアメリカ合衆国という経緯について歴史学事典、宗教の事典、OXford Reseach Encyclopediasでは言及されています[2]。なお、CiNiiで政教分離原則を検索すると137件[3]、政教分離で検索すると735件[4]であり、論文タイトルを一見しても政教分離原則と政教分離を異なる意味で用いているようには思われません。また、以前硯箱さんが近代憲法については政教分離原則へ書き、「政教分離の歴史」ではヨーロッパの古代中世から近代までの歴史を書くと発言されました。ただし、硯箱さんも親記事(メイン記事)を政教分離原則、その歴史記事(すなわち子記事(サブ記事))としての「政教分離の歴史」という案については反対されなかったとおもいます。以前も発言したことですが、政教分離原則は政教分離へと改名提案してもいいのかもしれません。同じ意味なので改名もあまり意味はないかもしれませんが、「政教分離原則は政教分離とは異なる」という誤解をもし持たれる方がいるならば、改名した方が適切であるかもしれません。
それと、政教分離原則では20世紀以降の現代についてが主で、19世紀についてはかなり省略されています。19世紀についてどちらで書いてもいいのですが、フランス革命以後ということでライシテとここで書くか迷うところではありますが、これは後回しですね。--121.107.209.16 2017年7月12日 (水) 14:07 (UTC)
- 返信 人の長文を咎めつつ長文になってしまいましたが、、、政教分離原則との関連について、思う所を述べておきたいと思います。以前、政教分離原則と(ヨーロッパにおける)政教分離の歴史が原則的に違う種類の記事だと書いたのは、一つには前もちらっと書きましたが、ヨーロッパの政教分離が単に政教分離原則(≒現代社会の政教分離)の成立史に留まらないものであるからです。それは国民国家の形成過程の一部であり、中世から近代における世俗権力と教会権力の関係史でもあります。
- (適切な例えか自信がないですが、政教分離原則が「アメリカ合衆国」だとしたら政教分離の歴史は「アメリカ大陸の歴史」のようなもので、単純な一線上の関係にない、というべきでしょうか)
- 本記事は基本的に西欧史の枠組みで記述されており、分野的には『西洋中世史研究入門』pp106-108が書くところの「教会と国家」と呼ばれる分野の記事であると私は把握しています。なので「政教分離原則」の子記事として本記事を構成するのはちょっと違和感を感じるところです。関係記事の一つであるのは間違いないと思いますけども。
- なお、「政教分離」という用語については以前硯箱さんとのやり取りで言及しましたが、研究者自身が「政と教は分離されるべきであるとする考え方。この時の政と教はなんであるのかから始まり、信教の自由との関連まで、論者によってさまざまに用いられる厄介な言葉。」と述べるように、極めて広範な意味に使われ、また論者によって独自の観点から使用されることの多い用語であることから、この単語に「正しい定義」を与えて誰もが納得する記事内容を決めることが可能であるとは正直思えないです。提示頂いたCiniiの論文をいくつか読んでみましたが、「政教分離」と「政教分離原則」が同一であるかどうかは人によって統一的ではなく、しかも使い分けている人もいない人も、ある程度無意識的にそれをしているように見えます。
- 例えば伊藤潔志「教育基本法における「教育の宗教的中立性」と和解(1) 」[5]は、本記事と関連の深い内容を含んでいますが、「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である, と言って差し支えないだろう。」と結論しています。であるとすれば、この論文の結論での政教分離は、政教分離原則という単語とは置き換え不可能に思えます。
- 一方で青砥清一 「リェイダ市のブルカ禁止条例を無効とした事例 : スペイン最高裁2013年2月14日判決 」[6]では、本文中の「政教分離」と「政教分離原則」の多くは、(全部ではないですが)機械的に置換してもほぼ意味が通じそうです。
- さらに松村昌廣 「文化相対主義を超えて-リベラル民主制国家の不倶戴天の敵としてのイスラム・テロリズム 」[7]では、政教分離と「政教分離の原則」という言い方ですが、両者は使い分けられています。
- 上記のような用法の多様性から考えて、現状では「政教分離原則は政教分離と同じもの」かどうかも論者によってある程度ぶれるもののように思われます。
- 従って「政教分離」という名前が付けられているから「この記事はこう言う記事なんだ」という設定自体が困難なように思います。なので以前の査読節で雅ハルカさんが「この記事では「政教分離」をどのような意味で扱い、どこからどこまでを記すのかという概要を簡単に述べてあると親切ではないかと思われます。」と仰っていましたが、この案には大賛成であります。
- ちなみに、本記事の扱う時代範囲ですが、19世紀初頭以降、明確にここという切れ目を設定するのが難しいのでフランス革命・アメリカ独立革命あたりで筆をおくのが一番オーソドックスではないかと今のところは思っています。--TEN(会話) 2017年7月12日 (水) 17:04 (UTC)
- 返信 切れ目の設定の難しさについてはTENさんのおっしゃる通りで、みなさま御承知の通り、王政復古後のフランス政体は目まぐるしく変化し、それにともなって政教関係も転変いちじるしいので単純に「分離の歴史」といえなくなる感じです。感覚的には、本文をナポレオンで終わらせて、ライシテにつながる部分は脚注に逃がしてやるような感じがいいのかなという気がしています。国民国家の形成過程というのを中央ヨーロッパにあてはめると神聖ローマ帝国の解体過程とだいぶ重なるわけですから、その点からもナポレオンで終わらせるのがわかりやすいでしょう。その点、本記事がスイスの宗教改革に着目しているのは伏線として優れていると思います。三十年戦争とヴェストファーレン条約の部分の加筆が望まれます。三十年戦争では旧教国フランスが新教側・反ハプスブルク側についたりして、そこでは戦争そのものの世俗化(脱宗教化)も指摘できるでしょう。ナポレオンに話をもどすと、ナポレオン政権自体が国民国家をつくる営み、革命の成果を国民国家づくりに反映させる営みに尽力し、それには成功したが、国民国家の枠を超えて世界帝国へ向かおうとして失敗し、国民国家に引き戻されたというふうに押さえられるのでその点からも一つの区切りとしてわかりやすいでしょう。いずれにせよ、従来、三十年戦争とフランス革命という2つの大きなヤマがなかったのは非常によろしくなかったと思います。そして、それぞれの歴史事象について「大テーマに即した歴史的意義」あるいは「画期性」というものを常に書いてやる必要がやはりあるだろうと思います。たとえば、アウクスブルクの宗教和議ではルター派教会は認められたけれどもカルヴァン派は異端として排除されたし、個人がカトリックかルター派かを選ぶ権利もなかった、しかし、宗教的多元性という意味では大きな一歩だったんだというようなこと、ナントの勅令やヴェストファーレン条約でも同様ですが、そこが弱いと雑多な史実の寄せ集めのようにみえてしまう(「独自研究」のそしりを受けてしまう)というのがあると思うので、そこはもっと踏み込んだ言及がなされるべきと考えます。とりあえずいまは、空白を埋めることと画期性の言及を同時にやっていくことが大切だと思います。--Greenland4(会話) 2017年7月12日 (水) 21:26 (UTC)
- 返信 (Greenland4さん宛) まとめ、ありがとうございます。私の範囲でコメントさせていただきます。(1)(8)と、もしかしたら(3)(5)(7)についてはは素人意見を述べます。例え本文が未完であれ、(簡単ではないでしょうが)政教分離の全体的な流れをまとめることができるはずです。年表形式としてまとめれば、そこから各節への加筆が進んでいくように思います。
- ○○年 - △△により■■がはじめられる
- 「△△による■■」を参照
- 可読性については要考ですが、このほかに図を挿入するなどすると具体的な流れをつかみやすいように思います。
- (2) 気が向いたので図書館へ行って、参考となる文献を借りたりして調べているのですが、元から「本とページ名がつけられていないところ」に出典を後付けするのは難しいなと感じます。このままではいつ記述が除去されても文句は言えません。それらか除去されてしまうと「全面書き換え」となるのかもしれないなと思います。以上です。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月15日 (土) 01:56 (UTC)
- コメントYuukin0248さんのアイディアはたいへんよいと思います。ちょうどいま自分も全体構成を考えていて気になったことがあります。現状では、宗教改革・宗教戦争のところがドイツ、スイス、フランス、オランダ…というふうに国ごとに分けて記述されていますが、どうもこのままでいくとまとまりにくいように思うのです。もしかしたら、未完状態が長くつづいたのもそのせいなのかな?と思うほどです。1500年あたりから1800年あたりを扱うということでいくと、1650年はちょうど真ん中なわけですけど、「政教分離」というテーマにとっても折り返し地点のような意味をもっていて、1648年のヴェストファーレン条約というのはよくいわれるように主権国家体制の確立という画期的な意味をもっています。少なくとも今まではそういわれてきた。「帝国の死亡証明書」という表現もあったし、ドイツの領邦君主は外交主権を含むほとんど独立主権を獲得し、ドイツでもようやくカルヴァン派も認められたとか、いろんな意味があります。最近では過大評価されすぎとの指摘もあるようですが、従来説も無視できないのではないかと思っています。最新の研究動向や論点もそのうえで紹介した方がよいと考えます。カルヴァン派の影響の強いスイス・オランダという2つの連邦共和国が正式に独立を承認されたのもこの条約で、これはやはり宗教改革・宗教戦争のひとつの帰結として重要であろうと思います。そしてイギリスでは1649年にチャールズ1世が処刑され、清教徒(カルヴァン派)主導の議会による共和政が始まっていますから、その意味からも1648年・49年というのは分水嶺になりうるように思います。各国史をやるにしても、そのあたりでいったん切って1650年以後はあらためて別節でやった方が話がみえやすいのではないか。とくに三十年戦争は最初はボヘミア・ドイツの話だったのが、後半はヨーロッパ大戦の様相を呈するのですから各国史叙述がむつかしくなります。「小折り返し地点」というのも年表作成作業のなかから、もしかしたら見つかるかもしれない。フランス革命が一段落したら取りかかってみようと思います。なお、定義文・概要節をちょっと加筆改変してみました。不十分な点も多いと思うので、ぜひ加筆・修正をみなさまにお願いしたいです。どうかよろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2017年7月15日 (土) 08:30 (UTC)
- コメント やっぱり歴史には年表が必要なんですよね。受け入れてもらえそうで良かったです。『「概要」を読む→「年表」から本文への案内を踏む→「本文」を読む』の形態をとることになるのかなと思います。私もその形態であれば支持できます。現状の記事は、まとまりに欠けているんです。どちらかといえば「時」よりも「土地」で分けられているんですよね。現状のメリットは、スイスにおける歴史は掴みやすいが、全体的な「時」での歴史がまとまっておらず掴みづらいというデメリットがあるんですよね(国語力が、すいません)。物事に大きく影響を与えた「折り返し地点」を分け目に再編していくというのはよいテーマに思います。年表一行の詳細をサブ節(あるいはサブサブ節)一つ分ぐらいとって分けていく、というのがいいかなと思います。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月15日 (土) 09:04 (UTC)
- コメントYuukin0248さんのアイディアはたいへんよいと思います。ちょうどいま自分も全体構成を考えていて気になったことがあります。現状では、宗教改革・宗教戦争のところがドイツ、スイス、フランス、オランダ…というふうに国ごとに分けて記述されていますが、どうもこのままでいくとまとまりにくいように思うのです。もしかしたら、未完状態が長くつづいたのもそのせいなのかな?と思うほどです。1500年あたりから1800年あたりを扱うということでいくと、1650年はちょうど真ん中なわけですけど、「政教分離」というテーマにとっても折り返し地点のような意味をもっていて、1648年のヴェストファーレン条約というのはよくいわれるように主権国家体制の確立という画期的な意味をもっています。少なくとも今まではそういわれてきた。「帝国の死亡証明書」という表現もあったし、ドイツの領邦君主は外交主権を含むほとんど独立主権を獲得し、ドイツでもようやくカルヴァン派も認められたとか、いろんな意味があります。最近では過大評価されすぎとの指摘もあるようですが、従来説も無視できないのではないかと思っています。最新の研究動向や論点もそのうえで紹介した方がよいと考えます。カルヴァン派の影響の強いスイス・オランダという2つの連邦共和国が正式に独立を承認されたのもこの条約で、これはやはり宗教改革・宗教戦争のひとつの帰結として重要であろうと思います。そしてイギリスでは1649年にチャールズ1世が処刑され、清教徒(カルヴァン派)主導の議会による共和政が始まっていますから、その意味からも1648年・49年というのは分水嶺になりうるように思います。各国史をやるにしても、そのあたりでいったん切って1650年以後はあらためて別節でやった方が話がみえやすいのではないか。とくに三十年戦争は最初はボヘミア・ドイツの話だったのが、後半はヨーロッパ大戦の様相を呈するのですから各国史叙述がむつかしくなります。「小折り返し地点」というのも年表作成作業のなかから、もしかしたら見つかるかもしれない。フランス革命が一段落したら取りかかってみようと思います。なお、定義文・概要節をちょっと加筆改変してみました。不十分な点も多いと思うので、ぜひ加筆・修正をみなさまにお願いしたいです。どうかよろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2017年7月15日 (土) 08:30 (UTC)
- 情報 年表はあったのですが[8]、硯箱さんに削除されちゃったんです[9]。この年表は不完全なものですが、もし活用いただけるならば復旧してください。新しく年表を作成してくださるのであれば、それはさらにありがたいことです。私は引き続き出典の明記作業をしてまいります。--121.107.209.16 2017年7月15日 (土) 15:22 (UTC)
- 返信 121.107.209.16さん、情報ありがとうございます。お示しいただいた年表をみると、ウェストファリア条約以前はだいたい3期に分けられるように思うのです。I期は16世紀初頭からアウクスブルク和議(1555年)までで、ドイツ・スイスでの宗教改革とそれを契機とした宗教戦争の話題が中心となるのではないかと思います。ただ、国王の離婚というまったくの「私事」を原因としてローマから独立した新しい教会=イギリス国教会が成立することにはやはり言及すべきであり、これは「宗教改革」という点では本筋ではないかもしれませんが、「旧教からの離脱」ないし「教会分裂」という点では軽視できないものをもっていると思います。1500年段階ではローマの教会しかなかったものが、1555年段階ではカトリック、ルター派、国教会に分裂している。これが次の展開を準備するでしょう。II期は1555年から三十年戦争の始まる1618年までで、ここではドイツの話題はあまり出てこない。アウクスブルク和議でひとまず、ある程度落ち着いたとみるべきです。しかし、オランダ独立戦争(1568年-1609年)とユグノー戦争(1562年-1598年)がほぼ並行して起こっている。ここで活躍するのはカルヴァン派で「教会分裂」という点では第二局面、「宗教戦争」という点ではドイツ・スイスからオランダ・フランスへと場所を変えての展開というふうになっています。イギリスではエリザベスが姉のメアリに閉じ込められたリ、スコットランドのメアリを閉じ込めたりして国教会vsカトリックの抗争が激しい。世界全体でみていくとスペイン全盛なんですが、1588年にアルマダ海戦、1596年に英仏蘭の対スペイン同盟結成などでスペイン没落のはじまりが予兆される時期でもあります。III期は三十年戦争(1618年-1648年)とイギリス清教徒革命(1640年-1660年)の時期で、再びドイツが主戦場になるのですが、これがI期とは違って列国の干渉を招くことから悲惨なことになります。イギリスでは抗争が国教会vs清教徒にシフトしていく。結果的にカルヴァン派が認められて「教会分裂」としては最終局面をむかえる一方、ハプスブルク家(スペイン王&神聖ローマ皇帝)の一人負けのようなかたちとなり、次のフランス絶対王政を準備する。そういう感じじゃないかと思います。現状では、フランスはいきなりナントの勅令廃止(1685年のフォンテーヌブロー勅令)まで行っちゃってるんですね。いくら何でも先走りすぎでしょう。これは、時期の面でも内容の面でもブルボン朝絶対王政のなかで語られるべき事象ではないかと思います。また、三十年戦争以降に出てくる思想というのは、ロックの政教分離思想にしても、ヴォルテールの反教権主義やルソーの市民宗教などにしても、宗教改革のころとは全然違うものとなっており、絶対王政と対抗しつつ、市民革命を準備するものとなっているので、やはり、その面の充実も図られるべきでしょう。いずれにせよ、時期区分を取り入れて編集しないとまとまらない感じはしています。--Greenland4(会話) 2017年7月15日 (土) 18:49 (UTC)
- 情報 年表はあったのですが[8]、硯箱さんに削除されちゃったんです[9]。この年表は不完全なものですが、もし活用いただけるならば復旧してください。新しく年表を作成してくださるのであれば、それはさらにありがたいことです。私は引き続き出典の明記作業をしてまいります。--121.107.209.16 2017年7月15日 (土) 15:22 (UTC)
2017-07-16から
[編集]節編集が軽快になるよう、見た目上での節を新設しました。これを不適切と思われる方はどなたでも戻してもらってかまいません。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月16日 (日) 10:52 (UTC)
(インデント戻す) 報告「政教分離に関する歴史年表」の記事を新規に立てました。--Greenland4(会話) 2017年7月16日 (日) 05:28 (UTC)
- 返信 (Greenland4さん宛) 現在の記事内に新たに年表を作られても、記述が肥大化していく一方になることを危惧していましたので、別記事の立項ありがとうございます。年表の一段落に書かれていることは、こちらの記事(あるいは中世ヨーロッパにおける教会と国家、初期キリスト教)でのサブ節(或いはサブサブ節)一つ分とるべきだと言いましたが、その提案に問題はないのかなと思います。コレに関しては年表記事との合同での合意事項ですので、あちらとのバランスが必要かなとは思うのですが。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月16日 (日) 10:52 (UTC)
- 返信 悩ましいところですが、こちらの記事と年表との節構成は別に完全に一致していなくてもよいのではないのかなと思います。年表は詳細になるか否かは別にして、順番(時系列)や絶対年代(年号)などは誰がやっても同じになるはずだし、そうであれば逆に、ノートを参照していない人、本記事編集にたずさわっていない人でも参加しやすいように、世紀ごとなど客観的な分類の方がよいと思います。そして、加筆のされ方も年表の場合だったら、たとえば宗教思想史の本を読んだら、それぞれの教会史について調べたら…というふうに、時代をまたいでまとまって加筆するみたいになっていくと思うので、一々本文を参照するものたいへんです。機械的にやれる方がよい。上のI、II、IIIという私の時期区分もあくまで便宜的なものですし、じっくり検討したら微調整が必要とかというふうになったら後々面倒です。ただ、記事を書いていく際には、年表があった方がずっと書きやすく、調べやすいことは確かです。それぞれが年表をみて時期区分や因果関係、画期性について各自考える材料とする。それは本文執筆やその後の記事改善に資すると思います。なので、年表の方は世紀ごとでよいのではないかというのが今の私の意見です。--Greenland4(会話) 2017年7月16日 (日) 12:20 (UTC)
- 返信 (Greenland4さん宛) 「年表は世紀ごとでいい」というのはその通りです。さて、年表の1行が、重要(政教分離の説明に必要不可欠)ではないものは、年表の1行に載せるに値しない。つまり、「記事の方で節を1つを取れるぐらいのことを、年表の箇条書きに書く」ということです。わかりやすく言うと「年表で目次を作る」といったことでしょうか。これに関してはまあ、完全に一致させるのは厳しいのは分かっています。しかし、「節1つ作られるくらいのことを年表に書かない」のはおかしいし、「こちらの記事では一段落程度の記述しかない」のもおかしいんです。そのあたりの兼ね合い(箇条書き1行≒節1つ)が難しいのではないかと思います。
- (ここからは蛇足ですが。)Wikipediaに完成はありませんので、あまりにも将来の編集者に負担がかかるようなこともできないのかなと思いますが、ある程度決めておかないと年表が肥大化してしまう恐れがあるのです。年表が肥大化し、詳細な情報まで書かれてしまうとそれは年表ではなくなり、ただの記事と化してしまいます。こんなことを恐れるのもどうかと思います。けれど、年表から記事へのの案内は{{Main}}系を使うつもりなので、箇条書き1行≒節1つのお話を始めました。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月17日 (月) 00:24 (UTC)
- 返信 (Yuukin0248さん宛) 現時点(7月17日)では「中世ヨーロッパにおける教会と国家」が30万8,041バイト、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」が16万5,312バイトであるのに対し、「政教分離に関する歴史年表」は1万4,572バイトなので、年表の肥大化はあまり心配しなくてもよいのではないかなと思います。年表の書き方としては箇条書きが基本ですから、現状より3倍増えたとしても4万5,000バイトですから、たとえば17世紀を前半と後半で分けるとか、そういう程度でよいと思います。重要なことはだいたいすでに網羅されているので、たとえば10倍に増えるなんてことはないでしょう。せいぜい3倍、それでもすごいという感じじゃないかと思います。ただ、1531年のカッペル和平のように、本記事「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」でも詳細に扱われていなくて、かといって単独記事も立てられていないような事項については、「どうして、この年表に載せるのか」というようなことを付記してやる必要はあろうかと思います。それは、単独記事ができたら除去してしまってもよい性格の「付記」です。ある意味、年表は編集者が座右にするものであり、「年表にあるのに本文に記載がない」→「じゃ、本文に盛り込もう」ということになると思いますし、逆も然りだと思います。年表で目次を作る案ですが、それは、本当に重要なものだけをピックアップするというのでいいんじゃないかなと思います。具体的には、「Template:政教分離の歴史」に年号入りで載っているレベル、あるいは本記事内で節前にmainタグが貼られるくらいのレベルのごく重要な事象に限定してよいと思います。そこはゴチック体にしてやって、「本記事を参照するならここですよ」くらいの案内を付けてやってもよいと思います。一節の主テーマにならないような細々なことに関しては不要だと思いますし、あまり緻密にやっちゃうとかえって身動きがとれなくなってしまうと思います。本記事の概要節内にあった「要約」がそういう感じだったんじゃないでしょうか。年表内にゴチック体があまり多くなるのも見た目がうるさくなってしまいます。年表は「眺めるもの」ですが、本文は「読むもの」なので、そうやってメリハリ付けていくしかないんじゃないかなと思います。いかがでしょうか。--Greenland4(会話) 2017年7月17日 (月) 12:53 (UTC)
1618 - 1648年: 三十年戦争 — 政教分離に関する歴史年表
- であったものが
- となるとかなりの肥大化(というよりかは「冗長化」)です。目次化する案については、重要なもの(それを題材に独立記事ができているもの)を目立たせて案内することは可能かと思いますが、それによりまた「記事」「年表」それぞれのバランスが難しくなってきますね。意見が相違していても動きはありませんので、ノート:政教分離に関する歴史年表で提起してみます。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月19日 (水) 09:19 (UTC)
返信 (TENさん宛) 研究者で見解が異なるのは狭義においてであり、広義においては大きくは一致しているとみなせませんでしょうか。政教分離の思想については硯箱さんがあげたようなマーク・リラのような現代思想家も展開させており、現代における政教分離に関する議論や研究についてもどこかで説明しなくてはなりません。その説明する場所は、やはり政教分離原則ではないでしょうか。政教分離の歴史の各ページの冒頭や注釈などで書くのも手ですが、この点はGreenland4さんと同じで、空白を埋めていくことが優先のように思います。お示しいただいた伊藤潔志論文で重要な指摘がなされていましたので、政教分離原則#政教分離と信教の自由と寛容に加筆しました。--121.107.209.16 2017年7月16日 (日) 13:38 (UTC)
- 返信 (121.107.209.16さん宛) 「政教分離と信教の自由と寛容」の分部、読みましたが、これは大切な指摘ですね。本記事でも啓蒙主義の説明のところに使えそうな感じですね。加筆、御紹介、両方ありがとうございました。--Greenland4(会話) 2017年7月17日 (月) 13:26 (UTC)
- 返信 (121.107.209.16さん宛) 現代における政教分離について政教分離原則で記述することに特に異論はありません。私の知りうる範囲では、政教分離という用語について(政教分離原則と)広義において一致しているとみなせるかどうかは、残念ながらそう言う観点で書いている本を見つけられないのでわかりません(すみません)。確認できる用例としては多様であり一概に言えないということがわかるのみです。変わり種の用例としてはこんなものも見つけました。
このように「人生」が来世に及び、しかも現世がたかだか数十年しか続かないのに対し、来世が永遠に続くとなると、来世にかける思いは私たちの想像を絶するほど強くなり、来世の「人生」を決める神への忠誠心も極めて高くなる。5世紀の神学者アウグスティヌスは、この忠誠心が権力者に利用されることを懸念し「神の国」はこの世では決して実現しない天上の理想郷で、人が造ったはかない「地上の国」とは峻別すべきものと説いた。ところがこのような来世と現世の「政教分離」は古代ギリシア哲学を前提にした理論で、そうした教養を持たない中世の一般人には理解できない。
『ヨーロッパの歴史Ⅰ ヨーロッパ史の視点と方法』 草光俊雄 甚野尚志 p. 104
- 私の意見は「政教分離」という用語がどのような意味で使われているか、本記事中に説明が入った方が良いのではないか(政教分離という用語の定義が実情として一定していないので議論を招きやすい)と言うこと、本記事が単に「政教分離原則」の歴史節を拡張したもの、という位置づけではないということの2点であり、政教分離原則の記事で政教分離が概ね同義語として使用されるということには特に異論ありません。--TEN(会話) 2017年7月17日 (月) 16:26 (UTC)
コメント文献について3点ほど。一点目。本記事の「文献案内」節は、詳細で後学の人の調査研究に資するところは大きいと思いますが、ちょっとボリューム的に肥大化しすぎているので、普段は隠すような仕様にできないかなと思います。もし、御存知の方がいたらぜひ御紹介お願いします。二点目。「文献案内」節に掲載されている古代・中世史関連の文献の扱いですが、本記事は分割してしまったので本記事が現状で扱っている時代とは直接関係がなくなってしまいました。これを移転したり削除したりしていいか。そのお伺い。三点目。これは、お願いですが、本文加筆執筆で参照した文献は、なるべく「参考文献」節の方に(「文献案内」節じゃなく)書誌情報を掲載していただきたいということ。以上、3点よろしくお願いします。--Greenland4(会話) 2017年7月17日 (月) 13:26 (UTC)
- 文献案内は補助的なものですが、あっても悪いものではないと思います。見たい場合は見れるように隠してもいいと思いますし、分量肥大についてはご指摘の通りで、中世についてはあちらへ移動していいと思います。削除の必要はないと思います。書誌情報の明記は意識するようにします。明日以降、時間をみつけて中世への移動はします。--121.107.209.16 2017年7月17日 (月) 14:47 (UTC)
- 返信 Moon.riseです。Greenland4さんへ。文献案内の節に折り畳み(二段階折り畳み)を追加してみました。--Moon.rise(会話) 2017年7月17日 (月) 17:58 (UTC)
- 返信 Moon.riceさんのおかげでだいぶスッキリしました。ありがとうございました。これくらいスッキリしちゃうと、中世への移動は必要ないかもしれませんね。--Greenland4(会話) 2017年7月18日 (火) 02:22 (UTC)
「ピエール=ジョセフ・セレスティン・フランソワ」
[編集]「ピエール=ジョセフ・セレスティン・フランソワ」(Pierre Joseph Célestin François)についてですが、セレスタン・ナントゥイユ Célestin Nanteuilという表記があるのを見ると、「セレスティン」より「セレスタン」が適切ではないでしょうか。これ以上の知識はないので、コメントに留めますが。 --163.49.215.38 2017年12月16日 (土) 09:14 (UTC)