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ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史/過去ログ2

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正教会の事情

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正教会の事情は、政教分離の歴史と関係があるとする出典もなく、不要なので削除。--121.107.209.16 2016年2月7日 (日) 15:25 (UTC)

分割を差し戻しました

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IP氏による恣意的な分割を差し戻しました。--2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A 2016年12月23日 (金) 05:36 (UTC)

  1. 分割にあたって議論や合意形成がなされた痕跡がありません。
  2. 記事としては一貫性があり、分割する理由がないように思われます。
  3. 政教分離は「Separation of church and state」の訳語であり、その意味には制度と思想が含まれます。分割前の記述は教会と国家の分離の歴史記述としては思想・制度両面に及んでおり、網羅的ではないものの、いまのところ妥当なように思われます。
  4. 分割後の記事で新規作成のものに単純な事実誤認が確認しただけでも相当数あるように思います。記事内容が適切に分割されていないようです。分割の議論も分割先記事との整合性も含めて丁寧に検討された形跡がありません。
  5. 技術的な問題として、明らかにおかしな出典箇所があったので確認したところ出典情報が正しく継承されていないようです。修正する必要がありそうです。
  6. IP氏はかなりの記述を出典不明やエッセイ的であるとして削除しているようですが、その選択は恣意的なように思われます。「要出典」タグの利用やノートでの議論などが行われていないようです。正教会の記述を削除するのは政教分離の本来の意味からも明らかに問題があるように思われます。
  7. 言語間リンクは英語版「中世の国家と教会」とのリンクになっており、分割前の記述の方が内容的にも妥当に思われます。記述に一貫性があると思われることから、むしろ分割より改名がよさそうな気がします。

以上の理由から分割を不適当とし、差し戻しを行いました。--2001:268:C033:3FA3:95E9:36C2:3E32:571A 2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC)

  • #項目一部転記提案にてWikipedia:ページの分割と統合に準じて転記をしました。反対意見が表明されなかったので実行しました。よって、痕跡がないとは偽りです。
  • Wikipedia:過剰な内容の整理Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するに準じて推敲し、整理しました。2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の差し戻しでは出典のない独自研究が復帰され、私が出典を明記した箇所を削除しています(例えば、世界大百科事典「政教分離」を出典にした冒頭箇所)。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。そこには「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」とあり、ノートへの移動も提案されています。参考文献も実際に使用されたのか、関連文献ではないでしょうか。脚注を用いて出典として利用してください。なんでもかんでも「関連があるから」と掲載するのは不適切です。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかの「学術雑誌ではありません」では、「ウィキペディアの記事を、読者がその主題の分野に精通しているという前提で書いてはなりません。」とあり、これにも準じましたし、「政教分離の歴史」という題の記事で、西欧キリスト教の概説や宗教改革の変遷を書きすぎです。全文にわたって、「政教分離の歴史」との関連を示す根拠となる出典を提示してください。他の記事への執筆も検討してください。
  • 「単純な事実誤認」「おかしな出典箇所」などはどの箇所のことか明示してください。
  • IP:110.132.106.234 氏の2016年12月18日 (日) 04:48および 2016年12月20日 (火) 18:02‎ の差し戻し、2001:268:c03a:1d57:d5eb:838f:d3fa:ab42氏の 2016年12月23日 (金) 05:32‎の差し戻しも、ノートで提案されたうえで実行されていません。ノートでの提案は差し戻し後の2016年12月23日 (金) 10:24 (UTC)に書かれています。
  • 英語版のen:Church and state in medieval Europeは13,441バイト程度の記事で、日本版の48万バイトの分量に対応していません。一つの記事として内容が過剰で、整理すべきです。
  • 正教会の事情は、政教分離の歴史と関係があるとする出典がありません。出典がないので、独自研究とみなすほかありません。復帰するならば、出典を提示してください。また、完全に削除したのでもありません。

以上のように問題点が何一つ改善されていないので、差し戻します。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 05:01 (UTC)

本記事の内容は膨大ですので、まず121.107.209.16さんが問題点を一つずつ整理して提示してください。節ごとに内容を吟味して添削・加筆修正を行うのが適切と思われます。それぞれの箇所で121.107.209.16さんの分割の問題点、分割後の記述の不適切さ、出典の誤記問題などについて逐一確認するのがよいでしょう。とりあえず記事内容を差し戻しました。本記事は良質な記事に選定されていますし、出典も明記されております。独断で記事を編集するのではなく、記事内容の充実のため、協力が必要です。まずは節ごとに適宜議論して推敲していきましょう。--2001:268:C068:DEE0:C121:6510:9BAF:29CE 2017年2月21日 (火) 06:55 (UTC)
それと議論をスムーズに進めるために、本記事のテーマにおいて121.107.209.16さんが全体の見通しとして真っ先に参照すべき、中心をなすと思われる文献がありましたら、提示してください。それを踏まえて記事内容を吟味できればスムーズになると思います。--2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD9F 2017年2月21日 (火) 07:15 (UTC)

私の指摘に回答してください。出典のない文章は独自研究です。ウィキペディアは独自研究を掲載する場所ではありません。冒頭の「政教分離の歴史では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する、このように限定することの根拠は「基本的な視野」で詳しく記述する。なぜヨーロッパの国家としてビザンツ帝国が除外されうるかについても同様。基本的には森安達也の『近代国家とキリスト教』の理論枠組と観点に基づく。」でさえも、森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて「政教分離の歴史」を書くこと自体が独自研究であり、情報の合成です。自分でも認めているように、「キリスト教と国家」の記事を作るか、キリスト教史関連の別の記事で書くべき内容です。「基本的な視野」以下、出典のないものは削除対象です。信頼できる記述なのか、検証ができません。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:17 (UTC)

世界大百科事典「政教分離」項目によれば、「政教分離の画期としては叙任権闘争宗教戦争フランス革命がある」。そして、この説明は一般的にも理解されているものです。森安達也の『近代国家とキリスト教』を用いて古代から中世の関連国について書こうとすること、そしてそれを「政教分離の歴史」記事で書くこと自体が独自研究であり、不適切です。「政教分離の歴史」では、政教分離の歴史について書くべきです。文中で使用される語句について、古代からの歴史的変遷をすべて述べていくような態度は不適切です。「政教分離の歴史」について知りたい読者・閲覧者のことを配慮してください。自分の歴史認識を演説しないでください。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:26 (UTC)

まず基本的なこととして、この記事のメインテーマは森安達也さんの『近代国家とキリスト教』に依拠している(と書かれていますので、その)ように思われます。また政教分離は「(Separation of)Church and state」の訳語ですから、森安さんの著作が「国家とキリスト教」についてのものであるならば、一応その見通しは正しいかもしれないと推測できます。そして記事は出典を明記しているように思われます。出典のある記述を削除したり分割したりすることはどのようにして正当化されるのか私にはわかりません。また121.107.209.16さんの言い分を読みますと、記事を「国家とキリスト教」に改名すれば問題ないと思うのですが。なぜ分割されたのかわかりませんし、元の記事の出典情報が移動先にすべて移されていないのも問題ではないでしょうか。121.107.209.16さんは記事の記述を移動するときに出典を確認していらっしゃったのでしょうか。そして出典は世界大百科事典というような辞典類の簡単な記述ではなく、お手数ですが、議論の進展のため、まずは121.107.209.16さんの編集に際して依拠した文献を示してくださいますよう。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8
よりよい「政教分離の歴史」記事にするために、まずは全体の見通しについて121.107.209.16さんが依拠すべきと考える文献を提示してくださいませ。いまのままでは121.107.209.16さんの編集行為はそれこそ独自研究で行っているように思われますから、まずは文献を確認するところから始めませんか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 08:37 (UTC)

まったく正しくないです。森安本はキリスト教と国家との関係について書かれた本であり、政教分離の歴史として書かれたものではありません。記事を「国家とキリスト教」に改名すればいいといいますが、それも不適切です。「政教分離」について、叙任権闘争宗教戦争フランス革命以降の世俗化までを概観していている記事は必要です。世界大百科事典は出典として有効です。出典を示す責任は掲載を希望する側にあります。出典を提示できないなら削除された版を復帰することに明確に反対します。また、過去ログ1を見ると、問題となっている版を書いたとおもわれるKanbun氏による版(2001:268:C068:C53C:F98A:607:E89D:DD氏が差し戻している版もこの版なので、以下、Kanbun版と称します)についての議論でも、分割提案や長過ぎるという意見について差し戻しが繰り返されています。しかし、私は単に長過ぎるだけでなく、そもそも、この記事内容を書く場所としてこの記事は不適切であると指摘しています。したがって、Kanbun版は膨大な独自研究といえます。出典を明記するとは、自分の知っている参考文献のタイトルを並べることではありません。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 08:45 (UTC)

私には121.107.209.16さんの論理は成り立たないように思われます。分割提案や長すぎるという点にはやはりどうしてそれが長すぎるのか、適切な形にすればどうすればよいかという議論が発生しますし、そこで個人の独自な視点の押し付け合いになってしまうのは問題があります。そのためウィキペディアでは中立的な観点と出典の明記という規則があり、それに則って折り合いをつけるべきではないでしょうか。方針文書はそのように推奨していると思われます。したがって、まずは文献情報を交換し、個々の節単位でその内容の妥当性を吟味すべきではないでしょうか。また政教分離というのは国家とキリスト教を代表とする宗教団体の分離をまずいい、121.107.209.16さんのおっしゃっているのは「世俗化」とか「世俗主義」と言われるもののように思われます。そして周知の通り、ヨーロッパでは政教分離の歴史はまずキリスト教と世俗権力の関係性の問題とその分離という方向で決着したのであり、政教分離の歴史は国家とキリスト教の関係史であることは自明だと思われるのですが(この点について文献をあげろと言われればいくらでもあります、たとえば欧州中世史では山田欣吾『教会から国家へ』)、121.107.209.16さんはどんな文献に依拠して議論をなさっているのでしょうか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 08:55 (UTC)


そもそも、政教分離の歴史で、米国における展開も非常に重要なのです。古代、中世の制度と諸国家の詳細な説明よりも、政教分離の歴史について、一般の読者に理解できるように書く努力をしてください。たとえば、

などを参照して書くべきで、森安達也『近代国家とキリスト教』も該当箇所について参照することに反対しませんが、古代〜中世〜近代国家とキリスト教の通史をこの記事で書くことには明確に反対します。「政教分離」の歴史であって、キリスト教と国家の関係史は別の記事で書くべきです。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:00 (UTC)

根本的な問題として以上の論考は近代以後のものであり、近代以前を対象としていませんよね。しかしながら、一般にヨーロッパの政教分離の歴史は古代キリスト教思想と絡めつつ、中世以来の国家とキリスト教の合体と分離、その結果として国家が世俗化されて近代国家は生じてくるという国制史的視点に長い伝統があります。その点についてなぜ政教分離の歴史で扱うべきでないかという点について、全く文献的なフォローがされていないのは問題です。これは歴史学的には常識ではないかと思われるのですが、どうでしょうか。そしてそもそも121.107.209.16さんは分割時には必ず必要となると思いますが、この記事の挙げる文献を確認していらっしゃるのですか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:06 (UTC)

詭弁ですね。政教分離原則は近代社会の世俗化のなかで展開したもので、3論文の通りです。古代や中世の話は、直接は関係ありません。ご自身でも認めるように「キリスト教と国家」記事を新たに立項されて、そちらに移動転記されてはいかがでしょうか?この記事では、私は近代以降、宗教改革以降で十分と思っています。現状の説明は程度の低いものでありますが、むやみに読者を混乱させるKanbun版よりはましです。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:12 (UTC)

そうではありません。近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離であるというのは国制史の常識です。山田欣吾『教会から国家へ』の冒頭だけでも立ち読みしてください。そこに答えが書いてあります。ほかにも文献はいくらでもありますが、大学図書館であれば必ずあるのでそれを確認するのが一番簡単です。詭弁とののしられても121.107.209.16さんの主張は文献的な裏付けがない以上、ウィキペディアでは独自研究です。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:16 (UTC)

「近代国家は国家の世俗化によって生じたものであり、その過程こそが政教分離である」と書いてあるなら、何頁に書いてありますか?引用して説明してください。しかし、そうした見解があるとしても、それは政教分離の記事で定義の一説として書くべきでしょうね。文献的な裏付けがないのはKanbun版です。中世国家論争ヨーロッパ中世国家などを立項するのも検討してみてください。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:24 (UTC)

1ページ目に書いてあります。そもそも議論の出発点ですので、ぜひ確認してください。私はこの記事の著者でないので文献はすべて確認しておりませんが、おおむね過去に読んだことのあるものがほとんどです。その観点から言うと、少なくとも国制史的な視点はよく盛り込まれていると思われます。歴史記事の議論なのに、どうも議論が歴史学的な話になっていません。政教分離の歴史を編集したり分割したりしようと思うのでしたら、まず文献の確認はすべきだと思います。そして中世国家論争やヨーロッパ中世国家という記事を書くとなればより社会史的視点も必要になると思われますから、現状の内容にそぐわないと思われます。とにかく文献を確認していないのならば、確認するところから始めませんか。--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:27 (UTC)
引用もできないのですか。困ったものです。そういう見解があったとしても中世西欧諸国家の変遷について細部にわたって書きすぎて、全体が見えなくなっており、その結果、「政教分離の歴史」について有益な情報が提供されていません。どのような歴史の説明がいいか。たとえば、前掲井上修一論文の冒頭では「オットー一世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝 国の最盛期には、キリスト教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、ときには教皇が皇帝や 君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。中世末になると宗教改革や初期資本主義 の進展によってローマ教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争することになっ た。近世に入り国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが18 〜 19世紀の革命によって決定的に崩壊し、次々と近代自由主義国家が誕生したのである。このような教会 権力と国王権力の激しい対立・抗争の歴史を経て自由主義思想が生まれ、教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や市民の信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保 障された」と解説されています。この概説に異論はありますか?ここの記事もこれくらい簡潔に説明されるべきです。「神聖ローマ帝国」が文中で登場したからといって、神聖ローマ帝国の歴史全てを説明しようとするKanbun版は間違っているし、不親切であり、読者のことを一切配慮しないし、政教分離の歴史についての理解をむしろ妨げるものでしょう。--121.107.209.16 2017年2月21日 (火) 09:42 (UTC)
まず神聖ローマ帝国の国制史には長い伝統があり、神聖ローマ帝国は当初から近代的な国制を整えていたわけではありません。ハインリヒ2世によって一応の制度的成立を見る選挙王制・帝国教会政策から叙任権闘争、シュタウフェン朝による進展があり、神聖ローマ帝国の長い歴史を一言で説明するのが政教分離の「歴史」記事とはとても思えません。神聖ローマ帝国の歴史そのものが一つの政教分離史といってもよいくらいですよね。なんていうか121.107.209.16さんは政教分離をただ単に近代に限定したいように思われます。それならばいっそ近代以後の「国家による宗教政策」みたいな記事を作った方が早くありませんか?細かい内容についてはこれから精査するとして、この記事の分割にこだわる理由が見えてこないのですが。提示された論文も政教分離の伝統が中世にさかのぼることは自明に論じてますし、政教分離の歴史を近代に限るべきという文献的な裏付けもないですよね?--2001:268:C068:FEA9:E162:C800:96C2:63B8 2017年2月21日 (火) 09:48 (UTC)
コメント 双方落ち着いてください。今3RR違反で1日ブロックにしていますので明日のこの時間まで編集しないでください。IPアドレスが切り替わったからといってノートを含めて編集してはいけません。
あと、分割についての合意ですが多数のページに影響与える提案になるため告知が不十分とも考えられます。コメント依頼を活用するなりして一度「分割前の状態」を出発点としてコメントを募ってください。--アルトクール会話2017年2月21日 (火) 10:00 (UTC)

まず政教分離の歴史の枠組みについて合意しましょう

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まずお互いの誤解や不一致を克服するために、政教分離原則の成立に関する通説的理解を確認しましょう。おそらく以下の点については双方全く問題なく合意できると思います。政教分離原則の成立についての論点は多岐にわたりますが、大きく整理して3つに集約されるというのはおそらく異論は無いもののと思います。政教分離が以下の通説的理解に基づくべきことは合意できると思います。 一つ目は、アウグスティヌス/ゲラシウス→ルターという二国家論の政治思想とテオクラシーの発展という思想史的背景に、 現実社会ではカロリング朝期の統治構造・財政における政教一致から中世を通じてそれぞれの領域と財政・統治機構の独立と棲み分けがおこなわれ、叙任権闘争を通じて神聖王権としてのあり方を否定され、ローマ法的君主権に自らを位置づけた皇帝権、一方で同時代周辺国家に形成された教皇権とも皇帝権とも異なる固有の王権理念などを見ながら、近世には宗教改革の進展に伴って領邦の宗派国家化の進展、アウクスブルクの宗教平和に至っての信教の属地主義の採用、ヴェストファーレン条約の結果としての信仰の内面化と政治秩序の世俗化(つまり国制上の政教分離)というような国家の世俗化過程を見ていくものがあります。現況の日本のドイツ国制史においては山田欣吾『教会から国家へ』の枠組みが基本的にはつねに参照されており、五十嵐修さんの『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』や千葉敏之さんの一連の神聖王権に関する研究もこの流れに沿っています。一方で関連して神の平和運動に関する膨大な研究とそれを権力構造と結びつける研究があります。同時に教皇庁の側についてはどちらかといえば叙任権闘争や両剣論を中心としたテオクラシーに関する論考が膨大にあり、理念史に傾いていた感がありましたが、実体としての教皇庁については個別に統治機構を詳しく論じた藤崎衛さんの『中世教皇庁の成立と展開』が最近現れました。 二つ目は、中世におけるユダヤ人問題やロマ、周辺異教徒への伝道、イスラム教との関係からロックの近代的寛容論にいたるまでの寛容というキーワードで読み解く宗教社会史の立場があります。後期中世から近世に関しては宗教改革とそれに伴う、宗教戦争とナントの勅令などが画期と見なされており、ドイツ国制史とは別個にフランス国制史やガリカニスムなどと結びつけられ、ロック寛容論の流れを組む英米政教分離、フランス式ライシテまで射程が広がってきます。関連して、まず古代のキリスト教迫害問題とローマ帝国の対応を緻密かつ体系的に論じた保阪高殿さんの論考群が原点として重要で、つぎにキリスト教社会をこえた対象であるために周辺的ながら新井政美さんによる『イスラムと近代化 共和国トルコの苦闘』という示唆に富む優れた著作があります。 三つ目は、政治的正当性をキリスト教的な政治神学の流れに位置づけ、ホッブズによる主権論の世俗化を画期とする政治秩序の正当性論にキリスト教神学の根強い伝統を論じるとともに、一方で統治思想における世俗化を論じて、ナチズムまで射程に引き入れる政治哲学に関する研究です。エルンスト・カントローヴィッチの『王の二つの身体』、カール・シュミットの政治神学的論考群、レオ・シュトラウスなどが論じられます。最近この分野ではジョルジョ・アガンベンが『王国と栄光』で既存の政治神学的枠組み自体を問い直すような、注目すべき留保をつけていることが知られています。 以上の三点の他に、実際には無神論という思想潮流が潜在的にありますが、これは政教分離の歴史としては共産主義的無神論が現れる近現代までは主流とはならないので、基本的には無神論の歴史として別個に扱われるのが普通と思われます。これについては邦語ではG・ミノアの浩瀚な通史が便利です。 以上の細かい論点はほとんどすっ飛ばした、ざっくりとした概略については最近の細かな地域研究の広がりなどをとりあえず無視したうえで、通説に属するものとして、19世紀以来の長い歴史学研究の伝統にも則り、政教分離の歴史というものを書くならば、骨子としてまず第一に採用されるべきであるという点に関してはとくに問題が無いように思われますが、どうでしょうか。--2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC 2017年2月22日 (水) 10:05 (UTC)

問題ありすぎです。ヨーロッパ国制史(Verfassungsgeschichte)という記事ならいいですかれど、「政教分離の歴史」からフランス革命やアメリカ合衆国の記述を削除する理由にはなりません。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 14:47 (UTC)

政教分離について、文献を挙げて批判してください。121.107.209.16さんは歴史学とは直接関係のない法学の論文の、それも国制史が論じてきた政教分離の伝統的な本論とは異なる各論しか挙げていません。いまだに歴史学的文献を挙げていません。繰り返します。まずは歴史学的文献を挙げてください。現状では全く理由が示されておりません。--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 14:53 (UTC)
文献をいくつも挙げて批判しています。文献は以下の分割提案で上げています。貴殿は他者の発言を理解しようとしないだけです。偽りはやめてください。2001IP氏自身が、なぜこのような構成になっているのか、その関連の出典を示さず、「これは常識だ」「本を読んだのか」などと聞きますが、出典がきちんと表示されている箇所を私は削除していません。出典を明示して執筆したり、フランス憲法や米憲法などを削除する貴殿と一緒にしないでほしい。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 15:30 (UTC)
これ、議論になってないですよね。通説的理解に基づいて本論をまず確認しようという話なのですけれども、各論の、それも分野の違う法学・法解釈の文献を挙げて、そのうえで一般に受け入れられていると思われる通史的な枠組みを提示しても、それに対して真っ正面から反論することもなく、一部の記述を削除したとかしないとか議論の推移と直接関係のないことを持ち出して、本論とは関係のない理由で相手の論理を全否定する。正直この調子では議論が成り立たないですよね。基本的な事柄についても普通に共通認識を形成することは出来ないのですか?--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 16:44 (UTC)

「世俗化」「宗教改革史」への分割提案と出典の明記のお願い

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アルトクール氏より以前の分割提案も不十分という指摘もあるので分割を再提案します。

政教分離原則は近代において法制化されたものです。2001:268:C068:D55F:9592:9341:968:C0AC(以下、2001IP氏)が不当に削除した、1789年のフランス人権宣言第10条、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が代表的な例です。「近代に限定せよ」といっているのではなく、「近代以降の歴史を説明すべき」です。

また、世界大百科事典「政教分離」項目によれば、政教分離の画期は叙任権闘争宗教戦争フランス革命。また、井上修 一「フランスにおける政教分離の法の展開」によれば、

  • オットー世がローマ教皇ヨハネス 2世により神聖ローマ帝国皇帝に戴冠されて以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家の様相を呈した。神聖ローマ帝国の最盛期には、教会は全欧州の三分の一の土地を領有し、教皇が皇帝や君主叙任権をもつほど世俗的権力が強大であった。
  • 宗教改革や初期資本主義の進展によって教会の権威は失墜し、教会権力と国王権力が対立抗争した。
  • 近世に国王権力は教会権力を封じ込めて絶対君主制を樹立したが、18 〜 19世紀の革命によって崩壊し、近代自由主義国家が誕生。教会の世俗的支配を徹底的に排除する政教分離の原則や信教の自由・思想の自由が人権宣言や憲法で保障された。

この三点を骨格にするといいでしょう。趣旨はこの程度にしておくべきで、近代以前の歴史も「前史」として説明があってもいいですが、中世諸国家における変遷を逐一ここで説明するのは本末転倒で、過剰な内容となっており、バランスも含めてよくない状態です。2001IP氏が固執するKanbun版での、たとえばカロリング・ルネサンスについての記載は「政教分離の歴史」と全く無関係で、不要な箇所です。これも出典なしです。

2001IP氏のヨーロッパ国家形成史への興味はわかりますが、それは「政教分離の歴史」でなく、他の記事にしたらいかがですか、といっているのですし、自分でもそう言っていたではないですか。山田欣吾「教会から国家へ―古相のヨーロッパ」についてですが、これは「西洋中世国制史の研究」であって、いわゆる「政教分離の歴史」についての通史ではありません。ベッケンフェルデの世俗化理論を展開して、カール大帝のフランク帝国などを、「教会としての国家」として論じたものです。そのベッケンフェルデについて新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」言語文化論究 (通号 5) 1994では以下のように紹介されています。「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点からではなく、先ず既定の政治的・宗教的統一世界から離脱し,次いで世俗性を帯びた(いわゆる政治的な)目的設定の普遍化へと向かい,やがては政教の分離にまで発展していく歴史的世俗化の過程を視野に入れながら近代国家の成立を論じた」と。そしてまた、世俗化の原理は、政教の分離を可能にするもので、叙任権闘争にも見出される、と。また、山田欣吾の研究は論文「Verfassungsgeschichteについて : W・シュレジンガーと O・ブルンナーの場合」にあるように、Verfassungsgeschichte、つまり国制史の研究であると明記されています。『教会から国家へ』も、西洋中世国制史の研究シリーズと明記され、「初期中世の政治秩序を比較国制史の視点から考察し、国家形成史を宗教的秩序の世俗化過程として構想する」研究とされています。もしこうした紹介文で「政教分離史の視点から考察された研究」と明記されていれば、私は貴殿の主張を認めます。しかし、貴殿は何一つ提示していません。ご自身の解釈のみで、非常に恣意的な解釈にすぎません。kanbun版では「基本的視野」では、山田欣吾やベッケンフェルデらの世俗化理論を説明することなく、また、西洋中世国制史における世俗化理論と、法制史的な意味での政教分離原則との研究史上の関連を説明されていない。また、新保弼彬論文では、ベッケンフェルデの研究は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史の視点」ではない、とされているが、kanbun版は「領土とその支配権をめ ぐる政治体制史」にとどまっています。それは、きちんと世俗化理論が説明がされずに、関連諸国家を悪い意味で「網羅」し、その結果、膨大な量がまとめているものの、果たしてこの記事が何についての記事なのかが不明瞭になっている。

森安達也の『近代国家とキリスト教』を出典に、ともいうが、これも「政教分離の歴史」について書かれたものであると限定されているわけではない。「政教分離の歴史」よりも広い意味での「近代における国家と教会」について書かれたもの。

それだけでなく、歴史的世俗化の過程の結果に、近代の政教分離原則があるとは、すでに挙げた論文でも明らかである。しかし、貴殿は、そうした近代の政教分離については加筆を拒絶し、「近代以後の国家による宗教政策」などの記事に別に書けという。これでは話になりません。現在のkanbun版は、西欧史に詳しくないひとにとっては色々の情報が掲載されており秀逸な記事にも錯覚されますが、近代以降についての説明をしていない点からも、「政教分離の歴史」記事としては劣悪なものです。ただし、「世俗化」「ヨーロッパの中世国家」「中世の国家と教会」(これは貴殿が自ら提案したもの)などの記事としてはいいでしょう。もっと理論的な説明が冒頭であるべきですが。要するに、執筆内容の場所を間違えている。

以上の理由で、kanbun版の世俗化世俗国家などへの分割を提案します。分割箇所は、「2.歴史的展開」の2.2から2.3。2.4まで含めてもいいでしょう。しかし、2.4は宗教改革史宗教改革の歴史として分割する方が適切。

個々の節について、「政教分離の歴史」との関係について出典明記をお願いしても、一向に出す気配もないので、一括で分割提案します。

出典がないことについてすでに何度も指摘しているのに、一向に話を聞きませんが、出典のない構成は、独自研究です。また、不当に削除された記載は復帰します。

「歴史的展開」の「概要」は概要になっていないし、目次です。しかし目次はすでに表示されており、二重に表示することは不要で余計。よって削除を提案します。しかも、出典もない。また[ 目次へ移動する | 概要へ移動する | 先頭へ移動する ]の必要性がないので、表示に反対します。

--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 14:45 (UTC)

まず政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なるということを理解してください。正直議論が全くかみ合ってません。そもそも『教会から国家へ』は読まれたのですか?--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 14:55 (UTC)
それと気になってしようがないのですが、やたら権威付けされている、この井上修一さんという方はどういう方なのですか?専門は民事法学などとなっていますが。この論文にはどんな研究史的意義があるんです?--2001:268:C068:E925:7DF7:B60F:B2F7:8CF8 2017年2月22日 (水) 15:01 (UTC)
議論もなにも、なにひとつ他人の見解を聞こうとしていませんよね。「政教分離原則と国制史的な政教分離の議論や政治思想史における政教分離論は異なる」なんて独自研究または演説はしないでください。カロリングルネサンスは書いてもいいが、近代における政教分離原則について書いてはならないとする理由はない。誰の論文であっても、査読体制のある大学紀要論文であれば、出典として使用できます。あなたが好む学者だけが「信頼できる情報源」なのではない。もうこれ以上は無理ですので、コメント依頼します。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 15:25 (UTC)
正直山田欣吾『教会から国家へ』はドイツ中世史プロパーや政教分離論について歴史的な関心がある人なら外せない一冊であり、同書でも指摘されているとおり国制史的には国家の世俗化が近代国家形成であるというのは国制史的には定説で、そのうえさらにこの研究は伝統的な初期中世国制史の議論においての空白を埋めた画期的研究です。そもそも山田欣吾を知らないという時点で政教分離の歴史というかなり壮大な問題を論じられるのか?という疑問があります。そうした歴史学的な背景もなしで突然政教分離においては各論に近いライシテを教科書的に論じているように思える論文を出されて議論されても、そもそもの土台が違いすぎます。はっきり言ってしまえば121.107.209.16さんが繰り返し決定版のように引用している箇所は井上論文の確信でも何でもなく、それこそ辞書的な流れを確認しただけの論文の序詞で、それほど重要な意味のあるものとは思えません。それに対し、『教会から国家へ』は少なくとも後進研究者にとって参照対象である国制史の理論的核を提供している画期的なもので、それは121.107.209.16さんがネット上で見つけてきたと思われる『教会から国家へ』について言及する各種論文にも明らかです。はっきり言ってしまえば、121.107.209.16さん自身が自ら『教会から国家へ』が重要著作であるとはしなくも証明しているにもかかわらず、自分に都合のよい論文や記述を集めて独自に研究をなさっているように思われます。そして今更ながらに気づきましたが、近代以後の記述がないのはおかしいという点については、単に現状の記事に記述されていないだけで近代については加筆すればよいだけではという当たり前の疑問がわいてきます。なんで加筆しないのでしょうか。近代以前に議論を限るという話には今までなっていない気がしますが。正直近代以後を加筆すべきという議論は分割とは関係ないですよね。自らを正当化するために私が発言していないことも私が言ったことにしてませんか?--2001:268:C068:D8C2:51B3:5DC3:D122:8CFE 2017年2月22日 (水) 15:50 (UTC)
2001IP氏は「近代以降は別の記事に書いた方がよい」といってます。近代以降の加筆は必要です。しかし、加筆したくても、それまでの叙述があまりに長く、長いだけでなく、無意味といっていいほど恣意的で、歴史の説明になっていません。Kanbun版は「山田欣吾にあこがれているファンによるメモ」レベルにすぎませんが、 しかしそれもヨーロッパ国制史、国家と教会史としてのメモであって、「政教分離の歴史」として不適切です。ウィキペディアは山田欣吾ファンでなくても執筆は可能です。これ以上、中世史研究の「常識」などと演説されても、何の関係もないので、無駄です。あくまで、「政教分離の歴史」を書くことに、この記事の改善を考えてみてください。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかをもう一度読んでみましょう。ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。井上論文はインターネットで確認できるから利用しています。2001IP氏は中世の国家と教会と自ら改名提案していましたが、撤回されたのですか?その改名提案が生きているなら、その方向で合意形成に務める方がいいかもしれません。私はそれならば合意できそうです。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 16:30 (UTC)
近代以降は別の記事に書いた方がよい」の部分、前後の文脈切り離してますよね?これこそ詭弁というものです。文意を正確にくみ取れば、「近代以後だけに記事を限定したいのであれば、近代以後限定の記事を作って近代以後は別の記事にして書けば良い」という意味であることは明白ですよね?少なくとも私はそういう意味で言っています。そして改名提案もまた一定の文脈での話であり、撤回したとかいう話ではなく、この節ではまず分割するかどうかと出典が正当であるかどうかを問う議論をしているのであって、それに即した議論とは別の話をもってきて論点をはぐらかすのはやめてください。ここではまず井上論文をもし121.107.209.16さんが権威として持ち出すのであれば、それが山田欣吾『教会から国家へ』と比べて出典として適切なのかという点について第一に話し合われるべきであり、さらにその妥当性を吟味した上で分割の是非について問うというのがありうべき議論の形ではないのですか?--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 16:52 (UTC)
つまり、ここではまず、政教分離の歴史の本論を措定するに当たって、民事法関係の専門家井上論文の冒頭部分に基づいて本論を書くのか、日本のドイツ国制史における画期的業績であり、少なくとも2000年代を通じて国制史の基本文献として参照されてきた山田欣吾『教会から国家へ』のどちらをまず基本文献として採用すべきかという話であり、そこから話を進めないと議論が始まりません。--106.161.160.131 2017年2月22日 (水) 17:00 (UTC)(←追記:なぜか突然回線を変えたわけでもないのにIPが振られたので右の発言は2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8と同一人物の物であることを補足します。IP戻りました--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 17:04 (UTC)
どちらも出典として有効です。どちら一つなんてどこのルールですか。出典があれば、明記する。第一に、まずはそれだけです。出典が一ヶ月ほど待って提示されない箇所は削除します。また、分割に反対か賛成かは表明してください。霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎるでしょう。--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 17:10 (UTC)

中世だけが歴史ではありません。現代史も歴史です。1989年のフランスのヒジャブ問題なども、歴史的経緯も説明すべきです。しかしその場合、ヒジャブの説明で何万バイトもあったらどうしますか?--121.107.209.16 2017年2月22日 (水) 17:15 (UTC)

あと根本的なことなのですが、まず現状の版は別に『教会から国家へ』に基づいてませんよね?私はあくまで現状の版は『教会から国家へ』と同じ国制史的視点から構成されているということを指摘しているだけで、現状の版を『教会から国家へ』に基づく形で調整していくのはこれからの話ですよね?つまり、この記事は別に山田欣吾ファンが書いたという話はどこにもなく、ただ単に『教会から国家へ』を読んでも明らかなように、ここで展開されている論理は少なくとも大枠は別に歴史学的知見から非常識なものではないということを言っています。それから論点のすりかえが著しいのですが、まず井上論文の出典としての妥当性を考慮しなければ、それに基づいて現状を間違いだ、分割すべきとする121.107.209.16さんの議論があるので、現状の枠組みは『教会から国家へ』に代表される国制史的見解やその他のすでに挙げた文献に基づけば、分割する必要はとりあえずないという私の議論と決着がつきません。両立可能という話ではなかったはずです。さらに現状の記述が強引かどうかがまさに論点となっているわけで、『教会から国家へ』が出典として有効であるならば、子細の検討はともかくとして、少なくとも記載内容については妥当であるということになり、分割自体問題とならなくなりますよね?ヒジャブの件についてはバイト数を問題にする詭弁ですので、わかっていると思いますが無視します。--2001:268:C068:CA0A:3CC3:E4AE:9EA7:71A8 2017年2月22日 (水) 17:21 (UTC)
気になったので、「霊性や、イエス、カロリングルネッサンスなどの箇所を出典なしに、政教分離の歴史として執筆するのは強引すぎる」という点については擁護する必要があります。記事の冒頭記述はちょっと説明不足ですが、現在の歴史学研究では霊性と国家の関係というのは国制史的な国家の世俗化や近代国家成立論、信仰の自由成立史などにわたって大きなテーマです。ざっくり今日の歴史学的研究における共通理解のようなものを素描しますと、まず古代世界では国家による殉教とか迫害とかを霊性の問題として教父たちがさかんに論じているんですけど、国家の側から見ると霊性を理由に迫害などしてなくて、治安維持を目的とした政策やまた迫害と考えられている事象の一部は教父が霊性をキーワードに誤解していたキリスト教保護政策などであり、国家は霊性とか信仰なんてもんはそもそも問題にしてないよねっていう保坂先生の画期的研究が出ちゃってて、次にカロリング朝が西ゴートの神政政治(これを神政政治と定義してよいかという問題がありますけど、とりあえず無視します)をモデルにして教会として自らを位置づけて霊性を国家が独占して強力な権威を獲得した(理念の上でも教会と「王国」(regnum この用語は要注意)が一致していたかについては五十嵐氏による議論あり)っていうところからドイツ国制史の議論が始まります。これが中世の始まりで、中世ではキリスト教徒じゃなきゃ基本的に人間として扱われていない社会だったけど実際はどうなの?その場合は近代的寛容論とのつながりはどうなの?って主にイベリアとシチリアなんかの周辺地域を対象にいろいろな研究があり、それが各国の政教関係を中心に読み解かれたりもしています。カロリング朝没落後に一度国家=教会的枠組みが崩れてしまったけど、オットー朝がそれを神聖王権という形で立て直します。でもなんか王権が改革にのめりこみすぎたあと、ハインリヒ3世死後4世が成人するまでの間にある皇帝権力の空白期みたいな時期に、教会改革が進んだこととシチリア王国ができてイタリア情勢が変わったことから叙任権闘争がはじまっちゃって、王権は神聖王権としてのあり方を否定されます。この時点で理論的には霊性と俗性は分離しようって言うのはほとんど常識になったんですけど、実際のヨーロッパの権力構造は教会組織が国家に組み入れられていたので、叙任権だけを解決しても財政や統治機構的な分離はあとまわしになっていたけど、それが教皇庁の機構的整備によって進んでいきます。でもこの時期イギリスとかフランスではキリスト教的な霊性とは別種の、教皇に依存しない血統霊威っていう霊的権威を王権が主張するようになって、これをもとに中世後期から近世になって王権神授説っていうのが主張されるようになります。一方で霊性の国家からの分離が進んでいたドイツでは王権神授説なんてのは王権の権威付けにはとてもならなくて、当時の皇帝権論者はそれを時代遅れで迷信だと罵りつつ、うらやましがっていたりする。この血統霊威の観念はだんだん王個人と引き離されて法学的に修飾されて国体みたいなものになるんですけど、これが王権への反逆と王個人への抵抗を区別する根拠になって民主主義的な抵抗を正当化するものにつながっていく。ドイツでは宗教改革を契機に国制が本格的に世俗化していく。で、議論の中心は中世のキリスト教社会では政治権力の正統性は霊性につねに根拠があったんですけど、世俗国家はそうではない。どうしてそうなるかといえば国制における政教分離と政治思想的な理念における政教分離がこうして同時並行的にからみあいながら進んだからで、そもそも世俗的な国家からの霊性の剥奪という過程がないと、霊性を現世の出来事から区別するという論点は成り立たないというか発想されないのであって、信教の自由とか近代的な寛容論とかも出てこないし、社会的にマジョリティになることはない。だから政教分離原則ができるには先行する政治思想での政教分離と国家機構の政教分離が不可欠であったという議論が基本線。でも実際は各国の歴史的進展には差があって、それが近代社会での各国の政教分離原則の立ち位置の違いにつながっている・・・・・・という歴史学研究の通史のなかでは霊性とカロリング朝と、イエスの思想の政治思想史上の解釈の変遷史というのは中心テーマですし、そこに現状研究が集中しているのは事実ですから分量が多いのは自然だと思います。--2001:268:C068:DACE:4539:3251:E40B:1CF7 2017年2月23日 (木) 07:31 (UTC)

井上論文の出典としての妥当性を疑うとはどんな意味なのでしょうか。学術論文や百科事典なども出典として有効です。Wikipedia:信頼できる情報源を読んでください。その上で、井上論文が情報源として無効であることを証明してください。「政教分離の歴史」は中世史学者の文献しか使えないわけではない。ウィキペディアは演説台ではありませんので、編集に関係のない現在の研究の動向などの話はしないでください。あなたの個人的かつ主観的な評価をいくら演説しても説得力はゼロです。政教分離原則の前史について、演説は結構ですので、出典を明記してください。分量が多いのは「自然」ではないです。近代以降の記載が同量の分量あれば、バランスはとれるかもしれない。しかし、各国の事情を異常な分量で一つの記事でまとめるのは不適切です。それでしたら、ヨーロッパの政教分離史の概説をここにして、各国の情況は別の記事にしたらどうですか。ウィキペディアはせっかく各記事がリンクされているのですから、それを利用してください。そして、記事を私物化しないでください。自分でサイトを運営なさったらこんな議論(ともいえませんが)しなくて済みます。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:13 (UTC)

まず井上修一論文は政教分離の歴史についての論文ではないし、そもそも歴史学の文献ですらないでしょう?121.107.209.16さん自身が記事内容に対して出典の有効性の是非などを論じているように見えるのに、ご自身の出典は歴史学分野でもない論文の、それも論文の本論でもない前文部分でよくて、なぜか宗教史の森安達也さんの文献や国制史上の政教分離を論じている山田欣吾さんの文献を信用できないものと断じているのはどういうことなんですか?これを独自研究といわないとすれば何を独自研究というのか私にはわからないほどむちゃくちゃな言い分だし、ここまでの議論ずっとこんな調子で、まともな文献を提示してないじゃないですか。記事を私物化しようとしているのはどちらか明白だと思うんですけど。民事法関係、それも具体的には労働法においてたくさんの業績がある井上修一さんは結局この分野でどういう位置づけにあるのですか。井上さんの論文はライシテについてのもので、政教分離の歴史全体について、何か枠組みを提供しているものではないですよね?これ以上、常識外れの議論を続けるのならば、さすがにコメント依頼など考えざるを得ないですよ?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:30 (UTC)

山田本などを使用してはならないとはいってません。しかし、それらの本が「政教分離の歴史」として古代中世から中世諸国家の細部に渡って説明する全体の構成の出典としてなっていないということです。たとえば、

政教分離とは、信仰生活と政治活動は分離されるべきであるという考え方である。歴史的にはジョン・ロックによって、信教の自由は人間の自然権であるという考えが提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化された。ただし国により制度的な実現方法には相違がある。

これも出典が明記されていません。独自研究といわれても仕方ないです。反論するよりも、出典を脚注でつけたらどうですか?記事を私物化して、他の編集者による執筆を許可しない態度は、2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3氏のほうです。そもそも、私はkanbun版の復帰を一度受け入れて、再提案してるのです。他者の発言に一切耳を貸そうとしないのは、貴殿です。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:38 (UTC)

井上論文は「フランスにおける政教分離の法の展開」で、れっきとした政教分離関係文献です。歴史学ではないですが、法学の文献も使用していいですし、そもそも「歴史学文献以外は出典として使用できない」なんてウィキペディアの方針にありますか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:44 (UTC)

いや、これはそもそもフランスの、それも現代のライシテについて論じているものでしょう。ライシテの箇所での出典ならまだわかりますけど、歴史学的な研究とは論じている対象も地域も時代もその構想の範囲も異なるのに、一緒くたにして議論に持ち込むことは出来ないでしょうっていう当たり前の話なんですけど、これでわかりますか?歴史学的成果の話をしているのに、歴史学の文献ですらないってどういうこと?って話です。これ、単純な話ですよね?それになぜか私が削除したっていうような話になってますけど、私がしたのは分割の差し戻しであって、その後121.107.209.16さんが分割後の記事に加筆するという話ならわかるんですが、そうではなくてもう一度分割を強行しようとして編集合戦になり、保護依頼されたのに121.107.209.16さんが加筆をしているというふうに私は認識しています。そして編集をしたしないみたいな話を議論に紛れ込ませるのは本筋を外れるのでこれからはやめましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:54 (UTC)
発言が意味不明ですよ。タイトルにあるようにライシテを含む政教分離についての論文です。法学の文献は使えない?山田欣吾に影響を与えたエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデも法学者ですし、フランス革命が政教分離の画期であったといっています。フランスについて書いてならないと?冗談はやめましょう。とにかく、政教分離と世俗化については、新 保 弼 彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」を用いて、冒頭の基本的視野に少しだけ加筆しておきます。足りないようでしたら、山田欣吾の著書をもとに書いてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:19 (UTC)
今争点になっている箇所について加筆しようとするなど、編集合戦につながる行為はおやめください。そして議論を無視しないでください。フランス革命うんぬんを加筆してはならないとか、ライシテを加えてはならないなどと言う話はそもそも出てきてませんし、ご自分の論理を強引に通そうとしないでください。そもそもここで話し合われていたのはまず井上論文を根拠とする分割提案は妥当かという議論であって、ご自身の提案でもあることですし、それに集中してくださいませんか。現状の記事に加筆をなさりたいというのであれば、つまりもう分割提案は撤回と言うことでよろしいんですよね?そこのところをまずはっきりさせましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:31 (UTC)
加筆するのは、山田欣吾の論へと仲介するものとして、ベッケンフェルデの世俗化過程についてですよ。分割提案は、全体のバランス、分量についてのものです。その根拠は井上論文だけでなく、
  • 新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994でも、「10世紀から20世紀にかけて」の世俗化、また「中世の叙任権闘争に始まり,16, 17世紀における宗教の分裂と内戦を通じて, ヨーロッパの宗教的・政治的統合体が徐々に 世俗化され,やがては政治的・社会的秩序へ と再編されていく幾世紀にも亙る歴史上の過程を見てきたわけであるが,この発展の流れ を近代的な意味における政治国家の成立に向 けて一挙に転換し,その極に到らしめたもの は言うまでもなくフランス革命であった。」とフランス革命を重視しています。
  • 山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 
  • 世界大百科事典第2版「政教分離」

でも、ベッケンフェルデの論文での中世叙任権闘争以降として論じています。もう一度いいます。中世叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?ベッケンフェルデを採用せず、山田欣吾は採用するというならば、山田欣吾はどこを政教分離の画期と見ているのですか。というか、ベッケンフェルデと山田欣吾が違う歴史認識であるとしても、両方の学説を紹介すればいいだけです。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:49 (UTC)

そもそもベッケンフェルデを読んでいるのですか?私のもとには今『法の理論22』があり、桜井訳のベッケンフェルデ当該論文もあるわけですが、あなたはそれをしっかり見てベッケンフェルデの話をしているのですか?ベッケンフェルデと山田欣吾『教会から国家へ』も手元にあり、確認できる状態なのですか?そうであるならば具体的なページ数を指摘しながら議論しますが、前にページ数を言っても読みもしなかったうえに真っ向から否定したじゃないですか。ネットで手に入るレポジトリ論文ではないのでコピペできないのですから、引用しきれないので要点をかいつまんで議論せざるを得ないのですが、そこのところはまず可能かお答えください。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:59 (UTC)
私が読んだのはすでに挙げたように新保論文に紹介されたものです。山田欣吾の本は高価ですし、図書館にも所蔵されていないので、入手できません。しかし、「要点」といわれてまた演説をされても、どうにもなりませんね。山田欣吾が「イエス、アウグスティヌス」または「霊性史」として、その本で論じているのか、論じているならば、ページ番号を書いてくれということです。そして、いつまでも回答しませんが、「叙任権闘争、宗教戦争、近代の革命」の3つが政教分離の画期であると上記情報源に書いてありますが、それに賛同しないのですか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 15:13 (UTC)
それについてはもとより反対などしておりませんし現状の記事も否定しているようには思えませんが、それは単に画期に過ぎません。日本史が「大化の改新、建武の新政、明治維新」といっているようなものです。画期だけを抽出して書いても意味がありません。文献がないならば、ページ数と要点だけ言っても演説したとか断じなさるのでしょう?それでは議論になりません。とりあえず基本原則として「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」という点は共通理解でよろしいですよね?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:22 (UTC)
原則としては当然賛同しますし、私の文章でもそれと矛盾せずに書いています(世俗化についての加筆は貴殿に反対されているため加筆していませんが)。本文に書く場合は、きちんと出典を脚注にして具体的なページ数を明記してほしいといっているのです。その上で、あまりに古代中世のデティルを説明し、関連性もよく分からない本筋から離れたものまでも詳細に書いてあるのは、バランスが悪い。また、しばしば、本当に出典に書いてあるのか分からない「エッセイ」とも疑われるものが混在していることを問題としているのです。「演説」といったのは、ノートでこんこんと述べられても検証できませんし、そうしたことは本文にきちんとした形式で書いていただければいいのです。カロリングルネッサンスにしても政教分離の歴史として重要な画期であるとどこかに書かれてあれば、記載に反対しません。しかし、その上でも、なお分量の問題があり、いくつかのサブ記事を作ること、あるいは、世俗化などの別の概念の記事にしたらいいのではないかということです。基本的に、この記事は、近代でいう狭義の政教分離原則の歴史の詳細についての記事であるべきで、その前史としての古代中世からの世俗化については別記事で書くといいのではないかということです。世俗化>政教分離>ライシテetc.という記事関係上の構造にすべきでしょう。フランス革命が画期であるとしても革命の細かな過程をここで膨大な分量で書くよりも、それはフランス革命記事に委ね、ここでは政教分離原則の発生について最小限必要なものにとどめるべきでしょうし、現在の版でも実際に最小限にとどめています。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 16:44 (UTC)
論点がかみ合ってませんので、まずは下で提案した議論の仕切り直しに同意をお願いします。121.107.209.16さんは論点を小出しにしたり、議論の途中で別の問題を提起したりされており、さらに名前空間側の編集を同時に行うなどされています。そういうことをされると私の側で議論の論点整理に困難が生じることから、仕切り直しましょう。ご同意を頂ければと思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:01 (UTC)