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「倉賀野宿」の版間の差分

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2016年11月29日 (火) 00:37時点における版

木曾街道六拾九次 倉賀野(渓斎英泉画)

倉賀野宿(くらがのしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて12番目の宿場である。日光例幣使街道が分岐している。現在の群馬県高崎市倉賀野町に相当する。

概要

閻魔堂前の常夜灯

倉賀野宿(くらがのしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて12番目の宿場である。日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。かつては江戸時代、烏川を利用した舟運搬の河岸があった。長さ11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地だった。 現在の群馬県高崎市倉賀野町にあたる。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった。明治16年鉄道が敷設されるまでは、東京信越方面を結ぶ水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、賑わった[1]

最寄り駅

史跡・みどころ

閻魔堂と呼ばれる、中山道と例幣使道の分岐点がある。

参考文献

隣の宿

中山道
新町宿 - 倉賀野宿 - 高崎宿
日光例幣使街道
倉賀野宿 - 玉村宿

脚注

  1. ^ 『選奨補習学校施設経営の実際』帝国農業教育研究会編 (帝国農業教育研究会, 1925)