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ただし、異説もあり、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説(『[[新編武蔵風土記稿]]』『神代余波』)、ここで男女が忍んで逢っていたからという説(『望海毎談』)や、上野台地が忍が岡と呼ばれていたことにたいして不忍池と命名された説(『江戸妙子』『江戸名所図絵』)もある。 |
ただし、異説もあり、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説(『[[新編武蔵風土記稿]]』『神代余波』)、ここで男女が忍んで逢っていたからという説(『望海毎談』)や、上野台地が忍が岡と呼ばれていたことにたいして不忍池と命名された説(『江戸妙子』『江戸名所図絵』)もある。 |
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15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。<ref name=“wt201511291”>小沢信男/冨田均著1989年「東京の池」P17_18 作品社 ISBN |
15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。<ref name=“wt201511291”>小沢信男/冨田均著1989年「東京の池」P17_18 作品社 ISBN 4878931515 ISBN-13: 978-4878931512</ref> <ref name=“wt201511292”>森まゆみ/仰木ひろみ/山崎範子/峯吉智子著1989年「しのばずの池事典」P36 谷根千工房 </ref><ref name=“wt201511293”>原祐一(東京大学埋蔵文化財調査室)2012年6月1日発行「向ヶ岡弥生町 News Letter Vol.1」 </ref> |
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ボート池を除く部分には[[ハス]]の繁殖が著しく、毎年夏になると池の南部はほぼ埋め尽くされる状況である。江戸時代には色とりどりの花のハスが植えられていたと言われるが、現在では桃色のジバスと白の明鏡蓮との二系統だけである。 |
ボート池を除く部分には[[ハス]]の繁殖が著しく、毎年夏になると池の南部はほぼ埋め尽くされる状況である。江戸時代には色とりどりの花のハスが植えられていたと言われるが、現在では桃色のジバスと白の明鏡蓮との二系統だけである。 |
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秋には白い[[アシ]]が池一面に広がる。<ref name="wt20151129">上野の社事典編集会議 編 2006 年「上野のお山を読む―上野の杜事典」P60 谷根千工房 |
秋には白い[[アシ]]が池一面に広がる。<ref name="wt20151129">上野の社事典編集会議 編 2006 年「上野のお山を読む―上野の杜事典」P60 谷根千工房 ISBN 978-4990296506</ref> |
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=== その他 === |
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2016年11月15日 (火) 17:46時点における版
不忍池 | |
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蓮池 | |
所在地 | 東京都台東区 |
位置 | |
面積 | 0.11 km2 |
周囲長 | 2 km |
水面の標高 | 5 m |
プロジェクト 地形 |
不忍池(しのばずのいけ)は上野恩賜公園(東京都台東区)の中に位置する天然の池である。
地形
上野恩賜公園の南端に位置し周囲は約2km、全体で約11万m2。北で上野動物園西園、東で京成上野駅、南と西で不忍通りに接している。
現在の不忍池は、その中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配している。また、池は遊歩のための堤で3つの部分に分かれており、それぞれ、一面が蓮で覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池の3つである。各池の詳細は以下の通りである。
名前 | 面積(千m2) | 平均水深(cm) | 水量(千m3) | |
---|---|---|---|---|
蓮池 | 55 | 84 | 46 | |
ボート池 | 30 | 86 | 26 | |
鵜の池 | 25 | 92 | 23 |
名前の由来
弁天島に建つ石碑によれば、「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことである。
ただし、異説もあり、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわづ)が転じて不忍になったという説(『新編武蔵風土記稿』『神代余波』)、ここで男女が忍んで逢っていたからという説(『望海毎談』)や、上野台地が忍が岡と呼ばれていたことにたいして不忍池と命名された説(『江戸妙子』『江戸名所図絵』)もある。 15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた。[1] [2][3]
変遷
不忍池はかつて古石神井川[4]が武蔵野台地の東端を割って海ぞいの低地へと注ぎ出ていた開口部に位置し、川の東岸にあたる上野台地(いわゆる“上野のお山”)や西岸にあたる本郷台地(東京大学の立地する台地。南は神田山(駿河台)へと連なる)にくらべると、10m以上も標高の低い谷あいとなっている。
縄文時代の頃にはこの辺り一帯は東京湾の入り江であった。その後海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀頃に池になったと考えられる。
1625年、江戸幕府は、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立した。開祖である慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を作った。当初の弁天島は文字通り船で渡る島であった。しかし1672年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。
慶応4年(1868年)、彰義隊の戦い(上野戦争)で東叡山寛永寺は根本中堂はじめ幾多の伽藍を焼き払われて落城する。戊辰の役における江戸で唯一の戦争だった。この朝、官軍が放った一発の砲弾が不忍池におちて水しぶきをあげ、これが戦端開始だったという説がある。[5]
明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なっていた。特に池の北側は今よりもかなり広く藍染川(谷田川)という川も注いでいた。また、弁財天の中島への両側は家が建ち並び、明治5年(1872年)4月には不忍天竜町という町名さえ起立されていた。[6]上野の山が公園に指定されたのに伴い、1875年に不忍池も公園に編入された。このときの面積は18ヘクタール、1989年当時に対して1.7倍の広さだった。[7]しかし1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がった。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、以降1892年まで春と秋に競馬が行われた。
1907年には東京勧業博覧会のために西に向かって観月橋がかけられ、池の中央を横断できるようになった。
1929年に築堤工事により池が4つに分割された。また1931年には、現在まで続く貸しボートの営業が開始された。現在、鵜の池となっている範囲は当時は2つの池に分かれていた。戦後の一時期は水が抜かれて水田(不忍田圃)となり、その跡地には野球場を建設する案なども出されたが、1949年に池のまま保存することで合意がなされて現在に至る。1967年9月には地下鉄千代田線の建設工事に伴う土砂崩れで池の底が抜け、約3万トンの水がトンネルに流れ込む事故が起きている。1990年から1994年にかけては水質浄化のため東京都建設局によって層流多循環システム、曝気噴水ポンプ、生物酸化処理膜の設置などが集中的に行われた。
自然
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鳥類
不忍池では、渡り鳥・留鳥あわせて数十種類の鳥類が見られ、多い時には1万羽を超えることもある。1960年頃から多数のカモ類が飛来するようになり[8]、オナガガモ、ホシハジロ、キンクロハジロ、ヒドリガモ、ハシビロガモなどカモの池として有名であったが、近年カモは数を減らし、変わってユリカモメやセグロカモメなどが多くやってくるようになった。
不忍池で繁殖する水鳥はバン、カイツブリ、カワウ、カルガモなど。[8] 上野動物園の園内扱いになる部分にはカワウの島もある。不忍池のカワウは昭和30年代に動物園が飼っていたものを羽を切って池に放したのが始まりで、これに野生のカワウが合流した。カワウの繁殖地は日本でも数か所で、都会にあるのは世界中でもここだけである。[9]
魚類
カムルチー、タウナギ、ティラピアなど外来魚が多い。在来の水生動物にはフナ、モツゴ、ドジョウ、ヌマエビ、テナガエビなどがいる。特に多いのが鯉である。
植物
ボート池を除く部分にはハスの繁殖が著しく、毎年夏になると池の南部はほぼ埋め尽くされる状況である。江戸時代には色とりどりの花のハスが植えられていたと言われるが、現在では桃色のジバスと白の明鏡蓮との二系統だけである。 秋には白いアシが池一面に広がる。[10]
その他
2006年6月に不忍池で特定動物である産卵中のワニガメが発見され、自然繁殖している可能性が指摘された。この事件以来、ボート池の周辺にカミツキガメ、ワニガメの危険性を訴えるポスターが貼られ周囲が網で覆われている。
文学作品
石碑
不忍池の中央にある弁天島にはユニークな石碑が多いことで知られる。以下のようなものがある(時計周りの配置順)。
- ふぐ供養碑(岸信介筆) 1965年 東京ふぐ料理連盟
- 八橋検校顕彰碑 1966年
- スッポン感謝之塔
- 東京自動車三十年会記念碑 1975年
- 真友の碑(英語) 1976年
- 暦塚(中曽根康弘筆) 全国カレンダー出版協同組合連合会ほか
- 包丁塚 上豊調理師会
- 鳥塚(東龍太郎筆) 1962年 東京食鳥鶏卵商業協同組合と東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合
- 幕末の剣豪櫛淵虚冲軒之碑 1978年 利根郡月夜野町
- 魚塚 1976年 東京魚商業協同組合
- 利行碑(熊谷守一筆) 1969年
- めがねの碑 1968年 東京眼鏡懇話会
そのほか不忍池周辺には以下のものがある。
- 駅伝の碑 2002年 財団法人日本陸上競技連盟ほか
ギャラリー
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弁天堂
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花見
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蓮池(5月)
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夕暮れ
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おでん屋台
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ハスが咲く不忍池(8月)
周辺施設
アクセス
その他
- 不忍池の西に広がる地名「池之端」は、不忍池の近くにあることから名づけられた。
- 不忍池周辺はかつてはホームレスのメッカであったが2006年ごろに周囲に立入禁止のロープが張られ、テントとともに一掃された。
- 池への流出入河川がない。水源は、若干の自然湧出地下水のほかは、以前は井戸水および近接する京成電鉄京成上野駅地下ホームからの湧出地下水を人工的に汲み上げ放流したものであった。ただ、これだけでは水質保持・水量保持が難しいことから、平成15年よりJR上野駅新幹線地下ホームからの湧出地下水の汲み上げ放流も始まった。これにより、水量は一応の安定を見ている。JR、京成とも湧出水を提供することで、そのまま下水に排出した場合にかかる下水道料金を免除されている。
注釈
- ^ 小沢信男/冨田均著1989年「東京の池」P17_18 作品社 ISBN 4878931515 ISBN-13: 978-4878931512
- ^ 森まゆみ/仰木ひろみ/山崎範子/峯吉智子著1989年「しのばずの池事典」P36 谷根千工房
- ^ 原祐一(東京大学埋蔵文化財調査室)2012年6月1日発行「向ヶ岡弥生町 News Letter Vol.1」
- ^ 上流部は現石神井川に等しいが、飛鳥山につきあたって南転し、駒込駅の東を経て不忍通りに重なる谷筋を流れていた。石神井川が飛鳥山の北から東へ隅田川に注ぐ現在の流路をとるようになった時期と経緯については諸説あるが、通説では蛇行の進行した結果、ある種の河川争奪が縄文期頃に自然発生したものとされる。水を奪われた古石神井川の下流部には谷地形だけが残る形となったが、大正期までは谷田川/藍染川と呼ばれる小規模の川が流れ、不忍池に注いでいた。
- ^ 小沢信男, 富田均. 東京の池. 作品社, 1989.
- ^ 田中正大, 上野公園の成立. 造園雑誌 27(1), 24-31, 1963-10-30. [1]
- ^ 小沢信男, 富田均. 東京の池. 作品社, 1989.
- ^ a b 上野の杜辞典編集会議 編 1995年 上野のお山を読む 上野の杜辞典P60⁻62 谷根千工房
- ^ 森まゆみ、仰木ひろみ、山崎範子、峯吉智子 著 1989年 しのばずの池辞典“東京の地方”叢書(3)P27‐30 谷根千工房
- ^ 上野の社事典編集会議 編 2006 年「上野のお山を読む―上野の杜事典」P60 谷根千工房 ISBN 978-4990296506
関連項目
外部リンク
- 東京都公園協会 上野恩賜公園
- パノラマビュー
- 不忍池の生成・沿革
- 1914年に開催された大正博覧会において不忍池の上空を索道が通った『歴史写真. 大正3年 第6月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)