「蔵園三四郎」の版間の差分
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2016年11月15日 (火) 16:02時点における版
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、1869年2月24日(明治2年1月14日[1]) - 1939年(昭和14年)4月6日[2])は、日本の政治家、衆議院議員(政友本党 → 立憲民政党 → 立憲政友会 → 昭和会)、弁護士。族籍は鹿児島県平民[3]。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた[4]
経歴
薩摩国日置郡田布施村(現在の鹿児島県南さつま市)出身[5]。瀬戸川利右衛門の長男として生まれ、1876年、先代次郎の養子となった[3]。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた[5]。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた[5]。
大阪開成中学館、三一学校で学んだ[6]。上京し、明治法律学校(現在の明治大学)で学んだ[4]。弁護士試験に合格して1901年(明治34年)に東京市神田区に弁護士事務所を開いた[5]。
1913年(大正2年)に神田区会議員に選出され、1917年(大正6年)には区会議長に就任した[5]。1920年(大正9年)の第14回総選挙で東京の選挙区から出馬するが落選。
1924年(大正13年)の第15回総選挙では鹿児島1区から政友本党公認で出馬して初当選。以後再選5回を重ねたが、所属政党は同郷の床次竹二郎と行動をともにしたため[7]、民政党(第16回総選挙)、政友会(第17回・第18回総選挙)、昭和会(床次死後に旧床次派が結成した政党。第19回・第20回総選挙)と変遷を重ねた。この間に岡田内閣で鉄道政務次官を務めている。実業界では薩摩製糸株式会社取締役を務めた。
家族・親族
- 蔵園家
鹿児島県、東京市神田区仲猿楽町・同市下谷区池ノ端七軒町・同市牛込区市谷加賀町[3][6][8]
- 妻・春(東京・伊藤元二女)[3]
- 1880年 -
- 男・一郎[3]
- 1900年 -
- 男・二郎[3]
- 1902年 -
補注
- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、34頁。
- ^ 『官報』第3680号、昭和14年4月14日
- ^ a b c d e f 『人事興信録 7版』人事興信所 編、1925年、く50 - 51頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月23日閲覧。
- ^ a b 蔵園 三四郎とはコトバンク。2016年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e 『三州名士録大鑑 上巻』三州名士録刊行会 編、1930年、127 - 130頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月23日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 4版』人事興信所 編、1915年、ク38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月23日閲覧。
- ^ 『三州名士録大鑑 上巻』P.128
- ^ 『人事興信録 第11版上』人事興信所 編、1937年、ク76頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月23日閲覧。
参考文献
- 『三州名士録大鑑 上巻』三州名士録刊行会、1930年。