コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「角松敏生」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:ロック・ミュージシャンのカテゴリ修正依頼 - log
165行目: 165行目:
[[Category:日本の音楽プロデューサー]]
[[Category:日本の音楽プロデューサー]]
[[Category:日本のシンガーソングライター]]
[[Category:日本のシンガーソングライター]]
[[Category:日本のロック歌手]]
[[Category:日本のギタリスト]]
[[Category:日本のギタリスト]]
[[Category:アリオラジャパンのアーティスト]]
[[Category:アリオラジャパンのアーティスト]]

2016年10月17日 (月) 14:05時点における版

角松敏生
出生名 角松敏生
別名 角さん、角松、敏生さん
生誕 (1960-08-12) 1960年8月12日(64歳)
出身地 日本の旗 日本, 東京都渋谷区
学歴 日本大学文理学部哲学科
ジャンル J-POPロックAORR&Bソウルファンクソフトロックニューミュージックフュージョンシティ・ポップ
職業 シンガーソングライター
ギタリスト
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカルギター
活動期間 1981年 -
レーベル RCA ⁄ RVC
1981年-1982年
AIR ⁄ RVC
(1983年-1986年
AIR ⁄ BMG VICTOR
1987年
OM ⁄ BMG VICTOR
(1987年-1992年
IDEAK ⁄ BMG JAPAN
1999年
IDEAK ⁄ BMG FUNHOUSE
2000年-2002年
IDEAK ⁄ BMG JAPAN
2003年-2009年
IDEAK ⁄ Ariola Japan Inc.
2010年-)
事務所 トライアングルプロダクション
1981年-1982年
マーマレード
1983年-1992年
ビーンズ ⁄ エメラルドスプラッシュ
1993年-)
公式サイト 公式ウェブサイト

角松 敏生(かどまつ としき、1960年8月12日 - )は、シンガーソングライターミュージシャン音楽プロデューサー東京都渋谷区代々木出身。身長169cm。血液型A型。愛称は「角さん」「角松」「敏生さん」等。

人物

1981年、20歳でプロデビュー以来、約30年に亘りシンガーソングライターとして自身の名義による多くの作品を発表し、例年の全国ツアーなどライブ活動もしている。その傍ら、1980年代半ばから杏里中山美穂といった他アーティストへの楽曲提供と、それに伴う音楽プロデューサー業も手掛けている。1997年、長万部太郎名義でのバンド活動およびプロデュースした「WAになっておどろう」(AGHARTA(アガルタ)とV6が同時期にカバー)が一般的に知られる。他アーティストへのプロデューサー業で数々のヒット曲を生み出したのに比べ、本人名義としては一般的な認知を得られるほどのヒット曲を持っていないことを自身でかなり気に掛けていて、今後の目標のひとつにその達成を掲げたいと、近年はライブのMCやインタビューなどで表立って言及している。

発表する曲は海・夏・リゾートを連想させる曲(特に初期)や中期以降では深遠な恋愛観・精神世界・喧騒な夜の都会を連想させる曲が多い。ちなみに、曲の作り込みに強いこだわりを持つ事からSNSやメディアでは音楽職人と称されることもある。角松自身の音楽スタイルは、シティポップ・ニューミュージックを基調とする一方、R&B・ファンク・ソウル音楽等のブラックミュージックの要素を巧みに取り入れている事から、久保田利伸SING LIKE TALKINGTUBE大沢誉志幸安全地帯等後進のミュージシャンやバンドにも影響を受けている。

乱視が有り、青年時代からメガネを着用している。

来歴

出生 - デビュー

東京都渋谷区に生まれ、8歳年上の兄が一人居る。幼少時代には両親からの強要でピアノオルガン教室に通っていたが角松自身はあまり乗り気では無かったと言う。10歳の時にギターを始め当初は兄の手解きを受けながら練習していたが面倒臭がって途中から教えてくれなくなりギター関連の雑誌の簡単に演奏出来る方法の記事を参考にしながら練習していたと言う。小学校6年生ではっぴいえんどを知り、1970年代半ばの中学から高校時代にかけて、はっぴいえんどからそれを継ぐティン・パン・アレー関連の日本のロック&ポップス、アメリカ東・西海岸でムーブメントが起き出したフュージョンにリアルタイムで傾倒。それらに影響を受けたバンドを作って音楽活動を始める(この頃から担当はヴォーカル&ギター)。そして、日本大学文理学部哲学科在学中に作成したデモテープがきっかけで1981年にシングル「YOKOHAMA Twilight Time」とアルバム『SEA BREEZE』でデビューする。

デビュー当初は、所属レコード会社・RVC(RCAビクター、RCA Victor Corporation)の意向で、当時大瀧詠一山下達郎のブレイクで盛り上がり、巷で流行していたリゾート感覚を取り入れたシティ・ポップスの音楽スタイルを採った[1]。しかも、1作目ではアマチュア時代から敬愛していた日本の一流スタジオ・ミュージシャンをバックに、その10か月後にリリースする2作目のシングルおよびアルバムはアメリカ・ロス録音で当地の一流ミュージシャンをバックにした豪華絢爛な作りのものとなった。ただし、これら2作は共に作詞・作曲はすべて角松自身によるもので収められたものの、編曲やプロデュース権は与えられず(また、何もかも初めての経験のスタジオ録音作業がどういうものかを学びながら作っていったため[2])、自身としては必ずしも思うような作品作りは出来なかった。さらに、大規模なプロモーションを掛けたわりには、それに見合ったヒットは適わず、商業的成功を収めることも出来なかった[3]。話題性を狙ったレコード制作及びそのセールス・プロモーションで活動拡大を図りたかった所属事務所側は角松の扱いに窮し、バンドを組んでのライブハウス出演など草の根的なライブ活動をしたい自身との活動方針の相違もあって、この後に所属事務所を移籍することになった[4]

ブレイク

一方で角松の才能を評価していた所属レコード会社は、引き続き作品制作するよう支援していく。そして、音楽的な路線は前2作の延長でありながらも、初のセルフ・プロデュースやセルフ・アレンジとなる3作目『ON THE CITY SHORE』をリリース。本作からの先行シングル「スカイ・ハイ」は初めてタイアップとしてSchickの男性用安全剃刀(ひげ剃り)のテレビCMソングに採用された。この曲は自身にとっても代表曲となり、ライブでも定番曲として取り上げられているほか、CMでも以後3年にわたって使われた。学園祭やライブハウス出演など地道な活動も功を奏して、アルバムはオリコンチャート最高位21位を記録。それまでオリコンチャート圏外だった1・2作目以上に好調な売れ行きを示し、初のホールコンサートも敢行するなどして活動が軌道に乗り始めていく。また、最初の所属事務所から移籍する前、杏里のラジオ番組にゲスト出演した際に彼女と意気投合したことから、自身初の楽曲提供から始まり、それが縁となって杏里の所属事務所・マーマレードに移籍となり、自身の歌手活動と併行して杏里のアルバムへの楽曲提供とサウンド・プロデュースも手掛けるようになる。そして1983年、杏里がシングル「CAT'S EYE」をヒットさせた直後、『「CAT'S EYE」の一発だけで終わらせずに、それに続くヒット曲を』という至上課題のもと、「悲しみがとまらない」をプロデュース。チャート的には「CAT'S EYE」を凌げなかったものの、連続ヒットを記録。後年、プロデュース活動の側面を検証する上で欠かせない曲となった。

それらの成功をバックに角松は、デビュー以来の夏や海といったリゾート感覚のシティ・ポップス路線から離れ、自身の音楽的趣向であったダンス・ミュージックやニューヨークのミュージック・シーンで流行る最先端のファンクに傾倒していく。その曲調に合わせて歌詞のテーマも次第に夜の街へと移り、1983年に12インチ・シングル「DO YOU WANNA DANCE」、続く1984年のアルバム『AFTER 5 CLASH』で、その世界を示した。商業的成功は続き、角松はこの路線に自信を深めて追求していく。そして、杏里の仕事で得た印税を使ってニューヨークへ長期滞在するようになり、現地での流行をいち早く取り入れた音楽活動を行うようになっていった。7&12インチ・シングル「GIRL IN THE BOX」や代表作となる1985年のアルバム『GOLD DIGGER』は、ターンテーブルによるスクラッチやラップがいち早く取り入れられた。1980年代半ば、アルバムは発売ごとにチャート上位にランクされ、全国を縦断する大規模なコンサートツアーも出来るようになった(特に都市部では複数公演を敢行するも発売即ソールドアウトを引き起こすほどの人気となる)。しかし、商業的成功の黄金期とも言えるこの時期、アルバムやコンサートの動員の成功に比べ、シングル・ヒットには恵まれなかった。その一因として、コンスタントにシングル曲は出すものの、プロモーション戦略でテレビの歌番組に出演することを避けていたため、たとえタイアップ曲であっても、どうしても世間一般への浸透が進まなかった[5]

1980年代後半

音楽プロデューサー業も拍車が掛かり、それまでの杏里以外にも手掛けるようになる。絶頂期であった中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』に楽曲提供および編曲もしたほか、その音楽性を買われてアドバイザーとしても加わったり、所属レコード会社で自身と同じ担当プロデューサーだったのが縁となって請け負った西城秀樹のアルバム『TWILIGHT MADE …HIDEKI』に自身が敬愛する吉田美奈子を迎えてコラボレーションしたり[6]、お笑いグループで認知度があったジャドーズの本気の依頼に応え、和製ソウルファンクバンドとしてデビューアルバム『IT'S FRIDAY』ならびにデビューシングル「FRIDAY NIGHT」から数作にわたって全面的に関わった[7]

なかでも中山美穂へのプロデュースは“音楽プロデューサー・角松敏生”にかつてない成功をもたらした。中山が杏里のアルバム「Bi・Ki・Ni」がお気に入りで愛聴盤だった為に角松に楽曲提供を依頼して、まず最初の関わりであった1986年のアルバム『SUMMER BREEZE』に三曲提供し、その中のバラード曲「You're My Only Shinin' Star」が彼女本人が好んでいた曲であったことからライブでも頻繁に歌われるようになる。翌1987年、当時流行りのユーロビートを反映させたシングル曲「CATCH ME」は彼女にとって待望のオリコン1位を獲得。引き続いて角松のもはや看板であるダンス&ファンク・ミュージックを全面に押し出したアルバム『CATCH THE NITE』をフルプロデュース。その発売時、1988年2月22日付けのオリコンのアルバム・ランキングにて、このアルバム『CATCH THE NITE』が1位、同時期に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位で、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成した。そして、『CATCH THE NITE』レコーディングと同時にリテイクされた「You're My Only Shinin' Star」はシングルとして発表され、「CATCH ME」に続いてオリコン1位を獲得したばかりでなく、この年の第30回日本レコード大賞金賞受賞曲となって彼女の代表曲となり、2001年には彼女がベストアルバム『YOUR SELECTION』をリリースするにあたり、収録曲を決める為にホームページ上で行った投票ではシングルA面曲で1位になっている。

また、この時期から歌ものの作品以外に、自らの音楽的ルーツのひとつであるフュージョンを基調としたインストルメンタル作品を手掛けるようになっていく。1987年、初の試みとして自らのギタープレイをフィーチャリングしたアルバム『SEA IS A LADY』を発表。日本のフュージョン・シーンは沈滞化していたものの、角松の絶頂期ともあって商業的成功を収めた。このアルバムには自身のバック・バンドの面子の他にも、村上ポンタ秀一斉藤ノブなどフュージョン・ブーム時に活躍し、またスタジオ・ミュージシャンとしても確かなキャリアを持つ彼らをリスペクトして起用した。アルバム参加メンバーでのライブ・ツアーも行われ、これがキッカケとなり、斉藤ノブはNOBU CAINEを結成。そのデビューアルバムを角松がプロデュースすることにも至った。これらミュージシャンをクローズアップした活動により、1982年以来、自身のバックバンドのベーシストであり、NOBU CAINEにも参加した青木智仁が頭角を現すようになり[8]1989年にはやはり角松プロデュースのもと、フュージョンを主体にした初のリーダーアルバムを作る。以降、青木は角松のバックバンドやレコーディングに引き続き参加しながらも、その傍らで自身がリーダーとなったフュージョン系のセッション・ライブを行うようになっていったり、堀井勝美プロジェクトやDIMENSION本田雅人などの他アーティストのアルバム制作やライブにも随時参加。1990年代から他界する2006年まで、フュージョン・シーンにはなくてはならない人物の一人であった[9]

凍結宣言

1988年、多方面にわたる音楽活動の成功を背景に、デビュー以来の所属レコード会社のなかに私設レーベル「オーン」を作り、自身の歌唱によるオリジナル作品のほかに、前述のNOBU CAINEや自らの名義および関連アーティストのインストルメンタル作品を“サマー・メディスン”シリーズとしてトータル的にプロデュースを手掛けていく[10]。また、自身のアマチュア時代から憧れていたミュージシャンをリスペクトした活動も頻繁となっていき、村上ポンタ秀一、斉藤ノブの他、鈴木茂佐藤博外道といった1970年代からプロ活動している面々と音楽的交流を持つようになっていった。

充実した活動を行っていったが、1990年代初頭の作品から徐々に内省的な作品が増え、インタビューでも思想的・哲学的な内容の受け答えが多くなっていった。そして、自身の音楽に対する絶望感を訴え、1993年日本武道館公演をもって歌手活動の「凍結」を宣言し、無期限の休止となる。FINAL CONCERT TOUR公演のMCで、「確かに非常にプライベートな事も引き金の1つにはなっている」と、歌手活動から撤退する理由として、(当時の)妻との離婚や女性関係での離別も一因であることを暗に認めているが、一方で当時、自らの歌唱についても行き詰まりを感じていたことをWEB掲載のインタビュー記事で吐露しており[11]、公私に渡り、心身ともに限界であった事が窺える。ちなみに同公演が収録されたビデオ映像(『TOSHIKI KADOMATSU 1993・1・27 FINAL CONCERT TOUR Vol.2』)には、「ガタガタ言ってないで、続けりゃいいんだよ!」という観客からの罵声に動揺し、苛立ちの余り「ふざけんな、コノヤロー」と叫び、モニタースピーカーを蹴りつける場面が映されている。

一時期は音楽業界からの引退も考えたが、所属事務所の説得で“歌手活動以外の音楽活動をしていく”というかたちで音楽業界に残ることを決断。休止直後は、前述の武道館公演のビデオ編集、休止後初のアルバムとなったベスト・アルバム『1981-1987』では2枚組20曲中14曲に新たに手を加えるなど制作作業に没頭。また、バックバンドのキーボーディストの友成好宏[12]のソロアルバム『NATURAL SIGN』、同ギタリストの浅野祥之[13]らが参加していたフュージョン系バンド、空と海と風と…のセカンド・アルバム『空と海と風と…2』、女性アーティストでは米光美保のアルバムを2作連続フルプロデュース[14]していくなど、他アーティストへの楽曲提供やプロデュース業も引き続き行い、休止前よりも多忙になっていた。1995年、それまでの私設レーベル「オーン」に代わり、「iDEAK」を立ち上げるに至る。同時期、新人ボーカリスト発掘プロジェクト、VOCALANDを立ち上げる。仕掛けたのは、起業する前から角松のファンだったという松浦勝人で、松浦のレコード会社エイベックスで展開する。時流に乗ったことで話題になり、アルバム『VOCALAND』もヒット。それを受けて角松用にエイベックスのなかでavex ideakというレーベルが作られるも、エイベックス側の会社組織再編の影響を受け、1997年に終了する。

こうした多忙な音楽プロデュース業をこなしていくなかで、活動凍結前から考案していたという自らの存在を変名(長万部太郎=おしゃまんべ・たろう)で隠したAGHARTA(アガルタ)というバンド・プロジェクトを始める。角松自身でヴォーカルをとるなどしていたが、“角松敏生”のキャリアとは全く違う音楽性であったことで、歌手活動凍結宣言は依然として貫かれた中での活動となった。また、当初はメジャーからではなく、インディーズ・シーンからの口コミなどでのムーブメントを作ろうとした。しかし、1995年、そのインディーズからのアルバム発売にあたって“角松敏生”の名が出てしまったため、即完売になるも、それは角松ファンに行き渡っただけで新たなファン層の開拓計画は失敗に終わる。結局、買いそびれた人たちのためにiDEAKレーベルから1996年に再編纂したものが発売されることにもなった。それでもAGHARTAの活動は継続させた。そして1997年、NHKみんなのうた」用に作ったシングル「ILE AIYE〜WAになっておどろう〜」が話題を呼ぶことになる。V6によってカバーされ、翌1998年には長野オリンピックのテーマ曲として使用されるに至って、さらに反響を招く。閉会式では視聴率30%の生中継でAGHARTAとしてライブ演奏を繰り広げ、それは世界へ配信放送されることにもなった。

解凍

1998年に5年間のブランクを経て「解凍」を宣言、自身の歌手としての活動を再開。その後はほぼ年に1作のペースで新作をリリース、その度に新しい試みがなされている。

2002年、沖縄音楽アイヌの民族楽器トンコリを取り入れるなど、民族音楽との「音楽的交易」にも取り組んだ「INCARNATIO」を発売。2004年の「Fankacoustics」は、スタイルの異なる2組のバンド構成での2枚組CDとして発売、各バージョンでのLive Tourも全都道府県で敢行する。2014年発売の「THE MOMENT」では、他アーティストでは滅多にないと思われる組曲を制作、収録している。

プロデュース活動

杏里の「悲しみがとまらない[15]のスマッシュ・ヒットを皮切りに、中山美穂ジャドーズらをプロデュース。1988年2月には、オリコン・アルバム・ランキングにて、フルプロデュースした中山美穂のアルバム『CATCH THE NITE』が1位、自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT』が2位と、1・2フィニッシュを飾るなどいまだ他の誰もが成し得ていない偉業を達成している。その他にも元BARBEE BOYSKONTA布施明岩崎宏美ジャッキーチェン西城秀樹(『TWILIGHT MADE …HIDEKI』)のプロデュースなど、新人・ベテラン、および日本国外の有名人を問わずに積極的な活動を行っている。

ディスコグラフィー

作品については角松敏生の作品一覧をご覧ください。

エピソード

  • 幼少時代の角松は喘息の持病があり同級生からは度々苛められていたが、ギターを始めた事で同級生からの苛めは無くなり、喘息の持病も解消されて同級生から拍手喝采を浴びる様になったと言う。
  • 小学生でビートルズが好きになり、小学6年生の頃はっぴいえんどを知り小中高と聴いており、影響を受ける。その為、「好きなギタリストは誰ですか」との質問に対し角松は「はっぴいえんどの鈴木茂さん」と回答している。
  • 日本楽器製造東京支店の主催の「イーストウェスト」に高校生で出場した時の準決勝の対バンはシャネルズだった。当時、サザンオールスターズカシオペアも出場していた。
  • 高校、大学と自身でバンドを組み、オリジナルもやっていたが、大学で山下達郎ファンだった先輩のバンドにギタリストで参加し、山下の曲も演奏していた。
  • 学生時代は喫茶店でのアルバイト経験が有り、1993年の活動凍結前には音楽活動を引退して飲食店の経営を考えていた事もあった。
  • 19歳の時に、当時年上の彼女と別れ、心を痛めていた友人の為に作った曲「Still I'm In Love With You」を聴いたトライアングルプロダクション社長・音楽プロデューサーの藤田浩一[16]の誘いでデビューを果たす。
  • プロモーション用のデビューシングル盤のジャケットには名前でなく“T.K”とだけ明記され、裏面のクレジットも“唄)T.K”、“T.K作詞・作曲”と記載されていたほか、“新鮮なうちにおきき下さい。〜新鮮保証56.5.10迄〜”、“T.Kとは、RCAがお届けするシティ・ポップスのビック・ニュー・アーティストです”、“T.Kの音楽の基本は16ビートです”、“T.Kの音楽性の高さがコンテンポラリー・サウンドを裏づけています”、“T.Kの音楽はシンプルなメッセージを持っています”といったキャッチコピーが掲載されていた。
  • デビュー後、翌年にはロサンゼルス録音を行ったが、自分の力量がついていっていないもどかしさや、意見が通らない事に嫌気がさし[17]、トライアングルを辞める。新たな事務所探しで当時のレコード会社も奔走したが[18]、次の事務所(マーマレード)は本人自身で探し、契約[19]。それを機にセルフ・プロデュースを開始し、3rdアルバム『ON THE CITY SHORE』を完成させ、本作でプロとして自信がついたと語っている。
  • 4thアルバム『AFTER 5 CLASH』の頃からセールスも伸び、過去に自身が影響を受けてきたものすべてと決別して誰もやっていない新しい音楽作りのため、ニューヨークへ行き、その後6thシングル「TOKYO TOWER」、5thアルバム『GOLD DIGGER』を発表し、渡米した経験を発揮する。
  • 1985年頃からMacPlusを使用し打ち込みを始め1986年 - 1987年頃結構ハマっていたが、何でも出来るから逆に飽きてしまい1990年以降は生のミュージシャン演奏の方へ戻っていったと語っている。
  • 2002年には、プロ野球中日ドラゴンズで、選手登場テーマとして楽曲が使用された。投手の登板に「GALAXY GIRL」、代打のテーマに「TIME TUNNEL」「AIRPORT LADY」が使われた。
  • 青木智仁の他界によって、『LEGACY OF YOU』以来暖めていたインストゥルメンタルアルバムの構想を封印する事にしたと、雑誌『ADLIB』の青木智仁追悼企画でのインタビューで表明している。
  • 2010年リリースの作品からネット配信されるようになる。それまで、本人は「ネット配信では音質が良くないからCDを買って聴いてもらいたい[20]」として、ネット配信に難色を示していた[21]。しかしながら一方で、「アルバムへの導入部としてシングルという形で配信するのなら良いかもしれない」という考えもあり、配信に至った。また、良い音作りのために、自身のレコーディング・スタジオも構えている。
  • 趣味はサーフィンスキー。スキーに関してはスキーの板を新調するかギターを新調するか迷っていた事もある。また、スキューバーダイビングも好きらしく、南方を訪れた際には必ずやっている他、自身のアルバムでスキューバーダイビングの事を歌った曲を作った事もある。
  • 現在の愛車はジャガー(デイムラーV8)。それまでは3台程日産車を乗り継いでいた。
  •  2016年「SEA BREEZE2016」をリリースするにあたりレコードの溝をレーザーで読み取る装置を導入し、レコードからデジタルリマスターするといった斬新な手法を用い、話題を呼んだ。

影響を受けた楽曲

デビュー以前

B・J・トーマス雨にぬれても
洋楽ポップスとの出会いは幼稚園時代。その当時、自身から心惹かれた初めての曲である。自身の音楽の基本のR&Bやジャズを咀嚼してオリジナリティーのあるものを作るという、バカラック的なアプローチも含まれコード展開や転調のしかたとかも参考にしたと語っている。
ビートルズヘイ・ジュード
小学4年生当時、テレビドラマか何かの主題歌でオーケストラ版の「Hey Jude」を聴いてすごく気に入り、兄からビートルズの曲だと教わりシングル盤を購入。それを聞いてさらに衝撃を受け小学5年生からギターを始め、当時はビートルズのコピーばかりをしていた。ギターを持って人前で歌うきっかけになったのはビートルズだった。
シュガー・ベイブ「今日はなんだか」
アルバム『SONGS』(1975年)は擦り切れるほど聴き、当時思春期の自分と相まって、いろんな風景が浮かぶと語っている。高校生までは3コード進行のロックはコピーできても、シュガー・ベイブの様なテンションコードがある曲はぜんぜん追いつかなかったが、しばらく経ってコピーできるようになり、当時良く演奏していたのがこの曲だった。
鈴木茂「砂の女」(作詞:松本隆、作曲・編曲:鈴木茂)
アルバム『BAND WAGON』(1975年)収録。はっぴいえんどが解散して、鈴木のソロが「どんなもんだろう?」と思い聴いてみると、はっぴいえんどの音とは全く違う感じで「これはこれでいいものなのか? 僕はかっこいいと思うんだけど、どうなんだろう?」と思い、当時ディープ・パープルや四人囃子のコピーをやっていた友人に聴かせたら「これかっこいいよ!」といわれ、自分は間違っていなかったんだと語っている。
南佳孝「プールサイド」(作詞:来生えつ子、作曲:南佳孝、編曲:坂本龍一)
アルバム『SOUTH OF THE BORDER』(1978年)収録。角松自身、南佳孝こそシティーポップと呼ばれた最初期のアーティストだと語っている。詞の世界が大人であり、当時高校生だった自分には絶対手の届かない世界だと思った。音の世界観と詞の世界観は、思春期の自身を早く大人にさせたんじゃないかなと語っている。

デビュー以後

佐藤博「YOU'RE MY BABY」(作詞・作曲・編曲:佐藤博)
アルバム『AWAKENING』(1982年)収録。自身のデビュー後に聴いた作品。すごく洗練されており、こういう作品を出されたら追従できないなと思わされるほど、素晴らしい作品だと語っている。自身もこういう事ができないかなと思わせる程であり、コードに対してのボキャブラリーとか、メロディーに対してのボキャブラリーとか、まだまだ20歳そこそこの自分には乏しくて、真似しようとしてもできなかったと語っている。
Steely DanAja
このアルバムを初めて聴いた時に衝撃を受け、音楽的に高度なところや、こうあるべきみたいな作り方だとか、挑戦であるとか、新しさであるとか音楽の一番大事なところを集めたアルバムであり、かなり勉強になったと語っている。
Earth, Wind & Fire「After the Love Has Gone」
同曲はEarth, Wind & Fireがデイヴィッド・フォスターと組んだ最初の楽曲であり、急激に空気感がソフィスティケイトされ、夏の夕方とか聴くと、最高に気持ちが良いと語っている。
Christopher Cross「Sailing」
この曲が収録されているアルバムがバカ売れしてディスコで良くかかるようになったときに、AORは到達点を迎えたと思ったという。
Luther Vandross「Sugar and Spice (I Found Me a Girl)」
当時この曲を聴きかなり打ちのめされ、自身にとってはまだ遠い世界に感じ、いつかこういう世界をやってみたいと思わせたと同時に、彼の醸し出すような世界観はニューヨークの空気感を知らなければならないと強く感じ、渡米する(84年からニューヨークへ住む)きっかけとなったと語っている。

書籍

ラジオ・雑誌連載

テレビ出演

受賞歴

脚注

  1. ^ RVCには角松が憧れていた山下達郎がいて、誘いを受けたなかでの所属レコード会社選定にはこれが決め手となった。しかし、角松は西城秀樹などアイドル歌手が所属していた歌謡曲専門の部署(第2製作セクション。ちなみに第1製作は演歌担当の部署)が担当で、一方の山下は当時ニューミュージック系の社内レーベル、エアー・レーベルを擁する部署(第3製作セクション)が担当していたことで、歌謡曲の部署が仕立てた“山下達郎のニセモノ”を巡っての社内政治の渦中に巻き込まれてしまう。そのため、自身が希望していたエアー・レーベル側との交流や協力はほとんど受けられなかったばかりか、反目の対象にまでされてしまった。レコード制作会社内の仕組みを知らなかった当時20歳そこそこの角松はプロデビューしたことを後悔することもあったという。これらの経緯は、後年に当時RVCの主査で、エアー・レーベルの創設者、チーフ・ディレクターだった小杉理宇造から直接聞いた(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。結局角松は、小杉が1982年秋、山下とスタッフを引き連れ設立したムーン・レコードに移籍した後、担当ディレクターだった岡村右と共にエアー・レーベルを引き継ぐこととなる。
  2. ^ デビュー準備段階でのの角松との縁から、第1作のサウンドプロデュースと一部楽曲のアレンジを引き受けた志熊研三にとっても、サウンドプロデューサー・編曲家としてはまだ駆け出しで、先輩の大物ミュージシャンばかりを纏めるのが大変だったという。また志熊もスタジオミュージシャン経験があり、編曲で意見の相違があったことを角松自身が振り返った(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。
  3. ^ 2作目のシングル「FRIDAY TO SUNDAY」は日本航空のキャンペーン&CF曲に決まっていたものの、発表直前の日航羽田沖墜落事故の影響で日本航空のプロモーション活動が自粛となり頓挫。結果、タイアップが付かなくなってしまい、このシングルを核にした同時期発売のアルバム『WEEKEND FLY TO THE SUN』のプロモーション活動も躓くといった、不可抗力が原因となった不運な面もあった。
  4. ^ その後釜的存在として事務所に入ってきたのが杉山清貴&オメガトライブであった。ソロ・アーティストとバンドの違いはあれど、テレビ出演など広告効果があるメディアへの露出優先という同じようなプロモーション戦略が採られた。
  5. ^ 当時のヒット曲の指標で、ランキング番組のTBS系『ザ・ベストテン』や日本テレビ系『トップテン』にはレコード売り上げ結果以外の要素も重要視(特に視聴者からのリクエスト葉書の数量)されることもあって番組内で最低限紹介される対象の20位圏内にランキングすらされなかった。ランキング番組ではなく、それにアルバムが中心のアーティスト活動でシングル曲中心の歌謡曲路線ではなくても出られたフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』から出演依頼はあったものの断ったとのこと。また当時、キー局の番組では需要がなかったが、歌手本人が来ない地方局のローカル番組には一定の需要があったプロモーション・ビデオも制作されなかったため、この頃の歌唱映像は現在までほぼ非公開のコンサートを撮影したもの以外皆無。一方で歌わないテレビ出演は幾つかあり、1984年にテレビ東京系の深夜番組『TOKIOロックTV』にMCとしてお気に入りのミュージックビデオを紹介、1985年には友人の放送作家・植竹公和(角松プロデュースの杏里のアルバム『COOOL』収録の「MERCURY LAMP 〜水銀燈」を作曲)が関わったTBS系情報バラエティ番組枝里子と鶴太郎のデータブティック』のコメンテーターに、それぞれ一度だけだが出演している。持ち曲とテレビ出演がようやく絡んだものとして、1987年に主題歌「THIS IS MY TRUTH」を手掛けた日本テレビ系のテレビドラマ『敵同志好き同志』最終回にカメオ出演している。
  6. ^ オリジナルアルバムとしては前作『GENTLE・A MAN/西城秀樹』に一曲提供(「THROUGH THE NIGHT」の作詞・作曲・編曲)したのが最初の関わりで、シングル中心の歌謡曲路線から脱してアルバム・アーティスト路線にアプローチしてみたかった西城の依頼に応えたもの。吉田美奈子とはこのアルバムが作られた1985年に自身の7インチ&12インシングル「初恋」と同時発売のアルバム『T's BALLAD』にもコーラスを依頼している。
  7. ^ 1989年のアルバム『DUMPO』まで5作プロデュースする。また、その間は角松のライブツアーのオープニング・アクト(前座)なども務めるなどして角松の弟分的存在として認知されていく。
  8. ^ 1980年代、角松以外の仕事では、角松のバックバンド加入へのキッカケとなったキーボード&アレンジャーの林有三によるスタジオワークやハイ・ファイ・セットのバックバンド(後に角松と関わる土肥晃や小池修も在籍)などがあった。
  9. ^ 1990年代、フュージョン関連と角松以外の仕事では、一大旋風を巻き起こしたビーイング関連のスタジオワークで活躍。また、ジャズの第一人者・渡辺貞夫の国内外ツアーから当時社会現象となったアイドル・SPEEDのバックバンドまで多岐にわたった。
  10. ^ 第1弾は4月21日に、その年の2月5日に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT〜is the most darkness moment in a day』からリミックスした12インチシングル二枚とそれを統合したゴールドCDによる企画盤『VOICES FROM THE DAYLIGHT ~GOLD 12inch Items』ではあるが、自身以外の他アーティストとしては以前から角松の自身名義の作品やプロデュース作品に多数参加し、ブラス編曲も手掛けるスタジオ・ミュージシャンのトランペッター数原晋を中心に結成されたビッグ・バンド、「TOKYO ENSEMBLE LAB」(トーキョー・アンサンブル・ラボ)が実質的な第1弾。デビュー・アルバムでもある『BREATH from THE SEASON』(1988年7月21日発売)に角松はプロデュースの他に、先行でシングルカットされた「LADY OCEAN」などの楽曲提供と演奏にも参加。ゆえに角松色は強く、絶頂期の作品だけに成功を収めた。なお、オーン・レーベルの名義による作品は1994年までリリースされることになり、その後は同じレコード会社内に新たに作った私設レーベル「iDEAK」に引き継がれる。
  11. ^ Guitar Labo『角松敏生さんインタビューVol.1』
  12. ^ 角松のバックバンドのメンバーのなかでは一番の古参で、1981年にデビュー直前の逗子のレストランで行われたプロモーション・ライブにも参加していた。80年代後半から角松はバックバンドのメンバーに対して恩返しの意味合いもかねて、オーン・レーベルと“角松敏生プロデュース”という自身のネームバリューを使ってメンバーらのソロや在籍グループのアルバムを出していたが、奇しくも一番古い付き合いの友成のが最後となった。
  13. ^ 浅野は杏里のバックバンド、“スプリット・ココナッツ”に在籍していて、1982年に杏里と知り合う角松とはその時からの仲。1988年、杏里のバックバンドでの活動に迷いを感じていた浅野はそこを離脱し、角松のバックバンドのギタリスト選考オーディションを経て加入。以後は角松のバックバンドやプロデュース業に全面的に関わっていく。
  14. ^ 米光と同じ東京パフォーマンスドールに在籍していた篠原涼子のほうは同時期に小室哲哉によるプロデュースを受けていて、篠原涼子 with t.komuro名義による「恋しさと せつなさと 心強さと」でオリコンチャート1位、200万枚のヒットを出す。なお小室は活動初期の短期間、角松のバンドでキーボードを担当した経験がある。
  15. ^ プロデュース・アレンジを担当、作曲と共同アレンジは林哲司
  16. ^ GSバンド、アウト・キャストのギタリスト。以前にレイジーを、後にオメガトライブ菊池桃子をプロデュース・マネージメントしていた。故人。
  17. ^ 角松自身はライブ活動をで力量を上げることを希望したが、事務所側は先ずメディアへの露出を行って知名度を上げる方が大事と考えていた。この手法を「以前トライアングルがレイジーで成功した手法だね。(トライアングル所属だった)杉山清貴とオメガトライブがいい例だけど…と解説した(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』より)。
  18. ^ RVC側はアミューズに入れたかったと角松は書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューで証言している。
  19. ^ これは当時杏里への楽曲提供がきっかけで、アミューズ側からも杏里が所属していたマーマレードへ移籍したほうが角松は合っているのではとないかと薦められたことによる。また、マーマレードの社長.梶岡勝は退社したトライアングルの社長・藤田浩一と仲が良かったという(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』のインタビューより)。
  20. ^ のちに、CDよりも音質が良いという理由から、Blu-ray Discの必要性について語っている。
  21. ^ 無圧縮・可逆圧縮(FLAC)・高解像度(ハイレゾ)音源が本格的に配信されるようになったのは、2010年代に入って以降である。
  22. ^ 角松自身のCM出演は前にも後にもユニマットが唯一である。

外部リンク