「トニー谷」の版間の差分
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2016年6月8日 (水) 03:19時点における版
とにー たに トニー 谷 | |
---|---|
1950年頃 | |
本名 | 大谷 正太郎 |
別名義 |
トニー 戸村 谷 正 |
生年月日 | 1917年10月14日 |
没年月日 | 1987年7月16日(69歳没) |
出生地 |
日本・東京府東京市京橋区銀座 (現:東京都中央区銀座) |
死没地 | 日本・東京都港区西新橋 東京慈恵会医科大学附属病院 |
国籍 | 日本 |
職業 |
ヴォードヴィリアン 歌手 俳優 |
ジャンル |
司会 舞台 映画 コミックソング |
活動期間 | 1949年 - 1986年 |
著名な家族 | 谷かつみ(次男) |
主な作品 | |
軽演劇 映画 楽曲 |
トニー 谷(トニー たに、1917年〈大正6年〉10月14日 - 1987年〈昭和62年〉7月16日)は、東京府東京市京橋区銀座(現:東京都中央区銀座)出身の舞台芸人(ヴォードヴィリアン)。本名、大谷 正太郎(おおたに しょうたろう)。
リズムに乗りそろばんを楽器のようにかき鳴らす珍芸が売りで、妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。短めのオールバックにコールマン髭、吊りあがったフォックスめがねがトレードマーク。
来歴・人物
隠された過去
以下の過去は本人が完全に隠し続けたものであり、死後数年経ってから明らかにされたものである(ただし、一部は後述の長男誘拐事件発生後に発掘されている)。
芸能界時代は本名すら偽っており、「谷 正」という名を本名としていた(後年、東京都大田区新井宿の自宅表札では「多仁」と表記)。
家庭事情は複雑で、暗い幼少期を送っている。後年のギャグ「家庭の事情」の裏側には、下記のような重い歴史が隠されていた。
東京市京橋区銀座に生まれ、日本橋区小伝馬町に育つ。実の母は長唄の師匠。しかし妊娠中に実父は死亡し、血縁上の伯父を戸籍上の父として届け出た。戸籍上の父は電気器具商。愛情のない父に虐待されて育ち、ひどく苦しんだという。
子供のころは下町で有名なそろばん塾「大堀塾」でそろばんを学んでいた。小学校時代から成績優秀で、地元の名門である東京府立第三中学校に入学。英語と図画が得意だったものの、学問よりも家業を優先すべしとの父の命令で1933年に中退し、神田の電機学校に通わされた。1934年に実母が病死、ついに実の父母ともに失った。戸籍上の父は再婚、父と継母にとってトニーは他人であり、トニーへの虐待がますます深刻になった。
そのため、家を出て自活を開始。1935年、日本橋小舟町の薬屋に就職。1938年、召集令状が来て近衛歩兵第1連隊に入隊。1940年に除隊して第一ホテル東京(新橋)に就職。ホテルの開業記念日には率先して演芸会の進行役を務め、時には自ら出演して人気者となった。1942年に最初の妻と結婚したが、1か月後に再度出征。その妻は1945年3月10日の東京大空襲で行方不明になっている。
終戦まで一兵卒として南京や上海を転戦したと伝えられているが、現地で除隊して上海やシンガポール、マニラ、香港でバンドマンやナイトクラブの経営者をしていたという言い伝えもあり、この時期の行動は詳らかにされていない。軍隊での階級は陸軍伍長だったと伝えられる[1]。
捕虜収容所生活を経て1945年12月に復員。1946年11月、事務員としてアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場。終戦後GHQに接収されていた)に就職。主に大道具の仕事をこなし、やがて伊藤道郎の元で演出助手として「ミカド」の上演にかかわる。2年後、日本に進駐軍のアメリカ赤十字クラブが開設され、ここに引き抜かれて進駐軍相手の慰問芸能団編成の斡旋に関わり、有名芸能人とのコネを築いた。パン猪狩(ボードビリアンで日本の女子プロレス創設者。ショパン猪狩の兄)とは兄弟分の仲だったという。
1948年3月、赤十字クラブで知り合った女性と再婚。しかし勤務をさぼって内職の司会業に精を出している最中、スポットライトの過熱による失火事件が起き、その責任を問われて赤十字クラブを解雇される。同年6月、東宝渉外部に転職し、日劇ダンシングチームなど出演者の起用を行っていた。「トニー」という名はこの時外人出演者[2]によってつけられたあだ名である(姓の「大谷」を略した。タニー→トニー)。
トニーは芸人になったとき、以上の過去をすべて封印した。有名人になった後、少年時代の遊び友達から「正ちゃん!」と呼びかけられても「人違いでしょう」と平然と答えた。軍隊時代の戦友から訪問を受けても門前払いを食わせて「いまに覚えてやがれ!」と怒鳴られた。継父と二人の妹から自宅に訪問を受けても、「かねて申し上げてある通り『過去のどなた』ともお付き合いはしておりません。たとえ近しい方とも。私が有名にならねば訪ねてもこないのに。重ねて申しあげます。一切お付き合いしません。楽屋への訪問、知り合いといいふらす件、全部お断りします。私の一家、一身上のことは、自分でやりますから」と冷然と拒絶した[3]。
一躍、人気芸人に
1949年、日米野球のため米プロ野球サンフランシスコ・シールズ軍が来日した。芝のスポーツセンターにおける歓迎会の司会は松井翠声が務めるはずだったがスケジュールの都合で出られず、トニーが司会の代役を務め、電撃的な芸人デビューを果たした。以後、「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんは」「ネチョリンコンでハベレケレ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」「バッカじゃなかろか」など独特の喋りで爆発的な人気を博す(なお「ざんす」調の始まりは、トニーが兵庫県宝塚市にある新藝座に出演したとき、毎日宝塚会館へダンスに通って、そこで知り合った兵庫県芦屋市の有閑マダムとの会話からヒントを得たという[4])。
世間がジャズブームの波にのると、ジャズコンサートの司会者として引っぱりだこになり、芸能界の寵児と呼ばれた。1951年には「帝劇ミュージカルズ」第1回公演「モルガンお雪」で榎本健一・古川ロッパや宝塚歌劇団在団中の越路吹雪と共演。東宝に芸人として専属となり、舞台は日劇ミュージックホール(初出演は1952年9月26日)、映画は東宝映画・宝塚映画中心に出演。三木のり平、森繁久彌、柳家金語楼らと共演が多い。出演映画は1953年には20本に上り、総数で100本を超える。当時のトニー谷は「アプレ芸人」として森繁久彌と並び称される存在であった[5]。
トニー谷によって発掘された芸能人にE・H・エリック、岡田眞澄兄弟がいる。
徹底して嫌われた芸風
パブリックイメージ
アメリカ野球チームの歓迎会をきっかけに一躍有名になったトニーは意図的にアメリカ人を、それも日系アメリカ人を模倣した。カタコトのトニー谷流英語(トニングリッシュ)がそれである。第二次世界大戦において連合国軍に負け、その1国であるアメリカ軍やイギリス軍に占領された日本人にとって、それは憎悪の対象でしかなかった。実際にはトニーの異端ハチャメチャ芸は確かに人気を得たが、当時の人にとっては尊敬に値しない単なる風俗現象としてとらえられた。一言で言うと、芸もないのに急に裕福になった成り上がりだった。支配層はトニーに強い妬みを持った。また、敗戦を経た当時の大衆層はトニーを擁護するには貧弱だった。
芸人として軌道に乗っていた一方、共演者・客・視聴者・世間のすべてをバカにした態度をとっていた。これ自体も敗戦後の大混乱社会を象徴した光景であり、典型的なアプレゲール芸人といえる。言い換えると、存在自体が反社会的だった。小林信彦の『日本の喜劇人』では、ある芸人がトニーを評した言葉として、「天皇陛下の前に出られない芸人」と紹介している。これは、人気のある芸人は、共産党等と関わりがなければ、叙勲、園遊会、余興(天皇の前で芸を披露する)など、天皇と顔を合わせる機会が何かとあるものだ、という認識に由来する。
後年、赤塚不二夫はマンガ「おそ松くん」にトニーをモデルとするキャラクターを登場させた[6]。赤塚はその人物を迷わず「イヤミ」と名づけた。トニー谷のイメージはこの一語に尽きる。当時、赤塚は『アベック歌合戦』で人気があったトニーに着目し、ざんす言葉で喋るキザなキャラクターにリンクさせたと伝えられている[7]。
女性と舞台で共演すると、必ずいやらしい視線を向け、実際に共演者の胸や陰部を触り、いやらしい一言を浴びせた(セクハラ)。仕事の多くはジャズコンサートの司会であるが、司会者であるトニー自身が客前の前説でコンサートの主役であるジャズシンガーをネタとして舞台でこき下ろしていた(江利チエミ・雪村いづみのコンサートで、「ほーんと、どこがいいざんしょね? あんな下痢チエミとか雪村ねずみなんて!!」「なんザンしょね。あのヘンネシーワルツ(テネシーをもじり大阪弁で嫉妬ワルツ)のゲリ(下痢)チエミ(江利チエミ)に、アホのドナリヤ(青いカナリア)の雪村ネズミ(いづみ)なんてサ」[8]など)。「メケ・メケ」の丸山明宏を「ペケペケのお丸さん」と揶揄したこともある[9]。小バカにする対象はアメリカ人にも及び、ボードビルを演じる時、客席のアメリカ人に日本語で暴言を浴びせて日本人客をバカ受けさせ、事情を知らない当のアメリカ人客をもウケさせるということをやっていた。
この芸風がトニーには災いした。民放のテレビ放送がスタートするにつれ、芸人はテレビに主戦場を移さなければならなかったが、全てのスポンサーがトニーを忌避した。結果、舞台・映画での人気を放送全盛時代にそのまま生かすことができず、後の子息誘拐事件へとつながる。
舞台裏
無礼な芸風の芸人については「しかし舞台裏では礼儀正しかった」というようなエピソードが語られることが多いが、トニーは舞台裏でも一貫して無礼だった。
人気絶頂期は傲慢そのもので、柳家金語楼や古川ロッパ等先輩芸人への敬意が欠け、喜劇人仲間からも反感を持たれていた。そろばんを使った芸も本来は坊屋三郎のアイデアで、坊屋は芸を盗まれたことに激怒していたという。伴淳三郎は、トニーに映画出演の仕事を紹介したが、撮影の朝、トニーが首筋に大きなキスマークをつけて現れたため、トニーを怒鳴りつけた[10]。 唯一の例外は榎本健一であり、榎本はトニーを「生意気だ」と言って怒りつつも、やがてトニーへの風当たりがあまりに強くなると「トニーを慰める会」を自ら率先して催した。このため榎本にだけは一定の敬意を払っていた。後の子息誘拐事件の際にも榎本だけはトニーをかばい、トニーの側でも榎本を信頼していた[11]。
女性芸能人に対しては舞台裏でもセクハラを仕掛け、日劇の楽屋に乱入してはヌードダンサーたちに抱きつき、触りまくった。また、NETテレビの公録でも、同じ番組に出る女性漫才師の楽屋に乱入しては「おい! おまんちょ見せろ!」と大声で怒鳴った。この時のトニーは酒など入っておらず、しらふだった(山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』)。このことから女性芸能人たちはトニーを心底嫌い、共演を拒否した。これはトニーの活動の場が徐々に減り、人気が失速する一因ともなった。
放送局のエレベーターで女学生と乗り合わせたトニーは、その女学生が彼の顔を見てクスリと笑ったことに激怒し、「なんで笑った、オレの顔がそんなにおかしいか、ここは舞台じゃねえぞ、笑いたけりゃゼニを払って笑え! オタフクめ!」と暴言を吐き、彼女を泣かせてしまった[12]。そのことがあとで新聞の投書欄で明らかにされ、トニーは世間から指弾された。その一般人は安藤鶴夫の娘だったという説がある(詳細不明)。
小林信彦は、「私の友人(コメディアン)は、トニー谷が客の頭を蹴とばすのを目撃している」と述べている[13]。1954年6月、大阪の劇場に出ていたトニー谷は「芸が古い」と新聞で批判されたことに立腹し、「もっと古いのがいるざんショ、アジャパーなんてのが」と舞台で叫んだところ、折悪しく向かい側の劇場に伴淳三郎が出ていたため、もめ事に発展したこともある[13]。
また、無名時代の花登筺はOSミュージックホールで幕間コントの構成演出を担当していた頃、当時人気の絶頂期にあったトニーの出演に際し、徹夜で新しいギャグを考えて脚本を書き上げ持参したが、トニーはそれを読みもせずに「客は君の脚本でくるのじゃない。トニー谷の名前で来るのだ。脚本なんていらないよ」と花登の目の前で脚本を破り捨てた。花登は後年、このときのことを「劇場側の誰かがそばにいたら、私は恐らくそろばんで、トニー谷さんを殴っていたに違いない。私はその紙くず箱の破られた原稿の紙片を拾い集めながら、「こん畜生め」と心で罵っていた」と怨念を込めて回想している[14]。
さらに内藤陳は、日劇ミュージックホール出演中のトニーの楽屋に遊びに行ったところ、理由も告げず突然「この野郎!」とひっぱたかれたことがあった。その原因は、椅子に腰掛けた化粧前のトニーの横に内藤が立ったとき、その位置が期せずしてトニーのハゲ頭を真上から覗き込む形になったからであった。トニーがハゲ頭をカツラで隠していることは芸能界では公然の秘密だった[15]。
トニーと同じ店でコメディアンとしてデビューしたミッキー安川は、英語を使う芸人が珍しかったためトニーから「お前、この野郎! ちょっと英語しゃべれるからって」と敵視され、いじめを受けたという[16]。このときミッキーが「ちょっとじゃねえ、俺はアメリカまで行ってきてんだよ!」と言い返すと、東宝に雇われている暴力団から脅しを受け、暴力団の用心棒とミッキーの間でケンカに発展した[16]。
トニーは大阪ミナミのヌード劇場「南街ミュージックホール」に出演した折、普通ショー(ヌードショーと違い、裸体を見せないダンス)専門の踊り子の大津翠ら4人が楽屋風呂に入っているところへカメラを持って乱入し、彼女たちの裸体を勝手に撮影したことがある。このとき、舞台監督の竹本浩三に啖呵を切られるとトニーは土下座して謝ったが、撮影したフィルムについては「もう写真屋に出した」と言って引渡しを拒否。竹本から「フィルムをよこさないなら、トニー先生がかつらだと世間に公表します」と脅されると、渋々ながらフィルムの引渡しに応じたという[17]。その事件の後、トニーの化粧前の引き出しから命の次に大切なかつらが行方不明になったため、トニーは竹本の仕業と信じて怒り狂ったが、実際は竹本の仕業ではなく、トニーにいびられたコメディアンかダンサーの意趣返しだったという[18]。
昭和30年代、東京新橋でみずから経営していたバーに客としてトニーをたびたび迎えていた団鬼六は、「私は正直言って、トニー谷の人柄も芸風もあまり好きではなかった。店には伴淳三郎とか殿山泰司とか、芸能人がよく来店していたけれど、みんな仲間と来ていた。なのにトニー谷はいつも一人で、ほかの芸能人がいたら帰ってしまう。店の客にもよく喧嘩をふっかけていたし、傲慢で孤立した感じで、なんだか異様だった。自分の生い立ちや過去の話は一切したがらなかった。そういう質問をすると、すぐに怒り出した。コンプレックスも強い人だったのではないか」と語っている[19]。
一方、トニーの妻は「家では良き夫であり父でした。でも、とにかく気が強い人だったので、仕事では反感を買った面があったかもしれません」と述懐した[19]。
長男誘拐事件後、人気が急落
1955年7月15日、トニー谷長男誘拐事件が発生。人気絶頂期にあった芸人の子息が営利目的で誘拐されたとして大々的に報道され、世間は大騒ぎになった。
犯人は7月21日に逮捕され、長男は無事救出されたが、犯人は犯行の動機で「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語った。つまり、世間のトニーへの反感(本人の悪役キャラクターに由来する)への、犯人の便乗が事件の原因だった。被害者であったにもかかわらず、マスメディアによって出自・前歴など秘密にしていた部分の多くを徹底して暴かれ、この事件を境に人気は急に凋落した(もっとも、小林信彦は「トニー谷の毒舌人気にとどめを刺したのは愛児誘拐事件(1955年7月)といわれるが、実は、その前から、人気は下り坂になっていた」と証言している[13])。折しもラジオ中心の時代からテレビの時代への過渡期でもあり、仕事は激減し、東宝との専属契約も打ち切られた。
芸能界復帰
その後、新日本放送のラジオ番組だった「ニッケ アベック歌合戦」を、1962年によみうりテレビがテレビ化して日本テレビ系全国ネットで放映開始した。この番組により、第一線へのカムバックを果たした。出場者がリズムに乗って舞台に出て、司会のトニーが「♪あなたのお名前なんてえの」と出場者に聞き、出場者はリズムに乗って答える、というのをフォーマットとしていた。トニーはそろばんでなく、拍子木を両手に持ってリズムを刻んでいた。
「ニッケ アベック歌合戦」は、初代・林家三平の「踊って歌って大合戦」、鈴木やすし(現:ヤスシ)と木の実ナナの「味の素ホイホイミュージックスクール」、「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」、牧伸二の「勝ち抜きしりとり歌合戦」などと並ぶ人気番組となり、一種の社会現象となった。これらはいずれも視聴者参加番組で、かつ全てが日本テレビ系ネットだった。その一方、全てがPTAにより「低俗番組」と指弾された。 後にこの番組は「スターと飛び出せ歌合戦」(~1970年6月)となった。また、この番組を大阪の放送局が制作したこともあったためか、この時期たびたび道頓堀角座の舞台に漫談家として登場していた。このころ『11PM』大阪版に主演の折、まだ直木賞を取れずにいた藤本義一に「この直木賞くずれ!」と暴言を吐いたこともある[20]。
その後、ハワイで休養した後、1971年10月7日からよみうりテレビ製作の日本テレビ系で「トニーの外人歌合戦」で司会を始めたものの視聴率が伸びず、わずか3か月で降板。「マンネリ化した自分に嫌気がさした。ボードビルを考え直したい」と言い残して離日し、ハワイに土地を購入。この後5年間をハワイで過ごした。ハワイで暮らすようになってからは「愛国者」に豹変し、建国記念日にはホノルルの日本国総領事館に真っ先に駆けつけ、直立不動で『君が代』を歌ったと伝えられる[21]。食生活に関しても、日本からハワイに戻るときは信州味噌や海苔、野沢菜、たらこなどの純日本食品を大量に抱えて帰ったため、ホノルルの税関で有名になったという[21]。帰国時には度々大村崑邸に立ち寄り昔話に花を咲かせたと言う。大村はトニーの事を「長男の出産時には最後まで付き合ってくれた人。息子の名前も考えてくれました。トニーの尊敬するディック・ミネが親しくしていたのが私の師匠大久保怜なので私の事は大切にしてくれました」と証言している。トニーのトレードマークのメガネは大村が譲り受け、彼のメガネ博物館に展示されている。
晩年
帰国後、再び東京に居を構えた。日本から離れたことですっかり「過去の人」となり、容姿も変わった(細身の体はふっくらし、白髪を隠さないようになった。ときおりオールバックでないことがあり、眼鏡も異なる)。この時点で生活の心配がなくなっていたトニーは晩年、「懐かしの芸人」として、限られた数の仕事をこなしていた。離日していた5年間は、本人の言う「ボードビルを考え直す」ものではなかったことになる。
1977年、日劇ミュージックホールで舞台に復帰、さらにはNHKの『お笑いオンステージ』(「てんぷく笑劇場」コーナー)に出演。 1980年から始まる長いお笑いブーム(漫才ブーム)は若者がそのターゲットであり、60歳を過ぎたトニーには殆どお呼びがかからなかった。そして、ビッグバンドを従えての旧来のギャグを振りまく芸風が、当時では全く時代遅れとなっていた。晩年のトニーは、他人に毒を全く振りまかなくなったが、それも時代に全く逆行していた。
7代目立川談志によると、談志は『笑点』の司会者時代、この番組へのゲスト出演をトニーに依頼すると、「何で、俺がお前と一緒に出なきゃならねえんだい」と拒否された。もともと談志はトニーを激しく嫌っていたため断られてむしろせいせいしたが、売り言葉に買い言葉で「ならいいよ。二度と頼まねーや!」と啖呵を切った。数年後、談志が再会したときにはトニーはすでに落ちぶれており、談志が行きつけの銀座の酒場に誘うと、トニーは土下座して「談志ちゃんだけだ、本当の俺が判ってくれるのは…」と涙を流したので、談志は「何だい、こ奴はァ、一体全体」とあ然としたという[22]。
全盛期のような形でスポットライトを受けるような活動はしなくなったが、舞台を中心にテレビにも出演するという形での活動を続けた。1981年2月15日、ホームグラウンドだった日劇が閉館。「サヨナラ公演」に出演し、最後の幕が下りるとき、舞台の床にキスをした。
1982年1月30日、日本テレビ『今夜は最高!』に出演、「米軍相手のショウでやっていたという」ハナモゲラ語モドキの言葉を発し、タモリと意気投合した。ちなみに、トニーの再評価をうながした小林信彦の『日本の喜劇人』では、初期のタモリは「トニー谷の系譜を継ぐ芸人」と位置づけられており、お笑い界の新旧交代劇とでもいうべき対面だった。また同年、大阪のUHF局で開局して間もないテレビ大阪の『ご同業対抗歌合戦』の司会を番組開始から最終回までオール阪神・巨人と共に勤め上げた。
その数年後、渋谷駅で偶然に出くわした永六輔に声をかけたが、長年つけていたカツラがなかったため、永はわからなかったという。永は再度の「復活」に手を貸し、1986年6月25日には渋谷ジァンジァンにて「六輔七転八倒九百円十時」に出演。さらにはみのもんた司会のテレビ東京「爆笑おもしろ寄席」(生放送!おもしろ寄席の前身)にも出演、浅草演芸ホールの高座でそろばん芸を演じ、生中継された。東宝名人会以外の東京の寄席への数少ない出演でもあり、これが最後のテレビ出演であった。最後の舞台となったのは同年12月26日に渋谷ジァンジァンにて開催された「トニー谷ショー」である。
1987年7月16日午前0時14分、都内の病院にて肝臓癌のため死去(69歳)。長男の誘拐事件以来マスコミ嫌いを貫き通し、特に「新聞記者の取材おことわり」の姿勢は終生変わらなかった。「マスコミのさらし者にはなりたくない」という故人の遺志をくんで訃報も身内や友人だけに伝えられ、葬儀も密葬という形で済ませた。
おりしも世間では翌17日に石原裕次郎が死去し大騒ぎになっている最中で、病名も裕次郎と同じ肝臓癌ということで引き合いに出されることも多かった。なお、トニーの遺品であるそろばんは永六輔により引きとられ、現在「そろばん博物館」に展示されているという。トレードマークのメガネは同じく親交のあった大村崑が譲り受け、福井県鯖江市の「めがねミュージアム」に展示されている。
追補
トニーを何回か自分の番組に起用した山下武は、『大正テレビ寄席の芸人たち』でトニーには蓄財の癖と時間をきちんと守るという長所があったと指摘している。前者は、ハワイ移住などハッピーリタイアメントを可能にした最大の要因である。トニーの唯一の趣味は「預金通帳を読書すること」で、「ゼニってものは、てめえの覚えた技術なり芸なりで、汗をたらして稼いだものに価値がある」を持論としギャンブルには手を出さなかった。いずれも、他の日本の芸人にはあり得ないトニー独自の長所である。酒に関しても1966年、泥酔して世田谷区上野毛の自宅にたどり着けなくなり、警視庁大森警察署のトラ箱で一晩を過ごして以来禁酒して二度と飲まなかった[23]。
長男を誘拐した犯人は営利目的での誘拐だったため、人質の長男を丁重に扱った。後日トニーは息子を丁重に扱ってくれたお礼として、犯人の家族に対し現金や衣類などを送った。この話は、トニーの生前には一切明かされなかった。
冒頭に述べたように、トニーのキャラクターそのものが戦後日本の批評である。大宅壮一は「植民地ニッポンの縮図」と評し、トニー自身は(戦後)日本を指して「パチンコ・カントリー」と言っている。小林信彦がこの見解に深く同意している。
井上ひさしは週刊文春に連載したエッセイで、1950年3月に日劇小劇場に入場した時のことを書いている。そこで見た日劇ダンシングチームのメリー松原と共に印象に残った存在として「トニー戸村という芸名のコメディアン」を挙げ「彼はそれから間もなく、トニー谷という新しい芸名で全国に名を知られるようになります。」と述べている[24]。
また、日本人相手の劇場の初舞台(1948年頃、浅草六区の大都劇場における「劇団美貌」の旗揚げ公演の司会)からトニー谷を観ていた色川武大は「無責任が躍動していた感じは後年の植木等とちがって地の迫力があった」[25]と評している。また、色川は「数年前[26]、浅草の楽屋で遇会(ママ)した。女とみれば手をつけ、人を喰いまくった往年の面影がなくて、彼は私の手をとり、直接には一面識もないのに、おなつかしいといい、鼻をすすって泣く風情を見せたりした。もっともそれがトニー式の人の喰い方だったかもしれない」[27]とも回想している。
レコード
歌手としてコミックソングを多くヒットさせた。「さいざんすマンボ」は宮城まり子とのデュエット。
小林信彦の「日本の喜劇人」にてトニーの楽曲の魅力を知った大滝詠一は、トニーの死後すぐに、代表曲(「さいざんす・マンボ」「チャンバラ・マンボ」「サンタクロース・アイアム・橇(ソーリ)」「あなたのおなまえ何ァんてェの」など)を集めたLP「ジス・イズ・ミスター・トニー谷」をプロデュースした。このLPは話題になり、プロモーションビデオの出来の良さも相まって、バブル時代に一躍「トニー谷ブーム」が生まれた。後にCD化もされている。
係累
次男の大谷克己は「谷かつみ」の芸名によりギタリストとして活動。渡辺プロダクション時代はアウト・キャストで、後にジャニーズ事務所へ移ってからはハイソサエティーで音楽活動をおこなった。
映画出演
- 日本映画データベース(トニー谷)に参照。
彼をモデルとしたキャラが登場する小説・漫画など
- 三島由紀夫「恋の都」 - ハニー・紙というトニー谷キャラが司会者で登場。他にもトニー谷の名前が作中に出てくる。
- 小説・映画 村上春樹「トニー滝谷」滝谷省三郎
- 景山民夫「トニー谷のディナージャケット」(短編集「普通の生活」所収。景山が上記「今夜は最高!」への出演を依頼するの際のエピソードを中心に描いている)
- 赤塚不二夫「おそ松くん」イヤミ 前掲の通り
- 前谷惟光「ロボット三等兵」トニー参謀という名前で登場している。
- 杉浦茂「猿飛佐助」- 佐助が変装してトニー谷になる。杉浦の漫画には、他にもトニー谷がよくネタに使われている。
- 楳図かずお「アゲイン」 - 前尾
- 中田耕治「忍者アメリカを行く」
- 秋本治「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(キャラ:羽生土地郎)
- アニメ「ピュンピュン丸」
- アニメ「クレヨンしんちゃん」(挿入歌「トニー谷ダンス」を、しんのすけが歌い踊る)
- アニメ「ケロロ軍曹」(キャラ「モアちゃん」が「レディース・アンド・ジェントルメン、おとっつあん・アンド・おっかさん」の名せりふを発した)
- ロカビリー・ミュージカル「エルヴィスを夢見て」(2004年) - 鈴木一彰作、演出。トニー谷や石原裕次郎らしき人物が登場する。
- ハンガリー映画『リザとキツネと恋する死者たち』(2015年) - トニー谷をモデルにした日本人歌手「トミー谷」が幽霊として登場。
脚注
- ^ 内外タイムス文化部編『ゴシップ10年史』(三一新書、1964年)p.257
- ^ ただし山下武は『大正テレビ寄席の芸人たち』p.303で「レッド・クロスのボスで女中尉のブロンド美人が、彼のことをいつも『トァニィ、トァニィ』と呼ぶところからついた」と述べている。
- ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』p.301(東京堂出版、2001年)
- ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』p.311(東京堂出版、2001年)
- ^ 小林信彦『セプテンバー・ソングのように 1946‐1989』p.226(弓立社、1989年)
- ^ 赤塚はタモリとの対談で、トニーをさして「あれ、俺の漫画のイヤミのモデルだもんねぇ。あれは、いただきザンス」と発言している(赤塚不二夫『これでいいのだ。―赤塚不二夫対談集』)。
- ^ 山内ジョージ『トキワ荘最後の住人の記録』p.203(東京書籍、2011年)
- ^ 大阪梅田の北野劇場にて。竹本浩三『オモロイやつら』(文春新書、2002年)p.76。
- ^ 竹本浩三『オモロイやつら』(文春新書、2002年)p.77。
- ^ 竹本浩三『オモロイやつら』(文春新書、2002年)p.79。
- ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』p.314(東京堂出版、2001年)
- ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』p.312(東京堂出版、2001年)
- ^ a b c 小林信彦『セプテンバー・ソングのように 1946‐1989』p.227(弓立社、1989年)
- ^ 花登筺『私の裏切り裏切られ史』p.25(朝日新聞社、1983年)
- ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』p.297(東京堂出版、2001年)
- ^ a b 吉田豪『新人間コク宝』p.170-171(コアマガジン、2010年)
- ^ 竹本浩三『オモロイやつら』(文春新書、2002年)p.77-79。
- ^ 竹本浩三『オモロイやつら』(文春新書、2002年)p.79。
- ^ a b 『新潮45』2006年1月号、p.52。
- ^ 小林信彦『セプテンバー・ソングのように 1946‐1989』p.228(弓立社、1989年)
- ^ a b 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』p.319(東京堂出版、2001年)
- ^ 竹本浩三『オモロイやつら』(文春新書、2002年)p.83。
- ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』p.321(東京堂出版、2001年)
- ^ 『本の枕草紙』p.214(文春文庫、1988年)
- ^ 『色川武大 阿佐田哲也全集』第14巻「なつかしい芸人たち」所収「アナーキーな芸人──トニー谷のこと」427頁
- ^ 「なつかしい芸人たち」の初出は『銀座百店』1986年1月号から1988年12月号。「アナーキーな芸人──トニー谷のこと」はトニー谷の没後に書かれた。
- ^ 『色川武大 阿佐田哲也全集』第14巻「アナーキーな芸人──トニー谷のこと」428頁