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2016年6月7日 (火) 23:46時点における版
おおこし なりのり 大越 成徳 | |
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バルセルナ万博理事官時、地元紙による肖像画 | |
生誕 |
大越千太郎 安政2年12月5日(1856年1月12日) 武蔵国豊島郡江戸四谷(東京都新宿区) |
死没 |
1923年(大正12年)7月2日 東京府東京市麻布区広尾町75番地(東京都港区南麻布五丁目10番32号付近) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 外務省洋語学所 |
職業 | 外交官 |
配偶者 | カーメン・アギーレー |
子供 | 貞蔵、稲子、広男 |
親 | 大越貞五郎、三代(保) |
受賞 | フランスレジオンドヌール勲章シュヴァリエ、スペインイサベル女王勲章エンコミエンダ・デ・ヌメロ |
大越 成徳(おおこし なりのり)は明治時代の日本の外交官。リヨン領事、ロンドン総領事代理、上海総領事、ブラジル駐箚弁理公使兼総領事、アルゼンチン駐箚公使を歴任した。
生涯
生い立ち
安政2年12月5日(1856年1月12日)、江戸幕府御蔵奉行大越貞五郎の長男として江戸四谷に生まれた[1]。幼名は千太郎[1][2]。幼くして幕府が倒れたため、家は困窮し、路上に家財や絵を売って糊口を凌いだ[1]。父は学問に理解がなかったが、洋学を修めた母の影響で[1]、1871年(明治4年)9月外務省洋語学所に入学し、フランス語を学んだ[2]。
1872年(明治5年)7月25日外務省翻訳掛別席となり、1873年(明治6年)4月十五等出仕、1873年(明治6年)8月23日イタリア王国王室、明治8年7月3日デンマーク使節の通訳を務めた[2]。
渡欧
1876年(明治9年)5月10日イギリス公使館附書記一頭見習となり[2]、6月14日南条文雄、笠原研寿の留学とともに横浜港を出港した[3]。森有礼公使の下で関税自主権の回復を目指したが[4]、1878年(明治11年)ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでジェボンズに経済学を学び、保護貿易に疑問を抱くようになった[3]。
1879年(明治12年)12月三等書記生、1881年(明治14年)書記生[2]。1882年(明治15年)4月4日帰国を願い出、8月24日公信局御用掛、25日朝鮮国務掛となった[2]。
1883年(明治16年)4月19日外務書記生として再びロンドン領事館に配属された[2]。1885年(明治18年)12月在リヨン領事としてフランスに転任し[2]、1887年(明治20年)3月9日バルセロナ万国博覧会理事官となったが[5]、1889年(明治22年)暇を得て6月28日帰国した[6]。
1889年(明治22年)『外国貿易拡張論』を著し自由貿易を主張、これが『東京経済雑誌』において評価され[7]、以降度々同誌に寄稿するようになった。
1891年(明治24年)3月27日ロンドン領事[8]、6月26日総領事代理に任じられた[9]。1892年(明治25年)の倫敦日本協会創立に尽力した[1]。
上海転任と帰国
1893年(明治26年)11月10日在上海領事となり[10]、1894年(明治27年)3月30日総領事となった[11]。金玉均暗殺事件では、総理衙門に洪鐘宇の上海共同租界への引き渡しを要求した。
1894年(明治27年)8月1日日清戦争開戦の報を受け、11日上海より引き揚げ[12]。11月8日正式に上海在勤を解かれた[13]。日本では1894年(明治27年)12月28日横浜税関長を命じられた[14]。
南米勤務
1899年(明治32年)3月13日ブラジル駐箚弁理公使兼総領事として[15]リオデジャネイロに派遣され[16]、7月4日ペトロポリスに着任[3]、1902年(明治35年)4月30日アルゼンチン駐箚を兼任した[17]。
当時政府はブラジル移民の可能性を模索しており、成徳も調査を行ったが、コーヒー価格の暴落による恐慌を目の当たりにし、反対の報告を行った[18]。ブラジルでは日本拉丁協会を設立するなど広い交友関係を築き[1]、夫人によれば、南米駐在中が生涯で最も幸福だったという[19]。
1903年(明治36年)12月11日任を解かれ[20]、1904年(明治37年)11月日露戦争の外債募集のため、末松謙澄に従いロンドンに渡った[21]。
晩年麻布区広尾町75番地に隠居したが、健康を害し、1923年(大正12年)7月2日午前10時死去した[22]。
栄典
- 外国
著書
- 1883年 A Sketch of the Fisheries of Japan - Google ブックス, International Fisheries Exhibition
- 1889年 『外国貿易拡張論』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 1892年 『英国殖民及移住ニ関スル報告』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 1893年 『日本英吉利仏蘭西農民負担之比較』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 1926年 『大越成徳遺稿』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
家族
- 父:大越貞五郎、後に謨洋(もよう)[1]
- 母:三代[26]または三保[2][27] - 高橋誠種三女、川路聖謨養女[1]。
- 長妹:栄 - 渡辺某妻[26]
- 次妹:菊[26](幾久) - 陸軍少将小島好問妻[21]
- 三妹:秀[26] - ロシア語学者藤堂紫朗妻[21]
- 弟:慎次郎[26] - 海軍大尉根津欽次郎養子[21]
- 四妹:喜和[26] - 土木技師杉文三妻[21]
- 妻:カーメン・アギーレー (Carmen Aguirre[19]) - スペイン士官ドン・B・B・アギーレ― (Don B. B. Aguirre[19])娘。明治17年ロンドンで結婚[1]。日本では佳明子と称した[22]。
- 長男:貞蔵[26]または貞造[22]
- 長女:稲子[26]
- 二男:広男[26]
脚注
- ^ a b c d e f g h i 志立(1926)「序文」
- ^ a b c d e f g h i 書記生大越成徳領事ニ任シ仏国在勤被命ノ件 (PDF) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ a b c 井上(2003) p.35-38
- ^ 「阪谷男爵の欧米漫遊を送りて」
- ^ 官報. 1887年3月11日
- ^ 官報. 1889年7月2日
- ^ 『東京経済雑誌』第20巻第499号、1889年12月7日 p.762
- ^ 官報. 1891年3月30日
- ^ 官報. 1891年6月27日
- ^ 官報. 1893年11月13日
- ^ 官報. 1894年3月31日
- ^ 「在清帝国公使、領事館撤回ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.B07090536600
- ^ 官報. 1894年11月17日
- ^ 官報. 1895年1月4日
- ^ 官報. 1899年3月14日
- ^ 官報. 1899年3月17日
- ^ 官報. 1902年5月1日
- ^ 入江(1942) p.23-28
- ^ a b c Okoshi (1926)
- ^ 官報. 1903年12月12日
- ^ a b c d e 藤井(1977) p.34-35
- ^ a b c 『東京朝日新聞』1923年7月3日朝刊 p.6
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 在仏国里昻領事大越成徳仏国シユバリエー、ド、ロルドルナシヨ. (PDF) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ 領事大越成徳西班牙国コンマンダドル、デ、ニユメロ、デラ、レ... (PDF) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ a b c d e f g h i 志立(1926)「大越高橋両家系図」
- ^ 川路(1903) p.702
参考文献
- 井上琢智「大越成徳と自由貿易論」『経済学論究』第57巻第3号、2003年12月
- 入江寅次『邦人海外発展史』井田書店、1942年
- 川路寛堂編『川路聖謨之生涯』吉川弘文館、1903年
- 志立鉄次郎編『大越成徳遺稿』財政経済時報社、1926年
- Carmen Okoshi, A Biographical Sketch of Naonori Okoshi
- 藤井公明「あるロマンチスト(小島文八)の生涯(二)」『高松短期大学研究紀要』第7号、1977年3月