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[[ファイル:Sir Ernest Henry Shackleton in 1917 (cropped).jpg|thumb|1917年のシャクルトン]] |
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{{Infobox 人物 |
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|氏名= アーネスト・シャクルトン<br/>Ernest Henry Shackleton |
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|画像= Shackletonhead.jpg |
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|画像説明= |
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| image1 = Shackletonhead.jpg |
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|生年月日= [[1874年]][[2月15日]] |
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|生誕地= {{IRL}} [[キルデア州]][[キルデア]] |
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| image2 = Ernest Shackleton Signature.svg |
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|没年月日= [[1922年]][[1月5日]] |
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|死没地= {{SGS}} [[サウスジョージア島]] |
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| footer = 若い頃のシャクルトン |
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|職業= [[探検家]] |
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|signature= |
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|配偶者= |
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[[ファイル:ShackletonStatue.JPG|thumb|right|アーネスト・シャクルトンの像]] |
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'''アーネスト・ヘンリー・シャクルトン'''([[サー|Sir]] Ernest Henry Shackleton、[[1874年]][[2月15日]] - [[1922年]][[1月5日]])は[[アイルランド]]生まれの[[探検家]]である。[[1914年]]、[[南極]]を目指す航海の途上で氷塊に阻まれ座礁、約1年8か月に渉る漂流の末、生還したことで知られる。 |
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'''サー・アーネスト・ヘンリー・シャクルトン''' {{Post-nominals|country=GBR|CVO|OBE|FRGS}} (Sir Ernest Henry Shackleton {{IPAc-en|'|ʃ|æ|k|ə|l|t|ə|n}}、[[1874年]]2月15日 - [[1922年]]1月5日)は、三度、イギリスの南極探検隊を率いた極地探検家で、[[南極探検の英雄時代]]の主役の一人である{{Sfn|Barczewski|p=146}}。アイルランドの[[キルデア州]]で生まれ、10歳のとき{{仮リンク|アングロ・アイリッシュ|en|Anglo-Irish}}の家族{{Sfn|BBC, ''Shackleton''}}とともにサウス・ロンドンの郊外である{{仮リンク|シドナム|en|Sydenham}}へ移り住んだ。彼の最初の極地体験は、1901-04年の[[ロバート・スコット]]率いる[[ディスカバリー遠征]]への3等航海士としての参加であり、彼とスコット、{{仮リンク|エドワード・エイドリアン・ウィルソン|en|Edward Adrian Wilson}}が南緯82度の最南端到達新記録を樹立した後、健康上の理由で早期帰国した。 |
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==経歴== |
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{{節stub}} |
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アイルランドの[[キルデア州]]キルケアで出生。幼時に両親に連れられてイギリスへ移住し、ロンドン近郊の[[ダリッジ・カレッジ]]で学んだ。船乗りを志して16歳のときに商船に乗り組み、航海士の経験を積んで1898年には船長の資格を得る。 |
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1907-09年の[[ニムロド遠征]]では、彼と3人の隊員は探検史上最も極点へ接近し、[[最南端到達の歴史|最南端到達]]の新記録である南緯88度、[[南極点]]までわずか97{{仮リンク|地理マイル|en|geographical mile}}(112[[マイル|法定マイル]]、180km)の地点に到達。また、他の隊員が南極で最も活発な火山である[[エレバス山]]への登山を行った。これらの功績により、帰国後、[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]からナイトに叙せられた。 |
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[[1902年]]、[[ロバート・スコット]]の第一回南極探検隊([[ディスカバリー遠征]])に志願し、探検船ディスカバリー号の三等航海士として採用された。南極に到達した探検隊が[[ロス島]]南端のハットポイント半島に設営地を定めたのち、隊長のスコットと共に[[犬橇]]で南方を調査するメンバーに選ばれ、南極点から733kmの地点(南緯82度17分)まで進むことが出来た。しかしその帰路は食糧不足から犬橇の引き犬を全て失い人力のみで橇を引ことになった。南方への遠征チームは出発から93日目にディスカバリー号に辿り着いたが、壊血病を患い体力が衰えたシャクルトンは、スコットの判断で探検隊と別れ、補給船モーニング号に同乗してイギリスへ帰国する結果となる。 |
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1911年12月、[[ロアール・アムンセン]]の成功により南極点へのレースが終了すると、シャクルトンは南極点経由の南極大陸横断に関心を向けた。この準備を進め、1914-17年の[[帝国南極横断探検隊]]として実現する。この遠征は、{{仮リンク|エンデュアランス号 (1912年建造)|en|Endurance (1912 ship)|label=エンデュアランス号}}が[[流氷]]に閉じ込められ、隊が上陸する前に船が破壊されるという災難に襲われた。隊員は海氷上にキャンプを張り、そして救命ボートで[[エレファント島]]へたどり着き、最後はシャクルトンの最も有名な偉業である、[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスジョージア島]]までの嵐の海720海里の航海を行い脱出を果たした。1921年には[[シャクルトン=ローウェット遠征]]を率いてまた南極へ向かうが、[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスジョージア島]]に寄港中、心臓発作で死去。遺体は彼の妻の希望により同島に埋葬された。 |
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[[1907年]]、シャクルトンは個人的に寄付を募り借金をして自らの南極探検隊を組織した([[ニムロド遠征]])。中古のアザラシ漁船ニムロド号を探検船に仕立てた探検隊は1908年1月にニュージーランドを出発した。ロス島のロイズ岬に基地となる小屋を建てた後、越冬しつつ準備を整え10月にシャクルトンを含む4名が南極点を目指して出発。[[ポニー]]が引く[[橇]]で進み、[[ベアードモア氷河]]から[[南極横断山脈]]を越えるルートを見出し、[[南極高原]]へ史上初の到達に成功したが、食料の欠乏のため南極点まであと180kmまで迫った地点(南緯88度23分)で引き返すことを余儀なくされた。最後は飢餓で全滅寸前の危機に陥りながらも無事に帰還。この探検行で前人未踏の地点まで到達したことが評価され、帰国後[[ナイト]]を叙勲している。なおこの探検では分遣されたメンバーが[[南磁極]]への到達と[[エレバス山]]の初登頂に成功している。 |
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[[ファイル:TheSouthernParty.jpg|thumb|280px|ニムロド探査の南極点調査隊。左から[[フランク・ワイルド]]、シャクルトン、[[エリック・マーシャル]]、[[ジェームソン・アダムス]]]] |
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[[ロアール・アムンセン]]が[[1911年]]に南極点到達を果したことから、シャクルトンは目標を南極大陸横断に切り替え、[[1914年]]{{仮リンク|エンデュアランス号|en|Endurance (1912 ship)}}にて南極に向け出航した([[帝国南極横断探検隊]])。南極大陸まで320kmの点で氷塊に阻まれ、身動きが取れなくなる。10ヶ月ほど氷塊に囲まれたまま漂流を続けたが、氷の圧迫でエンデュアランス号が崩壊を始めたため、船を放棄し、徒歩にて(そして、氷山が溶けてからはボートにて)氷洋上を踏破し、約500km先の[[エレファント島]]に上陸した。そこから分遣隊を率いて救命ボートで航海を行い、約1300km先の[[サウスジョージア島]]に到達([[ジェイムズ・ケアード号の航海]])。登山道具も満足に無い状態でさらに山脈を越えて漁業基地に到達し救助を求めた。その後貸与された救助船の損傷や接岸失敗などの困難に見舞われたものの、ついに全隊員の救出に成功した。約1年8ヶ月にわたる漂流にも関わらず、27名の隊員と共に、1人も欠けることなく生還を果している。 |
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探検以外でのシャクルトンの人生は概して落ち着きがなく、かつ満たされないものであった。一攫千金を追い求めて投機的な事業を立ち上げては失敗し、多額の負債を抱えて死んだ。死んだときにはマスコミに大きく称賛されたが、その後ライバルのスコットが何十年も名声を保ったのに対し、シャクルトンは世間から忘れ去られた。20世紀後半にシャクルトンは「再発見{{Sfn|Jones|p=289}}」され、たちまち、文化史家のステファニー・バルチュースキー(Stephanie Barczewski)が「信じられない(incredible)」と表現した{{Sfn|Barczewski|p=295}}サバイバルストーリーを題材に、極限状態の中でチームを維持するリーダーのロールモデルとなった。 |
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当初の探検目的は果たせなかったものの絶望的な状況下において隊員の希望を失わせず、かつ、冷静な判断と決断力で奇跡ともいえる全員帰還を成功させたことで、優れたリーダーとして今でも称えられている。ただしこの探検では、南極大陸の反対側に物資輸送のため派遣された[[ロス海支隊]]でも補給船が暴風で流される事故があり、こちらは陸上に取り残された隊員の中から3名の死者を出している([[オーロラ号の漂流]])。 |
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== 生い立ち == |
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[[1922年]][[1月5日]]、自身が率いる3度目の南極探検([[シャクルトン=ローウェット遠征]])に向かう途上、[[サウスジョージア島]]で[[心臓発作]]にて急逝した。墓は[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島]]の[[サウスジョージア島]]最大の停泊地・[[グリトビケン]]にある。 |
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=== 子供時代 === |
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[[ファイル:Dulwich College, College Road, Dulwich. - geograph.org.uk - 58443.jpg|thumb|upright=1.75|サウスロンドンの[[ダリッジ・カレッジ]](現在の写真)]] |
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アーネスト・シャクルトンは、1874年2月15日に、[[アイルランド島]]の[[ダブリン]]から約{{convert|46|mi|km|sigfig=2}}にある[[キルデア州]]{{仮リンク|アシー|en|Athy}}近くの{{仮リンク|キルケア|en|Kilkea}}で誕生した。父親はヘンリー・シャクルトン(Henry Shackleton)、母親はヘンリエッタ・レティシア・ソフィア・ギャバン(Henrietta Letitia Sophia Gavan)。父親は{{仮リンク|アングロ・アイリッシュ人|en|Anglo-Irish people}}で、先祖はイングランド・[[ヨークシャー]]出身の[[クエーカー]]で18世紀にアイルランドへ移住した{{sfn|モレル、キャパレル|p=43}}。母親は[[アイルランド人]]で、先祖は[[コーク州]]と[[ケリー州]]出身であった{{Sfn|Byrne|p=852}}。アーネストは子供10人の2番目で、息子2人のうちの兄である。弟のフランクは、1907年に{{仮リンク|アイリッシュ・クラウン・ジュエル|en|Crown Jewels of Ireland}}を盗んだ嫌疑で悪名高くなるが、後に潔白が証明されている{{sfn|Huntford|pp=227–28}}。 |
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==逸話== |
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彼のエピソードとしてよく知られているものに、南極探検の同志を募るために出したとされる新聞広告がある。 |
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{{Quotation|MEN WANTED for Hazardous Journey.<br />Small wages, bitter cold, long months of complete darkness, constant danger, safe return doubtful. <br />Honor and recognition in case of success.Ernest Shackleton|「求む男子。至難の旅。<br />僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証無し。<br />成功の暁には名誉と賞賛を得る。アーネスト・シャクルトン」}} |
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彼のこの呼びかけに対して名誉と賞賛のみを求めて集まったものが5000名以上にのぼった、ともされている。しかし、ケリー・テイラー=ルイス(『シャクルトンに消された男たち: 南極横断隊の悲劇』の著者)が現物を捜索したところ、1913年 - 1914年のロンドンの新聞には掲載が確認できなかったという。この広告に関しては現在も議論が続いている<ref>http://www.antarctic-circle.org/advert.htm</ref>。 |
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1880年、アーネストが6歳のとき、父ヘンリーは地主としての生活に見切りをつけ、[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学) |ダブリン大学トリニティ・カレッジ ]]で医学を学ぶため家族とダブリンへ引越した{{Sfn|Huntford|pp=6–9}}。さらに4年後、一家はアイルランドからロンドン郊外の{{仮リンク|シドナム|en|Sydenham}}へ移り住んだ。これは、一つには、新しく資格を得た医師がより専門的な職を求めたといえるが、別の要因として、1882年に起こったアイルランド担当大臣[[フレデリック・キャヴェンディッシュ (1836-1882)|フレデリック・キャヴェンディッシュ卿]]のアイルランド民族主義者による暗殺を受けて、アングロ・アイリッシュ人の血筋であることに不安になった可能性もある{{Sfn|Huntford|pp=6–9}}。 |
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==記念== |
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シャクルトンに因んだ地名は南極に数多くあり、主なものとしては[[コーツランド]]の{{仮リンク|シャクルトン山脈|en|Shackleton Range}}や[[グレアムランド]]の{{仮リンク|シャクルトン山|en|Mount Shackleton}}、[[シャクルトン棚氷]]、{{仮リンク|シャクルトン氷河|en|Shackleton Glacier}}、{{仮リンク|シャクルトン海岸|en|Shackleton Coast}}が挙げられる。1994年には月の南極近くのクレーターにも[[シャクルトン (クレーター)|シャクルトン]]と命名された。このほか乗り物への命名としてイギリス空軍の哨戒機[[アブロ シャクルトン]]や、南極観測基地への補給船[[アーネスト・シャクルトン (極地補給船)|アーネスト・シャクルトン]]がある。 |
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=== 教育 === |
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また出生地の近くにあるアシーの歴史博物館Athy Heritage Centre-Museumにはシャクルトンの業績を紹介する常設コーナーがあり、母校であるダリッジ・カレッジには、エンデュアランス号遭難ののちサウスジョージア島までの南極海を渡った救命ボート「ジェイムズ・ケアード号」が展示されている。 |
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シャクルトンは小さな子供の頃から貪欲な読書家で、冒険に対する情熱に火を付けるものを追い求めていた{{Sfn|Kimmel|pp=4–5}}。11歳まで[[ガヴァネス]]の教育を受け、その後、サウスイーストロンドン、{{仮リンク|ダリッジ|en|Dulwich}}のウエストヒルにあるファーロッジ私立学校(Fir Lodge Preparatory School)に通った。13歳のとき[[ダリッジ・カレッジ]]に入学{{Sfn|Huntford|pp=6–9}}。シャクルトンは学者として有名になる気はなく、学問に「退屈」していたと言われている{{Sfn|Huntford|pp=6–9}}。後に彼はこう語っている、「私は学校で地理学を全く勉強しなかった・・・偉大な詩人や散文作家の作品を分解して文法解釈し分析するという文学もだ・・・教師たちはいつもそれを課題にすることで、(生徒たちの)詩の趣味を損なわせることのないよう慎重になるべきだ{{Sfn|Huntford|pp=6–9}}」。それでも、彼の最後の学期の成績はクラス31人中5番目であった{{Sfn|Mill | pp=24, 72–80, 104–115, 150}}。 |
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=== 商船航海士時代 === |
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シャクルトン隊が1908年にロス島西岸のロイズ岬に建てた小屋は現在も残されており、2010年にはニュージーランドの南極歴史遺産基金のチームがその床下から探検当時のウィスキーを発見した<ref>{{Cite news | title=南極の氷から100年前のウイスキーを発掘、復元の可能性も |newspaper=AFPBB News |date=2010-02-10 |author= |url=http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2692826/5298384 |accessdate=2013-08-16}}</ref>。同団体はこの小屋を含む南極の歴史遺産を修復し保存する活動を進めている<ref>{{Cite news | title=Saving Antarctic Heritage |newspaper=Radio New Zealand |date=2015-01-30 |author= |url=http://www.radionz.co.nz/national/programmes/ourchangingworld/audio/20165342/saving-antarctic-heritage|accessdate=2015-06-15}}</ref>。 |
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[[ファイル:HRM EHS p56.jpg|thumb|upright|1901年、27歳のシャクルトン]] |
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シャクルトンの落ち着きのない学校生活は、16歳のとき退学し船員になることを許されて終わった{{Sfn|Huntford|p=11}}。その選択肢は、シャクルトン家に余裕は無かったが、「{{仮リンク|プリンス・オブ・ウェールズ (1860年建造の戦艦)|en|HMS Prince of Wales (1860)|label=HMS ブリタニア}}」の海軍士官候補生になる、または商船員訓練船の「{{仮リンク|テームズ船員訓練学校|en|Thames Nautical Training College|label=ウォースター}}(Worcester)」か「{{仮リンク|HMS Conway (school ship)|en|HMS Conway (school ship)|label=コンウェイ}}(Conway)」に乗る、もしくは帆船の「水夫("before the mast")」見習いになることで、3番目の選択肢が選ばれた{{Sfn|Huntford|p=11}}。父親がノース・ウエスタン・シッピング・カンパニー(North Western Shipping Company)への就職を見つけてきて、シャクルトンは{{仮リンク|スクエア・リグ|en|square-rigged}}の帆船「ホートン・タワー(Hoghton Tower)」の船員となった{{Sfn|Huntford|p=11}}。 |
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続く4年間の船員生活で、シャクルトンは地球の隅々を訪れ、多くの階級の人々と人脈と作り、あらゆる種類の人間についてよく学びながら、手に職を付けた{{Sfn|Huntford|pp=13–18}}。1894年8月、{{仮リンク|2級航海士|en|Second Mate}}の試験に合格し、ウエルシュ・シャイア・ライン(Welsh Shire Line)の{{仮リンク|不定期貨物船|en|tramp steamer}}で{{仮リンク|3等航海士|en|Third Mate}}となる{{Sfn|Huntford|pp=13–18}}。2年後、{{仮リンク|1級航海士|en|First Mate}}の資格を獲得、1898年には世界中どこでもイギリス船を指揮できる{{仮リンク|マスター・マリナー|en|Master Mariner}}として認証された{{Sfn|Huntford|pp=13–18}}。 |
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==フィクション== |
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*海外ドラマ「シャクルトン 南極海からの脱出」 [[ケネス・ブラナー]]主演 {{ASIN|B0009S8FUU}} |
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1898年、シャクルトンは、[[サウサンプトン]]・[[ケープタウン]]間で郵便および旅客輸送の定期便を運航する[[ユニオン=キャッスル・ライン]]に入社した。彼は「普通の若い航海士とはかけ離れていて」、必ずしも打ち解けていないとは言わないが会社に満足し、「キーツやブロウニングの詩を朗読し」、感受性と攻撃性が入り混じっているが思いやりもあった、と同僚が書き残している{{Sfn|Huntford|pp=20–23}}。1899年に[[ボーア戦争|第二次ボーア戦争]]が勃発すると、シャクルトンは兵員輸送船「ティンタジェル・キャッスル(Tintagel Castle)」へ転属となり、同船で1900年3月に、ロンドンで組織中のディスカバリー遠征のメインスポンサーである{{仮リンク|ルーエリン・W・ロングスタッフ|en|Llewellyn W. Longstaff}}の息子、セドリック・ロングスタッフ(Cedric Longstaff)陸軍中尉と知り合った{{Sfn|Huntford|pp=25–30}}。シャクルトンは遠征隊へ参加するため、息子との知己を活かしてロングスタッフの面接を受けた。ロングスタッフはシャクルトンの熱心さに感動して、シャクルトンが合格することを望んでいることが明らかである遠征隊の責任者、[[クレメンツ・マーカム]]へ推薦した{{Sfn|Huntford|pp=25–30}}。1901年2月17日、シャクルトンは遠征隊の船「ディスカバリー号」の3等航海士へ登用され、7月4日、[[イギリス海軍予備員|海軍予備員]]の{{仮リンク|海軍中尉 (イギリス)|en|sub-lieutenant|label=海軍中尉}}に任官した{{Sfn|Huntford|p=42}}<ref>{{LondonGazette|issue=27322|supp=|startpage=3926|date=11 June 1901|accessdate=10 October 2015}}</ref>。公式にはユニオン=キャッスル社から休暇を貰った形であったが、実際にはシャクルトンの商船員生活はここで終わりを告げた{{Sfn|Huntford|pp=25–30}}。 |
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==脚注== |
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<references/> |
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== 1901-03年、「ディスカバリー遠征」 == |
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== 参考文献 == |
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{{Main|ディスカバリー遠征}} |
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{{参照方法|date=2016年2月|section=1}} |
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[[File:Discoveryboat.jpg|thumb|南極海上の探検船「ディスカバリー号」]] |
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* [[アルフレッド・ランシング]]、『エンデュアランス号漂流』、[[新潮社]]、1998年。 ISBN 4-10-537301-3 |
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* A・チェリー・ガラード、『世界最悪の旅 悲運のスコット南極探検隊』、[[朝日新聞社]]、1993年。 ISBN 4-02-260744-0 C0126 P1300E |
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「{{仮リンク|RRS ディスカバリー|en|RRS Discovery|label=ディスカバリー号}}」にちなみディスカバリー遠征として知られる国立南極遠征(National Antarctic Expedition)は、[[王立地理学会]]会長のサー・クレメンツ・マーカムが発案し、準備に長年かけていたものである。遠征隊はイギリス海軍の水雷大尉で最近中佐へ昇格した[[ロバート・スコット|ロバート・ファルコン・スコット]]が隊長となり、科学や地理学上の発見も目的としていた{{Sfn|Fisher|pp=19–20}}。 |
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* ジェニファー・アームストロング『そして、奇跡は起こった!-シャクルトン隊、全員生還 』、評論社、2000年。ISBN 978-4566052673 |
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* アーネスト・シャクルトン『南へ―エンデュアランス号漂流』、ソニー・マガジンズ、1999年。ISBN 978-4789713481 |
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ディスカバリー号は海軍の船ではなかったが、スコットは艦隊訓練法(Naval Discipline Act)に基づく制約を受け入れる船員や士官、科学スタッフを求め、船と遠征隊は海軍の方針に従って運営された。シャクルトンは、彼の生い立ちや天性から、それとは違うもっと堅苦しくない統率を好んでいたにもかかわらず、これを受け入れた{{Sfn|Crane||pp=171–72}}。シャクルトンの任務は以下の通りであった。「海水分析担当。上級士官室のサービス係。船倉、備品、食糧担当。(中略)そのほか、娯楽を企画する。」{{Sfn|Fisher|p=23}} |
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* ケリー・テラー=ルイス 『シャクルトンに消された男たち〜南極横断隊の悲劇〜』、2007年。[[文藝春秋]]。ISBN 978-4-16-369390-3 |
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「ディスカバリー号」は1901年7月31日にロンドンを出発し、[[ケープタウン]]と[[ニュージーランド]]を経て、1902年1月8日に南極大陸に到着した。上陸後、シャクルトンは2月4日に観測気球飛行に加わった{{Sfn|Wilson|p=111}}。また、科学者の{{仮リンク|エドワード・エイドリアン・ウィルソン|en|Edward Adrian Wilson}}と{{仮リンク|ハートレー・フェラー|en|Hartley T. Ferrar}}とともに、{{仮リンク|マクマード湾|en|McMurdo Sound}}にある遠征隊の冬営地から[[ロス棚氷]]への安全なルートを確立する最初のソリ旅行に参加した{{Sfn|Wilson|pp=115–118}}。1902年の冬には、氷に閉ざされたディスカバリー号で、シャクルトンは遠征隊の雑誌『''The South Polar Times''』の編集を行った{{Sfn|Fiennes|p=78}}。 |
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スコットのリーダーシップに対し水面下で対抗することを示していたという主張は支持されなかったが、給仕の{{仮リンク|クラレンス・ハレ|en|Clarence Hare}}によると、シャクルトンは「船員の間で最も人気がある士官で、付き合いが良かった」{{Sfn|Huntford|p=76}}。スコットは南極点の方向へ最南端到達記録の更新を目指すパーティに自分自身とウィルソンのほかにシャクルトンを加えた。スコットにとって最南端記録の更新はとても重要であったが、この踏破行は南極点を目指す真剣な挑戦ではなかった。そしてシャクルトンを加えたことは高い個人的な信頼を表していた{{Sfn|Fiennes|p=83}}{{Sfn|Fisher|p=58}}。 |
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[[ファイル:Scott of the Antarctic crop.jpg|thumb|upright|left|[[ロバート・スコット]]]] |
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パーティは1902年11月2日に出発した。この踏破行は、後にスコットが記したように、「成功と失敗が組み合わさっていた」{{Sfn|Fiennes|p=104}}。南緯82°17'に到達し、1900年の[[カルステン・ボルクグレヴィンク]]による記録を更新した{{Efn|name=Farthest South}}{{Sfn|Crane|pp=214–15}}。しかし餌が痛みすぐに病気になった犬たちのせいで踏破行は台無しになり、22頭いた犬は全て死んだ。また、3人とも、時々雪目や凍傷、そして終いには[[壊血病]]に苦しんだ。帰路で、シャクルトンは自身が認めているように「衰弱し」、自分の仕事をこなすことができなくなった{{Sfn|Fiennes|pp=101–02}}。 |
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シャクルトンは後に、スコットが『''The Voyage of the Discovery''』で彼が[[ソリ]]で運ばれたと書いたことを否定した{{Sfn|Huntford|pp=143–44}}。しかし実際、かなりの衰弱状態にあった。ウィルソンは1月14日の日記に「シャクルトンは以前から体調が優れていなかったが、今日ひどく悪化した。すぐに息切れし絶えず咳をしている。ここで詳細を書く必要はないが、船から160マイル離れた場所であることを踏まえれば軽微とは言えない深刻な症状もある。」と記している。 |
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1903年2月4日にパーティはなんとか船にたどり着いた。(決定的でない)健康診断の後{{Sfn|Preston|p=68}}、スコットはシャクルトンを、1903年1月にマクマード湾に着いていた補給船「{{仮リンク|SY モーニング|en|SY Morning|label=モーニング号}}」に乗せて本国へ帰すことを決めた。スコットは「彼の現在の健康状態を踏まえれば、さらなるリスクを負うべきではない」と記した{{Sfn|Preston|p=68}}。なお、スコットがシャクルトンの人気に苛立ち、健康悪化を彼を追い出す理由にしたという推測もされている{{Sfn|Huntford|pp=114–18}}。 |
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スコット、ウィルソン、シャクルトンの死から数年後、遠征隊の副隊長であった{{仮リンク|アルバート・アーミテージ|en|Albert Armitage}}が、南への行軍の間仲間割れが生じており、スコットが船医に「彼は病気になっていなくても不名誉除隊で本国送りになっていただろう」と語っていたと主張した{{Sfn|Preston|p=68}}。だがアーミテージの話に証拠はなく、少なくともスコットが『''The Voyage of the Discovery''』で南への踏破行について書くまでは、シャクルトンとスコットは友好関係にあった{{Sfn|Huntford|pp=143–44}}。彼らは表向きはお互いに敬意を表し親身であり続けたが{{Sfn|Crane|p=310}}、伝記作家のローランド・ハントフォード(Roland Huntford)によると、シャクルトンのスコットへの態度は「怒りをあらわに軽蔑し嫌う」ようになった。そして傷ついたプライドを癒すために、「南極へ戻り、スコットを上回るための挑戦」が必要となった{{Sfn|Huntford|pp=143–44}}。 |
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== 1903-07年、「ディスカバリー遠征」と「ニムロド遠征」の間 == |
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[[ファイル:Emily Dorman (Lady Shackelton).jpg|thumb|アーネスト・シャクルトンの妻、エミリー(旧姓ドーマン)]] |
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シャクルトンは、ニュージーランドで療養した後、サンフランシスコとニューヨークを経てイギリスへ帰った{{Sfn|Fisher|pp=78–80}}。彼は南極から戻った最初の重要人物として、引っ張りだこになった。特に海軍は「ディスカバリー号」救出計画について彼の助言を望んだ{{Sfn|Huntford|pp=119–20}}。クレメンツ・マーカム卿の賛同を得て、第二の「ディスカバリー号」救出作戦、「テラノヴァ号」の一隊を支援する臨時ポストに就いたが、一等航海士として同船に乗船する提案は断った。また、船が座礁した{{仮リンク|オットー・ノルデンショルド|en|Otto Nordenskjold}}指揮の{{仮リンク|スウェーデン南極探検隊|en|Swedish Antarctic Expedition}}救出に向けて準備中であった{{仮リンク|ARA ウルグアイ|en|ARA Uruguay|label=アルゼンチンのコルベット「ウルグアイ」}}を手伝った{{Sfn|Fisher|pp=78–80}}。シャクルトンは、より安定した職を求めてイギリス海軍に補充者リストという裏口ルートで正規任務に応募したが{{Sfn|Huntford|p=123}}、[[王立協会]]の会長であるマーカムの支援に関わらず、職を得ることはできなかった{{Sfn|Fisher|pp=78–80}}。代わりにジャーナリストとなり「{{仮リンク|ローヤル・マガジン|en|Royal Magazine}}」で働いたが、この仕事に不満であった{{Sfn|Huntford|pp=124–28}}。その後{{仮リンク|王立スコットランド地理協会|en|Royal Scottish Geographical Society}}の理事に応募し、1904年1月11日にその職に就いた{{Sfn|Huntford|pp=124–28}}。1904年4月9日に裕福な弁護士の娘{{sfn|アレクサンダー|p=21}}、エミリー・ドーマン(Emily Dorman)と結婚し、3人の子供:レイモンド、セシリー、エドワードを儲けた。 |
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1905年、シャクルトンはロシア軍を極東から本国へ輸送することを目論んだ投機的会社へ出資した。妻エミリーに「契約は間違いない」と保証したにもかかわらず、何も得るものはなかった{{Sfn|Fisher|pp=97–98}}。また政界にも飛び込み、アイルランド自治法に反対して[[1906年イギリス総選挙]]に[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]]の候補として{{仮リンク|ダンディー (イギリスの選挙区)|en|Dundee (UK Parliament constituency)|label=ダンディー}}選挙区から出馬したが落選した{{Efn|name=candidate}}{{Sfn|Morrell & Capparell | p=32}}。その間に、クライド地方の富裕な実業家の{{仮リンク|ウィリアム・ベアードモア|en|William Beardmore}}(後のインヴァーネアルン卿)の下、顧客になりそうな人物の面接やベアードモアのビジネス上の友人たちを楽しませる仕事をした{{Sfn|Fisher|p=99}}。しかしシャクルトンは、もうこのときには遠征隊の隊長として南極へ向かう大望を隠そうとはしていなかった。 |
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ベアードモアは資金支援を申し出てシャクルトンを感動させた{{Efn|name=Beardmore's support}}{{Sfn|Riffenburgh|2005|p=106}}。しかし他の寄付を集めるのは難しかった。それにもかかわらず、シャクルトンは王立地理学会に南極遠征計画を発表。[[ニムロド遠征]]という名の遠征の詳細は王立協会の会報『''Geographic Journal''』に掲載された{{Sfn|Mill | pp=24, 72–80, 104–115, 150}}。この遠征は、南極点と[[南磁極]]、両方の征服を目標としていた。シャクルトンは裕福な友人たちや寄付してくれる知人を精力的に説得した。その中には、ニムロド遠征への参加を求め2,000ポンド(2011年の価値で157,000ポンド)を寄付したサー・{{仮リンク|フィリップ・リー・ブロックルハースト|en|Philip Lee Brocklehurst}}{{Sfn|Measuring Worth}}{{Sfn|Riffenburgh|2005|p=108}}、作家のキャンベル・マッケラー(Campbell Mackellar)、ニムロド号が出発する2週間以内になって寄付した[[ギネス]]男爵{{仮リンク|イーバー卿|en|Lord Iveagh}}がいた{{Sfn|Riffenburgh|2005|p=130}}。1907年8月4日には、第4等[[ロイヤル・ヴィクトリア勲章]](MVO、現在のルテナント)を授与された<ref>{{LondonGazette|issue=28049|supp=|startpage=5447|date=9 August 1907|accessdate=10 October 2015}}</ref>。 |
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== 1907-09年、「ニムロド遠征」 == |
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{{Main|ニムロド遠征}} |
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[[ファイル:TheSouthernParty.jpg|thumb|left|[[ニムロド遠征]]の南極点パーティ(左から右へ){{仮リンク|フランク・ワイルド|en|Frank Wild|label=ワイルド}}、シャクルトン、{{仮リンク|エリック・マーシャルEric Marshall|en|Eric Marshall|label=マーシャル}}、{{仮リンク|ジェームソン・アダムズ|en|Jameson Adams|label=アダムズ}}。]] |
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1908年1月1日、「[[ニムロド遠征|ニムロド号]]」はニュージーランドの{{仮リンク|リッテルトン港|en|Lyttelton Harbour}}から南極へ向けて出航した。 シャクルトンの当初の計画は、マクマード湾にある「ディスカバリー遠征」の元基地を使用し、南極点と南磁極を目指すものであった{{Sfn|Riffenburgh|2005|p=108}}。しかしイギリス出発前に、マクマード一帯は自分の縄張りであると主張するスコットから、そこに基地を作らないという約束をするよう圧力をかけられていた。シャクルトンは[[クジラ湾|バリア・インレット]](1902年にディスカバリー号が立ち寄っていた)か[[エドワード7世半島]]で冬営地を探すことに渋々同意した{{Sfn|Riffenburgh|2005|pp=110–16}}。 |
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石炭を温存するため、シャクルトンがニュージーランド政府とユニオン汽船会社(Union Steamship Company)に費用負担を了解させた後、南極に向けて{{Convert|1650|mi|km|0}}を蒸気船「クーニャ号(Koonya)」に曳航させた{{Sfn|Riffenburgh|2005|pp=143–44}}。スコットとの約束に従ってロス棚氷の東部へ向かい、1908年1月21日に到着した。バリア・インレットは大きな湾を形成するように広がっており、数百頭のクジラがいたことから、すぐに[[クジラ湾]]と名付けられた。そこの氷は崩れそうな状態であり、安全な基地を設営するのは不可能であった。さらにエドワード7世半島で投錨地を探したが同様に無理だと判ったことから、シャクルトンはスコットとの約束を破りマクマード湾へ向かうことを余儀なくされた。この決断は、2等航海士のアーサー・ハーボード(Arthur Harbord)によれば、氷圧の困難さ、石炭の不足、近くには他に既知の基地がないことを踏まえた「常識に従った」ものであった{{Sfn|Riffenburgh|2005|pp=151–53}}。 |
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ニムロド号は1月29日にマクマード湾に到着したが、{{仮リンク|ハット・ポイント|en|Hut Point}}にあるディスカバリー遠征の元基地から北{{Convert|16|mi|km}}の地点で氷のため進めなくなった{{Sfn|Riffenburgh|2005|pp=157–67}}。結局、悪天候による遅れの後、シャクルトンはハット・ポイントの北約{{Convert|24|mi|km|0}}にある{{仮リンク|ロイド岬|en|Cape Royds}}に基地を作った。困難な状況にあったが隊の士気は高かった。シャクルトンのコミュニケーション能力が、隊を楽しく、まとまった状態に保ち続けた{{Sfn|Riffenburgh|2005|pp=185–86}}。 |
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{{仮リンク|フランク・ワイルド|en|Frank Wild}}が名付けた「偉大な南への旅(Great Southern Journey){{Sfn|Mills|p=72}}」は、1908年10月29日に開始された。1909年1月9日、シャクルトンと3名の隊員(ワイルド、{{仮リンク|エリック・マーシャル|en|Eric Marshall}}、{{仮リンク|ジェイムソン・アダムズ|en|Jameson Adams}})が南極点から{{Convert|112|mi|km|0}}{{Efn|name=distance from pole}}しか離れていない南緯88°23'に到達し、[[最南端到達の歴史|最南端到達記録]]を更新した。南極点へ向かう途中でパーティは[[ベアードモア氷河]](シャクルトンのスポンサーから名付けた)を発見し{{Sfn|Mills|pp=82–86}}、南極点高地を初めて見、踏破した最初の人物となった{{Sfn|Mills|p=90}}。彼らのマクマード湾への帰路は、かなりの間、半分の食糧しかなく餓死との競争になった。あるときシャクルトンはその日の割り当ての1枚のビスケットを病気のフランク・ワイルドへ与えた。ワイルドは日記にこう書いた「世界中の金を積んでも、そのビスケットと換えることはできない。そして私はこの自己犠牲を決して忘れない」{{Sfn|Mills|p=108}}。彼らは帰りの船に間に合うギリギリのタイミングでハット・ポイントにたどり着いた。 |
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遠征隊のその他の主な業績には、[[エレバス山]]への初登頂と、南磁極のほぼ正確な位置を発見し{{仮リンク|エッジワース・デービッド|en|Edgeworth David}}、[[ダグラス・モーソン]]、{{仮リンク|アリステア・マッケイ|en|Alistair Mackay}}が1909年1月16日に到達したこともある{{Sfn|Riffenburgh|2005|p=244}}。シャクルトンはヒーローとしてイギリスへ帰国し、間もなく探検の記録『''Heart of the Antarctic''』を出版した。エミリー・シャクルトンは後にこう記している「南極点へたどり着かなかったことについて、彼は『生きているロバのほうが死んだライオンより良いじゃないか?』と言ったので『そうよ、私にとってはね』と答えたわ。{{Sfn|Huntford|p=300}}」。 |
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1910年に、シャクルトンはエジソン[[蓄音機]]を使って、遠征について語った3本のレコードを制作した{{Sfn|''My South Polar Expedition''}}。 |
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1909年に残していったほとんど手つかずのウイスキーとブランデーの箱が、醸造会社の分析のため、2010年に回収された。そして、その銘柄「マッキンレー」の酒質を再現したウイスキーが、売上の一部を酒を発見した{{仮リンク|南極歴史遺産トラスト (ニュージーランド)|en|Antarctic Heritage Trust (New Zealand)|label=ニュージーランド南極歴史遺産トラスト}}の活動に役立てるために限定販売された{{Sfn|USA Today, ''century-old whisky''}}{{Sfn|AP, ''century-old scotch''}}{{Sfn|BBC News, ''Whisky recreated''}}<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/articles/-/2794453|title=100年前の「南極ウイスキー」を再現、5万本を限定販売|publisher=AFP|accessdate=2016-04-17}}</ref>。 |
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== 1909–14年、2つの遠征の合間 == |
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[[ファイル:Shackleton-tour.jpg|thumb|upright|シャクルトンは大々的に講演旅行を行い、自分の極地探検のほかスコットや[[ロアール・アムンセン]]の話をした。]] |
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=== 大衆の英雄 === |
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[[ファイル:Ernest Shackleton Vanity Fair 1909-10-06.jpg|upright|thumb|1909年、[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]に掲載されたKITE作のシャクルトンの風刺画。]] |
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シャクルトンが帰国すると、すぐに公的な表彰が行われた。エドワード7世は7月10日に彼を接見し、[[ロイヤル・ヴィクトリア勲章]]コマンダー(CVO)を授与した{{Sfn|Fisher|p=263}}<ref>{{LondonGazette|issue=28271|supp=|startpage=5461|date=16 July 1909|accessdate=10 October 2015}}</ref>。そして11月の国王誕生記念叙勲で{{仮リンク|下級勲爵士|en|Knight Bachelor|label=ナイト}}に叙し、サー・アーネスト・シャクルトンとなった{{Sfn|Fisher|p=272}}<ref>{{LondonGazette|issue=28321|supp=|startpage=9763|date=24 December 1909|accessdate=10 October 2015}}</ref>。王立地理協会からも表彰され、ゴールドメダルを授与された。なお、スコットが以前授与されたメダルより小さいものとするという提案は却下された{{Sfn|Fisher|p=251}}。11月23日にはニムロド遠征で上陸した隊員全員に銀の極地メダルが、シャクルトンにはメダルに付ける留め金が授与された{{Sfn|Fisher|p=272}}<ref>{{LondonGazette|issue=28311|supp=|startpage=8665|date=23 November 1909|accessdate=10 October 2015}}</ref>。また、シャクルトンはイギリスの船乗りにとって大きな名誉である、[[トリニティ・ハウス]]のYounger Brotherに任命された{{Sfn|Fisher|p=263}}。 |
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シャクルトンの偉業は、公的な表彰のほか、熱狂をもって歓迎された。王立地理学会では昼食会でシャクルトンを讃えて乾杯が行われ、前[[大法官]]の{{仮リンク|ハーディンジ・ジファード、初代ホールズベリー伯|en|Hardinge Giffard, 1st Earl of Halsbury|label=ホールズベリー卿}}は、「彼が成し遂げたことを思い出すとき、イギリス民族が退廃していると思われているとは信じない。我々が勇気と忍耐を称賛する心を失ったとは信じない。」と述べた{{Sfn|Huntford|pp=298–99}}。アイルランドでもヒーローとなった。ダブリンの『''Evening Telegraph''』は「アイルランド人が南極点をほとんど征服」という見出しをつけ、『''Dublin Express''』は「アイルランド人としてのシャクルトンの資質」について論じた{{Sfn|Huntford|pp=298–99}}。探検家仲間もシャクルトンを称賛した。[[ロアール・アムンセン]]は王立地理学会の事務局長{{仮リンク|ジョン・スコット・ケルティー|en|John Scott Keltie}}への手紙の中で「イギリスは、シャクルトンのこの偉業により、決して超えることのできない勝利を得た。」と記した{{Sfn|Fisher|pp=242–43}}。[[フリチョフ・ナンセン]]はエミリー・シャクルトンへ感情あふれた私的な手紙を送り、「すべての点で完璧な成功を納めた並ぶもののない遠征」を褒めたたえた{{Sfn|Fisher|pp=242–43}}。しかし現実では、シャクルトンは遠征費用で大きな負債を抱え、支援者へ報酬を支払うことができない状態にあった。彼の努力にかかわらず、最も催促された債務を返済するために補助金で2万ポンド(2008年の価値で150万ポンド)の政府の支援が必要だった。おそらく多くの債務は催促されず、帳消しにもならなかったとみられる。 |
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=== 雌伏の時代 === |
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シャクルトンは、帰国直後、公式行事への出席や講演、社会参加といった忙しいスケジュールをこなした。そして名声を活かして事業で一財産築こうとした{{Sfn|Fisher|pp=284–85}}。彼が立ち上げようとした事業には、タバコ会社{{Sfn|Huntford|pp=351–52}}や、「エドワード7世半島」と重ね刷りされた切手のコレクターへの販売計画(シャクルトンがニュージーランド政府から南極の郵便局長に任命されていたことに基づく){{Sfn|Huntford|p=312}}、現在は[[ルーマニア]]の一部である、ハンガリーの[[バヤ・マレ|ナジバーニャ]]近くで利権を獲得した鉱山の開発などがある{{Sfn|Huntford|pp=323–26}}。しかしこれらの投資はいずれも失敗し、主な収入源は講演旅行の報酬であった。彼は1910年9月に家族とともにノーフォークの{{仮リンク|シェリンガム|en|Sheringham}}へ引越し、エミリーへ「私はもう決して南へは行きません。心からそう考えており今や自分の居場所は我が家です。」と書いていたにも関わらず、再び南へ向かうことを心に抱いていた{{Sfn|Fisher|pp=284–85}}。シャクルトンは、ダスラス・モーソンと{{仮リンク|アダレ岬|en|Cape Adare}}と{{仮リンク|ガウスベルク|en|Gaussberg}}の間の南極海岸の科学探検について議論し、これを1910年2月に王立地理学会へ書き送っていた{{Efn|name=Mawson's expedition}}{{Sfn|Riffenburgh|2005|p=298}}。 |
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シャクルトンが南極点への遠征を再開するか否かは、1910年7月にカーディフを出発したスコット率いる[[テラノバ遠征]]の結果次第だった。1912年春までには南極点がノルウェー人の[[ロアール・アムンセン]]に征服されたことが判明したが、スコットの遠征隊は消息不明であった。シャクルトンは、スコットランド人の探検家[[ウィリアム・スペアズ・ブルース]]が発表した後に中止した、[[ウェッデル海]]から上陸し南極点を経てマクマード湾へ南極を横断する計画に関心を向けた。資金調達に失敗していたブルースは、シャクルトンが彼の計画を採用することを喜んだ{{Sfn|Huntford|p=367}}。ドイツ人探検家[[ヴィルヘルム・フィルヒナー]]も同様の計画を立て、1911年5月に[[ブレーマーハーフェン]]を出発したが、1912年12月に彼の遠征が失敗したニュースがサウスジョージア島から届いた{{Efn|name=Filchner's expedition}}{{Sfn|Huntford|p=367}}。シャクルトンが残されている「最も偉大な極地の旅」と評した南極大陸横断を実行する番となった{{Sfn|Shackleton, ''South'' | loc=preface, pp. xii–xv}}。 |
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== 1914-17年、「帝国南極横断探検隊」 == |
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{{Main|帝国南極横断探検隊|ロス海支隊|List of personnel of the Imperial Trans-Antarctic Expedition}} |
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[[ファイル:Shackleton Endurance Aurora map2.png|thumb|280px|アーネスト・シャクルトン率いる1914-15年南極横断探検における、「{{仮リンク|エンデュアランス号 (1912年建造の船)|en|Endurance (1912 ship)|label=エンデュアランス号}}」、「[[ジェイムズ・ケアード号の航海|ジェイムズ・ケアード号]]」、「{{仮リンク|SY オーロラ|en|SY Aurora|label=オーロラ号}}」の航路と[[ロス海支隊]]の陸上補給路、[[ウェッデル海]]本隊の大陸横断計画ルートの地図:{{Legend|red|エンデュアランス号の航路}}{{Legend|yellow|氷に囲まれたエンデュアランス号の漂流}}{{Legend|green|エンデュアランス号沈没後の氷上漂流}}{{Legend|blue|ジェイムズ・ケアード号の航路}}{{Legend|turquoise|南極大陸横断の計画ルート}}{{Legend|orange|オーロラ号の南極への航路}}{{Legend|pink|オーロラ号の退路}}{{Legend|brown|補給基地へのルート}}]] |
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=== 準備 === |
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シャクルトンは1914年始め、壮大に「帝国南極大陸横断遠征」と名付けた新たな遠征の詳細を公表した。船2隻を使用し、「{{仮リンク|エンデュアランス (1912年建造の船)|en|Endurance (1912 ship)|label=エンデュアランス号}}」がウェッデル海のヴァーゼル湾へ本隊を運び、そこからシャクルトン率いる6名のチームが大陸横断を開始する。一方、第2船の「{{仮リンク|SY オーロラ|en|SY Aurora|label=オーロラ号}}」は[[イニーアス・マッキントッシュ]]率いる支援隊を大陸の反対側のマクマード湾へ運ぶ。この支隊はベアードモア氷河までロス棚氷を越えた地点に、シャクルトンの隊が{{Convert|1800|mi|km}}の大陸横断の旅が完了できるよう食糧と燃料を備蓄した補給基地を設置する予定であった{{Sfn|Shackleton, ''South'' | loc=preface, pp. xii–xv}}。 |
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シャクルトンは資金集めに相当なスキルを使った。イギリス政府が10,000ポンド(2008年の価値で68万ポンド)出したにもかかわらず、広く一般からの寄付を集めた。スコットランドの{{仮リンク|ジュート<!-- リダイレクト先の「[[コウマ]]」は、[[:en:Corchorus capsularis]] とリンク -->|en|jute|FIXME=1}}業界の大物{{仮リンク|サー・ジェームズ・ケアード|en|Sir James Key Caird}}が24,000ポンド、ミッドランドの実業家{{仮リンク|フランク・ダドリー・ドッカー|en|Frank Dudley Docker}}が10,000ポンド、タバコ王の娘{{仮リンク|ジャネット・スタンコム=ウィルス|en|Janet Stancomb-Wills}}が額は明かされていないが「気前よく(generous)」金を出した{{Sfn|Huntford|pp=375–77}}。遠征に対する大衆の関心は相当なものであり、5,000人以上が参加を志願した{{Sfn|Fisher|p=308}}。シャクルトンの面接と選抜基準は少々風変りに見えるものであった。キャラクターと気性は専門技術と同じく重要であると信じており{{Sfn|Huntford|p=386}}、変わった質問を行った。自然科学者のレジナルド・ジェームズ(Reginald James)は歌ができるか尋ねられた{{Sfn|Fisher|p=312}}。他の応募者ではシャクルトンが外見を気にいったとか、短い質問だけで合格した者もいた{{Sfn|Fisher|pp=311–315}}。また古臭い階級制度を取り払い、科学者を含む全員が船の雑用を分け合うことを期待した。最終的に{{仮リンク|帝国南極横断探検隊の隊員一覧|en|Personnel of the Imperial Trans-Antarctic Expedition|label=56人の隊員}}を選び、各船に28人ずつ割り振った{{Sfn|Alexander|p=16}}。 |
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1914年8月3日に第一次世界大戦が勃発したにも関わらず、エンデュアランス号の遠征は、[[ウィンストン・チャーチル]]{{仮リンク|海軍大臣 (イギリス)|en|First Lord of the Admiralty|label=海軍大臣}}から「続行」するよう命じられ{{Efn|name=Churchill, Proceed}}、8月8日にイギリスを出発した。シャクルトンは9月27日まで出発が遅れたが、[[ブエノスアイレス]]で船に合流した{{Sfn|Fisher|pp=324–25}}。 |
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=== 隊員 === |
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シャクルトンは遠征に際し、[[フランク・ワースリー]]をエンデュアランス号の船長とし、{{仮リンク|ジョセフ・ステンハウス|en|Joseph Stenhouse}}をオーロラ号の船長とした。 |
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エンデュアランス号では、副隊長に経験豊かな探検家であるフランク・ワイルドが就いた。気象学者{{仮リンク|レオナルド・ハッセー|en|Leonard Hussey}}(バンジョーを弾くことができた)、科学スタッフとして{{仮リンク|ジェームズ・マキロイ (外科医)|en|James McIlroy (surgeon)|label=ジェームズ・マキロイ}}、{{仮リンク|ジェームズ・ワーディー|en|James Wordie}}がいた。2人の外科医のうち{{仮リンク|アレクサンダー・マクリン|en|Alexander Macklin}}は70頭のイヌの健康管理も担当した。[[トム・クリーン]]はすぐにイヌの訓練の主担当となった。その他の隊員は、{{仮リンク|レジナルド・ジェームズ|en|Reginald W. James}}、{{仮リンク|ライオネル・グリーンストリート|en|Lionel Greenstreet}}、生物学者の{{仮リンク|ロバート・クラーク (動物学者)|en|Robert Clark (zoologist)|label=ロバート・クラーク}}らであり、後に名声を得る写真家{{仮リンク|フランク・ハーレー|en|Frank Hurley}}が乗船した。 |
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名前が知られている犬は以下の通り。ラグビー(Rugby)、アプトン・ブリストル(Upton Bristol)、ミルヒル(Millhill)、ソングスター(Songster)、サンディ(Sandy)、マック(Mack)、マーキュリー(Mercury)、ウォルフ(Wolf)、アムンセン(Amundsen)、ハーキュリーズ(Hercules)、ハッケンシュミット(Hackenschmidt)、サムソン(Samson)、サミー(Sammy)、スキッパー(Skipper)、カルーソ(Caruso)、サブ(Sub)、ユリシーズ(Ulysses)、スポッティ(Spotty)、ボースン(Bosun)、スロバース(Slobbers)、セイディ(Sadie)、スー(Sue)、サリー(Sally)、ジャスパー(Jasper)、ティム(Tim)、スウィープ(Sweep)、マーチン(Martin)、スプリットリップ(Splitlip)、ルーク(Luke)、セイント(Saint)、サタン(Satan)、チップス(Chips)、スタンプス(Stumps)、スナッパー(Snapper)、ペインフル(Painful)、ボブ(Bob)、スノウボール(Snowball)、ジェリー(Jerry)、ジャッジ(Judge)、スーティ(Sooty)、ルーファス(Rufus)、サイドライツ(Sidelights)、シメオン(Simeon)、スワンカー(Swanker)、チャーグウィン(Chirgwin)、スチーマー(Steamer)、ピーター(Peter)、フラフィ(Fluffy)、スチュワード(Steward)、スリッパリー(Slippery)、エリオット(Elliott)、ロイ(Roy)、ノエル(Noel)、シェークスピア(Shakespeare)、ジェイミー(Jamie)、バマー(Bummer)、スマッツ(Smuts)、ルポイド(Lupoid)、スパイダー(Spider)、セーラー(Sailor)である{{Sfn|Shackleton, ''South''|p=14-15}}。 |
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=== エンデュアランス号の喪失 === |
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エンデュアランス号は12月5日にウェッデル海へ向けてサウスジョージアを出発し、ヴァーゼル湾へ進路を向けた。船が南へ進むと流氷に遭遇し進みが遅れた。ウェッデル湾の奥に入ると状況は徐々に悪化し、1915年1月19日にエンデュアランス号は[[流氷]]に囲まれた{{Sfn|Shackleton, ''South''|pp=29–30}}。2月24日には、翌春になるまで閉じ込められたままとなることを認め、シャクルトンは船の日常業務を中止して越冬基地とすることを命じた{{Sfn|Shackleton, ''South''|p=36}}。船は続く数ヶ月、氷とともにゆっくりと北へ流された。9月に春が到来すると、割れた氷が動き船体に強い圧力をかけた{{Sfn|Shackleton, ''South''|pp=63–66}}。 |
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[[ファイル:Shackletonold.jpg|thumb|left|upright|エンデュアランス号喪失後のシャクルトン]] |
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このときまで、シャクルトンは船が氷から解放され、ヴァーゼル海へ戻ることが可能になることを期待していた。しかし10月24日、海水が浸み込み始めた。数日後、南緯69°5'、西経51°30'の地点で船を放棄する命令を下した。そして隊員と食糧、装備を氷の上のキャンプへ移した{{Sfn|Shackleton, ''South''|pp=75–76}}。1915年11月21日、船の残骸が完全に氷の下へ沈んだ{{Sfn|Shackleton, ''South''|p=98}}。 |
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ほぼ2か月間、シャクルトンと隊員は大きな浮氷の上でキャンプし、貯蔵品があることが判っている約{{Convert|250|mi|km|0}}離れた[[ポーレット島]]へ流されることを願っていた{{Sfn|Shackleton, ''South''|p=100}}。氷を越えてこの島へ向かう試みに失敗した後、シャクルトンは別の浮氷の上により恒久的なキャンプ(ペイシャンス・キャンプ(Patience Camp))を設置し、氷が彼らを安全な陸地へ運ぶことに期待することにした。4月9日、浮氷が二つに割れたことから、シャクルトンは隊員に救命艇へ移り、一番近い陸地へ向かうことを命じた{{Sfn|Shackleton, ''South''|pp=121–22}}。海上で5日間苦闘した後、疲弊した彼らはエンデュアランス号が沈没した地点から{{Convert|346|mi}}離れた[[エレファント島]]に上陸した{{Sfn|Shackleton, ''South'' (film)}}。シャクルトンは隊員のことを気にかけており、救命艇の航海中に手袋を無くした写真家の{{仮リンク|フランク・ハーレー|en|Frank Hurley}}に自分の手袋を与えた。その結果、シャクルトンの指が凍傷になった{{Sfn|Perkins|p=36}}。 |
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=== 救命ボートの航海 === |
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{{Main|ジェイムズ・ケアード号の航海}} |
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[[ファイル:LaunchingTheJamesCaird2.jpg|thumb|1916年4月24日、[[ジェイムズ・ケアード号の航海|ジェイムズ・ケアード号]]の[[エレファント島]]からの出発。]] |
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[[エレファント島]]は人が住めない土地であり、一般の航路からも遠く離れていた。そのためシャクルトンは、助けが期待できる720海里先の[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスジョージア島]]の捕鯨基地まで、救命ボートで航海するリスクを負うことに決めた{{Sfn|Worsley|pp=95–99}}。航海には、{{Convert|20|ft|m|adj=on}}と小さいが最も頑丈な救命ボート、遠征隊のメインスポンサーにちなみ名付けられた[[ジェイムズ・ケアード号の航海|ジェイムズ・ケアード号]]を選んだ{{Sfn|Worsley|pp=95–99}}。船大工の[[ハリー・マクニッシュ]]が、へりを引き上げ、竜骨を強化、木と帆布で間に合わせの甲板を作り、塗料とseal bloodで穴をふさいだ{{Sfn|Worsley|pp=95–99}}。シャクルトンは航海に5人の隊員を選んだ。エンデュアランス号の船長で航海術が信頼できる[[フランク・ワースリー]]、「同行を懇願した」[[トム・クリーン]]、強靭な2人の船員{{仮リンク|ジョン・ビンセント (船員)|en|John Vincent (sailor)|label=ジョン・ビンセント}}と{{仮リンク|ティモシー・マッカーシー (船員)|en|Timothy McCarthy (sailor)|label=ティモシー・マッカーシー}}、そして船大工のマクニシュである{{Sfn|Worsley|pp=95–99}}。シャクルトンは隊が氷の上で立ち往生している時にマクニシュと対立していた。しかし先の彼の反抗を忘れていなかったものの、専門的な仕事における彼の能力は評価していた{{Efn|name=McNish's 'mutiny'}}{{Sfn|Huntford|p=475}}{{Sfn|Huntford|p=656}}。 |
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シャクルトンは食糧は4週間分で十分と判断していた。というのも、それまでにサウスジョージア島に着かなければ、ボートも人間も海の藻屑になるだろうと判っていたからだった{{Sfn|Alexander|p=137}}。ジェームズ・ケアード号は1916年4月24日に出発した。続く15日間、嵐の海のなすがままに転覆の危険に襲われながら、南の海を航海した。5月8日、ワースリーの航海術のおかげでサウスジョージア島の断崖が視界に入ったが、暴風が上陸を妨げた。岩に激突する危険を避けるため、船は沖合で嵐を乗り切ることを余儀なくされた。なおこの嵐ではサウスジョージア島からブエノスアイレスへ向かっていた500トンの蒸気船が沈没していた{{Sfn|Worsley|p=162}}。翌日、ついに無人の南岸に上陸することができた。少しの休息の後、シャクルトンは再び海に出て北岸の捕鯨基地を目指す危険を冒すのではなく、島の陸地横断を試みることを決断した。ノルウェーの捕鯨者が他の地点をスキーで横断したことはあったようだが、このルートを試した者は過去にはいなかった{{Sfn|Huntford|p=574}}。上陸地点にマクニッシュ、ヴィンセント、マッカーシーを残して、シャクルトン、ワースリー、クリーンは{{Convert|32|mi|km}}を36時間かけて歩き山岳地帯を越え、5月20日に{{仮リンク|ストロムネス (サウスジョージア島)|en|Stromness (South Georgia)|label=ストロムネス}}の捕鯨基地にたどり着いた{{Sfn|Worsley|pp=211–12}}。 |
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彼らの次にサウスジョージア島の横断に成功したのは、1955年10月のイギリスの探検家{{仮リンク|ダンカン・カース|en|Duncan Carse}}であり、シャクルトンらと同じルートをたどった。彼らの偉業を称賛して、カースは「私には彼らがどのようにしてこれを成し遂げたのかわからない、やらねばならなかったとしても-50フィートのロープと大工の手斧を持った南極探検の英雄時代の3人の男たちが。」と述べている{{Sfn|Fisher|p=386}} |
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=== 救出 === |
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[[ファイル:AllSafeAllWell.jpg|thumb|「All Safe, All Well」。1916年8月にシャクルトンがエレファント島に戻って来た時の写真とされるが、写真家の{{仮リンク|フランク・ハーレー|en|Frank Hurley}}が4月のジェームズ・ケアード号出発時の写真を加工したものである{{Sfn|Alexander|pp=202–03}}。]] |
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シャクルトンはすぐに船を送りサウスジョージア島の反対側にいる3人を救出した。その一方でエレファント島の隊員の救出隊を組織し始めた。救出の最初の3回の試みは島への接近を遮る海氷のため失敗した。彼はチリ政府と交渉し遠洋航海可能な小型タグボート「{{仮リンク|Luis Pardo#Rescue of the Shackleton expedition|en|Luis Pardo#Rescue of the Shackleton expedition|label=イエルコ号}}」を海軍から借りてエレファント島へ向かい、1916年8月30日に、4か月半孤立していた22人の隊員全員を救出した{{Sfn|アレグザンダー|pp=285,309-312}}。イエルコ号はまずチリの[[プンタ・アレーナス]]へ、数日後[[バルパライソ]]へ向かい、文明社会へ帰還した隊員たちは同地の群衆により温かく歓迎された{{Sfn|アレグザンダー|pp=319}}。 |
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まだ、オーロラ号が投錨地から風に流され戻ることができなくなった後、マクマード湾の{{仮リンク|エバンス岬|en|Cape Evans}}に取り残されていた[[ロス海支隊]]の隊員がいた。オーロラ号は数か月の漂流の後、ニュージーランドに帰還した。シャクルトンはオーロラ号に合流し、ロス海支隊の救出に向かった。この支隊は多くの困難にかかわらず補給基地を作る任務を完遂していたが、隊長の[[イニーアス・マッキントッシュ]]を含む3人が命を落とした{{Sfn|Huntford|pp=634–41}}。 |
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== 第一次世界大戦 == |
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シャクルトンがイギリスへ帰った1917年5月、ヨーロッパは[[第一次世界大戦]]の真っ只中であった。困難な旅による疲労で悪化した心臓の状態に悩み、かつ招集されるには年をとり過ぎていたが、シャクルトンは陸軍に志願した。何度もフランスの前線への配属を求めつつ{{Sfn|Huntford|p=649}}、酒浸りになっていた{{Sfn|Alexander|p=192}}{{Sfn|Huntford|p=653}}。自宅にほとんど戻らず、しばしばロンドンにいたアメリカ人の愛人ロザリンド・チェストウィンドと過ごしていた{{sfn|アレグザンダー|p=323}}。1917年10月、元海軍大臣のサー・エドワード・カーソンのとりなしで{{sfn|アレグザンダー|p=323}}南米でイギリスの宣伝活動を行うため[[ブエノスアイレス]]へ派遣された。しかし外交官には不向きで、アルゼンチンとチリを説得し連合国に参戦させることに失敗した{{Sfn|Huntford|pp=658–59}}。1918年4月に帰国。同年7月22日、臨時陸軍将校の少佐に任命された<ref>{{LondonGazette|issue=30920|supp=yes|startpage=11408|date=24 September 1918|accessdate=10 October 2015}}</ref>。 |
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それからシャクルトンは、採掘作業を建前として[[スヴァールバル諸島|スピッツベルゲン]]にイギリスの影響力を確立する任務に少しの間かかわった{{Sfn|Huntford|pp=661–63}}。現地へ向かう途中、[[トロムソ]]で病気、おそらくは心臓発作になった。[[ムルマンスク]]への遠征部隊への辞令により、ロシア北部へ出発する前に帰国を余儀なくされた{{Sfn|Huntford|pp=661–63}}。 |
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== ロシア内戦での連合軍遠征部隊への従軍 == |
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1918年11月11日の[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]締結から4か月後、シャクルトンは、ロシア北部の経済発展に関する計画を持ってイギリスへ戻った。1919年4月25日に臨時名誉少佐に任じられ<ref>{{LondonGazette|issue=31326|supp=yes|startpage=5637|date=2 May 1919|accessdate=10 October 2015}}</ref>、 [[エドムンド・アイアンサイド (初代アイアンサイド男爵)|エドムンド・アイアンサイド]]少将(後の元帥)が指揮する、[[ロシア内戦]]における{{仮リンク|北ロシアへの干渉|en|North Russia Intervention|label=北ロシア遠征軍}}に従軍した。「ロシア北部における軍事作戦に関連して行った様々な任務」に対し、1919年の国王誕生記念叙勲で[[大英帝国勲章|大英帝国勲章オフィサー]]を授与され<ref>{{LondonGazette|issue=31376|supp=yes|startpage=6975|date=30 May 1919|accessdate=10 October 2015}}</ref>、アイアンサイド将軍により{{仮リンク|殊勲者公式名簿|en|mentioned in despatches}}にも名前が記載された<ref>{{LondonGazette|issue=31938|supp=yes|startpage=6456|date=8 June 1920|accessdate=10 October 2015}}</ref>。しかし資金を集めている最中に、ロシア北部がボリシェヴィキの支配下となり、シャクルトンの計画はとん挫した{{Sfn|Huntford|pp=671–72}}。シャクルトンは1919年10月に少佐の階級を保持したまま陸軍を除隊した<ref>{{LondonGazette|issue=32261|supp=yes|startpage=2187|date=15 March 1921|accessdate=10 October 2015}}</ref>。 |
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== 最後の遠征と死 == |
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{{Main|シャクルトン=ローウェット遠征}} |
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[[ファイル:Shackleton's Ship Quest 1921.JPG|thumb|ロンドンの[[タワーブリッジ]]を通過する「{{仮リンク|クエスト号|en|Quest (ship)}}」]] |
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[[ファイル:Bits & Pieces - BP348 - Sir Shackleton, UK - 1922 - EYE FLM7657 - OB104897.webm|thumb|シャクルトンの映像]] |
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シャクルトンは{{仮リンク|講演旅行|en|lecture circuit}}に戻り、1919年12月にエンデュアランス遠征についての自書『''South''(エンデュアランス号奇跡の生還)』を出版した{{Sfn|Fisher|pp=439–40}}。本の売れ行きは良かったが、遠征の資金提供者の一人サー・ロバート・ルーカス=トゥースの遺言執行人が返済を求めてきたため、映画化権を含む同書の権利を全て譲渡しており、シャクルトンは印税を一切受け取れなかった{{sfn|アレグザンダー|p=324}}。1920年には講演旅行を辞め、最後の遠征の可能性を考えるようになった。彼は広大な未探検地域である[[北極]]の[[ボーフォート海]]へ行くことを真剣に考え、カナダ政府からの計画に関心を高めた{{Sfn|Fisher|pp=441–46}}。ダリッジ・カレッジ時代の学友の{{仮リンク|ジョン・クウィーラー・ローウェット|en|John Quiller Rowett}}{{sfn|アレグザンダー|p=325}}が出した資金で、125トンのノルウェー建造の捕鯨船「フォカI号(Foca I)」を購入し、「{{仮リンク|クエスト号 (船)|en|Quest (ship)|label=クエスト号}}」と改名した{{Sfn|Fisher|pp=441–46}}{{Sfn|Riffenburgh|2006|p=892}}。計画は変更され、行先は南極となり、シャクルトンは「海洋学と亜南極の探検旅行」と定めた{{Sfn|Fisher|pp=441–46}}。探検のゴールは明確ではなかったが、南極大陸の周航と{{仮リンク|ツアナキ島|en|Tuanaki}}のように「失われた」亜南極の島々の調査も目的として言及していた{{Sfn|Huntford|p=684}}{{Sfn|''The Spokesman-Review'', February 1922}}。 |
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ローウェットは、[[シャクルトン=ローウェット遠征]]と呼ばれるようになる遠征全体の資金を出すことに同意し、遠征隊は1921年9月24日にイギリスを出発した。9月16日にシャクルトンは、{{仮リンク|ハリー・グリンデル・マシューズ|en|Harry Grindell Matthews}}が開発した{{仮リンク|サウンド・オン・フィルム|en|sound-on-film}}で別れの挨拶を記録。マシューズはこれが最初の「トーキー」であると主張していた<ref>{{Cite web|last=Foster|first=Jonathan|url=http://www.harrygrindellmatthews.com/earlywireless.asp|title=Experiments with early wireless|work=The Secret Life of Harry Grindell Matthews|accessdate=9 January 2016}}</ref>。 |
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かつての隊員の何人かはエンデュアランス遠征の給料を全て受け取っていなかったが、彼らの多くが元「ボス」と契約した{{Sfn|Huntford|p=684}}。遠征隊が[[リオデジャネイロ]]に着くと、シャクルトンは心臓発作らしきものに襲われた{{Sfn|Huntford|p=687}}。彼はちゃんとした医師の診察を受けるのを拒み、クエスト号は南へ旅を続け、1922年1月4日に[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスジョージア島]]に到着した{{sfn|アレグザンダー|p=326}}。 |
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[[ファイル:Shackleton Grave SouthGeorgia.jpg|thumb|upright|left|[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島]][[グリトビケン]]にあるシャクルトンの墓]] |
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翌未明、シャクルトンは遠征隊の医師{{仮リンク|アレクサンダー・マクリン|en|Alexander Macklin}}を船室へ呼び、背中の痛みと不快感を訴えた。マクリンの報告によれば、彼はシャクルトンへ物事をやり過ぎるので「もっと普通の生活を過ごすよう」努力すべきだと伝えたところ、シャクルトンは「君は私にいつも何かを止めるように言うが、何を止めるべきだと言うのか?」と尋ねた。マクリンは「真っ先に酒ですよ、ボス」と返した。その数分後、1922年1月5日午前2時50分に、シャクルトンは致命的な心臓発作に襲われた{{Sfn|Fisher|pp=476–78}}。 |
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検死を行ったマクリンは、死因は「衰弱している時に過度のストレスを受けて」悪化した冠状動脈の[[アテローム]]であると診断した{{sfn|アレグザンダー|p=328}}。遺体は、元・帝国南極横断探検隊員の{{仮リンク|レオナルド・ハッセー|en|Leonard Hussey}}がイギリスへ持ち帰ることを申し出た。しかし彼が帰路[[モンテビデオ]]に寄港中、妻のエミリーから夫の遺体をサウスジョージア島に埋葬してほしいとのメッセージを受け取った{{sfn|アレグザンダー|p=328}}。ハッセーは蒸気船{{仮リンク|SS ウッドビル|en|SS Woodville|label=ウッドビル}}で遺体とともにサウスジョージア島へ戻り、1922年3月5日、同島の[[グリトビケン]]墓地に、{{仮リンク|エドワード・ビニー|en|Edward Binnie}}が司祭した{{仮リンク|ノルウェジアン・ルター教会 (サウスジョージア島グリトビケン)|en|Norwegian Lutheran Church (Grytviken, South Georgia)|label=ルター教会}}での短い葬儀の後{{Sfn|Fisher|pp=481–83}}、埋葬された<ref>[http://trove.nla.gov.au/ndp/del/article/45572568 Sir Ernest Shackleton: Funeral Ceremony In South Georgia: Many Wreaths On Coffin], in ''{{仮リンク|the Barrier Miner|en|the Barrier Miner|label=the Barrier Miner}}'' (archived in the {{仮リンク|NLA Trove|en|NLA Trove|label=NLA Trove}}); published May 5, 1922; retrieved June 25, 2014</ref><ref>[https://archive.org/stream/shackletonslastv00wilduoft/shackletonslastv00wilduoft_djvu.txt Shackleton's Last Voyage: the Story of the Quest], by {{仮リンク|Frank Wild|en|Frank Wild|label=Frank Wild}}, published 1923 by {{仮リンク|Cassell (publisher)|en|Cassell (publisher)|label=Cassell}} (via [[インターネット・アーカイブ|archive.org]])</ref>。マクリンは日記にこう記した「文明社会から遠く離れ嵐の海に囲まれた島で一人孤独に、最も偉大な冒険の地で眠ることが『ボス』が望んでいたことだろうと、私は思う」。 |
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2011年11月27日、フランク・ワイルドの遺灰がシャクルトンの墓の右側に埋葬された。その粗削りの花崗岩の碑には「フランク・ワイルド 1873-1939、シャクルトンの右腕」と刻まれた{{Sfn|Telegraph, ''Forgotten hero''}}。 |
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1907-09年の遠征の医師であった{{仮リンク|エリック・マーシャル|en|Eric Marshall}}の日記の研究によれば、シャクルトンは[[先天性心疾患]]の[[心房中隔欠損]](「心臓内に穴がある」)であり、それが彼の健康問題の原因であったかもしれないとほのめかしている<ref>{{Cite news |url=http://www.theguardian.com/world/2016/jan/12/polar-explorer-ernest-shackleton-may-have-had-hole-in-heart-doctors-say |newspaper=[[ガーディアン|The Guardian]] |title=Polar explorer Ernest Shackleton may have had hole in his heart, doctors say |first=Hannah |last=Ellis-Petersen |date=13 January 2016 |accessdate=13 January 2016 }}</ref>。 |
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== 死後 == |
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=== 初期 === |
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シャクルトンの遺体がサウスジョージアに戻る前、[[モンテビデオ]]の聖トリニティ教会で完全な軍隊式の葬儀が行われ、そして3月2日にはロンドンの[[セント・ポール大聖堂]]で国王や他の王族が臨席した葬儀が行われた{{Sfn|Fisher|pp=481–83}}。その後1年経たずして最初の伝記、{{仮リンク|ハグ・ロバート・ミル|en|Hugh Robert Mill}}著『''The Life of Sir Ernest Shackleton''(アーネスト・シャクルトン卿の一生)』が出版された。この本は、探検家への賛辞であるとともに、彼の家族への実質的な支援であった。というのもシャクルトンは死んだとき4万ポンド(2011年の価値で160万ポンド)の負債を抱えていた{{Sfn|Measuring Worth}}{{Sfn|Huntford|p=692}}。さらに、彼の子供の教育と母親の生活支援のためシャクルトン記念基金(Shackleton Memorial Fund)が設立された{{Sfn|Fisher|p=485}}。 |
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[[ファイル:Shackleton.jpg|thumb|upright|[[王立地理学会]]ロンドン本部の外にある、1932年製のサー・アーネスト・シャクルトンの立像。]] |
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続く数十年間、極地の英雄としてのシャクルトンの地位は一般的にスコットより下であった。彼の探検隊は、1925年までにイギリス国内だけで、ステンドグラスや立像、胸像、記念碑など、30以上のモニュメントが造られた{{Sfn|Jones|pp=295–96}}。[[エドウィン・ラッチェンス]]作のシャクルトンの立像が1932年に王立地理学会の[[ケンジントン]]本部で披露された{{Sfn|Fisher|pp=486–87}}が、シャクルトンの公の記念物は比較的少なかった。同様に出版物でもスコットのほうが注目されており、1943年に[[オックスフォード大学出版局]]から「偉大な探検家」シリーズの1つとしてシャクルトンに関する40ページの冊子が出版されたが、文化史家のステファニー・バルチュースキーは「大衆文学でスコットばかり扱われる中でシャクルトンが扱われたただ一つの例」と記している。この不釣り合いは1950年代に入っても続いた{{Sfn|Barczewski|p=209}}。 |
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=== 20世紀後半以降 === |
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1959年にアルフレッド・ランシング著『''Endurance: Shackleton's Incredible Voyage''(エンデュアランス号漂流)』が出版された。これは肯定的な視点でシャクルトンを描いた最初の本である。同じくしてスコットへの態度は徐々に変わり、文学作品の中で批判的記述が増え、バルチュースキーが「痛烈な一撃」と評した、1979年出版の{{仮リンク|ローランド・ハントフォード|en|Roland Huntford}}による伝記『''Scott and Amundsen''』におけるスコットの扱いで頂点に達した{{Sfn|Barczewski|p=282}}。このスコットの負の一面は世間に真実として受け入れられるようになり{{Sfn|Fiennes|p=432}}、彼を象徴していたヒロイズムは20世紀後半の意識変化の犠牲になった{{Sfn|Barczewski|p=282}}。数年のうちにスコットは、かつてのライバルが沈む一方で人気が急上昇したシャクルトンに、世間の尊敬面で完全に逆転された。2002年、BBCは「100人の偉大なイギリス人」を決めるアンケートを行ったが、シャクルトンの11位に対しスコットは54位であった{{Sfn|Barczewski|p=283}}。2007年には、シャクルトンの偉大な精神を体現し、世界をより良く変えようと努めるリーダーたちを支援することでシャクルトンを顕彰する、「シャクルトン財団(Shackleton Foundation)」が設立された<ref>{{cite web|url=http://shackletonfoundation.org/|title=Welcome to the Shackleton Foundation|publisher=Shackleton Foundation|accessdate=2016-04-12}}</ref>。 |
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2001年、マーガレット・モレル(Margaret Morrell)とステファニー・キャパレル(Stephanie Capparell)が『''Shackleton's Way: Leadership Lessons from the Great Antarctic Explorer''(史上最強のリーダー シャクルトン)』の中でシャクルトンを企業のリーダーのモデルとして取り上げた。同書は「シャクルトンは今日のビジネス社会の幹部と重なるところがある。彼の人間中心のリーダーシップへのアプローチは管理職にとってのガイドとなる。」と述べた{{Sfn|Barczewski|p=292}}。すぐに他のビジネス書の作家もこれに続き、シャクルトンを混沌から秩序をもたらす手本として紹介した。イギリス・[[エクセター大学]]のリーダーシップ研究所はシャクルトンに関する講座を設けた。アメリカのボストンでは、「旅が全て(The Journey is Everything)」というモットーを持つ、「[[アウトワード・バウンド]]主義の「シャクルトン学校」が設立された{{Sfn|Barczewski|pp=294–95}}。また、シャクルトンは[[アメリカ海軍]]で模範的リーダーとして名を挙げられ、Congressional leadershipに関する教科書の中で、ピーター・L・ステインク(Peter L Steinke)はシャクルトンを「穏やかで思慮深い態度が反射的行動の危険性を無害化させる」「不安にさせないリーダー」の典型例であると呼んでいる{{Sfn|Barczewski|pp=294–95}}。2001年には、アイルランドのキルデア郡アシーにアシー歴史遺産センター博物館が建設され、シャクルトンを称賛し極点探検の英雄時代を記念して、毎年アーネスト・シャクルトン秋季学校が開催されている<ref>shackletonfoundation.org</ref>。 |
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[[ファイル:The Three Polar Stars, 1913 (8889621500).jpg|thumb|[[ロアール・アムンセン]]、シャクルトン、[[ロバート・ピアリー]]。1913年。]] |
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シャクルトンの死を境に、現代の旅行手段や無線技術なしに未知の大陸を地理的・科学的に探検し発見するという[[南極探検の英雄時代]]は終わりを告げた。テラノバ遠征でスコット隊の一員だった{{仮リンク|アプスレイ・チェリー・ガラード|en|Apsley Cherry-Garrard}}は、1922年に出した『''{{仮リンク|世界最悪の旅|en|The Worst Journey in the World}}''』で、「科学調査と地理調査を組織化するならスコット、冬の冒険ならウィルソン、極点に急いで行って来るだけならアムンセン、地獄から抜け出したいと思うなら断然シャクルトンだ。」と述べている{{Sfn|Wheeler|pp=187}}。 |
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1993年、トレヴァー・ポッツ(Trevor Potts)がシャクルトンに敬意を表して、ジェームズ・ケアード号を復元し、完全な無補給でエレファント島からサウスジョージア島までボートの航海を再現した<ref>{{Cite web|last=Smith|first=K. Annabelle|url=http://www.smithsonianmag.com/history/reliving-shackletons-epic-endurance-expedition-102707360/?c=y%3Fno-ist|title=Reliving Shackleton's Epic Endurance Expedition|work=Smithsonian|date=21 May 2012 |accessdate=9 January 2016}}</ref>。 |
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2002年、[[チャンネル4]]が、[[ケネス・ブラナー]]を主役に1914年の遠征を描いた{{仮リンク|連続番組|en|TV serial}}『{{仮リンク|シャクルトン (テレビ番組)|en|Shackleton (TV serial)|label=シャクルトン}}』を制作した。アメリカでは{{仮リンク|A&E Network|en|A&E Network}}で放送され、2つの[[エミー賞]]を受賞した{{Sfn|Emmys.com, ''Shackleton''}}。2011年には、ロンドンで行われた[[クリスティーズ]]のオークションで、1907-09年のニムロド遠征でシャクルトンが「飢えた同行者」へ与えたビスケットが1250ポンドで落札された{{Sfn|ABC, ''Shackleton's biscuit''}}。2013年1月、イギリスとオーストラリアの合同チームがシャクルトンの1916年の南極海航海の再現を試みた。その航海が祖父の顕彰になると思っていたアーネストの孫アレクサンドラ・シャクルトンの願いに対して集まったチームは、探検家かつ環境科学者の{{仮リンク|ティム・ジャービス|en|Tim Jarvis}}が隊長となった<ref>{{Cite web|last=Marks|first=Kathy|title=Team sets out to recreate Shackleton's epic journey|url=http://www.independent.co.uk/news/world/australasia/team-sets-out-to-replicate-shackletons-epic-journey-8436009.html|publisher=''[[インデペンデント]]''|date=2 January 2013|accessdate=2 January 2013}}</ref>。2015年10月には、シャクルトンの勲章とメダルがオークションにかけられ、585,000ポンドまで値が吊り上がった<ref name="auto">{{Cite web|last=|first=|title=Sir Ernest Shackleton medals raise £585,000 at auction|url=http://www.bbc.com/news/uk-34482326|publisher=''[[英国放送協会|BBC]]''|date=8 October 2015|accessdate=10 October 2015}}</ref>。 |
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イギリスの商船員訓練学校である[[サウサンプトン]]の{{仮リンク|ワーサッシュ商船学校|en|Warsash Maritime Academy}}は、生徒寮の一つに |
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シャクルトンの名前を付けている<ref>{{Cite web|title=Cadet Accommodation on Campus|url=http://www.warsashacademy.co.uk/facilities/campus-facilities/accommodation/the-residences/cadet-accommodation-on-campus.aspx|publisher=Warsash Maritime Academy|accessdate=2016-04-09 }}</ref>。 |
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== 表彰および勲章 == |
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=== イギリスの勲章 === |
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* 極地メダル(1904年。ニムロド遠征により1909年に留め金を授与) |
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* {{仮リンク|下級勲爵士|en|Knight Bachelor}}(1909年) |
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* [[ロイヤル・ヴィクトリア勲章]]コマンダー(CVO、1909年。1907年にメンバー章(MVO)を受勲) |
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* [[大英帝国勲章]]オフィサー、軍事部門 (OBE, 1918) |
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* {{仮リンク|英国従軍記章|en|British War Medal}}(1918年) |
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* {{仮リンク|第一次大戦勝利メダル|en|Allied Victory Medal}}(1918年。MID) |
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<ref name="auto"/> |
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=== 他国の勲章 === |
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* デンマーク - [[ダンネブロ勲章]]ナイト(1909年) |
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* スウェーデン - {{仮リンク|北極星勲章|en|Order of the Polar Star}}ナイト (1909年) |
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* ノルウェー - {{仮リンク|聖オラフ勲章|en|Order of St. Olav}} (1909年) |
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* フランス - [[レジオンドヌール勲章]]オフィシエ(1909年) |
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* イタリア - {{仮リンク|イタリア王冠勲章|en|Order of the Crown of Italy|label=王冠勲章}}ナイト (1910年) |
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* ロシア - 3等{{仮リンク|聖アンナ勲章|en|Order of St. Anna}}(1910年) |
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* プロイセン - 3等{{仮リンク|王冠勲章 (プロイセン)|en|Order of the Crown (Prussia)|label=王冠勲章}} (1911年) |
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* チリ - {{仮リンク|チリ・オーダー勲章|en|Chilean Order of Merit|label=オーダー勲章}}オフィサー (1916年) |
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=== 表彰 === |
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* アントワープ王立地理協会ゴールドメダル(1909年) |
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*Boston Medal, with bar (1910) |
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<ref>{{Cite web|last=|first=|title=Science and Art Catalogue: Sir Ernest Shackleton|url=http://www.christies.com/lotfinder/lot/sir-ernest-henry-shackleton-dannebrog-of-5933454-details.aspx?pos=112&intObjectID=5933454&sid=|publisher=''Christie's''|date=8 October 2015|accessdate=10 October 2015}}</ref> |
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== 大衆文化 == |
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シャクルトンは、数多くのテレビや映画作品で描かれてきた。彼を演じた俳優には、{{仮リンク| ジェームズ・オーブリー (俳優)|en|James Aubrey (actor)|label= ジェームズ・オーブリー}}、[[ケネス・ブラナー]]、{{仮リンク| マーク・デクスター|en|Mark Dexter}}、[[マイケル・ガンボン]]、[[デレク・ジャコビ]]、{{仮リンク| サイモン・プレブル |en|Simon Prebble}}、{{仮リンク| デイヴィッド・スコフィールド (俳優)|en|David Schofield (actor)|label= デイヴィッド・スコフィールド}}、{{仮リンク|デイビット・イェランド (俳優)|en|David Yelland (actor)|label= デイビット・イェランド}}らがいる<ref name=imdbCharacter>{{Cite web|title=Ernest Shackleton (Character)|url=http://www.imdb.com/character/ch0044188/?ref_=fn_al_ch_1|accessdate=2016-04-12}}</ref>。 |
|||
2014年には、{{仮リンク|ファースト・セカンド|en|First Second}}が、{{仮リンク|ニック・ベルトッツィ|en|Nick Bertozzi}}作画で、1914年の帝国南極横断探検隊を描いた[[グラフィックノベル]]『{{仮リンク|シャクルトン:南極の冒険|en|Shackleton: Antarctic Odyssey}}(Shackleton: Antarctic Odyssey)』を出版した。 |
|||
2015年には、{{仮リンク|ジョー・ディピエトロ|en|Joe DiPietro}}、ヴァレリー・ヴィゴダ(Valerie Vigoda)、ブレンダン・ミルバーン(Brendan Milburn)作のミュージカル『''Ernest Shackleton Loves Me''』が[[ニュージャージー州]]のジョージセント劇場で初演された<ref>{{Cite web |url=http://www.georgestreetplayhouse.org/media/shackleton |title=Ernest Shackleton Loves Me |first1=Joe |last1=DiPietro |first2=Valerie |last2=Vigoda |first3=Brendan |last3=Milburn |publisher=George St. Playhouse |date=April 12, 2015 |accessdate=January 8, 2016}}</ref>。 |
|||
== 「シャクルトンの広告」 == |
|||
シャクルトンが南極探検の隊員募集のために出した新聞広告と言われている文章がある。 |
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{{Quotation|MEN WANTED for Hazardous Journey.<br />Small wages, bitter cold, long months of complete darkness, constant danger, safe return doubtful. <br />Honor and recognition in case of success.Ernest Shackleton|「求む男子。至難の旅。<br />僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証無し。<br />成功の暁には名誉と賞賛を得る。アーネスト・シャクルトン」}} |
|||
一番古くは1949年出版の『''The 100 Greatest Advertisements''』にシャクルトンの広告として採り上げられているものの、シャクルトンの時代の新聞等を調査しても、この広告が本物であるという証拠は一度として見つかっていない{{sfn|テイラー=ルイス|p=34}}<ref>{{cite web|url=http://www.antarctic-circle.org/advert.htm|title=$100 CONTEST! |publisher=The Antarctic Circle|accessdate=2016-04-14}}</ref>。[[スミソニアン博物館]]は、この「広告」がシャクルトンによるものというのは、おそらく「神話(myth)」であろうとみている<ref>{{cite web|url=http://www.smithsonianmag.com/smart-news/shackleton-probably-never-took-out-an-ad-seeking-men-for-a-hazardous-journey-5552379/|title=Shackleton Probably Never Took Out an Ad Seeking Men for a Hazardous Journey|publisher=smithsonian.com |accessdate=2016-04-14}}</ref>。 |
|||
==関連項目== |
==関連項目== |
||
* [[アブロ シャクルトン]] - [[イギリス空軍]]が使用した長距離洋上哨戒機。シャクルトンに因んで命名された。 |
|||
{{commons|Ernest Henry Shackleton}} |
|||
* {{仮リンク|オーロラ・オーストラリス (書籍)|en|Aurora Australis (book)}} - ニムロド遠征の間に、史上初めて南極で製作された本。 |
|||
* [[帝国南極横断探検隊]] - 1914年、南極の横断を目指した探検隊。シャクルトンが隊長を務めた。 |
|||
* [[アーネスト・シャクルトン (極地補給船)]] - {{仮リンク|英国南極研究所|en|British Antarctic Survey}}が運用する調査船。 |
|||
* [[シャクルトン (クレーター)]] - 月の南極点にある[[クレーター]]。 |
|||
* {{仮リンク|サードマン現象|en|Third Man factor}} - トラウマになる経験の間に、「霊」のような見えない存在が元気づけたり支えたりする現象を示す言葉。 |
|||
==脚注== |
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{{南極}} |
|||
{{Notelist |
|||
| colwidth = 30em |
|||
| notes = |
|||
{{Efn |
|||
| name = Farthest South |
|||
| シャクルトンの写真とウィルソンの絵を元にした現代の計算では、最南端到達地点は82°11'とされている{{Harv|Crane|pp=214–5}}。 |
|||
}} |
|||
{{Efn |
|||
{{Explorer-stub}} |
|||
| name = candidate |
|||
| シャクルトンはダンディー選挙区から立候補したが、トップの9,276票に対し3,865票と、5候補のうちの第4位に終わった{{Harv|Morrell & Capparell | p=32}}。 |
|||
}} |
|||
{{Efn |
|||
| name = Beardmore's support |
|||
| ベアードモアの援助は無償の資金ではなく、クライスデール銀行からの7,000ポンド(2008年の価値で350,000ポンド)の借入に対する保証の形をとった{{Harv|Riffenburgh|2005|p=106}}。}} |
|||
{{Efn |
|||
| name = distance from pole |
|||
| 南極点までの距離は一般的に97もしくは98マイルとされるが、これは海里による距離である{{Harv|Shackleton, ''Heart of the Antarctic''|p=210}} |
|||
}}。 |
|||
{{Efn |
|||
| name = Mawson's expedition |
|||
| この遠征にはシャクルトンは参加せず、モーソンが隊長として、1911-13年{{仮リンク|オーストラリア南極遠征|en|Australasian Antarctic Expedition}}として行われた{{Harv|Riffenburgh|2005|p=298}}。 |
|||
}} |
|||
{{Efn |
|||
| name = Filchner's expedition |
|||
| フィルヒナーは、{{仮リンク|ヴァーゼル湾|en|Vahsel Bay}}の上陸可能地点の発見を含む、シャクルトンに大いに役立つ地理情報を持ち帰ることができた{{Harv|Huntford|p=367}}。 |
|||
}} |
|||
{{Efn |
|||
| name = Churchill, Proceed |
|||
| 8月3日、海軍本部からただ一言「続行せよ(Proceed)」という電報の後、チャーチルから長文の電報が届いた{{Harv|シャクルトン, ''South''|p=20}}。 |
|||
}} |
|||
{{Efn |
|||
| name = McNish's 'mutiny' |
|||
| シャクルトンはエンデュアランス号喪失時に、マクニッシュの飼い猫「{{仮リンク|ミセス・チッピー|en|Mrs. Chippy}}」を射殺する命令を下していた{{Harv|シャクルトン, ''South''|p=133}}。マクニッシュの「反抗」については{{Harvnb|Huntford|pp=475–76}}を参照。ジェームズ・ケアード号の航海におけるマクニッシュの英雄的行為にも関わらず、シャクルトンは彼を極地メダル授与者に推薦するするのを拒否した{{Harv|Huntford|p=656}}。 |
|||
}} |
|||
}} |
|||
==参考文献== |
|||
{{Reflist|20em}} |
|||
== 出典 == |
|||
'''出版物''' |
|||
{{Refbegin | colwidth = 30em }} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Alexander |
|||
| first = Caroline |
|||
| year = 1998 |
|||
| title = The Endurance: Shackleton's legendary Antarctic expedition |
|||
| publisher = Bloomsbury |
|||
| location = London |
|||
| isbn = 0-7475-4123-X |
|||
| ref = {{SfnRef|Alexander}} |
|||
}} |
|||
: 和訳:{{cite book|和書|title=エンデュアランス号 シャクルトン南極探検の全記録|translator=畔上司|publisher=ソニー・マガジンズ|year=2002|isbn=4-7897-1921-9|ref={{SfnRef|アレグザンダー}}}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Barczewski |
|||
| first = Stephanie |
|||
| year = 2007 |
|||
| title = Antarctic Destinies: Scott, Shackleton and the changing face of heroism |
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| publisher = Hambledon Continuum |
|||
| location = London |
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| isbn = 978-1-84725-192-3 |
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| ref = {{SfnRef|Barczewski}} |
|||
}} |
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* {{Cite book |
|||
| last = Byrne |
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| first = James Patrick |
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| year = 2008 |
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| title = Ireland and the Americas |
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| publisher = ABC-CLIO |
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| ref = {{SfnRef|Byrne}} |
|||
}} |
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* {{Cite book |
|||
| last = Crane |
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| first = David |
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| year = 2005 |
|||
| title = Scott of the Antarctic |
|||
| publisher = Harper Collins |
|||
| location = London |
|||
| isbn = 978-0-00-715068-7 |
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| ref = {{SfnRef|Crane}} |
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}} |
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* {{Cite book |
|||
| last = Fiennes |
|||
| first = Ranulph |
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| authorlink = Ranulph Fiennes |
|||
| year = 2003 |
|||
| title = Captain Scott |
|||
| publisher = Hodder & Stoughton Ltd |
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| isbn = 0-340-82697-5 |
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| ref = {{SfnRef|Fiennes}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite book |
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| author = Fisher, Margery and James |
|||
| year = 1957 |
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| title = Shackleton |
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| publisher = James Barrie Books Ltd |
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| ref = {{SfnRef|Fisher}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Huntford |
|||
| first = Roland |
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| authorlink = Roland Huntford |
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| year = 1985 |
|||
| title = Shackleton |
|||
| publisher = Hodder & Stoughton |
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| location = London |
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| isbn = 0-340-25007-0 |
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| ref = {{SfnRef|Huntford}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Jones |
|||
| first = Max |
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| year = 2003 |
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| title = The Last Great Quest |
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| publisher = Oxford University Press |
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| location = Oxford |
|||
| isbn = 0-19-280483-9 |
|||
| ref = {{SfnRef|Jones}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Kimmel |
|||
| first = Elizabeth Cody |
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| year = 1999 |
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| title = Ice story: Shackleton's lost expedition |
|||
| publisher = Clarion Books |
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| location = New York, N.Y. |
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| isbn = 978-0-395-91524-0 |
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| ref = {{SfnRef|Kimmel}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite web |
|||
| last = Mill |
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| first = Hugh Robert |
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| year = 1923 |
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| title = The Life of Sir Ernest Shackleton |
|||
| publisher = Internet Archive (originally William Heinemann) |
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| url = https://archive.org/stream/lifeofsirernests00milluoft/lifeofsirernests00milluoft_djvu.txt |
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| accessdate =7 December 2008 |
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| ref = {{SfnRef|Mill}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite book |
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| last = Mills |
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| first = Leif |
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| year = 1999 |
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| title = Frank Wild |
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| publisher = Caedmon of Whitby |
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| location = Whitby |
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| isbn = 0-905355-48-2 |
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| ref = {{SfnRef|Mills}} |
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}} |
|||
* {{Cite book |
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| last1 = Morrell |
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| first1 = Margot |
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| last2 = Capparell |
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| first2 = Stephanie |
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| year = 2001 |
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| title = Shackleton's Way: Leadership lessons from the great Antarctic explorer |
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| publisher = Viking |
|||
| location = New York, N.Y. |
|||
| isbn = 0-670-89196-7 |
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| ref = {{SfnRef|Morrell & Capparell}} |
|||
}} |
|||
: 和訳:{{cite book|和書|title=史上最強のリーダー シャクルトン|translator=高遠裕子|publisher=PHP研究所|year=2001|isbn=4569617603|ref={{SfnRef|モレル、キャパレル}}}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Perkins |
|||
| first = Dennis N.T. |
|||
| year = 2000 |
|||
| title = Leading at the Edge: Leadership Lessons from the Extraordinary Saga of Shackleton's Antarctica Expedition |
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| publisher = AMACOM (a division of the American Management Association) |
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| url = https://books.google.com/?id=3bYIQr_ftPcC |
|||
| location = New York, N.Y. |
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| isbn = 0-8144-0543-6 |
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| ref = {{SfnRef|Perkins}} |
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}} |
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* {{Cite book |
|||
| last = Preston |
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| first = Diana |
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| year = 1997 |
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| title = A First Rate Tragedy: Captain Scott's Antarctic Expeditions |
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| publisher = Constable & Co |
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| location = London |
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| isbn = 0-09-479530-4 |
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| ref = {{SfnRef|Preston}} |
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}} |
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* {{Cite book |
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| last = Riffenburgh |
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| first = Beau |
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| authorlink = Beau Riffenburgh |
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| year = 2005 |
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| title = Nimrod: Ernest Shackleton and the Extraordinary Story of the 1907–09 British Antarctic Expedition |
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| publisher = Bloomsbury Publishing |
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| location = London |
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| isbn = 0-7475-7253-4 |
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| ref = harv |
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}} |
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* {{Cite book |
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| editor-last = Riffenburgh |
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| editor-first = Beau |
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| title = Encyclopedia of the Antarctic |
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| publisher = Taylor & Francis Group |
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|date=October 2006 |
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| volume = 1 |
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| isbn = 978-0-415-97024-2 |
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| location = New York, N.Y. |
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| url = https://books.google.com/?id=fRJtB2MNdJMC |
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| ref = harv |
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* {{Cite book |
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| last = Savours |
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| first = Ann |
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| year = 2001 |
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| title = The Voyages of the Discovery |
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| publisher = Chatham Publishing |
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| location = London |
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| ref = {{SfnRef|Savours}} |
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}} |
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* {{Cite book |
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| last = Shackleton |
|||
| first = Ernest |
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| year = 1911 |
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| title = Heart of the Antarctic |
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| publisher = William Heinemann |
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| location = London |
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| ref = {{SfnRef|Shackleton, ''Heart of the Antarctic''}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Shackleton |
|||
| first = Ernest |
|||
| year = 1982 |
|||
| origyear = 1919 |
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| title = South: the story of Shackleton's last expedition, 1914–1917|South: The story of Shackleton's 1914–17 expedition |
|||
| publisher = Century Publishing |
|||
| location = London |
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| isbn = 0-7126-0111-2 |
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| ref = {{SfnRef|Shackleton, ''South''}} |
|||
}} |
|||
: 和訳:{{cite book|和書|title=エンデュアランス号奇跡の生還|translator=奥田祐士|publisher=ソニー・マガジンズ|series=ヴレッジブックス|year=2001|isbn=4-7897-1782-8|ref={{SfnRef|シャクルトン, ''South''}}}} |
|||
* {{Cite video |
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| people = Shackleton, Ernest |
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| date = 1919 |
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| title = South — Sir Ernest Shackleton's Glorious Epic of the Antarctic |
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| work = [[英国映画協会|BFI]] online |
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| publisher = [[英国映画協会]] (BFIVO54) |
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| url = http://www.screenonline.org.uk/film/id/725774/ |
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| accessdate =12 October 2011 |
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| ref = {{SfnRef|Shackleton, ''South'' .28film.29}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Wheeler |
|||
| first = Sara |
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| location = 2001 |
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| title = Cherry: A life of Apsley Cherry-Garrard |
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| publisher = Jonathan Cape |
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| year = 2001 |
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| isbn = 0-224-05004-4 |
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| ref = {{SfnRef|Wheeler}} |
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}} |
|||
* {{Cite book |
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| last = Wilson |
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| first = Edward A. |
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| authorlink = Edward Adrian Wilson |
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| year = 1975 |
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| title = Diary of the Discovery Expedition |
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| publisher = Blandford Press |
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| location = London |
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| isbn = 0-7137-0431-4 |
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| ref = {{SfnRef|Wilson}} |
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}} |
|||
* {{Cite book |
|||
| last = Worsley |
|||
| first = Frank A. |
|||
| authorlink = Frank Worsley |
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| year = 1931 |
|||
| title = Endurance: An Epic of Polar Adventure |
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| publisher = Philip Allen |
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| location = London |
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| ref = {{SfnRef|Worsley}} |
|||
}} |
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* {{cite book|和書|title=シャクルトンに消された男たち 南極横断隊の悲劇|author=ケリー・テイラー=ルイス|translator=奥田祐士|publisher=文藝春秋|year=2007|origyear=2006|isbn=978-4-16-368390-3| ref = {{SfnRef|テイラー=ルイス}}}} |
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| ref = {{SfnRef|Emmys.com, ''Shackleton''}} |
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| accessdate =11 October 2011 |
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| ref = {{SfnRef|BBC, ''Shackleton''}} |
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| accessdate =12 October 2011 |
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| ref = {{SfnRef|Measuring Worth}} |
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| ref = {{SfnRef|''My South Polar Expedition''}} |
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| newspaper = USA Today |
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| date = 5 February 2010 |
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| title = Explorers' century-old whisky found in Antarctic |
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| url = http://www.usatoday.com/tech/science/2010-02-05-Shackleton-whisky-antarctic_N.htm |
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| accessdate =14 October 2011 |
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| ref = {{SfnRef|USA Today, ''century-old whisky''}} |
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}} |
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* {{Cite news |
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| last = Katz |
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| accessdate =14 October 2011 |
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| ref = {{SfnRef|AP, ''century-old scotch''}} |
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}} |
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* {{Cite news |
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| newspaper = {{仮リンク|The Spokesman-Review|en|The Spokesman-Review|label=The Spokane Spokesman-Review}} |
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| agency = Associated Press |
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|date = 3 February 1922 |
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| url = https://news.google.com/newspapers?id=FrFXAAAAIBAJ&sjid=uPMDAAAAIBAJ&pg=6442,621950&dq=quest+south+georgia&hl=en |
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| accessdate=13 April 2012 |
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| ref = {{SfnRef|''The Spokesman-Review'', February 1922}} |
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}} |
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* {{Cite news |
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| last = Lusher |
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| first = Adam |
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| date = 27 November 2011 |
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| title = Forgotten hero Frank Wild of Antarctic exploration finally laid to rest, beside his 'boss' Sir Ernest Shackleton |
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| ref = {{SfnRef|Telegraph, ''Forgotten hero''}} |
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}} |
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}} |
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* {{Wikicite |
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| reference = |
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{{LondonGazette |
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| date = 16 July 1909 |
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| issue = 28271 |
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| startpage = 5461 |
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| accessdate =21 December 2008 |
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}} |
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| ref = {{SfnRef|London_Gazette.2C_16_July_1909}} |
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* {{Wikicite |
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| reference = |
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{{LondonGazette |
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| date = 24 December 1909 |
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| issue = 28321 |
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| startpage = 9763 |
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| accessdate =21 December 2008 |
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}} |
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| ref = {{SfnRef|London_Gazette.2C_24_December_1909}} |
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| ref = {{SfnRef|ABC, ''Shackleton.27s biscuit''}} |
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==関連文献== |
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* {{Cite book |
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| last = Hurley |
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| first = Frank |
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| authorlink = Frank Hurley |
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| year = 2004 |
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| title = South with Endurance: Shackleton's Antarctic Expedition 1914–1917, the photographs of Frank Hurley |
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| isbn = 0-7475-7534-7 |
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* {{Cite book |
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| last = Lansing |
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| first = Alfred |
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| authorlink = Alfred Lansing |
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| year = 2001 |
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| title = Endurance: Shackleton's Incredible Voyage |
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| isbn = 978-0-297-82919-5 |
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| ref = {{SfnRef|Lansing}} |
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:和訳:{{cite book|和書|title=エンデュアランス号漂流|translator=山本光伸|publisher=新潮社|series=新潮文庫|year=2003|isbn=4-10-222221-9}} |
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* {{Cite book |
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| last = Mill |
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| first = Hugh Robert |
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| authorlink = Hugh Robert Mill |
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| year = 2006 |
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| title = The Life of Sir Ernest Shackleton |
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| publisher = William Heinemann |
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| last1 = Shackleton |
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| first1 = Jonathan |
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| first2 = John |
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| year = 2002 |
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| title = Shackleton: an Irishman in Antarctica |
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| publisher = University of Wisconsin Press |
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| last = Turley |
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| publisher = Smith, Elder & Co |
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| authorlink = Frank Worsley |
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| title = Shackleton's Boat Journey |
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| title = Kent Archaeological Society |
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==外部リンク== |
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*{{IMDb name|0787123|Ernest Shackleton}} |
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* [http://www.ernestshackleton.net/ Sir Ernest Shackleton, 1874–1922] – シャクルトン家が作ったホームページ |
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| title = The James Caird Society |
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| work = www.JamesCairdSociety.com |
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* [http://www.freezeframe.ac.uk/?s=shackleton&submit=submit&onlyimages=0 Images of Shackleton] - ケンブリッジ大学{{仮リンク|スコット極地研究所|en|Scott Polar Research Institute}} |
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* Listen to Ernest Shackleton describing his 1908 [http://aso.gov.au/titles/spoken-word/my-south-polar-expedition/ South Pole Expedition], and read more about the recording on [australianscreen online]. |
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* The recording describing Shackleton's 1908 South Pole Expedition was added to the {{仮リンク|National Film and Sound Archive|en|National Film and Sound Archive}}'s {{仮リンク|Sounds of Australia|en|Sounds of Australia}} registry in 2007 |
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* [http://www.luminous-lint.com/app/image/1695075911637413141887024965/ Ernest Shackleton and dogs on ''Nimrod'' back from expedition to reach Antarctica, 1909] (photo by Philip Brocklehurst) |
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* [https://archive.org/details/ErnestHenryShackleton-MySouthPolarExpedition1910 Ernest Shackleton speaking on Antarctic attempt] (archive.org – Free download) |
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* {{Gutenberg author | id=Shackleton,+Ernest+Henry,+Sir}} |
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* [http://www.library.ucsb.edu/OBJID/Cylinder1859 Wax cylinder recording of Shackleton speaking in 1910] |
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2016年4月19日 (火) 10:57時点における版
サー・アーネスト・ヘンリー・シャクルトン CVO OBE FRGS (Sir Ernest Henry Shackleton [ˈʃækəltən]、1874年2月15日 - 1922年1月5日)は、三度、イギリスの南極探検隊を率いた極地探検家で、南極探検の英雄時代の主役の一人である[1]。アイルランドのキルデア州で生まれ、10歳のときアングロ・アイリッシュの家族[2]とともにサウス・ロンドンの郊外であるシドナムへ移り住んだ。彼の最初の極地体験は、1901-04年のロバート・スコット率いるディスカバリー遠征への3等航海士としての参加であり、彼とスコット、エドワード・エイドリアン・ウィルソンが南緯82度の最南端到達新記録を樹立した後、健康上の理由で早期帰国した。
1907-09年のニムロド遠征では、彼と3人の隊員は探検史上最も極点へ接近し、最南端到達の新記録である南緯88度、南極点までわずか97地理マイル(112法定マイル、180km)の地点に到達。また、他の隊員が南極で最も活発な火山であるエレバス山への登山を行った。これらの功績により、帰国後、エドワード7世からナイトに叙せられた。
1911年12月、ロアール・アムンセンの成功により南極点へのレースが終了すると、シャクルトンは南極点経由の南極大陸横断に関心を向けた。この準備を進め、1914-17年の帝国南極横断探検隊として実現する。この遠征は、エンデュアランス号が流氷に閉じ込められ、隊が上陸する前に船が破壊されるという災難に襲われた。隊員は海氷上にキャンプを張り、そして救命ボートでエレファント島へたどり着き、最後はシャクルトンの最も有名な偉業である、サウスジョージア島までの嵐の海720海里の航海を行い脱出を果たした。1921年にはシャクルトン=ローウェット遠征を率いてまた南極へ向かうが、サウスジョージア島に寄港中、心臓発作で死去。遺体は彼の妻の希望により同島に埋葬された。
探検以外でのシャクルトンの人生は概して落ち着きがなく、かつ満たされないものであった。一攫千金を追い求めて投機的な事業を立ち上げては失敗し、多額の負債を抱えて死んだ。死んだときにはマスコミに大きく称賛されたが、その後ライバルのスコットが何十年も名声を保ったのに対し、シャクルトンは世間から忘れ去られた。20世紀後半にシャクルトンは「再発見[3]」され、たちまち、文化史家のステファニー・バルチュースキー(Stephanie Barczewski)が「信じられない(incredible)」と表現した[4]サバイバルストーリーを題材に、極限状態の中でチームを維持するリーダーのロールモデルとなった。
生い立ち
子供時代
アーネスト・シャクルトンは、1874年2月15日に、アイルランド島のダブリンから約46マイル (74 km)にあるキルデア州アシー近くのキルケアで誕生した。父親はヘンリー・シャクルトン(Henry Shackleton)、母親はヘンリエッタ・レティシア・ソフィア・ギャバン(Henrietta Letitia Sophia Gavan)。父親はアングロ・アイリッシュ人で、先祖はイングランド・ヨークシャー出身のクエーカーで18世紀にアイルランドへ移住した[5]。母親はアイルランド人で、先祖はコーク州とケリー州出身であった[6]。アーネストは子供10人の2番目で、息子2人のうちの兄である。弟のフランクは、1907年にアイリッシュ・クラウン・ジュエルを盗んだ嫌疑で悪名高くなるが、後に潔白が証明されている[7]。
1880年、アーネストが6歳のとき、父ヘンリーは地主としての生活に見切りをつけ、ダブリン大学トリニティ・カレッジ で医学を学ぶため家族とダブリンへ引越した[8]。さらに4年後、一家はアイルランドからロンドン郊外のシドナムへ移り住んだ。これは、一つには、新しく資格を得た医師がより専門的な職を求めたといえるが、別の要因として、1882年に起こったアイルランド担当大臣フレデリック・キャヴェンディッシュ卿のアイルランド民族主義者による暗殺を受けて、アングロ・アイリッシュ人の血筋であることに不安になった可能性もある[8]。
教育
シャクルトンは小さな子供の頃から貪欲な読書家で、冒険に対する情熱に火を付けるものを追い求めていた[9]。11歳までガヴァネスの教育を受け、その後、サウスイーストロンドン、ダリッジのウエストヒルにあるファーロッジ私立学校(Fir Lodge Preparatory School)に通った。13歳のときダリッジ・カレッジに入学[8]。シャクルトンは学者として有名になる気はなく、学問に「退屈」していたと言われている[8]。後に彼はこう語っている、「私は学校で地理学を全く勉強しなかった・・・偉大な詩人や散文作家の作品を分解して文法解釈し分析するという文学もだ・・・教師たちはいつもそれを課題にすることで、(生徒たちの)詩の趣味を損なわせることのないよう慎重になるべきだ[8]」。それでも、彼の最後の学期の成績はクラス31人中5番目であった[10]。
商船航海士時代
シャクルトンの落ち着きのない学校生活は、16歳のとき退学し船員になることを許されて終わった[11]。その選択肢は、シャクルトン家に余裕は無かったが、「HMS ブリタニア」の海軍士官候補生になる、または商船員訓練船の「ウォースター(Worcester)」か「コンウェイ(Conway)」に乗る、もしくは帆船の「水夫("before the mast")」見習いになることで、3番目の選択肢が選ばれた[11]。父親がノース・ウエスタン・シッピング・カンパニー(North Western Shipping Company)への就職を見つけてきて、シャクルトンはスクエア・リグの帆船「ホートン・タワー(Hoghton Tower)」の船員となった[11]。
続く4年間の船員生活で、シャクルトンは地球の隅々を訪れ、多くの階級の人々と人脈と作り、あらゆる種類の人間についてよく学びながら、手に職を付けた[12]。1894年8月、2級航海士の試験に合格し、ウエルシュ・シャイア・ライン(Welsh Shire Line)の不定期貨物船で3等航海士となる[12]。2年後、1級航海士の資格を獲得、1898年には世界中どこでもイギリス船を指揮できるマスター・マリナーとして認証された[12]。
1898年、シャクルトンは、サウサンプトン・ケープタウン間で郵便および旅客輸送の定期便を運航するユニオン=キャッスル・ラインに入社した。彼は「普通の若い航海士とはかけ離れていて」、必ずしも打ち解けていないとは言わないが会社に満足し、「キーツやブロウニングの詩を朗読し」、感受性と攻撃性が入り混じっているが思いやりもあった、と同僚が書き残している[13]。1899年に第二次ボーア戦争が勃発すると、シャクルトンは兵員輸送船「ティンタジェル・キャッスル(Tintagel Castle)」へ転属となり、同船で1900年3月に、ロンドンで組織中のディスカバリー遠征のメインスポンサーであるルーエリン・W・ロングスタッフの息子、セドリック・ロングスタッフ(Cedric Longstaff)陸軍中尉と知り合った[14]。シャクルトンは遠征隊へ参加するため、息子との知己を活かしてロングスタッフの面接を受けた。ロングスタッフはシャクルトンの熱心さに感動して、シャクルトンが合格することを望んでいることが明らかである遠征隊の責任者、クレメンツ・マーカムへ推薦した[14]。1901年2月17日、シャクルトンは遠征隊の船「ディスカバリー号」の3等航海士へ登用され、7月4日、海軍予備員の海軍中尉に任官した[15][16]。公式にはユニオン=キャッスル社から休暇を貰った形であったが、実際にはシャクルトンの商船員生活はここで終わりを告げた[14]。
1901-03年、「ディスカバリー遠征」
「ディスカバリー号」にちなみディスカバリー遠征として知られる国立南極遠征(National Antarctic Expedition)は、王立地理学会会長のサー・クレメンツ・マーカムが発案し、準備に長年かけていたものである。遠征隊はイギリス海軍の水雷大尉で最近中佐へ昇格したロバート・ファルコン・スコットが隊長となり、科学や地理学上の発見も目的としていた[17]。
ディスカバリー号は海軍の船ではなかったが、スコットは艦隊訓練法(Naval Discipline Act)に基づく制約を受け入れる船員や士官、科学スタッフを求め、船と遠征隊は海軍の方針に従って運営された。シャクルトンは、彼の生い立ちや天性から、それとは違うもっと堅苦しくない統率を好んでいたにもかかわらず、これを受け入れた[18]。シャクルトンの任務は以下の通りであった。「海水分析担当。上級士官室のサービス係。船倉、備品、食糧担当。(中略)そのほか、娯楽を企画する。」[19]
「ディスカバリー号」は1901年7月31日にロンドンを出発し、ケープタウンとニュージーランドを経て、1902年1月8日に南極大陸に到着した。上陸後、シャクルトンは2月4日に観測気球飛行に加わった[20]。また、科学者のエドワード・エイドリアン・ウィルソンとハートレー・フェラーとともに、マクマード湾にある遠征隊の冬営地からロス棚氷への安全なルートを確立する最初のソリ旅行に参加した[21]。1902年の冬には、氷に閉ざされたディスカバリー号で、シャクルトンは遠征隊の雑誌『The South Polar Times』の編集を行った[22]。
スコットのリーダーシップに対し水面下で対抗することを示していたという主張は支持されなかったが、給仕のクラレンス・ハレによると、シャクルトンは「船員の間で最も人気がある士官で、付き合いが良かった」[23]。スコットは南極点の方向へ最南端到達記録の更新を目指すパーティに自分自身とウィルソンのほかにシャクルトンを加えた。スコットにとって最南端記録の更新はとても重要であったが、この踏破行は南極点を目指す真剣な挑戦ではなかった。そしてシャクルトンを加えたことは高い個人的な信頼を表していた[24][25]。
パーティは1902年11月2日に出発した。この踏破行は、後にスコットが記したように、「成功と失敗が組み合わさっていた」[26]。南緯82°17'に到達し、1900年のカルステン・ボルクグレヴィンクによる記録を更新した[注釈 1][27]。しかし餌が痛みすぐに病気になった犬たちのせいで踏破行は台無しになり、22頭いた犬は全て死んだ。また、3人とも、時々雪目や凍傷、そして終いには壊血病に苦しんだ。帰路で、シャクルトンは自身が認めているように「衰弱し」、自分の仕事をこなすことができなくなった[28]。
シャクルトンは後に、スコットが『The Voyage of the Discovery』で彼がソリで運ばれたと書いたことを否定した[29]。しかし実際、かなりの衰弱状態にあった。ウィルソンは1月14日の日記に「シャクルトンは以前から体調が優れていなかったが、今日ひどく悪化した。すぐに息切れし絶えず咳をしている。ここで詳細を書く必要はないが、船から160マイル離れた場所であることを踏まえれば軽微とは言えない深刻な症状もある。」と記している。
1903年2月4日にパーティはなんとか船にたどり着いた。(決定的でない)健康診断の後[30]、スコットはシャクルトンを、1903年1月にマクマード湾に着いていた補給船「モーニング号」に乗せて本国へ帰すことを決めた。スコットは「彼の現在の健康状態を踏まえれば、さらなるリスクを負うべきではない」と記した[30]。なお、スコットがシャクルトンの人気に苛立ち、健康悪化を彼を追い出す理由にしたという推測もされている[31]。
スコット、ウィルソン、シャクルトンの死から数年後、遠征隊の副隊長であったアルバート・アーミテージが、南への行軍の間仲間割れが生じており、スコットが船医に「彼は病気になっていなくても不名誉除隊で本国送りになっていただろう」と語っていたと主張した[30]。だがアーミテージの話に証拠はなく、少なくともスコットが『The Voyage of the Discovery』で南への踏破行について書くまでは、シャクルトンとスコットは友好関係にあった[29]。彼らは表向きはお互いに敬意を表し親身であり続けたが[32]、伝記作家のローランド・ハントフォード(Roland Huntford)によると、シャクルトンのスコットへの態度は「怒りをあらわに軽蔑し嫌う」ようになった。そして傷ついたプライドを癒すために、「南極へ戻り、スコットを上回るための挑戦」が必要となった[29]。
1903-07年、「ディスカバリー遠征」と「ニムロド遠征」の間
シャクルトンは、ニュージーランドで療養した後、サンフランシスコとニューヨークを経てイギリスへ帰った[33]。彼は南極から戻った最初の重要人物として、引っ張りだこになった。特に海軍は「ディスカバリー号」救出計画について彼の助言を望んだ[34]。クレメンツ・マーカム卿の賛同を得て、第二の「ディスカバリー号」救出作戦、「テラノヴァ号」の一隊を支援する臨時ポストに就いたが、一等航海士として同船に乗船する提案は断った。また、船が座礁したオットー・ノルデンショルド指揮のスウェーデン南極探検隊救出に向けて準備中であったアルゼンチンのコルベット「ウルグアイ」を手伝った[33]。シャクルトンは、より安定した職を求めてイギリス海軍に補充者リストという裏口ルートで正規任務に応募したが[35]、王立協会の会長であるマーカムの支援に関わらず、職を得ることはできなかった[33]。代わりにジャーナリストとなり「ローヤル・マガジン」で働いたが、この仕事に不満であった[36]。その後王立スコットランド地理協会の理事に応募し、1904年1月11日にその職に就いた[36]。1904年4月9日に裕福な弁護士の娘[37]、エミリー・ドーマン(Emily Dorman)と結婚し、3人の子供:レイモンド、セシリー、エドワードを儲けた。
1905年、シャクルトンはロシア軍を極東から本国へ輸送することを目論んだ投機的会社へ出資した。妻エミリーに「契約は間違いない」と保証したにもかかわらず、何も得るものはなかった[38]。また政界にも飛び込み、アイルランド自治法に反対して1906年イギリス総選挙に自由統一党の候補としてダンディー選挙区から出馬したが落選した[注釈 2][39]。その間に、クライド地方の富裕な実業家のウィリアム・ベアードモア(後のインヴァーネアルン卿)の下、顧客になりそうな人物の面接やベアードモアのビジネス上の友人たちを楽しませる仕事をした[40]。しかしシャクルトンは、もうこのときには遠征隊の隊長として南極へ向かう大望を隠そうとはしていなかった。
ベアードモアは資金支援を申し出てシャクルトンを感動させた[注釈 3][41]。しかし他の寄付を集めるのは難しかった。それにもかかわらず、シャクルトンは王立地理学会に南極遠征計画を発表。ニムロド遠征という名の遠征の詳細は王立協会の会報『Geographic Journal』に掲載された[10]。この遠征は、南極点と南磁極、両方の征服を目標としていた。シャクルトンは裕福な友人たちや寄付してくれる知人を精力的に説得した。その中には、ニムロド遠征への参加を求め2,000ポンド(2011年の価値で157,000ポンド)を寄付したサー・フィリップ・リー・ブロックルハースト[42][43]、作家のキャンベル・マッケラー(Campbell Mackellar)、ニムロド号が出発する2週間以内になって寄付したギネス男爵イーバー卿がいた[44]。1907年8月4日には、第4等ロイヤル・ヴィクトリア勲章(MVO、現在のルテナント)を授与された[45]。
1907-09年、「ニムロド遠征」
1908年1月1日、「ニムロド号」はニュージーランドのリッテルトン港から南極へ向けて出航した。 シャクルトンの当初の計画は、マクマード湾にある「ディスカバリー遠征」の元基地を使用し、南極点と南磁極を目指すものであった[43]。しかしイギリス出発前に、マクマード一帯は自分の縄張りであると主張するスコットから、そこに基地を作らないという約束をするよう圧力をかけられていた。シャクルトンはバリア・インレット(1902年にディスカバリー号が立ち寄っていた)かエドワード7世半島で冬営地を探すことに渋々同意した[46]。
石炭を温存するため、シャクルトンがニュージーランド政府とユニオン汽船会社(Union Steamship Company)に費用負担を了解させた後、南極に向けて1,650マイル (2,655 km)を蒸気船「クーニャ号(Koonya)」に曳航させた[47]。スコットとの約束に従ってロス棚氷の東部へ向かい、1908年1月21日に到着した。バリア・インレットは大きな湾を形成するように広がっており、数百頭のクジラがいたことから、すぐにクジラ湾と名付けられた。そこの氷は崩れそうな状態であり、安全な基地を設営するのは不可能であった。さらにエドワード7世半島で投錨地を探したが同様に無理だと判ったことから、シャクルトンはスコットとの約束を破りマクマード湾へ向かうことを余儀なくされた。この決断は、2等航海士のアーサー・ハーボード(Arthur Harbord)によれば、氷圧の困難さ、石炭の不足、近くには他に既知の基地がないことを踏まえた「常識に従った」ものであった[48]。
ニムロド号は1月29日にマクマード湾に到着したが、ハット・ポイントにあるディスカバリー遠征の元基地から北16マイル (26 km)の地点で氷のため進めなくなった[49]。結局、悪天候による遅れの後、シャクルトンはハット・ポイントの北約24マイル (39 km)にあるロイド岬に基地を作った。困難な状況にあったが隊の士気は高かった。シャクルトンのコミュニケーション能力が、隊を楽しく、まとまった状態に保ち続けた[50]。
フランク・ワイルドが名付けた「偉大な南への旅(Great Southern Journey)[51]」は、1908年10月29日に開始された。1909年1月9日、シャクルトンと3名の隊員(ワイルド、エリック・マーシャル、ジェイムソン・アダムズ)が南極点から112マイル (180 km)[注釈 4]しか離れていない南緯88°23'に到達し、最南端到達記録を更新した。南極点へ向かう途中でパーティはベアードモア氷河(シャクルトンのスポンサーから名付けた)を発見し[52]、南極点高地を初めて見、踏破した最初の人物となった[53]。彼らのマクマード湾への帰路は、かなりの間、半分の食糧しかなく餓死との競争になった。あるときシャクルトンはその日の割り当ての1枚のビスケットを病気のフランク・ワイルドへ与えた。ワイルドは日記にこう書いた「世界中の金を積んでも、そのビスケットと換えることはできない。そして私はこの自己犠牲を決して忘れない」[54]。彼らは帰りの船に間に合うギリギリのタイミングでハット・ポイントにたどり着いた。
遠征隊のその他の主な業績には、エレバス山への初登頂と、南磁極のほぼ正確な位置を発見しエッジワース・デービッド、ダグラス・モーソン、アリステア・マッケイが1909年1月16日に到達したこともある[55]。シャクルトンはヒーローとしてイギリスへ帰国し、間もなく探検の記録『Heart of the Antarctic』を出版した。エミリー・シャクルトンは後にこう記している「南極点へたどり着かなかったことについて、彼は『生きているロバのほうが死んだライオンより良いじゃないか?』と言ったので『そうよ、私にとってはね』と答えたわ。[56]」。
1910年に、シャクルトンはエジソン蓄音機を使って、遠征について語った3本のレコードを制作した[57]。
1909年に残していったほとんど手つかずのウイスキーとブランデーの箱が、醸造会社の分析のため、2010年に回収された。そして、その銘柄「マッキンレー」の酒質を再現したウイスキーが、売上の一部を酒を発見したニュージーランド南極歴史遺産トラストの活動に役立てるために限定販売された[58][59][60][61]。
1909–14年、2つの遠征の合間
大衆の英雄
シャクルトンが帰国すると、すぐに公的な表彰が行われた。エドワード7世は7月10日に彼を接見し、ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー(CVO)を授与した[62][63]。そして11月の国王誕生記念叙勲でナイトに叙し、サー・アーネスト・シャクルトンとなった[64][65]。王立地理協会からも表彰され、ゴールドメダルを授与された。なお、スコットが以前授与されたメダルより小さいものとするという提案は却下された[66]。11月23日にはニムロド遠征で上陸した隊員全員に銀の極地メダルが、シャクルトンにはメダルに付ける留め金が授与された[64][67]。また、シャクルトンはイギリスの船乗りにとって大きな名誉である、トリニティ・ハウスのYounger Brotherに任命された[62]。
シャクルトンの偉業は、公的な表彰のほか、熱狂をもって歓迎された。王立地理学会では昼食会でシャクルトンを讃えて乾杯が行われ、前大法官のホールズベリー卿は、「彼が成し遂げたことを思い出すとき、イギリス民族が退廃していると思われているとは信じない。我々が勇気と忍耐を称賛する心を失ったとは信じない。」と述べた[68]。アイルランドでもヒーローとなった。ダブリンの『Evening Telegraph』は「アイルランド人が南極点をほとんど征服」という見出しをつけ、『Dublin Express』は「アイルランド人としてのシャクルトンの資質」について論じた[68]。探検家仲間もシャクルトンを称賛した。ロアール・アムンセンは王立地理学会の事務局長ジョン・スコット・ケルティーへの手紙の中で「イギリスは、シャクルトンのこの偉業により、決して超えることのできない勝利を得た。」と記した[69]。フリチョフ・ナンセンはエミリー・シャクルトンへ感情あふれた私的な手紙を送り、「すべての点で完璧な成功を納めた並ぶもののない遠征」を褒めたたえた[69]。しかし現実では、シャクルトンは遠征費用で大きな負債を抱え、支援者へ報酬を支払うことができない状態にあった。彼の努力にかかわらず、最も催促された債務を返済するために補助金で2万ポンド(2008年の価値で150万ポンド)の政府の支援が必要だった。おそらく多くの債務は催促されず、帳消しにもならなかったとみられる。
雌伏の時代
シャクルトンは、帰国直後、公式行事への出席や講演、社会参加といった忙しいスケジュールをこなした。そして名声を活かして事業で一財産築こうとした[70]。彼が立ち上げようとした事業には、タバコ会社[71]や、「エドワード7世半島」と重ね刷りされた切手のコレクターへの販売計画(シャクルトンがニュージーランド政府から南極の郵便局長に任命されていたことに基づく)[72]、現在はルーマニアの一部である、ハンガリーのナジバーニャ近くで利権を獲得した鉱山の開発などがある[73]。しかしこれらの投資はいずれも失敗し、主な収入源は講演旅行の報酬であった。彼は1910年9月に家族とともにノーフォークのシェリンガムへ引越し、エミリーへ「私はもう決して南へは行きません。心からそう考えており今や自分の居場所は我が家です。」と書いていたにも関わらず、再び南へ向かうことを心に抱いていた[70]。シャクルトンは、ダスラス・モーソンとアダレ岬とガウスベルクの間の南極海岸の科学探検について議論し、これを1910年2月に王立地理学会へ書き送っていた[注釈 5][74]。
シャクルトンが南極点への遠征を再開するか否かは、1910年7月にカーディフを出発したスコット率いるテラノバ遠征の結果次第だった。1912年春までには南極点がノルウェー人のロアール・アムンセンに征服されたことが判明したが、スコットの遠征隊は消息不明であった。シャクルトンは、スコットランド人の探検家ウィリアム・スペアズ・ブルースが発表した後に中止した、ウェッデル海から上陸し南極点を経てマクマード湾へ南極を横断する計画に関心を向けた。資金調達に失敗していたブルースは、シャクルトンが彼の計画を採用することを喜んだ[75]。ドイツ人探検家ヴィルヘルム・フィルヒナーも同様の計画を立て、1911年5月にブレーマーハーフェンを出発したが、1912年12月に彼の遠征が失敗したニュースがサウスジョージア島から届いた[注釈 6][75]。シャクルトンが残されている「最も偉大な極地の旅」と評した南極大陸横断を実行する番となった[76]。
1914-17年、「帝国南極横断探検隊」
準備
シャクルトンは1914年始め、壮大に「帝国南極大陸横断遠征」と名付けた新たな遠征の詳細を公表した。船2隻を使用し、「エンデュアランス号」がウェッデル海のヴァーゼル湾へ本隊を運び、そこからシャクルトン率いる6名のチームが大陸横断を開始する。一方、第2船の「オーロラ号」はイニーアス・マッキントッシュ率いる支援隊を大陸の反対側のマクマード湾へ運ぶ。この支隊はベアードモア氷河までロス棚氷を越えた地点に、シャクルトンの隊が1,800マイル (2,900 km)の大陸横断の旅が完了できるよう食糧と燃料を備蓄した補給基地を設置する予定であった[76]。
シャクルトンは資金集めに相当なスキルを使った。イギリス政府が10,000ポンド(2008年の価値で68万ポンド)出したにもかかわらず、広く一般からの寄付を集めた。スコットランドのジュート[要リンク修正]業界の大物サー・ジェームズ・ケアードが24,000ポンド、ミッドランドの実業家フランク・ダドリー・ドッカーが10,000ポンド、タバコ王の娘ジャネット・スタンコム=ウィルスが額は明かされていないが「気前よく(generous)」金を出した[77]。遠征に対する大衆の関心は相当なものであり、5,000人以上が参加を志願した[78]。シャクルトンの面接と選抜基準は少々風変りに見えるものであった。キャラクターと気性は専門技術と同じく重要であると信じており[79]、変わった質問を行った。自然科学者のレジナルド・ジェームズ(Reginald James)は歌ができるか尋ねられた[80]。他の応募者ではシャクルトンが外見を気にいったとか、短い質問だけで合格した者もいた[81]。また古臭い階級制度を取り払い、科学者を含む全員が船の雑用を分け合うことを期待した。最終的に56人の隊員を選び、各船に28人ずつ割り振った[82]。
1914年8月3日に第一次世界大戦が勃発したにも関わらず、エンデュアランス号の遠征は、ウィンストン・チャーチル海軍大臣から「続行」するよう命じられ[注釈 7]、8月8日にイギリスを出発した。シャクルトンは9月27日まで出発が遅れたが、ブエノスアイレスで船に合流した[83]。
隊員
シャクルトンは遠征に際し、フランク・ワースリーをエンデュアランス号の船長とし、ジョセフ・ステンハウスをオーロラ号の船長とした。
エンデュアランス号では、副隊長に経験豊かな探検家であるフランク・ワイルドが就いた。気象学者レオナルド・ハッセー(バンジョーを弾くことができた)、科学スタッフとしてジェームズ・マキロイ、ジェームズ・ワーディーがいた。2人の外科医のうちアレクサンダー・マクリンは70頭のイヌの健康管理も担当した。トム・クリーンはすぐにイヌの訓練の主担当となった。その他の隊員は、レジナルド・ジェームズ、ライオネル・グリーンストリート、生物学者のロバート・クラークらであり、後に名声を得る写真家フランク・ハーレーが乗船した。
名前が知られている犬は以下の通り。ラグビー(Rugby)、アプトン・ブリストル(Upton Bristol)、ミルヒル(Millhill)、ソングスター(Songster)、サンディ(Sandy)、マック(Mack)、マーキュリー(Mercury)、ウォルフ(Wolf)、アムンセン(Amundsen)、ハーキュリーズ(Hercules)、ハッケンシュミット(Hackenschmidt)、サムソン(Samson)、サミー(Sammy)、スキッパー(Skipper)、カルーソ(Caruso)、サブ(Sub)、ユリシーズ(Ulysses)、スポッティ(Spotty)、ボースン(Bosun)、スロバース(Slobbers)、セイディ(Sadie)、スー(Sue)、サリー(Sally)、ジャスパー(Jasper)、ティム(Tim)、スウィープ(Sweep)、マーチン(Martin)、スプリットリップ(Splitlip)、ルーク(Luke)、セイント(Saint)、サタン(Satan)、チップス(Chips)、スタンプス(Stumps)、スナッパー(Snapper)、ペインフル(Painful)、ボブ(Bob)、スノウボール(Snowball)、ジェリー(Jerry)、ジャッジ(Judge)、スーティ(Sooty)、ルーファス(Rufus)、サイドライツ(Sidelights)、シメオン(Simeon)、スワンカー(Swanker)、チャーグウィン(Chirgwin)、スチーマー(Steamer)、ピーター(Peter)、フラフィ(Fluffy)、スチュワード(Steward)、スリッパリー(Slippery)、エリオット(Elliott)、ロイ(Roy)、ノエル(Noel)、シェークスピア(Shakespeare)、ジェイミー(Jamie)、バマー(Bummer)、スマッツ(Smuts)、ルポイド(Lupoid)、スパイダー(Spider)、セーラー(Sailor)である[84]。
エンデュアランス号の喪失
エンデュアランス号は12月5日にウェッデル海へ向けてサウスジョージアを出発し、ヴァーゼル湾へ進路を向けた。船が南へ進むと流氷に遭遇し進みが遅れた。ウェッデル湾の奥に入ると状況は徐々に悪化し、1915年1月19日にエンデュアランス号は流氷に囲まれた[85]。2月24日には、翌春になるまで閉じ込められたままとなることを認め、シャクルトンは船の日常業務を中止して越冬基地とすることを命じた[86]。船は続く数ヶ月、氷とともにゆっくりと北へ流された。9月に春が到来すると、割れた氷が動き船体に強い圧力をかけた[87]。
このときまで、シャクルトンは船が氷から解放され、ヴァーゼル海へ戻ることが可能になることを期待していた。しかし10月24日、海水が浸み込み始めた。数日後、南緯69°5'、西経51°30'の地点で船を放棄する命令を下した。そして隊員と食糧、装備を氷の上のキャンプへ移した[88]。1915年11月21日、船の残骸が完全に氷の下へ沈んだ[89]。
ほぼ2か月間、シャクルトンと隊員は大きな浮氷の上でキャンプし、貯蔵品があることが判っている約250マイル (402 km)離れたポーレット島へ流されることを願っていた[90]。氷を越えてこの島へ向かう試みに失敗した後、シャクルトンは別の浮氷の上により恒久的なキャンプ(ペイシャンス・キャンプ(Patience Camp))を設置し、氷が彼らを安全な陸地へ運ぶことに期待することにした。4月9日、浮氷が二つに割れたことから、シャクルトンは隊員に救命艇へ移り、一番近い陸地へ向かうことを命じた[91]。海上で5日間苦闘した後、疲弊した彼らはエンデュアランス号が沈没した地点から346マイル (557 km)離れたエレファント島に上陸した[92]。シャクルトンは隊員のことを気にかけており、救命艇の航海中に手袋を無くした写真家のフランク・ハーレーに自分の手袋を与えた。その結果、シャクルトンの指が凍傷になった[93]。
救命ボートの航海
エレファント島は人が住めない土地であり、一般の航路からも遠く離れていた。そのためシャクルトンは、助けが期待できる720海里先のサウスジョージア島の捕鯨基地まで、救命ボートで航海するリスクを負うことに決めた[94]。航海には、20-フート (6.1 m)と小さいが最も頑丈な救命ボート、遠征隊のメインスポンサーにちなみ名付けられたジェイムズ・ケアード号を選んだ[94]。船大工のハリー・マクニッシュが、へりを引き上げ、竜骨を強化、木と帆布で間に合わせの甲板を作り、塗料とseal bloodで穴をふさいだ[94]。シャクルトンは航海に5人の隊員を選んだ。エンデュアランス号の船長で航海術が信頼できるフランク・ワースリー、「同行を懇願した」トム・クリーン、強靭な2人の船員ジョン・ビンセントとティモシー・マッカーシー、そして船大工のマクニシュである[94]。シャクルトンは隊が氷の上で立ち往生している時にマクニシュと対立していた。しかし先の彼の反抗を忘れていなかったものの、専門的な仕事における彼の能力は評価していた[注釈 8][95][96]。
シャクルトンは食糧は4週間分で十分と判断していた。というのも、それまでにサウスジョージア島に着かなければ、ボートも人間も海の藻屑になるだろうと判っていたからだった[97]。ジェームズ・ケアード号は1916年4月24日に出発した。続く15日間、嵐の海のなすがままに転覆の危険に襲われながら、南の海を航海した。5月8日、ワースリーの航海術のおかげでサウスジョージア島の断崖が視界に入ったが、暴風が上陸を妨げた。岩に激突する危険を避けるため、船は沖合で嵐を乗り切ることを余儀なくされた。なおこの嵐ではサウスジョージア島からブエノスアイレスへ向かっていた500トンの蒸気船が沈没していた[98]。翌日、ついに無人の南岸に上陸することができた。少しの休息の後、シャクルトンは再び海に出て北岸の捕鯨基地を目指す危険を冒すのではなく、島の陸地横断を試みることを決断した。ノルウェーの捕鯨者が他の地点をスキーで横断したことはあったようだが、このルートを試した者は過去にはいなかった[99]。上陸地点にマクニッシュ、ヴィンセント、マッカーシーを残して、シャクルトン、ワースリー、クリーンは32マイル (51 km)を36時間かけて歩き山岳地帯を越え、5月20日にストロムネスの捕鯨基地にたどり着いた[100]。
彼らの次にサウスジョージア島の横断に成功したのは、1955年10月のイギリスの探検家ダンカン・カースであり、シャクルトンらと同じルートをたどった。彼らの偉業を称賛して、カースは「私には彼らがどのようにしてこれを成し遂げたのかわからない、やらねばならなかったとしても-50フィートのロープと大工の手斧を持った南極探検の英雄時代の3人の男たちが。」と述べている[101]
救出
シャクルトンはすぐに船を送りサウスジョージア島の反対側にいる3人を救出した。その一方でエレファント島の隊員の救出隊を組織し始めた。救出の最初の3回の試みは島への接近を遮る海氷のため失敗した。彼はチリ政府と交渉し遠洋航海可能な小型タグボート「イエルコ号」を海軍から借りてエレファント島へ向かい、1916年8月30日に、4か月半孤立していた22人の隊員全員を救出した[103]。イエルコ号はまずチリのプンタ・アレーナスへ、数日後バルパライソへ向かい、文明社会へ帰還した隊員たちは同地の群衆により温かく歓迎された[104]。
まだ、オーロラ号が投錨地から風に流され戻ることができなくなった後、マクマード湾のエバンス岬に取り残されていたロス海支隊の隊員がいた。オーロラ号は数か月の漂流の後、ニュージーランドに帰還した。シャクルトンはオーロラ号に合流し、ロス海支隊の救出に向かった。この支隊は多くの困難にかかわらず補給基地を作る任務を完遂していたが、隊長のイニーアス・マッキントッシュを含む3人が命を落とした[105]。
第一次世界大戦
シャクルトンがイギリスへ帰った1917年5月、ヨーロッパは第一次世界大戦の真っ只中であった。困難な旅による疲労で悪化した心臓の状態に悩み、かつ招集されるには年をとり過ぎていたが、シャクルトンは陸軍に志願した。何度もフランスの前線への配属を求めつつ[106]、酒浸りになっていた[107][108]。自宅にほとんど戻らず、しばしばロンドンにいたアメリカ人の愛人ロザリンド・チェストウィンドと過ごしていた[109]。1917年10月、元海軍大臣のサー・エドワード・カーソンのとりなしで[109]南米でイギリスの宣伝活動を行うためブエノスアイレスへ派遣された。しかし外交官には不向きで、アルゼンチンとチリを説得し連合国に参戦させることに失敗した[110]。1918年4月に帰国。同年7月22日、臨時陸軍将校の少佐に任命された[111]。
それからシャクルトンは、採掘作業を建前としてスピッツベルゲンにイギリスの影響力を確立する任務に少しの間かかわった[112]。現地へ向かう途中、トロムソで病気、おそらくは心臓発作になった。ムルマンスクへの遠征部隊への辞令により、ロシア北部へ出発する前に帰国を余儀なくされた[112]。
ロシア内戦での連合軍遠征部隊への従軍
1918年11月11日の休戦協定締結から4か月後、シャクルトンは、ロシア北部の経済発展に関する計画を持ってイギリスへ戻った。1919年4月25日に臨時名誉少佐に任じられ[113]、 エドムンド・アイアンサイド少将(後の元帥)が指揮する、ロシア内戦における北ロシア遠征軍に従軍した。「ロシア北部における軍事作戦に関連して行った様々な任務」に対し、1919年の国王誕生記念叙勲で大英帝国勲章オフィサーを授与され[114]、アイアンサイド将軍により殊勲者公式名簿にも名前が記載された[115]。しかし資金を集めている最中に、ロシア北部がボリシェヴィキの支配下となり、シャクルトンの計画はとん挫した[116]。シャクルトンは1919年10月に少佐の階級を保持したまま陸軍を除隊した[117]。
最後の遠征と死
シャクルトンは講演旅行に戻り、1919年12月にエンデュアランス遠征についての自書『South(エンデュアランス号奇跡の生還)』を出版した[118]。本の売れ行きは良かったが、遠征の資金提供者の一人サー・ロバート・ルーカス=トゥースの遺言執行人が返済を求めてきたため、映画化権を含む同書の権利を全て譲渡しており、シャクルトンは印税を一切受け取れなかった[119]。1920年には講演旅行を辞め、最後の遠征の可能性を考えるようになった。彼は広大な未探検地域である北極のボーフォート海へ行くことを真剣に考え、カナダ政府からの計画に関心を高めた[120]。ダリッジ・カレッジ時代の学友のジョン・クウィーラー・ローウェット[121]が出した資金で、125トンのノルウェー建造の捕鯨船「フォカI号(Foca I)」を購入し、「クエスト号」と改名した[120][122]。計画は変更され、行先は南極となり、シャクルトンは「海洋学と亜南極の探検旅行」と定めた[120]。探検のゴールは明確ではなかったが、南極大陸の周航とツアナキ島のように「失われた」亜南極の島々の調査も目的として言及していた[123][124]。
ローウェットは、シャクルトン=ローウェット遠征と呼ばれるようになる遠征全体の資金を出すことに同意し、遠征隊は1921年9月24日にイギリスを出発した。9月16日にシャクルトンは、ハリー・グリンデル・マシューズが開発したサウンド・オン・フィルムで別れの挨拶を記録。マシューズはこれが最初の「トーキー」であると主張していた[125]。
かつての隊員の何人かはエンデュアランス遠征の給料を全て受け取っていなかったが、彼らの多くが元「ボス」と契約した[123]。遠征隊がリオデジャネイロに着くと、シャクルトンは心臓発作らしきものに襲われた[126]。彼はちゃんとした医師の診察を受けるのを拒み、クエスト号は南へ旅を続け、1922年1月4日にサウスジョージア島に到着した[127]。
翌未明、シャクルトンは遠征隊の医師アレクサンダー・マクリンを船室へ呼び、背中の痛みと不快感を訴えた。マクリンの報告によれば、彼はシャクルトンへ物事をやり過ぎるので「もっと普通の生活を過ごすよう」努力すべきだと伝えたところ、シャクルトンは「君は私にいつも何かを止めるように言うが、何を止めるべきだと言うのか?」と尋ねた。マクリンは「真っ先に酒ですよ、ボス」と返した。その数分後、1922年1月5日午前2時50分に、シャクルトンは致命的な心臓発作に襲われた[128]。
検死を行ったマクリンは、死因は「衰弱している時に過度のストレスを受けて」悪化した冠状動脈のアテロームであると診断した[129]。遺体は、元・帝国南極横断探検隊員のレオナルド・ハッセーがイギリスへ持ち帰ることを申し出た。しかし彼が帰路モンテビデオに寄港中、妻のエミリーから夫の遺体をサウスジョージア島に埋葬してほしいとのメッセージを受け取った[129]。ハッセーは蒸気船ウッドビルで遺体とともにサウスジョージア島へ戻り、1922年3月5日、同島のグリトビケン墓地に、エドワード・ビニーが司祭したルター教会での短い葬儀の後[130]、埋葬された[131][132]。マクリンは日記にこう記した「文明社会から遠く離れ嵐の海に囲まれた島で一人孤独に、最も偉大な冒険の地で眠ることが『ボス』が望んでいたことだろうと、私は思う」。
2011年11月27日、フランク・ワイルドの遺灰がシャクルトンの墓の右側に埋葬された。その粗削りの花崗岩の碑には「フランク・ワイルド 1873-1939、シャクルトンの右腕」と刻まれた[133]。
1907-09年の遠征の医師であったエリック・マーシャルの日記の研究によれば、シャクルトンは先天性心疾患の心房中隔欠損(「心臓内に穴がある」)であり、それが彼の健康問題の原因であったかもしれないとほのめかしている[134]。
死後
初期
シャクルトンの遺体がサウスジョージアに戻る前、モンテビデオの聖トリニティ教会で完全な軍隊式の葬儀が行われ、そして3月2日にはロンドンのセント・ポール大聖堂で国王や他の王族が臨席した葬儀が行われた[130]。その後1年経たずして最初の伝記、ハグ・ロバート・ミル著『The Life of Sir Ernest Shackleton(アーネスト・シャクルトン卿の一生)』が出版された。この本は、探検家への賛辞であるとともに、彼の家族への実質的な支援であった。というのもシャクルトンは死んだとき4万ポンド(2011年の価値で160万ポンド)の負債を抱えていた[42][135]。さらに、彼の子供の教育と母親の生活支援のためシャクルトン記念基金(Shackleton Memorial Fund)が設立された[136]。
続く数十年間、極地の英雄としてのシャクルトンの地位は一般的にスコットより下であった。彼の探検隊は、1925年までにイギリス国内だけで、ステンドグラスや立像、胸像、記念碑など、30以上のモニュメントが造られた[137]。エドウィン・ラッチェンス作のシャクルトンの立像が1932年に王立地理学会のケンジントン本部で披露された[138]が、シャクルトンの公の記念物は比較的少なかった。同様に出版物でもスコットのほうが注目されており、1943年にオックスフォード大学出版局から「偉大な探検家」シリーズの1つとしてシャクルトンに関する40ページの冊子が出版されたが、文化史家のステファニー・バルチュースキーは「大衆文学でスコットばかり扱われる中でシャクルトンが扱われたただ一つの例」と記している。この不釣り合いは1950年代に入っても続いた[139]。
20世紀後半以降
1959年にアルフレッド・ランシング著『Endurance: Shackleton's Incredible Voyage(エンデュアランス号漂流)』が出版された。これは肯定的な視点でシャクルトンを描いた最初の本である。同じくしてスコットへの態度は徐々に変わり、文学作品の中で批判的記述が増え、バルチュースキーが「痛烈な一撃」と評した、1979年出版のローランド・ハントフォードによる伝記『Scott and Amundsen』におけるスコットの扱いで頂点に達した[140]。このスコットの負の一面は世間に真実として受け入れられるようになり[141]、彼を象徴していたヒロイズムは20世紀後半の意識変化の犠牲になった[140]。数年のうちにスコットは、かつてのライバルが沈む一方で人気が急上昇したシャクルトンに、世間の尊敬面で完全に逆転された。2002年、BBCは「100人の偉大なイギリス人」を決めるアンケートを行ったが、シャクルトンの11位に対しスコットは54位であった[142]。2007年には、シャクルトンの偉大な精神を体現し、世界をより良く変えようと努めるリーダーたちを支援することでシャクルトンを顕彰する、「シャクルトン財団(Shackleton Foundation)」が設立された[143]。
2001年、マーガレット・モレル(Margaret Morrell)とステファニー・キャパレル(Stephanie Capparell)が『Shackleton's Way: Leadership Lessons from the Great Antarctic Explorer(史上最強のリーダー シャクルトン)』の中でシャクルトンを企業のリーダーのモデルとして取り上げた。同書は「シャクルトンは今日のビジネス社会の幹部と重なるところがある。彼の人間中心のリーダーシップへのアプローチは管理職にとってのガイドとなる。」と述べた[144]。すぐに他のビジネス書の作家もこれに続き、シャクルトンを混沌から秩序をもたらす手本として紹介した。イギリス・エクセター大学のリーダーシップ研究所はシャクルトンに関する講座を設けた。アメリカのボストンでは、「旅が全て(The Journey is Everything)」というモットーを持つ、「アウトワード・バウンド主義の「シャクルトン学校」が設立された[145]。また、シャクルトンはアメリカ海軍で模範的リーダーとして名を挙げられ、Congressional leadershipに関する教科書の中で、ピーター・L・ステインク(Peter L Steinke)はシャクルトンを「穏やかで思慮深い態度が反射的行動の危険性を無害化させる」「不安にさせないリーダー」の典型例であると呼んでいる[145]。2001年には、アイルランドのキルデア郡アシーにアシー歴史遺産センター博物館が建設され、シャクルトンを称賛し極点探検の英雄時代を記念して、毎年アーネスト・シャクルトン秋季学校が開催されている[146]。
シャクルトンの死を境に、現代の旅行手段や無線技術なしに未知の大陸を地理的・科学的に探検し発見するという南極探検の英雄時代は終わりを告げた。テラノバ遠征でスコット隊の一員だったアプスレイ・チェリー・ガラードは、1922年に出した『世界最悪の旅』で、「科学調査と地理調査を組織化するならスコット、冬の冒険ならウィルソン、極点に急いで行って来るだけならアムンセン、地獄から抜け出したいと思うなら断然シャクルトンだ。」と述べている[147]。
1993年、トレヴァー・ポッツ(Trevor Potts)がシャクルトンに敬意を表して、ジェームズ・ケアード号を復元し、完全な無補給でエレファント島からサウスジョージア島までボートの航海を再現した[148]。
2002年、チャンネル4が、ケネス・ブラナーを主役に1914年の遠征を描いた連続番組『シャクルトン』を制作した。アメリカではA&E Networkで放送され、2つのエミー賞を受賞した[149]。2011年には、ロンドンで行われたクリスティーズのオークションで、1907-09年のニムロド遠征でシャクルトンが「飢えた同行者」へ与えたビスケットが1250ポンドで落札された[150]。2013年1月、イギリスとオーストラリアの合同チームがシャクルトンの1916年の南極海航海の再現を試みた。その航海が祖父の顕彰になると思っていたアーネストの孫アレクサンドラ・シャクルトンの願いに対して集まったチームは、探検家かつ環境科学者のティム・ジャービスが隊長となった[151]。2015年10月には、シャクルトンの勲章とメダルがオークションにかけられ、585,000ポンドまで値が吊り上がった[152]。
イギリスの商船員訓練学校であるサウサンプトンのワーサッシュ商船学校は、生徒寮の一つに シャクルトンの名前を付けている[153]。
表彰および勲章
イギリスの勲章
- 極地メダル(1904年。ニムロド遠征により1909年に留め金を授与)
- 下級勲爵士(1909年)
- ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー(CVO、1909年。1907年にメンバー章(MVO)を受勲)
- 大英帝国勲章オフィサー、軍事部門 (OBE, 1918)
- 英国従軍記章(1918年)
- 第一次大戦勝利メダル(1918年。MID)
他国の勲章
- デンマーク - ダンネブロ勲章ナイト(1909年)
- スウェーデン - 北極星勲章ナイト (1909年)
- ノルウェー - 聖オラフ勲章 (1909年)
- フランス - レジオンドヌール勲章オフィシエ(1909年)
- イタリア - 王冠勲章ナイト (1910年)
- ロシア - 3等聖アンナ勲章(1910年)
- プロイセン - 3等王冠勲章 (1911年)
- チリ - オーダー勲章オフィサー (1916年)
表彰
- アントワープ王立地理協会ゴールドメダル(1909年)
- Boston Medal, with bar (1910)
大衆文化
シャクルトンは、数多くのテレビや映画作品で描かれてきた。彼を演じた俳優には、ジェームズ・オーブリー、ケネス・ブラナー、マーク・デクスター、マイケル・ガンボン、デレク・ジャコビ、サイモン・プレブル 、デイヴィッド・スコフィールド、デイビット・イェランドらがいる[155]。
2014年には、ファースト・セカンドが、ニック・ベルトッツィ作画で、1914年の帝国南極横断探検隊を描いたグラフィックノベル『シャクルトン:南極の冒険(Shackleton: Antarctic Odyssey)』を出版した。
2015年には、ジョー・ディピエトロ、ヴァレリー・ヴィゴダ(Valerie Vigoda)、ブレンダン・ミルバーン(Brendan Milburn)作のミュージカル『Ernest Shackleton Loves Me』がニュージャージー州のジョージセント劇場で初演された[156]。
「シャクルトンの広告」
シャクルトンが南極探検の隊員募集のために出した新聞広告と言われている文章がある。
MEN WANTED for Hazardous Journey.
Small wages, bitter cold, long months of complete darkness, constant danger, safe return doubtful.
Honor and recognition in case of success.Ernest Shackleton — 「求む男子。至難の旅。
僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証無し。
成功の暁には名誉と賞賛を得る。アーネスト・シャクルトン」
一番古くは1949年出版の『The 100 Greatest Advertisements』にシャクルトンの広告として採り上げられているものの、シャクルトンの時代の新聞等を調査しても、この広告が本物であるという証拠は一度として見つかっていない[157][158]。スミソニアン博物館は、この「広告」がシャクルトンによるものというのは、おそらく「神話(myth)」であろうとみている[159]。
関連項目
- アブロ シャクルトン - イギリス空軍が使用した長距離洋上哨戒機。シャクルトンに因んで命名された。
- オーロラ・オーストラリス (書籍) - ニムロド遠征の間に、史上初めて南極で製作された本。
- アーネスト・シャクルトン (極地補給船) - 英国南極研究所が運用する調査船。
- シャクルトン (クレーター) - 月の南極点にあるクレーター。
- サードマン現象 - トラウマになる経験の間に、「霊」のような見えない存在が元気づけたり支えたりする現象を示す言葉。
脚注
- ^ シャクルトンの写真とウィルソンの絵を元にした現代の計算では、最南端到達地点は82°11'とされている(Crane, pp. 214–5)。
- ^ シャクルトンはダンディー選挙区から立候補したが、トップの9,276票に対し3,865票と、5候補のうちの第4位に終わった(Morrell & Capparell, p. 32)。
- ^ ベアードモアの援助は無償の資金ではなく、クライスデール銀行からの7,000ポンド(2008年の価値で350,000ポンド)の借入に対する保証の形をとった(Riffenburgh 2005, p. 106)。
- ^ 南極点までの距離は一般的に97もしくは98マイルとされるが、これは海里による距離である(Shackleton, Heart of the Antarctic, p. 210)
- ^ この遠征にはシャクルトンは参加せず、モーソンが隊長として、1911-13年オーストラリア南極遠征として行われた(Riffenburgh 2005, p. 298)。
- ^ フィルヒナーは、ヴァーゼル湾の上陸可能地点の発見を含む、シャクルトンに大いに役立つ地理情報を持ち帰ることができた(Huntford, p. 367)。
- ^ 8月3日、海軍本部からただ一言「続行せよ(Proceed)」という電報の後、チャーチルから長文の電報が届いた(シャクルトン, South, p. 20)。
- ^ シャクルトンはエンデュアランス号喪失時に、マクニッシュの飼い猫「ミセス・チッピー」を射殺する命令を下していた(シャクルトン, South, p. 133)。マクニッシュの「反抗」についてはHuntford, pp. 475–76を参照。ジェームズ・ケアード号の航海におけるマクニッシュの英雄的行為にも関わらず、シャクルトンは彼を極地メダル授与者に推薦するするのを拒否した(Huntford, p. 656)。
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外部リンク
- Ernest Shackleton - IMDb
- Sir Ernest Shackleton, 1874–1922 – シャクルトン家が作ったホームページ
- The Shackleton Foundation - a charity set up to honor his legacy by supporting social projects
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- Ernest Shackleton and dogs on Nimrod back from expedition to reach Antarctica, 1909 (photo by Philip Brocklehurst)
- Ernest Shackleton speaking on Antarctic attempt (archive.org – Free download)
- Tim Jarvis attempts a 2013 recreation of Ernest Shackleton's 1916 antarctic expedition
- アーネスト・シャクルトンの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Ernest Henry Shackletonに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- アーネスト・シャクルトンの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
- Wax cylinder recording of Shackleton speaking in 1910
- Restored Photos From Shackleton’s Antarctic Wreck Smithsonian December 11, 2015