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「カール1世 (オーストリア皇帝)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
{{基礎情報 君主
|人名=カール1世
| 人名 = カール1世
|各国語表記={{Lang|de|Karl I.}}
| 各国語表記 = Karl I
|君主号=[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]][[オーストリア皇帝|皇帝]][[ハンガリー王|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|国王]]
| 君主号 = [[オーストリア皇帝]]<br>[[ハンガリー一覧|ハンガリー国王]]
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| 画像 = Emperor karl of austria-hungary 1917.png
|画像サイズ=230px
| 画像サイズ =
|画像説明=カール1世
| 画像説明 = カール1世
|在位=[[1916年]][[11月21日]] [[1918年]][[11月12日]]
| 在位 = [[1916年]][[11月21日]] - [[1918年]][[11月12日]]
|戴冠日=[[1916年]][[12月30日]]、於[[マーチャーシュ聖堂]]
| 戴冠日 = [[1916年]][[12月30日]]、於[[マーチャーシュ聖堂]](ハンガリー国王)
| 別号 = [[ボヘミア君主一覧|ボヘミア国王]]<br>[[ダルマチア王国|ダルマチア国王]]<br>[[クロアチア王国 (1527年-1868年)|クロアチア国王]]<br>[[スラヴォニア王国|スアヴォニア国王]]<br>[[ガリツィア・ロドメリア王国|ガリツィア=ロドメリア国王]]
|別号=
|全名={{Lang|de|Karl Franz Joseph Ludwig Hubert Georg Maria von Habsburg-Lothringen}}<br />カール・フランツ・ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フーベルト・ゲオルク・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
| 全名 = {{Collapsible list|title=一覧参照|{{Lang|de|Karl Franz Joseph Ludwig Hubert Georg Otto Maria von Habsburg-Lothringen}}<br />カール・フランツ・ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フーベルト・ゲオルク・オットー・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン}}
|出生日={{生年月日と年齢|1887|8|17|no}}
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1887|8|17|no}}
|生地={{AUT1867}}、[[:en:Persenbeug-Gottsdorf|ペルゼンボイク=ゴッツドルフ]]、[[:de:Schloss Persenbeug|ペルゼンボイク城]]
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|死亡日={{死亡年月日と没年齢|1887|8|17|1922|4|1}}
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1887|8|17|1922|4|1}}
|没地=[[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|25x20px]] [[ポルトガル第一共和政|ポルトガル]][[フンシャル]]
| 没地 = [[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|25x20px]] [[ポルトガル第一共和政|ポルトガル]]<br>[[フンシャル]]
|埋葬日=[[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|25x20px]] [[ポルトガル第一共和政|ポルトガル]][[フンシャル]]、[[:en:Monte (Funchal)|ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会]]
| 埋葬日 = [[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|25x20px]] [[ポルトガル第一共和政|ポルトガル]]<br>[[フンシャル]]<br>{{仮リンク|ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会|de|Nossa Senhora do Monte (Funchal)}}
|埋葬地={{CHE}}、[[:en:Muri|ムーリ]]、[[:en:Muri Abbey|ムーリ修道院]](心臓)
| 埋葬地 = {{CHE}}<br>{{仮リンク|ムーリ|en|Muri, Aargau}}<br>[[ムーリ修道院]](心臓)
|配偶者1=[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]
| 配偶者1 = [[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]
|子女={{Collapsible list|title=一覧参照|[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]<br />[[:en:Archduchess Adelheid of Austria|アーデルハイト]]<br />[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]<br />[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]<br />[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]<br />[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]<br />[[:en:Archduchess Charlotte of Austria|シャルロッテ]]<br />[[:en:Archduchess Elisabeth of Austria (1922–1993)|エリーザベト]]}}
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|王家=[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
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|父親=[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ]]
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|母親=[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン]]
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| 宗教 = [[キリスト教]][[カトリック教会]]
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| サイン = Podpis Karla I.png
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'''カール1世'''({{Lang-de|Karl I.}}[[1887年]][[8月17日]] - [[1922年]][[4月1日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]最後の[[オーストリア皇帝]]および[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|国王]](在位:[[1916年]][[11月21日]] - [[1918年]][[11月12日]])。ハンガリー国王としては'''ーロイ4世'''({{Lang-hu|IV. Károly}})。オーストリア帝国内ベーメン国王としては'''カレル3世'''({{Lang-cs|Karel III.}})。全名は'''カール・フランツ・ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フーベルト・ゲオル・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''(ドイツ語:Karl Franz Joseph Ludwig Hubert Georg Maria von Habsburg-Lothringen)
'''カール1世'''({{Lang-de|Karl I}}, [[1887年]][[8月17日]] - [[1922年]][[4月1日]])は、最後の[[オーストリア皇帝]]にして[[ハンガリー君主一覧|ハンガリー国王]][[ボヘミア君主一覧|ボヘミア国王]](在位:[[1916年]][[11月21日]] - [[1918年]][[11月12日]])。[[カトリ教会]]の[[福者]]

== 概要 ==
大伯父である[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の後継者として1916年に即位し、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の統治者となった。[[第一次世界大戦]]に敗れて「国事不関与」を宣言したが、[[王権神授説]]を主張して退位要求を拒絶し、[[スイス]]に亡命。莫大な皇室財産のほとんどを新生の[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]]に没収された後、二度にわたって[[カール1世の復帰運動|ハンガリー国王への復帰運動]]を企てたが失敗し、[[ポルトガル]]領[[マデイラ島]]に流されて困窮の中で病死した。

政治的には成すところの少ない君主だったが、[[カトリック教会]]への篤い信仰心を持ち、[[フランス]]首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]からは「[[中欧]]における教皇<ref name="「福者に。」 p.4"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.4</ref>」と、時の[[ローマ教皇]][[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクト15世]]からは「私のお気に入りの子<ref name="「福者に。」 p.4" />」と呼ばれ、[[20世紀]]の[[国家元首]]としては初めての[[福者]]になった。かつてのハプスブルク君主国の領域を中心に崇敬を集めている。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[File:Zitawed.jpg|thumb|left|200px|ツィタ・フォン・ブルボン=パルマとの結婚式。]]
[[File:Persenbeug, Lower Austria, Austro-Hungary-LCCN2002708373.jpg|thumb|left|200px|[[1895年]]頃の{{仮リンク|ペルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}]]
1887年、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の皇族[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ・ヨーゼフ大公]]と[[ザクセン王国|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|国王]][[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]]の長男として、ドナウ河畔の{{仮リンク|ベルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}に生まれる。祖父[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ大公]]は[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール大公]]の三男で、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]および[[メキシコ帝国|メキシコ皇帝]][[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]の弟に当たる。領土であるヴァルトホイツや父オットー・フランツ大公が司令官を務めていた[[プラハ]]で、とくに母の寵愛を受けて育った。


[[File:Kaiser Karl I as a child.jpg|thumb|right|200px|幼少のカール([[1889年]]頃)]]
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で皇位継承者に指名されていた伯父の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]は、[[ボヘミア王国|ベーメン]]の伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]と結婚したため、[[貴賤結婚]]を認めない[[ハプスブルク家]]の家法により、その子孫の皇位継承権をすでに放棄していた。そのため、フランツ・フェルディナント大公に次ぐ皇位継承権者は、その甥であるカールと目されていた。
[[1887年]][[8月17日]]、[[ドナウ川]]の河畔に位置する{{仮リンク|ペルゼンボイク城|de|Schloss Persenbeug}}において生を享けた。父はオーストリア皇族[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ大公]]、母は[[ザクセン王国|ザクセン]]国王[[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン|マリア・ヨーゼファ]]。


出生当時、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]には長男として[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ皇太子]]がおり、皇弟[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ大公]]の孫として誕生したカールは帝位継承とはかけ離れた存在だった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=89}}。誰の目にも未来の皇帝とは映らなかったこの新大公の誕生のニュースは、当時は宮廷に関する他の記事といっしょに扱われたにすぎなかった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=89}}。
1911年に[[ブルボン家]]の支流である[[パルマ公の一覧|パルマ公]][[ロベルト1世 (パルマ公)|ロベルト1世]]の娘[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]と結婚した。フランツ・フェルディナント大公の貴賤結婚に落胆していたフランツ・ヨーゼフ1世はカールの結婚を歓迎し、長男[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]が生まれた際は随喜の涙を流したという。


<center>'''カール生誕時のオーストリア皇位継承順位'''(灰色は故人)</center>
カールは早くから軍務に就き、オーストリア[[陸軍少将]]まで昇進した。表面的には平穏な日常が続いていたが、[[1914年]]に[[サラエボ事件]]でフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されると、正式に皇位継承者に指名される。
{{familytree/start}}
{{familytree | | |,|-|-|-|v|-|-|-|.}}
{{familytree | | FRA | |MAX | |KARLUD | | FRA=オーストリア皇帝<br/>[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]|MAX=メキシコ皇帝<br/>[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]|KARLUD=[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]<br/>第2位
|boxstyle_MAX=background-color: #808080;
}}
{{familytree | | |!| | | | | | | |)|-|-|-|.}}
{{familytree | |RUD | | | | | | FRAFE | | |OTT | | RUD=オーストリア皇太子<br/>[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]<br/>継承順位第1位|FRAFE=[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]<br/>第3位|OTT=[[オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ|オットー・フランツ]]<br/>第4位
}}
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | |!}}
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | KAR | || | KAR='''カール'''<br/>第5位}}
{{familytree/end}}
<br />
[[1889年]]1月30日、2歳に満たないときに「{{仮リンク|マイヤーリンク事件|en|Mayerling incident}}」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]のどちらかが後継者だと目された。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、依然としてオットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。

=== 少年期 ===
[[File:Otto Franz Austria Maria Josepha.jpg|thumb|right|200px|オットー・フランツ大公一家。左下の少年がカール。母に抱かれているのは弟[[マクシミリアン・オイゲン・フォン・エスターライヒ|マクシミリアン・オイゲン]]([[1900年]]頃)]]
一家の領地である{{仮リンク|ヴィラ・ヴァルトホルツ|en|Villa Wartholz}}や父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていた[[プラハ]]で、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずに[[ホテル・ザッハー]]のロビーを横切るという事件を起こしたこともあった<ref>ホフマン(2014) p.280</ref>。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。

皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールは[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]への篤い信仰心を持つようになった<ref name="「福者に。」 p.1"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.1</ref>。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの[[聖母マリア]]の聖堂に行くのを好んだ。

ある日、{{仮リンク|ライヒェナウ・アン・デア・ラクス|en|Reichenau an der Rax}}の領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した<ref name="「福者に。」 p.1" />。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、[[神の母]]を傷つけたという思いで泣き出してしまったという<ref name="「福者に。」 p.1" />。

[[1896年]]、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢[[ゾフィー・ホテク]]と恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで[[1900年]]に[[貴賤結婚]]した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。[[1906年]]、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。

=== パルマ公女ツィタとの結婚 ===
[[File:Hochzeit Erzh Karl und Zita Schwarzau 1911c.jpg|thumb|right|300px|[[1911年]][[10月21日]]、[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]公女との結婚式。写真右側の老人は皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]。この日、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]と[[ブルボン=パルマ家]]のほとんどの人々が一堂に会した<ref name="江村(2013) p.388"> 江村(2013) p.388</ref>]]
[[マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル]]の用意周到な計画によって、[[1909年]]に[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]と出会う{{#tag:ref|カールとツィタは幼少期に何度か会ってはいるが、まともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=54}}。|group=注釈}}{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=53}}。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=54}}、さらにツィタにとっては母の妹であった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=53}}。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。

将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘[[エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ|エリーザベト・フランツィスカ]]を嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=60}}。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度は[[オルレアン家]]の血を引く[[デンマーク]]王女[[マルグレーテ・ア・ダンマーク (1895-1992)|マルグレーテ]]をカールと結婚させようと考えた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=60}}。

[[1910年]]秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=61}}。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=61}}。[[1911年]]5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=62}}。しかし旧[[パルマ公国]]の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=62}}。

[[1911年]]6月24日、ローマ教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=67}}。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=67}}。同年10月21日、{{仮リンク|シュヴァルツアウ|de|Schwarzau am Steinfeld}}の城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。

=== 第一次世界大戦、勃発 ===
[[File:Prestolonaslednik Karel na tirolski fronti.jpg|thumb|right|200px|[[チロル]]前線を視察するカール(1915年)]]
[[File:Bosniaks in Italy 1915.jpg|thumb|right|200px|[[イゾンツォ川]]前線の[[ボスニア]]人部隊を視察するカール(1915年)]]
[[1914年]][[6月28日]]、[[サラエボ事件]]で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、[[第一次世界大戦]]が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=96}}。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=96}}。

やがてカールのもとには時の[[ローマ教皇]][[ピウス10世]]からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが<ref name="「福者に。」 p.2"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.2</ref>、しかし当時カールは[[ウィーン]]の政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]への[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=105}}。カールは新たな皇位継承者になったにもかかわらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=105}}。

フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後しばらくしてカール一家は[[シェーンブルン宮殿]]で皇帝と同居するようになった<ref name="江村(2013) p.412"> 江村(2013) p.412</ref>。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評価を受けている。「私はカールを非常に高く評価している。カールは私に明確に意見を表明する。しかし私が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない<ref name="江村(2013) p.412" />。」

参謀本部長[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]は、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=113}}。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、[[1915年]]7月にようやく皇帝の側近に任命され、決裁の済んだ報告書を見せられるようになった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=113}}。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=114}}。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=114}}。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=114}}。

[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]においてカールは、[[イゾンツォの戦い]]の際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた<ref name="「福者に。」 p.2" />。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという<ref name="「福者に。」 p.2" />。


=== 即位 ===
=== 即位 ===
[[1916年]]11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=120}}。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながら「私は多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」と語ったとされる{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=120}}。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールは[[オーストリア皇帝]]「'''カール1世'''」と呼ばれることとなった。
[[File:Kroenung Budapest Karl und Zita 1916a.jpg|thumb|left|200px|1916年に執り行われたカール1世の戴冠式。皇后ツィタ、皇太子オットーとともに。]]
[[1916年]]、[[第一次世界大戦]]中にフランツ・ヨーゼフ1世が86歳で崩御し、カールは29歳で皇帝に即位する。[[1917年]]2月に[[独墺同盟|同盟国]]の[[ドイツ帝国|ドイツ]]より[[元帥 (ドイツ)|ドイツ元帥]]の称号を贈られた。


新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=127}}。[[ハンガリー人]]の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた[[燕尾服]]の着用を不要とするなどした{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=127}}。侍従武官{{仮リンク|アルベルト・フォン・マルグッティ|de|Albert von Margutti}}はカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、[[ハリケーン]]のごとし」と述べている{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=128}}。
フランツ・ヨーゼフ1世の崩御後、オーストリアは急速に戦争終結を志向し始めた。カール1世の第一の関心事は、できる限り好条件で大戦から手を引くことだった。早急に講和を達成することを決意したが、しかし依然として勝利を望んでいたドイツの将校たちの頑強な反対に遭った。オーストリアでは、[[君主制]]だけでも救いうる、時機を得た講和を妨げたドイツに対する怒りが増大した。


先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=128}}。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=128}}。
=== 協商国との和平交渉 ===
ウィーン宮廷は、ドイツからの分離と協商国との単独講和を考慮し始めた。ハンガリーの外交官やクロアチアの将軍からも皇帝に対して同様の勧告があった。また、ツィタ皇后の一族、すなわち[[フランス]]の伝統の中で教育を受け、ドイツに対して憎しみの感情を抱いている[[ブルボン・パルマ家]]の人々も、オーストリアの単独講和を熱望していた<ref>バウアー(1989) P.88</ref>。カール1世自身の気持ちも、ツィタと結婚していたことから、ドイツではなくフランスおよびイタリアと結びついていた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.116</ref>。


1916年12月30日、カールは[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー君主一覧|国王]]「'''カーロイ4世'''」として即位することとなった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=139}}。[[聖イシュトヴァーンの王冠]]を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にもかかわらず荘厳華麗な即位式が[[ブダペスト]]の[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=139}}。この即位式においてカールは「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と宣誓した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=146}}。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=146}}。
1917年、皇后の兄であり[[ベルギー]]軍の将校でもあった[[シスト・ディ・ボルボーネ=パルマ|パルマ公子シクストゥス]]を通して、秘密裏に[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側との平和交渉に着手した。シクストゥス公子と弟の[[サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ|グザヴィエ公子]]は、[[フランス第三共和政|フランス共和国]]との単独講和について秘密交渉によってフランス大統領[[レイモン・ポアンカレ]]と合意を得た。しかし1918年4月に独墺間の離反を謀ったフランス首相[[ジョルジュ・クレマンソー]]によって暴露され、交渉は水泡に帰す。これで同盟国だったドイツの信用も失う結果となった。また、オーストリア国内においても、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった<ref>バウアー(1989) P.89</ref>。


<gallery>
=== 大戦末期 ===
File:Funeral Procession for Emperor Franz Josef 1916.jpg|[[カプツィーナー納骨堂]]へのフランツ・ヨーゼフ1世の葬送行列のなかの新皇帝カール。従来は故皇帝の棺の後ろに立つのは新皇帝のみで、その後に大公・皇后という順序であったが、カールは慣例化した様式を廃止し、皇后ツィタ・皇太子オットーと並んだ{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=125}}。
[[1918年]]、[[中央同盟国|同盟国]]側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反([[チェコスロバキア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カール1世は帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。10月12日、帝室の保養地[[バーデン]]にすべての民族の32名の代議士を招いた。「諸民族内閣」を発足させようとしたのであるが、しかし[[チェコ人]]と[[南スラヴ]]人は「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と答えた<ref>バウアー(1989) P.112</ref>。ウィーン宮廷は、[[ボヘミア]]、[[クロアチア]]、[[ガリツィア]]などで暴動が公然と準備されているのを見た。カール1世はこれを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した<ref>バウアー(1989) P.113</ref>。
File:Karloath.jpg|[[マーチャーシュ聖堂]]で挙行された、ハンガリー国王「'''カーロイ4世'''」としての即位の宣誓。
File:Kroenung Budapest Karl und Zita 1916a.jpg|ハンガリー国王・王妃・王太子となったカール・ツィタ・オットー。
</gallery>

=== ジクストゥス事件 ===
{{main|シクストゥス事件}}
[[File:Sixte de Bourbon-Parme 1914.jpg|thumb|right|200px|皇后ツィタの兄、[[パルマ公国|パルマ]]公子[[シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマ|ジクストゥス]]]]
[[1917年]]3月23日夜、カールは[[ラクセンブルク宮殿|ラクセンブルク城]]において、皇后ツィタの二人の兄[[シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマ|パルマ公子ジクストゥス]]と[[サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ|グザヴィエ公子]]と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する[[中央同盟国|同盟国]]ドイツ抜きに、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]と英仏との単独講和を締結するためであった<ref name="江村(2013) p.421"> 江村(2013) p.421</ref>。[[ドイツ帝国]]はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。

カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=160}}、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=160}}。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある<ref name="「福者に。」 p.3"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.3</ref>。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らにこの時渡した手紙はかえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=158}}。

*ベルギー復興の支援
*[[アドリア海]]への通行権を伴った[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の独立の保証
*[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]退位後の[[サンクトペテルブルク]]の状況が明確になった時点での、[[コンスタンティノープル]]の[[ロシア帝国|ロシア]]への割譲の賛成

手紙は上記のような内容で、さらに次のように明記してあった。
{{Quotation|朕はジクストゥスを通して、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]][[レイモン・ポアンカレ]]氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、(ドイツ帝国領)[[アルザス=ロレーヌ]]地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=158}}。}}

フランス政府は、パルマ公子を仲介役としてのオーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=163}}。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=163}}。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=163}}。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。

しかし、1918年にフランス首相[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]がこの秘密交渉を暴露してしまった<ref name="江村(2013) p.421" />。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=182}}、次にその手紙の存在を認めつつ「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言った{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=182}}。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し<ref name="バウアー(1989) P.89"> バウアー(1989) P.89</ref>、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった<ref name="バウアー(1989) P.89" />。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家の[[プロパガンダ]]も広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つ[[ブルボン=パルマ家]]出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。

{{quotation|大戦に参戦した国家の責任者の中で、オーストリアのカール皇帝だけが品位のある人物であったが、誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。彼は心から平和を願っていたが、そのためにみんなから軽蔑されたのだ。こうして唯一無二のチャンスは失われてしまった<ref name="「福者に。」 p.3" />。|批評家[[アナトール・フランス]]}}

=== 帝国諸民族の離反 ===
[[1918年]]、[[中央同盟国|同盟国]]側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反([[チェコスロバキア]]、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]などが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する[[連合国 (第一次世界大戦)|協商国]]からの返答がない中、カールは帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。

10月12日、帝室の保養地[[バーデン]]にすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかし[[チェコ人]]と[[南スラヴ]]人からは「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と返答された<ref>バウアー(1989) P.112</ref>。[[ボヘミア]]、[[クロアチア]]、[[ガリツィア]]などで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した<ref>バウアー(1989) P.113</ref>。
{{Quotation|オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。}}
{{Quotation|オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。}}
カール1世にはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けて[[ハンガリー王国]]議会では、[[1867年]]の[[アウスグライヒ]]の前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された<ref>バウアー(1989) P.129</ref>。
カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けて[[ハンガリー王国]]議会では、[[1867年]]の[[アウスグライヒ]]の前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された<ref>バウアー(1989) P.129</ref>。


11月3日、カール1世は正式に帝国連邦化を宣言し、同日[[イタリア王国|イタリア]]と[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を結び無条件降伏した。11月9日、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位を宣言した。その直後ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]の主導する政権が誕生したことを受けて、[[オーストリア社会民主党]]はカール1世の退位を要求し始めた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.131</ref>。11月11日、[[シェーンブルン宮殿]]内の「青磁の間」において、カール1世は次の宣言を発した。
11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日[[イタリア王国]]と[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を結び無条件降伏した。
{{Quotation|すべての人民への変わらぬ親愛の情をもって、今ここに宣する。朕は自らが人民の自由な発展に対する障碍になることを欲せず。人民は、その代表者を通じて政府を継承した。朕は国事への一切の関与を放棄することを宣する。}}
これは社会福祉相[[イグナーツ・ザイペル]]の起草したものであり、いわゆる「国事不関与宣言」である。この後、カール1世は家族とともにウィーン郊外の{{仮リンク|エッカルトザウ城|de|Schloss Eckartsau}}へと移った。同日、国家評議会において、共和国と同時にドイツとの[[アンシュルス|合邦]]を公布すべきであるとする動議が多数決によって採択された。[[普墺戦争]]以来のハプスブルク家とホーエンツォレルン家の争いは、オーストリアをドイツから引き離したが、敗戦によって両家がともに君主の座を追われると、[[大ドイツ主義]]的な統一思想が急速に息を吹き返したのである<ref>バウアー(1989) p.151</ref>。


=== 「国事不関与」の宣言 ===
なお、カール1世はあくまで国事への不関与を宣言しただけであって、正式にはけっして退位を宣言しなかった<ref>リケット(1995) p.128</ref>。要求された正式な帝位放棄をカール1世は拒絶し、3月23日、[[イギリス]]の保護のもとで[[スイス]]へ亡命した。民族議会は、このカール1世の決意を受けて、オーストリア国内のハプスブルク家の全員に国外退去を命令し、ハプスブルク家の財産を戦傷者のためにすべて没収することを決めた。これらの対処は1919年4月2日に法律で定められた<ref>バウアー(1989) p.185</ref>。(ただし、民間人として生きることに同意した者は別だった。同意した者は引き続きオーストリアに住むことができた<ref>リケット(1995) p.128</ref>。)
[[File:Verzichtserklärung Karl I. 11.11.1918.jpg|thumb|right|200px|[[シェーンブルン宮殿]]で署名したオーストリア版「国事不関与」の文書]]
[[File:Eckartsaui nyilatkozat.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|エッカルツアウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}で署名したハンガリー版「国事不関与」の文書]]
11月9日、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位を宣言した。その直後ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]の主導する政権が誕生したことを受けて、[[オーストリア社会民主党]]は[[オーストリア皇帝]]も退位するよう要求し始めた<ref>ジェラヴィッチ(1994) p.131</ref>。[[キリスト教社会党 (オーストリア)|キリスト教社会党]]は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。


{{Quotation|今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。'''朕はすべての[[国事行為]]の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。'''国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=226}}。|11月11日午後3時、[[シェーンブルン宮殿]]内の「青磁の間」においてカールが署名した声明文。}}
=== 復権運動、マデイラ島への亡命 ===
こうして、700年余りに及ぶハプスブルク家のオーストリア支配が終焉を迎えた。その後、1921年に[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]における主権を取り戻そうとした([[カール1世の復帰運動]])が失敗し、「冒険はもちろんのこと、政治活動すらしない」という約束を反故にしたことによって、スイス当局からは亡命の延長を拒否された。そこで各国に問い合わせた結果、[[ポルトガル第一共和政|ポルトガル]]がカール1世を受け入れてくれる唯一の国だった<ref>リケット(1995) p.129</ref>。大西洋のポルトガル領[[マデイラ諸島|マデイラ島]]にイギリスのモニトル艦で送られ、翌1922年4月1日に[[肺炎]]のため死去した。享年35歳。マデイラ島での生活は、満足に食事も採れないほど貧しいものだったという。ツィタ皇后は、財政的な困窮から医者を呼ぶことをためらい、それが肺炎を悪化させてカール1世の死の原因となった。


これは{{仮リンク|ハインリッヒ・ラマシュ|de|Heinrich Lammasch}}首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか! 朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=222-223}}。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=222-223}}。続いてこの最終的草稿文を見せられた皇后ツィタも同様に「これは退位以外の何物でもありません」と激怒したが、この際にも退位宣言ではないことが起草者によって保証された{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=224}}。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=226}}。
政治的には成すところの少なかったカール1世であったが、[[キリスト教徒]]としては非常に敬虔な人物だった。死後82年目の2004年10月3日、[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]によって[[列福]]されている。20世紀の[[元首|国家元首]]で福者となったのはカール1世が初めてである。


2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=230}}。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が[[王権神授説]]にもとづいていることを述べ、王位から退くことは明確に否定した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=230}}。
なお、カール1世の子孫は[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]の各国の君主の姻戚であり、それぞれ順位は低いものの、これらの君主の地位の継承権を現在でも保持している。


=== オーストリアからの脱出 ===
== 家族 ==
[[File:Schloss Eckartsau mit Schlosspark.jpg|thumb|left|200px|エッカルツアウ宮殿。「国事不関与」宣言後の4ヵ月間、カール一家はここで過ごした]]
[[ファイル:Karel Zita deti.jpg|thumb|right|180px|カールと家族(1914年)]]
[[File:Zasche Heimkehr-Habsburger-1919.jpg|thumb|right|300px|共和国の夜明けを描いた絵。中世以来の[[ハプスブルク家]]がオーストリアから去ってゆく様子。先頭から王朝発祥地[[ハプスブルク城]]、始祖王[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と続き、最後尾がカール1世(1919年)]]
皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちに[[シェーンブルン宮殿]]を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿から{{仮リンク|エッカルツアウ宮殿|de|Schloss Eckartsau}}に移った。
* [[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]](1912年11月20日 - 2011年7月4日) - 皇太子、ハプスブルク家前当主、元[[欧州議会議員]]。
* アーデルハイト(1914年1月3日 - 1971年10月2日)
* [[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]](1915年2月8日 - 1996年2月7日)
* [[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]](1916年5月31日 - 2011年9月6日)
* [[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]](1918年3月10日 - 2007年12月11日)
* [[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]](1919年9月5日 - 2010年3月15日)
* シャルロッテ(1921年3月1日 - 1989年7月23日) - メクレンブルク公[[ゲオルク・ツー・メクレンブルク|ゲオルク]]と結婚。
* エリーザベト(1922年5月31日 - 1993年1月6日)


[[1919年]]1月、共和国初代首相[[カール・レンナー]]がエッカルツアウ城のカールのもとを訪れた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=232}}。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=232}}。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=232}}。実際、2月にはエッカルツアウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=234}}。カールは[[スイス]]への亡命を真剣に考え始めた。
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[オットー・バウアー]]|translator=[[酒井晨史]]|date=1989年|title=オーストリア革命|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=4-657-89619-9|}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年(平成6年)|title=近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]]|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年(平成7年)|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3|}}


近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、[[ロシア革命]]の際に[[ロマノフ家]]を英国王室と縁戚関係にあるにもかかわらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=234}}。イギリスから派遣されてきた{{仮リンク|エドワード・ライル・ストラット|en|Edward Lisle Strutt}}大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=234}}。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=238-239}}。これにレンナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=238-239}}。
=== 出典 ===
<references />


3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。
== 外部リンク ==
{{Quotation|[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ・オーストリア共和国]]政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。|3月24日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅での声明文{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=242}}}}
{{commons&cat|Karl I. (Österreich-Ungarn)|Karl I of Austria|カール1世}}
この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文は[[ローマ教皇]]やオーストリア首相の手元のみに送付された{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=242}}。3月27日、レンナーは国民議会に「ハプスブルク家は永久に統治権およびすべての特権を失効する」という法案を提出した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=246}}。この法案は4月3日に可決され、さらに王冠に基づいた財産のみならずハプスブルク家の私的財産のほとんどが共和国に没収された{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=247}}。わずかに残された財産も、財産税課税のために差し押さえられてしまった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=247}}。([[ハプスブルク法]]を参照)
* [http://www.oct-net.ne.jp/~kusubook/misc/aus01.html くすのき出版 カール1世列福に関する記事]


=== ハンガリー国王への復帰運動 ===
{| class="navbox collapsible collapsed" style="width:100%; margin:auto;"
{{main|カーロイ4世の復帰運動}}
[[File:KarlIVBassersdorffI.jpg|thumb|right|200px|カールのテーマとしてのハンガリーへの飛行]]
[[File:Vasútállomás, tábori mise 1921. X. 22 én, IV. Károly király és Zita királyné (a lámpaoszloptól balra) visszatérése során. Fortepan 11639.jpg|thumb|right|200px|1921年10月、ハンガリーでの復権に失敗した後、カール夫妻が祈っている写真]]
皇帝一家に対する[[スイス]]側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴りをひそめた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=246}}。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようになり、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=246}}。

[[1919年]]3月21日、共産主義者の[[クン・ベーラ]]らによって共和国大統領{{仮リンク|カーロイ・ミハーイ|en|Mihály Károlyi}}の政権が倒された([[ハンガリー評議会共和国]])。クンらは急進的共産政権を打ち立てようとしたため、多くのハンガリーの資産家や政治家がウィーンを中心とする国外に亡命した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=251}}。新政権に対して[[ホルティ・ミクローシュ]]などは反旗を翻し、政権を転覆させた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=251}}。紆余曲折を経て、ハンガリー国民議会は[[聖イシュトヴァーンの王冠]]のもとでの王政復古を決議し、ハンガリーの政体は再び王制となった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=251}}。{{main|ハンガリー王国 (1920年-1946年)}}

エッカルツアウ宮殿で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王「カーロイ4世」であったため、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=252}}。ハンガリーでは、「カーロイ4世」の復位を望む者、「カーロイ4世」以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=252}}。

1921年3月、カールがハンガリーに入国すると、王党派の政府高官{{仮リンク|レハール・アンタル|hu|Lehár Antal}}などが駆けつけてきた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=255}}。馳せ参じたハンガリー首相[[テレキ・パール]]は、カールに向かってこう述べた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=255}}。「陛下、二つの選択肢があります!このままスイスへ戻るか、ブダペストへ進軍するかのいずれかです!」カールはブダペストを選択した。当時の元首摂政ホルティ・ミクローシュは「カーロイ4世」の帰国を当初は歓迎したもののこの動きを警戒した周辺国の[[チェコスロバキア]]と[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]が動員をかけたため「カーロイ4世」の国外退去か戦争かの二択を迫られることとなった。王党派であったホルティは悩んだすえに国民を守るためハンガリー議会満場一致のもとカールに国外退去を求めることとした。この結果として最初のカール1世の試みは挫折した。

半年後、テレキに代わって首相となった{{仮リンク|ベトレン・イシュトヴァーン|hu|Bethlen István (politikus)}}と執政ホルティは、ハンガリーで穏健的独裁統治を行っていた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=261}}。国王支持者の計画的な追放が進められており、以前からホルティを危険人物と考えていた国王軍はカールのブダペスト入りを切望していた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=261}}。こうした情勢を受けてカールは再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタとともに飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから連れ出すことを外務大臣[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]卿に迫り、ちょうど[[黒海]]を航行中のイギリス軍艦で移送することが決定された。

=== マデイラ島への配流、崩御 ===
[[File:Portugal in its region (Madeira special).svg|thumb|right|200px|大西洋上の[[マデイラ島]]の位置]]
[[File:Tomb of blessed carl.JPG|thumb|right|200px|フンシャルの{{仮リンク|ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会|de|Nossa Senhora do Monte (Funchal)}}に安置されたカール1世の棺]]
11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領[[マデイラ島]]に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市[[フンシャル]]に「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=279}}。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌[[1922年]]2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=280}}。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=280}}。

やがてバターも買えず、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いになるほど皇帝一家は困窮した{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=288}}。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=288}}。
{{Quotation|電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜と[[クヌーデル]]だけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。}}

3月9日、四男[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]の4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=289}}。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=289}}。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。カールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しまなければならない」とツィタに語ったといわれる<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.368"> ウィートクロフツ(2009) p.368</ref>。

カールはツィタに「これからはスペイン国王[[アルフォンソ13世]]を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言し{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=293}}、[[1922年]][[4月1日]]12時23分に崩御した<ref name="江村(2013) p.422"> 江村(2013) p.422</ref>。享年34。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=293}}。葬儀には3万人が参列したという。

カールの死から60年以上が経った[[1989年]][[3月14日]]、ツィタは96歳で死去した。4月1日に[[シュテファン大聖堂]]で葬儀が営まれたが、この日程はマデイラ島でカールが死去した1922年4月1日に合わせてのものだった{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=360}}。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、[[ムーリ修道院]]に安置されている{{Sfn|グリセール=ペカール(1995)|p=360}}。心臓以外のカールの遺骸は、いまだマデイラ島フンシャルにある<ref name="江村(2013) p.422" />。皇帝廟[[カプツィーナー納骨堂]]の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。

== 列福・列聖調査 ==
{{Infobox 聖人
|名前=福者 カール1世
|画像=IV. Károly a Szent István-rend ornátusában.png|thumb|240px|
|画像サイズ=
|画像コメント=
|称号=福者
|他言語表記=
|生誕地=
|生誕年(日)=
|死去地=
|死去年(日)=
|崇敬する教派= [[カトリック教会]]
|記念日=[[10月21日]]
|列福日=[[2004年]][[10月3日]]
|列福場所={{VAT}}<br>[[サン・ピエトロ広場]]
|列福決定者=[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]
|列聖日=
|列聖場所=
|列聖決定者=
|主要聖地=
|象徴=
|守護対象=
|論争=
|崇敬対象除外日=
|崇敬対象除外者=
}}
カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、神への信仰心がきわめて篤く、また徳の高い人物であったと評価される。アンドリュー・ウィートクロフツは、『[[神よ、皇帝フランツを守り給え|皇帝讃歌]]』の中で「われらが良き皇帝フランツ」と謳われる先祖の[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|オーストリア皇帝フランツ1世]]よりも「善良帝」の名に値する君主であったと評価している<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.368"/>。

没した翌年の[[1923年]]、のちにオーストリア大統領となる[[ヴィルヘルム・ミクラス]]が、{{仮リンク|ウィーン大司教|en|Archbishop of Vienna}}の{{仮リンク|フリードリヒ・グスタフ・ピッフィ|de|Friedrich Gustav Piffl}}枢機卿に対して、列聖のプロセスを開始するために必要な手順を実施することを要求する嘆願書を提出した。

[[1949年]]、[[列福]]を求める提案が起こされ<ref name="ウィートクロフツ(2009) p.368"/>、[[神の僕]]となった。

ちょうど没後50周年にあたる[[1972年]]4月1日、マデイラ島に安置されている棺が開かれた。カール1世の遺体は、ごく簡単な防腐処理しかされていなかったうえ、棺が激しく傷んでいたので湿気の多いマデイラ島の空気に晒されていたが、非常によく保存されていた。遺体はその後、新しい服を着せられて新しい棺に入れ替えられ、再び密封された。

[[1994年]]、全2巻、2650ページ以上にわたる詳細な報告書が[[バチカン]]に提出された。

=== 列福 ===
[[File:Wien Augustinerkirche Altar Karl I.jpg|thumb|left|170px|ウィーンの{{仮リンク|アウグスティーナー教会|en|Augustinian Church, Vienna}}にある福者カール1世の祭壇。2019年5月の時点で、オーストリアに26、チェコに8、ハンガリーに16、スロバキアに3、クロアチアに2箇所の祭壇がある<ref name=ヨーロッパを救える家族>{{Cite news|url=https://catholicherald.co.uk/magazine/the-family-that-could-save-europe/|title=The family that could save Europe|agency={{仮リンク|The Catholic Herald|en|The Catholic Herald}}|author=Charles Coulombe|date=2019年5月30日|accessdate=2019年12月30日}}</ref>。]]
[[2003年]]12月20日、ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]はカール1世の仲介に帰せられる治癒を「[[奇跡]]」と認定する文書に署名した<ref name="「福者に。」 p.1" />。この時に認められた「奇跡」とは、[[1960年]]に両足の[[潰瘍]]に苦しんでいた[[ポーランド]]の修道女が、カール1世に代願を行ったところ、たちどころに治癒したとされる出来事である<ref name="「福者に。」 p.1" /><ref name="岩﨑 (2017) p.403"> [[#岩崎(2017)|岩崎(2017)]] p.403</ref>。

[[2004年]]10月3日、[[サン・ピエトロ広場]]にて列福式が執り行われ、[[20世紀]]の[[国家元首]]としては初めての[[福者]]となった。ポーランドの修道女に関する「奇跡」のみならず、社会政策や戦傷者保護、平和回復の努力も評価され、ヨハネ・パウロ2世に「模範的なキリスト教徒、夫、家父、統治者」と称賛された<ref name="岩﨑 (2017) p.403"/>。このことは、[[21世紀]]に入ってもなおハプスブルク家が神権的君主理念(「ピエタース・アウストリアカ{{#tag:ref|「ピエタース・アウストリアカ(Pietas Austriaca)」とは、「オーストリアの敬虔」の意である<ref name="岩﨑 (2017) p.178"> [[#岩崎(2017)|岩崎(2017)]] p.178</ref>。「神に選ばれし一族」を自負するハプスブルク家では、他のヨーロッパの王家とは異なる独特の[[王権神授説|王権神授]]的な信仰理念が生まれた。徳目が強調され、ハプスブルク一族の日常は宗教活動で律せられた<ref name="岩﨑 (2017) p.178"/>。|group=注釈}}」)の影響下にあることを示すものとなった<ref name="岩﨑 (2017) p.403"/>。

神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の時代、「神に選ばれし一族」としてより神聖なる家門たらんとするハプスブルク家は、歴史上の聖人や、正式な列聖はされずとも聖なる存在とされる人物を、[[系図]]の改竄によって次々と自家の歴史に取り込んでいった{{sfn|田中(2015)|p=109}}。その結果、[[イリオス|トロイア]]の王子[[ヘクトール]]や[[ノア (聖書)|ノア]]までもが系譜に連なるとされた{{sfn|田中(2015)|p=109}}。それほどまでに聖なる血統との繋がりを欲したものの、本物のハプスブルク一族として聖性を認められた者は、カール1世の他には[[マグダレーナ・フォン・エスターライヒ|尊者マグダレーナ]]がせいぜいであった。

なお、ヨハネ・パウロ2世の父親カロル・ヴォイティワは、{{仮リンク|オーストリア=ハンガリー帝国陸軍|en|Austro-Hungarian Army}}歩兵第12連隊に所属する軍人だった<ref name=GalwayAdvertiser20180816>{{Cite news|url=http://www.advertiser.ie/galway/article/102389/we-feel-no-nostalgia-for-the-imperial-era|title='We feel no nostalgia for the imperial era'|author=CHARLIE MCBRIDE|agency={{仮リンク|Galway Advertiser|en|Galway Advertiser}}|date=2018-08-16|accessdate=2018-11-13}}</ref><ref name="「福者に。」 p.6"> [http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」] p.6</ref>。教皇の本名「カロル」は、かつての主君カール1世にあやかって命名されたものとされる<ref name=GalwayAdvertiser20180816/><ref name="「福者に。」 p.6"/>。ヨハネ・パウロ2世は、皇后ツィタと会った際に「父の后妃に挨拶いたします」と言ったこともある<ref name="「福者に。」 p.6"/>。

一般的に聖人・福者はその[[命日]]が記念日として設定されるが、カール1世の場合はツィタとの結婚記念日である'''[[10月21日]]'''とされた<ref name=GalwayAdvertiser20170214>{{Cite news|url=https://aleteia.org/2017/02/14/5-saintly-marriage-tips-from-blessed-charles-of-austria-and-his-bride-zita/|title=5 Saintly marriage tips from Blessed Charles of Austria and his bride, Zita|agency={{仮リンク|Aleteia|en|Aleteia}}|author=Philip Kosloski|date=2017-02-14|accessdate=2018-11-11}}</ref>。このことが示唆しているように、いずれツィタもカールのようにカトリック教会の祭壇に加えられる可能性が高いといわれている<ref name=TheCatholicHerald20180927>{{Cite news|url=http://www.catholicherald.co.uk/issues/sep-28th-2018/why-america-loves-european-candidates-for-sainthood/|title=Why America loves European candidates for sainthood|agency={{仮リンク|The Catholic Herald|en|The Catholic Herald}}|date=2018-09-27|accessdate=2018-10-13}}</ref>(ツィタは2018年現在、[[神の僕]])。

なお、宗教的に超保守派だったカール1世の列福は、宗教的保守派に箔付けしたいヨハネ・パウロ2世の政治的意向によるものだとみなす否定的意見もある<ref name=mwcnews20160905>{{Cite news|url=http://mwcnews.net/focus/analysis/60821-fast-track-saints.html|title=Mother Teresa, John Paul II, and the Fast-Track Saints|agency=mwcnews|date=2016-09-05|accessdate=2018-11-13}}</ref>。否定派の間では、[[ユダヤ人]]を「犬」と呼んだ反動的な教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]の列福と同類視されている<ref name=mwcnews20160905/>。

=== 列聖調査 ===
福者から[[聖人]]への昇格には、福者に認定された時のものを含めて二つ以上の「奇跡」の認定が必要とされる。カール1世にまつわる奇跡はポーランドの修道女の事例のほかにも複数あり、それらの調査は現在も行われている<ref name="『受難と栄光』p.122"> [[#『受難と栄光』|受難と栄光]] p.122</ref>。

とある末期癌の患者がカール1世の仲介により完治した事例があるが、当該者は4年後に別の死因で世を去った<ref name=2019年10月21日>{{Cite news|url=http://www.ncregister.com/daily-news/prayers-and-royalty-never-die-the-habsburg-dynasty|title=Prayers — and Royalty — Never Die: The Habsburg Dynasty|agency={{仮リンク|ナショナル・カトリック・レジスター|en|National Catholic Register}}|date=2019年10月21日|accessdate=2019年12月30日}}</ref>。バチカンは奇跡の後に5年間生き延びることを望んでいるため、これは正式な奇跡には数えられなかった<ref name=2019年10月21日/>。

[[アメリカ]]・[[フロリダ州]]では、[[バプテスト教会]]信徒の少年が、カール1世の仲介による奇跡を体験して、家族とともに[[カトリック教会]]に改宗したという<ref name=TheCatholicHerald20180927/>。なおアメリカにおいてカール1世は、(第一次世界大戦における敵国の元首、しかも幼少期から軽蔑の対象と刷り込まれる[[君主]]という職業にもかかわらず)国外の聖人候補として比較的大きな支持者がいる五人のうちの一人に数えられるという<ref name=TheCatholicHerald20180927/>。

== 家族 ==
[[File:IV. Károly és családja.jpg|thumb|right|250px|カール1世とその家族。左から右へ、[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]、[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]、{{仮リンク|シャルロッテ・ハプスブルク=ロートリンゲン|label=シャルロッテ|en|Archduchess Charlotte of Austria}}とツィタ、[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]とカール1世、[[アーデルハイト・ハプスブルク=ロートリンゲン|アーデルハイト]]、[[オットー・フォン・ハプスブルク|オットー]]、[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]([[1922年]]頃)]]
皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]との間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
!名前
!生年
!没年
!備考
|-
|-
|[[オットー・フォン・ハプスブルク|フランツ・ヨーゼフ・オットー]]
! style="background:#ccf;"|地位の継承
| style="text-align:right" |[[1912年]][[11月20日]]
|style="text-align:right" |[[2011年]][[7月4日]]
|style="text-align:center;background-color:#e6b422"|ハプスブルク家当主(1922年 - 2006年)<br />[[ザクセン=マイニンゲン公国|ザクセン=マイニンゲン]]公女[[レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン|レギーナ]]と結婚。
|-
|-
|[[アーデルハイト・ハプスブルク=ロートリンゲン|アーデルハイト]]
|
|style="text-align:right" |[[1914年]][[1月3日]]
|style="text-align:right" |[[1971年]][[10月2日]]
|生涯独身。
|-
|[[ローベルト (オーストリア=エステ大公)|ローベルト]]
|style="text-align:right" |[[1915年]][[2月8日]]
|style="text-align:right" |[[1996年]][[2月7日]]
|[[オーストリア=エステ家|オーストリア=エステ大公]]<br />イタリア旧王族[[マルゲリータ・ディ・サヴォイア=アオスタ]]と結婚。
|-
|[[フェリックス・ハプスブルク=ロートリンゲン|フェリックス]]
|style="text-align:right" |[[1916年]][[5月31日]]
|style="text-align:right" |[[2011年]][[9月6日]]
|[[アーレンベルク家]]のアンナ=ウジェニーと結婚。
|-
|[[カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール・ルートヴィヒ]]
|style="text-align:right" |[[1918年]][[3月10日]]
|style="text-align:right" |[[2007年]][[12月11日]]
|[[リーニュ家]]の{{仮リンク|ヨランド・ディ・リーニュ|label=ヨランド|en|Archduchess Yolande of Austria}}と結婚。
|-
|[[ルドルフ・ハプスブルク=ロートリンゲン|ルドルフ]]
|style="text-align:right" |[[1919年]][[9月5日]]
|style="text-align:right" |[[2010年]][[3月15日]]
|ロシア人亡命貴族の{{仮リンク|クセニヤ・チェルニシェヴァ=ベゾブラソヴァ|en|Countess Xenia Czernichev-Besobrasov}}と結婚、のちヴレーデ侯家のアンナ・ガブリエーレと再婚。
|-
|{{仮リンク|シャルロッテ・ハプスブルク=ロートリンゲン|label=シャルロッテ|en|Archduchess Charlotte of Austria}}
|style="text-align:right" |[[1921年]][[3月1日]]
|style="text-align:right" |[[1989年]][[7月23日]]
|メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[ゲオルク・ツー・メクレンブルク|ゲオルク]]と結婚。
|-
|{{仮リンク|エリーザベト・ハプスブルク=ロートリンゲン|label=エリーザベト|en|Archduchess Elisabeth of Austria (1922-1993)}}
|style="text-align:right" |[[1922年]][[5月31日]]
|style="text-align:right" |[[1993年]][[1月6日]]
|ハインリヒ・リヒテンシュタイン(リヒテンシュタイン侯[[フランツ・ヨーゼフ2世]]の従弟)と結婚。
|-
|}

== 脚注==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈}}

=== 出典 ===
{{reflist|30em}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=オットー・バウアー|authorlink=オットー・バウアー|translator=[[酒井晨史]]|date=1989年|title=オーストリア革命|publisher=[[早稲田大学出版部]]|isbn=4-657-89619-9|ref=バウアー(1989)}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|バーバラ・ジェラヴィッチ|en|Barbara Jelavich}}|translator=[[矢田俊隆]]|date=1994年|title=近代オーストリアの歴史と文化:ハプスブルク帝国とオーストリア共和国|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-65600-0|ref=ジェラヴィッチ(1994)}}
* {{Cite book|和書|author=リチャード・リケット|authorlink=リチャード・リケット|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3|}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|タマラ・グリセール=ペカール|en|Tamara Griesser Pečar}}|translator=[[関田淳子]]|date=1995-05-10|title=[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|チタ]]:[[ハプスブルク家]]最後の皇妃|publisher=[[新書館]]|isbn=4-403-24038-0|ref={{SfnRef|グリセール=ペカール(1995)}} }}
* {{Cite journal |和書 |author=江口布由子 |title=第一次大戦期のオーストリアにおける国家と子ども--「父を失った社会」の児童福祉 |journal=歴史学研究 |issn=03869237 |publisher=青木書店 |year=2006 |month=jul |issue=816 |pages=17-32,50 |naid=40007367353}}
* {{Cite book|和書|author1=小野秋良|authorlink1=小野秋良|author2=板井大治|authorlink2=板井大治|date=2008-01-09|title=平和の皇帝カール一世:[[オーストリア=ハンガリー帝国]]最後の皇帝の受難と栄光|publisher=[[くすのき出版]]|isbn=978-4907754136|ref=『受難と栄光』}}
* {{Cite book|和書|author=アンドリュー・ウィートクロフツ|authorlink=アンドリュー・ウィートクロフツ|translator=[[瀬原義生]]|date=2009年(平成21年)|title=ハプスブルク家の皇帝たち:帝国の体現者|publisher=[[文理閣]]|isbn=978-4-89259-591-2}}
* {{Cite book|和書|author=江村洋|authorlink=江村洋|date=2013-12-10|title=[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ]]:ハプスブルク「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4-309-41266-5|ref=江村(2013)}}
* {{Cite book|和書|author=ティモシー・スナイダー|authorlink=ティモシー・スナイダー|translator=[[池田年穂]]|date=2014-04-25|title=赤い大公:ハプスブルク家と東欧の20世紀|publisher=[[慶応義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-2135-4|ref=スナイダー(2014)}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ポール・ホフマン|de|Paul Hofmann (Journalist)}}|translator=[[持田鋼一郎]]|date=2014-07-15|title=[[ウィーン]]:栄光・黄昏・亡命|publisher=[[作品社]]|isbn=978-4-86-182-467-8|ref=ホフマン(2014)}}
* {{Cite journal |和書|author=田中圭子 |title=ハプスブルク家の聖人たち : 16世紀初頭の系譜学者ヤーコプ・メンネルの仕事より |url=http://id.nii.ac.jp/1264/00001315/ |journal=大分県立芸術文化短期大学研究紀要 |issn=13466437 |publisher=大分県立芸術文化短期大学 |year=2004 |volume=42 |pages=109-115 |naid=110004473572|ref={{sfnRef|田中(2015)}} }}
*{{Cite book|和書|author=岩﨑周一|authorlink=岩﨑周一|date=2017年8月|title=ハプスブルク帝国|publisher=[[講談社現代新書]]|isbn=978-4-06-288442-6|ref=岩崎(2017)}}

== 関連項目 ==
* [[フリードリヒ・アウグスト3世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]] - 伯父・1916年から1918年当時のザクセン国王

== 外部リンク ==
{{Commonscat|Karl I of Austria}}
*[https://www.gebetsliga.com/ Gebetsliga - Kaiser Karl]
*[http://www.emperorcharles.org/ Blessed Karl of Austria]
*[http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_world-news/016.pdf 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」]
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2024年10月31日 (木) 18:32時点における最新版

カール1世
Karl I
オーストリア皇帝
ハンガリー国王
カール1世
在位 1916年11月21日 - 1918年11月12日
戴冠式 1916年12月30日、於マーチャーシュ聖堂(ハンガリー国王)
別号 ボヘミア国王
ダルマチア国王
クロアチア国王
スアヴォニア国王
ガリツィア=ロドメリア国王

全名
出生 (1887-08-17) 1887年8月17日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ペルゼンボイク=ゴッツドルフ英語版
ペルゼンボイク城ドイツ語版
死去 (1922-04-01) 1922年4月1日(34歳没)
ポルトガル
フンシャル
埋葬 ポルトガル
フンシャル
ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会ドイツ語版
スイスの旗 スイス
ムーリ英語版
ムーリ修道院(心臓)
配偶者 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 オットー・フランツ・フォン・エスターライヒ
母親 マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン
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カール1世ドイツ語: Karl I, 1887年8月17日 - 1922年4月1日)は、最後のオーストリア皇帝にしてハンガリー国王ボヘミア国王(在位:1916年11月21日 - 1918年11月12日)。カトリック教会福者

概要

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大伯父であるフランツ・ヨーゼフ1世の後継者として1916年に即位し、オーストリア=ハンガリー帝国の統治者となった。第一次世界大戦に敗れて「国事不関与」を宣言したが、王権神授説を主張して退位要求を拒絶し、スイスに亡命。莫大な皇室財産のほとんどを新生のオーストリア共和国に没収された後、二度にわたってハンガリー国王への復帰運動を企てたが失敗し、ポルトガルマデイラ島に流されて困窮の中で病死した。

政治的には成すところの少ない君主だったが、カトリック教会への篤い信仰心を持ち、フランス首相クレマンソーからは「中欧における教皇[1]」と、時のローマ教皇ベネディクト15世からは「私のお気に入りの子[1]」と呼ばれ、20世紀国家元首としては初めての福者になった。かつてのハプスブルク君主国の領域を中心に崇敬を集めている。

生涯

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幼少期

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1895年頃のペルゼンボイク城ドイツ語版
幼少のカール(1889年頃)

1887年8月17日ドナウ川の河畔に位置するペルゼンボイク城ドイツ語版において生を享けた。父はオーストリア皇族オットー・フランツ大公、母はザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファ

出生当時、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世には長男としてルドルフ皇太子がおり、皇弟カール・ルートヴィヒ大公の孫として誕生したカールは帝位継承とはかけ離れた存在だった[2]。誰の目にも未来の皇帝とは映らなかったこの新大公の誕生のニュースは、当時は宮廷に関する他の記事といっしょに扱われたにすぎなかった[2]

カール生誕時のオーストリア皇位継承順位(灰色は故人)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オーストリア皇帝
フランツ・ヨーゼフ1世
 
メキシコ皇帝
マクシミリアン
 
カール・ルートヴィヒ
第2位
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オーストリア皇太子
ルドルフ
継承順位第1位
 
 
 
 
 
フランツ・フェルディナント
第3位
 
 
オットー・フランツ
第4位
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カール
第5位
 
 


1889年1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件英語版」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公のどちらかが後継者だと目された。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、依然としてオットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。

少年期

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オットー・フランツ大公一家。左下の少年がカール。母に抱かれているのは弟マクシミリアン・オイゲン1900年頃)

一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツ英語版や父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった[3]。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。

皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールはローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった[4]。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。

ある日、ライヒェナウ・アン・デア・ラクス英語版の領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した[4]。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという[4]

1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。

パルマ公女ツィタとの結婚

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1911年10月21日ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ公女との結婚式。写真右側の老人は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。この日、ハプスブルク=ロートリンゲン家ブルボン=パルマ家のほとんどの人々が一堂に会した[5]

マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルの用意周到な計画によって、1909年ツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会う[注釈 1][7]。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり[6]、さらにツィタにとっては母の妹であった[7]。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。

将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘エリーザベト・フランツィスカを嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った[8]。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度はオルレアン家の血を引くデンマーク王女マルグレーテをカールと結婚させようと考えた[8]

1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された[9]。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた[9]1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた[10]。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した[10]

1911年6月24日、ローマ教皇ピウス10世はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った[11]。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという[11]。同年10月21日、シュヴァルツアウドイツ語版の城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。

第一次世界大戦、勃発

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チロル前線を視察するカール(1915年)
イゾンツォ川前線のボスニア人部隊を視察するカール(1915年)

1914年6月28日サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た[12]。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという[12]

やがてカールのもとには時のローマ教皇ピウス10世からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが[13]、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。セルビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった[14]。カールは新たな皇位継承者になったにもかかわらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した[14]

フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後しばらくしてカール一家はシェーンブルン宮殿で皇帝と同居するようになった[15]。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評価を受けている。「私はカールを非常に高く評価している。カールは私に明確に意見を表明する。しかし私が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない[15]。」

参謀本部長フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、開戦後もカールに活躍の場を与えようとしなかった[16]。カールの日程は歓迎会、謁見、練兵場への訪問などの実働を伴わない公務で埋められていたが、1915年7月にようやく皇帝の側近に任命され、決裁の済んだ報告書を見せられるようになった[16]。カールはオーストリア首相とハンガリー首相から政治の講義を受けるようになったが、この生活は長続きしなかった[17]。若い大公を側近から外すよう求める声に、フランツ・ヨーゼフ1世が屈してしまったのである[17]。そしてカールは新設のイタリア第20部隊に派遣されることになった[17]

イタリア戦線においてカールは、イゾンツォの戦いの際に、皇位継承者でありながら自ら水中に飛び込んで川に溺れかけた男を助けた[13]。また、従軍司祭であったロドルフォ・スピッツルによれば、アシエロへの過酷な行軍の中で、傷のために歩行不可能となった兵士を助けるためにとりなしたという[13]

即位

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1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった[18]。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながら「私は多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった……」と語ったとされる[18]。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝カール1世」と呼ばれることとなった。

新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた[19]ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした[19]。侍従武官アルベルト・フォン・マルグッティドイツ語版はカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている[20]

先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった[20]。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった[20]

1916年12月30日、カールはハンガリー国王カーロイ4世」として即位することとなった[21]聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にもかかわらず荘厳華麗な即位式がブダペストマーチャーシュ聖堂で挙行された[21]。この即位式においてカールは「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と宣誓した[22]。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった[22]

ジクストゥス事件

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皇后ツィタの兄、パルマ公子ジクストゥス

1917年3月23日夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥスグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏との単独講和を締結するためであった[24]ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。

カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており[25]、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという[25]。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある[26]。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らにこの時渡した手紙はかえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる[27]

手紙は上記のような内容で、さらに次のように明記してあった。

朕はジクストゥスを通して、フランス大統領レイモン・ポアンカレ氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、(ドイツ帝国領)アルザス=ロレーヌ地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである[27]

フランス政府は、パルマ公子を仲介役としてのオーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた[28]。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった[28]。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した[28]。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。

しかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった[24]。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し[29]、次にその手紙の存在を認めつつ「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言った[29]。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し[30]、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった[30]。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。

大戦に参戦した国家の責任者の中で、オーストリアのカール皇帝だけが品位のある人物であったが、誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。彼は心から平和を願っていたが、そのためにみんなから軽蔑されたのだ。こうして唯一無二のチャンスは失われてしまった[26] — 批評家アナトール・フランス

帝国諸民族の離反

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1918年同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反(チェコスロバキアポーランドなどが共和国を宣言)し、帝国は崩壊していく。オーストリアの休戦要請に対する協商国からの返答がない中、カールは帝国内の諸民族と直接交渉しようと試みた。

10月12日、帝室の保養地バーデンにすべての民族の32名の代議士を招き、「諸民族内閣」を発足させようと試みた。しかしチェコ人南スラヴ人からは「オーストリア政府内でこれ以上何もすることはない」と返答された[31]ボヘミアクロアチアガリツィアなどで暴動が起きようとしているのを知ったカールは、これを食い止めるため10月16日に連邦制への国家改造の宣言に署名した[32]

オーストリアを、すべての種族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家にすべきである。このことにより、ポーランド独立国家とオーストリアのポーランド地域の統一は、いかなる理由によっても侵害されてはならない。

カールにはもはや、皇帝の認可なしに実施されたものを明文をもって認可することによって、権力の虚像を保持することしかできなかった。また、この宣言を受けてハンガリー王国議会では、1867年アウスグライヒの前提が崩れたので、オーストリアとハンガリーの間にはもはや単なる人的同君連合のほかはいかなる関係も存在しない、との声明が出された[33]

11月3日、カールは正式に帝国連邦化を宣言し、同日イタリア王国ヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び無条件降伏した。

「国事不関与」の宣言

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シェーンブルン宮殿で署名したオーストリア版「国事不関与」の文書
エッカルツアウ宮殿ドイツ語版で署名したハンガリー版「国事不関与」の文書

11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言した。その直後ドイツではドイツ社会民主党の主導する政権が誕生したことを受けて、オーストリア社会民主党オーストリア皇帝も退位するよう要求し始めた[34]キリスト教社会党は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。

今般の戦争責任は朕の負うところではないが、帝位継承以来、忌まわしい戦禍から国民を救出すべく不断の努力を重ねてきたつもりである。国民が憲法に則った国民生活を確立し、独立国家発展への道を開拓することに対して、これを阻止する考えはない。わが国民を愛する心に変わりはなく、自由にはばたかんとする国民の前途に、朕自身が障害となることは本望ではない。朕はドイツ系オーストリア暫定政府が決定した今後の国家体制を以前から承認してきた。国民は今後、政府代表者の手に委ねられよう。朕はすべての国事行為の遂行を断念するとともに、現内閣の解散をここに宣言する。国民が一致融和の精神のもとに、新体制を確立していくことを切に望む。国民の至福が、朕の当初からの篤い祈願であり、国内の平穏によってのみ、戦禍は癒されよう[35] — 11月11日午後3時、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」においてカールが署名した声明文。

これはハインリッヒ・ラマシュドイツ語版首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか! 朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した[36]。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した[36]。続いてこの最終的草稿文を見せられた皇后ツィタも同様に「これは退位以外の何物でもありません」と激怒したが、この際にも退位宣言ではないことが起草者によって保証された[37]。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた[35]

2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した[38]。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が王権神授説にもとづいていることを述べ、王位から退くことは明確に否定した[38]

オーストリアからの脱出

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エッカルツアウ宮殿。「国事不関与」宣言後の4ヵ月間、カール一家はここで過ごした
共和国の夜明けを描いた絵。中世以来のハプスブルク家がオーストリアから去ってゆく様子。先頭から王朝発祥地ハプスブルク城、始祖王ルドルフ1世と続き、最後尾がカール1世(1919年)

「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルツアウ宮殿ドイツ語版に移った。

1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルツアウ城のカールのもとを訪れた[39]。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた[39]。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった[39]。実際、2月にはエッカルツアウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった[40]。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。

近々オーストリア皇帝一家が虐殺されるとの情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにもかかわらず見殺しにしたと非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかった[40]。イギリスから派遣されてきたエドワード・ライル・ストラット英語版大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国首相レンナーと激しく対立した[40]。皇帝の退位がなければ出国させずに逮捕すると激高するレンナーに対し、ストラット大佐は「オーストリア政府が、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の一切の凍結を命令する」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつかせた[41]。これにレンナーは絶句し、無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった[41]

3月23日、皇帝一家はオーストリアを出国した。

ドイツ・オーストリア共和国政府暫定国民議会は、1918年11月11日以来、朕と朕の家族を無きものとして決議してきた。……戦時の混乱期に、朕は帝位を継承し、国民に平和をもたらすことを切望し続けてきた。彼らにとって、誠実にして情ある国父でありたかった……。 — 3月24日、オーストリア最西端のフェルトキルヒ駅での声明文[42]

この時期に赤軍を刺激したくはなかったため、カールのこの声明文はローマ教皇やオーストリア首相の手元のみに送付された[42]。3月27日、レンナーは国民議会に「ハプスブルク家は永久に統治権およびすべての特権を失効する」という法案を提出した[43]。この法案は4月3日に可決され、さらに王冠に基づいた財産のみならずハプスブルク家の私的財産のほとんどが共和国に没収された[44]。わずかに残された財産も、財産税課税のために差し押さえられてしまった[44]。(ハプスブルク法を参照)

ハンガリー国王への復帰運動

[編集]
カールのテーマとしてのハンガリーへの飛行
1921年10月、ハンガリーでの復権に失敗した後、カール夫妻が祈っている写真

皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴りをひそめた[43]。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようになり、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた[43]

1919年3月21日、共産主義者のクン・ベーラらによって共和国大統領カーロイ・ミハーイ英語版の政権が倒された(ハンガリー評議会共和国)。クンらは急進的共産政権を打ち立てようとしたため、多くのハンガリーの資産家や政治家がウィーンを中心とする国外に亡命した[45]。新政権に対してホルティ・ミクローシュなどは反旗を翻し、政権を転覆させた[45]。紆余曲折を経て、ハンガリー国民議会は聖イシュトヴァーンの王冠のもとでの王政復古を決議し、ハンガリーの政体は再び王制となった[45]

エッカルツアウ宮殿で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王「カーロイ4世」であったため、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした[46]。ハンガリーでは、「カーロイ4世」の復位を望む者、「カーロイ4世」以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した[46]

1921年3月、カールがハンガリーに入国すると、王党派の政府高官レハール・アンタルハンガリー語版などが駆けつけてきた[47]。馳せ参じたハンガリー首相テレキ・パールは、カールに向かってこう述べた[47]。「陛下、二つの選択肢があります!このままスイスへ戻るか、ブダペストへ進軍するかのいずれかです!」カールはブダペストを選択した。当時の元首摂政ホルティ・ミクローシュは「カーロイ4世」の帰国を当初は歓迎したもののこの動きを警戒した周辺国のチェコスロバキアユーゴスラビアが動員をかけたため「カーロイ4世」の国外退去か戦争かの二択を迫られることとなった。王党派であったホルティは悩んだすえに国民を守るためハンガリー議会満場一致のもとカールに国外退去を求めることとした。この結果として最初のカール1世の試みは挫折した。

半年後、テレキに代わって首相となったベトレン・イシュトヴァーンハンガリー語版と執政ホルティは、ハンガリーで穏健的独裁統治を行っていた[48]。国王支持者の計画的な追放が進められており、以前からホルティを危険人物と考えていた国王軍はカールのブダペスト入りを切望していた[48]。こうした情勢を受けてカールは再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタとともに飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから連れ出すことを外務大臣ジョージ・カーゾン卿に迫り、ちょうど黒海を航行中のイギリス軍艦で移送することが決定された。

マデイラ島への配流、崩御

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大西洋上のマデイラ島の位置
フンシャルのノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会ドイツ語版に安置されたカール1世の棺

11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた[49]。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた[50]。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという[50]

やがてバターも買えず、ベビーシッターの給料も3ヶ月間未払いになるほど皇帝一家は困窮した[51]。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している[51]

電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたため、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たらないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけだった。(中略)皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母ひとりだった。

3月9日、四男カール・ルートヴィヒの4歳の誕生日プレゼントを買いたいという子供たちを連れてフンシャルに出かけた[52]。このときカールは風邪をひいてしまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化していき、そのうちカールは呼吸困難に陥ってしまった。ツィタは慌てて医者を呼んだが、すでに片肺が侵されているとの診断が下された[52]。治療の甲斐なく、やがてカールは両肺を侵されてしまった。カールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しまなければならない」とツィタに語ったといわれる[53]

カールはツィタに「これからはスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言し[54]1922年4月1日12時23分に崩御した[55]。享年34。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている[54]。葬儀には3万人が参列したという。

カールの死から60年以上が経った1989年3月14日、ツィタは96歳で死去した。4月1日にシュテファン大聖堂で葬儀が営まれたが、この日程はマデイラ島でカールが死去した1922年4月1日に合わせてのものだった[56]。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、ムーリ修道院に安置されている[56]。心臓以外のカールの遺骸は、いまだマデイラ島フンシャルにある[55]。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。

列福・列聖調査

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福者 カール1世
福者
崇敬する教派 カトリック教会
列福日 2004年10月3日
列福場所 バチカンの旗 バチカン
サン・ピエトロ広場
列福決定者 ヨハネ・パウロ2世
記念日 10月21日
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カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、神への信仰心がきわめて篤く、また徳の高い人物であったと評価される。アンドリュー・ウィートクロフツは、『皇帝讃歌』の中で「われらが良き皇帝フランツ」と謳われる先祖のオーストリア皇帝フランツ1世よりも「善良帝」の名に値する君主であったと評価している[53]

没した翌年の1923年、のちにオーストリア大統領となるヴィルヘルム・ミクラスが、ウィーン大司教英語版フリードリヒ・グスタフ・ピッフィドイツ語版枢機卿に対して、列聖のプロセスを開始するために必要な手順を実施することを要求する嘆願書を提出した。

1949年列福を求める提案が起こされ[53]神の僕となった。

ちょうど没後50周年にあたる1972年4月1日、マデイラ島に安置されている棺が開かれた。カール1世の遺体は、ごく簡単な防腐処理しかされていなかったうえ、棺が激しく傷んでいたので湿気の多いマデイラ島の空気に晒されていたが、非常によく保存されていた。遺体はその後、新しい服を着せられて新しい棺に入れ替えられ、再び密封された。

1994年、全2巻、2650ページ以上にわたる詳細な報告書がバチカンに提出された。

列福

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ウィーンのアウグスティーナー教会英語版にある福者カール1世の祭壇。2019年5月の時点で、オーストリアに26、チェコに8、ハンガリーに16、スロバキアに3、クロアチアに2箇所の祭壇がある[57]

2003年12月20日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はカール1世の仲介に帰せられる治癒を「奇跡」と認定する文書に署名した[4]。この時に認められた「奇跡」とは、1960年に両足の潰瘍に苦しんでいたポーランドの修道女が、カール1世に代願を行ったところ、たちどころに治癒したとされる出来事である[4][58]

2004年10月3日、サン・ピエトロ広場にて列福式が執り行われ、20世紀国家元首としては初めての福者となった。ポーランドの修道女に関する「奇跡」のみならず、社会政策や戦傷者保護、平和回復の努力も評価され、ヨハネ・パウロ2世に「模範的なキリスト教徒、夫、家父、統治者」と称賛された[58]。このことは、21世紀に入ってもなおハプスブルク家が神権的君主理念(「ピエタース・アウストリアカ[注釈 2]」)の影響下にあることを示すものとなった[58]

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代、「神に選ばれし一族」としてより神聖なる家門たらんとするハプスブルク家は、歴史上の聖人や、正式な列聖はされずとも聖なる存在とされる人物を、系図の改竄によって次々と自家の歴史に取り込んでいった[60]。その結果、トロイアの王子ヘクトールノアまでもが系譜に連なるとされた[60]。それほどまでに聖なる血統との繋がりを欲したものの、本物のハプスブルク一族として聖性を認められた者は、カール1世の他には尊者マグダレーナがせいぜいであった。

なお、ヨハネ・パウロ2世の父親カロル・ヴォイティワは、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍英語版歩兵第12連隊に所属する軍人だった[61][62]。教皇の本名「カロル」は、かつての主君カール1世にあやかって命名されたものとされる[61][62]。ヨハネ・パウロ2世は、皇后ツィタと会った際に「父の后妃に挨拶いたします」と言ったこともある[62]

一般的に聖人・福者はその命日が記念日として設定されるが、カール1世の場合はツィタとの結婚記念日である10月21日とされた[63]。このことが示唆しているように、いずれツィタもカールのようにカトリック教会の祭壇に加えられる可能性が高いといわれている[64](ツィタは2018年現在、神の僕)。

なお、宗教的に超保守派だったカール1世の列福は、宗教的保守派に箔付けしたいヨハネ・パウロ2世の政治的意向によるものだとみなす否定的意見もある[65]。否定派の間では、ユダヤ人を「犬」と呼んだ反動的な教皇ピウス9世の列福と同類視されている[65]

列聖調査

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福者から聖人への昇格には、福者に認定された時のものを含めて二つ以上の「奇跡」の認定が必要とされる。カール1世にまつわる奇跡はポーランドの修道女の事例のほかにも複数あり、それらの調査は現在も行われている[66]

とある末期癌の患者がカール1世の仲介により完治した事例があるが、当該者は4年後に別の死因で世を去った[67]。バチカンは奇跡の後に5年間生き延びることを望んでいるため、これは正式な奇跡には数えられなかった[67]

アメリカフロリダ州では、バプテスト教会信徒の少年が、カール1世の仲介による奇跡を体験して、家族とともにカトリック教会に改宗したという[64]。なおアメリカにおいてカール1世は、(第一次世界大戦における敵国の元首、しかも幼少期から軽蔑の対象と刷り込まれる君主という職業にもかかわらず)国外の聖人候補として比較的大きな支持者がいる五人のうちの一人に数えられるという[64]

家族

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カール1世とその家族。左から右へ、カール・ルートヴィヒフェリックスシャルロッテ英語版とツィタ、ルドルフとカール1世、アーデルハイトオットーローベルト1922年頃)

皇后ツィタとの間に5男3女をもうけた。末子のエリーザベトは死後に誕生している。

名前 生年 没年 備考
フランツ・ヨーゼフ・オットー 1912年11月20日 2011年7月4日 ハプスブルク家当主(1922年 - 2006年)
ザクセン=マイニンゲン公女レギーナと結婚。
アーデルハイト 1914年1月3日 1971年10月2日 生涯独身。
ローベルト 1915年2月8日 1996年2月7日 オーストリア=エステ大公
イタリア旧王族マルゲリータ・ディ・サヴォイア=アオスタと結婚。
フェリックス 1916年5月31日 2011年9月6日 アーレンベルク家のアンナ=ウジェニーと結婚。
カール・ルートヴィヒ 1918年3月10日 2007年12月11日 リーニュ家ヨランド英語版と結婚。
ルドルフ 1919年9月5日 2010年3月15日 ロシア人亡命貴族のクセニヤ・チェルニシェヴァ=ベゾブラソヴァ英語版と結婚、のちヴレーデ侯家のアンナ・ガブリエーレと再婚。
シャルロッテ英語版 1921年3月1日 1989年7月23日 メクレンブルク=シュトレーリッツ大公ゲオルクと結婚。
エリーザベト英語版 1922年5月31日 1993年1月6日 ハインリヒ・リヒテンシュタイン(リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ2世の従弟)と結婚。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ カールとツィタは幼少期に何度か会ってはいるが、まともに顔を合わせたのはこの時が初めてだった[6]
  2. ^ 「ピエタース・アウストリアカ(Pietas Austriaca)」とは、「オーストリアの敬虔」の意である[59]。「神に選ばれし一族」を自負するハプスブルク家では、他のヨーロッパの王家とは異なる独特の王権神授的な信仰理念が生まれた。徳目が強調され、ハプスブルク一族の日常は宗教活動で律せられた[59]

出典

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  1. ^ a b 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.4
  2. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 89.
  3. ^ ホフマン(2014) p.280
  4. ^ a b c d e 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.1
  5. ^ 江村(2013) p.388
  6. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 54.
  7. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 53.
  8. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 60.
  9. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 61.
  10. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 62.
  11. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 67.
  12. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 96.
  13. ^ a b c 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.2
  14. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 105.
  15. ^ a b 江村(2013) p.412
  16. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 113.
  17. ^ a b c グリセール=ペカール(1995), p. 114.
  18. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 120.
  19. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 127.
  20. ^ a b c グリセール=ペカール(1995), p. 128.
  21. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 139.
  22. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 146.
  23. ^ グリセール=ペカール(1995), p. 125.
  24. ^ a b 江村(2013) p.421
  25. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 160.
  26. ^ a b 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.3
  27. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 158.
  28. ^ a b c グリセール=ペカール(1995), p. 163.
  29. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 182.
  30. ^ a b バウアー(1989) P.89
  31. ^ バウアー(1989) P.112
  32. ^ バウアー(1989) P.113
  33. ^ バウアー(1989) P.129
  34. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.131
  35. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 226.
  36. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 222-223.
  37. ^ グリセール=ペカール(1995), p. 224.
  38. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 230.
  39. ^ a b c グリセール=ペカール(1995), p. 232.
  40. ^ a b c グリセール=ペカール(1995), p. 234.
  41. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 238-239.
  42. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 242.
  43. ^ a b c グリセール=ペカール(1995), p. 246.
  44. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 247.
  45. ^ a b c グリセール=ペカール(1995), p. 251.
  46. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 252.
  47. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 255.
  48. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 261.
  49. ^ グリセール=ペカール(1995), p. 279.
  50. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 280.
  51. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 288.
  52. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 289.
  53. ^ a b c ウィートクロフツ(2009) p.368
  54. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 293.
  55. ^ a b 江村(2013) p.422
  56. ^ a b グリセール=ペカール(1995), p. 360.
  57. ^ Charles Coulombe (2019年5月30日). “The family that could save Europe”. The Catholic Herald英語版. https://catholicherald.co.uk/magazine/the-family-that-could-save-europe/ 2019年12月30日閲覧。 
  58. ^ a b c 岩崎(2017) p.403
  59. ^ a b 岩崎(2017) p.178
  60. ^ a b 田中(2015), p. 109.
  61. ^ a b CHARLIE MCBRIDE (2018年8月16日). “'We feel no nostalgia for the imperial era'”. Galway Advertiser英語版. http://www.advertiser.ie/galway/article/102389/we-feel-no-nostalgia-for-the-imperial-era 2018年11月13日閲覧。 
  62. ^ a b c 「最後のオーストリア皇帝、福者に。」 p.6
  63. ^ Philip Kosloski (2017年2月14日). “5 Saintly marriage tips from Blessed Charles of Austria and his bride, Zita”. Aleteia英語版. https://aleteia.org/2017/02/14/5-saintly-marriage-tips-from-blessed-charles-of-austria-and-his-bride-zita/ 2018年11月11日閲覧。 
  64. ^ a b c “Why America loves European candidates for sainthood”. The Catholic Herald英語版. (2018年9月27日). http://www.catholicherald.co.uk/issues/sep-28th-2018/why-america-loves-european-candidates-for-sainthood/ 2018年10月13日閲覧。 
  65. ^ a b “Mother Teresa, John Paul II, and the Fast-Track Saints”. mwcnews. (2016年9月5日). http://mwcnews.net/focus/analysis/60821-fast-track-saints.html 2018年11月13日閲覧。 
  66. ^ 受難と栄光 p.122
  67. ^ a b “Prayers — and Royalty — Never Die: The Habsburg Dynasty”. ナショナル・カトリック・レジスター英語版. (2019年10月21日). http://www.ncregister.com/daily-news/prayers-and-royalty-never-die-the-habsburg-dynasty 2019年12月30日閲覧。 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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爵位・家督
先代
フランツ・ヨーゼフ1世
オーストリア皇帝
1916年 - 1918年
次代
消滅
先代
フェレンツ・ヨージェフ1世
ハンガリー国王
1916年 - 1918年
次代
消滅
先代
フランティシェク・ヨゼフ1世
ボヘミア国王
1916年 - 1918年
次代
消滅
爵位・家督
先代
フランツ・ヨーゼフ1世
クライン公
1916年 - 1918年
次代
消滅
爵位・家督
先代
フランツ・ヨーゼフ1世
チロル伯
1916年 - 1918年
次代
消滅