「白川橋 (荒川)」の版間の差分
編集の要約なし |
修正 |
||
(同じ利用者による、間の5版が非表示) | |||
11行目: | 11行目: | ||
|長さ = 115.2 [[メートル|m]] |
|長さ = 115.2 [[メートル|m]] |
||
|最大支間長 = 72.0 m |
|最大支間長 = 72.0 m |
||
|幅 = |
|幅 = 8.0 m |
||
|高さ = 16.0 m |
|高さ = 16.0 m |
||
|建築家と技術者 = |
|建築家と技術者 = |
||
|形式 = [[アーチ橋]] |
|形式 = [[アーチ橋]] |
||
|素材 = [[鋼]] |
|素材 = [[鋼]] |
||
|建設 = - 1963 |
|建設 = 1961 - 1963 |
||
}} |
}} |
||
'''白川橋'''(しらかわばし)は、[[埼玉県]][[秩父市]]荒川白久と同荒川贄川の間で[[荒川 (関東)|荒川]]に架かる[[埼玉県道210号中津川三峰口停車場線]]の橋である。荒川最上流に架かる[[都道府県道|県道]]の橋でもある。 |
'''白川橋'''(しらかわばし)は、[[埼玉県]][[秩父市]]荒川白久と同荒川贄川の間で[[荒川 (関東)|荒川]]に架かる[[埼玉県道210号中津川三峰口停車場線]]の橋である。荒川最上流に架かる[[都道府県道|県道]]の橋でもある。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
本橋は河口から137.8キロメートルの位置に架かり<ref name="amoanote8">{{Cite web |date= |url=http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/info/question/image/arakawa-sumida.pdf |title=企画展「荒川の橋」荒川・隅田川の橋(amoaノート第8号) |format=PDF |publisher=荒川下流河川事務所(荒川知水資料館) |page= |accessdate=2014-12-27 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20051108163526/http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/info/question/image/arakawa-sumida.pdf |archivedate=2005-11-08}}</ref>荒川の深渓に架かる橋長115.2[[メートル]]<ref name="KyoryoDB">[http://www.jasbc.or.jp/kyoryodb/detail.cgi?id=1101 橋梁年鑑 白川橋 詳細データ] - 一般社団法人 日本橋梁建設協会、2014年12月27日閲覧。</ref>、幅員 |
本橋は河口から137.8キロメートルの位置に架かり<ref name="amoanote8">{{Cite web |date= |url=http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/info/question/image/arakawa-sumida.pdf |title=企画展「荒川の橋」荒川・隅田川の橋(amoaノート第8号) |format=PDF |publisher=荒川下流河川事務所(荒川知水資料館) |page= |accessdate=2014-12-27 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20051108163526/http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/info/question/image/arakawa-sumida.pdf |archivedate=2005-11-08}}</ref>荒川の深渓に架かる橋長115.2[[メートル]]<ref name="KyoryoDB">[http://www.jasbc.or.jp/kyoryodb/detail.cgi?id=1101 橋梁年鑑 白川橋 詳細データ] - 一般社団法人 日本橋梁建設協会、2014年12月27日閲覧。</ref>、総幅員9.0メートル、有効幅員8.0メートル(車道6.0メートル、歩道2.0メートル)、最大支間長72.0メートル<ref name="mitsui48">『三井造船鉄構工事技報』48-49頁。</ref><ref name="Tekkotsunenkan166">『鐵骨橋梁年鑑 昭和39年度版(1964)』pp. 166-167。</ref>の鋼上路2ヒンジソリッドリブ[[アーチ橋]]である<ref name="doboku1963">[http://library.jsce.or.jp/jscelib/h_bridge/42576.htm 白川橋1963-3] - 土木学会付属土木図書館、2014年12月28日閲覧。</ref>。アーチリブの高さは基礎より16.0メートルである<ref name="Tekkotsunenkan166"/>。また、右岸側は左岸側に比べ緩慢な地形のため橋脚を立てて上路式単純[[桁橋]]に接続され、橋詰に架けられたコンクリート橋で[[秩父鉄道秩父本線|秩父鉄道]]の[[引き上げ線]]がアンダークロスする。支間割りは左岸側より11.5メートル、72.0メートル、14.9メートル(11.5メートル + 3.4メートル)、16.2メートルである<ref name="mitsui48"/><ref name="KyoryoDB"/>。歩道は2.0メートル<ref name="doboku1963"/>で下流側のみに設置されている。橋の高さは河床から橋面まで60メートルである<ref name="saishin630325">昭和38年3月25日『埼玉新聞』6頁。</ref>。車道には外向きに1.5パーセント、歩道には内向きに2パーセントの横断勾配がつけられている<ref name="mitsui48"/>。 |
||
親柱には荒川地区の民俗芸能の絵画が描かれ、レトロな外見をした[[道路照明灯]]が設置されている。なお、道路照明灯は竣工当時のものではなく後年交換されたものである<ref name="Tekkotsunenkan166"/>。橋の北詰はすぐ[[国道140号]]の交差点に至る。 |
親柱には荒川地区の民俗芸能の絵画が描かれ、レトロな外見をした[[道路照明灯]]が設置されている。高欄は当地にゆかりのあるしゃくなげの花としだれ桜のデザイン高欄が設置されている。なお、道路照明灯は竣工当時のものではなく後年交換されたものである<ref name="Tekkotsunenkan166"/>。橋の北詰はすぐ[[国道140号]]の交差点に至る。 |
||
奥秩父の交通の要所で、[[西武観光バス]]の中津川線、および三峰口線、三峯神社線の経路である他<ref>{{PDFLink|[http://www.seibubus.co.jp/chichibu/chichibu.pdf 西武観光バス路線案内図(秩父営業所管内)]}} - 西武バス、2014年12月27日閲覧。</ref><ref name="Chichiburosenbus">[http://www.city.chichibu.lg.jp/menu2056.html 秩父市内路線バスのご案内] - 秩父市、2014年12月27日閲覧。</ref>、[[小鹿野町営バス]]の日向大谷・三峰口線の走行経路に指定されている<ref>[http://www.town.ogano.lg.jp/menyu/basu/201411jikoku/hinata.html 小鹿野町営バス『日向大谷・三峰口線』] - 埼玉県[[小鹿野町]]、2014年12月27日閲覧。</ref>。左岸寄りのバス停は「白川橋」バス停が最寄り。 |
奥秩父の交通の要所で、[[西武観光バス]]の中津川線、および三峰口線、三峯神社線の経路である他<ref>{{PDFLink|[http://www.seibubus.co.jp/chichibu/chichibu.pdf 西武観光バス路線案内図(秩父営業所管内)]}} - 西武バス、2014年12月27日閲覧。</ref><ref name="Chichiburosenbus">[http://www.city.chichibu.lg.jp/menu2056.html 秩父市内路線バスのご案内] - 秩父市、2014年12月27日閲覧。</ref>、[[小鹿野町営バス]]の日向大谷・三峰口線の走行経路に指定されている<ref>[http://www.town.ogano.lg.jp/menyu/basu/201411jikoku/hinata.html 小鹿野町営バス『日向大谷・三峰口線』] - 埼玉県[[小鹿野町]]、2014年12月27日閲覧。</ref>。左岸寄りのバス停は「白川橋」バス停が最寄り。 |
||
=== 諸元 === |
=== 諸元 === |
||
* 橋格 - 2等橋(TL-14)<ref name="Tekkotsunenkan166"/> |
* 橋格 - 2等橋(TL-14)<ref name="Tekkotsunenkan166"/><ref name="mitsui48"/> |
||
* 総工費 - 5587万円<ref name="Saihyaku91">『埼玉大百科 第3巻』91頁</ref> |
* 総工費 - 5587万円<ref name="Saihyaku91">『埼玉大百科 第3巻』91頁</ref> |
||
* 形式 - ソリッドリブアーチ橋<ref name="doboku1963"/> |
* 形式 - 鋼上路2ヒンジソリッドリブアーチ橋<ref name="doboku1963"/> |
||
* 橋長 - 115.2 m |
* 橋長 - 115.2 m |
||
* 総幅員 - 6.6 m(竣工時)<ref name="Tekkotsunenkan166"/> |
* 総幅員 - 6.6 m(竣工時)<ref name="Tekkotsunenkan166"/>/ 9.0 m(拡幅後)<ref name="mitsui48"/> |
||
* 有効幅員 - 6.0 m(竣工時)/ 8.0 m(拡幅後) |
* 有効幅員 - 6.0 m(竣工時)/ 8.0 m(拡幅後) |
||
* 支間長 - 72.0 m |
* 支間長 - 72.0 m |
||
* 基礎 - [[直接基礎]] |
* 基礎 - [[直接基礎]] |
||
* 着工 - 1961年(昭和36年)7月<ref name="saishin630325"/> |
|||
<!--* 着工 - |
|||
* 竣工 - 1963年(昭和38年)3月<ref name="saishin630325"/> |
|||
* 竣工 - --> |
|||
* 開通 - 1963年(昭和38年 |
* 開通 - 1963年(昭和38年)5月15日<ref name="saishin630516">5月16日『埼玉新聞』8頁。</ref> |
||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
=== |
=== 栃の木坂の渡し === |
||
[[ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Zenkei 1.jpg|thumb|旧白川橋(1929年)]] |
[[ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Zenkei 1.jpg|thumb|旧白川橋(1929年)]] |
||
橋が架けられる以前はすぐ下流側の谷が開けた場所にある「栃の木坂の渡し」と呼ばれる(「八幡坂の渡し」や地名から「川端の渡し」とも呼ばれる)荒川最上流の[[渡し船|渡船場]]か<ref name="Arasui">『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』41頁</ref>、上流側の猪ノ鼻(現在の秩父市荒川贄川小字猪鼻)の場所に架けらていた幅6尺(約1.8メートル)の板張りの木製吊り橋を渡っていた<ref name="Arakawasonshi5-63">『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし [[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]誌 資料編五』63頁</ref>。「栃の木坂の渡し」は渡船2艘を有する私設の渡船場で、[[三峯神社|三峯]]方面へ行き来するためには必ずここを通る必要があった<ref name="Arasui"/>。(「栃の木坂の渡し」については[[荒川橋#歴史]]の項も参照)。 栃の木坂とは白久側(右岸側)より渡船場へと続く坂道で、八幡坂とは贄川側(左岸)の渡船場への坂道の事である<ref name="Arasui"/>。 |
橋が架けられる以前はすぐ下流側の谷が開けた場所にある「栃の木坂の渡し」と呼ばれる(「八幡坂の渡し」や地名から「川端の渡し」とも呼ばれる)荒川最上流の[[渡し船|渡船場]]か<ref name="Arasui">『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』41頁</ref>、上流側の猪ノ鼻(現在の秩父市荒川贄川小字猪鼻)の場所に架けらていた幅6尺(約1.8メートル)の板張りの木製吊り橋を渡っていた<ref name="Arakawasonshi5-63">『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし [[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]誌 資料編五』63頁</ref>。「栃の木坂の渡し」は渡船2艘を有する私設の渡船場で、[[三峯神社|三峯]]方面へ行き来するためには必ずここを通る必要があった<ref name="Arasui"/>。(「栃の木坂の渡し」については[[荒川橋#歴史]]の項も参照)。 栃の木坂とは白久側(右岸側)より渡船場へと続く坂道で、八幡坂とは贄川側(左岸)の渡船場への坂道の事である<ref name="Arasui"/>。 |
||
この渡船場は1929年に白川橋が開通したことにより廃止された<ref name="Arasui"/>。 |
この渡船場は1929年に白川橋が開通したことにより廃止された<ref name="Arasui"/>。渡船場への道は現存する。 |
||
=== 1929年の橋 === |
|||
白川橋は下流側の[[平和橋 (荒川)|平和橋]]と共に[[白川村 (埼玉県)|白川村]](白久地区)への秩父鉄道の誘致活動の一環として、[[1929年]](昭和4年)<ref name="doboku1929">[http://library.jsce.or.jp/jscelib/h_bridge/20443.htm 白川橋1929-] - 土木学会付属土木図書館、2014年12月28日閲覧。</ref>に |
|||
現在の橋の150メートル下流側の、荒川の両岸が狭まっている位置に鋼製の吊り橋として架けられていた。橋長 |
白川橋は下流側の[[平和橋 (荒川)|平和橋]]と共に[[白川村 (埼玉県)|白川村]](白久地区)への秩父鉄道の誘致活動の一環として<ref name="Arakawasiryo4-25">『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編 四』25頁</ref><ref group="注">昭和41年1月25日『埼玉新聞』6頁では秩父鉄道が架設したと報じている。なお秩父鉄道の三峰口駅の開業は1930年(昭和5年)3月15日である。</ref>、[[1929年]](昭和4年)11月<ref name="saishin630325"/>に現在の橋の150メートル下流側の、荒川の両岸が狭まっている位置に鋼製の吊り橋として架けられていた。橋長127メートル、幅員4メートル<ref name="saishin630325"/><ref group="注">土木学会付属土木図書館の橋梁史年表では橋長115メートル、幅員6メートルと記されている。</ref>。メインケーブルは直径42ミリメートルのワイヤーロープを使用している<ref name="saishin570802">昭和32年8月1日『埼玉新聞』5頁。</ref>。 |
||
橋の主塔は両岸の段丘崖上に設けられたコンクリート製の基礎の上に設てられ、鉄骨で組まれた鋭角な四角錐状の形状でトラス構造を持ち<ref name="Arakawasonshi4-57">『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』57頁</ref>、橋床は木製の板敷である<ref name="Arakawasonshi5-63"/>。桁は鋼補剛トラス構造で、桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鋼ケーブルが設けられている<ref name="Arakawasonshi4-57"/>。単径間の橋で側径間は有していない<ref name="doboku1929"/>。 |
橋の主塔は両岸の段丘崖上に設けられたコンクリート製の基礎の上に設てられ、鉄骨で組まれた鋭角な四角錐状の形状でトラス構造を持ち<ref name="Arakawasonshi4-57">『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』57頁</ref>、橋床は木製の板敷である<ref name="Arakawasonshi5-63"/>。桁は鋼補剛トラス構造で、桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鋼ケーブルが設けられている<ref name="Arakawasonshi4-57"/>。吊り橋は単径間の橋であり側径間は有していない<ref name="doboku1929">[http://library.jsce.or.jp/jscelib/h_bridge/20443.htm 白川橋1929-] - 土木学会付属土木図書館、2014年12月28日閲覧。</ref>。橋の塗色は白色に塗られていて女性的な景観美を持ち橋そのものも観光資源であった。 |
||
歩行者や[[自転車]]の他[[自動車]]の通行も可能であった。なお、[[バス (交通機関)|バス]]は橋の負荷軽減のため、渡る際は乗客は一旦バスから降りて徒歩で橋を渡らなければならなかった<ref name="Arakawasonshi4-27">『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』27頁</ref>。 |
重量制限は6トンで<ref name="saishin570802"/>、歩行者や[[自転車]]の他[[自動車]]の通行も可能であった。なお、[[バス (交通機関)|バス]]は橋の負荷軽減のため、渡る際は乗客は一旦バスから降りて徒歩で橋を渡らなければならなかった<ref name="Arakawasonshi4-27">『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』27頁</ref>。 |
||
この橋の開通で秩父鉄道の開通と相まって[[大滝村 (埼玉県)|大滝村]]や[[両神村]]から白久地区を通るバスや[[貨物自動車]]などの通行が増加した<ref>『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし 荒川村誌 資料編五』63頁</ref>。竣工当時は[[白川村 (埼玉県)|白川村]]に架かる橋であったが[[1943年]](昭和18年)2月11日の合併により所在地が[[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]となった |
この橋の開通で秩父鉄道の開通と相まって[[大滝村 (埼玉県)|大滝村]]や[[両神村]]から白久地区を通るバスや[[貨物自動車]]などの通行が増加した<ref>『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし 荒川村誌 資料編五』63頁</ref>。橋は秩父鉄道が所有したが、後に両岸の道路が県道になったためこの橋も県に移管され県管理の橋になった<ref name="saishin660125">昭和41年1月25日『埼玉新聞』6頁。</ref>。竣工当時は[[白川村 (埼玉県)|白川村]]に架かる橋であったが[[1943年]](昭和18年)2月11日の合併により所在地が[[荒川村 (埼玉県)|荒川村]]となった。 |
||
[[1957年]](昭和32年)8月1日、連日の酷暑で橋桁が伸び気味だった所に10時半頃、鉱石を満載したトラック2台が橋を通過したことにより、その重さがきっかけで片側の補剛桁が曲がってしまう事故が発生した<ref name="saishin570802"/>。この事故を受けて重量制限6トンだったところを4トンに引き下げられた<ref name="saishin570802"/>。 |
|||
[[ファイル:Arakawa Saitama Kyu-shirakawabashi Bended Railing 1.jpg|thumb|暑さで曲った桁(1957年8月)]] |
|||
この橋は床版交換や鎮錠(ちんてい)の修理など8回にわたる修繕を行ないつつ<ref name="saishin630325"/>、30年余りに渡り村民の生活の他、村の産業や観光に重要な役割を果たしてきたが、橋の老朽化の他[[モータリゼーション]]の進展に伴い、時代にそぐわないものとなり、1963年の新橋の開通後、役目を終え廃止された。 |
|||
==== 旧橋存続問題 ==== |
|||
旧橋は「白いつり橋」と呼ばれ今まで多くの人々に愛され、親しまれていた<ref name="saishin630802">昭和38年12月13日『埼玉新聞』7頁。</ref>。また、秩父の観光資源でもあったことから新橋開通後も存続が検討された。 |
|||
秩父土木事務所は新橋の建設が進捗し、旧橋の解体について1964年(昭和39年)3月解体予定<ref name="saishin630802"/>で関係者と検討している中、新橋完成の1年ほど前である1962年頃より秩父市および荒川村は旧橋の払い下げを競願した<ref name="saishin660125"/>。 |
|||
秩父市および荒川村は旧橋を払い下げて下流に移設の上で再活用する計画を立て<ref name="saishin700424">昭和45年4月24日『埼玉新聞』2頁。</ref>、荒川村は現在の[[平和橋 (荒川)|平和橋]]の場所、秩父市は下影森から久那を結ぶ通学橋(現在の[[巴川橋 (荒川)|巴川橋]]付近)として計画し、「是非地元へ」という村民の熱意により荒川村の案に決まりかけていた<ref name="saishin660125"/>。ところが秩父市は[[農免道路]]を建設する計画にあたり、ネックとなっていた橋梁の建設(現、[[柳大橋]])に掛かる費用は国からの援助金が下りることになり、農免道路の建設を優先することを決定したため、秩父市は旧橋の移設計画を撤回してしまい<ref name="saishin700424"/>、荒川村も財政上の問題から払い下げや移設作業に必要な解体費用を捻出できず、移設計画は宙に浮くことになり、何も出来ないまま長い間風雨に晒され荒れるがまま放置されてきた<ref name="saishin700424"/>。 |
|||
しかし、対岸の地元通勤通学者にとっては新橋は架橋位置の関係から駅から遠回りになり、旧橋の方が近道になるため、旧橋廃止後も徒歩利用され続けた<ref name="saishin700424"/>。橋の管理者であった秩父土木事務所は橋を通行禁止にする措置を取り、橋詰にその旨の立て札てが立てられたが、それでも危険を承知の渡橋が後を絶たなかった<ref name="saishin700424"/>。このままでは渡橋者が危険に晒され、いつ転落事故が起こるか分からないため、ついに秩父土木事務所は[[1970年]](昭和45年)3月25日より橋の解体撤去作業に着手され、主塔の土台などを残して撤去され姿を消した<ref name="saishin700424"/>。現在は遺構としてコンクリート製の主塔の基礎およびコンクリート製の側径間が両岸に残されている他、右岸側の[[アンカーブロック|アンカレイジ]]が三峰口駅構内の[[引き上げ線]]脇に残されている。また、取り付け道路が秩父鉄道の引き上げ線と交差する箇所に設けられた踏切(第4種踏切)と共に残されている。 |
|||
=== 1963年の橋 === |
=== 1963年の橋 === |
||
⚫ | |||
交通量の増大と通行車両の大型化などに対処するため、旧橋の約150メートル上流側の位置に[[1961年]](昭和36年)7月着工され、2ヵ年継続事業として総工費5587万円を投じて<ref name="Saihyaku91"/>鋼アーチ橋の永久橋として架けられ、[[1963年]](昭和38年)3月竣工し<ref name="saishin630325"/>、旧橋より付け替えられた。これが現在の白川橋である。橋の施工は上部工は宮地鉄工所(現、宮地エンジニアリング)<ref name="KyoryoDB"/>下部工は大滝村磯田建設が担当し<ref name="saishin630516"/>、架設工法として、ケーブルエレクション工法(直吊りか斜め吊りかは不明)が用いられた<ref name="Tekkotsunenkan166"/>。また、橋の建設に合わせて延長225メートルの取り付け道路も整備された<ref name="saishin630325"/>。 |
|||
竣工当初は総幅員6.6メートル、有効幅員6.0メートルの橋で歩道は設置されていなかった<ref name="Tekkotsunenkan166"/>。床版は有効厚さ160ミリメートルのRC([[鉄筋コンクリート]])床版<ref name="Tekkotsunenkan166"/>が使用されていた。橋の塗色は旧橋と同様に白色に塗装された。車道には2パーセントの横断勾配がつけられていた<ref name="Tekkotsunenkan166"/>。 |
|||
橋の開通式は1963年(昭和36年)5月15日11時より橋の南詰にて挙行され、式典の後に神官を先頭に三世代家族による渡り初めが行なわれた<ref name="saishin630516"/>。 |
|||
この橋の開通により路線バスは応急処置的に[[武州中川駅]]前を発着場所に変更していたが、今まで通り三峰口駅前に直接乗り入れるようになった<ref name="saishin630516"/>。 |
|||
竣工当時は荒川村に架かる橋であったが、[[2005年]](平成17年)4月1日の合併(平成の大合併)により秩父市の橋となった。 |
|||
==== 拡幅工事 ==== |
|||
[[ファイル:Arakawa Saitama Shirakawabashi 1963 1.jpg|thumb|竣工当時の白川橋(1963年)]] |
|||
[[ファイル:Chichibu Sirakawabasi 1.jpg|thumb|現在の白川橋(2014年)]] |
[[ファイル:Chichibu Sirakawabasi 1.jpg|thumb|現在の白川橋(2014年)]] |
||
橋の開通から30年が経過し、交通量の増加や通行車両の大型化に伴い、RC床版に亀裂が入る損傷が目立つようになったため、県は床版の修繕をすることを決め、その修繕を契機にかねてより地域住民からの要望であった歩道の新設を検討した結果、床版の交換を兼ねて橋を拡幅整備して歩道を新設することとなった<ref name="mitsui48"/>。 |
|||
旧橋の約150メートル上流側の位置に総工費5587万円を投じて<ref name="Saihyaku91"/>鋼アーチ橋として架けられ、[[1963年]](昭和38年)3月開通し、旧橋より付け替えられた。これが現在の白川橋である。橋の施工は宮地鉄工所(現、宮地エンジニアリング)が担当し<ref name="KyoryoDB"/>、架設工法として、ケーブルエレクション工法(直吊りか斜め吊りかは不明)が用いられた<ref name="Tekkotsunenkan166"/>。竣工当初は総幅員6.6メートル、有効幅員6.0メートルの橋で歩道は設置されていなかったが<ref name="Tekkotsunenkan166"/>、[[1994年]](平成6年)に有効厚さ160ミリメートルのRC([[鉄筋コンクリート]])床版<ref name="Tekkotsunenkan166"/>から鋼製の床版への改修工事が行われた際に幅員8.0メートルに拡幅が行われ、川下側に幅2メートルの歩道が新設された<ref name="doboku1963"/>。竣工当時は荒川村に架かる橋であったが、[[2005年]](平成17年)4月1日の合併(平成の大合併)により秩父市の橋となった。 |
|||
歩道の設置については片側もしくは両側設置とした場合やその幅員など5つのプランを検討し、歩道追加により車道中心線のずれに伴う橋に与える[[応力]]の変化を評価したところ、歩道幅員が適度にあり橋の応力超過が許容範囲内(10パーセント以内)であった現行の川下側に幅2メートルの歩道を新設するものになった<ref name="mitsui49">『三井造船鉄構工事技報』49-50頁。</ref>。 |
|||
拡幅工事は[[1991年]](平成3年)9月30日着工された<ref name="mitsui48"/>。事業主体は埼玉県秩父土木事務所で施工は[[三井造船]]が担当した。鋼床版の[[活荷重]]は大型車の通行を考慮し一等橋並みのT-20とした<ref name="mitsui49"/>。周囲は狭隘なため、100メートルほど離れた場所に機材ヤードを設けた<ref name="mitsui55">『三井造船鉄構工事技報』55頁。</ref>。 |
|||
工事の特徴として橋はバス路線であり、周辺にその迂回路がないことから橋を全面通行止めには出来ず、交通供用しながらの施工となるため、昼間は1車線分(3.5メートル)の通行路および歩行者通行帯(0.8メートル)を確保して信号機による[[片側交互通行]]を行ない、夜間(22時30分-5時30分)に全面通行止めにして工事が行なわれた<ref name="mitsui51">『三井造船鉄構工事技報』51-52頁。</ref>。施工は橋面を46ブロック(アーチ部29ブロック、側径間17ブロック)に区切る分割施工とし、橋の右岸寄りにあるゲルバーヒンジがあるブロックを起点としてそこから前後するように両岸にむけてブロック施工を行ない、覆工板(仮路面)の撤去、RC床版の撤去および[[斫り]]、主桁[[フランジ#はり部材におけるフランジ|フランジ]]部のケレン作業(錆びや付着物を除去する作業)、鋼床版の設置、覆工板の再設置、などを1ブロック1サイクルとして一夜のうちに行ない、それをブロック数分繰り返した<ref name="mitsui52">『三井造船鉄構工事技報』52-54頁。</ref>。施工時は荷重の変化に伴う橋のたわみや変形に配慮された<ref name="mitsui51"/>。鋼床版はデッキプレート厚12ミリ(歩道部は10ミリ)の車道張出部、車道中間部、歩道部でそれぞれ設計が異なる物を使用し<ref name="mitsui49"/>、主桁フランジの間に高さ調整用のフィラープレートを介して高力ボルトで取り付けられた<ref name="mitsui51"/>。微妙な高さ調整はアスファルト舗装で行われた<ref name="mitsui52"/>。なお舗装厚は車道80ミリメートル、歩道50ミリメートルである<ref name="mitsui49"/>。地覆(橋の路肩部分)および縁石は軽量化に配慮され鋼製のものが使用された<ref name="mitsui49"/>。高欄は美観に配慮され、鋳鉄製でデザイン付きのものに交換された<ref name="mitsui49"/>。 |
|||
[[1992年]](平成4年)3月20日拡幅工事は完了した<ref name="mitsui48"/>。工事着手から完了するまでの間、無事故無災害を達成している<ref name="mitsui55"/>。 |
|||
== 周辺 == |
== 周辺 == |
||
69行目: | 94行目: | ||
* 八幡神社 - 渡船場への道に立地 |
* 八幡神社 - 渡船場への道に立地 |
||
* 阿弥陀寺 |
* 阿弥陀寺 |
||
== その他 == |
|||
* 白川橋は秩父における[[自殺の名所]]の一つでもある<ref name="mitsui55"/>。秩父市は橋からの[[投身自殺]]が多く<ref>{{PDFLink|[http://www.city.chichibu.lg.jp/secure/13154/270802.pdf 市報ちちぶ(平成27年8月号)]}}p. 2 - 秩父市、2015年8月10日、2016年2月23日閲覧。</ref>、このような背景から市は主要な橋の高欄などに橋からの投身自殺を防ぐ目的で「自殺予防標語入り看板」を設置し、その成果を上げている<ref>{{PDFlink|[http://www.city.chichibu.lg.jp/secure/10613/jisatsuyobou_260528.pdf 秩父市セーフコミュニティ 自殺予防対策委員会活動報告]}}p. 27,30 - 秩父市(自殺予防対策委員会)、2016年2月23日閲覧。</ref>。 |
|||
== 風景 == |
== 風景 == |
||
<gallery widths="160"> |
<gallery widths="160"> |
||
ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Kasetukouzi 2.jpg|施工中の旧白川橋。 |
|||
ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Kasetukouzi 1.jpg|施工中の旧白川橋。 |
ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Kasetukouzi 1.jpg|施工中の旧白川橋。 |
||
ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Watarizome 1.jpg|旧白川橋の開通式の様子。 |
ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Watarizome 1.jpg|旧白川橋の開通式の様子。 |
||
ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Watarizome 2.jpg|旧白川橋の渡り初め。 |
ファイル:Shirakawa Saitama Kyu-sirakawabasi Watarizome 2.jpg|旧白川橋の渡り初め。 |
||
⚫ | |||
ファイル:Chichibu Sirakawabasi 2.jpg|右岸上流側より望む。 |
ファイル:Chichibu Sirakawabasi 2.jpg|右岸上流側より望む。 |
||
ファイル:Chichibu Sirakawabasi 3.jpg|右岸側橋詰より望む。 |
ファイル:Chichibu Sirakawabasi 3.jpg|右岸側橋詰より望む。 |
||
ファイル:Chichibu Sirakawabasi Oyabasira 1.jpg|親柱と照明灯。 |
ファイル:Chichibu Sirakawabasi Oyabasira 1.jpg|親柱と照明灯。 |
||
ファイル:Chichibu Kyu-sirakawabasi ikou 1.jpg|左岸側に現存する旧白川橋の遺構。主塔の基礎およびコンクリート製の側径間が残されている。 |
|||
ファイル:Mitumineguti eki Hikiagesen 1.jpg|三峰口駅構内の引き上げ線。旧橋のアンカレイジと取り付け道路の踏切が残されている。 |
ファイル:Mitumineguti eki Hikiagesen 1.jpg|三峰口駅構内の引き上げ線。旧橋のアンカレイジと取り付け道路の踏切が残されている。 |
||
</gallery> |
</gallery> |
||
87行目: | 116行目: | ||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
=== 注釈 === |
|||
<references group="注"/> |
|||
=== 出典 === |
|||
<references /> |
<references /> |
||
95行目: | 128行目: | ||
* 梶 祐二 編集『埼玉大百科事典 第3巻』、埼玉新聞社、1974年(昭和49年)11月15日。 |
* 梶 祐二 編集『埼玉大百科事典 第3巻』、埼玉新聞社、1974年(昭和49年)11月15日。 |
||
* [http://www.jasbc.or.jp/nenkanpdf/files/03_nenkan_S39(1964).pdf 『鐵骨橋梁年鑑 昭和39年度版(1964)』]、一般社団法人 日本橋梁建設協会、1964年6月15日。 |
* [http://www.jasbc.or.jp/nenkanpdf/files/03_nenkan_S39(1964).pdf 『鐵骨橋梁年鑑 昭和39年度版(1964)』]、一般社団法人 日本橋梁建設協会、1964年6月15日。 |
||
* {{Cite journal |和書|author=月岡義晴 |author2=宮崎有希子 |title=アーチ系橋梁のRC床版から鋼床版への取替え工事--白川橋 |date=1992-09 |publisher=三井造船鉄構工事株式会社 |journal=三井造船鉄構工事技報 |volume=6 |issue= |naid= |pages=48-55 |ref = }} |
|||
* {{Cite news |title=暑さに負けた吊橋 鉄のらんかんグニャグニャ 秩父白川橋 |newspaper=埼玉新聞 |date=1957-08-02 |publisher=埼玉新聞社 |page=6}} |
|||
* {{Cite news |title=文化を運ぶ山峡の橋 渡し舟さようなら 白いつり橋にもお別れ |newspaper=埼玉新聞 |date=1963-03-25 |publisher=埼玉新聞社 |page=6}} |
|||
* {{Cite news |title=長寿一家が渡りぞめ 荒川村の白川橋 きのう盛大に完工式 |newspaper=埼玉新聞 |date=1963-05-16 |publisher=埼玉新聞社 |page=8}} |
|||
* {{Cite news |title=つり橋の隣に白い鉄橋 三峰口の白川橋 |newspaper=埼玉新聞 |date=1963-12-13 |publisher=埼玉新聞社 |page=7}} |
|||
* {{Cite news |title=白いツリ橋宙に浮く 荒川村白川橋 財政難で払い下げ難航 |newspaper=埼玉新聞 |date=1966-01-25 |publisher=埼玉新聞社 |page=6}} |
|||
* {{Cite news |title=さらば!白いツリ橋 復元の願いむなしく 荒川村の旧白川橋 |newspaper=埼玉新聞 |date=1970-04-24 |publisher=埼玉新聞社 |page=2}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2016年3月10日 (木) 04:10時点における版
白川橋 | |
---|---|
白川橋と贄川河原(2014年11月) | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 埼玉県秩父市 |
交差物件 | 荒川 |
建設 | 1961 - 1963 |
構造諸元 | |
形式 | アーチ橋 |
材料 | 鋼 |
全長 | 115.2 m |
幅 | 8.0 m |
高さ | 16.0 m |
最大支間長 | 72.0 m |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
白川橋(しらかわばし)は、埼玉県秩父市荒川白久と同荒川贄川の間で荒川に架かる埼玉県道210号中津川三峰口停車場線の橋である。荒川最上流に架かる県道の橋でもある。
概要
本橋は河口から137.8キロメートルの位置に架かり[1]荒川の深渓に架かる橋長115.2メートル[2]、総幅員9.0メートル、有効幅員8.0メートル(車道6.0メートル、歩道2.0メートル)、最大支間長72.0メートル[3][4]の鋼上路2ヒンジソリッドリブアーチ橋である[5]。アーチリブの高さは基礎より16.0メートルである[4]。また、右岸側は左岸側に比べ緩慢な地形のため橋脚を立てて上路式単純桁橋に接続され、橋詰に架けられたコンクリート橋で秩父鉄道の引き上げ線がアンダークロスする。支間割りは左岸側より11.5メートル、72.0メートル、14.9メートル(11.5メートル + 3.4メートル)、16.2メートルである[3][2]。歩道は2.0メートル[5]で下流側のみに設置されている。橋の高さは河床から橋面まで60メートルである[6]。車道には外向きに1.5パーセント、歩道には内向きに2パーセントの横断勾配がつけられている[3]。 親柱には荒川地区の民俗芸能の絵画が描かれ、レトロな外見をした道路照明灯が設置されている。高欄は当地にゆかりのあるしゃくなげの花としだれ桜のデザイン高欄が設置されている。なお、道路照明灯は竣工当時のものではなく後年交換されたものである[4]。橋の北詰はすぐ国道140号の交差点に至る。 奥秩父の交通の要所で、西武観光バスの中津川線、および三峰口線、三峯神社線の経路である他[7][8]、小鹿野町営バスの日向大谷・三峰口線の走行経路に指定されている[9]。左岸寄りのバス停は「白川橋」バス停が最寄り。
諸元
- 橋格 - 2等橋(TL-14)[4][3]
- 総工費 - 5587万円[10]
- 形式 - 鋼上路2ヒンジソリッドリブアーチ橋[5]
- 橋長 - 115.2 m
- 総幅員 - 6.6 m(竣工時)[4]/ 9.0 m(拡幅後)[3]
- 有効幅員 - 6.0 m(竣工時)/ 8.0 m(拡幅後)
- 支間長 - 72.0 m
- 基礎 - 直接基礎
- 着工 - 1961年(昭和36年)7月[6]
- 竣工 - 1963年(昭和38年)3月[6]
- 開通 - 1963年(昭和38年)5月15日[11]
歴史
栃の木坂の渡し
橋が架けられる以前はすぐ下流側の谷が開けた場所にある「栃の木坂の渡し」と呼ばれる(「八幡坂の渡し」や地名から「川端の渡し」とも呼ばれる)荒川最上流の渡船場か[12]、上流側の猪ノ鼻(現在の秩父市荒川贄川小字猪鼻)の場所に架けらていた幅6尺(約1.8メートル)の板張りの木製吊り橋を渡っていた[13]。「栃の木坂の渡し」は渡船2艘を有する私設の渡船場で、三峯方面へ行き来するためには必ずここを通る必要があった[12]。(「栃の木坂の渡し」については荒川橋#歴史の項も参照)。 栃の木坂とは白久側(右岸側)より渡船場へと続く坂道で、八幡坂とは贄川側(左岸)の渡船場への坂道の事である[12]。 この渡船場は1929年に白川橋が開通したことにより廃止された[12]。渡船場への道は現存する。
1929年の橋
白川橋は下流側の平和橋と共に白川村(白久地区)への秩父鉄道の誘致活動の一環として[14][注 1]、1929年(昭和4年)11月[6]に現在の橋の150メートル下流側の、荒川の両岸が狭まっている位置に鋼製の吊り橋として架けられていた。橋長127メートル、幅員4メートル[6][注 2]。メインケーブルは直径42ミリメートルのワイヤーロープを使用している[15]。 橋の主塔は両岸の段丘崖上に設けられたコンクリート製の基礎の上に設てられ、鉄骨で組まれた鋭角な四角錐状の形状でトラス構造を持ち[16]、橋床は木製の板敷である[13]。桁は鋼補剛トラス構造で、桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鋼ケーブルが設けられている[16]。吊り橋は単径間の橋であり側径間は有していない[17]。橋の塗色は白色に塗られていて女性的な景観美を持ち橋そのものも観光資源であった。 重量制限は6トンで[15]、歩行者や自転車の他自動車の通行も可能であった。なお、バスは橋の負荷軽減のため、渡る際は乗客は一旦バスから降りて徒歩で橋を渡らなければならなかった[18]。
この橋の開通で秩父鉄道の開通と相まって大滝村や両神村から白久地区を通るバスや貨物自動車などの通行が増加した[19]。橋は秩父鉄道が所有したが、後に両岸の道路が県道になったためこの橋も県に移管され県管理の橋になった[20]。竣工当時は白川村に架かる橋であったが1943年(昭和18年)2月11日の合併により所在地が荒川村となった。 1957年(昭和32年)8月1日、連日の酷暑で橋桁が伸び気味だった所に10時半頃、鉱石を満載したトラック2台が橋を通過したことにより、その重さがきっかけで片側の補剛桁が曲がってしまう事故が発生した[15]。この事故を受けて重量制限6トンだったところを4トンに引き下げられた[15]。
この橋は床版交換や鎮錠(ちんてい)の修理など8回にわたる修繕を行ないつつ[6]、30年余りに渡り村民の生活の他、村の産業や観光に重要な役割を果たしてきたが、橋の老朽化の他モータリゼーションの進展に伴い、時代にそぐわないものとなり、1963年の新橋の開通後、役目を終え廃止された。
旧橋存続問題
旧橋は「白いつり橋」と呼ばれ今まで多くの人々に愛され、親しまれていた[21]。また、秩父の観光資源でもあったことから新橋開通後も存続が検討された。 秩父土木事務所は新橋の建設が進捗し、旧橋の解体について1964年(昭和39年)3月解体予定[21]で関係者と検討している中、新橋完成の1年ほど前である1962年頃より秩父市および荒川村は旧橋の払い下げを競願した[20]。 秩父市および荒川村は旧橋を払い下げて下流に移設の上で再活用する計画を立て[22]、荒川村は現在の平和橋の場所、秩父市は下影森から久那を結ぶ通学橋(現在の巴川橋付近)として計画し、「是非地元へ」という村民の熱意により荒川村の案に決まりかけていた[20]。ところが秩父市は農免道路を建設する計画にあたり、ネックとなっていた橋梁の建設(現、柳大橋)に掛かる費用は国からの援助金が下りることになり、農免道路の建設を優先することを決定したため、秩父市は旧橋の移設計画を撤回してしまい[22]、荒川村も財政上の問題から払い下げや移設作業に必要な解体費用を捻出できず、移設計画は宙に浮くことになり、何も出来ないまま長い間風雨に晒され荒れるがまま放置されてきた[22]。 しかし、対岸の地元通勤通学者にとっては新橋は架橋位置の関係から駅から遠回りになり、旧橋の方が近道になるため、旧橋廃止後も徒歩利用され続けた[22]。橋の管理者であった秩父土木事務所は橋を通行禁止にする措置を取り、橋詰にその旨の立て札てが立てられたが、それでも危険を承知の渡橋が後を絶たなかった[22]。このままでは渡橋者が危険に晒され、いつ転落事故が起こるか分からないため、ついに秩父土木事務所は1970年(昭和45年)3月25日より橋の解体撤去作業に着手され、主塔の土台などを残して撤去され姿を消した[22]。現在は遺構としてコンクリート製の主塔の基礎およびコンクリート製の側径間が両岸に残されている他、右岸側のアンカレイジが三峰口駅構内の引き上げ線脇に残されている。また、取り付け道路が秩父鉄道の引き上げ線と交差する箇所に設けられた踏切(第4種踏切)と共に残されている。
1963年の橋
交通量の増大と通行車両の大型化などに対処するため、旧橋の約150メートル上流側の位置に1961年(昭和36年)7月着工され、2ヵ年継続事業として総工費5587万円を投じて[10]鋼アーチ橋の永久橋として架けられ、1963年(昭和38年)3月竣工し[6]、旧橋より付け替えられた。これが現在の白川橋である。橋の施工は上部工は宮地鉄工所(現、宮地エンジニアリング)[2]下部工は大滝村磯田建設が担当し[11]、架設工法として、ケーブルエレクション工法(直吊りか斜め吊りかは不明)が用いられた[4]。また、橋の建設に合わせて延長225メートルの取り付け道路も整備された[6]。 竣工当初は総幅員6.6メートル、有効幅員6.0メートルの橋で歩道は設置されていなかった[4]。床版は有効厚さ160ミリメートルのRC(鉄筋コンクリート)床版[4]が使用されていた。橋の塗色は旧橋と同様に白色に塗装された。車道には2パーセントの横断勾配がつけられていた[4]。 橋の開通式は1963年(昭和36年)5月15日11時より橋の南詰にて挙行され、式典の後に神官を先頭に三世代家族による渡り初めが行なわれた[11]。 この橋の開通により路線バスは応急処置的に武州中川駅前を発着場所に変更していたが、今まで通り三峰口駅前に直接乗り入れるようになった[11]。 竣工当時は荒川村に架かる橋であったが、2005年(平成17年)4月1日の合併(平成の大合併)により秩父市の橋となった。
拡幅工事
橋の開通から30年が経過し、交通量の増加や通行車両の大型化に伴い、RC床版に亀裂が入る損傷が目立つようになったため、県は床版の修繕をすることを決め、その修繕を契機にかねてより地域住民からの要望であった歩道の新設を検討した結果、床版の交換を兼ねて橋を拡幅整備して歩道を新設することとなった[3]。
歩道の設置については片側もしくは両側設置とした場合やその幅員など5つのプランを検討し、歩道追加により車道中心線のずれに伴う橋に与える応力の変化を評価したところ、歩道幅員が適度にあり橋の応力超過が許容範囲内(10パーセント以内)であった現行の川下側に幅2メートルの歩道を新設するものになった[23]。 拡幅工事は1991年(平成3年)9月30日着工された[3]。事業主体は埼玉県秩父土木事務所で施工は三井造船が担当した。鋼床版の活荷重は大型車の通行を考慮し一等橋並みのT-20とした[23]。周囲は狭隘なため、100メートルほど離れた場所に機材ヤードを設けた[24]。
工事の特徴として橋はバス路線であり、周辺にその迂回路がないことから橋を全面通行止めには出来ず、交通供用しながらの施工となるため、昼間は1車線分(3.5メートル)の通行路および歩行者通行帯(0.8メートル)を確保して信号機による片側交互通行を行ない、夜間(22時30分-5時30分)に全面通行止めにして工事が行なわれた[25]。施工は橋面を46ブロック(アーチ部29ブロック、側径間17ブロック)に区切る分割施工とし、橋の右岸寄りにあるゲルバーヒンジがあるブロックを起点としてそこから前後するように両岸にむけてブロック施工を行ない、覆工板(仮路面)の撤去、RC床版の撤去および斫り、主桁フランジ部のケレン作業(錆びや付着物を除去する作業)、鋼床版の設置、覆工板の再設置、などを1ブロック1サイクルとして一夜のうちに行ない、それをブロック数分繰り返した[26]。施工時は荷重の変化に伴う橋のたわみや変形に配慮された[25]。鋼床版はデッキプレート厚12ミリ(歩道部は10ミリ)の車道張出部、車道中間部、歩道部でそれぞれ設計が異なる物を使用し[23]、主桁フランジの間に高さ調整用のフィラープレートを介して高力ボルトで取り付けられた[25]。微妙な高さ調整はアスファルト舗装で行われた[26]。なお舗装厚は車道80ミリメートル、歩道50ミリメートルである[23]。地覆(橋の路肩部分)および縁石は軽量化に配慮され鋼製のものが使用された[23]。高欄は美観に配慮され、鋳鉄製でデザイン付きのものに交換された[23]。
1992年(平成4年)3月20日拡幅工事は完了した[3]。工事着手から完了するまでの間、無事故無災害を達成している[24]。
周辺
橋は秩父盆地の外れに位置し、この橋付近を境に下流側は約1500万年前の地層を有した河岸段丘域で、上流側は秩父帯と呼ばれる約2億年前の固い地層を有した山間部の深いV字谷の渓谷となっている[27][28]。この橋より上流側の集落は山の中腹や谷沿いの狭い傾斜地に立地する[27]。 河原は河床の砂礫が減小し基盤の岩石が目立つアーマー化現象が見られる[29]。 周囲は秩父多摩甲斐国立公園の普通地域と呼ばれる区域が近い[30]。渡船場のあった付近の河原で神明社川瀬祭りの祭典が行われる[31]。また、昭和30年代までどんどん焼きに似た「天狗まつり」と呼ばれた祭事が付近の河原で行われ、藁でできた数基の天狗小屋が立つ光景が橋より見られた[32]。 秩父を訪れていた地質学者のナウマンが、白川橋が架けられている辺りの高台から遠景の武甲山の情景を眺めて絶賛したという[33]。また、小説家の幸田露伴は贄川宿から望む情景はスイスに似ていると「知々夫紀行」に記している[33]。
その他
- 白川橋は秩父における自殺の名所の一つでもある[24]。秩父市は橋からの投身自殺が多く[34]、このような背景から市は主要な橋の高欄などに橋からの投身自殺を防ぐ目的で「自殺予防標語入り看板」を設置し、その成果を上げている[35]。
風景
-
施工中の旧白川橋。
-
施工中の旧白川橋。
-
旧白川橋の開通式の様子。
-
旧白川橋の渡り初め。
-
右岸上流側より望む。
-
右岸側橋詰より望む。
-
親柱と照明灯。
-
左岸側に現存する旧白川橋の遺構。主塔の基礎およびコンクリート製の側径間が残されている。
-
三峰口駅構内の引き上げ線。旧橋のアンカレイジと取り付け道路の踏切が残されている。
隣の橋
脚注
注釈
- ^ 昭和41年1月25日『埼玉新聞』6頁では秩父鉄道が架設したと報じている。なお秩父鉄道の三峰口駅の開業は1930年(昭和5年)3月15日である。
- ^ 土木学会付属土木図書館の橋梁史年表では橋長115メートル、幅員6メートルと記されている。
出典
- ^ “企画展「荒川の橋」荒川・隅田川の橋(amoaノート第8号)” (PDF). 荒川下流河川事務所(荒川知水資料館). 2005年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月27日閲覧。
- ^ a b c 橋梁年鑑 白川橋 詳細データ - 一般社団法人 日本橋梁建設協会、2014年12月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『三井造船鉄構工事技報』48-49頁。
- ^ a b c d e f g h i 『鐵骨橋梁年鑑 昭和39年度版(1964)』pp. 166-167。
- ^ a b c 白川橋1963-3 - 土木学会付属土木図書館、2014年12月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 昭和38年3月25日『埼玉新聞』6頁。
- ^ 西武観光バス路線案内図(秩父営業所管内) (PDF) - 西武バス、2014年12月27日閲覧。
- ^ 秩父市内路線バスのご案内 - 秩父市、2014年12月27日閲覧。
- ^ 小鹿野町営バス『日向大谷・三峰口線』 - 埼玉県小鹿野町、2014年12月27日閲覧。
- ^ a b 『埼玉大百科 第3巻』91頁
- ^ a b c d 5月16日『埼玉新聞』8頁。
- ^ a b c d 『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』41頁
- ^ a b 『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし 荒川村誌 資料編五』63頁
- ^ 『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編 四』25頁
- ^ a b c d 昭和32年8月1日『埼玉新聞』5頁。
- ^ a b 『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』57頁
- ^ 白川橋1929- - 土木学会付属土木図書館、2014年12月28日閲覧。
- ^ 『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』27頁
- ^ 『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし 荒川村誌 資料編五』63頁
- ^ a b c 昭和41年1月25日『埼玉新聞』6頁。
- ^ a b 昭和38年12月13日『埼玉新聞』7頁。
- ^ a b c d e f 昭和45年4月24日『埼玉新聞』2頁。
- ^ a b c d e f 『三井造船鉄構工事技報』49-50頁。
- ^ a b c 『三井造船鉄構工事技報』55頁。
- ^ a b c 『三井造船鉄構工事技報』51-52頁。
- ^ a b 『三井造船鉄構工事技報』52-54頁。
- ^ a b ジオパーク秩父を楽しむコースマップ! (PDF) - ジオパーク秩父、2014年12月27日閲覧。
- ^ “市報ちちぶ(平成26年4月号)” (PDF). 秩父市役所. p. 18 (2014年4月10日). 2014年12月29日閲覧。
- ^ “低水路内における撹乱生態水理学 -境界層内の水・土砂・水生昆虫のダイナミクス” (PDF). 土木学会. p. 20 (2013年12月2日). 2014年12月23日閲覧。
- ^ 秩父多摩甲斐国立公園 - 環境省、2014年12月27日閲覧。
- ^ 『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし 荒川村誌 資料編五』36頁
- ^ 『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし 荒川村誌 資料編五』29頁
- ^ a b 『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』56頁
- ^ 市報ちちぶ(平成27年8月号) (PDF) p. 2 - 秩父市、2015年8月10日、2016年2月23日閲覧。
- ^ 秩父市セーフコミュニティ 自殺予防対策委員会活動報告 (PDF) p. 27,30 - 秩父市(自殺予防対策委員会)、2016年2月23日閲覧。
参考文献
- 荒川村歴史民俗研究会編集『写真集「村の記録」 荒川村誌 資料編四』、荒川村、1998年(平成10年)2月25日。
- 荒川村歴史民俗研究会編集『写真集「村の記録」第2集 村の生活とくらし 荒川村誌 資料編五』、荒川村、2001年(平成13年)2月1日。
- 埼玉県立さきたま資料館編集『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』、埼玉県政情報資料室発行、1987年(昭和62年)4月。
- 梶 祐二 編集『埼玉大百科事典 第3巻』、埼玉新聞社、1974年(昭和49年)11月15日。
- 『鐵骨橋梁年鑑 昭和39年度版(1964)』、一般社団法人 日本橋梁建設協会、1964年6月15日。
- 月岡義晴、宮崎有希子「アーチ系橋梁のRC床版から鋼床版への取替え工事--白川橋」『三井造船鉄構工事技報』第6巻、三井造船鉄構工事株式会社、1992年9月、48-55頁。
- “暑さに負けた吊橋 鉄のらんかんグニャグニャ 秩父白川橋”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 6. (1957年8月2日)
- “文化を運ぶ山峡の橋 渡し舟さようなら 白いつり橋にもお別れ”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 6. (1963年3月25日)
- “長寿一家が渡りぞめ 荒川村の白川橋 きのう盛大に完工式”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 8. (1963年5月16日)
- “つり橋の隣に白い鉄橋 三峰口の白川橋”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 7. (1963年12月13日)
- “白いツリ橋宙に浮く 荒川村白川橋 財政難で払い下げ難航”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 6. (1966年1月25日)
- “さらば!白いツリ橋 復元の願いむなしく 荒川村の旧白川橋”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 2. (1970年4月24日)
外部リンク
- 【橋りょう】 白川橋〔秩父市〕 - 埼玉県ホームページ
- 戦前土木絵葉書ライブラリー - 土木学会図書館
- 彩の国デジタルアーカイブ - 旧橋の写真が収録されている(写真検索で「白川橋」の検索結果を参照)。
- 白川橋(埼玉県秩父市) - 彩の国埼玉情報サイト「さいたまなび」
座標: 北緯35度57分39.2秒 東経138度58分27.8秒 / 北緯35.960889度 東経138.974389度