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「霞 (朝潮型駆逐艦)」の版間の差分

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|燃料||重油580t
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|乗員||230名(1943年7月時点、244名)<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.28『(二)麾下総員数|霞|(士官)六|(特務士官)二|(准士官)六|(下士官)六九|(兵)一六一|(其ノ他)/|(計)二四四』</ref>
|乗員||230名
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|武装(新造時)||[[50口径三年式12.7センチ砲|50口径12.7cm連装砲]] 3基6門<br>25mm機銃 Ⅱ×2<br>(または13mm機銃 Ⅱ×2)<br>61cm4連装[[魚雷発射管]] 2基8門<br />(九〇式魚雷16本)<br />九一式爆雷×36
|武装(新造時)||[[50口径三年式12.7センチ砲|50口径12.7cm連装砲]] 3基6門<br>25mm機銃 Ⅱ×2<br>(または13mm機銃 Ⅱ×2)<br>61cm4連装[[魚雷発射管]] 2基8門<br />(九〇式魚雷16本)<br />九一式爆雷×36
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'''霞'''(かすみ)は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]。[[朝潮型駆逐艦|朝潮型]]の9番艦である。この名を持つ帝国海軍の艦船としては[[暁型駆逐艦]]「霞」に続いて2隻目。
'''霞'''(かすみ)は、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]<ref name="S11達80号">[[#達昭和11年6月]]p.12『達第八十號 昭和十一年度達第七號中浦賀船渠株式會社ニテ建造ノ驅逐艦'''朝雲 アサグモ'''ヲ驅逐艦'''霞 カスミ'''ニ改ム 昭和十一年六月十九日 海軍大臣 永野修身』</ref>。[[朝潮型駆逐艦|一等駆逐艦朝潮型]]の9番艦である<ref>[[#艦艇類別等級表(昭和16年6月30日)]]p.4『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|朝潮型|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』</ref>。この名を持つ帝国海軍の艦船としては[[暁型駆逐艦]]「霞」に続いて2隻目。


==艦歴==
== 艦歴 ==
=== 太平洋戦争まで ===
[[浦賀船渠]]で[[1936年]](昭和11年)12月に起工、[[1939年]](昭和14年)6月に竣工し、同時に第18駆逐隊に編入され、11月15日、[[第二艦隊 (日本海軍)|第2艦隊]][[第二水雷戦隊|第2水雷戦隊]]に編入された。
[[1935年]](昭和10年)2月に[[軍令部]]が制作した昭和16年度戦時編制案に、朝潮型駆逐艦<ref name="S16年度戦時編制案6">[[#昭和16年度戦時編制案]]p.6『昭和十六年度(一九四一年)帝國海軍戰時編制(案)昭和十年二月十二日外戰部隊|GF|2F|2sd|新駆|(<del>村雨型 海風型</del>現特型8)(朝潮型) 朝雲型)』</ref>、朝雲型駆逐艦<ref name="S16年度戦時編制案6"/>、霞型駆逐艦が表記される<ref>[[#昭和16年度戦時編制案]]p.6『外戰部隊|GF|2F|4sd|新駆|(霞型2 新型6)(新型3)』</ref>。
[[1936年]](昭和11年)1月20日、日本海軍(海軍大臣[[大角岑生]]大将)は、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦1隻を「朝雲(アサグモ)」と命名した<ref>[[#達昭和11年1月]]p.9『達第七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十一年一月十日 海軍大臣男爵 大角岑生|<del>浦賀船渠株式會社</del><del>株式會社川崎造船所</del>浦賀船渠株式會社 驅逐艦 <del>朝雲アサグモ</del> 霞カスミ』</ref>。
6月19日、日本海軍(海軍大臣[[永野修身]]大将)は「朝雲」を「'''霞'''」と改名した<ref name="S11達80号"/>。
10月22日、日本海軍は改めて[[川崎造船所|神戸川崎造船所]]で建造する朝潮型5番艦を「朝雲」、[[藤永田造船所]]で建造予定の6番艦を「山雲」と命名している<ref>[[#達昭和11年10月]]p.11『達第百六十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻工作艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十月二十二日 海軍大臣 永野修身|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝雲(アサグモ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 山雲(ヤマグモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 工作艦 明石(アカシ)』</ref>。
「霞」は[[浦賀船渠]]で[[1936年]](昭和11年)12月1日に起工<ref name="艦船要目霞">[[#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)]]p.20『霞|一等駆逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|11-12-1|12-11-18|14-6-28|(艦装備略)』</ref>。
[[1937年]](昭和12年)11月18日に進水<ref name="艦船要目霞"/><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070364000|昭和12年11月20日 海軍公報 第3202号 p.32}}『○進水 軍艦千代田十一月十九日呉海軍工廠ニ於テ進水セリ/驅逐艦霞十一月十八日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ』</ref>。


[[1938年]](昭和13年)6月28日、浦賀船渠で[[陽炎型駆逐艦]]2番艦「[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]」が進水<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070373900|昭和13年6月30日 海軍公報(部内限)第2948号 pp.27-28}}『○進水 驅逐艦不知火六月二十八日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ/敷設艇白神六月二十五日株式會社石川島造船所ニ於テ進水セリ/特務艦明石六月二十九日佐世保海軍工廠ニ於テ進水セリ』</ref>。浦賀船渠は「霞」と「不知火」の建造を並行して進めることになった。
[[太平洋戦争]]開戦時には、同型艦「霰」、[[陽炎型駆逐艦|陽炎型]]の「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」、「[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]」と共に第18駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊として行動した。[[1941年]](昭和16年)11月26日、[[ハワイ]]攻撃機動部隊の護衛として[[単冠湾]]を出港、ハワイ作戦([[真珠湾攻撃]])に参加。
12月15日、日本海軍は神風型駆逐艦「[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]」や吹雪型駆逐艦「[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]」艦長等を歴任した[[白浜政七]]中佐を霞艤装員長に任命<ref name="jirei273">{{アジア歴史資料センター|C13072074800|昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第273号 p.28}}</ref>。浦賀船渠工場内に霞艤装員事務所を設置する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070376200|昭和13年12月20日 海軍公報(部内限)第3091号 p.3}}『○艤装員事務所設置 驅逐艦霞艤装員事務所ヲ浦賀船渠株式會社工場内ニ設置シ十二月十五日ヨリ事務ヲ開始セリ』</ref>。


[[1939年]](昭和14年)4月15日、「霞」より遅れて建造が始まった同型艦「霰(アラレ)」が舞鶴海軍工廠で竣工(進水も霞より2日早い)<ref name="艦船要目霰">[[#艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)]]p.20『霰|一等駆逐艦|(艦要目略)|舞鶴工廠|12-3-5|12-11-16|14-4-15|(艦装備略)』</ref>。6月下旬、霞艤装員事務所を撤去<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070383500|自昭和12年1月至昭和20年4月 海軍公報目録/昭和14年目録(2)pp.15-16}}『海軍公報(部内限)目録(七月分)四|三二四九|(略)霞艤装員事務所撤去』</ref>。
[[1942年]](昭和17年)1月8日、[[呉港|呉]]を出港し、機動部隊と[[ラバウル]]攻撃に従事、以後、2月には[[第二航空戦隊|第2航空戦隊]]の[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ポートダウィン]]攻撃、[[ジャワ]]南方機動作戦、4月の[[セイロン沖海戦]]に参加し、4月23日、呉に入港し入渠整備を行った。5月に[[サイパン]]に進出、6月の[[ミッドウェー海戦]]に攻略隊の護衛として参加した。6月28日、横須賀から水上機母艦「[[千代田 (空母)|千代田]]」、「[[あるぜんちな丸]]」の護衛として[[キスカ島|キスカ]]に向かった。
「霞」は6月28日に竣工した<ref name="艦船要目霞"/>。白浜艤装員長も制式に霞初代駆逐艦長となる<ref name="jirei351">{{アジア歴史資料センター|C13072075900|昭和14年6月28日(発令6月28日付)海軍辞令公報(部内限)第351号 p.50}}</ref>。水雷長は[[平山敏夫]]大尉<ref name="jirei351"/>(後日、平山は駆逐艦「[[波風 (駆逐艦)|波風]]」艦長<ref name="jirei543">{{アジア歴史資料センター|C13072079000|昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.48}}</ref>、[[睦月型駆逐艦]]6番艦「[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]」艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072082100|昭和16年9月20日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第716号 p.48}}</ref>、[[夕雲型駆逐艦]]17番艦「[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]」艦長、[[秋月型駆逐艦]]3番艦「[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]」艦長等を歴任)。
7月5日、キスカ島沖で濃霧のため仮泊中に、米潜水艦「[[グロウラー (潜水艦)|グロウラー]]」(USS Growler, SS-215)の魚雷1本を受け艦体前部が切断し大火災が発生、3名が戦死した。この時僚艦の「[[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]]」は魚雷2本を受け轟沈、「[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]」も被雷大破し、第18駆逐隊は一撃で「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」を残し壊滅状態へと陥った。この件については海軍内で「第18駆逐隊は油断していたのではないか」と非難の声があがり、司令駆逐艦の本艦に座乗していた第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は責任を取り切腹自決を遂げた。
8月13日から翌年6月末まで[[舞鶴海軍工廠]]で修理を実施した。この際、燃料加熱装置の試験艦として同装置を搭載している。8月15日、第18駆逐隊は解隊し、9月1日、[[呉鎮守府]]予備艦となる。


「霞」の竣工と共に、日本海軍は'''第18駆逐隊'''を編制した<ref name="陽炎(2014)122">[[#陽炎型(2014)]]122頁『第十八駆逐隊(陽炎・不知火)』</ref>。当事の日本海軍は旧式化した[[川内型軽巡洋艦]](神通、那珂)を[[睦月型駆逐艦]]や[[吹雪型駆逐艦]]の水雷戦隊旗艦に転用し、第一水雷戦隊・第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第四水雷戦隊を[[阿賀野型軽巡洋艦]]・[[陽炎型駆逐艦]]・[[夕雲型駆逐艦]]を主力として再編する計画を立てている<ref name="S19戦時編制4">[[#昭和19年度戦時編制案]]pp.4-6『昭和十九年度帝國海軍戦時編制案(GF)軍令部第一課』</ref>。第18駆逐隊(霞、霰)は第三水雷戦隊配備予定、陽炎型3隻(陽炎、不知火、野分)は第二水雷戦隊配備予定である<ref name="S19戦時編制4"/>。
[[1943年]](昭和18年)9月1日、[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]第1水雷戦隊に編入され、北[[千島列島|千島]]方面で船団護衛に従事し、12月3日から[[マーシャル諸島]][[ギルバート・マーシャル諸島の戦い#ルオット島・ナムル島|ルオット島]]へ物資輸送を行った。
7月10日、第18駆逐隊司令として[[久宗米次郎]]大佐が着任<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076000|昭和14年7月11日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第356号 p.25}}</ref>。本艦は一時18駆司令駆逐艦となるも、9月2日より「霰」に変更された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070381100|海軍公報(部内限) 昭和14年9月5日p.23}}『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ九月二日司令驅逐艦ヲ霞ヨリ霰ニ變更セリ』</ref>。
同年11月6日、陽炎型1番艦「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」が竣工し、第18駆逐隊(霞、霰)に編入される。


11月1日、平山(霞水雷長)は第四防備隊附となり、後任の霞水雷長は吹雪型駆逐艦「[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]」水雷長[[橋口百治]]中尉に決まる<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076600|昭和14年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第397号 pp.11,17}}</ref>。(平山は少佐進級後、翌年1月15日附で上海港湾部部員<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072077600|昭和15年1月16日(発令1月15日付)海軍辞令公報(部内限)第430号 p.10}}</ref>、10月より「波風」駆逐艦長<ref name="jirei543"/>)。
[[1944年]](昭和19年)3月1日、第9駆逐隊に不知火型(陽炎型)駆逐艦「不知火」が編入され、同隊は定数4隻(薄雲、白雲、霞、不知火)を回復した。だが3月16日に「白雲」は米潜水艦「トートグ」に撃沈される。3月31日附で第9駆逐隊は解隊され、「薄雲、霞、不知火」は再度編成されることになった第18駆逐隊に所属、第一水雷戦隊に編入された。
11月15日、白浜(霞艦長)は吹雪型「[[狭霧 (駆逐艦)|狭霧]]」駆逐艦長への転任を命じられる(後日、白浜は陽炎型12番艦「[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]」駆逐艦長<ref name="jirei555"/>、第27駆逐隊司令等を歴任。[[白露型駆逐艦]]5番艦「[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]」沈没時に戦死)<ref name="jirei402a">{{アジア歴史資料センター|C13072076700|昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 pp.45-46}}</ref>。それまで狭霧艦長だった[[磯久研磨]]中佐が、後任の霞駆逐艦長となる<ref name="jirei402a"/>。
その後さらに[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]、[[父島]]への輸送に当たった。10月25日、[[レイテ沖海戦]]において志摩艦隊に属しスリガオ海峡に突入したが、[[マニラ]]に帰投した。11月、[[オルモック]]輸送に3回従事。第2次、第4次[[多号作戦]]では第1水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将)の[[旗艦]]となりオルモックに突入。さらに木村昌福少将が第2水雷戦隊司令官となり指揮した、[[ミンドロ島]]攻撃([[礼号作戦]])においても旗艦となった。
同日附で、第18駆逐隊は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]・[[第二水雷戦隊]]に編入された<ref name="陽炎(2014)122"/>。同時に第二水雷戦隊司令官は[[後藤英次]]少将から[[五藤存知]]少将に交代<ref name="jirei402b">{{アジア歴史資料センター|C13072076700|昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.36}}</ref>。第二水雷戦隊旗艦も[[川内型軽巡洋艦]]3番艦「[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]」から川内型軽巡2番艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」に変更される<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070381900|昭和14年11月15日 海軍公報(部内限)第3360号 p.35}}『○将旗移揚 第二水雷戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ那珂ヨリ神通ニ移揚セリ』</ref>。
また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦「[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]」艦長へ転任<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076700|昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.33}}</ref>。新司令として[[佐藤寅治郎]]大佐が着任した<ref name="jirei402b"/>。
12月5日、[[伊崎俊二]]大佐(重巡洋艦「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」艦長、軽巡「神通」艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、特務艦「[[知床 (給油艦)|知床]]」特務艦長'''[[木村昌福]]'''大佐が神通艦長<ref name="jirei412">{{アジア歴史資料センター|C13072077200|昭和14年12月7日(発令12月5日付)海軍辞令公報(部内限)第412号 p.6}}</ref>に任命される(後日、伊崎は第二水雷戦隊司令官として[[コロンバンガラ島沖海戦]]における「神通」沈没時に戦死)。
12月20日、陽炎型2番艦「[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]」が竣工して第18駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた<ref name="陽炎(2014)122"/>。


[[1940年]](昭和15年)10月15日、木村昌福(神通艦長)は重巡洋艦「[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]」艦長へ転任(後任の神通艦長は[[河西虎三]]大佐)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072079000|昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.30,32}}</ref>。
[[1945年]](昭和20年)2月、[[北号作戦]]に参加し戦艦「[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」「[[日向 (戦艦)|日向]]」を護衛して呉に帰投した。4月、戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」とともに[[天一号作戦]]に参加し、[[坊ノ岬沖海戦]]において米艦載機の空襲を受け大破し航行不能となり、「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」の砲雷撃により撃沈処分された。17名が戦死し、5月10日に除籍された。
11月15日、霞駆逐艦長は、磯久中佐から吹雪型駆逐艦「[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]」や「[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]」艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076400|昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.22}}</ref>等を歴任した[[戸村清]]中佐に交代する(磯久は翌年2月25日より陽炎型12番艦「磯風」艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072080400|昭和16年2月26日(発令2月25日付)海軍辞令公報(部内限)第597号 p.29}}</ref>。第4駆逐隊司令として陽炎型18番艦「[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]」沈没時に戦死)<ref name="jirei555">{{アジア歴史資料センター|C13072079500|昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 pp.10-11}}</ref>。
12月7日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から[[荒木傳]]大佐に交代<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072079900|昭和15年12月7日(発令12月6日付)海軍辞令公報(部内限)第566号 p.3}}</ref>、佐藤大佐は翌年3月31日より第4駆逐隊初代司令となる(後日、佐藤は軽巡「神通」艦長。同艦沈没時に[[伊崎俊二]]少将と共に戦死)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072080500|昭和16年3月31日(発令3月31日付)海軍辞令公報(部内限)第606号 p.57}}</ref>。

[[1941年]](昭和16年)9月1日、荒木(18駆司令)は軽巡洋艦「[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]」艦長へ転任<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072081900|昭和16年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.3}}</ref>。新司令として、駆逐艦「[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]、[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]」艦長等を歴任した[[宮坂義登]]大佐(前職、第30駆逐隊司令)が着任した<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072081900|昭和16年9月1日付(発令9月1日)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.5}}</ref>。
9月15日、第二水雷戦隊司令官[[五藤存知]]少将は第六戦隊([[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]、[[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]])司令官へ転出([[サボ島沖海戦]]で「青葉」大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は[[田中頼三]]少将となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072082100|昭和16年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第713号 p.26}}</ref>。
第18駆逐隊司令駆逐艦は臨時移動以外「霰」に指定されていたが、9月29日より「不知火」に変更される<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070397700|昭和16年10月2日 海軍公報(部内限)第3912号 p.12}}『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ九月二十九日司令驅逐艦ヲ霰ヨリ不知火ニ變更セリ/第二十四驅逐隊司令ハ九月三十日司令驅逐艦ヲ一時海風ヨリ江風ニ變更セリ』</ref>。

=== 太平洋戦争緒戦 ===
[[太平洋戦争]]開戦時の第18駆逐隊(駆逐隊司令 宮坂大佐)は朝潮型2隻([[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]])、[[陽炎型駆逐艦]]2隻([[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]、[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]])で編制されていた<ref name="陽炎(2014)122"/>。18駆が所属する第二水雷戦隊(司令官[[田中頼三]]少将)は軽巡洋艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」を旗艦とし、第8駆逐隊([[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]])、第15駆逐隊([[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]、[[夏潮 (駆逐艦)|夏潮]])、第16駆逐隊([[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[初風 (駆逐艦)|初風]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]])、第18駆逐隊という戦力である。
だが第8駆逐隊は第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将(旗艦:重巡洋艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」)直率の南方部隊本隊に編入されている。第18駆逐隊も第二水雷戦隊の指揮下を離れ、南雲機動部隊(司令長官[[南雲忠一]]中将)警戒隊(指揮官[[大森仙太郎]]第一水雷戦隊司令官:旗艦「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」)に編入<ref>[[#支那事変第10回功績(18駆)]]p.1『第十八驅逐隊/不知火霞陽炎霰|勲功乙|自昭和十六年十一月十八日至昭和十六年十二月七日|所定ノ準備ヲナシ布哇ニ向ケ佐伯湾出撃空襲部隊ノ前路警戒飛行警戒及補給部隊ノ護衛ニ任ズ|上記ノ目的ヲ達ス』</ref>。第17駆逐隊([[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]])および陽炎型19番艦「[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]」と行動を共にする。

[[1941年]](昭和16年)11月26日、南雲機動部隊警戒隊は空母6隻(第一航空戦隊《[[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]》、第二航空戦隊《[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]》、第五航空戦隊《[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]》)の護衛として[[単冠湾]]を出港、ハワイ作戦([[真珠湾攻撃]])に参加した<ref name="陽炎(2014)122"/>。

[[1942年]](昭和17年)1月8日、[[呉港|呉]]を出港してトラック泊地へ進出<ref name="陽炎(2014)122"/>。機動部隊と[[ラバウル]]攻撃に従事、以後、2月には[[第二航空戦隊]]の[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ポートダウィン]]攻撃、[[ジャワ]]南方機動作戦、4月の[[セイロン沖海戦]]に参加。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った<ref>[[#S1703二水戦日誌(3)]]p.4『(4)18dg 機動部隊ニ編入印度洋機動部隊ヲ終了シ二十三日呉歸着修理整備工事ニ従事(五月一日前進部隊ニ編入ノ豫定)』</ref>。同時期、空母直衛を担う第十戦隊(旗艦「長良」、第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》)の新編により、第18駆逐隊は本来の所属である[[第二水雷戦隊]]指揮下に戻った<ref>[[#S1703二水戦日誌(5)]]p.4『(4)18dg 五月一日附機動部隊ヨリ前進部隊ニ編入當隊ニ復歸呉ニ於テ修理整備作業ニ従事五月十一日桂島ニ回航訓練待機 五月十五日桂島發第一類戰斗訓練實施ノ上十六日18dg(陽炎霰欠)呉着MI作戰準備ニ従事陽炎霰ハ十六日早朝分離MI作戰参加輸送船護衛ノ為横須賀ニ向ケ發十七日横須賀着作戰準備、五月十九日1D/18 2D/18夫々MI作戰参加輸送船ノ一部ヲ護衛集合呉及横須賀發』</ref>。
5月下旬に[[サイパン]]に進出<ref name="陽炎(2014)122"/><ref>[[#S1703二水戦日誌(5)]]pp.4-5『(ロ)自五月二十日至五月三十一日 五月二十日附GF第二段作戰第二期兵力部署トナリ尓後2sd(早潮欠)ハ攻略部隊護衛隊トシテ早潮ハ攻略部隊航空隊ニ編入MI作戰ニ従事』</ref><ref>[[#S1705二水戦日誌(2)]]p.35『四参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。6月の[[ミッドウェー海戦]]に攻略隊の護衛として参加した。
6月8日、18駆は第七戦隊(司令官[[栗田健男]]少将)の指揮下に入る<ref>[[#あ号作戦日誌(4)]]p.15『18dgハ六月八日以後7S司令官ノ指揮下ニ入リ行動』</ref>。6月14日に第七戦隊を護衛して[[チューク諸島|トラック]]に帰投。大破した重巡「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」を同地に残し、6月23日、第18駆逐隊は第七戦隊の重巡2隻([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]])を護衛して呉に帰投した<ref name="あ号日誌(4)17">[[#あ号作戦日誌(4)]]p.17『(三)18dg 六月二十三日1D/7Sヲ護衛呉歸着補給整備 六月二十五日千代田ヲ護衛呉發途中2D/18dgヲ圖南丸救援ニ分派 1D/18二十六日2D/18dg二十七日夫々横須賀着 六月二十八日18dg(陽炎欠)千代田あるぜんちな丸ヲ護衛「キスカ」ニ向ケ横須賀發 六月二十九日陽炎横須賀出撃尓後野島埼南方ノ敵潜掃蕩ニ従事』</ref>。

この後、第18駆逐隊は[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]](司令長官[[細萱戊子郎]]中将:旗艦「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」)の指揮下に入った<ref>[[#第五艦隊日誌(2)]]p.8『麾下(指揮下)艦船部隊ノ行動 其ノ六 十八駆逐隊|霰|霞|不知火|陽炎』</ref>。6月23日、[[大本営]]は[[アッツ島]]およびキスカ島の長期確保を指示し、連合艦隊および北方部隊は兵力増強のため輸送部隊(千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制<ref>[[#叢書29北東方面]]271頁</ref>。6月28日、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)は横須賀から水上機母艦「[[千代田 (空母)|千代田]]」と輸送船「[[あるぜんちな丸]]」(後日、空母「[[海鷹 (空母)|海鷹]]」となる)の護衛として[[キスカ島]](鳴神島)に向かった<ref>[[#S1705二水戦日誌(2)]]p.52『自7月1日至7月4日18dg(陽炎缺)ハ5F長官ノ指揮下ニ入リ千代田あるぜんちな丸護衛任務ニ従事7月5日「キスカ」警泊中遭難』</ref><ref name="あ号日誌(4)17"/>。「陽炎」は、6月23日に[[東京湾]]沖合で駆逐艦「[[山風 (白露型駆逐艦)|山風]]」を撃沈した米潜水艦([[ノーチラス (潜水艦)|ノーチラス]])掃討のため、しばらく分離行動をとる<ref name="あ号日誌(4)17"/><ref name="S1705二水戦(2)53">[[#S1705二水戦日誌(2)]]p.53『陽炎ハ自七月一日至七月九日湊町沖又ハ横須賀ニ在リテ敵潜掃蕩作戰竝ニ主要艦船護衛任務ニ従事/七月九日菊川丸ヲ護衛「キスカ」方面ニ行動七月二十日附18dg(陽炎缺)ハ5Fに陽炎ハ15dgニ編入セラル』</ref>。

=== 北方での被害 ===
7月5日未明、「千代田」と「あるぜんちな丸」はキスカ島キスカ湾に入港した<ref name="叢書(29)272">[[#叢書29北東方面]]272-273頁</ref>。第18駆逐隊3隻(不知火〔司令駆逐艦〕、霞、霰)はキスカ島沖で濃霧のため仮泊中、[[ハワード・W・ギルモア]]艦長が指揮する米潜水艦「[[グロウラー (潜水艦)|グロウラー]]」(''USS Growler, SS-215'')に襲撃された<ref>[[#第五艦隊日誌(2)]]p.15『麾下艦船部隊ノ行動 其ノ二|十八駆逐隊|霰/4日一七一〇}USS GROWLER/5日〇三二〇沈没SUNK』</ref><ref name="潜水艦戦争196">[[#潜水艦戦争]]196頁</ref>。
「霰」は轟沈、「不知火」と「霞」も大破した<ref name="叢書(29)272"/><ref>[[#S1705一水戦日誌(4)]]p.17『五日0345十八驅司令(宛略)18dg機密第109番電 當隊「リトルキスカヘッド」ノ0度1500米附近假泊中0256ヨリ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ霰沈没不知火霞ハ各魚雷一本命中防水作業中』</ref>。「霞」への命中位置は、一番砲塔前下部<ref>[[#S1705一水戦日誌(5)]]p.5『霞(別圖第三参照)一番砲塔前下部被雷ニ依リ六〇番「フレーム」ヨリ前方區劃ニ浸水更ニ附近一帯大火災ノ為隔壁ノ大部分焼失甲板及外板焼損シ艦首ハ右ニ屈曲垂下後甲板附近ニ大ナル挫屈ヲ生ゼル外主要兵器ノ一部ニ損傷アリ』</ref><ref>[[#S1705一水戦日誌(5)]]p.12『驅逐艦霞損傷大体圖〔側面圖〕』</ref>。
また同日には第21駆逐隊の[[初春型駆逐艦]]「[[子日 (初春型駆逐艦)|子日]]」も米潜水艦「[[トライトン (潜水艦)|トライトン]]」 (''USS Triton, SS-201'')に撃沈されている<ref>[[#S1705一水戦日誌(4)]]p.18『五日2240電駆逐艦長|六日0015第一水雷戰隊司令官|電機密第110番電 子日ハ五日1250霧中(視界二粁)「アガツ」島ドツク岬ニ半速ニテ接近中右舷梯附近ニ魚雷1命中艦体2ツニ切断瞬時ニ沈没ス驅逐艦長以下巓覆艦體ニアリテ子ノ日萬歳ヲ三唱セル後艦ト運命ヲ共ニセリ』</ref><ref>[[#陽炎型(2014)]]289頁『子日(ねのひ)』</ref><ref name="潜水艦戦争196"/>。

わずか1日で駆逐艦2隻(霰、子日)喪失、2隻(霞、不知火)大破という事態に、[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長(戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」座乗)は各方面に苦言を呈することになった<ref>[[#S1705一水戦日誌(4)]]p.19『五日1830聯合艦隊参謀長|六日0930聯合艦隊各参謀長各司令官各所轄長|GF機密第539番電 ?近来船舶若ハ港湾及附近驅逐艦潜水艦ニシテ敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ケ不覺ヲトリツツアルハ洵ニ遺憾トスルトコロニシテ小艦艇ニ於テモ左ノ諸項ヲ励行アリ度(以下略)』</ref>。
18駆司令[[宮坂義登]]大佐(兵47期)は、乗員の疲労を考えて転錨を遅らせたこと、霧のため予想より沖合に停泊してしまったこと、米潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、などが大被害の要因になったと回想している<ref name="叢書(29)272"/>。また第五艦隊参謀長[[中澤佑]]大佐は、南方からきて疲労していた第18駆逐隊が北方地域の[[日の出]]の時刻を勘違いしていたのでは…と推測している<ref>[[#高松宮日記4巻]]314-315頁『当時第十八駆逐隊ハ一度配置ニツケテヰタカドウカ不明ナルモソレモ一因ナルベシ』</ref>。
米潜水艦の活発な行動に危機感を覚えた北方部隊(第五艦隊)は、米軍機動部隊が出現しないこともあり、空母機動部隊以下増援部隊各艦を内地に帰投させた<ref>[[#第五艦隊日誌(2)]]pp.21-22『六月九日3S(-2D)8S瑞鳳神川丸等ヲ次デ5Sf 5S等ヲ北方部隊ニ増援サレタルヲ以テ本兵力ヲ併セ引續キ待機海面ヲ行動セシガ六月二十日鳴神島及熱田島ノ第一期防備作業概成セルヲ以テ水上機部隊潜水部隊等ヲ残置セシメタル外大部ノ兵力ヲ大湊ニ回航補給ヲ實施セル後六月二十八日再度出撃シ鳴神島増援部隊ノ進出掩護竝ニ敵艦隊捕捉ノ態勢ヲ整ヘタリ 然ルニ其ノ後引續キ敵艦隊ハ依然トシテ當方面ニ出現シ来ル模様無ク加フルニ敵潜水艦ノ跳梁ハ漸次度ヲ加ヘ来リ之ニ依ル損害沈没及大破駆逐艦各二隻及ビ更ニ待機海面ニ迄及バントスル懼アリシヲ以テ定ヲ若干繰上ゲ七月七日増援部隊ノ桂島(一部横須賀)方面回航ヲ命ジタリ』</ref>。

7月14日附で宮坂大佐は第18駆逐隊司令職<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072086300|昭和17年7月18日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第901号 p.20}}</ref>を解かれた(7月28日附で呉鎮守府附)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072086400|昭和17年7月31日(発令7月28日付)海軍辞令公報(部内限)第908号 p.9}}</ref>。翌1943年(昭和18年)3月20日、宮坂は[[阿部弘毅]]少将([[第三次ソロモン海戦]]時、第十一戦隊司令官)、[[西田正雄]]大佐(戦艦「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」沈没時艦長)達と共に[[予備役]]へ編入、即日召集された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090100|昭和18年3月20日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1076号 pp.15-16}}</ref>。

駆逐隊司令不在となった第18駆逐隊(不知火、霞)は、「日産丸」の残骸を楯として応急修理を続ける<ref>[[#高松宮日記4巻]]309頁『○第六〔誤記〕水雷戦隊(一二-一三〇〇)「霞」「不知火」共後部二ヶ、砲塔、機銃、探照灯完全、自衛上ノ支障ナシ、士気旺盛ナリ。日産丸ノ残骸ハ「不知火」ニ対シ湾口方面ノ防壁トナリ、又仮製(「暁」考案掃海具利用30m×一〇米(深)ノ「マントレット」)防禦網ヲ適当ナル位置ニ碇置セントス。敵機来ラザルトキ補強作業ニ全力傾注シツツアリ。』</ref>。
7月19日、「陽炎」は「菊川丸」を護衛してキスカへ進出<ref name="S1705二水戦(2)53"/><ref>[[#S1705二水戦日誌(2)]]p.88『陽炎駆逐艦長(宛略)陽炎菊川丸ヲ護衛十九日一三〇〇「キスカ」着』</ref>。大破した「霞」と「不知火」に遭遇した<ref>[[#陽炎型(2014)]]135頁</ref>。
7月20日、18駆唯一の健在艦となった「陽炎」は、[[南方作戦]]で姉妹艦「[[夏潮 (駆逐艦)|夏潮]]」を喪失し3隻編制([[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]])になっていた第15駆逐隊に編入される<ref>[[#内令昭和17年7月分(3)]]p.28『内令第千三百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年七月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項中「陽炎、」ヲ削リ第十五驅逐隊ノ項中「早潮」ノ下ニ「、陽炎」ヲ加フ』</ref><ref name="S1705二水戦(2)53"/>。残存した2隻(霞、不知火)は同日附で第五艦隊附属となる<ref>[[#第五艦隊日誌(2)]]p.12『麾下艦船部隊ノ行動 其ノ二|十八駆逐隊|霞|不知火』</ref><ref name="S1705二水戦(2)53"/>。
現地では「霞」と「不知火」の応急修理を行うが対処しきれず、就役したばかりの[[夕雲型駆逐艦]]4番艦「[[長波 (駆逐艦)|長波]]」が救難資材と工員を乗せて横須賀を出発、7月27日にキスカ島へ進出した<ref>[[#叢書29北東方面]]287-288頁(7月17日下令、20日横須賀発、大湊経由で27日キスカ着)</ref>。

前日に引き続き<ref>[[#S1705二水戦日誌(2)]]p.91『五警司令(宛略)二十六日霞自力航行及曳航實験ノ結果自力曳航共ニ不能明二十七日残存断片切除ノ上再度實験ノ予定』</ref>、曳航可能な状態までに応急修理をおこなった「霞」は、駆逐艦「[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]」に曳航され、「陽炎」護衛の元で27日午後にキスカ島を出発した<ref>[[#S1705一水戦日誌(4)]]p.72『二十六日一八〇〇五警司令|二十八日二一〇〇第五艦隊司令長官|五警機密第一四八番電 霞全部残片除去ニ成功一四〇〇雷曳航陽炎護衛出港セリ 湾口附近航行状態良好ナリ』</ref><ref>[[#S1705一水戦日誌(4)]]p.88『二八(天候略)一四〇〇霞雷陽炎鳴神島発』</ref>。だが悪天候のため「霞」の曳航は難航する<ref>[[#雷海戦記]]215-216頁</ref>。さらに「雷」の燃料消費量は予想外に多く<ref>[[#S1705一水戦日誌(4)]]pp.72-73『二十八日一八一〇霞駆逐艦長|二十九日〇五四三第五艦隊司令長官|雷機密第一五五番電 曳航開始セル所雷ノ燃料消費予想外大ニシテ原速力ニテ六四噸ヲ要ス實速力八.四節 二十八日一六三〇ノ燃料在庫量二六〇噸鳴神嶋ニハ燃料ヲ補給シ得ル船舶ナシ途中補給ニ関シ至急ヲ乞フ 本艦三十一日一〇〇〇北緯五一度四八分東経一六六度三八分ニ達スル予定』</ref><ref>[[#高松宮日記4巻]]334頁</ref>、燃料切れの懸念が高くなる<ref>[[#S1705一水戦日誌(4)]]pp.74-75『三十日〇八三〇霞駆逐艦長|三十日一五〇〇第一水雷戦隊司令官 第五艦隊参謀長外|雷機密第一五八番電 洋上ニ於ケル曳航要具ノ移載ハ不可能ナルヲ以テ雷ヘ霞 陽炎ヨリ重油計一〇〇噸補給セバ加熊別湾ニ到達シ得ル見込ナリシ処本朝来荒天ノ為七節(實速力四節)以上出シ得ズ 霞 陽炎モ燃料余裕ナキヲ以テ電ハ可成速ニ片岡湾ニテ重油満載雷ニ補給スル様取計ハレ度 三十日〇六〇〇ノ位置「アッツ」西端ノ三四〇度五〇浬』</ref>。
8月3日、3隻(霞、雷、陽炎)は[[幌筵島]]片岡湾に到着する<ref name="叢書(29)288">[[#叢書29北東方面]]288頁</ref><ref>[[#S1708一水戦日誌(1)]]p.6『(二)配備 八月二日 若葉浦賀船渠ニ入渠/三日(イ)電片岡湾着 (ロ)雷、霞ヲ曳航シ片岡湾着』</ref>。同地で「霞」曳航任務は駆逐艦「[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]」に変更され、「雷」は横須賀へ帰投<ref name="叢書(29)288"/>。また「陽炎」も横須賀に向かった。
8月5日、「霞」は「電」に曳航されて幌筵を出発、9日に[[北海道]]中西部[[石狩湾]]に入港した<ref name="叢書(29)288"/><ref>[[#S1708一水戦日誌(1)]]p.6『五日(イ)雷任務ヲ電ニ引継ギ横須賀ニ向ケ片岡湾發 (ロ)電、霞ヲ回向石狩湾ニ向ケ片岡湾發』</ref>。「電」は北方戦線に戻るよう命令されていたため、石狩湾で「霞」曳航任務をタンカー「[[富士山丸 (飯野海運)#富士山丸・初代|富士山丸]]」に引き継いだ<ref name="叢書(29)288"/><ref>[[#S1708一水戦日誌(1)]]p.8『九日 電石狩湾着 霞曳航ヲ富士山丸ニ引継ギ加熊別湾ニ向ケ發』</ref>。10日、「富士山丸」は「霞」を曳航して石狩湾を出発する<ref name="叢書(29)288"/>。一方の「電」は「不知火」曳航のためキスカ島へ向かった<ref name="叢書(29)288"/>。

=== 舞鶴での修理 ===
8月13日、「霞」は[[舞鶴港]]に到着<ref name="S1708舞鎮5">[[#S1708舞鎮日誌]]p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中』</ref><ref name="叢書(29)288"/>。[[バリ島沖海戦]]で損傷した朝潮型2番艦「[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]」や[[日本軍のクリスマス島占領|クリスマス島攻略作戦]]で大破した[[川内型軽巡洋艦]]3番艦「[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]]」等と共に、[[舞鶴海軍工廠]]で修理に着手する<ref name="S1708舞鎮5"/>。舞鶴工廠では、秋月型駆逐艦4番艦「初月」、島風型駆逐艦「島風」、夕雲型駆逐艦5番艦「巻波」(8月18日完成)等の建造も並行して行われていた<ref>[[#S1708舞鎮日誌]]p.5『(1)新造艦船工事 前月ニ引續キ巻波、初月、島風ノ艤装工事、第三四〇號、第三四一號艦ノ建造工事及本月五日起工セル第三四二號艦建造工事ハ何レモ順當ニ進捗シ巻波ハ十八日完成引渡シヲ了セリ』</ref>。
8月15日、第18駆逐隊は解隊<ref>[[#内令昭和17年8月分(2)]]p.40『内令第千五百三十號 驅逐隊編制中左ノ通改正セラル 昭和十七年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。2隻は[[呉鎮守府]]予備艦となる。第18駆逐隊の残務整理は[[海兵団|呉海兵団]]で行われた<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070422600|昭和17年9月8日 海軍公報(部内限)第4189号 p.49}}『○残務整理 第十八驅逐隊残務整理ハ呉海兵團ニ於テ之ヲ行フ 追テ郵便物ハ呉海兵團内海軍主計大尉刈谷徳治宛發送相成度』</ref>。
8月20日、朝潮型3番艦「[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]」艦長[[小倉正味]]中佐が[[夕雲型駆逐艦]]6番艦「[[高波 (駆逐艦)|高波]]」艤装員長(のち、高波初代駆逐艦長。[[ルンガ沖夜戦]]で高波沈没時に戦死)に任命された事にともない、戸村(霞艦長)は満潮駆逐艦長を命じられる<ref name="jirei926">{{アジア歴史資料センター|C13072086600|昭和17年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第926号 pp.44-45}}</ref>。舞鶴防備隊司令・駆逐艦「大潮」艦長・軽巡「那珂」副長を兼務していた[[友重丙]]中佐が霞駆逐艦長を兼務することになった<ref name="jirei926"/>。
8月31日、2隻(霞、不知火)は特別役務駆逐艦に指定された<ref>[[#内令昭和17年8月(4)]]pp.14-15『内令第千六百二十六號|呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 霞 驅逐艦 不知火 右特別役務驅逐艦ト定ム|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。

9月3日、グロウラーの雷撃で「霞」と共に大破した陽炎型2番艦「不知火」が、「神津丸」に曳航されて舞鶴に到着<ref>[[#S1709舞鎮日誌]]p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂及霞ノ特定修理、損傷復舊工事ハ前月ニ引續キ豫定通順調ニ進捗シツツアリ/不知火九月三日入港損傷調査竝修理實施準備ヲ爲シツツアリ』</ref><ref name="叢書(29)288"/>。9月10日附で、大潮駆逐艦長および霞駆逐艦長職務は友重中佐から[[杉岡幸七]]中佐(陽炎型12番艦「磯風」初代駆逐艦長。吹雪型駆逐艦「狭霧」沈没時艦長)に交代<ref name="jirei939">{{アジア歴史資料センター|C13072086800|昭和17年9月10日(発令9月10日付)海軍辞令公報(部内限)第939号 pp.33-34}}</ref>。また同日附で不知火駆逐艦長[[赤澤次壽雄]]中佐は秋月型3番艦「[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]」艤装員長へ転出したため、杉岡中佐は不知火駆逐艦長も兼務、大潮・霞・不知火駆逐艦長となった<ref name="jirei939"/>。

10月15日、2隻(霞、不知火)は第四予備艦に指定され<ref>[[#内令昭和17年10月(2)]]pp.17-18『内令第千九百六號 呉鎮守府特別役務驅逐艦 驅逐艦 霞/驅逐艦 不知火 右第四豫備艦ト定ム 昭和十七年十月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>、修理に従事する<ref>[[#S1710舞鎮日誌]]p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂、霞ノ工事ハ豫定通進捗中不知火ハ十九年三月末完成ヲ豫定ヲ以テ復舊工事ニ着手シ資材手配中』</ref>。この際、燃料加熱装置の試験艦として同装置を搭載している<ref name="S1806舞鎮5">[[#1806舞鎮日誌]]p.5『(a)損傷復舊工事  霞 損傷復舊工事ニ併セ重油タンク加熱装置施行三十日完成/不知火初春 船渠内ニ於テ損失部結合工事中/巻波太刀風 概ネ豫定通工事進捗中/名取 六月一日入港工事中ナルモ資材入手ノ關係上明年五月末完成ノ見込』</ref>。

11月6日、北方戦線で空襲を受け大破した[[初春型駆逐艦]]1番艦「[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]」が到着<ref name="S1711舞鎮5">[[#S1711舞鎮日誌]]p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂、霞及不知火ハ概ネ豫定通進捗中/初春六日入港工事ニ着手シ中央要求ニ即應極力工事促進中』</ref>。同時期の舞鶴海軍工廠は、「霞」以下損傷艦艇の修理と、「島風」、「初月」、夕雲型駆逐艦複数隻([[早波 (駆逐艦)|早波]]《7月31日竣工》、[[浜波 (駆逐艦)|浜波]]《10月15日竣工》、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]《12月10日竣工》)の建造に追われていた<ref name="S1711舞鎮5"/>。
11月15日附で杉岡中佐は陽炎型16番艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」駆逐艦長を命じられる(杉岡は[[ベラ湾夜戦]]で「嵐」沈没時に戦死)<ref name="jirei988a">{{アジア歴史資料センター|C13072088200|昭和17年11月16日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.12}}</ref>。10月17日に沈没した吹雪型駆逐艦「[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]」の駆逐艦長[[山名寛雄]]少佐が、駆逐艦4隻(大潮・霞・不知火・初春)の艦長を兼務することになった<ref name="jirei988b">{{アジア歴史資料センター|C13072088200|昭和17年11月16日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.13}}</ref>。

12月20日、睦月型2番艦「[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]]」や白露型5番艦「春雨」艦長を歴任した[[廣瀬弘]]中佐が大潮駆逐艦長に任命され、山名少佐の艦長兼務は駆逐艦3隻(霞、不知火、初春)となった<ref name="jirei1017">{{アジア歴史資料センター|C13072088600|昭和17年12月21日(発令12月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1017号 pp.32-33}}</ref>。また同日附で[[平山敏夫]]少佐(霞初代水雷長)は吹雪型駆逐艦「[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]」艦長と夕雲型駆逐艦7番艦「[[大波 (駆逐艦)|大波]]」艤装員長の兼務をとかれ、白露型4番艦「[[夕立 (白露型駆逐艦)|夕立]]」沈没時艦長[[吉川潔]]中佐が大波艤装員長を命じられた<ref name="jirei1017"/>。
12月27日、「那珂」や「霞、不知火、初春」に先駆けて「大潮」の修理が終わる<ref>[[#S1712舞鎮日誌(1)]]p.6『(a)損傷復舊工事 大潮 豫定通二十七日完成/那珂、霞及不知火 概ネ豫定通進捗中/初春 極力工事促進中|(b)修理艦船 木曾 十二日入港修理工事ヲ促進三十日完了/長良 二十七日入港徹夜修理作業ヲ續行中』</ref>。12月29日、「大潮」は舞鶴を離れた<ref>[[#S1712舞鎮日誌(2)]]p.24『二九日(天候略)初月竣工引渡/大波竣工呉鎮部隊ニ編入/大潮修理工事完成「ラバウル」ニ向ケ發』</ref>。

[[1943年]](昭和18年)1月7日、舞鶴工廠で建造中だった秋月型駆逐艦4番艦「[[初月 (駆逐艦)|初月]]」が竣工し、舞鶴を離れる<ref>[[#S1801舞鎮日誌]]pp.5-6『(二)造修(1)新造艦船工事 初月 十二月二十九日竣工引渡ヲ了セルモ追加工事アリ特急工事トシテ施行七日完成即日出港ス/島風、早波 艤装ハ予定通進捗中/濱波、第三四二號艦 建造工事ハ豫定通進捗中/第三四五號艦 二十日起工』</ref><ref>[[#S1801舞鎮日誌]]p.60『七(天候略)初月横須賀ニ向ケ發(略)工廠工事 初月二十五粍聯装機銃装備工事完成』</ref>。
1月19日、軽巡「[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]]」が舞鶴工廠に到着、修理に入る<ref>[[#S1801舞鎮日誌]]p.6『(3)其ノ他ノ工事(a)損傷復舊工事 那珂霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中|(b)修理工事 長良 二十日完成/龍田 十九日入港修理工事中』</ref>。
1月20日には夕雲型17番艦「[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]」が舞鶴海軍工廠で起工<ref>[[#S1801舞鎮日誌]]pp.5-6『(二)造修(1)新造艦船工事 初月 十二月二十九日竣工引渡ヲ了セルモ追加工事アリ特急工事トシテ施行七日完成即日出港ス/島風、早波 艤装ハ予定通進捗中/濱波、第三四二號艦 建造工事ハ豫定通進捗中/第三四五號艦 二十日起工』</ref>。
2月21日、ソロモン諸島で行動中の朝潮型姉妹艦「大潮」が米潜水艦[[アルバコア (SS-218)|アルバコア]]の雷撃で沈没。廣瀬(大潮艦長)は舞鶴に戻ると、島風型駆逐艦「[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]」初代艦長(3月20日附で艤装員長<ref name="jirei1076">{{アジア歴史資料センター|C13072090100|昭和18年3月20日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1076号 p.16}}</ref>、5月10日附で駆逐艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090900|昭和18年5月10日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1111号 p.34}}</ref>)となった。
「霞」の修理は続いた<ref>[[#S1802舞鎮日誌(1)]]p.5『(a)損傷復舊工事 那珂、霞、不知火、初春、何レモ豫定通進捗中/(b)修理艦船 太刀風(二日)利根(二十一日)日進(二十四日)刈萱(二十五日)}何レモ附記ノ通入港修理工事中/龍田 操舵試験ノ結果更ニ修理ヲ要スルコトトナリ極力工事中』</ref>。
3月31日、「霞」に先駆けて「那珂」の修理が終わる(4月5日、舞鶴を出発)<ref>[[#S1803舞鎮日誌(1)]]pp.6-7『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中/那珂ハ三十一日工事完成セリ (b)修理工事 龍田 操舵装置修理豫想外ニ困難ニシテ一日試運轉ノ結果徹底的修理ヲ要スルコトトナリ陸揚修理二十七日試運轉成績良好二十八日出動セリ/太刀風八日、日進十三日、利根十六日}整備完成何レモ出動/刈萱 整備工事中/眞鶴(十六日)、長波(十七日)、木曾(二十日)、室戸(二十三日)何レモ附記ノ通入港極力整備工事中』</ref><ref>[[#S1804舞鎮日誌]]p.59『五日(天候略)那珂修理完成出動/芙蓉入港(以下略)』</ref>。

4月1日、前月の[[ビスマルク海海戦]]で朝潮型1番艦「[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]」と4番艦「[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]」が沈没したことに伴い、朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』と改訂される<ref>[[#内令昭和18年4月(1)]]p.20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等ノ部中「白雪型」ヲ「初雪型」ニ改メ同項中「白雪、」ヲ、同白露型ノ項中「、村雨」ヲ削リ<strong>同「朝潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ</strong>同項中「、朝潮、大潮」「、「荒潮」「、峯雲」ヲ、同陽炎型ノ項中「時津風、」ヲ削ル(以下略)』</ref>。
同時期、北方戦線に従事する軽巡「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」と「[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]」がそれぞれ舞鶴に到着(阿武隈4月17日着、多摩5月4日着)、修理に入る<ref>[[#S1804舞鎮日誌]]p.65『一七(天候略)阿武隈、長波、崑山丸修理ノ爲入港』</ref><ref>[[#S1805舞鎮日誌(2)]]p.12『四(天候略)多摩整備工事ノ爲入港』</ref>。
4月24日、[[ケ号作戦|ガダルカナル島撤退作戦]]で損傷した「巻波」が舞鶴に到着、「霞」と共に修理に従事する<ref>[[#1804舞鎮日誌]]p.6『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春 何レモ豫定通工事進捗中/巻波 二十四日入港復舊工事ニ着手』</ref>。
5月8日、舞鶴工廠では「霞」の修理と並行して、秋月型8番艦「[[冬月 (駆逐艦)|冬月(第361号艦)]]」の建造が始まる<ref>[[#S1806舞鎮日誌]]p.5『(二)造修(1)新造艦船工事 早波、濱波 艤装工事豫定通進捗中/沖波 船臺ニ在リテ罐及主機械積込中/第三四五號艦 船臺ニ在リテ建造工事豫定通進捗中/第三六一號艦 五月八日起工目下船臺ニ在リテ船殻工事中』</ref><ref>[[#1805舞鎮日誌(1)]]p.5『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春巻波 何レモ豫定通工事進捗中/太刀風 十五日入港損傷復舊工事ニ着手』</ref>。
5月10日、新鋭駆逐艦「島風」が竣工<ref>[[#S1805舞鎮日誌(1)]]p.5『(1)新造艦船工事 島風 工事竝ニ諸公試終了十日完成引渡』</ref><ref>[[#S1805舞鎮日誌(2)]]p.15『一〇(天候略)島風舞廠ニ於テ竣功引渡』</ref>。
5月15日、駆逐艦「[[芙蓉 (駆逐艦)|芙蓉]]」乗組の[[森田友幸]]中尉は霞水雷長を命じられる<ref>[[#艦長海戦記]]28頁</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072091000|昭和18年5月19日(発令5月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1017号 p.24}}</ref>。
同時期、米軍は[[アッツ島]]に上陸。[[アッツ島の戦い]]が勃発したため、舞鶴で整備中の第一水雷戦隊旗艦「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」と「多摩」は急遽修理を終わらせて出撃した<ref>[[#S1805舞鎮日誌(2)]]p.19『一七(天候略)阿武隈修理完成出撃』</ref><ref>[[#S1805舞鎮日誌(1)]]p.6『多摩 四日入港電波探信儀装備其ノ他整備工事ニ着手セル處工事ヲ一時中止シ二十日出港』</ref><ref>[[#舞廠造機部]]257-259頁</ref>。
5月20日、「霞」(第四予備駆逐艦)は第一予備駆逐艦となる<ref>[[#内令昭和18年5月(6)]]p.11『内令第九百九十九號 呉鎮守府第四豫備驅逐艦 霞 右第一豫備驅逐艦ト定ム 昭和十八年五月二十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。同日附で夕雲型5番艦「[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]」駆逐艦長[[人見豊治]]中佐は、巻波艦長に加えて不知火・初春艦長の兼務を命じられ、山名(霞艦長)は兼務職を解かれた<ref name="jirei1021">{{アジア歴史資料センター|C13072091000|昭和18年5月21日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1021号 p.46}}</ref>。

6月1日、米潜水艦[[トートグ (潜水艦)|トートグ]]の雷撃で大破した軽巡「[[名取 (軽巡洋艦)|名取]]」が舞鶴に到着、修理に入る<ref name="S1806舞鎮5"/>。夕雲型4番艦「[[長波 (駆逐艦)|長波]]」は6月5日舞鶴に到着、23日に修理を終えて出撃した<ref>[[#1806舞鎮日誌]]p.6『(b)修理艦船(略)長波 五日入港船體損傷及機銃増備工事施行二十三日完成出港』</ref>。6月30日、「霞」の修理完了<ref name="S1806舞鎮5"/>。

=== 第十一水雷戦隊 ===
[[1943年]](昭和18年)6月30日、「霞」は新造艦の訓練・練成を主任務とする第十一水雷戦隊(司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将)に編入される<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.4『備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ、響北方部隊ニ一時編入中 霞六月三十日當隊ニ編入』</ref><ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.21『(ニ)霞三十日當隊ニ編入舞鶴ニ在リテ出撃準備』</ref>。当事の第十一水雷戦隊は、軽巡「[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]]」以下第6駆逐隊([[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、電、雷)、夕雲型9番艦「[[玉波 (駆逐艦)|玉波]]」と秋月型6番艦「[[若月 (駆逐艦)|若月]]」、「島風」および「霞」で編成されていた<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.19『四.参考 麾下艦船ノ行動』</ref><ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.20『(イ)6dg(響缺)内南洋部隊ニ響ハ北方部隊ニ一時編入中ニシテ作戰ニ従事』</ref>。

7月4日、修理中に搭載した重油加熱装置の実験を実施するため、舞鶴工廠関係者を乗せて「霞」は舞鶴を出発<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.31『四日一四〇三霞(宛略)舞鶴発』</ref><ref name="舞廠260">[[#舞廠造機部]]260-261頁『駆逐艦霞 実験のため北洋へ』</ref>。[[樺太]]([[敷香町|敷香]])に向かう<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.29『一日一六一四霞(宛略)霞三號重油実験行動豫定 七月四日舞鶴発樺太東岸及敷香ヲ経テ十七日皈着二十日実験終了二六日舞鶴発二十二日桂島着』</ref>。12日に舞鶴帰着<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]pp.33-34『十二日一三三〇霞駆逐艦長(宛略)舞鶴着』</ref><ref>[[#舞廠造機部]]261頁では13日帰着</ref>。加熱装置の実験は成功した<ref name="舞廠260"/>。
7月18日、舞鶴を出発<ref>[[#1807舞鎮日誌(1)]]p.8『(a)損傷復舊工事 霞 損傷復舊工事及重油タンク加熱装置完成同装置實艦實験ノ爲四日ヨリ十二日迄出動實艦實験ヲ了シ十八日出港セリ』</ref><ref name="S1804十一水(2)26">[[#S1804十一水戦(2)]]p.26『(四)麾下艦船ノ行動』</ref>。内海西部回航後、旗艦「龍田」と僚艦「若月」に合流して訓練を行う<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.24『(三)作戰指導其ノ他 主トシテ内海西部ニ在リ全作戰支援竝ニ新造驅逐艦ノ急速練成戰備促進諸訓練ノ指導護衛ニ従事』</ref>。だが「長波」や「島風」が参加した[[キスカ島撤退作戦]]には間に合わなかった。

7月下旬、[[大和型戦艦]]1番艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」が[[レーダー|電探(レーダー)]]射撃訓練を実施することになる<ref>[[#高松宮日記6巻]]503-504頁</ref>。第十一水雷戦隊(龍田、若月、霞)も「大和」の電探公試に協力した<ref>[[#S1804十一水戦(2)]]p.43『二五(天候略)龍田霞〇六〇〇桂島発一九〇〇若月安下庄出港二二五二〃假泊|龍田主砲(夜間)教練射撃 大和電探公試協力 若月主砲第一回夜間艦水上射撃』-『二六(天候略)〇六〇〇龍田霞出港一八五〇安下庄假泊|大和電探公試協力』</ref>。7月29日、「霞」は「大和」の曳的艦となるが、途中で曳索が切れる事態となった<ref name="S1804十一水(2)44">[[#S1804十一水戦(2)]]p.44『二九(天候略)霞出動〔〇六四五出港二一一〇入港〕|曳的艦|旗艦ヲ一時能代ニ変更(一九〇〇)』-『三〇(天候略)〇六一五能代龍田若月霞桂島出港 二四〇〇八島假泊|各艦諸教練 若月主砲機銃第三回教練射撃』-『三一(天候略)〇七三〇假泊地発 一六二五能代若月霞入港(桂島)|(潜水艦)襲撃應急、第四回航空戰教練|藤波早波當隊ニ編入 旗艦復帰(一五〇〇)』</ref><ref>[[#高松宮日記6巻]]503頁『七月二十九日(目)曇(不連続線)曇。〇六〇〇出港、電探射撃、安下庄仮泊。鳴神島撤収。〔上欄〕〇六〇〇出港。電探実験射撃、途中デ曳索切レ、アト偏弾デヤル(以下略)』</ref>。
同日、第十一水雷戦隊旗艦は「龍田」から新造艦の[[阿賀野型軽巡洋艦]]2番艦「[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]」に変更される(31日まで)<ref name="S1804十一水(2)44"/>。十一水戦(能代、龍田、若月、霞)は共同で訓練を行った<ref name="S1804十一水(2)44"/>。また31日には夕雲型駆逐艦新造艦2隻(藤波、早波)が第十一水雷戦隊に加わった<ref name="S1804十一水(2)44"/>。

8月に入ると、第十一水雷戦隊の所属艦や旗艦が度々かわる<ref name="S1804十一水戦(3)行動">[[#S1804十一水戦(3)]]p.5『(四)麾下艦船ノ行動』</ref><ref>[[#S1804十一水戦(3)]]pp.3-4『(三)作戰指導其ノ他 主ニ内海西部ニアリ全作戰支援竝ニ新造駆逐艦ノ急速練成戰備促進諸訓練ノ指導及護衛ニ従事』-『主力部隊|(旗艦)龍田 6dg(《司令》雷電響) 霞 若月(八月十五日附61dgニ編入) 早波凉波藤波}(八月二十日附32dgヲ編成) 山雲(八月二十日附11sdニ編入)|全作戰支援|(イ)新造駆逐艦ノ急速練成 (ロ)護衛 (ハ)戰備促進|備考6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中/響ハ八月三日附北方部隊ヨリ復帰ス』</ref>。
「霞」は引き続き[[瀬戸内海]]にあって訓練に従事<ref name="S1804十一水戦(3)行動"/>。キスカ島撤退作戦を終えた「島風」も呉に帰投している<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.10『(ホ)麾下艦船部隊ノ行動』</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.6『(五)島風 HPBニ編入同方面作戰(「ケ」號作戰)ニ従事中ノ處三日AdBニ復歸(十五日以降YB)幌筵海峡發六日桂島着…』</ref>。
8月15日、「若月」は第61駆逐隊に編入<ref>[[#内令昭和18年8月(2)]]p.29『内令第千六百六十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第六十一驅逐隊ノ項中「初月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ』</ref>。
8月17日、主力部隊(戦艦3隻《[[大和 (戦艦)|大和]]、[[長門 (戦艦)|長門]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]》、空母《[[大鷹 (空母)|大鷹]]》<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.51『一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)』</ref> 、巡洋艦3隻《[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]》、駆逐艦部隊《[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、[[海風 (駆逐艦)|海風]]、[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[初風 (駆逐艦)|初風]]》)は呉を出撃し、[[チューク諸島|トラック]]へ向かう<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.4『(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着』</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)11dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』</ref>。
十一水戦の駆逐艦4隻(早波、凉波、藤波、霞)は、主力艦部隊の内地出撃を途中まで護衛した<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.18『十四日一五〇〇11sd司令官(宛略)信電令作第九號 一.早波凉波藤波霞ハ先任指揮官之ヲ指揮シ明後十六日徳山ニ於テ燃料補給ノ上十七日天明時ヨリ日没時迄沖ノ島ノ五〇浬圏内主力部隊出撃航路附近ノ敵潜掃蕩ヲ實施スベシ/二.右任務終了セバ徳山錨地ニ入泊スベシ』</ref><ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.19『十六日〇六〇〇早波駆逐艦長(宛略)早波凉波藤波霞徳山経由豊後水道沖ニ向ケ桂島発』</ref>。翌日、十一水戦旗艦は「響」に変更<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.36『一七(天候略)霞早波藤波凉波徳山沖発二三〇〇|霞早波藤波凉波豊後水道敵(潜水艦)掃蕩』-『一八(天候略)〇二〇〇霞早波藤波凉波徳山着/響呉発一五三〇徳山着|旗艦ヲ響ニ変更ス』</ref>。

8月20日附で、日本海軍は[[中原義一郎]]大佐を駆逐隊司令とする第32駆逐隊([[早波 (駆逐艦)|早波]]、[[涼波 (駆逐艦)|涼波]]、[[藤波 (駆逐艦)|藤波]])を編制した<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092600|昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2}}</ref><ref>[[#内令昭和18年8月(3)]]p.24『内令第千七百七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第三十二驅逐隊|涼波、藤波、早波| 』</ref>。また満潮型姉妹艦「[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]」が十一水戦に編入される<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.17『八月十二日一四三一大海部長(宛略)山雲ハ八月二十日附第十一水雷戰隊ニ編入九月中旬第四駆逐隊ニ編入セラルル豫定』</ref>。同日、「霞」は「響」等と対空訓練を実施したのち、呉に回航された<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.36『二〇(天候略)響早波藤波凉波霞一五三〇徳山沖発一七〇〇帰着霞呉廻航|響早波藤波凉波霞對空射撃一四〇〇|32dg編成司令(中原大佐)発令セラル』</ref><ref name="S1804十一水戦(3)行動"/>。
呉で出撃準備中の8月26日、第十一水雷戦隊旗艦は[[扶桑型戦艦]]2番艦「[[山城 (戦艦)|山城]]」に一時変更(9月1日より響)<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.26『二十六日〇八〇五11sd司令官(宛略)機密二六〇八〇五番電 将旗ヲ一時山城ニ移揚セリ』</ref><ref>[[#S1804十一水戦(4)]]p.25『一(天候略)旗艦響』</ref>。27日、5隻(山城、響、早波、凉波、藤波)に内海西部へ到着した<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.27『二十七日二一四〇(宛略)機密二七一四〇番電 山城響32dgヲ率ヰ内海西部着』</ref>。

=== 太平洋戦争終盤 ===
第十一水雷戦隊で訓練中の8月16日、「霞」の第9駆逐隊編入と北方戦線投入が内示され、準備に入る<ref>[[#S1804十一水戦(3)]]p.21『十六日一二一〇11sd司令官(宛略)霞九月一日附北方部隊ニ編入ノ豫定ヲ以テ二十一日呉ニ回航出撃準備ニ従事ノ豫定ニ付電探装置竝ニ防寒施設同艦出撃迄ニ完成実施取計ヲ得度』</ref>。
8月18日、第9駆逐隊司令は[[小西要人]]大佐(小西は8月28日より軽巡「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」艦長)から空母「[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]」副長[[井上良雄]]大佐に交代する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092500|昭和18年8月21日(発令8月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1195号 p.39}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092600|昭和18年8月31日(発令8月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1199号 p.26}}</ref>。井上大佐は白露型10番艦「[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]」初代艦長、陽炎型17番艦「[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]」初代艦長等を歴任していた。
9月1日、「霞」は'''第9駆逐隊'''に編入され、同隊は定数4隻([[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]])を揃える<ref>[[#内令昭和18年9月(1)]]p.26『内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ』</ref><ref>[[#S1804十一水戦(4)]]p.2『備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中/霞 九月一日附9dgニ編入/山雲 九月十五日附4dgニ編入/32dg 九月三十日附2sdニ編入』</ref>。「朝雲」は満潮型駆逐艦だが、「薄雲、白雲」は[[吹雪型駆逐艦|初雪型駆逐艦]]である。
9月2日、「霞」は呉を出発<ref>[[#S1809一水戦日誌(1)]]pp.8-40『(二)麾下艦船部隊ノ行動』</ref>。重巡「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」(第五艦隊旗艦)を護衛して[[幌筵島]]に進出<ref name="S1809一水戦(1)6">[[#S1809一水戦日誌(1)]]p.6『(1)九月一日霞ハ第九駆逐隊ニ編入セラレ陸奥海湾ヲ經テ那智ヲ護衛六日幌筵海峡ニ進出シ阿武隈及第九駆逐隊(白雲欠)ハ北方海上防衛主へ威力トシテ幌筵海峡ニ在リ傍ラ訓練ニ従事ス』</ref>。[[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]・第一水雷戦隊(司令官[[木村昌福]]少将、旗艦「[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]」)に所属して、北[[千島列島|千島]]方面で船団護衛に従事した<ref>[[#艦長海戦記]]30頁</ref><ref name="S1809一水戦(1)6"/>。

10月29日、第9駆逐隊司令駆逐艦は「朝雲」から「霞」に変更される<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070442500|昭和18年11月9日 海軍公報(部内限)第4536号 p.34}}『○司令驅逐艦變更 第九驅逐隊司令ハ十月二十九日司令驅逐艦ヲ霞ニ變更セリ』</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(2)]]p.8『記事(略)二.二九日九駆司令ハ司令駆逐艦ヲ朝雲ヨリ霞ニ変更』</ref>。
10月31日、「朝雲」は[[夕雲型駆逐艦]]1番艦「[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]」([[第二次ベララベラ海戦]]で沈没)、同型2番艦「[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]」([[ケ号作戦]]で沈没)を喪失して駆逐艦2隻([[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]])になっていた第10駆逐隊に編入され、第9駆逐隊は3隻編制(薄雲、白雲、霞)となった<ref>[[#内令昭和18年10月(5)]]p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(2)]]p.9『(イ)一〇月三一日附朝雲ハ第一〇駆逐隊ニ編入セラレ本軍隊区分ヨリ除ク』</ref>。
11月下旬から内南洋部隊の指揮下に入り<ref>[[#S1809一水戦日誌(2)]]p.10『(ニ)九駆(霞)ハ一一月二四日以降HPB電令作第三五號及HPB第三六九號ニ依リ二八一空関係ノ北千島「ルオット」間輸送ニ従事』</ref>、12月3日横須賀を出発<ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]pp.35-36『三(天候略)〇九〇〇 九駆(霞)横須賀發(内南洋方面輸送)』</ref>。[[マーシャル諸島]][[ギルバート・マーシャル諸島の戦い#ルオット島・ナムル島|ルオット島]]へ物資輸送を行った<ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]pp.12-14『(二)麾下艦船部隊ノ行動』</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]p.37『一一(天候略)一五三〇9dg(霞)「ルオット」發』-『一二(天候略)〇七〇〇9dg(霞)ウオッヂェ着直チニ發』</ref>。12月15日トラック泊地着<ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]p.39『一五(天候略)〇八三〇9dg(霞)トラック着』</ref>。
本艦は[[ラバウル空襲]]で損傷した重巡洋艦「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」を護衛して内地に帰投<ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]p.8『二.九驅(霞)ハ前月末二四航戰司令官ノ指揮ヲ受ケ二八一空ノ輸送ニ協力中GF電令作第二一八號北方部隊信令第四四〇號一水戰機密第一四〇六三〇番電ニ依リ最上艦長ノ指揮ヲ受ケ一六日以降同艦ノ護送ニ任ジタル後二一日同任務ヲ終リ水雷部隊ニ復帰ス』</ref>。同任務終了後の12月22日、「霞」は舞鶴に到着する<ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]p.30『二十二(司令)9dg(宛略)9dg(霞)〇八三〇舞鶴着』</ref><ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]p.40『二二(天候略)一.〇八三〇 九駆(霞)舞鶴着/二.〇九三〇21dgハ2sfヲ護衛「トラック」着』</ref>。[[レーダー]]の装備や対空機銃の増備を実施した<ref>[[#S1809一水戦日誌(3)]]p.31『二十三(司令)9dg(宛略)霞工事豫定 一.十二月三十日入渠一月十二日出渠十六日電探機銃測深儀哨信儀公試ト出撃/二.訓令通牒工事全部施行』</ref>。

[[1944年]](昭和19年)1月18日、「霞」は整備・修理を終えて舞鶴を出撃する<ref>[[#S1901舞鎮日誌]]p.9『(c)修理艦船 霞十八日、呂四〇潜二十日整備完了出撃ス』</ref><ref>[[#S1901舞鎮日誌]]p.56『十八(天候略)霞一三三〇完成出撃』</ref>。
3月1日、[[第九艦隊 (日本海軍)|第九艦隊]]より不知火型(陽炎型)駆逐艦「[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]」を第9駆逐隊に編入<ref>[[#内令昭和19年3月(1)]]p.17『内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ』</ref>。定数4隻(霞、不知火、薄雲、白雲)となる。だが3月16日、釧路から千島へ向かう船団を護衛中に米潜水艦[[トートグ (潜水艦)|トートグ]] (''USS Tautog, SS-199'')に 襲撃され、「白雲」は「霞」の目前で轟沈した<ref>[[#陽炎型(2014)]]275頁『白雲(しらくも)』</ref>。
3月31日、第9駆逐隊は解隊<ref name="S19内令510号">[[#内令昭和19年3月(5)]]p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二驅逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。3隻(薄雲、霞、不知火)は再編成された'''第18駆逐隊'''に所属する<ref name="S19内令510号"/><ref name="公報部内限4677">{{アジア歴史資料センター|C12070462400|昭和19年5月1日 海軍公報(部内限)第4677号 pp.7-8}}『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ四月二十二日司令驅逐艦ヲ不知火ニ變更セリ(第十八驅逐隊)』-『○書類移管 當隊三月三十一日附第十八驅逐隊ト改編ニ付各部ヨリ第九驅逐隊ニ配布中ノ軍機、軍極秘祖類ハ總テ第十八驅逐隊ニ移管致候條了知ノ上處理相成度(第九驅逐隊)』</ref>。第9駆逐隊司令[[井上良雄]]大佐はそのまま第18駆逐隊司令となり、井上は「不知火」を司令駆逐艦に指定した<ref name="公報部内限4677"/>。同隊は引続き第一水雷戦隊として行動する。その後さらに[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]、[[父島]]への輸送に当たった<ref name="陽炎(2014)122"/>。

6月中旬、[[マリアナ・パラオ諸島の戦い|マリアナ方面の戦い]]がはじまったことに伴い、第五艦隊各艦は横須賀に帰投。[[扶桑型戦艦]]「[[山城 (戦艦)|山城]]」と共に[[サイパン島]]へ突入する準備を行うが、[[マリアナ沖海戦]]の惨敗や、[[サイパン島の戦い|サイパン地上戦]]の情勢に鑑み、作戦は中止された。第一水雷戦隊各艦は北方へ戻る。
7月7日、小樽から北千島へ向かう船団を護衛中していた駆逐艦3隻(潮、曙、薄雲)は米潜水艦[[スケート (潜水艦)|スケート]] (''USS Skate, SS-305'')に襲撃され、被雷した「薄雲」は轟沈した<ref>[[#陽炎型(2014)]]277頁『薄雲(うすぐも)』</ref>。「薄雲」は9月10日附で第18駆逐隊より除籍され、18駆は2隻(不知火、霞)となった<ref>[[#内令昭和19年9月(2)]]p.23『内令第一〇五六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年九月十日海軍大臣|第十八驅逐隊ノ項中「薄雲、」ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「玉波、」ヲ削ル』</ref>。

10月15日、第18駆逐隊は呉を出撃<ref name="陽炎(2014)122"/>。
10月下旬の[[レイテ沖海戦]]では、第五艦隊司令長官[[志摩清英]]中将が指揮する第二遊撃部隊(重巡2隻《[[那智 (重巡洋艦)|那智]]、[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]》、軽巡《[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]》、第18駆逐隊《[[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]、'''霞'''》、第7駆逐隊《[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]》、第21駆逐隊《[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]》)としてレイテ湾に突入する計画であった<ref name="福田216">[[#サイパン・レイテ海戦記]]216-218頁『志摩艦隊の行動』</ref>。だが志摩艦隊(第二遊撃部隊)の行動について、[[連合艦隊]]や第二艦隊(司令長官[[栗田健男]]中将)の意志は統一されなかった<ref>[[#艦長海戦記]]42-43頁</ref>。さらに輸送任務のため、第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)は志摩艦隊本隊とは別行動をとる<ref>[[#第21駆逐隊捷1号作戦]]p.3『当隊ハ第二遊撃部隊ト共ニ馬公ニ待機中第二航空戦隊基地物件並ニ人員輸送ノ命ヲ受ケ23日午後「マニラ」ニ到着セルモ既ニ第二遊撃部隊ハ「コロン」ヲ出撃シ有リタルヲ以テ24日2000B点ニ於テ是ト合同スベク「マニラ」ニ於ケル補給終了後成ル可ク速ニ出撃ノ予定ノ所初霜ノ補給遅レ2125「マニラ」湾内ニ合同以後一戦速ヲ以テ南下1800概ネB点ニ到着ノ予定ナリキ』</ref>。

10月25日、志摩艦隊(第二遊撃部隊)はスリガオ海峡に突入したが、先行した西村艦隊(山城、扶桑、最上、時雨、満潮、朝雲、山雲)は米艦隊の迎撃により壊滅、「最上、時雨」のみ退避した<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]215頁(取り残された朝雲は追撃してきた米艦の砲撃で沈没)</ref>。後続していた志摩艦隊は、まず「阿武隈」が「潮」を誤射、つづいて「阿武隈」が被雷して落伍、「那智」と「最上」が衝突<ref name="福田216"/>。志摩長官は反転を決断し、志摩艦隊は退避行動にうつる<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]220頁</ref>。「最上」は「曙」に雷撃処分<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]226頁</ref>。木村(第一水雷戦隊司令官)は旗艦を「阿武隈」から「霞」に変更<ref>[[#潮詳報(捷号)]]p.3『0625霞阿武隈ニ横付一水戦司令部霞ニ移乗』</ref><ref>[[#艦長海戦記]]48-49頁</ref>。なお山名(霞艦長)は阿武隈水雷長や足柄水雷長を務めたことがある<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076800|昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.7}}</ref>。健在の志摩艦隊から分離した「阿武隈」と護衛の「潮」は応急修理を実施しつつ退避したが、27日の空襲で沈没した(阿武隈乗組員は潮に救助)<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]227頁</ref>。

志摩艦隊各艦は[[マニラ]]に帰投。別行動を取っていた第21駆逐隊([[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]、[[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]])も空襲により「若葉」を喪失、「初霜」損傷という被害を受けた<ref>[[#第21駆逐隊捷1号作戦]]p.4『24日0858若葉沈没若葉ノ位置N11°36′E121°36′司令駆逐艦ヲ初春ニ変更』</ref>。10月27日、空襲を受けた第十六戦隊([[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])を救援するため「不知火」は単艦で出撃<ref name="陽炎(2014)122"/>。「鬼怒」沈没を受けて引き返すも、セミララ島で座礁した夕雲型駆逐艦「[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]」(艦長[[平山敏夫]]中佐)救援中に空襲を受け撃沈された<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]394頁</ref><ref>[[#陽炎型(2014)]]303頁『不知火(しらぬい)』</ref>。第18駆逐隊司令[[井上良雄]]大佐および不知火乗組員は総員戦死した。

{{main|多号作戦}}

日本海軍はレイテ湾海戦で大損害を受けたが、日本軍は戦局有利とみて陸軍兵力を[[ルソン島]]から[[レイテ島]]へ移動することにした('''多号作戦''')<ref name="戦場将器245">[[#戦場の将器]]245-246頁『第十九章―陸軍を大敗させた海軍の戦果発表』</ref>。第五艦隊(志摩艦隊)や第二艦隊(栗田艦隊)の残存駆逐艦もこの任務に投入される。10月31日から11月1日にかけての第二次作戦(第二次輸送部隊 指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、[[沖波 (駆逐艦)|沖波]]、曙、潮、初春、初霜》、海防艦4隻、輸送船4隻)に参加、輸送船「能登丸」が沈没したが、輸送作戦は成功した<ref name="戦場将器245"/>。
本作戦中の11月5日、[[マニラ湾]]大空襲により第五艦隊旗艦の重巡「那智」が沈没<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.9-10『(2)4日「マニラ」帰着司令部ハ主トシテ陸上ニ在リ第四次「レイテ」島増援輸送計画ノ為各部トノ折衝打合セニ従事シ居タルトコロ5日朝来敵艦上機群「マニラ」逐ニ来襲敵ハ折カラ湾内避退行動中ノ那智ニ攻撃ヲ集中同艦危機ニ瀕シ次デ沈没…』</ref><ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.5『那智雷爆撃ヲ受ケ沈没』</ref>。「霞」以下第一水雷戦隊各艦は那智乗組員救助に従事した<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.5『一六一五 那智曙救援ノ爲一水戰出港』-『一七二四那智沈没位置 人員救助』</ref>。
「那智」を掩護していた「曙」も大破炎上<ref name="艦長海戦記52">[[#艦長海戦記]]52-54頁『マニラ前進根拠地の機能喪失』</ref>。「霞、初春、初霜、潮」は救援活動に従事する<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.9-10『…之ガ護衛警戒ノ為急遽出撃セル曙亦被弾火災航行不能トナレルヲ以テ敵上機最終引揚ノ機ヲ計ヒ1630所在麾下兵力〔霞、二十一駆(初春初霜)、潮〕ヲ率ヰ出港之ガ救援ニ任ズ』</ref><ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.6『2215 潮曙ニ横付消火 横曳曳航ヲナス』</ref>。

11月8日から9日にかけて、第四次作戦(指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]、潮、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]》、海防艦4隻、輸送船3隻)に参加<ref name="戦場将器247">[[#戦場の将器]]247-248頁</ref>。空襲で輸送船2隻(高津丸、香椎丸)・海防艦1隻を撃沈され、また揚陸地点での混乱により重火器や弾薬を一部揚陸したにとどまった<ref name="戦場将器247"/>。帰路についた第四次輸送部隊は、オルモック湾へむかう第三次輸送部隊(指揮官[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官:旗艦「[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]」)と合同<ref name="戦場将器249">[[#戦場の将器]]249-250頁</ref>。第四次輸送隊の駆逐艦3隻(若月、長波、朝霜)と、第三次輸送隊の2隻(初春、竹)を入れ替えた<ref name="戦場将器249"/>。「霞、秋霜、潮、初春、竹」は無事にマニラ湾へ帰投。11月11日、第三次輸送部隊は米軍機のべ347機に襲撃され、早川司令官は戦死、駆逐艦4隻(島風、長波、若月、浜波)・掃海艇1隻・輸送船4隻も全滅<ref name="戦場将器249"/>。生還したのは「朝霜」だけだった<ref name="戦場将器249"/>。

11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母《[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]》、重巡《[[利根 (重巡洋艦)|利根]]》、第30駆逐隊《[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]、[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]》)は同行していた軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」を分離、代艦としてスリガオ海峡夜戦から生還した駆逐艦「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」を編入し、内地へ帰投する<ref>[[#S1906第30駆日誌(3)]]p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』</ref>。「木曾」と秋月型駆逐艦「[[霜月 (駆逐艦)|霜月]]」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]pp.42-43『十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略』</ref>。
11月13日、[[マニラ湾]]は再び空襲をうけ「潮」は至近弾により浸水<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.7『潮至近弾ノ爲浸水』</ref>、ほかに軽巡「木曾」<ref name="艦長海戦記52"/>、駆逐艦4隻(曙、沖波、秋霜、初春)は沈没もしくは大破着底状態となる<ref>[[#霞詳報(マニラ空襲)]]p.7『木曾沈没着底、沖波沈没着底』</ref><ref>[[#捷1号作戦2YB作戦経過概要]]pp.32-33『11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル』</ref><ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『(4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ…』</ref>。
志摩司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官[[大川内伝七]]中将)に強く進言<ref name="艦長海戦記52"/>。
同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮《左舷一軸運転》、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した<ref>[[#S1909一水戦日誌(2)]]p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』</ref><ref name="艦長海戦記52"/>。

11月15日附で第18駆逐隊は解隊され、「霞」は'''第7駆逐隊'''(司令[[岩上次一]]大佐。岩上は陽炎型2隻《[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]》艦長等を歴任)に編入、同隊は3隻編制(霞、潮《損傷》、曙《沈没》)となる<ref>[[#秘海軍公報昭和19年11月(3)]]pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。

=== 礼号作戦 ===
島風沈没と[[早川幹夫]]第二水雷戦隊司令官戦死により11月20日附で第一水雷戦隊は解隊され、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将は第二水雷戦隊司令官に任命された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月24日(発令11月20日付)海軍辞令公報(甲)第1651号 p.32}}</ref><ref>[[#S1911二水戦]]pp.9-10『(二)經過(1)』</ref>。また第一水雷戦隊参謀達も、それぞれ二水戦参謀に任命される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102000|昭和19年11月28日(発令11月20日付)海軍辞令公報(甲)第1654号 p.49}}</ref>。水雷対潜運用担当の[[廣瀬弘]]大佐は、島風初代艦長である<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]pp.18-19『二.人員ノ現状(十二月三十一日現在)(イ)司令部(一)主要職員官氏名』</ref>。書類上の二水戦旗艦は[[阿賀野型軽巡洋艦]]3番艦「[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]」だったが、同艦および第17駆逐隊は第一遊撃部隊(大和、長門、金剛)を護衛して11月16日にブルネーを出発<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]pp.10-11『十一月十六日「ブルネー」ヲ出撃セル第一遊撃部隊ノ大部ハ同二十三日内海西部着本回航中十七駆(浦風)ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』</ref>。途中、2隻([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]])が米潜水艦[[シーライオン (SS-315)|シーライオンⅡ]]に撃沈される<ref>[[#陽炎型(2014)]]309頁『浦風(うらかぜ)』</ref>。その後は内地にあって別行動であり<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.8『(2)2sd麾下兵力中矢矧十七駆〔雪風磯風濱風(浦風)〕涼月冬月時雨ハ第一遊撃部隊ニ属シ内地ニ在リ』</ref>、木村司令官が「矢矧」に座乗することはなかった。
11月22日時点の第二遊撃部隊戦力は、「足柄」([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊旗艦]])、[[第四航空戦隊]]([[日向 (戦艦)|日向]]、[[伊勢 (戦艦)|伊勢]])、第五戦隊([[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]] )、軽巡「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」、[[第二水雷戦隊]](霞/旗艦、潮、朝霜、初霜、霜月《11月25日沈没》、岸波《12月4日沈没》、清霜/昭南にて修理中)であった<ref>[[#S1911第五艦隊(1)]]p.8『(二)十一月二十二日「リンガ」入泊地2YB麾下兵力』</ref>。

11月28日、シンガポールで第二水雷戦隊旗艦は「霞」から「潮」に変更<ref name="S1911二水戦(1)54">[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.54『二九|0915セレター|(天候略)(略)〇九一五霞二十一駆(初霜)昭南着/一九三〇七駆(霞)二十一駆(初霜)榛名ヲ護衛シ昭南発|一六〇〇将旗ヲ潮ニ移揚/七駆司令駆逐艦ヲ霞ニ変更』</ref>。また第7駆逐隊司令駆逐艦を「潮」から「霞」に変更<ref name="S1911二水戦(1)54"/>。駆逐艦2隻(霞、初霜)は座礁により大破していた[[金剛型戦艦]]3番艦「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」<ref>[[#S1911第五艦隊(1)]]p.22『25日2037五艦隊長官/(前略)五.榛名 艦体強度ノ関係上長時間航行可能 速力平水ニテ18節 荒天期ノ内地回航不安ナル現状ナリ 船渠ノ整備(12月25日)ヲ俟ッテ入渠応急修理ノ予定 本修理後内地ニ回航修理ノ要アリ 本事故ハ本職ノ誘導適切ヲ欠キタルニ起因スルモノトシテ深ク遺憾ノ意ヲ表ス』</ref>を護衛してリンガ泊地を出発、台湾[[馬公市]]まで護衛した<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.11『(2)此ヨリ曩「リンガ」回航中觸礁セル榛名内地回航ニ決シ2sdノ二艦ヲ以テ馬公迄同艦ノ護衛實施方發令アリタルヲ以テ七駆(霞)二十一駆(初霜)ヲ之ニ指定二十八日「リンガ」発二十九日昭南着同日夕刻昭南発十二月五日馬公着十一月二十九日一六〇〇将旗ヲ潮ニ移揚ス』</ref><ref name="S1911二水戦(1)54"/>。
12月5日、3隻(榛名、霞、初霜)は馬公到着。前月29日附で第7駆逐隊司令職をとかれ第52駆逐隊司令への転任を命じられていた岩上次一大佐は馬公で「霞」を降り、後任者着任まで山名(霞艦長)が第7駆逐隊司令を兼務する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102100|昭和19年12月4日(発令11月29日付)海軍辞令公報(甲)第1660号 p.48}}</ref><ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.55『五(天候略)一〇二〇 二十一驅(初霜)霞榛名ヲ護衛シ馬公着|七駆司令岩上大佐馬公ニテ霞ヨリ退任(後任司令代理山名中佐)「ウルシー」所在敵KdB出撃ノ徴アリ』</ref>。
「榛名」護衛任務終了後の2隻(霞、初霜)は船団護衛命令を受けて台湾[[高雄市]]へ向かったが<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.28『六日〇九五六(指揮官)2YB(宛略)第二遊撃部隊電令作第四號 初霜霞ハ帰投ノ途次六日高雄發昭南回航ノ良榮丸アマト丸ノ護衛ニ協力スベシ』</ref>、戦局逼迫により護衛任務は中止<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.11『十一月二十二日被雷昭南待機中ノ五十鈴ハ「スラバヤ」ニ於テ修理ノコトトナリ十二月五日昭南發命ニ依リ二駆(朝霜)ヲ同艦護衛艦トシテ六日昭南発之ヲ追及セシム同日榛名護衛任務了セル二十一駆(初霜)霞ハ馬公発昭南ニ向ヘルトコロ高雄発船団護衛協力方2YBヨリ命令アリ反轉高雄ニ向ヘリ』</ref><ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.11『(3)一方「レイテ」方面戰況逼迫ニ依リ2YBハ急遽「ブル子ー」方面次デ「カムラン」方面進出待機ノコトトナリ二駆(朝霜)及二十一駆(初霜)霞ハ共ニ護衛任務ヲ打切リ前者ハ「リンガ」後者ハ「カムラン」南方ニ於テ合同ヲ下令セラレ…』</ref>。10日ベトナム[[カムラン湾]]着<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.34『十日〇九〇三(司令)21dg(宛略)初霜霞カムラン湾着』</ref>。13日に「朝霜」等と合流、翌日ベトナム[[カムラン湾]]に到着し、木村司令官は第二水雷戦隊旗艦を「朝霜」から「大淀」に変更した<ref>[[#S1911第五艦隊(2)]]p.14『(二)自十二月一日至十二月三十一日第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表』</ref><ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.12『朝霜探照燈反射鏡破損シ之ガ換装ノ爲十一日昭南ニ回航整備ノ上十二日「リンガ」出撃ノ2YBニ合同北上十三日初霜霞ヲ合同十四日「カムラン」着将旗ヲ大淀ニ移揚ス』</ref>。

12月12日、応急修理を終えた「潮」は重巡「[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]」(レイテ沖海戦で被雷、大破)を護衛し、シンガポールから内地に向け出発する<ref name="S1911二水戦(1)12潮">[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.12『此ノ間潮ハ應急修理ヲ促進十一日完成十二日妙高ヲ護衛昭南發(十三日夜妙高被雷撃潮之ガ救難ニ從事セルモ曳航成功ノ見込ミナク命ニ依リ分離「サンヂャック」経由「ヒ八二」船團追及合同す)又二水戰ノ一艦ヲ第十次多號作戰護衛部隊編入ノ令ニ接シ二駆(清霜)ヲ之ニ指定十三日之ヲ分離ス然ルトコロ敵新攻略部隊ハ機動部隊直掩下ニ十三日スール海ニ侵入ノ情況アリ第十次輸送部隊解編2YBハ決戰用意新南群島進出待機ノ下令アリタルガ十五日敵ノ「ミンドロ」島上陸確實ナルヤ其ノ任ヲ解カレ「カムラン」待機トナリ十六日二駆(清霜)「カムラン」湾ニ復歸合同ス』</ref>。
12月13日夜、2隻は[[マレー半島]]北東タイランド湾にて米潜水艦[[バーゴール (潜水艦)|バーゴール]] (''USS Bergall, SS-320'') と遭遇する<ref>[[#第二水雷戦隊突入す]]54頁(バーガルと表記)</ref>。魚雷1本が命中した「妙高」は大破<ref>[[#第二水雷戦隊突入す]]55-57頁</ref>。「潮」では妙高曳航は不可能であり、命令により単艦で先行したのちヒ82船団を護衛して内地に帰投した<ref>[[#第二水雷戦隊突入す]]57-58頁</ref><ref name="S1911二水戦(1)12潮"/>。
12月17日朝、二水戦2隻(初霜、霞)は油槽船「日栄丸」を護衛してカムラン湾を出発、同船分離後は「妙高」に合流<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.58『一八(天候略)一五〇〇初霜霞妙高ト合同/一七三三霞妙高曳航』</ref>。「霞」は曳航を試みるが、曳索切断により失敗した<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.58『一九(天候略)〇二三八霞曳索切断』</ref><ref name="s1911二水戦(1)13">[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.13『此ノ日「カムラン」湾敵B-24一機ノ偵察ヲ受ケ翌日ノ空襲ヲ顧慮2YBハ十七日同地發「サンヂヤック」沖回航ニ決シ十八日着尚二十一駆(初霜)霞ハ日榮丸ノ「サンヂヤック」回航護衛後妙高護衛ニ從事スルコトトナリ十七日早朝「カムラン」発同夜日榮丸ヲ分離十八日妙高ニ合同霞曳航ヲ試ミタルモ曳索切断爾後妙高ヲ監視警戒天候ノ恢復ヲ待チアリタルガ二十日禮號作戰発動アリテ霞ハ「カムラン」ニ復歸合同二十一駆(初霜)ハ其ノ儘任務續行ノコトトナリ後者ハ5S司令官ノ区處ヲ受ケ妙高ヲ護衛曳航二十五日昭南着急速入渠整備ニ從事ス』</ref>。20日、礼号作戦の発動により「霞」は第二遊撃部隊本隊への復帰を命じられ<ref name="s1911二水戦(1)13"/>、22日カムラン湾着<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.59『二二(天候略)〇七〇〇頃時雨佐世保着/一六二六霞カムラン湾着/一八〇〇頃日榮丸榧樫海一九カムラン湾着』</ref>。「妙高」は第五戦隊([[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])に曳航され、「初霜」と海防艦「千振」護衛下でシンガポールにむかった(12月25日昭南着)<ref name="s1911二水戦(1)13"/><ref>[[#第二水雷戦隊突入す]]60頁</ref>。「妙高」被雷と護衛のため、「羽黒」と「初霜」は礼号作戦に参加できなかった<ref>[[#第二水雷戦隊突入す]]61頁</ref>。

{{main|礼号作戦}}

木村少将は二水戦旗艦を「霞」・「大淀」<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.53『二三|リンガ泊地|(天候略)(略)〇九三〇将旗ヲ霞ニ掲揚ノ儘一時司令部事務ヲ大淀ニテ執行ス』</ref>・「潮」<ref name="S1911二水戦(1)54"/>・「清霜」<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.56『九(天候略)一一〇〇冬月涼月隼鷹榛名佐世保着/一一四五(司令官)清霜リンガニ向ケ昭南発/一九二〇(司令官)清霜リンガ着|一一〇〇将旗ヲ潮ヨリ清霜ニ移揚ス/二〇〇〇将旗ヲ朝霜ニ移揚ス/第二駆逐隊司令駆逐艦ヲ清霜ニ変更ス』</ref>・「朝霜」<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.12『清霜亦急速整備ヲ完了シ十二月九日将旗ヲ之ニ移揚「リンガ」ニ進出ス即日将旗ヲ朝霜ニ移動揚ス』</ref>、12月16日からは「大淀」に置いていたが(前述)、[[ミンドロ島]]攻撃('''礼号作戦''')においては「霞」を旗艦とした<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.59『二四(天候略)〇九〇〇(旗艦)霞足柄大淀二駆(清霜朝霜)榧杉樫ヲ率ヰカムラン湾発|〇八〇〇(将旗)霞ニ変更ス』</ref>。また第二遊撃部隊(指揮官[[志摩清英]]第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「足柄」を挺身部隊(指揮官[[木村昌福]]第二水雷戦隊司令官)に編入し、遊撃部隊旗艦を「日向」に変更<ref>[[#S1911第五艦隊(2)]]p.12『二一|一七三〇|2YB旗艦ヲ一時日向ニ変更(一部幕僚ヲ挺身部隊ニ派遣)/一八三〇|挺身部隊「カムラン」ニ向ケ「サンジャック」出撃』</ref><ref>[[#S1911第五艦隊(2)]]p.47『二十一日一八四六 二遊撃部隊指揮官(宛略)2YB旗艦ヲ一時日向ニ変更ス』</ref>。
木村少将は挺身部隊(重巡1隻《[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]》、軽巡1隻《[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]》、駆逐艦6隻《霞〔木村少将座乗、挺身部隊旗艦〕、[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[杉 (松型駆逐艦)|杉]]、[[樫 (松型駆逐艦)|樫]]》)を率いて出撃、夜間空襲で「清霜」を喪失する<ref name="艦長海戦記55">[[#艦長海戦記]]55-59頁『礼号作戦』</ref>。「霞」は魚雷4本を発射、機銃掃射により戦死者5名を出した<ref name="艦長海戦記55"/>。砲雷撃終了後、「霞」は清霜乗組員を救助して戦場を離脱<ref name="艦長海戦記55"/>。米軍に与えた被害は限定的だった<ref name="艦長海戦記55"/>。12月28日夕刻、礼号作戦部隊はカムラン湾に帰着し、第二水雷戦隊旗艦は「大淀」に戻った<ref>[[#S1911二水戦日誌(1)]]p.61『二八(天候略)十七駆呉発門司ニ回航/時雨佐世保発門司ニ回航/一八三〇(旗艦)霞足柄大淀朝霜ヲ率ヰカムラン湾着/二三四五潮ヒ八二船團高雄着|二〇三〇将旗ヲ大淀ニ移揚ス』</ref>。サンジャック移動後、第二遊撃部隊(日向、伊勢、足柄、大淀、朝霜、霞)はリンガ泊地またはシンガポールへ向かった<ref>[[#S1911第五艦隊(2)]]p.13『三〇|一七三〇|2YB(4sf足柄大淀朝霜霞)昭南(リンガ)ニ向ケ「サンジャック」發』</ref>。

[[1945年]](昭和20年)1月1日、第二遊撃部隊(足柄、大淀、霞、朝霜)はシンガポールに到着し、「霞」はセレター軍港に入港<ref>[[#S1911第五艦隊(2)]]p.13『三一(略)一二〇〇2YBハ旗艦ヲ足柄ニ復皈』</ref><ref>[[#S1911第五艦隊(2)]]p.58『一月一日一二〇一 二遊撃部隊指揮官(宛略)2YB〔(足柄大淀)2sd(霞朝霜)〕一二〇〇昭南水道着旗艦ヲ足柄ニ復皈』</ref><ref name="艦長海戦記65">[[#艦長海戦記]]65-66頁</ref>。木村司令官は「霞」に将旗を掲げた<ref>[[#S1911二水戦日誌(2)]]p.10『(1)一日昭南歸着将旗ヲ大淀ヨリ霞ニ復歸ス二日霞朝霜ヲ夫々一〇一工作部船渠及昭南港船渠ニ入渠急速修理整備ニ従事セシム前月來入渠整備中ナリシ初霜ハ三日出撃準備完了ス』</ref>。
1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村少将から[[古村啓蔵]]少将へ交代(着任・退任1月4日)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102800|昭和20年1月9日(発令1月3日付)海軍辞令公報(甲)第1688号 p.37}}</ref><ref>[[#S1911二水戦日誌(2)]]p.10『四日新司令官古村啓蔵少将着任交代ヲ了ス』</ref><ref>[[#S1911二水戦日誌(2)]]pp.16-17『二.人員ノ現状(イ)司令部(一)主要職員官氏名』</ref>。
1月7日、戦線復帰以後の霞水雷長として勤務した森田友幸大尉は、シンガポールで修理中の陽炎型9番艦「[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]」(前年1月16日に被雷、船体切断)水雷長を命じられ<ref name="jirei1692">{{アジア歴史資料センター|C13072102900|昭和20年1月13日(発令1月7日付)海軍辞令公報(甲)第1692号 p.2}}</ref>、「霞」から「天津風」へ移動(2月10日より天津風駆逐艦長)<ref name="艦長海戦記65"/><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103400|昭和20年2月16日(発令2月10日付)海軍辞令公報(甲)第1723号 p.43}}</ref>。それまでの天津風水雷長[[庄司豪夫]]大尉が、後任の霞水雷長となる<ref name="jirei1692"/>。
1月10日、「曙」の除籍により第7駆逐隊は2隻編制(霞、潮)となる<ref>[[#秘公報昭和20年1月(2)]]p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二駆逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四駆逐隊ノ項ヲ削ル|第七駆逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七駆逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一駆逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十駆逐隊及第三十一駆逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一駆逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』</ref>。「潮」はマニラ空襲の損傷により作戦行動不能のため、健在艦は「霞」1隻だった。
1月25日、駆逐艦「[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]」の編入により、第7駆逐隊は3隻編制(霞、潮、響)となる<ref>[[#秘海軍公報昭和20年1月(3)]]p.46『内令第六七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年一月二十五日|第七驅逐隊ノ項中「潮、」ノ下ニ「響、」ヲ加フ』</ref>。

2月上旬、本艦は[[北号作戦]](指揮官[[松田千秋]]第四航空戦隊司令官)に参加する。第二水雷戦隊(霞、初霜、朝霜)は[[第四航空戦隊]]([[伊勢 (戦艦)|伊勢]]、[[日向 (戦艦)|日向]]、[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]])を護衛して[[シンガポール]]を出発<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]]p.10『大淀ハ4sfニ編入同隊ハ第十方面艦隊ヨリ除レGF附属トナリ當隊(霞《旗艦》初霜朝霜)亦GF電令作第五〇九號ニ依リ第十方面艦隊長官ノ作戰指揮下ヲ離レ一時4sf司令官ノ作戰指揮下ニ入リ同電令作第五一〇號ニ依リ4sf 1dgト共ニ北號作戰部隊ヲ編成緊急内地還送作戰實施ノコトトナレリ』</ref>。[[香港]]で第1駆逐隊(野風、神風)を編入し、2月20日に呉に帰投した<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]]pp.10-11『北號作戰部隊(除1dg)十日二〇三〇ジョホールバール出撃途中敵潜敵機ノ觸接攻撃ヲ蒙リツツモ其ノ都度之ヲ避退排除シ二十日呉着其ノ任ヲ達成セリ』</ref>。
2月23日、二水戦旗艦は「霞」から「矢矧」に変更される<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]]p.8『(備考)二十三日迄霞ヲ爾後矢矧ヲ旗艦トス』</ref><ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]]p.11『(2)二十日呉ニテ2F(大和)ト會シ回航部隊ハ第二艦隊長官麾下ニ復シ二十三日旗艦ヲ霞ヨリ矢矧ニ復歸セリ』</ref>。

=== 坊ノ岬沖海戦 ===
3月1日、[[山名寛雄]](霞艦長)は秋月型8番艦「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」駆逐艦長へ転任<ref name="jirei1741">{{アジア歴史資料センター|C13072103700|昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32}}</ref>。後任の霞駆逐艦長は、[[松本正平]]少佐([[睦月型駆逐艦]]12番艦「[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]」沈没時艦長)となる<ref name="jirei1741"/>。
3月10日、[[ヒ87船団]]護衛中に沈没した[[白露型駆逐艦]]2番艦「[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]」の代艦として「霞」は'''第21駆逐隊'''に編入され、同隊は3隻編制([[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]、[[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、霞)となる<ref>[[#秘海軍公報昭和20年3月(2)]]p.15『内令第二二一號 驅逐隊編制中左ノ取改定セラル|昭和二十年三月十日海軍大臣|第七驅逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三驅逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「樅、」ヲ削ル』</ref>。また霞初代水雷長だった平山敏夫中佐(早霜駆逐艦長)は同日附で秋月型3番艦「[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]」駆逐艦長となる<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103800|昭和20年3月18日(発令3月10日付)海軍辞令公報(甲)第1749号 p.35}}</ref>。
3月18日附で[[石井汞]]大佐は第21駆逐隊司令の職務を解かれ<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072103900|昭和20年3月28日(発令3月18日)海軍辞令公報(甲)第1757号 p.35}}</ref>、後任の司令には3月25日附で[[伊勢型戦艦]]1番艦「[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」副長[[小滝久雄]]大佐が任命された<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072104200|昭和20年4月1日(発令3月25日)海軍辞令公報(甲)第1761号 p.4}}</ref>。
3月27日、第21駆逐隊司令駆逐艦は「朝霜」となる<ref>[[#S20.04二水戦詳報(1)]]p.43『(ハ)作戦指導(一)編制区分/3月27日以後21駆逐隊司令艦ヲ朝霜ニ変更』-p.53『(三)麾下艦艇ノ行動』</ref>。

{{main|坊の岬沖海戦}}

4月上旬、[[第二水雷戦隊]]司令官[[古村啓蔵]]少将指揮下の9隻(軽巡[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]《二水戦旗艦》、第17駆逐隊《磯風、雪風、浜風》、第21駆逐隊《朝霜、霞、初霜》、第41駆逐隊《冬月、涼月》)は戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官[[伊藤整一]]中将)を護衛して[[天一号作戦]]に参加する。4月7日の対空戦闘前、「朝霜」(第21駆逐隊司令駆逐艦)が機関故障で落伍すると、「霞」は輪形陣右側に位置する<ref name="海軍駆逐隊324">[[#海軍駆逐隊、平成27]]324-326頁『磯風と霞の勇戦奮戦』</ref>。米軍機動部隊艦載機との交戦開始後、13時27分に被弾<ref>[[#S20.04二水戦詳報(2)]]p.40『一三二五|霞直撃弾二及至近弾ニ依リ航行不能』</ref>。直撃弾と至近弾により機関部に浸水、航行不能となる<ref name="海軍駆逐隊324"/>。「大和」および「矢矧」沈没後の16時以降、「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」は「霞」に接舷<ref>[[#S20.04二水戦詳報(2)]]p.47『一六二二|冬月霞ノ左舷ニ横付人員救助(准士官以上十五名下士官兵二百七十二名』-『一六五七|霞沈没(三〇度五一分北 一二七度五七分東)』</ref>。霞乗組員を収容したのち、「霞」は「冬月」の雷撃により沈没した<ref>[[#最後の水兵]]60頁</ref>。沈没時刻16時57分<ref name="海軍駆逐隊324"/>。17名が戦死、43名が負傷、沈没地点{{coor dm|30|51|N|127|57|E|}}<ref>[[#S20.04二水戦詳報(3)]]pp.31-32『霞|一.直撃及至近弾ニ依リ缶室全部浸水/二.被弾情況/三.戰死一七名(内准士官以上一命) 戰傷四七名(〃 三名)|人員冬月ニ移積ノ上七日一六五七處分ス 地点{三〇度五一分北 一二七度五七分東』</ref>。

4月20日、第二水雷戦隊は解隊。第21駆逐隊所属の「初霜」は、不知火型2隻([[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]])を喪失して「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」単艦となっていた第17駆逐隊に編入される。
5月10日、「霞」および「朝霜」は除籍された<ref>[[#秘公報昭和20年5月(3)]]pp.24-26『内令第四一一號 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝霜|呉鎮守府在籍 驅逐艦 霞|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年五月十日 海軍大臣』</ref>。また姉妹艦全隻を喪失した[[夕雲型駆逐艦]]と[[朝潮型駆逐艦|満潮型(朝潮型)駆逐艦]]は艦艇類別等級表から削除された<ref>[[#秘公報昭和20年5月(3)]]p.1『内令第四〇〇號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和二十年五月十日海軍大臣|驅逐艦、一等ノ部中「満潮型/霞」、「夕雲型/朝霜」ヲ削ル(以下略)』</ref>。
第21駆逐隊も同日附で解隊<ref>[[#秘公報昭和20年5月(3)]]p.2『内令第四〇四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月十日海軍大臣|第二十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。第17駆逐隊に転籍した「初霜」も終戦直前に触雷して沈没<ref>[[#海軍駆逐隊、平成27]]312頁『機雷に触れて爆発、湾内に坐礁沈没した。』</ref>。第21駆逐隊に所属した駆逐艦([[初春 (初春型駆逐艦)|初春]]、[[子日 (初春型駆逐艦)|子日]]、[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]、初霜、時雨、朝霜、霞)は[[太平洋戦争]]中に全隻喪失した。


==歴代艦長==
==歴代艦長==
;艤装員長
;艤装員長
#白濱政七 中佐:1938年12月15日<ref name="jirei273"/> - 1939年6月28日<ref name="jirei351"/>
#白濱政七 中佐:1938年12月15日<ref>昭和13年12月15日付 海軍辞令公報 号外 (部内限) 第273号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072074800 で閲覧可能。</ref> - 1939年6月28日<ref name="jirei19390628">昭和14年6月28日付 海軍辞令公報 (部内限) 第351号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072075900 で閲覧可能。</ref>
;駆逐艦長
;駆逐艦長
#白濱政七 中佐:1939年6月28日<ref name="jirei19390628" /> - 1939年11月15日<ref name="jirei19391115">昭和14年11月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第402号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072076700 で閲覧可能。</ref>
#白濱政七 中佐:1939年6月28日<ref name="jirei351"/> - 1939年11月15日<ref name="jirei402a"/>
#磯久研磨 中佐:1939年11月15日<ref name="jirei19391115" /> - 1940年11月15日<ref name="jirei19401115">昭和15年11月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第555号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072079400 で閲覧可能。</ref>
#磯久研磨 中佐:1939年11月15日<ref name="jirei402a" /> - 1940年11月15日<ref name="jirei555"/>
#戸村清 中佐:1940年11月15日<ref name="jirei19401115" /> - 1942年8月20日<ref name="jirei19420820">昭和17年8月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第926号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072086600 で閲覧可能。</ref>
#戸村清 中佐:1940年11月15日<ref name="jirei555" /> - 1942年8月20日<ref name="jirei926"/>
#(兼)友重丙 中佐:1942年8月20日<ref name="jirei19420820" /> - 1942年9月10日<ref name="jirei19420910">昭和17年9月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第939号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072086800 で閲覧可能。</ref> (本職:舞鶴防備隊副長)
#(兼)友重丙 中佐:1942年8月20日<ref name="jirei926/> - 1942年9月10日<ref name="jirei939"/>(本職:舞鶴防備隊副長)
#(兼)杉岡幸七 中佐:1942年9月10日<ref name="jirei19420910" /> - 1942年11月15日<ref name="jirei19421116">昭和17年11月16日付 海軍辞令公報 (部内限) 第988号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072088200 で閲覧可能。</ref> (本職:[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]駆逐艦長)
#(兼)杉岡幸七 中佐:1942年9月10日<ref name="jirei939" /> - 1942年11月15日<ref name="jirei988a"/> (本職:[[大潮 (駆逐艦)|大潮]]駆逐艦長)
#(兼)山名寛雄 少佐:1942年11月15日<ref name="jirei19421116" /> - 1942年12月20日<ref name="jirei19421221">昭和17年12月21日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1017号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072088600 で閲覧可能。</ref> (本職:大潮駆逐艦長)
#(兼)山名寛雄 少佐:1942年11月15日<ref name="jirei988b"/> - 1942年12月20日<ref name="jirei1017"/> (本職:大潮駆逐艦長)
#山名寛雄 少佐/中佐:1942年12月20日<ref name="jirei19421221" /> - 194531日<ref name="jirei19450309">昭和20年3月9付 秘海軍辞令公報 甲 第1741号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072103700 で閲覧可能。</ref>
#山名寛雄 少佐/中佐:1942年12月20日<ref name="jirei1017"/> - 1943520(免兼職)<ref name="jirei1021"/> - 1945年3月1日<ref name="jirei1741"/>
#松本正平 少佐:1945年3月1日<ref name="jirei19450309" /> - 1945年4月15日<ref>昭和20年4月28日付海軍辞令公報 第1785号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072104500 で閲覧可能。</ref>
#松本正平 少佐:1945年3月1日<ref name="jirei1741"/> - 1945年4月15日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072076800|昭和20年4月28日(発令4月15日付)海軍辞令公報()第1785号 p.12}}</ref>


==脚注==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!--ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順-->
*雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
* {{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref=戦場の将器}}
* {{Cite book|和書|author=岡本孝太郎|authorlink=|year=2014|month=5|title=舞廠造機部の昭和史 {{small|駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相}}|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-14246-3|ref=舞廠造機部}}
* {{Cite book|和書|author=[[岸見勇美]]|year=2010|month=12|title=地獄のレイテ輸送作戦 {{small|敵制空権下の多号作戦の全貌}}|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2666-8|ref=地獄のレイテ輸送作戦}}
* {{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]|origyear=1972|year=2003|month=3|title=第二水雷戦隊突入す {{small|礼号作戦最後の艦砲射撃}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2375-4|ref=第二水雷戦隊突入す}}
* {{Cite book|和書|author=倉橋友二郎|authorlink=|year=1967|month=6|title={{small|駆逐艦隊悲劇の記録}} 海ゆかば・・・|publisher=徳間書店|ref=駆逐艦隊悲劇の記録}} 著者は1944年6月~1945年5月まで駆逐艦「涼月」砲術長勤務。
* {{Cite book|和書|author=倉橋友二郎|authorlink=|year=1987|month=12|title=激闘駆逐艦隊|publisher=朝日ソノラマ|ref=激闘駆逐艦隊}}
* {{Cite book|和書|author=小池山三郎|year=2014|month=7|title=帝国海軍最後の水兵さん|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-15239-4|ref=最後の水兵}} 著者は駆逐艦「野分、神風、冬月」勤務。艤装~終戦後まで冬月高射砲砲手。
* {{Cite book|和書|author=重本俊一ほか|year=2014|month=10|title=陽炎型駆逐艦 {{small|水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1577-8|ref=陽炎型(2014)}}
**{{small|戦史研究家}}落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ {{small|第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録}}』
**{{small|当時第十八駆逐隊軍医長・海軍軍医大尉}}林靖『隠密ハワイ航路「陽炎」艦橋で見た機動部隊強し {{small|真珠湾、インド洋、ミッドウェーを疾駆した陽炎の奮戦と不知火の損傷}}』
**{{small|戦史研究家}}伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 {{small|太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後}}』
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤和正]]|year=1983|title=艦長たちの太平洋戦争 {{small|34人の艦長が語った勇者の条件}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0207-2|ref=佐藤 艦長たち}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤和正]]|year=1993|title=艦長たちの太平洋戦争 {{small|34人の艦長が語った勇者の条件}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=47698-2009-7|ref=佐藤 艦長(文庫)}}
** 綱渡りの航跡 <駆逐艦「秋月」艦長・緒方友兄大佐の証言>(1980年8月25日に行われた当時霰艦長緒方へのインタビューを掲載。のち軽巡[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]副長、駆逐艦[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]艦長等)
* {{Cite book|和書|author=将口泰浩|authorlink=|year=2009|month=8|title=キスカ島奇跡の撤退 {{small|木村昌福中将の生涯}}|publisher=新潮文庫|isbn=978-4-10-138411-5|ref=木村中将生涯}}
* {{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第四巻 {{small|昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日}}|publisher=中央公論社|year=1996|month=7|ISBN=4-12-403394-x|ref=高松宮日記4巻}}
* {{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=3|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮日記6巻}}
* {{Cite book|和書|author=寺内正道ほか|authorlink=|year=2015|month=9|title=海軍駆逐隊 {{small|駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-47698-1601-0|ref=海軍駆逐隊、平成27}}
**{{small|元大本営参謀・海軍中佐}}吉田俊雄『陽炎型駆逐艦十七&十八駆逐隊の航跡 {{small|谷風ミッドウェーの奮戦と浦風、不知火、磯風、浜風の最後}}』
**{{small|戦史研究家}}塚田享『強運の名に恥じぬ第七駆逐隊奮迅録 {{small|曙、漣、潮、朧。ラッキー・セブンのジンクスを守りぬいた栄光の戦歴}}』
**{{small|艦艇研究家}}佐伯玲治『北方から南方へ第二十一駆逐隊の栄光 {{small|初春、子日、初霜、若葉。第一水雷戦隊の初春型駆逐艦四隻の転戦譜}}』
**{{small|当事「矢矧」艦長・海軍大佐}}原為一『最後の駆逐隊八隻の沖縄水上特攻 {{small|十七駆(磯風、浜風、雪風)二十一駆(初霜、朝霜、霞)四十一駆(冬月、涼月)の奮戦}}』
* {{Cite book|和書|author=橋本衛|year=2014|month=8|origyear=1984|title=特型駆逐艦「雷」海戦記 {{small|一砲術員の見た戦場の実相}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2255-4|ref=雷海戦記}}
* {{Cite book|和書|author=[[福田幸弘]]|year=1981|month=7|title=連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記|publisher=[[時事通信社]]|isbn=4-7887-8116-6|ref=サイパン・レイテ海戦記}}
* {{Cite book|和書|author=レオンス・ペイヤール著|coauthors=長塚隆二訳|title=潜水艦戦争 {{small|1939-1945}}|publisher=早川書房|year=1973|month=12|ISBN=|ref=潜水艦戦争}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1969|month=8|title=戦史叢書29 北東方面海軍作戦|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書29北東方面}}
* 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
* {{Cite book|和書|author=[[森田友幸]]|coauthors=|year=2000|month=3|title=25歳の艦長海戦記 {{small|駆逐艦「天津風」かく戦えり}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0953-0|ref=艦長海戦記}}

* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**Ref.{{Cite book|和書|author=C13071997700|title=昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護|ref=艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C13071998900|title=昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(下)原稿:巻3追録/第16類艦船|ref=艦艇類別等級表(昭和16年6月30日)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070099700|title=昭和11年達 完(1月)|ref=達昭和11年1月}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070100200|title=昭和11年達 完(6月)|ref=達昭和11年6月}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070100800|title=昭和11年達 完(10月)|ref=達昭和11年10月}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070164100|title=昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年7月分(2)|ref=内令昭和17年7月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070164200|title=昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年7月分(3)|ref=内令昭和17年7月分(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070164500|title=昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(2)|ref=内令昭和17年8月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070164700|title=昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(4)|ref=内令昭和17年8月(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070173100|title=昭和17年9月~12月 内令/昭和17年10月分(2)|ref=内令昭和17年10月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070176200|title=昭和18年1月~4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)|ref=内令昭和18年4月(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070177700|title=昭和18年5月~6月 内令2巻/内令昭和18年5月(6)|ref=内令昭和18年5月(6)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070179600|title=昭和18年7~8月 内令3巻/内令昭和18年8月(2)|ref=内令昭和18年8月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070179700|title=昭和18年7~8月 内令3巻/内令昭和18年8月(3)|ref=内令昭和18年8月(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070180400|title=昭和18年9月~10月 内令4巻/内令昭和18年9月(1)|ref=内令昭和18年9月(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070181500|title=昭和18年9~10月 内令4巻/内令昭和18年10月(5)|ref=内令昭和18年10月(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070194700|title=自昭和19年1月~至昭和19年7月 内令/昭和19年3月(1)|ref=内令昭和19年3月(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070196900|title=自昭和19年1月~7月 内令/昭和19年3月(5)|ref=内令昭和19年3月(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070195500|title=自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月|ref=内令昭和19年7月}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070496700|title=昭和19年8月〜9月 秘海軍公報/昭和19年9月(2)|ref=内令昭和19年9月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070497900|title=自昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/11月(3)|ref=秘海軍公報昭和19年11月(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070503600|title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)|ref=秘公報昭和20年1月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070503700|title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(3)|ref=秘海軍公報昭和20年1月(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070504300|title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報号外/3月(2)|ref=秘海軍公報昭和20年3月(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070504700|title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/4月(3)|ref=秘公報昭和20年4月(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C12070505000|title=自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/5月(3)|ref=秘公報昭和20年5月(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C14121165400|title=昭和16年度(1941年)帝国海軍戦時編制(案)昭和10年2月12日|ref=昭和16年度戦時編制案}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C14121175900|title=昭和19年度 帝国海軍戦時編制案 昭和13.10|ref=昭和19年度戦時編制案}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C14120970200|title=支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊潜水隊水雷隊掃海隊 海軍武功調査/18駆機密第17号の38 第18駆逐隊支那事変第8回功績概見表|ref=支那事変第8回功績(18駆)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C14120979800|title=支那事変 第9回功績概見表綴/支那事変第9回功績概見表/9駆機密第17号の5 第18駆逐隊支那事変第9回功績概見表|ref=支那事変第9回功績(18駆)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C14120988600|title=支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/18駆機密第4号の46 第18駆逐隊支那事変第10回功績概見表|ref=支那事変第10回功績(18駆)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030019100|title=昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌AL作戦(2)|ref=第五艦隊日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030079500|title=昭和17年1月1日~昭和17年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=昭和17年1月~1水戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030019100|title=昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌AL作戦(2)|ref=第五艦隊日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030081500|title=昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1705一水戦日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030081600|title=昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1705一水戦日誌(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030082000|title=昭和17年8月1日~昭和17年10月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=S1708一水戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030094400|title=昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1703二水戦日誌(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030094500|title=昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1703二水戦日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030094600|title=昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1703二水戦日誌(5)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030094900|title=昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1705二水戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030095000|title=昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1705二水戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030095100|title=昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1705二水戦日誌(3)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030095200|title=昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1705二水戦日誌(4)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030040100|title=昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=あ号作戦日誌(4)}} 表題は『あ号作戦』だが昭和17年6月二水戦日誌収録。
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030354600|title=昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌|ref=S1708舞鎮日誌}}
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[木村昌福]]
* [[多号作戦]]
* [[礼号作戦]]
* [[北号作戦]]
* [[坊ノ岬沖海戦]]


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{{朝潮型駆逐艦}}

2016年1月18日 (月) 14:40時点における版

艦歴
計画 マル2計画
起工 1936年12月1日
進水 1937年11月18日
就役 1939年6月28日
その後 1945年4月7日戦没
除籍 1945年5月10日
性能諸元
排水量 基準:約2,000t、公試:2,400t
全長 118.00m
全幅 10.386m
吃水 3.71m(平均)
機関 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸
ロ号艦本式重油専焼缶3基
51,000hp
最大速力 34.85kt
航続距離 18ktで5,190浬
燃料 重油580t
乗員 230名(1943年7月時点、244名)[1]
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 Ⅱ×2
(または13mm機銃 Ⅱ×2)
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九〇式魚雷16本)
九一式爆雷×36

(かすみ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[2]一等駆逐艦朝潮型の9番艦である[3]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては暁型駆逐艦「霞」に続いて2隻目。

艦歴

太平洋戦争まで

1935年(昭和10年)2月に軍令部が制作した昭和16年度戦時編制案に、朝潮型駆逐艦[4]、朝雲型駆逐艦[4]、霞型駆逐艦が表記される[5]1936年(昭和11年)1月20日、日本海軍(海軍大臣大角岑生大将)は、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦1隻を「朝雲(アサグモ)」と命名した[6]。 6月19日、日本海軍(海軍大臣永野修身大将)は「朝雲」を「」と改名した[2]。 10月22日、日本海軍は改めて神戸川崎造船所で建造する朝潮型5番艦を「朝雲」、藤永田造船所で建造予定の6番艦を「山雲」と命名している[7]。 「霞」は浦賀船渠1936年(昭和11年)12月1日に起工[8]1937年(昭和12年)11月18日に進水[8][9]

1938年(昭和13年)6月28日、浦賀船渠で陽炎型駆逐艦2番艦「不知火」が進水[10]。浦賀船渠は「霞」と「不知火」の建造を並行して進めることになった。 12月15日、日本海軍は神風型駆逐艦「松風」や吹雪型駆逐艦「」艦長等を歴任した白浜政七中佐を霞艤装員長に任命[11]。浦賀船渠工場内に霞艤装員事務所を設置する[12]

1939年(昭和14年)4月15日、「霞」より遅れて建造が始まった同型艦「霰(アラレ)」が舞鶴海軍工廠で竣工(進水も霞より2日早い)[13]。6月下旬、霞艤装員事務所を撤去[14]。 「霞」は6月28日に竣工した[8]。白浜艤装員長も制式に霞初代駆逐艦長となる[15]。水雷長は平山敏夫大尉[15](後日、平山は駆逐艦「波風」艦長[16]睦月型駆逐艦6番艦「水無月」艦長[17]夕雲型駆逐艦17番艦「早霜」艦長、秋月型駆逐艦3番艦「涼月」艦長等を歴任)。

「霞」の竣工と共に、日本海軍は第18駆逐隊を編制した[18]。当事の日本海軍は旧式化した川内型軽巡洋艦(神通、那珂)を睦月型駆逐艦吹雪型駆逐艦の水雷戦隊旗艦に転用し、第一水雷戦隊・第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第四水雷戦隊を阿賀野型軽巡洋艦陽炎型駆逐艦夕雲型駆逐艦を主力として再編する計画を立てている[19]。第18駆逐隊(霞、霰)は第三水雷戦隊配備予定、陽炎型3隻(陽炎、不知火、野分)は第二水雷戦隊配備予定である[19]。 7月10日、第18駆逐隊司令として久宗米次郎大佐が着任[20]。本艦は一時18駆司令駆逐艦となるも、9月2日より「霰」に変更された[21]。 同年11月6日、陽炎型1番艦「陽炎」が竣工し、第18駆逐隊(霞、霰)に編入される。

11月1日、平山(霞水雷長)は第四防備隊附となり、後任の霞水雷長は吹雪型駆逐艦「朝霧」水雷長橋口百治中尉に決まる[22]。(平山は少佐進級後、翌年1月15日附で上海港湾部部員[23]、10月より「波風」駆逐艦長[16])。 11月15日、白浜(霞艦長)は吹雪型「狭霧」駆逐艦長への転任を命じられる(後日、白浜は陽炎型12番艦「磯風」駆逐艦長[24]、第27駆逐隊司令等を歴任。白露型駆逐艦5番艦「春雨」沈没時に戦死)[25]。それまで狭霧艦長だった磯久研磨中佐が、後任の霞駆逐艦長となる[25]。 同日附で、第18駆逐隊は第二艦隊第二水雷戦隊に編入された[18]。同時に第二水雷戦隊司令官は後藤英次少将から五藤存知少将に交代[26]。第二水雷戦隊旗艦も川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」から川内型軽巡2番艦「神通」に変更される[27]。 また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦「川内」艦長へ転任[28]。新司令として佐藤寅治郎大佐が着任した[26]。 12月5日、伊崎俊二大佐(重巡洋艦「最上」艦長、軽巡「神通」艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、特務艦「知床」特務艦長木村昌福大佐が神通艦長[29]に任命される(後日、伊崎は第二水雷戦隊司令官としてコロンバンガラ島沖海戦における「神通」沈没時に戦死)。 12月20日、陽炎型2番艦「不知火」が竣工して第18駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた[18]

1940年(昭和15年)10月15日、木村昌福(神通艦長)は重巡洋艦「鈴谷」艦長へ転任(後任の神通艦長は河西虎三大佐)[30]。 11月15日、霞駆逐艦長は、磯久中佐から吹雪型駆逐艦「」や「白雪」艦長[31]等を歴任した戸村清中佐に交代する(磯久は翌年2月25日より陽炎型12番艦「磯風」艦長[32]。第4駆逐隊司令として陽炎型18番艦「舞風」沈没時に戦死)[24]。 12月7日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から荒木傳大佐に交代[33]、佐藤大佐は翌年3月31日より第4駆逐隊初代司令となる(後日、佐藤は軽巡「神通」艦長。同艦沈没時に伊崎俊二少将と共に戦死)[34]

1941年(昭和16年)9月1日、荒木(18駆司令)は軽巡洋艦「北上」艦長へ転任[35]。新司令として、駆逐艦「初霜」艦長等を歴任した宮坂義登大佐(前職、第30駆逐隊司令)が着任した[36]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)司令官へ転出(サボ島沖海戦で「青葉」大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった[37]。 第18駆逐隊司令駆逐艦は臨時移動以外「霰」に指定されていたが、9月29日より「不知火」に変更される[38]

太平洋戦争緒戦

太平洋戦争開戦時の第18駆逐隊(駆逐隊司令 宮坂大佐)は朝潮型2隻()、陽炎型駆逐艦2隻(陽炎不知火)で編制されていた[18]。18駆が所属する第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)は軽巡洋艦「神通」を旗艦とし、第8駆逐隊(朝潮大潮満潮荒潮)、第15駆逐隊(黒潮親潮早潮夏潮)、第16駆逐隊(雪風時津風初風天津風)、第18駆逐隊という戦力である。 だが第8駆逐隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦:重巡洋艦「愛宕」)直率の南方部隊本隊に編入されている。第18駆逐隊も第二水雷戦隊の指揮下を離れ、南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将)警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官:旗艦「阿武隈」)に編入[39]。第17駆逐隊(谷風浦風浜風磯風)および陽炎型19番艦「秋雲」と行動を共にする。

1941年(昭和16年)11月26日、南雲機動部隊警戒隊は空母6隻(第一航空戦隊《赤城加賀》、第二航空戦隊《蒼龍飛龍》、第五航空戦隊《翔鶴瑞鶴》)の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した[18]

1942年(昭和17年)1月8日、を出港してトラック泊地へ進出[18]。機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第二航空戦隊ポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った[40]。同時期、空母直衛を担う第十戦隊(旗艦「長良」、第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》)の新編により、第18駆逐隊は本来の所属である第二水雷戦隊指揮下に戻った[41]。 5月下旬にサイパンに進出[18][42][43]。6月のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した。 6月8日、18駆は第七戦隊(司令官栗田健男少将)の指揮下に入る[44]。6月14日に第七戦隊を護衛してトラックに帰投。大破した重巡「最上」を同地に残し、6月23日、第18駆逐隊は第七戦隊の重巡2隻(熊野鈴谷)を護衛して呉に帰投した[45]

この後、第18駆逐隊は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将:旗艦「那智」)の指揮下に入った[46]。6月23日、大本営アッツ島およびキスカ島の長期確保を指示し、連合艦隊および北方部隊は兵力増強のため輸送部隊(千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制[47]。6月28日、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)は横須賀から水上機母艦「千代田」と輸送船「あるぜんちな丸」(後日、空母「海鷹」となる)の護衛としてキスカ島(鳴神島)に向かった[48][45]。「陽炎」は、6月23日に東京湾沖合で駆逐艦「山風」を撃沈した米潜水艦(ノーチラス)掃討のため、しばらく分離行動をとる[45][49]

北方での被害

7月5日未明、「千代田」と「あるぜんちな丸」はキスカ島キスカ湾に入港した[50]。第18駆逐隊3隻(不知火〔司令駆逐艦〕、霞、霰)はキスカ島沖で濃霧のため仮泊中、ハワード・W・ギルモア艦長が指揮する米潜水艦「グロウラー」(USS Growler, SS-215)に襲撃された[51][52]。 「霰」は轟沈、「不知火」と「霞」も大破した[50][53]。「霞」への命中位置は、一番砲塔前下部[54][55]。 また同日には第21駆逐隊の初春型駆逐艦子日」も米潜水艦「トライトン」 (USS Triton, SS-201)に撃沈されている[56][57][52]

わずか1日で駆逐艦2隻(霰、子日)喪失、2隻(霞、不知火)大破という事態に、宇垣纏連合艦隊参謀長(戦艦「大和」座乗)は各方面に苦言を呈することになった[58]。 18駆司令宮坂義登大佐(兵47期)は、乗員の疲労を考えて転錨を遅らせたこと、霧のため予想より沖合に停泊してしまったこと、米潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、などが大被害の要因になったと回想している[50]。また第五艦隊参謀長中澤佑大佐は、南方からきて疲労していた第18駆逐隊が北方地域の日の出の時刻を勘違いしていたのでは…と推測している[59]。 米潜水艦の活発な行動に危機感を覚えた北方部隊(第五艦隊)は、米軍機動部隊が出現しないこともあり、空母機動部隊以下増援部隊各艦を内地に帰投させた[60]

7月14日附で宮坂大佐は第18駆逐隊司令職[61]を解かれた(7月28日附で呉鎮守府附)[62]。翌1943年(昭和18年)3月20日、宮坂は阿部弘毅少将(第三次ソロモン海戦時、第十一戦隊司令官)、西田正雄大佐(戦艦「比叡」沈没時艦長)達と共に予備役へ編入、即日召集された[63]

駆逐隊司令不在となった第18駆逐隊(不知火、霞)は、「日産丸」の残骸を楯として応急修理を続ける[64]。 7月19日、「陽炎」は「菊川丸」を護衛してキスカへ進出[49][65]。大破した「霞」と「不知火」に遭遇した[66]。 7月20日、18駆唯一の健在艦となった「陽炎」は、南方作戦で姉妹艦「夏潮」を喪失し3隻編制(黒潮親潮早潮)になっていた第15駆逐隊に編入される[67][49]。残存した2隻(霞、不知火)は同日附で第五艦隊附属となる[68][49]。 現地では「霞」と「不知火」の応急修理を行うが対処しきれず、就役したばかりの夕雲型駆逐艦4番艦「長波」が救難資材と工員を乗せて横須賀を出発、7月27日にキスカ島へ進出した[69]

前日に引き続き[70]、曳航可能な状態までに応急修理をおこなった「霞」は、駆逐艦「」に曳航され、「陽炎」護衛の元で27日午後にキスカ島を出発した[71][72]。だが悪天候のため「霞」の曳航は難航する[73]。さらに「雷」の燃料消費量は予想外に多く[74][75]、燃料切れの懸念が高くなる[76]。 8月3日、3隻(霞、雷、陽炎)は幌筵島片岡湾に到着する[77][78]。同地で「霞」曳航任務は駆逐艦「」に変更され、「雷」は横須賀へ帰投[77]。また「陽炎」も横須賀に向かった。 8月5日、「霞」は「電」に曳航されて幌筵を出発、9日に北海道中西部石狩湾に入港した[77][79]。「電」は北方戦線に戻るよう命令されていたため、石狩湾で「霞」曳航任務をタンカー「富士山丸」に引き継いだ[77][80]。10日、「富士山丸」は「霞」を曳航して石狩湾を出発する[77]。一方の「電」は「不知火」曳航のためキスカ島へ向かった[77]

舞鶴での修理

8月13日、「霞」は舞鶴港に到着[81][77]バリ島沖海戦で損傷した朝潮型2番艦「大潮」やクリスマス島攻略作戦で大破した川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」等と共に、舞鶴海軍工廠で修理に着手する[81]。舞鶴工廠では、秋月型駆逐艦4番艦「初月」、島風型駆逐艦「島風」、夕雲型駆逐艦5番艦「巻波」(8月18日完成)等の建造も並行して行われていた[82]。 8月15日、第18駆逐隊は解隊[83]。2隻は呉鎮守府予備艦となる。第18駆逐隊の残務整理は呉海兵団で行われた[84]。 8月20日、朝潮型3番艦「満潮」艦長小倉正味中佐が夕雲型駆逐艦6番艦「高波」艤装員長(のち、高波初代駆逐艦長。ルンガ沖夜戦で高波沈没時に戦死)に任命された事にともない、戸村(霞艦長)は満潮駆逐艦長を命じられる[85]。舞鶴防備隊司令・駆逐艦「大潮」艦長・軽巡「那珂」副長を兼務していた友重丙中佐が霞駆逐艦長を兼務することになった[85]。 8月31日、2隻(霞、不知火)は特別役務駆逐艦に指定された[86]

9月3日、グロウラーの雷撃で「霞」と共に大破した陽炎型2番艦「不知火」が、「神津丸」に曳航されて舞鶴に到着[87][77]。9月10日附で、大潮駆逐艦長および霞駆逐艦長職務は友重中佐から杉岡幸七中佐(陽炎型12番艦「磯風」初代駆逐艦長。吹雪型駆逐艦「狭霧」沈没時艦長)に交代[88]。また同日附で不知火駆逐艦長赤澤次壽雄中佐は秋月型3番艦「涼月」艤装員長へ転出したため、杉岡中佐は不知火駆逐艦長も兼務、大潮・霞・不知火駆逐艦長となった[88]

10月15日、2隻(霞、不知火)は第四予備艦に指定され[89]、修理に従事する[90]。この際、燃料加熱装置の試験艦として同装置を搭載している[91]

11月6日、北方戦線で空襲を受け大破した初春型駆逐艦1番艦「初春」が到着[92]。同時期の舞鶴海軍工廠は、「霞」以下損傷艦艇の修理と、「島風」、「初月」、夕雲型駆逐艦複数隻(早波《7月31日竣工》、浜波《10月15日竣工》、沖波《12月10日竣工》)の建造に追われていた[92]。 11月15日附で杉岡中佐は陽炎型16番艦「」駆逐艦長を命じられる(杉岡はベラ湾夜戦で「嵐」沈没時に戦死)[93]。10月17日に沈没した吹雪型駆逐艦「」の駆逐艦長山名寛雄少佐が、駆逐艦4隻(大潮・霞・不知火・初春)の艦長を兼務することになった[94]

12月20日、睦月型2番艦「弥生」や白露型5番艦「春雨」艦長を歴任した廣瀬弘中佐が大潮駆逐艦長に任命され、山名少佐の艦長兼務は駆逐艦3隻(霞、不知火、初春)となった[95]。また同日附で平山敏夫少佐(霞初代水雷長)は吹雪型駆逐艦「白雲」艦長と夕雲型駆逐艦7番艦「大波」艤装員長の兼務をとかれ、白露型4番艦「夕立」沈没時艦長吉川潔中佐が大波艤装員長を命じられた[95]。 12月27日、「那珂」や「霞、不知火、初春」に先駆けて「大潮」の修理が終わる[96]。12月29日、「大潮」は舞鶴を離れた[97]

1943年(昭和18年)1月7日、舞鶴工廠で建造中だった秋月型駆逐艦4番艦「初月」が竣工し、舞鶴を離れる[98][99]。 1月19日、軽巡「龍田」が舞鶴工廠に到着、修理に入る[100]。 1月20日には夕雲型17番艦「早霜」が舞鶴海軍工廠で起工[101]。 2月21日、ソロモン諸島で行動中の朝潮型姉妹艦「大潮」が米潜水艦アルバコアの雷撃で沈没。廣瀬(大潮艦長)は舞鶴に戻ると、島風型駆逐艦「島風」初代艦長(3月20日附で艤装員長[102]、5月10日附で駆逐艦長[103])となった。 「霞」の修理は続いた[104]。 3月31日、「霞」に先駆けて「那珂」の修理が終わる(4月5日、舞鶴を出発)[105][106]

4月1日、前月のビスマルク海海戦で朝潮型1番艦「朝潮」と4番艦「荒潮」が沈没したことに伴い、朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』と改訂される[107]。 同時期、北方戦線に従事する軽巡「阿武隈」と「多摩」がそれぞれ舞鶴に到着(阿武隈4月17日着、多摩5月4日着)、修理に入る[108][109]。 4月24日、ガダルカナル島撤退作戦で損傷した「巻波」が舞鶴に到着、「霞」と共に修理に従事する[110]。 5月8日、舞鶴工廠では「霞」の修理と並行して、秋月型8番艦「冬月(第361号艦)」の建造が始まる[111][112]。 5月10日、新鋭駆逐艦「島風」が竣工[113][114]。 5月15日、駆逐艦「芙蓉」乗組の森田友幸中尉は霞水雷長を命じられる[115][116]。 同時期、米軍はアッツ島に上陸。アッツ島の戦いが勃発したため、舞鶴で整備中の第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」と「多摩」は急遽修理を終わらせて出撃した[117][118][119]。 5月20日、「霞」(第四予備駆逐艦)は第一予備駆逐艦となる[120]。同日附で夕雲型5番艦「巻波」駆逐艦長人見豊治中佐は、巻波艦長に加えて不知火・初春艦長の兼務を命じられ、山名(霞艦長)は兼務職を解かれた[121]

6月1日、米潜水艦トートグの雷撃で大破した軽巡「名取」が舞鶴に到着、修理に入る[91]。夕雲型4番艦「長波」は6月5日舞鶴に到着、23日に修理を終えて出撃した[122]。6月30日、「霞」の修理完了[91]

第十一水雷戦隊

1943年(昭和18年)6月30日、「霞」は新造艦の訓練・練成を主任務とする第十一水雷戦隊(司令官木村進少将)に編入される[123][124]。当事の第十一水雷戦隊は、軽巡「龍田」以下第6駆逐隊(、電、雷)、夕雲型9番艦「玉波」と秋月型6番艦「若月」、「島風」および「霞」で編成されていた[125][126]

7月4日、修理中に搭載した重油加熱装置の実験を実施するため、舞鶴工廠関係者を乗せて「霞」は舞鶴を出発[127][128]樺太敷香)に向かう[129]。12日に舞鶴帰着[130][131]。加熱装置の実験は成功した[128]。 7月18日、舞鶴を出発[132][133]。内海西部回航後、旗艦「龍田」と僚艦「若月」に合流して訓練を行う[134]。だが「長波」や「島風」が参加したキスカ島撤退作戦には間に合わなかった。

7月下旬、大和型戦艦1番艦「大和」が電探(レーダー)射撃訓練を実施することになる[135]。第十一水雷戦隊(龍田、若月、霞)も「大和」の電探公試に協力した[136]。7月29日、「霞」は「大和」の曳的艦となるが、途中で曳索が切れる事態となった[137][138]。 同日、第十一水雷戦隊旗艦は「龍田」から新造艦の阿賀野型軽巡洋艦2番艦「能代」に変更される(31日まで)[137]。十一水戦(能代、龍田、若月、霞)は共同で訓練を行った[137]。また31日には夕雲型駆逐艦新造艦2隻(藤波、早波)が第十一水雷戦隊に加わった[137]

8月に入ると、第十一水雷戦隊の所属艦や旗艦が度々かわる[139][140]。 「霞」は引き続き瀬戸内海にあって訓練に従事[139]。キスカ島撤退作戦を終えた「島風」も呉に帰投している[141][142]。 8月15日、「若月」は第61駆逐隊に編入[143]。 8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和長門扶桑》、空母《大鷹[144] 、巡洋艦3隻《愛宕高雄能代》、駆逐艦部隊《涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風》)は呉を出撃し、トラックへ向かう[145][146]。 十一水戦の駆逐艦4隻(早波、凉波、藤波、霞)は、主力艦部隊の内地出撃を途中まで護衛した[147][148]。翌日、十一水戦旗艦は「響」に変更[149]

8月20日附で、日本海軍は中原義一郎大佐を駆逐隊司令とする第32駆逐隊(早波涼波藤波)を編制した[150][151]。また満潮型姉妹艦「山雲」が十一水戦に編入される[152]。同日、「霞」は「響」等と対空訓練を実施したのち、呉に回航された[153][139]。 呉で出撃準備中の8月26日、第十一水雷戦隊旗艦は扶桑型戦艦2番艦「山城」に一時変更(9月1日より響)[154][155]。27日、5隻(山城、響、早波、凉波、藤波)に内海西部へ到着した[156]

太平洋戦争終盤

第十一水雷戦隊で訓練中の8月16日、「霞」の第9駆逐隊編入と北方戦線投入が内示され、準備に入る[157]。 8月18日、第9駆逐隊司令は小西要人大佐(小西は8月28日より軽巡「阿武隈」艦長)から空母「雲鷹」副長井上良雄大佐に交代する[158][159]。井上大佐は白露型10番艦「涼風」初代艦長、陽炎型17番艦「萩風」初代艦長等を歴任していた。 9月1日、「霞」は第9駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(朝雲薄雲白雲)を揃える[160][161]。「朝雲」は満潮型駆逐艦だが、「薄雲、白雲」は初雪型駆逐艦である。 9月2日、「霞」は呉を出発[162]。重巡「那智」(第五艦隊旗艦)を護衛して幌筵島に進出[163]第五艦隊・第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将、旗艦「阿武隈」)に所属して、北千島方面で船団護衛に従事した[164][163]

10月29日、第9駆逐隊司令駆逐艦は「朝雲」から「霞」に変更される[165][166]。 10月31日、「朝雲」は夕雲型駆逐艦1番艦「夕雲」(第二次ベララベラ海戦で沈没)、同型2番艦「巻雲」(ケ号作戦で沈没)を喪失して駆逐艦2隻(秋雲風雲)になっていた第10駆逐隊に編入され、第9駆逐隊は3隻編制(薄雲、白雲、霞)となった[167][168]。 11月下旬から内南洋部隊の指揮下に入り[169]、12月3日横須賀を出発[170]マーシャル諸島ルオット島へ物資輸送を行った[171][172]。12月15日トラック泊地着[173]。 本艦はラバウル空襲で損傷した重巡洋艦「最上」を護衛して内地に帰投[174]。同任務終了後の12月22日、「霞」は舞鶴に到着する[175][176]レーダーの装備や対空機銃の増備を実施した[177]

1944年(昭和19年)1月18日、「霞」は整備・修理を終えて舞鶴を出撃する[178][179]。 3月1日、第九艦隊より不知火型(陽炎型)駆逐艦「不知火」を第9駆逐隊に編入[180]。定数4隻(霞、不知火、薄雲、白雲)となる。だが3月16日、釧路から千島へ向かう船団を護衛中に米潜水艦トートグ (USS Tautog, SS-199)に 襲撃され、「白雲」は「霞」の目前で轟沈した[181]。 3月31日、第9駆逐隊は解隊[182]。3隻(薄雲、霞、不知火)は再編成された第18駆逐隊に所属する[182][183]。第9駆逐隊司令井上良雄大佐はそのまま第18駆逐隊司令となり、井上は「不知火」を司令駆逐艦に指定した[183]。同隊は引続き第一水雷戦隊として行動する。その後さらに硫黄島父島への輸送に当たった[18]

6月中旬、マリアナ方面の戦いがはじまったことに伴い、第五艦隊各艦は横須賀に帰投。扶桑型戦艦山城」と共にサイパン島へ突入する準備を行うが、マリアナ沖海戦の惨敗や、サイパン地上戦の情勢に鑑み、作戦は中止された。第一水雷戦隊各艦は北方へ戻る。 7月7日、小樽から北千島へ向かう船団を護衛中していた駆逐艦3隻(潮、曙、薄雲)は米潜水艦スケート (USS Skate, SS-305)に襲撃され、被雷した「薄雲」は轟沈した[184]。「薄雲」は9月10日附で第18駆逐隊より除籍され、18駆は2隻(不知火、霞)となった[185]

10月15日、第18駆逐隊は呉を出撃[18]。 10月下旬のレイテ沖海戦では、第五艦隊司令長官志摩清英中将が指揮する第二遊撃部隊(重巡2隻《那智足柄》、軽巡《阿武隈》、第18駆逐隊《不知火》、第7駆逐隊《》、第21駆逐隊《若葉初春初霜》)としてレイテ湾に突入する計画であった[186]。だが志摩艦隊(第二遊撃部隊)の行動について、連合艦隊や第二艦隊(司令長官栗田健男中将)の意志は統一されなかった[187]。さらに輸送任務のため、第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)は志摩艦隊本隊とは別行動をとる[188]

10月25日、志摩艦隊(第二遊撃部隊)はスリガオ海峡に突入したが、先行した西村艦隊(山城、扶桑、最上、時雨、満潮、朝雲、山雲)は米艦隊の迎撃により壊滅、「最上、時雨」のみ退避した[189]。後続していた志摩艦隊は、まず「阿武隈」が「潮」を誤射、つづいて「阿武隈」が被雷して落伍、「那智」と「最上」が衝突[186]。志摩長官は反転を決断し、志摩艦隊は退避行動にうつる[190]。「最上」は「曙」に雷撃処分[191]。木村(第一水雷戦隊司令官)は旗艦を「阿武隈」から「霞」に変更[192][193]。なお山名(霞艦長)は阿武隈水雷長や足柄水雷長を務めたことがある[194]。健在の志摩艦隊から分離した「阿武隈」と護衛の「潮」は応急修理を実施しつつ退避したが、27日の空襲で沈没した(阿武隈乗組員は潮に救助)[195]

志摩艦隊各艦はマニラに帰投。別行動を取っていた第21駆逐隊(若葉初春初霜)も空襲により「若葉」を喪失、「初霜」損傷という被害を受けた[196]。10月27日、空襲を受けた第十六戦隊(鬼怒浦波)を救援するため「不知火」は単艦で出撃[18]。「鬼怒」沈没を受けて引き返すも、セミララ島で座礁した夕雲型駆逐艦「早霜」(艦長平山敏夫中佐)救援中に空襲を受け撃沈された[197][198]。第18駆逐隊司令井上良雄大佐および不知火乗組員は総員戦死した。

日本海軍はレイテ湾海戦で大損害を受けたが、日本軍は戦局有利とみて陸軍兵力をルソン島からレイテ島へ移動することにした(多号作戦[199]。第五艦隊(志摩艦隊)や第二艦隊(栗田艦隊)の残存駆逐艦もこの任務に投入される。10月31日から11月1日にかけての第二次作戦(第二次輸送部隊 指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、沖波、曙、潮、初春、初霜》、海防艦4隻、輸送船4隻)に参加、輸送船「能登丸」が沈没したが、輸送作戦は成功した[199]。 本作戦中の11月5日、マニラ湾大空襲により第五艦隊旗艦の重巡「那智」が沈没[200][201]。「霞」以下第一水雷戦隊各艦は那智乗組員救助に従事した[202]。 「那智」を掩護していた「曙」も大破炎上[203]。「霞、初春、初霜、潮」は救援活動に従事する[204][205]

11月8日から9日にかけて、第四次作戦(指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、秋霜、潮、朝霜長波若月》、海防艦4隻、輸送船3隻)に参加[206]。空襲で輸送船2隻(高津丸、香椎丸)・海防艦1隻を撃沈され、また揚陸地点での混乱により重火器や弾薬を一部揚陸したにとどまった[206]。帰路についた第四次輸送部隊は、オルモック湾へむかう第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官:旗艦「島風」)と合同[207]。第四次輸送隊の駆逐艦3隻(若月、長波、朝霜)と、第三次輸送隊の2隻(初春、竹)を入れ替えた[207]。「霞、秋霜、潮、初春、竹」は無事にマニラ湾へ帰投。11月11日、第三次輸送部隊は米軍機のべ347機に襲撃され、早川司令官は戦死、駆逐艦4隻(島風、長波、若月、浜波)・掃海艇1隻・輸送船4隻も全滅[207]。生還したのは「朝霜」だけだった[207]

11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊(空母《隼鷹》、重巡《利根》、第30駆逐隊《卯月夕月》)は同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離、代艦としてスリガオ海峡夜戦から生還した駆逐艦「時雨」を編入し、内地へ帰投する[208]。「木曾」と秋月型駆逐艦「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された[209]。 11月13日、マニラ湾は再び空襲をうけ「潮」は至近弾により浸水[210]、ほかに軽巡「木曾」[203]、駆逐艦4隻(曙、沖波、秋霜、初春)は沈没もしくは大破着底状態となる[211][212][213]。 志摩司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内伝七中将)に強く進言[203]。 同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮《左舷一軸運転》、竹)は第五艦隊司令部を便乗させ、マニラを脱出した[214][203]

11月15日附で第18駆逐隊は解隊され、「霞」は第7駆逐隊(司令岩上次一大佐。岩上は陽炎型2隻《萩風浦風》艦長等を歴任)に編入、同隊は3隻編制(霞、潮《損傷》、曙《沈没》)となる[215]

礼号作戦

島風沈没と早川幹夫第二水雷戦隊司令官戦死により11月20日附で第一水雷戦隊は解隊され、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命された[216][217]。また第一水雷戦隊参謀達も、それぞれ二水戦参謀に任命される[218]。水雷対潜運用担当の廣瀬弘大佐は、島風初代艦長である[219]。書類上の二水戦旗艦は阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」だったが、同艦および第17駆逐隊は第一遊撃部隊(大和、長門、金剛)を護衛して11月16日にブルネーを出発[220]。途中、2隻(金剛浦風)が米潜水艦シーライオンⅡに撃沈される[221]。その後は内地にあって別行動であり[222]、木村司令官が「矢矧」に座乗することはなかった。 11月22日時点の第二遊撃部隊戦力は、「足柄」(第五艦隊旗艦)、第四航空戦隊日向伊勢)、第五戦隊(羽黒 )、軽巡「大淀」、第二水雷戦隊(霞/旗艦、潮、朝霜、初霜、霜月《11月25日沈没》、岸波《12月4日沈没》、清霜/昭南にて修理中)であった[223]

11月28日、シンガポールで第二水雷戦隊旗艦は「霞」から「潮」に変更[224]。また第7駆逐隊司令駆逐艦を「潮」から「霞」に変更[224]。駆逐艦2隻(霞、初霜)は座礁により大破していた金剛型戦艦3番艦「榛名[225]を護衛してリンガ泊地を出発、台湾馬公市まで護衛した[226][224]。 12月5日、3隻(榛名、霞、初霜)は馬公到着。前月29日附で第7駆逐隊司令職をとかれ第52駆逐隊司令への転任を命じられていた岩上次一大佐は馬公で「霞」を降り、後任者着任まで山名(霞艦長)が第7駆逐隊司令を兼務する[227][228]。 「榛名」護衛任務終了後の2隻(霞、初霜)は船団護衛命令を受けて台湾高雄市へ向かったが[229]、戦局逼迫により護衛任務は中止[230][231]。10日ベトナムカムラン湾[232]。13日に「朝霜」等と合流、翌日ベトナムカムラン湾に到着し、木村司令官は第二水雷戦隊旗艦を「朝霜」から「大淀」に変更した[233][234]

12月12日、応急修理を終えた「潮」は重巡「妙高」(レイテ沖海戦で被雷、大破)を護衛し、シンガポールから内地に向け出発する[235]。 12月13日夜、2隻はマレー半島北東タイランド湾にて米潜水艦バーゴール (USS Bergall, SS-320) と遭遇する[236]。魚雷1本が命中した「妙高」は大破[237]。「潮」では妙高曳航は不可能であり、命令により単艦で先行したのちヒ82船団を護衛して内地に帰投した[238][235]。 12月17日朝、二水戦2隻(初霜、霞)は油槽船「日栄丸」を護衛してカムラン湾を出発、同船分離後は「妙高」に合流[239]。「霞」は曳航を試みるが、曳索切断により失敗した[240][241]。20日、礼号作戦の発動により「霞」は第二遊撃部隊本隊への復帰を命じられ[241]、22日カムラン湾着[242]。「妙高」は第五戦隊(羽黒)に曳航され、「初霜」と海防艦「千振」護衛下でシンガポールにむかった(12月25日昭南着)[241][243]。「妙高」被雷と護衛のため、「羽黒」と「初霜」は礼号作戦に参加できなかった[244]

木村少将は二水戦旗艦を「霞」・「大淀」[245]・「潮」[224]・「清霜」[246]・「朝霜」[247]、12月16日からは「大淀」に置いていたが(前述)、ミンドロ島攻撃(礼号作戦)においては「霞」を旗艦とした[248]。また第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「足柄」を挺身部隊(指揮官木村昌福第二水雷戦隊司令官)に編入し、遊撃部隊旗艦を「日向」に変更[249][250]。 木村少将は挺身部隊(重巡1隻《足柄》、軽巡1隻《大淀》、駆逐艦6隻《霞〔木村少将座乗、挺身部隊旗艦〕、清霜朝霜》)を率いて出撃、夜間空襲で「清霜」を喪失する[251]。「霞」は魚雷4本を発射、機銃掃射により戦死者5名を出した[251]。砲雷撃終了後、「霞」は清霜乗組員を救助して戦場を離脱[251]。米軍に与えた被害は限定的だった[251]。12月28日夕刻、礼号作戦部隊はカムラン湾に帰着し、第二水雷戦隊旗艦は「大淀」に戻った[252]。サンジャック移動後、第二遊撃部隊(日向、伊勢、足柄、大淀、朝霜、霞)はリンガ泊地またはシンガポールへ向かった[253]

1945年(昭和20年)1月1日、第二遊撃部隊(足柄、大淀、霞、朝霜)はシンガポールに到着し、「霞」はセレター軍港に入港[254][255][256]。木村司令官は「霞」に将旗を掲げた[257]。 1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村少将から古村啓蔵少将へ交代(着任・退任1月4日)[258][259][260]。 1月7日、戦線復帰以後の霞水雷長として勤務した森田友幸大尉は、シンガポールで修理中の陽炎型9番艦「天津風」(前年1月16日に被雷、船体切断)水雷長を命じられ[261]、「霞」から「天津風」へ移動(2月10日より天津風駆逐艦長)[256][262]。それまでの天津風水雷長庄司豪夫大尉が、後任の霞水雷長となる[261]。 1月10日、「曙」の除籍により第7駆逐隊は2隻編制(霞、潮)となる[263]。「潮」はマニラ空襲の損傷により作戦行動不能のため、健在艦は「霞」1隻だった。 1月25日、駆逐艦「」の編入により、第7駆逐隊は3隻編制(霞、潮、響)となる[264]

2月上旬、本艦は北号作戦(指揮官松田千秋第四航空戦隊司令官)に参加する。第二水雷戦隊(霞、初霜、朝霜)は第四航空戦隊伊勢日向大淀)を護衛してシンガポールを出発[265]香港で第1駆逐隊(野風、神風)を編入し、2月20日に呉に帰投した[266]。 2月23日、二水戦旗艦は「霞」から「矢矧」に変更される[267][268]

坊ノ岬沖海戦

3月1日、山名寛雄(霞艦長)は秋月型8番艦「冬月」駆逐艦長へ転任[269]。後任の霞駆逐艦長は、松本正平少佐(睦月型駆逐艦12番艦「夕月」沈没時艦長)となる[269]。 3月10日、ヒ87船団護衛中に沈没した白露型駆逐艦2番艦「時雨」の代艦として「霞」は第21駆逐隊に編入され、同隊は3隻編制(初霜朝霜、霞)となる[270]。また霞初代水雷長だった平山敏夫中佐(早霜駆逐艦長)は同日附で秋月型3番艦「涼月」駆逐艦長となる[271]。 3月18日附で石井汞大佐は第21駆逐隊司令の職務を解かれ[272]、後任の司令には3月25日附で伊勢型戦艦1番艦「伊勢」副長小滝久雄大佐が任命された[273]。 3月27日、第21駆逐隊司令駆逐艦は「朝霜」となる[274]

4月上旬、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将指揮下の9隻(軽巡矢矧《二水戦旗艦》、第17駆逐隊《磯風、雪風、浜風》、第21駆逐隊《朝霜、霞、初霜》、第41駆逐隊《冬月、涼月》)は戦艦「大和」(第二艦隊司令長官伊藤整一中将)を護衛して天一号作戦に参加する。4月7日の対空戦闘前、「朝霜」(第21駆逐隊司令駆逐艦)が機関故障で落伍すると、「霞」は輪形陣右側に位置する[275]。米軍機動部隊艦載機との交戦開始後、13時27分に被弾[276]。直撃弾と至近弾により機関部に浸水、航行不能となる[275]。「大和」および「矢矧」沈没後の16時以降、「冬月」は「霞」に接舷[277]。霞乗組員を収容したのち、「霞」は「冬月」の雷撃により沈没した[278]。沈没時刻16時57分[275]。17名が戦死、43名が負傷、沈没地点北緯30度51分 東経127度57分 / 北緯30.850度 東経127.950度 / 30.850; 127.950[279]

4月20日、第二水雷戦隊は解隊。第21駆逐隊所属の「初霜」は、不知火型2隻(磯風浜風)を喪失して「雪風」単艦となっていた第17駆逐隊に編入される。 5月10日、「霞」および「朝霜」は除籍された[280]。また姉妹艦全隻を喪失した夕雲型駆逐艦満潮型(朝潮型)駆逐艦は艦艇類別等級表から削除された[281]。 第21駆逐隊も同日附で解隊[282]。第17駆逐隊に転籍した「初霜」も終戦直前に触雷して沈没[283]。第21駆逐隊に所属した駆逐艦(初春子日若葉、初霜、時雨、朝霜、霞)は太平洋戦争中に全隻喪失した。

歴代艦長

艤装員長
  1. 白濱政七 中佐:1938年12月15日[11] - 1939年6月28日[15]
駆逐艦長
  1. 白濱政七 中佐:1939年6月28日[15] - 1939年11月15日[25]
  2. 磯久研磨 中佐:1939年11月15日[25] - 1940年11月15日[24]
  3. 戸村清 中佐:1940年11月15日[24] - 1942年8月20日[85]
  4. (兼)友重丙 中佐:1942年8月20日[85] - 1942年9月10日[88](本職:舞鶴防備隊副長)
  5. (兼)杉岡幸七 中佐:1942年9月10日[88] - 1942年11月15日[93] (本職:大潮駆逐艦長)
  6. (兼)山名寛雄 少佐:1942年11月15日[94] - 1942年12月20日[95] (本職:大潮駆逐艦長)
  7. 山名寛雄 少佐/中佐:1942年12月20日[95] - 1943年5月20日(免兼職)[121] - 1945年3月1日[269]
  8. 松本正平 少佐:1945年3月1日[269] - 1945年4月15日[284]

参考文献

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    • 戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社、1983年。ISBN 4-7698-0207-2 
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  • 将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-138411-5 
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  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日~九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6 
  • 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0 
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    • 戦史研究家塚田享『強運の名に恥じぬ第七駆逐隊奮迅録 曙、漣、潮、朧。ラッキー・セブンのジンクスを守りぬいた栄光の戦歴
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    • Ref.C08030095100『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030095200『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
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    • Ref.C08030354700『昭和17年9月1日~昭和17年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
    • Ref.C08030354800『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 
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    • Ref.C08030103000『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030103100『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030103200『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 

脚注

  1. ^ #S1804十一水戦(2)p.28『(二)麾下総員数|霞|(士官)六|(特務士官)二|(准士官)六|(下士官)六九|(兵)一六一|(其ノ他)/|(計)二四四』
  2. ^ a b #達昭和11年6月p.12『達第八十號 昭和十一年度達第七號中浦賀船渠株式會社ニテ建造ノ驅逐艦朝雲 アサグモヲ驅逐艦霞 カスミニ改ム 昭和十一年六月十九日 海軍大臣 永野修身』
  3. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年6月30日)p.4『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|朝潮型|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』
  4. ^ a b #昭和16年度戦時編制案p.6『昭和十六年度(一九四一年)帝國海軍戰時編制(案)昭和十年二月十二日外戰部隊|GF|2F|2sd|新駆|(村雨型 海風型現特型8)(朝潮型) 朝雲型)』
  5. ^ #昭和16年度戦時編制案p.6『外戰部隊|GF|2F|4sd|新駆|(霞型2 新型6)(新型3)』
  6. ^ #達昭和11年1月p.9『達第七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十一年一月十日 海軍大臣男爵 大角岑生|浦賀船渠株式會社株式會社川崎造船所浦賀船渠株式會社 驅逐艦 朝雲アサグモ 霞カスミ』
  7. ^ #達昭和11年10月p.11『達第百六十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻工作艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十月二十二日 海軍大臣 永野修身|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝雲(アサグモ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 山雲(ヤマグモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 工作艦 明石(アカシ)』
  8. ^ a b c #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『霞|一等駆逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|11-12-1|12-11-18|14-6-28|(艦装備略)』
  9. ^ 昭和12年11月20日 海軍公報 第3202号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C12070364000 『○進水 軍艦千代田十一月十九日呉海軍工廠ニ於テ進水セリ/驅逐艦霞十一月十八日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ』
  10. ^ 昭和13年6月30日 海軍公報(部内限)第2948号 pp.27-28」 アジア歴史資料センター Ref.C12070373900 『○進水 驅逐艦不知火六月二十八日浦賀船渠株式會社ニ於テ進水セリ/敷設艇白神六月二十五日株式會社石川島造船所ニ於テ進水セリ/特務艦明石六月二十九日佐世保海軍工廠ニ於テ進水セリ』
  11. ^ a b 昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第273号 p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  12. ^ 昭和13年12月20日 海軍公報(部内限)第3091号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C12070376200 『○艤装員事務所設置 驅逐艦霞艤装員事務所ヲ浦賀船渠株式會社工場内ニ設置シ十二月十五日ヨリ事務ヲ開始セリ』
  13. ^ #艦船要目公表範囲(昭和16年6月30日)p.20『霰|一等駆逐艦|(艦要目略)|舞鶴工廠|12-3-5|12-11-16|14-4-15|(艦装備略)』
  14. ^ 自昭和12年1月至昭和20年4月 海軍公報目録/昭和14年目録(2)pp.15-16」 アジア歴史資料センター Ref.C12070383500 『海軍公報(部内限)目録(七月分)四|三二四九|(略)霞艤装員事務所撤去』
  15. ^ a b c d 昭和14年6月28日(発令6月28日付)海軍辞令公報(部内限)第351号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075900 
  16. ^ a b 昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  17. ^ 昭和16年9月20日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第716号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  18. ^ a b c d e f g h i j #陽炎型(2014)122頁『第十八駆逐隊(陽炎・不知火)』
  19. ^ a b #昭和19年度戦時編制案pp.4-6『昭和十九年度帝國海軍戦時編制案(GF)軍令部第一課』
  20. ^ 昭和14年7月11日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第356号 p.25」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076000 
  21. ^ 海軍公報(部内限) 昭和14年9月5日p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381100 『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ九月二日司令驅逐艦ヲ霞ヨリ霰ニ變更セリ』
  22. ^ 昭和14年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第397号 pp.11,17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600 
  23. ^ 昭和15年1月16日(発令1月15日付)海軍辞令公報(部内限)第430号 p.10」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077600 
  24. ^ a b c d 昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 pp.10-11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 
  25. ^ a b c d 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 pp.45-46」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  26. ^ a b 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.36」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  27. ^ 昭和14年11月15日 海軍公報(部内限)第3360号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381900 『○将旗移揚 第二水雷戰隊司令官ハ十一月十五日将旗ヲ那珂ヨリ神通ニ移揚セリ』
  28. ^ 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  29. ^ 昭和14年12月7日(発令12月5日付)海軍辞令公報(部内限)第412号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077200 
  30. ^ 昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.30,32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  31. ^ 昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.22」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400 
  32. ^ 昭和16年2月26日(発令2月25日付)海軍辞令公報(部内限)第597号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080400 
  33. ^ 昭和15年12月7日(発令12月6日付)海軍辞令公報(部内限)第566号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079900 
  34. ^ 昭和16年3月31日(発令3月31日付)海軍辞令公報(部内限)第606号 p.57」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080500 
  35. ^ 昭和16年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 
  36. ^ 昭和16年9月1日付(発令9月1日)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 
  37. ^ 昭和16年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第713号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  38. ^ 昭和16年10月2日 海軍公報(部内限)第3912号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C12070397700 『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ九月二十九日司令驅逐艦ヲ霰ヨリ不知火ニ變更セリ/第二十四驅逐隊司令ハ九月三十日司令驅逐艦ヲ一時海風ヨリ江風ニ變更セリ』
  39. ^ #支那事変第10回功績(18駆)p.1『第十八驅逐隊/不知火霞陽炎霰|勲功乙|自昭和十六年十一月十八日至昭和十六年十二月七日|所定ノ準備ヲナシ布哇ニ向ケ佐伯湾出撃空襲部隊ノ前路警戒飛行警戒及補給部隊ノ護衛ニ任ズ|上記ノ目的ヲ達ス』
  40. ^ #S1703二水戦日誌(3)p.4『(4)18dg 機動部隊ニ編入印度洋機動部隊ヲ終了シ二十三日呉歸着修理整備工事ニ従事(五月一日前進部隊ニ編入ノ豫定)』
  41. ^ #S1703二水戦日誌(5)p.4『(4)18dg 五月一日附機動部隊ヨリ前進部隊ニ編入當隊ニ復歸呉ニ於テ修理整備作業ニ従事五月十一日桂島ニ回航訓練待機 五月十五日桂島發第一類戰斗訓練實施ノ上十六日18dg(陽炎霰欠)呉着MI作戰準備ニ従事陽炎霰ハ十六日早朝分離MI作戰参加輸送船護衛ノ為横須賀ニ向ケ發十七日横須賀着作戰準備、五月十九日1D/18 2D/18夫々MI作戰参加輸送船ノ一部ヲ護衛集合呉及横須賀發』
  42. ^ #S1703二水戦日誌(5)pp.4-5『(ロ)自五月二十日至五月三十一日 五月二十日附GF第二段作戰第二期兵力部署トナリ尓後2sd(早潮欠)ハ攻略部隊護衛隊トシテ早潮ハ攻略部隊航空隊ニ編入MI作戰ニ従事』
  43. ^ #S1705二水戦日誌(2)p.35『四参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
  44. ^ #あ号作戦日誌(4)p.15『18dgハ六月八日以後7S司令官ノ指揮下ニ入リ行動』
  45. ^ a b c #あ号作戦日誌(4)p.17『(三)18dg 六月二十三日1D/7Sヲ護衛呉歸着補給整備 六月二十五日千代田ヲ護衛呉發途中2D/18dgヲ圖南丸救援ニ分派 1D/18二十六日2D/18dg二十七日夫々横須賀着 六月二十八日18dg(陽炎欠)千代田あるぜんちな丸ヲ護衛「キスカ」ニ向ケ横須賀發 六月二十九日陽炎横須賀出撃尓後野島埼南方ノ敵潜掃蕩ニ従事』
  46. ^ #第五艦隊日誌(2)p.8『麾下(指揮下)艦船部隊ノ行動 其ノ六 十八駆逐隊|霰|霞|不知火|陽炎』
  47. ^ #叢書29北東方面271頁
  48. ^ #S1705二水戦日誌(2)p.52『自7月1日至7月4日18dg(陽炎缺)ハ5F長官ノ指揮下ニ入リ千代田あるぜんちな丸護衛任務ニ従事7月5日「キスカ」警泊中遭難』
  49. ^ a b c d #S1705二水戦日誌(2)p.53『陽炎ハ自七月一日至七月九日湊町沖又ハ横須賀ニ在リテ敵潜掃蕩作戰竝ニ主要艦船護衛任務ニ従事/七月九日菊川丸ヲ護衛「キスカ」方面ニ行動七月二十日附18dg(陽炎缺)ハ5Fに陽炎ハ15dgニ編入セラル』
  50. ^ a b c #叢書29北東方面272-273頁
  51. ^ #第五艦隊日誌(2)p.15『麾下艦船部隊ノ行動 其ノ二|十八駆逐隊|霰/4日一七一〇}USS GROWLER/5日〇三二〇沈没SUNK』
  52. ^ a b #潜水艦戦争196頁
  53. ^ #S1705一水戦日誌(4)p.17『五日0345十八驅司令(宛略)18dg機密第109番電 當隊「リトルキスカヘッド」ノ0度1500米附近假泊中0256ヨリ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ霰沈没不知火霞ハ各魚雷一本命中防水作業中』
  54. ^ #S1705一水戦日誌(5)p.5『霞(別圖第三参照)一番砲塔前下部被雷ニ依リ六〇番「フレーム」ヨリ前方區劃ニ浸水更ニ附近一帯大火災ノ為隔壁ノ大部分焼失甲板及外板焼損シ艦首ハ右ニ屈曲垂下後甲板附近ニ大ナル挫屈ヲ生ゼル外主要兵器ノ一部ニ損傷アリ』
  55. ^ #S1705一水戦日誌(5)p.12『驅逐艦霞損傷大体圖〔側面圖〕』
  56. ^ #S1705一水戦日誌(4)p.18『五日2240電駆逐艦長|六日0015第一水雷戰隊司令官|電機密第110番電 子日ハ五日1250霧中(視界二粁)「アガツ」島ドツク岬ニ半速ニテ接近中右舷梯附近ニ魚雷1命中艦体2ツニ切断瞬時ニ沈没ス驅逐艦長以下巓覆艦體ニアリテ子ノ日萬歳ヲ三唱セル後艦ト運命ヲ共ニセリ』
  57. ^ #陽炎型(2014)289頁『子日(ねのひ)』
  58. ^ #S1705一水戦日誌(4)p.19『五日1830聯合艦隊参謀長|六日0930聯合艦隊各参謀長各司令官各所轄長|GF機密第539番電 ?近来船舶若ハ港湾及附近驅逐艦潜水艦ニシテ敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ケ不覺ヲトリツツアルハ洵ニ遺憾トスルトコロニシテ小艦艇ニ於テモ左ノ諸項ヲ励行アリ度(以下略)』
  59. ^ #高松宮日記4巻314-315頁『当時第十八駆逐隊ハ一度配置ニツケテヰタカドウカ不明ナルモソレモ一因ナルベシ』
  60. ^ #第五艦隊日誌(2)pp.21-22『六月九日3S(-2D)8S瑞鳳神川丸等ヲ次デ5Sf 5S等ヲ北方部隊ニ増援サレタルヲ以テ本兵力ヲ併セ引續キ待機海面ヲ行動セシガ六月二十日鳴神島及熱田島ノ第一期防備作業概成セルヲ以テ水上機部隊潜水部隊等ヲ残置セシメタル外大部ノ兵力ヲ大湊ニ回航補給ヲ實施セル後六月二十八日再度出撃シ鳴神島増援部隊ノ進出掩護竝ニ敵艦隊捕捉ノ態勢ヲ整ヘタリ 然ルニ其ノ後引續キ敵艦隊ハ依然トシテ當方面ニ出現シ来ル模様無ク加フルニ敵潜水艦ノ跳梁ハ漸次度ヲ加ヘ来リ之ニ依ル損害沈没及大破駆逐艦各二隻及ビ更ニ待機海面ニ迄及バントスル懼アリシヲ以テ定ヲ若干繰上ゲ七月七日増援部隊ノ桂島(一部横須賀)方面回航ヲ命ジタリ』
  61. ^ 昭和17年7月18日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第901号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086300 
  62. ^ 昭和17年7月31日(発令7月28日付)海軍辞令公報(部内限)第908号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086400 
  63. ^ 昭和18年3月20日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1076号 pp.15-16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090100 
  64. ^ #高松宮日記4巻309頁『○第六〔誤記〕水雷戦隊(一二-一三〇〇)「霞」「不知火」共後部二ヶ、砲塔、機銃、探照灯完全、自衛上ノ支障ナシ、士気旺盛ナリ。日産丸ノ残骸ハ「不知火」ニ対シ湾口方面ノ防壁トナリ、又仮製(「暁」考案掃海具利用30m×一〇米(深)ノ「マントレット」)防禦網ヲ適当ナル位置ニ碇置セントス。敵機来ラザルトキ補強作業ニ全力傾注シツツアリ。』
  65. ^ #S1705二水戦日誌(2)p.88『陽炎駆逐艦長(宛略)陽炎菊川丸ヲ護衛十九日一三〇〇「キスカ」着』
  66. ^ #陽炎型(2014)135頁
  67. ^ #内令昭和17年7月分(3)p.28『内令第千三百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年七月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項中「陽炎、」ヲ削リ第十五驅逐隊ノ項中「早潮」ノ下ニ「、陽炎」ヲ加フ』
  68. ^ #第五艦隊日誌(2)p.12『麾下艦船部隊ノ行動 其ノ二|十八駆逐隊|霞|不知火』
  69. ^ #叢書29北東方面287-288頁(7月17日下令、20日横須賀発、大湊経由で27日キスカ着)
  70. ^ #S1705二水戦日誌(2)p.91『五警司令(宛略)二十六日霞自力航行及曳航實験ノ結果自力曳航共ニ不能明二十七日残存断片切除ノ上再度實験ノ予定』
  71. ^ #S1705一水戦日誌(4)p.72『二十六日一八〇〇五警司令|二十八日二一〇〇第五艦隊司令長官|五警機密第一四八番電 霞全部残片除去ニ成功一四〇〇雷曳航陽炎護衛出港セリ 湾口附近航行状態良好ナリ』
  72. ^ #S1705一水戦日誌(4)p.88『二八(天候略)一四〇〇霞雷陽炎鳴神島発』
  73. ^ #雷海戦記215-216頁
  74. ^ #S1705一水戦日誌(4)pp.72-73『二十八日一八一〇霞駆逐艦長|二十九日〇五四三第五艦隊司令長官|雷機密第一五五番電 曳航開始セル所雷ノ燃料消費予想外大ニシテ原速力ニテ六四噸ヲ要ス實速力八.四節 二十八日一六三〇ノ燃料在庫量二六〇噸鳴神嶋ニハ燃料ヲ補給シ得ル船舶ナシ途中補給ニ関シ至急ヲ乞フ 本艦三十一日一〇〇〇北緯五一度四八分東経一六六度三八分ニ達スル予定』
  75. ^ #高松宮日記4巻334頁
  76. ^ #S1705一水戦日誌(4)pp.74-75『三十日〇八三〇霞駆逐艦長|三十日一五〇〇第一水雷戦隊司令官 第五艦隊参謀長外|雷機密第一五八番電 洋上ニ於ケル曳航要具ノ移載ハ不可能ナルヲ以テ雷ヘ霞 陽炎ヨリ重油計一〇〇噸補給セバ加熊別湾ニ到達シ得ル見込ナリシ処本朝来荒天ノ為七節(實速力四節)以上出シ得ズ 霞 陽炎モ燃料余裕ナキヲ以テ電ハ可成速ニ片岡湾ニテ重油満載雷ニ補給スル様取計ハレ度 三十日〇六〇〇ノ位置「アッツ」西端ノ三四〇度五〇浬』
  77. ^ a b c d e f g h #叢書29北東方面288頁
  78. ^ #S1708一水戦日誌(1)p.6『(二)配備 八月二日 若葉浦賀船渠ニ入渠/三日(イ)電片岡湾着 (ロ)雷、霞ヲ曳航シ片岡湾着』
  79. ^ #S1708一水戦日誌(1)p.6『五日(イ)雷任務ヲ電ニ引継ギ横須賀ニ向ケ片岡湾發 (ロ)電、霞ヲ回向石狩湾ニ向ケ片岡湾發』
  80. ^ #S1708一水戦日誌(1)p.8『九日 電石狩湾着 霞曳航ヲ富士山丸ニ引継ギ加熊別湾ニ向ケ發』
  81. ^ a b #S1708舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂工事=豫定通進捗中/霞工事=損傷復舊工事ノ爲本月十三日入港目下損傷部調査中 (b)利根筑摩ノ整備工事ハ六日完成シ作戰地ニ向ケ進出セリ 夕風(二十一日)、室戸(二十四日)ハ附記ノ通入稿以來極力進捗中』
  82. ^ #S1708舞鎮日誌p.5『(1)新造艦船工事 前月ニ引續キ巻波、初月、島風ノ艤装工事、第三四〇號、第三四一號艦ノ建造工事及本月五日起工セル第三四二號艦建造工事ハ何レモ順當ニ進捗シ巻波ハ十八日完成引渡シヲ了セリ』
  83. ^ #内令昭和17年8月分(2)p.40『内令第千五百三十號 驅逐隊編制中左ノ通改正セラル 昭和十七年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  84. ^ 昭和17年9月8日 海軍公報(部内限)第4189号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C12070422600 『○残務整理 第十八驅逐隊残務整理ハ呉海兵團ニ於テ之ヲ行フ 追テ郵便物ハ呉海兵團内海軍主計大尉刈谷徳治宛發送相成度』
  85. ^ a b c d 昭和17年8月20日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第926号 pp.44-45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086600 
  86. ^ #内令昭和17年8月(4)pp.14-15『内令第千六百二十六號|呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 霞 驅逐艦 不知火 右特別役務驅逐艦ト定ム|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  87. ^ #S1709舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂及霞ノ特定修理、損傷復舊工事ハ前月ニ引續キ豫定通順調ニ進捗シツツアリ/不知火九月三日入港損傷調査竝修理實施準備ヲ爲シツツアリ』
  88. ^ a b c d 昭和17年9月10日(発令9月10日付)海軍辞令公報(部内限)第939号 pp.33-34」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086800 
  89. ^ #内令昭和17年10月(2)pp.17-18『内令第千九百六號 呉鎮守府特別役務驅逐艦 驅逐艦 霞/驅逐艦 不知火 右第四豫備艦ト定ム 昭和十七年十月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  90. ^ #S1710舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂、霞ノ工事ハ豫定通進捗中不知火ハ十九年三月末完成ヲ豫定ヲ以テ復舊工事ニ着手シ資材手配中』
  91. ^ a b c #1806舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事  霞 損傷復舊工事ニ併セ重油タンク加熱装置施行三十日完成/不知火初春 船渠内ニ於テ損失部結合工事中/巻波太刀風 概ネ豫定通工事進捗中/名取 六月一日入港工事中ナルモ資材入手ノ關係上明年五月末完成ノ見込』
  92. ^ a b #S1711舞鎮日誌p.5『(a)損傷復舊工事 大潮、那珂、霞及不知火ハ概ネ豫定通進捗中/初春六日入港工事ニ着手シ中央要求ニ即應極力工事促進中』
  93. ^ a b 昭和17年11月16日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088200 
  94. ^ a b 昭和17年11月16日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088200 
  95. ^ a b c d 昭和17年12月21日(発令12月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1017号 pp.32-33」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088600 
  96. ^ #S1712舞鎮日誌(1)p.6『(a)損傷復舊工事 大潮 豫定通二十七日完成/那珂、霞及不知火 概ネ豫定通進捗中/初春 極力工事促進中|(b)修理艦船 木曾 十二日入港修理工事ヲ促進三十日完了/長良 二十七日入港徹夜修理作業ヲ續行中』
  97. ^ #S1712舞鎮日誌(2)p.24『二九日(天候略)初月竣工引渡/大波竣工呉鎮部隊ニ編入/大潮修理工事完成「ラバウル」ニ向ケ發』
  98. ^ #S1801舞鎮日誌pp.5-6『(二)造修(1)新造艦船工事 初月 十二月二十九日竣工引渡ヲ了セルモ追加工事アリ特急工事トシテ施行七日完成即日出港ス/島風、早波 艤装ハ予定通進捗中/濱波、第三四二號艦 建造工事ハ豫定通進捗中/第三四五號艦 二十日起工』
  99. ^ #S1801舞鎮日誌p.60『七(天候略)初月横須賀ニ向ケ發(略)工廠工事 初月二十五粍聯装機銃装備工事完成』
  100. ^ #S1801舞鎮日誌p.6『(3)其ノ他ノ工事(a)損傷復舊工事 那珂霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中|(b)修理工事 長良 二十日完成/龍田 十九日入港修理工事中』
  101. ^ #S1801舞鎮日誌pp.5-6『(二)造修(1)新造艦船工事 初月 十二月二十九日竣工引渡ヲ了セルモ追加工事アリ特急工事トシテ施行七日完成即日出港ス/島風、早波 艤装ハ予定通進捗中/濱波、第三四二號艦 建造工事ハ豫定通進捗中/第三四五號艦 二十日起工』
  102. ^ 昭和18年3月20日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1076号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090100 
  103. ^ 昭和18年5月10日(発令5月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1111号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090900 
  104. ^ #S1802舞鎮日誌(1)p.5『(a)損傷復舊工事 那珂、霞、不知火、初春、何レモ豫定通進捗中/(b)修理艦船 太刀風(二日)利根(二十一日)日進(二十四日)刈萱(二十五日)}何レモ附記ノ通入港修理工事中/龍田 操舵試験ノ結果更ニ修理ヲ要スルコトトナリ極力工事中』
  105. ^ #S1803舞鎮日誌(1)pp.6-7『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春何レモ豫定通工事進捗中/那珂ハ三十一日工事完成セリ (b)修理工事 龍田 操舵装置修理豫想外ニ困難ニシテ一日試運轉ノ結果徹底的修理ヲ要スルコトトナリ陸揚修理二十七日試運轉成績良好二十八日出動セリ/太刀風八日、日進十三日、利根十六日}整備完成何レモ出動/刈萱 整備工事中/眞鶴(十六日)、長波(十七日)、木曾(二十日)、室戸(二十三日)何レモ附記ノ通入港極力整備工事中』
  106. ^ #S1804舞鎮日誌p.59『五日(天候略)那珂修理完成出動/芙蓉入港(以下略)』
  107. ^ #内令昭和18年4月(1)p.20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等ノ部中「白雪型」ヲ「初雪型」ニ改メ同項中「白雪、」ヲ、同白露型ノ項中「、村雨」ヲ削リ同「朝潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ同項中「、朝潮、大潮」「、「荒潮」「、峯雲」ヲ、同陽炎型ノ項中「時津風、」ヲ削ル(以下略)』
  108. ^ #S1804舞鎮日誌p.65『一七(天候略)阿武隈、長波、崑山丸修理ノ爲入港』
  109. ^ #S1805舞鎮日誌(2)p.12『四(天候略)多摩整備工事ノ爲入港』
  110. ^ #1804舞鎮日誌p.6『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春 何レモ豫定通工事進捗中/巻波 二十四日入港復舊工事ニ着手』
  111. ^ #S1806舞鎮日誌p.5『(二)造修(1)新造艦船工事 早波、濱波 艤装工事豫定通進捗中/沖波 船臺ニ在リテ罐及主機械積込中/第三四五號艦 船臺ニ在リテ建造工事豫定通進捗中/第三六一號艦 五月八日起工目下船臺ニ在リテ船殻工事中』
  112. ^ #1805舞鎮日誌(1)p.5『(a)損傷復舊工事 霞不知火初春巻波 何レモ豫定通工事進捗中/太刀風 十五日入港損傷復舊工事ニ着手』
  113. ^ #S1805舞鎮日誌(1)p.5『(1)新造艦船工事 島風 工事竝ニ諸公試終了十日完成引渡』
  114. ^ #S1805舞鎮日誌(2)p.15『一〇(天候略)島風舞廠ニ於テ竣功引渡』
  115. ^ #艦長海戦記28頁
  116. ^ 昭和18年5月19日(発令5月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1017号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091000 
  117. ^ #S1805舞鎮日誌(2)p.19『一七(天候略)阿武隈修理完成出撃』
  118. ^ #S1805舞鎮日誌(1)p.6『多摩 四日入港電波探信儀装備其ノ他整備工事ニ着手セル處工事ヲ一時中止シ二十日出港』
  119. ^ #舞廠造機部257-259頁
  120. ^ #内令昭和18年5月(6)p.11『内令第九百九十九號 呉鎮守府第四豫備驅逐艦 霞 右第一豫備驅逐艦ト定ム 昭和十八年五月二十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  121. ^ a b 昭和18年5月21日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1021号 p.46」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091000 
  122. ^ #1806舞鎮日誌p.6『(b)修理艦船(略)長波 五日入港船體損傷及機銃増備工事施行二十三日完成出港』
  123. ^ #S1804十一水戦(2)p.4『備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ、響北方部隊ニ一時編入中 霞六月三十日當隊ニ編入』
  124. ^ #S1804十一水戦(2)p.21『(ニ)霞三十日當隊ニ編入舞鶴ニ在リテ出撃準備』
  125. ^ #S1804十一水戦(2)p.19『四.参考 麾下艦船ノ行動』
  126. ^ #S1804十一水戦(2)p.20『(イ)6dg(響缺)内南洋部隊ニ響ハ北方部隊ニ一時編入中ニシテ作戰ニ従事』
  127. ^ #S1804十一水戦(2)p.31『四日一四〇三霞(宛略)舞鶴発』
  128. ^ a b #舞廠造機部260-261頁『駆逐艦霞 実験のため北洋へ』
  129. ^ #S1804十一水戦(2)p.29『一日一六一四霞(宛略)霞三號重油実験行動豫定 七月四日舞鶴発樺太東岸及敷香ヲ経テ十七日皈着二十日実験終了二六日舞鶴発二十二日桂島着』
  130. ^ #S1804十一水戦(2)pp.33-34『十二日一三三〇霞駆逐艦長(宛略)舞鶴着』
  131. ^ #舞廠造機部261頁では13日帰着
  132. ^ #1807舞鎮日誌(1)p.8『(a)損傷復舊工事 霞 損傷復舊工事及重油タンク加熱装置完成同装置實艦實験ノ爲四日ヨリ十二日迄出動實艦實験ヲ了シ十八日出港セリ』
  133. ^ #S1804十一水戦(2)p.26『(四)麾下艦船ノ行動』
  134. ^ #S1804十一水戦(2)p.24『(三)作戰指導其ノ他 主トシテ内海西部ニ在リ全作戰支援竝ニ新造驅逐艦ノ急速練成戰備促進諸訓練ノ指導護衛ニ従事』
  135. ^ #高松宮日記6巻503-504頁
  136. ^ #S1804十一水戦(2)p.43『二五(天候略)龍田霞〇六〇〇桂島発一九〇〇若月安下庄出港二二五二〃假泊|龍田主砲(夜間)教練射撃 大和電探公試協力 若月主砲第一回夜間艦水上射撃』-『二六(天候略)〇六〇〇龍田霞出港一八五〇安下庄假泊|大和電探公試協力』
  137. ^ a b c d #S1804十一水戦(2)p.44『二九(天候略)霞出動〔〇六四五出港二一一〇入港〕|曳的艦|旗艦ヲ一時能代ニ変更(一九〇〇)』-『三〇(天候略)〇六一五能代龍田若月霞桂島出港 二四〇〇八島假泊|各艦諸教練 若月主砲機銃第三回教練射撃』-『三一(天候略)〇七三〇假泊地発 一六二五能代若月霞入港(桂島)|(潜水艦)襲撃應急、第四回航空戰教練|藤波早波當隊ニ編入 旗艦復帰(一五〇〇)』
  138. ^ #高松宮日記6巻503頁『七月二十九日(目)曇(不連続線)曇。〇六〇〇出港、電探射撃、安下庄仮泊。鳴神島撤収。〔上欄〕〇六〇〇出港。電探実験射撃、途中デ曳索切レ、アト偏弾デヤル(以下略)』
  139. ^ a b c #S1804十一水戦(3)p.5『(四)麾下艦船ノ行動』
  140. ^ #S1804十一水戦(3)pp.3-4『(三)作戰指導其ノ他 主ニ内海西部ニアリ全作戰支援竝ニ新造駆逐艦ノ急速練成戰備促進諸訓練ノ指導及護衛ニ従事』-『主力部隊|(旗艦)龍田 6dg(《司令》雷電響) 霞 若月(八月十五日附61dgニ編入) 早波凉波藤波}(八月二十日附32dgヲ編成) 山雲(八月二十日附11sdニ編入)|全作戰支援|(イ)新造駆逐艦ノ急速練成 (ロ)護衛 (ハ)戰備促進|備考6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中/響ハ八月三日附北方部隊ヨリ復帰ス』
  141. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.10『(ホ)麾下艦船部隊ノ行動』
  142. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.6『(五)島風 HPBニ編入同方面作戰(「ケ」號作戰)ニ従事中ノ處三日AdBニ復歸(十五日以降YB)幌筵海峡發六日桂島着…』
  143. ^ #内令昭和18年8月(2)p.29『内令第千六百六十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第六十一驅逐隊ノ項中「初月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ』
  144. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.51『一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)』
  145. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.4『(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着』
  146. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)11dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』
  147. ^ #S1804十一水戦(3)p.18『十四日一五〇〇11sd司令官(宛略)信電令作第九號 一.早波凉波藤波霞ハ先任指揮官之ヲ指揮シ明後十六日徳山ニ於テ燃料補給ノ上十七日天明時ヨリ日没時迄沖ノ島ノ五〇浬圏内主力部隊出撃航路附近ノ敵潜掃蕩ヲ實施スベシ/二.右任務終了セバ徳山錨地ニ入泊スベシ』
  148. ^ #S1804十一水戦(3)p.19『十六日〇六〇〇早波駆逐艦長(宛略)早波凉波藤波霞徳山経由豊後水道沖ニ向ケ桂島発』
  149. ^ #S1804十一水戦(3)p.36『一七(天候略)霞早波藤波凉波徳山沖発二三〇〇|霞早波藤波凉波豊後水道敵(潜水艦)掃蕩』-『一八(天候略)〇二〇〇霞早波藤波凉波徳山着/響呉発一五三〇徳山着|旗艦ヲ響ニ変更ス』
  150. ^ 昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
  151. ^ #内令昭和18年8月(3)p.24『内令第千七百七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第三十二驅逐隊|涼波、藤波、早波| 』
  152. ^ #S1804十一水戦(3)p.17『八月十二日一四三一大海部長(宛略)山雲ハ八月二十日附第十一水雷戰隊ニ編入九月中旬第四駆逐隊ニ編入セラルル豫定』
  153. ^ #S1804十一水戦(3)p.36『二〇(天候略)響早波藤波凉波霞一五三〇徳山沖発一七〇〇帰着霞呉廻航|響早波藤波凉波霞對空射撃一四〇〇|32dg編成司令(中原大佐)発令セラル』
  154. ^ #S1804十一水戦(3)p.26『二十六日〇八〇五11sd司令官(宛略)機密二六〇八〇五番電 将旗ヲ一時山城ニ移揚セリ』
  155. ^ #S1804十一水戦(4)p.25『一(天候略)旗艦響』
  156. ^ #S1804十一水戦(3)p.27『二十七日二一四〇(宛略)機密二七一四〇番電 山城響32dgヲ率ヰ内海西部着』
  157. ^ #S1804十一水戦(3)p.21『十六日一二一〇11sd司令官(宛略)霞九月一日附北方部隊ニ編入ノ豫定ヲ以テ二十一日呉ニ回航出撃準備ニ従事ノ豫定ニ付電探装置竝ニ防寒施設同艦出撃迄ニ完成実施取計ヲ得度』
  158. ^ 昭和18年8月21日(発令8月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1195号 p.39」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092500 
  159. ^ 昭和18年8月31日(発令8月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1199号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
  160. ^ #内令昭和18年9月(1)p.26『内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ』
  161. ^ #S1804十一水戦(4)p.2『備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中/霞 九月一日附9dgニ編入/山雲 九月十五日附4dgニ編入/32dg 九月三十日附2sdニ編入』
  162. ^ #S1809一水戦日誌(1)pp.8-40『(二)麾下艦船部隊ノ行動』
  163. ^ a b #S1809一水戦日誌(1)p.6『(1)九月一日霞ハ第九駆逐隊ニ編入セラレ陸奥海湾ヲ經テ那智ヲ護衛六日幌筵海峡ニ進出シ阿武隈及第九駆逐隊(白雲欠)ハ北方海上防衛主へ威力トシテ幌筵海峡ニ在リ傍ラ訓練ニ従事ス』
  164. ^ #艦長海戦記30頁
  165. ^ 昭和18年11月9日 海軍公報(部内限)第4536号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C12070442500 『○司令驅逐艦變更 第九驅逐隊司令ハ十月二十九日司令驅逐艦ヲ霞ニ變更セリ』
  166. ^ #S1809一水戦日誌(2)p.8『記事(略)二.二九日九駆司令ハ司令駆逐艦ヲ朝雲ヨリ霞ニ変更』
  167. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
  168. ^ #S1809一水戦日誌(2)p.9『(イ)一〇月三一日附朝雲ハ第一〇駆逐隊ニ編入セラレ本軍隊区分ヨリ除ク』
  169. ^ #S1809一水戦日誌(2)p.10『(ニ)九駆(霞)ハ一一月二四日以降HPB電令作第三五號及HPB第三六九號ニ依リ二八一空関係ノ北千島「ルオット」間輸送ニ従事』
  170. ^ #S1809一水戦日誌(3)pp.35-36『三(天候略)〇九〇〇 九駆(霞)横須賀發(内南洋方面輸送)』
  171. ^ #S1809一水戦日誌(3)pp.12-14『(二)麾下艦船部隊ノ行動』
  172. ^ #S1809一水戦日誌(3)p.37『一一(天候略)一五三〇9dg(霞)「ルオット」發』-『一二(天候略)〇七〇〇9dg(霞)ウオッヂェ着直チニ發』
  173. ^ #S1809一水戦日誌(3)p.39『一五(天候略)〇八三〇9dg(霞)トラック着』
  174. ^ #S1809一水戦日誌(3)p.8『二.九驅(霞)ハ前月末二四航戰司令官ノ指揮ヲ受ケ二八一空ノ輸送ニ協力中GF電令作第二一八號北方部隊信令第四四〇號一水戰機密第一四〇六三〇番電ニ依リ最上艦長ノ指揮ヲ受ケ一六日以降同艦ノ護送ニ任ジタル後二一日同任務ヲ終リ水雷部隊ニ復帰ス』
  175. ^ #S1809一水戦日誌(3)p.30『二十二(司令)9dg(宛略)9dg(霞)〇八三〇舞鶴着』
  176. ^ #S1809一水戦日誌(3)p.40『二二(天候略)一.〇八三〇 九駆(霞)舞鶴着/二.〇九三〇21dgハ2sfヲ護衛「トラック」着』
  177. ^ #S1809一水戦日誌(3)p.31『二十三(司令)9dg(宛略)霞工事豫定 一.十二月三十日入渠一月十二日出渠十六日電探機銃測深儀哨信儀公試ト出撃/二.訓令通牒工事全部施行』
  178. ^ #S1901舞鎮日誌p.9『(c)修理艦船 霞十八日、呂四〇潜二十日整備完了出撃ス』
  179. ^ #S1901舞鎮日誌p.56『十八(天候略)霞一三三〇完成出撃』
  180. ^ #内令昭和19年3月(1)p.17『内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ』
  181. ^ #陽炎型(2014)275頁『白雲(しらくも)』
  182. ^ a b #内令昭和19年3月(5)p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二驅逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  183. ^ a b 昭和19年5月1日 海軍公報(部内限)第4677号 pp.7-8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070462400 『○司令驅逐艦變更 第十八驅逐隊司令ハ四月二十二日司令驅逐艦ヲ不知火ニ變更セリ(第十八驅逐隊)』-『○書類移管 當隊三月三十一日附第十八驅逐隊ト改編ニ付各部ヨリ第九驅逐隊ニ配布中ノ軍機、軍極秘祖類ハ總テ第十八驅逐隊ニ移管致候條了知ノ上處理相成度(第九驅逐隊)』
  184. ^ #陽炎型(2014)277頁『薄雲(うすぐも)』
  185. ^ #内令昭和19年9月(2)p.23『内令第一〇五六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年九月十日海軍大臣|第十八驅逐隊ノ項中「薄雲、」ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「玉波、」ヲ削ル』
  186. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記216-218頁『志摩艦隊の行動』
  187. ^ #艦長海戦記42-43頁
  188. ^ #第21駆逐隊捷1号作戦p.3『当隊ハ第二遊撃部隊ト共ニ馬公ニ待機中第二航空戦隊基地物件並ニ人員輸送ノ命ヲ受ケ23日午後「マニラ」ニ到着セルモ既ニ第二遊撃部隊ハ「コロン」ヲ出撃シ有リタルヲ以テ24日2000B点ニ於テ是ト合同スベク「マニラ」ニ於ケル補給終了後成ル可ク速ニ出撃ノ予定ノ所初霜ノ補給遅レ2125「マニラ」湾内ニ合同以後一戦速ヲ以テ南下1800概ネB点ニ到着ノ予定ナリキ』
  189. ^ #サイパン・レイテ海戦記215頁(取り残された朝雲は追撃してきた米艦の砲撃で沈没)
  190. ^ #サイパン・レイテ海戦記220頁
  191. ^ #サイパン・レイテ海戦記226頁
  192. ^ #潮詳報(捷号)p.3『0625霞阿武隈ニ横付一水戦司令部霞ニ移乗』
  193. ^ #艦長海戦記48-49頁
  194. ^ 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800 
  195. ^ #サイパン・レイテ海戦記227頁
  196. ^ #第21駆逐隊捷1号作戦p.4『24日0858若葉沈没若葉ノ位置N11°36′E121°36′司令駆逐艦ヲ初春ニ変更』
  197. ^ #サイパン・レイテ海戦記394頁
  198. ^ #陽炎型(2014)303頁『不知火(しらぬい)』
  199. ^ a b #戦場の将器245-246頁『第十九章―陸軍を大敗させた海軍の戦果発表』
  200. ^ #S1909一水戦日誌(2)pp.9-10『(2)4日「マニラ」帰着司令部ハ主トシテ陸上ニ在リ第四次「レイテ」島増援輸送計画ノ為各部トノ折衝打合セニ従事シ居タルトコロ5日朝来敵艦上機群「マニラ」逐ニ来襲敵ハ折カラ湾内避退行動中ノ那智ニ攻撃ヲ集中同艦危機ニ瀕シ次デ沈没…』
  201. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.5『那智雷爆撃ヲ受ケ沈没』
  202. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.5『一六一五 那智曙救援ノ爲一水戰出港』-『一七二四那智沈没位置 人員救助』
  203. ^ a b c d #艦長海戦記52-54頁『マニラ前進根拠地の機能喪失』
  204. ^ #S1909一水戦日誌(2)pp.9-10『…之ガ護衛警戒ノ為急遽出撃セル曙亦被弾火災航行不能トナレルヲ以テ敵上機最終引揚ノ機ヲ計ヒ1630所在麾下兵力〔霞、二十一駆(初春初霜)、潮〕ヲ率ヰ出港之ガ救援ニ任ズ』
  205. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.6『2215 潮曙ニ横付消火 横曳曳航ヲナス』
  206. ^ a b #戦場の将器247-248頁
  207. ^ a b c d #戦場の将器249-250頁
  208. ^ #S1906第30駆日誌(3)p.13『12日/1100時雨ト共ニ隼鷹筑摩護衛「マニラ」出港』
  209. ^ #S1909一水戦日誌(2)pp.42-43『十日一一〇九(長官)NSB|十日一五四〇捷號作戰部隊桑霜月(司令官)4sf(司令官)31S(六海一部及GF)|機密第一〇一一〇九番電 南西方面部隊電令作第七四一號 一.マニラ着後第四航空戰隊(日向伊勢)ヲ多號作戰部隊支援部隊ニ木曽霜月ヲ第一警戒部隊ニ第三十一戰隊(五十鈴梅桃桐)桑杉ヲ護衛部隊ニ編入/二.沖波曙早霜ヲ多號作戰部隊警戒部隊ヨリ除キ支援部隊ニ編入 以下略』
  210. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.7『潮至近弾ノ爲浸水』
  211. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.7『木曾沈没着底、沖波沈没着底』
  212. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要pp.32-33『11・13|0730敵KdBノ艦上機「マニラ」船舶空襲三次ニ亘リ来襲、沖波初春被弾大火災沈没、潮擱座、木曾沈没「カビテ」曙秋霜大破 商船殆ド全部火災トナル』
  213. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11『(4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ…』
  214. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部移乗》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』
  215. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  216. ^ 昭和19年11月24日(発令11月20日付)海軍辞令公報(甲)第1651号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 
  217. ^ #S1911二水戦pp.9-10『(二)經過(1)』
  218. ^ 昭和19年11月28日(発令11月20日付)海軍辞令公報(甲)第1654号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 
  219. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.18-19『二.人員ノ現状(十二月三十一日現在)(イ)司令部(一)主要職員官氏名』
  220. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.10-11『十一月十六日「ブルネー」ヲ出撃セル第一遊撃部隊ノ大部ハ同二十三日内海西部着本回航中十七駆(浦風)ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』
  221. ^ #陽炎型(2014)309頁『浦風(うらかぜ)』
  222. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.8『(2)2sd麾下兵力中矢矧十七駆〔雪風磯風濱風(浦風)〕涼月冬月時雨ハ第一遊撃部隊ニ属シ内地ニ在リ』
  223. ^ #S1911第五艦隊(1)p.8『(二)十一月二十二日「リンガ」入泊地2YB麾下兵力』
  224. ^ a b c d #S1911二水戦日誌(1)p.54『二九|0915セレター|(天候略)(略)〇九一五霞二十一駆(初霜)昭南着/一九三〇七駆(霞)二十一駆(初霜)榛名ヲ護衛シ昭南発|一六〇〇将旗ヲ潮ニ移揚/七駆司令駆逐艦ヲ霞ニ変更』
  225. ^ #S1911第五艦隊(1)p.22『25日2037五艦隊長官/(前略)五.榛名 艦体強度ノ関係上長時間航行可能 速力平水ニテ18節 荒天期ノ内地回航不安ナル現状ナリ 船渠ノ整備(12月25日)ヲ俟ッテ入渠応急修理ノ予定 本修理後内地ニ回航修理ノ要アリ 本事故ハ本職ノ誘導適切ヲ欠キタルニ起因スルモノトシテ深ク遺憾ノ意ヲ表ス』
  226. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.11『(2)此ヨリ曩「リンガ」回航中觸礁セル榛名内地回航ニ決シ2sdノ二艦ヲ以テ馬公迄同艦ノ護衛實施方發令アリタルヲ以テ七駆(霞)二十一駆(初霜)ヲ之ニ指定二十八日「リンガ」発二十九日昭南着同日夕刻昭南発十二月五日馬公着十一月二十九日一六〇〇将旗ヲ潮ニ移揚ス』
  227. ^ 昭和19年12月4日(発令11月29日付)海軍辞令公報(甲)第1660号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102100 
  228. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.55『五(天候略)一〇二〇 二十一驅(初霜)霞榛名ヲ護衛シ馬公着|七駆司令岩上大佐馬公ニテ霞ヨリ退任(後任司令代理山名中佐)「ウルシー」所在敵KdB出撃ノ徴アリ』
  229. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.28『六日〇九五六(指揮官)2YB(宛略)第二遊撃部隊電令作第四號 初霜霞ハ帰投ノ途次六日高雄發昭南回航ノ良榮丸アマト丸ノ護衛ニ協力スベシ』
  230. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.11『十一月二十二日被雷昭南待機中ノ五十鈴ハ「スラバヤ」ニ於テ修理ノコトトナリ十二月五日昭南發命ニ依リ二駆(朝霜)ヲ同艦護衛艦トシテ六日昭南発之ヲ追及セシム同日榛名護衛任務了セル二十一駆(初霜)霞ハ馬公発昭南ニ向ヘルトコロ高雄発船団護衛協力方2YBヨリ命令アリ反轉高雄ニ向ヘリ』
  231. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.11『(3)一方「レイテ」方面戰況逼迫ニ依リ2YBハ急遽「ブル子ー」方面次デ「カムラン」方面進出待機ノコトトナリ二駆(朝霜)及二十一駆(初霜)霞ハ共ニ護衛任務ヲ打切リ前者ハ「リンガ」後者ハ「カムラン」南方ニ於テ合同ヲ下令セラレ…』
  232. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.34『十日〇九〇三(司令)21dg(宛略)初霜霞カムラン湾着』
  233. ^ #S1911第五艦隊(2)p.14『(二)自十二月一日至十二月三十一日第二遊撃部隊麾下艦船部隊行動一覧表』
  234. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.12『朝霜探照燈反射鏡破損シ之ガ換装ノ爲十一日昭南ニ回航整備ノ上十二日「リンガ」出撃ノ2YBニ合同北上十三日初霜霞ヲ合同十四日「カムラン」着将旗ヲ大淀ニ移揚ス』
  235. ^ a b #S1911二水戦日誌(1)p.12『此ノ間潮ハ應急修理ヲ促進十一日完成十二日妙高ヲ護衛昭南發(十三日夜妙高被雷撃潮之ガ救難ニ從事セルモ曳航成功ノ見込ミナク命ニ依リ分離「サンヂャック」経由「ヒ八二」船團追及合同す)又二水戰ノ一艦ヲ第十次多號作戰護衛部隊編入ノ令ニ接シ二駆(清霜)ヲ之ニ指定十三日之ヲ分離ス然ルトコロ敵新攻略部隊ハ機動部隊直掩下ニ十三日スール海ニ侵入ノ情況アリ第十次輸送部隊解編2YBハ決戰用意新南群島進出待機ノ下令アリタルガ十五日敵ノ「ミンドロ」島上陸確實ナルヤ其ノ任ヲ解カレ「カムラン」待機トナリ十六日二駆(清霜)「カムラン」湾ニ復歸合同ス』
  236. ^ #第二水雷戦隊突入す54頁(バーガルと表記)
  237. ^ #第二水雷戦隊突入す55-57頁
  238. ^ #第二水雷戦隊突入す57-58頁
  239. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.58『一八(天候略)一五〇〇初霜霞妙高ト合同/一七三三霞妙高曳航』
  240. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.58『一九(天候略)〇二三八霞曳索切断』
  241. ^ a b c #S1911二水戦日誌(1)p.13『此ノ日「カムラン」湾敵B-24一機ノ偵察ヲ受ケ翌日ノ空襲ヲ顧慮2YBハ十七日同地發「サンヂヤック」沖回航ニ決シ十八日着尚二十一駆(初霜)霞ハ日榮丸ノ「サンヂヤック」回航護衛後妙高護衛ニ從事スルコトトナリ十七日早朝「カムラン」発同夜日榮丸ヲ分離十八日妙高ニ合同霞曳航ヲ試ミタルモ曳索切断爾後妙高ヲ監視警戒天候ノ恢復ヲ待チアリタルガ二十日禮號作戰発動アリテ霞ハ「カムラン」ニ復歸合同二十一駆(初霜)ハ其ノ儘任務續行ノコトトナリ後者ハ5S司令官ノ区處ヲ受ケ妙高ヲ護衛曳航二十五日昭南着急速入渠整備ニ從事ス』
  242. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.59『二二(天候略)〇七〇〇頃時雨佐世保着/一六二六霞カムラン湾着/一八〇〇頃日榮丸榧樫海一九カムラン湾着』
  243. ^ #第二水雷戦隊突入す60頁
  244. ^ #第二水雷戦隊突入す61頁
  245. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.53『二三|リンガ泊地|(天候略)(略)〇九三〇将旗ヲ霞ニ掲揚ノ儘一時司令部事務ヲ大淀ニテ執行ス』
  246. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.56『九(天候略)一一〇〇冬月涼月隼鷹榛名佐世保着/一一四五(司令官)清霜リンガニ向ケ昭南発/一九二〇(司令官)清霜リンガ着|一一〇〇将旗ヲ潮ヨリ清霜ニ移揚ス/二〇〇〇将旗ヲ朝霜ニ移揚ス/第二駆逐隊司令駆逐艦ヲ清霜ニ変更ス』
  247. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.12『清霜亦急速整備ヲ完了シ十二月九日将旗ヲ之ニ移揚「リンガ」ニ進出ス即日将旗ヲ朝霜ニ移動揚ス』
  248. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.59『二四(天候略)〇九〇〇(旗艦)霞足柄大淀二駆(清霜朝霜)榧杉樫ヲ率ヰカムラン湾発|〇八〇〇(将旗)霞ニ変更ス』
  249. ^ #S1911第五艦隊(2)p.12『二一|一七三〇|2YB旗艦ヲ一時日向ニ変更(一部幕僚ヲ挺身部隊ニ派遣)/一八三〇|挺身部隊「カムラン」ニ向ケ「サンジャック」出撃』
  250. ^ #S1911第五艦隊(2)p.47『二十一日一八四六 二遊撃部隊指揮官(宛略)2YB旗艦ヲ一時日向ニ変更ス』
  251. ^ a b c d #艦長海戦記55-59頁『礼号作戦』
  252. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.61『二八(天候略)十七駆呉発門司ニ回航/時雨佐世保発門司ニ回航/一八三〇(旗艦)霞足柄大淀朝霜ヲ率ヰカムラン湾着/二三四五潮ヒ八二船團高雄着|二〇三〇将旗ヲ大淀ニ移揚ス』
  253. ^ #S1911第五艦隊(2)p.13『三〇|一七三〇|2YB(4sf足柄大淀朝霜霞)昭南(リンガ)ニ向ケ「サンジャック」發』
  254. ^ #S1911第五艦隊(2)p.13『三一(略)一二〇〇2YBハ旗艦ヲ足柄ニ復皈』
  255. ^ #S1911第五艦隊(2)p.58『一月一日一二〇一 二遊撃部隊指揮官(宛略)2YB〔(足柄大淀)2sd(霞朝霜)〕一二〇〇昭南水道着旗艦ヲ足柄ニ復皈』
  256. ^ a b #艦長海戦記65-66頁
  257. ^ #S1911二水戦日誌(2)p.10『(1)一日昭南歸着将旗ヲ大淀ヨリ霞ニ復歸ス二日霞朝霜ヲ夫々一〇一工作部船渠及昭南港船渠ニ入渠急速修理整備ニ従事セシム前月來入渠整備中ナリシ初霜ハ三日出撃準備完了ス』
  258. ^ 昭和20年1月9日(発令1月3日付)海軍辞令公報(甲)第1688号 p.37」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  259. ^ #S1911二水戦日誌(2)p.10『四日新司令官古村啓蔵少将着任交代ヲ了ス』
  260. ^ #S1911二水戦日誌(2)pp.16-17『二.人員ノ現状(イ)司令部(一)主要職員官氏名』
  261. ^ a b 昭和20年1月13日(発令1月7日付)海軍辞令公報(甲)第1692号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102900 
  262. ^ 昭和20年2月16日(発令2月10日付)海軍辞令公報(甲)第1723号 p.43」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 
  263. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二駆逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四駆逐隊ノ項ヲ削ル|第七駆逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七駆逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一駆逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十駆逐隊及第三十一駆逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一駆逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  264. ^ #秘海軍公報昭和20年1月(3)p.46『内令第六七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年一月二十五日|第七驅逐隊ノ項中「潮、」ノ下ニ「響、」ヲ加フ』
  265. ^ #S20.04二水戦詳報(1)p.10『大淀ハ4sfニ編入同隊ハ第十方面艦隊ヨリ除レGF附属トナリ當隊(霞《旗艦》初霜朝霜)亦GF電令作第五〇九號ニ依リ第十方面艦隊長官ノ作戰指揮下ヲ離レ一時4sf司令官ノ作戰指揮下ニ入リ同電令作第五一〇號ニ依リ4sf 1dgト共ニ北號作戰部隊ヲ編成緊急内地還送作戰實施ノコトトナレリ』
  266. ^ #S20.04二水戦詳報(1)pp.10-11『北號作戰部隊(除1dg)十日二〇三〇ジョホールバール出撃途中敵潜敵機ノ觸接攻撃ヲ蒙リツツモ其ノ都度之ヲ避退排除シ二十日呉着其ノ任ヲ達成セリ』
  267. ^ #S20.04二水戦詳報(1)p.8『(備考)二十三日迄霞ヲ爾後矢矧ヲ旗艦トス』
  268. ^ #S20.04二水戦詳報(1)p.11『(2)二十日呉ニテ2F(大和)ト會シ回航部隊ハ第二艦隊長官麾下ニ復シ二十三日旗艦ヲ霞ヨリ矢矧ニ復歸セリ』
  269. ^ a b c d 昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103700 
  270. ^ #秘海軍公報昭和20年3月(2)p.15『内令第二二一號 驅逐隊編制中左ノ取改定セラル|昭和二十年三月十日海軍大臣|第七驅逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三驅逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「樅、」ヲ削ル』
  271. ^ 昭和20年3月18日(発令3月10日付)海軍辞令公報(甲)第1749号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103800 
  272. ^ 昭和20年3月28日(発令3月18日)海軍辞令公報(甲)第1757号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103900 
  273. ^ 昭和20年4月1日(発令3月25日)海軍辞令公報(甲)第1761号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104200 
  274. ^ #S20.04二水戦詳報(1)p.43『(ハ)作戦指導(一)編制区分/3月27日以後21駆逐隊司令艦ヲ朝霜ニ変更』-p.53『(三)麾下艦艇ノ行動』
  275. ^ a b c #海軍駆逐隊、平成27324-326頁『磯風と霞の勇戦奮戦』
  276. ^ #S20.04二水戦詳報(2)p.40『一三二五|霞直撃弾二及至近弾ニ依リ航行不能』
  277. ^ #S20.04二水戦詳報(2)p.47『一六二二|冬月霞ノ左舷ニ横付人員救助(准士官以上十五名下士官兵二百七十二名』-『一六五七|霞沈没(三〇度五一分北 一二七度五七分東)』
  278. ^ #最後の水兵60頁
  279. ^ #S20.04二水戦詳報(3)pp.31-32『霞|一.直撃及至近弾ニ依リ缶室全部浸水/二.被弾情況/三.戰死一七名(内准士官以上一命) 戰傷四七名(〃 三名)|人員冬月ニ移積ノ上七日一六五七處分ス 地点{三〇度五一分北 一二七度五七分東』
  280. ^ #秘公報昭和20年5月(3)pp.24-26『内令第四一一號 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝霜|呉鎮守府在籍 驅逐艦 霞|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年五月十日 海軍大臣』
  281. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.1『内令第四〇〇號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和二十年五月十日海軍大臣|驅逐艦、一等ノ部中「満潮型/霞」、「夕雲型/朝霜」ヲ削ル(以下略)』
  282. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.2『内令第四〇四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月十日海軍大臣|第二十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  283. ^ #海軍駆逐隊、平成27312頁『機雷に触れて爆発、湾内に坐礁沈没した。』
  284. ^ 昭和20年4月28日(発令4月15日付)海軍辞令公報(甲)第1785号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800 

関連項目