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'''サラ・ベルナール'''(''Sarah Bernhardt'', [[1844年]][[10月22日]]? – [[1923年]][[3月26日]])は[[フランス]]の[[舞台女優]]。フランスの「[[ベル・エポック]]」と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られる。[[普仏戦争]]前後に喜劇女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立した<ref name="biography.com">{{cite web|url=http://www.biography.com/people/sarah-bernhardt-9210057|title=Sarah Bernhardt, Biography|website= The Biography.com website |author= Biography.com Editors |publisher=A&E Television Networks|accessdate=2016-03-27}}</ref>。[[ヴィクトル・ユゴー]]に「'''黄金の声'''」と評され、「'''聖なるサラ'''」や「'''劇場の女帝'''」など、数々の異名を持ったが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられている。[[ジャン・コクトー]]は「'''聖なる怪物'''」と呼んだ。キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演している。社会史の観点からは、一つの文化圏/消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際{{仮リンク|ヴェデット (人物像)|fr|Vedette (personnalité)|label=スター}}」としてしばしば言及される<small>(cf. 19世紀における「[[世界の一体化]]」)</small>。また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「[[アール・ヌーヴォー]]」という新芸術様式/運動の中心人物であった<ref name="NYReviewofBook">{{cite web|url=http://www.nybooks.com/articles/2007/05/10/the-drama-of-sarah-bernhardt/|title=The Drama of Sarah Bernhardt|first=Robert|last=Gottlieb|date=2007-05-10|website=The New York Review of Books|accessdate=2016-03-27}}</ref>。
'''サラ・ベルナール'''('''Sarah Bernhardt''', [[1844年]][[10月22日]] – [[1923年]][[3月26日]])は[[フランス]]の[[舞台女優]]。フランスの[[ベル・エポック]]を象徴する大女優として知られる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ファイル:Sarah_Bernhardt,_par_Nadar,_1864.jpg|サムネイ|[[フェリックス・ナダール]]撮影による[[1860代]]の肖像写真]]
[[ファイル:Sarah Bernhardt, par Nadar, 1864.jpg|thumb|サラ・ベナール([[ナダール]]撮影、1864]]
[[ファイル:Sarah Bernhardt by Félix Nadar 2.jpg|thumb|サラ・ベルナール([[ナダール]]撮影、1865年)]]
サラ・ベルナール(本名アンリエット・ロジーヌ・ベルナール、Henriette Rosine Bernard)は[[パリ]]で生まれた。母はユール(Youle)の名で知られた[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[オランダ人]]高級娼婦ユディト・ファン・ハルト(Judith van Hard)で、彼女は生き残った私生児の中では最年長であった。彼女の父親はフランス人弁護士エドゥアール・ベルナール(Edouard Bernard)であったといわれている。フランスのカトリック修道院で教育を受けたのち、生活のため女優と売春婦を兼ねることとなった。彼女は演劇の訓練のため、[[ナポレオン3世]]の異父弟[[シャルル・ド・モルニー]]公爵の援助により[[フランス国立高等音楽院|国立音楽演劇学校]]へ入学した。
[[ファイル:Sarah Bernhardt - Le Passant.png|thumb|舞台「ル・パッサン」におけるサラ・ベルナール]]
[[ファイル:Bernhardt-1.jpg|thumb|[[ヴィクトル・ユゴー]]の戯曲「[[リュイ・ブラス]]」において女王を演じるサラ・ベルナール、1879年。]]
[[ファイル:SarahBernhardt.png|thumb|1890年代に撮影されたポートレイト]]
[[ファイル:Alfons Mucha - 1894 - Gismonda.jpg|thumb|[[アルフォンス・ミュシャ|ミュシャ]]の出世作ともなった「ジスモンダ」のポスター。リトグラフ、1894年。]]
[[ファイル:Alfons Mucha - 1896 - La Dame aux Camélias - Sarah Bernhardt.jpg|thumb|ミュシャ作「椿姫」のポスター。リトグラフ、1896年。]]


=== 生誕 ===
彼女の舞台経歴は[[1862年]](満22歳)に始まり、出演作の多くは喜劇と道化芝居であった。1870年代にヨーロッパの舞台で名声を得ると、間もなく需要の多い全ヨーロッパとアメリカでも名声を得た。彼女は間もなく真面目な演劇の女優としての才能も現し、「聖なるサラ」との名を博した。恐らくは19世紀の最も有名な女優だったであろう。
母親のジュディト=ジュリー・ベルナール{{efn|[http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k73404m/f464 サラを含む姉妹たちの出生証明書]によれば、"Judith-Julie Bernardt" と綴り、h をつけない。}}(1821-1876)は、婦人帽子を売る貧しい売り子であり、ネーデルラントに住む[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の行商人の娘であった。パリに来て[[高級娼婦]]となり、「ユール(''Youle'')」の源氏名で知られていた<ref name="Gidel 2006, p.10">{{ouvrage|prénom1=Henry|nom1=Gidel|titre=Sarah Bernhardt|sous-titre=biographie|éditeur=Flammarion|année=2006|passage=10}}{{harvsp|Bernhardt|1907|p=6|texte=''Ma double vie''|id=ma2vie}}</ref>。父親が誰かは知られておらず<ref name="Gottlieb 2010, p.2">{{ouvrage|langue=en|prénom1=Robert|nom1=Gottlieb|titre=Sarah|sous-titre=The Life of Sarah Bernhardt|éditeur=Yale University Press|année=2010|passage=2}}</ref>、サラは父親の素性については常に沈黙を保っていた。


サラ・ベルナールの誕生日について、はっきりとはわかっておらず議論となっているが、これはパリコミューンの鎮圧の際に公文書館が破壊されたせいである<ref name="Gottlieb 2010, p.1">{{ouvrage|langue=en|prénom1=Robert|nom1=Gottlieb|titre=Sarah|sous-titre=The Life of Sarah Bernhardt|éditeur=Yale University Press|année=2010|passage=1}}</ref>。伝記では通常、1844年10月22日又は23日説をとるが<ref>voir {{chapitre|langue=en|titre chapitre=Bernhardt, Sarah |titre ouvrage=Encyclopadia Britannica. Encyclopædia Britannica Ultimate Reference Suite|lieu=Chicago|année=2012|lire en ligne=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/62517/Sarah-Bernhardt}}{{ouvrage|langue=en|prénom1=Harmen|nom1=Snel|titre=The ancestry of Sarah Bernhardt|sous-titre=a myth unravelled|lieu=Amsterdam|éditeur=Joods Historisch Museum|année=2007|passage=9-10|isbn=978-90-802029-3-1|présentation en ligne=http://books.google.be/books?id=JIUrAQAAIAAJ&q=inauthor:%22Harmen+Snel%22&dq=inauthor:%22Harmen+Snel%22&hl=fr&sa=X&ei=gjLEU9_xHrSO4gTChYCwBQ&ved=0CB8Q6AEwAA}}{{ouvrage|langue=en|prénom1=Elizabeth|nom1=Silverthorne|titre=Sarah Bernhardt|éditeur=Chelsea House Publishers|année=2004|passage=24}}</ref>、1844年7月又は9月説をとるものもあり<ref name="Gottlieb 2010, p.1"/>、1843年又は1841年説もある<ref name="Gottlieb 2010, p.1"/>。さらに、レジオンドヌール賞を取得する手続きの便宜のため、そしてサラのフランス国籍を証明するために、サラ・ベルナールのために行われた洗礼証明書に基づいて、裁判所の決定により1914年1月23日に遡及的な出生届出書を作成した。もちろんこれは誰かを欺くという目的のためでもなければ、裁判官を欺くためでもない<ref name="Snel 2007, p.11">{{ouvrage|langue=en|auteur=Harmen Snel|titre=The Ancestry of Sarah Bernhardt : A Myth Unravelled|éditeur=Joods Historisch Museum|date=2007|pages totales=110|isbn=978-90-802029-3-1|passage=14 et 16}}</ref>。この出生届に基づき<ref>[http://canadp-archivesenligne.paris.fr/archives_etat_civil/avant_1860_fichiers_etat_civil_reconstitue/fecr_visu_img.php?registre=V3E_N_0166&type=ECRF&&bdd_en_cours=etat_civil_rec_fichiers&vue_tranche_debut=AD075ER_5MI20732_01557_C&vue_tranche_fin=AD075ER_5MI20732_01607_C&ref_histo=58318&cote=V3E/N%20166 reconstitution de son acte de naissance]</ref>、「1844年9月25日、パリ15区生まれ」が書類上の出生日及び出生地となっている<ref name="Snel 2007, p.11"/>。また、この遡及出生届の中で、サラは母がジュディト・ファン・アールで父がエドゥアール・ベルナールであると宣言している。この父エドゥアールが[[ルアーヴル]]出身の裕福な船主であるとか、法律の勉強をしていたとか、いくつかの説があるが、モレルという名字の海軍士官である可能性も示唆されている<ref>{{ouvrage|langue=en|auteur=Harmen Snel|titre=The Ancestry of Sarah Bernhardt : A Myth Unravelled|éditeur=Joods Historisch Museum|date=2007|pages totales=110|isbn=978-90-802029-3-1|lire en ligne=14-16}}</ref>。いずれにせよ、サラの父親について確かなことは不明のままである。
サラは主として舞台女優であったが、様々なプロダクションからいくつかのシリンダーやディスクによる録音を作った。最も初期の物の1つは、1880年代に行われた、[[ニューヨーク]]の[[トーマス・エジソン]]宅を訪れた際の[[ジャン・ラシーヌ]]の『[[フェードル]]』からの朗読である。多才なことに、サラは視覚的芸術にも熱中し、演劇のみならず絵画や、さらには[[アントニオ・デ・ラ・ガンダラ]]{{enlink|Antonio de La Gandara}}のモデルとなったのみならず、自分自身の彫刻をも制作した。彼女はまた、自身の生涯に亘った一連の本や戯曲を出版しようとした。


同様に出生地についても確かなことがわかっていない。パリのエコール・ド・メドゥシーヌ通り5番に生まれたとする[[銘板|プラーク(銘板)]]もあるが、サン・オノレ通り32番又は265番説や、ミショディエール通り22番説もある<ref name="Gottlieb 2010, p.1"/>。本名とされる「アンリエット=マリー=サラ(Henriette-Marie-Sarah)」という名前についても、情報源によってときどき順番が入れ替わり、「サラ=マリー=アンリエット」とするものもある。サラが[[コンセルヴァトワール]]に登録した際に用いた名前に従うと、「アンリエット=ロジーヌ・ベルナール」であり、ロジーヌの愛称がサラであるという<ref>Témoignage de ces incertitudes, les échanges publiés dans ''{{lien web|url=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k734545/f369|titre=L'Intermédiaire des chercheurs et des curieux}}''. Interrogée, à plusieurs reprises sur ce point de son vivant, Sarah Bernhardt n'a jamais répondu. Voir aussi {{harvsp|Tierchant|2009|p={{要ページ番号|date=2016年3月}}}}</ref>。
サラの社交生活も同様に、絶え間なく活動的だった。彼女はベルギーの貴族である[[リーニュ家|リーニュ公]]子シャルル=ジョゼフ=ウジェーヌ=アンリ(Charles-Joseph-Eugene-Henri)と恋愛関係を持ち、彼との間に[[1864年]]、唯一の子である作家の[[モーリス・ベルナール]]を儲けた(モーリスは後に[[ポーランド]]の公爵令嬢マリア・ヤブロノフスカ(Maria Jablonowska, 1863年 - 1914年)と結婚した)。その後の愛人には数名の芸術家([[ギュスターヴ・ドレ]]、[[ジョルジュ・クレラン]])および俳優(ムネ=シュリ{{enlink|Jean Mounet-Sully|a=on}}、ルー・テリジェン)がいた。サラは[[1882年]]に[[ロンドン]]で[[ギリシア]]生まれの俳優アリスティデ・ダマラ{{enlink|Jacques Damala|a=on}}と結婚した。その結婚は、法律上は1889年にダマラが34歳で死去するまで有効であったが、主としてダマラの[[モルヒネ]]依存により、早々と崩壊した。
[[Image:Alfons_Mucha_-_1894_-_Gismonda.jpg|thumb|ジスモンダ(1894年)]]
[[1895年]]にサラは、当時無名の挿絵画家だった[[アルフォンス・ミュシャ]]にポスター製作を依頼した。年の瀬で主だった画家がクリスマス休暇をとっていたため、急遽ミュシャに白羽の矢が立ったという。ミュシャがこのとき作ったポスター「ジスモンダ」はパリ中で脚光を浴び、ミュシャが[[アール・ヌーヴォー]]の象徴として活躍するきっかけとなった。


身の上話を空想でふくらませるというこの女優の性向は、このもつれにもつれた異説の数々を解きほぐすことを難しくしている<ref name="Gottlieb 2010, p.1"/>。
サラはまた、[[1900年]]の“''Le Duel d'Hamlet''”(ハムレットの決闘)に[[ハムレット]]役でデビューした、[[無声映画]]の女優のパイオニアの1人である(この映画には吹き替えられたセリフが録音されたシリンダーが付随しており、厳密には無声映画ではない)。彼女は8本の活動写真と2本の伝記映画すべてに主演した。伝記映画の後者は、1912年の“'"Sarah Bernhardt à Belle-Isle''”(自宅での彼女の毎日の生活に関する記録映画)を含んでいる。


=== 幼年期 ===
[[1905年]]、南米ツアー中の[[リオデジャネイロ]]で『[[トスカ]]』(''La Tosca'')上演中に右ひざに重傷を負う。
サラ・ベルナールには少なくとも3人の姉妹がおり、妹の一人が同じくコメディエンヌのジャンヌ=ロジーヌである。サラは、母ユールがジャンヌ=ロジーヌを特にかわいがることにずっと苦しんでいた。パリの社交界で生活することを選んだ母に見捨てられ、サラは[[カンペルレ]]にある乳母の家で孤独な子ども時代を送った。カンペルレは[[ブルトン語]]しか通じないところだった。サラの叔母の愛人だった[[シャルル・ド・モルニー|ド・モルニ公]]がサラの教育の面倒を見てくれて、1853年当時[[ヴェルサイユ]]のグランシャンで教師をしていたマドモワゼル・フレサールの教育施設に入学させてくれた。その学校でサラはカトリック神秘主義者となり<ref>{{harvsp|Bernhardt|1907|p=34|texte=''Ma double vie''|id=ma2vie}}</ref>、さらに、はじめて、舞台で何かを演じるという経験をした。このときやった役はある宗教劇における天使の役だった<ref>{{Lien web|url=http://www.ladepeche.fr/article/2000/10/22/86382-les-biographes-entrent-en-scene-barbara-la-belle-amour.html|titre=« Sarah Bernhardt en impératrice byzantine »|auteur=|date=22 octobre 2000|site=La Dépêche du Midi}} ; {{harvsp|Bernhardt|1907|p=35sq|texte=''Ma double vie''|id=ma2vie}}</ref>。1857年にユダヤ教徒であったサラはキリスト教徒としての洗礼を受けた。彼女はその頃は修道女になりたいと考えていた。その一方で、本名を舞台で使う名前とした彼女の選択や、彼女が得たポジションに示されているように、彼女は決して自分の出自を否認しようとはしなかった<ref>Cf. lettre à M. Jouvin citée dans {{ouvrage|prénom1=Jules|nom1=Huret|lien auteur=Jules Huret|titre=Sarah Bernhardt|éditeur=F. Juven|année=1899|passage=30|lien web=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k113098c/f32}}</ref>。


そして、14才のころに[[フランス国立高等音楽院|フランス国立音楽演劇学校]](コンセルヴァトワール)の演劇科を受験して合格し、[[修道院]]暮らしもやめた{{efn|Tout le monde m'avait donné ''des'' conseils. Personne ne m'avait donné ''un'' conseil. On n'avait pas songé à me prendre un professeur pour me préparer<ref>{{harvsp|Bernhardt|1907|p=82|texte=''Ma double vie''|id=ma2vie}}</ref>}}。コンセルヴァトワールでは、[[フェンシング]]のレッスンも受けた。これは「[[ハムレット]]」のような男役をやるときに役に立った<ref>{{harvsp|Bernhardt|1907|p=102|texte=''Ma double vie''|id=ma2vie}}</ref>。
[[1914年]]、[[レジオンドヌール勲章]]を授与された。


=== コメディ・フランセーズ時代 ===
[[1915年]]、サラは10年前に負傷した右脚を切断し、数ヶ月の間[[車椅子]]に座ったままだった。それでも彼女は、木製の義足を必要としたにもかかわらず、仕事を続けた。
1859年にパリのコンセルヴァトワール演劇高等科で、サラはド・モルニー公の薦めで{{仮リンク|ジャン=バティスト・プロヴォ|fr|Jean-Baptiste Provost}}のクラスに入った<ref>{{ouvrage|prénom1=Jacques|nom1=Lorcey|titre=La Comédie française|éditeur=Fernand Nathan|année=1980|passage=78}}</ref>。1862年に喜劇で2番目の成績をとってそこを卒業し、[[コメディ・フランセーズ]]に入座した。しかし、1866年に正座員のマドモワゼル・ナタリーに平手打ちを食らわしてしまい、追い出された。ケンカの原因は、ナタリーのドレスのすそ(裳)を踏んづけて歩いていたサラの妹をナタリーが乱暴に押しのけたことだった<ref>{{ouvrage|prénom1=Jules|nom1=Huret|lien auteur=Jules Huret|titre=Sarah Bernhardt|éditeur=F. Juven|année=1899|passage=17|lien web=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k113098c/f19}}</ref>。サラは[[オデオン座]]と契約を結び<ref name="manote">Hélène Tierchant, ''Sarah Bernhardt : Madame Quand même'', coll. « Grands docs », éd. SW-Télémaque, 2009 {{ISBN|978-2753300927}}</ref>、1869年に{{仮リンク|フランソワ・コッペ|fr|François Coppée}}の「ル・パッサン」を演じて<!-- 何の役か不明 -->本領を発揮した。[[普仏戦争]]におけるパリ包囲のさなか、1870年に、サラは劇場を野戦病院に造りかえた。そこで、[[フェルディナン・フォッシュ|のちのフォッシュ将軍]]の手当をした。彼とはさらに45年後、[[マルヌ]]の塹壕で出会うことになる。1872年には「[[リュイ・ブラス]]」の女王の役を勝ち取り、さらに戯曲の作者である[[ヴィクトル・ユゴー]]から「黄金の声」なるあだ名を頂戴する<ref>À l'occasion d'un banquet pour la centième de ''Ruy Blas'' ; cf. {{ouvrage|langue=en|prénom1=Éric|nom1=Salmon|titre=Bernhardt and the Theatre of Her Time|édition=Greenwood|série=Contributions in drama and theatre studies|année=1984|passage=60}} et {{ouvrage|prénom1=Béatrix|nom1=Dussane|titre=Reines de théâtre|sous-titre=1633-1941|éditeur=H. Lardanchet|année=1944|passage=177}}</ref>。この成功によりサラはコメディ・フランセーズに呼び戻された。1874年に[[ラシーヌ]]の「[[フェードル]]」、1877年にユゴーの「[[エルナニ]]」を演じた<ref name="Forestier">{{ouvrage|auteur=Louis Forestier|titre=Sarah Bernhardt, « tout entière au théâtre attachée »|périodique= revue de l'[[AMOPA]]|date=2010|volume=|numéro=188|pages=31-34|url texte=}}</ref>。


この時期の成功は、サラが地位を得るために、また、支出を賄うために、「彼女の母親のように」その魅力を用いたのではないかと警察が疑うほどだった<ref group="注釈" name=houbre>Fiche de Sarah Bernhardt, registre des courtisanes, Paris SAM Série BB, registre {{n°|1}}, citée dans {{ouvrage|langue=fr |prénom1=Gabrielle |nom1=Houbre |lien auteur1= Gabrielle Houbre |responsabilité1= |titre= Le Livre des courtisanes |sous-titre=archives secrètes de la police des mœurs, 1861-1876|lieu= Paris| éditeur=Taillandier |année=2006}} (cf. notice de Florence Rochefort dans [http://clio.revues.org/6973 ''Clio'' n°26], 2007) et {{chapitre|langue=fr |prénom1=Gabrielle |nom1=Houbre |lien auteur1= Gabrielle Houbre |titre chapitre=Courtisanes sous surveillance | auteurs ouvrage= Bruno Fuligni| titre ouvrage=Dans les archives secrètes de la police |sous-titre ouvrage= Quatre siècles d'histoire, de crimes et de faits divers|lieu=Paris |éditeur=L'iconoclaste|année=2009}} (cf. notice de Jean-Marc Leclerc [http://www.lefigaro.fr/actualite-france/2008/12/03/01016-20081203ARTFIG00359-grand-nettoyage-dans-les-fichiers-de-police-.php ''Le Figaro''], 3 décembre 2008).</ref>。いずれにせよ、サラが成功を収めるにつれ、彼女を賛美する形容辞の数も次々と増えて行った。たとえば、「神聖なるサラ」<ref>cf. {{ouvrage|prénom1=Henry|nom1=Gidel|titre=Sarah Bernhardt|sous-titre=biographie|éditeur=Flammarion|année=2006|passage=277,283}}, {{ouvrage|prénom1=Michel|nom1=Peyramaure|titre=La Divine|sous-titre=Le roman de Sarah Bernhardt|éditeur=Robert Laffont|année=2006}}</ref>、「劇場の女帝」<ref name="Broussky 2001, p.119">{{ouvrage|prénom1=Salomé|nom1=Broussky|titre=La Comédie Française|éditeur=Le Cavalier Bleu|année=2001|passage=119}}</ref>といった具合である。
1923年、サラ・ベルナールは息子モーリスの腕の中で息を引き取った。彼女はフランスより[[国葬]]の礼を受け、パリの[[ペール・ラシェーズ墓地]]に埋葬された。サラが豪華な棺の中で就寝したという逸話があるが、この棺は生前に手放し、彼女の埋葬には用いられなかった。


== ==
=== 名声確立と独立 ===
1880年にサラは「フランス人」の栄光とともに退職し、彼女には、契約の濫用に対する損害賠償として10万フラン相当の金が支払われた。彼女は自分で会社を設立し、その会社とともに1917年まで外国で演技の仕事をし、財を成すことにした。サラは、はじめて国際的な「スター」となった人物であり、五大陸をツアーしたコメディエンヌであった。そのスターぶりは[[ジャン・コクトー]]をして「聖なる怪物」と言わしめた<ref name="Broussky 2001, p.119"/>。また、遅くとも1881年に行われたサラ・ベルナールのロシア興行の際に、当時新聞記者であった[[アントン・チェーホフ]]は<ref>モスクワの雑誌、''Le Spectateur'' 21-22号、1881年11月。</ref>、悪意のある筆致で次のように描いている。「北極と南極を訪れ、旅の軌跡は五大陸に広がり、海原を超えて、一回ならず天国まで昇ったこの女」<ref>{{ouvrage|prénom1=Noëlle|nom1=Guibert|titre=Portrait(s) de Sarah Bernhardt|éditeur=Bnf|année=2001|passage=166}}</ref>。また、新聞記者らの狂騒を「固定観念」となったものの後を追って「飲まず食わずで、ただ走り回っているだけだ」と風刺した<ref>{{ouvrage|prénom1=Françoise|nom1= Darnal-Lesné|titre=Dictionnaire Tchekhov|éditeur=L'Harmattan|année=2010|passage=33}}</ref>。
* [[中村天風]]が彼女の家に居候したことがある。

* サラ・ベルナールは、バイン街1751の[[ハリウッド名声の歩道]]に星型がある。
サラ・ベルナールは、[[ハムレット]]や[[ペレアスとメリザンド|ペレアス]]のような男の役を何度も演じており、これに霊感を得た[[エドモン・ロスタン]]は[[1900年]]に「{{仮リンク|レグロン|fr|L'Aiglon}}」([[ナポレオン1世]]の息子、[[ローマ王]]の話)を書いた。サラは[[ロンドン]]、[[コペンハーゲン]]などヨーロッパ各地はもとよりアメリカ合衆国でも興行を行った。1880年から1881年にかけて行ったアメリカ興行においては、一座の人員と8トンにも及ぶトランクの数々を運ぶために[[プルマン (企業)|プルマン]]の客車をチャーターした。ロシア興行の中では、1881年、1892年、1908年に[[サンクト・ペテルスブルク]]の[[ミハイロフスキー劇場]]で行った公演が有名である。彼女の叙情性と明晰な[[ディクション]]に観衆は熱狂した。サラは興行を宣伝するために[[ニューヨーク]]で[[トーマス・エジソン]]に会い、シリンダーに[[ラシーヌ]]の「[[フェードル]]」を吹き込んだ<ref name="Forestier"/>。また、フランス人俳優としては非常に珍しいことに、サラは[[ロサンゼルス]]の「[[ハリウッド名声の歩道]]」に星を埋め込まれることになった。
* [[マルセル・プルースト]]の『[[失われた時を求めて]]』の中の架空の人物である女優ラ・ベルマ(La Berma)は、サラ・ベルナールからインスピレーションを受けて創造された。

* サラは銀行を信用せず、収入の金貨は麻袋に入れ自室のベッドの下に隠していたという。
また、[[オスカー・ワイルド]]に親しいサラは、彼に戯曲作品を注文した。1892年に自身で[[タイトルロール]]を演じた「[[サロメ]]」である。1893年からサラは{{仮リンク|テアトル・ド・ラ・ルネサンス|fr|théâtre de la Renaissance (Paris)}}の座長を務めるようになり、同劇場で絶大な成功を収めたいくつかの作品(「[[フェードル]]」や「{{仮リンク|椿姫 (戯曲)|fr|La Dame aux camélias (théâtre)|label=椿姫}}」)の再演をしたほか、数多くの新作(ヴィクトリアン・サルドゥ([[:en:Victorien Sardou|en]])の「ジスモンダ」([[:en:Gismonda|en]])や、[[エドモン・ロスタン]]の「遙かなる姫君」、{{仮リンク|モーリス・ドネー|fr|Maurice Donnay}}の「恋人たち」、[[ガブリエーレ・ダヌンツィオ]]の「死の村」、[[アルフレッド・ド・ミュッセ]]の「{{仮リンク|ロレンザッチョ|fr|Lorenzaccio}}」)を制作上演した。さらに1899年には{{仮リンク|テアトル・ド・ラ・ヴィル|fr|Théâtre de la Ville|label=テアトル・デ・ナシオン}}の座長にもなった。そして劇場の名前を「テアトル・サラ=ベルナール」と改称して、ロスタンの「レグロン」「遙かなる姫君」以外の新作や、サルドゥの「トスカ」([[:en:La Tosca|en]])改訂版を上演した。[[ドレフュス事件]]のとき、サラは支持を[[エミール・ゾラ]]に傾けた。また、[[ルイーズ・ミシェル]]を支援し、死刑に反対する立場を取った。
* 現在は、[[両性愛|バイセクシャル]]であったことが明らかになっている<ref>[http://www.glbtq.com/arts/bernhard_t_s.html Sarah Bernhardt on Glbtq.com]. Retrieved November 17, 2006.</ref>。

1896年12月9日は、女優の栄光を讃える「サラ・ベルナールの日」が[[カチュール・マンデス]]により企画された。パリ中から人が詰めかけ{{efn|「ある時代におけるパリに住むみんな」ないし「当代各界の名士」を指すフランス語として "''[[:fr:Tout-Paris|Tout-Paris]]''"([[トゥ=パリ]])という言葉があるが、この時に集まったのはまさに「トゥ=パリ」であった。}}、{{仮リンク|インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン|fr|InterContinental Paris Le Grand|label=グラン・オテル}}における500人の招待客の会食ののち、テアトル・ド・ラ・ルネサンスの特別興行が催された。グラン・オテルからテアトルへの移動には200台の[[クーペ|二人乗り馬車]]が仕立てられ、サラを先頭について行った。テアトルでは{{仮リンク|アルモン・シルヴェストル|fr|Armand Silvestre}}作詞、[[ガブリエル・ピエルネ]]作曲の「サラへの讃歌」が[[コンセール・コロンヌ]]により演奏された<ref>{{ouvrage|prénom1=Noëlle|nom1=Guibert|titre=Portrait(s) de Sarah Bernhardt|éditeur=Bnf|année=2001|passage=167}}</ref>。

広告の重要性を認識していたサラは、舞台において自身の生活の一部分を垣間見せ、消費材の宣伝に自分の名前を躊躇せず関連づけた。彼女のスタイルとシルエットは、流行と装飾美術に刺激を与えたが、それだけでなく、[[アール・ヌーヴォー]]の美学にも影響を与えた。彼女は、画家の[[アルフォンス・ミュシャ]]に自ら訴えかけて、1894年12月から[[ポスター]]を描いてもらった。以降の6年間に渡るコラボラシオンは、ミュシャの作品に副次的な霊感をもたらした。1874年に妹のレジーナの命を奪った結核の病がサラの体をも蝕み始めた。家にクッションを敷き詰めた棺桶をしつらえ、その中に深く腰を下ろして休むことが常になった。スキャンダルが起きる前までは、家に[[ナダール]]を呼んで、写真を撮ってもらっていた。その目的は写真や絵葉書を買い上げるためだった<ref>{{harvsp|Tierchant|2009|p={{要ページ番号|date=2016年3月}}}} ; {{harvsp|Bernhardt|1907|p=336sq|texte=''Ma double vie''|id=ma2vie}}</ref>。

1905年には[[カナダ]]興行を行い、[[ケベック・シティー|ケベック]]で[[ウィルフリッド・ローリエ]]首相の出迎えを受けた。しかしながら、当時カナダの大司教であった{{仮リンク|ルイ=ナゼール・ベジャン|fr|Louis-Nazaire Bégin}}は大の演劇嫌いで、サラ・ベルナールの斬新な肉体を使った演技が官能的であると受け取られかねないと非難していた。彼は[[教区]]の信者らに興行のボイコットを呼びかけた。そのため、普段の群衆に慣れたサラは、部分部分に空席が目立つ観客席を前に上演することになった<ref>Jean-Marie Lebel, ''Québec 1608-2008 : Les Chroniques de la capitale'' citées par [http://www.cyberpresse.ca/article/20080713/CPSOLEIL/80712119/6925/CPSOLEIL01 Baptiste Ricard-Châtelain dans ''Le Soleil''], 13 juillet 2008.</ref>。

=== 晩年 ===
サラ・ベルナールは晩年に向かうにつれて、120回を越える興行で舞台女優として演技をしたが、映画の分野でも等しく女優として活躍した。最初の出演映画は、1900年の映画「ハムレットの決闘」である。これは「フォノ・シネマ・テアトル方式(いわゆる[[トーキー]])」で音声付き映画を実現しようとした最初期の試みの一つであった。この映画では、シリンダーに入れたフォノグラフが、映写されている映像に合わせて、女優の声を延ばしたり縮めたりして同期させた。サラはその次は2本の無声映画に出演した。これらは自伝映画であった。二つ目の「ベル=イルのサラ・ベルナール」(''Sarah Bernhardt à Belle-Île'')は1912年の作品でサラの日常を描いたものである<ref>{{cite book|first=René|last=Navarre|title=Fantômas c'était moi : Souvenirs du créateur de Fantômas en 1913|publisher=L'Harmattan|date=2012|url=http://books.google.fr/books?id=0j4IV5fhWgAC&pg=PA46#v=onepage&q&f=false}}</ref>。

1890年に[[ポルト=サン=マルタン劇場]]で公演した「[[ジャンヌ・ダルクの成り行き]]」出演中に受けた怪我が悪化して、膝の[[結核#筋骨格系の結核症|骨結核]]になってしまったため、サラは、1915年3月12日、70歳のときに、[[ボルドー]]のサン=オーギュスタン病院で右足を切断した。[[ギプス]]をしていた彼女の膝は[[壊疽]]を起こしていた<ref>{{ouvrage|langue=en|auteur=Robert S. Pinals|titre=''Sarah’s Knee : A famous actress with chronic, inflammatory monoarthritis''|périodique=Journal of Clinical Rheumatology|date=février 2004|volume=10|numéro=1|pages=13-15|url texte=}}</ref>。

最初の症状が出たのは、13年以上前の1887年にさかのぼる。このとき、「トスカ」のフィナーレで、サラは手すりの高さから落ちて膝をつくという演技を何度も行った{{efn|ここで言及されているサラ・ベルナールの足については、le directeur du [[Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circus|cirque Barnum]] de San Francisco aurait proposé de l'acquérir pour 100,000 livres pour la montrer dans les foires, aurait été retrouvée en 2007 dans le laboratoire d'anatomopathologie de la faculté de médecine de Bordeaux où elle était conservée dans un bocal de formol.}}<ref>{{ouvrage|auteur=Michel Bénézech|titre=La Chair de l'âme |éditeur=Le Bord de l'eau|chapitre= La jambe perdue de Sarah Bernhardt|date=2007|isbn=978-2-915651-59-1|lire en ligne=}}</ref>。サラの友人の医師、{{仮リンク|サミュエル=ジャン・ド・ポズィ|fr|Samuel Pozzi}}はかつての恋人の足を切るに忍ばず、信頼のおけるジャン=アンリ・モーリス・ドニュセ教授に手術を託した<ref>{{ouvrage|langue=en|nom1=de Costa|prénom1=Caroline|nom2=Miller|prénom2=Francesca|titre=''Sarah Bernhardt's missing leg''|périodique=The Lancet|lien périodique=|volume=374|numéro=9686|jour=|mois=juillet|année=2009|pages=284-285|isbn=|issn=|issn2=|doi=10.1016/S0140-6736(09)61353-2|url texte=|consulté le=11 mars 2012}}</ref>。サラはそれでも座ったままで演技をし続けた(木製であろうがセルロイド製であろうが義足をつけることを拒んでいた)。持ち運びできる椅子を持参してドイツと戦う前線の兵士たちのところへ慰問を続け、「椅子の小母さん」と呼ばれることを望んだ<ref>« [http://www.courrierinternational.com/article.asp?obj_id=72619 La jambe de Sarah Bernhardt] », ''Courrier international'', 12 avril 2007</ref>。サラは決して自分の身体の障害について心の内を明かすことはなかった。ただ「ほら見て、私、ホロホロチョウよ!」と言って人の笑いを取るだけだった<ref>{{ouvrage|auteur=Catherine Simon Bacchi|titre=Sarah Bernhardt : mythe et réalité|éditeur=S.E.D.A.G.|date=1984|passage=52}}</ref>。
整形外科手術については、最初のうち、見せかけだけの拒否をしていたが、完全に無視する程ではなかった。1912年に彼女はアメリカ人の外科医、チャールズ・ミラーに「リフティング」という初歩的な整形手術を依頼した。その手術結果はのちに{{仮リンク|スザンヌ・ノエル|fr|Suzanne Noël}}医師により修正されることになる<ref>{{ouvrage|prénom1=Nicolas |nom1=Guirimand |titre= De la réparation des « gueules cassées » à la « sculpture du visage »| sous-titre=La naissance de la chirurgie esthétique en France pendant l’entre-deux-guerres|périodique=Actes de la recherche en sciences sociales| numéro=156-157|année=2005 |lire en ligne=http://www.cairn.info/article.php?ID_ARTICLE=ARSS_156_0072}}.</ref>。

サラは、[[サシャ・ギトリ]]脚本の映画 "''[[:fr:La Voyante (film)|La Voyante]]''" に出演しているさなかの1923年3月26日、{{仮リンク|プレール通り|fr|Boulevard Pereire}}56番にて、息子が見守る中、亡くなった。フランス政府はサラに対して[[国葬]]を執り行い、[[パリ]]の[[ペール・ラシェーズ墓地]](44区画)に埋葬した。

== 芸術家として ==
[[ファイル:Sarah Bernhardt-The Fool and Death mg 1807.jpg|thumb|サラ・ベルナール作「道化と死」1877年。[[ディジョン美術館]]蔵。ユゴーの戯曲「王は愉しむ」の登場人物、道化のトリブレが娘のしゃれこうべを持っている姿をブロンズ像にしたもの。]]
=== 演技様式 ===
同時代人に大いなる歓呼を持って受け容れられたサラ・ベルナールの演技の様式は、身振り([[マイム]])の面でも{{仮リンク|朗唱法|fr|déclamation}}(デクラマシオン)の面でもメリハリを重視した大げさなものであった。これは同時代の俳優{{仮リンク|ムネ=シュリ|fr|Mounet-Sully}}も同様である。声の抑揚は意図的に自然なものから遠ざかった。大げさな身振りだけでなく、声を高めたり潜めたりの振幅を大きくすることによっても、感情を表現した<ref>{{ouvrage|titre=Le Théâtre au XIXe siècle |sous-titre=Du romantisme au symbolisme|prénom1=Anne-Simone |nom1=Dufief |éditeur=Bréal |année=2001 |passage=17}}</ref>。{{仮リンク|バロックの朗唱法|fr|déclamation baroque}}を受け継いだこの様式は、サラが芸能活動を引退する頃には既に時代遅れになっていた。{{仮リンク|アルフレート・ケール|de|Alfred Kerr}}は、"Tout ce qui sort de sa bouche est faux ; sinon, tout est parfait"({{翻訳|彼女の唇から出るものはすべていつわり、されど完璧}})と評した{{efn|"Tout ce qui sort de sa bouche est faux ; sinon, tout est parfait" Alfred Kerr, ''Die Welt in Drama'', chroniques de 1902 à 1932, dans {{ouvrage|prénom1=Hans Manfred |nom1=Bock |prénom2=Gilbert |nom2=Krebs |titre=Échanges culturels et relations diplomatiques |sous-titrePrésences françaises à Berlin au temps de la République de Weimar|éditeur=Publications de l'Institut d'Allemand, Université de la Sorbonne nouvelle|année=2004 |passage=273}}.}}。現代的な様式に慣れた者が、1903年にトーマス・エジソンの家で録音されたサラの「フェードル」を聞くと、失望することが多い<ref>{{ouvrage|titre=Peut-on entendre Sarah Bernhardt ?|sous-titre=Le piège des archives audio et le besoin de protocoles |prénom1=Marie-Madeleine |nom1=Mervant-Roux|périodique=Sociétés et représentations|année=2013 |numéro=35 |lire en ligne=http://www.cairn.info/resume.php?ID_ARTICLE=SR_035_0165}}.</ref>。

=== 絵画と彫刻 ===
サラ・ベルナールが喜劇女優としての才能が認められ始めた1874年頃、彼女は、当時興味を持つ大部屋女優({{仮リンク|アンプロワ|fr|Emploi (théâtre)}})が少なかった彫刻(さらに絵画も)を習った<ref>{{harvsp|Bernhardt|1907|p=337|texte=''Ma double vie''|id=ma2vie}}</ref>。サラは[[アカデミー・ジュリアン]]に足繁く通い、1880年の[[サロン・ド・パリ]]に「死せる乙女」像を出品、« moins comme un résultat qu'une promesse<ref>[http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5550871d/f7.image.r=Sarah%20Bernhardt.langFR ''Le Salon''], juin 1880.</ref> »({{翻訳|型破り}})との評を受けた。他にも、今では[[オルセー美術館]]に展示されている「{{仮リンク|エミール・ド・ジラルダン|fr|Émile de Girardin}}の胸像」や「{{仮リンク|ルイーズ・アベマ|fr|Louise Abbéma}}の胸像」など、いくつか銅メダルを得た<ref>{{en}} [http://www.nmwa.org/explore/artist-profiles/sarah-bernhardt Sarah Bernhardt], ''National Museum of Women in the Arts'', 2012</ref>。

== 私生活 ==
[[ファイル:Louise Abbéma - Sarah Bernhardt in a Japanese Garden - Google Art Project.jpg|thumb|320px|{{仮リンク|ルイーズ・アベマ|fr|Louise Abbéma}}作「日本庭園の中のサラ・ベルナール」[[パステル]]、1885年。]]
サラ・ベルナールの私生活の詳細は不確かな伝聞が多い。彼女が「わたしはとても細くて痩せているから雨降りの時なんか雨粒の間を通るのよ」とよく言っていたころ、これが気に入らない、かの[[小デュマ]]は新聞記者の{{仮リンク|ルイ・ガンドラ|fr|Louis Ganderax}}との談話で、彼女の言葉に続けて「あの女(ひと)はとてもほら吹きだから、太っているということだろうね」と付け加えたという<ref>{{ouvrage|prénom1=Louis|nom1=Garans|titre=Sarah Bernhardt|sous-titre=Itinéraire d'une divine|éditeur=Editions Palantines|année=2005|passage=115}} ; propos rapporté par [[André de Fouquières]], voir {{ouvrage|prénom1=André|nom1=de Fouquières|titre=Mon Paris et ses Parisiens|volume=I|éditeur=P. Horay|année=1900|passage=152}}</ref>。

サラ・ベルナールの私生活は激動に満ちたものであった。20歳の頃にのちに著述家となる一人息子、{{仮リンク|モーリス・ベルナール|fr|Maurice Bernhardt}}を出産する。{{要出典範囲|父親はさるベルギー貴族と言われている|date=2016年3月}}。恋多き彼女の傍らには、いつも恋人がいた。そのうちの一人、{{仮リンク|シャルル・アース|fr|Charles Haas (1833-1902)}}は、サラが真心からの愛を誓った相手としてよく知られている。ところがあるとき、彼はサラのことを尻軽女として扱い、躊躇なく裏切った。二人は破局したが、生涯変わらぬ友人として留まった。

医師の[[サミュエル=ジャン・ド・ポズィ]]のほかには、芸術家では[[ギュスターヴ・ドレ]]や{{仮リンク|ジョルジュ・クレラン|fr|Georges Clairin}}が、俳優では[[ムネ=シュリ]]、{{仮リンク|リュシアン・ギトリ|fr|Lucien Guitry}}、{{仮リンク|ルー・テレジェン|fr|Lou Tellegen}}がサラの親友ないし恋人であったと推定されている。[[ヴィクトル・ユゴー]]や<ref>Alain Decaux, ''Victor Hugo'', Perrin, 1984.</ref>、[[エドワード7世_(イギリス王)|プリンス・オブ・ウェールズ]]もそうであったという者もいる{{sfn|Tierchant|2009}}。2010年には詩人の[[ロベール・ド・モンテスキュー]]との親友ないし恋人関係にあったことを示唆する、ロベールがサラに捧げた詩が発見された。詩集には未収録である。この手書きの詩は1923年に購入されたサラの蔵書の中から見つかった<ref>{{cite book|title=Bibliothèque de Mme Sarah Bernhardt|location=Paris|publisher=Librairie Henri Leclerc|date=1923|volume=2ème vol.}} (n°229 : Robert de Montesquiou, « À Sarah Bernhardt » <nowiki>[pour sa fête en 1897]</nowiki>, poème manuscrit inédit). この詩の書き付けは2010年9月9日にパリで行われた[[クリスティーズ]]の競売で新規に出品、購入された。</ref>。

1874-1875年頃、サラ・ベルナールは高級娼婦として得る報酬がよいため、[[レオン・ガンベタ]]や[[アンリ・デュカス]]、{{仮リンク|レミュザ家|fr|Famille Rémusat|label=ド・レミュザ公爵}}といった複数の国会議員と親密な関係を保っていた<ref group="注釈" name=houbre/>。1882年に彼女はギリシア生まれの俳優、{{仮リンク|ジャック・ダマラ|en|Jacques Damala}}とロンドンで結婚したが、彼には[[モルヒネ]][[依存症|依存]]があり、二人の関係は長くは続かなかった。それでも彼女は法的に彼の配偶者であり続け、それはダマラが1889年に34歳で亡くなるまで続いた。

また、サラの肖像画を複数描いた女流画家の{{仮リンク|ルイーズ・アベマ|fr|Louise Abbéma}}と同性愛的関係にあったことを示す資料もある<ref name="Secrets">« Sarah Bernhardt, sa vie, ses folies... », documentaire de la série ''Secrets d'Histoire'', France 2, 6 août 2013.</ref>。サラとルイーズが共同で制作した「繋いだ手」のブロンズ像(今日では行方知れずとなっている)は、繋ぎ合った二人の手に象ったものと考えられ、二人の同性愛関係を暗示していると解釈されている<ref>{{cite web|url=http://www.corpusetampois.com/cae-19-abbema.html|title=Quelques œuvres de Louise Abbéma (1853-1927)|author=Bernard Gineste |website=CORPUS ARTISTIQUE ÉTAMPOIS|accessdate=2016-03-27}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.corpusetampois.com/cae-19-abbema040.html|title=Sarah Bernhardt et Louise Abbéma, Mains jointes, Cire perdue, vers 1900?|author=Bernard Gineste |website=CORPUS ARTISTIQUE ÉTAMPOIS|accessdate=2016-03-27}}</ref>。1990年には、あるアベマの油絵がコメディ=フランセーズに寄贈された。それはサラ・ベルナールとルイーズ・アベマの二人が[[ブーローニュの森]]にある湖でボートに乗っているところを描いたもので、寄贈者からの一枚の手紙が添えられていた。手紙にはこの油絵が ''"Peint par Louise Abbéma, le jour anniversaire de leur liaison amoureuse"''({{翻訳|二人の愛人関係を記念する日にルイーズ・アベマにより描かれた油絵}})であると描かれていた<ref>{{cite book|author=Guibert et al.|date=2000|title=Portrait(s) de Sarah Bernhardt|publisher=Bibliothèque nationale de France.|ISBN=2717721134}}</ref>。

[[ファイル:Belle-ile fortin de Sarah Bernhardt.JPG|thumb|left|[[ベル=イル=アン=メール]]島の{{仮リンク|ポワント・デ・プーラン|fr|Pointe des Poulains}}にある砦跡。{{仮リンク|コンセルヴァトワール・デュ・リトラル|fr|Conservatoire du littoral}}のために取得されたもので、今日では博物館に改装されている。]]
1894年にサラ・ベルナールは、使われなくなった海辺の砦を譲り受け、以来何年も、そこで彼女が「小動物園」と呼ぶ食客たちと一緒に滞在した。その砦跡は、通称「{{仮リンク|ポワント・デ・プーラン|fr|Pointe des Poulains}}」と言い、[[ベル=イル=アン=メール]]島にあった。なお、この島で彼女はのちに彼女の専属肖像画家となる[[ジョルジュ・クレラン]]と出会う。この砦の隣にサラは別荘を建て、内装と調度品をしつらえて「ヴィラ・リズィアーヌ」と名付けた。リズィアーヌ(''Lysiane'')は孫娘の名前である。さらに「世界の五大陸」荘(la villa ''Les Cinq Parties du monde'')という別荘をもう一つ建てた。これらの別荘の建造は、100万フランという当時としてはかなりの金額を越える費用がかかる大きな仕事であった。サラ自身はというと、ペノエ邸(''le manoir de Penhoët'')という赤煉瓦でできた邸宅に身を落ち着けた。この邸宅は、砦跡から近すぎると思われたため購入したものであるが、やはり非常に居心地がよかった。しかしながら、第二次世界大戦の爆撃により現在は失われている。サラは病を得て体の自由も利かなくなった1922年にこれらの不動産を売却した。<ref>{{cite web |url=http://www.liberation.fr/week-end/2005/10/29/sarah-bernhardt-en-son-fort-interieur_537260 |title=Sarah Bernhardt en son fort intérieur|author=Jean-Piette Thibaudat |date=2005-10-29 |publisher=Libération|accessdate=2016-03-27}}</ref>

これらは2007年までサラ・ベルナールを顕彰する博物館となっていた。ベル=イル=アン=メール島のサラ・ベルナール博物館に訪れるには、ル・パレ港を見晴らすヴォーバン砦の中心部に行く。ポワント・デ・プーランの砦及び周辺には訪問客向けの設備が整えられているが、砦の内部に入ることはできない。

== 肖像画と肖像写真 ==
サラ・ベルナールは、当時は「新しい(ヌーヴォー)」と認識された芸術運動「[[アール・ヌーヴォー]]」の渦の中心にいた人物であり、「'''アール・ヌーヴォーの巫女'''」のような存在であった<ref name="NYReviewofBook">{{cite web|url=http://www.nybooks.com/articles/2007/05/10/the-drama-of-sarah-bernhardt/|title=The Drama of Sarah Bernhardt|first=Robert|last=Gottlieb|date=2007-05-10|website=The New York Review of Books|accessdate=2016-03-27}}</ref>。彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られ<ref name="NYReviewofBook">{{cite web|url=http://www.nybooks.com/articles/2007/05/10/the-drama-of-sarah-bernhardt/|title=The Drama of Sarah Bernhardt|first=Robert|last=Gottlieb|date=2007-05-10|website=The New York Review of Books|accessdate=2016-03-27}}</ref>、また、数多くの詩人や芸術家がその主題に彼女を据えた。

<gallery widths="200px" heights="200px" caption="油絵とリトグラフ" >
File:§§Bernhardt, Sarah (1844-1923) par Jules Bastien-Lepage (1848-1884) - 1879.jpg|{{仮リンク|ジュール・バスティアン=ルパージュ|fr|Jules Bastien-Lepage}}「サラの肖像」
File:Sarah Bernhardt Vanity Fair.jpg|{{仮リンク|彩色平板印刷|en|Chromolithography}}(クロモ石版)によるサラ・ベルナールのポートレイト、『ヴァニティ・フェア』1879年。
File:Sarah bernhardt 1844 1923i.jpg|{{仮リンク|ジョルジュ・クレラン|fr|Georges Clairin}}「サラ・ベルナール」(油彩、キャンバス)
File:Georges Jules Victor Clairin (1843-1919), Sarah Bernhardt (1844-1923) as the Queen in 'Ruy Blas' . 1897.jpg|ジョルジュ・クレランが描いた「『リュイ・ブラス』で女王の役を演じるサラ・ベルナール」
File:Georges Jules Victor Clairin (1843-1919), Sarah Bernhardt (1844-1923) in ''Sainte Therese d'Avila''.jpg|ジョルジュ・クレランが描いた「『アビラの聖テレサ』におけるサラ・ベルナール」
File:Bernhardt, Sarah di Giovanni Boldini.jpg|[[ジョヴァンニ・ボルディーニ]]が描いたサラ・ベルナール、1880年頃
File:Sarah Bernhardt by Manuel Orazi.JPG|{{仮リンク|マニュエル・オラツィ|fr|Manuel Orazi}}が描いたサラ・ベルナール、1895年頃
File:Bernhardt, Sarah (1844-1923) - 1875 - ritratta da Abbema, Louise (1858-1927).jpeg|{{仮リンク|ルイーズ・アベマ|fr|Louise Abbema}}が描いたサラ・ベルナール、1875年
File:"Disappointment" - 1882 - Julius Leblanc Stewart.jpg|「失望」:{{仮リンク|ジュリアス・ルブラン・ステュワート|en|Julius LeBlanc Stewart}}が描いたサラ・ベルナール、1882年
File:Cheret, Jules - La Diaphane (pl 121).jpg|「ラ・ディアファーヌ」のポスターに描かれたサラ・ベルナール。[[ジュール・シェレ]]作、1898年。
</gallery>

<gallery caption="写真" >
File:Sarah Bernhardt as Theodora by Nadar.jpg|{{仮リンク|ヴィクトリアン・サルドゥ|fr|Victorien Sardou|label=サルドゥ}}の史劇「テオドラ」でタイトルロールの[[テオドラ (ユスティニアヌスの皇后)|テオドラ皇后]]に扮するサラ・ベルナール。[[ナダル]]撮影、1882年。
File:Bernhardt_in_Theodora_Early_in_Career.jpg|「テオドラ」は彼女の長い芸歴の中でも初期の出演作。
File:William Downey (1829-18 ), Sarah-Benhardt.jpg|テオドラ皇后に扮するサラ・ベルナール。{{仮リンク|ウィリアム・ダウニー|en|W. & D. Downey}}撮影、1900年。
File:Bernhardt_with_elaborate_headdress.jpg|テオドラ皇后のヘッドショット
File:Bernhardt Hamlet2.jpg|[[ハムレット]]王子に扮するサラ・ベルナール、1899年<ref>''Almanach des Spectacles, année 1899'', [https://archive.org/stream/almanachdesspec03soubgoog#page/n77/mode/1up p. 63]; [http://www.loc.gov/pictures/item/98517310/ Sarah Bernhardt as Hamlet] at the [[Library of Congress]].</ref>
File:Bernhardt_Performs_(Sorceress).jpg|[[魔法使い]]に扮するサラ・ベルナール
File:Bernhardt_as_Joan_of_Arc.jpg|[[ジャンヌ・ダルク]]に扮するサラ・ベルナール
File:Bernhardt_as_Cleopatra.jpg|[[クレオパトラ]]に扮するサラ・ベルナール
File:Bernhardt_(Gismonda).jpg|「ジスモンダ」におけるサラ・ベルナール
File:SarahBernhardt alsKameliendame1881.jpg|「椿姫」におけるサラ・ベルナール、1881年。
File:Sarony - Sarah Bernhardt.jpg|{{仮リンク|ナポレオン・サロニー|en|Napoleon Sarony}}撮影、1890年頃。
File:Sarony Napoleon - Sarah Bernhardt 1900.jpg|{{仮リンク|ナポレオン・サロニー|en|Napoleon Sarony}}撮影、1890年頃。
File:Nadar, Félix (1820-1910) - Sarah Bernhardt(1844-1923).jpg|ナダル撮影のポートレイト
File:Bernhardt_Near_Table.jpg|非公式なポートレイトでポーズをとるサラ・ベルナール
File:Bernhardt.jpg|舞台に上がっていないときの姿
File:Bernhardt later years 2.jpg|晩年のサラ・ベルナール
File:Sarah Bernhardt Barnett.jpg|{{仮リンク|ヘンリー・ウォルター・バーネット|en|Henry Walter Barnett}}撮影、1910年。
File:Grave of Sarah Bernhardt Père Lachaise.jpg|[[ペール・ラシェーズ墓地]]にあるサラ・ベルナールの墓
File:Sarah Bernhardt grave 2.jpg|[[ペール・ラシェーズ墓地]]にあるサラ・ベルナールの墓
</gallery>

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* À titre d'éloge funèbre : Robert de Beauplan, ''Sarah Bernhardt'', L'illustration, 31 mars 1923
* Louis Verneuil, ''La Vie merveilleuse de Sarah Bernhardt'', Brentano's, New York, 1942
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Sarah Bernhardt: mythe et réalité|prénom1=Catherine|nom1=Simon Bacchi|préface=Robert Manuel|lieu=Paris|éditeur=[S.E.D.A.G.]|nature ouvrage=Biographie|année=1984|pages totales=147|oclc=12555971|lire en ligne=http://www.worldcat.org/title/sarah-bernhardt-mythe-et-realite/oclc/12555971?referer=di&ht=edition|consulté le=2016-02-25|date=1984-01-01}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Sarah Bernhardt : le rire incassable|auteur1=Françoise Sagan|lieu=Paris|éditeur=R. Laffont|collection=Elle était une fois|année=1987|pages totales=246|isbn=978-2-221-05195-5|oclc=18834826}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Sarah Bernhardt|prénom1=Arthur|nom1=Gold|auteur2=Robert Fitzdale|lieu=Paris|éditeur=Gallimard|année=1994|isbn=2-070-73190-1}}
* Noëlle Guibert (dir.), ''Portrait(s) de Sarah Bernhardt'', catalogue de l'exposition ''Sarah Bernhardt ou le divin mensonge'', éd. Bibliothèque nationale de France, Paris, 2000 {{ISBN|2-7177-2113-4}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Le sourire de Sarah Bernhardt|auteur1=Anne Delbée|lieu=Paris|éditeur=Librairie générale française|année=2002|isbn=978-2-253-15293-4}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Sarah Bernhardt : reine de l'attitude et princesse des gestes|prénom1=Claudette|nom1=Joannis|lieu=Paris|éditeur=J'ai lu|collection=Biographie|année=2003|isbn=978-2-290-32905-4}}
* {{ouvrage|langue=en|prénom1=Elizabeth|nom1=Silverthorne|titre=Sarah Bernhardt|éditeur=Chelsea House Publishers|année=2004|isbn=978-0791074589}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Sarah Bernhardt : l'art et la vie|auteur1=Jacques Lorcey|préface=Alain Feydeau|lieu=Paris|éditeur=Séguier|année=2005|isbn=2-840-49417-5}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Sarah Bernhardt : itinéraire d'une divine|auteur1=Louis Garans|lieu=Plomelin|éditeur=Palantines|année=2005|isbn=978-2-911-43443-3}}
*{{ouvrage|langue=en|prénom1=Carol|nom1=Ockman|titre=Sarah Bernhardt|sous-titre=The Art of High Drama|éditeur=Yale University Press|année=2005|isbn=978-0300109191}}
*{{ouvrage|prénom1=Henry|nom1=Gidel|titre=Sarah Bernhardt|sous-titre=biographie|éditeur=Flammarion|collection=Grandes biographies|année=2006|isbn=978-2080685315}}
* {{ouvrage|langue=en|prénom1=Harmen|nom1=Snel|titre=The Ancestry of Sarah Bernhardt|sous-titre=A Myth Unravelled|lieu=Amsterdam|éditeur=Joods Historisch Museum|année=2007|isbn=978-90-802029-3-1}}
*{{ouvrage|prénom1=Hélène |nom1=Tierchant |titre=Sarah Bernhardt : Madame « Quand même » |collection =Grands docs |éditeur=SW-Télémaque |année=2009 |ISBN=978-2753300927}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Il était une fois Sarah Bernhardt|auteur1=Pascale Védère d'Auria|lieu=Saint-Herblain|éditeur=Gulf stream éd|année=2009|isbn=978-2-354-88056-9}}
*{{ouvrage|langue=en|prénom1=Robert|nom1=Gottlieb|titre=Sarah|sous-titre=The Life of Sarah Bernhardt|éditeur=Yale University Press|année=2010|isbn=978-0300192599}}
* {{Ouvrage|langue=fr|titre=Sarah Bernhardt|prénom1=Sophie-Aude|nom1=Picon|lieu=Paris|éditeur=Gallimard|année=2010|isbn=978-2-070-34544-1}}


==関連書籍==
==関連書籍==
67行目: 177行目:
*白田由樹『サラ・ベルナール メディアと虚構のミューズ』大阪公立大学共同出版会 2009
*白田由樹『サラ・ベルナール メディアと虚構のミューズ』大阪公立大学共同出版会 2009


== 関連項目 ==
== その他 ==
* [[中村天風]]が彼女の家に居候したことがある。
* [[リチャード・パワーズ]]:小説『舞踏会に向かう三人の農夫』で、彼女を題材にした。
* サラ・ベルナールは、バイン街1751の[[ハリウッド名声の歩道]]に星型がある。

* [[マルセル・プルースト]]の『[[失われた時を求めて]]』の中の架空の人物である女優ラ・ベルマ(La Berma)は、サラ・ベルナールからインスピレーションを受けて創造された。
== 脚注 ==
* サラは銀行を信用せず、収入の金貨は麻袋に入れ自室のベッドの下に隠していたという。
{{Reflist}}
* [[リチャード・パワーズ]]は、小説『舞踏会に向かう三人の農夫』で、彼女を題材にした。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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*{{allcinema name|id=70946|name=サラ・ベルナール}}


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2016年3月30日 (水) 13:33時点における版

サラ・ベルナール
Sarah Bernhardt
Sarah Bernhardt
1878年頃のベルナール
生年月日 (1844-10-22) 1844年10月22日
没年月日 (1923-03-26) 1923年3月26日(78歳没)
出生地 フランスの旗 フランス王国 パリ
死没地 フランスの旗 フランス共和国 パリ
国籍 フランスの旗 フランス共和国
職業 女優
ジャンル 演劇
活動期間 1862年-1922年
配偶者 ジャック・ダマラ(1882年-1889年)
著名な家族 子:モーリス・ベルナール
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サラ・ベルナールSarah Bernhardt, 1844年10月22日? – 1923年3月26日)はフランス舞台女優。フランスの「ベル・エポック」と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られる。普仏戦争前後に喜劇女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立した[1]ヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持ったが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられている。ジャン・コクトーは「聖なる怪物」と呼んだ。キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演している。社会史の観点からは、一つの文化圏/消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際スターフランス語版」としてしばしば言及される(cf. 19世紀における「世界の一体化」)。また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」という新芸術様式/運動の中心人物であった[2]

生涯

サラ・ベルナール(ナダール撮影、1864年)
サラ・ベルナール(ナダール撮影、1865年)
舞台「ル・パッサン」におけるサラ・ベルナール
ヴィクトル・ユゴーの戯曲「リュイ・ブラス」において女王を演じるサラ・ベルナール、1879年。
1890年代に撮影されたポートレイト
ミュシャの出世作ともなった「ジスモンダ」のポスター。リトグラフ、1894年。
ミュシャ作「椿姫」のポスター。リトグラフ、1896年。

生誕

母親のジュディト=ジュリー・ベルナール[注釈 1](1821-1876)は、婦人帽子を売る貧しい売り子であり、ネーデルラントに住むユダヤ系の行商人の娘であった。パリに来て高級娼婦となり、「ユール(Youle)」の源氏名で知られていた[3]。父親が誰かは知られておらず[4]、サラは父親の素性については常に沈黙を保っていた。

サラ・ベルナールの誕生日について、はっきりとはわかっておらず議論となっているが、これはパリコミューンの鎮圧の際に公文書館が破壊されたせいである[5]。伝記では通常、1844年10月22日又は23日説をとるが[6]、1844年7月又は9月説をとるものもあり[5]、1843年又は1841年説もある[5]。さらに、レジオンドヌール賞を取得する手続きの便宜のため、そしてサラのフランス国籍を証明するために、サラ・ベルナールのために行われた洗礼証明書に基づいて、裁判所の決定により1914年1月23日に遡及的な出生届出書を作成した。もちろんこれは誰かを欺くという目的のためでもなければ、裁判官を欺くためでもない[7]。この出生届に基づき[8]、「1844年9月25日、パリ15区生まれ」が書類上の出生日及び出生地となっている[7]。また、この遡及出生届の中で、サラは母がジュディト・ファン・アールで父がエドゥアール・ベルナールであると宣言している。この父エドゥアールがルアーヴル出身の裕福な船主であるとか、法律の勉強をしていたとか、いくつかの説があるが、モレルという名字の海軍士官である可能性も示唆されている[9]。いずれにせよ、サラの父親について確かなことは不明のままである。

同様に出生地についても確かなことがわかっていない。パリのエコール・ド・メドゥシーヌ通り5番に生まれたとするプラーク(銘板)もあるが、サン・オノレ通り32番又は265番説や、ミショディエール通り22番説もある[5]。本名とされる「アンリエット=マリー=サラ(Henriette-Marie-Sarah)」という名前についても、情報源によってときどき順番が入れ替わり、「サラ=マリー=アンリエット」とするものもある。サラがコンセルヴァトワールに登録した際に用いた名前に従うと、「アンリエット=ロジーヌ・ベルナール」であり、ロジーヌの愛称がサラであるという[10]

身の上話を空想でふくらませるというこの女優の性向は、このもつれにもつれた異説の数々を解きほぐすことを難しくしている[5]

幼年期

サラ・ベルナールには少なくとも3人の姉妹がおり、妹の一人が同じくコメディエンヌのジャンヌ=ロジーヌである。サラは、母ユールがジャンヌ=ロジーヌを特にかわいがることにずっと苦しんでいた。パリの社交界で生活することを選んだ母に見捨てられ、サラはカンペルレにある乳母の家で孤独な子ども時代を送った。カンペルレはブルトン語しか通じないところだった。サラの叔母の愛人だったド・モルニ公がサラの教育の面倒を見てくれて、1853年当時ヴェルサイユのグランシャンで教師をしていたマドモワゼル・フレサールの教育施設に入学させてくれた。その学校でサラはカトリック神秘主義者となり[11]、さらに、はじめて、舞台で何かを演じるという経験をした。このときやった役はある宗教劇における天使の役だった[12]。1857年にユダヤ教徒であったサラはキリスト教徒としての洗礼を受けた。彼女はその頃は修道女になりたいと考えていた。その一方で、本名を舞台で使う名前とした彼女の選択や、彼女が得たポジションに示されているように、彼女は決して自分の出自を否認しようとはしなかった[13]

そして、14才のころにフランス国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワール)の演劇科を受験して合格し、修道院暮らしもやめた[注釈 2]。コンセルヴァトワールでは、フェンシングのレッスンも受けた。これは「ハムレット」のような男役をやるときに役に立った[15]

コメディ・フランセーズ時代

1859年にパリのコンセルヴァトワール演劇高等科で、サラはド・モルニー公の薦めでジャン=バティスト・プロヴォフランス語版のクラスに入った[16]。1862年に喜劇で2番目の成績をとってそこを卒業し、コメディ・フランセーズに入座した。しかし、1866年に正座員のマドモワゼル・ナタリーに平手打ちを食らわしてしまい、追い出された。ケンカの原因は、ナタリーのドレスのすそ(裳)を踏んづけて歩いていたサラの妹をナタリーが乱暴に押しのけたことだった[17]。サラはオデオン座と契約を結び[18]、1869年にフランソワ・コッペフランス語版の「ル・パッサン」を演じて本領を発揮した。普仏戦争におけるパリ包囲のさなか、1870年に、サラは劇場を野戦病院に造りかえた。そこで、のちのフォッシュ将軍の手当をした。彼とはさらに45年後、マルヌの塹壕で出会うことになる。1872年には「リュイ・ブラス」の女王の役を勝ち取り、さらに戯曲の作者であるヴィクトル・ユゴーから「黄金の声」なるあだ名を頂戴する[19]。この成功によりサラはコメディ・フランセーズに呼び戻された。1874年にラシーヌの「フェードル」、1877年にユゴーの「エルナニ」を演じた[20]

この時期の成功は、サラが地位を得るために、また、支出を賄うために、「彼女の母親のように」その魅力を用いたのではないかと警察が疑うほどだった[注釈 3]。いずれにせよ、サラが成功を収めるにつれ、彼女を賛美する形容辞の数も次々と増えて行った。たとえば、「神聖なるサラ」[21]、「劇場の女帝」[22]といった具合である。

名声の確立と独立

1880年にサラは「フランス人」の栄光とともに退職し、彼女には、契約の濫用に対する損害賠償として10万フラン相当の金が支払われた。彼女は自分で会社を設立し、その会社とともに1917年まで外国で演技の仕事をし、財を成すことにした。サラは、はじめて国際的な「スター」となった人物であり、五大陸をツアーしたコメディエンヌであった。そのスターぶりはジャン・コクトーをして「聖なる怪物」と言わしめた[22]。また、遅くとも1881年に行われたサラ・ベルナールのロシア興行の際に、当時新聞記者であったアントン・チェーホフ[23]、悪意のある筆致で次のように描いている。「北極と南極を訪れ、旅の軌跡は五大陸に広がり、海原を超えて、一回ならず天国まで昇ったこの女」[24]。また、新聞記者らの狂騒を「固定観念」となったものの後を追って「飲まず食わずで、ただ走り回っているだけだ」と風刺した[25]

サラ・ベルナールは、ハムレットペレアスのような男の役を何度も演じており、これに霊感を得たエドモン・ロスタン1900年に「レグロンフランス語版」(ナポレオン1世の息子、ローマ王の話)を書いた。サラはロンドンコペンハーゲンなどヨーロッパ各地はもとよりアメリカ合衆国でも興行を行った。1880年から1881年にかけて行ったアメリカ興行においては、一座の人員と8トンにも及ぶトランクの数々を運ぶためにプルマンの客車をチャーターした。ロシア興行の中では、1881年、1892年、1908年にサンクト・ペテルスブルクミハイロフスキー劇場で行った公演が有名である。彼女の叙情性と明晰なディクションに観衆は熱狂した。サラは興行を宣伝するためにニューヨークトーマス・エジソンに会い、シリンダーにラシーヌの「フェードル」を吹き込んだ[20]。また、フランス人俳優としては非常に珍しいことに、サラはロサンゼルスの「ハリウッド名声の歩道」に星を埋め込まれることになった。

また、オスカー・ワイルドに親しいサラは、彼に戯曲作品を注文した。1892年に自身でタイトルロールを演じた「サロメ」である。1893年からサラはテアトル・ド・ラ・ルネサンスフランス語版の座長を務めるようになり、同劇場で絶大な成功を収めたいくつかの作品(「フェードル」や「椿姫フランス語版」)の再演をしたほか、数多くの新作(ヴィクトリアン・サルドゥ(en)の「ジスモンダ」(en)や、エドモン・ロスタンの「遙かなる姫君」、モーリス・ドネーフランス語版の「恋人たち」、ガブリエーレ・ダヌンツィオの「死の村」、アルフレッド・ド・ミュッセの「ロレンザッチョフランス語版」)を制作上演した。さらに1899年にはテアトル・デ・ナシオンフランス語版の座長にもなった。そして劇場の名前を「テアトル・サラ=ベルナール」と改称して、ロスタンの「レグロン」「遙かなる姫君」以外の新作や、サルドゥの「トスカ」(en)改訂版を上演した。ドレフュス事件のとき、サラは支持をエミール・ゾラに傾けた。また、ルイーズ・ミシェルを支援し、死刑に反対する立場を取った。

1896年12月9日は、女優の栄光を讃える「サラ・ベルナールの日」がカチュール・マンデスにより企画された。パリ中から人が詰めかけ[注釈 4]グラン・オテルフランス語版における500人の招待客の会食ののち、テアトル・ド・ラ・ルネサンスの特別興行が催された。グラン・オテルからテアトルへの移動には200台の二人乗り馬車が仕立てられ、サラを先頭について行った。テアトルではアルモン・シルヴェストルフランス語版作詞、ガブリエル・ピエルネ作曲の「サラへの讃歌」がコンセール・コロンヌにより演奏された[26]

広告の重要性を認識していたサラは、舞台において自身の生活の一部分を垣間見せ、消費材の宣伝に自分の名前を躊躇せず関連づけた。彼女のスタイルとシルエットは、流行と装飾美術に刺激を与えたが、それだけでなく、アール・ヌーヴォーの美学にも影響を与えた。彼女は、画家のアルフォンス・ミュシャに自ら訴えかけて、1894年12月からポスターを描いてもらった。以降の6年間に渡るコラボラシオンは、ミュシャの作品に副次的な霊感をもたらした。1874年に妹のレジーナの命を奪った結核の病がサラの体をも蝕み始めた。家にクッションを敷き詰めた棺桶をしつらえ、その中に深く腰を下ろして休むことが常になった。スキャンダルが起きる前までは、家にナダールを呼んで、写真を撮ってもらっていた。その目的は写真や絵葉書を買い上げるためだった[27]

1905年にはカナダ興行を行い、ケベックウィルフリッド・ローリエ首相の出迎えを受けた。しかしながら、当時カナダの大司教であったルイ=ナゼール・ベジャンフランス語版は大の演劇嫌いで、サラ・ベルナールの斬新な肉体を使った演技が官能的であると受け取られかねないと非難していた。彼は教区の信者らに興行のボイコットを呼びかけた。そのため、普段の群衆に慣れたサラは、部分部分に空席が目立つ観客席を前に上演することになった[28]

晩年

サラ・ベルナールは晩年に向かうにつれて、120回を越える興行で舞台女優として演技をしたが、映画の分野でも等しく女優として活躍した。最初の出演映画は、1900年の映画「ハムレットの決闘」である。これは「フォノ・シネマ・テアトル方式(いわゆるトーキー)」で音声付き映画を実現しようとした最初期の試みの一つであった。この映画では、シリンダーに入れたフォノグラフが、映写されている映像に合わせて、女優の声を延ばしたり縮めたりして同期させた。サラはその次は2本の無声映画に出演した。これらは自伝映画であった。二つ目の「ベル=イルのサラ・ベルナール」(Sarah Bernhardt à Belle-Île)は1912年の作品でサラの日常を描いたものである[29]

1890年にポルト=サン=マルタン劇場で公演した「ジャンヌ・ダルクの成り行き」出演中に受けた怪我が悪化して、膝の骨結核になってしまったため、サラは、1915年3月12日、70歳のときに、ボルドーのサン=オーギュスタン病院で右足を切断した。ギプスをしていた彼女の膝は壊疽を起こしていた[30]

最初の症状が出たのは、13年以上前の1887年にさかのぼる。このとき、「トスカ」のフィナーレで、サラは手すりの高さから落ちて膝をつくという演技を何度も行った[注釈 5][31]。サラの友人の医師、サミュエル=ジャン・ド・ポズィフランス語版はかつての恋人の足を切るに忍ばず、信頼のおけるジャン=アンリ・モーリス・ドニュセ教授に手術を託した[32]。サラはそれでも座ったままで演技をし続けた(木製であろうがセルロイド製であろうが義足をつけることを拒んでいた)。持ち運びできる椅子を持参してドイツと戦う前線の兵士たちのところへ慰問を続け、「椅子の小母さん」と呼ばれることを望んだ[33]。サラは決して自分の身体の障害について心の内を明かすことはなかった。ただ「ほら見て、私、ホロホロチョウよ!」と言って人の笑いを取るだけだった[34]。 整形外科手術については、最初のうち、見せかけだけの拒否をしていたが、完全に無視する程ではなかった。1912年に彼女はアメリカ人の外科医、チャールズ・ミラーに「リフティング」という初歩的な整形手術を依頼した。その手術結果はのちにスザンヌ・ノエルフランス語版医師により修正されることになる[35]

サラは、サシャ・ギトリ脚本の映画 "La Voyante" に出演しているさなかの1923年3月26日、プレール通りフランス語版56番にて、息子が見守る中、亡くなった。フランス政府はサラに対して国葬を執り行い、パリペール・ラシェーズ墓地(44区画)に埋葬した。

芸術家として

サラ・ベルナール作「道化と死」1877年。ディジョン美術館蔵。ユゴーの戯曲「王は愉しむ」の登場人物、道化のトリブレが娘のしゃれこうべを持っている姿をブロンズ像にしたもの。

演技様式

同時代人に大いなる歓呼を持って受け容れられたサラ・ベルナールの演技の様式は、身振り(マイム)の面でも朗唱法フランス語版(デクラマシオン)の面でもメリハリを重視した大げさなものであった。これは同時代の俳優ムネ=シュリフランス語版も同様である。声の抑揚は意図的に自然なものから遠ざかった。大げさな身振りだけでなく、声を高めたり潜めたりの振幅を大きくすることによっても、感情を表現した[36]バロックの朗唱法フランス語版を受け継いだこの様式は、サラが芸能活動を引退する頃には既に時代遅れになっていた。アルフレート・ケールドイツ語版は、"Tout ce qui sort de sa bouche est faux ; sinon, tout est parfait"((→彼女の唇から出るものはすべていつわり、されど完璧))と評した[注釈 6]。現代的な様式に慣れた者が、1903年にトーマス・エジソンの家で録音されたサラの「フェードル」を聞くと、失望することが多い[37]

絵画と彫刻

サラ・ベルナールが喜劇女優としての才能が認められ始めた1874年頃、彼女は、当時興味を持つ大部屋女優(アンプロワフランス語版)が少なかった彫刻(さらに絵画も)を習った[38]。サラはアカデミー・ジュリアンに足繁く通い、1880年のサロン・ド・パリに「死せる乙女」像を出品、« moins comme un résultat qu'une promesse[39] »((→型破り))との評を受けた。他にも、今ではオルセー美術館に展示されている「エミール・ド・ジラルダンフランス語版の胸像」や「ルイーズ・アベマフランス語版の胸像」など、いくつか銅メダルを得た[40]

私生活

ルイーズ・アベマフランス語版作「日本庭園の中のサラ・ベルナール」パステル、1885年。

サラ・ベルナールの私生活の詳細は不確かな伝聞が多い。彼女が「わたしはとても細くて痩せているから雨降りの時なんか雨粒の間を通るのよ」とよく言っていたころ、これが気に入らない、かの小デュマは新聞記者のルイ・ガンドラフランス語版との談話で、彼女の言葉に続けて「あの女(ひと)はとてもほら吹きだから、太っているということだろうね」と付け加えたという[41]

サラ・ベルナールの私生活は激動に満ちたものであった。20歳の頃にのちに著述家となる一人息子、モーリス・ベルナールフランス語版を出産する。父親はさるベルギー貴族と言われている[要出典]。恋多き彼女の傍らには、いつも恋人がいた。そのうちの一人、シャルル・アースフランス語版は、サラが真心からの愛を誓った相手としてよく知られている。ところがあるとき、彼はサラのことを尻軽女として扱い、躊躇なく裏切った。二人は破局したが、生涯変わらぬ友人として留まった。

医師のサミュエル=ジャン・ド・ポズィのほかには、芸術家ではギュスターヴ・ドレジョルジュ・クレランが、俳優ではムネ=シュリリュシアン・ギトリフランス語版ルー・テレジェンフランス語版がサラの親友ないし恋人であったと推定されている。ヴィクトル・ユゴー[42]プリンス・オブ・ウェールズもそうであったという者もいる[43]。2010年には詩人のロベール・ド・モンテスキューとの親友ないし恋人関係にあったことを示唆する、ロベールがサラに捧げた詩が発見された。詩集には未収録である。この手書きの詩は1923年に購入されたサラの蔵書の中から見つかった[44]

1874-1875年頃、サラ・ベルナールは高級娼婦として得る報酬がよいため、レオン・ガンベタアンリ・デュカスド・レミュザ公爵フランス語版といった複数の国会議員と親密な関係を保っていた[注釈 3]。1882年に彼女はギリシア生まれの俳優、ジャック・ダマラ英語版とロンドンで結婚したが、彼にはモルヒネ依存があり、二人の関係は長くは続かなかった。それでも彼女は法的に彼の配偶者であり続け、それはダマラが1889年に34歳で亡くなるまで続いた。

また、サラの肖像画を複数描いた女流画家のルイーズ・アベマフランス語版と同性愛的関係にあったことを示す資料もある[45]。サラとルイーズが共同で制作した「繋いだ手」のブロンズ像(今日では行方知れずとなっている)は、繋ぎ合った二人の手に象ったものと考えられ、二人の同性愛関係を暗示していると解釈されている[46][47]。1990年には、あるアベマの油絵がコメディ=フランセーズに寄贈された。それはサラ・ベルナールとルイーズ・アベマの二人がブーローニュの森にある湖でボートに乗っているところを描いたもので、寄贈者からの一枚の手紙が添えられていた。手紙にはこの油絵が "Peint par Louise Abbéma, le jour anniversaire de leur liaison amoureuse"(→二人の愛人関係を記念する日にルイーズ・アベマにより描かれた油絵))であると描かれていた[48]

ベル=イル=アン=メール島のポワント・デ・プーランフランス語版にある砦跡。コンセルヴァトワール・デュ・リトラルフランス語版のために取得されたもので、今日では博物館に改装されている。

1894年にサラ・ベルナールは、使われなくなった海辺の砦を譲り受け、以来何年も、そこで彼女が「小動物園」と呼ぶ食客たちと一緒に滞在した。その砦跡は、通称「ポワント・デ・プーランフランス語版」と言い、ベル=イル=アン=メール島にあった。なお、この島で彼女はのちに彼女の専属肖像画家となるジョルジュ・クレランと出会う。この砦の隣にサラは別荘を建て、内装と調度品をしつらえて「ヴィラ・リズィアーヌ」と名付けた。リズィアーヌ(Lysiane)は孫娘の名前である。さらに「世界の五大陸」荘(la villa Les Cinq Parties du monde)という別荘をもう一つ建てた。これらの別荘の建造は、100万フランという当時としてはかなりの金額を越える費用がかかる大きな仕事であった。サラ自身はというと、ペノエ邸(le manoir de Penhoët)という赤煉瓦でできた邸宅に身を落ち着けた。この邸宅は、砦跡から近すぎると思われたため購入したものであるが、やはり非常に居心地がよかった。しかしながら、第二次世界大戦の爆撃により現在は失われている。サラは病を得て体の自由も利かなくなった1922年にこれらの不動産を売却した。[49]

これらは2007年までサラ・ベルナールを顕彰する博物館となっていた。ベル=イル=アン=メール島のサラ・ベルナール博物館に訪れるには、ル・パレ港を見晴らすヴォーバン砦の中心部に行く。ポワント・デ・プーランの砦及び周辺には訪問客向けの設備が整えられているが、砦の内部に入ることはできない。

肖像画と肖像写真

サラ・ベルナールは、当時は「新しい(ヌーヴォー)」と認識された芸術運動「アール・ヌーヴォー」の渦の中心にいた人物であり、「アール・ヌーヴォーの巫女」のような存在であった[2]。彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られ[2]、また、数多くの詩人や芸術家がその主題に彼女を据えた。

脚注

注釈

  1. ^ サラを含む姉妹たちの出生証明書によれば、"Judith-Julie Bernardt" と綴り、h をつけない。
  2. ^ Tout le monde m'avait donné des conseils. Personne ne m'avait donné un conseil. On n'avait pas songé à me prendre un professeur pour me préparer[14]
  3. ^ a b Fiche de Sarah Bernhardt, registre des courtisanes, Paris SAM Série BB, registre no 1, citée dans Gabrielle Houbre, Le Livre des courtisanes : archives secrètes de la police des mœurs, 1861-1876, Paris, Taillandier,‎ (cf. notice de Florence Rochefort dans Clio n°26, 2007) et Gabrielle Houbre, « Courtisanes sous surveillance », dans Bruno Fuligni, Dans les archives secrètes de la police : Quatre siècles d'histoire, de crimes et de faits divers, Paris, L'iconoclaste,‎ (cf. notice de Jean-Marc Leclerc Le Figaro, 3 décembre 2008).
  4. ^ 「ある時代におけるパリに住むみんな」ないし「当代各界の名士」を指すフランス語として "Tout-Paris"(トゥ=パリ)という言葉があるが、この時に集まったのはまさに「トゥ=パリ」であった。
  5. ^ ここで言及されているサラ・ベルナールの足については、le directeur du cirque Barnum de San Francisco aurait proposé de l'acquérir pour 100,000 livres pour la montrer dans les foires, aurait été retrouvée en 2007 dans le laboratoire d'anatomopathologie de la faculté de médecine de Bordeaux où elle était conservée dans un bocal de formol.
  6. ^ "Tout ce qui sort de sa bouche est faux ; sinon, tout est parfait" Alfred Kerr, Die Welt in Drama, chroniques de 1902 à 1932, dans Hans Manfred Bock および Gilbert Krebs, Échanges culturels et relations diplomatiques, Publications de l'Institut d'Allemand, Université de la Sorbonne nouvelle,‎ , p. 273.

出典

  1. ^ Biography.com Editors. “Sarah Bernhardt, Biography”. The Biography.com website. A&E Television Networks. 2016年3月27日閲覧。
  2. ^ a b c Gottlieb, Robert (2007年5月10日). “The Drama of Sarah Bernhardt”. The New York Review of Books. 2016年3月27日閲覧。
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  8. ^ reconstitution de son acte de naissance
  9. ^ (en) Harmen Snel, The Ancestry of Sarah Bernhardt : A Myth Unravelled, Joods Historisch Museum,‎ 2007, 110 p. (ISBN 978-90-802029-3-1, [14-16 lire en ligne])
  10. ^ Témoignage de ces incertitudes, les échanges publiés dans "L'Intermédiaire des chercheurs et des curieux". {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明); 不明な引数|urltrad=|subscription=|coauthors=が空白で指定されています。 (説明). Interrogée, à plusieurs reprises sur ce point de son vivant, Sarah Bernhardt n'a jamais répondu. Voir aussi (Tierchant 2009, p. [要ページ番号])
  11. ^ (Bernhardt 1907, p. 34)
  12. ^ "« Sarah Bernhardt en impératrice byzantine »". La Dépêche du Midi. 22 October 2000. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明); 不明な引数|urltrad=|subscription=|coauthors=が空白で指定されています。 (説明) ; (Bernhardt 1907, p. 35sq)
  13. ^ Cf. lettre à M. Jouvin citée dans Jules Huret, Sarah Bernhardt, F. Juven,‎ , p. 30
  14. ^ (Bernhardt 1907, p. 82)
  15. ^ (Bernhardt 1907, p. 102)
  16. ^ Jacques Lorcey, La Comédie française, Fernand Nathan,‎ , p. 78
  17. ^ Jules Huret, Sarah Bernhardt, F. Juven,‎ , p. 17
  18. ^ Hélène Tierchant, Sarah Bernhardt : Madame Quand même, coll. « Grands docs », éd. SW-Télémaque, 2009 ISBN 978-2753300927
  19. ^ À l'occasion d'un banquet pour la centième de Ruy Blas ; cf. (en) Éric Salmon, Bernhardt and the Theatre of Her Time, Greenwood,‎ , p. 60 et Béatrix Dussane, Reines de théâtre : 1633-1941, H. Lardanchet,‎ , p. 177
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  21. ^ cf. Henry Gidel, Sarah Bernhardt : biographie, Flammarion,‎ , p. 277,283, Michel Peyramaure, La Divine : Le roman de Sarah Bernhardt, Robert Laffont,‎
  22. ^ a b Salomé Broussky, La Comédie Française, Le Cavalier Bleu,‎ , p. 119
  23. ^ モスクワの雑誌、Le Spectateur 21-22号、1881年11月。
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  26. ^ Noëlle Guibert, Portrait(s) de Sarah Bernhardt, Bnf,‎ , p. 167
  27. ^ (Tierchant 2009, p. [要ページ番号]) ; (Bernhardt 1907, p. 336sq)
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参考文献

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  • Jacques Lorcey (préf. Alain Feydeau), Sarah Bernhardt : l'art et la vie, Paris, Séguier,‎ (ISBN 2-840-49417-5)
  • Louis Garans, Sarah Bernhardt : itinéraire d'une divine, Plomelin, Palantines,‎ (ISBN 978-2-911-43443-3)
  • (en) Carol Ockman, Sarah Bernhardt : The Art of High Drama, Yale University Press,‎ (ISBN 978-0300109191)
  • Henry Gidel, Sarah Bernhardt : biographie, Flammarion, coll. « Grandes biographies »,‎ (ISBN 978-2080685315)
  • (en) Harmen Snel, The Ancestry of Sarah Bernhardt : A Myth Unravelled, Amsterdam, Joods Historisch Museum,‎ (ISBN 978-90-802029-3-1)
  • Hélène Tierchant, Sarah Bernhardt : Madame « Quand même », SW-Télémaque, coll. « Grands docs »,‎ (ISBN 978-2753300927)
  • Pascale Védère d'Auria, Il était une fois Sarah Bernhardt, Saint-Herblain, Gulf stream éd,‎ (ISBN 978-2-354-88056-9)
  • (en) Robert Gottlieb, Sarah : The Life of Sarah Bernhardt, Yale University Press,‎ (ISBN 978-0300192599)
  • Sophie-Aude Picon, Sarah Bernhardt, Paris, Gallimard,‎ (ISBN 978-2-070-34544-1)

関連書籍

  • 本庄桂輔『サラ・ベルナールの一生』角川書店 1962
  • フランソワーズ・サガン吉田加南子訳『サラ・ベルナール 運命を誘惑するひとみ』河出書房新社 1989
  • 高橋洋一『ベル・エポックの肖像 サラ・ベルナールとその時代』小学館 2006
  • 白田由樹『サラ・ベルナール メディアと虚構のミューズ』大阪公立大学共同出版会 2009

その他

外部リンク