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「鹿島 (戦艦)」の版間の差分

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{{Infobox 艦艇
<div class="thumb tright">
|名称 = 鹿島
{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff"
|colspan="2" style="text-align: center"|[[Image:IJN Kashima.jpg|300px]]
|画像 = IJN Kashima.jpg
|画像説明 =
|-
|運用者 = {{navy|Empire of Japan}}
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
|種別 = 戦艦<ref name="M39達75"/>
|-
|クラス =
|起工||[[1904年]][[2月29日]]
|建造所 = [[アームストロング・ホイットワース]]社<ref name="日本の戦艦(上)2001p38">[[#日本の戦艦(上)2001]]p.38</ref>エルジック造船所<ref name="日本の戦艦(上)2001p19">[[#日本の戦艦(上)2001]]p.19</ref>
|-
|計画 = [[第三期拡張計画]]<ref>[[#戦史叢書31海軍軍戦備1]]pp.229-230</ref>
|進水||[[1905年]][[3月22日]]
|発注 =
|-
|起工 = [[1904年]]2月29日<ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="日本の戦艦(上)2001p38"/>
|竣工||[[1906年]][[5月23日]]
|進水 = [[1905年]]3月22日<ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="日本の戦艦(上)2001p38"/>
|-
|竣工 = [[1906年]]5月23日<ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="竣工">[[#軍艦建造購入交渉雑件/英国3巻/2.軍艦香取鹿島]]画像23、明治39年5月24日公第89号「香取鹿島領収ノ件」</ref><ref name="日本の戦艦(上)2001p38"/>
|除籍||[[1923年]][[9月20日]]
|除籍 = [[1923年]]9月20日<ref name="T12達195"/>
|-
|その後||[[1924年]][[11月]]解体
|その後 = 解体
|母港 = [[舞鶴鎮守府|舞鶴]](1915年4月1日時点)<ref name="T4艦艇本籍別一覧表">[[#内令提要7版/艦船(1)]]画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。</ref><ref name="大正9年要目一覧表1"/>
|-
|建造費 =
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
|要目注記 = 竣工時計画
|-
|常備排水量 = 16,400[[英トン]]<ref name="昭和造船史1pp776-777">[[#昭和造船史1]]pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表</ref><ref name="大正9年要目一覧表1"/><ref name="帝国海軍機関史(1975)別冊表9">[[#帝国海軍機関史(1975)]]別冊表9、列国製艦一覧表其ノ二</ref>
|[[排水量]]||16,400トン (常備)
|全長 = {{Convert|470|ft|0|in|m|2|abbr=on|lk=on}}<!--m--><ref name="昭和造船史1pp776-777"/><br />または{{Convert|473|ft|7|in|m|2|abbr=on|lk=on}}<!--m--><ref name="日本の戦艦上p106">[[#日本の戦艦(上)2001]]p.106</ref>
|-
|垂線間長 = {{Convert|425|ft|0|in|m|2|abbr=on|lk=off}}<!--m--><ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="大正9年要目一覧表1"><!--1920年-->[[#戦史叢書31海軍軍戦備1]]付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」</ref><br />または{{Convert|420|ft|0|in|m|2|abbr=on|lk=off}}<!--m--><ref name="日本の戦艦上p106"/>
|全長||143.3m
|水線幅 = {{Convert|78|ft|1+1/4|in|m|2|abbr=on|lk=off}}<!--m--><ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="大正9年要目一覧表1"/><br />または{{Convert|78|ft|2|in|m|2|abbr=on|lk=off}}<!--m--><ref name="日本の戦艦上p106"/>
|-
|深さ = {{Convert|44|ft|0|in|m|2|abbr=on|lk=off}}<!--m--><ref name="昭和造船史1pp776-777"/>
|幅||23.8m
|吃水 = {{Convert|26|ft|7+1/2|in|m|2|abbr=on|lk=off}}<!----><ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="大正9年要目一覧表1"/><br />または{{Convert|26|ft|4|in|m|2|abbr=on|lk=off}}<!--m--><ref name="日本の戦艦上p106"/>
|-
|推進 = 2軸<ref name="大正9年要目一覧表1"/> x 120[[rpm (単位)|rpm]]<ref name="昭和造船史1pp776-777"/>
|吃水||8.1m (平均)
|主機 = 直立4気筒3段[[蒸気機関|レシプロ]] 2基<ref name="大正9年要目一覧表1"/>
|-
|出力 = 15,600[[馬力]]<ref name="大正9年要目一覧表1"/><ref name="帝国海軍機関史(1975)別冊表9"/>
|機関||缶20基,蒸気レシプロ機関2基,2軸
|ボイラー = ニクロース[[ボイラー|缶]] 20基<ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="大正9年要目一覧表1"/>
|-
|速力 = 計画:18.5[[ノット]]<ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="大正9年要目一覧表1"/><br />竣工時:19.2ノット<ref name="帝国海軍機関史(1975)別冊表9"/>
|最大速||18.5ノット (34.26km/h)
|燃料 = 石炭:2,007トン<ref name="昭和造船史1pp776-777"/><ref name="大正9年要目一覧表1"/>
|-
|航続距離||10ノットで10,000浬
|航続距離 = 10,000[[カイリ]] / 10ノット<ref name="昭和造船史1pp776-777"/>
|乗員 = 竣工時定員:850名<ref name="竣工時定員">[[#海軍制度沿革10-1(1972)]]pp.485-486,明治39年1月15日内令第17号。将校同相当官35人、兵曹長同相当官、准士官17人、下士152人、卒646人。</ref><br />1920年:815名<ref name="大正9年要目一覧表1"/><ref name="" group="注釈">[[#昭和造船史1]]pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表では、計画乗員864名としている。</ref>
|-
|兵装 = '''竣工時'''<ref name="昭和造船史1pp776-777"/><br />45口径12インチ連装砲 2基4門<br />45口径10インチ単装砲 4門<br />6インチ単装砲 12門<br />3インチ単装砲 16門<br />47mm単装砲 3門<br />45cm水中[[魚雷発射管|発射管]] 5門<br />'''1920年'''<ref name="大正9年要目一覧表1"/><br />安式30cm砲 4門<br />安式25cm砲 4門<br />安式15cm砲 12門<br />四一式8cm砲 8門(4門子砲)<br />1号8cm砲 6門<br />四一式短8cm砲 2門<br />麻式6.5mm機砲 3挺<br />水中発射管 5門<br />探照灯 6基
|兵員||864名
|装甲 = 舷側:9[[インチ|in]](228.6[[ミリメートル|mm]])-6in(152.4mm)KC鋼<ref name="日本の戦艦(上)2001p218">[[#日本の戦艦(上)2001]]p.218</ref><br />甲板:3in(76.2mm)-2in(50.8mm)<ref name="日本の戦艦(上)2001p218"/><br />砲塔:12in(304.8mm)-5in(127mm)<ref name="日本の戦艦(上)2001p218"/><br />砲郭:9in(228.6mm)<ref name="日本の戦艦(上)2001p218"/><br />司令塔:9in(228.6mm)<ref name="日本の戦艦(上)2001p218"/>
|-
|搭載艇 = '''1922年''':56ft(フィート)ペデットボート(艦載水雷艇)2隻、36ft小蒸気船1隻、40ftランチ1隻、32ftピンネース1隻、30ftカッター3隻、30ft通船2隻、20ft通船1隻<ref>[[#T11公文備考35/配属(1)]]画像47-48</ref>
|兵装||30.5cm45口径連装砲2基<br />25.4cm45口径単装砲4基<br />15.2cm45口径単装砲12基<BR />7.6cm40口径単装砲16基<BR />47mm単装砲3基<BR />45cm水中魚雷発射管5門
|その他 =
|}
|備考 =
</div>
}}
'''鹿島 '''(かしま)は[[大日本帝国海軍]]の[[戦艦]]。[[香取型戦艦]]の2番艦であり、艦名は[[茨城県]][[鹿島神宮]]に由来している。基本的な仕様はほぼ同じであるが、[[香取 (戦艦)|香取]]とは[[煙突]]の配置を始めとして細部は異なる。
'''鹿島 '''(かしま)は[[大日本帝国海軍]]の[[戦艦]]<ref name="明治38年達42" />。[[香取型戦艦]]の2番艦。
艦名は[[茨城県]][[鹿島神宮]]に由来する<ref name="幕末以降鹿島">[[#幕末史実|幕末以降帝国軍艦写真と史実]]第90コマ(原本142頁)『<ins>鹿島(かしま)</ins> <ins>艦種</ins>戰艦 二檣(信號用)香取と姉妹艦 <ins>艦名考</ins>神社名なり、常陸國鹿島町に鎮座する鹿島神宮に採る、此神宮の祭神は武神<ruby><rb>武</rb><rt>タケ</rt></ruby><ruby><rb>甕</rb><rt>ミカ</rt></ruby><ruby><rb>槌命</rb><rt>ヅチノミコト</rt></ruby>なり。其の由緒は軍艦香取の項に在り。<ins>艦歴</ins>明治39年5月23日英國「アームストロング」社に於て竣工、同年8月4日本邦到着。大正3年乃至9年戰役に從軍:同7年1月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長大佐田口久盛)、同10年東宮殿下御渡欧の節供奉艦たり(第三艦隊司令長官海軍中将小栗孝三郎坐乗)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍制限條約による)。<br />―要目― 長470呎/幅78.25呎/吃水26.75呎/排水量16,400噸/機關 四汽筩直立四聯成汽機2臺 ニクロース式/馬力15,600/速力18.5/乗組人員864/船材 鋼(甲帶9吋)/兵装 12吋砲4/10吋砲4/6吋砲12/14听砲16/其他輕砲7/發射管5/起工 明治37-2-29/進水 同38-3-22/竣工 同39-5-23/建造所 英國エルスウィック社』</ref>。
艦名は[[香取型練習巡洋艦]]2番艦「[[鹿島 (練習巡洋艦)|鹿島]]」<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ204番『◎練習巡洋艦香取鹿島、驅逐艦早潮及敷設艇巨濟命名ノ件 昭和十四年三月三十一日(達四八)』</ref>、[[海上自衛隊]]の練習艦「[[かしま (練習艦)|かしま]]」に引き継がれた。


== 概要 ==
== 艦歴 ==
=== 建造 ===
[[イギリス|英国]]の[[アームストロング・ホイットワース|アームストロング]]社エルジック工場で建造され、アームストロング式(安式)の砲を備えた。なお、香取はヴィッカーズ式(毘式)であった。
[[イギリス|英国]]の[[アームストロング・ホイットワース|アームストロング]]社エルジック工場で建造され、アームストロング式(安式)の砲を備えた{{Sfn|石橋、大口径艦載砲|2018|pp=111-112|ps=一足早い四五口径砲採用}}。なお、「[[香取 (戦艦)|香取]]」はヴィッカーズ式(毘式)であった。[[煙突]]の配置、艦各部の要目等を始めとして細部は異なるが、2隻は姉妹艦として扱われる<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]33-34頁『第三艦隊旗艦鹿島と御召艦香取の来歴』</ref>。
第三期海軍拡張計画の一艦として計画され、当初は「香取」の三年遅れで建造される予定であったが[[ロシア]]との関係悪化により計画が繰り上げられ、同時に建造されることになった。


[[1904年]](明治37年)[[2月13日]]、日本海軍はイギリスで建造の第一号甲鉄艦を[[香取神宮|香取]]、'''第二号甲鉄艦'''を[[鹿島神宮|鹿島]]と呼称することを内定<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ199番『◎甲鐡戰艦香取及鹿島目名ノ件 明治三十七年二月十三日(内令九五)英國ニ於テ製造ノ甲鐡戰艦二隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行迄部内限限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|英國毘社ニ於テ製造 第一號甲鐡戰艦 <ruby><rb>香</rb><rt>カ</rt></ruby><ruby><rb>取</rb><rt>トリ</rt></ruby>|英國安社ニ於テ製造 第二甲鐡戰艦 <ruby><rb>鹿</rb><rt>カ</rt></ruby><ruby><rb>島</rb><rt>シマ</rt></ruby>』</ref>。
第三期海軍拡張計画の一艦として計画され、当初は香取の三年遅れで建造される予定であったが[[ロシア]]との関係悪化により計画が繰り上げられ、同時に建造されることになった。
候補艦名として瑞穂(ミヅホ)、琵琶(ビハ)、伊吹(イブキ)があった<ref>[[#M39公文備考11/軍艦香取、鹿島製造1(6)]]画像36</ref>。
[[2月29日]]、「鹿島」は起工<ref name="幕末以降鹿島" />。[[1905年]](明治38年)[[3月22日]]、進水<ref name="幕末以降鹿島" />。同日附で制式に「[[鹿島]]」と命名される<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ199番『◎戰艦鹿島命名ノ件 明治三十八三月二十二日(達四二)』</ref><ref name="明治38年達42">[[#達明治38年3月(3)]]p.5『達第四十二號 英國安社ニ於テ製造ノ第二甲鐡戰艦ヲ<ruby><rb>鹿</rb><rt>カ</rt></ruby><ruby><rb>島</rb><rt>シマ</rt></ruby>ト命名セラル 明治三十八年三月二十二日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』</ref>。[[1906年]](明治39年)[[5月23日]]、竣工<ref name="幕末以降鹿島" />。5月28日、2隻(香取、鹿島)は戦艦に類別される<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]コマ54番『明治三十九年五月二十八日(達七五)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄「周防」ノ次ニ「香取、鹿島」ヲ加フ』</ref><ref name="M39達75">[[#達明治39年5月]]p.7『達第七十五號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄「周防」ノ次ニ「香取、鹿島」ヲ加フ 明治三十九年五月二十八日 海軍大臣斎藤實』</ref>。


完成は[[日露戦争]]後となったが、到着当時、戦争による損耗(「[[八島 (戦艦)|八島]]」と「[[初瀬 (戦艦)|初瀬]]」の触雷沈没)と事故(「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の火薬庫爆発)により日本には使える戦艦が3隻しかなく、新鋭戦艦2隻の到着は日本海軍の戦力を大幅に増加させることとなった。
完成は[[日露戦争]]後となったが、到着当時、戦争による損耗(「[[八島 (戦艦)|八島]]」と「[[初瀬 (戦艦)|初瀬]]」の触雷沈没)と事故(「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の火薬庫爆発)により日本には使える戦艦が3隻しかなく、新鋭戦艦2隻の到着は日本海軍の戦力を大幅に増加させることとなった。


=== 1907年 ===
その後しばらくの間日本海軍の主力艦となり、[[1921年]](大正10年)には皇太子(後の[[昭和天皇]])[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|渡欧]]に際し[[香取 (戦艦)|香取]]とともに遣欧艦隊を編成し、3月横浜を出発、鹿島は旗艦を務めた。この際イギリスに対する好誼の表現として国産主力艦によらずわざわざイギリス製の戦艦を使用したのである。
[[1907年]](明治40年)5月13日(14日)、[[籠神社]]参拝や[[天の橋立]]見学等を終えた[[明治天皇]][[皇太子]](嘉仁親王。後の[[大正天皇]])は舞鶴港で「鹿島」(艦長[[小泉鑅太郎]]大佐)に乗艦<ref>[[#大正天皇(原、2000)]]112頁『公式の山陰巡啓』</ref><ref name="原113">[[#大正天皇(原、2000)]]113頁『1907年(明治40)山陰巡啓』</ref>。舞鶴を出発する{{Sfn|大正天皇実録第二|2017|p=311a|ps=軍艦鹿島にて舞鶴軍港御解纜}}<ref>[{{NDLDC|2950507/6}} 明治40年5月16日官報第7161号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6]『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ一昨十四日午前八時御旅館舞鶴水交社御出門軍艦鹿島ニ御乗艦同九時舞鶴軍港御發艦同日午後六時美保灣ニ御箸艦アラセラレタリ』</ref>。5月15日、皇太子は[[境港市]]([[鳥取県]])で「鹿島」を降りた{{Sfn|大正天皇実録第二|2017|p=311b|ps=美保湾に御仮泊/境町に御上陸}}<ref>[{{NDLDC|2950508/5}} 明治40年5月17日官報第7162号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6]『○東宮御安箸竝ニ行啓 皇太子殿下ハ一昨十五日午前九時境港御上陸正午十二時米子町御旅館鳳翔閣ヘ御安箸アラセラレ午後二時三十分御旅館御出門鳥取縣立第二中學校ヘ行啓同三時四十分御旅館ヘ還御アラセラレタリ』</ref>。
[[出雲大社]]参拝<ref>[{{NDLDC|2950518/3}} 明治40年5月29日官報第7172号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3]『○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨二十七日午前九時今市町御旅館御出門島根縣女子師範學校ヘ行啓續テ杵築町御箸出雲大社御参拝午後同縣立杵紫中學校ヘ行啓同四時三十分御旅館ヘ還御アラセラレタリ』</ref>等の山陰地方行啓を終えた皇太子は6月3日に[[浜田市]]で「鹿島」に再乗艦(宿泊){{Sfn|大正天皇実録第二|2017|pp=319-320|ps=軍艦鹿島に御搭乗御仮泊}}<ref>[{{NDLDC|2950525/3}} 明治40年6月6日官報第7179号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3]『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月三日濱田町御旅館御出門午後三時軍艦鹿島ニ御乗艦同夜御假泊一昨四日午前六時濱田港御發艦午後二時隠岐國別府灣ヘ御安箸アラセラレタリ』</ref>。6月4日、[[隠岐諸島]]に移動して[[後鳥羽天皇]]火葬塚([[隠岐神社]])等を訪問<ref name="原113" />{{Sfn|大正天皇実録第二|2017|p=320|ps=浜田湾御解纜/隠岐島別府港に御上陸}}。6月5日、隠岐を出発し、舞鶴で「鹿島」を下艦した{{Sfn|大正天皇実録第二|2017|p=321|ps=別府湾御解纜/舞鶴港に御仮泊}}<ref>[{{NDLDC|2950526/3}} 明治40年6月7日官報第7180号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3]『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨五日午前六時隠岐國別府灣御發艦午後五時二十分舞鶴港ヘ御箸艦アラセラレタリ』</ref>。


=== 1911年 ===
[[1923年]](大正12年)、[[ワシントン海軍軍縮条約]]により廃艦となり、解体された。
1911年(明治44年)3月下旬から4月上旬にかけて、[[明治天皇]][[皇太子]](のち[[大正天皇]])は「鹿島」を御召艦として呉軍港・佐世保軍港を巡啓、軍艦2隻(摂津、筑摩)の進水式に臨席することになった{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=243a|ps=呉及び佐世保両軍港に行啓}}<ref>[[#摂津筑摩進水式(10)]]pp.8-9『皇太子殿下呉、佐世保両軍港ヘ行啓御次第書』</ref>。[[3月27日]]午前11時、[[皇太子]]は横須賀軍港の逸見波止場より「鹿島」に乗艦{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=243b|ps=横須賀軍港より軍艦鹿島に御搭乗}}(供奉艦は[[薩摩 (戦艦)|薩摩]])<ref>[{{NDLDC|2951682/9}} 明治44年3月28日官報第8326号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9]『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨二十七日午前十時十分葉山御用邸御出門同十時四十五分逗子停車場御發車同十一時横須賀停車場御箸車軍艦鹿島ヘ御乗艦正午十二時横須賀軍港御發艦アラセラレタリ|○拝謁竝賢所参拝 在京都華族總代トシテ天機伺ノタメ出京ノ從五位[[唐橋在知]]ハ昨二十七日午前十時三十分拝謁仰付ケラレ又今般英國ヘ派遣ノ第二艦隊軍艦鞍馬、利根乗員島村海軍中将、海軍大佐石井義太郎(中略)ハ同時拝謁竝ニ 賢所参拝仰付ケラレ海軍上等筆記楠田徳太郎以下百三十六名ハ 賢所参拝仰付ケラレタリ』</ref>。
3月29日、鹿島は[[厳島|宮島]]沖合に到着した{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=244a|ps=厳島沖に御仮泊}}<ref>[{{NDLDC|2951684/6}} 明治44年3月30日官報第8328号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6]『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月二十七日横須賀御發艦一昨二十八日御航海昨二十九日午前九時二十分宮島ヘ御箸艦アラセラレタリ』</ref>。
[[3月30日]]、皇太子は「鹿島」より呉軍港に上陸{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=244b|ps=呉軍港御著}}、[[河内型戦艦]]2番艦「[[摂津 (戦艦)|摂津]]」進水式に臨んだ{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=244c|ps=軍艦摂津進水式に御臨場}}<ref name="明治官報8329">[{{NDLDC|2951685/12}} 明治44年3月31日官報第8329号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ12]『○東宮臨御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨三十日午前七時宮島御發艦同八時三十分呉軍港御箸艦同九時三十分軍艦摂津進水式ニ臨マセラレタリ|○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨三十日午後二時呉軍港御發艦アラセラレタリ』</ref><ref>[[#達明治44年3月]]p.10『達第三十三號 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ呂號戰艦ヲ攝津ト命名セラル 明治四十四年三月三十日 海軍大臣男爵 齋藤實』</ref>。
午後2時、艦隊(鹿島、薩摩)は呉軍港を出発、佐世保へ向かう{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=244d|ps=呉御解纜}}<ref name="明治官報8331">[{{NDLDC|2951687/9}} 明治44年4月4日官報第8331号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9]『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク去月三十日呉軍港御發艦同三十一日御航海本月一日午前八時二十三分佐世保軍港ニ御箸艦アラセラレタリ|○東宮臨御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月一日午前九時十分軍艦筑摩進水式場ニ臨マセラレ同十時御歸艦アラセラレタリ|○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月一日午後二時佐世保軍港御發艦アラセラレタリ』</ref><ref>[{{NDLDC|2951686/23}} 明治44年4月1日官報8330号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ23]『○軍艦發箸 各港灣ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ(海軍省)|薩摩 鹿島}(艦名) 三、三〇(月日) 呉(發)佐世保(行先)』</ref>。
4月1日、艦隊(鹿島、薩摩)は[[佐世保港|佐世保軍港]]に到着{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=245a|ps=佐世保軍港御著}}、皇太子は巡洋艦「[[筑摩 (防護巡洋艦)|筑摩]]」進水式に臨んだ{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=245b|ps=軍艦筑摩進水式に御臨場}}<ref name="明治官報8332">[{{NDLDC|2951688/7}} 明治44年4月5日官報第8332号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7]『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月一日佐世保軍港御發艦同二日御航海同三日午後神戸港ニ御箸艦御假泊アラセラル』</ref>。
午後2時、御召艦鹿島は佐世保を出発する{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=245c|ps=佐世保御解纜}}<ref name="明治官報8332" />。
4月2日夜、御召艦隊は遣英艦隊(巡洋戦艦[[鞍馬 (巡洋戦艦)|鞍馬]]、巡洋艦[[利根 (防護巡洋艦)|利根]])と合同した{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=245d|ps=(午後七時三十分より軍艦鹿島以下の諸艦は遣英第二艦隊軍艦鞍馬・利根と相会すべく、探照灯を点じて中空を照す。九時土佐沖に於て遣英艦隊と出会、同十五分より二十分間同艦隊と同行の後、別離を告ぐ。)}}。
4月3日午後、御召艦鹿島は神戸港に到着{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=245e|ps=神戸港御著}}<ref name="明治官報8333">[{{NDLDC|2951689/4}} 明治44年4月6日官報第8333号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4]『○東宮行啓竝御安箸 皇太子殿下ハ一昨四日午前七時三十分神戸御上陸同八時十分神戸停車場御發車同八時四十分舞子停車場御箸車有栖川宮別邸ニ御立寄同九時四十五分舞子停車場御發車同十時十五分神戸停車場御箸車神戸市開催貿易生産品共通會ヘ行啓午後零時三十分神戸停車場御發車同二時十七分二條停車場御箸車同二時三十分二條離宮ニ御安箸アラセラレタリ』</ref>。翌4日、皇太子は神戸で「鹿島」を離れ{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=245e|ps=神戸港御著}}、予定をこなしつつ鉄道を利用して東京に戻った{{Sfn|大正天皇実録第三|2018|p=246|ps=東京に還啓}}<ref>[{{NDLDC|2951690/22}} 明治44年4月7日官報第8334号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ22]『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨五日午前九時二十五分二條離宮御出門同九時四十分二條停車場御發車午後七時十五分沼津停車場御箸車同七時四十五分沼津御用邸西附属邸ニ御安箸アラセラレタリ』</ref><ref>[{{NDLDC|2951691/6}} 明治44年4月8日官報第8335号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6]『○東宮還御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨七日午後一時四十分沼津御用邸西附属邸御出門同二時十分沼津停車場御發車同六時五分新橋停車場御箸車同六時三十分還御アラセラレタリ』</ref>。


== 艦歴 ==
=== 1915年 ===
[[1915年]](大正4年)3月まで、大修理(大改装)を施行した<ref name="大正9年要目一覧表1"/>。
*[[1918年]] - [[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]]第5戦隊として[[シベリア出兵]]に参加。[[沿海州]]警備、デカストリ湾上陸支援に従事。

*[[1921年]] - [[昭和天皇|皇太子]]欧州訪問供奉、第3艦隊[[旗艦]]。
=== 1918年 ===
*[[1923年]] - ワシントン海軍軍縮条約により廃艦。 解体後、[[主砲]]塔2基は沿岸防備用の陸上[[砲台]]へと転用された。
[[1918年]](大正7年)、[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]]第5戦隊として[[シベリア出兵]]に参加。[[沿海州]]警備、デカストリ湾上陸支援に従事。

=== 遣欧艦隊 ===
[[1921年]](大正10年)には[[大正天皇]][[皇太子]](後の[[昭和天皇]])[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|渡欧]]に際し戦艦2隻([[香取 (戦艦)|香取]]、鹿島)は遣欧艦隊を編成し、皇太子は「香取」を御召艦とする<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]32頁『御召艦香取に御乗艦』</ref>。「鹿島」(随艦)は旗艦を務めた(第三艦隊司令長官[[小栗孝三郎]]中将座乗)<ref name="幕末以降鹿島" />。この際イギリスに対する好誼の表現として国産主力艦によらずわざわざイギリス製の戦艦を使用したのである。
[[3月3日]]、香取〔御召艦〕と鹿島〔随艦〕は連合艦隊各艦([[長門 (戦艦)|長門]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]])等に見送られて横浜を出発する<ref name="外遊記日程表">[[#皇太子外遊記]]255-258頁『裕仁皇太子渡欧日程表〔主な会見者と行事〕』</ref><ref>[[#皇太子外遊記]]63頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]32-33頁『御出航』</ref>。
コロンボ出発後の4月2日、「鹿島」の機関部でパイプが破裂、死者3名を出す<ref name="外遊記日程表" /><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]69-70頁『(大正十年四月)三日 日曜日 鹿島における罐管破裂事故』</ref>。4月7日には「香取」でも機関部事故が起こり死者2名・負傷者2名を出した<ref>[[#皇太子外遊記]]70頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]72-73頁『(大正十年四月)七日 木曜日 香取における罐管破裂事故』</ref>。4月16日、[[スエズ運河]]通過中に「鹿島」が座礁、「香取」と衝突しかけている<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]75-76頁『(大正十年四月)十六日 土曜日 スエズ運河/鹿島の座礁/グレート・ビター湖』</ref>。
[[ジブラルタル海峡]]を通過して、2隻(香取、鹿島)は[[5月7日]]に[[スピットヘッド]](ポーツマス軍港沖投錨地)へ到着<ref name="外遊記日程表" />。[[クイーン・エリザベス級戦艦]]1番艦「[[クイーン・エリザベス (戦艦)|クイーン・エリザベス]]」(大西洋艦隊旗艦)は21発の皇礼砲で2隻を出迎えた<ref>[[#皇太子外遊記]]83-84頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]113-114頁『(大正十年五月)七日 土曜日 スピットヘッド御到着』</ref>。5月9日、ポーツマス軍港で皇太子は「香取」を降りる<ref>[[#皇太子外遊記]]85頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]121-122頁『(大正十年五月)九日 月曜日 ポーツマス軍港に御入港』</ref>。
なお訪英中の5月25日、皇太子は本艦を建造したアームストロング・ホイットワース社工場を見学、社長グリン・ハミルトン・ウエストより「鹿島」模型の献上を受けた<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]218頁『軍艦鹿島の模型献上』</ref>。

7月18日、「香取」と「鹿島」は[[ナポリ]](イタリア)を出港、帰路に就いた<ref>[[#皇太子外遊記]]145頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]417頁『ナポリ御出港』</ref>。8月1日、[[ソコトラ島]]近海で大阪商船の「シャム号」が座礁し、手違いにより「鹿島」がシャム号救援に向かうことになった<ref>[[#皇太子外遊記]]149頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]431-432頁『(大正十年八月)一日 月曜日 大阪商船暹羅丸の救難要請』</ref>。「鹿島」は解列して救助に赴き、乗組員59名の救助に成功した<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]432頁『暹羅丸乗員救助の報告』</ref>。両艦は火薬庫爆発事故を懸念して航海中に火薬を海中投棄しており{{Sfn|城英一郎日記|1982|p=51|ps=(昭和16年3月3日記事)(中略)一五三〇、御渡欧関係者一九名御召、茶菓(竹の間)扈従し、同室にて茶菓を賜はる〔席次、次頁図参照〕。続て牡丹の間にて御話、一七〇〇迄(お話の中、[[フィリップ・ペタン|Petan]]元帥、[[ジブラルタル|Gibraltr]]の英司令官の二名、お召艦の火薬地中海にて投棄事件、スエズ通過等々)。御満足の様子に杯配す。(以下略)}}、「鹿島」は無防備の状態だったという<ref>[[#昭和天皇の艦長]]106頁</ref>。
8月3日、悪天候により鹿島水兵1名が転落して行方不明になる(殉職認定)<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]432頁『鹿島水兵の殉職』</ref>。
8月21日、カムラン湾で巡洋艦「[[新高 (防護巡洋艦)|新高]]」と給炭艦「[[室戸 (給炭艦)|室戸]]」(侍従[[甘露寺受長]]乗艦)の出迎えを受ける<ref>[[#皇太子外遊記]]150頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]438-439頁『(大正十年八月)二十一日 日曜日』</ref>。8月28日には台湾海峡通過中に巡洋艦「[[利根 (防護巡洋艦)|利根]]」<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]442-443頁『(大正十年八月)二十八日 日曜日 軍艦利根の奉迎』</ref>、8月31日には[[栃内曽次郎]]連合艦隊司令長官指揮下の主力艦隊が奉迎<ref>[[#昭和天皇実録三巻]]443-444頁『(大正十年八月)三十一日 水曜日 聯合艦隊の奉迎』</ref>、9月2日に戦艦「[[山城 (戦艦)|山城]]」(奉迎艦)が出迎える中で[[館山市]](千葉県)入港<ref>[[#皇太子外遊記]]151頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]446-447頁『(大正十年九月)二日 金曜日 館山湾御入港』</ref>。9月3日、香取と鹿島は横浜港に到着、皇太子は「香取」を退艦した<ref>[[#皇太子外遊記]]153頁</ref><ref>[[#昭和天皇実録三巻]]448-450頁『香取を御退艦』</ref>。

=== 廃艦 ===
[[1923年]](大正12年)9月20日、除籍<ref name="T12達195">[[#達大正12年9月]]p.2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』</ref>。艦艇類別等級表からも削除<ref>[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス』</ref><ref>[[#達大正12年9月]]p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』</ref>。[[ワシントン海軍軍縮条約]]により廃艦とされた<ref name="幕末以降鹿島" />。香取と鹿島は[[舞鶴海軍工廠|舞鶴要港部工作部]]で解体された{{Sfn|舞廠造機部|2014|pp=42-43}}。

解体後、12インチ[[主砲]]塔2基は沿岸防備用の陸上[[砲台]]へと転用されることになり{{Sfn|石橋、大口径艦載砲|2018|pp=228-232|ps=三、四五口径一二インチ砲}}、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に移管された上で[[東京湾要塞]]の千代ヶ崎砲台<ref>{{Cite book|和書|title=日本築城史 近代の沿岸築城と要塞|date=1971年12月1日|publisher=原書房|pages=131-135}}</ref>および長崎県平戸市の的山大島<ref>{{Cite web|和書|publisher=長崎新聞|title=終戦直後の「大島砲台」写真発見 戦艦の砲塔転用、解体前に撮影 長崎県平戸
|url=https://nordot.app/906369608378007552?c=174761113988793844|accessdate=2022-06-07}}</ref>に設置された。[[前弩級戦艦#中間砲|中間砲]](45口径10インチ砲)も、同様に引き渡されている{{Sfn|石橋、大口径艦載砲|2018|pp=233-235|ps=四、四五口径一〇インチ砲}}。


== 艦長 ==
== 艦長 ==
59行目: 94行目:
*[[伊地知季珍]] 大佐:1905年12月12日 - 1906年1月15日
*[[伊地知季珍]] 大佐:1905年12月12日 - 1906年1月15日
;艦長
;艦長
*伊地知季珍 大佐:1906年1月15日 - 11月22日
*伊地知季珍 大佐:1906年1月15日 - 1906年11月22日
*小泉鑅太郎 大佐:1906年11月22日 - 1907年11月15日
*小泉鑅太郎 大佐:1906年11月22日 - 1907年11月15日
*[[加藤定吉]] 大佐:1907年11月15日 - 1908年4月2日
*[[加藤定吉]] 大佐:1907年11月15日 - 1908年4月2日
*福井正義 大佐:1908年4月2日 - 12月10日
*福井正義 大佐:1908年4月2日 - 1908年12月10日
*[[土屋光金]] 大佐:1908年12月10日 - 1910年3月9日
*[[土屋光金]] 大佐:1908年12月10日 - 1910年3月9日
*小花三吾 大佐:1910年3月9日 - 1911年9月2日
*小花三吾 大佐:1910年3月9日 - 1911年9月2日
75行目: 110行目:
*小山武 大佐:1920年1月8日 - 1921年11月20日
*小山武 大佐:1920年1月8日 - 1921年11月20日
*有田秀通 大佐:1921年11月20日<ref>『官報』第2793号、大正10年11月22日。</ref> - 1922年11月10日<ref name=kp3085>『官報』第3085号、大正11年11月11日。</ref>
*有田秀通 大佐:1921年11月20日<ref>『官報』第2793号、大正10年11月22日。</ref> - 1922年11月10日<ref name=kp3085>『官報』第3085号、大正11年11月11日。</ref>
*(兼)森脇栄枝 大佐:1922年11月10日<ref name=kp3085/> -
*(兼)森脇栄枝 大佐:1922年11月10日<ref name=kp3085/> - 1923年4月1日<ref name=kp3199>『官報』第3199号、大正12年4月2日。</ref>
*(兼)山口権平 大佐:1923年4月1日<ref name=kp3199/> - 1923年9月1日<ref>『官報』号外第15号、大正12年9月14日。</ref>


==脚注==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*<!-- イシバシ2018 -->{{Cite book|和書|author=石橋孝夫|coauthors=|year=2018|month=08|origyear=|chapter=|title=日本海軍の大口径艦載砲 {{small|戦艦「大和」四六センチ砲にいたる帝国海軍軍艦艦砲史}}|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-3081-8|ref={{SfnRef|石橋、大口径艦載砲|2018}} }}
*福井静夫『日本戦艦物語(I) 福井静夫著作集第一巻』光人社 ISBN4-7698-0607-8
* <!--イズミ200104-->{{Cite book|和書|author=泉江三|title=<small>軍艦メカニズム図鑑</small> 日本の戦艦 上|publisher=グランプリ出版|date=2001-04|isbn=4-87687-221-X|ref=日本の戦艦(上)2001}}
*海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
*<!-- オカモト2014 -->{{Cite book|和書|author=岡本孝太郎|authorlink=|year=2014|month=05|title=舞廠造機部の昭和史|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-14246-3|ref={{SfnRef|舞廠造機部|2014}}}}
* <!--カイグンショウ-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第182巻|title=海軍制度沿革 巻十の1|author=海軍省/編|publisher=原書房|date=1972-04|origyear=1940|ref=海軍制度沿革10-1(1972)}}
* <!-- カイグンレキシ -->海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
* <!-- クナイ2015-03 -->{{Citation|和書|editor=[[宮内庁]]|coauthors=|authorlink=|year=2015|month=3|title=昭和天皇実録 第三 {{small|自大正十年至大正十二年}}|chapter=|publisher=東京書籍株式会社|ISBN=9784487744039|ref=昭和天皇実録三巻}}
* <!-- クナイ2017-11 -->{{Cite book|和書|editor=宮内庁図書寮|editor-link=宮内庁|coauthors=|authorlink=|year=2017|month=08|title=大正天皇実録 {{small|補訂版}} 第二 {{small|自明治三十四年至明治四十年}}|chapter=|publisher=株式会社ゆまに書房|ISBN=978-4-8433-5040-9|ref={{SfnRef|大正天皇実録第二|2017}}}}
* <!-- クナイ2018-08 -->{{Cite book|和書|editor=宮内庁図書寮|editor-link=宮内庁|coauthors=|authorlink=|year=2018|month=08|title=大正天皇実録 {{small|補訂版}} 第三 {{small|自明治四十一年至明治四十四年}}|chapter=|publisher=株式会社ゆまに書房|ISBN=978-4-8433-5041-6|ref={{SfnRef|大正天皇実録第三|2018}}}}
*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎|authorlink=城英一郎|editor=野村実|editor-link=野村実|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref={{SfnRef|城英一郎日記|1982}}}}
* <!--ニホンゾウセン1977-->{{Cite book|和書|author=(社)日本造船学会/編|title=昭和造船史(第1巻)|volume=明治百年史叢書 第207巻|edition=第3版|publisher=原書房|date=1981|origdate=1977-10|isbn=4-562-00302-2|ref=昭和造船史1}}
* <!--ニホンハクヨウ1975-->{{Cite book|和書|author=日本舶用機関史編集委員会/編|title=帝国海軍機関史|volume=明治百年史叢書 第245巻|publisher=原書房|date=1975-11|ref=帝国海軍機関史(1975)}}<!-- 上巻、下巻、別冊の3分冊-->
* <!-- ハタノ1998-5 -->{{Cite book|和書|author=波多野勝|authorlink=波多野勝|coauthors=|year=1998|month=5|title=裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記|chapter=|publisher=草思社|ISBN=4-7942-0821-9|ref=皇太子外遊記}}
* <!-- ハラ2000-11 -->{{Cite book|和書|author=原武史|authorlink=原武史|coauthors=|year=2000|month=3|title=大正天皇 {{small|朝日選書663}}|chapter=|publisher=朝日新聞社|ISBN=4-02-259763-1|ref=大正天皇(原、2000)}}
*福井静夫『日本戦艦物語(I) 福井静夫著作集第一巻』光人社 ISBN 4-7698-0607-8
* <!--ボウエイチョウ31-->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=防衛庁|title=海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで|volume=[[戦史叢書]]第31巻|year=1969|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref=戦史叢書31海軍軍戦備1}}
* <!-- メグミ2009-9 -->{{Cite book|和書|author=恵隆之介|authorlink=恵隆之介|coauthors=|year=2009|month=9|title=昭和天皇の艦長 {{small|沖縄出身提督漢那憲和の生涯}}|chapter=|publisher=産経新聞出版|ISBN=978-4-8191-1069-3|ref=昭和天皇の艦長}}
*『[[官報]]』
*『[[官報]]』

*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
**{{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=幕末史実}}
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1939|month=|title=海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1886711}}|ref=海軍制度沿革(巻4、1939)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1940|month=|title=海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1886716}}|ref=海軍制度沿革(巻8、1940)}}
**{{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|year=1940|month=|title=海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)|publisher=海軍大臣官房|url={{NDLDC|1886713}}|ref=海軍制度沿革(巻11、1940)}}
**{{Cite book|和書|author=河村貞編|chapter=初瀬、吉野の二艦沈没|year=1906|month=1|title=日露戦争大本営公報集|url={{NDLDC|774421}}|publisher=立誠堂|isbn=|ref=日露戦争大本営公報集}}
**{{Cite book|和書|author=藤田定市編|year=1928|month=1|chapter=|title=戦袍余薫懐旧録.第3輯|url={{NDLDC|1447108}}|publisher=財団有終會|isbn=|ref=戦袍余薫懐旧録.第3輯}}

* [https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター(公式)]
**'''外務省外交史料館'''
**{{Cite book|和書|id=Ref.B07090361900|title=各国へ軍艦建造並二購入方交渉雑件/英国 第三巻/2.軍艦香取鹿島|ref=軍艦建造購入交渉雑件/英国3巻/2.軍艦香取鹿島}}
**防衛省防衛研究所
**{{Cite book|和書|id=Ref.C06091732800|title=明治39年 公文備考 艦船2 巻11/軍艦香取、鹿島製造1(6)|ref=M39公文備考11/軍艦香取、鹿島製造1(6)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C06091733700|title=明治39年 公文備考 艦船2 巻11付属/軍艦香取、鹿島製造2止(1)|ref=M39公文備考11付属/軍艦香取、鹿島製造2止(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070052700|title=明治38年 達 完/3月(3)|ref=達明治38年3月(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070054300|title=明治39年 達完/5月|ref=達明治39年5月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070062100|title=明治44年 達完/3月|ref=達明治44年3月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070082500|title=大正12年 達完/9月|ref=達大正12年9月}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08020040100|title=軍艦摂津、筑摩進水式の件(10)|ref=摂津筑摩進水式(10)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08050450200|title=大正11年 公文備考 艦船3 巻35/配属(1)|ref=T11公文備考35/配属(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13072068600|title=第72号 7版 内令提要 完/第3類 艦船(1)|ref=内令提要7版/艦船(1)}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[戦艦一覧]]
*[[戦艦一覧]]
*[[大日本帝国海軍艦艇一覧]]
*[[キング・エドワードVII世級戦艦]] - 香取型戦艦の基になった
*[[キング・エドワードVII世級戦艦]] - 香取型戦艦の基になった
*[[鹿島神宮]]
*[[鹿島 (練習巡洋艦)]]
*[[鹿島 (練習巡洋艦)]]
*[[かしま (練習艦) ]]
*[[かしま (練習艦)]]



{{日本の戦艦}}
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[[Category:日本の戦艦]]
[[Category:香取型戦艦]]
[[Category:1905年進水船]]
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[[Category:鹿島神宮|かしま せんかん]]

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鹿島
基本情報
建造所 アームストロング・ホイットワース[1]エルジック造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 戦艦[3]
母港 舞鶴(1915年4月1日時点)[4][5]
艦歴
計画 第三期拡張計画[6]
起工 1904年2月29日[7][1]
進水 1905年3月22日[7][1]
竣工 1906年5月23日[7][8][1]
除籍 1923年9月20日[9]
その後 解体
要目(竣工時計画)
常備排水量 16,400英トン[7][5][10]
全長 470 ftin (143.26 m)[7]
または473 ftin (144.35 m)[11]
垂線間長 425 ft 0 in (129.54 m)[7][5]
または420 ft 0 in (128.02 m)[11]
水線幅 78 ft 1+14 in (23.81 m)[7][5]
または78 ft 2 in (23.83 m)[11]
深さ 44 ft 0 in (13.41 m)[7]
吃水 26 ft 7+12 in (8.12 m)[7][5]
または26 ft 4 in (8.03 m)[11]
ボイラー ニクロース 20基[7][5]
主機 直立4気筒3段レシプロ 2基[5]
推進 2軸[5] x 120rpm[7]
出力 15,600馬力[5][10]
速力 計画:18.5ノット[7][5]
竣工時:19.2ノット[10]
燃料 石炭:2,007トン[7][5]
航続距離 10,000カイリ / 10ノット[7]
乗員 竣工時定員:850名[12]
1920年:815名[5][注釈 1]
兵装 竣工時[7]
45口径12インチ連装砲 2基4門
45口径10インチ単装砲 4門
6インチ単装砲 12門
3インチ単装砲 16門
47mm単装砲 3門
45cm水中発射管 5門
1920年[5]
安式30cm砲 4門
安式25cm砲 4門
安式15cm砲 12門
四一式8cm砲 8門(4門子砲)
1号8cm砲 6門
四一式短8cm砲 2門
麻式6.5mm機砲 3挺
水中発射管 5門
探照灯 6基
装甲 舷側:9in(228.6mm)-6in(152.4mm)KC鋼[13]
甲板:3in(76.2mm)-2in(50.8mm)[13]
砲塔:12in(304.8mm)-5in(127mm)[13]
砲郭:9in(228.6mm)[13]
司令塔:9in(228.6mm)[13]
搭載艇 1922年:56ft(フィート)ペデットボート(艦載水雷艇)2隻、36ft小蒸気船1隻、40ftランチ1隻、32ftピンネース1隻、30ftカッター3隻、30ft通船2隻、20ft通船1隻[14]
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鹿島 (かしま)は大日本帝国海軍戦艦[15]香取型戦艦の2番艦。 艦名は茨城県鹿島神宮に由来する[16]。 艦名は香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島[17]海上自衛隊の練習艦「かしま」に引き継がれた。

艦歴

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建造

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英国アームストロング社エルジック工場で建造され、アームストロング式(安式)の砲を備えた[18]。なお、「香取」はヴィッカーズ式(毘式)であった。煙突の配置、艦各部の要目等を始めとして細部は異なるが、2隻は姉妹艦として扱われる[19]。 第三期海軍拡張計画の一艦として計画され、当初は「香取」の三年遅れで建造される予定であったがロシアとの関係悪化により計画が繰り上げられ、同時に建造されることになった。

1904年(明治37年)2月13日、日本海軍はイギリスで建造の第一号甲鉄艦を香取第二号甲鉄艦鹿島と呼称することを内定[20]。 候補艦名として瑞穂(ミヅホ)、琵琶(ビハ)、伊吹(イブキ)があった[21]2月29日、「鹿島」は起工[16]1905年(明治38年)3月22日、進水[16]。同日附で制式に「鹿島」と命名される[22][15]1906年(明治39年)5月23日、竣工[16]。5月28日、2隻(香取、鹿島)は戦艦に類別される[23][3]

完成は日露戦争後となったが、到着当時、戦争による損耗(「八島」と「初瀬」の触雷沈没)と事故(「三笠」の火薬庫爆発)により日本には使える戦艦が3隻しかなく、新鋭戦艦2隻の到着は日本海軍の戦力を大幅に増加させることとなった。

1907年

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1907年(明治40年)5月13日(14日)、籠神社参拝や天の橋立見学等を終えた明治天皇皇太子(嘉仁親王。後の大正天皇)は舞鶴港で「鹿島」(艦長小泉鑅太郎大佐)に乗艦[24][25]。舞鶴を出発する[26][27]。5月15日、皇太子は境港市鳥取県)で「鹿島」を降りた[28][29]出雲大社参拝[30]等の山陰地方行啓を終えた皇太子は6月3日に浜田市で「鹿島」に再乗艦(宿泊)[31][32]。6月4日、隠岐諸島に移動して後鳥羽天皇火葬塚(隠岐神社)等を訪問[25][33]。6月5日、隠岐を出発し、舞鶴で「鹿島」を下艦した[34][35]

1911年

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1911年(明治44年)3月下旬から4月上旬にかけて、明治天皇皇太子(のち大正天皇)は「鹿島」を御召艦として呉軍港・佐世保軍港を巡啓、軍艦2隻(摂津、筑摩)の進水式に臨席することになった[36][37]3月27日午前11時、皇太子は横須賀軍港の逸見波止場より「鹿島」に乗艦[38](供奉艦は薩摩[39]。 3月29日、鹿島は宮島沖合に到着した[40][41]3月30日、皇太子は「鹿島」より呉軍港に上陸[42]河内型戦艦2番艦「摂津」進水式に臨んだ[43][44][45]。 午後2時、艦隊(鹿島、薩摩)は呉軍港を出発、佐世保へ向かう[46][47][48]。 4月1日、艦隊(鹿島、薩摩)は佐世保軍港に到着[49]、皇太子は巡洋艦「筑摩」進水式に臨んだ[50][51]。 午後2時、御召艦鹿島は佐世保を出発する[52][51]。 4月2日夜、御召艦隊は遣英艦隊(巡洋戦艦鞍馬、巡洋艦利根)と合同した[53]。 4月3日午後、御召艦鹿島は神戸港に到着[54][55]。翌4日、皇太子は神戸で「鹿島」を離れ[54]、予定をこなしつつ鉄道を利用して東京に戻った[56][57][58]

1915年

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1915年(大正4年)3月まで、大修理(大改装)を施行した[5]

1918年

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1918年(大正7年)、第3艦隊第5戦隊としてシベリア出兵に参加。沿海州警備、デカストリ湾上陸支援に従事。

遣欧艦隊

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1921年(大正10年)には大正天皇皇太子(後の昭和天皇渡欧に際し戦艦2隻(香取、鹿島)は遣欧艦隊を編成し、皇太子は「香取」を御召艦とする[59]。「鹿島」(随艦)は旗艦を務めた(第三艦隊司令長官小栗孝三郎中将座乗)[16]。この際イギリスに対する好誼の表現として国産主力艦によらずわざわざイギリス製の戦艦を使用したのである。 3月3日、香取〔御召艦〕と鹿島〔随艦〕は連合艦隊各艦(長門扶桑)等に見送られて横浜を出発する[60][61][62]。 コロンボ出発後の4月2日、「鹿島」の機関部でパイプが破裂、死者3名を出す[60][63]。4月7日には「香取」でも機関部事故が起こり死者2名・負傷者2名を出した[64][65]。4月16日、スエズ運河通過中に「鹿島」が座礁、「香取」と衝突しかけている[66]ジブラルタル海峡を通過して、2隻(香取、鹿島)は5月7日スピットヘッド(ポーツマス軍港沖投錨地)へ到着[60]クイーン・エリザベス級戦艦1番艦「クイーン・エリザベス」(大西洋艦隊旗艦)は21発の皇礼砲で2隻を出迎えた[67][68]。5月9日、ポーツマス軍港で皇太子は「香取」を降りる[69][70]。 なお訪英中の5月25日、皇太子は本艦を建造したアームストロング・ホイットワース社工場を見学、社長グリン・ハミルトン・ウエストより「鹿島」模型の献上を受けた[71]

7月18日、「香取」と「鹿島」はナポリ(イタリア)を出港、帰路に就いた[72][73]。8月1日、ソコトラ島近海で大阪商船の「シャム号」が座礁し、手違いにより「鹿島」がシャム号救援に向かうことになった[74][75]。「鹿島」は解列して救助に赴き、乗組員59名の救助に成功した[76]。両艦は火薬庫爆発事故を懸念して航海中に火薬を海中投棄しており[77]、「鹿島」は無防備の状態だったという[78]。 8月3日、悪天候により鹿島水兵1名が転落して行方不明になる(殉職認定)[79]。 8月21日、カムラン湾で巡洋艦「新高」と給炭艦「室戸」(侍従甘露寺受長乗艦)の出迎えを受ける[80][81]。8月28日には台湾海峡通過中に巡洋艦「利根[82]、8月31日には栃内曽次郎連合艦隊司令長官指揮下の主力艦隊が奉迎[83]、9月2日に戦艦「山城」(奉迎艦)が出迎える中で館山市(千葉県)入港[84][85]。9月3日、香取と鹿島は横浜港に到着、皇太子は「香取」を退艦した[86][87]

廃艦

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1923年(大正12年)9月20日、除籍[9]。艦艇類別等級表からも削除[88][89]ワシントン海軍軍縮条約により廃艦とされた[16]。香取と鹿島は舞鶴要港部工作部で解体された[90]

解体後、12インチ主砲塔2基は沿岸防備用の陸上砲台へと転用されることになり[91]陸軍に移管された上で東京湾要塞の千代ヶ崎砲台[92]および長崎県平戸市の的山大島[93]に設置された。中間砲(45口径10インチ砲)も、同様に引き渡されている[94]

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 伊地知季珍 大佐:1906年1月15日 - 1906年11月22日
  • 小泉鑅太郎 大佐:1906年11月22日 - 1907年11月15日
  • 加藤定吉 大佐:1907年11月15日 - 1908年4月2日
  • 福井正義 大佐:1908年4月2日 - 1908年12月10日
  • 土屋光金 大佐:1908年12月10日 - 1910年3月9日
  • 小花三吾 大佐:1910年3月9日 - 1911年9月2日
  • 上村翁輔 大佐:1911年9月2日 - 1912年12月1日
  • 岡田啓介 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
  • 水町元 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
  • 下村延太郎 大佐:1915年3月17日 - 1916年12月1日
  • 三村錦三郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
  • 田口久盛 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
  • 大谷幸四郎 大佐:1918年11月10日 - 1919年11月20日
  • 安村介一 大佐:1919年11月20日 - 1920年1月8日
  • 小山武 大佐:1920年1月8日 - 1921年11月20日
  • 有田秀通 大佐:1921年11月20日[95] - 1922年11月10日[96]
  • (兼)森脇栄枝 大佐:1922年11月10日[96] - 1923年4月1日[97]
  • (兼)山口権平 大佐:1923年4月1日[97] - 1923年9月1日[98]

参考文献

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  • 石橋孝夫『日本海軍の大口径艦載砲 戦艦「大和」四六センチ砲にいたる帝国海軍軍艦艦砲史』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年8月。ISBN 978-4-7698-3081-8 
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 
  • 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 9784487744039 
  • 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第二 自明治三十四年至明治四十年』株式会社ゆまに書房、2017年8月。ISBN 978-4-8433-5040-9 
  • 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第三 自明治四十一年至明治四十四年』株式会社ゆまに書房、2018年8月。ISBN 978-4-8433-5041-6 
  • 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 波多野勝『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』草思社、1998年5月。ISBN 4-7942-0821-9 
  • 原武史『大正天皇 朝日選書663』朝日新聞社、2000年3月。ISBN 4-02-259763-1 
  • 福井静夫『日本戦艦物語(I) 福井静夫著作集第一巻』光人社 ISBN 4-7698-0607-8
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 恵隆之介『昭和天皇の艦長 沖縄出身提督漢那憲和の生涯』産経新聞出版、2009年9月。ISBN 978-4-8191-1069-3 
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 外務省外交史料館
    • 『各国へ軍艦建造並二購入方交渉雑件/英国 第三巻/2.軍艦香取鹿島』。Ref.B07090361900。 
    • 防衛省防衛研究所
    • 『明治39年 公文備考 艦船2 巻11/軍艦香取、鹿島製造1(6)』。Ref.C06091732800。 
    • 『明治39年 公文備考 艦船2 巻11付属/軍艦香取、鹿島製造2止(1)』。Ref.C06091733700。 
    • 『明治38年 達 完/3月(3)』。Ref.C12070052700。 
    • 『明治39年 達完/5月』。Ref.C12070054300。 
    • 『明治44年 達完/3月』。Ref.C12070062100。 
    • 『大正12年 達完/9月』。Ref.C12070082500。 
    • 『軍艦摂津、筑摩進水式の件(10)』。Ref.C08020040100。 
    • 『大正11年 公文備考 艦船3 巻35/配属(1)』。Ref.C08050450200。 
    • 『第72号 7版 内令提要 完/第3類 艦船(1)』。Ref.C13072068600。 

脚注

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注釈

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  1. ^ #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表では、計画乗員864名としている。

出典

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  1. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.38
  2. ^ #日本の戦艦(上)2001p.19
  3. ^ a b #達明治39年5月p.7『達第七十五號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄「周防」ノ次ニ「香取、鹿島」ヲ加フ 明治三十九年五月二十八日 海軍大臣斎藤實』
  4. ^ #内令提要7版/艦船(1)画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
  6. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-230
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表
  8. ^ #軍艦建造購入交渉雑件/英国3巻/2.軍艦香取鹿島画像23、明治39年5月24日公第89号「香取鹿島領収ノ件」
  9. ^ a b #達大正12年9月p.2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  10. ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)別冊表9、列国製艦一覧表其ノ二
  11. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.106
  12. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.485-486,明治39年1月15日内令第17号。将校同相当官35人、兵曹長同相当官、准士官17人、下士152人、卒646人。
  13. ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.218
  14. ^ #T11公文備考35/配属(1)画像47-48
  15. ^ a b #達明治38年3月(3)p.5『達第四十二號 英國安社ニ於テ製造ノ第二甲鐡戰艦ヲ鹿シマト命名セラル 明治三十八年三月二十二日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』
  16. ^ a b c d e f 幕末以降帝国軍艦写真と史実第90コマ(原本142頁)『鹿島(かしま) 艦種戰艦 二檣(信號用)香取と姉妹艦 艦名考神社名なり、常陸國鹿島町に鎮座する鹿島神宮に採る、此神宮の祭神は武神タケミカ槌命ヅチノミコトなり。其の由緒は軍艦香取の項に在り。艦歴明治39年5月23日英國「アームストロング」社に於て竣工、同年8月4日本邦到着。大正3年乃至9年戰役に從軍:同7年1月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長大佐田口久盛)、同10年東宮殿下御渡欧の節供奉艦たり(第三艦隊司令長官海軍中将小栗孝三郎坐乗)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍制限條約による)。
    ―要目― 長470呎/幅78.25呎/吃水26.75呎/排水量16,400噸/機關 四汽筩直立四聯成汽機2臺 ニクロース式/馬力15,600/速力18.5/乗組人員864/船材 鋼(甲帶9吋)/兵装 12吋砲4/10吋砲4/6吋砲12/14听砲16/其他輕砲7/發射管5/起工 明治37-2-29/進水 同38-3-22/竣工 同39-5-23/建造所 英國エルスウィック社』
  17. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ204番『◎練習巡洋艦香取鹿島、驅逐艦早潮及敷設艇巨濟命名ノ件 昭和十四年三月三十一日(達四八)』
  18. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, pp. 111–112一足早い四五口径砲採用
  19. ^ #昭和天皇実録三巻33-34頁『第三艦隊旗艦鹿島と御召艦香取の来歴』
  20. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199番『◎甲鐡戰艦香取及鹿島目名ノ件 明治三十七年二月十三日(内令九五)英國ニ於テ製造ノ甲鐡戰艦二隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行迄部内限限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|英國毘社ニ於テ製造 第一號甲鐡戰艦 トリ|英國安社ニ於テ製造 第二甲鐡戰艦 鹿シマ
  21. ^ #M39公文備考11/軍艦香取、鹿島製造1(6)画像36
  22. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199番『◎戰艦鹿島命名ノ件 明治三十八三月二十二日(達四二)』
  23. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ54番『明治三十九年五月二十八日(達七五)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄「周防」ノ次ニ「香取、鹿島」ヲ加フ』
  24. ^ #大正天皇(原、2000)112頁『公式の山陰巡啓』
  25. ^ a b #大正天皇(原、2000)113頁『1907年(明治40)山陰巡啓』
  26. ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 311a軍艦鹿島にて舞鶴軍港御解纜
  27. ^ 明治40年5月16日官報第7161号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ一昨十四日午前八時御旅館舞鶴水交社御出門軍艦鹿島ニ御乗艦同九時舞鶴軍港御發艦同日午後六時美保灣ニ御箸艦アラセラレタリ』
  28. ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 311b美保湾に御仮泊/境町に御上陸
  29. ^ 明治40年5月17日官報第7162号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御安箸竝ニ行啓 皇太子殿下ハ一昨十五日午前九時境港御上陸正午十二時米子町御旅館鳳翔閣ヘ御安箸アラセラレ午後二時三十分御旅館御出門鳥取縣立第二中學校ヘ行啓同三時四十分御旅館ヘ還御アラセラレタリ』
  30. ^ 明治40年5月29日官報第7172号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨二十七日午前九時今市町御旅館御出門島根縣女子師範學校ヘ行啓續テ杵築町御箸出雲大社御参拝午後同縣立杵紫中學校ヘ行啓同四時三十分御旅館ヘ還御アラセラレタリ』
  31. ^ 大正天皇実録第二 2017, pp. 319–320軍艦鹿島に御搭乗御仮泊
  32. ^ 明治40年6月6日官報第7179号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月三日濱田町御旅館御出門午後三時軍艦鹿島ニ御乗艦同夜御假泊一昨四日午前六時濱田港御發艦午後二時隠岐國別府灣ヘ御安箸アラセラレタリ』
  33. ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 320浜田湾御解纜/隠岐島別府港に御上陸
  34. ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 321別府湾御解纜/舞鶴港に御仮泊
  35. ^ 明治40年6月7日官報第7180号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨五日午前六時隠岐國別府灣御發艦午後五時二十分舞鶴港ヘ御箸艦アラセラレタリ』
  36. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 243a呉及び佐世保両軍港に行啓
  37. ^ #摂津筑摩進水式(10)pp.8-9『皇太子殿下呉、佐世保両軍港ヘ行啓御次第書』
  38. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 243b横須賀軍港より軍艦鹿島に御搭乗
  39. ^ 明治44年3月28日官報第8326号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨二十七日午前十時十分葉山御用邸御出門同十時四十五分逗子停車場御發車同十一時横須賀停車場御箸車軍艦鹿島ヘ御乗艦正午十二時横須賀軍港御發艦アラセラレタリ|○拝謁竝賢所参拝 在京都華族總代トシテ天機伺ノタメ出京ノ從五位唐橋在知ハ昨二十七日午前十時三十分拝謁仰付ケラレ又今般英國ヘ派遣ノ第二艦隊軍艦鞍馬、利根乗員島村海軍中将、海軍大佐石井義太郎(中略)ハ同時拝謁竝ニ 賢所参拝仰付ケラレ海軍上等筆記楠田徳太郎以下百三十六名ハ 賢所参拝仰付ケラレタリ』
  40. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 244a厳島沖に御仮泊
  41. ^ 明治44年3月30日官報第8328号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月二十七日横須賀御發艦一昨二十八日御航海昨二十九日午前九時二十分宮島ヘ御箸艦アラセラレタリ』
  42. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 244b呉軍港御著
  43. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 244c軍艦摂津進水式に御臨場
  44. ^ 明治44年3月31日官報第8329号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ12『○東宮臨御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨三十日午前七時宮島御發艦同八時三十分呉軍港御箸艦同九時三十分軍艦摂津進水式ニ臨マセラレタリ|○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨三十日午後二時呉軍港御發艦アラセラレタリ』
  45. ^ #達明治44年3月p.10『達第三十三號 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ呂號戰艦ヲ攝津ト命名セラル 明治四十四年三月三十日 海軍大臣男爵 齋藤實』
  46. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 244d呉御解纜
  47. ^ 明治44年4月4日官報第8331号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9『○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク去月三十日呉軍港御發艦同三十一日御航海本月一日午前八時二十三分佐世保軍港ニ御箸艦アラセラレタリ|○東宮臨御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月一日午前九時十分軍艦筑摩進水式場ニ臨マセラレ同十時御歸艦アラセラレタリ|○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月一日午後二時佐世保軍港御發艦アラセラレタリ』
  48. ^ 明治44年4月1日官報8330号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ23『○軍艦發箸 各港灣ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ(海軍省)|薩摩 鹿島}(艦名) 三、三〇(月日) 呉(發)佐世保(行先)』
  49. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 245a佐世保軍港御著
  50. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 245b軍艦筑摩進水式に御臨場
  51. ^ a b 明治44年4月5日官報第8332号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月一日佐世保軍港御發艦同二日御航海同三日午後神戸港ニ御箸艦御假泊アラセラル』
  52. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 245c佐世保御解纜
  53. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 245d(午後七時三十分より軍艦鹿島以下の諸艦は遣英第二艦隊軍艦鞍馬・利根と相会すべく、探照灯を点じて中空を照す。九時土佐沖に於て遣英艦隊と出会、同十五分より二十分間同艦隊と同行の後、別離を告ぐ。)
  54. ^ a b 大正天皇実録第三 2018, p. 245e神戸港御著
  55. ^ 明治44年4月6日官報第8333号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○東宮行啓竝御安箸 皇太子殿下ハ一昨四日午前七時三十分神戸御上陸同八時十分神戸停車場御發車同八時四十分舞子停車場御箸車有栖川宮別邸ニ御立寄同九時四十五分舞子停車場御發車同十時十五分神戸停車場御箸車神戸市開催貿易生産品共通會ヘ行啓午後零時三十分神戸停車場御發車同二時十七分二條停車場御箸車同二時三十分二條離宮ニ御安箸アラセラレタリ』
  56. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 246東京に還啓
  57. ^ 明治44年4月7日官報第8334号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ22『○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨五日午前九時二十五分二條離宮御出門同九時四十分二條停車場御發車午後七時十五分沼津停車場御箸車同七時四十五分沼津御用邸西附属邸ニ御安箸アラセラレタリ』
  58. ^ 明治44年4月8日官報第8335号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮還御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨七日午後一時四十分沼津御用邸西附属邸御出門同二時十分沼津停車場御發車同六時五分新橋停車場御箸車同六時三十分還御アラセラレタリ』
  59. ^ #昭和天皇実録三巻32頁『御召艦香取に御乗艦』
  60. ^ a b c #皇太子外遊記255-258頁『裕仁皇太子渡欧日程表〔主な会見者と行事〕』
  61. ^ #皇太子外遊記63頁
  62. ^ #昭和天皇実録三巻32-33頁『御出航』
  63. ^ #昭和天皇実録三巻69-70頁『(大正十年四月)三日 日曜日 鹿島における罐管破裂事故』
  64. ^ #皇太子外遊記70頁
  65. ^ #昭和天皇実録三巻72-73頁『(大正十年四月)七日 木曜日 香取における罐管破裂事故』
  66. ^ #昭和天皇実録三巻75-76頁『(大正十年四月)十六日 土曜日 スエズ運河/鹿島の座礁/グレート・ビター湖』
  67. ^ #皇太子外遊記83-84頁
  68. ^ #昭和天皇実録三巻113-114頁『(大正十年五月)七日 土曜日 スピットヘッド御到着』
  69. ^ #皇太子外遊記85頁
  70. ^ #昭和天皇実録三巻121-122頁『(大正十年五月)九日 月曜日 ポーツマス軍港に御入港』
  71. ^ #昭和天皇実録三巻218頁『軍艦鹿島の模型献上』
  72. ^ #皇太子外遊記145頁
  73. ^ #昭和天皇実録三巻417頁『ナポリ御出港』
  74. ^ #皇太子外遊記149頁
  75. ^ #昭和天皇実録三巻431-432頁『(大正十年八月)一日 月曜日 大阪商船暹羅丸の救難要請』
  76. ^ #昭和天皇実録三巻432頁『暹羅丸乗員救助の報告』
  77. ^ 城英一郎日記 1982, p. 51(昭和16年3月3日記事)(中略)一五三〇、御渡欧関係者一九名御召、茶菓(竹の間)扈従し、同室にて茶菓を賜はる〔席次、次頁図参照〕。続て牡丹の間にて御話、一七〇〇迄(お話の中、Petan元帥、Gibraltrの英司令官の二名、お召艦の火薬地中海にて投棄事件、スエズ通過等々)。御満足の様子に杯配す。(以下略)
  78. ^ #昭和天皇の艦長106頁
  79. ^ #昭和天皇実録三巻432頁『鹿島水兵の殉職』
  80. ^ #皇太子外遊記150頁
  81. ^ #昭和天皇実録三巻438-439頁『(大正十年八月)二十一日 日曜日』
  82. ^ #昭和天皇実録三巻442-443頁『(大正十年八月)二十八日 日曜日 軍艦利根の奉迎』
  83. ^ #昭和天皇実録三巻443-444頁『(大正十年八月)三十一日 水曜日 聯合艦隊の奉迎』
  84. ^ #皇太子外遊記151頁
  85. ^ #昭和天皇実録三巻446-447頁『(大正十年九月)二日 金曜日 館山湾御入港』
  86. ^ #皇太子外遊記153頁
  87. ^ #昭和天皇実録三巻448-450頁『香取を御退艦』
  88. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス』
  89. ^ #達大正12年9月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  90. ^ 舞廠造機部 2014, pp. 42–43.
  91. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, pp. 228–232三、四五口径一二インチ砲
  92. ^ 『日本築城史 近代の沿岸築城と要塞』原書房、1971年12月1日、131-135頁。 
  93. ^ 終戦直後の「大島砲台」写真発見 戦艦の砲塔転用、解体前に撮影 長崎県平戸”. 長崎新聞. 2022年6月7日閲覧。
  94. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, pp. 233–235四、四五口径一〇インチ砲
  95. ^ 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
  96. ^ a b 『官報』第3085号、大正11年11月11日。
  97. ^ a b 『官報』第3199号、大正12年4月2日。
  98. ^ 『官報』号外第15号、大正12年9月14日。

関連項目

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