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「イヴァン4世」の版間の差分

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== 主な事績 ==
== 主な事績 ==
対外的には、東方への領土拡大が進められ、[[アストラハン・ハン国]]と[[カザン・ハン国]]をモスクワ国家に組み入れて、治世末期には[[シビル・ハン国]]征服事業も成功裡に進んでいた。しかし、西部国境で長期にわたって続けられた[[リヴォニア戦争]]は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった。内政面では、[[16世紀]][[ヨーロッパ]]における[[絶対君主制]]の発展の中で、[[ツァーリズム]]と呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、[[ボヤーレ|大貴族]]の専横を抑えることに精力を傾注した。[[1547年]]の「全[[ルーシ]]の[[ツァーリ]]」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた。その反面、強引な圧政や大規模な[[粛清]]、[[恐怖政治]]というマイナス面も生じた。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、[[ロマノフ朝]]の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。
対外的には、東方への領土拡大が進められ、[[アストラハン・ハン国]]と[[カザン・ハン国]]をモスクワ国家に組み入れて、治世末期には[[シビル・ハン国]]征服事業も成功裡に進んでいた<ref name="ダニロフ209">ダニロフ(2011,209)</ref>。しかし、西部国境で長期にわたって続けられた[[リヴォニア戦争]]は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった<ref name="ダニロフ217">ダニロフ(2011,217)</ref>。内政面では、[[16世紀]][[ヨーロッパ]]における[[絶対君主制]]の発展の中で、[[ツァーリズム]]と呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、[[ボヤーレ|大貴族]]の専横を抑えることに精力を傾注した。[[1547年]]の「全[[ルーシ]]の[[ツァーリ]]」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた<ref name="ダニロフ202">ダニロフ(2011,202)</ref>。その反面、強引な圧政や大規模な[[粛清]]、[[恐怖政治]]というマイナス面も生じた。全土に渡って経済は低迷し、耕作地の放置が相次いだ<ref name="ダニロフ225">ダニロフ(2011,225)</ref>。それを避けるために農民が土地から離れることを禁じた禁止年実施令は農民の領主への依存を強め、[[農奴制]]の下地となった<ref name="ダニロフ225">ダニロフ(2011,225)</ref><ref name="田中264">田中(1995,264)</ref>。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、[[ロマノフ朝]]の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。


== 異称「雷帝」 ==
== 異称「雷帝」 ==
きわめて残虐・苛烈な性格であったため[[ロシア史]]上最大の[[暴君]]と言われる。「雷帝」という[[愛称|渾名]]は、彼の強力さと、冷酷さを共に表すものである。ただし、[[ロシア語]]の渾名「グローズヌイ」({{lang|ru|Гро́зный}})は「峻厳な、恐怖を与える、脅すような」といった意味の[[形容詞]]で、この単語自体に「[[雷]]」という意味はない。元となった[[名詞]]に「[[雷雨]]」ないし「ひどく厳格な人」という意味の「グロザー」({{lang|ru|[[:ru:гроза|Гроза́]]}})<!--アクセントがない“о”はアのように発音されるが、日本語表記する際は“о”はオと書くのが普通(マスクヴァーと書かない)-->があり、この単語との連関から畏怖を込めて「雷帝」と和訳された。[[英語]]では{{lang|en|[[:en:Ivan the Terrible|Ivan the Terrible]]}}と呼ばれる。
きわめて残虐・苛烈な性格であったため[[ロシア史]]上最大の[[暴君]]と言われる。「雷帝」という[[愛称|渾名]]は、彼の強力さと、冷酷さを共に表すものである。ただし、[[ロシア語]]の渾名「グローズヌイ」({{lang|ru|Гро́зный}})は「峻厳な、恐怖を与える、脅すような」といった意味の[[形容詞]]で、この単語自体に「[[雷]]」という意味はない。元となった[[名詞]]に「[[雷雨]]」ないし「ひどく厳格な人」という意味の「グロザー」({{lang|ru|[[:ru:гроза|Гроза́]]}})<!--アクセントがない“о”はアのように発音されるが、日本語表記する際は“о”はオと書くのが普通(マスクヴァーと書かない)-->があり、この単語との連関から畏怖を込めて「雷帝」と和訳された。[[英語]]では{{lang|en|[[:en:Ivan the Terrible|Ivan the Terrible]]}}と呼ばれる<ref name="川又40">川又(1999,40)</ref>


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 親政以前 ===
=== 親政以前 ===
==== 出自 ====
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[[File:Ivans ivory throne.jpg|thumb|200px|象牙製のイヴァン4世の玉座]]
[[File:Ivans ivory throne.jpg|thumb|200px|象牙製のイヴァン4世の玉座]]
イヴァン4世は、長く後継者のいなかった[[ヴァシーリー3世]]にとって待望の嫡男だったが、父は[[1525年]]に[[正教会]]の猛反対を押し切って、不妊の先妻を追放してイヴァン4世の母[[エレナ・グリンスカヤ|エレナ]]を妻に迎えており、[[エルサレム総主教庁|イェルサレム総主教]]はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。またエレナは[[1380年]]の[[クリコヴォの戦い]]で[[ドミトリイ・ドンスコイ]]に敗れた[[ジョチ・ウルス]]の有力者[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]の子孫と言われており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる。
イヴァン4世は[[1530年]][[8月25日]]、イヴァン4世は[[クレムリン]]のテレムノイ宮殿で生まれた<ref name="川又40">川又(1999,40)</ref>。イヴァン4世は、長く後継者のいなかった[[ヴァシーリー3世]]にとって待望の嫡男だったが、父は[[1525年]]に[[正教会]]の猛反対を押し切って、不妊の先妻を追放してイヴァン4世の母[[エレナ・グリンスカヤ|エレナ]]を妻に迎えており、[[エルサレム総主教庁|イェルサレム総主教]]はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。またエレナは[[1380年]]の[[クリコヴォの戦い]]で[[ドミトリイ・ドンスコイ]]に敗れた[[ジョチ・ウルス]]の有力者[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]の子孫と言われており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる<ref name="川又40">川又(1999,40)</ref>


==== モスクワ大公位の継承 ====
[[1533年]]12月に3歳で大公に即位し、最初は[[七人貴族会議|貴族会議]]が、次いで母后エレナが[[摂政]]として政務を執行した。エレナの政府は全国レベルでの単一[[通貨]]の導入、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組み、隣国[[リトアニア大公国]]との国境紛争にも勝利した。また大公位を狙うイヴァン4世の二人の叔父[[ユーリー・イヴァノヴィチ (ドミトロフ公)|ドミトロフ公ユーリー]]と[[アンドレイ・イヴァノヴィチ (スターリツァ公)|スターリツァ公アンドレイ]]を失脚させ、母方の{{仮リンク|グリンスキー家|ru|Глинские}}が実権を掌握したが、[[1538年]]に母エレナが死去すると、{{仮リンク|シュイスキー家|en|Shuysky}}と{{仮リンク|ベルスキー家 (ゲディミナス朝)|en|Belsky family (Gediminid)|label=ベルスキー家}}の人々に政権を奪取されてイヴァン4世の存在は無視されるようになった。
[[1533年]]12月、イヴァン4世はヴァシーリー3世の死去により3歳で大公に即位する。その後見には最初はシュイスキー公を中心とする[[七人貴族会議|貴族会議]]<ref name="田中219">田中(1995,219)</ref>が、次いで母后エレナがオフチーニン=テーレプニェフ=オボレンスキー公の援助を受けて[[摂政]]として政務を執行した<ref name="川又41">川又(1999,41)</ref>。エレナの政府は全国レベルでの単一[[通貨]](モスクワ・[[ルーブル]])の導入<ref name="ダニロフ199">ダニロフ(2011,199)</ref>、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組み、隣国[[リトアニア大公国]]との国境紛争にも勝利した<ref name="田中218">田中(1995,218)</ref>。また大公位を狙うイヴァン4世の二人の叔父[[ユーリー・イヴァノヴィチ (ドミトロフ公)|ドミトロフ公ユーリー]]と[[アンドレイ・イヴァノヴィチ (スターリツァ公)|スターリツァ公アンドレイ]]を失脚させ、母方の{{仮リンク|グリンスキー家|ru|Глинские}}が実権を掌握した<ref name="ダニロフ199">ダニロフ(2011,199)</ref>が、[[1538年]]に母エレナが死去すると、{{仮リンク|シュイスキー家|en|Shuysky}}と{{仮リンク|ベルスキー家 (ゲディミナス朝)|en|Belsky family (Gediminid)|label=ベルスキー家}}の人々に政権を奪取されて8歳のイヴァン4世の存在は無視されるようになった。またこの貴族同士の権力争いによって[[ロシア正教会]]モスクワ[[府主教]]のイオシフが廃位されると、代わってイヴァン4世の教育係でもあるマカリーが府主教に叙任された。この時期、教会の権威は貴族勢力に左右されるまでに弱体化しており、マカリー府主教は教会の権威を高めるため、それに代わる強大な保護者を必要とした。そのため、イヴァン4世には大公としてよりも「神に選ばれた[[ツァーリ]]」としての教育が施された<ref name="川又42">川又(1999,42)</ref>。また聡明なイヴァン4世もよく学んで[[ダビデ|ダビデ王]]から始まり[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]に続く「聖なる歴史」に親しむとともに、信仰心篤い青年へと成長する。しかしその一方で鳥獣を虐殺し、貴族の子弟と共に市内で暴れまわるなどの二面性を見せた<ref name="川又44">川又(1999,44)</ref>。また13歳の頃には大公としての権限を行使し、かつて自らの廷臣を排除した摂政の一人、名門貴族のアンドレイ・シュイスキーを処刑している<ref name="田中219">田中(1995,219)</ref><ref name="川又44">川又(1999,44)</ref>。


=== 戴冠 ===
=== 統治(前期) ===
==== 戴冠 ====
それまで無視されていたイヴァン4世は、[[1547年]][[1月16日]]に史上初めて「[[ツァーリ]]」として戴冠した。[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|生神女就寝大聖堂]]での戴冠式には{{仮リンク|モノマフの帽子|en|Monomakh's Cap}}が使われ、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]との連続性が強調された。同年6月、{{仮リンク|モスクワ大火 (1547年)|en|Fire of Moscow (1547)}}に伴う{{仮リンク|モスクワ暴動 (1547年)|ru|Московское восстание (1547)|label=モスクワ暴動}}によってグリンスキー家が失脚したため、本格的な親政を開始するに至った。
それまで国政では無視されていたイヴァン4世が、[[1547年]][[1月16日]]に史上初めて「[[ツァーリ]]」として戴冠した<ref name="田中220">田中(1995,220)</ref>。[[ツァーリ]]としての称号はイヴァン3世以来使われていたが、大公としてではなくツァーリとして戴冠するのはこれが初めてであった<ref name="ダニロフ200">ダニロフ(2011,200)</ref>。この[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|生神女就寝大聖堂]]での戴冠式には{{仮リンク|モノマフの帽子|en|Monomakh's Cap}}が使われ、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]との連続性が強調された。この戴冠式を思いついたのは自らの権勢を見せつけたい母方のグリンスキー家だとされているが、実際の利益を得たのはイヴァン4世と教会であり<ref name="田中220">田中(1995,220)</ref>、特に府主教マカリーは自らが冠を掲げることで、ロシアにおいて教会が特別な地位にあることを印象づけた<ref name="ダニロフ201">ダニロフ(2011,201)</ref>。


即位直後は母方の親族グリンスキー家が戴冠を機に勢力を伸ばして宮廷の最高位を占めたが、同年6月、{{仮リンク|モスクワ大火 (1547年)|en|Fire of Moscow (1547)}}に伴う{{仮リンク|モスクワ暴動 (1547年)|ru|Московское восстание (1547)|label=モスクワ暴動}}によってグリンスキー家が失脚したため、本格的な親政を開始するに至った<ref name="田中221">田中(1995,221)</ref><ref name="川又58">川又(1999,58)</ref>。また戴冠式の一ヶ月後、ザハーリン家(後の[[ロマノフ家]])の[[アナスタシア・ロマノヴナ]]を妻に迎えている。
=== 親政開始 ===

==== 親政開始 ====
[[ファイル:Sedov ivan maluta.jpg|thumb|200px|イヴァン4世とオプリーチニキの首領[[マリュータ・スクラートフ|スクラートフ]]]]
[[ファイル:Sedov ivan maluta.jpg|thumb|200px|イヴァン4世とオプリーチニキの首領[[マリュータ・スクラートフ|スクラートフ]]]]
イヴァン4世は[[アダシェフ]]([[:ru:Адашев, Алексей Фёдорович|ru]])や[[シリヴェーストル]]([[:ru:Сильвестр (протопоп Благовещенского собора)|ru]])といった有能な顧問団([[:ru:Избранная рада|ru]])に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。行政面では、階級の訴えに応じる嘆願局、中小貴族にも政治参加の機会を与える[[ゼムスキー・ソボル]](全国会議)が創設された。外務局、財務局などの機関が独立して設けられ、[[1550年]]には[[法治主義]]を浸透させるべく{{仮リンク|スジェブ (1550年)|ru|Судебник Ивана IV|label=1550年法典}}が発布さた。た地方行政に関しても、腐敗起きやすい代官制度に代えて地方自治制度に移行させている。軍隊も改革対象となり、身分序列に基づく指揮系統には十分なメスを入れられなかったが、ロシア[[常備軍]]である[[ストレリツィ]](銃兵隊)が新設された。[[1556年]]には全て領主貴族に兵役義務課せられ戦時の費用負担も所有地の規模に応じたものとして、大貴族の負担多くている。また[[ロシア正教会]]対するツァーリ権力強化しよう試み、[[1551年]]に[[教会会議]]招集て、教会がツァーリの許可なく新たに領地できなと認させるとろまこぎ着けた。
イヴァン4世は新興貴族出身の[[アダシェフ]]([[:ru:Адашев, Алексей Фёдорович|ru]])や[[シリヴェーストル]]司祭<ref group="注釈">皇室付属聖堂ブラゴヴェシチェンスキー聖堂の司祭。著書『家庭訓』の中で「神、教会、ツァーリの団結によってツァーリは絶対的権限をもった家長として振る舞う」ことを説き、マカリー府主教とともにイヴァン4世のツァーリ観に重大な影響を与えた</ref>([[:ru:Сильвестр (протопоп Благовещенского собора)|ru]])といった有能な顧問団([[:ru:Избранная рада|ru]])による選抜会議(ラーダ)に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。行政面では、士族層の訴えに応じる嘆願局<ref name="田中226">田中(1995,226)</ref>、中小貴族、聖職者、士族にも政治参加の機会を与える[[ゼムスキー・ソボル]](全国会議)が創設された<ref name="ダロフ200">ダニロフ(2011,200)</ref><ref name="川又56">川又(1999,56)</ref>。これまのロシアの統治は「ツァーリが命じ、貴族が決定する<ref name="川又56">川又(1999,56)</ref>」方式であり、最上位には大貴族たちの貴族会議があったが、全国会議ではそ制度と貴族たち専横批判、集各階層の代表者にツァーリがそれらの搾取から民衆保護することを約束した<ref name="ダニロフ202">ダニロフ(2011,202)</ref>。これは貴族たち対し、聖職者、士族の協調を得て中央集権化する狙があった<ref name="川又65">川又(1999,65)</ref>。そのたれらの制度は特に軍や地方行政を担当する士族の利益に配慮されてい<ref name="田中226">田中(1995,226)</ref>

アダシェフはこの政府の中で指導的役割を果たし、[[シリヴェーストル]]司祭は精神的支柱として政府とツァーリの権威を支えた<ref name="川又112">川又(1999,112)</ref>。また外務局、財務局などの機関が独立して設けられ、[[1550年]]には[[法治主義]]を浸透させるべく{{仮リンク|スジェブニク (1550年)|ru|Судебник Ивана IV|label=1550年法典}}が発布された<ref name="田中227">田中(1995,227)</ref>。また地方行政に関しても、腐敗の起きやすい代官制度に代えて地方自治制度<ref group="注釈">[[扶持制]]と地方長官統治制を廃止し、シュイスキー時代に成立した郡(グバー)を活用して土地所有者らに「長老」を選出させた。その選出機関の権限は強く裁判、治安、租税を取り扱った</ref>に移行させている<ref name="ダニロフ204">ダニロフ(2011,204)</ref>。軍隊も改革対象となり、身分序列に基づく指揮系統には十分なメスを入れられなかったが、ロシア初の[[常備軍]]である[[ストレリツィ]](銃兵隊)が新設された<ref name="ダニロフ204">ダニロフ(2011,204)</ref>。[[1556年]]には全ての領主貴族に兵役義務が課せられ、戦時の費用負担も所有地の規模に応じたものとして、大貴族の負担を多くしている。また[[ロシア正教会]]に対するツァーリ権力を強化しようと試み、[[1551年]]に[[教会会議]]を招集して、教会がツァーリの許可なく新たに領地を獲得できないと認めさせるところまでこぎ着けた<ref name="田中229">田中(1995,229)</ref>。


=== モンゴル諸国の征服 ===
==== モンゴル諸国の征服 ====
[[ファイル:Ivan the Terrible and Harsey.jpg|thumb|250px||イングランド使節ジェローム・ホーセイを宝物部屋に招くイヴァン4世]]
[[ファイル:Ivan the Terrible and Harsey.jpg|thumb|250px||イングランド使節ジェローム・ホーセイを宝物部屋に招くイヴァン4世]]
東部方面において[[カザン・ハン国]]征服は治世初期からの懸案で、[[正教会]]からも[[イスラーム]]に対する[[聖戦]]として支持された。当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗、1552年10月に[[カザン]]を攻めて陥落させた({{仮リンク|カザン包囲戦|en|Siege of Kazan}})。しかし残存勢力の反乱は長引き({{仮リンク|カザンの反乱 (1552年 - 1556年)|en|Kazan Rebellion of 1552–1556|label=カザンの反乱}})、1557年まで{{仮リンク|アレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキー|en|Alexander Gorbatyi-Shuisky}}による鎮圧は続いている。1556年には、カスピ海の西北岸に位置する[[アストラハン・ハン国]]を併合。
東部方面において[[カザン・ハン国]]征服は治世初期からの懸案で、[[正教会]]からも[[イスラーム]]に対する[[聖戦]]として支持された。当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗<ref name="ダニロフ208">ダニロフ(2011,208)</ref>、1552年10月に10万を超える軍勢<ref name="川又64">川又(1999,64)</ref>で[[カザン]]を攻めて陥落させた({{仮リンク|カザン包囲戦|en|Siege of Kazan}})。この戦いでは国政改革を支えたアダシェフの他、同じくイヴァン4世にとって親友の[[アンドレイ・クルプスキー]]公が活躍した<ref name="川又66">川又(1999,66)</ref>。1552年にはカザンのハーン、ヤディゲル・マフメトが捕らえられて屈服し、1553年にモスクワで正教に改宗している。また信心深いイヴァン4世は、カザン・ハンをこれまで滅ぼせなかった自らの罪に赦しを乞うため[[生神女]]庇護大聖堂を建立した。その大聖堂にイヴァン4世が畏敬する[[佯狂者]]ワシリイの墓地があったことから、現在では[[聖ワシリイ大聖堂]]と呼ばれている。しかし残存勢力の反乱は長引き({{仮リンク|カザンの反乱 (1552年 - 1556年)|en|Kazan Rebellion of 1552–1556|label=カザンの反乱}})、1557年まで{{仮リンク|アレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキー|en|Alexander Gorbatyi-Shuisky}}による鎮圧は続いている。1556年には、カスピ海の西北岸に位置する[[アストラハン・ハン国]]を併合<ref name="ダニロフ209">ダニロフ(2011,209)</ref>これにより[[ヴォルガ川]]全域はロシアの支配下に置かれ、ロシアにとってヴォルガ川は「ロシアの母なる川」となる。また併合によってイスラム教徒のタタール人を領内に抱えることになり、イヴァン4世は多民族国家としての第一歩を踏み出したロシアのツァーリとなった<ref name="川又73">川又(1999,73)</ref>


=== リヴォニア戦争 ===
==== 大病 ====
1553年の春、イヴァン4世は生死に関わる程の大病を患い、1歳にもならない長子ドミートリーを後継者に定めた。しかし貴族たちの一部はドミートリーへの宣誓を拒否し、また改革の協力者シリヴェーストル司祭も当初は宣誓を渋った。これは皇妃アナスタシアを通じて影響を持ち始めたザハーリン家を警戒し、代わって後継者にイヴァン4世の5歳下の従兄弟[[スターリツァ|スターリツァ公]][[ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)|ウラジーミル]]を望んでのものだった<ref name="川又96">川又(1999,96)</ref>。結局、この後継者問題はイヴァン4世が快癒し、ツァーリそのものへの叛意を示した者がいなかったことから棚上げになる。しかし後継者を巡る宣誓拒否はイヴァン4世に権威を損ねられた印象を与え<ref name="ダニロフ220">ダニロフ(2011,220)</ref><ref name="田中229">田中(1995,229)</ref>、また新興のザハーリン家と旧来の名門貴族との対立もこの時期から浮き彫りになっていた<ref name="川又112">川又(1999,112)</ref>。
1555年、[[イングランド]]と通商協定を結び、[[ヨーロッパ]]との本格的な交易が始まった。[[白海]]の[[アルハンゲリスク]]経由によるイギリス・[[モスクワ会社]]との貿易は、1年のうち短期間しか通れない[[北極海航路]]であり、[[バルト海]]への進出が急がれた。1558年モスクワ国家は[[ドイツ騎士団]]の残党が治める[[テッラ・マリアナ]]([[リヴォニア]])を支配下におくため、[[リヴォニア戦争]]([[1558年]] - [[1583年]])を開始した。当初戦争は優位に進み、バルト海沿岸の[[ナルヴァ]]を獲得している。しかしリヴォニアの領土分割を狙う近隣列強がこれに介入し、モスクワ国家は[[ポーランド王国|ポーランド]]との戦争に入った。[[スウェーデン]]もナルヴァを獲得するために[[1562年]]に[[フィンランド湾]]を[[海上封鎖]]した。これ以後、両国は慢性的な交戦状態に入った。さらにこの封鎖によって、[[デンマーク=ノルウェー|デンマーク]]や[[リューベック]]などの[[ハンザ同盟]]との紛争状態と化し、戦争は[[北欧]]全域に広がった([[北方七年戦争]])。


1553年5月、イヴァン4世は大病からの快癒を神に感謝し、家族と廷臣を随行員にして[[ベロオーゼロのキリル修道院]]へ巡礼の旅に出た。聖キリルを起源とするキリル修道院は現在の[[ヴォログダ州]]北西部にあり、当時のロシアでは「セーヴェル(北)の森」と呼ばれる北端の地であった。特にキリル修道院周辺は追放を受けた貴族、聖職者の配流地とさえされていた<ref group="注釈">道中の修道院で、イヴァン4世は貴族たちによって追放された元コロムナ主教のヴァシアンと対面した。同行したクルプスキーによれば、ヴァシアンは貴族への憎悪から「専制君主として振る舞うには、自分より有能なものを側近としてはならない。賢しい忠告に左右されてしまう。常にツァーリの意見のみが正しくなくてはならない」と説き、宣誓拒否事件で権威を損ねられた想いのイヴァン4世に感銘を与えた、としている</ref>。さらにこの時期はカザンの反乱が未だ続いていたことから側近の一部とモスクワ近郊の修道院はこれに反対した<ref name="川又102">川又(1999,102)</ref>。しかしイヴァン4世にとってキリル修道院は母エレーナが自らを授かるため祈りを捧げた修道院であり、大病からの復活を遂げたイヴァン4世にとって「新しい生」を感謝するため巡礼を行わなければならなかった地だった。同年6月、皇帝一行はキリル修道院で祈祷を捧げた。しかしその帰路、船着場での事故によりイヴァン4世は皇太子ドミートリーを失う<ref group="注釈">6月でも冷たい湖に落ちたことでの心肺停止が原因とされている</ref>。生後8ヶ月の後継者の理不尽な死に信心深いイヴァン4世は苦悶し、その大元を後継者宣誓拒否した貴族と側近たちに求めた<ref name="川又105">川又(1999,105)</ref>。だが、この時期はイヴァン4世は自制して教会、貴族との協調路線を続け、従弟ウラジミール擁立の動きを見せた反ザハーリン派への処罰も取り巻きの貴族数人に留めている。1554年3月には皇妃アナスタシアが次男となる[[イヴァン・イヴァノヴィチ (ツァレーヴィチ)|イヴァン]]を産み、宮廷は一応の平穏を取り戻した。
=== アナスタシヤの死 ===
しかし、1560年代に入ると、最愛の妻[[アナスタシア・ロマノヴナ|アナスタシヤ]]([[1560年]])の死が毒殺であったことをきっかけに、ツァーリは段々凶暴で残虐な性格を現し、非理性的な振る舞いが目立ち始めた。顧問団のアダシェフ([[1561年]]死去)、信頼する[[府主教]]{{仮リンク|マカリー (モスクワ府主教)|ru|Макарий (митрополит Московский)|label=マカリー}}([[1563年]]死去)を次々に亡くした。


==== リヴォニア戦争 ====
1564年に{{仮リンク|ウラ川の戦い|en|Battle of Ula}}でポーランドに大敗したモスクワ側の大貴族は、[[スウェーデン]]と7年の和平協定を結び、ポーランドとも休戦交渉に入った。しかしイヴァン4世はこれに納得せず、全国会議を招集して戦争継続を支持させ、交渉を打ち切らせた。[[1564年]]、イヴァン4世は突然家族を連れて[[モスクワ]]郊外の[[アレクサンドロフ (都市)|アレクサンドロフ]]に移り、退位を宣言した。多くの大貴族が[[リヴォニア戦争]]に反対し、[[クリミア・ハン国]]征服を要求してツァーリと対立していたためだった。
1553年8月末、[[イングランド]]から[[北極海航路]]で中国を目指したエドワード・ボナベリンジャー号が[[白海]]の通過を断念し、ロシア領の[[北ドヴィナ川]]の河口(現在の[[アルハンゲリスク州]])に到着する。これにより航路が確立され、両国の関係が始まった。1555年、ロシアはイングランドと通商協定を結び、[[ヨーロッパ]]との本格的な交易が始まる<ref name="田中236">田中(1995,236)</ref>。イヴァン4世はイギリス商人には関税撤廃、自由移動権、ツァーリの裁判以外の治外法権といった優遇を与え、毛織物、武器、弾薬、火薬の輸入に加え、医師や技術者を招聘した<ref name="川又186">川又(1999,186)</ref><ref group="注釈">代わりにロシアからは[[蜂蜜]]、[[獣脂]]、[[塩]]、[[毛皮]]、[[鯨油]]などが輸出されたが、これらの品目では高価な輸入品と釣り合わず、貿易額が増えるに従って深刻な輸入超過に陥っていった</ref>。[[白海]]の[[アルハンゲリスク]]経由によるイギリス・[[モスクワ会社]]との貿易は、1年のうち短期間しか通れない北極海航路であり、側近のアダシェフらの時期尚早を理由とした反対にも関わらず[[バルト海]]への進出を急いた<ref name="ダニロフ214">ダニロフ(2011,214)</ref>。1558年モスクワ国家は[[ドイツ騎士団]]の残党が治める[[テッラ・マリアナ]]([[リヴォニア]])を支配下におくため、[[リヴォニア戦争]]([[1558年]] - [[1583年]])を開始した。当初戦争は優位に進み、バルト海沿岸の[[ナルヴァ]]を獲得している。しかしロシア南方の[[クリミア・ハン国]]が不穏な動きを見せると、側近の[[アダシェフ]]、[[シリヴェーストル]]司祭の進言を受け入れてイヴァン4世はリヴォニアと半年間の休戦を結んで軍を退いた<ref name="川又107">川又(1999,107)</ref>。イヴァン4世はクリミア・ハン国へ大軍を動員したが、休戦期間中にクリミア問題を軍事力で解決することはできなかった。さらにリヴォニアは休戦を利用して完全に戦力を立て直し、また領土分割を狙う近隣列強が休戦後に介入<ref group="注釈">リヴォニアは[[ポーランド・リトアニア合同|リトアニア・ポーランド同君連合]]の保護下に入った</ref>し、戦争再開後のモスクワ国家は[[ポーランド・リトアニア合同|リトアニア・ポーランド同君連合]]との戦争に入った<ref name="ダニロフ215">ダニロフ(2011,215)</ref>。[[スウェーデン]]もナルヴァを獲得するために[[1562年]]に[[フィンランド湾]]を[[海上封鎖]]した。これ以後、両国は慢性的な交戦状態に入る。さらにこの封鎖によって、[[デンマーク=ノルウェー|デンマーク]]や[[リューベック]]などの[[ハンザ同盟]]との紛争状態と化し、戦争は[[北欧]]全域に広がった([[北方七年戦争]])。


この戦争の拡大の中で、次第にイヴァン4世は側近たちへの信頼を失っていった。南進を主張する[[アダシェフ]]の進言を真っ向から否定してクリミア・ハン国と和平条約を結ぶと、全軍を傾けてリヴォニア攻略に望んだ。それでも司令官には[[アダシェフ]]と[[アンドレイ・クルプスキー|クルプスキー]]を任命し、両者も期待に応えてリヴォニア騎士団長の居城を含む多数の城塞を攻略した。またドイツ人の支配に対する反発からリヴォニア中で反乱が起こり、イヴァン4世の望むリヴォニア攻略はほぼ完成したかに思えた。しかし政治家でもある[[アダシェフ]]は、現在の[[ポーランド・リトアニア合同|リトアニア・ポーランド同君連合]]軍が実質的にリトアニアしか動いていないことを知っており、リヴォニアの陥落はモスクワの国力を上回るポーランドの本格介入を招くことを理解していた<ref name="田中238">田中(1995,238)</ref>。そのため好機がありながらも戦線を停滞させてしまい、戦争は膠着状態に陥った<ref name="川又110">川又(1999,110)</ref>。
顧問団の[[アンドレイ・クルプスキー]]([[1564年]]亡命)とシリヴェーストル([[1566年]]死去)も失脚してイヴァン4世を支えていた主な人物が消えた。


=== オプリーチニナ ===
==== スタシアの死 ====
思うようにならない戦争の焦りと、側近たちへの不審感、さらに妻のザハーリン家への反発を理由とする貴族たちの反対に、イヴァン4世は怒りを募らせていた<ref name="川又111">川又(1999,111)</ref>。しかし最愛の妻[[アナスタシア・ロマノヴナ|アナスタシア]]<ref name="川又110">川又(1999,110)</ref>は夫の気性をうまく宥め、憎悪を和らげた。彼女は13年で6人の子をなし、早世したドミートリー以外にも二人の男児、次男イヴァンと三男フョードルを設けていた。しかし[[1560年]][[8月7日]]、イヴァン4世が30歳となった年に[[アナスタシア・ロマノヴナ|アナスタシア]]は死去した。前年から体調を崩しており病死であったとされるが、イヴァン4世は妻の死にザハーリン家を敵視する勢力の関与を疑った<ref name="川又113">川又(1999,113)</ref>。さらにリヴォニア戦争でのアダシェフの失態、[[シリヴェーストル]]司祭の南進策の誤りも、自分を陥れるための策謀であるとみなし、そのために二人がアナスタシアを毒殺したというモスクワの噂を信じた<ref name="ダニロフ220">ダニロフ(2011,220)</ref><ref name="川又111">川又(1999,111)</ref>。マカリー府主教もこの頃は病に伏し、イヴァン4世が幼いころに見せた残忍な一面を咎められる人物は、もはや誰もいなくなっていた。
[[1565年]]大貴族の嘆願で復位に同意する際、反逆者を自由に処罰する権限をはじめとする非常大権を認めさせたイヴァン4世は、有名な[[恐怖政治]]を開始した。全国を直轄領([[オプリーチニナ]])とそれ以外の国土(ゼームシチナ)とに分け、直轄領を自ら選んだ領主[[オプリーチニキ]]に統治させることにしたのである。オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った。オプリーチニキは富裕層の財産を狙って多くの犠牲者を出し、またイヴァン4世の命令に従って、次々に要人らの[[粛清]]を実行した。主な標的としては、[[モスクワ府主教]][[フィリップ2世 (モスクワ府主教)|フィリップ]]、[[ノヴゴロド大主教]]{{仮リンク|ピーメン (ノヴゴロド大主教)|ru|Пимен (архиепископ Новгородский)|label=ピーメン}}らの高位聖職者、ツァーリの従弟で有力なライバルであった[[スターリツァ|スターリツァ公]][[ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)|ウラジーミル]]などがいる。


アナスタシアの死からまもなくして、顧問団のアダシェフは全領地を没収の上にリヴォニアのドルパート要塞に投獄され、二ヶ月の[[1561年]]に謎の死を遂げた<ref name="川又112">川又(1999,112)</ref>。シリヴェーストル司祭も同時期に孤島にある[[ソロヴェツキー修道院]]に永久に追放された<ref name="川又112">川又(1999,112)</ref>。選抜会議の中核をなした二人の追放は、従来の協調路線の破棄を意味した。名門貴族はザハーリン家と相変わらず激しく敵対していたが、この時期からイヴァン4世は明確にザハーリン家寄りの姿勢を示し始めている。
=== 露土戦争 ===
[[1568年]]に[[オスマン帝国]]の[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が[[クリミア・ハン国]]を支援して[[露土戦争 (1568年-1570年)|露土戦争]]([[1568年]] - [[1570年]])が勃発。1569年[[7月1日]]、[[ルブリン合同]]で[[ポーランド王国|ポーランド]]と[[リトアニア大公国|リトアニア]]が連合体制に入って[[ポーランド・リトアニア共和国]]となり強大化、戦争はモスクワに不利な方向へ向かう。[[9月1日]]、[[マリヤ・テムリュコヴナ]]死去。


[[1562年]]、イヴァン4世は新しい土地法を制定した。それは貴族の権利であった世襲に制限を加える法律であり、貴族の領地を子供以外の兄弟親族が継承する場合はツァーリの許可を必要とし、また売却や交換の一切を禁じるものだった。さらに継承者が寡婦や娘の場合は補償と引き換えに土地は強制的にツァーリの所有となり、これは貴族同士の権限基盤への明確な攻撃であった<ref name="川又114">川又(1999,114)</ref>。同年、イヴァン4世は北[[コーカサス]]の[[チェルケス人]][[公女]][[マリヤ・テムリュコヴナ]]を妻に迎えるが、イヴァン4世は新しい妻にも、そしてこれ以降の妻にも親愛を示すことはなかった<ref name="川又113">川又(1999,113)</ref>。1563年にはイヴァン4世が信頼する[[府主教]]{{仮リンク|マカリー (モスクワ府主教)|ru|Макарий (митрополит Московский)|label=マカリー}}も死亡し、イヴァン4世にとって亡き妻の一族であるザハーリン家の重要性は増大していった。
=== ノヴゴロド虐殺 ===
[[1570年]]には、イヴァン4世は[[ノヴゴロド]]が[[ポーランド・リトアニア連合|リトアニア]]側につこうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した({{仮リンク|ノヴゴロド虐殺|en|Massacre of Novgorod|ru|Новгородский погром}})。


一方で、[[1563年]]当初の対リトアニア・ポーランド戦線はうまく事が運んでいた。リヴォニアの権益を巡って対立した諸国の間隙をつき、イヴァン4世はスウェーデンと休戦し、デンマークとは同盟を締結した。これにより5万の動員を可能にしたロシア軍はリトアニアの重要な都市[[ポロツク]]を包囲し、イヴァン4世の親友にして軍司令の[[アンドレイ・クルプスキー]]、名門貴族のレプニン公、カーシン公の活躍もあってこれを降伏させた。この勝利に乗じ、ポロツク駐屯軍と[[スモレンスク]]からの増援を合流させ、一気にリトアニアの首都を目指そうとした。しかしポロツク駐屯軍の行動はリトアニアに把握され、領内を行軍中に急襲を受けて壊滅した。スモレンスクからの増援もポロツクを放棄して撤退するしかなかった<ref name="川又114">川又(1999,114)</ref>。
=== ロシア・クリミア戦争 ===
1570年には[[オスマン帝国]]と露土戦争の講和条約を結んだものの、1571年に[[クリミア・ハン国]]が[[リトアニア大公国|リトアニア]]と同盟を結んで、{{仮リンク|ムラフスキー・シュラフ|ru|Муравский шлях|en|Muravsky Trail|label=ムラフスキー道}}を通ってロシア領に侵攻({{仮リンク|ロシア・クリミア戦争|en|Russo-Crimean Wars}})、5月には首都[[モスクワ]]を焼き払った({{仮リンク|モスクワ大火 (1571年)|en|Fire of Moscow (1571)}})。[[1572年]]、{{仮リンク|モロディの戦い|en|Battle of Molodi}}でクリミア・ハン国に勝利した。同年、イヴァン4世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、その存在を抹消した。同年、イヴァン4世は[[アンナ・コルトフスカヤ]]と、2年前にノヴゴロド虐殺を行なった[[ノヴゴロド]]を新婚旅行した。


翌[[1564年]]には{{仮リンク|ウラ川の戦い|en|Battle of Ula}}でまたしてもリトアニア・ポーランドに大敗した。この続けての敗北は[[クリミア・ハン国]]に和平条約の破棄を決意させ、[[オスマン帝国]]の後援を受けてロシアへの侵入を再開する。この苦境を受け、モスクワ側の大貴族は、[[スウェーデン]]と7年の和平協定を結び、ポーランドとも休戦交渉に入った。しかしイヴァン4世はこれに納得せず、全国会議を招集して戦争継続を支持させ、交渉を打ち切らせた。またイヴァン4世は内通者の存在を疑っていた。特に高位の者に対しての猜疑心が強く、レプニン公、カーシン公といった戦功を上げた名門貴族が次々に処刑された。土地法と大敗、そしてイヴァン4世の猜疑心は名門貴族たちを絶望させ、この時期からリトアニアに亡命する貴族たちが続発する。さらに腹心中の腹心とされた[[アンドレイ・クルプスキー]]もイヴァン4世の振る舞いから危険を察し<ref group="注釈">ポロツクの勝利の後、モスクワへの帰還が許されず、アダシェフが投獄されたドルパート要塞があるユーリエフに赴任するよう要求された。またかつての宣誓拒否問題の再審査を宣言された。クルプスキーは宣誓を行っていたが、従姉妹が後継者に擁立されかけた[[スターリツァ|スターリツァ公]][[ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)|ウラジーミル]]に嫁いでおり、関連が疑われていた。亡命後、イヴァン4世は忠臣の「裏切り」に激怒し、亡命先のクルプスキーと取り交わした自らの正当性を訴える書簡は、ツァーリの理念を修辞法を駆使して表現した第一級の歴史資料となった。</ref>、[[1564年]]にリトアニアに亡命した。
=== 譲位と復位 ===
[[1574年]]には再び大粛清が起きたが、イヴァン4世はその年末に再び突然退位を宣言して、[[チンギス・カン|チンギス・ハン]]の子孫の1人[[シメオン・ベクブラトヴィチ]]にモスクワ大公の座を譲り、自らはモスクワ分領公を称した。[[1575年]]、ポーランドで[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]が即位すると、その隙を狙ってイヴァン4世は再びリヴォニアに侵入してその大半を占領し、スウェーデンとポーランドが持つ領土を奪った。[[1576年]]の年明けには、再びツァーリとして復位し、シメオンは[[トヴェーリ]]公となって引退した。この謎の退位事件は後世の歴史家の首を傾げさせている。[[モンゴル帝国]]研究者は[[チンギス統原理]]説を提唱しているが、ロシア史研究者の多くは「1575年にロシア君主が死ぬ」という占い師の進言を警戒した、あるいは[[ポーランド]]王位を狙うための戦略だったなどの説を支持している。


=== 反ロシア同盟の逆襲 ===
==== 退位宣言と非常大権 ====
[[1564年]][[12月3日]]、イヴァン4世は突然家族を連れて[[モスクワ]]郊外の[[アレクサンドロフ (都市)|アレクサンドロフ]]に移り、退位を宣言した。直接的な理由は、多くの大貴族が[[リヴォニア戦争]]に反対し、[[クリミア・ハン国]]征服を要求してツァーリと対立していたためだった。また新土地法にも関わらず大貴族たちは以前として領地に強い権力基盤を有し、個別には処罰ができても貴族、高位聖職者の勢力はツァーリと拮抗していた<ref name="川又128">川又(1999,128)</ref>。イヴァン4世は士族から[[アレクセイ・バスマーノフ]]とその子[[フョードル・バスマーノフ]]を取り立て、「裏切り者」を厳しく摘発させた。しかしその強権的な振る舞いはさらなる反発を招き、特にバスマーノフが自らとの口論を理由に軍司令のオフチーニンを絞殺し、それにイヴァン4世が許可を与えたことによって最高潮に達した<ref name="川又133">川又(1999,133)</ref>。根拠なき処刑を行うイヴァン4世への批判が一斉に起こり、大貴族たちだけでなく、政府の側近貴族、さらにマカリーの後任者アファナーシー府主教のからの「無用な血」に対する非難を招いた。彼らの行動はこれまでのイヴァン4世の政策への反動であり、その要求は統治前半の貴族、聖職者、大公の三者が協調して統治を行うトロイカ体制への回帰であった。だがイヴァン4世には受け入れがたく、また即位以来初めて行われた自分自身への弾劾に強い衝撃と強迫観念を受けていた<ref name="川又143">川又(1999,143)</ref>。イヴァン4世のクレムリン脱出と退位宣言には、それらの政治的かつ心理的要因もあった。
スウェーデンとポーランド両国は反ロシア同盟を結んでロシアに反撃し、[[1581年]]に[[ナルヴァ]]がスウェーデンに落とされた。イヴァン4世は[[1582年]]にポーランドと[[ヤム・ザポルスキの和約]]を、[[1583年]]スウェーデンと{{仮リンク|プリューサ条約|ru|Плюсское перемирие|en|Treaty of Plussa}}({{lang-ru-short|Плюсское перемирие}}、{{lang-sv|Stilleståndsfördrag vid Narva å och Plusa}})を締結して休戦したが、ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海交易ルートも失った。長い戦争はロシアの国力を大きく疲弊させ、重税や治世末年の飢饉に苦しむ逃亡農民が大量に発生して南部・東部に移った。


イヴァン4世の隠棲は年が開けて[[1565年]]になっても続き、その期間が1ヶ月にも及ぶと皇帝に集中していた政治は麻痺していた。この事態に貴族、聖職者は困惑し、また何よりもモスクワの民衆は強い不安に苛まれた。民衆にとってツァーリは父であり、神に選ばれた存在であり、民衆の安全を守る軍司令官であり、貴族の横暴に対する守護者だと伝統的に信じられていたためだった。ザハーリン家以外が敵となっていたイヴァン4世は、この新しい自らの支援者たちに着目し、[[1月3日]]、2通の文書を府主教アファナーシーとモスクワの市民宛に送りつけた。その内容は貴族の売国とそれに癒着する聖職者をなじり、今の自分に許された権限ではツァーリとして統治できないこと、そのために退位せざるをえないことを痛烈な批判交えて訴えるものだった。また民衆に対しては深い愛情を示すとともに、欲深き貴族と腐敗した聖職者に苦しめられることでは同じ存在だと自らの境遇を嘆いてみせた<ref name="川又138">川又(1999,138)</ref>。この手紙の内容が民衆の間に広まると、モスクワ中の人々は激怒して府主教や貴族の館を取り囲んだ。歴史家[[クリュチェフスキー]]はイヴァン4世を「16世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」と評価している<ref name="川又47">川又(1999,47)</ref>が、この手紙はそれらの「作品」の中でもイヴァン4世が命を削って磨き上げた傑作とされている<ref name="川又141">川又(1999,141)</ref>。そのため、手紙の内容が広がるにつれて民衆は続々と集結し、貴族、聖職者ともに止める手立てはすでに失われていた。結果、民衆の求めるがままイヴァン4世へ帝位復帰の請願状を届け、退位撤回の条件として「無制限の非常大権<ref name="ダニロフ222">ダニロフ(2011,222)</ref>」を求められてもそれに応じるしかなかった<ref name="川又141">川又(1999,141)</ref>。こうして念願の非常大権を手に入れたイヴァン4世だったが、強迫観念に襲われながらの生活は生来の猜疑心を育て、心身に強い悪影響を与えていた。歴史家[[クリュチェフスキー]]は「モスクワに戻ったツァーリは頬がやせこけ、髪と髭が抜け落ちて容貌は一変していた」「以前の人好きのする性格は失われ、人の顔を伺うようになった」という同時代の証言を紹介している<ref name="川又143">川又(1999,143)</ref>。
=== シベリア征服事業 ===
[[1577年]]から[[ストローガノフ家]]の援助で[[コサック]]の首領[[イェルマーク]]が[[シビル・ハン国]]征服に乗り出し、1581年には[[イェルマーク]]にお墨付きを与えて[[シベリア]]征服事業を推進している。[[1582年]]に{{仮リンク|シビル・ハン国攻略|en|Conquest of the Khanate of Sibir|label=シビル・ハン国征服}}が完了した。[[1555年]]に設立されていた[[モスクワ会社]]と新たなシベリアの領土から穫れる[[クロテン|黒テン]]の毛皮を交易する関係が深まり、[[ボリス・ゴドゥノフ]]の時代に[[イングランド王国|イングランド]]と同盟関係になり、ポーランドと険悪な関係となったスウェーデン(1592年に両国は合同国家となったが、1598年に分裂)との{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年 - 1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–95)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}([[1590年]] - [[1595年]])に勝利して[[フィンランド湾]]深奥沿岸部を回復した。この毛皮貿易は、前述の逃亡農民を取り込んで東へさらに領土を拡張していく原動力となった({{仮リンク|ロシアのシベリア征服|en|Russian conquest of Siberia}})。フィンランド湾深奥部は、17世紀初頭の[[動乱時代]]に再びスウェーデンによって奪われ、完全にロシア領となる18世紀初頭までは、[[北極海航路|北東航路]]などを介して行われることとなった(北東航路は、1619年に他国と[[ポモール]]との交易活動が禁止されたために一時衰退したが、それまでの[[マンガゼヤ]]経由に変わり、ロシア唯一の海港とされた[[アルハンゲリスク]]経由の貿易が主流となり、ノルウェーとの{{仮リンク|ポモール貿易|en|Pomor_trade}}も続けられた。またコサックも[[北極海]]河口に至り、そこからの内陸水路を伝って東シベリアへ進出していった。これは18世紀に始まる北極海探検の下地となった)。


=== 期 ===
=== 統治(後) ===
==== オプリーチニナ ====
[[1565年]]大貴族の嘆願で復位に同意する際、反逆者を自由に処罰する権限をはじめとする非常大権を認めさせたイヴァン4世は、有名な[[恐怖政治]]を開始した。手始めに、クレムリンに帰還した当日に大貴族の中でも指導的役割を果たす名門貴族の当主を7名処刑した<ref name="川又143">川又(1999,143)</ref>。続いて中央集権化を勧めるため、[[オプリーチニナ]]制度の導入を宣言した。全国を直轄領([[オプリーチニナ]])とそれ以外の国土(ゼームシチナ<ref group="注釈">旧来の貴族の領地</ref>)とに分け、直轄領を自ら選んだ領主[[オプリーチニキ]]に統治させることにしたのである<ref name="ダニロフ223">ダニロフ(2011,223)</ref>。オプリーチニナに存在していた土地所有者は代替となる土地をロシア辺境に与えられ、立ち退かなければならなかった<ref name="ダニロフ223">ダニロフ(2011,223)</ref>。このため、ロシア国内はツァーリ派のオプリーチニキと、旧来の貴族たちのゼームシチナに二分される形になった。オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った<ref group="注釈">当初は500人程度だったが、後に増強されて6,000人の規模となり、皇帝の「親衛隊」化が進んだ。</ref>。オプリーチニキは富裕層の財産を狙って多くの犠牲者を出し、またイヴァン4世の命令に従って、次々に要人らの[[粛清]]を実行した。主な標的としては、[[モスクワ府主教]][[フィリップ2世 (モスクワ府主教)|フィリップ]]、[[ノヴゴロド大主教]]{{仮リンク|ピーメン (ノヴゴロド大主教)|ru|Пимен (архиепископ Новгородский)|label=ピーメン}}らの高位聖職者、ツァーリの従弟で有力なライバルであった[[スターリツァ|スターリツァ公]][[ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)|ウラジーミル]]などがいる。全国会議はその制度の弊害と暴走するオプリーチニキを憂い、[[1566年]]には制度廃止の嘆願をイヴァン4世に提出するが、イヴァン4世は嘆願者全員を処刑してこれに応えた<ref name="ダニロフ224">ダニロフ(2011,224)</ref>。

==== エリザベス1世への求婚 ====
1555年の通商開始以来、イギリスとの武器弾薬の交易は戦争の継続のため必要不可欠なものとなっていた。また外交的にもオスマン帝国、クリミア・ハン国、ポーランド・リトアニア同君連合と対立し、スウェーデン、デンマークには国交の悪化の度に海上封鎖を受けることがしばしばあった。そのため、リヴォニアから奪った[[ナルヴァ]]港を利用したイギリスとの交易が生命線となっていた。イヴァン4世は便宜をはかり、イギリス商人にはあらゆる特権が与えられ、またロシアの産物がイギリスの需要を満たす水準でないために膨大な不均衡貿易を余儀なくされていた。代わりにイギリスは外交における「全ルーシのツァーリ」の称号をいち早く認めていた<ref name="田中242">田中(1995,242)</ref><ref group="注釈">反対にリトアニア・ポーランドは全ルーシという称号に旧キエフが含まれていたため、最後まで承認することはなかった</ref>。一方、イヴァン4世の敵は外国だけではなく、国内においても存在していた。親衛隊と化したオプリーチニキによって国内のあらゆる者を抹殺できる権限と手法を手にしたイヴァン4世だが、大貴族たちの勢力は依然として保たれており、ポーランド・リトアニアの誘いでしばしば不穏な動きをみせた。熱狂的にツァーリを支持した民衆も皇帝からの重税を課せられた上にオプリーチニキの略奪と殺戮を目の当たりにして皇帝への敬慕は次第に色を失いつつあった。殺害を続ける程に生まれる内外の敵に、イヴァン4世は不信感を抱えて孤立する<ref name="川又188">川又(1999,188)</ref>。イヴァン4世はこの現状から脱却すべく、イギリスとの同盟を切望した<ref name="川又188">川又(1999,188)</ref>。

[[1567年]]、イヴァン4世はイギリスの使節を通じて相互亡命受け入れ条約と、エリザベス1世と自身との婚姻を申し入れた。だが、イヴァン4世の思惑と異なり、イギリスにとってそれは無意味な提案だった。相互亡命受け入れについてはイギリスが亡命先にロシアを選ぶ理由はなく、婚姻に関してはイヴァン4世はこの時点で[[マリヤ・テムリュコヴナ]]と再婚していた。また例え離縁が成立しても、イギリスにとってエリザベス1世が結婚してまでも貧しく国際社会から孤立したロシアを重視する理由がどこにもなかった<ref name="川又189">川又(1999,189)</ref>。結果、イギリスはこの提案を黙殺する。しかし、イヴァン4世はこの提案を妥当だと思い込んでおり、返答をよこさないイギリスに激怒し、ナルヴァ港のイギリス独占契約の破棄を宣言した。ここにおいてイギリスもようやくイヴァン4世が本気であることを理解し、[[1568年]]に[[トマス・ランドルフ]]を派遣して契約の順守を求めようとした。こうして使者が派遣されたもののイヴァン4世の怒りは静まらず、ランドルフを四ヶ月も軟禁して放置した上で、雪降り積もる中をクレムリン宮殿まで歩かせた<ref name="川又190">川又(1999,190)</ref>。しかし交渉に入るとそれらの復讐は何の意味ももたらさなかった。ランドルフはロシアの実情を知り尽くしており、イギリスはナルヴァ港の独占利用を取り戻しただけではなく、ロシアが影響力を持つペルシャ地方との独占交渉権とロシア国内の鉄鉱の採掘権を手にし、ロシアは何一つランドルフに要求を通すことができなかった。[[1569年]]には「ツァーリが亡命するならばイギリスは受け入れる」「共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」と一方的に条件を変更したイギリスの親書が届き、イヴァン4世もイギリスが交易にしか関心がない事実を知るところとなった<ref group="注釈">「ツァーリが亡命するならばイギリスは受け入れる」この文章は相互亡命とすることで面子を保とうとしたイヴァン4世の真意を蔑ろにし、「共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」という約束は事実上の軍事同盟の拒否でしかなかった</ref>。このため、イヴァン4世は激情のままエリザベス1世に「汝の国は卑しい商人に支配されており、そなたはその中で何も知らない初心な生娘のままだ」と非難し、[[1570年]]にはイギリスとの交易禁止を宣言した。しかし露土戦争の最中であり、たちまちロシアの武器弾薬物資が欠乏する結果になり、ロシアはさらにイギリスへロシア全土での免税権、外国銀貨のロシアでの鋳造許可、ロープ工場の設置許可などの特権を与えなくてはならなくなった<ref name="川又192">川又(1999,192)</ref>。またこの一連の外交の敗北は、イヴァン4世の暴挙にも唯々諾々として従ったオプリーチニナ政府の限界をも示すものだった<ref name="川又192">川又(1999,192)</ref>。

==== 露土戦争 ====
{{Main|露土戦争_(1568年-1570年)}}

[[1568年]]に[[オスマン帝国]]の[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が[[クリミア・ハン国]]を支援して[[露土戦争 (1568年-1570年)|露土戦争]]([[1568年]] - [[1570年]])が勃発。1569年[[7月1日]]、[[ルブリン合同]]で[[ポーランド王国|ポーランド]]と[[リトアニア大公国|リトアニア]]が連合体制に入って[[ポーランド・リトアニア共和国]]となり強大化、戦争はモスクワに不利な方向へ向かう。
この戦争でロシアはトルコの失策によりかろうじて領土への浸透を免れたが、戦争が終結してもトルコ(オスマン帝国)・タタール(クリミア・ハン国)の脅威はなくならなかった<ref name="川又193">川又(1999,193)</ref>。翌[[1571年]]にはクリミア・ハン国の[[デウレト・ギレイ]]が軍勢を率い、後のロシア・クリミア戦争を引き起こした。

また[[9月1日]]、二人目の皇后である[[マリヤ・テムリュコヴナ]]死去している。

==== ノヴゴロド虐殺 ====
[[1570年]]には、イヴァン4世は[[ノヴゴロド]]が[[プスコフ]]とともに[[ポーランド・リトアニア連合|リトアニア]]側につこうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した({{仮リンク|ノヴゴロド虐殺|en|Massacre of Novgorod|ru|Новгородский погром}})。イヴァン4世はこの攻撃に1万5千のオプリーチニキ軍を編成し、オプリーチニナ宮殿から侵攻を開始した。その行軍の間にある村々は軍の移動を隠匿するために焼かれ、住民は虐殺された。オプリーチニキ軍がノヴゴロドに到着したのは1570年の1月2日であり、通常であれば[[神現祭]]が開かれているはずだった。しかしノヴゴロドには少数の先遣隊が入り込み、町のいたるところが封鎖され、市民は家に閉じ込められていた。ノヴゴロド大主教ピーメンはイヴァン4世の誤解を解こうと出迎え、皇帝は大主教を裏切り者と罵り祝福を拒否したものの、[[聖ソフィア大聖堂]]での[[聖体礼儀]]は受け入れた。イヴァン4世は聖ソフィア大聖堂では何度も十字を切り、また上機嫌でピーメン大主教との会話も楽しんでいた。だが昼食会の最中、イヴァン4世が席を外すなりオプリーチニキが乱入し、臨席する市内の有力者たちへの捕縛と大聖堂に対する略奪が始まった。[[イコン]]を含むあらゆるものが剥がされ、捕虜とともに城外の野営地に運ばれた<ref name="川又170">川又(1999,170)</ref>。同時に市内でもオプリーチニキは無法を尽くし、聖職者、有力者に留まらず、官吏や商人、その妻子に至るまで目についた市民は全て連行され、拷問によって裏切りの自白を引き出した後に殺害された<ref name="川又170">川又(1999,170)</ref>。女性と子供は手足を縛って厳冬の湖に捨てられた<ref name="川又170">川又(1999,170)</ref>。ノヴゴロド市内で1月2日に始まった虐殺と略奪は2月に入ってようやく止むが、それは目的地が市外の修道院に移っただけであり、なおも一週間に渡って27箇所全ての修道院の略奪と、罪を自白する「裏切り者」への殺戮が続いた<ref name="ダニロフ224">ダニロフ(2011,224)</ref><ref name="川又171">川又(1999,171)</ref>。それらが済んだ後、オプリーチニキ軍は再び市内に戻って、今度は一般市民全てを対象とした略奪を再開した。これにより息を潜めていた市民も数多くが殺害された。最終的にはこのノヴゴロド虐殺によって3万の人口のうち、名簿に残っているだけでも3千人近くの犠牲者が確認されている<ref name="川又173">川又(1999,173)</ref>。ピーメン大主教を始め、その場で殺害されずにモスクワに連行後されたものは300名に及んだ。またノヴゴロドから徴発した穀物類は出発の前に全て焼き払われ、生き残った市民は深刻な飢餓に苦しむことになった<ref name="川又173">川又(1999,173)</ref>。

一方、ノヴゴロドとともに裏切り者とされた[[プスコフ]]もノヴゴロドの次に略奪の被害を受けた。しかしプスコフでは殺害されたのは[[アンドレイ・クルプスキー]]と親しいペチョルスキー修道院長のコルニーリーを始めとする数名に留まった。それはプスコフにはイヴァン4世の畏敬する[[佯狂者]]ニコライが住んでいたためとされている。既存の教会などの権威に属さず、聖なる狂気を生きながらにしてあらわす[[佯狂者]]を、イヴァン4世はその彼独特の信仰心から畏れ敬っていた<ref group="注釈">オプリーチニキに参加していた外国人傭兵シュターデンは両者の面談の様子を書き残している。『佯狂者ニコライはイヴァン4世の訪問を受けて生肉をのせた皿を差し出し、皇帝を「正教徒ゆえ[[斎]](ものいみ)に肉は食さない」と憤慨させた。しかし佯狂者ニコライは「お前はすでに人の血肉をすすっている。それどころか神のことすら忘れている。この町で無辜の人を殺せば雷がお前を撃ち殺すだろう」と脅し、同時に雷鳴が轟いたことでイヴァン4世は色を失った』</ref>。こうして虐殺は起こらなかったものの略奪自体は避けられず、市民には強制労働と重課税が課せられた<ref name="川又173">川又(1999,173)</ref>。

これらノヴゴロドとプスコフへの略奪は、皇帝親衛隊であるオプリーチニキを殺戮強盗集団の代名詞に変えた。すでに民衆が敬慕したツァーリはなく、ノヴゴロドから連行した裏切り者に対する拷問と、自白によって生まれた新たな300名の「共犯者」の存在は民衆を恐怖させた。彼らの公開処刑の当日、民衆はオプリーチニキを恐れて家に閉じこもり、イヴァン4世は自ら安全であることを保証して人々を処刑場に招かねばならなくなった。イヴァン4世は処刑場で口を閉じ、目を伏せる民衆の姿から「共犯者」300名のうち180名に恩赦を与えた<ref name="川又176">川又(1999,176)</ref>が、もはやかつてのようにイヴァン4世を慈父と称える声はどこからも聞こえなくなっていた。

==== ロシア・クリミア戦争 ====
1570年には[[オスマン帝国]]と露土戦争の講和条約を結んだものの、1571年に[[クリミア・ハン国]]が[[リトアニア大公国|リトアニア]]と同盟を結んで、{{仮リンク|ムラフスキー・シュラフ|ru|Муравский шлях|en|Muravsky Trail|label=ムラフスキー道}}を通ってロシア領に侵攻({{仮リンク|ロシア・クリミア戦争|en|Russo-Crimean Wars}})、5月には首都[[モスクワ]]を焼き払った({{仮リンク|モスクワ大火 (1571年)|en|Fire of Moscow (1571)}})。[[ハーン]][[デウレト・ギレイ]]の率いるクリミア・ハン軍に対し、当初はオプリーチニキの軍勢が防衛にあたっていたが、タタールの騎兵に翻弄された挙句に側面攻撃を受けて壊滅した。イヴァン4世はこの敗北を受け、[[モスクワ]]郊外の[[アレクサンドロフ (都市)|アレクサンドロフ]]にあるオプリーチニナ宮殿に退避した。この非常事態により、モスクワ防衛は大貴族たちのゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍が合同で担うことになったが、騎兵を中心とする[[デウレト・ギレイ]]は戦力の再配置を許さず、速攻でモスクワに侵入して徹底的な殺戮を行った。この略奪と放火でモスクワ市街は消失し、クリミア・ハン国は市民6万人の殺害を公表した<ref name="川又195">川又(1999,195)</ref>が、同時代の記録には30万人、またイギリス人フレッチャーの見聞では80万人もの死亡が記録されている<ref name="田中253">田中(1995,253)</ref>。この首都の壊滅は、イヴァン4世の精神に深刻な打撃を与えた。同時に危機に何も成し得なかったオプリーチニナ制度の失敗に気付き始めていた。イヴァン4世はオプリーチニナ制度を導入してから初めてとなる全国会議を招集した。会議では貴族と聖職者の意見をまとめ、ゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍の指揮を一本化させた。有能は指揮官はイヴァン4世自身が追放、処刑してしまっていたが、その指揮は大貴族たちに委ねた。

[[1572年]]、ロシア軍は{{仮リンク|モロディの戦い|en|Battle of Molodi}}でクリミア・ハン国に勝利した。タタール人の大規模なバルカン・ロシア侵入はこれ以降消滅する<ref name="川又200">川又(1999,200)</ref>。
同年、イヴァン4世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、オプリーチニナの幹部を多数処刑してその存在を抹消した<ref name="田中258">田中(1995,258)</ref>。これにより、イヴァン4世は[[1565年]]から掌握している「非常大権」を手放すことになった。また同じ年、イヴァン4世は[[アンナ・コルトフスカヤ]]と、2年前にノヴゴロド虐殺を行なった[[ノヴゴロド]]を新婚旅行した。

==== 譲位と復位 ====
[[1574年]]には再び大粛清が起きたが、イヴァン4世はその年末に再び突然退位を宣言して、[[チンギス・カン|チンギス・ハン]]の子孫の1人[[シメオン・ベクブラトヴィチ]]にモスクワ大公の座を譲り、自らはモスクワ分領公を称した<ref name="田中261">田中(1995,261)</ref>。[[1575年]]、ポーランドで[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]が即位すると、その隙を狙ってイヴァン4世は再びリヴォニアに侵入してその大半を占領し、スウェーデンとポーランドが持つ領土を奪った。[[1576年]]の年明けには、再びツァーリとして復位し、シメオンは[[トヴェーリ]]公となって引退した。この謎の退位事件は後世の歴史家の首を傾げさせている<ref name="川又202">川又(1999,202)</ref>。[[モンゴル帝国]]研究者は[[チンギス統原理]]説を提唱しているが、ロシア史研究者の多くは「1575年にロシア君主が死ぬ」という占い師の進言を警戒した<ref name="川又203">川又(1999,203)</ref>、あるいは[[ポーランド]]王位を狙うための戦略だったなどの説を支持している<ref group="注釈">他の退位理由としては、政務に疲弊してツァーリから大公の職務を除きたかった説、皇太子との確執により先手を打って譲位したとする説、単なる気まぐれだった説があげられている</ref>。またイヴァン4世は退位後もしばしば「嘆願」の形でシメオンを通じて政策や処刑を実行したことから、非常大権を手放してしまったために全国会議の必要が生まれたことに辟易し、傀儡を立てて隠れ蓑に使おうとしたのではないかという意見もある<ref name="川又206">川又(1999,206)</ref>。しかしいずれにせよ、明確な答えは未だ見つかっていない<ref name="田中261">田中(1995,261)</ref>。

==== 反ロシア同盟の逆襲 ====
1580年、リヴォニア戦争が始まってから20年が経過し、ロシアの国力は戦費とオプリーチニナ制度、そして重税とイギリスとの不均衡貿易によって経済的に限界を迎えつつあった。また敵国は当初のリヴォニアだけではなく、スウェーデン、トルコの後援を受けたタタール人、そして[[ルブリン合同]]によって生まれた[[ポーランド・リトアニア共和国]]となっており、それらは開戦当初よりも強大化していた。イヴァン4世はそれらのうちポーランドと講和を結ぶことを考え、[[ナルヴァ]]港を除くリヴォニアの返還という譲歩を見せて交渉にあたった。しかしポーランド国王[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]はロシアの国情を踏まえ、例外なきリヴォニア全域の返還とノヴゴロド、プスコフの割譲、そして巨額の賠償金を求めた。イヴァン4世は激しく拒否したが両者の国力はすでに大きく差が開けられており、特に係争の都市ノヴゴロドは虐殺によって備えを著しく欠いていた<ref name="川又208">川又(1999,208)</ref>。そのためイヴァン4世は和議の仲介を[[カトリック]]の[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に依頼する。イヴァン4世はローマ教皇が対トルコ十字軍の結成を望んでいることを知っており、グレゴリウス13世は正教徒の依頼ながらも辣腕外交官アントニオ・ポセヴィーノをポーランドに派遣して両者の交渉を取り持った<ref group="注釈">停戦後、ローマ教皇はロシアに対トルコ十字軍を呼びかけたが、イヴァン4世は言を左右にして応じなかった。</ref>。その間、バートリはロシア国内に10万の軍を侵入させて都市をいくつか落としていたもののプスコフ攻略に失敗して進軍が停止していた<ref name="ダニロフ217">ダニロフ(2011,217)</ref>。さらにかねてより反ロシア同盟を結んでいたスウェーデンがこれを好機としてバルト海から進出し、[[1581年]]に[[ナルヴァ]]を占領して漁夫の利を得つつあった。このためポーランド、ロシアともに交渉を進め、イヴァン4世は[[1582年]]にポーランドと[[ヤム・ザポルスキの和約]]を締結した。この和約ではロシアはリヴォニアの返還、ポーランドは占領したロシア初都市の返還を条件とし、スウェーデンが占領したナルヴァについては触れていない。また翌[[1583年]]にはスウェーデンと{{仮リンク|プリューサ条約|ru|Плюсское перемирие|en|Treaty of Plussa}}({{lang-ru-short|Плюсское перемирие}}、{{lang-sv|Stilleståndsfördrag vid Narva å och Plusa}})を締結してリヴォニア戦争は終結した<ref name="川又212">川又(1999,212)</ref>が、ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海交易ルートも失った<ref name="川又212">川又(1999,212)</ref>。長い戦争はロシアの国力を大きく疲弊させ、重税や治世末年の飢饉に苦しむ逃亡農民が大量に発生して南部・東部に移り、一部は[[コサック]]に転じた<ref name="ダニロフ225">ダニロフ(2011,225)</ref>。

1583年、53歳になったイヴァン4世がリヴォニア戦争で25年以上かけて得たものは周辺諸国からの敵意だけであり、最大の交易相手イギリスに対する依存はますます強まった。すでに領土問題を抱える周辺国との外交改善が望めないイヴァン4世は再びイギリスとの軍事同盟に活路を見出そうとしていた。イヴァン4世は1567年にエリザベス1世に求婚して消極的に拒否された経緯があったが、両国の同盟のためには血の結びつきが必要と考えた。そのためイヴァン4世は7人目の妻[[マリヤ・ナガヤ]]と結婚していたにも関わらず、イギリス王室に連なる女性との結婚を望んだ。この要望を受けたロシア使節は女王の一族のうち、その姪にあたる[[:en:Francis Hastings, 2nd Earl of Huntingdon|ハンティントン伯爵]]の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス([[マーガレット・ポール]]の曾孫)を選び、結婚相手としてイギリスに打診する。当時、白海交易に[[フランス]]、[[オランダ]]が参入の意欲をみせていたため、イギリスは直ちに可否を返さなかった。イギリスは「メアリーが天然痘に罹患した」「航海に耐えられる体力が戻らない」等と回答を先延ばし、外交官が白海航路の独占を勝ち取ると、ついに結婚の交渉をうやむやにしてしまった<ref name="川又215">川又(1999,215)</ref>。結局、ロシアがイギリス王室から皇妃を迎えるには、[[ロマノフ王朝]]最後の[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世]]を待たねばならなかった<ref name="川又216">川又(1999,216)</ref>。

==== シベリア征服事業 ====
[[1577年]]から[[ストローガノフ家]]の援助で[[コサック]]の首領[[イェルマーク]]が[[シビル・ハン国]]征服に乗り出し、1581年には[[イェルマーク]]にお墨付きを与えて[[シベリア]]征服事業を推進している<ref name="ダニロフ213">ダニロフ(2011,213)</ref>。[[1582年]]に{{仮リンク|シビル・ハン国攻略|en|Conquest of the Khanate of Sibir|label=シビル・ハン国征服}}が完了した。[[1555年]]に設立されていた[[モスクワ会社]]と新たなシベリアの領土から穫れる[[クロテン|黒テン]]の毛皮を交易する関係が深まり、[[ボリス・ゴドゥノフ]]の時代に[[イングランド王国|イングランド]]と同盟関係になり、ポーランドと険悪な関係となったスウェーデン(1592年に両国は合同国家となったが、1598年に分裂)との{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年 - 1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–95)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}([[1590年]] - [[1595年]])に勝利して[[フィンランド湾]]深奥沿岸部を回復した。この毛皮貿易は、前述の逃亡農民を取り込んで東へさらに領土を拡張していく原動力となった({{仮リンク|ロシアのシベリア征服|en|Russian conquest of Siberia}})。フィンランド湾深奥部は、17世紀初頭の[[動乱時代]]に再びスウェーデンによって奪われ、完全にロシア領となる18世紀初頭までは、[[北極海航路|北東航路]]などを介して行われることとなった(北東航路は、1619年に他国と[[ポモール]]との交易活動が禁止されたために一時衰退したが、それまでの[[マンガゼヤ]]経由に変わり、ロシア唯一の海港とされた[[アルハンゲリスク]]経由の貿易が主流となり、ノルウェーとの{{仮リンク|ポモール貿易|en|Pomor_trade}}も続けられた。またコサックも[[北極海]]河口に至り、そこからの内陸水路を伝って東シベリアへ進出していった。これは18世紀に始まる北極海探検の下地となった)。

=== 晩年 ===
[[ファイル:REPIN Ivan Terrible&Ivan.jpg|thumb|250px|[[イリヤ・レーピン]] 『イワン雷帝と皇子イワン』(1870年~1873年)]]
[[ファイル:REPIN Ivan Terrible&Ivan.jpg|thumb|250px|[[イリヤ・レーピン]] 『イワン雷帝と皇子イワン』(1870年~1873年)]]
[[ファイル:Wjatscheslaw Grigorjewitsch Schwarz 001.jpg|thumb|250px|自ら殺した息子の遺骸の傍に座るイヴァン4世]]
[[ファイル:Wjatscheslaw Grigorjewitsch Schwarz 001.jpg|thumb|250px|自ら殺した息子の遺骸の傍に座るイヴァン4世]]
[[1581年]]、イヴァン4世は後継者であった同名の次男[[イヴァン・イヴァノヴィチ (ツァレーヴィチ)|イヴァン]]を誤殺してしまった。事の顛末は、まず息子の妻[[エレナ・シェレメチェヴァ]]が妊娠中に正教徒が着るべき服を着ず、また部屋着一枚でいたことにイヴァン4世が激怒し<ref group="注釈">当時、ロシアの女性は何枚か重ね着をしていなければ端ないとされていた。</ref>、家長権にもとづいてエレナを殴打したところから始まる。幼少より[[シリヴェーストル]]司祭から「家庭訓<ref name="ダニロフ235">ダニロフ(2011,235)</ref>」によって「家長権を行使するようにツァーリは国家に対して家長権を行使する」と教えこまれた程に家長権は絶大であり、イヴァン4世は息子の妻を過去に二度選んでは気に食わず追放していた。息子にとって三人目の妻にあたるエレナもイヴァン4世が選んでいたが、これも次第に嫌って暴力を振るうようになっていた。息子のイヴァンは父の様子に気づくと、彼自身も家長権に服さなければならない立場だったが妻を殴打する父の様子は尋常ではなく、その手を抑えずにはいられなかった。しかし家長権の行使を止められたイヴァン4世は、これに我を失った。かねてより次男イヴァンが貴族たちと友好的な関係を築いていたことに猜疑心を抱いていたとも言われている<ref name="川又218">川又(1999,218)</ref>。イヴァン4世はツァーリの象徴とされる錫杖を手にとって振り下ろし、落ち着きを取り戻した時はエレナは震えて座り込み、息子イヴァンは耳を押さえてうめき声をあげていた。またそれを助け起こそうとする家臣[[ボリス・ゴドゥノフ]]も額から出血しており、イヴァン4世はそれを見て自分が何をしたか理解したが、もはや取り返しがつかなかった。息子イヴァンはそれから数日後に死亡した<ref name="川又218">川又(1999,218)</ref>。息子の血を残すはずのエレナのお腹の子も殴打と衝撃により流産に終わり、エレナ自身も死亡した<ref name="川又218">川又(1999,218)</ref>。
[[1581年]]、イヴァン4世は後継者であった同名の次男[[イヴァン・イヴァノヴィチ (ツァレーヴィチ)|イヴァン]]を誤殺してしまった。以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送った。[[1584年]]、イヴァン4世は重病に陥り、[[占星術師]]に算出させた死亡予定日の3月18日、[[発作]]を起こして不帰の人となった。[[知的障害]]があり後継者には不適格と思われた三男[[フョードル1世|フョードル]]が即位し、イヴァン4世の遺言で指名された摂政団に荒廃した国家の統治が委ねられた。

以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送った<ref name="川又219">川又(1999,219)</ref>。肉体的、精神的な衰えから統治も停滞した<ref name="田中264">田中(1995,264)</ref>。生来の不眠症はますます悪化した。深夜、イヴァン4世の近習は長男ドミトリー、次男イヴァンの名を呟きながら月明かりの回廊を徘徊する皇帝を何度か目撃している<ref name="川又219">川又(1999,219)</ref>。また皇太子の追悼祈禱([[パニヒダ]])にはロシア国内の修道院のみならず、コンスタンティノープル、エルサレム等の国外各地の修道院に依頼し多額の寄進を行った<ref name="川又220">川又(1999,220)</ref>。

[[1584年]]、イヴァン4世は側近とチェスしている最中に失神し、3月18日に[[発作]]を起こして不帰の人となった<ref name="田中264">田中(1995,264)</ref><ref group="注釈">イヴァン4世の死には様々な風説があり、[[占星術師]]に算出させた死亡予定日に死んだという説もある</ref><ref name="川又219">川又(1999,219)</ref>。代わって[[知的障害]]があり後継者には不適格と思われた三男[[フョードル1世|フョードル]]が即位し、イヴァン4世の遺言で指名された摂政団に荒廃した国家の統治が委ねられた。


== 人物・逸話 ==
== 人物・逸話 ==
*複雑な性格の持ち主で、[[処刑]]や[[拷問]]を好むなど非常に残虐であると同時に、きわめて敬虔な一面をも持っていた。
*複雑な性格の持ち主で、[[処刑]]や[[拷問]]を好むなど非常に残虐であると同時に、きわめて敬虔な一面をも持っていた。
**伝説によれば少年時代のイヴァン4世は[[クレムリン]]宮殿の塔から犬や猫を突き落とすのが趣味であり、貴族の子弟を引き連れてモスクワ市中で市民に乱暴狼藉をはたらいていたとされる。
**伝説によれば少年時代のイヴァン4世は[[クレムリン]]宮殿の塔から犬や猫を突き落とすのが趣味であり、貴族の子弟を引き連れてモスクワ市中で市民に乱暴狼藉をはたらいていたとされる<ref name="川又44">川又(1999,44)</ref>
**一方で[[府主教]]マカーリーに師事して深い宗教的教養を身につけ、[[礼拝]]や[[巡礼]]を好んだという記録もある。
**一方で[[府主教]]マカーリーに師事して深い宗教的教養を身につけ、[[礼拝]]や[[巡礼]]を好んだという記録もある<ref name="川又43">川又(1999,43)</ref>
**歴史家[[クリュチェフスキー]]はイヴァン4世を「16世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」としている。
**歴史家[[クリュチェフスキー]]はイヴァン4世を「16世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」としている<ref name="川又47">川又(1999,47)</ref>
*1552年10月2日の[[生神女庇護祭]]の祭日、モスクワ軍がカザンを陥落させると、イヴァン4世はこの戦勝を記念して[[クレムリン]]の隣に[[生神女庇護祭|生神女マリヤの庇護]]に捧げる大聖堂を建立した。この[[聖ワシリイ大聖堂]](正式名称を[[生神女庇護大聖堂]])は1560年に完成し、伝統的なロシア建築である。但し現在のあざやかな色彩と装飾は後代に付け加えられたものである<ref>[[川又一英]]『イヴァン雷帝-ロシアという謎』73頁 - 83頁、新潮社、1999年。 ISBN 4106005662</ref>。
*1552年10月2日の[[生神女庇護祭]]の祭日、モスクワ軍がカザンを陥落させると、イヴァン4世はこの戦勝を記念して[[クレムリン]]の隣に[[生神女庇護祭|生神女マリヤの庇護]]に捧げる大聖堂を建立した。この[[聖ワシリイ大聖堂]](正式名称を[[生神女庇護大聖堂]])は1560年に完成し、伝統的なロシア建築である。但し現在のあざやかな色彩と装飾は後代に付け加えられたものである<ref name="川又73">川又(1999,73)</ref>。
**「イヴァン4世はその美しさに感動した余り、設計者がそれ以上に美しいものを造らないようにと彼を失明させた」という伝説があるが、これは史実ではない。まだこの頃には、[[オプリーチニナ]]に代表される恐怖政治は時期的に始まっていない<ref>[[川又一英]]『イヴァン雷帝-ロシアという謎』80頁、新潮社、1999年。 ISBN 4106005662</ref>。
**「イヴァン4世はその美しさに感動した余り、設計者がそれ以上に美しいものを造らないようにと彼を失明させた」という伝説があるが、これは史実ではない。まだこの頃には、[[オプリーチニナ]]に代表される恐怖政治は時期的に始まっていない<ref name="川又80">川又(1999,80)</ref>。
*1566年[[紙]]が[[西欧]]より輸入されて、ロシア初の[[印刷所]]が造られた。
*1566年、イヴァン4世と教会協同して[[西欧]]より印刷機を輸入、ロシア初の[[印刷所]]が造られて最初の出版物『使徒行伝』が発行された<ref name="ダニロフ229">ダニロフ(2011,229)</ref>
*[[アンドレイ・クルプスキー|クルプスキー公]]によれば、[[1564年]]の初めに酒宴の席で酩酊して放浪[[芸人]]と共に踊りだしたイヴァン4世を大貴族[[レプニン家|レプニン公]]が諌めたが、イヴァン4世は彼に仮面をつけて踊りに加わるように命じ、レプニン公が拒絶するとその夜のうちに彼を殺害させたという。
*[[アンドレイ・クルプスキー|クルプスキー公]]によれば、[[1564年]]の初めに酒宴の席で酩酊して放浪[[芸人]]と共に踊りだしたイヴァン4世を大貴族[[レプニン家|レプニン公]]が諌めたが、イヴァン4世は彼に仮面をつけて踊りに加わるように命じ、レプニン公が拒絶するとその夜のうちに彼を殺害させたという<ref name="川又117">川又(1999,117)</ref>
*1564年に[[リトアニア大公国|リトアニア]]に政治亡命したクルプスキー公とは互いを非難する往復書簡を交わしており、この書簡は16世紀ロシアに関する重要史料である。この[[書簡]]での論争の中で、イヴァン4世は[[神学]]的な教養を窺わせる内容を書き残しており、また幼少期に植え付けられた大貴族への恨みと嫌悪を表明している。
*1564年に[[リトアニア大公国|リトアニア]]に政治亡命したクルプスキー公とは互いを非難する往復書簡を交わしており、この書簡は16世紀ロシアに関する重要史料である。この[[書簡]]での論争の中で、イヴァン4世は[[神学]]的な教養を窺わせる内容を書き残しており、また幼少期に植え付けられた大貴族への恨みと嫌悪を表明している<ref name="川又88">川又(1999,88)</ref>
*1565年にオプリーチニナ制度を導入して以後、[[アレクサンドロフ離宮]]で常に[[オプリーチニキ]]と起居を共にしていた。
*1565年にオプリーチニナ制度を導入して以後、[[アレクサンドロフ離宮]]で常に[[オプリーチニキ]]と起居を共にしていた<ref name="川又155">川又(1999,155)</ref>
**この時期にイヴァン4世の下を訪れた外国使節らの記録によれば、イヴァン4世はオプリーチニキと共に[[修道院]]を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や[[時課]]を行い、毎夜のように[[生神女マリヤ]]の[[イコン]]に祈りを捧げ、好んで鐘つき役や[[聖歌隊]]長を勤めたという。
**この時期にイヴァン4世の下を訪れた外国使節らの記録によれば、イヴァン4世はオプリーチニキと共に[[修道院]]を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や[[時課]]を行い、毎夜のように[[生神女マリヤ]]の[[イコン]]に祈りを捧げ、好んで鐘つき役や[[聖歌隊]]長を勤めたという<ref name="川又162">川又(1999,162)</ref>
**一方、午後には処刑や拷問が行われ、イヴァン4世自身もそれに加わるのが常だった。イヴァン4世は[[拷問]]の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びを上げたと記されている<ref name="川又157">川又(1999,157)</ref>。
**神を深く畏れており、ミクラという[[佯狂者]]に激しい非難を浴びたときは強い衝撃を受け、予定していた[[プスコフ]]への「懲罰」を中止している。
**夜には放縦な酒宴が開かれたが、イヴァン4世は不眠に悩まされて深夜まで寝付くことができず、しばしば夜伽師の物語に耳を傾けたり離宮内をひそかに徘徊していたという<ref name="川又159">川又(1999,159)</ref>。
**一方、午後には処刑や拷問が行われ、イヴァン4世自身もそれに加わるのが常だった。イヴァン4世は[[拷問]]の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びを上げたと記されている。
*晩年、イヴァン4世はオプリーチニキの殺戮の犠牲者たちの[[シノーディク|記録簿]]作成を命令し、遺言状の中で自らの行為を悔やむかのような言葉を残している<ref name="川又222">川又(1999,222)</ref>。
**夜には放縦な酒宴が開かれたが、イヴァン4世は不眠に悩まされて深夜まで寝付くことができず、しばしば夜伽師の物語に耳を傾けたり離宮内をひそかに徘徊していたという。
*晩年、イヴァン4世はオプリーチニキの殺戮の犠牲者たちの[[シノーディク|記録簿]]作成を命令し、遺言状の中で自らの行為を悔やむかのような言葉を残している。


== 皇妃たち ==
== 皇妃たち ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*デヴィッド・ウォーンズ著 / 栗生澤猛夫監修『ロシア皇帝歴代誌』[[創元社]] 2001年7月 ISBN 4-422-21516-7
*デヴィッド・ウォーンズ著 / 栗生澤猛夫監修『ロシア皇帝歴代誌』[[創元社]] 2001年7月 ISBN 4-422-21516-7
*[[川又一英]]著『イヴァン雷帝 ーロシアという謎ー』新潮選書、1999年5月30日 ISBN 4106005662
*[[川又一英]]著『イヴァン雷帝 ーロシアという謎ー』新潮選書、1999年5月30日 ISBN 4106005662
*[[アレクサンドル・ダニロフ]]他著 / [[吉田宗一]]他訳『ロシアの歴史(上) 古代から19世紀前半まで』[[明石書店]]、2011年7月31日 ISBN 978-4-7503-3415-8
*[[田中陽兒]]他著 『世界歴史大全 ロシア史 古代から19世紀前半まで』[[山川出版社]]、1995年9月1日 ISBN 4-634-46060-2


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2015年2月13日 (金) 17:37時点における版

イヴァン4世
Иван IV Васильевич
モスクワ大公
ロシアのツァーリ
在位 1533年 - 1574年1576年 - 1584年
戴冠式 1547年1月16日ユリウス暦

全名 イヴァン・ヴァシリエヴィチ
出生 1530年8月25日
モスクワ大公国モスクワ
死去 1584年3月18日
ロシア・ツァーリ国モスクワ
配偶者 アナスタシア・ロマノヴナ
  マリヤ・テムリュコヴナ
  マルファ・ソバーキナ
  アンナ・コルトフスカヤ
  アンナ・ヴァシリチコヴァ
  ヴァシリーサ・メレンティエヴァ
  マリヤ・ナガヤ
子女 アンナ
マリヤ
ドミトリー
イヴァン
エウドキヤ
フョードル1世
ヴァシーリー
ドミトリー
王朝 リューリク朝
父親 ヴァシーリー3世
母親 エレナ・グリンスカヤ
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イヴァン4世Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世(Иоан IV / Ioan IV)。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ

主な事績

対外的には、東方への領土拡大が進められ、アストラハン・ハン国カザン・ハン国をモスクワ国家に組み入れて、治世末期にはシビル・ハン国征服事業も成功裡に進んでいた[1]。しかし、西部国境で長期にわたって続けられたリヴォニア戦争は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった[2]。内政面では、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展の中で、ツァーリズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。1547年の「全ルーシツァーリ」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた[3]。その反面、強引な圧政や大規模な粛清恐怖政治というマイナス面も生じた。全土に渡って経済は低迷し、耕作地の放置が相次いだ[4]。それを避けるために農民が土地から離れることを禁じた禁止年実施令は農民の領主への依存を強め、農奴制の下地となった[4][5]。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。

異称「雷帝」

きわめて残虐・苛烈な性格であったためロシア史上最大の暴君と言われる。「雷帝」という渾名は、彼の強力さと、冷酷さを共に表すものである。ただし、ロシア語の渾名「グローズヌイ」(Гро́зный)は「峻厳な、恐怖を与える、脅すような」といった意味の形容詞で、この単語自体に「」という意味はない。元となった名詞に「雷雨」ないし「ひどく厳格な人」という意味の「グロザー」(Гроза́)があり、この単語との連関から畏怖を込めて「雷帝」と和訳された。英語ではIvan the Terribleと呼ばれる[6]

生涯

親政以前

出自

象牙製のイヴァン4世の玉座

イヴァン4世は1530年8月25日、イヴァン4世はクレムリンのテレムノイ宮殿で生まれた[6]。イヴァン4世は、長く後継者のいなかったヴァシーリー3世にとって待望の嫡男だったが、父は1525年正教会の猛反対を押し切って、不妊の先妻を追放してイヴァン4世の母エレナを妻に迎えており、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。またエレナは1380年クリコヴォの戦いドミトリイ・ドンスコイに敗れたジョチ・ウルスの有力者ママイの子孫と言われており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる[6]

モスクワ大公位の継承

1533年12月、イヴァン4世はヴァシーリー3世の死去により3歳で大公に即位する。その後見には最初はシュイスキー公を中心とする貴族会議[7]が、次いで母后エレナがオフチーニン=テーレプニェフ=オボレンスキー公の援助を受けて摂政として政務を執行した[8]。エレナの政府は全国レベルでの単一通貨(モスクワ・ルーブル)の導入[9]、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組み、隣国リトアニア大公国との国境紛争にも勝利した[10]。また大公位を狙うイヴァン4世の二人の叔父ドミトロフ公ユーリースターリツァ公アンドレイを失脚させ、母方のグリンスキー家ロシア語版が実権を掌握した[9]が、1538年に母エレナが死去すると、シュイスキー家英語版ベルスキー家英語版の人々に政権を奪取されて8歳のイヴァン4世の存在は無視されるようになった。またこの貴族同士の権力争いによってロシア正教会モスクワ府主教のイオシフが廃位されると、代わってイヴァン4世の教育係でもあるマカリーが府主教に叙任された。この時期、教会の権威は貴族勢力に左右されるまでに弱体化しており、マカリー府主教は教会の権威を高めるため、それに代わる強大な保護者を必要とした。そのため、イヴァン4世には大公としてよりも「神に選ばれたツァーリ」としての教育が施された[11]。また聡明なイヴァン4世もよく学んでダビデ王から始まりビザンツ帝国に続く「聖なる歴史」に親しむとともに、信仰心篤い青年へと成長する。しかしその一方で鳥獣を虐殺し、貴族の子弟と共に市内で暴れまわるなどの二面性を見せた[12]。また13歳の頃には大公としての権限を行使し、かつて自らの廷臣を排除した摂政の一人、名門貴族のアンドレイ・シュイスキーを処刑している[7][12]

統治(前期)

戴冠

それまで国政では無視されていたイヴァン4世が、1547年1月16日に史上初めて「ツァーリ」として戴冠した[13]ツァーリとしての称号はイヴァン3世以来使われていたが、大公としてではなくツァーリとして戴冠するのはこれが初めてであった[14]。この生神女就寝大聖堂での戴冠式にはモノマフの帽子英語版が使われ、ビザンツ帝国との連続性が強調された。この戴冠式を思いついたのは自らの権勢を見せつけたい母方のグリンスキー家だとされているが、実際の利益を得たのはイヴァン4世と教会であり[13]、特に府主教マカリーは自らが冠を掲げることで、ロシアにおいて教会が特別な地位にあることを印象づけた[15]

即位直後は母方の親族グリンスキー家が戴冠を機に勢力を伸ばして宮廷の最高位を占めたが、同年6月、モスクワ大火 (1547年)に伴うモスクワ暴動ロシア語版によってグリンスキー家が失脚したため、本格的な親政を開始するに至った[16][17]。また戴冠式の一ヶ月後、ザハーリン家(後のロマノフ家)のアナスタシア・ロマノヴナを妻に迎えている。

親政開始

イヴァン4世とオプリーチニキの首領スクラートフ

イヴァン4世は新興貴族出身のアダシェフru)やシリヴェーストル司祭[注釈 1]ru)といった有能な顧問団(ru)による選抜会議(ラーダ)に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。行政面では、士族層の訴えに応じる嘆願局[18]、中小貴族、聖職者、士族にも政治参加の機会を与えるゼムスキー・ソボル(全国会議)が創設された[14][19]。これまでのロシアの統治は「ツァーリが命じ、貴族が決定する[19]」方式であり、最上位には大貴族たちの貴族会議があったが、全国会議ではその制度と貴族たちの専横を批判し、集まった各階層の代表者にツァーリがそれらの搾取から民衆を保護することを約束した[3]。これは貴族たちに対し、聖職者、士族の協調を得て中央集権化する狙いがあった[20]。そのため、これらの制度では特に軍や地方行政を担当する士族の利益に配慮されていた[18]

アダシェフはこの政府の中で指導的役割を果たし、シリヴェーストル司祭は精神的支柱として政府とツァーリの権威を支えた[21]。また外務局、財務局などの機関が独立して設けられ、1550年には法治主義を浸透させるべく1550年法典ロシア語版が発布された[22]。また地方行政に関しても、腐敗の起きやすい代官制度に代えて地方自治制度[注釈 2]に移行させている[23]。軍隊も改革対象となり、身分序列に基づく指揮系統には十分なメスを入れられなかったが、ロシア初の常備軍であるストレリツィ(銃兵隊)が新設された[23]1556年には全ての領主貴族に兵役義務が課せられ、戦時の費用負担も所有地の規模に応じたものとして、大貴族の負担を多くしている。またロシア正教会に対するツァーリ権力を強化しようと試み、1551年教会会議を招集して、教会がツァーリの許可なく新たに領地を獲得できないと認めさせるところまでこぎ着けた[24]

モンゴル諸国の征服

イングランド使節ジェローム・ホーセイを宝物部屋に招くイヴァン4世

東部方面においてカザン・ハン国征服は治世初期からの懸案で、正教会からもイスラームに対する聖戦として支持された。当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗[25]、1552年10月に10万を超える軍勢[26]カザンを攻めて陥落させた(カザン包囲戦英語版)。この戦いでは国政改革を支えたアダシェフの他、同じくイヴァン4世にとって親友のアンドレイ・クルプスキー公が活躍した[27]。1552年にはカザンのハーン、ヤディゲル・マフメトが捕らえられて屈服し、1553年にモスクワで正教に改宗している。また信心深いイヴァン4世は、カザン・ハンをこれまで滅ぼせなかった自らの罪に赦しを乞うため生神女庇護大聖堂を建立した。その大聖堂にイヴァン4世が畏敬する佯狂者ワシリイの墓地があったことから、現在では聖ワシリイ大聖堂と呼ばれている。しかし残存勢力の反乱は長引き(カザンの反乱英語版)、1557年までアレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキー英語版による鎮圧は続いている。1556年には、カスピ海の西北岸に位置するアストラハン・ハン国を併合[1]。これによりヴォルガ川全域はロシアの支配下に置かれ、ロシアにとってヴォルガ川は「ロシアの母なる川」となる。また併合によってイスラム教徒のタタール人を領内に抱えることになり、イヴァン4世は多民族国家としての第一歩を踏み出したロシアのツァーリとなった[28]

大病

1553年の春、イヴァン4世は生死に関わる程の大病を患い、1歳にもならない長子ドミートリーを後継者に定めた。しかし貴族たちの一部はドミートリーへの宣誓を拒否し、また改革の協力者シリヴェーストル司祭も当初は宣誓を渋った。これは皇妃アナスタシアを通じて影響を持ち始めたザハーリン家を警戒し、代わって後継者にイヴァン4世の5歳下の従兄弟スターリツァ公ウラジーミルを望んでのものだった[29]。結局、この後継者問題はイヴァン4世が快癒し、ツァーリそのものへの叛意を示した者がいなかったことから棚上げになる。しかし後継者を巡る宣誓拒否はイヴァン4世に権威を損ねられた印象を与え[30][24]、また新興のザハーリン家と旧来の名門貴族との対立もこの時期から浮き彫りになっていた[21]

1553年5月、イヴァン4世は大病からの快癒を神に感謝し、家族と廷臣を随行員にしてベロオーゼロのキリル修道院へ巡礼の旅に出た。聖キリルを起源とするキリル修道院は現在のヴォログダ州北西部にあり、当時のロシアでは「セーヴェル(北)の森」と呼ばれる北端の地であった。特にキリル修道院周辺は追放を受けた貴族、聖職者の配流地とさえされていた[注釈 3]。さらにこの時期はカザンの反乱が未だ続いていたことから側近の一部とモスクワ近郊の修道院はこれに反対した[31]。しかしイヴァン4世にとってキリル修道院は母エレーナが自らを授かるため祈りを捧げた修道院であり、大病からの復活を遂げたイヴァン4世にとって「新しい生」を感謝するため巡礼を行わなければならなかった地だった。同年6月、皇帝一行はキリル修道院で祈祷を捧げた。しかしその帰路、船着場での事故によりイヴァン4世は皇太子ドミートリーを失う[注釈 4]。生後8ヶ月の後継者の理不尽な死に信心深いイヴァン4世は苦悶し、その大元を後継者宣誓拒否した貴族と側近たちに求めた[32]。だが、この時期はイヴァン4世は自制して教会、貴族との協調路線を続け、従弟ウラジミール擁立の動きを見せた反ザハーリン派への処罰も取り巻きの貴族数人に留めている。1554年3月には皇妃アナスタシアが次男となるイヴァンを産み、宮廷は一応の平穏を取り戻した。

リヴォニア戦争

1553年8月末、イングランドから北極海航路で中国を目指したエドワード・ボナベリンジャー号が白海の通過を断念し、ロシア領の北ドヴィナ川の河口(現在のアルハンゲリスク州)に到着する。これにより航路が確立され、両国の関係が始まった。1555年、ロシアはイングランドと通商協定を結び、ヨーロッパとの本格的な交易が始まる[33]。イヴァン4世はイギリス商人には関税撤廃、自由移動権、ツァーリの裁判以外の治外法権といった優遇を与え、毛織物、武器、弾薬、火薬の輸入に加え、医師や技術者を招聘した[34][注釈 5]白海アルハンゲリスク経由によるイギリス・モスクワ会社との貿易は、1年のうち短期間しか通れない北極海航路であり、側近のアダシェフらの時期尚早を理由とした反対にも関わらずバルト海への進出を急いた[35]。1558年モスクワ国家はドイツ騎士団の残党が治めるテッラ・マリアナリヴォニア)を支配下におくため、リヴォニア戦争1558年 - 1583年)を開始した。当初戦争は優位に進み、バルト海沿岸のナルヴァを獲得している。しかしロシア南方のクリミア・ハン国が不穏な動きを見せると、側近のアダシェフシリヴェーストル司祭の進言を受け入れてイヴァン4世はリヴォニアと半年間の休戦を結んで軍を退いた[36]。イヴァン4世はクリミア・ハン国へ大軍を動員したが、休戦期間中にクリミア問題を軍事力で解決することはできなかった。さらにリヴォニアは休戦を利用して完全に戦力を立て直し、また領土分割を狙う近隣列強が休戦後に介入[注釈 6]し、戦争再開後のモスクワ国家はリトアニア・ポーランド同君連合との戦争に入った[37]スウェーデンもナルヴァを獲得するために1562年フィンランド湾海上封鎖した。これ以後、両国は慢性的な交戦状態に入る。さらにこの封鎖によって、デンマークリューベックなどのハンザ同盟との紛争状態と化し、戦争は北欧全域に広がった(北方七年戦争)。

この戦争の拡大の中で、次第にイヴァン4世は側近たちへの信頼を失っていった。南進を主張するアダシェフの進言を真っ向から否定してクリミア・ハン国と和平条約を結ぶと、全軍を傾けてリヴォニア攻略に望んだ。それでも司令官にはアダシェフクルプスキーを任命し、両者も期待に応えてリヴォニア騎士団長の居城を含む多数の城塞を攻略した。またドイツ人の支配に対する反発からリヴォニア中で反乱が起こり、イヴァン4世の望むリヴォニア攻略はほぼ完成したかに思えた。しかし政治家でもあるアダシェフは、現在のリトアニア・ポーランド同君連合軍が実質的にリトアニアしか動いていないことを知っており、リヴォニアの陥落はモスクワの国力を上回るポーランドの本格介入を招くことを理解していた[38]。そのため好機がありながらも戦線を停滞させてしまい、戦争は膠着状態に陥った[39]

アナスタシアの死

思うようにならない戦争の焦りと、側近たちへの不審感、さらに妻のザハーリン家への反発を理由とする貴族たちの反対に、イヴァン4世は怒りを募らせていた[40]。しかし最愛の妻アナスタシア[39]は夫の気性をうまく宥め、憎悪を和らげた。彼女は13年で6人の子をなし、早世したドミートリー以外にも二人の男児、次男イヴァンと三男フョードルを設けていた。しかし1560年8月7日、イヴァン4世が30歳となった年にアナスタシアは死去した。前年から体調を崩しており病死であったとされるが、イヴァン4世は妻の死にザハーリン家を敵視する勢力の関与を疑った[41]。さらにリヴォニア戦争でのアダシェフの失態、シリヴェーストル司祭の南進策の誤りも、自分を陥れるための策謀であるとみなし、そのために二人がアナスタシアを毒殺したというモスクワの噂を信じた[30][40]。マカリー府主教もこの頃は病に伏し、イヴァン4世が幼いころに見せた残忍な一面を咎められる人物は、もはや誰もいなくなっていた。

アナスタシアの死からまもなくして、顧問団のアダシェフは全領地を没収の上にリヴォニアのドルパート要塞に投獄され、二ヶ月の1561年に謎の死を遂げた[21]。シリヴェーストル司祭も同時期に孤島にあるソロヴェツキー修道院に永久に追放された[21]。選抜会議の中核をなした二人の追放は、従来の協調路線の破棄を意味した。名門貴族はザハーリン家と相変わらず激しく敵対していたが、この時期からイヴァン4世は明確にザハーリン家寄りの姿勢を示し始めている。

1562年、イヴァン4世は新しい土地法を制定した。それは貴族の権利であった世襲に制限を加える法律であり、貴族の領地を子供以外の兄弟親族が継承する場合はツァーリの許可を必要とし、また売却や交換の一切を禁じるものだった。さらに継承者が寡婦や娘の場合は補償と引き換えに土地は強制的にツァーリの所有となり、これは貴族同士の権限基盤への明確な攻撃であった[42]。同年、イヴァン4世は北コーカサスチェルケス人公女マリヤ・テムリュコヴナを妻に迎えるが、イヴァン4世は新しい妻にも、そしてこれ以降の妻にも親愛を示すことはなかった[41]。1563年にはイヴァン4世が信頼する府主教マカリーロシア語版も死亡し、イヴァン4世にとって亡き妻の一族であるザハーリン家の重要性は増大していった。

一方で、1563年当初の対リトアニア・ポーランド戦線はうまく事が運んでいた。リヴォニアの権益を巡って対立した諸国の間隙をつき、イヴァン4世はスウェーデンと休戦し、デンマークとは同盟を締結した。これにより5万の動員を可能にしたロシア軍はリトアニアの重要な都市ポロツクを包囲し、イヴァン4世の親友にして軍司令のアンドレイ・クルプスキー、名門貴族のレプニン公、カーシン公の活躍もあってこれを降伏させた。この勝利に乗じ、ポロツク駐屯軍とスモレンスクからの増援を合流させ、一気にリトアニアの首都を目指そうとした。しかしポロツク駐屯軍の行動はリトアニアに把握され、領内を行軍中に急襲を受けて壊滅した。スモレンスクからの増援もポロツクを放棄して撤退するしかなかった[42]

1564年にはウラ川の戦い英語版でまたしてもリトアニア・ポーランドに大敗した。この続けての敗北はクリミア・ハン国に和平条約の破棄を決意させ、オスマン帝国の後援を受けてロシアへの侵入を再開する。この苦境を受け、モスクワ側の大貴族は、スウェーデンと7年の和平協定を結び、ポーランドとも休戦交渉に入った。しかしイヴァン4世はこれに納得せず、全国会議を招集して戦争継続を支持させ、交渉を打ち切らせた。またイヴァン4世は内通者の存在を疑っていた。特に高位の者に対しての猜疑心が強く、レプニン公、カーシン公といった戦功を上げた名門貴族が次々に処刑された。土地法と大敗、そしてイヴァン4世の猜疑心は名門貴族たちを絶望させ、この時期からリトアニアに亡命する貴族たちが続発する。さらに腹心中の腹心とされたアンドレイ・クルプスキーもイヴァン4世の振る舞いから危険を察し[注釈 7]1564年にリトアニアに亡命した。

退位宣言と非常大権

1564年12月3日、イヴァン4世は突然家族を連れてモスクワ郊外のアレクサンドロフに移り、退位を宣言した。直接的な理由は、多くの大貴族がリヴォニア戦争に反対し、クリミア・ハン国征服を要求してツァーリと対立していたためだった。また新土地法にも関わらず大貴族たちは以前として領地に強い権力基盤を有し、個別には処罰ができても貴族、高位聖職者の勢力はツァーリと拮抗していた[43]。イヴァン4世は士族からアレクセイ・バスマーノフとその子フョードル・バスマーノフを取り立て、「裏切り者」を厳しく摘発させた。しかしその強権的な振る舞いはさらなる反発を招き、特にバスマーノフが自らとの口論を理由に軍司令のオフチーニンを絞殺し、それにイヴァン4世が許可を与えたことによって最高潮に達した[44]。根拠なき処刑を行うイヴァン4世への批判が一斉に起こり、大貴族たちだけでなく、政府の側近貴族、さらにマカリーの後任者アファナーシー府主教のからの「無用な血」に対する非難を招いた。彼らの行動はこれまでのイヴァン4世の政策への反動であり、その要求は統治前半の貴族、聖職者、大公の三者が協調して統治を行うトロイカ体制への回帰であった。だがイヴァン4世には受け入れがたく、また即位以来初めて行われた自分自身への弾劾に強い衝撃と強迫観念を受けていた[45]。イヴァン4世のクレムリン脱出と退位宣言には、それらの政治的かつ心理的要因もあった。

イヴァン4世の隠棲は年が開けて1565年になっても続き、その期間が1ヶ月にも及ぶと皇帝に集中していた政治は麻痺していた。この事態に貴族、聖職者は困惑し、また何よりもモスクワの民衆は強い不安に苛まれた。民衆にとってツァーリは父であり、神に選ばれた存在であり、民衆の安全を守る軍司令官であり、貴族の横暴に対する守護者だと伝統的に信じられていたためだった。ザハーリン家以外が敵となっていたイヴァン4世は、この新しい自らの支援者たちに着目し、1月3日、2通の文書を府主教アファナーシーとモスクワの市民宛に送りつけた。その内容は貴族の売国とそれに癒着する聖職者をなじり、今の自分に許された権限ではツァーリとして統治できないこと、そのために退位せざるをえないことを痛烈な批判交えて訴えるものだった。また民衆に対しては深い愛情を示すとともに、欲深き貴族と腐敗した聖職者に苦しめられることでは同じ存在だと自らの境遇を嘆いてみせた[46]。この手紙の内容が民衆の間に広まると、モスクワ中の人々は激怒して府主教や貴族の館を取り囲んだ。歴史家クリュチェフスキーはイヴァン4世を「16世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」と評価している[47]が、この手紙はそれらの「作品」の中でもイヴァン4世が命を削って磨き上げた傑作とされている[48]。そのため、手紙の内容が広がるにつれて民衆は続々と集結し、貴族、聖職者ともに止める手立てはすでに失われていた。結果、民衆の求めるがままイヴァン4世へ帝位復帰の請願状を届け、退位撤回の条件として「無制限の非常大権[49]」を求められてもそれに応じるしかなかった[48]。こうして念願の非常大権を手に入れたイヴァン4世だったが、強迫観念に襲われながらの生活は生来の猜疑心を育て、心身に強い悪影響を与えていた。歴史家クリュチェフスキーは「モスクワに戻ったツァーリは頬がやせこけ、髪と髭が抜け落ちて容貌は一変していた」「以前の人好きのする性格は失われ、人の顔を伺うようになった」という同時代の証言を紹介している[45]

統治(後期)

オプリーチニナ

1565年大貴族の嘆願で復位に同意する際、反逆者を自由に処罰する権限をはじめとする非常大権を認めさせたイヴァン4世は、有名な恐怖政治を開始した。手始めに、クレムリンに帰還した当日に大貴族の中でも指導的役割を果たす名門貴族の当主を7名処刑した[45]。続いて中央集権化を勧めるため、オプリーチニナ制度の導入を宣言した。全国を直轄領(オプリーチニナ)とそれ以外の国土(ゼームシチナ[注釈 8])とに分け、直轄領を自ら選んだ領主オプリーチニキに統治させることにしたのである[50]。オプリーチニナに存在していた土地所有者は代替となる土地をロシア辺境に与えられ、立ち退かなければならなかった[50]。このため、ロシア国内はツァーリ派のオプリーチニキと、旧来の貴族たちのゼームシチナに二分される形になった。オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った[注釈 9]。オプリーチニキは富裕層の財産を狙って多くの犠牲者を出し、またイヴァン4世の命令に従って、次々に要人らの粛清を実行した。主な標的としては、モスクワ府主教フィリップノヴゴロド大主教ピーメンロシア語版らの高位聖職者、ツァーリの従弟で有力なライバルであったスターリツァ公ウラジーミルなどがいる。全国会議はその制度の弊害と暴走するオプリーチニキを憂い、1566年には制度廃止の嘆願をイヴァン4世に提出するが、イヴァン4世は嘆願者全員を処刑してこれに応えた[51]

エリザベス1世への求婚

1555年の通商開始以来、イギリスとの武器弾薬の交易は戦争の継続のため必要不可欠なものとなっていた。また外交的にもオスマン帝国、クリミア・ハン国、ポーランド・リトアニア同君連合と対立し、スウェーデン、デンマークには国交の悪化の度に海上封鎖を受けることがしばしばあった。そのため、リヴォニアから奪ったナルヴァ港を利用したイギリスとの交易が生命線となっていた。イヴァン4世は便宜をはかり、イギリス商人にはあらゆる特権が与えられ、またロシアの産物がイギリスの需要を満たす水準でないために膨大な不均衡貿易を余儀なくされていた。代わりにイギリスは外交における「全ルーシのツァーリ」の称号をいち早く認めていた[52][注釈 10]。一方、イヴァン4世の敵は外国だけではなく、国内においても存在していた。親衛隊と化したオプリーチニキによって国内のあらゆる者を抹殺できる権限と手法を手にしたイヴァン4世だが、大貴族たちの勢力は依然として保たれており、ポーランド・リトアニアの誘いでしばしば不穏な動きをみせた。熱狂的にツァーリを支持した民衆も皇帝からの重税を課せられた上にオプリーチニキの略奪と殺戮を目の当たりにして皇帝への敬慕は次第に色を失いつつあった。殺害を続ける程に生まれる内外の敵に、イヴァン4世は不信感を抱えて孤立する[53]。イヴァン4世はこの現状から脱却すべく、イギリスとの同盟を切望した[53]

1567年、イヴァン4世はイギリスの使節を通じて相互亡命受け入れ条約と、エリザベス1世と自身との婚姻を申し入れた。だが、イヴァン4世の思惑と異なり、イギリスにとってそれは無意味な提案だった。相互亡命受け入れについてはイギリスが亡命先にロシアを選ぶ理由はなく、婚姻に関してはイヴァン4世はこの時点でマリヤ・テムリュコヴナと再婚していた。また例え離縁が成立しても、イギリスにとってエリザベス1世が結婚してまでも貧しく国際社会から孤立したロシアを重視する理由がどこにもなかった[54]。結果、イギリスはこの提案を黙殺する。しかし、イヴァン4世はこの提案を妥当だと思い込んでおり、返答をよこさないイギリスに激怒し、ナルヴァ港のイギリス独占契約の破棄を宣言した。ここにおいてイギリスもようやくイヴァン4世が本気であることを理解し、1568年トマス・ランドルフを派遣して契約の順守を求めようとした。こうして使者が派遣されたもののイヴァン4世の怒りは静まらず、ランドルフを四ヶ月も軟禁して放置した上で、雪降り積もる中をクレムリン宮殿まで歩かせた[55]。しかし交渉に入るとそれらの復讐は何の意味ももたらさなかった。ランドルフはロシアの実情を知り尽くしており、イギリスはナルヴァ港の独占利用を取り戻しただけではなく、ロシアが影響力を持つペルシャ地方との独占交渉権とロシア国内の鉄鉱の採掘権を手にし、ロシアは何一つランドルフに要求を通すことができなかった。1569年には「ツァーリが亡命するならばイギリスは受け入れる」「共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」と一方的に条件を変更したイギリスの親書が届き、イヴァン4世もイギリスが交易にしか関心がない事実を知るところとなった[注釈 11]。このため、イヴァン4世は激情のままエリザベス1世に「汝の国は卑しい商人に支配されており、そなたはその中で何も知らない初心な生娘のままだ」と非難し、1570年にはイギリスとの交易禁止を宣言した。しかし露土戦争の最中であり、たちまちロシアの武器弾薬物資が欠乏する結果になり、ロシアはさらにイギリスへロシア全土での免税権、外国銀貨のロシアでの鋳造許可、ロープ工場の設置許可などの特権を与えなくてはならなくなった[56]。またこの一連の外交の敗北は、イヴァン4世の暴挙にも唯々諾々として従ったオプリーチニナ政府の限界をも示すものだった[56]

露土戦争

1568年オスマン帝国ソコルル・メフメト・パシャクリミア・ハン国を支援して露土戦争1568年 - 1570年)が勃発。1569年7月1日ルブリン合同ポーランドリトアニアが連合体制に入ってポーランド・リトアニア共和国となり強大化、戦争はモスクワに不利な方向へ向かう。 この戦争でロシアはトルコの失策によりかろうじて領土への浸透を免れたが、戦争が終結してもトルコ(オスマン帝国)・タタール(クリミア・ハン国)の脅威はなくならなかった[57]。翌1571年にはクリミア・ハン国のデウレト・ギレイが軍勢を率い、後のロシア・クリミア戦争を引き起こした。

また9月1日、二人目の皇后であるマリヤ・テムリュコヴナ死去している。

ノヴゴロド虐殺

1570年には、イヴァン4世はノヴゴロドプスコフとともにリトアニア側につこうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した(ノヴゴロド虐殺)。イヴァン4世はこの攻撃に1万5千のオプリーチニキ軍を編成し、オプリーチニナ宮殿から侵攻を開始した。その行軍の間にある村々は軍の移動を隠匿するために焼かれ、住民は虐殺された。オプリーチニキ軍がノヴゴロドに到着したのは1570年の1月2日であり、通常であれば神現祭が開かれているはずだった。しかしノヴゴロドには少数の先遣隊が入り込み、町のいたるところが封鎖され、市民は家に閉じ込められていた。ノヴゴロド大主教ピーメンはイヴァン4世の誤解を解こうと出迎え、皇帝は大主教を裏切り者と罵り祝福を拒否したものの、聖ソフィア大聖堂での聖体礼儀は受け入れた。イヴァン4世は聖ソフィア大聖堂では何度も十字を切り、また上機嫌でピーメン大主教との会話も楽しんでいた。だが昼食会の最中、イヴァン4世が席を外すなりオプリーチニキが乱入し、臨席する市内の有力者たちへの捕縛と大聖堂に対する略奪が始まった。イコンを含むあらゆるものが剥がされ、捕虜とともに城外の野営地に運ばれた[58]。同時に市内でもオプリーチニキは無法を尽くし、聖職者、有力者に留まらず、官吏や商人、その妻子に至るまで目についた市民は全て連行され、拷問によって裏切りの自白を引き出した後に殺害された[58]。女性と子供は手足を縛って厳冬の湖に捨てられた[58]。ノヴゴロド市内で1月2日に始まった虐殺と略奪は2月に入ってようやく止むが、それは目的地が市外の修道院に移っただけであり、なおも一週間に渡って27箇所全ての修道院の略奪と、罪を自白する「裏切り者」への殺戮が続いた[51][59]。それらが済んだ後、オプリーチニキ軍は再び市内に戻って、今度は一般市民全てを対象とした略奪を再開した。これにより息を潜めていた市民も数多くが殺害された。最終的にはこのノヴゴロド虐殺によって3万の人口のうち、名簿に残っているだけでも3千人近くの犠牲者が確認されている[60]。ピーメン大主教を始め、その場で殺害されずにモスクワに連行後されたものは300名に及んだ。またノヴゴロドから徴発した穀物類は出発の前に全て焼き払われ、生き残った市民は深刻な飢餓に苦しむことになった[60]

一方、ノヴゴロドとともに裏切り者とされたプスコフもノヴゴロドの次に略奪の被害を受けた。しかしプスコフでは殺害されたのはアンドレイ・クルプスキーと親しいペチョルスキー修道院長のコルニーリーを始めとする数名に留まった。それはプスコフにはイヴァン4世の畏敬する佯狂者ニコライが住んでいたためとされている。既存の教会などの権威に属さず、聖なる狂気を生きながらにしてあらわす佯狂者を、イヴァン4世はその彼独特の信仰心から畏れ敬っていた[注釈 12]。こうして虐殺は起こらなかったものの略奪自体は避けられず、市民には強制労働と重課税が課せられた[60]

これらノヴゴロドとプスコフへの略奪は、皇帝親衛隊であるオプリーチニキを殺戮強盗集団の代名詞に変えた。すでに民衆が敬慕したツァーリはなく、ノヴゴロドから連行した裏切り者に対する拷問と、自白によって生まれた新たな300名の「共犯者」の存在は民衆を恐怖させた。彼らの公開処刑の当日、民衆はオプリーチニキを恐れて家に閉じこもり、イヴァン4世は自ら安全であることを保証して人々を処刑場に招かねばならなくなった。イヴァン4世は処刑場で口を閉じ、目を伏せる民衆の姿から「共犯者」300名のうち180名に恩赦を与えた[61]が、もはやかつてのようにイヴァン4世を慈父と称える声はどこからも聞こえなくなっていた。

ロシア・クリミア戦争

1570年にはオスマン帝国と露土戦争の講和条約を結んだものの、1571年にクリミア・ハン国リトアニアと同盟を結んで、ムラフスキー道ロシア語版英語版を通ってロシア領に侵攻(ロシア・クリミア戦争英語版)、5月には首都モスクワを焼き払った(モスクワ大火 (1571年)英語版)。ハーンデウレト・ギレイの率いるクリミア・ハン軍に対し、当初はオプリーチニキの軍勢が防衛にあたっていたが、タタールの騎兵に翻弄された挙句に側面攻撃を受けて壊滅した。イヴァン4世はこの敗北を受け、モスクワ郊外のアレクサンドロフにあるオプリーチニナ宮殿に退避した。この非常事態により、モスクワ防衛は大貴族たちのゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍が合同で担うことになったが、騎兵を中心とするデウレト・ギレイは戦力の再配置を許さず、速攻でモスクワに侵入して徹底的な殺戮を行った。この略奪と放火でモスクワ市街は消失し、クリミア・ハン国は市民6万人の殺害を公表した[62]が、同時代の記録には30万人、またイギリス人フレッチャーの見聞では80万人もの死亡が記録されている[63]。この首都の壊滅は、イヴァン4世の精神に深刻な打撃を与えた。同時に危機に何も成し得なかったオプリーチニナ制度の失敗に気付き始めていた。イヴァン4世はオプリーチニナ制度を導入してから初めてとなる全国会議を招集した。会議では貴族と聖職者の意見をまとめ、ゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍の指揮を一本化させた。有能は指揮官はイヴァン4世自身が追放、処刑してしまっていたが、その指揮は大貴族たちに委ねた。

1572年、ロシア軍はモロディの戦い英語版でクリミア・ハン国に勝利した。タタール人の大規模なバルカン・ロシア侵入はこれ以降消滅する[64]。 同年、イヴァン4世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、オプリーチニナの幹部を多数処刑してその存在を抹消した[65]。これにより、イヴァン4世は1565年から掌握している「非常大権」を手放すことになった。また同じ年、イヴァン4世はアンナ・コルトフスカヤと、2年前にノヴゴロド虐殺を行なったノヴゴロドを新婚旅行した。

譲位と復位

1574年には再び大粛清が起きたが、イヴァン4世はその年末に再び突然退位を宣言して、チンギス・ハンの子孫の1人シメオン・ベクブラトヴィチにモスクワ大公の座を譲り、自らはモスクワ分領公を称した[66]1575年、ポーランドでステファン・バートリが即位すると、その隙を狙ってイヴァン4世は再びリヴォニアに侵入してその大半を占領し、スウェーデンとポーランドが持つ領土を奪った。1576年の年明けには、再びツァーリとして復位し、シメオンはトヴェーリ公となって引退した。この謎の退位事件は後世の歴史家の首を傾げさせている[67]モンゴル帝国研究者はチンギス統原理説を提唱しているが、ロシア史研究者の多くは「1575年にロシア君主が死ぬ」という占い師の進言を警戒した[68]、あるいはポーランド王位を狙うための戦略だったなどの説を支持している[注釈 13]。またイヴァン4世は退位後もしばしば「嘆願」の形でシメオンを通じて政策や処刑を実行したことから、非常大権を手放してしまったために全国会議の必要が生まれたことに辟易し、傀儡を立てて隠れ蓑に使おうとしたのではないかという意見もある[69]。しかしいずれにせよ、明確な答えは未だ見つかっていない[66]

反ロシア同盟の逆襲

1580年、リヴォニア戦争が始まってから20年が経過し、ロシアの国力は戦費とオプリーチニナ制度、そして重税とイギリスとの不均衡貿易によって経済的に限界を迎えつつあった。また敵国は当初のリヴォニアだけではなく、スウェーデン、トルコの後援を受けたタタール人、そしてルブリン合同によって生まれたポーランド・リトアニア共和国となっており、それらは開戦当初よりも強大化していた。イヴァン4世はそれらのうちポーランドと講和を結ぶことを考え、ナルヴァ港を除くリヴォニアの返還という譲歩を見せて交渉にあたった。しかしポーランド国王ステファン・バートリはロシアの国情を踏まえ、例外なきリヴォニア全域の返還とノヴゴロド、プスコフの割譲、そして巨額の賠償金を求めた。イヴァン4世は激しく拒否したが両者の国力はすでに大きく差が開けられており、特に係争の都市ノヴゴロドは虐殺によって備えを著しく欠いていた[70]。そのためイヴァン4世は和議の仲介をカトリックローマ教皇グレゴリウス13世に依頼する。イヴァン4世はローマ教皇が対トルコ十字軍の結成を望んでいることを知っており、グレゴリウス13世は正教徒の依頼ながらも辣腕外交官アントニオ・ポセヴィーノをポーランドに派遣して両者の交渉を取り持った[注釈 14]。その間、バートリはロシア国内に10万の軍を侵入させて都市をいくつか落としていたもののプスコフ攻略に失敗して進軍が停止していた[2]。さらにかねてより反ロシア同盟を結んでいたスウェーデンがこれを好機としてバルト海から進出し、1581年ナルヴァを占領して漁夫の利を得つつあった。このためポーランド、ロシアともに交渉を進め、イヴァン4世は1582年にポーランドとヤム・ザポルスキの和約を締結した。この和約ではロシアはリヴォニアの返還、ポーランドは占領したロシア初都市の返還を条件とし、スウェーデンが占領したナルヴァについては触れていない。また翌1583年にはスウェーデンとプリューサ条約ロシア語版英語版: Плюсское перемириеスウェーデン語: Stilleståndsfördrag vid Narva å och Plusa)を締結してリヴォニア戦争は終結した[71]が、ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海交易ルートも失った[71]。長い戦争はロシアの国力を大きく疲弊させ、重税や治世末年の飢饉に苦しむ逃亡農民が大量に発生して南部・東部に移り、一部はコサックに転じた[4]

1583年、53歳になったイヴァン4世がリヴォニア戦争で25年以上かけて得たものは周辺諸国からの敵意だけであり、最大の交易相手イギリスに対する依存はますます強まった。すでに領土問題を抱える周辺国との外交改善が望めないイヴァン4世は再びイギリスとの軍事同盟に活路を見出そうとしていた。イヴァン4世は1567年にエリザベス1世に求婚して消極的に拒否された経緯があったが、両国の同盟のためには血の結びつきが必要と考えた。そのためイヴァン4世は7人目の妻マリヤ・ナガヤと結婚していたにも関わらず、イギリス王室に連なる女性との結婚を望んだ。この要望を受けたロシア使節は女王の一族のうち、その姪にあたるハンティントン伯爵の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス(マーガレット・ポールの曾孫)を選び、結婚相手としてイギリスに打診する。当時、白海交易にフランスオランダが参入の意欲をみせていたため、イギリスは直ちに可否を返さなかった。イギリスは「メアリーが天然痘に罹患した」「航海に耐えられる体力が戻らない」等と回答を先延ばし、外交官が白海航路の独占を勝ち取ると、ついに結婚の交渉をうやむやにしてしまった[72]。結局、ロシアがイギリス王室から皇妃を迎えるには、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世を待たねばならなかった[73]

シベリア征服事業

1577年からストローガノフ家の援助でコサックの首領イェルマークシビル・ハン国征服に乗り出し、1581年にはイェルマークにお墨付きを与えてシベリア征服事業を推進している[74]1582年シビル・ハン国征服英語版が完了した。1555年に設立されていたモスクワ会社と新たなシベリアの領土から穫れる黒テンの毛皮を交易する関係が深まり、ボリス・ゴドゥノフの時代にイングランドと同盟関係になり、ポーランドと険悪な関係となったスウェーデン(1592年に両国は合同国家となったが、1598年に分裂)とのロシア・スウェーデン戦争英語版1590年 - 1595年)に勝利してフィンランド湾深奥沿岸部を回復した。この毛皮貿易は、前述の逃亡農民を取り込んで東へさらに領土を拡張していく原動力となった(ロシアのシベリア征服)。フィンランド湾深奥部は、17世紀初頭の動乱時代に再びスウェーデンによって奪われ、完全にロシア領となる18世紀初頭までは、北東航路などを介して行われることとなった(北東航路は、1619年に他国とポモールとの交易活動が禁止されたために一時衰退したが、それまでのマンガゼヤ経由に変わり、ロシア唯一の海港とされたアルハンゲリスク経由の貿易が主流となり、ノルウェーとのポモール貿易英語版も続けられた。またコサックも北極海河口に至り、そこからの内陸水路を伝って東シベリアへ進出していった。これは18世紀に始まる北極海探検の下地となった)。

晩年

イリヤ・レーピン 『イワン雷帝と皇子イワン』(1870年~1873年)
自ら殺した息子の遺骸の傍に座るイヴァン4世

1581年、イヴァン4世は後継者であった同名の次男イヴァンを誤殺してしまった。事の顛末は、まず息子の妻エレナ・シェレメチェヴァが妊娠中に正教徒が着るべき服を着ず、また部屋着一枚でいたことにイヴァン4世が激怒し[注釈 15]、家長権にもとづいてエレナを殴打したところから始まる。幼少よりシリヴェーストル司祭から「家庭訓[75]」によって「家長権を行使するようにツァーリは国家に対して家長権を行使する」と教えこまれた程に家長権は絶大であり、イヴァン4世は息子の妻を過去に二度選んでは気に食わず追放していた。息子にとって三人目の妻にあたるエレナもイヴァン4世が選んでいたが、これも次第に嫌って暴力を振るうようになっていた。息子のイヴァンは父の様子に気づくと、彼自身も家長権に服さなければならない立場だったが妻を殴打する父の様子は尋常ではなく、その手を抑えずにはいられなかった。しかし家長権の行使を止められたイヴァン4世は、これに我を失った。かねてより次男イヴァンが貴族たちと友好的な関係を築いていたことに猜疑心を抱いていたとも言われている[76]。イヴァン4世はツァーリの象徴とされる錫杖を手にとって振り下ろし、落ち着きを取り戻した時はエレナは震えて座り込み、息子イヴァンは耳を押さえてうめき声をあげていた。またそれを助け起こそうとする家臣ボリス・ゴドゥノフも額から出血しており、イヴァン4世はそれを見て自分が何をしたか理解したが、もはや取り返しがつかなかった。息子イヴァンはそれから数日後に死亡した[76]。息子の血を残すはずのエレナのお腹の子も殴打と衝撃により流産に終わり、エレナ自身も死亡した[76]

以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送った[77]。肉体的、精神的な衰えから統治も停滞した[5]。生来の不眠症はますます悪化した。深夜、イヴァン4世の近習は長男ドミトリー、次男イヴァンの名を呟きながら月明かりの回廊を徘徊する皇帝を何度か目撃している[77]。また皇太子の追悼祈禱(パニヒダ)にはロシア国内の修道院のみならず、コンスタンティノープル、エルサレム等の国外各地の修道院に依頼し多額の寄進を行った[78]

1584年、イヴァン4世は側近とチェスしている最中に失神し、3月18日に発作を起こして不帰の人となった[5][注釈 16][77]。代わって知的障害があり後継者には不適格と思われた三男フョードルが即位し、イヴァン4世の遺言で指名された摂政団に荒廃した国家の統治が委ねられた。

人物・逸話

  • 複雑な性格の持ち主で、処刑拷問を好むなど非常に残虐であると同時に、きわめて敬虔な一面をも持っていた。
    • 伝説によれば少年時代のイヴァン4世はクレムリン宮殿の塔から犬や猫を突き落とすのが趣味であり、貴族の子弟を引き連れてモスクワ市中で市民に乱暴狼藉をはたらいていたとされる[12]
    • 一方で府主教マカーリーに師事して深い宗教的教養を身につけ、礼拝巡礼を好んだという記録もある[79]
    • 歴史家クリュチェフスキーはイヴァン4世を「16世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」としている[47]
  • 1552年10月2日の生神女庇護祭の祭日、モスクワ軍がカザンを陥落させると、イヴァン4世はこの戦勝を記念してクレムリンの隣に生神女マリヤの庇護に捧げる大聖堂を建立した。この聖ワシリイ大聖堂(正式名称を生神女庇護大聖堂)は1560年に完成し、伝統的なロシア建築である。但し現在のあざやかな色彩と装飾は後代に付け加えられたものである[28]
    • 「イヴァン4世はその美しさに感動した余り、設計者がそれ以上に美しいものを造らないようにと彼を失明させた」という伝説があるが、これは史実ではない。まだこの頃には、オプリーチニナに代表される恐怖政治は時期的に始まっていない[80]
  • 1566年、イヴァン4世と教会は協同して西欧より印刷機を輸入し、ロシア初の印刷所が造られて最初の出版物『使徒行伝』が発行された[81]
  • クルプスキー公によれば、1564年の初めに酒宴の席で酩酊して放浪芸人と共に踊りだしたイヴァン4世を大貴族レプニン公が諌めたが、イヴァン4世は彼に仮面をつけて踊りに加わるように命じ、レプニン公が拒絶するとその夜のうちに彼を殺害させたという[82]
  • 1564年にリトアニアに政治亡命したクルプスキー公とは互いを非難する往復書簡を交わしており、この書簡は16世紀ロシアに関する重要史料である。この書簡での論争の中で、イヴァン4世は神学的な教養を窺わせる内容を書き残しており、また幼少期に植え付けられた大貴族への恨みと嫌悪を表明している[83]
  • 1565年にオプリーチニナ制度を導入して以後、アレクサンドロフ離宮で常にオプリーチニキと起居を共にしていた[84]
    • この時期にイヴァン4世の下を訪れた外国使節らの記録によれば、イヴァン4世はオプリーチニキと共に修道院を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や時課を行い、毎夜のように生神女マリヤイコンに祈りを捧げ、好んで鐘つき役や聖歌隊長を勤めたという[85]
    • 一方、午後には処刑や拷問が行われ、イヴァン4世自身もそれに加わるのが常だった。イヴァン4世は拷問の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びを上げたと記されている[86]
    • 夜には放縦な酒宴が開かれたが、イヴァン4世は不眠に悩まされて深夜まで寝付くことができず、しばしば夜伽師の物語に耳を傾けたり離宮内をひそかに徘徊していたという[87]
  • 晩年、イヴァン4世はオプリーチニキの殺戮の犠牲者たちの記録簿作成を命令し、遺言状の中で自らの行為を悔やむかのような言葉を残している[88]

皇妃たち

6番目の妻ヴァシリーサ・メレンティエヴァ

イヴァン4世は生涯に7回結婚した(一説には8回)。これは多くの妻を持ったことで有名なヘンリー8世の6回を上回る数である。

  1. アナスタシヤ・ロマノヴナ・ザハーリナ(婚姻期間1547年‐1560年 / 死別)
    三男三女をもうけ、うち次男イヴァンと三男フョードル1世の2人が成人した。最も深く愛した妻だったと言われる。彼女との結婚は、ロマノフ家がのちにツァーリとなる道を開いた。
  2. マリヤ・テムリュコヴナ(婚姻期間1561年‐1569年 / 死別)
    イスラームを信仰するチェルケス王族の娘で、受洗前の名はクチェニェイ。ヴァシーリーという息子を産んだが夭折した。
  3. マルファ・ソバーキナ(婚姻期間1571年 / 死別)
    ノヴゴロドの商人の娘。わずか結婚16日目に急死した。
  4. アンナ・コルトフスカヤ(婚姻期間1572年‐1575年 / 離別)
    正教会が禁じる4度目の結婚にあたったが、イヴァン4世は前妻との婚姻不成立を主張し、無理に合法化した。不妊を理由に修道院に入れられた。
  5. アンナ・ヴァシリチコヴァ(婚姻期間1575年‐1577年 / 死別)
    この結婚以降は教会法に抵触するため、教会は祝福を与えず私通と見なした。
  6. ヴァシリーサ・メレンティエヴァ(婚姻期間1577年-1580年 / 離別)
    リヴォニア戦争で夫を亡くした下級貴族の妻だった。不貞が明るみに出て、修道院に入れられた。
  7. マリヤ・ナガヤ(婚姻期間1580年‐1584年 / 1608年没)
    ツァーリの死の2年前に末子ドミトリーを産んだが、教会法では庶子と見なされた。この息子は9歳で謎の死を遂げたが、動乱時代に皇子ドミトリーを騙る実力者が次々に現れると、マリヤは偽ドミトリー1世偽ドミトリー2世を本物の息子と宣言し、彼らの庇護下に入った。

またイヴァン4世はイングランドとの友好に期待をかけ、1582年に妻のいる身でエリザベス1世にイングランドの王族との結婚を打診した。ロシア使節が白羽の矢を立てたのはハンティントン伯爵の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス(マーガレット・ポールの曾孫)だったが、エリザベス女王はこの縁談を進めようとせず、翌1583年には破談とした。イヴァン4世はイングランドを貿易相手国としてだけでなく、失脚した時の亡命先にしようと考えていた。

関連作品

ノンフィクション

フィクション

脚注

注釈

  1. ^ 皇室付属聖堂ブラゴヴェシチェンスキー聖堂の司祭。著書『家庭訓』の中で「神、教会、ツァーリの団結によってツァーリは絶対的権限をもった家長として振る舞う」ことを説き、マカリー府主教とともにイヴァン4世のツァーリ観に重大な影響を与えた
  2. ^ 扶持制と地方長官統治制を廃止し、シュイスキー時代に成立した郡(グバー)を活用して土地所有者らに「長老」を選出させた。その選出機関の権限は強く裁判、治安、租税を取り扱った
  3. ^ 道中の修道院で、イヴァン4世は貴族たちによって追放された元コロムナ主教のヴァシアンと対面した。同行したクルプスキーによれば、ヴァシアンは貴族への憎悪から「専制君主として振る舞うには、自分より有能なものを側近としてはならない。賢しい忠告に左右されてしまう。常にツァーリの意見のみが正しくなくてはならない」と説き、宣誓拒否事件で権威を損ねられた想いのイヴァン4世に感銘を与えた、としている
  4. ^ 6月でも冷たい湖に落ちたことでの心肺停止が原因とされている
  5. ^ 代わりにロシアからは蜂蜜獣脂毛皮鯨油などが輸出されたが、これらの品目では高価な輸入品と釣り合わず、貿易額が増えるに従って深刻な輸入超過に陥っていった
  6. ^ リヴォニアはリトアニア・ポーランド同君連合の保護下に入った
  7. ^ ポロツクの勝利の後、モスクワへの帰還が許されず、アダシェフが投獄されたドルパート要塞があるユーリエフに赴任するよう要求された。またかつての宣誓拒否問題の再審査を宣言された。クルプスキーは宣誓を行っていたが、従姉妹が後継者に擁立されかけたスターリツァ公ウラジーミルに嫁いでおり、関連が疑われていた。亡命後、イヴァン4世は忠臣の「裏切り」に激怒し、亡命先のクルプスキーと取り交わした自らの正当性を訴える書簡は、ツァーリの理念を修辞法を駆使して表現した第一級の歴史資料となった。
  8. ^ 旧来の貴族の領地
  9. ^ 当初は500人程度だったが、後に増強されて6,000人の規模となり、皇帝の「親衛隊」化が進んだ。
  10. ^ 反対にリトアニア・ポーランドは全ルーシという称号に旧キエフが含まれていたため、最後まで承認することはなかった
  11. ^ 「ツァーリが亡命するならばイギリスは受け入れる」この文章は相互亡命とすることで面子を保とうとしたイヴァン4世の真意を蔑ろにし、「共通の敵に対してのみ軍事行動を行う」という約束は事実上の軍事同盟の拒否でしかなかった
  12. ^ オプリーチニキに参加していた外国人傭兵シュターデンは両者の面談の様子を書き残している。『佯狂者ニコライはイヴァン4世の訪問を受けて生肉をのせた皿を差し出し、皇帝を「正教徒ゆえ(ものいみ)に肉は食さない」と憤慨させた。しかし佯狂者ニコライは「お前はすでに人の血肉をすすっている。それどころか神のことすら忘れている。この町で無辜の人を殺せば雷がお前を撃ち殺すだろう」と脅し、同時に雷鳴が轟いたことでイヴァン4世は色を失った』
  13. ^ 他の退位理由としては、政務に疲弊してツァーリから大公の職務を除きたかった説、皇太子との確執により先手を打って譲位したとする説、単なる気まぐれだった説があげられている
  14. ^ 停戦後、ローマ教皇はロシアに対トルコ十字軍を呼びかけたが、イヴァン4世は言を左右にして応じなかった。
  15. ^ 当時、ロシアの女性は何枚か重ね着をしていなければ端ないとされていた。
  16. ^ イヴァン4世の死には様々な風説があり、占星術師に算出させた死亡予定日に死んだという説もある

出典

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参考文献

先代
ヴァシーリー3世
モスクワ大公
ロシアのツァーリ
1533 - 1574
1547 - 1574
次代
シメオン・ベクブラトヴィチ
先代
シメオン・ベクブラトヴィチ
モスクワ大公
ロシアのツァーリ
1576 - 1584
次代
フョードル1世

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