ドミトリー・アレクサンドロヴィチ
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ドミトリー・アレクサンドロヴィチ Дмитрий Александрович | |
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ウラジーミル大公 | |
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在位 | 1276/7年 - 1281年、1283年 - 1285年 |
出生 |
1250年頃? |
死去 |
1294年 |
子女 | イヴァン |
家名 | リューリク家 |
王朝 | リューリク朝 |
父親 | アレクサンドル・ネフスキー |
母親 | アレクサンドラ・ブリャチスラヴナ |
ドミトリー・アレクサンドロヴィチ(Дмитрий Александрович、1250年頃? - 1294年)は、アレクサンドル・ネフスキーの次男。母はポロツク公女アレクサンドラ・ブリャチスラヴナ。 ペレヤスラヴリ公。一時期ノヴゴロド公に就任した後、ウラジーミル大公(1276(或いは1277)年 - 1281年、1283年 - 1285年)。
父の存命中に頭角を現す。1262年には叔父にあたるヤロスラフ3世とともにドイツ騎士団と戦い、ユーリエフ(ドルパト)を攻め落とす。
1277年に、叔父のウラジーミル大公ヴァシーリー・ヤロスラヴィチを継ぎ、大公に就任。1281年以降は弟のアンドレイ・アレクサンドロヴィチと大公位を争った。ドミトリーにはノガイが、アンドレイにはジョチ・ウルスが付き、争いは熾烈を極め、両者は交互に大公位に就いた。1294年に死去。ペレヤスラヴリを彼の息子イヴァンが継ぐが、彼も8年後に父の後を追う。このイヴァンの遺言により、ペレヤスラヴリはドミトリーの弟のダニール・アレクサンドロヴィチに遺贈された。
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