マリュータ・スクラートフ
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グリゴリー・ルキヤーノヴィチ・スクラートフ=ベリスキー(ロシア語: Григорий Лукьянович Скуратов-Бельский, ? - 1573年1月1日)は、モスクワ・ロシアの秘密警察オプリーチニキ隊の隊長。一般的にはマリュータ・スクラートフ(Малюта Скуратов)の名で知られる。
生涯
[編集]地方の貴族出身だったマリュータ・スクラートフは、ツァーリ・イヴァン4世のオプリーチニキの中でも優れた行動力を示したため、ツァーリからの彼への信頼はとても厚く、のちにオプリーチニキの部隊が6000人規模になると、彼はその隊長に任命された。
その一方で、オプリーチニキとしての残虐さは変わらず、1569年にはイヴァン4世のいとこで王位請求権を持つとされていたスターリツァ公ウラジーミル・アンドレエヴィチ[1]をはじめとする多数の貴族やモスクワ府主教フィリップ2世[2]ら聖職者を処罰・処刑した。 1571年1月にはノヴゴロドの住人らに反逆の意があるとして、数千人を虐殺したが、この虐殺によってオプリーチニキの活動は下火となり、1572年にオプリーチニキは解散となった。 また、同じく1571年にはロシア軍がデヴレト1世ギレイ率いるクリミア・ハン国に敗れた原因の調査にあたった[3]。
翌1573年、リヴォニア戦争に従軍してヴァイセンシュタイン(現在のエストニア・パイデ)で戦死。ヴォロコラムスクのヨシフ=ヴォロコラムスク修道院にある父の墓の傍らに埋葬された[4]。
また、1570年あるいは1571年には、娘のマリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤを、当時まだ無名だったオプリーチニキ隊員ボリス・ゴドゥノフに嫁がせている[4]。
ボリスはこの結婚により、のちに政界に進出するきっかけをつかむこととなり、のちにツァーリとなる第一歩を踏み出すこととなった。
脚注
[編集]- ^ Штаден, Генрих фон. “Записки о Московии” (ロシア語). Восточная Литература. 2018年4月7日閲覧。
- ^ Florinsky, Michael, T. (1966). “8”. Russia: A History and an Interpretation. 1 (11 ed.). New York: The Macmillan Company. p. 184
- ^ Крылов, Иван. “Заплечных дел мастер” (ロシア語). Культура. 2012年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月7日閲覧。
- ^ a b Скрынников, Руслан. “Иван Грозный” (ロシア語). ModernLib.ru. 2018年4月7日閲覧。