「伊勢崎空襲」の版間の差分
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{{Infobox Military Conflict |
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'''伊勢崎空襲'''(いせさきくうしゅう)とは、[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]深夜から翌[[8月15日]]未明にかけて[[群馬県]][[伊勢崎市]]とその周辺地域が受けた[[米軍]]による[[空襲]]。[[太平洋戦争]]において[[秋田県]][[秋田市]]の[[土崎空襲]]や[[神奈川県]][[小田原市]]の小田原空襲等と並んで[[米軍]]最後の[[日本本土空襲]]となった。 |
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|conflict=伊勢崎空襲 |
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|date=[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月15日]] |
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|place=[[群馬県]][[伊勢崎市]] |
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|combatant1={{JPN1889}} |
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|combatant2={{USA1912}} |
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|commander1={{Flagicon|JPN|1889}} 近藤兼利<ref>[[#戦災誌編集委員会 1973|戦災誌編集委員会 1973]]、668頁</ref><br />{{Flagicon|JPN|1889}} 金岡嶠<ref>[[#戦災誌編集委員会 1973|戦災誌編集委員会 1973]]、685頁</ref> |
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|commander2={{Flagicon|USA|1912}} [[ネーサン・ファラガット・トワイニング]]<ref name="#1">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.17</ref> |
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|strength1=迎撃戦闘機 4機<ref name="Bombing Survey76">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.76</ref>または10機以上<ref name="戦災誌680">[[#戦災誌編集委員会 1973|戦災誌編集委員会 1973]]、680頁</ref><br />[[高射第1師団 (日本軍)|高射第1師団]]独立高射砲第4大隊<ref name="太田市716-717">[[#太田市 1994|太田市 1994]]、716-717頁</ref> |
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|strength2=[[ボーイング]][[B-29 (航空機)|B-29]] 93機 |
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|casualties1=民間人死者 29<ref name="伊勢崎市574">[[#伊勢崎市 1991|伊勢崎市 1991]]、574頁</ref><ref group="注" name="数字">戦後に合併した[[佐波郡]][[三郷村 (群馬県)|三郷村]]、[[名和村 (群馬県)|名和村]]、[[宮郷村]]を除いた市街地周辺のみの数字。</ref>-40人<ref name="伊勢崎市574"/><br />被災人口 8,511人<ref name="伊勢崎市574"/><ref group="注" name="数字"/>-9,516人<ref name="伊勢崎市574"/><br />焼失家屋 1,953<ref name="伊勢崎市574"/><ref group="注" name="数字"/>-2,119戸<ref name="伊勢崎市574"/> |
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|casualties2=なし<ref name="Bombing Survey58">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.58</ref><ref name="Bombing Survey77">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.77</ref> |
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'''伊勢崎空襲'''(いせさきくうしゅう)は、[[太平洋戦争]]末期の[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月15日]]0時8分から2時15分にかけて[[アメリカ軍]]により行われた[[群馬県]][[伊勢崎市]]に対する[[空襲]]である。[[秋田県]][[秋田市]]の[[土崎空襲]]や[[埼玉県]][[熊谷市]]の[[熊谷空襲]]と並んで最後の[[日本本土空襲]]となった。戦後、伊勢崎は県内の[[前橋市]]や[[高崎市]]と共に戦災都市に指定され都市計画事業が立案されたが、被災者などの反対により事業を断念した<ref name="監物85">[[#監物 1989|監物 1989]]、85頁</ref>。 |
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== 背景 == |
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[[8月13日]]、[[アメリカ軍]][[第20空軍 (アメリカ軍)|第20航空軍]]司令部は、[[第58爆撃団|第58]]、[[第73爆撃団|第73]]、[[第313爆撃団|第313]]、[[第314爆撃団|第314]]、[[第315爆撃団|第315爆撃航空団]]に対し[[山口県]][[光市]]の[[光海軍工廠]]、同[[岩国市]]の[[岩国駅|麻里布操車場]]、[[大阪府]][[大阪市]]の[[大阪砲兵工廠]]、[[秋田県]][[秋田市]]の[[新日本石油|日本石油製油所]]、[[群馬県]][[伊勢崎市]]および[[埼玉県]][[熊谷市]]の2都市の市街地に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した<ref>[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.4</ref>。光海軍工廠と麻里布操車場と大阪陸軍工廠に対しては昼間の攻撃計画が、日本石油製油所と伊勢崎市と熊谷市に対しては夜間の攻撃計画が立案された<ref>[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.14</ref>。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月14日]]深夜、84機の米空軍B24爆撃機・戦闘機が伊勢崎市と周辺の[[佐波郡]]3村に飛来し614.1tの焼夷弾、27発の爆弾を投下した。空襲は終戦日となる[[8月15日]]未明まで続いた。この空襲で罹災者8,511人(人口罹災率21.3)、死者29人、重軽傷者150余人、1943戸の家屋が焼失(共に伊勢崎市の被害のみ)した。市街地の約40%が焼失したが、空襲当日が無風状態だったことや広大な防空空き地を設置していたために類焼が食い止められ、人的被害は最小限に抑えられた。 |
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このうち、伊勢崎市は[[中島飛行機]]のための航空機部品(機体とエンジン)製造を担う中心地のひとつ、または同社の生産を可能とする分配基地と見做されていた<ref>[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.6</ref>。戦後、[[米国戦略爆撃調査団]]によりまとめられた調査報告書には次のように記されている。 |
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{{Quotation|伊勢崎は重要な機体と航空機エンジンの部品生産を担う小さな中心地である。[[前橋市|前橋]]や熊谷よりわずかに小さく、他の[[中島飛行機]]関連都市や中島生産ラインの連環より幾分か重要ではないが、報告書は多くの小都市の産業に(中島の生産ラインが)引き継がれたことを示している。そして、(小都市産業の従事者は)航空機と部品製造を担う中島によって再教育を受け、彼らの工員へと変貌した。 |
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(中略)伊勢崎はこれまで前橋や熊谷と同様に、典型的な中島飛行機の工場レイアウトを示している。街の郊外に新たに建設された大規模な中島部品工場は、市内の町工場や小工場が生産した小部品を集めて組み立てを行っている。おそらく前橋や熊谷ほど重要ではないが、それでもこの都市は中島の航空機生産にとって生命線となる重要な連環を持つ<ref name="Bombing Survey">{{Cite web|url={{NDLDC|3984216}}|title=Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Takasaki Report No. 3-a(16), USSBS Index Section 7|work=Records of the U.S. Strategic Bombing Survey|publisher=[[国立国会図書館]] |
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|accessdate=2015-08-29}}</ref>。}} |
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攻撃目標とする伊勢崎の都市部には、いくつかの町工場や小さな繊維工場が位置し、それらは周辺部に位置する工場に寄与するものと考えられた<ref name="Bombing Survey"/>。市街地の北2800フィートの位置には中島飛行機の油圧用機器またはエンジン部品を扱う伊勢崎航空工業(攻撃目標90.13-1545番)があり、3,000から10,000人の工員を有していることが報告された<ref name="Bombing Survey"/>。また、市街地の東部に新たに建設された3つの工場や、市街地の南約800フィートに位置する工場もまた、航空機部品生産に従事するものと考えられた<ref name="Bombing Survey"/>。 |
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== 伊勢崎の状況 == |
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{{Location map|Japan|label=[[伊勢崎市]]|lat_deg=36|lat_min=18|lat_sec=40.9|lon_deg=139|lon_min=11|lon_sec=48.5|position=right|width=250|float=left|caption=伊勢崎市の位置|mark=DeepPink pog.svg}} |
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日本の首都・[[東京]]の北西約82km、[[群馬県]]南東部に位置する[[伊勢崎市]]は[[鉄道省|国有鉄道]][[両毛線]]と[[東武伊勢崎線]]が接続し、主要地方道路が市中心部から放射線状に伸びるなど、交通の要衝として発展した<ref name="プロフィール">{{Cite web|和書|url=http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1000000561000/index.html|title=プロフィール|publisher=伊勢崎市ホームページ|accessdate=2015-08-29}}</ref>。また、伊勢崎は古くから[[養蚕業]]が盛んであり織物の街として栄え<ref name="富士重工371">[[#富士重工業 1984|富士重工業 1984]]、371頁</ref>、[[1940年]](昭和15年)[[9月13日]]に近隣の村落と合併し市制が施行された<ref name="プロフィール"/>。伊勢崎の東約16kmの位置には航空機生産の盛んな[[新田郡]][[太田市|太田町]]があるが、戦時体制の確立と航空機の需要拡大に伴い、[[1942年]](昭和17年)9月<ref>[[#富士重工業 1984|富士重工業 1984]]、473頁</ref>に市内末広町に[[中島飛行機]]伊勢崎第一工場、市内福住町(現在の平和町)に同第二工場が建設され<ref name="富士重工371"/>、主要工場の一つである[[中島飛行機小泉製作所|小泉製作所]]の所轄下に置かれた<ref>[[#太田市 1994|太田市 1994]]、565頁</ref>。両工場は終戦の時点で約6,000人の工員を有し、第一工場では主に油圧関連部品、第二工場では主にボルトやナット類の製造を行った<ref name="富士重工371"/>。 |
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[[1945年]](昭和20年)2月、中島飛行機[[スバル町#SUBARU群馬製作所本工場|太田製作所]]が[[アメリカ陸軍]][[第20空軍 (アメリカ軍)|第20航空軍]]の[[B-29 (航空機)|B-29]]および[[アメリカ海軍]]の艦載機による4次にわたる空襲により工場機能の85%を喪失し工員101人が死亡する被害を受けると<ref>[[#太田市 1994|太田市 1994]]、575-576頁</ref><ref name="群馬県史745">[[#群馬県史編さん委員会 1991|群馬県史編さん委員会 1991]]、745頁</ref>、同製作所が担っていた最終組み立て工程以外の作業を県内の伊勢崎市と[[桐生市]]と[[新田郡]][[尾島町]]、[[栃木県]]の[[足利市]]と[[安蘇郡]][[田沼町]]、[[埼玉県]]の[[児玉郡]][[本庄市|本庄町]]などの小部品組み立て工場に分散させるようになった<ref>[[#太田市 1994|太田市 1994]]、580-581頁</ref>。 |
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[[1943年]](昭和18年)7月、市内の織物工場は[[商工省]]の指示により保有設備を戦争資材として供出<ref>[[#伊勢崎織物協同組合 1966|伊勢崎織物協同組合 1966]]、183頁</ref>、[[1944年]](昭和19年)には企業整備により軍需繊維工場へと転換し航空機用羽布や落下傘用布などの製造に従事した<ref name="織物協同組合">[[#伊勢崎織物協同組合 1966|伊勢崎織物協同組合 1966]]、183頁</ref>。1945年(昭和20年)には空襲の激化に伴い、周辺部の機械工場の疎開先として軍需工場へと転換したが<ref name="織物協同組合"/>、この他にも[[華蔵寺公園]]や伊勢崎競技場や市内の国民学校が中島飛行機などの要求に応じ軍需工場や関係施設に転換した<ref>[[#伊勢崎市 1991|伊勢崎市 1991]]、325-328頁</ref>。さらに同年8月に市街地では建物の強制疎開が行われ、防空対策のため[[伊勢崎駅]](市内上町、現在の曲輪町)、伊勢崎警察署(市内日吉町、現在の大手町)、伊勢崎市役所(市内本町四丁目、伊勢崎郵便局(市内上町、現在の曲輪町))の各付近と本町3丁目の5か所に防空空き地が設置された<ref name="監物87-88">[[#監物 1989|監物 1989]]、87-88頁</ref>。 |
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== 経緯 == |
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=== 参加兵力 === |
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本作戦には[[アメリカ陸軍]][[第314爆撃団|第314航空団]]所属の先導隊12機と本隊71機、[[第73爆撃団|第73航空団]]所属の10機の合計93機の[[B-29_(航空機)|B-29]][[爆撃機]]が参加した<ref name="Bombing Survey15">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.15</ref>。このうち第314航空団には熊谷の攻撃部隊と同様に[[第8空軍 (アメリカ軍)|第8航空軍]]所属の10機が加わる予定だったが<ref name="Bombing Survey15"/>、最終的に作戦参加は見送られた<ref name="#1"/>。 |
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事前の偵察によれば伊勢崎周辺に[[高射砲]]陣地は確認されなかったが、新田郡太田町周辺には60ミリ重砲群が配備されており、有効射程範囲内での迎撃が想定された<ref name="Bombing Survey13">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.13</ref>。前回[[8月5日]]の[[前橋市]]に対する空襲の際に太田地域でわずかな迎撃に遭遇したことから、15,000フィートの高度を保ちつつ同地域の防空網を回避することを予定した<ref name="Bombing Survey13"/>。 |
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これに対し日本陸軍の航空部隊は[[第10飛行師団 (日本軍)|第10飛行師団]]が関東上空の防空任務にあたっており<ref name="柏市史">{{Citation|和書|editor=[[柏市]]史編さん委員会|title=柏市史 近代編|publisher=柏市教育委員会|year=2000|page=808-809}}</ref>、終戦の時点で[[千葉県]][[東葛飾郡]]の[[柏飛行場|柏陸軍飛行場]]と松戸陸軍飛行場と藤ヶ谷陸軍飛行場<ref name="柏市史"/>、同[[印旛郡]]の印旛陸軍飛行場に隷下の戦闘隊を配備していた<ref name="付図第七">{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|chapter=付図第七 本土飛行部隊 航空地区部隊 展開配置要図(終戦時における)|title=戦史叢書 本土防空作戦|publisher=朝雲新聞社|year=1968}}</ref>。なお同師団は出動可能な航空機として[[三式戦闘機]](飛燕)を15機、[[一式戦闘機]](隼)を20機、[[二式複座戦闘機]](屠龍)を30機、[[四式戦闘機]](疾風)と[[二式単座戦闘機]](鍾馗)を30機保有していた<ref name="戦災誌679">[[#戦災誌編集委員会 1973|戦災誌編集委員会 1973]]、679頁</ref>。 |
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また、太田町には[[第12方面軍 (日本軍)|第12方面軍]]隷下の[[高射第1師団 (日本軍)|高射第1師団]]独立高射砲第4大隊(通称、晴一九五五部隊)が配置され、[[宝泉村|由良]]、[[休泊村|下小林]]、[[沢野村|古戸]]、[[小泉町|小泉]]に高射砲陣地を構築した<ref name="太田市716-717"/>。同部隊は[[中島飛行機]]の主要工場(太田、小泉製作所)と太田飛行場{{#tag:ref|太田製作所と前橋工場で製作された陸軍機、小泉製作所と尾島工場で製作された海軍機のテスト飛行および納入のための発着場の役割を担った<ref name="群馬県史745"/>。|group=注}}の防衛を目的としたもので、二式二型算定具を連結させた[[九九式八糎高射砲]]を18門、[[三式12cm高射砲]]を6門、[[八八式七糎野戦高射砲]]を6門、合計30門の対空火器を保有していた<ref>[[#戦災誌編集委員会 1973|戦災誌編集委員会 1973]]、703頁</ref>。この他、近隣の丘陵には艦載機の攻撃に備え[[重機関銃]]を装備した部隊が展開された<ref name="太田市716-717"/>。 |
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=== 経過 === |
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8月14日17時2分(米軍時間8時2分{{refnest|group="注"|name="時間"|アメリカ軍による時間は[[グリニッジ標準時]]を採用しており、実際のマリアナ諸島の時間とは異なる。これを日本時間に修正するには9時間を加える<ref>{{Cite book|和書|author=栗田尚弥|authorlink=栗田尚弥|chapter=最後の空襲 米軍資料に見る熊谷爆撃|year=1988|title=埼玉県史研究|volume=第20号|publisher=埼玉県|page=76}}</ref>。}})に第73航空団の一番機が[[マリアナ諸島]]の基地より離陸を開始し<ref name="Bombing Survey15"/>、同17時45分(米軍時間8時45分<ref group="注" name="時間"/>)に第314航空団の一番機が離陸を開始し<ref name="Bombing Survey15"/>、同19時5分(米軍時間10時5分<ref group="注" name="時間"/>)までに全機の離陸が完了した<ref name="Bombing Survey15"/>。この他、風力測定用の航空機1機が派遣された<ref name="Bombing Survey22">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.22</ref>。 |
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第314、73航空団は[[埼玉県]][[熊谷市]]に対する攻撃部隊と同様に[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]上空のポイントを経由して[[本州]]近海に迫り、[[銚子市]]にある日本軍の防備施設を避けるために[[鹿島灘]]方面から[[茨城県]]上空に侵入し[[霞ヶ浦]]の北方のポイントを通過した<ref>[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.10</ref><ref name="Bombing Survey11-12">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.11-12</ref>。伊勢崎は周囲に山地がない絶好のレーダー目標だが、予定ルートでは向かい風を受け、目標上空では上昇気流により投弾が困難となることが予想された<ref name="Bombing Survey11-12"/>。そのため高度を15,000フィートに保ち、予定ルートと並行して流れる[[利根川]]といくつかの橋を目印に飛行し、伊勢崎と[[前橋市|前橋]]と[[高崎市|高崎]]の三角地帯を特定した<ref name="Bombing Survey11-12"/>。 |
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[[File:Isesaki city center area Aerial photograph.1986.jpg|thumb|300px|[[1986年]]に撮影された伊勢崎市中心部周辺の航空写真。この空襲により[[伊勢崎駅]]周辺区域、旧伊勢崎市役所から北国民学校にかけた区域、[[新伊勢崎駅]]から向かって西方の区域の合計3区域が焼失した。]] |
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8月15日0時8分(米軍時間8月14日15時8分<ref group="注" name="時間"/>)に第73航空団所属の1機が初弾を投下して爆撃を開始した<ref name="Bombing Survey20">[[#Strategic Bombing Survey 1945|Strategic Bombing Survey (1945)]] p.20</ref>。これに対して日本側は14日23時に警戒警報が発令され、15日0時28分に空襲警報が発令され退避行動や消火活動が行われたが<ref name="伊勢崎市572">[[#伊勢崎市 1991|伊勢崎市 1991]]、572頁</ref>、市内東部から次々に火の手が上がった<ref name="伊勢崎市572"/>。この空襲により伊勢崎市内では1,953戸が被災、8,511人が被災し29人が死亡、154人が負傷した<ref name="伊勢崎市574"/>。近隣の[[佐波郡]][[三郷村 (群馬県)|三郷村]]では55戸が被災、365人が被災し7人が死亡。同[[名和村 (群馬県)|名和村]]では85戸が被災、510人が被災し3人が死亡。同[[宮郷村]]では26戸が被災、130人が被災し1人が死亡する被害を受けた<ref name="伊勢崎市574"/>。この空襲で市街地の大半が焼け野原となったが、焼失地域は三つの帯状となっている<ref name="伊勢崎市572"/>。このことについて、『伊勢崎市史』は攻撃編隊の各機体の間隔を示すものと推測している<ref name="伊勢崎市572"/>。市街地の約40%が焼失したが、空襲当日が無風状態だったことや広大な防空空き地を設置していたために類焼が食い止められ、人的被害は最小限に抑えられた<ref name="伊勢崎市577">[[#伊勢崎市 1991|伊勢崎市 1991]]、577頁</ref>。このほか、『富士重工業三十年史』は市内北部に位置する中島飛行機伊勢崎第一工場と市内東部に位置する同第二工場も被災したが、生産に支障が出るような被害はなかったと記している<ref name="富士重工371"/>。 |
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アメリカ軍の報告書によれば、8月15日2時15分(米軍時間8月14日17時15分<ref group="注" name="時間"/>)に第314航空団の一機が最後の爆弾を投下<ref name="Bombing Survey20"/>するまでの2時間7分に渡って爆撃が行われた<ref name="Bombing Survey22"/>。爆撃は第73航空団所属の8機と第314航空団所属の79機の合計87機が行い<ref name="Bombing Survey58"/>、目標上空の高度14,200から19,000フィートの地点から614.1tの焼夷弾、27発の爆弾を投下した<ref name="伊勢崎市571">[[#伊勢崎市 1991|伊勢崎市 1991]]、571頁</ref>。作戦参加機のうち70機がレーダー照準による爆撃を行い、17機が目視による爆撃を行ったが<ref name="Bombing Survey22"/>、火災により発生した上昇気流と煙に遭遇し、レーダー照準の特定は困難を極めたという<ref name="Bombing Survey22"/><ref name="伊勢崎市572"/>。 |
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第73航空団と第314航空団は、攻撃目標へと向かう途中の新田郡太田町において2から4の[[サーチライト]]の照射と[[榴弾砲|重砲]]と[[高射砲]]による不正確な迎撃を受けたが<ref name="Bombing Survey58"/>、攻撃目標上空や帰投の際には高射砲による迎撃はなかった<ref name="Bombing Survey58"/>。また、日本軍の迎撃戦闘機4機を確認したと記されているが<ref name="Bombing Survey76"/>、作戦を通じて航空機の喪失はなかった<ref name="Bombing Survey58"/><ref name="Bombing Survey77"/>。この他、無効果なサーチライトは、[[立川市|立川]]、[[八王子市|八王子]]、[[厚木町|厚木]]、[[平塚市|平塚]]で確認された<ref name="Bombing Survey58"/>。一方、日本側の[[復員庁|第一復員局]]が作成した『本土防空作戦記録』は第10飛行師団各隊が航空機を各4機出動させたが、敵機はサーチライトの照射地区に侵入せず、戦果はあげられなかった、と記している<ref name="戦災誌680"/>。 |
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=== 周辺地域の被害 === |
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伊勢崎市が空襲を受けた8月14日深夜には近郊の都市や村落でも空襲による被害を受けた。新田郡太田町周辺では8月15日0時から2時にかけて東部から飛来したB-29による爆撃を受け、太田町では6人<ref name="太田市738">[[#太田市 1994|太田市 1994]]、738頁</ref>、近隣の[[尾島町]]では5人、[[宝泉村]]では1人、[[毛里田村]]では1人(『太田市史』では5人<ref name="太田市738"/>)が死亡した<ref name="群馬県史749-750">[[#群馬県史編さん委員会 1991|群馬県史編さん委員会 1991]]、749-750頁</ref>。 |
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また、[[高崎市]]周辺では14日深夜から15日2時52分にかけて空襲を受け、高崎市では14人が死亡し(『新編高崎市史』では8人<ref>{{Citation|和書|editor=高崎市市史編さん委員会|title=新編高崎市史 通史編 4 近代・現代|publisher=[[高崎市]]|year=2004|page=328-330}}</ref>、高崎市では21人<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013120901070/|title=第56回 米軍機による高崎の空襲|work=たかさき100年|publisher=高崎市|accessdate=2015-08-29}}</ref>、[[総務省]]では2人死亡としている<ref name="総務省">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_03.html|title=高崎市における戦災の状況(群馬県)|work=国内各都市の戦災の状況 |publisher=[[総務省]]|accessdate=2015-08-29}}</ref>)701戸が被災、[[高崎区検察庁|高崎区裁判所]]、塚沢国民学校、北国民学校、[[群馬県立高崎女子高等学校|群馬県立高崎高等女学校]]、[[群馬県立高崎商業高等学校|群馬県立高崎商業学校]]などが被害を受けた<ref name="群馬県史749-750"/>。さらに高崎郊外でも[[群馬郡]][[東村 (群馬県群馬郡)|東村]]や同[[滝川村 (群馬県)|滝川村]]や同[[箕輪町 (群馬県)|箕輪町]]などの町村が被災、[[多野郡]][[神流村]]では1人が死亡した<ref name="群馬県史749-750"/>。なお、前橋・高崎地区には[[1945年]]([[昭和]]20年)7月に[[高射第1師団 (日本軍)|高射第1師団]]隷下の高射砲第117連隊の主力および高射砲第115連隊の第三大隊が派遣されていたが<ref name="本土防空作戦">{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 本土防空作戦|publisher=[[朝雲新聞社|朝雲新聞]]|year=1968|page=614}}</ref>、『戦史叢書』はこの空襲においてB-29 1機を撃墜<ref name="本土防空作戦"/>、『本土防空作戦記録』は撃墜1機のほか2ないし3機に損害を与えたるものと判断すると記している<ref>[[#戦災誌編集委員会 1973|戦災誌編集委員会 1973]]、700頁</ref>。 |
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このほか、[[神奈川県]][[小田原市]]でも空襲による被害を受けているが([[小田原空襲]])、伊勢崎または熊谷の攻撃部隊が帰投の際に余った焼夷弾を投棄したものと見られている<ref>{{Cite book|和書|author=奥住喜重|year=2006|title=B-29 64都市を焼く 1944年11月より1945年8月15日まで|publisher=揺籃社|isbn=978-4897082356|pages=140-141}}</ref>。 |
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== 主な被災建造物 == |
== 主な被災建造物 == |
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:出典<ref name="監物102">[[#監物 1989|監物 1989]]、102頁</ref><ref name="群馬県史749-750"/> |
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* 伊勢崎北[[国民学校]](現伊勢崎市立北小学校) |
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* 伊勢崎 |
* 伊勢崎織物工業組合 |
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* 伊勢崎栄養食購買組合 |
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* 佐波地方事務所 |
* 佐波地方事務所 |
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* 群馬県立伊勢崎高等女学校( |
* 群馬県立伊勢崎高等女学校(後の[[群馬県立伊勢崎清明高等学校]]) |
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* 群馬県立伊勢崎工業学校本館( |
* 群馬県立伊勢崎工業学校本館(後の[[群馬県立伊勢崎工業高等学校]]) |
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* 伊勢崎北国民学校(後の[[伊勢崎市立北小学校]]) |
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* 関東航空会社 |
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* 宮郷国民学校<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1000000828000/files/25isesakisinokyouiku.pdf|title=昭和25年度 伊勢崎市の教育|publisher=伊勢崎市教育委員会|format=PDF|accessdate=2015-08-29}}</ref>(後の伊勢崎市立宮郷小学校) |
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* 伊勢崎市立図書館 |
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* [[善應寺 (伊勢崎市)|善應寺]] |
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* 久保田兄弟鉄工所本工場 |
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* 松根油製造所 |
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* 電気館 |
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* 関東航空会社<ref>[[#伊勢崎市 1991|伊勢崎市 1991]]、575頁</ref> |
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== 戦後 == |
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=== 戦災復興計画 === |
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[[1945年]](昭和20年)11月に[[幣原喜重郎]]内閣により[[戦災復興院]]が設立され、[[12月30日]]に戦災復興計画基本方針が閣議決定<ref name="監物85"/>。[[1946年]](昭和21年)[[9月11日]]に[[特別都市計画法]]が公布され、伊勢崎市は[[前橋市]]や[[高崎市]]と共に戦災都市に指定された<ref name="監物85"/>。当初の計画では8割の国庫補助と群馬県と伊勢崎市の負担により資金を賄い<ref name="監物85"/>、[[伊勢崎駅]]から北国民学校までの道路を幅員12メートルに、栄町通りと本町通りを幅員30メートルに、本町から南の上泉町までの道路を幅員25メートルに、[[新伊勢崎駅]]から西町までの道路を幅員18メートルに拡張あるいは新設することなどを計画していた<ref name="監物91">[[#監物 1989|監物 1989]]、91頁</ref>。一方、この時期には市内の復興住宅がほぼ完成に近づいていたことから都市計画に反対する意見が上がり<ref>[[#監物 1989|監物 1989]]、94-95頁</ref>、即時施行の立場をとる推進派と被災者の擁護の立場をとる反対派との間で対立が深まった<ref>[[#監物 1989|監物 1989]]、96-98頁</ref>。 |
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[[1947年]](昭和22年)9月、[[カスリーン台風]]の影響により市街地が浸水する被害を受けると、推進派の伊勢崎市復興対策委員会(市長の斎藤弥三郎が会長を務める)と反対派の伊勢崎市戦災者同盟とが歩み寄りを見せ、同年12月の復興委員会の会議において実情に即した都市計画案を作成することを決定し、早急に計画案を作成した後に[[内務省 (日本)|内務省]]に陳情するものとした<ref name="監物100">[[#監物 1989|監物 1989]]、100頁</ref>。なお、この修正案は国から認可されなかったとみられており<ref name="監物100"/>、同年12月に内務省が解体し[[1948年]](昭和23年)1月に戦災復興院が内務省国土局と統合され[[建設省|建設院]]が新たに設置されるといった事情または機運の高まりの遅れもあり、 都市計画事業の施行は断念されたと推測されている<ref name="監物100"/>。 |
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=== 慰霊 === |
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市内八坂町の平和公園には伊勢崎空襲の犠牲者を追悼するため、[[1961年]](昭和36年)10月に慰霊塔が建立されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/gunma_isesaki_city001/index.html|title=伊勢崎市 慰霊塔|work=一般戦災死没者の追悼|publisher=[[総務省]]|accessdate=2015-08-29}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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* 終戦後、伊勢崎市は[[戦災復興都市計画|戦災復興都市]]に指定されたが、諸事情により都市計画事業を施行することができず、被災した市街地に被災以前の土地区画のまま無秩序に住宅等の建造物が建てられた。そのため、現在に至るまで狭隘な道路が多数残り、道路交通や防災面からも大きな課題を残すこととなった。 |
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* 市内八坂町の平和公園には伊勢崎空襲の犠牲者を追悼するための慰霊塔が建立されている。 |
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=== 出典 === |
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* [[群馬県]]内の都市では、この他、県都の[[前橋市]]、[[歩兵第15連隊|陸軍歩兵第15連隊]]が置かれていた[[高崎市]]、[[中島飛行機]]の生産拠点であった[[新田郡]][[太田町 (群馬県)|太田町]](現[[太田市]])などが空襲被害に遭っている。 |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考 |
== 参考文献 == |
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* {{Cite journal|author=Records of the U.S. Strategic Bombing Survey|url={{NDLDC|4002578}}|title=Nos. 325 through 330, Hikari Naval Arsenal, Osaka Army Arsenal, Marifu railroad yards, Nippon oil refinery, Kumagaya and Isesaki, 14-15 August 1945. Report No. 2-b(74), USSBS Index; Section 7|publisher=[[国立国会図書館]]|year=1945|ref=Strategic Bombing Survey 1945}} |
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* {{Cite book | 和書 | author = 伊勢崎市 | title = 伊勢崎市制三十年誌 | publisher = 伊勢崎市 | year = 1970 | ref = 伊勢崎市1970 }} |
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* {{ |
* {{Citation|和書|editor=[[伊勢崎市]]|title=伊勢崎市史 通史編 3 近現代|publisher=伊勢崎市|year=1991|ref=伊勢崎市 1991}} |
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* {{ |
* {{Citation|和書|editor=伊勢崎市|title=伊勢崎市史 資料編 5 近現代|publisher=伊勢崎市|year=1987|ref=伊勢崎市 1987}} |
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* {{Citation|和書|editor=伊勢崎織物協同組合|title=伊勢崎織物史|publisher=伊勢崎銘仙会館|year=1966|ref=伊勢崎織物協同組合 1966}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[太田市]]|title=太田市史 通史編 近現代|publisher=太田市|year=1994|ref=太田市 1994}} |
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* {{Citation|和書|editor=群馬県史編さん委員会|title=群馬県史 通史編 7 近代現代|publisher=群馬県|year=1991|ref=群馬県史編さん委員会 1991}} |
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* {{Cite book|和書|author=監物聖善|chapter=伊勢崎市の戦災復興都市計画 -事業断念までの経過を追う-|title=伊勢崎市史研究|volume=第7号|publisher=伊勢崎市|year=1989|ref=監物 1989}} |
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* {{Citation|和書|editor=『東京大空襲・戦災誌』編集委員会|title=東京大空襲・戦災誌 第3巻 軍・政府(日米)公式記録集|publisher=東京空襲を記録する会|year=1973|ref=戦災誌編集委員会 1973}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[富士重工業]]株式会社社史編纂委員会|title=富士重工業三十年史|publisher=富士重工業|year=1984|ref=富士重工業 1984}} |
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== 関連項目 == |
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* [[日本本土空襲]] |
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* [[空襲]] |
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* [[伊勢崎市]] |
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伊勢崎空襲 | |||||
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衝突した勢力 | |||||
大日本帝国 | アメリカ合衆国 | ||||
指揮官 | |||||
近藤兼利[1] 金岡嶠[2] | ネーサン・ファラガット・トワイニング[3] | ||||
戦力 | |||||
迎撃戦闘機 4機[4]または10機以上[5] 高射第1師団独立高射砲第4大隊[6] | ボーイングB-29 93機 | ||||
被害者数 | |||||
民間人死者 29[7][注 1]-40人[7] 被災人口 8,511人[7][注 1]-9,516人[7] 焼失家屋 1,953[7][注 1]-2,119戸[7] | なし[8][9] |
伊勢崎空襲(いせさきくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月15日0時8分から2時15分にかけてアメリカ軍により行われた群馬県伊勢崎市に対する空襲である。秋田県秋田市の土崎空襲や埼玉県熊谷市の熊谷空襲と並んで最後の日本本土空襲となった。戦後、伊勢崎は県内の前橋市や高崎市と共に戦災都市に指定され都市計画事業が立案されたが、被災者などの反対により事業を断念した[10]。
背景
[編集]8月13日、アメリカ軍第20航空軍司令部は、第58、第73、第313、第314、第315爆撃航空団に対し山口県光市の光海軍工廠、同岩国市の麻里布操車場、大阪府大阪市の大阪砲兵工廠、秋田県秋田市の日本石油製油所、群馬県伊勢崎市および埼玉県熊谷市の2都市の市街地に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した[11]。光海軍工廠と麻里布操車場と大阪陸軍工廠に対しては昼間の攻撃計画が、日本石油製油所と伊勢崎市と熊谷市に対しては夜間の攻撃計画が立案された[12]。
このうち、伊勢崎市は中島飛行機のための航空機部品(機体とエンジン)製造を担う中心地のひとつ、または同社の生産を可能とする分配基地と見做されていた[13]。戦後、米国戦略爆撃調査団によりまとめられた調査報告書には次のように記されている。
伊勢崎は重要な機体と航空機エンジンの部品生産を担う小さな中心地である。前橋や熊谷よりわずかに小さく、他の中島飛行機関連都市や中島生産ラインの連環より幾分か重要ではないが、報告書は多くの小都市の産業に(中島の生産ラインが)引き継がれたことを示している。そして、(小都市産業の従事者は)航空機と部品製造を担う中島によって再教育を受け、彼らの工員へと変貌した。 (中略)伊勢崎はこれまで前橋や熊谷と同様に、典型的な中島飛行機の工場レイアウトを示している。街の郊外に新たに建設された大規模な中島部品工場は、市内の町工場や小工場が生産した小部品を集めて組み立てを行っている。おそらく前橋や熊谷ほど重要ではないが、それでもこの都市は中島の航空機生産にとって生命線となる重要な連環を持つ[14]。
攻撃目標とする伊勢崎の都市部には、いくつかの町工場や小さな繊維工場が位置し、それらは周辺部に位置する工場に寄与するものと考えられた[14]。市街地の北2800フィートの位置には中島飛行機の油圧用機器またはエンジン部品を扱う伊勢崎航空工業(攻撃目標90.13-1545番)があり、3,000から10,000人の工員を有していることが報告された[14]。また、市街地の東部に新たに建設された3つの工場や、市街地の南約800フィートに位置する工場もまた、航空機部品生産に従事するものと考えられた[14]。
伊勢崎の状況
[編集]日本の首都・東京の北西約82km、群馬県南東部に位置する伊勢崎市は国有鉄道両毛線と東武伊勢崎線が接続し、主要地方道路が市中心部から放射線状に伸びるなど、交通の要衝として発展した[15]。また、伊勢崎は古くから養蚕業が盛んであり織物の街として栄え[16]、1940年(昭和15年)9月13日に近隣の村落と合併し市制が施行された[15]。伊勢崎の東約16kmの位置には航空機生産の盛んな新田郡太田町があるが、戦時体制の確立と航空機の需要拡大に伴い、1942年(昭和17年)9月[17]に市内末広町に中島飛行機伊勢崎第一工場、市内福住町(現在の平和町)に同第二工場が建設され[16]、主要工場の一つである小泉製作所の所轄下に置かれた[18]。両工場は終戦の時点で約6,000人の工員を有し、第一工場では主に油圧関連部品、第二工場では主にボルトやナット類の製造を行った[16]。
1945年(昭和20年)2月、中島飛行機太田製作所がアメリカ陸軍第20航空軍のB-29およびアメリカ海軍の艦載機による4次にわたる空襲により工場機能の85%を喪失し工員101人が死亡する被害を受けると[19][20]、同製作所が担っていた最終組み立て工程以外の作業を県内の伊勢崎市と桐生市と新田郡尾島町、栃木県の足利市と安蘇郡田沼町、埼玉県の児玉郡本庄町などの小部品組み立て工場に分散させるようになった[21]。
1943年(昭和18年)7月、市内の織物工場は商工省の指示により保有設備を戦争資材として供出[22]、1944年(昭和19年)には企業整備により軍需繊維工場へと転換し航空機用羽布や落下傘用布などの製造に従事した[23]。1945年(昭和20年)には空襲の激化に伴い、周辺部の機械工場の疎開先として軍需工場へと転換したが[23]、この他にも華蔵寺公園や伊勢崎競技場や市内の国民学校が中島飛行機などの要求に応じ軍需工場や関係施設に転換した[24]。さらに同年8月に市街地では建物の強制疎開が行われ、防空対策のため伊勢崎駅(市内上町、現在の曲輪町)、伊勢崎警察署(市内日吉町、現在の大手町)、伊勢崎市役所(市内本町四丁目、伊勢崎郵便局(市内上町、現在の曲輪町))の各付近と本町3丁目の5か所に防空空き地が設置された[25]。
経緯
[編集]参加兵力
[編集]本作戦にはアメリカ陸軍第314航空団所属の先導隊12機と本隊71機、第73航空団所属の10機の合計93機のB-29爆撃機が参加した[26]。このうち第314航空団には熊谷の攻撃部隊と同様に第8航空軍所属の10機が加わる予定だったが[26]、最終的に作戦参加は見送られた[3]。
事前の偵察によれば伊勢崎周辺に高射砲陣地は確認されなかったが、新田郡太田町周辺には60ミリ重砲群が配備されており、有効射程範囲内での迎撃が想定された[27]。前回8月5日の前橋市に対する空襲の際に太田地域でわずかな迎撃に遭遇したことから、15,000フィートの高度を保ちつつ同地域の防空網を回避することを予定した[27]。
これに対し日本陸軍の航空部隊は第10飛行師団が関東上空の防空任務にあたっており[28]、終戦の時点で千葉県東葛飾郡の柏陸軍飛行場と松戸陸軍飛行場と藤ヶ谷陸軍飛行場[28]、同印旛郡の印旛陸軍飛行場に隷下の戦闘隊を配備していた[29]。なお同師団は出動可能な航空機として三式戦闘機(飛燕)を15機、一式戦闘機(隼)を20機、二式複座戦闘機(屠龍)を30機、四式戦闘機(疾風)と二式単座戦闘機(鍾馗)を30機保有していた[30]。
また、太田町には第12方面軍隷下の高射第1師団独立高射砲第4大隊(通称、晴一九五五部隊)が配置され、由良、下小林、古戸、小泉に高射砲陣地を構築した[6]。同部隊は中島飛行機の主要工場(太田、小泉製作所)と太田飛行場[注 2]の防衛を目的としたもので、二式二型算定具を連結させた九九式八糎高射砲を18門、三式12cm高射砲を6門、八八式七糎野戦高射砲を6門、合計30門の対空火器を保有していた[31]。この他、近隣の丘陵には艦載機の攻撃に備え重機関銃を装備した部隊が展開された[6]。
経過
[編集]8月14日17時2分(米軍時間8時2分[注 3])に第73航空団の一番機がマリアナ諸島の基地より離陸を開始し[26]、同17時45分(米軍時間8時45分[注 3])に第314航空団の一番機が離陸を開始し[26]、同19時5分(米軍時間10時5分[注 3])までに全機の離陸が完了した[26]。この他、風力測定用の航空機1機が派遣された[33]。
第314、73航空団は埼玉県熊谷市に対する攻撃部隊と同様に硫黄島上空のポイントを経由して本州近海に迫り、銚子市にある日本軍の防備施設を避けるために鹿島灘方面から茨城県上空に侵入し霞ヶ浦の北方のポイントを通過した[34][35]。伊勢崎は周囲に山地がない絶好のレーダー目標だが、予定ルートでは向かい風を受け、目標上空では上昇気流により投弾が困難となることが予想された[35]。そのため高度を15,000フィートに保ち、予定ルートと並行して流れる利根川といくつかの橋を目印に飛行し、伊勢崎と前橋と高崎の三角地帯を特定した[35]。
8月15日0時8分(米軍時間8月14日15時8分[注 3])に第73航空団所属の1機が初弾を投下して爆撃を開始した[36]。これに対して日本側は14日23時に警戒警報が発令され、15日0時28分に空襲警報が発令され退避行動や消火活動が行われたが[37]、市内東部から次々に火の手が上がった[37]。この空襲により伊勢崎市内では1,953戸が被災、8,511人が被災し29人が死亡、154人が負傷した[7]。近隣の佐波郡三郷村では55戸が被災、365人が被災し7人が死亡。同名和村では85戸が被災、510人が被災し3人が死亡。同宮郷村では26戸が被災、130人が被災し1人が死亡する被害を受けた[7]。この空襲で市街地の大半が焼け野原となったが、焼失地域は三つの帯状となっている[37]。このことについて、『伊勢崎市史』は攻撃編隊の各機体の間隔を示すものと推測している[37]。市街地の約40%が焼失したが、空襲当日が無風状態だったことや広大な防空空き地を設置していたために類焼が食い止められ、人的被害は最小限に抑えられた[38]。このほか、『富士重工業三十年史』は市内北部に位置する中島飛行機伊勢崎第一工場と市内東部に位置する同第二工場も被災したが、生産に支障が出るような被害はなかったと記している[16]。
アメリカ軍の報告書によれば、8月15日2時15分(米軍時間8月14日17時15分[注 3])に第314航空団の一機が最後の爆弾を投下[36]するまでの2時間7分に渡って爆撃が行われた[33]。爆撃は第73航空団所属の8機と第314航空団所属の79機の合計87機が行い[8]、目標上空の高度14,200から19,000フィートの地点から614.1tの焼夷弾、27発の爆弾を投下した[39]。作戦参加機のうち70機がレーダー照準による爆撃を行い、17機が目視による爆撃を行ったが[33]、火災により発生した上昇気流と煙に遭遇し、レーダー照準の特定は困難を極めたという[33][37]。
第73航空団と第314航空団は、攻撃目標へと向かう途中の新田郡太田町において2から4のサーチライトの照射と重砲と高射砲による不正確な迎撃を受けたが[8]、攻撃目標上空や帰投の際には高射砲による迎撃はなかった[8]。また、日本軍の迎撃戦闘機4機を確認したと記されているが[4]、作戦を通じて航空機の喪失はなかった[8][9]。この他、無効果なサーチライトは、立川、八王子、厚木、平塚で確認された[8]。一方、日本側の第一復員局が作成した『本土防空作戦記録』は第10飛行師団各隊が航空機を各4機出動させたが、敵機はサーチライトの照射地区に侵入せず、戦果はあげられなかった、と記している[5]。
周辺地域の被害
[編集]伊勢崎市が空襲を受けた8月14日深夜には近郊の都市や村落でも空襲による被害を受けた。新田郡太田町周辺では8月15日0時から2時にかけて東部から飛来したB-29による爆撃を受け、太田町では6人[40]、近隣の尾島町では5人、宝泉村では1人、毛里田村では1人(『太田市史』では5人[40])が死亡した[41]。
また、高崎市周辺では14日深夜から15日2時52分にかけて空襲を受け、高崎市では14人が死亡し(『新編高崎市史』では8人[42]、高崎市では21人[43]、総務省では2人死亡としている[44])701戸が被災、高崎区裁判所、塚沢国民学校、北国民学校、群馬県立高崎高等女学校、群馬県立高崎商業学校などが被害を受けた[41]。さらに高崎郊外でも群馬郡東村や同滝川村や同箕輪町などの町村が被災、多野郡神流村では1人が死亡した[41]。なお、前橋・高崎地区には1945年(昭和20年)7月に高射第1師団隷下の高射砲第117連隊の主力および高射砲第115連隊の第三大隊が派遣されていたが[45]、『戦史叢書』はこの空襲においてB-29 1機を撃墜[45]、『本土防空作戦記録』は撃墜1機のほか2ないし3機に損害を与えたるものと判断すると記している[46]。
このほか、神奈川県小田原市でも空襲による被害を受けているが(小田原空襲)、伊勢崎または熊谷の攻撃部隊が帰投の際に余った焼夷弾を投棄したものと見られている[47]。
主な被災建造物
[編集]- 伊勢崎織物工業組合
- 伊勢崎栄養食購買組合
- 佐波地方事務所
- 群馬県立伊勢崎高等女学校(後の群馬県立伊勢崎清明高等学校)
- 群馬県立伊勢崎工業学校本館(後の群馬県立伊勢崎工業高等学校)
- 伊勢崎北国民学校(後の伊勢崎市立北小学校)
- 宮郷国民学校[49](後の伊勢崎市立宮郷小学校)
- 伊勢崎市立図書館
- 善應寺
- 久保田兄弟鉄工所本工場
- 松根油製造所
- 電気館
- 関東航空会社[50]
戦後
[編集]戦災復興計画
[編集]1945年(昭和20年)11月に幣原喜重郎内閣により戦災復興院が設立され、12月30日に戦災復興計画基本方針が閣議決定[10]。1946年(昭和21年)9月11日に特別都市計画法が公布され、伊勢崎市は前橋市や高崎市と共に戦災都市に指定された[10]。当初の計画では8割の国庫補助と群馬県と伊勢崎市の負担により資金を賄い[10]、伊勢崎駅から北国民学校までの道路を幅員12メートルに、栄町通りと本町通りを幅員30メートルに、本町から南の上泉町までの道路を幅員25メートルに、新伊勢崎駅から西町までの道路を幅員18メートルに拡張あるいは新設することなどを計画していた[51]。一方、この時期には市内の復興住宅がほぼ完成に近づいていたことから都市計画に反対する意見が上がり[52]、即時施行の立場をとる推進派と被災者の擁護の立場をとる反対派との間で対立が深まった[53]。
1947年(昭和22年)9月、カスリーン台風の影響により市街地が浸水する被害を受けると、推進派の伊勢崎市復興対策委員会(市長の斎藤弥三郎が会長を務める)と反対派の伊勢崎市戦災者同盟とが歩み寄りを見せ、同年12月の復興委員会の会議において実情に即した都市計画案を作成することを決定し、早急に計画案を作成した後に内務省に陳情するものとした[54]。なお、この修正案は国から認可されなかったとみられており[54]、同年12月に内務省が解体し1948年(昭和23年)1月に戦災復興院が内務省国土局と統合され建設院が新たに設置されるといった事情または機運の高まりの遅れもあり、 都市計画事業の施行は断念されたと推測されている[54]。
慰霊
[編集]市内八坂町の平和公園には伊勢崎空襲の犠牲者を追悼するため、1961年(昭和36年)10月に慰霊塔が建立されている[55]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c 戦後に合併した佐波郡三郷村、名和村、宮郷村を除いた市街地周辺のみの数字。
- ^ 太田製作所と前橋工場で製作された陸軍機、小泉製作所と尾島工場で製作された海軍機のテスト飛行および納入のための発着場の役割を担った[20]。
- ^ a b c d e アメリカ軍による時間はグリニッジ標準時を採用しており、実際のマリアナ諸島の時間とは異なる。これを日本時間に修正するには9時間を加える[32]。
出典
[編集]- ^ 戦災誌編集委員会 1973、668頁
- ^ 戦災誌編集委員会 1973、685頁
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- ^ a b Strategic Bombing Survey (1945) p.77
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- ^ Strategic Bombing Survey (1945) p.4
- ^ Strategic Bombing Survey (1945) p.14
- ^ Strategic Bombing Survey (1945) p.6
- ^ a b c d “Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Takasaki Report No. 3-a(16), USSBS Index Section 7”. Records of the U.S. Strategic Bombing Survey. 国立国会図書館. 2015年8月29日閲覧。
- ^ a b “プロフィール”. 伊勢崎市ホームページ. 2015年8月29日閲覧。
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- ^ a b c d e Strategic Bombing Survey (1945) p.15
- ^ a b Strategic Bombing Survey (1945) p.13
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- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室「付図第七 本土飛行部隊 航空地区部隊 展開配置要図(終戦時における)」『戦史叢書 本土防空作戦』朝雲新聞社、1968年。
- ^ 戦災誌編集委員会 1973、679頁
- ^ 戦災誌編集委員会 1973、703頁
- ^ 栗田尚弥「最後の空襲 米軍資料に見る熊谷爆撃」『埼玉県史研究』 第20号、埼玉県、1988年、76頁。
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- ^ a b c Strategic Bombing Survey (1945) p.11-12
- ^ a b Strategic Bombing Survey (1945) p.20
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参考文献
[編集]- Records of the U.S. Strategic Bombing Survey (1945). Nos. 325 through 330, Hikari Naval Arsenal, Osaka Army Arsenal, Marifu railroad yards, Nippon oil refinery, Kumagaya and Isesaki, 14-15 August 1945. Report No. 2-b(74), USSBS Index; Section 7. 国立国会図書館 .
- 伊勢崎市 編『伊勢崎市史 通史編 3 近現代』伊勢崎市、1991年。
- 伊勢崎市 編『伊勢崎市史 資料編 5 近現代』伊勢崎市、1987年。
- 伊勢崎織物協同組合 編『伊勢崎織物史』伊勢崎銘仙会館、1966年。
- 太田市 編『太田市史 通史編 近現代』太田市、1994年。
- 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史 通史編 7 近代現代』群馬県、1991年。
- 監物聖善「伊勢崎市の戦災復興都市計画 -事業断念までの経過を追う-」『伊勢崎市史研究』 第7号、伊勢崎市、1989年。
- 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会 編『東京大空襲・戦災誌 第3巻 軍・政府(日米)公式記録集』東京空襲を記録する会、1973年。
- 富士重工業株式会社社史編纂委員会 編『富士重工業三十年史』富士重工業、1984年。