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「平野神社」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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{{神社
{{神社
|名称 = 平野神社
|名称 = 平野神社
|画像 = [[ファイル:平野神社_本殿.jpg|250px]]<br>本殿(重要文化財)
|画像 = [[File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) keidai.JPG|280px]]<br />右に拝殿(京都府指定文化財)・左奥に本殿([[重要文化財]]
|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]平野宮本町1
|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]平野宮本町1
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|01|57|N|135|43|55|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=平野神社}}
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|1|57.39|N|135|43|55.00|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=平野神社}}
|祭神 = 今木神<br/>久度神<br/>古開神<br/>比売神
|祭神 = 今木皇大神<br />久度神<br />古開神<br />比売
|神体 =
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br/>[[二十二社]](上七社)<br/>旧[[官幣大社]]<br/>[[別表神社]]
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]]4社)<br />[[二十二社]](上七社)<br />旧[[官幣大社]]<br />[[別表神社]]
|創建 = [[延暦]]13年([[794年]])
|創建 = [[延暦]]13年([[794年]])
|本殿 = 比翼[[春日造]](平野造
|本殿 = 比翼[[春日造]](平野造)2棟
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]]94番(京都14番)
|別名 =
|別名 =
|札所等 = [[神仏霊場巡拝の道]]94番(京都14番)
|例祭 = [[4月2日]]
|例祭 = [[4月2日]]([[#平野祭|平野祭]])
|神事 =
|神事 = 桜祭([[4月10日]])
|地図 = {{Location map|Japan Kyoto city|lat_deg=35|lat_min=1|lat_sec=57.39|lon_deg=135|lon_min=43|lon_sec=55.00|label=平野神社|position=right|width=200|float=center|mark=Shinto torii icon vermillion.svg|marksize=20}}
}}
}}
{{座標一覧}}
[[ファイル:Hirano Jinja.JPG|thumb|right|180px|鳥居<br/>「平野皇大神」の扁額が掲げられている。]]
[[ファイル:Hirano-jinja Kyoto02-R.jpg|thumb|180px|平野桜祭り]]
[[File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) torii.JPG|thumb|200px|right|<center>大鳥居</center><small>「平野皇大神」の扁額を掲げる。</small>]]
[[File:Yamazakura inverted.jpg|thumb|120px|right|<center>[[神紋]]「[[サクラ|桜]]」</center>]]
[[ファイル:平野神社_魁桜.jpg|thumb|180px|魁桜]]
'''平野神社'''(ひらのじんじゃ)は、[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[二十二社]](上七社)の一社。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。[[神紋]]は「桜」。
'''平野神社'''(ひらのじんじゃ)は、[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[二十二社]](上七社)の一社。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。[[神紋]]は「[[サクラ|]]」。

== 概要 ==
[[京都市]]北部、[[大内裏]](平安宮)北方の平野の地に鎮座する。古くは[[桓武天皇]](第50代)の生母・[[高野新笠]]の祖廟として[[平城宮]]で祀られ、桓武天皇による[[平安京]]遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたとされる{{Sfn|平野神社(古代史)|2006年}}。当社は皇太子守護の性格を持つ神社で{{Sfn|平野神社(古代史)|2006年}}、[[平安時代]]には例祭「[[#平野祭|平野祭]]」には[[皇太子]]自らによって[[奉幣]]が行われた。また、多くの[[臣籍降下]]氏族から[[氏神]]としても崇敬される神社であった。

現在の本殿は4殿2棟から成るが、「平野造」とも称される独特の形式の造りであり国の[[重要文化財]]に指定されている。また境内は桜の名所として知られ、「平野の夜桜」とも称されている。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
現在の祭神は次の4柱で、一番北の第一殿から順に1殿1柱ずつ祀られている<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。
主祭神は以下の4柱。
* 第一殿:'''今木神''' - 源気新生活力生成の
* 第一殿:'''今木皇大神''' (いまきのすめおおかみ今木
* 第二殿:'''久度神''' - 竈衣食住の生活安泰の
* 第二殿:'''久度神''' (くどおおかみ久度
* 第三殿:'''古開神''' - 邪気を振りく平安の
* 第三殿:'''古開神''' (ふるあきのおおかみ、古開神
* 第四殿:'''[[比売神]]''' - 生産力の神
* 第四殿:'''[[比売神|比売大神]]''' (ひめおおかみ、比売神/比咩

『[[貞観式]]』(『本朝月令』所引)<ref group="原">『本朝月令』 4月上申平野祭事({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>によれば、平野社の祭神は当初は今木神・久度神・古開神の3柱であり、のちに相殿に比売神が加えられて4柱とされた{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。また「平野神」の呼称は元々主神の今木神を指すが、祭神4柱の総称でもあった{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。

平野社の祭神は[[皇太子]]守護の性格を持ったほか{{Sfn|平野神社(古代史)|2006年}}、[[源氏]]・[[平氏]]・[[高階氏]]・[[大江氏]]のほか[[中原氏]]・[[清原氏]]・[[菅原氏]]・[[秋篠氏]]らから[[氏神]]として崇敬され、「八姓の祖神」とも称されたという{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}。祭神に関しては古来諸説があり、大別すると[[桓武天皇]]の生母・[[高野新笠]]の祖神とする説、竈神とする説、今木・久度・古開・比売神をそれぞれ源氏・平氏・高階氏・大江氏の祖神とする説がある{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。詳しくは「[[#考証|考証]]」節を参照。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建 ===
[[延暦]]13年([[794年]])、[[桓武天皇]]による[[平安京]][[遷都]]にともない、[[平城京]]で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は[[承和 (日本)|承和]]年間より祀られるようになったものである。
『[[一代要記]]』によれば、当社の創建は[[平安京]]遷都が行われた[[延暦]]13年([[794年]])であるという{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。元々は[[桓武天皇]]の生母・[[高野新笠]]の祖神として[[大和国]]に祀られていた神々で、天皇による遷都に伴い平安宮近くに移し祀られたことに始まると考えられている{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。


別説として、『諸神記』では創建年代を延暦4年([[785年]])、『[[江家次第]]』では[[延暦]]年中とする{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。公式の文献としては、[[貞観 (日本)|貞観]]14年([[872年]])の太政官符<ref group="原" name="貞観14">『類聚三代格』1 神社事 貞観14年(872年)12月15日官符({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では延暦年中の創建の記載が、次いで延暦20年([[801年]])の官符<ref group="原">『類聚三代格』1 科祓事 延暦20年(801年)5月14日官符({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では平野祭の記載があり、延暦頃の創建が確認される{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。平野社創建以前の各神の経緯については「[[#考証|考証]]」節を参照。
『[[文徳天皇実録]]』によれば、[[仁寿]]元年([[851年]])、今木神に[[従二位]]、久度神・古開神に[[従四位]]、比売神に[[正五位]]の[[神階]]が授けられ、その中で当社のことを「平野[[神宮]]」と記述している。その後も神階は昇って行き、[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])には今木神に最高位の[[正一位]]の神階が授けられている。『[[延喜式神名帳]]』には「山城国葛野郡 平野祭神四社」と記載され、[[名神大社]]に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用され<!-- [[伊勢神宮]]と同等の扱いを受け ←? -->ていた。
例大祭の平野祭には[[皇太子]]が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も[[円融天皇]]から[[後醍醐天皇]]までの17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、[[源氏]]、[[平氏]]、[[大江氏]]、[[菅原氏]]などの[[公家]]の[[氏神]]にもなった。中世には[[二十二社]]上七社の一社となった。


=== 概史 ===
[[神紋]]は桜で、今も桜の名所として名高い。[[平安時代]]の中ごろ[[花山天皇]]によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、[[寛和]]元年([[985年]])4月10日に臨時勅祭が開かれ、[[平野桜祭り]]として今に残る。
国史では、今木神が平城京の田村後宮([[田村第]])<ref group="注">田村後宮とは平城京にあった[[田村第]]を指すとし、左京四条二坊十一坪付近とされる {{Harv|上田 平野神社}}。</ref>での祭祀時代に従四位上の[[神階]]を奉叙された記事が初見で、以後各神への神階奉叙の記事が散見される{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。最終的な神階として、[[貞観 (日本)|貞観]]5年([[863年]])に久度・古開神は正三位、比売神は従四位上に昇り、貞観6年([[864年]])に今木神は正一位の極位に達した{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。以上の記事のうちでは、平野社を「平野神宮」とする表現<ref group="原" name="仁寿元"/>も見える<ref name="由緒書"/>。


[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では、[[山城国]][[葛野郡]]に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、[[名神大社]]に列するとともに[[月次祭]]・[[新嘗祭]]で[[幣帛]]に預かった旨が記載されている{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には[[二十二社]]の1つとして上七社の5番目に列している{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。また当社の[[例祭]]である[[#平野祭|平野祭]]では[[皇太子]]の[[奉幣]]を受けるという特別な地位にあったほか、当社の臨時祭も[[勅祭]]に預かっていた{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。
[[応仁の乱]]をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、[[天文法華の乱]]によって、社殿および社領は完全に荒廃したといわれる。


当社は古くは[[平氏]]・[[源氏]]・[[高階氏]]・[[清原氏]]・[[中原氏]]・[[大江氏]]・[[菅原氏]]・[[秋篠氏]]といった[[臣籍降下]]氏族・[[土師氏]]系氏族から[[氏神]]として崇敬され{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}、平氏とは特に強い結びつきにあったという{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}。その後[[天元 (日本)|天元]]4年([[981年]])<ref group="原">『日本紀略』天元4年(981年)2月20日条。</ref>には[[円融天皇]]の行幸があり、以後も天皇の行幸が度々行われた{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。なおこの円融天皇行幸の記事によると、平野社の[[神宮寺]]としては「施無畏寺」があったという{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。
江戸時代の伝奏役は、代々、堂上平家の[[西洞院家]]が勤めた。[[1871年]]([[明治]]4年)に[[官幣大社]]に列格した。

[[中世]]以降は荒廃したが{{Sfn|平野神社(角)|1982年}}、[[近世]]には社領100石が与えられ、[[寛永]]年間([[1624年]]-[[1644年]])に現在の本殿が造営された{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。

[[明治維新]]後、[[明治]]([[1871年]])5月に[[近代社格制度]]において[[官幣大社]]に列した{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。戦後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列している。

=== 神階 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff;text-align:center;white-space: nowrap"
|+平野神社各神の神階{{Sfn|神道・神社史料集成}}
!年!!今木神!!久度神!!古開神!!合殿比咩神
|-
|[[782年]]||従四位上|| || ||
|-
|[[836年]]||従四位上<br />→正四位上||従五位下<br />→従五位上||従五位下<br />→従五位上||
|-
|[[848年]]||従三位||従五位上<br />→正五位下||従五位上<br />→正五位下||無位<br />→従五位下
|-
|[[851年]]||正三位<br />→従二位||正五位上<br />→従四位下||正五位上<br />→従四位下||正五位下
|-
|rowspan=2|[[859年]]||正二位||従四位下<br />→従四位上||従四位下<br />→従四位上||正五位下<br />→正五位上
|-
|正二位<br />→従一位||従四位上<br />→従三位||従四位上<br />→従三位||正五位下<sub>ママ</sub><br />→従四位下
|-
|[[863年]]|| ||従三位<br />→正三位||従三位<br />→正三位||従四位下<br />→従四位上
|-
|[[864年]]||従一位<br />→正一位|| || ||
|}
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead">各神の神階昇叙の詳細</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
* 今木神
** [[延暦]]元年([[782年]])11月19日、従四位上 (『[[続日本紀]]』)<ref group="原" name="延暦元">『続日本紀』延暦元年(782年)11月丁酉(19日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 田村後宮の今木神に対する叙位。
** [[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])11月5日、従四位上から正四位上 (『続日本後紀』)<ref group="原" name="承和3">『続日本後紀』承和3年(836年)11月庚午(5日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
** [[嘉祥]]元年([[848年]])7月25日、従三位 (『続日本後紀』)<ref group="原" name="嘉祥元">『続日本後紀』嘉祥元年(848年)7月壬午(25日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
** [[仁寿]]元年([[851年]])10月17日、正三位から従二位 (『日本文徳天皇実録』)<ref group="原" name="仁寿元">『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851年)10月乙卯(17日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
** [[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])1月27日、正二位 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観元年正月">『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
** 貞観元年(859年)7月14日、正二位から従一位 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観元年7月">『日本三代実録』貞観元年(859年)7月14日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
** 貞観6年([[864年]])7月10日、従一位から正一位 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観6年">『日本三代実録』貞観6年(864年)7月10日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
* 久度神・古開神
** 承和3年(836年)11月5日、従五位下から従五位上 (『続日本後紀』)<ref group="原" name="承和3"/>
** 嘉祥元年(848年)7月25日、従五位上から正五位下 (『続日本後紀』)<ref group="原" name="嘉祥元"/>
** 仁寿元年(851年)10月17日、正五位上から従四位下 (『日本文徳天皇実録』)<ref group="原" name="仁寿元"/>
** 貞観元年(859年)1月27日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観元年正月"/>
** 貞観元年(859年)7月14日、従四位上から従三位 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観元年7月"/>
** 貞観5年([[863年]])5月2日、従三位から正三位 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観5年">『日本三代実録』貞観5年(863年)5月2日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
* 合殿比咩神
** 嘉祥元年(848年)7月25日、無位から従五位下 (『続日本後紀』)<ref group="原" name="嘉祥元"/>
** 仁寿元年(851年)10月17日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』)<ref group="原" name="仁寿元"/>
** 貞観元年(859年)1月27日、正五位下から正五位上 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観元年正月"/>
** 貞観元年(859年)7月14日、正五位下<sub>ママ</sub>から従四位下 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観元年7月"/>
** 貞観5年(863年)5月2日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="貞観5年"/>
* その他
** 承和10年(843年)10月17日、名神に預かる (『続日本後紀』)<ref group="原" name="承和10">『続日本後紀』承和10年(843年)10月壬申(17日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「平野社一前」。今木神を指すとする説{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}、比咩神を指すとする説{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}がある。
</div></div>

=== 社殿造営 ===
現在の社殿は「比翼春日造」とも「平野造」とも称される独特の形式であるが、この形式は[[寛永]]年間([[1624年]]-[[1644年]])の再建以来である。かつての本殿はこの形式ではなく、中門も現在の4殿共有の状態ではなかったとされている{{Sfn|建部|1979年}}。文書・絵図から推定されるかつての形式は次の通り{{Sfn|建部|1979年}}。
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff;text-align:center;white-space: nowrap"
|+平野神社の推定社殿形式{{Sfn|建部|1979年}}
!時期!!本殿!!中門
|-
|[[平安時代]]末期 <br /> - [[鎌倉時代]]初期||第一・第二殿連結<br />第三・第四殿連結<br />(2殿ずつ2棟)||2棟
|-
|<nowiki>-</nowiki> [[慶長]]6年([[1601年]])||第一・第二・第三・第四殿独立<br />(4棟)||不明
|-
|慶長6年(1601年) <br /> - [[寛永]]5年([[1628年]])||第一・第二殿連結<br />第三・第四殿は独立<br />(3棟)||3棟
|-
|寛永5年(1628年)  <br /> - 現在||第一・第二殿連結<br />第三・第四殿連結<br />(2殿ずつ2棟)||1棟
|}


== 境内 ==
== 境内 ==
[[File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) honden 1 & 2.JPG|thumb|200px|right|<center>「平野造」の本殿(重要文化財)<br />(右から)第一殿・第二殿</center>]]
* 本殿
[[File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) honden 3 & 4.JPG|thumb|200px|right|<center>(右から)第三殿・第四殿</center>]]
:: [[江戸時代]]、[[寛永]]年間[[西洞院時慶]]の造営。一間社[[春日造]]の社殿2つを左右に並べ、合の間で連結して2殿を一体とした独特の形式の社殿が2棟建つ。この建築形式は「比翼春日造」とも、社名より「平野造」とも呼ばれる。[[重要文化財]]に指定。
'''本殿'''は4殿2棟からなり、[[江戸時代]]前期の[[寛永]]年間([[1624年]]-[[1644年]])の[[西洞院時慶]]による再建になる。[[春日造]][[檜皮葺]]の4殿には、それぞれ今木神(第一殿)、久度神(第二殿)、古開神(第三殿)、比売神(第四殿)が祀られている。第一殿と第二殿、第三殿と第四殿はそれぞれ空殿を挟んで連結する形式を採っており、この当社独特の形式は「'''比翼春日造'''(ひよくかすがづくり)」または社名から「'''平野造'''(ひらのづくり)」と称される。うち第一・第二殿は寛永3年([[1626年]])、第三・第四殿は寛永9年([[1632年]])の造営になる。本殿2棟に並んで南側には摂社・縣神社1棟が鎮座しており、これら3棟の社殿は玉垣で囲まれ、祝詞舎・中門を共有する。また、中門の左右には回廊が接続している。これらの社殿のうち、特に本殿2棟は国の[[重要文化財]]に指定され、縣神社・中門は京都府の登録文化財に登録されている。<ref name="教育委員会"/>{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}{{Sfn|建部|1979年}}{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}
* 拝殿
:: [[徳川和子|東福門院]]による寄進。拝殿に飾られた[[三十六歌仙]]絵は、[[平松家|平松時量]]の寄進で、書は[[近衛基煕]]、絵は[[海北友雪]]のものである。


中門前に立つ'''拝殿'''は、江戸時代前期の[[慶安]]3年([[1650年]])に[[徳川和子|東福門院]](徳川和子)によって寄進されたものといい、「接木の拝殿」の呼称で知られる{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。方五間で、屋根は檜皮葺。拝殿内部に飾られた「[[三十六歌仙]]絵」は、[[寛文]]年間([[1661年]]-[[1672年]])に関白・[[近衛基煕]]の書、[[海北友雪]]の画で作られたものである。この拝殿は京都府指定文化財に指定されている。<ref name="由緒書"/>{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}<ref name="教育委員会"/>
== 主な祭事 ==

また、'''南門'''は慶安4年([[1651年]])に御所の旧門を下賜されたものという。この門は古くは現在の大鳥居の位置にあったが、昭和18年([[1943年]])に南門として移築されたといい、京都府指定文化財に指定されている。<ref name="教育委員会"/><ref name="由緒書"/>

そのほか、境内に広がる桜苑は[[花山天皇]]が[[寛和]]元年([[985年]])に手植えして以来桜の名所であり、江戸時代には「平野の夜桜」として知られた{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。現在も春には桜祭が行われる。

<gallery>
File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) haisho.JPG|中門(拝所)(京都府登録文化財)
File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) haiden.JPG|拝殿(京都府指定文化財)<br /><small>「接木の拝殿」。</small>
File:平野神社_魁桜.jpg|魁桜
File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) shinmon.JPG|東神門
</gallery>

== 摂末社 ==
=== 摂社 ===
[[File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) Agata-jinja.JPG|thumb|200px|right|<center>縣神社(京都府登録文化財)</center>]]
* '''縣神社''' (あがたじんじゃ、県神社)
** 祭神:[[アメノホヒ|天穂日命]]{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}
*: 玉垣内の本殿と並び、その南に鎮座する<ref name="由緒書"/>。社殿は[[寛永]]8年([[1631年]])の造営で{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}、京都府登録文化財に登録されている<ref name="教育委員会"/>。

=== 末社 ===
* 八幡神社
* 4社併祀社
** 春日神社
** 住吉神社
** 蛭子神社
** 鈿女神社
* 出世導引稲荷神社
* 猿田彦神社

<gallery>
File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) Hachiman-sha.JPG|八幡社
File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) yonsha.JPG|春日社・住吉社・蛭子社・鈿女社
File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) Inari-jinja.JPG|出世導引稲荷神社
File:Hirano-jinja (Kyoto, Kyoto) Sarutahiko-jinja.JPG|猿田彦神社
</gallery>

== 祭事 ==
=== 年間祭事 ===
* 歳旦祭 (1月1日)<ref>年間祭事の記載は[http://www.geocities.jp/daa01397/saiten.htm 祭典の紹介](旧公式サイト)による。</ref>
* 節分 (2月上旬)
* 紀元祭 (2月11日)
* 祈年祭 (2月17日)
* 例大祭 (4月2日)
* 例大祭 (4月2日)
* 桜祭神幸祭([[平野桜祭り]]、4月10日)
* 桜祭神幸祭 (4月10日)
* 天長祭 (4月29日)
* 大祓 (6月30日)
* 御鎮座記念祭<!--祈年は誤りか--> (9月14日) - 平野での鎮座伝承日。
* 文化祭 (11月3日)
* 新穀感謝祭(新嘗祭) (11月23日)
* 大祓・除夜祭 (12月31日)

=== 平野祭 ===
[[File:Hirano-jinja Kyoto02-R.jpg|thumb|200px|<center>桜祭の行列</center>]]
平野神社の[[例祭]]は、古来「'''平野祭'''(ひらののまつり)」として知られる。祭は古くは1年に2度、4月と11月の上の申日に行われたといい{{Sfn|平野祭(国史)|1990年}}、『延喜式』<ref group="原">『延喜式』1 四時祭上 大中小祀条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では小祀とする{{Sfn|平野祭(国史)|1990年}}。祭は皇太子が奉幣する決まりであり{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}、皇太子が諸親王・諸王を率いて参詣して祝詞を奏上、次いで特に久度神・古開神の前に山・海の幸を献じて朝野の守護を祈願したという{{Sfn|平野祭(国史)|1990年}}。その様子は『[[江家次第]]』に詳述されている{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。現在では11月の祭は廃れ、例祭は4月2日の年1回のみ行われている{{Sfn|平野祭(国史)|1990年}}。

また[[寛和]]元年([[985年]])4月10日<ref group="原">『日本紀略』寛和元年(985年)4月10日条。</ref>には初めて[[臨時祭]]が行われたが{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}、この臨時祭も勅祭であった{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。この祭は現在「桜祭」として伝わっており、祭では平野社の桜にまつわる[[花山天皇]]の陵の参詣が行われたのち、神幸祭が行われる<ref>[http://www.geocities.jp/daa01397/saiten.htm 祭典の紹介](旧公式サイト)。</ref>{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 重要文化財(国指定) ===
=== 重要文化財(国指定) ===
* 本殿 2棟(附 棟札2枚)(建造物) - 大正11年4月13日指定<ref>[http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/asset/80.html 平野神社本殿](京都府生涯学習・スポーツ情報)。</ref><ref name="国指定">{{国指定文化財等データベース|102|1596|平野神社本殿(第一殿・第二殿)}}、{{国指定文化財等データベース|102|1597|平野神社本殿(第三殿・第四殿)}}。</ref>。
* 本殿 2棟

=== 京都府指定有形文化財 ===
* 平野神社 2棟(建造物) - 平成26年3月24日指定<ref name="教育委員会">[http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?page_id=200 京都府指定・登録等文化財](京都府教育委員会)。</ref>。
** 拝殿
** 南門

=== 京都府登録文化財 ===
* 平野神社 2棟(建造物) - 平成26年3月24日登録<ref name="教育委員会"/>。
** 縣社
** 中門

== 考証 ==
<div class="NavFrame tright">
<div class="NavContent" style="text-align:center;font-size:85%;white-space: nowrap">
'''関係人物略系図'''<br />(数字は天皇代数)
{{familytree/start|style="text-align:center; font-size:100%"}}
{{familytree|border=0||||01| 01=[[百済]][[武寧王]]?}}
{{familytree|border=0|||||:|}}
{{familytree|border=0||||01|~|y|~|02| 01=[[[和氏]]]<br />和乙継<br />(高野乙継)|02=[[[土師氏]]]<br />{{color|#FC4E6B|土師真妹<br />(大枝真妹)}}}}
{{familytree|border=0||||||||!|}}
{{familytree|border=0|01|~|y|~|02| 01=(49) [[光仁天皇]]|02=[[高野新笠|{{color|#FC4E6B|高野新笠}}]]}}
{{familytree|border=0|||||!|}}
{{familytree|border=0||||01| 01=山部親王<br />((50) [[桓武天皇]])}}
{{familytree/end}}
</div></div>
前述のように平野社の祭神に関しては古来諸説があり、[[桓武天皇]]の生母・[[高野新笠]]の祖神とする説、竈神とする説、今木・久度・古開・比売神をそれぞれ源氏・平氏・高階氏・大江氏の祖神とする説等がある{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。今日の文献では、特に1番目の'''高野新笠の父方・母方の両祖神'''とする説が多く取り上げられる{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}{{Sfn|平野神社(角)|1982年}}{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}{{Sfn|平野神社(古代史)|2006年}}。祭神の経緯を考えると、3番目の氏神説は後世になってからの比定とされる{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。個々の神々に関する考証は次の通り。

; 今木神
: 4柱のうちの主神。国史での初見は[[延暦]]元年([[782年]])<ref group="原" name="延暦元"/>で、当時は[[平城京]]の田村後宮([[田村第]])にあった。平野社の祭神としての初見は[[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])<ref group="原" name="承和3"/>。
: この今木神は上記のように延暦元年当時は平城京にあったが、それ以前の出自については諸説がある。特に知られるのは、神名の「今木」とは「'''今来'''」すなわち「新しく来た渡来人」の意味であるとして、[[大和国]][[高市郡]](今来郡)において渡来人によって祀られた渡来神であったとする説である{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}<ref group="注">関連して、『延喜式』祝詞 平野祭条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)には「今木」から移し祀られたと記されている {{Harv|平野神社(国史)|1990年}}。</ref><ref group="注">ただし今木の「木」は乙類、今来の「来」は甲類であることから、この主張には慎重な見解もある {{Harv|上田 平野神社}}。</ref>。田村後宮における祭祀者は高野新笠と山部親王(桓武天皇)と見られ、高野新笠の父・和乙継の出自である'''[[和氏]]'''(やまとうじ)の祖神として祀られていたといわれる{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。
: 『[[続日本紀]]』<ref group="原">『続日本紀』延暦8年(789年)12月乙未(28日)条。</ref>ではこの和氏の出自を[[百済]][[武寧王]]の子・[[純陀太子]]と記すことから、この今木神を特に[[百済]]系の渡来神とする説もある{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。また平安時代末期の『[[袋草紙]]』の歌には
: {{Cquote|白壁の みこのみおやの おほちこそ 平野の神の ひひこなりけれ<br />(白壁王([[光仁天皇]])の皇子([[桓武天皇]])の御母([[高野新笠]])の祖父(和某)は平野神の曾孫である)|20px||『[[袋草紙]]』}}
: とも歌われている{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。この今木神が平野に祀られるに至った背景として、『愛宕郡某郷計帳』に見える平野居住の渡来人との関係の指摘もある{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。
: なお、今日の諸文献では今木神を渡来神と見る説が挙げられるが、平野神社側ではこの説には否定的な見解を示している<ref name="由緒書"/>。

; 久度神
: 国史での初見は延暦2年([[783年]])で、「[[平群郡]]久度神」とある{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。平野社の祭神としての初見は承和3年(836年)<ref group="原" name="承和3"/>。
: この久度神は、神名の「くど(竈;[[かまど]])」に見えるように竈の神であるといわれ{{Sfn|平野祭神四社(式内社)|1979年}}、『延喜式』<ref group="原">『延喜式』16 陰陽 竈神祭条に「平野竈神」、『延喜式』30 大蔵 忌火条・31 宮内 中宮御贖条に「平野御竃神」({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>に見える「竈神」はこの神を指すと見る説もある{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}。高野新笠の母方の'''[[土師氏]]'''(はじうじ、のち[[大江氏|大枝氏]]/大江氏)によって祀られた祖神であるとも、東アジアに見られる「[[かまど神|竈王神]]」と見て渡来神であるともいわれる{{Sfn|平野神社(平)|1979年}}{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。この久度神は、元々は『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]に[[大和国]]平群郡の[[式内社]]として記載されている[[久度神社]]([[奈良県]][[北葛城郡]][[王寺町]]、{{ウィキ座標|34|35|58.41|N|135|41|54.68|E|region:JP-29_type:landmark|位置|name=久度神社(久度神の元社か)}})の祭神とされる{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。
: なお、『延喜式』祝詞<ref group="原">『延喜式』8 祝詞 平野祭条・久度古関条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では今木神と久度・古開神は別祝詞になっていることから、両神は今木神に次いで祀られたと見られている{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。

; 古開神(古関神)
: 諸史料では「古関神」とも見えるが、「古開」「古関」のいずれが正しいかは不詳{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。国史での初見は承和3年(836年)<ref group="原" name="承和3"/>。
: この古開神は平野社関係記事にしか見えない神である{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。文献では「久度・古開」と一対として扱われていることから、渡来神であり久度神とともに久度神社に祀られたとする説や、久度神と元は同一であったとする説がある{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。

; 比売神(比咩神)
: 承和3年(836年)の今木・久度・古開神の神階昇叙の記事では見えず、初見は[[嘉祥]]元年([[848年]])まで下る<ref group="原" name="嘉祥元"/>{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。史料には「合殿比咩神」と見える。承和10年([[843年]])<ref group="原" name="承和10"/>では梅宮大社の酒解子神(梅宮4柱の末神)とともに[[名神]]に預かった神として「平野社一前」と見えるが、これは平野社末神の比売神を指すと見て、承和3年から10年頃の合祀とされる{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}。
: この比売神に関しては、高野新笠の母方の祖神を祀ったとする説や、高野新笠を指すとする説がある{{Sfn|平野神社(神々)|1986年}}{{Sfn|平野神社(国史)|1990年}}。


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
; 所在地
'''所在地'''
* [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]平野宮本町1
* [[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]平野宮本町1


; 交通アクセス
'''交通アクセス'''
* [[京都市営バス]]「衣笠校前」バス停下車 (下車後徒歩3分)
* [[京都市営バス]]「衣笠校前」バス停下車 (下車後北徒歩3分)
** 急行バスの場合は「衣笠校前」を通過するため、「わら天神前」で下車南へ徒歩4分
** 急行バスの場合は「衣笠校前」を通過するため、「わら天神前」で下車 (下車後南へ徒歩4分


'''周辺'''
== 関連図書 ==
* [[北野天満宮]]

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
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'''原典'''
{{reflist|group="原"}}

'''出典'''
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== 参考文献・サイト ==
'''神社出版物・現地説明板'''
* 神社由緒書「平野神社御由緒」
* 境内説明板

'''書籍'''
* 百科事典
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1979|chapter=平野神社|title=日本歴史地名体系 27 京都市の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490271|ref={{Harvid|平野神社(平)|1979年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1982|chapter=平野神社|title=[[角川日本地名大辞典]] 26-1 京都府|publisher=[[角川書店]]|isbn=4040012615|ref={{Harvid|平野神社(角)|1982年}}}}
** {{Cite book|和書|author=|year=1990|title=[[国史大辞典]] 第11巻|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4642005110|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=鈴木義一「平野神社」|ref={{Harvid|平野神社(国史)|1990年}}}}、{{Wikicite|reference=吉田敦彦「平野神」|ref={{Harvid|平野神(国史)|1990年}}}}、{{Wikicite|reference=柴田実「平野祭」|ref={{Harvid|平野祭(国史)|1990年}}}}
** {{Cite book|和書|author=堀越光信|year=2006|chapter=平野神社|title=日本古代史大辞典|publisher=[[大和書房]]|isbn=4479840656|ref={{Harvid|平野神社(古代史)|2006年}}}}
* 研究書
** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会編|author=笠井倭人|year=1979|chapter=平野祭神四社|title=式内社調査報告 第1巻|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref={{Harvid|平野祭神四社(式内社)|1979年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]編|author=源城政好|year=1986|chapter=平野神社|title=日本の神々 -神社と聖地- 5 山城・近江|publisher=[[白水社]]|isbn=4560022151|ref={{Harvid|平野神社(神々)|1986年}}}}
* その他書籍・論文
** {{Cite journal|和書|author=建部恭宣|title=平野神社比翼春日造について(連結社殿の研究-その1)|date=1979-6-1|publisher=社団法人日本建築学会|journal=日本建築学会近畿支部研究報告集|volume=19|number=|naid=110007529115|pages=489-492|ref={{Harvid|建部|1979年}}}}
** {{Wikicite|reference=上田正昭{{PDFlink|[http://www.pref.kyoto.jp/jinken/documents/1271054342498.pdf 「平野神社」]}}(京都府ホームページ)|ref={{Harvid|上田 平野神社}}}}

'''サイト'''
* {{Cite web|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/010601.html|author=|title=平野祭神四社(山城国葛野郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2014-6-10|ref={{Harvid|神道・神社史料集成}}}}

== 関連文献 ==
'''平野神社発行書籍'''
* [[上田正昭]]監修『平野神社史』平野神社社務所、1993年。

'''その他'''
* 『[[古事類苑]] 神祇部23』神宮司庁、1896年-1914年、松尾神社項。
** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897622 『古事類苑 神祇部23』](近代デジタルライブラリーより)16-40コマ参照。
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』[[神社新報]]社、1968年、50-51頁
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』[[神社新報]]社、1968年、50-51頁
* [[白井永二]]・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、294-295頁
* [[白井永二]]・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、294-295頁
* [[菅田正昭]]『日本の神社を知る「事典」』[[日本文芸社]]、1989年、113頁
* [[菅田正昭]]『日本の神社を知る「事典」』[[日本文芸社]]、1989年、113頁
* 上山春平他『日本「神社」総覧』[[新人物往来社]]、1992年、166-167頁
* 上山春平他『日本「神社」総覧』[[新人物往来社]]、1992年、166-167頁

== 関連項目 ==
* [[高野新笠]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
69行目: 294行目:
* [http://www.hiranojinja.com/ 平野神社](公式サイト)
* [http://www.hiranojinja.com/ 平野神社](公式サイト)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/010601.html 平野祭神四社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/010601.html 平野祭神四社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)



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2014年6月13日 (金) 00:58時点における版

平野神社

右に拝殿(京都府指定文化財)・左奥に本殿(重要文化財
所在地 京都府京都市北区平野宮本町1
位置 北緯35度1分57.39秒 東経135度43分55.00秒 / 北緯35.0326083度 東経135.7319444度 / 35.0326083; 135.7319444 (平野神社)座標: 北緯35度1分57.39秒 東経135度43分55.00秒 / 北緯35.0326083度 東経135.7319444度 / 35.0326083; 135.7319444 (平野神社)
主祭神 今木皇大神
久度大神
古開大神
比売大神
社格 式内社名神大4社)
二十二社(上七社)
官幣大社
別表神社
創建 延暦13年(794年
本殿の様式 比翼春日造(平野造)2棟
札所等 神仏霊場巡拝の道94番(京都14番)
例祭 4月2日平野祭
主な神事 桜祭(4月10日
地図
平野神社の位置(京都市内)
平野神社
平野神社
平野神社 (京都市)
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大鳥居
「平野皇大神」の扁額を掲げる。
神紋

平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都府京都市北区にある神社式内社名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社神紋は「」。

概要

京都市北部、大内裏(平安宮)北方の平野の地に鎮座する。古くは桓武天皇(第50代)の生母・高野新笠の祖廟として平城宮で祀られ、桓武天皇による平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたとされる[1]。当社は皇太子守護の性格を持つ神社で[1]平安時代には例祭「平野祭」には皇太子自らによって奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から氏神としても崇敬される神社であった。

現在の本殿は4殿2棟から成るが、「平野造」とも称される独特の形式の造りであり国の重要文化財に指定されている。また境内は桜の名所として知られ、「平野の夜桜」とも称されている。

祭神

現在の祭神は次の4柱で、一番北の第一殿から順に1殿1柱ずつ祀られている[2]

  • 第一殿:今木皇大神 (いまきのすめおおかみ、今木神)
  • 第二殿:久度大神 (くどのおおかみ、久度神)
  • 第三殿:古開大神 (ふるあきのおおかみ、古開神)
  • 第四殿:比売大神 (ひめのおおかみ、比売神/比咩神)

貞観式』(『本朝月令』所引)[原 1]によれば、平野社の祭神は当初は今木神・久度神・古開神の3柱であり、のちに相殿に比売神が加えられて4柱とされた[3]。また「平野神」の呼称は元々主神の今木神を指すが、祭神4柱の総称でもあった[3]

平野社の祭神は皇太子守護の性格を持ったほか[1]源氏平氏高階氏大江氏のほか中原氏清原氏菅原氏秋篠氏らから氏神として崇敬され、「八姓の祖神」とも称されたという[4]。祭神に関しては古来諸説があり、大別すると桓武天皇の生母・高野新笠の祖神とする説、竈神とする説、今木・久度・古開・比売神をそれぞれ源氏・平氏・高階氏・大江氏の祖神とする説がある[5]。詳しくは「考証」節を参照。

歴史

創建

一代要記』によれば、当社の創建は平安京遷都が行われた延暦13年(794年)であるという[3]。元々は桓武天皇の生母・高野新笠の祖神として大和国に祀られていた神々で、天皇による遷都に伴い平安宮近くに移し祀られたことに始まると考えられている[5]

別説として、『諸神記』では創建年代を延暦4年(785年)、『江家次第』では延暦年中とする[6]。公式の文献としては、貞観14年(872年)の太政官符[原 2]では延暦年中の創建の記載が、次いで延暦20年(801年)の官符[原 3]では平野祭の記載があり、延暦頃の創建が確認される[5]。平野社創建以前の各神の経緯については「考証」節を参照。

概史

国史では、今木神が平城京の田村後宮(田村第[注 1]での祭祀時代に従四位上の神階を奉叙された記事が初見で、以後各神への神階奉叙の記事が散見される[3]。最終的な神階として、貞観5年(863年)に久度・古開神は正三位、比売神は従四位上に昇り、貞観6年(864年)に今木神は正一位の極位に達した[3]。以上の記事のうちでは、平野社を「平野神宮」とする表現[原 4]も見える[2]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、山城国葛野郡に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている[3]。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には二十二社の1つとして上七社の5番目に列している[6]。また当社の例祭である平野祭では皇太子奉幣を受けるという特別な地位にあったほか、当社の臨時祭も勅祭に預かっていた[3]

当社は古くは平氏源氏高階氏清原氏中原氏大江氏菅原氏秋篠氏といった臣籍降下氏族・土師氏系氏族から氏神として崇敬され[3]、平氏とは特に強い結びつきにあったという[4]。その後天元4年(981年[原 5]には円融天皇の行幸があり、以後も天皇の行幸が度々行われた[3]。なおこの円融天皇行幸の記事によると、平野社の神宮寺としては「施無畏寺」があったという[3]

中世以降は荒廃したが[7]近世には社領100石が与えられ、寛永年間(1624年-1644年)に現在の本殿が造営された[3]

明治維新後、明治1871年)5月に近代社格制度において官幣大社に列した[5]。戦後は神社本庁別表神社に列している。

神階

平野神社各神の神階[8]
今木神 久度神 古開神 合殿比咩神
782年 従四位上
836年 従四位上
→正四位上
従五位下
→従五位上
従五位下
→従五位上
848年 従三位 従五位上
→正五位下
従五位上
→正五位下
無位
→従五位下
851年 正三位
→従二位
正五位上
→従四位下
正五位上
→従四位下
正五位下
859年 正二位 従四位下
→従四位上
従四位下
→従四位上
正五位下
→正五位上
正二位
→従一位
従四位上
→従三位
従四位上
→従三位
正五位下ママ
→従四位下
863年 従三位
→正三位
従三位
→正三位
従四位下
→従四位上
864年 従一位
→正一位

社殿造営

現在の社殿は「比翼春日造」とも「平野造」とも称される独特の形式であるが、この形式は寛永年間(1624年-1644年)の再建以来である。かつての本殿はこの形式ではなく、中門も現在の4殿共有の状態ではなかったとされている[9]。文書・絵図から推定されるかつての形式は次の通り[9]

平野神社の推定社殿形式[9]
時期 本殿 中門
平安時代末期 
 - 鎌倉時代初期
第一・第二殿連結
第三・第四殿連結
(2殿ずつ2棟)
2棟
- 慶長6年(1601年 第一・第二・第三・第四殿独立
(4棟)
不明
慶長6年(1601年) 
 - 寛永5年(1628年
第一・第二殿連結
第三・第四殿は独立
(3棟)
3棟
寛永5年(1628年)  
- 現在
第一・第二殿連結
第三・第四殿連結
(2殿ずつ2棟)
1棟

境内

「平野造」の本殿(重要文化財)
(右から)第一殿・第二殿
(右から)第三殿・第四殿

本殿は4殿2棟からなり、江戸時代前期の寛永年間(1624年-1644年)の西洞院時慶による再建になる。春日造檜皮葺の4殿には、それぞれ今木神(第一殿)、久度神(第二殿)、古開神(第三殿)、比売神(第四殿)が祀られている。第一殿と第二殿、第三殿と第四殿はそれぞれ空殿を挟んで連結する形式を採っており、この当社独特の形式は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」または社名から「平野造(ひらのづくり)」と称される。うち第一・第二殿は寛永3年(1626年)、第三・第四殿は寛永9年(1632年)の造営になる。本殿2棟に並んで南側には摂社・縣神社1棟が鎮座しており、これら3棟の社殿は玉垣で囲まれ、祝詞舎・中門を共有する。また、中門の左右には回廊が接続している。これらの社殿のうち、特に本殿2棟は国の重要文化財に指定され、縣神社・中門は京都府の登録文化財に登録されている。[10][3][4][9][6]

中門前に立つ拝殿は、江戸時代前期の慶安3年(1650年)に東福門院(徳川和子)によって寄進されたものといい、「接木の拝殿」の呼称で知られる[5]。方五間で、屋根は檜皮葺。拝殿内部に飾られた「三十六歌仙絵」は、寛文年間(1661年-1672年)に関白・近衛基煕の書、海北友雪の画で作られたものである。この拝殿は京都府指定文化財に指定されている。[2][4][10]

また、南門は慶安4年(1651年)に御所の旧門を下賜されたものという。この門は古くは現在の大鳥居の位置にあったが、昭和18年(1943年)に南門として移築されたといい、京都府指定文化財に指定されている。[10][2]

そのほか、境内に広がる桜苑は花山天皇寛和元年(985年)に手植えして以来桜の名所であり、江戸時代には「平野の夜桜」として知られた[5]。現在も春には桜祭が行われる。

摂末社

摂社

縣神社(京都府登録文化財)
  • 縣神社 (あがたじんじゃ、県神社)
    玉垣内の本殿と並び、その南に鎮座する[2]。社殿は寛永8年(1631年)の造営で[4]、京都府登録文化財に登録されている[10]

末社

  • 八幡神社
  • 4社併祀社
    • 春日神社
    • 住吉神社
    • 蛭子神社
    • 鈿女神社
  • 出世導引稲荷神社
  • 猿田彦神社

祭事

年間祭事

  • 歳旦祭 (1月1日)[11]
  • 節分 (2月上旬)
  • 紀元祭 (2月11日)
  • 祈年祭 (2月17日)
  • 例大祭 (4月2日)
  • 桜祭神幸祭 (4月10日)
  • 天長祭 (4月29日)
  • 大祓 (6月30日)
  • 御鎮座記念祭 (9月14日) - 平野での鎮座伝承日。
  • 文化祭 (11月3日)
  • 新穀感謝祭(新嘗祭) (11月23日)
  • 大祓・除夜祭 (12月31日)

平野祭

桜祭の行列

平野神社の例祭は、古来「平野祭(ひらののまつり)」として知られる。祭は古くは1年に2度、4月と11月の上の申日に行われたといい[12]、『延喜式』[原 14]では小祀とする[12]。祭は皇太子が奉幣する決まりであり[3]、皇太子が諸親王・諸王を率いて参詣して祝詞を奏上、次いで特に久度神・古開神の前に山・海の幸を献じて朝野の守護を祈願したという[12]。その様子は『江家次第』に詳述されている[6]。現在では11月の祭は廃れ、例祭は4月2日の年1回のみ行われている[12]

また寛和元年(985年)4月10日[原 15]には初めて臨時祭が行われたが[6]、この臨時祭も勅祭であった[3]。この祭は現在「桜祭」として伝わっており、祭では平野社の桜にまつわる花山天皇の陵の参詣が行われたのち、神幸祭が行われる[13][6]

文化財

重要文化財(国指定)

  • 本殿 2棟(附 棟札2枚)(建造物) - 大正11年4月13日指定[14][15]

京都府指定有形文化財

  • 平野神社 2棟(建造物) - 平成26年3月24日指定[10]
    • 拝殿
    • 南門

京都府登録文化財

  • 平野神社 2棟(建造物) - 平成26年3月24日登録[10]
    • 縣社
    • 中門

考証

前述のように平野社の祭神に関しては古来諸説があり、桓武天皇の生母・高野新笠の祖神とする説、竈神とする説、今木・久度・古開・比売神をそれぞれ源氏・平氏・高階氏・大江氏の祖神とする説等がある[5]。今日の文献では、特に1番目の高野新笠の父方・母方の両祖神とする説が多く取り上げられる[4][3][7][6][5][1]。祭神の経緯を考えると、3番目の氏神説は後世になってからの比定とされる[6]。個々の神々に関する考証は次の通り。

今木神
4柱のうちの主神。国史での初見は延暦元年(782年[原 6]で、当時は平城京の田村後宮(田村第)にあった。平野社の祭神としての初見は承和3年(836年[原 7]
この今木神は上記のように延暦元年当時は平城京にあったが、それ以前の出自については諸説がある。特に知られるのは、神名の「今木」とは「今来」すなわち「新しく来た渡来人」の意味であるとして、大和国高市郡(今来郡)において渡来人によって祀られた渡来神であったとする説である[3][注 2][注 3]。田村後宮における祭祀者は高野新笠と山部親王(桓武天皇)と見られ、高野新笠の父・和乙継の出自である和氏(やまとうじ)の祖神として祀られていたといわれる[3][6]
続日本紀[原 16]ではこの和氏の出自を百済武寧王の子・純陀太子と記すことから、この今木神を特に百済系の渡来神とする説もある[6]。また平安時代末期の『袋草紙』の歌には
白壁の みこのみおやの おほちこそ 平野の神の ひひこなりけれ
(白壁王(光仁天皇)の皇子(桓武天皇)の御母(高野新笠)の祖父(和某)は平野神の曾孫である)

—『袋草紙

とも歌われている[3]。この今木神が平野に祀られるに至った背景として、『愛宕郡某郷計帳』に見える平野居住の渡来人との関係の指摘もある[3]
なお、今日の諸文献では今木神を渡来神と見る説が挙げられるが、平野神社側ではこの説には否定的な見解を示している[2]
久度神
国史での初見は延暦2年(783年)で、「平群郡久度神」とある[6]。平野社の祭神としての初見は承和3年(836年)[原 7]
この久度神は、神名の「くど(竈;かまど)」に見えるように竈の神であるといわれ[4]、『延喜式』[原 17]に見える「竈神」はこの神を指すと見る説もある[3]。高野新笠の母方の土師氏(はじうじ、のち大枝氏/大江氏)によって祀られた祖神であるとも、東アジアに見られる「竈王神」と見て渡来神であるともいわれる[3][6][5]。この久度神は、元々は『延喜式神名帳大和国平群郡の式内社として記載されている久度神社奈良県北葛城郡王寺町北緯34度35分58.41秒 東経135度41分54.68秒)の祭神とされる[5]
なお、『延喜式』祝詞[原 18]では今木神と久度・古開神は別祝詞になっていることから、両神は今木神に次いで祀られたと見られている[5]
古開神(古関神)
諸史料では「古関神」とも見えるが、「古開」「古関」のいずれが正しいかは不詳[5]。国史での初見は承和3年(836年)[原 7]
この古開神は平野社関係記事にしか見えない神である[6]。文献では「久度・古開」と一対として扱われていることから、渡来神であり久度神とともに久度神社に祀られたとする説や、久度神と元は同一であったとする説がある[6][5]
比売神(比咩神)
承和3年(836年)の今木・久度・古開神の神階昇叙の記事では見えず、初見は嘉祥元年(848年)まで下る[原 8][6]。史料には「合殿比咩神」と見える。承和10年(843年[原 13]では梅宮大社の酒解子神(梅宮4柱の末神)とともに名神に預かった神として「平野社一前」と見えるが、これは平野社末神の比売神を指すと見て、承和3年から10年頃の合祀とされる[6]
この比売神に関しては、高野新笠の母方の祖神を祀ったとする説や、高野新笠を指すとする説がある[6][5]

現地情報

所在地

交通アクセス

  • 京都市営バスで「衣笠校前」バス停下車 (下車後北へ徒歩3分)
    • 急行バスの場合は「衣笠校前」を通過するため、「わら天神前」で下車 (下車後南へ徒歩4分)

周辺

脚注

注釈

  1. ^ 田村後宮とは平城京にあった田村第を指すとし、左京四条二坊十一坪付近とされる (上田 平野神社)。
  2. ^ 関連して、『延喜式』祝詞 平野祭条(神道・神社史料集成参照)には「今木」から移し祀られたと記されている (平野神社(国史) & 1990年)。
  3. ^ ただし今木の「木」は乙類、今来の「来」は甲類であることから、この主張には慎重な見解もある (上田 平野神社)。

原典

  1. ^ 『本朝月令』 4月上申平野祭事(神道・神社史料集成参照)。
  2. ^ 『類聚三代格』1 神社事 貞観14年(872年)12月15日官符(神道・神社史料集成参照)。
  3. ^ 『類聚三代格』1 科祓事 延暦20年(801年)5月14日官符(神道・神社史料集成参照)。
  4. ^ a b c d 『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851年)10月乙卯(17日)条(神道・神社史料集成参照)。
  5. ^ 『日本紀略』天元4年(981年)2月20日条。
  6. ^ a b 『続日本紀』延暦元年(782年)11月丁酉(19日)条(神道・神社史料集成参照)。
  7. ^ a b c d e 『続日本後紀』承和3年(836年)11月庚午(5日)条(神道・神社史料集成参照)。
  8. ^ a b c d 『続日本後紀』嘉祥元年(848年)7月壬午(25日)条(神道・神社史料集成参照)。
  9. ^ a b c 『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(神道・神社史料集成参照)。
  10. ^ a b c 『日本三代実録』貞観元年(859年)7月14日条(神道・神社史料集成参照)。
  11. ^ 『日本三代実録』貞観6年(864年)7月10日条(神道・神社史料集成参照)。
  12. ^ a b 『日本三代実録』貞観5年(863年)5月2日条(神道・神社史料集成参照)。
  13. ^ a b 『続日本後紀』承和10年(843年)10月壬申(17日)条(神道・神社史料集成参照)。
  14. ^ 『延喜式』1 四時祭上 大中小祀条(神道・神社史料集成参照)。
  15. ^ 『日本紀略』寛和元年(985年)4月10日条。
  16. ^ 『続日本紀』延暦8年(789年)12月乙未(28日)条。
  17. ^ 『延喜式』16 陰陽 竈神祭条に「平野竈神」、『延喜式』30 大蔵 忌火条・31 宮内 中宮御贖条に「平野御竃神」(神道・神社史料集成参照)。
  18. ^ 『延喜式』8 祝詞 平野祭条・久度古関条(神道・神社史料集成参照)。

出典

  1. ^ a b c d 平野神社(古代史) & 2006年.
  2. ^ a b c d e f 神社由緒書。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 平野神社(平) & 1979年.
  4. ^ a b c d e f g h 平野祭神四社(式内社) & 1979年.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 平野神社(国史) & 1990年.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 平野神社(神々) & 1986年.
  7. ^ a b 平野神社(角) & 1982年.
  8. ^ 神道・神社史料集成.
  9. ^ a b c d 建部 & 1979年.
  10. ^ a b c d e f 京都府指定・登録等文化財(京都府教育委員会)。
  11. ^ 年間祭事の記載は祭典の紹介(旧公式サイト)による。
  12. ^ a b c d 平野祭(国史) & 1990年.
  13. ^ 祭典の紹介(旧公式サイト)。
  14. ^ 平野神社本殿(京都府生涯学習・スポーツ情報)。
  15. ^ 平野神社本殿(第一殿・第二殿) - 国指定文化財等データベース(文化庁)、平野神社本殿(第三殿・第四殿) - 国指定文化財等データベース(文化庁)。

参考文献・サイト

神社出版物・現地説明板

  • 神社由緒書「平野神社御由緒」
  • 境内説明板

書籍

  • 百科事典
    • 「平野神社」『日本歴史地名体系 27 京都市の地名』平凡社、1979年。ISBN 4582490271 
    • 「平野神社」『角川日本地名大辞典 26-1 京都府』角川書店、1982年。ISBN 4040012615 
    • 国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、1990年。ISBN 4642005110 
      • 鈴木義一「平野神社」吉田敦彦「平野神」柴田実「平野祭」
    • 堀越光信「平野神社」『日本古代史大辞典』大和書房、2006年。ISBN 4479840656 
  • 研究書
    • 笠井倭人 著「平野祭神四社」、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第1巻』皇學館大学出版部、1979年。 
    • 源城政好 著「平野神社」、谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 5 山城・近江』白水社、1986年。ISBN 4560022151 
  • その他書籍・論文
    • 建部恭宣「平野神社比翼春日造について(連結社殿の研究-その1)」『日本建築学会近畿支部研究報告集』第19巻、社団法人日本建築学会、1979年6月1日、489-492頁、NAID 110007529115 
    • 上田正昭「平野神社」 (PDF) (京都府ホームページ)

サイト

関連文献

平野神社発行書籍

  • 上田正昭監修『平野神社史』平野神社社務所、1993年。

その他

関連項目

外部リンク