コンテンツにスキップ

「アイユーブ朝」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Ellsiemall (会話 | 投稿記録)
超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
(2人の利用者による、間の14版が非表示)
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2010年6月}}
{{基礎情報 過去の国
{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|略名 =
|日本語国名 =アイユーブ朝
|日本語国名 =アイユーブ朝
|公式国名 ='''{{Lang|fa|}}'''
|公式国名 =
|建国時期 =[[1171年]]
|建国時期 =[[1169年]]
|亡国時期 =[[1342年]]
|亡国時期 =[[1250年]]
|先代1 =ファーティマ朝
|先代1 =ファーティマ朝
|先旗1 =Fatimid flag.svg
|先旗1 =Fatimid flag.svg
|先代2 =ザンギー朝
|先旗2 =Flag of None.svg
|次代1 =マムルーク朝
|次代1 =マムルーク朝
|次旗1 =Mameluke_Flag.svg
|次旗1 =Mameluke_Flag.svg
|次代2 =ラスール朝
|次旗2 =Flag of None.svg
|次代3 =イルハン朝
|次旗3 =Il-Khanate Flag.svg
|国旗画像 =Flag of Ayyubid Dynasty.svg
|国旗画像 =Flag of Ayyubid Dynasty.svg
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
22行目: 27行目:
|国歌名 =
|国歌名 =
|国歌追記 =
|国歌追記 =
|位置画像 =Ayyubids1189.png
|位置画像 =AyyubidGreatest.png
|位置画像説明 =アイユーブ朝の版図(1189年)
|位置画像説明 =アイユーブ朝の最大支配領域(1188年)
|公用語 =[[アラビア語]]、[[クルド語]]
|公用語 =[[アラビア語]]、[[クルド語]]
|首都 =[[カイロ]]
|首都 =[[カイロ]]
|元首等肩書 =[[君主]]
|元首等肩書 =マリク・アル=ナースィル、[[スルターン]]
|元首等年代始1 =[[1171年]]
|元首等年代始1 =[[1171年]]
|元首等年代終1 =[[1193年]]
|元首等年代終1 =[[1193年]]
|元首等氏名1 =[[サラーフッディーン]](初代)
|元首等氏名1 =[[サラーフッディーン]]
|元首等年代始2 =[[1202年]]
|元首等年代始2 =[[1202年]]
|元首等年代終2 =[[1218年]]
|元首等年代終2 =[[1218年]]
|元首等氏名2 =[[アル=アーディル]](第4代)
|元首等氏名2 =[[アル=アーディル]]
|元首等年代始3 =[[1202年]]
|元首等年代始3 =[[1202年]]
|元首等年代終3 =[[1218年]]
|元首等年代終3 =[[1218年]]
|元首等氏名3 =[[サーリフ]](第7代)
|元首等氏名3 =[[サーリフ|アッ=サーリフ]]
|元首等年代始4 =[[1249年]]
|元首等年代始4 =[[1249年]]
|元首等年代終4 =[[1250年]]
|元首等年代終4 =[[1250年]]
|元首等氏名4 =[[トゥーラーン・シャー]](最後)
|元首等氏名4 =[[トゥーラーン・シャー]]
|元首等年代始5 =[[1331年]]
|元首等年代終5 =[[1342年]]
|元首等氏名5 =[[Al-Afdal]](最後の地方政権ハマ・アイユーブ朝最後)
|面積測定時期1 =
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|面積値1 =
63行目: 65行目:
|人口値5 =
|人口値5 =
|変遷1 =成立
|変遷1 =成立
|変遷年月日1 =[[1171年]]
|変遷年月日1 =[[1169年]]
|変遷2 =
|変遷2 =[[エルサレム]]の占領
|変遷年月日2 =
|変遷年月日2 =[[1187年]]
|変遷3 =
|変遷3 =サラディンの死
|変遷年月日3 =
|変遷年月日3 =[[1193年]]
|変遷4 =[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]にエルサレムを譲渡する
|変遷4 =大アイユーブ朝滅亡
|変遷年月日4 =[[1250年]]
|変遷年月日4 =[[1229年]]
|変遷5 =最後の地方政権ハマ・アイユーブ朝滅亡
|変遷5 =アイユーブ朝滅亡
|変遷年月日5 =[[1342年]]
|変遷年月日5 =[[1250年]]
|通貨 =
|通貨 =
|注記 =
|注記 =
}}
}}
'''アイユーブ朝'''({{lang-ar|الأيوبيون}}、[[クルド語]]:دەوڵەتی ئەییووبی )は、[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけて[[エジプト]]、[[歴史的シリア|シリア]]、[[イエメン]]などの地域を支配した
'''アイユーブ朝'''('''大アイユーブ朝'''、[[1169年]]~[[1250年]]、最後の地方政権の'''ハマ・アイユーブ朝'''は[[1342年]]まで存続、الأيوبيون、Ayyubid)は、[[エジプト]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]などを支配した[[イスラム]]系の王朝。王朝名の「アイユーブ」は創始者の父の名に由来する。なお、アイユーブはもともとは[[旧約聖書]][[ヨブ記]]の義人[[ヨブ]]の[[アラビア語]]形である。
[[スンナ派]]の[[イスラム王朝|イスラーム王朝]]<ref name="ii-jiten">太田「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』、4頁</ref>。シリアの[[ザンギー朝]]に仕えた[[クルド人|クルド系]]軍人の[[サラーフッディーン]](サラディン)を王朝の創始者とする。

[[1169年]]にエジプトを支配する[[ファーティマ朝]]の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する<ref name="ii-jiten"/><ref name="si-jiten">佐藤「アイユーブ朝」『新イスラム事典』、41頁</ref>。サラディンは[[アッバース朝]]の[[カリフ]]の権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、73頁</ref>。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、[[ダマスカス]]、[[アレッポ]]、[[ディヤルバクル]]には半独立の地方政権が成立した<ref name="ii-jiten"/>。[[アル=アーディル]]、[[アル=カーミル]]、[[サーリフ|アッ=サーリフ]]ら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らは[[カイロ]]で政務を執った<ref name="sato1996-212">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、212頁</ref>。[[1250年]]に[[マムルーク]](軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出した[[モンゴル帝国]]とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== サラーフッディーンの王創設と治世 ===
=== セルジュク朝、ザギー時代 ===
12世紀前半、[[アルメニア]]に居住していたクルド人のシャージーは[[ナジムッディーン・アイユーブ]]と[[シールクーフ]]を連れて[[イラク]]に移住し、[[セルジューク朝]]の下で[[バグダード]]の軍事長官を務めるビフルーズに仕官した<ref name="sato1996-21">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、21頁</ref>。シャージーは[[ティクリート]]の城主に任じられ、彼の死後はアイユーブがティクリートの城主の地位を継承した<ref name="sato1996-21"/>。
[[1169年]]、[[サラーフッディーン]](サラディン)が、[[ファーティマ朝]]の軍最高司令官と宰相の地位を兼任し、年内までに[[エジプト]]における全権を掌握して、アイユーブ朝を創設した。[[1171年]]、ファーティマ朝の第14代[[カリフ]]・[[アーディド]]が死去すると、ファーティマ朝を完全に滅ぼし、名目上は[[アッバース朝]]に臣従するという形式のもとに[[スルタン]]を称した。このため、アイユーブ朝の成立は[[1171年]]説もある。


[[1131年]]にセルジューク朝の[[スルターン]]・[[マフムード2世 (セルジューク朝)|マフムード2世]]が没した後に王位を巡る内戦が起こり、この戦争の中でアイユーブは敗走する[[モースル]]の領主[[ザンギー|イマードゥッディーン・ザンギー]]に助けを与えた<ref>前嶋『イスラムの時代』、295-296頁</ref>。[[1137年]]/[[1138年|38年]]にアイユーブはビフルーズの命令でティクリートを追われるが、城を失った日の夜にアイユーブの妻は男児を生み、生まれた子供はユースフ(後のサラディン)と名付けられた<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、20-22,28頁</ref>。ティクリートを失ったアイユーブは弟のシールクーフとともにモースルのザンギーの元に逃れ、ザンギーから迎え入れられた。アイユーブはシールクーフとともにザンギー配下の軍団の司令官に命じられ、[[1139年]]には[[バールベック]]の知事に任命された。
その後しばらくは内政に専念したが、[[1174年]]にかつて自身が仕えていた[[ザンギー朝]]のスルタン・[[ヌールッディーン]]が死去すると、そのもとから独立してシリアに侵攻し、同地を併合してエジプト、シリアに広大な支配圏を築き上げたのである。


[[1146年]]にザンギーが没した後にバールベックはセルジューク朝の[[ダマスカス]]総督の攻撃を受け、アイユーブは現金・領地と引き換えに降伏した。[[1152年]]に14歳になったサラディンはアイユーブの元を離れ、ザンギーの子で[[アレッポ]]を支配する[[ヌールッディーン|ヌールッディーン・マフムード]]に仕官する<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、55頁</ref>。サラディンはヌールッディーンから[[イクター]](封土)を与えられ、彼に近侍した<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、55-56頁</ref>。ヌールッディーンがダマスカスへの進出を試みたとき、ダマスカスに居住していたアイユーブはヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取りあい、[[1154年]]にヌールッディーンはダマスカスの無血開城に成功した<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、51-52頁</ref>。ダマスカスの開城後、アイユーブはヌールッディーンに協力したことを評価されてイクターとダマスカスの支配権を与えられ、引き続きダマスカスに留まった<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、56頁</ref>。
[[1187年]]、[[十字軍]]の休戦協定違反を契機としてサラーフッディーンは[[エルサレム王国]]に侵攻し、7月に有名な[[ハッティンの戦い]]で十字軍に大勝し、10月には約90年ぶりの[[エルサレム]]奪回を果たしたのである。このため、[[1189年]]から[[イギリス]]王・[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]を中心とした第3回十字軍の反攻を受けたサラーフッディーンは、十字軍にアッコンを奪回されるなどの苦戦を強いられたが、十字軍の猛攻によく耐えて[[1192年]]、和睦を結ぶにいたった。この和睦により、エルサレムをはじめとする領土のほとんどはアイユーブ朝の支配圏として確立することとなり、十字軍はシリア沿岸にわずかな領土を有するまでに没落してしまい、往時の力を失うこととなったのである。


=== サラディンによる独立政権の樹立 ===
その後、サラーフッディーンは[[1193年]]、ダマスカスにて病死した。
[[Image:Saladin2.jpg|thumb|180px|right|アイユーブ朝の創始者[[サラーフッディーン]](サラディン)]]
[[1163年]]、エジプトを支配する[[シーア派]]の国家[[ファーティマ朝]]の宰相[[シャーワル]]は政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた<ref>前嶋『イスラムの時代』、297頁</ref><ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、61頁</ref>。翌[[1164年]]4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフは[[ビルベイス]]でディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを恐れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、[[十字軍国家]][[エルサレム王国]]の[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー1世]]に援助を求めた<ref name="maejima298">前嶋『イスラムの時代』、298頁</ref><ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、62頁</ref>。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはエルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した<ref name="maejima298"/>。1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。


1167年の和議に際してシャーワルはエルサレム王国に貢納と引き換えに援助の約束を取り付けるが、ファーティマ朝の[[カリフ]]・[[アーディド]]や民衆はシャーワルの方針に不満を抱き、シャーワルを排除する計画が巡らされた<ref>前嶋『イスラムの時代』、300頁</ref><ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、254頁</ref>。さらにエジプトは十字軍の攻撃を受け、[[フスタート]]が十字軍によって制圧されることを恐れたシャーワルはフスタートに火を放ち、フスタートは焦土となった<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、66-67頁</ref><ref>三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、297頁</ref>。シャーワルと敵対する派閥の人間はヌールッディーンに支援を求めた。[[1168年]]12月にシールクーフとサラディンはアレッポを発って3度目のエジプト遠征を行い、シールクーフの進軍を知ったアモーリー1世はパレスチナに撤退する<ref>前嶋『イスラムの時代』、302頁</ref>。翌1169年1月にシールクーフ軍は[[カイロ]]に入城し、シャーワルはアーディドの命令によって処刑される<ref>前嶋『イスラムの時代』、302-303頁</ref><ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、70頁</ref>。シールクーフはシャーワルに代わるファーティマ朝の[[ワズィール]](宰相)・軍司令官に就任するが、1169年3月にシールクーフは急死し、サラディンが宰相職を継承した<ref>前嶋『イスラムの時代』、303頁</ref><ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、257頁</ref><ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、71-73頁</ref>。宰相に就任した後、サラディンは「マリク・アル=ナースィル(勝利の王)」の称号を使用する<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、271頁</ref>。
=== サラーフッディーン死後の混乱 ===
サラーフッディーンの死後、スルタン位は次男の[[アル=アジーズ]]が継いだ。しかし、サラーフッディーンは17人の息子に分割相続させてしまったため、兄弟内における権力闘争が起きることとなる。アジーズにはこの権力闘争を抑制できる力は無く、[[1198年]]に不慮の死を遂げている。


一方、ヌールッディーンはサラディンがエジプトで半ば独立した政権を樹立したことに大きな衝撃を受け、エジプトの[[アミール]](軍司令官)の中にもヌールッディーンの呼びかけに応じてシリアに帰国した者以外に、サラディンに従ってエジプトに留まるものが現れる<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、73-75頁</ref>。ヌールッディーンはエジプトで[[スンナ派]]の様式に則った礼拝を行うよう求めていたが、サラディンはシーア派に対して慎重な姿勢を取っていたため、ヌールッディーンの猜疑心をかきたてたと言われている<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、259-260頁</ref><ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、183-184頁</ref>。サラディンはエジプトに留まった兵士の中からクルド人と[[テュルク|トルコ系]]のマムルークを選抜し、サラディンの名前にちなんでサラーヒーヤと呼ばれる軍団を新たに編成した<ref name="sato1996-79">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、79頁</ref>。ファーティマ朝に仕える黒人宦官のムータミン・アル=フィラーハはサラディンがファーティマ朝の軍人から没収した土地を自身の配下に授与していることを危ぶみ、十字軍勢力と結託して反乱を企てたが、陰謀を察知したサラディンは事前にムータミンを処刑した<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、82-83頁</ref>。1169年8月、ムータミンの処置に反発したファーティマ朝の[[ザンジュ]](黒人奴隷兵)はカイロ市内で蜂起し、サラディンはザンジュの反乱を鎮圧し、彼らの勢力を一掃する<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、83-84頁</ref>。サラディンはエジプトの大カーディー(大判事)からシーア派の人間を外してスンナ派のイブン・アルダルバスを抜擢し、エジプト各地のカーディーをシーア派からスンナ派の人間に入れ替えた<ref name="sato1996-85">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、85頁</ref>。
アル=アジーズの死後、王朝の主導権はサラーフッディーンの弟[[アル=アーディル]]が掌握し、サラーフッディーンの長男である[[アル=アフダル]]をはじめとする息子たちの権力闘争を抑えて、[[1202年]]にスルタンとして即位した。


[[1171年]]9月4日、サラディンはフスタートのモスクで行われる金曜礼拝で[[フトバ]](説教)からアーディドの名前を削って[[アッバース朝]]のカリフ・[[ムスタディー]]の名前を入れることを命じ、エジプトにおけるスンナ派の復活を表明した<ref name="sato1996-8687">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、86-87頁</ref>。9月10日にはカイロの金曜礼拝でも同様のフトバが読み上げられ、エジプト各地でスンナ派の復権は受け入れられた<ref name="sato1996-8687"/>。同年9月15日に病床にあったアーディドは没し、ファーティマ朝は滅亡する<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、87頁</ref>。サラディンの下でファーティマ朝時代に課されていた[[マクス]](市場税、巡礼者の通行税など)は撤廃され、民衆からの支持を集める<ref name="miura298">三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、298頁</ref>。また、[[イスマーイール派]]の教育・研究機関を排除するために、ファーティマ朝のカリフ・[[ハーキム]]によって建設された図書館([[ダール・アル=イルム]])に収蔵されていた書物が売却された<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、122-124頁</ref>。
=== アル=アーディルとアル=カーミル父子の治世 ===
アーディルは西欧諸国との融和を図り、十字軍との休戦協定の更新を行なった。さらに[[ヴェネツィア共和国]]と貿易を行なって経済交流を積極的に奨励するなど、アイユーブ朝の発展に尽力した。このため、アーディルの在位中は十字軍との関係も良好で、平和が訪れたのである。


=== 十字軍勢力との戦争 ===
しかし[[1218年]]、第5回十字軍が来襲してくるとアーディルは心臓発作のために死去し、その後を息子の[[アル=カーミル]]が継いだ。カーミルは十字軍にダミエッタを支配されるなど一時は劣勢に立たされたが、[[1221年]]に反攻して大勝した。だが、エジプト国内でカーミルの継承に不満を持ったアイユーブ朝の王族による内紛が起こったため、カーミルは十字軍に対応するどころではなくなり、[[1228年]]にエルサレムを十字軍に譲渡することで和睦し、国内の反乱に全力を向けた。このため、反乱は鎮圧されたが、エルサレムの放棄は王朝にとって大きな損失ともなったのである。
[[Image:Hattin.jpg|thumb|160px|right|ヒッティーンの戦い]]
[[Image:ChristiansBeforeSaladin.jpg|thumb|160px|right|エルサレム開城を巡るサラディンとキリスト教徒の交渉]]
サラディンは兄弟のトゥーラーン・シャーを司令官とする遠征軍を近隣の地域に派遣し、[[1173年]]に[[ヌビア]]、[[1174年]]に[[イエメン]]を征服して支配領域を拡大する<ref name="miura298"/>。1174年5月にトゥーラーン・シャーの軍隊は[[ザビード]]に到達し、翌6月に国際貿易の拠点となっていた[[アデン]]を占領した<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、97頁</ref>。イエメン遠征が実施された理由には諸説あり、ヌールッディーンのエジプト攻撃に備えた土地の確保、紅海貿易の拠点の確保などが挙げられている<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、103頁</ref>。ファーティマ朝の残党はエジプトの兵士の一部がイエメン遠征に従軍し、サラディン配下の騎士が徴税のために自分たちのイクターに戻る機会に乗じて反乱を企てたが計画は事前に露見し、1174年5月に反乱者は逮捕・処刑された<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、99-100頁</ref>。また、1174年5月にはヌールッディーンが没し、サラディンとヌールッディーンの衝突は未然に終わる<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、104-105頁</ref><ref>三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、298-299頁</ref>。


サラディンは表面上はヌールッディーンの跡を継いだサーリフの宗主権を認め<ref name="miura299">三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、299頁</ref>、シリアに残ったザンギー朝の領土の併合に取り掛かる<ref name="miura299"/>。1174年10月末、サラディンはザンギー朝の宰相アル=ムカッダムの招聘を受けてダマスカスへの無血入城を果たし、市民から歓迎を受けた<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、106-107頁</ref>。一方、アレッポではサーリフを擁する将軍グムシュテギーンがサラディンに敵対する人間を糾合しており、11月にサラディンはアレッポに向けて進軍する<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、110頁</ref>。サラディンはザンギー朝の王族と十字軍勢力両方からの攻撃に苦戦するが、1175年春にエジプトからの援軍と合流し、ザンギー軍に勝利を収めた<ref name="sato1996-111">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、111頁</ref>。同時にバグダードのムスタディーからサラディンのエジプト・シリア支配を承認する文書が届き、サラディンはフトバと貨幣からサーリフの名前を除き、代わりに自身の名前を入れてザンギー朝からの自立の意思を公にする<ref name="sato1996-111"/>。[[1176年]]9月にサラディンはダマスカスでヌールッディーンの寡婦イスマト・アッディーンとの結婚式を挙げるが、この婚姻にはザンギー朝の正統な後継者であることを示す意図があったと考えられている<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、117頁</ref>。結婚式を終えたサラディンはカイロに戻り、エジプトの統治に取り掛かった<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、117,120頁</ref>。
=== 滅亡 ===
[[1238年]]、アル=カーミルが死去し、その1代の後を置いて継いだ次男の[[サーリフ]]は、[[1239年]]にエルサレムを奪回した。しかし、この対外戦争における過程でアッサーリフが用いたアジアからの奴隷兵である[[マムルーク]]軍団の台頭が始まるようになり、[[1250年]]、アイユーブ朝のスルタン・[[トゥーラーン・シャー]]が、先代スルタン・サーリフの夫人であったマムルーク軍団の指導者の[[シャジャル・アッ=ドゥッル]]に殺害されることで、アイユーブ朝は滅亡した。


1178年にサラディンはザンギー朝に領土の返還を要求する[[ルーム・セルジューク朝]]の軍を破って南進政策を押し、北方からの脅威を絶った<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、146頁</ref>。サラディンは十字軍勢力の支配下にある[[サイダ]]、[[ベイルート]]、[[キリキア・アルメニア王国]]を攻撃し、アッバース朝のカリフからザンギー朝の王族が拠るモースルの支配権を承認された<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、147頁</ref>。十字軍との戦争に備えた艦船が増強と兵力の点検の後、[[1182年]]5月にサラディンはエジプトを発ってシリアに進軍する。
その後、アイユーブ朝の残存勢力は[[ハマー (都市)|ハマ]]に拠点を置く一地方政権として、14世紀まで細々と命脈を保った。


1182年9月に[[ジャズィーラ]](北イラク)に到着したサラディンは現地の領主に帰順を進める手紙を送り、モースルのザンギー朝の支配下にあった領主は次々にサラディンに降伏した<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、152-153頁</ref>。しかし、モースルを支配するザンギー朝の王族マスウードにアイユーブ朝の主権と対十字軍戦への参加を認めさせることはできなかった。[[1183年]]6月にアレッポがアイユーブ朝の支配下に入ったことでシリア内陸部が統一され、1186年にマスウードがアイユーブ朝への臣従を受け入れたことでモースルの併合が達成された<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、154-155,158-159頁</ref>。
== アイユーブ朝の国制 ==

アイユーブ朝の王朝組織は、前王朝のファーティマ朝と同じように簡素なものであった。主な官庁は宮内庁、軍務庁、法務庁などであり、その中でも軍務庁が地方行政において重きを成した。また、サラーフッディーンの治世により、[[ナイル川]]の整備や用水路の新設、そして農業の奨励などでエジプト国内は充実し、国際貿易の中心地になったと言われている。
1187年初頭、サラディンは数度にわたって和平協定を犯した[[カラク (ヨルダン)|カラク]]の[[ルノー・ド・シャティヨン]]の背信行為を非難し、3月に[[ジハード]](聖戦)を宣言した<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、167頁</ref>。7月4日に[[ヒッティーン]]でサラディンはエルサレム王[[ギー・ド・リュジニャン]]が率いる十字軍と交戦し、勝利を収める([[ヒッティーンの戦い]])。[[ベイルート]]、[[サイダ]]などの都市がアイユーブ朝の支配下に入り、9月までに地中海沿岸部のシリア諸都市の多くがイスラーム勢力の元に置かれた<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、172頁</ref>。9月20日からサラディンは[[エルサレム]]包囲を開始し、身代金と引き換えにエルサレム住民の安全を保障することを条件として、エルサレムの開城が取り決められる<ref>橋口『十字軍騎士団』、183-184頁</ref>。10月2日にサラディンはエルサレムに入城し、[[岩のドーム]]ではイスラームの礼拝が行われた<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、174頁</ref>。1か月の間サラディンはエルサレムに滞在して町の治安を回復し、十字軍が使用していた施設を[[モスク]]や[[マドラサ]]に改築した。カトリックの信者はエルサレムから追放されたが、[[東方正教]]の信者は町に残り、十字軍時代に町から追放されていた[[ユダヤ人]]が帰還した<ref name="oikawa">笈川博一『物語エルサレムの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2010年7月)、、148-151頁</ref>。エルサレムを攻略したサラディンは[[ティルス|スール]]、[[アッコ|アッカー]](アッコン)を攻撃するが十分な成果は上げられず、カリフ・[[ナースィル]]からはサラディンを非難する書簡が届けられた<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、178,181,188頁</ref>。

エルサレムがアイユーブ朝の占領下に置かれた後、ヨーロッパでは[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]、[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]による十字軍の派遣が決定された([[第3回十字軍]])。フリードリヒ1世は行軍中に陣没し、[[1191年]]7月末にフィリップ2世がフランスに帰国した後、サラディンと最後に残ったリチャード1世の戦闘は一年以上に及んだ。サラディンとリチャード1世の戦闘は膠着状態に陥り<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、194頁</ref><ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、195頁</ref>、[[1192年]]9月2日に和平が成立した<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、195頁</ref>。和平に伴ってヤッファ以北の沿岸部は十字軍、アシュケロン以南はイスラム勢力が領有する取り決めが交わされ、キリスト教巡礼者のエルサレム入城が許可された<ref name="miura300">三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、300頁</ref>。

1192年11月にサラディンはダマスカスに凱旋し、翌1193年3月4日に没した<ref>前嶋『イスラムの時代』、307-308頁</ref><ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、199,202頁</ref>。

=== 領土の分割、再統合 ===
サラディンの長子である[[アル=アフダル]]が彼の後継者になると思われていたが、領土はアイユーブ朝の王族によって以下のように分割され、それぞれの地域を治める人間が配下の軍人にイクターを授与する体制が敷かれることになった<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、203-204頁</ref>。
* アル=アフダル - ダマスカス、エルサレム、バールベック、海岸地帯
* [[アル=アジーズ]](サラディンの子) - エジプト
* [[アル=マリク・アル=ザーヒル]](サラディンの子) - アレッポ
* [[アル=アーディル]](サラディンの弟) - カラク、シャウバク、[[ディヤルバクル]]
* マンスール(サラディンの甥の子) - [[ハマー (都市)|ハマー]]
* シールクーフ(1169年に没したシールクーフの孫) - [[ホムス]]

アフダルはバグダードのナースィルに自らの支配の正当性の承認を求めたが回答は得られず、やがてアフダル配下のアミールはアジーズを支持するようになる<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、211-212頁</ref>。1194年春、アジーズは君主権力の象徴であるフトバと貨幣に名前を入れる権利を譲渡するようにアフダルに迫り、両者は武力衝突の寸前に至る<ref name="sato1996-212"/>。それぞれが従来の領土を保持する条件で妥協が成立したが、各地の王族は独立した政権を樹立し、アイユーブ朝は事実上分裂した状態に置かれることになる<ref name="sato1996-212"/>。一方、アイユーブ朝の内紛を静観していた中東の十字軍勢力は1195年末からエルサレム奪回の準備を進めており、リチャード1世が結んだ休戦協定の失効を待っていた<ref name="sato1996-212"/>。また、ヨーロッパでは再度の十字軍の実施が提唱され、[[1197年]]に神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]が派遣したドイツ十字軍がアッカーに上陸する<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、312-315頁</ref>。ベイルートなどの沿岸地域の主要都市を奪回した十字軍勢力はシリア内陸部への攻撃を試みるが、[[イタリア半島|イタリア]]に滞在していたハインリヒ6世が病死したため、再びアイユーブ朝と十字軍の間に和約が結ばれる<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、213頁</ref>。

十字軍の攻撃に前後して、カラクのアーディルはサラディンの息子たちの不和に乗じてエジプト・シリアで勢力を拡大していく<ref>ヒッティ『アラブの歴史』下、592頁</ref>。1196年7月にアーディルはアフダルをダマスカスから追放し、1198年11月にアジーズが狩猟中に事故死を遂げると彼の領地であるエジプトを勢力下に収めた<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、331頁</ref>。エジプト支配を確立したアーディルは一族間で優位に立ち、サラディンが帯びていなかった<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、272頁</ref>[[スルターン]]の称号を使用するようになる<ref name="ii-jiten"/>。アーディルと彼の地位を継承したスルターンたちは、対立するアイユーブ朝の諸王族や十字軍勢力との間で複雑な駆け引きと政治を展開した<ref name="miura300"/>。

[[第4回十字軍]]によって[[1204年]]に[[ラテン帝国]]が建国された後、アーディルは[[ヴェネツィア]]や[[ピサ]]などのイタリア半島の都市国家との通商関係を継続するため、[[ラムラ]]と[[ナザレ]]を十字軍勢力に割譲する<ref name="miura300"/>。1204年と[[1212年]]の2度にわたってアイユーブ朝と十字軍勢力の休戦協定が更新されたが、[[ローマ]]の[[教皇庁]]では中東遠征の再開が検討されていた<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、337頁</ref>。アーディルは東方に存在する十字軍勢力に干渉を行わず、[[1218年]]に[[第5回十字軍]]が実施された当初も戦争の回避を考えていた<ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、336頁</ref>。

=== 第5回十字軍、エルサレムの譲渡 ===
[[Image:Al-Kamil Muhammad al-Malik and Frederick II Holy Roman Emperor.jpg|thumb|180px|right|アル=カーミル(右)とフリードリヒ2世(左)の会談]]
1218年8月24日にエジプトの港湾都市ダミエッタ([[ディムヤート]])が十字軍によって包囲され、8月末にアル=アーディルはカイロで没する。アーディルの死後、彼の息子たちが領土を分割して相続し、[[アル=カーミル]]がエジプト、アル=ムアッザムがダマスカス、アル=アシュラフが[[メソポタミア]]を支配した<ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、338頁</ref>。そしてホムス、ハマー、イエメンにはアーディル一族以外のアイユーブ家の人間が割拠していた<ref name="hit593">ヒッティ『アラブの歴史』下、593頁</ref>。

ダミエッタの返還を望むカーミルはエルサレムとサラディンが獲得した「真の十字架」の返還、全ての捕虜の解放などの条件と引き換えに和平を提案する<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、411-414頁</ref>。十字軍内では和平を受け入れるか否かで議論が交わされ、枢機卿ペラギウス、[[テンプル騎士団]]、[[聖ヨハネ騎士団]]の意見が勝って提案は撥ね付けられ、戦争は継続された<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、414-415頁</ref>。[[1219年]]11月にダミエッタは陥落、1221年夏に十字軍はダミエッタを発って進軍を再開した。一方、メソポタミアのアシュラフ、ダマスカスのムアッザムら地方の王族は[[ホムス]]に集まって十字軍への対応を協議し、エジプトの救援に向かった<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、415頁</ref>。1221年8月に十字軍は進軍中にナイル川の反乱に巻き込まれて壊滅し、エジプト軍は壊滅した敵軍に追撃を行って勝利を収める。8月30日に両軍の間で和平が結ばれ、翌9月にダミエッタはエジプトに返還された<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、419-420頁</ref>。

カーミルはアーディルの政策を継承し、対外平和と国内の再統一を推し進めた<ref name="ii-jiten"/>。カーミルの治世には農業・灌漑が重視され、ヨーロッパ諸国と通商協定が締結される<ref name="hit595">ヒッティ『アラブの歴史』下、595頁</ref>。領内のキリスト教徒は厚い保護を受け、[[コプト正教会]]ではカーミルは歴代のエジプト君主の中で最も情け深い人間として見なされるようになった<ref name="hit595"/>。[[1226年]]に[[ホラズム・シャー朝]]の[[ジャラールッディーン・メングベルディー]]がメソポタミアに侵入した際、ダマスカスのムアッザムはカーミル、アシュラフら他の王族に対抗するため、ジャラールッディーンに好意的な態度を示した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、21頁</ref>。

一方、ヨーロッパ世界では[[1225年]]に神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]がエルサレム王位の継承権を獲得し、フリードリヒ2世はエルサレム王国での領主権を確保するため、十字軍の実施を誓約した<ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、346頁</ref>。一方カーミルは関係が悪化したダマスカスのムアッザムに対抗するため、フリードリヒ2世との同盟の締結を試みた<ref name="miura301">三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、301頁</ref><ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、346頁</ref>。カーミルとフリードリヒ2世は書簡を通して学問的な議論を行い、カーミルは動物学に深い関心を持つフリードリヒ2世にクマ、サル、ヒトコブラクダ、ゾウ([[クレモナの象]])を贈った<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、344頁</ref>。[[1229年]]2月に[[ヤッファ]]で双方の宗教的寛容を条件とする十字軍へのエルサレム返還を約束する協定が締結され<ref>橋口『十字軍騎士団』、230頁</ref>、エルサレムではイスラームの礼拝が続けられた<ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、351頁</ref>。十字軍国家の貴族と騎士団はフリードリヒがエルサレムの返還以上の成果を挙げなかったことに失望していたが<ref>橋口『十字軍騎士団』、231頁</ref><ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、352頁</ref>、カーミルの行動もイスラム勢力から裏切りとして非難を受けた<ref name="miura301"/>。ムアッザムの跡を継いでダマスカスの支配者となったアル=ナースィル・ダーウードは自身の支配下にあるエルサレムの譲渡に抵抗したが、カーミルはダーウードをカラクに追放し、ダマスカスを支配下に置いた<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、349-350頁</ref>。ダマスカスはアシュラフに譲渡され、その代償としてカーミルはアシュラフが支配していたメソポタミアの都市を獲得する<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、46-47頁</ref>。

アイユーブ朝が十字軍勢力との抗争に軍事力を集中している間、イエメンのアル=マンスール・ウマルがイエメンで起きた反乱に乗じてアイユーブ朝からの独立を企て、1229年にザビードで[[ラスール朝]]が創設される<ref name="yajima435">家島『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』、435頁</ref>。1241年/42年には、ラスール朝によって[[メッカ]]からアイユーブ家の勢力が一掃された<ref name="yajima435"/>。

[[1230年]]にアイユーブ家の支配下に置かれていた{{仮リンク|アフラート|en|Ahlat|label=ヒラート}}がジャラールッディーンによって占領された後、アシュラフはルーム・セルジューク朝と同盟し、[[エルズィンジャン]]近郊の戦闘でアイユーブ朝・セルジューク朝の連合軍はジャラールッディーンを撃破する。[[1231年]]、モンゴル軍の侵入に苦しむカリフ・[[ムスタンスィル]]はイスラーム諸国に救援を要請した。メソポタミアのアイユーブ朝の領地もモンゴル軍による略奪の被害を受けていたため、カーミルはメソポタミア遠征を決意する<ref name="CMD75">ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、75頁</ref>。モンゴル軍がヒラートから退却したことを知ったカーミルは進軍を中止し、進路を変えてイスラームの領主マスウードが統治するディヤルバクルを包囲した<ref name="CMD75"/>。1232年10月にディヤルバクルを占領したカーミルは町を子の[[サーリフ|アッ=サーリフ]]に与え、さらに{{仮リンク|ハサンケイフ|en|Hasankeyf|label=ヒスン・カイファー}}を攻略して遠征を終えた<ref name="CMD75"/>。他方でアシュラフはダマスカスに安定した支配を確立し、アシュラフと配下の将軍たちはエジプトのカーミルからの独立を企てた。緊張した情勢の中、1237年8月にアシュラフは没し、4か月後に彼の兄弟であるアッ=サーリフ・イスマーイールがダマスカスを継承する<ref>Burns, 2005, 186頁</ref>。

=== 第7回十字軍、マムルーク政権の成立 ===
カーミルの死後に国家の統一は再び失われ、王朝は衰退に向かっていく<ref name="ii-jiten"/>。[[1238年]]にカーミルが没した後、アッ=サーリフと[[アル=アーディル2世]]の兄弟によって国土が分割され<ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、360頁</ref>、ヒスン・カイファーのサーリフはカイロでスルターンを称した弟のアーディルとエジプトの支配を巡って争った。1238年12月にサーリフはダマスカスを占領するが、[[1239年]]9月にダマスカスはイスマーイールに奪回され、アーディルの逮捕を阻もうとするカラクのダーウードによって拘束される。また、1239年11月にダーウードはエルサレムに奇襲をかけ、町をイスラーム勢力の手に回復する<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、350頁</ref><!-- 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、214頁では「12月」 -->。翌1240年にダーウードから解放されたサーリフは彼と同盟を結び、5月にアーディルを廃してスルターンに即位する。

1240年代初頭、サーリフはかつてのアーディルの支持者に報復を行い、ダマスカスのイスマーイールとの関係を改善したダーウードと対立した。サーリフ、イスマーイールらは、ライバルに対抗するため十字軍との同盟を計画する<ref>Richard and Birrell, 1999, p.328.</ref>。ダーウードも他の競争者と同様に十字軍勢力に同盟を持ちかけ、[[1243年]]に同盟の条件としてエルサレムを十字軍に返還し、町からイスラームの宗教家を引き上げさせた<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、351頁</ref>。[[1244年]]にサーリフはシリアに逃れたホラズム・シャー朝の遺民と連合して[[ラ・フォルビの戦い]]で十字軍勢力に勝利を収め、エルサレムを再び支配下に置いた<ref>ジョティシュキー『十字軍の歴史』、361-362頁</ref>。

サーリフは多数の[[マムルーク]]を購入し、1241年2月にナイル川のローダ島に彼らが居住する兵舎を建設する<ref name="ohara6">大原『エジプト マムルーク王朝』、6頁</ref>。ローダ島で暮らすマムルークは「川のマムルーク」を意味する「バフリー・マムルーク」の名前で呼ばれた<ref name="ohara6"/><ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、287-288頁</ref>。

[[1249年]]にフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]が率いる十字軍がダミエッタに襲来し、町を占領下に置いた([[第7回十字軍]])。十字軍の襲来時に病床にあったサーリフはエルサレムの返還と引き換えに十字軍のダミエッタからの撤退を提案したが、ルイ9世はサーリフの提案を拒絶し、サーリフは[[マンスーラ]]に移動して迎撃の態勢をとった<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、359頁</ref>。同年10月にサーリフは没し、サーリフの子である[[トゥーラーン・シャー|ムアッザム・トゥーラーン・シャー]]が駐屯先のメソポタミアからエジプトに帰国するまでの間、サーリフの寡婦[[シャジャル・アッ=ドゥッル]]が代理で政務を執った。サーリフの死を伏せるために一定の時刻に食事と薬が病室に運び込まれ、偽のサーリフの署名がある命令が発せられた<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、9頁</ref>。フランス軍はダミエッタからマンスーラに進軍するが、2月9日に将軍[[バイバルス]]が率いるバフリー・マムルーク軍団が[[マンスーラの戦い (1250年)|マンスーラの戦い]]で十字軍に勝利を収める。2月にトゥーラーン・シャーはエジプトに帰国し、シャジャル・アッ=ドゥッルから国政を譲渡される。4月7日に追い詰められたフランス軍はエジプト軍に降伏し、捕虜となったルイ9世はマンスーラの邸宅に拘留された。

即位したトゥーラーン・シャーは義母のシャジャル・アッ=ドゥッルに敵意を表し、バフリー・マムルークを投獄・免職して、直属の部下を要職に登用した<ref name="ohara10">大原『エジプト マムルーク王朝』、10頁</ref>。シャジャル・アッ=ドゥッルとバフリー・マムルークはトゥーラーン・シャーの殺害を共謀し、1250年5月2日にトゥーラーン・シャーは暗殺され、エジプトのアイユーブ家の政権は滅亡する<ref name="ohara10"/>。トゥーラーン・シャーの死後にシャジャル・アッ=ドゥッルを君主とする政権が樹立され、[[マムルーク朝]]が成立した。また、捕らわれていたルイ9世はトゥーラーン・シャー存命中の合議に従い、全兵士の撤退と身代金の支払いと引き換えに釈放された<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、363-364頁</ref>。

=== モンゴル帝国の侵攻 ===
[[Image:Ayyubids 1257.png|thumb|180px|right|[[1257年]]のアイユーブ家の勢力図<br/>(赤:アル=ナースィル・ユースフ<br/>茶:アル=ムギース・ウマル)]]
[[Image:Mongol raids in Syria and Palestine 1260.svg|thumb|180px|right|シリア・パレスチナに侵入したモンゴル軍の進路]]
マムルーク朝の成立後、シャジャル・アッ=ドゥッルに敵対するマムルークはアレッポのアイユーブ王族[[アル=ナースィル・ユースフ]]に援助を求めた。1250年7月にダマスカスに入城したナースィルは市民から熱烈な歓迎を受け、ダマスカス、アレッポと近辺の都市を勢力下に組み入れた<ref name="ohara12">大原『エジプト マムルーク王朝』、12頁</ref>。ナースィル以外のシリア各地のアイユーブ朝王族も独立を図り、エジプト・シリアはマムルーク政権とアイユーブ家の人間によって分割される<ref name="ohara12"/>。シャジャル・アッ=ドゥッルからスルターンの地位を譲られた夫の[[イッズッディーン・アイバク]]はアイユーブ家との関係の改善を図り、アイユーブ家の王子[[アル=アシュラフ・ムーサー]]を共同統治者としたが、効果は無かった<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、13頁</ref>。1250年9月にエジプトを攻撃したナースィルはマムルーク軍に敗北し、1251年2月のサーリヒーヤの戦いでは多くのアイユーブ家の人間がマムルーク軍の捕虜となった。アイバクはアイユーブ家の残党が残るシリアへの進軍を企てたが、[[モンゴル帝国]]の侵入に晒されたカリフ・[[ムスタアスィム]]はイスラームの統合を提唱し、[[1253年]]4月にアイユーブ家とマムルーク政権の講和が成立する<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、14頁</ref>。講和の取り決めにより、エジプト、エルサレムを含む[[ヨルダン川]]以西・[[ナーブルス]]以南の地域がマムルーク政権の支配下に、その他のシリアがナースィルの支配下に置かれた<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、14-15頁</ref>。また、アル=アーディル2世の子であるアル=ムギース・ウマルがカラク、シャウバクで自立した政権を樹立した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、290-292頁</ref>。

[[1258年]]にバグダードのアッバース朝が滅亡した後、ナースィルは子のアジーズをモンゴル帝国の[[フレグ]]の元に派遣して貢納を行ったが、フレグはナースィル自身が出頭しなかったことを詰問した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、292-293頁</ref>。メソポタミア北部がモンゴル軍によって征服される事態に至り、ナースィルはこれまで敵対していたマムルーク政権、カラクのウマルと講和し、対モンゴルの同盟を締結する<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、306-312頁</ref>。[[1260年]]初頭にアレッポ、ダマスカスがモンゴルの支配下に入り、アレッポでモンゴル皇帝[[モンケ]]崩御の報告に接したフレグはペルシアに帰還した。マムルークの指導者である[[ムザッファル・クトゥズ]]はナースィルを警戒して彼の配下の将軍を調略してエジプトへの入国を拒み、ナースィルは移動先の[[トランスヨルダン]]でモンゴルの将軍[[キト・ブカ]]によって捕らえられる<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、327頁</ref>。親族とともに[[タブリーズ]]に護送されたナースィルはフレグに面会し、フレグからシリアの領有を約束された上でダマスカスに移動した。ダマスカスへの移動中、ナースィルはフレグが派遣した追手によって他のアイユーブ家の王族とともに殺害され、ナースィルの子のアジーズだけが助命された<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、344-346頁</ref>。

1260年の[[アイン・ジャールートの戦い]]でモンゴル軍に勝利したマムルーク朝はイスラーム世界で確固たる地位を築いたが、反対にアイユーブ家の権威は低下し、アイユーブ朝の衰退は決定付けられる<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、23頁</ref>。

=== マムルーク朝時代のアイユーブ家 ===
[[1262年]]にアイユーブ家の一員であるアル=アシュラフ・ムーサーが没した後、バイバルスは彼の領土であるヒムスを併合した。ナースィルがキト・ブカに捕らえられたころ、ウマルは子のアジーズをフレグの元に派遣して臣従を申し入れた<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、328,346頁</ref>。[[1263年]]にマムルーク朝のスルターン・[[バイバルス]]はウマルをフレグと内通した罪状で処刑し、カラクを支配下に編入した<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、347頁</ref>。

ハマーを統治するアル=マンスールはモンゴルの侵入に際して当初からマムルーク軍と共に戦っていたため<ref name="AMF616">Abulafia, McKitteric, and Fouracre, 2005, 616頁</ref>、ハマーの分家はマムルーク朝の支配下で存続し続ける。[[1299年]]に最後のハマーのアイユーブ家領主が没すると、ハマーは一時的にマムルーク朝の直接支配を受ける。しかし、スルターン・[[ナースィル・ムハンマド]]の援助を受けて、[[1310年]]に著名な地理学者・著述家として知られる[[アブ・アル=フィダ|アブル=フィダー]]を当主としてハマーのアイユーブ家は再興される。[[1331年]]にアブル=フィダーは没し、彼の子であるアル=アフダル・ムハンマドが跡を継いだ。マムルーク朝のスルターンからの支持を失ったアル=アフダル・ムハンマドは[[1341年]]にハマーの支配者の地位を追われ、ハマーは正式にマムルーク朝の支配下に置かれた。<ref>Abu-Lughod, Dumper, and Stanley, 2006, 163頁</ref>

[[アナトリア半島]]南東部の{{仮リンク|ハサンケイフ|en|Hasankeyf|label=ヒスン・カイファー}}はアイユーブ家に属し、フレグの子孫が支配する[[イルハン朝]]の下で1330年代まで独立を保ち続ける。イルハン朝の衰退後、[[1334年]]にヒスン・カイファーは[[アルトゥク朝]]の攻撃を受けるが勝利を収め、アルトゥク朝から[[チグリス川]]の左岸部を獲得した。<ref>Singh, 2000, 203-204頁</ref>14世紀のヒスン・カイファーのアイユーブ家はマムルーク朝と[[ドゥルカディル侯国]]に臣従する一方で居城を改修して存続していたが、16世紀初頭にヒスン・カイファーは[[オスマン帝国]]の支配下に組み込まれた<ref>Ayliffe, Dubin, Gawthrop, Richardson, 2003, 913頁</ref>。

== 社会 ==
ザンギー朝と同じく、アイユーブ朝の軍事・政治体制はセルジューク朝で実施されていた[[マムルーク]]制度と[[イクター]](封土)制度を継承し、より発達させたものだった<ref name="miura303">三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、303頁</ref>。

ワズィールや[[カーディー]]が文官、[[ハージブ]](サラール)が軍人の頂点に立ち、それぞれ君主を補佐していた<ref name="miura303"/>。軍の主力はクルド人とテュルク系のマムルークで構成され<ref name="si-jiten"/>、大規模な戦争の際には[[オグズ|トゥルクマーン]]やアラブ遊牧民も招集された<ref name="miura303"/>。後世のマムルーク朝時代の軍隊と比べると指揮系統の組織化は発達していなかった<ref name="miura303"/>。1187年のヒッティーンの戦いではマムルークが大きな役割を果たし、サラディンの死後に各地の領主は勢力を保持するために自己のマムルークを購入した<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、5-6頁</ref>。危機に際してクルド人兵士が逃亡し、マムルークたちは自分の周りに残った即位前の経験からアッ=サーリフはマムルークたちの忠誠心を高く評価し<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、287頁</ref>、サーリフの時代にバハリー・マムルーク軍団が設置された。強大な勢力を持つようになったマムルークたちはサーリフの子のトゥーラーン・シャーを殺害して自己の王朝を創始し、エジプト・シリアから十字軍勢力とモンゴル軍を駆逐する<ref>大原『エジプト マムルーク王朝』、6-7頁</ref>。また、ファーティマ朝時代にはザンジュ(黒人奴隷兵)が一定の勢力を有していたが、1169年8月にサラディンによってザンジュの蜂起が鎮圧された後、彼らの勢力はエジプトから一掃された<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、81,84頁</ref>。

サラディンは叔父シールクーフの土地政策を拡大し、1169年の初夏にファーティマ朝の軍人が所有していた土地を没収し、シリアから引き連れてきた騎士たちにイクターとして分配した<ref name="sato1996-79"/>。ファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは直属の兵士にイクターを授与し、父のアイユーブに[[下エジプト]]、兄弟のトゥーラーン・シャーに[[上エジプト]]を与えた<ref name="miura298"/>。支配体制が確立していないサラディン時代には、王族やアミールが自分が望むイクターの授与・保有を求めて国家と衝突する事例がままあった<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、205頁</ref>。1171年から1181年にかけて行われた検地ではイクター収入の調査以外に、測量、税率の引き下げが実施され、建国されたばかりの国家の基盤づくりが進められた<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、124-127頁</ref>。アミール(軍司令官)たちはイクターから上がる収入を軍備や配下の俸禄に充て<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、80頁</ref>、与えられた土地の治水事業に力を注いだ<ref name="si-jiten"/>。政府が実施する運河の開削・修復事業にあたってはそれぞれのアミールにイクターの収入に応じた作業が割り当てられ、工事には農民たちが駆り出された<ref name="sato1996-132">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、132頁</ref>イクターの所有者から課せられる賦役、徴税に反発して、土地の農民たちはアラブ遊牧民の協力を得てしばしば反乱を起こした<ref name="sato1996-132"/>。

== 人口 ==
アイユーブ朝の支配下に置かれていた地域の正確な人口は計測されていない。Colin McEvedy、Richard Jonesは12世紀当時のアイユーブ朝の領土の人口について、シリアは約2,700,000人、パレスチナおよびトランスヨルダンは500,000人、エジプトは5,000,000人に達する人口を擁していと推定している<ref>Shatzmiller, 1994, 57-58頁</ref>。Josiah C. Russelは同時代の[[レバント]]地方に存在した8,300の村落には2,400,000の人間が住み、10の主要都市には230,000から300,000の市民が住んでいたと考えている。10の主要都市のうち8がアイユーブ朝の支配下に置かれ、人口は[[エデッサ]]、ダマスカス、アレッポ、エルサレムの順に多かった<ref name="Shatzmiller59">Shatzmiller, 1994, 59-60頁</ref>。

{| class="wikitable"
|-
! !! [[エデッサ]] !! [[ダマスカス]]!! [[アレッポ]] !! [[エルサレム]]
|-
! 人口
| 24,000 || 15,000 || 14,000 || 10,000
|}

また、Russelはアイユーブ朝時代のエジプトの農村地帯について2,300の村落に3,300,000人の人間が住んでいたと見積もり、当時としては高い水準にあった人口密度の高さはエジプトでの農業生産量の増加に貢献したと推察した。エジプトの都市部の人口は233,100人と農村地帯の人口に比べて少なく、エジプトの全人口のうち都市民が占める割合は5.7%にとどまっていた。エジプトの都市部の人口密度も高く、その原因は都市化と工業化の進展に求めることができる<ref name="Shatzmiller59"/>。当時のエジプトの主要都市の人口は、以下のように推定されている。

{| class="wikitable"
|-
! !! [[カイロ]] !! [[アレクサンドリア]]!! [[クス (エジプト)|クス]] !! [[ディムヤート|ダミエッタ]] !! [[ファイユーム]] !! [[ビルベイス]]
|-
! 人口
| 60,000 || 30,000 || 25,000 || 18,000 || 13,000 || 10,000
|}

== 農業・経済 ==
[[Image:Saladin 1190 mint of Mayyafariqin.jpg|thumb|180px|right|1190年に発行された硬貨]]
[[Image:Egyptian vase MBA Lyon 1939-10.jpg|thumb|180px|right|アイユーブ朝時代のエジプトで製造された陶器]]
アイユーブ朝の政治体制は安定していなかったものの、エジプト・シリアの経済は順調に成長を遂げていく<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、274頁</ref>。

アイユーブ朝では農産物の生産量を増やす様々な政策が実施され、農地の灌漑を容易に行うために運河の開削が行われた。アイユーブ朝時代のエジプトではナイル川を利用した農業が経済の基盤をなし<ref name="sato1997-275">佐藤『イスラーム世界の興隆』、275頁</ref>、[[小麦]]、[[綿花]]、[[サトウキビ]]の栽培が盛んになった<ref name="ii-jiten"/>。年間のナイル川の水量に異変が無い場合、エジプトではヨーロッパに比べて4-5倍多い量の小麦の収穫が見込まれ、シリアの1.5倍の税収が期待できた<ref name="sato1997-275"/>。アイユーブ朝時代にサトウキビ栽培は[[下エジプト]]から[[上エジプト]]に拡大し、砂糖商人やスルターン、アミールによる製糖工場の経営が盛んになり、砂糖は輸出品の中で重要な地位を占めるようになる<ref name="sato1996-131">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、131頁</ref>。エジプト中部の農業地帯である[[ファイユーム]]地方は国家収入の財源となり、サラディンの治世にはエジプト内の全イクターからあがる収入の約8%がファイユーム地方のイクターで占められていたと考えられている<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、148-149頁</ref>。

十字軍勢力との抗争がアイユーブ朝とヨーロッパ諸国の経済関係の発展を妨げる事はなく、二つの異なる文化の接触は経済活動、農業をはじめとする様々な分野において双方に良い影響をもたらした<ref name="Ali">Ali, 1996, 37頁</ref>。サラディン死後の後継者争いに勝利してエジプト・ダマスカスを勝ち取ったアル=アーディルは、エルサレムの回復と十字軍勢力の弱体化によってサラディンが宣言したジハードに意義が見いだせないと判断し、キリスト教勢力との共存・通商関係の構築を試みた<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、332-333頁</ref>。1202年にアル=カーミルとヴェネツィアの交渉により、ヴェネツィア船の[[アレキサンドリア]]やダミエッタなどの[[ナイル川デルタ]]の港湾都市への入港の許可と船舶の保護と引き換えに、ヴェネツィアはエジプト遠征を試みるヨーロッパ諸勢力に対して一切の援助を行わないことが約束された<ref>マアルーフ『アラブが見た十字軍』、333-334頁</ref>。アイユーブ朝の領土内にはヴェネツィア人の居住区が設置され、領事館の開設が認められる<ref name="hit593"/>。[[ショウガ]]、[[アロエ]]、[[ミョウバン]]、そして[[アラビア半島]]と[[インド]]からもたらされた香料、香水、香油がヨーロッパに輸出され、グラス、陶器、金銀細工などのイスラーム世界で製造された工芸品はヨーロッパで珍重された<ref name="Ali"/>。アイユーブ朝と十字軍の間に生まれた交流を通して中東・[[中央アジア]]で生産された絨毯、カーペット、タペストリーが西方に紹介され、ヨーロッパ世界の衣服や家具の様式に新しい風を吹き込んだ<ref name="Ali"/>。また、アイユーブ朝およびザンギー朝との交易によって、[[ゴマ]]、[[キャロブ]]、[[キビ]]、コメ、レモン、メロン、[[アンズ]]、エシャロットといった植物がヨーロッパにもたらされた<ref name="Ali"/>。

[[イラク]]方面の混乱のため、東西交易においては[[紅海]]を経た海路が主要な経路になり、カイロ、アレクサンドリアは交易の拠点として繁栄する<ref name="ii-jiten"/>。紅海の安全を確保するために保安船の配備、中継基地の建設が実施され、紅海を通る商人はその恩恵に与ることができた<ref>家島『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』、431頁</ref>。イエメンのアデンから紅海、ナイル川を経てカイロ、アレクサンドリアに至るルートでは[[カーリミー商人]]が活躍し、彼らは[[香辛料]]、[[絹織物]]、[[陶磁器]]などの商取引に従事していた<ref name="sato1996-136">佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、136頁</ref>。アイユーブ朝は十字軍勢力と紅海交易の独占権を巡って争い、1183年に[[アイザーブ]]沖での戦闘でエジプト艦隊が十字軍艦隊を破った後、カーリミー商人が紅海交易を独占した<ref name="sato1996-136"/>。カーリミー商人は地中海方面の交易活動では[[ジェノヴァ]]、ヴェネツィアの商人と競合していたが、紅海では交易活動の独占権を有していたため、国際貿易においてアイユーブ朝は強力な地位を保っていた。そして、[[インド洋]]を経た交易活動も、カーリミー商人が半ば独占する形で展開されていた。カーリミー商人のインド交易の活性化に伴い、彼らから徴収した諸々の税金で国庫が潤された<ref>家島『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』、431-432頁</ref>。アイユーブ朝からマムルーク朝にかけての時期にカーリミー商人の活動は活発化し、財政収入の増加にも貢献した<ref name="sato1996-136"/>。

国際貿易の発展に伴い、債権と銀行制度の基本的な原則も発達していった。ユダヤ人、イタリア人の銀行家はシリアに代理店を置き、経常的に営業する店舗には遠方の主人に代わって取引に従事する人間が駐在していた。商取引には[[手形]]が用いられ、シリア各地の銀行では預金制度が利用されていた。カーミルの治世には国家財政は厳格に統制され、彼の死後に国家予算の1年分に相当する貯蓄が遺されたと言われている<ref name="Ali38">Ali, 1996, 38頁</ref>。また、13世紀のイタリアでは[[レヴァント交易]](東方交易)に従事したイタリア商人によって、イスラーム諸国から支払手形の概念が導入される<ref name="o-koza">佐藤圭四郎「十字軍と文化交流」『オリエント史講座』4巻収録(学生社, 1982年11月)、155頁</ref>。「小切手」を意味するアラビア語のサック(ṣaqq)、ペルシア語のチェック(cheqq)が英語のチェック(cheque)の語源になったと考えられている<ref name="o-koza"/>。

安定した農業活動とカーリミー商人の活躍により、カイロは[[バグダード]]に代わる大都市への発展を遂げていく<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、141頁</ref>。

== 文化 ==
=== 教育 ===
スンナ派保護の方針もあって、アイユーブ朝時代にはエジプト、シリアに多くの[[マドラサ]](神学校)が建設される<ref name="si-jiten"/>。国家によって建てられたマドラサは教育以外に、スンナ派の知識を普及させる役割も備えていた。[[16世紀]]までにダマスカスに建てられたマドラサのうち、約半数がアイユーブ朝時代に建設されたもので占められていた<ref>三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、304頁</ref>。12世紀末の旅行家[[イブン・ジュバイル]]は、サラディン時代のダマスカスには20のマドラサ、数多くの[[スーフィー]]の道場が建てられていたことを記録し、マドラサの建築事業はサラディンより後のアイユーブ朝のスルターンに継承された。そして、スルターンだけでなくスルターンの妻や娘、有力な軍人や貴族もマドラサの建設と資金援助に携わっていた<ref name="Ali38"/>。

アイユーブ朝では[[シャーフィイー学派]]が主要な地位を占めていたが、シャーフィイー学派以外のスンナ派四大法学派のマドラサも建設される。アイユーブ朝成立前のシリアには[[ハンバル学派]]と[[マーリク学派]]のマドラサは存在していなかったが、アイユーブ朝期にシリアに初めてこの2つの学派のための独立したマドラサが設置された。[[1170年]]秋にカイロに[[シャーフィイー学派]]と[[マーリク学派]]のマドラサが開設され、翌1171年にサラディンの甥タキー・アッディーン・ウマルによってより豪華なマドラサが建設された<ref name="sato1996-85"/>。サラディンに仕えた学者の[[イブン・シャッダード]]によれば、当時のダマスカスには40のシャーフィイー学派のマドラサ、34の[[ハナフィー学派]]のマドラサ、10のハンバル学派のマドラサ、最後に3つのマーリク学派のマドラサが存在していたという<ref name="Ali39">Ali, 1996, 39頁</ref>。シーア派の最高学府である[[アル=アズハル大学]]の存在は軽んじられ、マムルーク朝の成立までアズハル大学の影響力は失われる<ref>鈴木八司『エジプト』(読んで旅する世界の歴史と文化, 新潮社, 1996年12月)、86頁</ref>。

サラディンと彼の後継者は他のイスラーム国家の権力者と異なり、権勢を誇示するための大規模なモスクの建設事業を行っておらず、マドラサの建設事業に熱意を注いでいた<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、119-120頁</ref>。エジプトにスンナ派を復活させたサラディンはこの地に10のマドラサを建設し、彼の死後にエジプトにはさらに25のマドラサが建てられたが、それらのマドラサの場所は[[フスタート]]に集中していた。エジプトに建てられた多くのマドラサはシャーフィイー学派に属し、残りはマーリク学派とハナフィー学派に属していた。[[イマーム]]の{{仮リンク|アッ=シャーフィイー|en|Al-Shafi‘i}}の廟に隣接する場所に建てられたマドラサは重要な巡礼地となり、スンナ派の信奉者が多く集まる場所となった<ref name="Yeomans111">Yeomans, 2006, 111頁</ref>。エジプト、エルサレム、ダマスカスには高官によって26のマドラサが建てられたほか、当時としては珍しく市民によって18のマドラサがエジプトに建てられ、その中には2つの医療機関が含まれていた。<ref name="Ali39"/>

マドラサには原則的に教師と学生が寄宿する規定が設けられており、多くのマドラサは住宅としての役割も備えていた。教師たちは法学、神学、伝統的なイスラーム諸学を教授し、彼らの給与はマドラサの[[ワクフ]]から捻出されていた。そして学生たちは宿舎、研究を志す様々な分野の教授、定期的な奨学金を利用する事ができ、彼らが必要とするものはおおよそ与えられていた。アイユーブ朝時代の社会ではマドラサは権威ある機関と考えられ、マドラサで教育を受けていない人間は公職に就くことができなかった<ref name="Ali39"/>。しかし、アイユーブ朝時代に建設されたマドラサの多くは、教育・居住に十分な空間が確保されていなかった<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、123-125頁</ref>。多くのマドラサには建設者の墓が併設されており、墓は校舎とともに[[ワクフ]]によって維持され、近接する校舎で詠唱されるコーランによって埋葬された死者の魂の安寧が保障される恩恵に与ることができた<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、132頁</ref>。このためマドラサは学究機関以外に霊廟としての役割も備えるようになり、後継国家のマムルーク朝でもこの傾向は続いた<ref name="haneda133">羽田『モスクが語るイスラム史』、133頁</ref>。

=== 研究活動 ===
高度な教育を受けたアイユーブ朝の君主は学問と教育の有力な保護者となり、新たに建設された研究・教育機関と王朝内の学芸の保護者によって、様々な分野でスンナ派の知的活動が復活し、特に医学、薬学、植物学の分野に関心が集まった。アイユーブ朝時代のエジプト、シリア、メソポタミアには多くの学者、医師が集まり、カイロには[[モーシェ・ベン=マイモーン|イブン・マイムーン]](マイモニデス)、アブドゥルラティーフ・バグダーディーなどの学者が集まった。医師の中にはアイユーブ朝の王族に直接雇われ、スルターンの侍医になった者もいた<ref>Ali, 1996, 39-41頁</ref>。また、サラディンはヌールッディーンがダマスカスに建設した病院を模して、カイロに二つの病院を建設した。

=== 建築 ===
[[File:Ayyubid Wall Al-Azhar Park Cairo 01-2006.jpg|thumb|right|[[カイロ]]の[[アズハル公園]]に残るアイユーブ朝時代の城壁(2006年1月撮影)]]
[[File:Ayyubid wall cyark 2.jpg|thumb|right|アズハル公園の外に建てられたal-Barqiyya門の[[測域センサ|3Dスキャン]]。]]
頑強かつ美しい石材を生かした力強さがアイユーブ朝時の建築物の特徴であるが、同時に装飾が過剰であるという指摘もされている<ref name="hit593">ヒッティ『アラブの歴史』下、593頁</ref>。自然の地形に沿った城壁の構築といった、アイユーブ朝の要塞の建築に用いられた技術の一部は十字軍から吸収したものだった。アイユーブ朝はファーティマ朝から[[出し狭間]]、円塔などの多くの建設技法を継承していたが、同時に円状の都市計画をはじめとする独特の様式の発達も見られた<ref>Peterson, 1996, 26頁</ref>。アイユーブ朝期にエジプトに建てられたマドラサは姿を留めていないものの建築史に影響を与え、アイユーブ朝で育まれた古典的なアラブ風建築様式はマムルーク朝に継承される<ref name="hit593"/>。一方、モスク建築の技術はファーティマ朝時代のものと比べて大きな変化は見られない<ref name="haneda133"/>。

アイユーブ家、地方の統治者、[[ウラマー]](学者)などの有力者の家に生まれた女性は建築事業の熱心な後援者にも成り得た。ダマスカスは長きにわたって女性による宗教施設の建設事業が推進された場所であり、15のマドラサ、6のスーフィーの道場、26の宗教・慈善施設が建てられた。

ファーティマ朝の宰相に就任したサラディンはカイロ市内の「宰相の館」で政務を執っていたが、カイロの市街地化が進展したために館の警備に困難をきたし、サラディンはカイロ郊外に新たな居城の建設を計画した<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、266頁</ref>。カイロ南のムカッタム(モカッタム)の丘に城砦が建設され、サラディン没後の[[1207年]]に完成した城砦は19世紀に至るまでエジプトの君主の居城として使用された<ref name="miura298"/>。サラディンはフスタートとカイロを囲む城壁の建設も試みたが、完成には至らなかった<ref name="miura298"/><ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、121頁</ref>。サラディンが建築した王の居城とカイロの旧市街を結ぶ道に沿って新たな市街地が形成され、後代のカイロの発展の方向性が定まった<ref>羽田『モスクが語るイスラム史』、119頁</ref>。

アイユーブ朝期にはシリア北部のアレッポに印象的な建築物が多く建てられ、城塞の修復と用水路の拡張、通りと街区への噴水と[[ハンマーム]](公衆浴場)の設置といったインフラストラクチャーの整備が実施される。また、町の各地に数十のモスク、マドラサ、霊廟が建立された。<ref>Tabaa, 1997, 26頁</ref>アレッポの街並みに大きな変化が現れたのは、サラディンの子[[アル=マリク・アル=ザーヒル|アッ=ザーヒル・ガーズィー]]の時代である。城塞、用水路、砦、城壁の外の地域の開発の4点に、アイユーブ朝時代のアレッポで実施された建設事業の成果が遺されている。ザンギー朝のヌールッディーンによって建てられた城壁がアッ=ザーヒルによって取り払われた時から町の再開発が始まり、頻繁に外敵の攻撃に晒されたal-Jinan門とal-Nasr.門の間に広がる北・北西の城壁の修復が行われた。東側の城壁は南東に拡張された際、アッ=ザーヒルの希望を汲んで市外の荒廃した要塞Qala'at al-Sharifが城壁の中に収められる<ref>Tabaa, 1997, 19頁</ref>。また、アレッポでの建築・城壁の拡張にはアッ=ザーヒルだけでなく彼の息子や配下の将校たちも関わっており、塔の中には王子たちの名前が刻まれたものもある。アル=アーディルの娘Dayfaの後援によってアレッポに建てられたフィルダウス・マドラサは、アイユーブ朝時代のシリアに建てられた代表的な建物として知られている<ref>Necipoğlu, 1994, 35-36頁</ref>。[[1256年]]にアン=ナースィル・ユースフによって再建されたQinnasrin門は、中世シリアの軍事建築の最高傑作として名高い<ref>Tabaa, 1997, 21-22頁</ref>。1260年のモンゴル軍の攻撃でアレッポは多大な被害を受け、アイユーブ朝期に建設された防御施設のほとんどが失われた<ref>黒木英充『シリア・レバノンを知るための64章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2013年8月)、86頁</ref>。

サラディンによってエルサレムが占領された後、町では家屋、[[スーク]](市場)、ハンマーム、巡礼者のための宿泊所の建設に多額の費用が投入され、エルサレム旧市街の[[神殿の丘]]に多くの施設が建てられた<ref>Abu-Lughod and Dumper, 2007, 209頁</ref>。エルサレムを占領したサラディンは、[[アル=アクサー・モスク|アクサー・モスク]]と[[岩のドーム]]からキリスト教的な要素を取り除こうと試みた<ref>佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、177頁</ref>。アクサー・モスクに描かれたキリスト教の図柄が取り払われ、岩のドームの内部に置かれている巨石から覆っていた大理石が剥がされた後、石はサラディンの甥タキーウッディーン・ウマルによってバラ水で清められる。エルサレム内の多くのキリスト教会はモスク、マドラサに改装されたが、[[聖墳墓教会]]はキリスト教会のまま留め置かれた<ref name="oikawa"/>。聖アンナ教会はサラディンの名前を冠したマドラサに、聖墳墓教会近くの大司教館は[[ダルヴィーシュ]]([[スーフィー]]の修行者)の宿泊所に改築される<ref name="baha">ダン・バハト『図説イェルサレムの歴史』(高橋正男訳, 東京書籍, 1993年4月)、60-62</ref>。[[1217年]]にアクサー・モスクの[[ミフラーブ]]が修復され、アル=ムアッザムによってモスク北側の3つの門にポーチが取り付けられた<ref>Ma'oz and Nusseibeh, 2000, 137-138頁</ref>。1219年の第5回十字軍に際し、十字軍によってエルサレムの城壁が利用されることを恐れたムアッザムは城壁を取り壊した<ref name="oikawa"/>。町に愛着を持つ人々はダビデの塔をはじめとする防御施設の破壊を嘆き<ref name="baha"/>、城壁の破壊が住民に不安を与えたために人口の流出と町の衰退を招いた<ref name="oikawa"/><ref name="baha"/>。


== アイユーブ朝の歴代君主 ==
== アイユーブ朝の歴代君主 ==
# [[サラーフッディーン]](在位:[[1169年]] - [[1193年]])
'''大アイユーブ朝(1171年-1250年)'''
# [[アル=アジーズ]](在位:1193年 - [[1198年]])
# [[アル=マンスール・ムハンマド1世]](在位:1198年 - [[1200年]])
# [[アル=アーディル]](在位:1200年 - [[1218年]])
# [[アル=カーミル]](在位:1218年 - [[1238年]])
# [[アル=アーディル2世]](在位:1238年 - [[1240年]])
# [[サーリフ]](在位:1240年 - [[1249年]])
# [[トゥーラーン・シャー]](在位:1249年 - [[1250年]])
# [[アル=アシュラフ・ムーサー]](在位:[[1250年]] - [[1254年]])

=== ダマスカス ===
# サラーフッディーン(在位:[[1174年]] - [[1193年]])
# [[アル=アフダル]](在位:1193年 - [[1196年]])
# [[アル=アーディル]](在位:1196年 - [[1218年]])
# アル=ムアッザム(在位:1218年 - [[1227年]])
# アン=ナースィル・ダーウード(在位:1227年 - [[1229年]])
# アル=アシュラフ(在位:1229年 - [[1237年]])
# アッ=サーリフ・イスマーイール(在位:1237年 - [[1238年]])
# アル=カーミル(在位:1238年)
# アル=アーディル2世(在位:1238年 - [[1239年]])
# アッ=サーリフ・ナジュムッディーン・アイユーブ(在位:1239年)
# アッ=サーリフ・イスマーイール(復位・在位:1239年 - [[1245年]])
# アッ=サーリフ・ナジュムッディーン・アイユーブ(復位・在位:1245年 - [[1249年]])
# トゥーラーン・シャー(在位:1249年 - [[1250年]])
# [[アン=ナースィル・ユースフ]](在位1250年 - [[1260年]])


=== ハマー ===
#[[サラーフッディーン]](在位[[1169年]]または[[1171年]]-[[1193年]])
# アル=ムザッファル・ウマル(在位:1179年- - 1191年、サラーフッディンの兄弟シャーハンシャーの息子)
#[[アル=アジーズ]](在位1193年-[[1198年]])
#[[アル=マンスール・ムハンマド1世]](在位1198-[[1200]]
# アル=マンスール・ムハンマド(在位:1191 - 1222年)
#[[ィル]](在位[[1202]]-[[1218]]
# ィル・キリジ・アルスラーン(在位:1222 - 1230年)
#[[アル=カーミ]](在位1218-[[1238]]
# アル=ムザッファ・マフムード(在位:1230 - 1245年)
#[[アル=ディル・アブー・バクル2世]](在位1238-[[1240]]
# アル=マンスール・ムハンマド2世(在位:1245 - 1284年)
# アル=マンスール・マフムード
#[[サーリフ]](在位1240年-[[1249年]])
# [[アブ・アル=フィダ|アル=ムアイヤド・アブル=フィダーウ]](地理学者として有名)
#[[トゥーラーン・シャー]](在位1249年-[[1250年]])
#[[アル=アシュラフ・ムーサー]](在位[[1250年]]-[[1254年]])
# アル=アフダル・ムハンマド


=== イエメン ===
'''ダマスカス(1193年-1252年)'''
# トゥーラーン・シャー(在位:1174年 - 1181年、サラーフッディーンの兄)
# トゥグ=ティキーン(在位:1181年 - 1202年、上記のトゥーラーン・シャーとサラーフッディーンの兄弟)
# アル=ムイッズ・イスマーイール(在位:1202年 - 1203年、トゥグ=ティキーンの息子)
# アン=ナースィル(在位:1203年 - 1203年、アル=ムイッズ・イスマーイールの兄弟)
# Ghazi ibn Jebail(在位:1203年 - 1214年)
# スライマーン(在位:1214年 - 1216年、トゥーラーン・シャーの子タキーユッディーン・ウマルの子)
# アル=マスウード(在位:1216年 - 1229年、エジプトのスルターン・[[アル=カーミル]]の息子)
# ユースフ(在位:1229年 - 1240年)


== 脚注 ==
#[[アル=アフダル]](在位[[1193年]]-[[1196年]])
{{Reflist}}
#[[アル=アーディル]](在位[[1196年]]-[[1200年]])
#[[アル=ムアッザム|al-Mu`aẓẓam]](在位[[1218年]]-[[1227年]])
#[[アン=ナースィル・ダーウード|An-Nāṣir Dāwūd]](在位[[1227年]]-[[1229年]])
#[[アル=アシュラフ (アイユーブ朝王族)|Al-Ashraf]](在位[[1229年]]-[[1237年]])
#[[アッサーリフ・イスマーイール|As-Ṣāliḥ Ismā`īl]](在位[[1237年]]-[[1238年]])
#As-Ṣāliḥ Ismā`īl(2回目在位[[1239年]]-[[1245年]])
#[[アン=ナースィル・ユースフ|An-Nāṣir Yūsuf]](在位[[1250年]]-[[1252年]])


== 参考文献 ==
'''ハマー(1178年-1342年)'''
* 太田敬子「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
#アル=ムザッファル・ウマル(在位1179-1191、サラーフッディンの兄弟シャーハンシャーの息子)
* 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
#アル=マンスール・ムハンマド(在位1191-1222、)
* 佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン』(講談社選書メチエ, 講談社, 1996年5月)
#アン=ナースィル・キリジ・アルスラーン(在位1222-1230)
* 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』(世界の歴史8, 中央公論社, 1997年9月)
#アル=ムザッファル・マフムード(在位1230-1245)
* 佐藤次高「アイユーブ朝」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
#アル=マンスール・ムハンマド2世(在位1245-1284)
* 橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫, 講談社, 1994年6月)
#アル=マンスール・マフムード
* 羽田正『モスクが語るイスラム史』(中公新書, 中央公論社, 1994年3月)
#[[アブ・アル=フィダ|アル=ムアイヤド・アブル=フィダーウ]](地理学者として有名)
* 前嶋信次『イスラムの時代』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月)
#アル=アフダル・ムハンマド
* 三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)
* 家島彦一『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』(名古屋大学出版会, 2006年2月)
* C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)
* エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』(川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)
* フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』下(講談社学術文庫, 講談社, 1983年1月)
* アンドリュー・ジョティシュキー『十字軍の歴史』(森田安一訳, 刀水歴史全書, 刀水書房, 2013年12月)
* アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(牟田口義郎、新川雅子訳, リブロポート, 1986年4月)


== 翻訳元記事参考文献 ==
'''イエメン(1173年-1229年)'''
*{{Citation|title=Islamic Dynasties of the Arab East: State and Civilization During the Later Medieval Times|url=http://books.google.com/?id=SgjRRuPtfkQC&printsec=frontcover&dq=Islamic+Dynasties+of+the+Arab+East|first1=Abdul|last1=Ali|publisher=M.D. Publications Pvt. Ltd|year=1996|isbn=81-7533-008-2}}
#トゥーラーン・シャー(在位1174-1181、サラーフッディーンの兄)
*{{Citation|title=Labour in the medieval Islamic world|url=http://books.google.com/?id=Bzo0Skd1kcYC&pg=PA65&dq=Population+of+Egypt+Ayyubid|first1=Maya|last1=Shatzmiller|publisher=BRILL|year=1994|isbn=90-04-09896-8}}
#トゥグ=ティキーン(在位1181-1202、上記のトゥーラーン・シャーとサラーフッディーンの兄弟)
*{{Citation|title=The New Cambridge Medieval History
#アル=ムイッズ・イスマーイール(在位1202-1203、トゥグ=ティキーンの息子)
|url=http://books.google.com/?id=bclfdU_2lesC&pg=RA1-PA616&dq=Nasir+Yusuf+killed++Mongols|first1=David|last1=Abulafia|first2=Rosamond|last2=McKitterick|first3=Paul|last3=Fouracre
#アン=ナースィル(在位1203-1203、アル=ムイッズ・イスマーイールの兄弟)
|year=2005|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-36289-X}}
#Ghazi ibn Jebail(在位1203-1214)
*{{Citation|title=Cities of the Middle East and North Africa: A Historical Encyclopedia|url=http://books.google.com/?id=3SapTk5iGDkC&printsec=frontcover&dq=Cities+of+the+Middle+East#PPA156,M1|first1=Janet L.|last1=Abu-Lughod|first2=Michael|last2=Dumper|year=2007|publisher=ABC-CLIO| isbn=978-1-57607-919-5}}
#スライマーン(在位1214-1216、トゥーラーン・シャーの子タキーユッディーン・ウマルの子)
*{{Citation|title=The art and architecture of Islamic Cairo|url=http://books.google.com/?id=sNVBbTuPcPkC&pg=PP1&dq=Art+and+Architecture+of+Islamic+Cairo|first1=Richard|last1=Yeomans|publisher=Garnet & Ithaca Press|year=2006|isbn=1-85964-154-7}}
#アル=マスウード(在位1216-1229、エジプトのスルターン・[[アル=カーミル]]の息子)
*{{Citation|title=International Encyclopaedia of Islamic Dynasties|url=http://books.google.com/?id=oT8EZ7ulytgC&pg=PA203&dq=Ayyubids+Hisn+Kayfa|first1=Nagendra Kumar|last1=Singh|publisher=Anmol Publications PVT. LTD.|year=2000|isbn=81-261-0403-1}}
#ユースフ(在位1229-1240)
*{{Citation|title=Damascus: A History|url=http://books.google.com/?id=xTs77Ft6FXQC&printsec=frontcover&dq=Damascus+A+history|first1=Ross|last1=Burns|publisher=Routledge|year=2005|isbn=0-415-27105-3}}
*{{Citation|title=The Crusades, c. 1071-c. 1291|url=http://books.google.com/?id=KszvJSv7t30C&printsec=frontcover&dq=The+Crusades+1071|first1=Jean|last1=Richard|first2=Jean|last2=Birell|year=1999|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-62566-1}}
* Necipoğlu G. (ed.) Muqarnas: An Annual on Islamic Art and Architecture vol. XI E>J> Brill, Leiden 1994<!-- [[:en:Muhammad ibn Shirkuh]] -->
* Peterson, Andrew (1996). ''[http://books.google.com/books?id=eIaEAgAAQBAJ The Dictionary of Islamic Architecture]''. Routledge. ISBN 0-203-20387-9.
*{{Cite book|title=Constructions of power and piety in medieval Aleppo|url=http://books.google.com/?id=30kb0G15IH8C&printsec=frontcover&dq=Constructions+of+power+and+piety+in+medieval+Aleppo|first1=Yasser|last1=Tabaa|year=1997|publisher=Penn State Press|isbn=0-271-01562-4}}
*{{Cite book|url=http://books.google.ca/books?id=9evpVS_ackwC&pg=PA62&dq=sharafat+village+palestinian&cd=4#v=onepage&q=sharafat%20&f=false|title=Jerusalem: points of friction, and beyond|first1=Moshe|last1=Ma'oz|authorlink2=Sari Nusseibeh|first2=Sari|last2=Nusseibeh|editors=Moshe Maʻoz, Sari Nusseibeh|edition=Illustrated|publisher=BRILL|year=2000|isbn=90-411-8843-6 |isbn=9789041188434}}


{{commonscat|Ayyubid dynasty}}
{{DEFAULTSORT:あいゆふちよう}}
{{DEFAULTSORT:あいゆふちよう}}
[[Category:アイユーブ朝|*]]
[[Category:アイユーブ朝|*]]

2014年9月8日 (月) 00:54時点における版

アイユーブ朝
ファーティマ朝
ザンギー朝
1169年 - 1250年 マムルーク朝
ラスール朝
イルハン朝
アイユーブ朝の国旗
(国旗)
アイユーブ朝の位置
アイユーブ朝の最大支配領域(1188年)
公用語 アラビア語クルド語
首都 カイロ
マリク・アル=ナースィル、スルターン
1171年 - 1193年 サラーフッディーン
1202年 - 1218年アル=アーディル
1202年 - 1218年アッ=サーリフ
1249年 - 1250年トゥーラーン・シャー
変遷
成立 1169年
エルサレムの占領1187年
サラディンの死1193年
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世にエルサレムを譲渡する1229年
大アイユーブ朝滅亡1250年

アイユーブ朝アラビア語: الأيوبيون‎、クルド語:دەوڵەتی ئەییووبی )は、12世紀から13世紀にかけてエジプトシリアイエメンなどの地域を支配した スンナ派イスラーム王朝[1]。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。

1169年にエジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する[1][2]。サラディンはアッバース朝カリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている[3]。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカスアレッポディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した[1]アル=アーディルアル=カーミルアッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った[4]1250年マムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。

歴史

セルジューク朝、ザンギー朝時代

12世紀前半、アルメニアに居住していたクルド人のシャージーはナジムッディーン・アイユーブシールクーフを連れてイラクに移住し、セルジューク朝の下でバグダードの軍事長官を務めるビフルーズに仕官した[5]。シャージーはティクリートの城主に任じられ、彼の死後はアイユーブがティクリートの城主の地位を継承した[5]

1131年にセルジューク朝のスルターンマフムード2世が没した後に王位を巡る内戦が起こり、この戦争の中でアイユーブは敗走するモースルの領主イマードゥッディーン・ザンギーに助けを与えた[6]1137年/38年にアイユーブはビフルーズの命令でティクリートを追われるが、城を失った日の夜にアイユーブの妻は男児を生み、生まれた子供はユースフ(後のサラディン)と名付けられた[7]。ティクリートを失ったアイユーブは弟のシールクーフとともにモースルのザンギーの元に逃れ、ザンギーから迎え入れられた。アイユーブはシールクーフとともにザンギー配下の軍団の司令官に命じられ、1139年にはバールベックの知事に任命された。

1146年にザンギーが没した後にバールベックはセルジューク朝のダマスカス総督の攻撃を受け、アイユーブは現金・領地と引き換えに降伏した。1152年に14歳になったサラディンはアイユーブの元を離れ、ザンギーの子でアレッポを支配するヌールッディーン・マフムードに仕官する[8]。サラディンはヌールッディーンからイクター(封土)を与えられ、彼に近侍した[9]。ヌールッディーンがダマスカスへの進出を試みたとき、ダマスカスに居住していたアイユーブはヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取りあい、1154年にヌールッディーンはダマスカスの無血開城に成功した[10]。ダマスカスの開城後、アイユーブはヌールッディーンに協力したことを評価されてイクターとダマスカスの支配権を与えられ、引き続きダマスカスに留まった[11]

サラディンによる独立政権の樹立

アイユーブ朝の創始者サラーフッディーン(サラディン)

1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝の宰相シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた[12][13]。翌1164年4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイスでディルガムに勝利し、シャーワルを宰相に復職させた。だが、シールクーフを恐れるシャーワルは彼にエジプトからの撤退を求め、十字軍国家エルサレム王国アモーリー1世に援助を求めた[14][15]。8月からシールクーフの立て籠もるビルベイスはエルサレム軍とエジプト軍の包囲を受け、11月に和議が成立し、シールクーフとアモーリー1世はエジプトから撤退した[14]。1167年にシールクーフとサラディンは再びエジプト遠征を行うが不成功に終わり、同年8月に和議を結んで撤兵する。

1167年の和議に際してシャーワルはエルサレム王国に貢納と引き換えに援助の約束を取り付けるが、ファーティマ朝のカリフアーディドや民衆はシャーワルの方針に不満を抱き、シャーワルを排除する計画が巡らされた[16][17]。さらにエジプトは十字軍の攻撃を受け、フスタートが十字軍によって制圧されることを恐れたシャーワルはフスタートに火を放ち、フスタートは焦土となった[18][19]。シャーワルと敵対する派閥の人間はヌールッディーンに支援を求めた。1168年12月にシールクーフとサラディンはアレッポを発って3度目のエジプト遠征を行い、シールクーフの進軍を知ったアモーリー1世はパレスチナに撤退する[20]。翌1169年1月にシールクーフ軍はカイロに入城し、シャーワルはアーディドの命令によって処刑される[21][22]。シールクーフはシャーワルに代わるファーティマ朝のワズィール(宰相)・軍司令官に就任するが、1169年3月にシールクーフは急死し、サラディンが宰相職を継承した[23][24][25]。宰相に就任した後、サラディンは「マリク・アル=ナースィル(勝利の王)」の称号を使用する[26]

一方、ヌールッディーンはサラディンがエジプトで半ば独立した政権を樹立したことに大きな衝撃を受け、エジプトのアミール(軍司令官)の中にもヌールッディーンの呼びかけに応じてシリアに帰国した者以外に、サラディンに従ってエジプトに留まるものが現れる[27]。ヌールッディーンはエジプトでスンナ派の様式に則った礼拝を行うよう求めていたが、サラディンはシーア派に対して慎重な姿勢を取っていたため、ヌールッディーンの猜疑心をかきたてたと言われている[28][29]。サラディンはエジプトに留まった兵士の中からクルド人とトルコ系のマムルークを選抜し、サラディンの名前にちなんでサラーヒーヤと呼ばれる軍団を新たに編成した[30]。ファーティマ朝に仕える黒人宦官のムータミン・アル=フィラーハはサラディンがファーティマ朝の軍人から没収した土地を自身の配下に授与していることを危ぶみ、十字軍勢力と結託して反乱を企てたが、陰謀を察知したサラディンは事前にムータミンを処刑した[31]。1169年8月、ムータミンの処置に反発したファーティマ朝のザンジュ(黒人奴隷兵)はカイロ市内で蜂起し、サラディンはザンジュの反乱を鎮圧し、彼らの勢力を一掃する[32]。サラディンはエジプトの大カーディー(大判事)からシーア派の人間を外してスンナ派のイブン・アルダルバスを抜擢し、エジプト各地のカーディーをシーア派からスンナ派の人間に入れ替えた[33]

1171年9月4日、サラディンはフスタートのモスクで行われる金曜礼拝でフトバ(説教)からアーディドの名前を削ってアッバース朝のカリフ・ムスタディーの名前を入れることを命じ、エジプトにおけるスンナ派の復活を表明した[34]。9月10日にはカイロの金曜礼拝でも同様のフトバが読み上げられ、エジプト各地でスンナ派の復権は受け入れられた[34]。同年9月15日に病床にあったアーディドは没し、ファーティマ朝は滅亡する[35]。サラディンの下でファーティマ朝時代に課されていたマクス(市場税、巡礼者の通行税など)は撤廃され、民衆からの支持を集める[36]。また、イスマーイール派の教育・研究機関を排除するために、ファーティマ朝のカリフ・ハーキムによって建設された図書館(ダール・アル=イルム)に収蔵されていた書物が売却された[37]

十字軍勢力との戦争

ヒッティーンの戦い
エルサレム開城を巡るサラディンとキリスト教徒の交渉

サラディンは兄弟のトゥーラーン・シャーを司令官とする遠征軍を近隣の地域に派遣し、1173年ヌビア1174年イエメンを征服して支配領域を拡大する[36]。1174年5月にトゥーラーン・シャーの軍隊はザビードに到達し、翌6月に国際貿易の拠点となっていたアデンを占領した[38]。イエメン遠征が実施された理由には諸説あり、ヌールッディーンのエジプト攻撃に備えた土地の確保、紅海貿易の拠点の確保などが挙げられている[39]。ファーティマ朝の残党はエジプトの兵士の一部がイエメン遠征に従軍し、サラディン配下の騎士が徴税のために自分たちのイクターに戻る機会に乗じて反乱を企てたが計画は事前に露見し、1174年5月に反乱者は逮捕・処刑された[40]。また、1174年5月にはヌールッディーンが没し、サラディンとヌールッディーンの衝突は未然に終わる[41][42]

サラディンは表面上はヌールッディーンの跡を継いだサーリフの宗主権を認め[43]、シリアに残ったザンギー朝の領土の併合に取り掛かる[43]。1174年10月末、サラディンはザンギー朝の宰相アル=ムカッダムの招聘を受けてダマスカスへの無血入城を果たし、市民から歓迎を受けた[44]。一方、アレッポではサーリフを擁する将軍グムシュテギーンがサラディンに敵対する人間を糾合しており、11月にサラディンはアレッポに向けて進軍する[45]。サラディンはザンギー朝の王族と十字軍勢力両方からの攻撃に苦戦するが、1175年春にエジプトからの援軍と合流し、ザンギー軍に勝利を収めた[46]。同時にバグダードのムスタディーからサラディンのエジプト・シリア支配を承認する文書が届き、サラディンはフトバと貨幣からサーリフの名前を除き、代わりに自身の名前を入れてザンギー朝からの自立の意思を公にする[46]1176年9月にサラディンはダマスカスでヌールッディーンの寡婦イスマト・アッディーンとの結婚式を挙げるが、この婚姻にはザンギー朝の正統な後継者であることを示す意図があったと考えられている[47]。結婚式を終えたサラディンはカイロに戻り、エジプトの統治に取り掛かった[48]

1178年にサラディンはザンギー朝に領土の返還を要求するルーム・セルジューク朝の軍を破って南進政策を押し、北方からの脅威を絶った[49]。サラディンは十字軍勢力の支配下にあるサイダベイルートキリキア・アルメニア王国を攻撃し、アッバース朝のカリフからザンギー朝の王族が拠るモースルの支配権を承認された[50]。十字軍との戦争に備えた艦船が増強と兵力の点検の後、1182年5月にサラディンはエジプトを発ってシリアに進軍する。

1182年9月にジャズィーラ(北イラク)に到着したサラディンは現地の領主に帰順を進める手紙を送り、モースルのザンギー朝の支配下にあった領主は次々にサラディンに降伏した[51]。しかし、モースルを支配するザンギー朝の王族マスウードにアイユーブ朝の主権と対十字軍戦への参加を認めさせることはできなかった。1183年6月にアレッポがアイユーブ朝の支配下に入ったことでシリア内陸部が統一され、1186年にマスウードがアイユーブ朝への臣従を受け入れたことでモースルの併合が達成された[52]

1187年初頭、サラディンは数度にわたって和平協定を犯したカラクルノー・ド・シャティヨンの背信行為を非難し、3月にジハード(聖戦)を宣言した[53]。7月4日にヒッティーンでサラディンはエルサレム王ギー・ド・リュジニャンが率いる十字軍と交戦し、勝利を収める(ヒッティーンの戦い)。ベイルートサイダなどの都市がアイユーブ朝の支配下に入り、9月までに地中海沿岸部のシリア諸都市の多くがイスラーム勢力の元に置かれた[54]。9月20日からサラディンはエルサレム包囲を開始し、身代金と引き換えにエルサレム住民の安全を保障することを条件として、エルサレムの開城が取り決められる[55]。10月2日にサラディンはエルサレムに入城し、岩のドームではイスラームの礼拝が行われた[56]。1か月の間サラディンはエルサレムに滞在して町の治安を回復し、十字軍が使用していた施設をモスクマドラサに改築した。カトリックの信者はエルサレムから追放されたが、東方正教の信者は町に残り、十字軍時代に町から追放されていたユダヤ人が帰還した[57]。エルサレムを攻略したサラディンはスールアッカー(アッコン)を攻撃するが十分な成果は上げられず、カリフ・ナースィルからはサラディンを非難する書簡が届けられた[58]

エルサレムがアイユーブ朝の占領下に置かれた後、ヨーロッパではイングランド王リチャード1世フランス王フィリップ2世神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世による十字軍の派遣が決定された(第3回十字軍)。フリードリヒ1世は行軍中に陣没し、1191年7月末にフィリップ2世がフランスに帰国した後、サラディンと最後に残ったリチャード1世の戦闘は一年以上に及んだ。サラディンとリチャード1世の戦闘は膠着状態に陥り[59][60]1192年9月2日に和平が成立した[61]。和平に伴ってヤッファ以北の沿岸部は十字軍、アシュケロン以南はイスラム勢力が領有する取り決めが交わされ、キリスト教巡礼者のエルサレム入城が許可された[62]

1192年11月にサラディンはダマスカスに凱旋し、翌1193年3月4日に没した[63][64]

領土の分割、再統合

サラディンの長子であるアル=アフダルが彼の後継者になると思われていたが、領土はアイユーブ朝の王族によって以下のように分割され、それぞれの地域を治める人間が配下の軍人にイクターを授与する体制が敷かれることになった[65]

アフダルはバグダードのナースィルに自らの支配の正当性の承認を求めたが回答は得られず、やがてアフダル配下のアミールはアジーズを支持するようになる[66]。1194年春、アジーズは君主権力の象徴であるフトバと貨幣に名前を入れる権利を譲渡するようにアフダルに迫り、両者は武力衝突の寸前に至る[4]。それぞれが従来の領土を保持する条件で妥協が成立したが、各地の王族は独立した政権を樹立し、アイユーブ朝は事実上分裂した状態に置かれることになる[4]。一方、アイユーブ朝の内紛を静観していた中東の十字軍勢力は1195年末からエルサレム奪回の準備を進めており、リチャード1世が結んだ休戦協定の失効を待っていた[4]。また、ヨーロッパでは再度の十字軍の実施が提唱され、1197年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が派遣したドイツ十字軍がアッカーに上陸する[67]。ベイルートなどの沿岸地域の主要都市を奪回した十字軍勢力はシリア内陸部への攻撃を試みるが、イタリアに滞在していたハインリヒ6世が病死したため、再びアイユーブ朝と十字軍の間に和約が結ばれる[68]

十字軍の攻撃に前後して、カラクのアーディルはサラディンの息子たちの不和に乗じてエジプト・シリアで勢力を拡大していく[69]。1196年7月にアーディルはアフダルをダマスカスから追放し、1198年11月にアジーズが狩猟中に事故死を遂げると彼の領地であるエジプトを勢力下に収めた[70]。エジプト支配を確立したアーディルは一族間で優位に立ち、サラディンが帯びていなかった[71]スルターンの称号を使用するようになる[1]。アーディルと彼の地位を継承したスルターンたちは、対立するアイユーブ朝の諸王族や十字軍勢力との間で複雑な駆け引きと政治を展開した[62]

第4回十字軍によって1204年ラテン帝国が建国された後、アーディルはヴェネツィアピサなどのイタリア半島の都市国家との通商関係を継続するため、ラムラナザレを十字軍勢力に割譲する[62]。1204年と1212年の2度にわたってアイユーブ朝と十字軍勢力の休戦協定が更新されたが、ローマ教皇庁では中東遠征の再開が検討されていた[72]。アーディルは東方に存在する十字軍勢力に干渉を行わず、1218年第5回十字軍が実施された当初も戦争の回避を考えていた[73]

第5回十字軍、エルサレムの譲渡

アル=カーミル(右)とフリードリヒ2世(左)の会談

1218年8月24日にエジプトの港湾都市ダミエッタ(ディムヤート)が十字軍によって包囲され、8月末にアル=アーディルはカイロで没する。アーディルの死後、彼の息子たちが領土を分割して相続し、アル=カーミルがエジプト、アル=ムアッザムがダマスカス、アル=アシュラフがメソポタミアを支配した[74]。そしてホムス、ハマー、イエメンにはアーディル一族以外のアイユーブ家の人間が割拠していた[75]

ダミエッタの返還を望むカーミルはエルサレムとサラディンが獲得した「真の十字架」の返還、全ての捕虜の解放などの条件と引き換えに和平を提案する[76]。十字軍内では和平を受け入れるか否かで議論が交わされ、枢機卿ペラギウス、テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団の意見が勝って提案は撥ね付けられ、戦争は継続された[77]1219年11月にダミエッタは陥落、1221年夏に十字軍はダミエッタを発って進軍を再開した。一方、メソポタミアのアシュラフ、ダマスカスのムアッザムら地方の王族はホムスに集まって十字軍への対応を協議し、エジプトの救援に向かった[78]。1221年8月に十字軍は進軍中にナイル川の反乱に巻き込まれて壊滅し、エジプト軍は壊滅した敵軍に追撃を行って勝利を収める。8月30日に両軍の間で和平が結ばれ、翌9月にダミエッタはエジプトに返還された[79]

カーミルはアーディルの政策を継承し、対外平和と国内の再統一を推し進めた[1]。カーミルの治世には農業・灌漑が重視され、ヨーロッパ諸国と通商協定が締結される[80]。領内のキリスト教徒は厚い保護を受け、コプト正教会ではカーミルは歴代のエジプト君主の中で最も情け深い人間として見なされるようになった[80]1226年ホラズム・シャー朝ジャラールッディーン・メングベルディーがメソポタミアに侵入した際、ダマスカスのムアッザムはカーミル、アシュラフら他の王族に対抗するため、ジャラールッディーンに好意的な態度を示した[81]

一方、ヨーロッパ世界では1225年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がエルサレム王位の継承権を獲得し、フリードリヒ2世はエルサレム王国での領主権を確保するため、十字軍の実施を誓約した[82]。一方カーミルは関係が悪化したダマスカスのムアッザムに対抗するため、フリードリヒ2世との同盟の締結を試みた[83][84]。カーミルとフリードリヒ2世は書簡を通して学問的な議論を行い、カーミルは動物学に深い関心を持つフリードリヒ2世にクマ、サル、ヒトコブラクダ、ゾウ(クレモナの象)を贈った[85]1229年2月にヤッファで双方の宗教的寛容を条件とする十字軍へのエルサレム返還を約束する協定が締結され[86]、エルサレムではイスラームの礼拝が続けられた[87]。十字軍国家の貴族と騎士団はフリードリヒがエルサレムの返還以上の成果を挙げなかったことに失望していたが[88][89]、カーミルの行動もイスラム勢力から裏切りとして非難を受けた[83]。ムアッザムの跡を継いでダマスカスの支配者となったアル=ナースィル・ダーウードは自身の支配下にあるエルサレムの譲渡に抵抗したが、カーミルはダーウードをカラクに追放し、ダマスカスを支配下に置いた[90]。ダマスカスはアシュラフに譲渡され、その代償としてカーミルはアシュラフが支配していたメソポタミアの都市を獲得する[91]

アイユーブ朝が十字軍勢力との抗争に軍事力を集中している間、イエメンのアル=マンスール・ウマルがイエメンで起きた反乱に乗じてアイユーブ朝からの独立を企て、1229年にザビードでラスール朝が創設される[92]。1241年/42年には、ラスール朝によってメッカからアイユーブ家の勢力が一掃された[92]

1230年にアイユーブ家の支配下に置かれていたヒラート英語版がジャラールッディーンによって占領された後、アシュラフはルーム・セルジューク朝と同盟し、エルズィンジャン近郊の戦闘でアイユーブ朝・セルジューク朝の連合軍はジャラールッディーンを撃破する。1231年、モンゴル軍の侵入に苦しむカリフ・ムスタンスィルはイスラーム諸国に救援を要請した。メソポタミアのアイユーブ朝の領地もモンゴル軍による略奪の被害を受けていたため、カーミルはメソポタミア遠征を決意する[93]。モンゴル軍がヒラートから退却したことを知ったカーミルは進軍を中止し、進路を変えてイスラームの領主マスウードが統治するディヤルバクルを包囲した[93]。1232年10月にディヤルバクルを占領したカーミルは町を子のアッ=サーリフに与え、さらにヒスン・カイファー英語版を攻略して遠征を終えた[93]。他方でアシュラフはダマスカスに安定した支配を確立し、アシュラフと配下の将軍たちはエジプトのカーミルからの独立を企てた。緊張した情勢の中、1237年8月にアシュラフは没し、4か月後に彼の兄弟であるアッ=サーリフ・イスマーイールがダマスカスを継承する[94]

第7回十字軍、マムルーク政権の成立

カーミルの死後に国家の統一は再び失われ、王朝は衰退に向かっていく[1]1238年にカーミルが没した後、アッ=サーリフとアル=アーディル2世の兄弟によって国土が分割され[95]、ヒスン・カイファーのサーリフはカイロでスルターンを称した弟のアーディルとエジプトの支配を巡って争った。1238年12月にサーリフはダマスカスを占領するが、1239年9月にダマスカスはイスマーイールに奪回され、アーディルの逮捕を阻もうとするカラクのダーウードによって拘束される。また、1239年11月にダーウードはエルサレムに奇襲をかけ、町をイスラーム勢力の手に回復する[96]。翌1240年にダーウードから解放されたサーリフは彼と同盟を結び、5月にアーディルを廃してスルターンに即位する。

1240年代初頭、サーリフはかつてのアーディルの支持者に報復を行い、ダマスカスのイスマーイールとの関係を改善したダーウードと対立した。サーリフ、イスマーイールらは、ライバルに対抗するため十字軍との同盟を計画する[97]。ダーウードも他の競争者と同様に十字軍勢力に同盟を持ちかけ、1243年に同盟の条件としてエルサレムを十字軍に返還し、町からイスラームの宗教家を引き上げさせた[98]1244年にサーリフはシリアに逃れたホラズム・シャー朝の遺民と連合してラ・フォルビの戦いで十字軍勢力に勝利を収め、エルサレムを再び支配下に置いた[99]

サーリフは多数のマムルークを購入し、1241年2月にナイル川のローダ島に彼らが居住する兵舎を建設する[100]。ローダ島で暮らすマムルークは「川のマムルーク」を意味する「バフリー・マムルーク」の名前で呼ばれた[100][101]

1249年にフランス王ルイ9世が率いる十字軍がダミエッタに襲来し、町を占領下に置いた(第7回十字軍)。十字軍の襲来時に病床にあったサーリフはエルサレムの返還と引き換えに十字軍のダミエッタからの撤退を提案したが、ルイ9世はサーリフの提案を拒絶し、サーリフはマンスーラに移動して迎撃の態勢をとった[102]。同年10月にサーリフは没し、サーリフの子であるムアッザム・トゥーラーン・シャーが駐屯先のメソポタミアからエジプトに帰国するまでの間、サーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッルが代理で政務を執った。サーリフの死を伏せるために一定の時刻に食事と薬が病室に運び込まれ、偽のサーリフの署名がある命令が発せられた[103]。フランス軍はダミエッタからマンスーラに進軍するが、2月9日に将軍バイバルスが率いるバフリー・マムルーク軍団がマンスーラの戦いで十字軍に勝利を収める。2月にトゥーラーン・シャーはエジプトに帰国し、シャジャル・アッ=ドゥッルから国政を譲渡される。4月7日に追い詰められたフランス軍はエジプト軍に降伏し、捕虜となったルイ9世はマンスーラの邸宅に拘留された。

即位したトゥーラーン・シャーは義母のシャジャル・アッ=ドゥッルに敵意を表し、バフリー・マムルークを投獄・免職して、直属の部下を要職に登用した[104]。シャジャル・アッ=ドゥッルとバフリー・マムルークはトゥーラーン・シャーの殺害を共謀し、1250年5月2日にトゥーラーン・シャーは暗殺され、エジプトのアイユーブ家の政権は滅亡する[104]。トゥーラーン・シャーの死後にシャジャル・アッ=ドゥッルを君主とする政権が樹立され、マムルーク朝が成立した。また、捕らわれていたルイ9世はトゥーラーン・シャー存命中の合議に従い、全兵士の撤退と身代金の支払いと引き換えに釈放された[105]

モンゴル帝国の侵攻

1257年のアイユーブ家の勢力図
(赤:アル=ナースィル・ユースフ
茶:アル=ムギース・ウマル)
シリア・パレスチナに侵入したモンゴル軍の進路

マムルーク朝の成立後、シャジャル・アッ=ドゥッルに敵対するマムルークはアレッポのアイユーブ王族アル=ナースィル・ユースフに援助を求めた。1250年7月にダマスカスに入城したナースィルは市民から熱烈な歓迎を受け、ダマスカス、アレッポと近辺の都市を勢力下に組み入れた[106]。ナースィル以外のシリア各地のアイユーブ朝王族も独立を図り、エジプト・シリアはマムルーク政権とアイユーブ家の人間によって分割される[106]。シャジャル・アッ=ドゥッルからスルターンの地位を譲られた夫のイッズッディーン・アイバクはアイユーブ家との関係の改善を図り、アイユーブ家の王子アル=アシュラフ・ムーサーを共同統治者としたが、効果は無かった[107]。1250年9月にエジプトを攻撃したナースィルはマムルーク軍に敗北し、1251年2月のサーリヒーヤの戦いでは多くのアイユーブ家の人間がマムルーク軍の捕虜となった。アイバクはアイユーブ家の残党が残るシリアへの進軍を企てたが、モンゴル帝国の侵入に晒されたカリフ・ムスタアスィムはイスラームの統合を提唱し、1253年4月にアイユーブ家とマムルーク政権の講和が成立する[108]。講和の取り決めにより、エジプト、エルサレムを含むヨルダン川以西・ナーブルス以南の地域がマムルーク政権の支配下に、その他のシリアがナースィルの支配下に置かれた[109]。また、アル=アーディル2世の子であるアル=ムギース・ウマルがカラク、シャウバクで自立した政権を樹立した[110]

1258年にバグダードのアッバース朝が滅亡した後、ナースィルは子のアジーズをモンゴル帝国のフレグの元に派遣して貢納を行ったが、フレグはナースィル自身が出頭しなかったことを詰問した[111]。メソポタミア北部がモンゴル軍によって征服される事態に至り、ナースィルはこれまで敵対していたマムルーク政権、カラクのウマルと講和し、対モンゴルの同盟を締結する[112]1260年初頭にアレッポ、ダマスカスがモンゴルの支配下に入り、アレッポでモンゴル皇帝モンケ崩御の報告に接したフレグはペルシアに帰還した。マムルークの指導者であるムザッファル・クトゥズはナースィルを警戒して彼の配下の将軍を調略してエジプトへの入国を拒み、ナースィルは移動先のトランスヨルダンでモンゴルの将軍キト・ブカによって捕らえられる[113]。親族とともにタブリーズに護送されたナースィルはフレグに面会し、フレグからシリアの領有を約束された上でダマスカスに移動した。ダマスカスへの移動中、ナースィルはフレグが派遣した追手によって他のアイユーブ家の王族とともに殺害され、ナースィルの子のアジーズだけが助命された[114]

1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍に勝利したマムルーク朝はイスラーム世界で確固たる地位を築いたが、反対にアイユーブ家の権威は低下し、アイユーブ朝の衰退は決定付けられる[115]

マムルーク朝時代のアイユーブ家

1262年にアイユーブ家の一員であるアル=アシュラフ・ムーサーが没した後、バイバルスは彼の領土であるヒムスを併合した。ナースィルがキト・ブカに捕らえられたころ、ウマルは子のアジーズをフレグの元に派遣して臣従を申し入れた[116]1263年にマムルーク朝のスルターン・バイバルスはウマルをフレグと内通した罪状で処刑し、カラクを支配下に編入した[117]

ハマーを統治するアル=マンスールはモンゴルの侵入に際して当初からマムルーク軍と共に戦っていたため[118]、ハマーの分家はマムルーク朝の支配下で存続し続ける。1299年に最後のハマーのアイユーブ家領主が没すると、ハマーは一時的にマムルーク朝の直接支配を受ける。しかし、スルターン・ナースィル・ムハンマドの援助を受けて、1310年に著名な地理学者・著述家として知られるアブル=フィダーを当主としてハマーのアイユーブ家は再興される。1331年にアブル=フィダーは没し、彼の子であるアル=アフダル・ムハンマドが跡を継いだ。マムルーク朝のスルターンからの支持を失ったアル=アフダル・ムハンマドは1341年にハマーの支配者の地位を追われ、ハマーは正式にマムルーク朝の支配下に置かれた。[119]

アナトリア半島南東部のヒスン・カイファー英語版はアイユーブ家に属し、フレグの子孫が支配するイルハン朝の下で1330年代まで独立を保ち続ける。イルハン朝の衰退後、1334年にヒスン・カイファーはアルトゥク朝の攻撃を受けるが勝利を収め、アルトゥク朝からチグリス川の左岸部を獲得した。[120]14世紀のヒスン・カイファーのアイユーブ家はマムルーク朝とドゥルカディル侯国に臣従する一方で居城を改修して存続していたが、16世紀初頭にヒスン・カイファーはオスマン帝国の支配下に組み込まれた[121]

社会

ザンギー朝と同じく、アイユーブ朝の軍事・政治体制はセルジューク朝で実施されていたマムルーク制度とイクター(封土)制度を継承し、より発達させたものだった[122]

ワズィールやカーディーが文官、ハージブ(サラール)が軍人の頂点に立ち、それぞれ君主を補佐していた[122]。軍の主力はクルド人とテュルク系のマムルークで構成され[2]、大規模な戦争の際にはトゥルクマーンやアラブ遊牧民も招集された[122]。後世のマムルーク朝時代の軍隊と比べると指揮系統の組織化は発達していなかった[122]。1187年のヒッティーンの戦いではマムルークが大きな役割を果たし、サラディンの死後に各地の領主は勢力を保持するために自己のマムルークを購入した[123]。危機に際してクルド人兵士が逃亡し、マムルークたちは自分の周りに残った即位前の経験からアッ=サーリフはマムルークたちの忠誠心を高く評価し[124]、サーリフの時代にバハリー・マムルーク軍団が設置された。強大な勢力を持つようになったマムルークたちはサーリフの子のトゥーラーン・シャーを殺害して自己の王朝を創始し、エジプト・シリアから十字軍勢力とモンゴル軍を駆逐する[125]。また、ファーティマ朝時代にはザンジュ(黒人奴隷兵)が一定の勢力を有していたが、1169年8月にサラディンによってザンジュの蜂起が鎮圧された後、彼らの勢力はエジプトから一掃された[126]

サラディンは叔父シールクーフの土地政策を拡大し、1169年の初夏にファーティマ朝の軍人が所有していた土地を没収し、シリアから引き連れてきた騎士たちにイクターとして分配した[30]。ファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは直属の兵士にイクターを授与し、父のアイユーブに下エジプト、兄弟のトゥーラーン・シャーに上エジプトを与えた[36]。支配体制が確立していないサラディン時代には、王族やアミールが自分が望むイクターの授与・保有を求めて国家と衝突する事例がままあった[127]。1171年から1181年にかけて行われた検地ではイクター収入の調査以外に、測量、税率の引き下げが実施され、建国されたばかりの国家の基盤づくりが進められた[128]。アミール(軍司令官)たちはイクターから上がる収入を軍備や配下の俸禄に充て[129]、与えられた土地の治水事業に力を注いだ[2]。政府が実施する運河の開削・修復事業にあたってはそれぞれのアミールにイクターの収入に応じた作業が割り当てられ、工事には農民たちが駆り出された[130]イクターの所有者から課せられる賦役、徴税に反発して、土地の農民たちはアラブ遊牧民の協力を得てしばしば反乱を起こした[130]

人口

アイユーブ朝の支配下に置かれていた地域の正確な人口は計測されていない。Colin McEvedy、Richard Jonesは12世紀当時のアイユーブ朝の領土の人口について、シリアは約2,700,000人、パレスチナおよびトランスヨルダンは500,000人、エジプトは5,000,000人に達する人口を擁していと推定している[131]。Josiah C. Russelは同時代のレバント地方に存在した8,300の村落には2,400,000の人間が住み、10の主要都市には230,000から300,000の市民が住んでいたと考えている。10の主要都市のうち8がアイユーブ朝の支配下に置かれ、人口はエデッサ、ダマスカス、アレッポ、エルサレムの順に多かった[132]

エデッサ ダマスカス アレッポ エルサレム
人口 24,000 15,000 14,000 10,000

また、Russelはアイユーブ朝時代のエジプトの農村地帯について2,300の村落に3,300,000人の人間が住んでいたと見積もり、当時としては高い水準にあった人口密度の高さはエジプトでの農業生産量の増加に貢献したと推察した。エジプトの都市部の人口は233,100人と農村地帯の人口に比べて少なく、エジプトの全人口のうち都市民が占める割合は5.7%にとどまっていた。エジプトの都市部の人口密度も高く、その原因は都市化と工業化の進展に求めることができる[132]。当時のエジプトの主要都市の人口は、以下のように推定されている。

カイロ アレクサンドリア クス ダミエッタ ファイユーム ビルベイス
人口 60,000 30,000 25,000 18,000 13,000 10,000

農業・経済

1190年に発行された硬貨
アイユーブ朝時代のエジプトで製造された陶器

アイユーブ朝の政治体制は安定していなかったものの、エジプト・シリアの経済は順調に成長を遂げていく[133]

アイユーブ朝では農産物の生産量を増やす様々な政策が実施され、農地の灌漑を容易に行うために運河の開削が行われた。アイユーブ朝時代のエジプトではナイル川を利用した農業が経済の基盤をなし[134]小麦綿花サトウキビの栽培が盛んになった[1]。年間のナイル川の水量に異変が無い場合、エジプトではヨーロッパに比べて4-5倍多い量の小麦の収穫が見込まれ、シリアの1.5倍の税収が期待できた[134]。アイユーブ朝時代にサトウキビ栽培は下エジプトから上エジプトに拡大し、砂糖商人やスルターン、アミールによる製糖工場の経営が盛んになり、砂糖は輸出品の中で重要な地位を占めるようになる[135]。エジプト中部の農業地帯であるファイユーム地方は国家収入の財源となり、サラディンの治世にはエジプト内の全イクターからあがる収入の約8%がファイユーム地方のイクターで占められていたと考えられている[136]

十字軍勢力との抗争がアイユーブ朝とヨーロッパ諸国の経済関係の発展を妨げる事はなく、二つの異なる文化の接触は経済活動、農業をはじめとする様々な分野において双方に良い影響をもたらした[137]。サラディン死後の後継者争いに勝利してエジプト・ダマスカスを勝ち取ったアル=アーディルは、エルサレムの回復と十字軍勢力の弱体化によってサラディンが宣言したジハードに意義が見いだせないと判断し、キリスト教勢力との共存・通商関係の構築を試みた[138]。1202年にアル=カーミルとヴェネツィアの交渉により、ヴェネツィア船のアレキサンドリアやダミエッタなどのナイル川デルタの港湾都市への入港の許可と船舶の保護と引き換えに、ヴェネツィアはエジプト遠征を試みるヨーロッパ諸勢力に対して一切の援助を行わないことが約束された[139]。アイユーブ朝の領土内にはヴェネツィア人の居住区が設置され、領事館の開設が認められる[75]ショウガアロエミョウバン、そしてアラビア半島インドからもたらされた香料、香水、香油がヨーロッパに輸出され、グラス、陶器、金銀細工などのイスラーム世界で製造された工芸品はヨーロッパで珍重された[137]。アイユーブ朝と十字軍の間に生まれた交流を通して中東・中央アジアで生産された絨毯、カーペット、タペストリーが西方に紹介され、ヨーロッパ世界の衣服や家具の様式に新しい風を吹き込んだ[137]。また、アイユーブ朝およびザンギー朝との交易によって、ゴマキャロブキビ、コメ、レモン、メロン、アンズ、エシャロットといった植物がヨーロッパにもたらされた[137]

イラク方面の混乱のため、東西交易においては紅海を経た海路が主要な経路になり、カイロ、アレクサンドリアは交易の拠点として繁栄する[1]。紅海の安全を確保するために保安船の配備、中継基地の建設が実施され、紅海を通る商人はその恩恵に与ることができた[140]。イエメンのアデンから紅海、ナイル川を経てカイロ、アレクサンドリアに至るルートではカーリミー商人が活躍し、彼らは香辛料絹織物陶磁器などの商取引に従事していた[141]。アイユーブ朝は十字軍勢力と紅海交易の独占権を巡って争い、1183年にアイザーブ沖での戦闘でエジプト艦隊が十字軍艦隊を破った後、カーリミー商人が紅海交易を独占した[141]。カーリミー商人は地中海方面の交易活動ではジェノヴァ、ヴェネツィアの商人と競合していたが、紅海では交易活動の独占権を有していたため、国際貿易においてアイユーブ朝は強力な地位を保っていた。そして、インド洋を経た交易活動も、カーリミー商人が半ば独占する形で展開されていた。カーリミー商人のインド交易の活性化に伴い、彼らから徴収した諸々の税金で国庫が潤された[142]。アイユーブ朝からマムルーク朝にかけての時期にカーリミー商人の活動は活発化し、財政収入の増加にも貢献した[141]

国際貿易の発展に伴い、債権と銀行制度の基本的な原則も発達していった。ユダヤ人、イタリア人の銀行家はシリアに代理店を置き、経常的に営業する店舗には遠方の主人に代わって取引に従事する人間が駐在していた。商取引には手形が用いられ、シリア各地の銀行では預金制度が利用されていた。カーミルの治世には国家財政は厳格に統制され、彼の死後に国家予算の1年分に相当する貯蓄が遺されたと言われている[143]。また、13世紀のイタリアではレヴァント交易(東方交易)に従事したイタリア商人によって、イスラーム諸国から支払手形の概念が導入される[144]。「小切手」を意味するアラビア語のサック(ṣaqq)、ペルシア語のチェック(cheqq)が英語のチェック(cheque)の語源になったと考えられている[144]

安定した農業活動とカーリミー商人の活躍により、カイロはバグダードに代わる大都市への発展を遂げていく[145]

文化

教育

スンナ派保護の方針もあって、アイユーブ朝時代にはエジプト、シリアに多くのマドラサ(神学校)が建設される[2]。国家によって建てられたマドラサは教育以外に、スンナ派の知識を普及させる役割も備えていた。16世紀までにダマスカスに建てられたマドラサのうち、約半数がアイユーブ朝時代に建設されたもので占められていた[146]。12世紀末の旅行家イブン・ジュバイルは、サラディン時代のダマスカスには20のマドラサ、数多くのスーフィーの道場が建てられていたことを記録し、マドラサの建築事業はサラディンより後のアイユーブ朝のスルターンに継承された。そして、スルターンだけでなくスルターンの妻や娘、有力な軍人や貴族もマドラサの建設と資金援助に携わっていた[143]

アイユーブ朝ではシャーフィイー学派が主要な地位を占めていたが、シャーフィイー学派以外のスンナ派四大法学派のマドラサも建設される。アイユーブ朝成立前のシリアにはハンバル学派マーリク学派のマドラサは存在していなかったが、アイユーブ朝期にシリアに初めてこの2つの学派のための独立したマドラサが設置された。1170年秋にカイロにシャーフィイー学派マーリク学派のマドラサが開設され、翌1171年にサラディンの甥タキー・アッディーン・ウマルによってより豪華なマドラサが建設された[33]。サラディンに仕えた学者のイブン・シャッダードによれば、当時のダマスカスには40のシャーフィイー学派のマドラサ、34のハナフィー学派のマドラサ、10のハンバル学派のマドラサ、最後に3つのマーリク学派のマドラサが存在していたという[147]。シーア派の最高学府であるアル=アズハル大学の存在は軽んじられ、マムルーク朝の成立までアズハル大学の影響力は失われる[148]

サラディンと彼の後継者は他のイスラーム国家の権力者と異なり、権勢を誇示するための大規模なモスクの建設事業を行っておらず、マドラサの建設事業に熱意を注いでいた[149]。エジプトにスンナ派を復活させたサラディンはこの地に10のマドラサを建設し、彼の死後にエジプトにはさらに25のマドラサが建てられたが、それらのマドラサの場所はフスタートに集中していた。エジプトに建てられた多くのマドラサはシャーフィイー学派に属し、残りはマーリク学派とハナフィー学派に属していた。イマームアッ=シャーフィイーの廟に隣接する場所に建てられたマドラサは重要な巡礼地となり、スンナ派の信奉者が多く集まる場所となった[150]。エジプト、エルサレム、ダマスカスには高官によって26のマドラサが建てられたほか、当時としては珍しく市民によって18のマドラサがエジプトに建てられ、その中には2つの医療機関が含まれていた。[147]

マドラサには原則的に教師と学生が寄宿する規定が設けられており、多くのマドラサは住宅としての役割も備えていた。教師たちは法学、神学、伝統的なイスラーム諸学を教授し、彼らの給与はマドラサのワクフから捻出されていた。そして学生たちは宿舎、研究を志す様々な分野の教授、定期的な奨学金を利用する事ができ、彼らが必要とするものはおおよそ与えられていた。アイユーブ朝時代の社会ではマドラサは権威ある機関と考えられ、マドラサで教育を受けていない人間は公職に就くことができなかった[147]。しかし、アイユーブ朝時代に建設されたマドラサの多くは、教育・居住に十分な空間が確保されていなかった[151]。多くのマドラサには建設者の墓が併設されており、墓は校舎とともにワクフによって維持され、近接する校舎で詠唱されるコーランによって埋葬された死者の魂の安寧が保障される恩恵に与ることができた[152]。このためマドラサは学究機関以外に霊廟としての役割も備えるようになり、後継国家のマムルーク朝でもこの傾向は続いた[153]

研究活動

高度な教育を受けたアイユーブ朝の君主は学問と教育の有力な保護者となり、新たに建設された研究・教育機関と王朝内の学芸の保護者によって、様々な分野でスンナ派の知的活動が復活し、特に医学、薬学、植物学の分野に関心が集まった。アイユーブ朝時代のエジプト、シリア、メソポタミアには多くの学者、医師が集まり、カイロにはイブン・マイムーン(マイモニデス)、アブドゥルラティーフ・バグダーディーなどの学者が集まった。医師の中にはアイユーブ朝の王族に直接雇われ、スルターンの侍医になった者もいた[154]。また、サラディンはヌールッディーンがダマスカスに建設した病院を模して、カイロに二つの病院を建設した。

建築

カイロアズハル公園に残るアイユーブ朝時代の城壁(2006年1月撮影)
アズハル公園の外に建てられたal-Barqiyya門の3Dスキャン

頑強かつ美しい石材を生かした力強さがアイユーブ朝時の建築物の特徴であるが、同時に装飾が過剰であるという指摘もされている[75]。自然の地形に沿った城壁の構築といった、アイユーブ朝の要塞の建築に用いられた技術の一部は十字軍から吸収したものだった。アイユーブ朝はファーティマ朝から出し狭間、円塔などの多くの建設技法を継承していたが、同時に円状の都市計画をはじめとする独特の様式の発達も見られた[155]。アイユーブ朝期にエジプトに建てられたマドラサは姿を留めていないものの建築史に影響を与え、アイユーブ朝で育まれた古典的なアラブ風建築様式はマムルーク朝に継承される[75]。一方、モスク建築の技術はファーティマ朝時代のものと比べて大きな変化は見られない[153]

アイユーブ家、地方の統治者、ウラマー(学者)などの有力者の家に生まれた女性は建築事業の熱心な後援者にも成り得た。ダマスカスは長きにわたって女性による宗教施設の建設事業が推進された場所であり、15のマドラサ、6のスーフィーの道場、26の宗教・慈善施設が建てられた。

ファーティマ朝の宰相に就任したサラディンはカイロ市内の「宰相の館」で政務を執っていたが、カイロの市街地化が進展したために館の警備に困難をきたし、サラディンはカイロ郊外に新たな居城の建設を計画した[156]。カイロ南のムカッタム(モカッタム)の丘に城砦が建設され、サラディン没後の1207年に完成した城砦は19世紀に至るまでエジプトの君主の居城として使用された[36]。サラディンはフスタートとカイロを囲む城壁の建設も試みたが、完成には至らなかった[36][157]。サラディンが建築した王の居城とカイロの旧市街を結ぶ道に沿って新たな市街地が形成され、後代のカイロの発展の方向性が定まった[158]

アイユーブ朝期にはシリア北部のアレッポに印象的な建築物が多く建てられ、城塞の修復と用水路の拡張、通りと街区への噴水とハンマーム(公衆浴場)の設置といったインフラストラクチャーの整備が実施される。また、町の各地に数十のモスク、マドラサ、霊廟が建立された。[159]アレッポの街並みに大きな変化が現れたのは、サラディンの子アッ=ザーヒル・ガーズィーの時代である。城塞、用水路、砦、城壁の外の地域の開発の4点に、アイユーブ朝時代のアレッポで実施された建設事業の成果が遺されている。ザンギー朝のヌールッディーンによって建てられた城壁がアッ=ザーヒルによって取り払われた時から町の再開発が始まり、頻繁に外敵の攻撃に晒されたal-Jinan門とal-Nasr.門の間に広がる北・北西の城壁の修復が行われた。東側の城壁は南東に拡張された際、アッ=ザーヒルの希望を汲んで市外の荒廃した要塞Qala'at al-Sharifが城壁の中に収められる[160]。また、アレッポでの建築・城壁の拡張にはアッ=ザーヒルだけでなく彼の息子や配下の将校たちも関わっており、塔の中には王子たちの名前が刻まれたものもある。アル=アーディルの娘Dayfaの後援によってアレッポに建てられたフィルダウス・マドラサは、アイユーブ朝時代のシリアに建てられた代表的な建物として知られている[161]1256年にアン=ナースィル・ユースフによって再建されたQinnasrin門は、中世シリアの軍事建築の最高傑作として名高い[162]。1260年のモンゴル軍の攻撃でアレッポは多大な被害を受け、アイユーブ朝期に建設された防御施設のほとんどが失われた[163]

サラディンによってエルサレムが占領された後、町では家屋、スーク(市場)、ハンマーム、巡礼者のための宿泊所の建設に多額の費用が投入され、エルサレム旧市街の神殿の丘に多くの施設が建てられた[164]。エルサレムを占領したサラディンは、アクサー・モスク岩のドームからキリスト教的な要素を取り除こうと試みた[165]。アクサー・モスクに描かれたキリスト教の図柄が取り払われ、岩のドームの内部に置かれている巨石から覆っていた大理石が剥がされた後、石はサラディンの甥タキーウッディーン・ウマルによってバラ水で清められる。エルサレム内の多くのキリスト教会はモスク、マドラサに改装されたが、聖墳墓教会はキリスト教会のまま留め置かれた[57]。聖アンナ教会はサラディンの名前を冠したマドラサに、聖墳墓教会近くの大司教館はダルヴィーシュスーフィーの修行者)の宿泊所に改築される[166]1217年にアクサー・モスクのミフラーブが修復され、アル=ムアッザムによってモスク北側の3つの門にポーチが取り付けられた[167]。1219年の第5回十字軍に際し、十字軍によってエルサレムの城壁が利用されることを恐れたムアッザムは城壁を取り壊した[57]。町に愛着を持つ人々はダビデの塔をはじめとする防御施設の破壊を嘆き[166]、城壁の破壊が住民に不安を与えたために人口の流出と町の衰退を招いた[57][166]

アイユーブ朝の歴代君主

  1. サラーフッディーン(在位:1169年 - 1193年
  2. アル=アジーズ(在位:1193年 - 1198年
  3. アル=マンスール・ムハンマド1世(在位:1198年 - 1200年
  4. アル=アーディル(在位:1200年 - 1218年
  5. アル=カーミル(在位:1218年 - 1238年
  6. アル=アーディル2世(在位:1238年 - 1240年
  7. サーリフ(在位:1240年 - 1249年
  8. トゥーラーン・シャー(在位:1249年 - 1250年
  9. アル=アシュラフ・ムーサー(在位:1250年 - 1254年

ダマスカス

  1. サラーフッディーン(在位:1174年 - 1193年
  2. アル=アフダル(在位:1193年 - 1196年
  3. アル=アーディル(在位:1196年 - 1218年
  4. アル=ムアッザム(在位:1218年 - 1227年
  5. アン=ナースィル・ダーウード(在位:1227年 - 1229年
  6. アル=アシュラフ(在位:1229年 - 1237年
  7. アッ=サーリフ・イスマーイール(在位:1237年 - 1238年
  8. アル=カーミル(在位:1238年)
  9. アル=アーディル2世(在位:1238年 - 1239年
  10. アッ=サーリフ・ナジュムッディーン・アイユーブ(在位:1239年)
  11. アッ=サーリフ・イスマーイール(復位・在位:1239年 - 1245年
  12. アッ=サーリフ・ナジュムッディーン・アイユーブ(復位・在位:1245年 - 1249年
  13. トゥーラーン・シャー(在位:1249年 - 1250年
  14. アン=ナースィル・ユースフ(在位1250年 - 1260年

ハマー

  1. アル=ムザッファル・ウマル(在位:1179年- - 1191年、サラーフッディンの兄弟シャーハンシャーの息子)
  2. アル=マンスール・ムハンマド(在位:1191年 - 1222年)
  3. アン=ナースィル・キリジ・アルスラーン(在位:1222年 - 1230年)
  4. アル=ムザッファル・マフムード(在位:1230年 - 1245年)
  5. アル=マンスール・ムハンマド2世(在位:1245年 - 1284年)
  6. アル=マンスール・マフムード
  7. アル=ムアイヤド・アブル=フィダーウ(地理学者として有名)
  8. アル=アフダル・ムハンマド

イエメン

  1. トゥーラーン・シャー(在位:1174年 - 1181年、サラーフッディーンの兄)
  2. トゥグ=ティキーン(在位:1181年 - 1202年、上記のトゥーラーン・シャーとサラーフッディーンの兄弟)
  3. アル=ムイッズ・イスマーイール(在位:1202年 - 1203年、トゥグ=ティキーンの息子)
  4. アン=ナースィル(在位:1203年 - 1203年、アル=ムイッズ・イスマーイールの兄弟)
  5. Ghazi ibn Jebail(在位:1203年 - 1214年)
  6. スライマーン(在位:1214年 - 1216年、トゥーラーン・シャーの子タキーユッディーン・ウマルの子)
  7. アル=マスウード(在位:1216年 - 1229年、エジプトのスルターン・アル=カーミルの息子)
  8. ユースフ(在位:1229年 - 1240年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 太田「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』、4頁
  2. ^ a b c d 佐藤「アイユーブ朝」『新イスラム事典』、41頁
  3. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、73頁
  4. ^ a b c d 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、212頁
  5. ^ a b 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、21頁
  6. ^ 前嶋『イスラムの時代』、295-296頁
  7. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、20-22,28頁
  8. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、55頁
  9. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、55-56頁
  10. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、51-52頁
  11. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、56頁
  12. ^ 前嶋『イスラムの時代』、297頁
  13. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、61頁
  14. ^ a b 前嶋『イスラムの時代』、298頁
  15. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、62頁
  16. ^ 前嶋『イスラムの時代』、300頁
  17. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、254頁
  18. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、66-67頁
  19. ^ 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、297頁
  20. ^ 前嶋『イスラムの時代』、302頁
  21. ^ 前嶋『イスラムの時代』、302-303頁
  22. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、70頁
  23. ^ 前嶋『イスラムの時代』、303頁
  24. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、257頁
  25. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、71-73頁
  26. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、271頁
  27. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、73-75頁
  28. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、259-260頁
  29. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、183-184頁
  30. ^ a b 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、79頁
  31. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、82-83頁
  32. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、83-84頁
  33. ^ a b 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、85頁
  34. ^ a b 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、86-87頁
  35. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、87頁
  36. ^ a b c d e 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、298頁
  37. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、122-124頁
  38. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、97頁
  39. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、103頁
  40. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、99-100頁
  41. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、104-105頁
  42. ^ 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、298-299頁
  43. ^ a b 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、299頁
  44. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、106-107頁
  45. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、110頁
  46. ^ a b 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、111頁
  47. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、117頁
  48. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、117,120頁
  49. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、146頁
  50. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、147頁
  51. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、152-153頁
  52. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、154-155,158-159頁
  53. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、167頁
  54. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、172頁
  55. ^ 橋口『十字軍騎士団』、183-184頁
  56. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、174頁
  57. ^ a b c d 笈川博一『物語エルサレムの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2010年7月)、、148-151頁
  58. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、178,181,188頁
  59. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、194頁
  60. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、195頁
  61. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、195頁
  62. ^ a b c 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、300頁
  63. ^ 前嶋『イスラムの時代』、307-308頁
  64. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、199,202頁
  65. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、203-204頁
  66. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、211-212頁
  67. ^ ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、312-315頁
  68. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、213頁
  69. ^ ヒッティ『アラブの歴史』下、592頁
  70. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、331頁
  71. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、272頁
  72. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、337頁
  73. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、336頁
  74. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、338頁
  75. ^ a b c d ヒッティ『アラブの歴史』下、593頁
  76. ^ ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、411-414頁
  77. ^ ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、414-415頁
  78. ^ ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、415頁
  79. ^ ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、419-420頁
  80. ^ a b ヒッティ『アラブの歴史』下、595頁
  81. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、21頁
  82. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、346頁
  83. ^ a b 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、301頁
  84. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、346頁
  85. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、344頁
  86. ^ 橋口『十字軍騎士団』、230頁
  87. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、351頁
  88. ^ 橋口『十字軍騎士団』、231頁
  89. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、352頁
  90. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、349-350頁
  91. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、46-47頁
  92. ^ a b 家島『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』、435頁
  93. ^ a b c ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、75頁
  94. ^ Burns, 2005, 186頁
  95. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、360頁
  96. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、350頁
  97. ^ Richard and Birrell, 1999, p.328.
  98. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、351頁
  99. ^ ジョティシュキー『十字軍の歴史』、361-362頁
  100. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、6頁
  101. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、287-288頁
  102. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、359頁
  103. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、9頁
  104. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、10頁
  105. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、363-364頁
  106. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、12頁
  107. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、13頁
  108. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、14頁
  109. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、14-15頁
  110. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、290-292頁
  111. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、292-293頁
  112. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、306-312頁
  113. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、327頁
  114. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、344-346頁
  115. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、23頁
  116. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、328,346頁
  117. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、347頁
  118. ^ Abulafia, McKitteric, and Fouracre, 2005, 616頁
  119. ^ Abu-Lughod, Dumper, and Stanley, 2006, 163頁
  120. ^ Singh, 2000, 203-204頁
  121. ^ Ayliffe, Dubin, Gawthrop, Richardson, 2003, 913頁
  122. ^ a b c d 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、303頁
  123. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、5-6頁
  124. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、287頁
  125. ^ 大原『エジプト マムルーク王朝』、6-7頁
  126. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、81,84頁
  127. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、205頁
  128. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、124-127頁
  129. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、80頁
  130. ^ a b 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、132頁
  131. ^ Shatzmiller, 1994, 57-58頁
  132. ^ a b Shatzmiller, 1994, 59-60頁
  133. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、274頁
  134. ^ a b 佐藤『イスラーム世界の興隆』、275頁
  135. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、131頁
  136. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、148-149頁
  137. ^ a b c d Ali, 1996, 37頁
  138. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、332-333頁
  139. ^ マアルーフ『アラブが見た十字軍』、333-334頁
  140. ^ 家島『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』、431頁
  141. ^ a b c 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、136頁
  142. ^ 家島『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』、431-432頁
  143. ^ a b Ali, 1996, 38頁
  144. ^ a b 佐藤圭四郎「十字軍と文化交流」『オリエント史講座』4巻収録(学生社, 1982年11月)、155頁
  145. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、141頁
  146. ^ 三浦「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1、304頁
  147. ^ a b c Ali, 1996, 39頁
  148. ^ 鈴木八司『エジプト』(読んで旅する世界の歴史と文化, 新潮社, 1996年12月)、86頁
  149. ^ 羽田『モスクが語るイスラム史』、119-120頁
  150. ^ Yeomans, 2006, 111頁
  151. ^ 羽田『モスクが語るイスラム史』、123-125頁
  152. ^ 羽田『モスクが語るイスラム史』、132頁
  153. ^ a b 羽田『モスクが語るイスラム史』、133頁
  154. ^ Ali, 1996, 39-41頁
  155. ^ Peterson, 1996, 26頁
  156. ^ 佐藤『イスラーム世界の興隆』、266頁
  157. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、121頁
  158. ^ 羽田『モスクが語るイスラム史』、119頁
  159. ^ Tabaa, 1997, 26頁
  160. ^ Tabaa, 1997, 19頁
  161. ^ Necipoğlu, 1994, 35-36頁
  162. ^ Tabaa, 1997, 21-22頁
  163. ^ 黒木英充『シリア・レバノンを知るための64章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2013年8月)、86頁
  164. ^ Abu-Lughod and Dumper, 2007, 209頁
  165. ^ 佐藤『イスラームの「英雄」サラディン』、177頁
  166. ^ a b c ダン・バハト『図説イェルサレムの歴史』(高橋正男訳, 東京書籍, 1993年4月)、60-62
  167. ^ Ma'oz and Nusseibeh, 2000, 137-138頁

参考文献

  • 太田敬子「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
  • 佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン』(講談社選書メチエ, 講談社, 1996年5月)
  • 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』(世界の歴史8, 中央公論社, 1997年9月)
  • 佐藤次高「アイユーブ朝」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫, 講談社, 1994年6月)
  • 羽田正『モスクが語るイスラム史』(中公新書, 中央公論社, 1994年3月)
  • 前嶋信次『イスラムの時代』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月)
  • 三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史』1収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)
  • 家島彦一『海域から見た歴史 インド洋と地中海を結ぶ交流史』(名古屋大学出版会, 2006年2月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)
  • エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』(川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)
  • フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』下(講談社学術文庫, 講談社, 1983年1月)
  • アンドリュー・ジョティシュキー『十字軍の歴史』(森田安一訳, 刀水歴史全書, 刀水書房, 2013年12月)
  • アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(牟田口義郎、新川雅子訳, リブロポート, 1986年4月)

翻訳元記事参考文献

Template:Link GA