コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
{{政治家}}適用、2008年の初版から翻訳されていないコメントアウトを除去。
編集の要約なし
(2人の利用者による、間の4版が非表示)
2行目: 2行目:
|人名 = 初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル
|人名 = 初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル
|各国語表記 = {{lang|en|John Russell, 1st Earl Russell}}
|各国語表記 = {{lang|en|John Russell, 1st Earl Russell}}
|国略称 ={{GBR3}}
|画像 = Lord John Russell.jpg
|画像 = Lord John Russell.jpg
|画像サイズ = 180px
|画像サイズ = 180px
15行目: 16行目:
|配偶者 = (1) アデレード・リスター<br />(2) レディ・フランセス・エリオット
|配偶者 = (1) アデレード・リスター<br />(2) レディ・フランセス・エリオット
|サイン = John Russell, 1st Earl Russell Signature.svg
|サイン = John Russell, 1st Earl Russell Signature.svg
|職名 = [[イギリスの首相]]
|国旗 = UK
|職名 = [[イギリスの首相|首相]]
|就任日 = [[1846年]][[7月6日]] - [[1852年]][[2月20日]]<br/>[[1865年]][[10月30日]]
|内閣 = [[第一次ラッセル内閣]]
|任日 = 1846年6月30
|退任日 = [[1866]][[6月26]]<ref name="秦(2001)509">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.509</ref>
|元首職 = [[イギリスの君主|女王]]
|退任日 = 1852年2月23日
|元首職 = 国王
|元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]
|元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]
|国旗2 = UK
|職名2 = [[イギリスの首相]]
|職名2 = [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]
|内閣2 = [[第二次ラッセル内閣]]
|内閣2 = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣<br/>第二次[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]内閣
|就任日2 = 1865年10月29日
|退任日2 = 18666月28日
|任日2 = [[1852]][[12月28日]] - [[1853年]][[2月21日]]<br/>[[1859年]][[6月18日]]
|退任日2 = [[1865年]][[10月30日]]<ref name="秦(2001)509"/>
|元首職2 = 国王
|国旗3 = UK
|元首2 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]
|職名3 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員
|就任日3 = [[1861年]]
|退任日3 = [[1878年]]
|国旗4 =UK
|職名4 = [[庶民院]]議員
|選挙区4 = {{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ハンティンドンシャー選挙区|en|Huntingdonshire (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|バンドン選挙区|en|Bandon (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|デヴォンシャー選挙区|en|Devonshire (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|サウス・デヴォン選挙区|en|South Devon (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ストラウド選挙区|en|Stroud (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン選挙区|en|City of London (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD">[http://hansard.millbanksystems.com/people/lord-john-russell/ HANSARD 1803–2005]</ref>
|就任日4 = [[1813年]][[5月4日]] - [[1817年]][[3月12日]]<br/>[[1818年]][[6月18日]] - [[1820年]][[12月31日]]<br/>[[1820年]][[3月16日]] - [[1826年]][[6月20日]]<br/>[[1826年]][[12月19日]] - [[1830年]][[8月7日]]<br/>[[1830年]][[11月27日]] - [[1831年]][[7月13日]]<br/>[[1831年]][[5月10日]] - [[1832年]][[12月10日]]<br/>[[1832年]][[12月10日]] - [[1835年]][[1月6日]]<br/>[[1835年]][[5月19日]] - [[1841年]][[6月29日]]<br/>[[1841年]][[6月29日]]
|退任日4 = [[1861年]][[7月27日]]<ref name="HANSARD">[http://hansard.millbanksystems.com/people/lord-john-russell/ HANSARD 1803–2005]</ref>
}}
}}
初代[[ラッセル伯爵]]'''ジョン・ラッセル'''({{lang|en|John Russell, 1st Earl Russell}}、[[1792年]][[8月18日]] - [[1878年]][[5月28日]])は、[[イギリス]]の貴族、政治家。[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)、[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCMG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)。
初代[[ラッセル伯爵]]'''ジョン・ラッセル'''({{lang|en|John Russell, 1st Earl Russell}}、[[1792年]][[8月18日]] - [[1878年]][[5月28日]])は、[[イギリス]]の貴族、政治家。[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)、[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCMG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)。


[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に所属し、{{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|en|Home Secretary|label=内相}}や[[外務英連邦大臣|外相]][[イギリスの首相|首相]]を歴任した。
[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]([[自由党 (イギリス)|自由党]]の前身)の改革派として名を馳せ、[[ウィリアムラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]退任後にホイッグ党首となり、1846年に[[イギリスの首相|首相]]となったが、[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]と対立深め、党内が分裂状態となり、1852年2月に総辞職した。


ついで1852年12月成立のピール派とホイッグ党の連立政権[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣に[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]として入閣。[[1855年]]2月にパーマストン子爵が首相となるとホイッグ党首の座も彼に譲る。ホイッグ党が野党だった頃の1859年6月にパーマストンと和解して[[自由党 (イギリス)|自由党]]結成と保守党政権打倒に貢献した。第二次パーマストン内閣に外務大臣として入閣し、パーマストンが1865年に死去すると代わって首相・自由党党首となったが、翌1866年に選挙法改正に失敗して総辞職した。1867年に自由党党首の座を[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]に譲った。
[[1861年]]までは[[卿]]の[[儀礼称号]]を付けて「ジョン・ラッセル卿({{lang|en|Lord John Russel}})」と称されていた。哲学者の第3代ラッセル伯爵[[バートランド・ラッセル]]は孫にあたる。

[[1861年]]までは[[卿]]の[[儀礼称号]]を付けて「ジョン・ラッセル卿」と称されていた<ref group="註釈">1861年の叙爵前に卿(Lord)を称していたのは公爵の余子だったためで、法的身分は平民であった。この儀礼称号は姓名または名に付くので「ジョン・ラッセル卿(Lord John Russell)」や「ジョン卿(Lord John)」が正しく、「ラッセル卿」は誤りである。一方叙爵して貴族となった後は「ラッセル伯爵(The Earl Russell)」あるいは略して「ラッセル卿(Lord Russell)」となる。イギリスにおいて爵位は必ず爵位名(本記事の人物の場合姓に由来する「ラッセル」)とセットで与えられるものであるため、「ジョン・ラッセル伯爵」や「ジョン・ラッセル卿」とするのは誤りである。妻についても同様で、夫の叙爵前は「ジョン・ラッセル卿夫人(Lady John Russell)」、叙爵後は「ラッセル伯爵夫人(Countess Russell)」となる。</ref>。哲学者の第3代ラッセル伯爵[[バートランド・ラッセル]]は孫にあたる。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
第6代[[ベッドフォード公爵]][[ジョン・ラッセル (第6代ベッドフォード公爵)|ジョン・ラッセル]]と最初の妻ジョージアナ・ビングの三男として生まれた。[[イングランド]]有数の富豪であり、[[17世紀]]以来[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家を輩出してきた[[ラッセル家]]出身であったが、三男の彼には一族の所領を継承する見込みはなかった。
第6代[[ベッドフォード公爵]][[ジョン・ラッセル (第6代ベッドフォード公爵)|ジョン・ラッセル]]と最初の妻ジョージアナ・ビングの三男として生まれた<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。[[イングランド]]有数の富豪であり、[[17世紀]]以来[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家を輩出してきた[[ラッセル家]]出身であったが、三男の彼には一族の所領を継承する見込みはなかった。


[[パブリックスクール]]の[[ウェストミンスター・スクール]]、[[エディンバラ大学]](3年在籍したが単位が取れなかった)で学んだ<ref>John Prest, ''Lord John Russell'' (University of South Carolina Press, 1972), 11-13.</ref><ref name="Doyle">[[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= James William Edmund |editor-last= Doyle |editor-link= :en:James William Edmund Doyle |encyclopedia= The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 |title= RUSSELL. |url = http://archive.org/stream/officialbaronag02doylgoog#page/n206/mode/2up |accessdate = 2013-7-18 |language = 英語 |edition = |year = 1886 |publisher = [[:en:Longmans|Longmans]] |volume = 3 |location = [[ロンドン|London]] |pages = 185-186 }}</ref><ref name="Burke">[[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= Bernard, Sir |editor-last= Burke |editor-link= :en:Bernard Burke |encyclopedia= [[:en:Burke's Peerage|A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire]] |title= RUSSELL. |url= http://www.archive.org/stream/genealogicalhera00inburk#page/966/mode/2up |accessdate= 2013-7-18 |language= 英語 |edition= 31 |year= 1869 |publisher= Harrison |volume= |location= [[ロンドン|London]] |page= 966 }}</ref>。ラッセルは[[オックスフォード大学]]にも[[ケンブリッジ大学]]にも在籍したことがない、イギリス史においては珍しい経歴を有する首相の1人である。
[[パブリックスクール]]の[[ウェストミンスター・スクール]]を経て、[[エディンバラ大学]](3年在籍したが単位が取れなかった)で学んだ<ref>[[#Prest(1972)|Prest(1972)]] p.11-13</ref><ref name="Doyle">[[#Doyle(1886)|Doyle(1886)]] p.185-186</ref><ref name="Burke">[[#Burke(1869)|Burke(1869)]] p.966</ref>。ラッセルは[[オックスフォード大学]]にも[[ケンブリッジ大学]]にも在籍したことがない、イギリス史においては珍しい経歴を有する首相の1人である。


=== 首相就任まで ===
1813年、[[デヴォン]]州{{仮リンク|タヴィストック|en|Tavistock, Devon}}選挙区から初当選。1817年の[[補欠選挙]]で落選するも{{仮リンク|1818年イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, 1818|label=1818年の総選挙}}で返り咲き、以後叙爵される1861年まで40年以上にわたって選挙区を替えつつ[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]([[自由党 (イギリス)|自由党]])の[[庶民院]]議員を務めた<ref>{{Cite encyclopedia |first= David R. |last= Fisher |authorlink= |editor-first= R. G. |editor-last= Thorne |encyclopedia= [[:en:The History of Parliament|The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820]] |title= RUSSELL, Lord John II (1792-1878). |url= http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/russell-john-ii-1792-1878 |accessdate=2013-07-20 |edition= |year= 1986 |publisher= Secker & Warburg |volume= |location= [[ロンドン|London]] }}</ref><ref>{{Cite encyclopedia |first= David R. |last= Fisher |authorlink= |editor-first= David R. |editor-last= Fisher |encyclopedia= [[:en:The History of Parliament|The History of Parliament: the House of Commons 1820-1832]] |title= RUSSELL, Lord John (1792-1878). |url= http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/russell-lord-john-1792-1878 |accessdate=2013-07-20 |edition= |year= 2009 |publisher= [[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]] |volume= |location= [[ケンブリッジ|Cambridge]] }}</ref>。
1813年、[[デヴォン]]州の{{仮リンク|タヴィストック選挙区|en|Tavistock (UK Parliament constituency)}}から初当選。1817年の[[補欠選挙]]で落選するも{{仮リンク|1818年イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, 1818|label=1818年の総選挙}}で返り咲き、以後叙爵される1861年まで40年以上にわたって選挙区を替えつつ[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]([[自由党 (イギリス)|自由党]])の[[庶民院]]議員を務めた<ref>{{Cite encyclopedia |first= David R. |last= Fisher |authorlink= |editor-first= R. G. |editor-last= Thorne |encyclopedia= [[:en:The History of Parliament|The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820]] |title= RUSSELL, Lord John II (1792-1878). |url= http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/russell-john-ii-1792-1878 |accessdate=2013-07-20 |edition= |year= 1986 |publisher= Secker & Warburg |volume= |location= [[ロンドン|London]] }}</ref><ref>{{Cite encyclopedia |first= David R. |last= Fisher |authorlink= |editor-first= David R. |editor-last= Fisher |encyclopedia= [[:en:The History of Parliament|The History of Parliament: the House of Commons 1820-1832]] |title= RUSSELL, Lord John (1792-1878). |url= http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/russell-lord-john-1792-1878 |accessdate=2013-07-20 |edition= |year= 2009 |publisher= [[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]] |volume= |location= [[ケンブリッジ|Cambridge]] }}</ref>。


ラッセルは改革派の政治家で、1820年代から議会改革や信仰による差別を撤廃する運動に尽力した<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。
1830年に発足した[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣では[[陸軍支払長官]]({{interlang|en|Paymaster of the Forces}})となり<ref name="Doyle" />、当初閣外相だったが1831年から閣僚となった。ラッセルは改革派の政治家で、1832年の[[第一次選挙法改正]]では法案を起草した一人である。1835年の第二次[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]内閣では[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]として入閣した<ref>{{LondonGazette |issue = 19261 |date = 18 April 1835 |startpage = 769 |accessdate = 2013-07-20 }}</ref>。1839年に[[陸軍・植民地大臣]]兼[[庶民院院内総務]]へ転じ、内閣が総辞職する1841年まで務めた<ref name="Doyle" />。


1830年に発足した[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣では{{仮リンク|陸軍支払長官 (イギリス)|label=陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}となり<ref name="Doyle" />、当初[[閣外大臣]]だったが1831年から閣僚となった。1832年の[[第一次選挙法改正]]では法案を起草した四人委員会(他に{{仮リンク|ジョン・ラムトン (初代ダーラム伯爵)|label=ダーラム伯爵|en|John Lambton, 1st Earl of Durham}}、{{仮リンク|ジョン・ポンソンビー (第4代ベスボロー伯爵)|label=ダンカノン子爵|en|John Ponsonby, 4th Earl of Bessborough}}、{{仮リンク|ジェームズ・グラハム (第2代准男爵)|label=サー・ジェームズ・グラハム准男爵|en|Sir James Graham, 2nd Baronet}})の一人となった<ref name="横越(1960)111">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.111</ref>。法案の庶民院提出と説明もラッセルが行った<ref name="横越(1960)117">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.117</ref>。
1846年に[[穀物法]]廃止を巡る内紛で[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ロバート・ピール]]が首相を辞任すると、ラッセルが後任の首相に選ばれた。[[第一次ラッセル内閣]](1846年 - 1852年)は、1840年代後半の[[ジャガイモ飢饉]]と時を同じくし、[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]の第3代[[パーマストン子爵]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)]]との対立もあって指導力を発揮することはできなかった。それでも[[工場法]]の1847年改正({{interlang|en|Factories Act 1847}}; 通称[[十時間労働法]])や、1848年の[[公衆衛生法]]({{interlang|en| Public Health Act 1848}})・1850年の[[オーストラリア植民地政府法]]({{interlang|en|Australian Colonies Government Act}})の制定を行なっている。1851年にラッセルはパーマストンを罷免するが、翌1852年にパーマストンが起こした倒閣運動により総辞職した。


だがこの改革への熱意が、国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]に疎まれ、1834年11月に首相[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]](グレイ伯爵の後任)がラッセルを[[庶民院院内総務]]に推挙した際には国王が強く反対し、これが{{仮リンク|第一次メルバーン子爵内閣|en|Whig Government 1830–1834#The Viscount Melbourne’s Cabinet, July 1834 – November 1834}}政権の総辞職につながった<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。
[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣では外務大臣<ref>{{LondonGazette |issue = 21396 |date = 28 December 1852 |startpage = 3931 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>兼[[庶民院院内総務]]として入閣。[[クリミア戦争]]が勃発して、アバディーンが国民の支持を失うと政権の禅譲を狙い、アバディーンの足を引っ張って庶民院院内総務を辞任して政権崩壊の発端を作った。このことで党内の支持を失い、[[1855年]]に内務大臣のパーマストンに首相の座を奪われた。


[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権を挟んで1835年に成立した第二次[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]内閣では[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]兼[[庶民院院内総務]]として入閣した<ref>{{LondonGazette |issue = 19261 |date = 18 April 1835 |startpage = 769 |accessdate = 2013-07-20 }}</ref>。1839年に[[陸軍・植民地大臣]]に転じた<ref name="Doyle" />。しかし1841年の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}にホイッグ党が敗北したことで、メルバーン子爵政権は議会で敗北して総辞職することになった。代わって[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ロバート・ピール]]の政権が誕生する<ref name="神川(2011)100">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.100</ref>。
1859年からの[[第二次パーマストン子爵内閣]]では外務大臣を務め<ref>{{LondonGazette |issue = 22276 |date = 18 June 1859 |startpage = 2401 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>、在任中の1861年に[[連合王国貴族]]「アンバレー子爵」および「[[ラッセル伯爵]]」に叙爵された<ref>{{LondonGazette |issue = 22534 |date = 30 July 1861 |startpage = 3193 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>。外務大臣としては[[イタリア統一運動]]を支持したが、パーマストンに反対され介入できなかった。また[[生麦事件]]に端を発した日本の[[薩摩藩]]との武力衝突([[薩英戦争]])では、武力行使に積極的な役割を演じた。パーマストンが1865年に死去すると首相に再登板したが、翌1866年に提出した[[第二次選挙法改正]]案を否決され総辞職、政界から引退した。


その翌年の[[1842年]]に党首メルバーン子爵が病に倒れた。これを受けて庶民院ホイッグ党はラッセルが、貴族院ホイッグ党は{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|label=ランズダウン侯爵|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne}}が指導するようになった<ref name="君塚(1999)75">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.75</ref>。
1830年に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に列せられ<ref>{{LondonGazette |issue = 18748 |date = 23 November 1830 |startpage = 2449 |accessdate = 2013-07-20 }}</ref>、1862年に[[ガーター勲章]]を<ref>{{LondonGazette |issue = 22628 |date = 23 May 1862 |startpage = 2672 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>、1869年に[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイト・グランド・クロス<ref>{{LondonGazette |issue = 23512 |date = 1 July 1869 |startpage = 3750 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>を受勲した。


1845年にアイルランドで[[ジャガイモ飢饉]]があると[[穀物法]]を廃止して穀物自由貿易化を求める機運が高まり、ピール保守党政権が自由貿易派と保護貿易派に分裂した。この情勢を見たラッセルは、同年11月に保守党政権に揺さぶりをかける目的でホイッグ党内の合意形成を得ることなく、独断で穀物法廃止を党の方針として発表した。だがホイッグ党内にも保護貿易派の地主議員が多く、彼らはラッセルの独断に強く反発した。同年12月にピールが[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]に総辞職を申し出、ラッセルに組閣の大命があったが、ホイッグ地主たちの協力を得られなかったため、ラッセルは組閣に失敗した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.119-121</ref>。
1878年に死去、息子のジョンに先立たれたため孫の[[フランシス・ラッセル (第2代ラッセル伯爵)|フランシス]]が爵位を継いだ<ref name="Doyle" />。

首相続投することになったピールは、1846年5月にラッセルらホイッグ党自由貿易主義者の協力を得て穀物法を廃止したが、これによって保守党は分裂した。ピールに火中の栗を拾わせたラッセルは、同月のうちにピール内閣の倒閣に成功した。ラッセルが組閣の大命を受け、ホイッグ党政権が誕生した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.124-129</ref>。

=== 第一次内閣 ===
こうして発足した{{仮リンク|第一次ラッセル内閣|en|First Russell ministry}}(1846年 - 1852年)だが、ホイッグ党は議会の多数派ではないから、{{仮リンク|ピール派|en|Peelite}}(自由貿易を奉じて保守党を離れた議員たち)との協力が不可欠であった。ピール派は穀物法を復活させないために保守党政権を阻止するという立場であったものの、経済思想以外は保守的であったので、彼らとの連携は難しかった<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.119-121</ref>。

それでも[[工場法]]の1847年改正({{interlang|en|Factories Act 1847}}; 通称[[十時間労働法]])や1848年[[公衆衛生法]]({{interlang|en| Public Health Act 1848}})の制定、1850年には[[ニューサウスウェールズ州]]の自治に関する[[オーストラリア植民地政府法]]({{interlang|en|Australian Colonies Government Act}})の制定を行なっている<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。

1850年秋にローマ教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]が{{仮リンク|ウェストミンスター大司教|en|Archbishop of Westminster}}職を新設した際には、[[イングランド国教会]]を害するものと激しく反発し、[[聖職者称号法]]({{interlang|en|Ecclesiastical Titles Act 1851}})によってカトリックが国教会の聖職者と同じ称号を持つことを禁止した<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。これによりラッセル政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られ、1851年2月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、女王に総辞職を申し出ることになったが、[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]率いる保守党が組閣に失敗したため続投できた<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.347-349</ref>。

1851年12月にフランスで起こった大統領[[ナポレオン3世|ルイ・ナポレオン]](ナポレオン3世)のクーデタに際しては、ラッセルは「女王陛下の政府は中立の立場をとる」と声明したが、[[外務・英連邦大臣|外務大臣]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]が独断でルイ・ナポレオンのクーデタを支持した。これに激怒したヴィクトリア女王は「これでは女王の政府の公正と威信が世界中から疑われる」とラッセルを叱責した<ref name="君塚(2006)156">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.155-156</ref>。パーマストンはこれまでも独断的な外交を多くしてきたが、これまでラッセルは彼の国民人気と党内右派の支持を配慮して目をつぶってきた。しかし今回は許容せず、パーマストンを外相から解任した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.145-146</ref>。

これ以降ホイッグ党は自由党結成までラッセル派とパーマストン派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論を取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになった。ラッセル派は主に議会改革、パーマストン派は主に砲艦外交や強硬外交を主張した<ref name="ブレイク(1993)319">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.319</ref>。

パーマストンを解任した後、ラッセルは、クーデタによって独裁権力を手にしたフランスのルイ・ナポレオンが、伯父の仇をとろうとイギリスに上陸作戦を決行するという不安に駆られるようになり、それに対抗するため1852年2月に会期が始まった議会でイングランド南東岸に民兵組織を作る法案を提出した<ref name="君塚(2006)158">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.158</ref>。ところがパーマストンがラッセル内閣倒閣を狙って、その法案の修正法案を提出した。しかも保守党庶民院院内総務[[ベンジャミン・ディズレーリ]]がパーマストンに協力することを決定したため、修正法案はパーマストン派と保守党の賛成多数で可決された。これによりラッセル内閣は総辞職を余儀なくされた<ref name="ブレイク(1993)362">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.362</ref>。
{{-}}
=== 再度首相になるまで ===
[[File:John Russell, 1st Earl Russell by Sir Francis Grant detail.jpg|180px|thumb|1853年のジョン・ラッセル卿を描いた絵画({{仮リンク|フランシス・グラント (画家)|label=フランシス・グラント|en|Francis Grant (artist)}}画)]]
1852年2月のラッセル内閣崩壊後、ダービー伯爵保守党政権が誕生するもホイッグ党ラッセル派、ピール派、急進派の連携で同年12月には倒閣に成功した<ref name="君塚(2006)170">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.170</ref>。

しかしラッセルとパーマストンの険悪な関係は続き、両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班の内閣を作るのは無理な情勢であった。女王はピール派党首[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]に組閣の大命を与え、ラッセルとパーマストンはその閣僚として入閣することになった<ref name="神川(2011)152">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.152</ref>。ラッセルは外務大臣<ref>{{LondonGazette |issue = 21396 |date = 28 December 1852 |startpage = 3931 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>兼[[庶民院院内総務]]として入閣している。

[[クリミア戦争]]が勃発して、アバディーンが国民の支持を失うと政権の禅譲を狙い、アバディーンの足を引っ張って庶民院院内総務を辞任して政権崩壊の発端を作った。このことで党内の支持を失い、[[1855年]]に内務大臣のパーマストンに首相の座を奪われた。ホイッグ党党首、庶民院院内総務の座も彼に譲ることになった。

その後もパーマストンとの対立は続き、第一次パーマストン子爵内閣には入閣しなかったが、1855月3月から3か月にわたって[[オーストリア帝国|オーストリア]]・[[ウィーン]]で開催されることになったクリミア戦争の和平交渉会議にイギリス代表として出席することを了承した。だがいまだセヴァストポリ要塞が陥落していなかったため、ロシアが強硬姿勢を示し会議は決裂。これによりラッセルの権威は低下し、パーマストンの党内の優位が確立された<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.185-196</ref>。

1858年に成立したダービー伯爵保守党政権打倒のために1859年6月にパーマストンと和解し、ピール派や急進派も糾合して[[自由党 (イギリス)|自由党]]を結成した<ref name="君塚(2006)222">[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.222</ref>。

1859年6月に成立した{{仮リンク|第二次パーマストン子爵内閣|en|Second Palmerston Ministry}}では外務大臣を務め<ref>{{LondonGazette |issue = 22276 |date = 18 June 1859 |startpage = 2401 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>、在任中の1861年に[[連合王国貴族]]「アンバレー子爵」および「{{仮リンク|ラッセル伯爵|en|Earl Russell}}」に叙爵した<ref>{{LondonGazette |issue = 22534 |date = 30 July 1861 |startpage = 3193 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>。外務大臣としては[[イタリア統一運動]]を支持したが、パーマストンに反対され介入できなかった。また[[生麦事件]]に端を発した日本の[[薩摩藩]]との武力衝突([[薩英戦争]])では、武力行使に積極的な役割を演じた。[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争#第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争]]をめぐっては1864年4月から6月にかけてロンドン会議を主催し、[[デンマーク]]と[[ドイツ]]([[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア帝国|オーストリア]])の講和を斡旋しようとしたが、ラッセルもパーマストンも親デンマーク的態度を取り過ぎたため会議は決裂。以降イギリスはこの問題に不介入方針をとることになった<ref>[[#君塚(2006)|君塚(2006)]] p.247-256</ref>。

=== 第二次内閣 ===
1865年10月に首相パーマストンが死去し、代わって首相・自由党党首となった<ref name="神川(2011)207-208">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.207-208</ref>。パーマストンは選挙権拡大に慎重だったが、ラッセルは前向きだったため、これを機に選挙法改正が動き出した<ref name="横越(1960)345">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.345</ref>。

1866年3月、パーマストンに代わって[[庶民院院内総務]]となった[[ウィリアム・グラッドストン]]が庶民院に選挙権改正法案を提出したが、旧パーマストン派をはじめとして自由党内からも強い反発を受けた。1866年6月には法案の修正案が僅差で可決された。党分裂を恐れたラッセルは解散総選挙を避けて総辞職した<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.210-216</ref>。

[[第二次選挙法改正]]は続くダービー伯爵政権でディズレーリの主導により達成されることになる<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.226-232</ref>。
{{-}}
=== 退任後 ===
[[File:John Russell, Vanity Fair, 1869-06-05.jpg|180px|thumb|1869年6月5日の『{{仮リンク|ヴァニティ・フェアー (イギリス雑誌)|label=ヴァニティ・フェアー|en|Vanity Fair (British magazine)}}』誌のラッセル伯爵の戯画。]]
[[1867年]]12月、76歳の高齢を理由に党首職をグラッドストンに譲った<ref name="ブレイク(1993)578">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.578</ref>。党首退任後は文筆を主とするようになった<ref name="世界伝記大事典(1981,11)453">[[#世界伝記大事典(1981,11)|世界伝記大事典(1981)世界編11巻]] p.453</ref>。

1868年11月の総選挙で自由党が大勝し、12月に{{仮リンク|第一次グラッドストン内閣|en|First Gladstone ministry}}が成立した。グラッドストンは「目立ちたがり屋」のラッセルを封じ込めようと無任所大臣として入閣することを求めたが、ラッセルは政権批判が出来なくなるのを嫌がり、これを拒否した<ref name="君塚(1999)163">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.163</ref>。その後ラッセルは貴族院議員として法案審議に携わる中で1869年の一代貴族法案、1872年のアラバマ号賠償事件、秘密投票制度の導入などをめぐってグラッドストン政権批判を行い、党内を動揺させた<ref name="君塚(1999)164">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.164</ref>。

1878年に死去、息子のジョンに先立たれていたため孫の{{仮リンク|フランシス・ラッセル (第2代ラッセル伯爵)|label=フランシス|en|Frank Russell, 2nd Earl Russell}}が爵位を継いだ<ref name="Doyle" />。
{{-}}


== 家族 ==
== 家族 ==
58行目: 116行目:
* ジョージアナ・アデレード・ラッセル (1836年 - 1922年)
* ジョージアナ・アデレード・ラッセル (1836年 - 1922年)
* ヴィクトリア・ラッセル (1838年 - 1880年)
* ヴィクトリア・ラッセル (1838年 - 1880年)
アデレードと1838年に死別すると、1841年7月20日にレディ・フランセス・アンナ・マリア・エリオット=マーレイ=キニンマウンドと再婚した。彼女は第2代[[ミントー伯爵]][[ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (第2代ミントー伯爵)|ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド]]の娘で、間に三男一女をもうけた<ref name="Doyle" /><ref name="Burke" />。
アデレードと1838年に死別すると、1841年7月20日にレディ・フランセス・アンナ・マリア・エリオット=マーレイ=キニンマウンドと再婚した。彼女は第2代[[ミントー伯爵]][[ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド (第2代ミントー伯爵)|ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンド]]の娘で、間に三男一女をもうけた<ref name="Doyle" /><ref name="Burke" />。
* [[ジョン・ラッセル (1842-1876)|アンバレー子爵ジョン・ラッセル]] (1842年 - 1876年)
* [[ジョン・ラッセル (1842-1876)|アンバレー子爵ジョン・ラッセル]] (1842年 - 1876年)
* [[オナラブル]]・ジョージ・ギルバート・ウィリアム・ラッセル (1848年 - 1933年)
* [[オナラブル]]・ジョージ・ギルバート・ウィリアム・ラッセル (1848年 - 1933年)
64行目: 122行目:
* メアリ・アガサ・ラッセル (1853年 - 1933年)
* メアリ・アガサ・ラッセル (1853年 - 1933年)
ラッセル伯爵夫人フランセスは1898年に死去した。
ラッセル伯爵夫人フランセスは1898年に死去した。
{{-}}

== 著作 ==
== 著作 ==
1853年から1856年にかけ、ラッセルは8巻以上になる[[トマス・ムーア]]の回顧録を編集し出版した<ref>http://www.archive.org/details/memoirsjournalan01mooruoft</ref><ref>http://www.archive.org/details/memoirsjournalan08mooruoft</ref>。
1853年から1856年にかけ、ラッセルは8巻以上になる[[トマス・ムーア]]の回顧録を編集し出版した<ref>http://www.archive.org/details/memoirsjournalan01mooruoft</ref><ref>http://www.archive.org/details/memoirsjournalan08mooruoft</ref>。


== 典 ==
== 典 ==
1830年に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に列せられ<ref>{{LondonGazette |issue = 18748 |date = 23 November 1830 |startpage = 2449 |accessdate = 2013-07-20 }}</ref>、1862年に[[ガーター勲章]]<ref>{{LondonGazette |issue = 22628 |date = 23 May 1862 |startpage = 2672 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>、1869年に[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイト・グランド・クロス<ref>{{LondonGazette |issue = 23512 |date = 1 July 1869 |startpage = 3750 |accessdate = 2013-07-21 }}</ref>を受勲した。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 註釈 ===
<div class="references-small">{{Reflist}}</div>
<references group="註釈" />
=== 出典 ===
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[神川信彦]]|editor=[[君塚直隆]]編|date=2011年(平成23年)|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}}
* {{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
* {{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=2006年(平成18年)|title=パクス・ブリタニカのイギリス外交 パーマストンと会議外交の時代|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641173224|ref=君塚(2006)}}
* {{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=谷福丸|editor=瀬尾弘吉監修|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=ブレイク(1993)}}
*{{Cite book|和書|author=[[横越英一]]|date=1960年(昭和35年)|title=近代政党史研究|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000JAPE20|ref=横越(1960)}}
* {{Cite book|和書|date=1981年(昭和56年)|title=世界伝記大事典〈世界編 11〉ミーラロ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCO0|ref=世界伝記大事典(1981,11)}}
* {{Cite book|author=John Prest|date=1972|title=Lord John Russell|publisher=University of South Carolina Press|isbn=978-0333133149|ref=Prest(1972)}}
* [[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= James William Edmund |editor-last= Doyle |editor-link= :en:James William Edmund Doyle |encyclopedia= The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 |title= RUSSELL. |url = http://archive.org/stream/officialbaronag02doylgoog#page/n206/mode/2up |accessdate = 2013-7-18 |language = 英語 |edition = |year = 1886 |publisher = [[:en:Longmans|Longmans]] |volume = 3 |location = [[ロンドン|London]] |ref= Doyle(1886) }}
* [[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= Bernard, Sir |editor-last= Burke |editor-link= :en:Bernard Burke |encyclopedia= [[:en:Burke's Peerage|A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire]] |title= RUSSELL. |url= http://www.archive.org/stream/genealogicalhera00inburk#page/966/mode/2up |accessdate= 2013-7-18 |language= 英語 |edition= 31 |year= 1869 |publisher= Harrison |volume= |location= [[ロンドン|London]] |ref= Burke(1869) }}


== 関連項目 ==
*[[イギリスの首相の一覧]]
*[[ホイッグ党 (イギリス)]]
*[[自由党 (イギリス)]]
*[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)]]
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline|John Russell, 1st Earl Russell|初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル}}
* {{Commonscat-inline|John Russell, 1st Earl Russell|初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル}}
82行目: 163行目:
* {{Find A Grave|10193|name=John Russell}}
* {{Find A Grave|10193|name=John Russell}}


{{start box}}
{{先代次代|[[陸軍支払長官]]|1830-1834|[[ジョン・キャルクラフト (1765-1831)|ジョン・キャルクラフト]]|サー・[[エドワード・ナッチブル (第9代準男爵)|エドワード・ナッチブル]]準男爵}}
{{s-off}}
{{先代次代|[[庶民院院内総務]]|1834|[[ジョン・スペンサー (第3代スペンサー伯爵)|オールトラップ子爵]]|サー・[[ロバート・ピール]]準男爵}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|陸軍支払長官 (イギリス)|label=陸軍支払長官|en|Paymaster of the Forces}}| years = [[1830年]]-[[1834年]]| before ={{仮リンク|ジョン・キャルクラフト (1765-1831)|label=ジョン・キャルクラフト|en|John Calcraft (the younger)}}| after = {{仮リンク|エドワード・ナッチブル (第9代準男爵)|label=サー・エドワード・ナッチブル准男爵|en|Sir Edward Knatchbull, 9th Baronet}}}}
{{先代次代|[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]|1835-1839|[[ヘンリー・ゴールバーン]]|[[コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵)|初代ノーマンビー侯爵]]}}
{{先代次代|[[庶民院院内総務]]|1835–1841|サー・[[ロバト・ピール]]準男爵|サー・[[ロバート・ピール]]準男爵}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[庶民院院内総務]]| years = [[1834年]]| before ={{仮リンク|ジョン・スペンサー (第3代スペンサ伯爵)|label=オールトラップ子爵|en|John Spencer, 3rd Earl Spencer}}| after = サー・[[ロバート・ピール]]準男爵}}
{{先代次代|[[陸軍・植民地大臣]]|1839–1841|[[コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵)|初代ノーマンビー侯爵]]|[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|内務大臣 (イギリス)|label=内務大臣|en|Home Secretary}}| years = [[1835年]] - [[1839年]]| before = {{仮リンク|ヘンリー・ゴールバーン|en|Henry Goulburn}}| after = [[コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵)|初代ノーマンビー侯爵]]}}
{{先代次代|[[イギリスの首相の一覧|イギリスの首相]]|1846-1852|サー・[[ロバート・ピール]]準男爵|[[エドワスミス=スタンリ (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[庶民院院内総務]]| years = [[1835年]]-[[1841年]]| before =サー・[[ロバート・ピール]]準男爵| after = サー・[[ロバ]]準男爵}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[陸軍・植民地大臣]]| years = [[1839年]]-[[1841年]]| before =[[コンスタンティン・フィップス (初代ノーマンビー侯爵)|初代ノーマンビー侯爵]]| after = [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿]]}}
{{先代次代|[[庶民院院内総務]]|1846–1852|サー・[[ロバート・ピール]]準男爵|[[ベンジャミン・ディズレーリ]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1846年]]-[[1852年]]| before = サー・[[ロバート・ピール]]準男爵| after = [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵]]}}
{{先代次代|[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]|1852–1853|[[ジェイムズ・ハリス (第3代マルムズベリー伯爵)|第3代マルムズベリー伯爵]]|[[ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|第4代クラレンドン伯爵]]}}
{{先代次代|[[庶民院院内総務]]|1852–1855|[[ベンジャミン・ディズレーリ]]|[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[庶民院院内総務]]| years = [[1846年]]-[[1852年]]| before =サー・[[ロバート・ピール]]準男爵| after = [[ベンジャミン・ディズレーリ]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]| years = [[1852年]]-[[1853年]]| before = {{仮リンク|ジェイムズ・ハリス (第3代マルムズベリー伯爵)|label=第3代マルムズベリー伯爵|en|James Harris, 3rd Earl of Malmesbury}}| after = {{仮リンク|ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|label=第4代クラレンドン伯爵|en|George Villiers, 4th Earl of Clarendon}}}}
{{先代次代|[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]|1854–1855|[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|第2代グランヴィル伯爵]]|[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|第2代グランヴィル伯爵]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[庶民院院内総務]]| years = [[1852年]]-[[1855年]]| before =[[ベンジャミン・ディズレーリ]]| after = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]}}
{{先代次代|[[植民地大臣]]|1855|[[シドニー・ハーバート]]|サー・[[ウィリアム・モールスワース (第8代準男爵)|ウィリアム・モールスワース]]準男爵}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|枢密院議長 (イギリス)|label=枢密院議長|en|Lord President of the Council}}| years = [[1854年]]-[[1855年]]| before ={{仮リンク|グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|label=第2代グランヴィル伯爵|en|Granville Leveson-Gower, 2nd Earl Granville}}| after = {{仮リンク|グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|label=第2代グランヴィル伯爵|en|Granville Leveson-Gower, 2nd Earl Granville}}}}
{{先代次代|[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]|1859-1865|[[ジェイムズ・ハリス (第3代マルムズベリー伯爵)|第3代マルムズベリー伯爵]]|[[ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|第4代クラレンドン伯爵]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}| years = [[1855年]]| before ={{仮リンク|シドニー・ハーバート (初代ハーバート・オブ・リー男爵)|label=シドニー・ハーバート|en|Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea}}| after = {{仮リンク|ウィリアム・モールスワース (第8代準男爵)|label=サー・ウィリアム・モールスワース准男爵|en|Sir William Molesworth, 8th Baronet}}}}
{{先代次代|[[イギリスの首相の一覧|イギリスの首相]]|1865-1866|[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]|[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]| years = [[1859年]]-[[1865年]]| before = {{仮リンク|ジェイムズ・ハリス (第3代マルムズベリー伯爵)|label=第3代マルムズベリー伯爵|en|James Harris, 3rd Earl of Malmesbury}}| after = {{仮リンク|ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|label=第4代クラレンドン伯爵|en|George Villiers, 4th Earl of Clarendon}}}}
{{先代次代|[[ラッセル伯爵]]|初代: 1861-1878|(創設)|[[フランク・ラッセル (第2代ラッセル伯爵)|フランク・ラッセル]]}}
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1865年]]-[[1866年]]| before = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]| after = [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵]]}}
{{s-ppo}}
{{Succession box| title = {{仮リンク|イギリス・ホイッグ党庶民院院内総務|label=ホイッグ党庶民院院内総務|en|Leaders_of_the_British_Whig_Party#Leaders_of_the_Whig_Party_in_the_House_of_Commons.2C_1830–1859}}| years = [[1834年]]-[[1855年]]| before ={{仮リンク|ジョン・スペンサー (第3代スペンサー伯爵)|label=オールトラップ子爵|en|John Spencer, 3rd Earl Spencer}}| after = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]}}
{{Succession box| title = {{仮リンク|イギリス・ホイッグ党党首|label=ホイッグ党党首|en|Leader of the British Whig Party}}<br/><small>1848年まで貴族院自由党は{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|label=第3代ランズダウン侯爵|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne}}が指導</small>| years = [[1842年]]-[[1855年]]| before =[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|第2代メルバーン子爵]]| after = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]}}
{{Succession box| title = [[自由党 (イギリス)|イギリス自由党]]党首| years = [[1865年]]-[[1866年]]| before = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]| after = [[ウィリアム・グラッドストン]]}}
{{Succession box| title = {{仮リンク|イギリス自由党貴族院院内総務|label=自由党貴族院院内総務|en|List of United Kingdom Liberal Party leaders#Leaders of the Liberal Party in the House of Lords}}| years = [[1865年]]-[[1868年]]| before ={{仮リンク|グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|label=第2代グランヴィル伯爵|en|Granville Leveson-Gower, 2nd Earl Granville}}| after = {{仮リンク|グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|label=第2代グランヴィル伯爵|en|Granville Leveson-Gower, 2nd Earl Granville}}}}
{{s-aca}}
{{Succession box| title = {{仮リンク|グラスゴー大学学長|en|Rector of the University of Glasgow}}| years = [[1846年]]-[[1847年]]| before = {{仮リンク|アンドルー・ラザフォード (ラザフォード卿)|label=ラザフォード卿|en|Andrew Rutherfurd, Lord Rutherfurd}}| after = {{仮リンク|ウィリアム・ミューズ (学者)|label=ウィリアム・ミューズ|en|William Mure (scholar)}}}}
{{Succession box| title = {{仮リンク|アバディーン大学学長|en|Rector of the University of Aberdeen}}| years = [[1863年]]-[[1866年]]| before = {{仮リンク|エドワード・メイトランド (バーケープル卿)|label=バーケープル卿|en|Edward Maitland, Lord Barcaple}}| after = {{仮リンク|M.E.グラント・ダフ|label=M.E.グラント・ダフ|en|M. E. Grant Duff}}}}
{{s-reg|uk}}
{{succession box | title=初代{{仮リンク|ラッセル伯爵|en|Earl Russell}}| before=創設| after={{仮リンク|フランシス・ラッセル (第2代ラッセル伯爵)|label=フランシス・ラッセル|en|Frank Russell, 2nd Earl Russell}}| years=[[1861年]] - [[1878年]]}}
{{End box}}
{{イギリスの首相}}
{{イギリスの首相}}
{{ Normdaten | NDL = 00766764 | CINII = DA04767978 | VIAF = 44473781 | LCCN = n/50/022415 | PND = 116711086 | SELIBR = }}
{{ Normdaten | NDL = 00766764 | CINII = DA04767978 | VIAF = 44473781 | LCCN = n/50/022415 | PND = 116711086 | SELIBR = }}
102行目: 195行目:
[[Category:イギリスの首相]]
[[Category:イギリスの首相]]
[[Category:イギリスの伯爵]]
[[Category:イギリスの伯爵]]
[[Category:イギリスの政治家]]
[[Category:イギリス・ホイッグ党の政治家]]
[[Category:イギリス・ホイッグ党の政治家]]
[[Category:イギリス自由党の政治家]]
[[Category:イギリス自由党の政治家]]
110行目: 202行目:
[[Category:聖マイケル・聖ジョージ勲章]]
[[Category:聖マイケル・聖ジョージ勲章]]
[[Category:イギリスの枢密顧問官]]
[[Category:イギリスの枢密顧問官]]
[[Category:アバディーン大学の教員]]
[[Category:グラスゴー大学の教員]]
[[Category:1792年生]]
[[Category:1792年生]]
[[Category:1878年没]]
[[Category:1878年没]]

2013年7月23日 (火) 15:51時点における版

初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル
John Russell, 1st Earl Russell
生年月日 1792年8月18日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国ロンドンメイフェア
没年月日 1878年5月28日 (満85歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスサリー州、リッチモンド公園ペンブローク・ロッジ
出身校 エディンバラ大学
所属政党 ホイッグ党自由党
称号 ガーター勲章勲爵士 (KG)
聖マイケル・聖ジョージ勲章一等勲爵士 (GCMG)
枢密顧問官 (PC)
配偶者 (1) アデレード・リスター
(2) レディ・フランセス・エリオット
親族 第4代ベッドフォード公爵 (曽祖父)
第6代ベッドフォード公爵 (父)
第2代ミントー伯爵 (義父)
サイン

在任期間 1846年7月6日 - 1852年2月20日
1865年10月30日 - 1866年6月26日[1]
女王 ヴィクトリア

内閣 アバディーン伯爵内閣
第二次パーマストン子爵内閣
在任期間 1852年12月28日 - 1853年2月21日
1859年6月18日 - 1865年10月30日[1]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1861年 - 1878年

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 タヴィストック選挙区英語版
タヴィストック選挙区英語版
ハンティンドンシャー選挙区英語版
バンドン選挙区英語版
タヴィストック選挙区英語版
デヴォンシャー選挙区英語版
サウス・デヴォン選挙区英語版
ストラウド選挙区英語版
シティ・オブ・ロンドン選挙区英語版[2]
在任期間 1813年5月4日 - 1817年3月12日
1818年6月18日 - 1820年12月31日
1820年3月16日 - 1826年6月20日
1826年12月19日 - 1830年8月7日
1830年11月27日 - 1831年7月13日
1831年5月10日 - 1832年12月10日
1832年12月10日 - 1835年1月6日
1835年5月19日 - 1841年6月29日
1841年6月29日 - 1861年7月27日[2]
テンプレートを表示

初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルJohn Russell, 1st Earl Russell1792年8月18日 - 1878年5月28日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCMG)、枢密顧問官(PC)。

ホイッグ党自由党の前身)の改革派として名を馳せ、メルバーン子爵退任後にホイッグ党首となり、1846年に首相となったが、パーマストン子爵と対立を深め、党内が分裂状態となり、1852年2月に総辞職した。

ついで1852年12月成立のピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣に外務大臣として入閣。1855年2月にパーマストン子爵が首相となるとホイッグ党首の座も彼に譲る。ホイッグ党が野党だった頃の1859年6月にパーマストンと和解して自由党結成と保守党政権打倒に貢献した。第二次パーマストン内閣に外務大臣として入閣し、パーマストンが1865年に死去すると代わって首相・自由党党首となったが、翌1866年に選挙法改正に失敗して総辞職した。1867年に自由党党首の座をグラッドストンに譲った。

1861年までは儀礼称号を付けて「ジョン・ラッセル卿」と称されていた[註釈 1]。哲学者の第3代ラッセル伯爵バートランド・ラッセルは孫にあたる。

経歴

生い立ち

第6代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルと最初の妻ジョージアナ・ビングの三男として生まれた[3]イングランド有数の富豪であり、17世紀以来ホイッグ党の政治家を輩出してきたラッセル家出身であったが、三男の彼には一族の所領を継承する見込みはなかった。

パブリックスクールウェストミンスター・スクールを経て、エディンバラ大学(3年在籍したが単位が取れなかった)で学んだ[4][5][6]。ラッセルはオックスフォード大学にもケンブリッジ大学にも在籍したことがない、イギリス史においては珍しい経歴を有する首相の1人である。

首相就任まで

1813年、デヴォン州のタヴィストック選挙区英語版から初当選。1817年の補欠選挙で落選するも1818年の総選挙英語版で返り咲き、以後叙爵される1861年まで40年以上にわたって選挙区を替えつつホイッグ党自由党)の庶民院議員を務めた[7][8]

ラッセルは改革派の政治家で、1820年代から議会改革や信仰による差別を撤廃する運動に尽力した[3]

1830年に発足したグレイ伯爵内閣では陸軍支払長官英語版となり[5]、当初閣外大臣だったが1831年から閣僚となった。1832年の第一次選挙法改正では法案を起草した四人委員会(他にダーラム伯爵ダンカノン子爵サー・ジェームズ・グラハム准男爵)の一人となった[9]。法案の庶民院提出と説明もラッセルが行った[10]

だがこの改革への熱意が、国王ウィリアム4世に疎まれ、1834年11月に首相メルバーン子爵(グレイ伯爵の後任)がラッセルを庶民院院内総務に推挙した際には国王が強く反対し、これが第一次メルバーン子爵内閣英語版政権の総辞職につながった[11]

保守党政権を挟んで1835年に成立した第二次メルバーン子爵内閣では内務大臣庶民院院内総務として入閣した[12]。1839年に陸軍・植民地大臣に転じた[5]。しかし1841年の解散総選挙英語版にホイッグ党が敗北したことで、メルバーン子爵政権は議会で敗北して総辞職することになった。代わって保守党ロバート・ピールの政権が誕生する[13]

その翌年の1842年に党首メルバーン子爵が病に倒れた。これを受けて庶民院ホイッグ党はラッセルが、貴族院ホイッグ党はランズダウン侯爵が指導するようになった[14]

1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉があると穀物法を廃止して穀物自由貿易化を求める機運が高まり、ピール保守党政権が自由貿易派と保護貿易派に分裂した。この情勢を見たラッセルは、同年11月に保守党政権に揺さぶりをかける目的でホイッグ党内の合意形成を得ることなく、独断で穀物法廃止を党の方針として発表した。だがホイッグ党内にも保護貿易派の地主議員が多く、彼らはラッセルの独断に強く反発した。同年12月にピールがヴィクトリア女王に総辞職を申し出、ラッセルに組閣の大命があったが、ホイッグ地主たちの協力を得られなかったため、ラッセルは組閣に失敗した[15]

首相続投することになったピールは、1846年5月にラッセルらホイッグ党自由貿易主義者の協力を得て穀物法を廃止したが、これによって保守党は分裂した。ピールに火中の栗を拾わせたラッセルは、同月のうちにピール内閣の倒閣に成功した。ラッセルが組閣の大命を受け、ホイッグ党政権が誕生した[16]

第一次内閣

こうして発足した第一次ラッセル内閣英語版(1846年 - 1852年)だが、ホイッグ党は議会の多数派ではないから、ピール派(自由貿易を奉じて保守党を離れた議員たち)との協力が不可欠であった。ピール派は穀物法を復活させないために保守党政権を阻止するという立場であったものの、経済思想以外は保守的であったので、彼らとの連携は難しかった[17]

それでも工場法の1847年改正(Factories Act 1847; 通称十時間労働法)や1848年公衆衛生法Public Health Act 1848)の制定、1850年にはニューサウスウェールズ州の自治に関するオーストラリア植民地政府法Australian Colonies Government Act)の制定を行なっている[3]

1850年秋にローマ教皇ピウス9世ウェストミンスター大司教英語版職を新設した際には、イングランド国教会を害するものと激しく反発し、聖職者称号法Ecclesiastical Titles Act 1851)によってカトリックが国教会の聖職者と同じ称号を持つことを禁止した[3]。これによりラッセル政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られ、1851年2月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、女王に総辞職を申し出ることになったが、ダービー伯爵率いる保守党が組閣に失敗したため続投できた[18]

1851年12月にフランスで起こった大統領ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデタに際しては、ラッセルは「女王陛下の政府は中立の立場をとる」と声明したが、外務大臣パーマストン子爵が独断でルイ・ナポレオンのクーデタを支持した。これに激怒したヴィクトリア女王は「これでは女王の政府の公正と威信が世界中から疑われる」とラッセルを叱責した[19]。パーマストンはこれまでも独断的な外交を多くしてきたが、これまでラッセルは彼の国民人気と党内右派の支持を配慮して目をつぶってきた。しかし今回は許容せず、パーマストンを外相から解任した[20]

これ以降ホイッグ党は自由党結成までラッセル派とパーマストン派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論を取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになった。ラッセル派は主に議会改革、パーマストン派は主に砲艦外交や強硬外交を主張した[21]

パーマストンを解任した後、ラッセルは、クーデタによって独裁権力を手にしたフランスのルイ・ナポレオンが、伯父の仇をとろうとイギリスに上陸作戦を決行するという不安に駆られるようになり、それに対抗するため1852年2月に会期が始まった議会でイングランド南東岸に民兵組織を作る法案を提出した[22]。ところがパーマストンがラッセル内閣倒閣を狙って、その法案の修正法案を提出した。しかも保守党庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリがパーマストンに協力することを決定したため、修正法案はパーマストン派と保守党の賛成多数で可決された。これによりラッセル内閣は総辞職を余儀なくされた[23]

再度首相になるまで

1853年のジョン・ラッセル卿を描いた絵画(フランシス・グラント英語版画)

1852年2月のラッセル内閣崩壊後、ダービー伯爵保守党政権が誕生するもホイッグ党ラッセル派、ピール派、急進派の連携で同年12月には倒閣に成功した[24]

しかしラッセルとパーマストンの険悪な関係は続き、両者ともお互いにその下に就くことを拒否したため、ホイッグ党首班の内閣を作るのは無理な情勢であった。女王はピール派党首アバディーン伯爵に組閣の大命を与え、ラッセルとパーマストンはその閣僚として入閣することになった[25]。ラッセルは外務大臣[26]庶民院院内総務として入閣している。

クリミア戦争が勃発して、アバディーンが国民の支持を失うと政権の禅譲を狙い、アバディーンの足を引っ張って庶民院院内総務を辞任して政権崩壊の発端を作った。このことで党内の支持を失い、1855年に内務大臣のパーマストンに首相の座を奪われた。ホイッグ党党首、庶民院院内総務の座も彼に譲ることになった。

その後もパーマストンとの対立は続き、第一次パーマストン子爵内閣には入閣しなかったが、1855月3月から3か月にわたってオーストリアウィーンで開催されることになったクリミア戦争の和平交渉会議にイギリス代表として出席することを了承した。だがいまだセヴァストポリ要塞が陥落していなかったため、ロシアが強硬姿勢を示し会議は決裂。これによりラッセルの権威は低下し、パーマストンの党内の優位が確立された[27]

1858年に成立したダービー伯爵保守党政権打倒のために1859年6月にパーマストンと和解し、ピール派や急進派も糾合して自由党を結成した[28]

1859年6月に成立した第二次パーマストン子爵内閣では外務大臣を務め[29]、在任中の1861年に連合王国貴族「アンバレー子爵」および「ラッセル伯爵」に叙爵した[30]。外務大臣としてはイタリア統一運動を支持したが、パーマストンに反対され介入できなかった。また生麦事件に端を発した日本の薩摩藩との武力衝突(薩英戦争)では、武力行使に積極的な役割を演じた。第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争をめぐっては1864年4月から6月にかけてロンドン会議を主催し、デンマークドイツプロイセンオーストリア)の講和を斡旋しようとしたが、ラッセルもパーマストンも親デンマーク的態度を取り過ぎたため会議は決裂。以降イギリスはこの問題に不介入方針をとることになった[31]

第二次内閣

1865年10月に首相パーマストンが死去し、代わって首相・自由党党首となった[32]。パーマストンは選挙権拡大に慎重だったが、ラッセルは前向きだったため、これを機に選挙法改正が動き出した[33]

1866年3月、パーマストンに代わって庶民院院内総務となったウィリアム・グラッドストンが庶民院に選挙権改正法案を提出したが、旧パーマストン派をはじめとして自由党内からも強い反発を受けた。1866年6月には法案の修正案が僅差で可決された。党分裂を恐れたラッセルは解散総選挙を避けて総辞職した[34]

第二次選挙法改正は続くダービー伯爵政権でディズレーリの主導により達成されることになる[35]

退任後

1869年6月5日の『ヴァニティ・フェアー英語版』誌のラッセル伯爵の戯画。

1867年12月、76歳の高齢を理由に党首職をグラッドストンに譲った[36]。党首退任後は文筆を主とするようになった[3]

1868年11月の総選挙で自由党が大勝し、12月に第一次グラッドストン内閣が成立した。グラッドストンは「目立ちたがり屋」のラッセルを封じ込めようと無任所大臣として入閣することを求めたが、ラッセルは政権批判が出来なくなるのを嫌がり、これを拒否した[37]。その後ラッセルは貴族院議員として法案審議に携わる中で1869年の一代貴族法案、1872年のアラバマ号賠償事件、秘密投票制度の導入などをめぐってグラッドストン政権批判を行い、党内を動揺させた[38]

1878年に死去、息子のジョンに先立たれていたため孫のフランシス英語版が爵位を継いだ[5]

家族

アデレード・ラッセル(旧姓リスター)

ラッセルの最初の妻であるアデレードとは1835年4月11日に結婚し、二女をもうけた[5][6]

  • ジョージアナ・アデレード・ラッセル (1836年 - 1922年)
  • ヴィクトリア・ラッセル (1838年 - 1880年)

アデレードと1838年に死別すると、1841年7月20日にレディ・フランセス・アンナ・マリア・エリオット=マーレイ=キニンマウンドと再婚した。彼女は第2代ミントー伯爵ギルバート・エリオット=マーレイ=キニンマウンドの娘で、間に三男一女をもうけた[5][6]

  • アンバレー子爵ジョン・ラッセル (1842年 - 1876年)
  • オナラブル・ジョージ・ギルバート・ウィリアム・ラッセル (1848年 - 1933年)
  • オナラブル・フランシス・アルバート・ロロ・ラッセル (1849年 - 1914年)
  • メアリ・アガサ・ラッセル (1853年 - 1933年)

ラッセル伯爵夫人フランセスは1898年に死去した。

著作

1853年から1856年にかけ、ラッセルは8巻以上になるトマス・ムーアの回顧録を編集し出版した[39][40]

栄典

1830年に枢密顧問官に列せられ[41]、1862年にガーター勲章[42]、1869年に聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス[43]を受勲した。

脚注

註釈

  1. ^ 1861年の叙爵前に卿(Lord)を称していたのは公爵の余子だったためで、法的身分は平民であった。この儀礼称号は姓名または名に付くので「ジョン・ラッセル卿(Lord John Russell)」や「ジョン卿(Lord John)」が正しく、「ラッセル卿」は誤りである。一方叙爵して貴族となった後は「ラッセル伯爵(The Earl Russell)」あるいは略して「ラッセル卿(Lord Russell)」となる。イギリスにおいて爵位は必ず爵位名(本記事の人物の場合姓に由来する「ラッセル」)とセットで与えられるものであるため、「ジョン・ラッセル伯爵」や「ジョン・ラッセル卿」とするのは誤りである。妻についても同様で、夫の叙爵前は「ジョン・ラッセル卿夫人(Lady John Russell)」、叙爵後は「ラッセル伯爵夫人(Countess Russell)」となる。

出典

  1. ^ a b 秦(2001) p.509
  2. ^ a b HANSARD 1803–2005
  3. ^ a b c d e 世界伝記大事典(1981)世界編11巻 p.453
  4. ^ Prest(1972) p.11-13
  5. ^ a b c d e f Doyle(1886) p.185-186
  6. ^ a b c Burke(1869) p.966
  7. ^ Fisher, David R. (1986). "RUSSELL, Lord John II (1792-1878).". In Thorne, R. G. (ed.). The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820. London: Secker & Warburg. 2013年7月20日閲覧
  8. ^ Fisher, David R. (2009). "RUSSELL, Lord John (1792-1878).". In Fisher, David R. (ed.). The History of Parliament: the House of Commons 1820-1832. Cambridge: Cambridge University Press. 2013年7月20日閲覧
  9. ^ 横越(1960) p.111
  10. ^ 横越(1960) p.117
  11. ^ 君塚(1999) p.63
  12. ^ "No. 19261". The London Gazette (英語). 18 April 1835. 2013年7月20日閲覧
  13. ^ 神川(2011) p.100
  14. ^ 君塚(1999) p.75
  15. ^ 神川(2011) p.119-121
  16. ^ 神川(2011) p.124-129
  17. ^ 神川(2011) p.119-121
  18. ^ ブレイク(1993) p.347-349
  19. ^ 君塚(2006) p.155-156
  20. ^ 神川(2011) p.145-146
  21. ^ ブレイク(1993) p.319
  22. ^ 君塚(2006) p.158
  23. ^ ブレイク(1993) p.362
  24. ^ 君塚(2006) p.170
  25. ^ 神川(2011) p.152
  26. ^ "No. 21396". The London Gazette (英語). 28 December 1852. 2013年7月21日閲覧
  27. ^ 君塚(2006) p.185-196
  28. ^ 君塚(2006) p.222
  29. ^ "No. 22276". The London Gazette (英語). 18 June 1859. 2013年7月21日閲覧
  30. ^ "No. 22534". The London Gazette (英語). 30 July 1861. 2013年7月21日閲覧
  31. ^ 君塚(2006) p.247-256
  32. ^ 神川(2011) p.207-208
  33. ^ 横越(1960) p.345
  34. ^ 神川(2011) p.210-216
  35. ^ 神川(2011) p.226-232
  36. ^ ブレイク(1993) p.578
  37. ^ 君塚(1999) p.163
  38. ^ 君塚(1999) p.164
  39. ^ http://www.archive.org/details/memoirsjournalan01mooruoft
  40. ^ http://www.archive.org/details/memoirsjournalan08mooruoft
  41. ^ "No. 18748". The London Gazette (英語). 23 November 1830. 2013年7月20日閲覧
  42. ^ "No. 22628". The London Gazette (英語). 23 May 1862. 2013年7月21日閲覧
  43. ^ "No. 23512". The London Gazette (英語). 1 July 1869. 2013年7月21日閲覧

参考文献

関連項目

外部リンク

公職
先代
ジョン・キャルクラフト英語版
イギリスの旗 陸軍支払長官英語版
1830年-1834年
次代
サー・エドワード・ナッチブル准男爵英語版
先代
オールトラップ子爵
イギリスの旗 庶民院院内総務
1834年
次代
サー・ロバート・ピール準男爵
先代
ヘンリー・ゴールバーン英語版
イギリスの旗 内務大臣
1835年 - 1839年
次代
初代ノーマンビー侯爵
先代
サー・ロバート・ピール準男爵
イギリスの旗 庶民院院内総務
1835年-1841年
次代
サー・ロバート・ピール準男爵
先代
初代ノーマンビー侯爵
イギリスの旗 陸軍・植民地大臣
1839年-1841年
次代
スタンリー卿
先代
サー・ロバート・ピール準男爵
イギリスの旗 首相
1846年-1852年
次代
第14代ダービー伯爵
先代
サー・ロバート・ピール準男爵
イギリスの旗 庶民院院内総務
1846年-1852年
次代
ベンジャミン・ディズレーリ
先代
第3代マルムズベリー伯爵英語版
イギリスの旗 外務大臣
1852年-1853年
次代
第4代クラレンドン伯爵
先代
ベンジャミン・ディズレーリ
イギリスの旗 庶民院院内総務
1852年-1855年
次代
第3代パーマストン子爵
先代
第2代グランヴィル伯爵
イギリスの旗 枢密院議長
1854年-1855年
次代
第2代グランヴィル伯爵
先代
シドニー・ハーバート
イギリスの旗 植民地大臣
1855年
次代
サー・ウィリアム・モールスワース准男爵英語版
先代
第3代マルムズベリー伯爵英語版
イギリスの旗 外務大臣
1859年-1865年
次代
第4代クラレンドン伯爵
先代
第3代パーマストン子爵
イギリスの旗 首相
1865年-1866年
次代
第14代ダービー伯爵
党職
先代
オールトラップ子爵
ホイッグ党庶民院院内総務英語版
1834年-1855年
次代
第3代パーマストン子爵
先代
第2代メルバーン子爵
ホイッグ党党首英語版
1848年まで貴族院自由党は第3代ランズダウン侯爵が指導

1842年-1855年
次代
第3代パーマストン子爵
先代
第3代パーマストン子爵
イギリス自由党党首
1865年-1866年
次代
ウィリアム・グラッドストン
先代
第2代グランヴィル伯爵
自由党貴族院院内総務英語版
1865年-1868年
次代
第2代グランヴィル伯爵
学職
先代
ラザフォード卿英語版
グラスゴー大学学長英語版
1846年-1847年
次代
ウィリアム・ミューズ英語版
先代
バーケープル卿英語版
アバディーン大学学長英語版
1863年-1866年
次代
M.E.グラント・ダフ英語版
イギリスの爵位
先代
創設
初代ラッセル伯爵
1861年 - 1878年
次代
フランシス・ラッセル英語版