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「伊古奈比咩命神社」の版間の差分

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{{記事名の制約|title=伊古奈比咩{口+羊}命神社}}
{{記事名の制約|title=伊古奈比咩命神社}}
{{神社
|名称 = 伊古奈比咩命神社
|画像 = [[File:Ikonahimenomikoto-jinja haiden.JPG|280px]]<br />拝殿
|所在地 = [[静岡県]][[下田市]]白浜2740
|ISO = JP-22
|緯度度 = 34|緯度分 = 41|緯度秒 = 38.26
|経度度 =138|経度分 = 58|経度秒 = 25.21
|祭神 = 伊古奈比咩命
|神体 = [[神鏡]]
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br />旧[[県社]]<br />[[別表神社]]
|創建 = 不詳
|本殿 = 三間社[[流造]]
|別名 = 白濱神社(白浜神社)
|札所等 =
|例祭 = [[10月29日]]
|神事 = 火達祭([[10月28日]])<br />御幣流祭([[10月30日]])
|ラベル位置 = left
|地図 = Japan Shizuoka
}}
{{座標一覧}}
[[File:Ikonahimenomikoto-jinja torii.JPG|thumb|200px|right|<center>鳥居</center>]]
'''伊古奈比咩命神社'''(いこなひめのみことじんじゃ)は、[[静岡県]][[下田市]][[白浜 (下田市)|白浜]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])で、[[近代社格制度|旧社格]]は[[県社]]。現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。通称は「'''白濱神社'''('''白浜神社''')」。


== 概要 ==
{{神社|
静岡県東部の[[伊豆半島]]先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま/ひたつ-)」に鎮座する。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡でもあるが、その祭祀は現在まで当社の祭祀として続いている。伝承では、主祭神の「伊古奈比咩命」は、伊豆諸島開拓神の「三嶋神」の后神であるという。また、三嶋神は[[三宅島]]から白浜(当地)、そして[[伊豆国]][[一宮]]の[[三嶋大社]](静岡県[[三島市]])へと遷座したとも伝える。
名称=伊古奈比咩命神社|
画像=[[画像:IkonahimenoMikotoJinja2.jpg|250px|伊古奈比咩命神社拝殿]]<br/>拝殿(本殿は山上)|
所在地=静岡県下田市白浜2740|
位置={{ウィキ座標2段度分秒|34|41|38|N|138|58|25|E|}}|
祭神=伊古奈比咩命|
社格=式内社(名神大)、旧県社、別表神社|
創建= 不明|
本殿=三社間流造向拝付|
例祭=[[10月29日]]|
神事=火達祭、御幣流祭など}}


境内の火達山は、祭祀遺跡として市の史跡に指定されている。また、火達山に自生する[[アオギリ]]樹林は国の天然記念物に、[[ビャクシン]]樹林は静岡県の天然記念物に指定されている。そのほか、[[大久保長安]]奉納の[[鰐口]](静岡県指定文化財)に代表される文化財数点が伝わっている。
'''伊古奈比咩命神社'''(いこなひめのみことじんじゃ)は、[[静岡県]][[下田市]][[白浜 (下田市)|白浜]]にある[[神社]]である。


== 社名について ==
[[式内社]]で、旧社格は[[近代社格制度|県社]]。縁結び・子授け・子育てなどの神徳で名高く、また[[伊豆諸島]]の造島伝説に由来する神事でも知られる。
[[File:Shirahama-kaigan (Izu).JPG|thumb|200px|right|<center>白浜海岸と火達山(中央上)</center>]]
現在の社名は、主祭神・伊古奈比咩命の名を掲げた「伊古奈比咩命神社」である。この社名は、[[平安時代]]の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]に記載されるものである{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=37}}。当社がこの『延喜式』所載社であることを伝える史料としては唯一、[[江戸時代]]の[[慶長]]12年([[1607年]])の[[鰐口]]にある「伊古奈比咩命大明神」の銘が知られる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=115}}。


通称の「白濱神社(白浜神社)」は、鎮座地の地名に由来するものである。「白浜」とは海岸の白砂を表した名称であるが、その起こりは明らかではない{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=40}}。この呼称は江戸時代に広く見られ、当社は「白濱大明神」「白濱神社」「白濱大社」「白濱五社大明神」等と称されていた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=38-39}}。うち「五社大明神」は、当社の祭神数に由来するものである{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=38}}。そのほか、三嶋神の旧鎮座地(古宮)であるという伝承から、「古宮山大明神」「古宮山五社大明神」という呼称も使用された{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=39}}。明治期に正式社名は現在の「伊古奈比咩命神社」に定められたが、現在も「白濱神社」と通称されている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=39-40}}。
== 社名 ==
鎮座地に因み'''白浜'''('''濱''')'''神社'''(しらはまじんじゃ)と通称される。他に「命」字を除いて「伊古奈比咩神社」としたり、「白浜大社」・「白浜明神」と書くなど様々である。古くは祭神数から「'''五社明神'''」とも呼ばれ、また[[三島大社]]の故殿地であるとの伝承から「古宮」とも呼ばれた。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
祭神は次の5柱<ref>祭神の記載は神社由緒書による。</ref>。[[神体]]は5柱とも[[神鏡]]である{{Sfn|明治神社誌料|1912年}}。
'''伊古奈比咩命'''(いこなひめのみこと)を主祭神として、以下の4柱を[[相殿]]に祀る。
*'''三嶋大明神''' - [[三嶋大社]]の主祭神である
*'''見目'''(みめ) - 女神で三嶋大明神の随神
*'''若宮'''(わかみや) - 三嶋大明神の随神
*'''剣ノ御子'''(つるぎのみこ) - 同上


'''主祭神'''
主祭神は三嶋大明神(以後三島大神と記す)の后神であるが、本后は[[神津島]]の[[阿波命神社]]の祭神'''阿波命'''とされるので、「後后」と称される。
* '''伊古奈比咩命''' (いこなひめのみこと)
[[イブキ|柏槇]]を神木とし、また[[ショウガ|薑]](はじかみ)を神草とするが、これは祭神が伊豆半島の端に示現したので「端神(はしかみ)」の意味であるという。
*: 三嶋大明神の后神。


'''相殿神'''
ちなみに、見目・若宮・剣ノ御子の3柱は『[[三宅記]]』に登場する。
* 三嶋大明神 (みしまだいみょうじん)
*: [[伊豆国]][[一宮]]の[[三嶋大社]](静岡県[[三島市]])祭神。別名を[[事代主|事代主命]](ことしろぬしのみこと)とする。
* 見目 (みめ、見目大神)
*: 女神。三嶋大明神の随神。
* 若宮 (わかみや、若宮大神)
*: 男神。三嶋大明神の随神。
* 剣の御子 (つるぎのみこ、劔御子大神)
*: 男神。三嶋大明神の随神。

=== 祭神について ===
<div class="NavFrame tright">
<div class="NavContent" style="text-align:left;font-size:85%;white-space: nowrap">
<center>『[[続日本後紀]]』所載の三嶋神系譜</center>
{{familytree/start|style="text-align:center; font-size:100%"}}
{{familytree|border=0|01|y|02|~|03| 01='''正后:阿波神'''<br />([[阿波命神社]])<br /><神津島村>|02='''三嶋神'''<br />([[三嶋大社]])<br /><三島市>|03='''後后'''<br />(伊古奈比咩命神社)<br /><下田市>}}
{{familytree|border=0|||01| 01='''物忌奈乃命'''<br />([[物忌奈命神社]])<br /><神津島村>}}
{{familytree/end}}
</div>
</div>
上記のように当社祭神は5柱と定められているが、この制は江戸時代には遡りうるものである{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=3}}。主祭神の'''伊古奈比咩命'''(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}。『[[続日本後紀]]』<ref group="原" name="承和7年9月"/>の記述を基にすると、三嶋神の「正后」が阿波咩命([[神津島]]の[[阿波命神社]]祭神)、「後后」が当社にあたるとされる{{Sfn|坂口 物忌奈命神社・阿波命神社(神々)|1987年}}。また、『[[伊豆国神階帳]]』に見える「一品当きさの宮」や『[[三宅記]]』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比咩命に比定される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=9}}<ref group="注">「天地今宮后」については、三宅島の[[富賀神社]]に比定する説もある {{Harv|式内社調査報告|1981年|p=77}}(詳しくは「[[富賀神社]]」を参照)。</ref>。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に[[事代主|事代主命]]説・[[オオヤマツミ|大山祇命]]説があるため、伊古奈比咩命にも[[玉櫛媛|三嶋溝樴姫]](事代主命妃)説・大山祇命妃説があった{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=11-12}}。これらに対して当社の社誌では、記紀神話との比較はせず「伊古奈比咩命」という独立の神格を見ている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=15}}。神名の由来は定かでないが、『[[日本三代実録]]』<ref group="原">『日本三代実録』貞観15年(873年)9月27日条。</ref>に見える「[[遠江国]]伊古奈神」(所在不明)との関連が指摘される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=17-18}}。

[[File:Mishima-taisha haiden-1.JPG|thumb|200px|right|<center>[[三嶋大社]]([[静岡県]][[三島市]])</center><small>伊古奈比咩命の夫神である三嶋神を祀る。</small>]]
相殿神のうち、筆頭の'''三嶋神'''(みしまのかみ)は、現在の[[三嶋大社]]の祭神を指す。上記のように現在当社では、この三嶋神を[[日本神話|記紀神話]]に見える[[事代主|事代主命]]にあてる。しかし三嶋大社祭神については、古くは『[[東関紀行]]』([[仁治]]3年([[1242年]])成立)を初見として、[[伊予国]]一宮の[[大山祇神社]]([[愛媛県]][[今治市]]の[[大三島]])由来の[[オオヤマツミ|大山祇命]]説が唱えられていた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=18-19}}。事代主命説は、[[文化 (元号)|文化]]年間([[1804年]]-[[1818年]])頃の[[平田篤胤]]の提唱に始まるものである{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=18-19}}。平田篤胤の主張は多くの賛意を得たため、現在まで当社含め伊豆各地では事代主命説が定着している。ただし、当の三嶋大社では[[大正]]頃から大山祇命説が再浮上したため{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=20}}、祭神は事代主命・大山祇命の2柱に改められている。近年ではこれらとは別の説として、「ミシマ = 御嶋」すなわち「伊豆諸島の神格化」が三嶋神の発祥であるとして、事代主命・大山祇命のいずれも「ミシマ」の音から来た後世の付会とする説が有力視される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=21-25}}(三嶋神の詳細は「[[三嶋大社#祭神]]」参照)。

'''見目'''・'''若宮'''・'''剣の御子'''の相殿神3柱は、『三宅記』に三嶋神の随身として見える神である{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=25-26}}。3柱の詳細は明らかではない。境内から出土した御正躰には[[嘉禄]]元年([[1225年]])銘とともに「若宮」の銘があるため、これら3柱の祭祀は[[鎌倉時代]]初期に遡りうるとされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=25-26}}。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
<div class="NavFrame tright">
社伝によると、[[孝安天皇]]6年<ref>同天皇元年とする説もあるが、『[[神社覈録]]』所引『[[伊豆志]]』、及び『[[特選神名牒]]』は6年にする。「元」と「六」と似ているので、いずれかが誤記であろう。今は後者に従う。</ref>に三島大神とともに[[三宅島]]に創祀された(現[[富賀神社]]の旧社地)というが、後に三島大神とともに現地に遷座した。なお、当初は700m程北西に隔たった長田部落の'''神明'''(かみあけ)(現在'''十二明神社'''が鎮座する)に鎮座したと伝え、また三島大神は更に[[伊豆国]]の[[国府]]があった旧[[田方郡]]府中(現在の静岡県[[三島市]]の三嶋大社)に遷座した。現社地は、その立地条件から、太古の昔には伊豆諸島を遙拝し、または島々の神を招迎する聖地であったと推考され、鎮座の時代は不明であるものの、後述する[[天長]]9年([[832年]])から、『[[吾妻鏡]]』に[[源頼朝]]が三島神に奉幣したと記す[[治承]]4年([[1180年]])の間であることは確かである<ref>天長9年には三島大神とともに三宅島に祀られていたと思われ、治承4年の三島神は明らかに田方郡鎮座の現三嶋大社である。</ref>。
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px; background:#a0f0a0">三嶋神・伊古奈比咩命の変遷    </div>
<div class="NavContent" style="text-align:left; font-size:85%; white-space: nowrap">
社誌{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年}}で推測される三嶋神・伊古奈比咩命の変遷。
{{familytree/start|style=font-size:100%}}
{{familytree|border=0||||01|02|03|04| 01='''[[[三宅島]]]'''<br />([[東京都]][[三宅村]])|02='''[火達山]'''<br />([[静岡県]][[下田市]])|03='''[神明]'''<br />(静岡県下田市)|04='''[国府]'''<br />(静岡県[[三島市]])}}
{{familytree|border=0|01|02| 01=<small>(伝)孝安天皇年間</small>|02=三嶋神・伊古奈比咩命?}}
{{familytree|border=0||||||L|~|V|~|~|7}}
{{familytree|border=0|||||||01|02| 01=(遷祀?)<br />伊古奈比咩命|02=(遷祀?)<br />三嶋神}}
{{familytree|border=0||||||||!|||]|~|7}}
{{familytree|border=0|01|||||!|||!||02| 01=<small>[[天武天皇]]年間?<br />([[673年]]-[[686年]])?</small>|02=(新宮勧請?)}}
{{familytree|border=0||||||||!|||!||:|}}
{{familytree|border=0|01||||02|03|:| 01=<small>『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]<br />([[927年]])</small>|02=伊古奈比咩命神社|03=伊豆三島神社}}
{{familytree|border=0||||||||!|||!||:|}}
{{familytree|border=0|01|||||!||02|03| 01=<small>[[治承]]4年([[1180年]])</small>|02=(衰退)|03=(崇敬)}}
{{familytree|border=0||||||||!|||||!|}}
{{familytree|border=0||||||||!|||||!|}}
{{familytree|border=0|||||||01|01|01| 01=↓}}
{{familytree|border=0|00||||02|03|04| 00=<small>現在</small>|01=[[富賀神社]]?|02='''伊古奈比咩命神社'''|03=十二神明社<br />(伊古奈比咩命神社境外社)|04=[[三嶋大社]]}}
{{familytree/end}}
</div></div>
=== 創建 ===
[[File:Miyake-jima 20010401014415.jpg|thumb|180px|right|<center>[[三宅島]]([[東京都]][[三宅村]])</center>]]
社伝(由緒書)によると、まず三嶋神は南方から海を渡って伊豆に至った。そして[[富士山]]の神・[[高天原]]の神から伊豆の地を授けられ、白浜に宮を築き、伊古奈比咩命を后に迎えた。さらに、見目・若宮・剣の御子の3柱や竜神・海神・雷神などとともに[[伊豆諸島]]の島焼き(造島)を行なった。島焼きによって、[[初島]]に始まり[[神津島]]・[[伊豆大島|大島]]・[[三宅島]]・[[八丈島]]など合計10の島々を造り、自身は三宅島に宮を営んだ。その後しばらくして、白浜に還ったという<ref name="由緒書"/>。以上の伝承は、伊豆地方に伝わる[[縁起]]『[[三宅記]]』(鎌倉時代末期と推定{{Sfn|下田市史 資料編|2010年|p=499}})に記載されるものである。同書では島焼き以前に白浜を宮としたかについては記載はないが、[[孝安天皇]](第6代)元年に三嶋神は天竺から至り、孝安天皇21年から島焼きを行なったとする。


当社の鎮座する火達山からは多くの祭器具が見つかっており、当地では古代から祭祀が行われていたものと推測される{{Sfn|下田市|火達山遺跡}}。また、上記『三宅記』に見えるように、三嶋神は伊豆府中の現在地以前には白浜にあったとされており{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=29}}、後述の[[天長]]9年([[832年]])記事の「神宮二院」の表現や、『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]の賀茂郡における三嶋神・伊古奈比咩命の登載はそれを示唆するものとされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=32}}。加えて『宴曲抄』「三島詣」や『矢田部氏系図』では、[[天平]]年間([[729年]]-[[749年]])頃の三嶋神の国府遷祀を伝える{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=68}}。当社の社誌では、これらを総合して、三嶋神は[[奈良時代]]頃に国府近くに新宮として勧請、その後元宮は衰退して[[治承]]4年([[1180年]])<ref group="原">『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月17日条。</ref>までには地位が逆転したとする{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=73-75}}<ref group="注">ただし『式内社調査報告』では、新宮勧請は平安時代中期以降と推測する {{Harv|伊豆三島神社(式内社)|1987年|p=8}}。</ref>。また、元宮の地については、伊古奈比咩命神社北西の「神明(かみあけ)」の地と推測されている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=147}}(ただし、以上については異説もある)。
天長9年に大旱魃が起こったのでその原因を占わせると、三島大神と伊古奈比咩命の祟りであると判ったので、3日後に「名神」に叙したという記事(『[[釈日本紀]]』所引『[[日本後紀]]』逸文)が当社の史上における初見であるが、以後昇格を重ね、『[[延喜式神名帳]]』で三島大社とともに[[名神大社]]に列した<ref>もっとも、『延喜式神名帳』に載せる「伊古奈比咩命神社」が現在地と三宅島のいずれを示しているかは不明である。なお、『延喜式神名帳』が必ずしも編纂当時の実情を伝えていないことについては、『式内社調査報告』の[[瀧川政次郎]]「序並に解題」参照。</ref>。


=== 概史 ===
[[室町時代]]には[[神領|社領]]70余町に及び、社殿壮大にして[[社家]]36家、年間祭祀75度を数えたと伝える。[[延徳]]3年([[1491年]])の[[北条早雲]]の参詣以後、[[後北条氏]]の崇敬厚く、11貫200文が寄進された。[[慶長]]年間(17世紀初頭)には伊豆代官[[大久保長安]]から信仰されたが、[[寛永]]7年([[1630年]])の[[検地]]で境内以外の全社領が[[上地]]にあって以来、徐々に衰退して行き、神官も[[祢宜]]原氏1家を残すのみになった。なお[[江戸時代]]を通じて、[[幕府]]からは毎年[[八丈島]]に渡船を発するたびに、[[初穂|初穂米]]や祈願[[絵馬]]を奉納されていた。
==== 平安時代 ====
[[File:Awanomikoto-jinja keidai.JPG|thumb|200px|right|<center>[[阿波命神社]]([[東京都]][[神津島村]])</center><small>祭神の阿波咩命は三嶋神の「本后」。対して伊古奈比咩命は「後后」とされる。</small>]]
国史の初見は[[天長]]9年([[832年]])の記事<ref group="原" name="天長9年5月22日"/>で、神異により三嶋神・伊古奈比咩命神を[[名神大社#名神の称|名神]]となし、地2,000[[町 (単位)|町]](約2,000ヘクタール<ref group="注">1町を1ヘクタールとして概算。</ref>)に「神宮二院・池三処」を作ったという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}<ref group="注" name="名神"/>。同記事の3日前の記事<ref group="原" name="天長9年5月19日">『釈日本紀』15所収『日本後紀』逸文 天長9年(832年)5月19日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神とも考えられる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=44}}。


『[[続日本後紀]]』の記事<ref group="原" name="承和7年9月">『続日本後紀』承和7年(840年)9月23日条。</ref>によると、[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])7月5日夜に上津島([[神津島]])で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋大社の後后が位階([[神階]])を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命:[[阿波命神社]])には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=46-47}}。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは当社を指すものとされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=47}}<ref group="注" name="名神"/>。この記事を受けて、約一ヶ月後<ref group="原">『続日本後紀』承和7年(840年)10月14日条。</ref>には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の[[御子神]];[[物忌奈命神社]])の神階が無位から従五位下に昇った{{Sfn|坂口 物忌奈命神社・阿波命神社(神々)|1987年}}。
[[明治]]6年([[1873年]])に県社とされ、戦後に[[神社本庁]]の[[別表神社]]に加えられて現在に至っている。


その後、当社は阿波咩命と物忌奈命とともに、[[嘉祥]]3年([[850年]])<ref group="原" name="嘉祥3年10月"/>に従五位上の[[神階]]が授けられたのち、同年<ref group="原" name="嘉祥3年11月"/>には[[官社]]に列し、[[仁寿]]2年([[852年]])<ref group="原" name="仁寿2年"/>には正五位下に昇った{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}。
== 神階 ==
天長9年に名神に預って後、[[嘉祥]]3年([[850年]])に従五位上、同年[[延喜式神名帳|官社]]に列し、[[仁寿]]2年([[852年]])に正五位下に昇叙され、[[斉衡]]元年([[854年]])にも正五位下を授けられたと記す(以上『[[文徳天皇実録]]』)<ref>仁寿と斉衡の記事はいずれかが衍文か、または斉衡の記載は「正五位上」の誤記であろうとされる。</ref>。[[康永]]2年([[1343年]])の『[[国内神名帳|伊豆国神階帳]]』には「一品当きさの宮」と記されている<ref>当社は当時[[賀茂郡 (静岡県)|賀茂郡]]に属していたが、同書には「田方郡」に記載されている。これは「一品当きさの宮」の前に「三島大明神」と「きさきの宮」を掲げ、直後に「第三王子並十八所御子達」とあり、「きさきの宮」が神津島の阿波命神社、「第三王子並十八所御子達」が[[新島]]の[[十三社神社]]と伊豆諸島の御子神達であると見られることから、三島大明神に関係する神々を「田方郡」の条に述べたか、または三島大社境内にそれぞれの分祠があったためと思われる。</ref>。


[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では、[[伊豆国]][[賀茂郡]]に「伊古奈比咩命神社 名神大」と記載され、[[名神大社]]に列している{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}。伊豆国賀茂郡には全国でも突出する密度(1郡で46座、1郷平均9.2座)の式内社が記されているが、名神大社に列したのは当社のほか、伊豆三島神社(三嶋大社)、阿波神社(阿波命神社)、物忌奈命神社の4社のみであった。
== 神事 ==
*'''火達'''(ひたち)'''祭'''(10月28日) - 例祭前夜、本殿裏で火を焚き伊豆諸島を遙拝する。かつては境内に隣接する'''火達山'''山上の火達野という場所で行い(火達山一帯より数多の祭祀遺物を出土し、現在「'''火達山祭祀遺跡'''」として市指定史跡にされている)、島々からもこれに応えて焚き合せを行ったといい、諸島から神々を迎える神事と見られる。因みに旧暦では9月20日に行っていた
*'''御幣'''(おんべ)'''流し'''(10月30日) - 例祭翌日の夕刻、拝殿裏の海浜に幣串1本を立て、[[神饌]]を供して伊豆諸島を遙拝し、'''大明神岩'''という岩から海中に十本の幣串(伊豆諸島の数と同じ)と供物を投げ入れ、諸島へ神々を送る神事。因みに、この時必ず「'''御幣'''(おんべ)'''西'''」という西風が吹いて、御幣を島々へ送るという。


[[承平]]年間([[931年]]-[[938年]])頃の『[[和名抄]]』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}{{Sfn|静岡県の地名|2000年|p=91}}<ref group="注">奈良時代の木簡では「稲梓郷(いなずさごう)」が見えており、この「稲梓郷」を踏襲して平安時代に「大社郷」が成立したとされる {{Harv|静岡県の地名|2000年|p=91}}。</ref>。
== 社殿 ==

本殿は三間社[[流造]]銅板葺([[大正]]11年造替)、拝殿([[万延]]元年([[1860年]]造替))は正面6間、側面5間の瓦葺[[入母屋造]]で[[向拝]]が付く。
==== 鎌倉時代から戦国時代 ====
[[鎌倉時代]]では、当社に関する文献はほとんど見られず由緒は明らかではない{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=90}}。境内から出土した若宮御正躰や[[神鏡]](いずれも市指定文化財)、火達山出土の祭器具から、鎌倉時代にも当社の祭祀は継続していたと推測される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=98-99}}。また、この若宮御正躰や薬師如来坐像(市指定文化財)の存在から、[[本地垂迹]]思想が進展した様子が示唆される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=107}}。

中世の[[国内神名帳]]『[[伊豆国神階帳]]』([[康永]]2年([[1343年]])以前成立{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=83}})では冒頭部に「一品当きさの宮」の記載があり、これは当社に比定される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=87}}。田方郡の条に記されているが、これは伊古奈比咩命が三嶋大社に招祭されたことによるとされる。『延喜式』神名帳が「賀茂郡(三嶋神)、田方郡、那賀郡」の記載順であったのに対し『伊豆国神階帳』は「田方郡(三嶋神)、那賀郡、賀茂郡」の順であることから、両帳作成の間に伊豆国は賀茂郡中心から田方郡中心の時代に移ったと見られ、これに伴って賀茂郡に位置する当社の社勢は衰退したという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=90}}。

[[室町時代]]においても当社を物語る史料は少なく、室町時代末期の「[[北条氏忠|佐野北条氏忠]]朱印状」(市指定文化財)が唯一の史料として知られる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=110}}。この史料によると、[[後北条氏]]から修理料として11貫200文が寄進されている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=111}}。また、社領として103貫余を有した旨が見える{{Sfn|伊古奈比咩命神社(角)|1982年}}。

==== 江戸時代以降 ====
[[江戸時代]]に入り、[[慶長]]3年([[1598年]])7月の検地により社領は20石に減じた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(角)|1982年}}。慶長12年([[1607年]])、伊豆代官・[[大久保長安]]からは[[鰐口]](県指定文化財)が寄進された{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=115}}。江戸時代を通じては、[[幕府]]が毎年[[八丈島]]に渡船を発するたびに、[[初穂|初穂米]]や祈願[[絵馬]]が奉納されていた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=118}}。また、37の社家によって年間75度もの祭事が行われていたという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}。

江戸時代中期頃からは、当社の社勢は著しく衰退した{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=120}}。当社は幕府・郡代の崇敬に預かっていなかったこと、[[寛文]]7年([[1667年]])の[[検地]]によって境内地以外の社領は年貢地に改められたことにより{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=120-121}}、社家のほとんどが帰農して、ついには神主の原氏1家を残すのみとなった{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=120-121}}。代わってこの頃から禅福寺([[別当寺]])の社僧による支配が強くなって社家と争うようになり、その争いは明治の神仏分離まで続いた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=122}}。

江戸時代後期には、そのような中で社人の藤井伊予(藤井昌幸)が復古運動を展開し、[[白川家]]・[[平田篤胤]]・[[伴信友]]との交わりの中で現在に見る当社の由緒を構築した{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=122}}。復興に尽くした伊予は「道守神」と称され、現代まで讃えられている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=178}}。

[[明治]]6年([[1873年]])9月、[[近代社格制度]]において[[県社]]に列した{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=37}}。戦後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列している。

=== 神階 ===
* 六国史における[[神階]]奉叙の記録{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}{{Sfn|神道・神社史料集成}}
** [[天長]]9年([[832年]])5月22日、名神に預かる (『[[釈日本紀]]』所収『[[日本後紀]]』逸文)<ref group="原" name="天長9年5月22日">『釈日本紀』15所収『日本後紀』逸文 天長9年(832年)5月22日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref><ref group="注" name="名神">『日本後紀』逸文の天長9年条に神階叙位の記載は無いが、『続日本後紀』承和7年条の「後后が冠位を授かった」ことに対する本后(阿波命)の怒りの記事から、この頃に従五位下の叙位が推測される {{Harv|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=46-48}}。</ref> - 表記は「伊古奈比咩神」。
** [[嘉祥]]3年([[850年]])10月8日、従五位上 (『[[日本文徳天皇実録]]』)<ref group="原" name="嘉祥3年10月">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)10月8日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「伊古奈比咩命神」。
** 嘉祥3年(850年)11月1日、官社に列す (『日本文徳天皇実録』)<ref group="原" name="嘉祥3年11月">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)11月1日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「伊古奈比女神」。
** [[仁寿]]2年([[852年]])12月15日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』)<ref group="原" name="仁寿2年">『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)12月15日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「伊古奈比咩命神」。
** [[斉衡]]元年([[854年]])6月26日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』)<ref group="原" name="斉衡元年">『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)6月26日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「伊古奈比咩神」。仁寿2年の記事と内容は重複<ref group="注">斉衡元年の記事は「正五位上」の誤記とする説{{Harv|明治神社誌料|1912年}}がある。</ref>。
* 六国史以後
** 一品 (『[[伊豆国神階帳]]』) - 表記は「当きさの宮」。
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead">伊豆主要神の神階 年表</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff;text-align:center;white-space: nowrap"
|+伊豆主要神の神階{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=50-52}}
!年!![[三嶋大社|三嶋神]]!![[阿波命神社|阿波咩命]]<br />(本后)!![[物忌奈命神社|物忌奈命]]<br />(阿波咩命の子)!![[伊古奈比め命神社|伊古奈比咩命]]<br />(後后)
|-
|832年||名神<br />(従五位下?)<ref group="注" name="名神"/>||--||--||名神<br />(従五位下?)<ref group="注" name="名神"/>
|-
|838年||colspan=4|(神津島噴火)
|-
|840年||--||無位<br />→従五位下||無位<br />→従五位下||--
|-
|850年||従五位上||従五位上||従五位上||従五位上
|-
|852年||従四位下||正五位下||正五位下||正五位下
|-
|854年||従四位下||正五位下||正五位下||正五位下
|-
|859年||従四位下<br />→従四位上||--||--||--
|-
|864年||従四位上<br />→正四位下||--||--||--
|-
|868年||正四位下<br />→従三位||--||--||--
|-
|[[延喜式神名帳|神名帳]]||[[名神大社|名神大]]||名神大||名神大||名神大
|-
|[[伊豆国神階帳|神階帳]]||正一位||一品||正一位?<ref group="注">『伊豆国神階帳』記載の「正一位天満天神」が、物忌奈命神社の遥拝所とされる天神社(三嶋大社元摂社)に比定されることによる。</ref>||一品
|}{{-}}
</div></div>

=== 神職 ===
江戸時代頃、当社には37の社家が存在したとされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=161}}。しかしながらこれらの家は、その後の本社衰退によって帰農した{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=162}}。[[寛保]]元年([[1741年]])頃には、'''原家'''(現在の神主家)1家にまで縮小したという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=162}}。この原家は、『三宅記』に見える壬生御館(みぶのみたち:三嶋神初代奉斎者)の後裔であるとされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=167-168}}。

[[明治]]期の原家以外の社家には27家が見えるものの、いずれも帰農して祭祀に預かってはいなかった{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=164}}。これらの社家は各家1社の氏神を祀っていたが、現在それらの社は「二十六社神社」として本社境内に合祀されている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=168}}。

=== 社殿造営 ===
当社の社地に関しては、『[[日本後紀]]』逸文<ref group="原" name="天長9年5月22日"/>に次の記載がある。
{{Cquote|伊豆国言上。三島神。伊古奈比咩神。二前預名神。此神塞深谷摧高巌。平造之地。二千町許。作神宮二院。池三処。神異之事。不可勝計。|20px||『日本後紀』逸文 天長9年5月22日条{{Sfn|神道・神社史料集成}}}}
上記の文に「神宮二院」とあるように、三嶋神・伊古奈比咩命神は「二院」制を成していたとされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=126}}。しかしながら、遺構が明らかでないため制の実際は明らかでない。社誌では、先の「二院」は別境内であるとして、三嶋神は神明(境外末社・十二明神社)、伊古奈比咩命神は火達山の位置と推測されている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=134}}。

[[江戸時代]]の[[明暦]]2年([[1656年]])に社殿が焼失した際には、上記「二院」が同一境内と見なされて本殿2殿が一所に並び建てられることとなった{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=128}}{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}。この制は、[[寛文]]2年([[1662年]])の棟札(今無し)を初見として[[寛保]]元年([[1741年]])まで確認される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=128}}。

その後、本殿は寛保元年(1741年)に現在見られるような1殿制に改められた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=128}}。1殿制に改めるにあたっては、遠江国浜松(現・静岡県[[浜松市]])の五社明神を模したという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=128}}。現在の本殿は[[大正]]11年([[1922年]])、拝殿は[[万延]]元年([[1860年]])の造営である<ref name="由緒書"/>。

== 境内 ==
現在の境内は、白浜海岸北側に突き出た岬の丘陵「'''火達山'''(ひたちやま)」に位置する。境内面積は1.5ヘクタール<!--4500坪-->、また境外地として2.6ヘクタール<!--8000坪-->を有する<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。火達山には山上に本殿、山麓には拝殿が建てられている。これらの社殿は北西に面し、後背に伊豆諸島を背負っている{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。

火達山からは祭祀用と見られる奈良時代・平安時代の多数の[[土師器]]・[[須恵器]]が見つかっており<ref name="説明板">境内説明板。</ref>、伊豆諸島に関する古代祭祀遺跡の様子を残していることから、境内は「火達山遺跡」として下田市の史跡に指定されている{{Sfn|下田市|火達山遺跡}}。下田市沿岸部には火達山遺跡のほかにも海島祭祀遺跡が多く存在しており、ほかには夷子島遺跡(須崎)、三穂ヶ崎遺跡(白浜)、遠国島遺跡(田牛)などが知られる(いずれも市指定史跡)<ref>[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1148.html 夷子島遺跡]、[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1146.html 三穂ヶ崎遺跡]、[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1149.html 遠国島遺跡](下田市ホームページ)。</ref>。

=== 社殿 ===
[[File:Ikonahimenomikoto-jinja honden-1.JPG|thumb|200px|right|<center>本殿</center>]]
丘陵上に立つ本殿は[[大正]]11年([[1922年]])の造営で、三間社[[流造]]、向拝付、総[[ヒノキ|桧造]]、銅板葺<ref name="由緒書"/>。[[寛保]]元年([[1741年]])以前の本殿は2殿であった{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=128}}。古代祭器具が見つかった本殿裏は禁足地とされている{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。

丘陵下に立つ拝殿は[[万延]]元年([[1860年]])の造営で、[[入母屋造]]、正面六間、側面五間、向拝[[破風|唐破風]]付、[[ケヤキ|欅造]]、瓦葺<ref name="由緒書"/>{{Sfn|伊古奈比咩命神社(式内社)|1987年}}。

=== 樹叢 ===
当社境内は[[アオギリ]](青桐、アオギリ科の中国原産植物)の分布北限にあたり、境内の北側に純林を形成している。この林は「伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地」として国の天然記念物に指定されている。{{Sfn|下田市|伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地}}

また、境内には[[イブキ|ビャクシン]](柏槇、ヒノキ科の常緑中高木)の樹林も自生している。小さな鱗片葉を十字対生につけるものと、針状の葉を3輪生するものとがある。それらのうち「薬師の柏槇」と称される手水舎脇の1本は、樹高15.5メートル・周囲4メートルを測る古木である。この樹林は「白浜神社のビャクシン樹林」として静岡県の天然記念物に指定されている。{{Sfn|下田市|白浜神社のビャクシン樹林}}

<gallery>
File:Ikonahimenomikoto-jinja Yakushi-no-byakushin.JPG|薬師の柏槇
File:Ikonahimenomikoto-jinja Hakuryu-no-byakushin.JPG|白龍の柏槇
File:Ikonahimenomikoto-jinja shasou.JPG|境内の社叢
</gallery>

=== 御釜 ===
[[File:Ikonahimenomikoto-jinja Mikama Entrance.JPG|thumb|200px|right|<center>御釜入り口</center>]]
社殿後方の海岸の崖下には、「'''御釜'''(みかま、三釜)」と称される窪みがある{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。ここには三方から海蝕洞が通じ、常時海水が流れ込んでいる{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。

かつて神職が大潮の時に御釜に入った際、奥にはさらに洞窟があり、本殿の真下と思しき位置には漆塗りの祠があったという{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。このことから、御釜は祭祀場に使用されていたとされる{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。ただしその洞窟は、地震による崩壊により現在では近づくことは出来ない状態である{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。


== 摂末社 ==
== 摂末社 ==
当社の関係社について、[[慶長]]年間([[1596年]]-[[1615年]])の水帳には社家持の計27社の記載が、[[文化 (元号)|文化]]15年([[1818年]])の当社縁起では末社計33社の記載があり、古くは70社近くにも及ぶ摂末社を有したとされる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=136-138}}。現在の摂末社は次の通り。
*二十六社神社 - 大正10年の[[遷宮]]に際し、境内社26社を1社に合祀したもの。内訳は少彦名命神社、御子神社、応神神社、須佐之男命神社、天児屋根命神社、天水命神社、天照皇大神社、級長戸辺神社、木花開耶姫命神社、瀬織津姫命神社、倉稲魂命神社、豊宇気姫命神社、経津主命神社、熊野神社、海津見神社、海津豊玉彦神社、大年神社、石長比売命神社、若宮八幡宮、亥神社、大雷神社、高皇産霊神社、金山毘古命神社、大山祇神社、豊受大神宮、金山比咩命神社


'''境内社'''
ほかに、砂村稲荷神社・見目弁財天・聖徳太子命神社が祀られている。
* 二十六社神社
*: [[大正]]10年([[1921年]])の[[遷宮]]に際し、境内社26社を1社に合祀したものである{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=139}}。元々は、社家の各家で氏神として祀られていた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=146}}。
*: 内訳は少彦名命神社、御子神社、応神神社、須佐之男命神社、天児屋根命神社、天水分命神社、天照皇大神社、級長戸辺神社、木花開耶姫命神社、瀬織津姫命神社、倉稲魂命神社、豊宇気姫命神社、経津主神社、熊野神社、海津見神社、海津豊玉彦神社、大年神社、石長比売命神社、若宮八幡宮、亥神社、大雷神社、高皇産霊神社、金山毘古命神社、金山比売命神社、大山祇神社、豊受大神宮{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=139-145}}。
* 砂村稲荷神社
* 見目弁財天社
* 聖徳太子命神社

<gallery>
File:Ikonahimenomikoto-jinja keidaisha.JPG|二十六社神社
File:Ikonahimenomikoto-jinja Sunamura-inari-jinja.JPG|砂村稲荷神社
File:Ikonahimenomikoto-jinja Mime-benzaiten.JPG|見目弁財天社
</gallery>

'''境外社'''
[[File:Ikonahimenomikoto-jinja Junimyojin-sha.JPG|thumb|200px|right|<center>十二明神社</center><small>三嶋神旧鎮座地か。</small>]]
* 十二明神社 (下田市白浜、{{ウィキ座標|34|41|51.08|N|138|58|15.01|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=境外末社:十二神明社(三嶋神旧鎮座地か)}}))
** 祭神:大楠命、小楠命、御代徳命、感農八甕命、横池命、伊迦命、知宇命、尾健御子命、尾健比命、見多諾命、伊豆奈比咩命、穂便感応命{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=147}}
*: 本社北西、「神明(かみあけ)」の地に鎮座する境外社である。文化15年(1818年)の縁起に見える神明周辺の神々をのちに合祀したものである{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=147}}。その神名は、本社境内社の著名な神名とは対照的に特徴的な神名が多く、三嶋神の一族神に相当すると推測されている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=138-139}}。このことから、社誌では当地が三嶋神(三嶋大社)の旧鎮座地に相当すると見ている{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=138-139}}。ただしそれとは別に、当地を天長9年(832年)以前の三嶋神・伊古奈比咩命の鎮座地とする伝承もある{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=138}}。

== 祭事 ==
[[文政]]13年([[1830年]])の縁起によれば、古くは年間で75度もの祭事が行われたという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=149}}。現在は毎月1日・15日に月次祭が行われるほか<ref name="由緒書"/>、次の主要祭事が行われる。

=== 例祭 ===
[[File:Ikonahimenomikoto-jinja Daimyojin-iwa.JPG|thumb|200px|right|<center>大明神岩と海浜鳥居</center>]]
* 火達祭(ひたちさい) ([[10月28日]])
* 例祭 ([[10月29日]])
* 御幣流し祭(おんべいながしさい/おんべ-) ([[10月30日]])

現在の例祭は10月29日であるが、古くは旧暦の9月20日・21日に行われた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=138}}。まず例祭前日の'''火達祭'''では、本殿裏の焚火を行い、伊豆の島々を遥拝する神事が行われる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=150}}。火達山では祭器具が出土することから、同様の神事が古い時代から行われていたと推測される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=150}}。また、古くは伊豆諸島側でも同時に焚火を行なったという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=151}}。

翌日は、早朝に市指定無形民俗文化財の[[三番叟]]が奉納される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=150}}。次いで当社最大の祭典である'''例祭'''が執行される{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=150}}。

3日目、夕方に神社裏の海岸において'''御幣流し祭'''が行われる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=152}}。神事では、島々への遥拝ののち、「大明神岩」と称する大岩から幣串と神饌を海中に投じる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=153}}。このとき、必ず「御幣西(おんべにし)」と称する西風が吹くという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=153}}。これらの祭は神迎え・神送りの儀礼と考えられているが、伊豆諸島を意識していることにその特色が指摘される{{Sfn|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}。

=== 酉祭 ===
'''酉祭'''(とりまつり)は、4月と11月の初酉日に行われる{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=154}}。この祭は古くからの重儀で、三嶋大社では当社を憚って4月と11月の中酉日に酉祭を行うという{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=154}}。由来の詳細は明らかでないが、[[鶏]]は当社の[[神使]]と見なされており、祭当日には生鶏が献じられていた{{Sfn|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年|p=155}}(現在は卵が献じられる<ref>[http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4401043 伊古奈比咩命神社](静岡県神社庁)</ref>)。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 天然記念物(国指定) ===
=== 国の天然記念物 ===
*伊古奈比咩命神社の[[アオギリ]]自生地
* 伊古奈比咩命神社の[[アオギリ]]自生地 - 昭和20年2月22日指定{{Sfn|下田市|伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地}}。


=== 静岡県指定文化財 ===
=== 静岡県指定文化財 ===
* 有形文化財
*[[鰐口]] - 径42.3cm、厚10.8cmで、両肩に釣手を有し、慶長12年([[1607年]])に伊豆代官大久保長安から奉納されたもの。当時長安は[[縄地金山]]奉行でもあったので、金山の隆盛を祈願して奉納したものと思われ、地金は青銅であるが金の成分が相当含まれていたようである。県指定有形文化財(工芸品)。
** [[鰐口]](工芸品)
*白浜神社の[[イブキ|ビャクシン]]樹林 - 小さな[[鱗片葉]]を十字対生につけるものと、針状の葉を3輪生するものとがあり、樹高15.5m、周囲4mに達する古木もある。県指定天然記念物。
**: 径42.3センチメートル、厚10.8センチメートル。両肩には釣手を有する。[[慶長]]12年([[1607年]])3月、伊豆代官・[[大久保長安]]の奉納によるものである。当時長安は縄地金山奉行であり、金山の隆盛を祈願して奉納したものといわれる。地金は青銅であるが、金の成分が相当含まれていると伝える。昭和31年10月17日指定。{{Sfn|下田市|鰐口}}
* 天然記念物
** 白浜神社の[[イブキ|ビャクシン]]樹林 - 昭和44年5月30日指定{{Sfn|下田市|白浜神社のビャクシン樹林}}。


=== 下田市指定文化財 ===
=== 下田市指定文化財 ===
* 有形文化財
*[[御正躰]](みしょうたい)1面 - 金銅製(銅製鍍金)の直径15.2cm、厚0.1cmの薄い円形板で、文字、尊像などは見られないが、当初は墨画があったと考えられている。「施主忌部能次 大歳[[嘉禄]]元年([[1225年]])十二月日乙酉 若宮御正躰」の銘文がある。[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])境内裏山にあった神木「命の松」([[昭和]]41年に倒れた)の根元から掘り出された。
** 御正躰(みしょうたい)1面(工芸品)
*水草双鳥鏡 - 表面径10.7cm、縁厚0.7cmの青銅鋳製。背面には捩菊(ねじぎく)文様座鈕を中心に、上下に水流と水草、左右に双鳥の文様を薄肉で表現している。鋳上りも優れており[[平安時代]]後期の典型的な和鏡とされる。御正躰とともに掘り出された。
**: 金銅製(銅製鍍金)、直径15.2センチメートル、厚0.1センチメートルの薄い円形板。文字、尊像などは見られないが、当初は墨画があったと考えられている。「施主忌部能次 大歳[[嘉禄]]元年([[1225年]])十二月日乙酉 若宮御正躰」という鎌倉時代の銘文を持つ。この御正躰は、[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])9月、境内裏山にあった神木「命の松」(昭和41年に倒木)の根元から掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。{{Sfn|下田市|御正躰}}
*亀甲地双雀鏡 - 青銅鋳製。表面径11.4cm、縁厚0.7cm、亀甲地で亀座鈕の近くに双雀を配し、[[鎌倉時代]]後期の制作と考えられている。御正躰とともに掘り出された。
** 水草双鳥鏡(工芸品)
*山吹双鳥鏡 - 青銅鋳製。表面径11.4cm、縁厚0.7cm、花形中隆鈕(はながたちゅうりゅうちゅう)で、全体に山吹を散らし、その中に双鳥を配した文様をやや肉高に鋳出し、鎌倉時代の製作と考えられている。御正躰とともに掘り出された。
**: 青銅鋳製、表面径10.7センチメートル、縁厚0.7センチメートル。背面には、捩菊(ねじりぎく)文様座鈕を中心として、上下に水流と水草、左右に双鳥の文様が薄肉で表現されている。鋳上りも優れており、平安時代後期の典型的な和鏡とされる。この水草双鳥鏡は、文化9年(1812年)9月に御正躰とともに掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。{{Sfn|下田市|水草双鳥鏡}}
** 亀甲地双雀鏡(工芸品)
**: 青銅鋳製、表面径11.4センチメートル、縁厚0.7センチメートル。亀甲地で、亀座鈕の近くには双雀を配している。鎌倉時代後期の作とされる。この亀甲地双雀鏡もまた、文化9年(1812年)9月に御正躰とともに掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。{{Sfn|下田市|亀甲地双雀鏡}}
** 山吹双鳥鏡(工芸品)
**: 青銅鋳製、表面径11.4センチメートル、縁厚0.7センチメートル。花形中隆鈕(はながたちゅうりゅうちゅう)で、全体には山吹を散らし、その中に双鳥を配した文様がやや肉高に鋳出されている。鎌倉時代の作とされる。この山吹双鳥鏡もまた、文化9年(1812年)9月に御正躰とともに掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。{{Sfn|下田市|山吹双鳥鏡}}
** [[薬師如来]]坐像(彫刻)
**: 一木割矧造、彫眼で、像高86.2センチメートル。明治の[[廃仏毀釈]]で解体されたのち復元されたもので、現在は漆塗りとなっている。薬師如来は、三嶋神の[[本地仏]]とされている。縄を巻いたような特異な頭髪の表現は、京都[[清凉寺]]の釈迦如来像に代表される、鎌倉時代以降に流行した様式である。また、やや面長で男性的な独特の表情には宋風彫刻の影響が色濃く見られ、鎌倉後期の彫刻の特徴を有している。昭和56年8月7日指定。{{Sfn|下田市|薬師如来坐像}}
** 佐野北条氏忠朱印状(古文書)
**: [[コウゾ|楮]]紙の折紙で、縦29.0センチメートル、横56.5センチメートル。[[天正]]11年([[1583年]])に、[[北条氏忠]](佐野氏忠)から白浜郷名主百姓中に下された年貢の割付状である。裏面には、江戸時代後期に藤井伊予(昌幸)の依頼を受けた[[伴信友]]([[国学者]])の考証が記されている。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の貢祖納入の実態を知る上で貴重な文書とされる。昭和60年12月23日指定。{{Sfn|下田市|佐野北条氏忠朱印状}}
* 史跡
** 火達山遺跡 - 昭和49年3月20日指定{{Sfn|下田市|火達山遺跡}}。
* 無形民俗文化財
** [[三番叟]](さんばそう)
**: 「日の出三番叟」や「神さんば」とも呼ばれる。民俗芸能として、今から約300年前から奉納されてきたという。例祭日の早朝に、原田・長田・板戸の[[氏子]]部落の青年が1年交替で奉納する。昭和48年6月12日指定。{{Sfn|下田市|三番叟}}


=== その他 ===
以上3点はいずれも市指定有形文化財(工芸品)。
; 白濱大明神縁起
*[[薬師如来]]坐像 - 高86.2cm。一木割矧造、彫眼で、明治の[[廃仏毀釈]]で解体されたものを復元し、現状は漆塗りとなっている。薬師如来は三島大神の本地仏とされ、縄を巻いたような特異な頭髪の表現が京都[[清凉寺]]の釈迦如来像に代表される鎌倉時代以降に流行した様式であることと、やや面長で男性的な独特の表情に宋風彫刻の影響が色濃く見られることから、鎌倉後期の彫刻の典型とされる。市指定有形文化財(彫刻)。
: 通称「[[三宅記]]」。伊豆半島・伊豆諸島に伝わる神仏縁起で、本書はその写本の1つである。「三宅記」原本の成立は鎌倉時代末期と推定されるが{{Sfn|下田市史 資料編|2010年|p=499}}、本書は奥書から[[享保]]年間([[1716年]]-[[1735年]])後半から[[元文]]年間([[1736年]]-[[1740年]])初めの成立と推定されている{{Sfn|下田市史 資料編|2010年|p=500}}。文書は漢字片仮名混じりで、朱筆の注が付記されている{{Sfn|下田市史 資料編|2010年|p=500}}。底本は当社の旧[[別当寺]]・禅福寺<!--下田市史は「善福寺」と記すが誤りか-->に伝来していたが(禅福寺本)、その後失われ、現在は[[寛政]]3年([[1791年]])作の外函のみを残している{{Sfn|下田市史 資料編|2010年|p=499}}。内容の詳細は「[[三宅記]]」を参照。
*佐野北条氏忠朱印状 - [[コウゾ|楮]]紙の折紙、縦29.0横56.5cm。[[天正]]11年([[1583年]])に[[北条氏忠]]から白浜郷名主百姓中に下された年貢の割付状で、裏面に、'''藤井伊予'''の依頼を受けた[[伴信友]]の考証が書かれている。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の貢祖納入の実態を知る上で貴重な文書とされる。市指定有形文化財(古文書)。
:* 翻刻:{{Cite book|和書|editor=|author=|year=1918|title=道守|chapter=白濱大明神縁起|page=付録1-付録31頁|publisher=伊古奈比咩命神社社務所|isbn=|ref=}}
*[[三番叟]](さんばそう) - 「日の出三番叟」や「神さんば」とも呼ばれ、およそ300年前から例祭日の早朝に、原田・長田・板戸の[[氏子]]部落の青年が1年交替で奉仕している。戦前まで奉仕者は両親健在の未婚の長男に限られていた。市指定無形民俗文化財。
:** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953200 『道守』](近代デジタルライブラリー)174-189コマ参照。
:* 翻刻:{{Cite book|和書|editor=|author=|year=1943|title=伊古奈比咩命神社|chapter=白濱大明神縁起|publisher=伊古奈比咩命神社|page=70-95|isbn=|ref=}}
:** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123608 『伊古奈比咩命神社』](近代デジタルライブラリー)153-165コマ参照。
:* 翻刻:{{Cite book|和書|editor=下田市教育委員会編|author=|year=2010|title=下田市史 資料編 1 -考古・古代・中世-||chapter=三宅記(白浜本)|publisher=下田市教育委員会|page=471-498|isbn=|ref=}} - 要約を併記。


== その他 ==
== 登場作品 ==
* 『閑谷集』(鎌倉時代前期)の一首{{Sfn|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}<ref>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936505 『続群書類従 第16輯ノ上 和歌部』](続群書類従完成会、1924年-1926年、近代デジタルライブラリー)200コマ。</ref>
*'''御釜'''(みかま) - 社殿後方、海に面する崖下にある洞窟で、祭神の御陵とも伝え、本殿の直下あたりに漆塗の祠があるそうであるが、本殿裏一帯は禁足地とされているし、また地震で岸壁が崩れたため、現在近寄ることはできない
*: {{Cquote|<small>おなしきみなみ浦にしらはまの大明神と申してしるしあらたにはへるよし申をききて</small><br /> もらさすて 我もみちひけ 白濱の まさこの数に あらぬ身なれと|20px||『閑谷集』}}


== 交通 ==
== 現地情報 ==
'''所在地'''
[[伊豆急下田駅]]からバスで約10分
* [[静岡県]][[下田市]]白浜2740

'''交通アクセス'''
* [[伊豆急行線]] [[伊豆急下田駅]]から
** バス:「白浜神社」バス停下車 (乗車時間約10分、下車後徒歩すぐ)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{reflist|group="注"}}


'''原典''':記載事項の一次史料を紹介(出典扱いではない)。<!--一次史料に基づく記載は原則禁止されているため-->
== 参考文献 ==
{{reflist|group="原"}}
*式内社研究會編 『式内社調査報告』第10巻伊豆国・甲斐国 [[皇學館大學]]出版部、1981年

*[[宮地直一]]・[[佐伯有義]]監修 『神道大辞典 縮刷版』 [[臨川書店]]、1969年
'''出典'''
*[[谷川健一]]編 『日本の神々-神社と聖地』 第10巻東海 [[白水社]]、1987年
{{reflist|2}}

== 参考文献・サイト ==
'''書籍'''
* 伊古奈比咩命神社発行書籍・現地説明板
** 神社由緒書「伊豆ノ国最古の宮 伊古奈比咩命神社誌(白濱神社)」
** 境内説明板(下田市教育委員会、昭和58年(1983年)設置)
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1943|title=伊古奈比咩命神社|publisher=伊古奈比咩命神社|page=|isbn=|ref={{Harvid|伊古奈比咩命神社(社誌)|1943年}}}}
*** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123608 『伊古奈比咩命神社』](近代デジタルライブラリー)参照。
*** [http://www10.ocn.ne.jp/~ikona5/ 古文書](公式サイト)参照。
* 市町村史
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1994|title=静岡県史 通史編1|publisher=静岡県|page=|isbn=|ref={{Harvid|静岡県史 通史編|1994年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=下田市教育委員会編|author=|year=2010|title=下田市史 資料編 1 -考古・古代・中世-|publisher=下田市教育委員会|page=|isbn=|ref={{Harvid|下田市史 資料編|2010年}}}}
* 百科事典
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1982|chapter=|title=[[角川日本地名大辞典]] 22 静岡県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4040012208|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「伊古奈比咩命神社」|ref={{Harvid|伊古奈比咩命神社(角)|1982年}}}}、{{Wikicite|reference=「三嶋大社」|ref={{Harvid|三嶋大社(角)|1982年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2002|chapter=|title=日本歴史地名体系 13 東京都の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490131|ref={{Harvid|東京都の地名|2002年}}}}
*** {{Wikicite|reference=「伊豆諸島」|ref={{Harvid|伊豆諸島(平)|2002年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2000|chapter=|title=日本歴史地名体系 22 静岡県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490220|ref={{Harvid|静岡県の地名|2000年}}}}
*** {{Wikicite|reference=「伊豆国」|ref={{Harvid|伊豆国(平)|2000年}}}}、{{Wikicite|reference=「三嶋大社」|ref={{Harvid|三嶋大社(平)|2000年}}}}、{{Wikicite|reference=「伊古奈比咩命神社」|ref={{Harvid|伊古奈比咩命神社(平)|2000年}}}}
* その他書籍
** {{Cite book|和書|editor=明治神社誌料編纂所編|author=|year=1912|chapter=伊古奈比咩命神社|title=[[明治神社誌料]] 府県郷社 上|publisher=明治神社誌料編纂所|isbn=|ref={{Harvid|明治神社誌料|1912年}}}}
*** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244 『明治神社誌料 府県郷社 上』](近代デジタルライブラリー)867-868コマ参照。
** [[宮地直一]]・[[佐伯有義]]監修 『神道大辞典 縮刷版』 [[臨川書店]]、1969年
** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会編|author=|year=1981|title=式内社調査報告 第10巻|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref={{Harvid|式内社調査報告|1981年}}}}
*** {{Wikicite|reference=梅田義彦「伊豆三嶋神社」|ref={{Harvid|伊豆三島神社(式内社)|1987年}}}}、{{Wikicite|reference=鎌田純一「伊古奈比咩命神社」|ref={{Harvid|伊古奈比咩命神社(式内社)|1987年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]編|author=|year=1987|chapter=|title=日本の神々 -神社と聖地- 10 東海|publisher=[[白水社]]|isbn=4560022208|ref={{Harvid|日本の神々|1987年}}}}
*** {{Wikicite|reference=神野善治「三嶋大社」|ref={{Harvid|神野 三嶋大社(神々)|1987年}}}}、{{Wikicite|reference=神野善治「伊古奈比咩命神社」|ref={{Harvid|神野 伊古奈比咩命神社(神々)|1987年}}}}、{{Wikicite|reference=坂口一雄「物忌奈命神社・阿波命神社」|ref={{Harvid|坂口 物忌奈命神社・阿波命神社(神々)|1987年}}}}

'''サイト'''
* {{Cite web|url=http://www.ikonahime.com|author=|title=伊古奈比咩命神社|work=|publisher=伊古奈比咩命神社(公式サイト)|date=|accessdate=2014-3-23|ref={{Harvid|公式サイト}}}}
* {{Cite web|url=http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/index.html|author=|title=ホーム>教育・文化・スポーツ>郷土史・文化財>文化財|work=|publisher=下田市|date=|accessdate=2014-3-23|ref=}}
** {{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1140.html 御正躰]|ref={{Harvid|下田市|御正躰}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1141.html 水草双鳥鏡]|ref={{Harvid|下田市|水草双鳥鏡}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1142.html 亀甲地双雀鏡]|ref={{Harvid|下田市|亀甲地双雀鏡}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1143.html 山吹双鳥鏡]|ref={{Harvid|下田市|山吹双鳥鏡}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1150.html 火達山遺跡]|ref={{Harvid|下田市|火達山遺跡}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1172.html 三番叟]|ref={{Harvid|下田市|三番叟}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1178.html 薬師如来坐像]|ref={{Harvid|下田市|薬師如来坐像}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1188.html 佐野北条氏忠朱印状]|ref={{Harvid|下田市|佐野北条氏忠朱印状}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1195.html 鰐口]|ref={{Harvid|下田市|鰐口}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1197.html 白浜神社のビャクシン樹林]|ref={{Harvid|下田市|白浜神社のビャクシン樹林}}}}、{{Wikicite|reference=[http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/site/shimoda/html/category/050202Bunkazai/1208.html 伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地]|ref={{Harvid|下田市|伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地}}}}

* {{Cite web|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/130501.html|author=|title=伊古奈比咩命神社(伊豆国賀茂郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2014-3-23|ref={{Harvid|神道・神社史料集成}}}}

== 関連文献 ==<!--記事執筆に使用せず-->
* {{Cite book|和書|editor=白浜神社神徳発揚会編|author=|year=1916|title=幸藻|page=|publisher=啓成社|isbn=|ref=}}
** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/944144 『幸藻』](近代デジタルライブラリー)参照。
* {{Cite book|和書|editor=|author=足立鍬太郎|year=1918|title=道守|page=|publisher=伊古奈比咩命神社社務所|isbn=|ref=}}
** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953200 『道守』](近代デジタルライブラリー)参照。
* {{Cite book|和書|editor=|author=足立鍬太郎|year=1920|title=神潭|page=|publisher=伊古奈比咩命神社社務所|isbn=|ref=}}
** [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958128 『神潭』](近代デジタルライブラリー)参照。

== 関連項目 ==
* [[三嶋大社]]({{ウィキ座標|35|7|20.64|N|138|55|7.80|E|region:JP-22_type:landmark|位置|name=三嶋大社(伊古奈比咩命の夫神)}}) - [[伊豆国]][[一宮]]。祭神は伊古奈比咩命の夫神。
* [[阿波命神社]]({{ウィキ座標|34|13|45.38|N|139|8|21.77|E|region:JP-13_type:landmark|位置|name=阿波命神社(三嶋神の本后)}}) - 祭神は三嶋神の本后。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ikonahimenomikoto-jinja|伊古奈比咩命神社}}
* [http://www.ikonahime.com 白濱神社]
* [http://www.ikonahime.com 白濱神社](公式サイト)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/130501.html 神道・神社史料集成>伊豆国神社一覧>伊古奈比咩命神社]
* [http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4401043 伊古奈比咩命神社](静岡県神社庁)
* [http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/shougaikyouikuka/list_legends/list_legends2.jsp 下田市教育委員会「伊豆の国と七島伝説」]
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/130501.html 伊古奈比咩命神社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)


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2014年4月19日 (土) 12:31時点における版

伊古奈比咩命神社

拝殿
所在地 静岡県下田市白浜2740
位置 北緯34度41分38.26秒 東経138度58分25.21秒 / 北緯34.6939611度 東経138.9736694度 / 34.6939611; 138.9736694 (伊古奈比咩命神社)座標: 北緯34度41分38.26秒 東経138度58分25.21秒 / 北緯34.6939611度 東経138.9736694度 / 34.6939611; 138.9736694 (伊古奈比咩命神社)
主祭神 伊古奈比咩命
神体 神鏡
社格 式内社名神大
県社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 三間社流造
別名 白濱神社(白浜神社)
例祭 10月29日
主な神事 火達祭(10月28日
御幣流祭(10月30日
地図
伊古奈比咩命神社の位置(静岡県内)
伊古奈比咩命神社
伊古奈比咩命神社
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鳥居

伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は、静岡県下田市白浜にある神社式内社名神大社)で、旧社格県社。現在は神社本庁別表神社。通称は「白濱神社白浜神社)」。

概要

静岡県東部の伊豆半島先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま/ひたつ-)」に鎮座する。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡でもあるが、その祭祀は現在まで当社の祭祀として続いている。伝承では、主祭神の「伊古奈比咩命」は、伊豆諸島開拓神の「三嶋神」の后神であるという。また、三嶋神は三宅島から白浜(当地)、そして伊豆国一宮三嶋大社(静岡県三島市)へと遷座したとも伝える。

境内の火達山は、祭祀遺跡として市の史跡に指定されている。また、火達山に自生するアオギリ樹林は国の天然記念物に、ビャクシン樹林は静岡県の天然記念物に指定されている。そのほか、大久保長安奉納の鰐口(静岡県指定文化財)に代表される文化財数点が伝わっている。

社名について

白浜海岸と火達山(中央上)

現在の社名は、主祭神・伊古奈比咩命の名を掲げた「伊古奈比咩命神社」である。この社名は、平安時代の『延喜式神名帳に記載されるものである[1]。当社がこの『延喜式』所載社であることを伝える史料としては唯一、江戸時代慶長12年(1607年)の鰐口にある「伊古奈比咩命大明神」の銘が知られる[2]

通称の「白濱神社(白浜神社)」は、鎮座地の地名に由来するものである。「白浜」とは海岸の白砂を表した名称であるが、その起こりは明らかではない[3]。この呼称は江戸時代に広く見られ、当社は「白濱大明神」「白濱神社」「白濱大社」「白濱五社大明神」等と称されていた[4]。うち「五社大明神」は、当社の祭神数に由来するものである[5]。そのほか、三嶋神の旧鎮座地(古宮)であるという伝承から、「古宮山大明神」「古宮山五社大明神」という呼称も使用された[6]。明治期に正式社名は現在の「伊古奈比咩命神社」に定められたが、現在も「白濱神社」と通称されている[7]

祭神

祭神は次の5柱[8]神体は5柱とも神鏡である[9]

主祭神

  • 伊古奈比咩命 (いこなひめのみこと)
    三嶋大明神の后神。

相殿神

  • 三嶋大明神 (みしまだいみょうじん)
    伊豆国一宮三嶋大社(静岡県三島市)祭神。別名を事代主命(ことしろぬしのみこと)とする。
  • 見目 (みめ、見目大神)
    女神。三嶋大明神の随神。
  • 若宮 (わかみや、若宮大神)
    男神。三嶋大明神の随神。
  • 剣の御子 (つるぎのみこ、劔御子大神)
    男神。三嶋大明神の随神。

祭神について

上記のように当社祭神は5柱と定められているが、この制は江戸時代には遡りうるものである[10]。主祭神の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる[11]。『続日本後紀[原 1]の記述を基にすると、三嶋神の「正后」が阿波咩命(神津島阿波命神社祭神)、「後后」が当社にあたるとされる[12]。また、『伊豆国神階帳』に見える「一品当きさの宮」や『三宅記』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比咩命に比定される[13][注 1]。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に事代主命説・大山祇命説があるため、伊古奈比咩命にも三嶋溝樴姫(事代主命妃)説・大山祇命妃説があった[14]。これらに対して当社の社誌では、記紀神話との比較はせず「伊古奈比咩命」という独立の神格を見ている[15]。神名の由来は定かでないが、『日本三代実録[原 2]に見える「遠江国伊古奈神」(所在不明)との関連が指摘される[16]

三嶋大社静岡県三島市
伊古奈比咩命の夫神である三嶋神を祀る。

相殿神のうち、筆頭の三嶋神(みしまのかみ)は、現在の三嶋大社の祭神を指す。上記のように現在当社では、この三嶋神を記紀神話に見える事代主命にあてる。しかし三嶋大社祭神については、古くは『東関紀行』(仁治3年(1242年)成立)を初見として、伊予国一宮の大山祇神社愛媛県今治市大三島)由来の大山祇命説が唱えられていた[17]。事代主命説は、文化年間(1804年-1818年)頃の平田篤胤の提唱に始まるものである[17]。平田篤胤の主張は多くの賛意を得たため、現在まで当社含め伊豆各地では事代主命説が定着している。ただし、当の三嶋大社では大正頃から大山祇命説が再浮上したため[18]、祭神は事代主命・大山祇命の2柱に改められている。近年ではこれらとは別の説として、「ミシマ = 御嶋」すなわち「伊豆諸島の神格化」が三嶋神の発祥であるとして、事代主命・大山祇命のいずれも「ミシマ」の音から来た後世の付会とする説が有力視される[19](三嶋神の詳細は「三嶋大社#祭神」参照)。

見目若宮剣の御子の相殿神3柱は、『三宅記』に三嶋神の随身として見える神である[20]。3柱の詳細は明らかではない。境内から出土した御正躰には嘉禄元年(1225年)銘とともに「若宮」の銘があるため、これら3柱の祭祀は鎌倉時代初期に遡りうるとされる[20]

歴史

創建

三宅島東京都三宅村

社伝(由緒書)によると、まず三嶋神は南方から海を渡って伊豆に至った。そして富士山の神・高天原の神から伊豆の地を授けられ、白浜に宮を築き、伊古奈比咩命を后に迎えた。さらに、見目・若宮・剣の御子の3柱や竜神・海神・雷神などとともに伊豆諸島の島焼き(造島)を行なった。島焼きによって、初島に始まり神津島大島三宅島八丈島など合計10の島々を造り、自身は三宅島に宮を営んだ。その後しばらくして、白浜に還ったという[22]。以上の伝承は、伊豆地方に伝わる縁起三宅記』(鎌倉時代末期と推定[23])に記載されるものである。同書では島焼き以前に白浜を宮としたかについては記載はないが、孝安天皇(第6代)元年に三嶋神は天竺から至り、孝安天皇21年から島焼きを行なったとする。

当社の鎮座する火達山からは多くの祭器具が見つかっており、当地では古代から祭祀が行われていたものと推測される[24]。また、上記『三宅記』に見えるように、三嶋神は伊豆府中の現在地以前には白浜にあったとされており[25]、後述の天長9年(832年)記事の「神宮二院」の表現や、『延喜式神名帳の賀茂郡における三嶋神・伊古奈比咩命の登載はそれを示唆するものとされる[26]。加えて『宴曲抄』「三島詣」や『矢田部氏系図』では、天平年間(729年-749年)頃の三嶋神の国府遷祀を伝える[27]。当社の社誌では、これらを総合して、三嶋神は奈良時代頃に国府近くに新宮として勧請、その後元宮は衰退して治承4年(1180年[原 3]までには地位が逆転したとする[28][注 2]。また、元宮の地については、伊古奈比咩命神社北西の「神明(かみあけ)」の地と推測されている[29](ただし、以上については異説もある)。

概史

平安時代

阿波命神社東京都神津島村
祭神の阿波咩命は三嶋神の「本后」。対して伊古奈比咩命は「後后」とされる。

国史の初見は天長9年(832年)の記事[原 4]で、神異により三嶋神・伊古奈比咩命神を名神となし、地2,000(約2,000ヘクタール[注 3])に「神宮二院・池三処」を作ったという[11][注 4]。同記事の3日前の記事[原 5]では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神とも考えられる[30]

続日本後紀』の記事[原 1]によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋大社の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命:阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた[31]。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは当社を指すものとされる[32][注 4]。この記事を受けて、約一ヶ月後[原 6]には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った[12]

その後、当社は阿波咩命と物忌奈命とともに、嘉祥3年(850年[原 7]に従五位上の神階が授けられたのち、同年[原 8]には官社に列し、仁寿2年(852年[原 9]には正五位下に昇った[11]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、伊豆国賀茂郡に「伊古奈比咩命神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[11]。伊豆国賀茂郡には全国でも突出する密度(1郡で46座、1郷平均9.2座)の式内社が記されているが、名神大社に列したのは当社のほか、伊豆三島神社(三嶋大社)、阿波神社(阿波命神社)、物忌奈命神社の4社のみであった。

承平年間(931年-938年)頃の『和名抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる[11][33][注 5]

鎌倉時代から戦国時代

鎌倉時代では、当社に関する文献はほとんど見られず由緒は明らかではない[34]。境内から出土した若宮御正躰や神鏡(いずれも市指定文化財)、火達山出土の祭器具から、鎌倉時代にも当社の祭祀は継続していたと推測される[35]。また、この若宮御正躰や薬師如来坐像(市指定文化財)の存在から、本地垂迹思想が進展した様子が示唆される[36]

中世の国内神名帳伊豆国神階帳』(康永2年(1343年)以前成立[37])では冒頭部に「一品当きさの宮」の記載があり、これは当社に比定される[38]。田方郡の条に記されているが、これは伊古奈比咩命が三嶋大社に招祭されたことによるとされる。『延喜式』神名帳が「賀茂郡(三嶋神)、田方郡、那賀郡」の記載順であったのに対し『伊豆国神階帳』は「田方郡(三嶋神)、那賀郡、賀茂郡」の順であることから、両帳作成の間に伊豆国は賀茂郡中心から田方郡中心の時代に移ったと見られ、これに伴って賀茂郡に位置する当社の社勢は衰退したという[34]

室町時代においても当社を物語る史料は少なく、室町時代末期の「佐野北条氏忠朱印状」(市指定文化財)が唯一の史料として知られる[39]。この史料によると、後北条氏から修理料として11貫200文が寄進されている[40]。また、社領として103貫余を有した旨が見える[41]

江戸時代以降

江戸時代に入り、慶長3年(1598年)7月の検地により社領は20石に減じた[41]。慶長12年(1607年)、伊豆代官・大久保長安からは鰐口(県指定文化財)が寄進された[2]。江戸時代を通じては、幕府が毎年八丈島に渡船を発するたびに、初穂米や祈願絵馬が奉納されていた[42]。また、37の社家によって年間75度もの祭事が行われていたという[11]

江戸時代中期頃からは、当社の社勢は著しく衰退した[43]。当社は幕府・郡代の崇敬に預かっていなかったこと、寛文7年(1667年)の検地によって境内地以外の社領は年貢地に改められたことにより[44]、社家のほとんどが帰農して、ついには神主の原氏1家を残すのみとなった[44]。代わってこの頃から禅福寺(別当寺)の社僧による支配が強くなって社家と争うようになり、その争いは明治の神仏分離まで続いた[45]

江戸時代後期には、そのような中で社人の藤井伊予(藤井昌幸)が復古運動を展開し、白川家平田篤胤伴信友との交わりの中で現在に見る当社の由緒を構築した[45]。復興に尽くした伊予は「道守神」と称され、現代まで讃えられている[46]

明治6年(1873年)9月、近代社格制度において県社に列した[1]。戦後は神社本庁別表神社に列している。

神階

神職

江戸時代頃、当社には37の社家が存在したとされる[49]。しかしながらこれらの家は、その後の本社衰退によって帰農した[50]寛保元年(1741年)頃には、原家(現在の神主家)1家にまで縮小したという[50]。この原家は、『三宅記』に見える壬生御館(みぶのみたち:三嶋神初代奉斎者)の後裔であるとされる[51]

明治期の原家以外の社家には27家が見えるものの、いずれも帰農して祭祀に預かってはいなかった[52]。これらの社家は各家1社の氏神を祀っていたが、現在それらの社は「二十六社神社」として本社境内に合祀されている[53]

社殿造営

当社の社地に関しては、『日本後紀』逸文[原 4]に次の記載がある。

伊豆国言上。三島神。伊古奈比咩神。二前預名神。此神塞深谷摧高巌。平造之地。二千町許。作神宮二院。池三処。神異之事。不可勝計。

—『日本後紀』逸文 天長9年5月22日条[47]

上記の文に「神宮二院」とあるように、三嶋神・伊古奈比咩命神は「二院」制を成していたとされる[54]。しかしながら、遺構が明らかでないため制の実際は明らかでない。社誌では、先の「二院」は別境内であるとして、三嶋神は神明(境外末社・十二明神社)、伊古奈比咩命神は火達山の位置と推測されている[55]

江戸時代明暦2年(1656年)に社殿が焼失した際には、上記「二院」が同一境内と見なされて本殿2殿が一所に並び建てられることとなった[56][11]。この制は、寛文2年(1662年)の棟札(今無し)を初見として寛保元年(1741年)まで確認される[56]

その後、本殿は寛保元年(1741年)に現在見られるような1殿制に改められた[56]。1殿制に改めるにあたっては、遠江国浜松(現・静岡県浜松市)の五社明神を模したという[56]。現在の本殿は大正11年(1922年)、拝殿は万延元年(1860年)の造営である[22]

境内

現在の境内は、白浜海岸北側に突き出た岬の丘陵「火達山(ひたちやま)」に位置する。境内面積は1.5ヘクタール、また境外地として2.6ヘクタールを有する[22]。火達山には山上に本殿、山麓には拝殿が建てられている。これらの社殿は北西に面し、後背に伊豆諸島を背負っている[57]

火達山からは祭祀用と見られる奈良時代・平安時代の多数の土師器須恵器が見つかっており[58]、伊豆諸島に関する古代祭祀遺跡の様子を残していることから、境内は「火達山遺跡」として下田市の史跡に指定されている[24]。下田市沿岸部には火達山遺跡のほかにも海島祭祀遺跡が多く存在しており、ほかには夷子島遺跡(須崎)、三穂ヶ崎遺跡(白浜)、遠国島遺跡(田牛)などが知られる(いずれも市指定史跡)[59]

社殿

本殿

丘陵上に立つ本殿は大正11年(1922年)の造営で、三間社流造、向拝付、総桧造、銅板葺[22]寛保元年(1741年)以前の本殿は2殿であった[56]。古代祭器具が見つかった本殿裏は禁足地とされている[57]

丘陵下に立つ拝殿は万延元年(1860年)の造営で、入母屋造、正面六間、側面五間、向拝唐破風付、欅造、瓦葺[22][60]

樹叢

当社境内はアオギリ(青桐、アオギリ科の中国原産植物)の分布北限にあたり、境内の北側に純林を形成している。この林は「伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地」として国の天然記念物に指定されている。[61]

また、境内にはビャクシン(柏槇、ヒノキ科の常緑中高木)の樹林も自生している。小さな鱗片葉を十字対生につけるものと、針状の葉を3輪生するものとがある。それらのうち「薬師の柏槇」と称される手水舎脇の1本は、樹高15.5メートル・周囲4メートルを測る古木である。この樹林は「白浜神社のビャクシン樹林」として静岡県の天然記念物に指定されている。[62]

御釜

御釜入り口

社殿後方の海岸の崖下には、「御釜(みかま、三釜)」と称される窪みがある[57]。ここには三方から海蝕洞が通じ、常時海水が流れ込んでいる[57]

かつて神職が大潮の時に御釜に入った際、奥にはさらに洞窟があり、本殿の真下と思しき位置には漆塗りの祠があったという[57]。このことから、御釜は祭祀場に使用されていたとされる[57]。ただしその洞窟は、地震による崩壊により現在では近づくことは出来ない状態である[57]

摂末社

当社の関係社について、慶長年間(1596年-1615年)の水帳には社家持の計27社の記載が、文化15年(1818年)の当社縁起では末社計33社の記載があり、古くは70社近くにも及ぶ摂末社を有したとされる[63]。現在の摂末社は次の通り。

境内社

  • 二十六社神社
    大正10年(1921年)の遷宮に際し、境内社26社を1社に合祀したものである[64]。元々は、社家の各家で氏神として祀られていた[65]
    内訳は少彦名命神社、御子神社、応神神社、須佐之男命神社、天児屋根命神社、天水分命神社、天照皇大神社、級長戸辺神社、木花開耶姫命神社、瀬織津姫命神社、倉稲魂命神社、豊宇気姫命神社、経津主神社、熊野神社、海津見神社、海津豊玉彦神社、大年神社、石長比売命神社、若宮八幡宮、亥神社、大雷神社、高皇産霊神社、金山毘古命神社、金山比売命神社、大山祇神社、豊受大神宮[66]
  • 砂村稲荷神社
  • 見目弁財天社
  • 聖徳太子命神社

境外社

十二明神社
三嶋神旧鎮座地か。
  • 十二明神社 (下田市白浜、北緯34度41分51.08秒 東経138度58分15.01秒))
    • 祭神:大楠命、小楠命、御代徳命、感農八甕命、横池命、伊迦命、知宇命、尾健御子命、尾健比命、見多諾命、伊豆奈比咩命、穂便感応命[29]
    本社北西、「神明(かみあけ)」の地に鎮座する境外社である。文化15年(1818年)の縁起に見える神明周辺の神々をのちに合祀したものである[29]。その神名は、本社境内社の著名な神名とは対照的に特徴的な神名が多く、三嶋神の一族神に相当すると推測されている[67]。このことから、社誌では当地が三嶋神(三嶋大社)の旧鎮座地に相当すると見ている[67]。ただしそれとは別に、当地を天長9年(832年)以前の三嶋神・伊古奈比咩命の鎮座地とする伝承もある[68]

祭事

文政13年(1830年)の縁起によれば、古くは年間で75度もの祭事が行われたという[69]。現在は毎月1日・15日に月次祭が行われるほか[22]、次の主要祭事が行われる。

例祭

大明神岩と海浜鳥居

現在の例祭は10月29日であるが、古くは旧暦の9月20日・21日に行われた[68]。まず例祭前日の火達祭では、本殿裏の焚火を行い、伊豆の島々を遥拝する神事が行われる[70]。火達山では祭器具が出土することから、同様の神事が古い時代から行われていたと推測される[70]。また、古くは伊豆諸島側でも同時に焚火を行なったという[71]

翌日は、早朝に市指定無形民俗文化財の三番叟が奉納される[70]。次いで当社最大の祭典である例祭が執行される[70]

3日目、夕方に神社裏の海岸において御幣流し祭が行われる[72]。神事では、島々への遥拝ののち、「大明神岩」と称する大岩から幣串と神饌を海中に投じる[73]。このとき、必ず「御幣西(おんべにし)」と称する西風が吹くという[73]。これらの祭は神迎え・神送りの儀礼と考えられているが、伊豆諸島を意識していることにその特色が指摘される[57]

酉祭

酉祭(とりまつり)は、4月と11月の初酉日に行われる[74]。この祭は古くからの重儀で、三嶋大社では当社を憚って4月と11月の中酉日に酉祭を行うという[74]。由来の詳細は明らかでないが、は当社の神使と見なされており、祭当日には生鶏が献じられていた[75](現在は卵が献じられる[76])。

文化財

国の天然記念物

  • 伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地 - 昭和20年2月22日指定[61]

静岡県指定文化財

  • 有形文化財
    • 鰐口(工芸品)
      径42.3センチメートル、厚10.8センチメートル。両肩には釣手を有する。慶長12年(1607年)3月、伊豆代官・大久保長安の奉納によるものである。当時長安は縄地金山奉行であり、金山の隆盛を祈願して奉納したものといわれる。地金は青銅であるが、金の成分が相当含まれていると伝える。昭和31年10月17日指定。[77]
  • 天然記念物

下田市指定文化財

  • 有形文化財
    • 御正躰(みしょうたい)1面(工芸品)
      金銅製(銅製鍍金)、直径15.2センチメートル、厚0.1センチメートルの薄い円形板。文字、尊像などは見られないが、当初は墨画があったと考えられている。「施主忌部能次 大歳嘉禄元年(1225年)十二月日乙酉 若宮御正躰」という鎌倉時代の銘文を持つ。この御正躰は、文化9年(1812年)9月、境内裏山にあった神木「命の松」(昭和41年に倒木)の根元から掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。[78]
    • 水草双鳥鏡(工芸品)
      青銅鋳製、表面径10.7センチメートル、縁厚0.7センチメートル。背面には、捩菊(ねじりぎく)文様座鈕を中心として、上下に水流と水草、左右に双鳥の文様が薄肉で表現されている。鋳上りも優れており、平安時代後期の典型的な和鏡とされる。この水草双鳥鏡は、文化9年(1812年)9月に御正躰とともに掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。[79]
    • 亀甲地双雀鏡(工芸品)
      青銅鋳製、表面径11.4センチメートル、縁厚0.7センチメートル。亀甲地で、亀座鈕の近くには双雀を配している。鎌倉時代後期の作とされる。この亀甲地双雀鏡もまた、文化9年(1812年)9月に御正躰とともに掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。[80]
    • 山吹双鳥鏡(工芸品)
      青銅鋳製、表面径11.4センチメートル、縁厚0.7センチメートル。花形中隆鈕(はながたちゅうりゅうちゅう)で、全体には山吹を散らし、その中に双鳥を配した文様がやや肉高に鋳出されている。鎌倉時代の作とされる。この山吹双鳥鏡もまた、文化9年(1812年)9月に御正躰とともに掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。[81]
    • 薬師如来坐像(彫刻)
      一木割矧造、彫眼で、像高86.2センチメートル。明治の廃仏毀釈で解体されたのち復元されたもので、現在は漆塗りとなっている。薬師如来は、三嶋神の本地仏とされている。縄を巻いたような特異な頭髪の表現は、京都清凉寺の釈迦如来像に代表される、鎌倉時代以降に流行した様式である。また、やや面長で男性的な独特の表情には宋風彫刻の影響が色濃く見られ、鎌倉後期の彫刻の特徴を有している。昭和56年8月7日指定。[82]
    • 佐野北条氏忠朱印状(古文書)
      紙の折紙で、縦29.0センチメートル、横56.5センチメートル。天正11年(1583年)に、北条氏忠(佐野氏忠)から白浜郷名主百姓中に下された年貢の割付状である。裏面には、江戸時代後期に藤井伊予(昌幸)の依頼を受けた伴信友国学者)の考証が記されている。戦国時代の貢祖納入の実態を知る上で貴重な文書とされる。昭和60年12月23日指定。[83]
  • 史跡
    • 火達山遺跡 - 昭和49年3月20日指定[24]
  • 無形民俗文化財
    • 三番叟(さんばそう)
      「日の出三番叟」や「神さんば」とも呼ばれる。民俗芸能として、今から約300年前から奉納されてきたという。例祭日の早朝に、原田・長田・板戸の氏子部落の青年が1年交替で奉納する。昭和48年6月12日指定。[84]

その他

白濱大明神縁起
通称「三宅記」。伊豆半島・伊豆諸島に伝わる神仏縁起で、本書はその写本の1つである。「三宅記」原本の成立は鎌倉時代末期と推定されるが[23]、本書は奥書から享保年間(1716年-1735年)後半から元文年間(1736年-1740年)初めの成立と推定されている[85]。文書は漢字片仮名混じりで、朱筆の注が付記されている[85]。底本は当社の旧別当寺・禅福寺に伝来していたが(禅福寺本)、その後失われ、現在は寛政3年(1791年)作の外函のみを残している[23]。内容の詳細は「三宅記」を参照。
  • 翻刻:「白濱大明神縁起」『道守』伊古奈比咩命神社社務所、1918年、付録1-付録31頁頁。 
    • 『道守』(近代デジタルライブラリー)174-189コマ参照。
  • 翻刻:「白濱大明神縁起」『伊古奈比咩命神社』伊古奈比咩命神社、1943年、70-95頁。 
  • 翻刻:下田市教育委員会編 編「三宅記(白浜本)」『下田市史 資料編 1 -考古・古代・中世-』下田市教育委員会、2010年、471-498頁。  - 要約を併記。

登場作品

  • 『閑谷集』(鎌倉時代前期)の一首[11][86]
おなしきみなみ浦にしらはまの大明神と申してしるしあらたにはへるよし申をききて
 もらさすて 我もみちひけ 白濱の まさこの数に あらぬ身なれと

—『閑谷集』

現地情報

所在地

交通アクセス

脚注

注釈

  1. ^ 「天地今宮后」については、三宅島の富賀神社に比定する説もある (式内社調査報告 & 1981年, p. 77)(詳しくは「富賀神社」を参照)。
  2. ^ ただし『式内社調査報告』では、新宮勧請は平安時代中期以降と推測する (伊豆三島神社(式内社) & 1987年, p. 8)。
  3. ^ 1町を1ヘクタールとして概算。
  4. ^ a b c d e 『日本後紀』逸文の天長9年条に神階叙位の記載は無いが、『続日本後紀』承和7年条の「後后が冠位を授かった」ことに対する本后(阿波命)の怒りの記事から、この頃に従五位下の叙位が推測される (伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 46-48)。
  5. ^ 奈良時代の木簡では「稲梓郷(いなずさごう)」が見えており、この「稲梓郷」を踏襲して平安時代に「大社郷」が成立したとされる (静岡県の地名 & 2000年, p. 91)。
  6. ^ 斉衡元年の記事は「正五位上」の誤記とする説(明治神社誌料 & 1912年)がある。
  7. ^ 『伊豆国神階帳』記載の「正一位天満天神」が、物忌奈命神社の遥拝所とされる天神社(三嶋大社元摂社)に比定されることによる。

原典:記載事項の一次史料を紹介(出典扱いではない)。

  1. ^ a b 『続日本後紀』承和7年(840年)9月23日条。
  2. ^ 『日本三代実録』貞観15年(873年)9月27日条。
  3. ^ 『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月17日条。
  4. ^ a b c 『釈日本紀』15所収『日本後紀』逸文 天長9年(832年)5月22日条(神道・神社史料集成参照)。
  5. ^ 『釈日本紀』15所収『日本後紀』逸文 天長9年(832年)5月19日条(神道・神社史料集成参照)。
  6. ^ 『続日本後紀』承和7年(840年)10月14日条。
  7. ^ a b 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)10月8日条(神道・神社史料集成参照)。
  8. ^ a b 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)11月1日条(神道・神社史料集成参照)。
  9. ^ a b 『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)12月15日条(神道・神社史料集成参照)。
  10. ^ 『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)6月26日条(神道・神社史料集成参照)。

出典

  1. ^ a b 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 37.
  2. ^ a b 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 115.
  3. ^ 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 40.
  4. ^ 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 38-39.
  5. ^ 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 38.
  6. ^ 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 39.
  7. ^ 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 39-40.
  8. ^ 祭神の記載は神社由緒書による。
  9. ^ 明治神社誌料 & 1912年.
  10. ^ 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 3.
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  73. ^ a b 伊古奈比咩命神社(社誌) & 1943年, p. 153.
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  76. ^ 伊古奈比咩命神社(静岡県神社庁)
  77. ^ 下田市 & 鰐口.
  78. ^ 下田市 & 御正躰.
  79. ^ 下田市 & 水草双鳥鏡.
  80. ^ 下田市 & 亀甲地双雀鏡.
  81. ^ 下田市 & 山吹双鳥鏡.
  82. ^ 下田市 & 薬師如来坐像.
  83. ^ 下田市 & 佐野北条氏忠朱印状.
  84. ^ 下田市 & 三番叟.
  85. ^ a b 下田市史 資料編 & 2010年, p. 500.
  86. ^ 『続群書類従 第16輯ノ上 和歌部』(続群書類従完成会、1924年-1926年、近代デジタルライブラリー)200コマ。

参考文献・サイト

書籍

  • 伊古奈比咩命神社発行書籍・現地説明板
    • 神社由緒書「伊豆ノ国最古の宮 伊古奈比咩命神社誌(白濱神社)」
    • 境内説明板(下田市教育委員会、昭和58年(1983年)設置)
    • 『伊古奈比咩命神社』伊古奈比咩命神社、1943年。 
  • 市町村史
    • 『静岡県史 通史編1』静岡県、1994年。 
    • 下田市教育委員会編 編『下田市史 資料編 1 -考古・古代・中世-』下田市教育委員会、2010年。 
  • 百科事典
    • 角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店、1982年。ISBN 4040012208 
      • 「伊古奈比咩命神社」「三嶋大社」
    • 『日本歴史地名体系 13 東京都の地名』平凡社、2002年。ISBN 4582490131 
      • 「伊豆諸島」
    • 『日本歴史地名体系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。ISBN 4582490220 
      • 「伊豆国」「三嶋大社」「伊古奈比咩命神社」
  • その他書籍
    • 明治神社誌料編纂所編 編「伊古奈比咩命神社」『明治神社誌料 府県郷社 上』明治神社誌料編纂所、1912年。 
    • 宮地直一佐伯有義監修 『神道大辞典 縮刷版』 臨川書店、1969年
    • 式内社研究会編 編『式内社調査報告 第10巻』皇學館大学出版部、1981年。 
      • 梅田義彦「伊豆三嶋神社」鎌田純一「伊古奈比咩命神社」
    • 谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 10 東海』白水社、1987年。ISBN 4560022208 
      • 神野善治「三嶋大社」神野善治「伊古奈比咩命神社」坂口一雄「物忌奈命神社・阿波命神社」

サイト

関連文献

  • 白浜神社神徳発揚会編 編『幸藻』啓成社、1916年。 
    • 『幸藻』(近代デジタルライブラリー)参照。
  • 足立鍬太郎『道守』伊古奈比咩命神社社務所、1918年。 
    • 『道守』(近代デジタルライブラリー)参照。
  • 足立鍬太郎『神潭』伊古奈比咩命神社社務所、1920年。 
    • 『神潭』(近代デジタルライブラリー)参照。

関連項目

外部リンク