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「アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[ファイル:LibroDesJuegasAlfonXAndCourt.jpg|thumb|250px|アルフォンソ10世と宮廷]]
| 人名 = アルフォンソ10世
'''アルフォンソ10世'''('''Alfonso X''', el Sabio, [[1221年]][[11月23日]] - [[1284年]][[4月4日]])は、[[カスティーリャ王国]]の[[カスティーリャ君主一覧|国王]](在位:[[1251年]] - [[1282年]])。一時は[[ローマ王|ドイツ王]](在位:[[1257年]] - [[1275年]])でもあった。[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]と最初の王妃[[ベアトリス・デ・スアビア]]の長男である。[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世]]は母方の従兄に当たる。[[トレド]]の出身。
| 各国語表記 = Alfonso X el Sabio
| 君主号 = [[カスティーリャ君主一覧|カスティーリャ国王]]<br>[[ローマ王]]
| 画像 = Alfonso X el Sabio (Ayuntamiento de León).jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 =
| 在位 = [[1252年]] - [[1284年]]
| 戴冠日 =
| 別号 = [[ガリシア王国|ガリシア国王]]
| 全名 =
| 出生日 = [[1221年]][[11月23日]]
| 生地 = {{KOC}}、[[トレド]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1221|11|23|1284|4|4}}
| 没地 = {{KOC}}、[[セビリア]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{KOC}}、[[セビリア大聖堂]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[ビオランテ・デ・アラゴン]]
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 配偶者4 =
| 子女 = [[#子孫|後述]]
| 王家 = ボルゴーニャ家
| 王朝 = [[ブルゴーニュ朝 (カスティーリャ)|ボルゴーニャ朝]]
| 父親 = [[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]
| 母親 = [[ベアトリス・デ・スアビア]]
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''アルフォンソ10世'''({{Lang-es|Alfonso X}}, [[1221年]][[11月23日]] - [[1284年]][[4月4日]])は、[[カスティーリャ王国]]の[[カスティーリャ君主一覧|国王]](在位:[[1252年]] - 1284年)。一時、対立[[ローマ王]](ドイツ王、在位:[[1257年]] - [[1275年]])でもあった。


[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]と最初の王妃[[ベアトリス・デ・スアビア]](ローマ王[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]の娘)の長男である。母のベアトリスは[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の従姉妹であり、[[ボヘミア王]][[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]は母方の従兄にあたる。
軍事面においては失政が多かったが、文化面・行政面における功績は大きく、アルフォンソ10世はこの功績を讃えられて「'''アルフォンソ賢王'''」(エル・サビオ:el Sabio)と呼ばれることとなった。また、天文学上の功績により「天文王」(エル・アストロロゴ:el Astrólogo)とも呼ばれる。

学芸の振興に努めたため「'''賢王'''」「賢者」「学者」を意味する''el Sabio''の別名で知られている<ref name="kobayashi">小林、P20 - P21。</ref><ref name="kikuchi">菊池、P129 - P130。</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=川成洋|authorlink=川成洋 |year = 2016 |title = スペイン文化読本 |publisher = 丸善出版 |page = 84 |isbn = 978-4-621-08995-8}}</ref>。アルフォンソ10世自身は権力の基盤は英知にあると考えており<ref name="jac">ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(吉村作治監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2006年12月)、P95。</ref>、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]、[[ユダヤ教]]を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ<ref>牛島、P7、西川、P153。</ref>。また、現在の[[スペイン語]]の母語となったカスティーリャ語の確立者の一人とみなされており<ref name="lar"/>、「カスティーリャ語散文の創始者」と呼ばれている<ref name="itoh59">伊藤ほか、P59。</ref>。彼の治世にカスティーリャの文化・宗教双方の中心地は[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]から首都の[[トレド]]に移り、アラビア文化を学ぼうとするヨーロッパ各地の研究者がトレドに集まった<ref>牛島、P8。</ref>。

学術面の功績とは逆に、政治の実績には否定的な評価が下されることが多い<ref name="kobayashi"/><ref name="kikuchi"/><ref name="horupu">グリック、P258 - P259。</ref><ref name="lar">トレモリエール、P362 - P364。</ref><ref>芝、P140 - P141。</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 即位前 ===
王太子時代は父と共に[[レコンキスタ]]を推進し、その補佐に当たった。1252年、父の死により王位につき、レコンキスタを継続したが、父王フェルナンド3世と比べ軍事的成果はほとんどなく、むしろ失敗が多かったと言われている。
1221年11月23日にフェルナンド3世とベアトリスの長子として、トレドで誕生する<ref name="horupu"/>。幼少期の事績については不明な点が多い<ref>佐竹、P24。</ref>。


幼時から統治と軍事についての教育を受け、[[1236年]]から父が進める[[レコンキスタ]]の一環としてコルドバ地方のイスラム教徒([[ムスリム]])の居住地を征服した<ref>ローマックス、P200 - P201。</ref>。[[1243年]]に[[サンティアゴ騎士団]]とともに[[ムルシア]]のイスラムの領主アブー・バクルを降伏させ、ムルシア地方を支配下に置いた<ref>ローマックス、P203。</ref>。<!-- グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻、258-259頁では1247年にムルシア攻略 -->この時、[[バレンシア王国|バレンシア]]から南下した[[アラゴン王国|アラゴン]][[アラゴン君主一覧|王]][[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]と[[シャティバ|ハティバ]]で接触、両軍に不穏な気配が生じたが、{{仮リンク|アルミスラ条約|en|Treaty of Almizra}}を結び両国の獲得領土とその境界線を取り決めたことで紛争は避けられた<ref>ローマックス、P203 - P204。</ref>。
アルフォンソ10世の即位から数年後、[[神聖ローマ帝国]]は皇帝不在の[[大空位時代]]に入ったが、アルフォンソ10世は生母が[[ローマ王|ドイツ王]][[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]の娘であることを理由に皇帝の位を望み、[[コーンウォール伯]][[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]と帝位を巡って争った。一時は[[選帝侯]]達に[[ローマ王|ローマ人の王]]に選ばれる所までこぎつけたが、[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]の猛反対に遭って結局は失敗に終わった。


[[1248年]]に父が敷いていた[[セビリア]]包囲に参加し<ref>ローマックス、P208。</ref>、翌[[1249年]]にハイメ1世の娘[[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ]]と結婚した。
こうした失政の連続に加えて、[[1275年]]には長男の王太子[[フェルナンド・デ・ラ・セルダ]]に先立たれた。それらが原因となって、次男[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ]]と王位をめぐる内乱が発生するが、この内乱はアルフォンソ10世の敗北に終わり、1282年にサンチョによって王位を奪われた。その後、[[マリーン朝]]と共謀してサンチョから王位奪回を企んだが、失敗して[[セビリア|セビリャ]]に追放され、失意のうちに1284年、64歳で没した。


=== レコンキスタでの活動 ===
「聖王」と讃えられた父と較べると外政については失敗の多い人物であるが、内政面では評価の高い人物である。アルフォンソ10世が[[ローマ法]]に基づいて編纂した『[[七部法典]]』(''[[:es:Siete Partidas|Siete Partidas]]'')は、その後の[[スペイン]]における法律の基礎となった。歴史学においては『スペイン史』(''[[:es:Estoria de España|Estoria de España]]'')や『世界史』(''[[:es:Grande e general estoria|General Estoria]]'')、天文学においては『[[アルフォンソ天文表]]』の編纂という業績も残した。さらにはスペインにおける諸学問の保護発展に尽力し、自らも詩を多数創作した。また、[[ガリシア語]]による「聖母マリアのための[[カンティガ|カンティーガ]]集」(''[[:es:Cantigas de Santa Maria|Cantigas de Santa María]]'')の編纂を行うなど、優れた行政手腕や文化手腕を持っていた。国内における[[カスティーリャ語]]の普及にも尽力し、これは後の[[スペイン語]]の基礎になったと言われている。
1252年にカスティーリャ王位を継ぎ、カスティーリャ、[[レオン王国|レオン]]を相続する。
<!-- 父の時代に拡大したカスティーリャ王国を安定させるため、[[レコンキスタ]]の規模を縮小した<ref name="seki163">関「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』、163頁</ref>。 -->
<!-- 父から引き継いだレコンキスタに注力した<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、217頁</ref>。 -->
イベリア半島南部の[[アルガルヴェ]]地方の国境部の領有を巡って[[ポルトガル王国]]と争い、庶子[[ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・グスマン|ベアトリス]]を[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]][[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]に嫁がせ和解した。[[1254年]]には[[ガスコーニュ]]に軍を進め、ガスコーニュ攻撃の直後に[[ナバラ王国|ナバラ]][[ナバラ君主一覧|王]][[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]亡き後の王位の継承権を主張したため舅ハイメ1世と対立するが、[[1256年]]のソリア条約で和解した<ref name="horupu"/><ref>西川、P153 - P154。</ref>。[[1260年]]に[[モロッコ]]の[[サレ]]で[[マリーン朝]]に対する反乱が起きると、アルフォンソ10世は艦隊を派遣して反乱を助けた。カスティーリャ軍はサレを略奪するが、[[ムワッヒド朝]]の残党の包囲を受けて退却し、モロッコにアフリカ進出の拠点を築くことはできなかった<ref name="#1">ローマックス、P218。</ref>。


[[1262年]]にアルフォンソ10世はイスラム教の従属王国([[タイファ]])が所有していた[[カディス]]、{{仮リンク|ニエブラ|es|Niebla (Chile)}}の直接支配を狙い、カスティーリャ軍が占領したため、[[グラナダ]]の[[ナスル朝]]との関係が悪化する<ref name="satoh">佐藤健太郎「イスラーム期のスペイン」『スペイン史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2008年7月)、P120 - P121。</ref><ref name="#1"/>。ナスル朝は[[アル=アンダルス]]の[[ムデハル]](キリスト教国在住のムスリム)の反乱を扇動し、[[ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ|ヘレス]]、[[アルコス・デ・ラ・フロンテーラ|アルコス]]、ムルシアなどで蜂起が発生した。アルフォンソ10世は[[カラトラバ騎士団]]の支援を受け反乱都市を奪還、[[マラガ]]の有力貴族アシキールーラ家の反乱を支援してナスル朝に対抗し、ナスル朝はアシキールーラ家の反乱鎮圧に専念するため、両者は[[1266年]]に和約を締結した。この後、アルフォンソ10世はハイメ1世と騎士団、ナスル朝などの支援でムルシアも取り戻し、ムスリム住民を追放して[[キリスト教徒]]を入植させ支配を強化した({{仮リンク|ムルシアの征服 (1265年-1266年)|en|Conquest of Murcia (1265–66)|label=ムルシア征服}})<ref name="satoh"/><ref>ローマックス、P218 - P219。</ref>。
13世紀の終わりに[[トレド]]に翻訳研究所(エスクエラ・デ・トラドゥクトーレス)を設置、[[アラビア語]]を[[モサラベ語]]、[[ラテン語]]に翻訳させた。[[ユダヤ教徒]]の学者を[[ムスリム]]、[[キリスト教徒]]それぞれの学者と同じように宮廷で遇し、[[タルムード]]の翻訳に資金提供をしたが、息子サンチョの反乱以降は[[シナゴーグ]]に閉じ込め、家を壊した。


=== 神聖ローマ皇帝位の請求 ===
== 子孫 ==
1250年代初頭からの[[神聖ローマ帝国]]の[[大空位時代]]には、母のベアトリスの出自を根拠に神聖ローマ皇帝位を請求し、アル=アンダルスへの進出を図る[[ピサ]]の[[ギベリン]]からの支持を受けた<ref name="seki163">関、P163。</ref>。1257年にアルフォンソ10世は同じく神聖ローマ皇帝候補に挙げられていたコーンウォール伯[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]とともにローマ王(ドイツ王)に選出された<ref name="kikuchi"/>。だがハイメ1世は反対し<ref>関、P163 - P164。</ref>、[[教皇|ローマ教皇]]も[[破門]]を示して即位に反対した。[[1272年]]にリチャードが没すると教皇[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]は神聖ローマ帝国諸侯からのローマ王選出を要請し、[[1273年]]に[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]がローマ王に選出された<ref name="kikuchi134">菊池、P134、P138。</ref>。
[[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ(ヨランダ)・デ・アラゴン]]([[アラゴン君主一覧|アラゴン王]][[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]と王妃[[ビオランテ・デ・ウングリア]]の娘)と[[1246年]]に結婚した。実際に嫁いだのは[[1249年]]であるが、それは結婚時に彼女がまだ10歳だったからである。以後も数年間は子供ができず、アルフォンソは危うく彼女を離縁する所だったが、夭逝した2人を除いて10人の子供をもうけている。


アルフォンソ10世の試みは失敗に終わり、工作に注ぎ込まれた多額の資金と労力は王国に損失をもたらした<ref name="lar"/><ref>西川、P154 - P155。</ref>。
# フェルナンド(生没年未詳) - 幼少時に死亡。[[ブルゴス]]のラス・ウエルガス修道院に埋葬されている。
# ベレンゲーラ(1253年 - 1284年以降) - [[フランス君主一覧|フランス王]][[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の息子で後継者だったルイ([[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の兄)と婚約したが、[[1260年]]にルイが夭逝した為ラス・ウエルガス修道院に入った。1284年まで生きていたことは確実。
# ベアトリス(1254年 - 1280年) - 1271年、ムルシアで[[モンフェッラート侯国|モンフェラート]]侯[[グリエルモ7世 (モンフェラート侯)|グリエルモ7世]]と結婚。
# [[フェルナンド・デ・ラ・セルダ]](1255年10月23日 - 1275年7月25日) - 1268年、フランス王ルイ9世の娘ブランシュと結婚、2男をもうけた。王太子であったが父より先に死去し、遺児たちを退けて弟サンチョが父から王位を奪った。
# レオノール(1257年 - 1275年)
# サンチョ(1258年 - 1295年) - カスティーリャ王[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ4世]]。勇敢王(エル・ブラーボ:el Bravo)と呼ばれる。
# コンスタンサ(1258年 - 1280年) - ラス・ウエルガス修道院の修道女
# ペドロ(1260年 - 1283年)
# フアン(1262年 - 1319年) - バレンシア・デ・カンポスの領主。[[ビスカヤ]]の女領主(ディエゴ・ロペス・デ・アロの死後)マリア・ディアス・デ・アロと結婚し、フアン・エル・トゥエルト(隻眼のフアン)をもうける。
# イサベル(生没年未詳) - 夭逝。
# ビオランテ(1265年 - 1296年) - ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロと結婚。
# ハイメ(1266年 - 1284年)


=== 国内の反乱 ===
アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。その一人[[ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・グスマン|ベアトリス]]は[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]][[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]に嫁ぎ、[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]の母になった。またマルティンは[[バリャドリッド]]の大修道院長になった。他にもウラカという名前の娘がいた。
[[Image:Alfonso X de Castilla. Sepulcro.jpg|thumb|180px|セビリア大聖堂に安置されたアルフォンソ10世の棺]]
アルフォンソ10世は帝位を獲得する運動に際して国を空けることが多く、王の留守は反乱の温床となった<ref name="horupu"/>。貴族の一部はアルフォンソ10世の弟フェリペを擁して反乱を起こした。


[[1275年]]にアルフォンソ10世が教皇庁に赴いた隙をついて、マリーン朝の君主[[アブー・ユースフ・ヤアクーブ]]がイベリア半島に上陸した<ref name="lom223">ローマックス、P223。</ref>。1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍は[[エシハ]]でカスティーリャ軍を破り、アルフォンソ10世の義弟であるトレド大司教サンチョが戦死する。反乱の鎮圧に奔走した長男の[[フェルナンド・デ・ラ・セルダ|フェルナンド]]王太子はアンダルシアへ向かう途中の[[シウダー・レアル]]で病死、翌[[1276年]]にヤアクーブが退却するまでの間、フェルナンドの弟で次男の[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ]]王子(後のサンチョ4世)が代わりにセビリアへ到着、イスラム教徒への抗戦を指導した<ref name="lom223"/><ref>西川、P155。</ref>。
== 称号 ==

治世の末期にはカスティーリャ、[[トレド]]、[[レオン王国|レオン]]、[[ガリシア王国|ガリシア]]、[[セビリア|セビーリャ]]、[[コルドバ]]、[[ムルシア]]、[[ハエン]]及び[[アルガルヴェ地方|アルガルヴェ]]の王を名乗っていた。
フェルナンドの急死により、遺児でアルフォンソ10世の孫{{仮リンク|アルフォンソ・デ・ラ・セルダ|es|Alfonso de la Cerda|label=アルフォンソ}}、{{仮リンク|フェルナンド・デ・ラ・セルダ (1275-1322)|es|Fernando de la Cerda (1275-1322)|label=フェルナンド}}兄弟とサンチョが王位継承権を巡って国内は分裂する<ref name="horupu"/>。フランスを後ろ盾としてアルフォンソを擁立する勢力と<ref name="kobayashi"/>、サンチョを支持する勢力に分かれ、アルフォンソ10世も優柔不断な態度を取り状況は悪化した<ref>西川、P157 - P158。</ref>。[[1282年]]にサンチョはアルフォンソ10世の廃位と自らの即位を宣言した。サンチョは国内の貴族、都市、聖職者、[[騎士修道会]]とポルトガル、アラゴン両王国からの支持を受け、アルフォンソ10世はセビリアに追われた<ref name="kobayashi"/>。セビリアに逃れたアルフォンソ10世はサンチョを廃嫡し、マリーン朝に援軍を求めた。アルフォンソ10世とヤアクーブはコルドバでサンチョを包囲し、[[マドリード]]に攻撃をかけた<ref name="lom223"/>。

しかし、マリーン朝からの援軍も状況の打開には結びつかなかった<ref name="kobayashi"/>。アルフォンソ10世はもはやいくつかの都市にしか支持されず<ref name="lar"/>、1284年に62歳でセビリアで没した。死後、[[セビリア大聖堂]]に埋葬された。

== 政策 ==
[[Image:Libro de los Juegos, Alfonso X y su corte.jpg|thumb|200px|トレドの宮廷のアルフォンソ10世]]
アルフォンソ10世は国内の安定に向けて、アル=アンダルスへの再殖民、王国の法・政治制度の統合を重視した<ref name="seki163"/>。

アル=アンダルスの建築物は破壊されずに残され、イスラム統治時代の農場や村の境界線はカスティーリャの支配下でも存続した<ref name="lom211">ローマックス、P211。</ref>。カスティーリャはイスラム教徒が支配した痕跡を払拭するためにアル=アンダルスの地名をすべて改称したが、改称後の名前は定着せず、イスラム時代以前の地名が使われることが多かった<ref name="lom211"/>。

アルフォンソ10世の治下では王権強化のため、国王裁判所の権限強化、[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]の定期開催、貴族・廷臣の奢侈の取り締まり、宮廷儀礼の整備が実施された。王権強化策の根底には[[ローマ法|古代ローマ法]]の理念があり、アルフォンソ10世は王である自身を神と地上の臣民の仲介者と考えていた<ref name="seki163"/>。国王裁判所での使用を目的に作成された『七部法典(シエテ・パルティーダス)』は<ref name="seki168">関、P168。</ref>、地方ごとに異なる慣習を統一する役割を持っていた<ref name="lar"/><ref name="nishikawa156">西川、P156。</ref>。『七部法典』は他のイベリア諸国、さらには近代のスペインとその海外植民地の法律にも反映された<ref name="horupu"/><ref>芝、P128。</ref>。法令としての役割以外に、『七部法典』は歴史・社会・文学的価値も評価されている<ref name="satake25">佐竹、P25。</ref>。

同じローマ法に基づく法令であり、[[フエロ|都市法]]の上位に置かれる『フエロ・レアル』も編纂された<ref name="seki163"/>。しかし、こうした王権強化策に貴族と都市は反発した<ref name="kobayashi"/><ref name="seki164">関、P164。</ref>。

アルフォンソ10世は経済政策、貨幣制度の改革にも取り組んだが、成功とは言い難かった<ref name="lar"/>。税を引き上げたものの徴収は難航し、レコンキスタで獲得した戦利品から得られる利益も減少した<ref name="lar"/>。さらに悪貨の発行によって物価と賃金の高騰を招いた<ref name="seki164"/>。

アルフォンソ10世が志した王権の強化は、曾孫[[アルフォンソ11世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ11世]]の時代に実現する<ref>関、P165。</ref><ref>西川、P157。</ref>。『七部法典』が初めて公布されたのは、[[1348年]]になってからである<ref name="satake25"/>。

== 文化事業 ==
=== 言語 ===
[[Image:Alfonso LJ 97V.jpg|thumb|180px|『チェス、賽子、双六の書』の挿絵]]
アルフォンソ10世の宮廷では、著述活動とともに[[アラビア語]]文献の翻訳が推進された。[[1085年]]から続いていた[[トレド翻訳学派]](トレド翻訳学校)は国の後援を受け<ref>牛島、P7 - P8。</ref>、[[12世紀ルネサンス]]に大きな影響を与えた翻訳学派にはイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の学者の集団が属していた<ref name="horupu"/><ref>芝、P68。</ref>。学術書以外に、図説書『{{仮リンク|チェス、賽子、双六の書|en|Libro de los juegos}}』<ref>芝、P134。</ref>、説話集『ムハンマドの梯子の書』が翻訳された。幼少時に年代記を読んだと推定され、翻訳事業の推進者だったトレド大司教[[ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ]]の影響を受けたとされるアルフォンソ10世は翻訳事業には即位前から着手しており、1250年に『宝石の書(宝石名鑑)』、1251年に寓話『[[カリーラとディムナ]]』のアラビア語からカスティーリャ語への翻訳を後援している<ref>ラファエル・ラペサ『スペイン語の歴史』(山田善郎監修, 昭和堂, 2004年7月)、P243、芝、P121、P128 - P131。</ref>。ただし、『カリーラとディムナ』については、彼が翻訳を命じたかは定かではない<ref>佐竹、P27。</ref>。

アルフォンソ10世の即位より前のトレド翻訳学派はカスティーリャ語に翻訳した書籍をラテン語に重訳していたが、アルフォンソ10世の時代に重訳は行われなくなる<ref>寺崎、P77。</ref>。カスティーリャ語で記述された文献が参照された地域は、カスティーリャ内にとどまった<ref name="isjiten">林、P96。</ref>。アルフォンソ10世は13世紀当時のカスティーリャで支配的言語の地位にあった[[ラテン語]]からの脱却を目指し、歴史学、宗教、文学の分野でもラテン語に代えてカスティーリャ語の使用を推進した<ref>牛島、P10、P16。</ref><ref>芝、P139。</ref>。そして、カスティーリャ語は著述活動以外に、司法の場でも公用語として用いられるようになった<ref>牛島、P9 - P10。</ref><ref>オルティス、P101、芝、P139 - P140。</ref>。しかし、国外に発せられる公文書では、依然としてラテン語が使用されていた<ref name="terasaki76">寺崎、P76。</ref>。

アルフォンソ10世が後援したカスティーリャ語による著述活動においては、書き言葉として必要な語彙がラテン語・ギリシャ語からカスティーリャ語に輸入され、既存の単語から多くの派生語が生まれた<ref name="terasaki76"/>。新しい語彙の輸入に際して、編纂者には単語の出所の明示と定義付けが厳しく要求された<ref name="itoh59"/>。綴り字には一定の原則が設けられ、アルフォンソ10世の時代の文献に表れた綴り字の体系は「アルフォンソ正書体」と総称される<ref name="terasaki76"/>。アルフォンソ正書体は不完全なものだったが、基盤となる部分は後世に継承された<ref name="itoh59"/><ref>寺崎、P76 - P77。</ref>。

アルフォンソ10世が行ったカスティーリャ語の推進活動は政治・文化的な意図が含まれていた<ref name="terasaki76"/>。その活動は政治と文化の大衆化、支配者から民衆への意思伝達の改善による、国内の統一の強化を目的としていたと思われる<ref>牛島、P10。</ref>。アルフォンソ10世の時代にカスティーリャ語に文章語としての規則と文化的権威が付加され、イベリア半島の一方言だったカスティーリャ語の使用範囲は拡大した<ref>寺崎、P78。</ref>。

翻訳事業に影響を受けた人物にアルフォンソ10世の甥の[[フアン・マヌエル]]がいた。伯父の作品と蔵書を読んだ彼は著作に熱中、[[1330年]]に『国家論』を書いたほか、[[1335年]]に書いた『{{仮リンク|ルカノール伯爵|en|Tales of Count Lucanor}}』は『カリーラとディムナ』がカスティーリャにきっかけを与えたフィクション創作の嚆矢に位置づけられている<ref>芝、P131 - P132。</ref>。

=== 天文学 ===
[[Image:Tablas alfonsies.jpg|thumb|180px|アルフォンソ天文表]]
様々なアラビア語文献の中でもアルフォンソ10世が興味を持っていた[[天文学]]、[[占星術]]の書籍が多く訳された<ref name="isjiten"/>。

『天文学の書』では[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の天動説に基づく天体の動きが体系的に説明され、随所に道徳・宗教的な説話が挿入されている<ref name="satake26">佐竹、P26。</ref>。他に天体の動きと宝石の関連性について述べた『宝石の書』が訳された。

トレドでは[[アストロラーベ]]や時計などを用いて天体観測が行われ、その結果を元に[[アッ=ザルカーリー]]が作成した天文表を修正した<ref>関、P169、芝、P133 - P134。</ref>。天文表は彼の名前をとって[[アルフォンソ天文表]]と呼ばれるが、実際にアルフォンソ10世の元で作成されたかを疑う意見もある<ref name="jac"/><ref name="lar"/>。<!-- 1320年ごろにパリの天文学者が作成した天文表は、アルフォンソの側近の事績にちなんでアルフォンソ表と命名(ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』、95頁) -->

=== 歴史、文芸 ===
[[Image:Estoria de españa.jpg|thumb|200px|『スペイン史』の写本]]
アルフォンソ10世在位中のカスティーリャ王国ではイベリア史と世界史の編纂事業が行われ、『スペイン史』([[:es:Estoria de España|''Estoria de España'']])と『世界史』([[:es:Grande e general estoria|''General Estoria'']])、の2冊の[[年代記]]が完成した。史書の編纂に際してはアルフォンソ10世自らが編者を選定し、校閲にあたった<ref name="satake25"/>。

『スペイン史』の編纂にあたっては国王年代記、古典史料以外にイスラムの史料、叙情詩も用いられた<ref name="lom810">ローマックス、P8 - P10。</ref>。叙情詩は散文化された状態で『スペイン史』に収録されており、その中には元の詩が散逸したものも含まれている<ref>ホセ・ガルシア・ロペス『スペイン文学史』(東谷穎人、有本紀明共訳, 白水社, 1976年)、P27。</ref>。いずれの年代記の記述も史実と虚構が混在しているが、こうした傾向には中世ヨーロッパ人の歴史観が現れているとも見なせる<ref name="horupu"/>。『スペイン史』では1252年までのイベリア史が扱われているが後の時代に何度も増補・改訂され、アラゴンやポルトガルでも参照された<ref name="lom810"/>。[[1906年]]、メネンデス・ピダルは『スペイン史』を『第一総合年代記』と題して出版した。

当初『世界史』は[[創世記|天地創造]]からアルフォンソ10世の治世までを記述することが予定されていたが、天地創造から[[聖母マリア]]の家譜を記述するところで終わっている<ref name="satake26"/>。『世界史』には[[ギリシャ神話]]の英雄が多く登場する点が特徴として挙げられる。

アルフォンソ10世は詩作を好んだほか、作曲も手がけている。1257年から1279年にかけての時期に<ref name="horupu"/>詩人、楽士、[[ムーア人]]の踊り手の協力を受けて400超の[[カンティガ|カンティーガ]](叙情的な歌謡)から構成される『[[聖母マリアのカンティガ集|聖母マリアのカンティーガ集]](Cantigas de Santa María、「聖母マリア頌歌集」、「カンティーガス・デ・サンタ・マリーア」とも)』を完成させた<ref name="nishikawa156"></ref><ref name="la-mus">ホイットフィールド、P43。</ref><ref name="hamada">浜田滋郎「音楽」『スペイン』収録(増田義郎監修, 読んで旅する世界の歴史と文化, 新潮社, 1992年2月)、P225。</ref>。『聖母マリアのカンティーガ集』は[[ガリシア語]]で書かれており、[[西ゴート王国]]時代の典礼歌と民衆の歌謡曲、東方起源の賛歌、中世の舞踊の影響を受け、[[トルバドゥール]]と[[トルヴェール]]の技法を取り入れている<ref name="la-mus"/><ref>芝、P135 - P136。</ref>。『聖母マリアのカンティーガ集』の挿絵にはアルフォンソ10世とともに当時使用されていた楽器や衣服が描かれており、貴重な史料となっている<ref name="hamada"/>。また、挿絵にはキリスト教徒とイスラム教徒(ムーア人)の奏者が描かれており、アルフォンソ10世のカンティーガの多文化性を確認できる<ref name="hamada"/>。

[[1943年]]には{{仮リンク|イヒニオ・アングレス|es|Higinio Anglés}}によって、アルフォンソ10世のカンティーガが復刻された<ref name="la-mus"/>。

=== 学校との関わり ===
[[1254年]]に[[サラマンカ大学]]に特権を付与し、大学には食住の付与と一定の自治権が認められた<ref>関、P170。</ref>。また、アルフォンソ10世はセビリアに学者、詩人を集め、[[セビリア大学]]の母体となる学校を創設した。13世紀後半のセビリアは首都トレドと並ぶ学術研究の拠点となった<ref name="seki168"/>。このうちサラマンカ大学では、[[ポリフォニー]]の教育が実施されていた<ref name="la-mus"/>。

ムルシアにもキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存する学校が開設されたが、イスラム教徒の学生がカスティーリャから追放されると、教師を務めていたアブー=バクルはナスル朝に亡命した<ref>オルティス、P80。</ref>。

== 家族 ==
1249年1月29日に[[ビオランテ・デ・アラゴン|ビオランテ(ヨランダ)・デ・アラゴン]](アラゴン王[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]と王妃[[ビオランテ・デ・ウングリア]]の娘)と結婚した{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=268}}。夭逝した1人を除いて10人の子供をもうけている。
# {{仮リンク|ベレンゲーラ・デ・カスティーリャ (1253-1300)|en|Berengaria of Castile, Lady of Guadalajara|label=ベレンゲーラ}}(1253年10月10日と11月25日の間 - 1284年1月10日以降{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=269}}) - [[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の息子で後継者だった{{仮リンク|ルイ・ド・フランス (1244-1260)|en|Louis of France (1244–1260)|label=ルイ}}([[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]の兄)と婚約したが、[[1260年]]にルイが夭逝したため[[サンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院|ラス・ウエルガス修道院]]に入った。
# {{仮リンク|ベアトリス・デ・カスティーリャ (モンフェラート侯爵夫人)|en|Beatrice of Castile, Marchioness of Montferrat|label=ベアトリス}}(1254年11月5日と12月6日の間 - 1280年以降) - 1271年8月、ムルシアで[[モンフェッラート侯国|モンフェラート]]侯[[グリエルモ7世 (モンフェラート侯)|グリエルモ7世]]と結婚、子供あり{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=269}}。
# [[フェルナンド・デ・ラ・セルダ|フェルナンド]](1255年10月23日 - 1275年7月25日) - 1269年11月30日、フランス王ルイ9世の娘ブランシュと結婚、2男をもうけた{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=269}}。王太子であったが父より先に死去し{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=269}}、遺児たちを退けて弟サンチョが父から王位を奪った。
# {{仮リンク|レオノール・デ・カスティーリャ (1256-1275)|es|Leonor de Castilla (1256-1275)|label=レオノール}}(1256年8月と1257年8月の間 - 1275年9月) - 生涯未婚{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=271}}
# [[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ]](1258年 - 1295年) - カスティーリャ王サンチョ4世{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=271}}。勇敢王(エル・ブラーボ:el Bravo)と呼ばれる。
# {{仮リンク|コンスタンサ・デ・カスティーリャ (1259-1280)|es|Constanza de Castilla (1259-1280)|label=コンスタンサ}}(1259年2月と10月の間 - 1280年7月23日) - ラス・ウエルガス修道院の修道女{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=271}}
# {{仮リンク|ペドロ・デ・カスティーリャ (1260-1283)|en|Peter of Castile, Lord of Ledesma|label=ペドロ}}(1260年5月15日と7月27日の間 - 1283年10月20日) - 1281年2月17日にマルガリータ・デ・ナルボーナと結婚、子供あり{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=272}}
# {{仮リンク|フアン・デ・カスティーリャ・エル・デ・タリファ|en|John of Castile, Lord of Valencia de Campos|label=フアン}}(1262年3月22日と4月20日の間 - 1319年6月25日) - バレンシア・デ・カンポスの領主。1281年2月17日にマルゲリータ・デ・モンフェラートと結婚{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=273}}。1287年5月11日までに[[ビスカヤ]]の女領主(ディエゴ・ロペス・デ・アロの死後)マリア・ディアス・デ・アロと再婚し、フアン・エル・トゥエルト(隻眼のフアン)をもうける{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=273}}。
# イサベル(1263年/1264年生) - 夭逝{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=274}}。
# {{仮リンク|ビオランテ・デ・カスティーリャ|en|Violant of Castile|label=ビオランテ}}(1265年? - 1287年3月12日と1308年1月30日の間) - 1282年7月、ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロと結婚、子供あり{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=274}}。
# {{仮リンク|ハイメ・デ・カスティーリャ (1266-1284)|en|James of Castile, Lord of Cameros|label=ハイメ}}(1266年 - 1284年8月9日) - 生涯未婚{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=274}}。

アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。
*{{仮リンク|アルフォンソ・フェルナンデス・エル・ニーニョ|en|Alfonso Fernández el Niño|label=アルフォンソ・フェルナンデス}}(1240年ごろ – 1281年) - 1269年までに{{仮リンク|ブランカ・アルフォンソ・デ・モリナ|es|Blanca Alfonso de Molina}}と結婚、子供あり{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=275}}。
*[[ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・グスマン|ベアトリス]](1244年12月31日以前 – 1303年10月27日) - 1253年にポルトガル王[[アフォンソ3世 (ポルトガル王)|アフォンソ3世]]に嫁ぎ{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=275}}、[[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]の母になった。
*ウラカ(1284年以降没) - 生涯未婚{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=276}}。
*マルティン(1284年以降没) - 聖職者{{Sfn|Salazar y Acha|2021|p=276}}。

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* [[伊藤太吾]]ほか『スペインの言語』([[同朋舎出版]], 1996年9月)
* [[牛島信明]]『スペイン古典文学史』([[名古屋大学出版会]], 1997年1月)
* [[小林一宏]]「アルフォンソ10世」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録([[平凡社]], 2001年10月)
* [[菊池良生]]『神聖ローマ帝国』([[講談社現代新書]], [[講談社]], 2003年7月)
* [[佐竹謙一]]『概説スペイン文学史』([[研究社]], 2009年7月)
* [[関哲行]]「カスティーリャ王国」『スペイン史 1』収録(世界歴史大系, [[山川出版社]], 2008年7月)
* [[寺崎英樹]]『スペイン語史』([[大学書林]], 2011年5月)
* [[林邦夫]]「アルフォンソ10世」『新イスラム事典』収録([[平凡社]], 2002年3月)
* トマス・F・グリック「アルフォンソ10世」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録([[桑原武夫]]編, [[ほるぷ出版]], 1980年12月)
* D.W.ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』(林邦夫訳, [[刀水書房]], 1996年4月)
* アントニオ・ドミンゲス・オルティス『スペイン三千年の歴史』([[立石博高]]訳, [[昭和堂]], 2006年3月)
* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』([[原書房]], 2004年6月)
* シャルル・ホイットフィールド「アルフォンソ10世」『ラルース世界音楽人名事典』収録([[遠山一行]]、[[海老沢敏]]編, [[福武書店]], 1989年11月)
* [[芝修身]]『古都トレド <small>異教徒・異民族共存の街</small>』昭和堂、2016年。
* [[西川和子]]『スペイン レコンキスタ時代の王たち <small>中世800年の国盗り物語</small>』[[彩流社]]、2016年。
*{{Cite book2|language=es|last=Salazar y Acha|first=Jaime de|author-link=ハイメ・デ・サラサール・イ・アチャ|editor=Real Academia de la Historia y Agencia Estatal Boletín Oficial del Estado|title=Las dinastías reales de España en la Edad Media|date=December 2021|edition=1st|location=Madrid|publisher=Imprenta Nacional de la Agencia Estatal Boletín Oficial del Estado|url=https://www.boe.es/biblioteca_juridica/abrir_pdf.php?id=PUB-DH-2021-233|isbn=978-84-340-2781-7}}

== 関連図書 ==
*{{Cite book2|language=en|last=O'Callaghan|first=Joseph F.|title=The Learned King: The Reign of Alfonso X of Castile|publisher=University of Pennsylvania Press|date=1993|isbn=978-1-5128-0545-1}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
*[[対立王]]
*[[アルフォンシーナ (小惑星)]]
*[[シウダー・レアル]]
*[[ブラバント公国]]
*[[ブラバント公国]]
*[[セゴビア]]
*[[スペイン文学]]


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アルフォンソ10世
Alfonso X el Sabio
カスティーリャ国王
ローマ王
在位 1252年 - 1284年
別号 ガリシア国王

出生 1221年11月23日
カスティーリャ王国トレド
死去 (1284-04-04) 1284年4月4日(62歳没)
カスティーリャ王国セビリア
埋葬 カスティーリャ王国セビリア大聖堂
配偶者 ビオランテ・デ・アラゴン
子女 後述
家名 ボルゴーニャ家
王朝 ボルゴーニャ朝
父親 フェルナンド3世
母親 ベアトリス・デ・スアビア
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アルフォンソ10世スペイン語: Alfonso X, 1221年11月23日 - 1284年4月4日)は、カスティーリャ王国国王(在位:1252年 - 1284年)。一時、対立ローマ王(ドイツ王、在位:1257年 - 1275年)でもあった。

フェルナンド3世と最初の王妃ベアトリス・デ・スアビア(ローマ王フィリップの娘)の長男である。母のベアトリスは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の従姉妹であり、ボヘミア王オタカル2世は母方の従兄にあたる。

学芸の振興に努めたため「賢王」「賢者」「学者」を意味するel Sabioの別名で知られている[1][2][3]。アルフォンソ10世自身は権力の基盤は英知にあると考えており[4]キリスト教イスラム教ユダヤ教を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ[5]。また、現在のスペイン語の母語となったカスティーリャ語の確立者の一人とみなされており[6]、「カスティーリャ語散文の創始者」と呼ばれている[7]。彼の治世にカスティーリャの文化・宗教双方の中心地はコルドバから首都のトレドに移り、アラビア文化を学ぼうとするヨーロッパ各地の研究者がトレドに集まった[8]

学術面の功績とは逆に、政治の実績には否定的な評価が下されることが多い[1][2][9][6][10]

生涯

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即位前

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1221年11月23日にフェルナンド3世とベアトリスの長子として、トレドで誕生する[9]。幼少期の事績については不明な点が多い[11]

幼時から統治と軍事についての教育を受け、1236年から父が進めるレコンキスタの一環としてコルドバ地方のイスラム教徒(ムスリム)の居住地を征服した[12]1243年サンティアゴ騎士団とともにムルシアのイスラムの領主アブー・バクルを降伏させ、ムルシア地方を支配下に置いた[13]。この時、バレンシアから南下したアラゴンハイメ1世ハティバで接触、両軍に不穏な気配が生じたが、アルミスラ条約英語版を結び両国の獲得領土とその境界線を取り決めたことで紛争は避けられた[14]

1248年に父が敷いていたセビリア包囲に参加し[15]、翌1249年にハイメ1世の娘ビオランテと結婚した。

レコンキスタでの活動

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1252年にカスティーリャ王位を継ぎ、カスティーリャ、レオンを相続する。 イベリア半島南部のアルガルヴェ地方の国境部の領有を巡ってポルトガル王国と争い、庶子ベアトリスポルトガル王アフォンソ3世に嫁がせ和解した。1254年にはガスコーニュに軍を進め、ガスコーニュ攻撃の直後にナバラテオバルド1世亡き後の王位の継承権を主張したため舅ハイメ1世と対立するが、1256年のソリア条約で和解した[9][16]1260年モロッコサレマリーン朝に対する反乱が起きると、アルフォンソ10世は艦隊を派遣して反乱を助けた。カスティーリャ軍はサレを略奪するが、ムワッヒド朝の残党の包囲を受けて退却し、モロッコにアフリカ進出の拠点を築くことはできなかった[17]

1262年にアルフォンソ10世はイスラム教の従属王国(タイファ)が所有していたカディスニエブラスペイン語版の直接支配を狙い、カスティーリャ軍が占領したため、グラナダナスル朝との関係が悪化する[18][17]。ナスル朝はアル=アンダルスムデハル(キリスト教国在住のムスリム)の反乱を扇動し、ヘレスアルコス、ムルシアなどで蜂起が発生した。アルフォンソ10世はカラトラバ騎士団の支援を受け反乱都市を奪還、マラガの有力貴族アシキールーラ家の反乱を支援してナスル朝に対抗し、ナスル朝はアシキールーラ家の反乱鎮圧に専念するため、両者は1266年に和約を締結した。この後、アルフォンソ10世はハイメ1世と騎士団、ナスル朝などの支援でムルシアも取り戻し、ムスリム住民を追放してキリスト教徒を入植させ支配を強化した(ムルシア征服英語版[18][19]

神聖ローマ皇帝位の請求

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1250年代初頭からの神聖ローマ帝国大空位時代には、母のベアトリスの出自を根拠に神聖ローマ皇帝位を請求し、アル=アンダルスへの進出を図るピサギベリンからの支持を受けた[20]。1257年にアルフォンソ10世は同じく神聖ローマ皇帝候補に挙げられていたコーンウォール伯リチャードとともにローマ王(ドイツ王)に選出された[2]。だがハイメ1世は反対し[21]ローマ教皇破門を示して即位に反対した。1272年にリチャードが没すると教皇グレゴリウス10世は神聖ローマ帝国諸侯からのローマ王選出を要請し、1273年ハプスブルク家ルドルフ1世がローマ王に選出された[22]

アルフォンソ10世の試みは失敗に終わり、工作に注ぎ込まれた多額の資金と労力は王国に損失をもたらした[6][23]

国内の反乱

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セビリア大聖堂に安置されたアルフォンソ10世の棺

アルフォンソ10世は帝位を獲得する運動に際して国を空けることが多く、王の留守は反乱の温床となった[9]。貴族の一部はアルフォンソ10世の弟フェリペを擁して反乱を起こした。

1275年にアルフォンソ10世が教皇庁に赴いた隙をついて、マリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブがイベリア半島に上陸した[24]。1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍はエシハでカスティーリャ軍を破り、アルフォンソ10世の義弟であるトレド大司教サンチョが戦死する。反乱の鎮圧に奔走した長男のフェルナンド王太子はアンダルシアへ向かう途中のシウダー・レアルで病死、翌1276年にヤアクーブが退却するまでの間、フェルナンドの弟で次男のサンチョ王子(後のサンチョ4世)が代わりにセビリアへ到着、イスラム教徒への抗戦を指導した[24][25]

フェルナンドの急死により、遺児でアルフォンソ10世の孫アルフォンソスペイン語版フェルナンドスペイン語版兄弟とサンチョが王位継承権を巡って国内は分裂する[9]。フランスを後ろ盾としてアルフォンソを擁立する勢力と[1]、サンチョを支持する勢力に分かれ、アルフォンソ10世も優柔不断な態度を取り状況は悪化した[26]1282年にサンチョはアルフォンソ10世の廃位と自らの即位を宣言した。サンチョは国内の貴族、都市、聖職者、騎士修道会とポルトガル、アラゴン両王国からの支持を受け、アルフォンソ10世はセビリアに追われた[1]。セビリアに逃れたアルフォンソ10世はサンチョを廃嫡し、マリーン朝に援軍を求めた。アルフォンソ10世とヤアクーブはコルドバでサンチョを包囲し、マドリードに攻撃をかけた[24]

しかし、マリーン朝からの援軍も状況の打開には結びつかなかった[1]。アルフォンソ10世はもはやいくつかの都市にしか支持されず[6]、1284年に62歳でセビリアで没した。死後、セビリア大聖堂に埋葬された。

政策

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トレドの宮廷のアルフォンソ10世

アルフォンソ10世は国内の安定に向けて、アル=アンダルスへの再殖民、王国の法・政治制度の統合を重視した[20]

アル=アンダルスの建築物は破壊されずに残され、イスラム統治時代の農場や村の境界線はカスティーリャの支配下でも存続した[27]。カスティーリャはイスラム教徒が支配した痕跡を払拭するためにアル=アンダルスの地名をすべて改称したが、改称後の名前は定着せず、イスラム時代以前の地名が使われることが多かった[27]

アルフォンソ10世の治下では王権強化のため、国王裁判所の権限強化、コルテスの定期開催、貴族・廷臣の奢侈の取り締まり、宮廷儀礼の整備が実施された。王権強化策の根底には古代ローマ法の理念があり、アルフォンソ10世は王である自身を神と地上の臣民の仲介者と考えていた[20]。国王裁判所での使用を目的に作成された『七部法典(シエテ・パルティーダス)』は[28]、地方ごとに異なる慣習を統一する役割を持っていた[6][29]。『七部法典』は他のイベリア諸国、さらには近代のスペインとその海外植民地の法律にも反映された[9][30]。法令としての役割以外に、『七部法典』は歴史・社会・文学的価値も評価されている[31]

同じローマ法に基づく法令であり、都市法の上位に置かれる『フエロ・レアル』も編纂された[20]。しかし、こうした王権強化策に貴族と都市は反発した[1][32]

アルフォンソ10世は経済政策、貨幣制度の改革にも取り組んだが、成功とは言い難かった[6]。税を引き上げたものの徴収は難航し、レコンキスタで獲得した戦利品から得られる利益も減少した[6]。さらに悪貨の発行によって物価と賃金の高騰を招いた[32]

アルフォンソ10世が志した王権の強化は、曾孫アルフォンソ11世の時代に実現する[33][34]。『七部法典』が初めて公布されたのは、1348年になってからである[31]

文化事業

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言語

[編集]
『チェス、賽子、双六の書』の挿絵

アルフォンソ10世の宮廷では、著述活動とともにアラビア語文献の翻訳が推進された。1085年から続いていたトレド翻訳学派(トレド翻訳学校)は国の後援を受け[35]12世紀ルネサンスに大きな影響を与えた翻訳学派にはイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の学者の集団が属していた[9][36]。学術書以外に、図説書『チェス、賽子、双六の書英語版[37]、説話集『ムハンマドの梯子の書』が翻訳された。幼少時に年代記を読んだと推定され、翻訳事業の推進者だったトレド大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダの影響を受けたとされるアルフォンソ10世は翻訳事業には即位前から着手しており、1250年に『宝石の書(宝石名鑑)』、1251年に寓話『カリーラとディムナ』のアラビア語からカスティーリャ語への翻訳を後援している[38]。ただし、『カリーラとディムナ』については、彼が翻訳を命じたかは定かではない[39]

アルフォンソ10世の即位より前のトレド翻訳学派はカスティーリャ語に翻訳した書籍をラテン語に重訳していたが、アルフォンソ10世の時代に重訳は行われなくなる[40]。カスティーリャ語で記述された文献が参照された地域は、カスティーリャ内にとどまった[41]。アルフォンソ10世は13世紀当時のカスティーリャで支配的言語の地位にあったラテン語からの脱却を目指し、歴史学、宗教、文学の分野でもラテン語に代えてカスティーリャ語の使用を推進した[42][43]。そして、カスティーリャ語は著述活動以外に、司法の場でも公用語として用いられるようになった[44][45]。しかし、国外に発せられる公文書では、依然としてラテン語が使用されていた[46]

アルフォンソ10世が後援したカスティーリャ語による著述活動においては、書き言葉として必要な語彙がラテン語・ギリシャ語からカスティーリャ語に輸入され、既存の単語から多くの派生語が生まれた[46]。新しい語彙の輸入に際して、編纂者には単語の出所の明示と定義付けが厳しく要求された[7]。綴り字には一定の原則が設けられ、アルフォンソ10世の時代の文献に表れた綴り字の体系は「アルフォンソ正書体」と総称される[46]。アルフォンソ正書体は不完全なものだったが、基盤となる部分は後世に継承された[7][47]

アルフォンソ10世が行ったカスティーリャ語の推進活動は政治・文化的な意図が含まれていた[46]。その活動は政治と文化の大衆化、支配者から民衆への意思伝達の改善による、国内の統一の強化を目的としていたと思われる[48]。アルフォンソ10世の時代にカスティーリャ語に文章語としての規則と文化的権威が付加され、イベリア半島の一方言だったカスティーリャ語の使用範囲は拡大した[49]

翻訳事業に影響を受けた人物にアルフォンソ10世の甥のフアン・マヌエルがいた。伯父の作品と蔵書を読んだ彼は著作に熱中、1330年に『国家論』を書いたほか、1335年に書いた『ルカノール伯爵英語版』は『カリーラとディムナ』がカスティーリャにきっかけを与えたフィクション創作の嚆矢に位置づけられている[50]

天文学

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アルフォンソ天文表

様々なアラビア語文献の中でもアルフォンソ10世が興味を持っていた天文学占星術の書籍が多く訳された[41]

『天文学の書』ではプトレマイオスの天動説に基づく天体の動きが体系的に説明され、随所に道徳・宗教的な説話が挿入されている[51]。他に天体の動きと宝石の関連性について述べた『宝石の書』が訳された。

トレドではアストロラーベや時計などを用いて天体観測が行われ、その結果を元にアッ=ザルカーリーが作成した天文表を修正した[52]。天文表は彼の名前をとってアルフォンソ天文表と呼ばれるが、実際にアルフォンソ10世の元で作成されたかを疑う意見もある[4][6]

歴史、文芸

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『スペイン史』の写本

アルフォンソ10世在位中のカスティーリャ王国ではイベリア史と世界史の編纂事業が行われ、『スペイン史』(Estoria de España)と『世界史』(General Estoria)、の2冊の年代記が完成した。史書の編纂に際してはアルフォンソ10世自らが編者を選定し、校閲にあたった[31]

『スペイン史』の編纂にあたっては国王年代記、古典史料以外にイスラムの史料、叙情詩も用いられた[53]。叙情詩は散文化された状態で『スペイン史』に収録されており、その中には元の詩が散逸したものも含まれている[54]。いずれの年代記の記述も史実と虚構が混在しているが、こうした傾向には中世ヨーロッパ人の歴史観が現れているとも見なせる[9]。『スペイン史』では1252年までのイベリア史が扱われているが後の時代に何度も増補・改訂され、アラゴンやポルトガルでも参照された[53]1906年、メネンデス・ピダルは『スペイン史』を『第一総合年代記』と題して出版した。

当初『世界史』は天地創造からアルフォンソ10世の治世までを記述することが予定されていたが、天地創造から聖母マリアの家譜を記述するところで終わっている[51]。『世界史』にはギリシャ神話の英雄が多く登場する点が特徴として挙げられる。

アルフォンソ10世は詩作を好んだほか、作曲も手がけている。1257年から1279年にかけての時期に[9]詩人、楽士、ムーア人の踊り手の協力を受けて400超のカンティーガ(叙情的な歌謡)から構成される『聖母マリアのカンティーガ集(Cantigas de Santa María、「聖母マリア頌歌集」、「カンティーガス・デ・サンタ・マリーア」とも)』を完成させた[29][55][56]。『聖母マリアのカンティーガ集』はガリシア語で書かれており、西ゴート王国時代の典礼歌と民衆の歌謡曲、東方起源の賛歌、中世の舞踊の影響を受け、トルバドゥールトルヴェールの技法を取り入れている[55][57]。『聖母マリアのカンティーガ集』の挿絵にはアルフォンソ10世とともに当時使用されていた楽器や衣服が描かれており、貴重な史料となっている[56]。また、挿絵にはキリスト教徒とイスラム教徒(ムーア人)の奏者が描かれており、アルフォンソ10世のカンティーガの多文化性を確認できる[56]

1943年にはイヒニオ・アングレススペイン語版によって、アルフォンソ10世のカンティーガが復刻された[55]

学校との関わり

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1254年サラマンカ大学に特権を付与し、大学には食住の付与と一定の自治権が認められた[58]。また、アルフォンソ10世はセビリアに学者、詩人を集め、セビリア大学の母体となる学校を創設した。13世紀後半のセビリアは首都トレドと並ぶ学術研究の拠点となった[28]。このうちサラマンカ大学では、ポリフォニーの教育が実施されていた[55]

ムルシアにもキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存する学校が開設されたが、イスラム教徒の学生がカスティーリャから追放されると、教師を務めていたアブー=バクルはナスル朝に亡命した[59]

家族

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1249年1月29日にビオランテ(ヨランダ)・デ・アラゴン(アラゴン王ハイメ1世と王妃ビオランテ・デ・ウングリアの娘)と結婚した[60]。夭逝した1人を除いて10人の子供をもうけている。

  1. ベレンゲーラ英語版(1253年10月10日と11月25日の間 - 1284年1月10日以降[61]) - フランスルイ9世の息子で後継者だったルイ英語版フィリップ3世の兄)と婚約したが、1260年にルイが夭逝したためラス・ウエルガス修道院に入った。
  2. ベアトリス英語版(1254年11月5日と12月6日の間 - 1280年以降) - 1271年8月、ムルシアでモンフェラートグリエルモ7世と結婚、子供あり[61]
  3. フェルナンド(1255年10月23日 - 1275年7月25日) - 1269年11月30日、フランス王ルイ9世の娘ブランシュと結婚、2男をもうけた[61]。王太子であったが父より先に死去し[61]、遺児たちを退けて弟サンチョが父から王位を奪った。
  4. レオノールスペイン語版(1256年8月と1257年8月の間 - 1275年9月) - 生涯未婚[62]
  5. サンチョ(1258年 - 1295年) - カスティーリャ王サンチョ4世[62]。勇敢王(エル・ブラーボ:el Bravo)と呼ばれる。
  6. コンスタンサスペイン語版(1259年2月と10月の間 - 1280年7月23日) - ラス・ウエルガス修道院の修道女[62]
  7. ペドロ英語版(1260年5月15日と7月27日の間 - 1283年10月20日) - 1281年2月17日にマルガリータ・デ・ナルボーナと結婚、子供あり[63]
  8. フアン英語版(1262年3月22日と4月20日の間 - 1319年6月25日) - バレンシア・デ・カンポスの領主。1281年2月17日にマルゲリータ・デ・モンフェラートと結婚[64]。1287年5月11日までにビスカヤの女領主(ディエゴ・ロペス・デ・アロの死後)マリア・ディアス・デ・アロと再婚し、フアン・エル・トゥエルト(隻眼のフアン)をもうける[64]
  9. イサベル(1263年/1264年生) - 夭逝[65]
  10. ビオランテ英語版(1265年? - 1287年3月12日と1308年1月30日の間) - 1282年7月、ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロと結婚、子供あり[65]
  11. ハイメ英語版(1266年 - 1284年8月9日) - 生涯未婚[65]

アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 小林、P20 - P21。
  2. ^ a b c 菊池、P129 - P130。
  3. ^ 川成洋『スペイン文化読本』丸善出版、2016年、84頁。ISBN 978-4-621-08995-8 
  4. ^ a b ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(吉村作治監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2006年12月)、P95。
  5. ^ 牛島、P7、西川、P153。
  6. ^ a b c d e f g h トレモリエール、P362 - P364。
  7. ^ a b c 伊藤ほか、P59。
  8. ^ 牛島、P8。
  9. ^ a b c d e f g h i グリック、P258 - P259。
  10. ^ 芝、P140 - P141。
  11. ^ 佐竹、P24。
  12. ^ ローマックス、P200 - P201。
  13. ^ ローマックス、P203。
  14. ^ ローマックス、P203 - P204。
  15. ^ ローマックス、P208。
  16. ^ 西川、P153 - P154。
  17. ^ a b ローマックス、P218。
  18. ^ a b 佐藤健太郎「イスラーム期のスペイン」『スペイン史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2008年7月)、P120 - P121。
  19. ^ ローマックス、P218 - P219。
  20. ^ a b c d 関、P163。
  21. ^ 関、P163 - P164。
  22. ^ 菊池、P134、P138。
  23. ^ 西川、P154 - P155。
  24. ^ a b c ローマックス、P223。
  25. ^ 西川、P155。
  26. ^ 西川、P157 - P158。
  27. ^ a b ローマックス、P211。
  28. ^ a b 関、P168。
  29. ^ a b 西川、P156。
  30. ^ 芝、P128。
  31. ^ a b c 佐竹、P25。
  32. ^ a b 関、P164。
  33. ^ 関、P165。
  34. ^ 西川、P157。
  35. ^ 牛島、P7 - P8。
  36. ^ 芝、P68。
  37. ^ 芝、P134。
  38. ^ ラファエル・ラペサ『スペイン語の歴史』(山田善郎監修, 昭和堂, 2004年7月)、P243、芝、P121、P128 - P131。
  39. ^ 佐竹、P27。
  40. ^ 寺崎、P77。
  41. ^ a b 林、P96。
  42. ^ 牛島、P10、P16。
  43. ^ 芝、P139。
  44. ^ 牛島、P9 - P10。
  45. ^ オルティス、P101、芝、P139 - P140。
  46. ^ a b c d 寺崎、P76。
  47. ^ 寺崎、P76 - P77。
  48. ^ 牛島、P10。
  49. ^ 寺崎、P78。
  50. ^ 芝、P131 - P132。
  51. ^ a b 佐竹、P26。
  52. ^ 関、P169、芝、P133 - P134。
  53. ^ a b ローマックス、P8 - P10。
  54. ^ ホセ・ガルシア・ロペス『スペイン文学史』(東谷穎人、有本紀明共訳, 白水社, 1976年)、P27。
  55. ^ a b c d ホイットフィールド、P43。
  56. ^ a b c 浜田滋郎「音楽」『スペイン』収録(増田義郎監修, 読んで旅する世界の歴史と文化, 新潮社, 1992年2月)、P225。
  57. ^ 芝、P135 - P136。
  58. ^ 関、P170。
  59. ^ オルティス、P80。
  60. ^ Salazar y Acha 2021, p. 268.
  61. ^ a b c d Salazar y Acha 2021, p. 269.
  62. ^ a b c Salazar y Acha 2021, p. 271.
  63. ^ Salazar y Acha 2021, p. 272.
  64. ^ a b Salazar y Acha 2021, p. 273.
  65. ^ a b c Salazar y Acha 2021, p. 274.
  66. ^ a b Salazar y Acha 2021, p. 275.
  67. ^ a b Salazar y Acha 2021, p. 276.

参考文献

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関連図書

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  • O'Callaghan, Joseph F. (1993). The Learned King: The Reign of Alfonso X of Castile (英語). University of Pennsylvania Press. ISBN 978-1-5128-0545-1

関連項目

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爵位・家督
先代
ヴィルヘルム
ローマ王
1257年 - 1275年
大空位時代
次代
ルドルフ1世