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ベレンゲラ (カスティーリャ女王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベレンゲラ
Berenguela
カスティーリャ女王
在位 1217年6月6日 - 8月31日

レオン王妃
在位 1197年 - 1204年

出生 1180年
カスティーリャ王国ブルゴス
死去 1246年11月8日
カスティーリャ王国ブルゴスサンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院
埋葬 カスティーリャ王国ブルゴスサンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院
配偶者 レオンアルフォンソ9世
子女 一覧参照
家名 ボルゴーニャ家
王朝 ボルゴーニャ朝
父親 カスティーリャアルフォンソ8世
母親 エレノア・オブ・イングランド
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ベレンゲラの像(マドリードのレティーロ公園)

ベレンゲラBerenguela, 1180年 - 1246年11月8日)は、カスティーリャ王国女王(在位:1217年)。レオンアルフォンソ9世妃でもあった。カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド3世の母。ベレンガリア(Berengaria)とも呼ばれる。

アルフォンソ8世と王妃レオノールイングランドヘンリー2世アリエノール・ダキテーヌの娘)の長女。妹にポルトガルアフォンソ2世ウラカフランスルイ8世ブランカアラゴンハイメ1世レオノール、弟にカスティーリャ王エンリケ1世がいる。

生涯

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1180年に誕生した直後から王位継承者に定められた。これは1158年にカスティーリャ王サンチョ3世とレオン王フェルナンド2世兄弟が結んだサアグン条約英語版で、両国の王家がどちらか絶えた場合、もう一方が両国を相続することを決めたため、アルフォンソ8世は早急に後継者を定める必要があったからだった。婚約者も1187年頃に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の息子コンラートと決められた中で、ベレンゲラは王位継承者として母から妹たちと共に育てられ、音楽や読み書き、宗教を教わった[1][2]

1188年にカスティーリャで婚約式が開かれたが、1189年に弟フェルナンドが生まれたため王位継承権はフェルナンドへ移り、母方の祖母アリエノール・ダキテーヌの介入で婚約も破棄された。婚約式には従叔父に当たるレオン王アルフォンソ9世も出席、父への臣従を誓ったが、1195年アラルコスの戦い英語版で父がムワッヒド朝アミールヤアクーブ・マンスールに大敗すると手の平を返してカスティーリャへ侵攻した[3]

こうした状況を改善するため、レオンとカスティーリャの和睦を図る母の提案で1197年にアルフォンソ9世と結婚した。アルフォンソ9世は前年の1196年ローマ教皇ケレスティヌス3世の干渉でポルトガルサンシュ1世の娘テレサと離婚していたが、彼との間に息子フェルナンド(後のフェルナンド3世)をもうけるなど、夫婦仲は円満であった。だが、1204年に代替わりした教皇インノケンティウス3世の干渉を受けて離婚を余儀なくされ、フェルナンドを残してカスティーリャに戻り父を補佐した。離婚でフェルナンドのレオン王位継承権も否定されたが、1206年に父とアルフォンソ9世が結んだカブレロス条約スペイン語版でフェルナンドの王位継承権が確認され、インノケンティウス3世からも条約を認められたことでアルフォンソ9世と前妻テレサの子供達より立場が有利になった(テレサの子供達は王位継承権を認められなかった)[1][4]

カスティーリャ宮廷ではフランスへ嫁いだブランカを除いた弟妹たちと暮らしていたが、1211年に弟フェルナンドが亡くなると遺骸を運ぶ列を先導した。翌1212年、父がカスティーリャやキリスト教国連合軍を率いてムワッヒド朝とナバス・デ・トロサの戦いで対決、勝利した父から報告を受け取ると、フランスにいるブランカに書き送った[5]

1214年、父と母が相次いで没したためベレンゲラの末弟エンリケ1世が即位するが、まだ幼年であったためベレンゲラが後見人となって政治を取り仕切った。しかし重臣のアルバロ・ヌニェス・デ・ララ英語版と摂政の地位を巡って争い、エンリケ1世はアルバロらララ家に籠絡されるが、1217年6月6日、エンリケ1世が嗣子無くして事故死したため、ベレンゲラ自身が女王として即位することとなった。カスティーリャ国民は女王よりもその聡明な息子フェルナンドの即位を望んだため、ベレンゲラは同年のうちに息子をレオンから呼び寄せて即位させ、自身はその後見人となった[1][6]

1230年、元夫アルフォンソ9世が没すると懸案だったレオンの王位継承権に決着を付けるべく、アルフォンソ9世の前妻テレサと話し合い、彼女の2人の娘サンチャとドゥルセに土地と年金を提供、レオン王はフェルナンド3世が継ぐことを取り決めた。そうしてフェルナンド3世にレオン王位を継承させ、カスティーリャ王国とレオン王国の平和的な再統合に成功を収めた。以後レコンキスタでフェルナンド3世が遠征に出る時は代理でカスティーリャを治め、息子へ軍隊や食糧を送り後方支援に努めたが、1246年、ブルゴスサンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス王立修道院で死去。遺体は同教会に埋葬された[1][7]

子女

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脚注

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  1. ^ a b c d イエロ、P67。
  2. ^ 西川、P146、P150 - P152、P155。
  3. ^ 芝、P130 - P132、西川、P152 - P158。
  4. ^ ローマックス、P166 - P167、芝、P132 - P133、西川、P158 - P162。
  5. ^ ローマックス、P175、西川、P162 - P163。
  6. ^ ローマックス、P180、芝、P145 - P146、西川、P165 - P167。
  7. ^ ローマックス、P195、P206、芝、P146、イエロ、P74、西川、P167 - P168。

参考文献

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  • D.W.ローマックス著、林邦夫訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動刀水書房、1996年。
  • 芝修身『真説レコンキスタ <イスラームVSキリスト教>史観をこえて書肆心水、2007年。
  • マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ著、青砥直子・吉田恵訳『ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史』原書房、2016年。
  • 西川和子『スペイン中世列女物語 歴史を動かす"華麗"な結婚模様彩流社、2019年。

関連項目

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