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「エリザベス・ボーズ=ライアン」の版間の差分

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{{基礎情報 君主の正配
{{出典の明記|date=2012年3月|ソートキー=人2002年没}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = エリザベス・ボーズ=ライアン
| 人名 = エリザベス・ボーズ=ライアン
| 各国語表記 = Elizabeth Bowes-Lyon
| 各国語表記 = {{lang|en|Elizabeth Bowes-Lyon}}
| 正配称号 = [[イギリス王妃・王配一覧|イギリス王妃]]<br />[[イギリス領インド帝国|インド]]皇后
| 君主号 = 連合王国王妃
| 画像 = Queen Elizabeth The Queen Mother crop.jpg
| 画像 = Queen Elizabeth the Queen Mother portrait.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像サイズ = 210px
| 画像説明 = 1940年代前期、ジェラルド・ケリー画
| 画像説明 = リチャード・ストンによる肖像([[1986年]]撮影)
| 在位 = [[1936年]][[12月11日]] - [[1952年]][[2月6日]]
| 在位 = イギリス王妃:<br />[[1936年]][[12月11日]] - [[1952年]][[2月6日]]<br />インド皇后:<br />1936年12月11日 - [[1947年]][[8月15日]]
| 戴冠日 = [[1937年]][[5月12日]]
| 戴冠日 = [[1937年]][[5月12日]]
| 別号 = インド皇后</br>The Queen Mother
| 別号 = [[ロヤル・ヴィクトリア勲章]]グランドマスター
| 全名 = エリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアン</br>Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon
| 全名 = {{lang|en|Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon}}<br />エリザベス・アンジェラ・マルグリート・ボーズ=ライアン
| 出生日 = [[1900年]][[8月4日]]
| 出生日 = [[1900年]][[8月4日]]
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1900|8|4|2002|3|30}}
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| 埋葬地 = {{GBR}}<br />{{ENG}}、ウィンザー、ウィンザー城内[[セントジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|聖ジョージ礼拝堂]]
| 結婚 = [[1923年]][[4月26日]]
| 配偶者1 = [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]
| 配偶者1 = [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]
| 子女 = [[エリザベス2世|エリザベス]]</br>[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット]]
| 子女 = [[エリザベス2世]]<br />[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット]]
| 父親 = ストラスモア伯爵 [[クロード・ボーズ=ライアン (第14代ストラスモア伯爵)|クロード・ジョージ]]
| 家名 = ボーズ=ライアン
| 親 = ストラスモア伯爵夫人 セシリ
| 親 = [[クロード・ボーズ=ライアン (第14代ストラスモア=キングホーン伯爵)|クロード・ジョージ・ボーズ=ライン]]
| 母親 = [[セシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]
| 宗教 =
| サイン = Queen Elizabeth the Queen Mother signature 1960.svg
|空欄表題1 = 役職
|空欄記載1 = [[ロンドン大学]]総長<br />ダンディー大学総長
}}
}}
'''エリザベス・ボーズ=ライアン'''<ref>姓は「バウエス=ライオン」「バウズ=ライアン」と表記される例もある。[[ノート:エリザベス・ボーズ=ライアン]]を参照のこと</ref>(Elizabeth Bowes-Lyon[[1900年]][[8月4日]] - [[2002年]][[3月30日]])は、連合王国([[イギリス]])の王妃(在位:[[1936年]][[12月11日]] - [[1952年]][[2月6日]])、および[[イギリス領インド帝国|インド]]皇后(在位:1936年 - 1947年)。
'''エリザベス・アンジェラ・マルグリート・ボーズ=ライアン'''{{efn2|姓は「バウエス=ライオン」「バウズ=ライアン」と表記される例もある。[[ノート:エリザベス・ボーズ=ライアン]]を参照。}}{{Sfn|君塚|2020|p=9}}({{lang-en|Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon}}, [[1900年]][[8月4日]] - [[2002年]][[3月30日]])は、連合王国([[イギリス]])の[[イギリス王妃・王配一覧|王妃]](在位:[[1936年]][[12月11日]] - [[1952年]][[2月6日]])、および[[イギリス領インド帝国|インド]]皇后(在位:1936年 - 1947年)。


[[1923年]]に[[ヨーク公]][[ジョージ6世 (イギリス王)|アルバート(ジョージ6世)]]と結婚。[[1936年]]に夫が国王に即位したため王妃となった。[[1952年]]に夫が[[冠動脈血栓症]]で崩御し、長女の[[エリザベス2世]]({{lang|en|HM Queen Elizabeth II}})が即位したため、両者が同名であることによる混乱を避けるために、エリザベス2世の即位以降は'''エリザベス王太后'''(エリザベスおうたいごう、{{lang|en|HM Queen Elizabeth The Queen Mother}})と呼ばれるようになった<ref>{{London Gazette|issue=55932|date=4 August 2000|page=8617|supp=yes }} {{London Gazette|issue=56653|date=5 August 2002|page=1|supp=yes }} {{London Gazette|issue=56969|date=16 June 2003|page=7439}}</ref>。エリザベスは、最後のインド皇后である。
現女王[[エリザベス2世]]の母。

== 概要 ==
エリザベスは、父[[クロード・ボーズ=ライアン (第14代ストラスモア=キングホーン伯爵)|クロード・ボーズ=ライアン]]と母[[セシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク|セシリア・ニーナ・ボーズ=ライアン]]の四女として、[[1900年]][[8月4日]]に誕生した。

1904年に父親のクロードが、スコットランド爵位である[[ストラスモア=キングホーン伯爵|ストラスモア・アンド・キングホーン伯爵]]位を継いだことから、それまでの称号だった'''[[オナラブル]]'''・エリザベス・ボーズ=ライアンから'''[[レディ]]'''・エリザベス・ボーズ=ライアンへと称号が変わっている。

1923年にイギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と王妃[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]の次男ヨーク公[[ジョージ6世 (イギリス王)|アルバート]]と結婚した。ヨーク公夫妻と、長女[[エリザベス2世|エリザベス王女]]、次女[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット王女]]は、イギリスの伝統的な良き家庭と、王族としての公務とを上手に両立させていった{{Sfn|Roberts|2000|pp=58–59}}。ヨーク公爵夫人エリザベスは様々な公務を引き受け、その温和な仕草から「微笑みの公爵夫人 ({{lang|en|Smiling Duchess}})」と呼ばれるようになっていった<ref>{{citation|author=British Screen News|title=Our Smiling Duchess|publisher=British Screen Productions|location=London|medium=film |year=1930}}</ref>。

1936年[[1月30日]]に義父[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が崩御し、アルバートの兄である王太子エドワードが[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]として即位した。しかしエドワード8世は、既婚アメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]との結婚を望み、議会と対立した。最終的に、「王冠を賭けた恋」とも呼ばれ同年12月にエドワード8世はシンプソン夫人との結婚を選択して退位した。王位継承順位第1位であった夫のアルバートが[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]として[[イギリスの君主|イギリス国王]]に即位した。

王妃となったエリザベスは、国王ジョージ6世とともに夫妻で、[[第二次世界大戦]]の直前に[[フランス]]と[[カナダ]]、[[アメリカ合衆国]]へ外遊している。[[第二次世界大戦]]中にエリザベスは不屈の意思を見せて、イギリス国民の精神的支柱となった。イギリス国民の士気を鼓舞する役割を果たすエリザベス王妃を知った敵国[[ナチス・ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]]総統は、王妃エリザベスを「ヨーロッパで最も危険な女性」と評した<ref name="rml">{{citation|first=Richard M.|last=Langworth|url=http://www.winstonchurchill.org/support/the-churchill-centre/publications/finest-hour/issues-109-to-144/no-114/632--hm-queen-elizabeth-the-queen-mother-1900-2002|date=Spring 2002|title=HM Queen Elizabeth The Queen Mother 1900–2002|publisher=The Churchill Centre|access-date=1 May 2010}}</ref>。[[第二次世界大戦]]終結後、体調を崩しがちになった夫の[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]は[[1952年]][[2月6日]]に56歳で崩御し、エリザベスは51歳で未亡人となった。長女のエリザベス王女が[[エリザベス2世]]として王位を継承し、その母親である自身は王妃から王太后となった。

ジョージ6世の母メアリー太王太后も翌1953年に死去し、イギリスを出国してフランスで居住していたウィンザー公(前国王エドワード8世)と、ジョージ6世の後を継いで[[イギリスの君主|イギリス国王]](女王)に27歳で即位した娘の[[エリザベス2世]]とが[[イギリス王室]]のシニア・メンバーとなり、エリザベスは王室の女性の長老格となった。他の王族たちが国民からの厳しい視線にさらされる中にあって、エリザベス王太后は晩年になってもイギリス国民からの高い人気を保ち続けていた<ref name="moore"/>。

病弱で早逝した夫とは正反対に長寿を全うしたエリザベス王太后は崩御する数か月前まで公務をこなし続けていたが、次女マーガレットが薨去した7週間後の[[2002年]][[3月30日]]に、101歳でその生涯を閉じた。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 幼少期 ===
エリザベス・アンジェラ・マルグリート・ボーズ=ライアン{{Sfn|君塚|2020|p=9}}は、グラームス卿クロード・ジョージ・ボーズ=ライアン(後にスコットランド爵位第14代ストラスモア・アンド・キングホーン伯爵)とセシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンクとの間に、10人兄妹の第九子、末娘として、[[1900年]][[8月4日]]に誕生した。
エリザベス・ボーズ=ライアンはグラームス男爵(のちのストラスモア伯爵)クロード・ジョージとその夫人セシリア・ニナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク(イギリス首相を務めた[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|第3代ポートランド公]]の曾孫にあたる)の四女である。[[ロンドン]]の家に生まれたと報じられているが、定かではない。ハートフォードシャーのヒッチンやセントポールズ・ウォルデン・ベーリで生まれたという記録もあり、この記述が様々な噂を引き起こした。評論家の中には、エリザベスが兄弟や親に酷似しなかったことから、実母が[[ウェールズ]]の家政婦であると主張する者もいる。養子説や労働者階級の女子の双子説もあるが、現在では否定的な見方が強い。

母セシリアは、1783年と1807年からの二度にわたって首相を務めた第3代ポートランド公[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]と、同じく1828年から首相を務めた初代ウェリントン公[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]の長兄である、初代ウェルズリー侯[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|リチャード・ウェルズリー]]の子孫である。セシリアの出自には噂があり、1997年にはアメリカ人ジャーナリストのキティ・ケリー ([[:en:Kitty Kelley]]) が、エリザベスの母親はウェールズ人の家政婦だといわれているという説を紹介した<ref>{{cite news| url=http://www.dailymail.co.uk/news/article-2123012/Queen-Mother-Fury-books-claim-her-brother-born-familys-French-cook.html | work=Daily Mail | first1=Michael | last1=Seamark | first2=Rebecca | last2=English | first3=Daniel | last3=Bates | title=Fury over book's claim that Queen Mother and her brother were born to family's French cook}}</ref>。さらに、イギリス人作家コーリーン・キャンベル ([[:en:Lady Colin Campbell]]) は2012年の著書で、エリザベスの実母は、とある貴族が[[代理母出産|代理出産母]]として手配したマルグリット・ロディエという名のフランス料理人だったと主張した。しかしながらキャンベルの説はマイケル・ソーントンやヒューゴー・ヴィッカーズなどのイギリス王室伝記作家によって激しく批判されている<ref>{{cite news| url=http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/theroyalfamily/9177647/Queen-Mother-was-daughter-of-French-cook-biography-claims.html | work=The Daily Telegraph | title=Queen Mother was daughter of French cook, biography claims | date=31 March 2012}}</ref>。

エリザベスの出生地ははっきりと伝わっておらず、[[ウェストミンスター]]のベルグレイヴ・マンションズ、あるいは、病院へ向かう途中の救急馬車内で生まれたともいわれている<ref>{{citation |first=Alison |last=Weir |title=Britain's Royal Families: The Complete Genealogy, Revised edition |publisher=Pimlico |location=London |year=1996 |isbn=0-7126-7448-9|page=330}}</ref>。他にも、ロンドンのハム ([[:en:Ham, London]]) のフォーブス・ハウスや、母方の祖母ルイザ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク ([[:en:Louisa Cavendish-Bentinck]]) 宅といった説がある{{Sfn|Shawcross|2009|p=15}}。出生届は[[ハートフォードシャー]]のヒッチン ([[:en:Hitchin]]) で出されており<ref>Civil Registration Indexes: Births, General Register Office, England and Wales. Jul–Sep 1900 Hitchin, vol. 3a, p. 667</ref>、この地は翌1901年の国勢調査で、エリザベスの出生地として登録されているストラスモアの[[カントリー・ハウス]]、セント・ポールズ・ウォルデン・ベリー ([[:en:St Paul's Walden Bury]]) の近隣である<ref>1901 England Census, Class RG13, piece 1300, folio 170, p. 5</ref>。エリザベスは1900年9月23日に当地の教区教会オール・セインツで洗礼を受け、父方の叔母レディ・モード・ボーズ=ライアンと従姉妹のアーサー・ジェイムズ夫人が名付け親となった<ref name="Yvonne">[http://users.uniserve.com/~canyon/christenings.htm#Christenings Yvonne's Royalty Home Page— Royal Christenings]</ref>。

[[File:GlamisWide.JPG|thumb|200px|[[グラームス城]]]]
エリザベスは幼少期の大半を、セント・ポールズ・ウォルデン ([[:en:St Paul's Walden]]) と、歴代ストラスモア=キングホーン伯爵家のスコットランドでの居城[[グラームス城]]で過ごした。8歳になるまで女性家庭教師に教育を受け、屋外競技やポニー、犬が好きな少女だった{{Sfn|Vickers|2006|p=8}}。ロンドンの学校に通い始めると、古代ギリシアの哲学者[[クセノポン|クセノフォン]]の著作『[[アナバシス]]』の二つのギリシア単語を題材としたエッセイを書き、その早熟な才能で教師たちを驚かせたというエピソードがある。エリザベスが得意とした科目は文学と聖書学だった。その後ドイツ系ユダヤ人女性家庭教師ケーテ・キューブラーに学び、13歳でオクスフォード・ケンブリッジ・RSA ([[:en:Oxford, Cambridge and RSA Examinations]]) の資格試験に優等で合格した{{Sfn|Vickers|2006|pp=10–14}}。


エリザベスが14歳の誕生日1914年8月4日に、イギリスは[[ドイツ帝国]]に宣戦布告し、[[第一次世界大戦]]に参戦した。エリザベスの兄4人が陸軍に従軍し、[[ロイヤル・スコットランド連隊]]ブラック・ウォッチ歩兵連隊 ([[:en:Black Watch]]) の士官だった兄ファーガス ([[:en:Fergus Bowes-Lyon]]) が、1915年のルーの戦い ([[:en:Battle of Loos]]) で戦死している。当初ファーガスの埋葬場所は記録されていたが、その後失われてしまい、[[戦争祈念施設]]ルー・メモリアル ([[:en:Loos Memorial]]) に合葬されていた。2012年になってファーガスの埋葬地が正式に認定されて、新たな墓石が建てられている<ref>{{cwgc|id=728198|name=Bowes-Lyon, The Hon Fergus|access-date=16 August 2012}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.dailyrecord.co.uk/news/uk-world-news/queens-uncles-grave-1268868|title=Final resting place of Queen's uncle discovered nearly a century after his death |work=Daily Record|date=19 August 2012|access-date=20 August 2012}}</ref>。
エリザベスは長くセントポールズ・ウォルデン・ベーリや[[グラームス城]](父の[[スコットランド]]の伝来の生家)に住んだ。


もう一人の兄マイケルは、1917年4月28日に戦闘中に行方不明になった{{Sfn|Shawcross|2009|p=85}}。その3週間後に、負傷したマイケルが捕虜となっていることがボーズ=ライアン家に伝えられ、マイケルは戦争終結までそのまま捕虜収容所に捕らえられていた。ボーズ=ライアン家の居城グラームス城が、戦時負傷者の療養場所として接収されたときには、エリザベスも負傷者の看護を手伝っている{{Sfn|君塚|2020|p=10}}。また、エリザベスは、1916年9月16日にグラームス城が大火に遭ったときに、城の所蔵物を救い出すために目覚しい働きを見せた{{Sfn|Shawcross|2009|pp=79–80}}。エリザベスが看病した兵士の中には、エリザベスをはじめグラームス城での待遇に対する感謝を、エリザベスのメモ帳に記した兵士もいた<ref>Forbes, p. 74</ref>。
エリザベスが14歳の時、[[第一次世界大戦]]が勃発、ブラック・ウォッチ連隊士官であった兄ファーガスがドイツ軍との戦闘で戦死するという悲劇に見舞われた。
{{-}}


=== ヨーク公アルバートとの結婚 ===
=== ヨーク公アルバートとの結婚 ===
{{main|en:Wedding of Prince Albert, Duke of York, and Lady Elizabeth Bowes-Lyon}}
[[1921年]]に[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の次男[[ヨーク公]][[ジョージ6世 (イギリス王)|アルバート]]がエリザベスにプロポーズした時、彼女はそれを断った。アルバート王子は他の女性とは結婚する意志がないことを家族に告げたので、母[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]王妃はグラーミスにエリザベスを訪ねた。王妃はアルバートのライバル、モレー伯爵を海外に派遣するなど、エリザベスとの結婚に尽力した。王妃にも気に入られたエリザベスは3度目のプロポーズで結婚を受諾した。アルバート王子は社交界の花形だった兄、後の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]とは対照的に病弱で内向的な性格だったが、大らかな性格のエリザベスと出会ったことで少しずつ改善されていった。
イギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の次男だったヨーク公[[ジョージ6世 (イギリス王)|アルバート王子]]は、家族からはバーティという愛称で呼ばれていた。アルバートが最初にエリザベスに結婚を申し込んだのは1921年だったが、このときエリザベスはアルバートからの求婚を断っており、アルバートは「何も考えられない、話したくない、何をすべきなのか分からない」と語るまでに失望している<ref name="ezard">{{citation|last=Ezard|first=John|title=A life of legend, duty and devotion |newspaper=The Guardian|date=1 April 2002|page=18}}</ref>。なおもアルバートが、エリザベス以外の女性と結婚することは考えられないと公言したため、アルバートの母であるイギリス王妃[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]が、ここまでアルバートの心を捉えたエリザベスに会うためにグラームス城を訪問した。メアリーは、エリザベスこそが「バーティを幸福にすることが出来る唯一の女性」であると確信するようになったが、メアリーの勧めにもエリザベスは首を縦に振ることはなかった<ref>{{citation |last=Airlie |first=Mabell l Ogilvy, Countess of Airlie |title=Thatched with Gold |publisher=Hutchinson |location=London |year=1962 |page=167}}</ref>。当時のエリザベスは、アルバートの侍従で、後に初代スチュアート・オヴ・フィンドホーン子爵に叙されるジェイムズ・スチュアート ([[:en:James Stuart, 1st Viscount Stuart of Findhorn]]) にも求愛されており、この関係はスチュアートがアルバートのもとを離れて、アメリカでの石油産業に身を投じるまで続いていた{{Sfn|Shawcross|2009|pp=133–135}}。


[[File:Wedding of Princess Mary and Viscount Lascelles 1922.jpg|thumb|250px|メアリー王女の結婚式(後列左から2人目がエリザベス)]]
[[1923年]][[4月26日]]にエリザベスとアルバートは[[ウェストミンスター寺院]]で結婚した。エリザベスはヨーク公夫人と呼ばれることになった。ハネムーンは[[サリー (イングランド)|サリー]]の庄園、及びスコットランドだった。[[1926年]]に長女エリザベス(のちのエリザベス2世)が生まれ、4年後、次女[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット]]が誕生した。なお、2王女とも[[帝王切開]]により出産している。帝王切開で第2子を生むことがないに等しかった時代に(母子ともに危険にさらすとされた)、非常に勇気のいることだった。
1922年2月に、アルバートの妹[[メアリー (ハーウッド伯爵夫人)|メアリー王女]]とラッセルズ子爵(後に第6代[[ハーウッド伯爵|ハーウッド伯]][[ヘンリー・ラッセルズ (第6代ヘアウッド伯)|ヘンリー・ラッセルズ]])との結婚式が挙行され、エリザベスはメアリーの[[花嫁付添人]] ([[:en:Bridesmaid]]) に選ばれている{{Sfn|Shawcross|2009|pp=135–136}}。結婚式の翌月にアルバートは再びエリザベスに求婚したが、このときもエリザベスはアルバートの申し出を断った{{Sfn|Shawcross|2009|p=136}}。王族との結婚生活に不安を抱きつつも、エリザベスがアルバートの求婚を受け入れたのは1923年1月のことである{{Sfn|Longford|1981|p=23}}。自由恋愛の末にエリザベスと結婚したアルバートは、エリザベスが貴族の娘だったにも関わらず、王室の近代化の現れであるとしてイギリス国民から歓迎された。それまでの王子は、伝統的に他国の王女との結婚が求められていたためである{{Sfn|Roberts|2000|pp=57–58}}{{Sfn|Shawcross|2009|p=113}}。


[[File:Wedding of George VI and Elizabeth Bowes-Lyon.png|thumb|180px|1923年、結婚式]]
=== 王妃時代 ===
アルバートとエリザベスは1923年4月26日に[[ウェストミンスター寺院]]で結婚式を挙げた。エリザベスは、ウェストミンスター寺院の建物の入り口から内部へと向かうときに、床面にある第一次世界大戦の戦没者を悼む[[無名戦士の墓 (イギリス)|無名戦士の墓]]に、手に持っていたブーケを{{Sfn|Shawcross|2009|p=177}}捧げた{{Sfn|Vickers|2006|pp=64}}。これは予定外の行動であったが、第一次大戦で戦没した兄ファーガスを偲んでのことだった<ref name=TelegraphBouquet>{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/royal-wedding/8485728/Royal-wedding-Kate-Middletons-bridal-bouquet-placed-at-Grave-of-Unknown-Warrior.html|title=Royal wedding: Kate Middleton's bridal bouquet placed at Grave of Unknown Warrior|date=1 May 2011|work=[[The Daily Telegraph]]|access-date=20 August 2012|first=Sean|last=Rayment}}</ref>。現在、王族の結婚式では、挙式の翌日に花嫁がブーケを無名戦士の墓に捧げることが慣例となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.bbc.com/news/uk-44188656 |title=Royal wedding 2018: Bouquet laid on tomb of unknown warrior |website=BBC |date=2018-5-20 |access-date=2021-5-23}}</ref>。
[[Image:Royaltrain-hopebc.jpg|180px|thumb|カナダ訪問時の国王夫妻(1939年5月31日)]]
[[Image:ElizabethQueenMother1.jpg|thumb|180px|right|兵士を激励する王妃エリザベス(1941年)]]
1936年[[1月30日]]に[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が崩じたため、アルバートの兄である王太子エドワードが[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]として即位した。しかしエドワード8世は、離婚歴のあるアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]との結婚を望み、議会と対立した。結局、同年12月にエドワード8世はシンプソン夫人との結婚を選択して退位したため、アルバートがジョージ6世として即位、エリザベスは王妃となる。翌[[1937年]][[5月12日]]に戴冠式が行われた。


王族の一員となったエリザベスは「ヨーク公爵夫人殿下」(''{{lang|en|Her Royal Highness The Duchess of York}}'')の称号で呼ばれることとなった{{Sfn|Shawcross|2009|p=168}}。[[バッキンガム宮殿]]で催された、三代のイギリス国王に仕えた料理長ガブリエル・チュミ ([[:en:Gabriel Tschumi]]) が用意した結婚式後の会食を終えた後に、ヨーク公夫妻は新婚旅行先の[[サリー (イングランド)|サリー]]郊外の[[マナー・ハウス]]、ポレスデン・レイシー ([[:en:Polesden Lacey]]) に向かった。その後、夫妻はスコットランドへ渡ったが、この地でエリザベスは[[百日咳]]にかかってしまった{{Refnest|Letter from Albert to Queen Mary, 25 May 1923.{{Sfn|Shawcross|2009|p=185}}}}。
内気なアルバートは譲位されることを聞き及んだ時に泣いたという。エリザベスは夫の性格に対するその重責を案じた。また、ジョージ6世が若くして急逝した原因の1つに、身体が生まれつきあまり頑丈ではないのに王位を継ぎ、心身とも疲労したことがあるとして、エドワード8世とシンプソン夫人を終生許さなかったという。


ヨーク公夫妻は、1924年7月の[[北アイルランド]]訪問を無事に成功させ、当時の[[労働党 (イギリス)|労働党内閣]]から、1924年12月から1925年4月までの東アフリカへの外遊を承認された{{Sfn|Shawcross|2009|pp=218–219}}。政権を握っていた労働党だったが、1924年11月の総選挙で[[保守党 (イギリス)|保守党]]に敗北し、この総選挙の結果についてエリザベスは「驚いた」と、母親のストラスモア=キングホーン伯爵夫人に書簡を送っている{{Refnest|Letter from Elizabeth to Lady Strathmore, 1 November 1924.{{Sfn|Shawcross|2009|p=217}}}}。[[英埃領スーダン]] ([[:en:Anglo-Egyptian Sudan]]) の[[総督]]だったリー・スタック卿 ([[:en:Lee Stack]]) が当地で11月19日に暗殺されたが、ヨーク公夫妻の東アフリカ外遊は取止めにはならず、アデン保護領 ([[:en:Aden Protectorate]])、ケニア植民地 ([[:en:Kenya Colony]])、ウガンダ保護領 ([[:en:Uganda Protectorate]])、そして英埃領スーダンを訪れた。ただし、エジプトは当時の政治的緊張から、夫妻の訪問は見送られている{{Sfn|Shawcross|2009|pp=221–240}}。
[[1939年]]6月、ジョージ6世とエリザベス王妃は[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]を訪問している。


アルバートは[[吃音症]]で、公式な場での演説を非常に苦手としていた。エリザベスは、1925年10月以降、オーストラリア人セラピストの[[ライオネル・ローグ]]らの治療をアルバートに受けさせて、吃音症の改善に協力した。このエピソードは、後に2010年のイギリス映画『[[英国王のスピーチ]]』で再現されている。
[[第二次世界大戦]]中、ジョージ6世とエリザベス王妃は、イギリスの抗戦の象徴とされた。ドイツ軍の激しい空襲を受ける中、夫妻はロンドンから避難することを拒み、国民の慰安に尽力した。また 英帝国政府は大戦中、エリザベスとマーガレットの両王女を安全なカナダに疎開させることを計画していた。しかしエリザベス王妃はこれを拒否し、「私の子供たちは私のもとを離れません。私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と語ったとされている。[[バッキンガム宮殿]]が[[V2ロケット]]の直撃を受けた時も、「爆撃された事に感謝しましょう。これで[[イーストエンド (ロンドン)|イーストエンド]]に顔向け出来ます。」(=ロンドン東部、下町の低所得層・下層階級の人々と同じ境遇になれた)("I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face.") と、超然としていた事を知らされ、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が慄然とした話は有名である。ジョージ6世やエリザベス王妃がイギリスの士気に多大な影響を与えたために、エリザベス王妃を『ヨーロッパで最も危険な女性』と評したという。


1926年に、夫妻の最初の子供で、後にエリザベス2世としてイギリス国王に即位する長女が生まれ、母親と同じ[[エリザベス2世|エリザベス]]と名付けられた(''以下、母娘の記述上の混同を避けるため、国王即位前であっても、娘はエリザベス2世と表記する'' )。4年後の1930年には次女[[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット・ローズ]]が生まれている。
=== 王太后時代 ===
[[File:H.M. The Queen Mother Allan Warren.jpg|180px|thumb|{{仮リンク|ドーバー城|en|Dover Castle}}にて]]
[[1952年]][[2月6日]]に、ジョージ6世は[[肺癌]]で亡くなった。これにより、エリザベスは王太后('''HM Queen Elizabeth The Queen Mother''')となった。この称号が選ばれたのは、即位した娘エリザベス2世女王(HM Queen Elizabeth II)とあまりに近かったので、区別する必要があったからである。英国王室の依頼で書かれたキティ・ケリーの『ザ・ロイヤルズ』には、娘が自分より偉くなるのが許せなかったため、Queenを二つ重ねたと書かれている。大衆の間では、王太后('''The Queen Mother''' もしくは '''The Queen Mum''')と呼ばれるようになった。


[[File:StateLibQld 1 67691 Their Royal Highnesses, The Duke and Duchess of York, visit Toowoomba, 1927.jpg|thumb|200px|1927年、豪州訪問(左2人目がヨーク公、右端がエリザベス)]]
公務で忙しいながらも、王太后はスコットランドの{{仮リンク|キャッスル・オブ・メイ|en|Castle of Mey}}の修築を監修し、後にお気に入りの別邸とした。また、この頃から競馬にも興味を持ち、アスコットなど競馬場にしばしば姿を見せたが、公務をおろそかにすることはなかった。外遊も頻繁に行い、英国と諸外国との親善に大いに貢献した。
1927年に、アルバートとエリザベスはオーストラリアを公式訪問し、[[キャンベラ]]の国会議事堂の完成式典に出席した<ref>{{citation|url= http://www.royal.gov.uk/HistoryoftheMonarchy/The%20House%20of%20Windsor%20from%201952/QueenElizabethTheQueenMother/Royaltours.aspx |title=Queen Elizabeth The Queen Mother > Royal tours |publisher=Official web site of the British monarchy |access-date=1 May 2009}}</ref>。このオーストラリア訪問時に、生後一年の長女エリザベス2世は連れて行けず、エリザベスは「赤ん坊を残して旅立たねばならないとは、なんと惨めなことでしょう」と日記に綴っている{{Refnest|Elizabeth's diary, 6 January 1927.{{Sfn|Shawcross|2009|p=264}}}}。オーストラリアへの旅程は、ジャマイカ、パナマ運河、大西洋を経由する海路だった。エリザベスは、イギリスに残してきたエリザベス2世のことをつねに心配していたが、このオーストラリア訪問は避けることのできない公務でもあった{{Sfn|Shawcross|2009|pp=266–296}}。フィジーで行われた歓迎式典では、多くの公式客たちから求められた握手に応じただけでなく、式典に迷い込んだ犬の足も握るという行動を見せて、大衆を魅了した{{Sfn|Shawcross|2009|p=277}}。ニュージーランドでエリザベスは風邪をひいて体調を崩し、いくつかの行事を欠席したものの、復調してからはオーストラリア人ハリー・アンドレアスの案内のもと、ベイ・オブ・アイランズでの釣りを楽しんでいる{{Sfn|Shawcross|2009|pp=281–282}}<ref>{{cite news |url=http://nla.gov.au/nla.news-article54884539 |title=ROYAL ANGLERS. |newspaper=The Register (Adelaide, SA : 1901 - 1929) |location=Adelaide, SA |date=25 February 1927 |access-date=1 September 2012 |page=9 |publisher=National Library of Australia}}</ref>。イギリスへの帰路はモーリシャス、スエズ運河、マルタ、ジブラルタルの経由だった。帰路の途中で、夫妻が乗船していた艦船[[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]]が火災を起こし、別の船への避難騒ぎが起こる一幕もあった{{Sfn|Shawcross|2009|pp=294–296}}。
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=== エドワード8世の即位と退位 ===
[[2002年]][[3月30日]]、エリザベス王太后は、[[ウィンザー城]]で101歳238日で亡くなった。前年末から呼吸器系を患っていたが、母の面倒をよく看ていた次女のマーガレット王女が同年2月に亡くなったことを深く悲しんでおり、これにより著しく健康を損なったという。また、彼女は王家史上に残る長命であり、その誕生日は慶祝の節になったほどで、彼女の存在そのものが、英国王室の人気の源だったとも言われている{{誰2|date=2009年5月}}。死してなお、その人気は高い。
[[File:Edward abdication.png|thumb|150px|エドワード8世の退位宣言。右の署名がエドワード8世、左の署名が三名の王弟たちで、上からヨーク公アルバート、グロスター公[[ヘンリー (グロスター公)|ヘンリー]]、ケント公[[ジョージ (ケント公)|ジョージ]]。]]
{{main|エドワード8世の退位}}
1936年1月20日にイギリス国王ジョージ5世が崩御し、アルバートの兄の王太子エドワードが、エドワード8世として国王に即位した。ジョージ5世は生前に「長男(エドワード8世)が結婚しないことと{{efn2|ジョージ5世はエドワードが結婚相手にシンプソンを選ぶのではないかと危惧していた。}}、バーティ(アルバート)とリリベット(エリザベス2世)、そしてイギリス王位に何事も起こらないことを神に祈る」と密かに漏らしたといわれている<ref>{{citation |last=Ziegler |first=Philip |title=King Edward VIII: The Official Biography |location=London |publisher=Collins |year=1990 |page=199|isbn=0-00-215741-1}}</ref>。即位後数か月でエドワード8世は離婚歴のあるアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]との結婚を主張し、大騒動を巻き起こした。この結婚は法的には可能であったが、イギリス国王たるエドワード8世は[[イングランド国教会]]の長でもあり、当時の国教会では離婚した者が再婚することは認められていなかった。当時のイギリス首相[[スタンリー・ボールドウィン|ボールドウィン]]も、イギリス国民がウォリスを王妃と認めることはありえないとして、この結婚に強く反対した。エドワード8世は[[立憲君主制]]の王として、この首相からの勧告を受け入れざるを得なかった<ref>{{citation|last=Beaverbrook|first=Lord|title=The Abdication of King Edward VIII|publisher=Hamish Hamilton|location=London|coauthors=Edited by A. J. P. Taylor|year=1966|page=57}}</ref>。そして、最終的にエドワードは、ウォリスとの結婚を諦めるのではなく、イギリス国王からの退位を選択し<ref>The Duke of Windsor (1951). ''A King's Story''. London: Cassell and Co., p. 387</ref>、1936年12月11日にエドワード8世の弟ヨーク公アルバートが、ジョージ6世として即位することとなった。


ジョージ6世とエリザベスは、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国ならびにイギリス自治領の国王、王妃となり、1937年5月12日にはインド皇帝、皇后の称号が加わった。エリザベスの王妃の冠はプラチナ製で、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]以来、イギリス王室に伝わるインド産のダイアモンドである[[コ・イ・ヌール]]などで装飾されていた{{Sfn|Shawcross|2009|p=397}}。
なお、英国王室最長寿はグロスター公爵夫人[[アリス (グロスター公爵夫人)|アリス]]の102歳309日([[1901年]][[12月25日]]-[[2004年]][[10月29日]])である。
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==身位の変遷==
*ストラスモア伯爵令嬢エリザベス・ボーズ=ライアン(The Lady Elizabeth Bowes-Lyon)
*ヨーク公妃殿下(HRH The Duchess of York)
*エリザベス王后陛下(HM Queen Elizabeth)
*エリザベス王太后陛下(HM Queen Elizabeth The Queen Mother, Elizabeth Angela Marguerite, Windsor)
-->


退位したエドワードとウォリスは結婚し、ウィンザー公夫妻となったが、ジョージ6世はウォリスに対して公爵夫人としての礼は取らず、エリザベスもこのジョージ6世の姿勢を支持した{{Refnest|Letter from George VI to Winston Churchill in which the King says his family shared his view{{Sfn|Howarth|1987|p=143}}}}。さらにエリザベスは、ウォリスのことを「あの女 ({{lang|en|''that woman''}})」と呼ぶようになった{{Refnest|Michie, Alan A. (17 March 1941) ''Life Magazine''.{{Sfn|Vickers|2006|p=224}}}}。
==エリザベスを題材とした作品==
{{-}}
===映画===
*[[クィーン (映画)|クイーン]](2006年イギリス、[[スティーヴン・フリアーズ]]監督)
*:エリザベス役:[[シルヴィア・シムズ]]
*[[英国王のスピーチ]](2010年イギリス、[[トム・フーパー]]監督)
*:エリザベス役:[[ヘレナ・ボナム=カーター]]


===ドラマ===
=== イギリス王妃 ===
==== 諸国歴訪 ====
*[[:en:Bertie and Elizabeth|Bertie & Elizabeth]]
1938年の夏に国王夫妻はフランスを公式訪問する予定だったが、エリザベスの母親ストラスモア=キングホーン伯爵夫人セシリア・ニーナが6月23日に死去したため、3週間延期された。このとき、2週間でファッションデザイナーのノーマン・ハートネル ([[:en:Norman Hartnell]]) が、エリザベスが喪中に着用する白の喪服{{efn2|中世頃までのヨーロッパでは、王妃が最も深い弔意を表す色は白だった。}}を用意している{{Sfn|Shawcross|2009|pp=430–433}}。このフランス訪問は、台頭する[[ナチス・ドイツ]]からの武力侵攻に対して、英仏両国が一致して協力する体制を強固にするためのものだった{{Sfn|Shawcross|2009|p=430}}。フランスの報道陣は、国王夫妻の振舞いや人柄を賞賛し、ハートネルが用意した白の装束もこの公式訪問の成功に一役買うこととなった{{Sfn|Shawcross|2009|pp=434–436}}。
:エリザベス役:[[ジュリエット・オーブリー]]


他国に対するナチスの強硬姿勢は止まらず、イギリス政府は来るべき戦争への準備を余儀なくされていく。このような情勢の中、1938年9月にドイツとの武力衝突を回避する[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]の締結に成功した首相[[ネヴィル・チェンバレン]]は、[[バッキンガム宮殿]]のバルコニーに国王夫妻とともに姿を見せ、国民からの大きな喝采を浴びた{{Sfn|Shawcross|2009|pp=438–443}}。国民に広く受け入れられた、ナチス・ドイツ総統[[アドルフ・ヒトラー]]に対するチェンバレンの[[宥和政策]]だったが、[[庶民院 (イギリス)|イギリス庶民院]]からは批判の声もあった。歴史家ジョン・グリッグ ([[:en:John Grigg, 2nd Baron Altrincham|en:John Grigg]]) は、この時期のジョージ6世の政治的行動が「ここ数世紀のイギリス国王の中で、もっとも憲法に違反している」と書き残している<ref>Hitchens, Christopher (1 April 2002), [http://www.guardian.co.uk/uk/2002/apr/01/queenmother.monarchy9 "Mourning will be brief"], ''The Guardian'', retrieved on 1 May 2009</ref>。ただし、当時のジョージ6世の行動は、政府の助言に従ったものであり、憲法上なんの問題もないと評価する歴史家もいる<ref>{{Cite book2|language=en|last=Sinclair|first=David|title=Two Georges: the Making of the Modern Monarchy|publisher=Hodder and Staughton|year=1988|page=230|isbn=0-340-33240-9}}</ref>。
==その他==
[[ファイル:Coat of Arms of Elizabeth Bowes-Lyon.svg|180px|thumb|エリザベス王太后の紋章]]
* [[グレートブリテン王国]]成立以降では初めてとなる同国出身の王妃である。合同以前を含めても、夫[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世/7世]]の即位以前に死去した[[アン・ハイド]]、[[女王]]でもあった[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]を除けば、[[イングランド王国|イングランド]]では[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の最後の妃[[キャサリン・パー]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]では[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]の妃[[マーガレット・テューダー]](イングランド人を含める場合)まで遡ることになる。


[[File:King George VI and Queen Elizabeth acknowledge the crowds at Toronto City Hall during the 1939 Royal Tour of Canada.jpg|thumb|180px|1939年5月、カナダ訪問時の国王夫妻]]
* 生涯[[競馬]]と[[ジン (蒸留酒)|ジン]]と[[デュボネ]] (gin & dubonnet) をこよなく愛し、貴族的な嗜好の持ち主だったにもかかわらず<ref>アスコット競馬、ジンとデュボネなどのカクテルは上流階級・地方地主などの上流中産階級の習い。</ref>、国民から高い人気を得る事が出来たのは、ユーモアに富んだ性格<ref>ピーター・ユスティノフによると、1968年、ある荘厳なパレード中に学生デモに出くわし、トイレのロールが王太后の方に投げつけられた。この時王太后は、トイレのロールを拾って、投げた学生に「これはあなたが落としたのでしょう? 取りにいらっしゃい」と言って優雅に威風堂々と対応し、学生達を沈黙せしめたという。</ref>や、宮殿のゲイの男性スタッフたちをかばうなどのエピソードなどに起因する部分が大きかったと言われている{{誰2|date=2009年5月}}。しかし、王太后の贅沢なライフスタイルはジャーナリストをしばしば驚かせた。
1939年6月に、エリザベスとジョージ6世は、カナダとアメリカを歴訪した。アメリカでは[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]と[[ホワイトハウス]]で会談し、さらにハドソン・ヴァレー ([[:en:Hudson Valley]]) の、ルーズベルトの私宅 ([[:en:Home of Franklin D. Roosevelt National Historic Site]]) も訪問している<ref>{{Citation|last=Bell|first=Peter|title=The Foreign Office and the 1939 Royal Visit to America: Courting the USA in an Era of Isolationism|journal=Journal of Contemporary History|volume=37|issue=4|pages=599–616| date=October 2002| jstor=3180762|doi=10.1177/00220094020370040601}}</ref><ref>{{Citation|last=Rhodes|first=Benjamin D.|year=2001|title=United States foreign policy in the interwar period, 1918–1941|page=153|publisher=Greenwood|isbn=0-275-94825-0}}</ref><ref>{{Citation|last=Reynolds|first=David|date=August 1983|title=FDR's Foreign Policy and the British Royal Visit to the U.S.A., 1939|journal=Historian|volume=45|issue=4|pages=461–472|doi=10.1111/j.1540-6563.1983.tb01576.x}}</ref><ref>{{Citation|last=Rhodes|first=Benjamin D.|date=April 1978|title=The British Royal Visit of 1939 and the "Psychological Approach" to the United States|journal=Diplomatic History|volume=2|issue=2|pages=197–211|doi=10.1111/j.1467-7709.1978.tb00431.x}}</ref>。


ルーズベルトの妻[[エレノア・ルーズベルト|エレノア]]は、エリザベスのことを「完璧な王妃。教養豊かで優雅な女性で、寛容なその言動は常に正しい。ただ、少しばかり王妃であることに気後れしているよう感じがする」としている{{Sfn|Shawcross|2009|p=479}}。この北米訪問は、戦時中の大西洋横断航路の確保への協力を求めるとともに、カナダが[[英連邦王国]]の一員であり、イギリスと同じ国王を戴いていることの確認でもあった<ref>{{citation|last=Galbraith|first=William|title=Fiftieth Anniversary of the 1939 Royal Visit|journal=Canadian Parliamentary Review|volume=12|issue=3|pages=7–8|publisher=Commonwealth Parliamentary Association|location=Ottawa|year=1989|url=http://www.revparl.ca/12/3/12n3_89e.pdf|format=PDF|access-date=14 December 2009}}</ref><ref>{{citation|last=Bousfield|first=Arthur|last2=Toffoli|first2=Garry|title=Royal Spring: The Royal Tour of 1939 and the Queen Mother in Canada|publisher=Dundurn Press|year=1989|location=Toronto|pages=65–66|url=https://books.google.co.jp/books?id=1Go5p_CN8UQC&printsec=frontcover&q=&redir_esc=y&hl=ja|isbn=1-55002-065-X}}</ref><ref>{{citation|last=Lanctot|first=Gustave|title=Royal Tour of King George VI and Queen Elizabeth in Canada and the United States of America 1939|publisher=E. P. Taylor Foundation|year=1964|location=Toronto}}</ref><ref>{{citation|url=http://www.collectionscanada.gc.ca/king/023011-1070.06-e.html|last=Library and Archives Canada|title=The Royal Tour of 1939|publisher=Queen's Printer for Canada|access-date=12 December 2009}}</ref>。広く知られる噂話として、[[ボーア戦争]]に従軍した退役軍人がエリザベスに「陛下はスコットランド人ですか、それともイングランド人ですか」と尋ねたときに、エリザベスは「今は一カナダ人よ!」と応えたというエピソードがある<ref>Speech delivered by Her Majesty the Queen at the Fairmont Hotel, Vancouver, Monday, 7 October 2002 as reported in e.g. Joyce, Greg (8 October 2002) "Queen plays tribute to Canada, thanks citizens for their support", The Canadian Press</ref>。国王夫妻に対するカナダとアメリカの民衆の歓迎は熱烈なもので{{Sfn|Shawcross|2009|pp=457–461}}{{Sfn|Vickers|2006|p=187}}、ジョージ6世とエリザベスが前国王エドワード8世の単なる代理に過ぎないのではないかといった、意地の悪いあらゆる世論を雲散霧消させた{{Sfn|Bradford|1989|pp=298–299}}。エリザベスはカナダ首相[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング|マッケンジー・キング]]に「今回の訪問は、我々を勇気付けてくれました」と語っており{{Sfn|Bradford|1989|p=281}}、その後も公私にわたって何度もカナダを訪れている<ref>{{citation|url= http://www.pch.gc.ca/pgm/ceem-cced/fr-rf/visit-eng.cfm#a3 |title=Royal visits to Canada |publisher=Canadian Heritage|access-date=1 May 2009}}</ref>。
*長女エリザベスと[[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]の結婚には、フィリップの素行や素性に不満を持ち、また、長女の即位後も異例なことに[[バッキンガム宮殿]]に住み続け、[[イングランド国教会|国教会]]や[[ウィンストン・チャーチル]]らを味方に就けて王室内で保守派を貫き、革新派のフィリップとの確執は根深いものがあった。


==== 第二次世界大戦 ====
==脚注==
[[File:Eleanor Roosevelt, King George VI, Queen Elizabeth in London, England - NARA - 195320.png|200px|thumb|right|1942年10月23日、英国訪問中の米大統領夫人[[エレノア・ルーズベルト]]と国王夫妻]]
[[File:The Queen and Princess Elizabeth talk to paratroopers in front of a Halifax aircraft during a tour of airborne forces preparing for D-Day, 19 May 1944. H38612.jpg|thumb|200px|1944年5月19日、長女も同伴させ[[D-デイ]]を目前に、[[特殊空挺部隊]]を激励する]]
第二次世界大戦を通じて、ジョージ6世とエリザベスは反ファシズムの象徴となった{{Sfn|Shawcross|2009|p=515}}。1939年9月、イギリスがドイツに宣戦布告して間もなく、[[赤十字社]]の活動を支援するための資金を集めるための書籍 ([[:en:The Queen's Book of the Red Cross]]) の出版が計画された。50名の作家、芸術家が参加したこの書籍の表紙は、写真家[[セシル・ビートン]]が撮影したエリザベスのポートレイトで、書籍の売上げが赤十字社のために使われた{{Sfn|Vickers|2006|p=205}}。

第二次世界大戦初期の、いわゆる[[まやかし戦争]]のころに、エリザベスは敵兵の侵入に備えて自ら拳銃の撃ち方を学んだこともあった{{Sfn|Bradford|1989|p=321}}{{Sfn|Shawcross|2009|p=516}}。戦争が激しくなっても、エリザベスは戦火を避けて自身がロンドンを離れることも、子供たちをカナダに疎開させることも公に拒否し、ロンドンがドイツ空軍による[[ザ・ブリッツ|大空襲]]にさらされる中、当時の内閣からの避難勧告すら拒み通した。このときエリザベスは「子供たちは私のもとを離れません。私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と語っている<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://www.royal.gov.uk/HistoryoftheMonarchy/The%20House%20of%20Windsor%20from%201952/QueenElizabethTheQueenMother/ActivitiesasQueen.aspx |title=Queen Elizabeth The Queen Mother > Activities as Queen|publisher=Official web site of the British monarchy |access-date=1 May 2009}}</ref>。さらに、[[バッキンガム宮殿]]が空爆の直撃を受けた時には、「爆撃された事に感謝しましょう。これで[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イーストエンド]]に顔向け出来ます ({{lang|en|''I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face.'' }}) 」と言い放った<ref>{{citation2|language=en|mode=cs1 |url=http://www.britainexpress.com/royals/queen-mother.htm |title=BritainExpress |access-date=1 May 2009}}</ref>。

エリザベスは、軍、病院、工場、さらにドイツ空軍の爆撃目標となった場所、特に低所得者の多いロンドン港湾近辺の[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イーストエンド]]を何度も慰問している。このような場所への王妃の訪問は当初反感を買い、ゴミを投げつけられたり、罵声を浴びせられることすらあった<ref name="moore">{{Cite news2|language=en|url=http://www.guardian.co.uk/queenmother/article/0,,676855,00.html |first=Lucy |last=Moore |title=A wicked twinkle and a streak of steel |newspaper=The Guardian |date=31 March 2002 |access-date=1 May 2009}}</ref>。これは、戦時中の物資欠乏に苦しむ人々と、高価な衣装を身にまとうエリザベスとが、あまりにも乖離していたことにも一因があった。これに対しエリザベスは、国民が王妃に会うときには誰でも最高の服を着てくるから、自分も同じようにしただけだという意味の釈明をした。結局ノーマン・ハートネルが王妃のために、優しい色合いで、黒を避け「希望の虹」を表すような衣服をデザインした{{Refnest|Hartnell, Norman (1955), ''Silver and Gold'', Evans Bros., pp. 101–102{{Sfn|Shawcross|2009|p=526}}{{Sfn|Vickers|2006|p=219}}}}。

国王夫妻は昼間はバッキンガム宮殿で執務に就いていたが、安全上の問題や家族の関係などで、夜間は32kmほど西にある[[ウィンザー城]]で子供たちとともに過ごしていた。ウィンザー城の職員も徴兵されて残り少なくなっており、多くの部屋が使用されずに閉め切られていた{{Sfn|Vickers|2006|p=229}}。さらに窓ガラスは空爆の爆風で吹き飛ばされ、代わりに板が打ちつけられていた{{Sfn|Shawcross|2009|p=528}}。

敵国ナチス・ドイツの指導者[[アドルフ・ヒトラー]]は、イギリスの士気に多大な影響を与えるエリザベスを「ヨーロッパで最も危険な女性」と評した<ref name="rml"/>。しかしながら、第二次世界大戦参戦以前のジョージ6世とエリザベスは、多くの閣僚や国民と同様に、ドイツとの宥和政策を進める首相[[ネヴィル・チェンバレン]]を支持しており、世界中が疲弊した[[第一次世界大戦]]の教訓から、いかなる理由であれ戦争は避けるべきだと信じていた。

[[File:Special Film Project 186 - Buckingham Palace 2.jpg|thumb|200px|1945年5月8日、[[ヨーロッパ戦勝記念日]]に、バッキンガム宮殿のバルコニーに立つ国王一家とチャーチル]]
1940年5月に、それまでの対ドイツ宥和政策が破綻したチェンバレンが首相を辞職すると、ジョージ6世は海軍大臣の[[ウィンストン・チャーチル]]に組閣を命じた。最初のうちこそ、ジョージ6世はチャーチルの性格や真意を疑っていたが、やがて国王夫妻そろってチャーチルを尊敬し、賞賛するようになっていった<ref>{{Cite ODNB|id=33370|first=H. C. G. |last=Matthew |title=George VI |date=2004 |freearticle=y}}</ref>{{Sfn|Vickers|2006|pp=210–211}}。第二次世界大戦が終結した1945年に、チャーチルは国王夫妻に招かれ、ミュンヘン協定をまとめたときの前首相チェンバレンと同じく、バッキンガム宮殿のバルコニーから国民の喝采を浴びている。

==== 第二次世界大戦後 ====
1945年に行われたイギリス総選挙で、[[ウィンストン・チャーチル]]率いる保守党は、[[クレメント・アトリー]]率いる労働党に敗北した。エリザベスが自身の政治的信条を公言することは稀だったが{{Sfn|Shawcross|2009|p=412}}、1947年の書簡でアトリーのことを「社会主義者の楽園を夢見ている」人物であるとし、アトリーに投票した有権者を「まともな教育を受けていない、困惑した哀れな人たち。私は彼らを愛します」と記している<ref>{{citation2|language=en|mode=cs1|first=Andrew|last=Pierce|title=What Queen Mother really thought of Attlee's socialist 'heaven on earth'|journal=The Times|date=13 May 2006|url= http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article717201.ece |access-date=1 May 2009 | location=London}}</ref>。ウッドロー・ワイアット ([[:en:Woodrow Wyatt]]) は、エリザベスを王族の中で「もっとも保守党寄り」であると評したが<ref>{{citation|author=Wyatt, Woodrow|coauthors=Edited by Sarah Curtis|title=The Journals of Woodrow Wyatt: Volume I|year=1998|publisher=Macmillan|location=London|page=255|isbn=0-333-74166-8}}</ref>、エリザベスは後にワイアットに「私は古き良き労働党が好きです」と返している<ref>Wyatt, ''Volume I'' p. 309</ref>。また、エリザベスはグラフトン公爵夫人アン・フィッツロイ ([[:en:Fortune FitzRoy, Duchess of Grafton]]) に「私は[[共産主義|共産主義者]]を愛しています」と言ったこともある{{Sfn|Hogg|2002|p=89}}。1951年の総選挙でアトリーの労働党は敗北し、再び保守党のチャーチルが権力の座に返り咲いた。

1947年に国王夫妻が南アフリカを訪問したときに、熱烈な歓迎の意を示した男性を、敵意を持った相手と勘違いしたエリザベスが、車から身を乗り出して傘で殴りつけたというエピソードがある{{Sfn|Bradford|1989|p=391}}{{Sfn|Shawcross|2009|p=618}}。1948年に予定されていたオーストラリアとニュージーランドへの公式訪問は、ジョージ6世が体調を崩したために延期された。1949年3月にジョージ6世は右足の血行障害改善の手術を受けた{{Sfn|Shawcross|2009|pp=637–640}}。しかしながら、その後もジョージ6世の体調は思わしくなく、1951年の夏には王妃エリザベスと王女たちが国王の公務を代行している{{Sfn|Shawcross|2009|pp=645–646}}。9月になって、ジョージ6世が[[肺癌]]に侵されていることが判明した。癌に侵されていた肺を摘出してから、ジョージ6世は回復に向かうとみられていたが、延期されていたオーストラリアとニュージーランドへの国王夫妻の訪問は取り止めとなった。

1947年に[[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ・マウントバッテン]]と結婚した長女エリザベス2世(当時の称号はエジンバラ公爵夫人)が、国王・王妃の代理として夫妻でオーストラリアとニュージーランドを訪れるために、1952年1月にイギリスを離れた{{Sfn|Shawcross|2009|p=651}}。ジョージ6世が崩御したのは、エリザベス2世がオーストラリアへ向かう途中でケニアに滞在していた2月6日のことで、エリザベス2世とフィリップは、新しいイギリス女王、王配として即位するために直ちにロンドンへと引き返した。

=== 王太后 ===
==== ジョージ6世崩御後 ====
ジョージ6世は1952年2月6日の就寝中に冠動脈血栓症のため崩御。その後、間もなくして、エリザベスはエリザベス王太后陛下 ({{lang|en|''Her Majesty Queen Elizabeth The Queen Mother'' }}) という称号で呼ばれるようになった。国王の未亡人はその後も王妃 ({{lang|en|Queen}}) と呼ばれるのが普通だったが、エリザベス王妃 ({{lang|en|Queen Elizabeth}}) の称号は、新たな国王となった長女エリザベス2世 ({{lang|en|Queen Elizabeth II}}) とあまりに紛らわしかったために、新たな称号が採用されたのである<ref>{{Cite news2|language=en|work=CBC News|last=McCluskey|first=Peter|title=Elizabeth: The Queen Mother|url=http://www.cbc.ca/news/obit/queenmother/|access-date=1 May 2009}}</ref>。ただし、一般的にはエリザベスは王母(母后)を意味する「クイーン・マザー ({{lang|en|Queen Mother}})」あるいは「クイーン・マム ({{lang|en|Queen Mum}})」と呼ばれるようになっていった<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1002170,00.html ELIZABETH, QUEEN CONSORT, 1900–2002: A Mum for All Seasons: – TIME]</ref>。

[[File:H.M. The Queen Mother Allan Warren.jpg|thumb|left|アラン・ウォーレンがドーヴァー城で撮影した、王太后エリザベス。]]
エリザベスは夫ジョージ6世の突然の死に打ちのめされ、[[スコットランド]]に隠棲した。しかしながら、首相[[ウィンストン・チャーチル]]の説得で隠棲生活をやめ、公務に復帰した{{Sfn|Hogg|2002|p=161}}。王太后となったエリザベスだったが、公務の量は王妃だった時代と変わらなくなっていった。1953年7月に、ジョージ6世崩御以降で初めての外遊となる[[ローデシア・ニヤサランド連邦]]の訪問を、次女マーガレットとともにこなしている。当地で、現在のジンバブエ大学 ([[:en:University of Zimbabwe]]) の前身にあたる、ローデシア・ニヤサランド大学の[[礎石]]設置式典に参列した{{Sfn|Shawcross|2009|pp=686–688}}{{Sfn|Vickers|2006|p=324}}。エリザベスは1957年にもローデシア・ニヤサランド連邦を訪れており、このときにローデシア・ニヤサランド大学総長に就任し、意図的に様々な人種が交えられた各種行事に招待された{{Sfn|Shawcross|2009|pp=710–713}}。

1953年から1954年にかけて、エリザベスとマーガレットは多くの[[イギリス連邦|イギリス連邦諸国]]を訪問している。また、エリザベスはイギリス王室の長老格 ([[:en:Counsellor of State]]) として、自身の孫で、長女エリザベス2世女王の子女である[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]と[[アン (イギリス王女)|アン]]の教育にもあたった{{Sfn|Shawcross|2009|pp=689–690}}。

エリザベスは、スコットランド北岸の[[ケイスネス]]の人里離れた場所にあったメイ城 ([[:en:Castle of Mey]]) を、「あらゆることからの避難場所」として使うために修築させ{{Sfn|Vickers|2006|p=314}}、8月に3週間、10月に10日間を毎年この城で過ごした<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://www.castleofmey.org.uk/castle-ownership.html|title=The Queen Elizabeth Castle Of Mey Trust|access-date=1 May 2009}}</ref>。エリザベスは、知己となったアマチュア騎手ミルドメイ卿 ([[:en:Anthony Bingham Mildmay, 2nd Baron Mildmay of Flete]]) の影響で、競馬、とくに障害競走に興味を持つようになり、その後、競馬はエリザベスの終生の趣味となった{{Sfn|Shawcross|2009|pp=703–704}}。

エリザベスが所有した馬は、およそ500回のレースで勝利している。エリザベスが所有する馬に騎乗する騎手には、青色地<!--実際は「水色」だと思うが[https://www.countrysidegreetings.co.uk/products/horse-racing-vintage-humour-greeting-card-devon-loch-queen-mother-and-dick-francis]-->に淡黄色の縞模様の[[勝負服 (競馬)|勝負服]]が与えられた。エリザベスが馬主だったスペシャルカーゴは1984年の[[ベット365ゴールドカップ|ウィットブレッド・ゴールドカップ]]に勝利し、{{仮リンク|デヴォンロッホ|en|Devon Loch}}は、1956年の[[グランドナショナル]]で勝利寸前に突然走るのをやめてしまったことで有名な馬である{{Sfn|Shawcross|2009|p=790}}。このときデヴォンロッホに騎乗していた[[ディック・フランシス]]は、騎手引退後に競馬を題材とした推理小説作家としても大きな成功を収めた人物である。世間の噂とは違って、エリザベスは競馬に金を賭けたことはなかったが、自身のロンドンでの邸宅である[[クラレンス・ハウス]]に競馬実況中継の有線放送設備を敷設し、競馬観戦を楽しんでいた{{Sfn|Vickers|2006|p=458}}。「チャンピオンチェイス」として知られた障害競走の大レースが、エリザベス王太后生誕80周年を記念して、1980年に「[[クイーンマザーチャンピオンチェイス]]」に改称した<ref>The Jockey Club、[https://www.thejockeyclub.co.uk/cheltenham/events-tickets/the-festival/about-the-event/festival-races/the-queen-mother-champion-chase/ THE BETWAY QUEEN MOTHER CHAMPION STEEPLE CHASE]、「THE BETWAY QUEEN MOTHER CHAMPION STEEPLE CHASE HISTORY」。2021年3月2日閲覧。</ref>。また、エリザベスには美術品収集家の側面もあり、フランス人画家[[クロード・モネ]]、ウェールズ人画家オーガスタス・ジョン ([[:en:Augustus John]])、ロシア人工芸家[[ピーター・カール・ファベルジェ]]らの作品を購入している<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://www.royalcollection.org.uk/collection/the-collectors/queen-elizabeth|title=Queen Elizabeth The Queen Mother|publisher=The Royal Collection|access-date=31 October 2009}}</ref>。

[[File:Banqueting House Concert in aid of the Library Appeal, 1974 (9).jpg|thumb|200px|1974年]]
エリザベスは1964年2月に[[急性虫垂炎]]の手術を受け、予定されていた[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[フィジー]]の公式訪問は1966年まで延期されている{{Sfn|Shawcross|2009|p=806}}。手術後の療養として、王室所有のヨットであるブリタニア号でカリブ海を巡った{{Sfn|Shawcross|2009|p=807}}。1966年12月には、[[結腸癌]]と診断されていた腫瘍の摘出手術を受けている。この手術によって「エリザベス王太后には人工[[肛門]]が造設された」と噂されているが、そのような事実はない<ref>{{Cite news2|language=en|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8259474.stm|title=Queen Mother 'had colon cancer'|date=17 September 2009|access-date=22 September 2009|work=BBC News }}</ref>{{Sfn|Shawcross|2009|p=817}}。1982年に、魚の骨が喉に刺さって病院へ担ぎ込まれ、手術によって骨を除去したことがある。エリザベスは釣りも趣味としていたため、後にこの出来事を「[[サーモン]]に仕返しされたのよ」と冗談の種にした<ref name="straits">{{Cite news2|language=en|title=Queen of Quips |newspaper=The Straits Times (Singapore) |date=7 August 2000}}</ref>。1984年にエリザベスは二度目の癌摘出手術を受け、このときには胸からしこりを切除されている{{Sfn|Shawcross|2009|p=875}}。同年に胃閉塞にもなり、手術はせずに完治したものの、一晩病院に入院した{{Sfn|Shawcross|2009|p=878}}。

1975年にイラン皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パフラヴィー]]の招きに応じて、[[イラン]]を訪問した。当時の駐イラン大使パーソンズ夫妻は、地位や身分で分け隔てすることのないエリザベスの言動が、いかにイラン国民に熱狂的に受入れられたかを指摘し、パフラヴィーの側近たちにも、「民衆への接し方をエリザベスから学んで欲しい」と記している{{Sfn|Shawcross|2009|pp=822–823}}。しかし、イランの国情は不安定となっていき、[[イラン革命]]が起こり、パフラヴィーは1979年に皇帝の座から追われてしまった。1963年から1992年にかけて、エリザベスは私的に大陸へ22度足を運んで、ヨーロッパ諸国を訪れており{{Sfn|Shawcross|2009|p=835}}、1976年から1984年には毎年夏にフランスを訪問している{{Sfn|Shawcross|2009|pp=827–831}}。

孫のチャールズ王太子と結婚し、後に離婚し、事故死した[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ]]元王太子妃を除けば、その人格と魅力に定評があったエリザベスは、イギリス王室でもっとも人気のある王族だった<ref name="ezard" />。

==== 晩年 ====
崩御までの数年間、病弱で早逝した夫のジョージ6世とは正反対にエリザベスは長寿の王族としても有名だった。1990年8月4日に90歳の誕生日を迎えるエリザベスのために、エリザベスが後援していた300の様々な組織のメンバーなどが、6月27日に祝賀のパレードを挙行した{{Sfn|Shawcross|2009|pp=732, 882}}。1995年には「[[第二次世界大戦]]終戦50年」の記念式典に参列しているが、同年にエリザベスは左目の白内障手術と、右臀部の移植手術を受けている{{Sfn|Shawcross|2009|pp=903–904}}。

1998年には、[[ノーフォーク]]の[[サンドリンガム・ハウス]] 滞在中に、足を滑らせて転倒したことが原因で、左臀部にも移植手術が行われている{{Sfn|Shawcross|2009|p=912}}。2000年の100歳の誕生日は、さまざまなかたちで祝賀された。国民的俳優ノーマン・ウィズダム ([[:en:Norman Wisdom]]) と[[ジョン・ミルズ]]が後援した、エリザベスの生涯を寿ぐ祝賀パレード<ref>{{Cite news2|language=en|work=BBC News |title=Birthday pageant for Queen Mother|date=19 July 2000|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/841740.stm|access-date=1 May 2009}}</ref>、[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]]が発行した、エリザベスの肖像が印刷された20ポンド記念紙幣<ref>{{citation|url=http://www.rampantscotland.com/SCM/qetqm100.htm|title=Commemorative Bank Note for 100th Birthday of Queen Elizabeth the Queen Mother|publisher=Rampant Scotland|access-date=1 May 2009}}</ref> などである。また、[[シティ・オブ・ロンドン]]のギルドホール ([[:en:Guildhall, London]]) でエリザベス来臨のもと開かれた昼食会では、エリザベスと同席した[[カンタベリー大主教]][[ジョージ・ケアリー]]が、間違えてエリザベスのグラスからワインを飲む場面があった。このときエリザベスがすぐに「それは私のよ!」と注意したことが、笑い話として広く親しまれている{{Sfn|Vickers|2006|p=490}}。2000年11月に、エリザベスは転倒して鎖骨を骨折し、年末年始は療養生活を余儀なくされた。2001年8月1日には、軽い熱中症による貧血のために輸血を受けたが、8月4日の誕生日の恒例行事である[[クラレンス・ハウス]]での一般参賀には出席し、101歳の誕生日を国民から祝われた。

101歳のエリザベスは、2001年12月に転倒し骨盤を骨折した。だがエリザベスは、故ジョージ6世崩御から50年にあたる翌2002年の命日2月6日に演奏される国歌吹奏には、立ち姿で臨みたいと言い張っている{{Sfn|Vickers|2006|p=495}}。ジョージ6世の命日の3日後、2002年2月9日に次女マーガレットが、入院中のエドワード7世記念病院で71歳で薨去した。2002年2月13日に、エリザベスはサンドリンガム・ハウスで倒れて、腕に傷を負った<ref name="bbc">{{citation|publisher=BBC |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1818165.stm|title=Queen Mother hurt in minor fall|date=13 February 2002|access-date=1 May 2009}}</ref>。それでもエリザベスは、二日後の金曜日にウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で執り行われる、マーガレットの葬儀に出席することを決心していた{{Sfn|Shawcross|2009|p=930}}{{Sfn|Vickers|2006|pp=497–498}}。女王エリザベス2世を始めとする王族たちは、王太后の体調がノーフォークからウィンザーまでの移動に耐えられるのかを、深く憂慮していた{{Sfn|Vickers|2006|pp=497–498}}。最終的にはエリザベスの主張が通り、ウィンザーでの葬式に出席することができたが、このときエリザベスはマスコミを遠ざけることを望んだため、車椅子でこの葬儀に参列していたエリザベスの写真は残っていない{{Sfn|Vickers|2006|pp=497–498}}。

=== 崩御 ===
[[File:Queen Mother Carriage.jpg|thumb|right|王太后エリザベスの棺を運ぶ葬列。棺はイギリス王妃の[[バナー (旗)|スタンダード]]で覆われている。]]
[[File:Royal Standard of Queen Elizabeth, The Queen Mother.svg|thumb|right|イギリス王妃エリザベスのスタンダード。ボーズ=ライアン家の紋章は、それぞれ同音の弓(Bows)とライオン(Lion)で家名を表している。]]
{{see|{{仮リンク|エリザベス・ボーズ=ライアンの崩御と葬儀|en|Death and funeral of Queen Elizabeth The Queen Mother}}}}
2002年3月30日午後3時15分に、長女の女王エリザベス2世が枕元で見守る中、それまでの4か月間は風邪に苦しめられていた<ref name="bbc" /> エリザベスは、ウィンザー・グレート・パーク ([[:en:Windsor Great Park]]) のロイヤル・ロッジ ([[:en:Royal Lodge]]) で崩御した。病弱で早逝した夫のジョージ6世国王とは正反対に長寿を全うしたエリザベスが崩御した年齢は101歳で、イギリス王族としては当時史上最高齢だった。2022年現在では、2004年10月29日に102歳で薨去した、エリザベスの義妹にあたるグロスター公爵夫人[[アリス (グロスター公爵夫人)|アリス]]が最高齢記録となっている。

エリザベスの遺体は、ウィンザーから[[ウェストミンスター宮殿]]のウェストミンスターホールに運ばれた。エリザベスは自身の庭園すべてに[[ツバキ]]を植えており、イギリス王妃の[[バナー (旗)|スタンダード]]で囲まれた棺に安置されたエリザベスの遺体は、それらの庭園から摘まれたツバキで飾られていた<ref>{{Cite news2|language=en|url=http://www.guardian.co.uk/uk/2002/apr/03/queenmother.monarchy5|newspaper=The Guardian|first=Stephen|last=Bates|access-date=1 May 2009|date=3 April 2002|title=Piper's farewell for Queen Mother}}</ref>。近衛騎兵隊と国防軍兵士が棺台の四隅を見守る中、200,000人を超える人々が、三日にわたってウェストミンスターホールを訪れて、王太后との別れを惜しんだ。また、4月8日には、エリザベスの4人の男孫、エリザベス2世の王子である王太子チャールズ([[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]])、ヨーク公[[アンドルー (ヨーク公)|アンドルー]]、ウェセックス伯[[エドワード (ウェセックス伯爵)|エドワード]]、そしてマーガレット王女の長男[[デイヴィッド・アームストロング=ジョーンズ (第2代スノードン伯爵)|リンリー子爵デイヴィッド]](当時)が、立ったままで棺を見守る礼典 ([[:en:Vigil of the Princes]]) を務めている。

エリザベスの葬儀が行われたのは4月9日で、[[英連邦王国]]の[[カナダ]]では、[[カナダの総督|総督]]がこの日を記念日とすることをカナダ国民に問いかける声明を出した<ref>{{cite web2|language=en| url=http://publications.gc.ca/site/eng/110091/publication.html| last=Government of Canada Publications| title=Publication Information > Proclamation Requesting that the People of Canada Set Aside April 9, 2002, as the Day on Which They Honour the Memory of Our Dearly Beloved Mother, Her Late Majesty Queen Elizabeth the Queen Mother, Who Passed Away on March 30, 2002| publisher=Queen's Printer for Canada| access-date=4 October 2010}}</ref>。同じくイギリス連邦のオーストラリアでも[[オーストラリアの総督|総督]]が、[[シドニー]]の[[セントアンドリューズ大聖堂 (シドニー)|セントアンドリューズ大聖堂]]で開催された追悼式で告別の辞を読み上げた<ref>{{citation|publisher=Sydney Anglicans|title=Memorial Service for HM Queen Elizabeth, The Queen Mother|url=http://www.sydneyanglicans.net/mediareleases/23a/ |access-date=2 March 2011|date=9 April 2002}}</ref>。[[ロンドン]]では、ウェストミンスター寺院周辺と、エリザベスの棺が運ばれてその埋葬場所となる、夫ジョージ6世と次女マーガレットが眠る[[ウィンザー城]]の[[セントジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|聖ジョージ礼拝堂]]までのおよそ37kmの沿道が、100万人を超える人々で埋め尽くされた<ref>{{Cite news2|language=en|work=CNN|title=Queues at Queen Mother vault |url=https://edition.cnn.com/2002/WORLD/europe/04/10/uk.queenmum/index.html |access-date=1 May 2009|date=10 April 2002}}</ref>。エリザベスの棺の上に安置されていた[[リース (装飾)|リース]]は、生前のエリザベスの希望通りに、葬儀の後に長女の[[エリザベス2世]]女王自ら無名戦士の墓に捧げた。これは79年前の、当時ヨーク公だったジョージ6世とエリザベス・ボーズ=ライアンとの結婚式の思い出を再現したものだった<ref>{{Cite news2|language=en|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1920360.stm |work=BBC News |date=10 April 2002|access-date=1 May 2009|title=Mourners visit Queen Mother's vault}}</ref><ref>{{Cite news2|language=en|url=https://edition.cnn.com/2002/WORLD/europe/04/06/uk.royals.funeral/index.html |work=CNN |date=7 April 2002|access-date=14 Dec 2012|title=Details of the Queen Mother's funeral}}</ref>。

== 大衆からの評価 ==
[[File:Coat of Arms of Elizabeth Bowes-Lyon.svg|thumb|left|イギリス王妃エリザベスの紋章。[[イギリスの国章|イギリス国章]](左半分)とストラスモア=キングホーン伯爵家の紋章(右半分)が統合されている。ただし、スコットランド王妃としての紋章は別に存在する。]]
大衆からのエリザベス王太后の人気は非常に高く、近年のイギリス王族の中でも屈指の存在であり、[[イギリス王室]]の評判を高めることに大きく貢献したといわれている{{Sfn|Goldman|2021}}{{Sfn|Shawcross|2009|p=942}}。しかしながら、その生涯を通じて、程度の差こそあれ様々な批判も受けた人物でもあった。

イギリス王室に関する著作も多い、ジャーナリストで作家のキティ・ケリー ([[:en:Kitty Kelley]]) は、[[第二次世界大戦]]中のエリザベスが、戦時配給物資の規律を守っていなかったと主張している<ref name="kelley">{{citation|first=Kitty|last=Kelley|title=The Royals|publisher=Time Warner|location=New York|year=1977}}</ref><ref>{{citation|last=Picknett|first=Lynn|coauthors=Prince, Clive; Prior, Stephen; & Brydon, Robert|title=War of the Windsors: A Century of Unconstitutional Monarchy|publisher=Mainstream Publishing|year=2002|isbn=1-84018-631-3 |page=161}}</ref>。しかしながら、ケリーの主張は公式記録と矛盾しており<ref>The memoirs of the Rt. Hon. the Earl of Woolton C.H., P.C., D.L., LL.D. (1959) London: Cassell</ref>{{Sfn|Roberts|2000|p=67}}、アメリカ大統領夫人エレノア・ルーズヴェルトがバッキンガム宮殿に滞在していたときの記録には、宮殿では配給された食糧が出されており、使用できる風呂の湯量も制限されていたと明記されている<ref>{{citation |last=Goodwin |first=Doris Kearns |title=No Ordinary Time: Franklin and Eleanor Roosevelt: The Home Front in World War II |publisher=Simon & Schuster |location=New York |year=1995 |page=380}}</ref>{{Sfn|Shawcross|2009|pp=556–557}}。

さらにケリーは、エリザベスが[[黒人]]を[[人種差別]]用語で呼んでいたという主張をしているが<ref name="kelley" />、これは少佐コリン・バージェスが強く否定している<ref>{{citation |first=Major Colin|last=Burgess|title=Behind Palace Doors: My Service as the Queen Mother's Equerry|publisher=John Blake Publishing|year=2006|page=233}}</ref>。バージェスは、人種差別的発言をしたとして王太子一家の使用人を告発した、混血の秘書エリザベス・バージェスの夫だった人物である<ref>{{citation|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1697526.stm|title=Royal secretary loses race bias case|publisher=BBC |date=7 December 2001|access-date=1 May 2009}}</ref>。エリザベスは公式に人種に関する発言をしたことはないが、歴史家で保守党議員だったロバート・ローズ・ジェームズ ([[:en:Robert Rhodes James]]) は、私的な場でエリザベスが「人種差別を忌み嫌って」おり、南アフリカの人種隔離政策である[[アパルトヘイト]]を「なんとひどい」と非難していたことを書き残している<ref>{{citation|first=Robert|last=Rhodes James|year=1998|title=A Spirit Undaunted: The Political Role of George VI|location=London|publisher=Little, Brown and Co|isbn=0-316-64765-9|page=296}}</ref>。エリザベスと親しかった政治家ウッドロー・ワイアットも自身の日記に、白人ではない国の人々の外見は「私たち」と共通する点が見当たらないと漏らしたときに、エリザベスが「私はイギリス連邦を深く愛しています。どの国の人たちも私たちと同じです」といったことを記している<ref>{{citation|author=Wyatt, Woodrow|coauthors=Edited by Sarah Curtis|title=The Journals of Woodrow Wyatt: Volume II|year=1999|publisher=Macmillan|location=London|page=547|isbn=0-333-77405-1}}</ref>。しかしながら、エリザベスもドイツ人には不信感を持っており、ワイアットに「彼ら(ドイツ人)は決して信用できない、信頼に値しない」と言っている<ref>Wyatt, ''Volume II'' p. 608</ref>。ただし、このようなエリザベスのドイツ人への評価は、二度の世界大戦でドイツと敵対した経験を持つ、エリザベスと同世代で一般的な教育を受けた人から見れば、ごく当たり前の言動だとも言われている<ref>Bates, Stephen (1 April 2002), [http://www.guardian.co.uk/queenmother/article/0,,677159,00.html "Enigmatic and elusive, she lent a mystique to upper-class strengths and failings"], ''The Guardian'', retrieved on 1 May 2009</ref>。

1987年に、エリザベスは自身の兄ジョン・ボーズ=ライアンの娘で、姪にあたる[[ボーズ=ライアン家のネリッサとキャサリン|ネリッサとキャサリン姉妹]]が、精神病院に入院していたことが明るみに出たときに非難されている。ただし、イギリス王侯貴族の紳士録『バークス・ピアレージ ([[:en:Burke's Peerage]])』には、この二人が故人として記載されており、これは母親であるフェネラが「バークス・ピアレージからの記入用紙を埋めるときに「非常にぼんやりと」しており、一族の記載を中途半端に終わらせてしまった」ためではないかとされている<ref>{{citation | url=http://www.highbeam.com/doc/1P2-9988709.html |first=Neil |last=MacKay |title=Nieces abandoned in state-run mental asylum and declared dead to avoid public shame |journal=The Sunday Herald |date=7 April 2002 |access-date=13 February 2007}}</ref>。ネリッサはこの事件の前年1986年に既に死去しており、その墓には続き番号が記されたプラスチックのタグがつけられているだけだった。エリザベスはこのような慣習が行われていることを聞かされたときには、大きな衝撃を受けたと反論している<ref>{{citation |url=http://www.guardian.co.uk/uk/2000/jul/23/queenmother.monarchy |first=Ben |last=Summerskill|title=The Princess the palace hides away |journal=The Guardian |date=23 July 2000 |access-date=1 May 2009}}</ref>。

建築家ヒュー・カッソン ([[:en:Hugh Casson]]) は、エリザベスのことを「岩を砕く波(のような女性)だった。彼女は穏やかで優しく、そして魅力的な女性だったが、強い不屈の精神の持ち主でもあった。・・・・・・波が岩にぶつかるときには、海水の飛沫が陽光にきらめいて美しい踊りを見せる。しかし、隠れた波の下では硬く頑強な岩が砕かれていっている。彼女には、強固な主義主張、勇気、そして義務感が隠されている」と評している{{Sfn|Hogg|2002|p=122}}。俳優[[ピーター・ユスティノフ]]は、自身が名誉総長、エリザベスが総長を務めていたダンディー大学の儀式で、1968年に学生たちのデモに遭遇したときのことを語っている。「(デモ隊が、王太后陛下も参列されている)厳粛な行進に出くわしたんだ。そのとき、学生たちがトイレット・ペーパーをこっちに向かって何本も投げつけてきた。ペーパーの端は学生が握ったままだったから、リボンみたいに糸を引いて飛んできたよ。それを目にされた陛下は足を止めて、誰かの落し物を拾うみたいにトイレット・ペーパーを持ち上げられた。そして、そのトイレット・ペーパーを学生たちに差し出しながら「これは貴方たちのものでしょう?取りにいらっしゃい」と仰せになった。そのときの陛下はいたって平静だったんだけど、とてもじゃないが何か言い返せるような雰囲気じゃなかったね。あっという間に学生たちはみんな静かになった。陛下は声を荒らげたわけでもなんでもなかった。まるで、誰もがよくやるミスを注意してくださるみたいに振舞われただけだった。毅然とした態度というわけじゃなく、この上なく優雅で魅力的に見えたんだ。だけど馬鹿騒ぎを鎮めるのに、これ以上の方法はなかった。陛下は荒れ狂う波だって穏やかにできる様な方だったよ」{{Sfn|Hogg|2002|pp=212–213}}

== その他 ==
[[File:queen mother statue.jpg|thumb|right| ロンドンの[[ザ・マル (ロンドン)|ザ・マル]]に立っているエリザベス王妃のブロンズ像。後ろに見えるのは夫たる国王ジョージ6世のブロンズ像。]]
エリザベスは辛口のユーモアでも知られていた。[[ビルマのマウントバッテン伯爵|マウントバッテン・オブ・バーマ伯]]夫人[[エドウィナ・マウントバッテン]]{{efn2|初代マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵[[ルイス・マウントバッテン]]の妻。}}が遺言通りに[[水葬]]に付されたことを聞いたエリザベスは、「親愛なるエドウィナ、彼女はいつも人を驚かせるのが好きだったわ ({{lang|en|''Dear Edwina, she always liked to make a splash'' }}) (「{{lang|en|make a splash}}」 は成句で「人を驚かせる、耳目を集める」の意味。水葬で棺を海を投じたときの水しぶき (splash) にかけた洒落)」と言っている<ref name="straits" />。また、1970年代に保守党の首相が、同性愛者を雇用しないようにエリザベスに勧告したときには、彼らがいなくなったら「セルフサービスしろとでも言うのかしら」と撥ねつけている<ref name="blaikie">{{citation |first=Thomas |last=Blaikie |title=You look awfully like the Queen: Wit and Wisdom from the House of Windsor |publisher=HarperCollins |location=London |year=2002 |isbn=0-00-714874-7}}</ref>。通常のボトル20本分の分量が入るネブカドネザルボトルのシャンパンが贈られたときに、次の休日に家族が誰もいなくても、エリザベスは「全部自分で空ける」と言った<ref>{{citation |first=Graham |last=Taylor |title=Elizabeth: The Woman and the Queen |publisher=Telegraph Books |year=2002 |page=93}}</ref>。『[[ガーディアン|ガーディアン紙]]』のエミネ・サネルは、エリザベスが正午に[[ジン (蒸留酒)|ジン]]と[[デュボネ]]、昼食時に赤ワイン、午後6時に[[ポートワイン]]と[[マティーニ]]、夕食時に二杯のシャンパンを飲んでいるとし、「控えめに見積もっても、陛下は純粋なアルコール換算で、週に7リットルの量を飲んでいる計算になる」としている<ref>{{citation|last=Saner|first=Emine|title=Bring back the magic hour|url=http://www.guardian.co.uk/uk/2006/jul/25/monarchy.features11|access-date=24 March 2011|newspaper=[[The Guardian]]|date=25 July 2006}}</ref>。エリザベスの豪奢な暮らしぶりはマスコミに喜ばれていた。とくに[[プライベート・バンキング|プライベート・バンク]]のクーツ銀行 ([[:en:Coutts]]) に数百万ポンドの当座借越があるのが分かったときには、格好のネタにされてしまった<ref>{{citation |first=Christopher |last=Morgan |title=The Sunday Times |date=14 March 1999}}</ref>。

エリザベスの癖や習慣は、風刺をきかせたパロディにされることもあった。1980年代のテレビ人形劇『[[スピッティング・イメージ]]』(Spitting Image) にエリザベスを模した人形が登場したことがあり、女優のベリル・リード ([[:en:Beryl Reid]]) がバーミンガム訛りで声を当て<ref>{{citation |url=http://www.bfi.org.uk/features/interviews/spitting-image.html|title=Spitting Image |access-date=15 February 2009|date=9 December 2005|publisher=British Film Institute}}</ref>、さらに競馬新聞『[[レーシング・ポスト]]』が常に一緒に映されていた。また、ドラマや映画でエリザベスを演じた女優として、2002年のテレビドラマ『バーティとエリザベス ([[:en:Bertie and Elizabeth]]) 』の[[ジュリエット・オーブリー]]、2006年の映画『[[クィーン (映画)|クィーン]]』のシルヴィア・シムズ ([[:en:Sylvia Syms]])、2010年の映画『[[英国王のスピーチ]]』の[[ヘレナ・ボナム=カーター]]らがいる。ヘレナ・ボナム=カーターはこの作品で[[アカデミー助演女優賞]]にノミネート、[[英国アカデミー賞 助演女優賞]]を受賞した。

[[File:Qew-lg.jpg|thumb|left|[[トロント]]のクイーン・エリザベス通りにあるモニュメント ([[:en:Queen Elizabeth Way Monument]])。王妃エリザベスと国王ジョージ6世の肖像が刻まれている。]]
エリザベスの遺産は、自身のスタッフに遺贈されたものを除いて、全てエリザベス2世が相続した。絵画、[[インペリアル・イースター・エッグ|ファベルジェ・エッグ]]、宝石、馬などを含め、総額は7,000万ポンド相当と見なされている。エリザベスは崩御する8年前に、自身の曾孫のために財産の3分の2を信託に拠出したと報じられていた。遺産の美術品のなかでももっとも重要な作品は、相続したエリザベス2世が[[ロイヤル・コレクション]]に収蔵している<ref>{{citation|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1993665.stm|title=Queen Inherits Queen Mother's Estate|publisher=BBC News |date=17 May 2002|access-date=1 May 2009}}</ref>。

ロンドンの[[ザ・マル (ロンドン)|ザ・マル]]に設置されているエリザベスのブロンズ像は、彫刻家フィリップ・ジャクソンが制作したもので、2009年2月24日に公開されている<ref>{{citation|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/7906986.stm|title=Queen Mother statue is unveiled|date=24 February 2009|publisher=BBC |access-date=1 May 2009}}</ref>。海運会社[[キュナード・ライン]]の[[クイーン・エリザベス (客船)|RMS クイーン・エリザベス号]]は、エリザベスにちなんで命名され、1938年9月27日に、スコットランドのクライドバンクで[[進水式]]が催された。この進水式にはエリザベス本人も臨席し、進水式の重要なセレモニーであるワインを船首に叩きつけて割る役目を任されていた。しかしながら、おそらくは予定よりも早くクイーン・エリザベス号が海に向かって滑り出してしまった。手が届かなくなるぎりぎりのところで、エリザベスは何とかオーストラリア産赤ワインのボトルを船首に叩きつけて割ることに成功した<ref>Hutchings, David F. (2003) ''Pride of the North Atlantic. A Maritime Trilogy'', Waterfront.</ref>。1954年に、エリザベスはクイーン・エリザベス号に乗船してニューヨークへと渡っている<ref>Harvey, Clive (25 October 2008) ''RMS "Queen Elizabeth": The Ultimate Ship'', Carmania Press.</ref>。

2011年3月に、エリザベスが集めていたレコードのコレクションが公開され、どのような音楽が好きだったのかが明らかになった<ref>[http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/theroyalfamily/8379979/The-Queen-Mothers-regal-taste-in-music.html The Queen Mother's regal taste in music at telegraph.co.uk]</ref>。エリザベスは音楽としては[[スカ]]がお気に入りだったらしく、音楽以外ではモンタナ・スリム、トニー・ハンコック、ザ・グーン、[[ノエル・カワード]]などのレコードも所有していた。スカ以外の音楽では、イギリスのフォーク、スコットランドのダンス音楽、ミュージカルの『[[オクラホマ!]]』や『[[王様と私]]』も所有していた。

== 関連作品 ==
=== 映画 ===
2006年のイギリス映画『[[クィーン (映画)|クィーン]]』では、[[シルヴィア・シムズ]]がエリザベス王太后役を演じた。

2010年の[[イギリスの映画|イギリス映画]]『[[英国王のスピーチ]]』では、[[吃音症]]を克服するジョージ6世を傍らで支える妻エリザベスのさまも描かれている。エリザベス王妃を演じた[[ヘレナ・ボナム=カーター]]が[[英国アカデミー賞 助演女優賞]]をはじめ複数の賞を獲得し、[[アカデミー助演女優賞]]などにもノミネートされた。

2012年のイギリス映画『[[私が愛した大統領]]』では、[[オリヴィア・コールマン]]がエリザベス王妃役を演じた。

2015年のイギリス映画『[[ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出]]』では、[[エミリー・ワトソン]]がエリザベス王妃役を演じた。

=== テレビドラマ ===
『[[:en:Bertie and Elizabeth|''Bertie and Elizabeth'']]』(2002年、[[カールトン・テレビジョン]]製作)では、[[ジュリエット・オーブリー]]がエリザベス王妃役を演じた。

[[Netflix]]配信テレビドラマシリーズ『[[ザ・クラウン (ネットフリックス)|ザ・クラウン]]』(2016年-)では、{{仮リンク|ヴィクトリア・ハミルトン|en|Victoria Hamilton}}(シーズン1・2)、{{仮リンク|マリオン・ベイリー|en|Marion Bailey}}(シーズン3・4)、{{仮リンク|マーシャ・ウォレン|en|Marcia Warren}}(シーズン5・6)がエリザベス王太后役を演じている。

<!-- 【日本語化するのが難しいため、この節は訳出せず】

== Titles, styles, honours and arms ==
[[File:Coat of Arms of Elizabeth Bowes-Lyon.svg|thumb|right|Coat of arms of Queen Elizabeth<br />(except in Scotland)]]

=== Titles and styles ===
{{Main|List of titles and honours of Elizabeth Bowes-Lyon}}
* '''1900–1904''': ''The Honourable'' Elizabeth Bowes-Lyon
* '''1904–1923''': ''Lady'' Elizabeth Bowes-Lyon
* '''1923–1936''': ''Her Royal Highness'' The Duchess of York
* '''1936–1952''': ''Her Majesty'' The Queen
** '''1936–1947''' (for [[British India]]): ''Her Imperial Majesty'' The Queen-Empress
* '''1952–2002''': ''Her Majesty'' Queen Elizabeth The Queen Mother

=== Arms ===
Queen Elizabeth's coat of arms was the [[royal coat of arms of the United Kingdom]] (in either the English or the Scottish version) [[impalement (heraldry)|impaled]] with the arms of her father, the [[Earl of Strathmore]]; the latter being: 1st and 4th [[Quartering (heraldry)|quarters]], [[Argent]], a lion [[rampant]] [[Azure (heraldry)|Azure]], armed and langued [[Gules]], within a double [[tressure]] flory-counter-flory of the second (Lyon); 2nd and 3rd quarters, [[Ermine (heraldry)|Ermine]], three bows stringed [[Pale (heraldry)|paleways]] proper (Bowes).<ref>{{citation|last=Brooke-Little|first=J.P., FSA|authorlink=John Brooke-Little|title=Boutell's Heraldry|origyear=1950|edition=Revised|year=1978|publisher=Frederick Warne|location=London|isbn=0-7232-2096-4|page=220}}</ref> The shield is surmounted by the imperial crown, and supported by the crowned lion of England and a lion rampant per [[fess]] [[Or (heraldry)|Or]] and Gules.<ref>{{citation|last=Pinches|first=John Harvey|authorlink=John Pinches|coauthors=Pinches, Rosemary|title=The Royal Heraldry of England|series=Heraldry Today|year=1974|publisher=Hollen Street Press|location=Slough, Buckinghamshire|isbn=0-900455-25-X|page=267}}</ref>
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== 系譜 ==
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|1= 1. '''エリザベス・ボーズ=ライアン'''
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|3= 3. [[セシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク|セシリア・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]
|4= 4.[[クロード・ボーズ=ライアン (第13代ストラスモア=キングホーン伯爵)|第13代ストラスモア=キングホーン伯爵クロード・ボーズ=ライアン]]
|5= 5. フランセス・ドーラ・スミス
|6= 6. チャールズ・ウィンリアム・フレデリック・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
|7= 7. キャロライン・ルイザ・バーナビー
|8= 8. グラームス卿トーマス・ライアン・ボーズ
|9= 9. シャルロット・グリムステッド
|10= 10. オズワルド・スミス
|11= 11. ヘンリエッタ・ミルドレッド・ホジソン
|12= 12. チャールズ・ベンティンク卿
|13= 13. アン・ウェルズリー
|14= 14. エドウィン・バーナビー
|15= 15. アン・キャロライン・ソールズベリー
|16= 16. [[トマス・ライアン=ボーズ (第11代ストラスモア=キングホーン伯爵)|第11代ストラスモア=キングホーン伯爵トーマス・ライアン・ボーズ]]
|17= 17. メアリー・エリザベス・ルイザ・カーペンター
|18= 18. ジョセフ・ヴァレンタイン・グリムステッド
|19= 19. シャルロット・ジェーン・サラ・ウォルシュ
|20= 20. ジョージ・スミス
|21= 21. フランセス・メアリー・モズリー
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|24= 24. 第3代[[ポートランド伯爵|ポートランド公]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]
|25= 25. ドロシー・キャヴェンディッシュ
|26= 26. 初代[[モーニントン伯|ウェルズリー侯]][[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|リチャード・ウェルズリー]]
|27= 27. イアサント=ガブリエル・ロラン
|28= 28. エドウィン・アンドルー・バーナビー
|29= 29. メアリー・ブラウン
|30= 30. トーマス・ソールズベリー
|31= 31. フランセス・ウェッブ
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==関連項目==
== 参考文献 ==
* {{Cite book2|language=en|last=Bradford|first=Sarah|title=The Reluctant King: The Life and Reign of George VI|publisher=St Martin's|location=New York|year=1989}}
{{commonscat|Queen Elizabeth, The Queen Mother}}
* {{Cite book2|language=en|last=Forbes|first=Grania|title=My Darling Buffy: The Early Life of The Queen Mother|publisher=Headline Book Publishing|year=1999|isbn=978-0-7472-7387-5}}
*[[キングジョージ6世&amp;クイーンエリザベスステークス]]
* {{Cite book2|language=en|first=James|last=Hogg|editor-last=Mortimer|editor-first=Michael|title=The Queen Mother Remembered|publisher=BBC Books|year=2002|isbn=0-563-36214-6}}
*[[イギリス王室]]
* {{Cite book2|language=en|last=Howarth|first=Patrick|title=George VI|publisher=Century Hutchinson|year=1987|isbn=0-09-171000-6}}
*[[グラームス城]]
* {{Cite ODNB|id=76927|last=Goldman|first=Lawrence|date=11 February 2021|orig-date=5 January 2006|title=Elizabeth [née Lady Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon]|freearticle=y}}
*[[デイムラー DS420]]
* {{Cite book2|language=en|last=Longford|first=Elizabeth|title=The Queen Mother|publisher=Weidenfeld & Nicolson|year=1981}}
* {{Cite book2|language=en|first=Andrew|last=Roberts|editor-last=Fraser|editor-first=Antonia|title=The House of Windsor|publisher=Cassell and Co.|location=London|year=2000|isbn=0-304-35406-6}}
* {{Cite book2|language=en|last=Shawcross|first=William|title=Queen Elizabeth The Queen Mother: The Official Biography|publisher=Macmillan|year=2009|isbn=978-1-4050-4859-0}}
* {{Cite book2|language=en|last=Vickers|first=Hugo|title=Elizabeth: The Queen Mother|publisher=Arrow Books/Random House|year=2006|isbn=978-0-09-947662-7}}
* {{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|year=2020-2|title=エリザベス女王 <small>史上最長・最強のイギリス君主</small>|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=978-4-12-102578-4|ref={{SfnRef|君塚|2020}}}}


==外部リンク==
== 関連図書 ==
* {{Cite book2|language=en|last=Shawcross|first=William|title=Counting One's Blessings: Selected Letters of Queen Elizabeth the Queen Mother|publisher=Macmillan|year=2012|isbn=978-0-230-75496-6}}

== 外部リンク ==
{{Wikiquote|エリザベス・ボーズ=ライアン}}
{{Commons category|Queen Elizabeth, The Queen Mother|エリザベス・ボーズ=ライアン}}
* [http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/obituaries/queen_mother/default.stm BBCによる追悼サイト] {{En icon}}
* [http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/obituaries/queen_mother/default.stm BBCによる追悼サイト] {{En icon}}
* {{YouTube|tvglWKl6b1A|結婚式の記録映画}}
* {{YouTube|tvglWKl6b1A|結婚式の記録映画}}
* [http://www.royal.gov.uk/HistoryoftheMonarchy/The%20House%20of%20Windsor%20from%201952/QueenElizabethTheQueenMother/Biography.aspx Official site]

* [http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/obituaries/queen_mother/funeral_procession/poet.stm Remember This—An Elegy on the death of HM Queen Elizabeth, The Queen Mother] by Andrew Motion, Poet Laureate, at the BBC
<!--このページは[[:en:Elizabeth Bowes-Lyon]]から翻訳されました。-->
* [http://archives.cbc.ca/society/monarchy/topics/2367/ CBC Digital Archives – Their Majesties in Canada: The 1939 Royal Tour]


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{{結婚によりイギリスのプリンセスとなった人物}}
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エリザベス・ボーズ=ライアン
Elizabeth Bowes-Lyon
イギリス王妃
インド皇后
リチャード・ストーンによる肖像画(1986年撮影)
在位 イギリス王妃:
1936年12月11日 - 1952年2月6日
インド皇后:
1936年12月11日 - 1947年8月15日
戴冠式 1937年5月12日
別称号 ロイヤル・ヴィクトリア勲章グランドマスター

全名 Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon
エリザベス・アンジェラ・マルグリート・ボーズ=ライアン
出生 1900年8月4日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
死去 (2002-03-30) 2002年3月30日(101歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドウィンザーウィンザー城
埋葬 2002年4月9日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド、ウィンザー、ウィンザー城内聖ジョージ礼拝堂
結婚 1923年4月26日
配偶者 ジョージ6世
子女 エリザベス2世
マーガレット
家名 ボーズ=ライアン家
父親 クロード・ジョージ・ボーズ=ライアン
母親 セシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
サイン
役職 ロンドン大学総長
ダンディー大学総長
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エリザベス・アンジェラ・マルグリート・ボーズ=ライアン[注 1][1]英語: Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon, 1900年8月4日 - 2002年3月30日)は、連合王国(イギリス)の王妃(在位:1936年12月11日 - 1952年2月6日)、およびインド皇后(在位:1936年 - 1947年)。

1923年ヨーク公アルバート(ジョージ6世)と結婚。1936年に夫が国王に即位したため王妃となった。1952年に夫が冠動脈血栓症で崩御し、長女のエリザベス2世HM Queen Elizabeth II)が即位したため、両者が同名であることによる混乱を避けるために、エリザベス2世の即位以降はエリザベス王太后(エリザベスおうたいごう、HM Queen Elizabeth The Queen Mother)と呼ばれるようになった[2]。エリザベスは、最後のインド皇后である。

概要

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エリザベスは、父クロード・ボーズ=ライアンと母セシリア・ニーナ・ボーズ=ライアンの四女として、1900年8月4日に誕生した。

1904年に父親のクロードが、スコットランド爵位であるストラスモア・アンド・キングホーン伯爵位を継いだことから、それまでの称号だったオナラブル・エリザベス・ボーズ=ライアンからレディ・エリザベス・ボーズ=ライアンへと称号が変わっている。

1923年にイギリス国王ジョージ5世と王妃メアリーの次男ヨーク公アルバートと結婚した。ヨーク公夫妻と、長女エリザベス王女、次女マーガレット王女は、イギリスの伝統的な良き家庭と、王族としての公務とを上手に両立させていった[3]。ヨーク公爵夫人エリザベスは様々な公務を引き受け、その温和な仕草から「微笑みの公爵夫人 (Smiling Duchess)」と呼ばれるようになっていった[4]

1936年1月30日に義父ジョージ5世が崩御し、アルバートの兄である王太子エドワードがエドワード8世として即位した。しかしエドワード8世は、既婚アメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を望み、議会と対立した。最終的に、「王冠を賭けた恋」とも呼ばれ同年12月にエドワード8世はシンプソン夫人との結婚を選択して退位した。王位継承順位第1位であった夫のアルバートがジョージ6世としてイギリス国王に即位した。

王妃となったエリザベスは、国王ジョージ6世とともに夫妻で、第二次世界大戦の直前にフランスカナダアメリカ合衆国へ外遊している。第二次世界大戦中にエリザベスは不屈の意思を見せて、イギリス国民の精神的支柱となった。イギリス国民の士気を鼓舞する役割を果たすエリザベス王妃を知った敵国ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラー総統は、王妃エリザベスを「ヨーロッパで最も危険な女性」と評した[5]第二次世界大戦終結後、体調を崩しがちになった夫のジョージ6世1952年2月6日に56歳で崩御し、エリザベスは51歳で未亡人となった。長女のエリザベス王女がエリザベス2世として王位を継承し、その母親である自身は王妃から王太后となった。

ジョージ6世の母メアリー太王太后も翌1953年に死去し、イギリスを出国してフランスで居住していたウィンザー公(前国王エドワード8世)と、ジョージ6世の後を継いでイギリス国王(女王)に27歳で即位した娘のエリザベス2世とがイギリス王室のシニア・メンバーとなり、エリザベスは王室の女性の長老格となった。他の王族たちが国民からの厳しい視線にさらされる中にあって、エリザベス王太后は晩年になってもイギリス国民からの高い人気を保ち続けていた[6]

病弱で早逝した夫とは正反対に長寿を全うしたエリザベス王太后は崩御する数か月前まで公務をこなし続けていたが、次女マーガレットが薨去した7週間後の2002年3月30日に、101歳でその生涯を閉じた。

生涯

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幼少期

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エリザベス・アンジェラ・マルグリート・ボーズ=ライアン[1]は、グラームス卿クロード・ジョージ・ボーズ=ライアン(後にスコットランド爵位第14代ストラスモア・アンド・キングホーン伯爵)とセシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンクとの間に、10人兄妹の第九子、末娘として、1900年8月4日に誕生した。

母セシリアは、1783年と1807年からの二度にわたって首相を務めた第3代ポートランド公ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと、同じく1828年から首相を務めた初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリーの長兄である、初代ウェルズリー侯リチャード・ウェルズリーの子孫である。セシリアの出自には噂があり、1997年にはアメリカ人ジャーナリストのキティ・ケリー (en:Kitty Kelley) が、エリザベスの母親はウェールズ人の家政婦だといわれているという説を紹介した[7]。さらに、イギリス人作家コーリーン・キャンベル (en:Lady Colin Campbell) は2012年の著書で、エリザベスの実母は、とある貴族が代理出産母として手配したマルグリット・ロディエという名のフランス料理人だったと主張した。しかしながらキャンベルの説はマイケル・ソーントンやヒューゴー・ヴィッカーズなどのイギリス王室伝記作家によって激しく批判されている[8]

エリザベスの出生地ははっきりと伝わっておらず、ウェストミンスターのベルグレイヴ・マンションズ、あるいは、病院へ向かう途中の救急馬車内で生まれたともいわれている[9]。他にも、ロンドンのハム (en:Ham, London) のフォーブス・ハウスや、母方の祖母ルイザ・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (en:Louisa Cavendish-Bentinck) 宅といった説がある[10]。出生届はハートフォードシャーのヒッチン (en:Hitchin) で出されており[11]、この地は翌1901年の国勢調査で、エリザベスの出生地として登録されているストラスモアのカントリー・ハウス、セント・ポールズ・ウォルデン・ベリー (en:St Paul's Walden Bury) の近隣である[12]。エリザベスは1900年9月23日に当地の教区教会オール・セインツで洗礼を受け、父方の叔母レディ・モード・ボーズ=ライアンと従姉妹のアーサー・ジェイムズ夫人が名付け親となった[13]

グラームス城

エリザベスは幼少期の大半を、セント・ポールズ・ウォルデン (en:St Paul's Walden) と、歴代ストラスモア=キングホーン伯爵家のスコットランドでの居城グラームス城で過ごした。8歳になるまで女性家庭教師に教育を受け、屋外競技やポニー、犬が好きな少女だった[14]。ロンドンの学校に通い始めると、古代ギリシアの哲学者クセノフォンの著作『アナバシス』の二つのギリシア単語を題材としたエッセイを書き、その早熟な才能で教師たちを驚かせたというエピソードがある。エリザベスが得意とした科目は文学と聖書学だった。その後ドイツ系ユダヤ人女性家庭教師ケーテ・キューブラーに学び、13歳でオクスフォード・ケンブリッジ・RSA (en:Oxford, Cambridge and RSA Examinations) の資格試験に優等で合格した[15]

エリザベスが14歳の誕生日1914年8月4日に、イギリスはドイツ帝国に宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦した。エリザベスの兄4人が陸軍に従軍し、ロイヤル・スコットランド連隊ブラック・ウォッチ歩兵連隊 (en:Black Watch) の士官だった兄ファーガス (en:Fergus Bowes-Lyon) が、1915年のルーの戦い (en:Battle of Loos) で戦死している。当初ファーガスの埋葬場所は記録されていたが、その後失われてしまい、戦争祈念施設ルー・メモリアル (en:Loos Memorial) に合葬されていた。2012年になってファーガスの埋葬地が正式に認定されて、新たな墓石が建てられている[16][17]

もう一人の兄マイケルは、1917年4月28日に戦闘中に行方不明になった[18]。その3週間後に、負傷したマイケルが捕虜となっていることがボーズ=ライアン家に伝えられ、マイケルは戦争終結までそのまま捕虜収容所に捕らえられていた。ボーズ=ライアン家の居城グラームス城が、戦時負傷者の療養場所として接収されたときには、エリザベスも負傷者の看護を手伝っている[19]。また、エリザベスは、1916年9月16日にグラームス城が大火に遭ったときに、城の所蔵物を救い出すために目覚しい働きを見せた[20]。エリザベスが看病した兵士の中には、エリザベスをはじめグラームス城での待遇に対する感謝を、エリザベスのメモ帳に記した兵士もいた[21]

ヨーク公アルバートとの結婚

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イギリス国王ジョージ5世の次男だったヨーク公アルバート王子は、家族からはバーティという愛称で呼ばれていた。アルバートが最初にエリザベスに結婚を申し込んだのは1921年だったが、このときエリザベスはアルバートからの求婚を断っており、アルバートは「何も考えられない、話したくない、何をすべきなのか分からない」と語るまでに失望している[22]。なおもアルバートが、エリザベス以外の女性と結婚することは考えられないと公言したため、アルバートの母であるイギリス王妃メアリーが、ここまでアルバートの心を捉えたエリザベスに会うためにグラームス城を訪問した。メアリーは、エリザベスこそが「バーティを幸福にすることが出来る唯一の女性」であると確信するようになったが、メアリーの勧めにもエリザベスは首を縦に振ることはなかった[23]。当時のエリザベスは、アルバートの侍従で、後に初代スチュアート・オヴ・フィンドホーン子爵に叙されるジェイムズ・スチュアート (en:James Stuart, 1st Viscount Stuart of Findhorn) にも求愛されており、この関係はスチュアートがアルバートのもとを離れて、アメリカでの石油産業に身を投じるまで続いていた[24]

メアリー王女の結婚式(後列左から2人目がエリザベス)

1922年2月に、アルバートの妹メアリー王女とラッセルズ子爵(後に第6代ハーウッド伯ヘンリー・ラッセルズ)との結婚式が挙行され、エリザベスはメアリーの花嫁付添人 (en:Bridesmaid) に選ばれている[25]。結婚式の翌月にアルバートは再びエリザベスに求婚したが、このときもエリザベスはアルバートの申し出を断った[26]。王族との結婚生活に不安を抱きつつも、エリザベスがアルバートの求婚を受け入れたのは1923年1月のことである[27]。自由恋愛の末にエリザベスと結婚したアルバートは、エリザベスが貴族の娘だったにも関わらず、王室の近代化の現れであるとしてイギリス国民から歓迎された。それまでの王子は、伝統的に他国の王女との結婚が求められていたためである[28][29]

1923年、結婚式

アルバートとエリザベスは1923年4月26日にウェストミンスター寺院で結婚式を挙げた。エリザベスは、ウェストミンスター寺院の建物の入り口から内部へと向かうときに、床面にある第一次世界大戦の戦没者を悼む無名戦士の墓に、手に持っていたブーケを[30]捧げた[31]。これは予定外の行動であったが、第一次大戦で戦没した兄ファーガスを偲んでのことだった[32]。現在、王族の結婚式では、挙式の翌日に花嫁がブーケを無名戦士の墓に捧げることが慣例となっている[33]

王族の一員となったエリザベスは「ヨーク公爵夫人殿下」(Her Royal Highness The Duchess of York)の称号で呼ばれることとなった[34]バッキンガム宮殿で催された、三代のイギリス国王に仕えた料理長ガブリエル・チュミ (en:Gabriel Tschumi) が用意した結婚式後の会食を終えた後に、ヨーク公夫妻は新婚旅行先のサリー郊外のマナー・ハウス、ポレスデン・レイシー (en:Polesden Lacey) に向かった。その後、夫妻はスコットランドへ渡ったが、この地でエリザベスは百日咳にかかってしまった[36]

ヨーク公夫妻は、1924年7月の北アイルランド訪問を無事に成功させ、当時の労働党内閣から、1924年12月から1925年4月までの東アフリカへの外遊を承認された[37]。政権を握っていた労働党だったが、1924年11月の総選挙で保守党に敗北し、この総選挙の結果についてエリザベスは「驚いた」と、母親のストラスモア=キングホーン伯爵夫人に書簡を送っている[39]英埃領スーダン (en:Anglo-Egyptian Sudan) の総督だったリー・スタック卿 (en:Lee Stack) が当地で11月19日に暗殺されたが、ヨーク公夫妻の東アフリカ外遊は取止めにはならず、アデン保護領 (en:Aden Protectorate)、ケニア植民地 (en:Kenya Colony)、ウガンダ保護領 (en:Uganda Protectorate)、そして英埃領スーダンを訪れた。ただし、エジプトは当時の政治的緊張から、夫妻の訪問は見送られている[40]

アルバートは吃音症で、公式な場での演説を非常に苦手としていた。エリザベスは、1925年10月以降、オーストラリア人セラピストのライオネル・ローグらの治療をアルバートに受けさせて、吃音症の改善に協力した。このエピソードは、後に2010年のイギリス映画『英国王のスピーチ』で再現されている。

1926年に、夫妻の最初の子供で、後にエリザベス2世としてイギリス国王に即位する長女が生まれ、母親と同じエリザベスと名付けられた(以下、母娘の記述上の混同を避けるため、国王即位前であっても、娘はエリザベス2世と表記する )。4年後の1930年には次女マーガレット・ローズが生まれている。

1927年、豪州訪問(左2人目がヨーク公、右端がエリザベス)

1927年に、アルバートとエリザベスはオーストラリアを公式訪問し、キャンベラの国会議事堂の完成式典に出席した[41]。このオーストラリア訪問時に、生後一年の長女エリザベス2世は連れて行けず、エリザベスは「赤ん坊を残して旅立たねばならないとは、なんと惨めなことでしょう」と日記に綴っている[43]。オーストラリアへの旅程は、ジャマイカ、パナマ運河、大西洋を経由する海路だった。エリザベスは、イギリスに残してきたエリザベス2世のことをつねに心配していたが、このオーストラリア訪問は避けることのできない公務でもあった[44]。フィジーで行われた歓迎式典では、多くの公式客たちから求められた握手に応じただけでなく、式典に迷い込んだ犬の足も握るという行動を見せて、大衆を魅了した[45]。ニュージーランドでエリザベスは風邪をひいて体調を崩し、いくつかの行事を欠席したものの、復調してからはオーストラリア人ハリー・アンドレアスの案内のもと、ベイ・オブ・アイランズでの釣りを楽しんでいる[46][47]。イギリスへの帰路はモーリシャス、スエズ運河、マルタ、ジブラルタルの経由だった。帰路の途中で、夫妻が乗船していた艦船レナウンが火災を起こし、別の船への避難騒ぎが起こる一幕もあった[48]

エドワード8世の即位と退位

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エドワード8世の退位宣言。右の署名がエドワード8世、左の署名が三名の王弟たちで、上からヨーク公アルバート、グロスター公ヘンリー、ケント公ジョージ

1936年1月20日にイギリス国王ジョージ5世が崩御し、アルバートの兄の王太子エドワードが、エドワード8世として国王に即位した。ジョージ5世は生前に「長男(エドワード8世)が結婚しないことと[注 2]、バーティ(アルバート)とリリベット(エリザベス2世)、そしてイギリス王位に何事も起こらないことを神に祈る」と密かに漏らしたといわれている[49]。即位後数か月でエドワード8世は離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を主張し、大騒動を巻き起こした。この結婚は法的には可能であったが、イギリス国王たるエドワード8世はイングランド国教会の長でもあり、当時の国教会では離婚した者が再婚することは認められていなかった。当時のイギリス首相ボールドウィンも、イギリス国民がウォリスを王妃と認めることはありえないとして、この結婚に強く反対した。エドワード8世は立憲君主制の王として、この首相からの勧告を受け入れざるを得なかった[50]。そして、最終的にエドワードは、ウォリスとの結婚を諦めるのではなく、イギリス国王からの退位を選択し[51]、1936年12月11日にエドワード8世の弟ヨーク公アルバートが、ジョージ6世として即位することとなった。

ジョージ6世とエリザベスは、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国ならびにイギリス自治領の国王、王妃となり、1937年5月12日にはインド皇帝、皇后の称号が加わった。エリザベスの王妃の冠はプラチナ製で、ヴィクトリア女王以来、イギリス王室に伝わるインド産のダイアモンドであるコ・イ・ヌールなどで装飾されていた[52]

退位したエドワードとウォリスは結婚し、ウィンザー公夫妻となったが、ジョージ6世はウォリスに対して公爵夫人としての礼は取らず、エリザベスもこのジョージ6世の姿勢を支持した[54]。さらにエリザベスは、ウォリスのことを「あの女 (that woman)」と呼ぶようになった[56]

イギリス王妃

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諸国歴訪

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1938年の夏に国王夫妻はフランスを公式訪問する予定だったが、エリザベスの母親ストラスモア=キングホーン伯爵夫人セシリア・ニーナが6月23日に死去したため、3週間延期された。このとき、2週間でファッションデザイナーのノーマン・ハートネル (en:Norman Hartnell) が、エリザベスが喪中に着用する白の喪服[注 3]を用意している[57]。このフランス訪問は、台頭するナチス・ドイツからの武力侵攻に対して、英仏両国が一致して協力する体制を強固にするためのものだった[58]。フランスの報道陣は、国王夫妻の振舞いや人柄を賞賛し、ハートネルが用意した白の装束もこの公式訪問の成功に一役買うこととなった[59]

他国に対するナチスの強硬姿勢は止まらず、イギリス政府は来るべき戦争への準備を余儀なくされていく。このような情勢の中、1938年9月にドイツとの武力衝突を回避するミュンヘン協定の締結に成功した首相ネヴィル・チェンバレンは、バッキンガム宮殿のバルコニーに国王夫妻とともに姿を見せ、国民からの大きな喝采を浴びた[60]。国民に広く受け入れられた、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーに対するチェンバレンの宥和政策だったが、イギリス庶民院からは批判の声もあった。歴史家ジョン・グリッグ (en:John Grigg) は、この時期のジョージ6世の政治的行動が「ここ数世紀のイギリス国王の中で、もっとも憲法に違反している」と書き残している[61]。ただし、当時のジョージ6世の行動は、政府の助言に従ったものであり、憲法上なんの問題もないと評価する歴史家もいる[62]

1939年5月、カナダ訪問時の国王夫妻

1939年6月に、エリザベスとジョージ6世は、カナダとアメリカを歴訪した。アメリカではルーズベルト大統領ホワイトハウスで会談し、さらにハドソン・ヴァレー (en:Hudson Valley) の、ルーズベルトの私宅 (en:Home of Franklin D. Roosevelt National Historic Site) も訪問している[63][64][65][66]

ルーズベルトの妻エレノアは、エリザベスのことを「完璧な王妃。教養豊かで優雅な女性で、寛容なその言動は常に正しい。ただ、少しばかり王妃であることに気後れしているよう感じがする」としている[67]。この北米訪問は、戦時中の大西洋横断航路の確保への協力を求めるとともに、カナダが英連邦王国の一員であり、イギリスと同じ国王を戴いていることの確認でもあった[68][69][70][71]。広く知られる噂話として、ボーア戦争に従軍した退役軍人がエリザベスに「陛下はスコットランド人ですか、それともイングランド人ですか」と尋ねたときに、エリザベスは「今は一カナダ人よ!」と応えたというエピソードがある[72]。国王夫妻に対するカナダとアメリカの民衆の歓迎は熱烈なもので[73][74]、ジョージ6世とエリザベスが前国王エドワード8世の単なる代理に過ぎないのではないかといった、意地の悪いあらゆる世論を雲散霧消させた[75]。エリザベスはカナダ首相マッケンジー・キングに「今回の訪問は、我々を勇気付けてくれました」と語っており[76]、その後も公私にわたって何度もカナダを訪れている[77]

第二次世界大戦

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1942年10月23日、英国訪問中の米大統領夫人エレノア・ルーズベルトと国王夫妻
1944年5月19日、長女も同伴させD-デイを目前に、特殊空挺部隊を激励する

第二次世界大戦を通じて、ジョージ6世とエリザベスは反ファシズムの象徴となった[78]。1939年9月、イギリスがドイツに宣戦布告して間もなく、赤十字社の活動を支援するための資金を集めるための書籍 (en:The Queen's Book of the Red Cross) の出版が計画された。50名の作家、芸術家が参加したこの書籍の表紙は、写真家セシル・ビートンが撮影したエリザベスのポートレイトで、書籍の売上げが赤十字社のために使われた[79]

第二次世界大戦初期の、いわゆるまやかし戦争のころに、エリザベスは敵兵の侵入に備えて自ら拳銃の撃ち方を学んだこともあった[80][81]。戦争が激しくなっても、エリザベスは戦火を避けて自身がロンドンを離れることも、子供たちをカナダに疎開させることも公に拒否し、ロンドンがドイツ空軍による大空襲にさらされる中、当時の内閣からの避難勧告すら拒み通した。このときエリザベスは「子供たちは私のもとを離れません。私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と語っている[82]。さらに、バッキンガム宮殿が空爆の直撃を受けた時には、「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドに顔向け出来ます (I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face. ) 」と言い放った[83]

エリザベスは、軍、病院、工場、さらにドイツ空軍の爆撃目標となった場所、特に低所得者の多いロンドン港湾近辺のイーストエンドを何度も慰問している。このような場所への王妃の訪問は当初反感を買い、ゴミを投げつけられたり、罵声を浴びせられることすらあった[6]。これは、戦時中の物資欠乏に苦しむ人々と、高価な衣装を身にまとうエリザベスとが、あまりにも乖離していたことにも一因があった。これに対しエリザベスは、国民が王妃に会うときには誰でも最高の服を着てくるから、自分も同じようにしただけだという意味の釈明をした。結局ノーマン・ハートネルが王妃のために、優しい色合いで、黒を避け「希望の虹」を表すような衣服をデザインした[86]

国王夫妻は昼間はバッキンガム宮殿で執務に就いていたが、安全上の問題や家族の関係などで、夜間は32kmほど西にあるウィンザー城で子供たちとともに過ごしていた。ウィンザー城の職員も徴兵されて残り少なくなっており、多くの部屋が使用されずに閉め切られていた[87]。さらに窓ガラスは空爆の爆風で吹き飛ばされ、代わりに板が打ちつけられていた[88]

敵国ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは、イギリスの士気に多大な影響を与えるエリザベスを「ヨーロッパで最も危険な女性」と評した[5]。しかしながら、第二次世界大戦参戦以前のジョージ6世とエリザベスは、多くの閣僚や国民と同様に、ドイツとの宥和政策を進める首相ネヴィル・チェンバレンを支持しており、世界中が疲弊した第一次世界大戦の教訓から、いかなる理由であれ戦争は避けるべきだと信じていた。

1945年5月8日、ヨーロッパ戦勝記念日に、バッキンガム宮殿のバルコニーに立つ国王一家とチャーチル

1940年5月に、それまでの対ドイツ宥和政策が破綻したチェンバレンが首相を辞職すると、ジョージ6世は海軍大臣のウィンストン・チャーチルに組閣を命じた。最初のうちこそ、ジョージ6世はチャーチルの性格や真意を疑っていたが、やがて国王夫妻そろってチャーチルを尊敬し、賞賛するようになっていった[89][90]。第二次世界大戦が終結した1945年に、チャーチルは国王夫妻に招かれ、ミュンヘン協定をまとめたときの前首相チェンバレンと同じく、バッキンガム宮殿のバルコニーから国民の喝采を浴びている。

第二次世界大戦後

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1945年に行われたイギリス総選挙で、ウィンストン・チャーチル率いる保守党は、クレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。エリザベスが自身の政治的信条を公言することは稀だったが[91]、1947年の書簡でアトリーのことを「社会主義者の楽園を夢見ている」人物であるとし、アトリーに投票した有権者を「まともな教育を受けていない、困惑した哀れな人たち。私は彼らを愛します」と記している[92]。ウッドロー・ワイアット (en:Woodrow Wyatt) は、エリザベスを王族の中で「もっとも保守党寄り」であると評したが[93]、エリザベスは後にワイアットに「私は古き良き労働党が好きです」と返している[94]。また、エリザベスはグラフトン公爵夫人アン・フィッツロイ (en:Fortune FitzRoy, Duchess of Grafton) に「私は共産主義者を愛しています」と言ったこともある[95]。1951年の総選挙でアトリーの労働党は敗北し、再び保守党のチャーチルが権力の座に返り咲いた。

1947年に国王夫妻が南アフリカを訪問したときに、熱烈な歓迎の意を示した男性を、敵意を持った相手と勘違いしたエリザベスが、車から身を乗り出して傘で殴りつけたというエピソードがある[96][97]。1948年に予定されていたオーストラリアとニュージーランドへの公式訪問は、ジョージ6世が体調を崩したために延期された。1949年3月にジョージ6世は右足の血行障害改善の手術を受けた[98]。しかしながら、その後もジョージ6世の体調は思わしくなく、1951年の夏には王妃エリザベスと王女たちが国王の公務を代行している[99]。9月になって、ジョージ6世が肺癌に侵されていることが判明した。癌に侵されていた肺を摘出してから、ジョージ6世は回復に向かうとみられていたが、延期されていたオーストラリアとニュージーランドへの国王夫妻の訪問は取り止めとなった。

1947年にフィリップ・マウントバッテンと結婚した長女エリザベス2世(当時の称号はエジンバラ公爵夫人)が、国王・王妃の代理として夫妻でオーストラリアとニュージーランドを訪れるために、1952年1月にイギリスを離れた[100]。ジョージ6世が崩御したのは、エリザベス2世がオーストラリアへ向かう途中でケニアに滞在していた2月6日のことで、エリザベス2世とフィリップは、新しいイギリス女王、王配として即位するために直ちにロンドンへと引き返した。

王太后

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ジョージ6世崩御後

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ジョージ6世は1952年2月6日の就寝中に冠動脈血栓症のため崩御。その後、間もなくして、エリザベスはエリザベス王太后陛下 (Her Majesty Queen Elizabeth The Queen Mother ) という称号で呼ばれるようになった。国王の未亡人はその後も王妃 (Queen) と呼ばれるのが普通だったが、エリザベス王妃 (Queen Elizabeth) の称号は、新たな国王となった長女エリザベス2世 (Queen Elizabeth II) とあまりに紛らわしかったために、新たな称号が採用されたのである[101]。ただし、一般的にはエリザベスは王母(母后)を意味する「クイーン・マザー (Queen Mother)」あるいは「クイーン・マム (Queen Mum)」と呼ばれるようになっていった[102]

アラン・ウォーレンがドーヴァー城で撮影した、王太后エリザベス。

エリザベスは夫ジョージ6世の突然の死に打ちのめされ、スコットランドに隠棲した。しかしながら、首相ウィンストン・チャーチルの説得で隠棲生活をやめ、公務に復帰した[103]。王太后となったエリザベスだったが、公務の量は王妃だった時代と変わらなくなっていった。1953年7月に、ジョージ6世崩御以降で初めての外遊となるローデシア・ニヤサランド連邦の訪問を、次女マーガレットとともにこなしている。当地で、現在のジンバブエ大学 (en:University of Zimbabwe) の前身にあたる、ローデシア・ニヤサランド大学の礎石設置式典に参列した[104][105]。エリザベスは1957年にもローデシア・ニヤサランド連邦を訪れており、このときにローデシア・ニヤサランド大学総長に就任し、意図的に様々な人種が交えられた各種行事に招待された[106]

1953年から1954年にかけて、エリザベスとマーガレットは多くのイギリス連邦諸国を訪問している。また、エリザベスはイギリス王室の長老格 (en:Counsellor of State) として、自身の孫で、長女エリザベス2世女王の子女であるチャールズ3世アンの教育にもあたった[107]

エリザベスは、スコットランド北岸のケイスネスの人里離れた場所にあったメイ城 (en:Castle of Mey) を、「あらゆることからの避難場所」として使うために修築させ[108]、8月に3週間、10月に10日間を毎年この城で過ごした[109]。エリザベスは、知己となったアマチュア騎手ミルドメイ卿 (en:Anthony Bingham Mildmay, 2nd Baron Mildmay of Flete) の影響で、競馬、とくに障害競走に興味を持つようになり、その後、競馬はエリザベスの終生の趣味となった[110]

エリザベスが所有した馬は、およそ500回のレースで勝利している。エリザベスが所有する馬に騎乗する騎手には、青色地に淡黄色の縞模様の勝負服が与えられた。エリザベスが馬主だったスペシャルカーゴは1984年のウィットブレッド・ゴールドカップに勝利し、デヴォンロッホ英語版は、1956年のグランドナショナルで勝利寸前に突然走るのをやめてしまったことで有名な馬である[111]。このときデヴォンロッホに騎乗していたディック・フランシスは、騎手引退後に競馬を題材とした推理小説作家としても大きな成功を収めた人物である。世間の噂とは違って、エリザベスは競馬に金を賭けたことはなかったが、自身のロンドンでの邸宅であるクラレンス・ハウスに競馬実況中継の有線放送設備を敷設し、競馬観戦を楽しんでいた[112]。「チャンピオンチェイス」として知られた障害競走の大レースが、エリザベス王太后生誕80周年を記念して、1980年に「クイーンマザーチャンピオンチェイス」に改称した[113]。また、エリザベスには美術品収集家の側面もあり、フランス人画家クロード・モネ、ウェールズ人画家オーガスタス・ジョン (en:Augustus John)、ロシア人工芸家ピーター・カール・ファベルジェらの作品を購入している[114]

1974年

エリザベスは1964年2月に急性虫垂炎の手術を受け、予定されていたオーストラリアニュージーランドフィジーの公式訪問は1966年まで延期されている[115]。手術後の療養として、王室所有のヨットであるブリタニア号でカリブ海を巡った[116]。1966年12月には、結腸癌と診断されていた腫瘍の摘出手術を受けている。この手術によって「エリザベス王太后には人工肛門が造設された」と噂されているが、そのような事実はない[117][118]。1982年に、魚の骨が喉に刺さって病院へ担ぎ込まれ、手術によって骨を除去したことがある。エリザベスは釣りも趣味としていたため、後にこの出来事を「サーモンに仕返しされたのよ」と冗談の種にした[119]。1984年にエリザベスは二度目の癌摘出手術を受け、このときには胸からしこりを切除されている[120]。同年に胃閉塞にもなり、手術はせずに完治したものの、一晩病院に入院した[121]

1975年にイラン皇帝パフラヴィーの招きに応じて、イランを訪問した。当時の駐イラン大使パーソンズ夫妻は、地位や身分で分け隔てすることのないエリザベスの言動が、いかにイラン国民に熱狂的に受入れられたかを指摘し、パフラヴィーの側近たちにも、「民衆への接し方をエリザベスから学んで欲しい」と記している[122]。しかし、イランの国情は不安定となっていき、イラン革命が起こり、パフラヴィーは1979年に皇帝の座から追われてしまった。1963年から1992年にかけて、エリザベスは私的に大陸へ22度足を運んで、ヨーロッパ諸国を訪れており[123]、1976年から1984年には毎年夏にフランスを訪問している[124]

孫のチャールズ王太子と結婚し、後に離婚し、事故死したダイアナ元王太子妃を除けば、その人格と魅力に定評があったエリザベスは、イギリス王室でもっとも人気のある王族だった[22]

晩年

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崩御までの数年間、病弱で早逝した夫のジョージ6世とは正反対にエリザベスは長寿の王族としても有名だった。1990年8月4日に90歳の誕生日を迎えるエリザベスのために、エリザベスが後援していた300の様々な組織のメンバーなどが、6月27日に祝賀のパレードを挙行した[125]。1995年には「第二次世界大戦終戦50年」の記念式典に参列しているが、同年にエリザベスは左目の白内障手術と、右臀部の移植手術を受けている[126]

1998年には、ノーフォークサンドリンガム・ハウス 滞在中に、足を滑らせて転倒したことが原因で、左臀部にも移植手術が行われている[127]。2000年の100歳の誕生日は、さまざまなかたちで祝賀された。国民的俳優ノーマン・ウィズダム (en:Norman Wisdom) とジョン・ミルズが後援した、エリザベスの生涯を寿ぐ祝賀パレード[128]ロイヤルバンク・オブ・スコットランドが発行した、エリザベスの肖像が印刷された20ポンド記念紙幣[129] などである。また、シティ・オブ・ロンドンのギルドホール (en:Guildhall, London) でエリザベス来臨のもと開かれた昼食会では、エリザベスと同席したカンタベリー大主教ジョージ・ケアリーが、間違えてエリザベスのグラスからワインを飲む場面があった。このときエリザベスがすぐに「それは私のよ!」と注意したことが、笑い話として広く親しまれている[130]。2000年11月に、エリザベスは転倒して鎖骨を骨折し、年末年始は療養生活を余儀なくされた。2001年8月1日には、軽い熱中症による貧血のために輸血を受けたが、8月4日の誕生日の恒例行事であるクラレンス・ハウスでの一般参賀には出席し、101歳の誕生日を国民から祝われた。

101歳のエリザベスは、2001年12月に転倒し骨盤を骨折した。だがエリザベスは、故ジョージ6世崩御から50年にあたる翌2002年の命日2月6日に演奏される国歌吹奏には、立ち姿で臨みたいと言い張っている[131]。ジョージ6世の命日の3日後、2002年2月9日に次女マーガレットが、入院中のエドワード7世記念病院で71歳で薨去した。2002年2月13日に、エリザベスはサンドリンガム・ハウスで倒れて、腕に傷を負った[132]。それでもエリザベスは、二日後の金曜日にウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で執り行われる、マーガレットの葬儀に出席することを決心していた[133][134]。女王エリザベス2世を始めとする王族たちは、王太后の体調がノーフォークからウィンザーまでの移動に耐えられるのかを、深く憂慮していた[134]。最終的にはエリザベスの主張が通り、ウィンザーでの葬式に出席することができたが、このときエリザベスはマスコミを遠ざけることを望んだため、車椅子でこの葬儀に参列していたエリザベスの写真は残っていない[134]

崩御

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王太后エリザベスの棺を運ぶ葬列。棺はイギリス王妃のスタンダードで覆われている。
イギリス王妃エリザベスのスタンダード。ボーズ=ライアン家の紋章は、それぞれ同音の弓(Bows)とライオン(Lion)で家名を表している。

2002年3月30日午後3時15分に、長女の女王エリザベス2世が枕元で見守る中、それまでの4か月間は風邪に苦しめられていた[132] エリザベスは、ウィンザー・グレート・パーク (en:Windsor Great Park) のロイヤル・ロッジ (en:Royal Lodge) で崩御した。病弱で早逝した夫のジョージ6世国王とは正反対に長寿を全うしたエリザベスが崩御した年齢は101歳で、イギリス王族としては当時史上最高齢だった。2022年現在では、2004年10月29日に102歳で薨去した、エリザベスの義妹にあたるグロスター公爵夫人アリスが最高齢記録となっている。

エリザベスの遺体は、ウィンザーからウェストミンスター宮殿のウェストミンスターホールに運ばれた。エリザベスは自身の庭園すべてにツバキを植えており、イギリス王妃のスタンダードで囲まれた棺に安置されたエリザベスの遺体は、それらの庭園から摘まれたツバキで飾られていた[135]。近衛騎兵隊と国防軍兵士が棺台の四隅を見守る中、200,000人を超える人々が、三日にわたってウェストミンスターホールを訪れて、王太后との別れを惜しんだ。また、4月8日には、エリザベスの4人の男孫、エリザベス2世の王子である王太子チャールズ(チャールズ3世)、ヨーク公アンドルー、ウェセックス伯エドワード、そしてマーガレット王女の長男リンリー子爵デイヴィッド(当時)が、立ったままで棺を見守る礼典 (en:Vigil of the Princes) を務めている。

エリザベスの葬儀が行われたのは4月9日で、英連邦王国カナダでは、総督がこの日を記念日とすることをカナダ国民に問いかける声明を出した[136]。同じくイギリス連邦のオーストラリアでも総督が、シドニーセントアンドリューズ大聖堂で開催された追悼式で告別の辞を読み上げた[137]ロンドンでは、ウェストミンスター寺院周辺と、エリザベスの棺が運ばれてその埋葬場所となる、夫ジョージ6世と次女マーガレットが眠るウィンザー城聖ジョージ礼拝堂までのおよそ37kmの沿道が、100万人を超える人々で埋め尽くされた[138]。エリザベスの棺の上に安置されていたリースは、生前のエリザベスの希望通りに、葬儀の後に長女のエリザベス2世女王自ら無名戦士の墓に捧げた。これは79年前の、当時ヨーク公だったジョージ6世とエリザベス・ボーズ=ライアンとの結婚式の思い出を再現したものだった[139][140]

大衆からの評価

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イギリス王妃エリザベスの紋章。イギリス国章(左半分)とストラスモア=キングホーン伯爵家の紋章(右半分)が統合されている。ただし、スコットランド王妃としての紋章は別に存在する。

大衆からのエリザベス王太后の人気は非常に高く、近年のイギリス王族の中でも屈指の存在であり、イギリス王室の評判を高めることに大きく貢献したといわれている[141][142]。しかしながら、その生涯を通じて、程度の差こそあれ様々な批判も受けた人物でもあった。

イギリス王室に関する著作も多い、ジャーナリストで作家のキティ・ケリー (en:Kitty Kelley) は、第二次世界大戦中のエリザベスが、戦時配給物資の規律を守っていなかったと主張している[143][144]。しかしながら、ケリーの主張は公式記録と矛盾しており[145][146]、アメリカ大統領夫人エレノア・ルーズヴェルトがバッキンガム宮殿に滞在していたときの記録には、宮殿では配給された食糧が出されており、使用できる風呂の湯量も制限されていたと明記されている[147][148]

さらにケリーは、エリザベスが黒人人種差別用語で呼んでいたという主張をしているが[143]、これは少佐コリン・バージェスが強く否定している[149]。バージェスは、人種差別的発言をしたとして王太子一家の使用人を告発した、混血の秘書エリザベス・バージェスの夫だった人物である[150]。エリザベスは公式に人種に関する発言をしたことはないが、歴史家で保守党議員だったロバート・ローズ・ジェームズ (en:Robert Rhodes James) は、私的な場でエリザベスが「人種差別を忌み嫌って」おり、南アフリカの人種隔離政策であるアパルトヘイトを「なんとひどい」と非難していたことを書き残している[151]。エリザベスと親しかった政治家ウッドロー・ワイアットも自身の日記に、白人ではない国の人々の外見は「私たち」と共通する点が見当たらないと漏らしたときに、エリザベスが「私はイギリス連邦を深く愛しています。どの国の人たちも私たちと同じです」といったことを記している[152]。しかしながら、エリザベスもドイツ人には不信感を持っており、ワイアットに「彼ら(ドイツ人)は決して信用できない、信頼に値しない」と言っている[153]。ただし、このようなエリザベスのドイツ人への評価は、二度の世界大戦でドイツと敵対した経験を持つ、エリザベスと同世代で一般的な教育を受けた人から見れば、ごく当たり前の言動だとも言われている[154]

1987年に、エリザベスは自身の兄ジョン・ボーズ=ライアンの娘で、姪にあたるネリッサとキャサリン姉妹が、精神病院に入院していたことが明るみに出たときに非難されている。ただし、イギリス王侯貴族の紳士録『バークス・ピアレージ (en:Burke's Peerage)』には、この二人が故人として記載されており、これは母親であるフェネラが「バークス・ピアレージからの記入用紙を埋めるときに「非常にぼんやりと」しており、一族の記載を中途半端に終わらせてしまった」ためではないかとされている[155]。ネリッサはこの事件の前年1986年に既に死去しており、その墓には続き番号が記されたプラスチックのタグがつけられているだけだった。エリザベスはこのような慣習が行われていることを聞かされたときには、大きな衝撃を受けたと反論している[156]

建築家ヒュー・カッソン (en:Hugh Casson) は、エリザベスのことを「岩を砕く波(のような女性)だった。彼女は穏やかで優しく、そして魅力的な女性だったが、強い不屈の精神の持ち主でもあった。・・・・・・波が岩にぶつかるときには、海水の飛沫が陽光にきらめいて美しい踊りを見せる。しかし、隠れた波の下では硬く頑強な岩が砕かれていっている。彼女には、強固な主義主張、勇気、そして義務感が隠されている」と評している[157]。俳優ピーター・ユスティノフは、自身が名誉総長、エリザベスが総長を務めていたダンディー大学の儀式で、1968年に学生たちのデモに遭遇したときのことを語っている。「(デモ隊が、王太后陛下も参列されている)厳粛な行進に出くわしたんだ。そのとき、学生たちがトイレット・ペーパーをこっちに向かって何本も投げつけてきた。ペーパーの端は学生が握ったままだったから、リボンみたいに糸を引いて飛んできたよ。それを目にされた陛下は足を止めて、誰かの落し物を拾うみたいにトイレット・ペーパーを持ち上げられた。そして、そのトイレット・ペーパーを学生たちに差し出しながら「これは貴方たちのものでしょう?取りにいらっしゃい」と仰せになった。そのときの陛下はいたって平静だったんだけど、とてもじゃないが何か言い返せるような雰囲気じゃなかったね。あっという間に学生たちはみんな静かになった。陛下は声を荒らげたわけでもなんでもなかった。まるで、誰もがよくやるミスを注意してくださるみたいに振舞われただけだった。毅然とした態度というわけじゃなく、この上なく優雅で魅力的に見えたんだ。だけど馬鹿騒ぎを鎮めるのに、これ以上の方法はなかった。陛下は荒れ狂う波だって穏やかにできる様な方だったよ」[158]

その他

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ロンドンのザ・マルに立っているエリザベス王妃のブロンズ像。後ろに見えるのは夫たる国王ジョージ6世のブロンズ像。

エリザベスは辛口のユーモアでも知られていた。マウントバッテン・オブ・バーマ伯夫人エドウィナ・マウントバッテン[注 4]が遺言通りに水葬に付されたことを聞いたエリザベスは、「親愛なるエドウィナ、彼女はいつも人を驚かせるのが好きだったわ (Dear Edwina, she always liked to make a splash ) (「make a splash」 は成句で「人を驚かせる、耳目を集める」の意味。水葬で棺を海を投じたときの水しぶき (splash) にかけた洒落)」と言っている[119]。また、1970年代に保守党の首相が、同性愛者を雇用しないようにエリザベスに勧告したときには、彼らがいなくなったら「セルフサービスしろとでも言うのかしら」と撥ねつけている[159]。通常のボトル20本分の分量が入るネブカドネザルボトルのシャンパンが贈られたときに、次の休日に家族が誰もいなくても、エリザベスは「全部自分で空ける」と言った[160]。『ガーディアン紙』のエミネ・サネルは、エリザベスが正午にジンデュボネ、昼食時に赤ワイン、午後6時にポートワインマティーニ、夕食時に二杯のシャンパンを飲んでいるとし、「控えめに見積もっても、陛下は純粋なアルコール換算で、週に7リットルの量を飲んでいる計算になる」としている[161]。エリザベスの豪奢な暮らしぶりはマスコミに喜ばれていた。とくにプライベート・バンクのクーツ銀行 (en:Coutts) に数百万ポンドの当座借越があるのが分かったときには、格好のネタにされてしまった[162]

エリザベスの癖や習慣は、風刺をきかせたパロディにされることもあった。1980年代のテレビ人形劇『スピッティング・イメージ』(Spitting Image) にエリザベスを模した人形が登場したことがあり、女優のベリル・リード (en:Beryl Reid) がバーミンガム訛りで声を当て[163]、さらに競馬新聞『レーシング・ポスト』が常に一緒に映されていた。また、ドラマや映画でエリザベスを演じた女優として、2002年のテレビドラマ『バーティとエリザベス (en:Bertie and Elizabeth) 』のジュリエット・オーブリー、2006年の映画『クィーン』のシルヴィア・シムズ (en:Sylvia Syms)、2010年の映画『英国王のスピーチ』のヘレナ・ボナム=カーターらがいる。ヘレナ・ボナム=カーターはこの作品でアカデミー助演女優賞にノミネート、英国アカデミー賞 助演女優賞を受賞した。

トロントのクイーン・エリザベス通りにあるモニュメント (en:Queen Elizabeth Way Monument)。王妃エリザベスと国王ジョージ6世の肖像が刻まれている。

エリザベスの遺産は、自身のスタッフに遺贈されたものを除いて、全てエリザベス2世が相続した。絵画、ファベルジェ・エッグ、宝石、馬などを含め、総額は7,000万ポンド相当と見なされている。エリザベスは崩御する8年前に、自身の曾孫のために財産の3分の2を信託に拠出したと報じられていた。遺産の美術品のなかでももっとも重要な作品は、相続したエリザベス2世がロイヤル・コレクションに収蔵している[164]

ロンドンのザ・マルに設置されているエリザベスのブロンズ像は、彫刻家フィリップ・ジャクソンが制作したもので、2009年2月24日に公開されている[165]。海運会社キュナード・ラインRMS クイーン・エリザベス号は、エリザベスにちなんで命名され、1938年9月27日に、スコットランドのクライドバンクで進水式が催された。この進水式にはエリザベス本人も臨席し、進水式の重要なセレモニーであるワインを船首に叩きつけて割る役目を任されていた。しかしながら、おそらくは予定よりも早くクイーン・エリザベス号が海に向かって滑り出してしまった。手が届かなくなるぎりぎりのところで、エリザベスは何とかオーストラリア産赤ワインのボトルを船首に叩きつけて割ることに成功した[166]。1954年に、エリザベスはクイーン・エリザベス号に乗船してニューヨークへと渡っている[167]

2011年3月に、エリザベスが集めていたレコードのコレクションが公開され、どのような音楽が好きだったのかが明らかになった[168]。エリザベスは音楽としてはスカがお気に入りだったらしく、音楽以外ではモンタナ・スリム、トニー・ハンコック、ザ・グーン、ノエル・カワードなどのレコードも所有していた。スカ以外の音楽では、イギリスのフォーク、スコットランドのダンス音楽、ミュージカルの『オクラホマ!』や『王様と私』も所有していた。

関連作品

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映画

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2006年のイギリス映画『クィーン』では、シルヴィア・シムズがエリザベス王太后役を演じた。

2010年のイギリス映画英国王のスピーチ』では、吃音症を克服するジョージ6世を傍らで支える妻エリザベスのさまも描かれている。エリザベス王妃を演じたヘレナ・ボナム=カーター英国アカデミー賞 助演女優賞をはじめ複数の賞を獲得し、アカデミー助演女優賞などにもノミネートされた。

2012年のイギリス映画『私が愛した大統領』では、オリヴィア・コールマンがエリザベス王妃役を演じた。

2015年のイギリス映画『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』では、エミリー・ワトソンがエリザベス王妃役を演じた。

テレビドラマ

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Bertie and Elizabeth』(2002年、カールトン・テレビジョン製作)では、ジュリエット・オーブリーがエリザベス王妃役を演じた。

Netflix配信テレビドラマシリーズ『ザ・クラウン』(2016年-)では、ヴィクトリア・ハミルトン英語版(シーズン1・2)、マリオン・ベイリー英語版(シーズン3・4)、マーシャ・ウォレン英語版(シーズン5・6)がエリザベス王太后役を演じている。


系譜

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エリザベス・ボーズ=ライアンの系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第11代ストラスモア=キングホーン伯爵トーマス・ライアン・ボーズ
 
 
 
 
 
 
 
8. グラームス卿トーマス・ライアン・ボーズ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. メアリー・エリザベス・ルイザ・カーペンター
 
 
 
 
 
 
 
4.第13代ストラスモア=キングホーン伯爵クロード・ボーズ=ライアン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. ジョセフ・ヴァレンタイン・グリムステッド
 
 
 
 
 
 
 
9. シャルロット・グリムステッド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. シャルロット・ジェーン・サラ・ウォルシュ
 
 
 
 
 
 
 
2. 第14代ストラスモア=キングホーン伯爵クロード・ジョージ・ボーズ=ライアン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. ジョージ・スミス
 
 
 
 
 
 
 
10. オズワルド・スミス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. フランセス・メアリー・モズリー
 
 
 
 
 
 
 
5. フランセス・ドーラ・スミス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. ロバート・ホジソン
 
 
 
 
 
 
 
11. ヘンリエッタ・ミルドレッド・ホジソン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. メアリー・タッカー
 
 
 
 
 
 
 
1. エリザベス・ボーズ=ライアン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 第3代ポートランド公ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
 
 
 
 
 
 
 
12. チャールズ・ベンティンク卿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. ドロシー・キャヴェンディッシュ
 
 
 
 
 
 
 
6. チャールズ・ウィンリアム・フレデリック・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 初代ウェルズリー侯リチャード・ウェルズリー
 
 
 
 
 
 
 
13. アン・ウェルズリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. イアサント=ガブリエル・ロラン
 
 
 
 
 
 
 
3. セシリア・キャヴェンディッシュ=ベンティンク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. エドウィン・アンドルー・バーナビー
 
 
 
 
 
 
 
14. エドウィン・バーナビー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. メアリー・ブラウン
 
 
 
 
 
 
 
7. キャロライン・ルイザ・バーナビー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. トーマス・ソールズベリー
 
 
 
 
 
 
 
15. アン・キャロライン・ソールズベリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. フランセス・ウェッブ
 
 
 
 
 
 

脚注

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注釈

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  1. ^ 姓は「バウエス=ライオン」「バウズ=ライアン」と表記される例もある。ノート:エリザベス・ボーズ=ライアンを参照。
  2. ^ ジョージ5世はエドワードが結婚相手にシンプソンを選ぶのではないかと危惧していた。
  3. ^ 中世頃までのヨーロッパでは、王妃が最も深い弔意を表す色は白だった。
  4. ^ 初代マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵ルイス・マウントバッテンの妻。

出典

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  1. ^ a b 君塚 2020, p. 9.
  2. ^ "No. 55932". The London Gazette (Supplement) (英語). 4 August 2000. p. 8617. "No. 56653". The London Gazette (Supplement) (英語). 5 August 2002. p. 1. "No. 56969". The London Gazette (英語). 16 June 2003. p. 7439.
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関連図書

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  • Shawcross, William (2012). Counting One's Blessings: Selected Letters of Queen Elizabeth the Queen Mother (英語). Macmillan. ISBN 978-0-230-75496-6

外部リンク

[編集]
イギリス王室
先代
メアリー・オブ・テック
イギリスの旗 イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)
王妃(君主の配偶者)

1936年12月11日 – 1952年2月6日
次代
エディンバラ公フィリップ
王配として
イギリス領インド帝国皇后
1936年12月11日 – 1947年8月15日
インドの旗 インド独立のため枢密院令により
1948年6月22日に廃止
学職
先代
初代アスローン伯爵英語版
ロンドン大学総長
1955年 – 1981年
次代
アン王女
新設 ダンディー大学総長
1967年 – 1977年
次代
第16代ダルハウジー伯爵英語版
名誉職
新設 ロイヤル・ヴィクトリア勲章グランドマスター
1937年 – 2002年
次代
アン王女
先代
サー・ロバート・メンジーズ
五港長官英語版
1978年 – 2002年
次代
ボイス男爵
注釈
1. Velde, François R., Heraldica (2006)