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エドウィナ・マウントバッテン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビルマのマウントバッテン伯爵夫人
エドウィナ・マウントバッテン
Edwina Mountbatten, Countess Mountbatten of Burma
セント・ジョン救急旅団英語版の制服を着たエドウィナ・マウントバッテン
インド総督夫人
任期
1947年2月21日 – 1948年6月21日
君主ジョージ6世
総督ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテン
個人情報
生誕Edwina Cynthia Annette Ashley
(1901-11-28) 1901年11月28日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ロンドン[1]
死没1960年2月21日(1960-02-21)(58歳没)
北ボルネオ直轄植民地 ジェッセルトン
墓地イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ハンプシャー州ポーツマス
配偶者
子供

ビルマのマウントバッテン伯爵夫人エドウィナ・シンシア・アネット・マウントバッテン(Edwina Cynthia Annette Mountbatten, Countess Mountbatten of Burma, CI, GBE, DCVO, GCStJ1901年11月28日 - 1960年2月21日[2]は、イギリスソーシャライトである。ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテンの妻であり、最後のインド総督夫人である。

血縁関係と若年期

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母とエドウィナ(1907年頃)

エドウィナ・シンシア・アネット・アシュリー(Edwina Cynthia Annette Ashley)は1901年11月28日に、当時保守党の国会議員で、後に初代マウントテンプル男爵となるウィルフリッド・アシュリー英語版の長女として生まれた[3]。妹にメアリー・アシュリー英語版がいる。社会改良運動家のアントニー・アシュリー=クーパーの父系の曾孫に当たる。母アマリア・メアリー・モード・カッセル(Amalia Mary Maud Cassel, 1879-1911)は資産家アーネスト・カッセルの一人娘であり、エドウィナはアーネストのロンドンでの邸宅ブルック・ハウスで生まれた。カッセルはケルン出身のユダヤ人で、当時ヨーロッパで最も裕福な人物の一人だった。

実母アマリアが1911年に死去した後、父ウィルフリッドは1914年にモリー・フォーブス=センピル英語版と再婚した。その後、エドウィナは寄宿学校(最初はイーストボーンのリンクス、次にサフォークのアルデ・ハウス)に送られたが、授業にはあまり出なかった。この時期のエドウィナは不幸だった。継母との関係が険悪であっただけでなく、祖父が裕福なユダヤ系ドイツ人であることから学校でいじめられたためである。後にエドウィナは、学校での経験を「全くの地獄だった」と書いている[4]。この問題の解決のため、エドウィナは母方の祖父アーネスト・カッセルの下で生活することになり、後にアーネストのロンドンでの邸宅ブルック・ハウスのホステスを務めた。

結婚と子供

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結婚初期のマウントバッテン夫妻

アーネスト・カッセルの下で、エドウィナはロンドン社交界の主要メンバーとなっていた。1920年、エドウィナは、イギリス王室の親戚でロシア皇后アレクサンドラの甥である海軍軍人のルイス・マウントバッテンと初めて出会った。1921年9月にアーネスト・カッセルが死去し、エドウィナは200万ポンド(2021年の物価換算で9440万ポンド、約18億円)とロンドンの豪邸ブルック・ハウスを相続した。なお、当時のルイス・マウントバッテンの給与は年間610ポンド(2021年の物価換算で28791ポンド、約550万円)だった。

ウェディングドレスを着たエドウィナ・アシュリー(1923年、フィリップ・ド・ラースロー画)

1922年7月18日、エドウィナとルイス・マウントバッテンはウェストミンスターの聖マーガレット教会で結婚式を挙げた。結婚式には、メアリー王妃アレクサンドラ王太后、エドワード王太子(後のエドワード8世)などのイギリス王族を含む8千人以上が参列した。この結婚式は「この年を代表する結婚式」(ウェディング・オブ・ザ・イヤー)と呼ばれた[5]。その後、ハネムーンでは、ヨーロッパ各国の王室とアメリカを訪問した[6]。カリフォルニアでは、チャールズ・チャップリンがマウントバッテン夫妻のために"Nice and Friendly"という非公開の短い映画を即興で製作した[7]

マウントバッテン夫妻には、パトリシア(1924年2月14日 - 2017年6月13日)とパメラ(1929年4月19日 - )という2人の娘がいた[8]

ドリュー・ピアソンは1944年に、エドウィナを「イギリスで最も美しい女性の一人」と評した[9]

エドウィナは結婚生活中を通して不倫をしていたことで知られており、それを夫にもほとんど隠していなかった。夫も妻の愛人の存在に気づいたが、彼はそれを受け入れ、そのうちの何人かとは友人となっている。娘のパメラは回想録で、母は「男好き」であり、数多くいた母の愛人は次第に「親戚のおじさん」のようになっていったと述べている[10]。パメラは回想録で、エドウィナは子供たちの母親であることよりもその時付き合っている愛人と世界中を旅行することを好む、子供の前にはめったに姿を見せない母親であったと記している[11]。インド首相ジャワハルラール・ネルーとの関係は広く知られており[12]、夫もインドとの同盟関係強化につながるとして、むしろ喜んでいたという。一方、夫ルイスも小説『ジジ』の主人公のモデルとして広く知られるヨラ・ルテリエと交際していたが、エドウィナは交際直後にヨラと対面しており、意気投合して友人となった。

義姉(夫の兄ジョージ・マウントバッテンの妻)のナデジダとは非常に仲の良い親友で、しばしば2人で世界中の様々な危険地帯、難所を冒険する旅行に出かけており、2人の間柄を同性愛だとする噂がささやかれていた[13]

第二次世界大戦

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第二次世界大戦勃発後の1941年、マウントバッテンはアメリカを訪問し、英国赤十字社セント・ジョン救急旅団英語版のための資金調達に尽力したことに感謝の意を表した。1942年、マウントバッテンはセント・ジョン救急旅団の総指揮者(Superintendent-in-Chief)に任命された。1945年には東南アジアにおける捕虜の送還を支援した。

1943年に大英帝国勲章コマンダー(CBE)を、1946年にロイヤル・ヴィクトリア勲章デイムコマンダー(DCVO)を受章した。また、アメリカ赤十字社からの勲章も受章している[14]

インド総督夫人

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ジャワハルラール・ネルー(左)とマウントバッテン(右)(1951年)

戦後の1947年2月21日に夫ルイス・マウントバッテンはインド副王兼総督に就任した。同年8月にインド・パキスタン分離独立を迎えた後はインド連邦総督となり、1948年6月21日にインド人のチャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリーに後を譲って退任したため、マウントバッテンが最後のイギリス人のインド総督となった。エドウィナは、最後のインド総督夫人となる(ラージャゴーパーラーチャーリーは総督就任前に妻と死別している)。

この時期に、エドウィナとインド初代首相ジャワハルラール・ネルーは真剣な交際をしていた。この恋愛が成就したのかは定かではないが、2人が互いに好意を持っていたのは周囲の目からも明らかであり、様々な憶測が生まれた[15][16]

エドウィナの娘パメラの2012年の著書"Daughter of Empire: Life as a Mountbatten"の中では、母とネルーの間にロマンスがあったことを認めている[17][18]

イギリスの歴史家フィリップ・ジーグラー英語版は、エドウィナの私的な手紙や日記を分析した上で、2人の関係について次のように述べた。

(2人の関係は)エドウィナ・マウントバッテンが亡くなるまで続いた。それは、激しい愛であり、ロマンチックで、信頼し合い、寛大で、理想主義的で、スピリチュアルでもあった。肉体的な要素があったとしても、それはそれぞれにとって些細なことであっただろう。(夫の)マウントバッテンの反応は歓喜だった。彼はネルーのことが好きで尊敬しており、首相が総督公邸でそのような魅力を見つけたことは、マウントバッテンにとって有益であったし、エドウィナの機嫌が常に良いのは好ましいことだった。この同盟の利点は明白だった[19]

デリーの警察病院にて(1947年)

1947年10月28日に夫がビルマのマウントバッテン伯爵に叙されたため、エドウィナも伯爵夫人と呼ばれるようになった。インド分割後の激しい混乱の中でエドウィナが最優先にしたのは、必要とされた莫大な救援活動の動員であり、その行動は称賛された。

夫がインド総督としての役目を終えた後も、エドウィナはセント・ジョン救急旅団の任務を継続した。1949年には、労働者階級に健康と体力を維持するための機会を提供する社会実験であるペッカム実験英語版の代表を務めた[20]

死去

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エドウィナ・マウントバッテンは1960年2月21日、セント・ジョン救急旅団の活動の視察のために訪れていた北ボルネオ直轄植民地のジェッセルトン(現 マレーシアサバ州コタキナバル)において睡眠中に死去した。58歳だった。死因は不明である[21]

遺体は生前の本人の希望により、1960年2月25日にハンプシャー州ポーツマス沖において駆逐艦「ウェイクフル」から、カンタベリー大主教ジェフリー・フィッシャー英語版の立ち会いのもとで水葬に付された[22]。それを聞いたエリザベス王太后は、「親愛なるエドウィナ、あなたはいつも人を驚かせるのが好きでしたね」[注釈 1]とコメントした[23]。インドのネルー首相は、ポーツマスに駐留していたインド海軍のフリゲート「トリシュル」に対し、「ウェイクフル」の護衛をして艦上から花環を投げるよう指示した[24][25][26]

エドウィナの遺産の評価額は589,655ポンド(2024年の物価換算で14,445,300ポンド、約28億円)だった[27]

栄誉

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大衆文化において

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以下の人物がエドウィナ・マウントバッテンの役を演じている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 原文は"Dear Edwina, she always liked to make a splash."。"make a splash" は成句で「人を驚かせる、耳目を集める」の意味。水葬で棺を海を投じたときの水しぶき (splash) にかけたものである。

出典

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  1. ^ Encyclopedia. “Mountbatten, Edwina Ashley (1901-1960”. 10 July 2021閲覧。
  2. ^ GRO Register of Births: MAR 1902 1a 434 ST GEO HAN SQ = London
  3. ^ Janet Morgan, Edwina Mountbatten: A Life of Her Own (1991).
  4. ^ Tunzelmann, Alex von (2007). Indian Summer. India: Simon & Schuster. pp. 60. ISBN 9781471166440 
  5. ^ Von Tunzelmann, p. 71.
  6. ^ “Lord Louis Mountbatten”. Life: 63. (17 August 1942). https://books.google.com/books?id=v04EAAAAMBAJ&pg=PA63 20 September 2012閲覧。. 
  7. ^ Nice and Friendly”. Charlie Chaplin Official Website. 5 August 2022閲覧。
  8. ^ Von Tunzelmann, p. 73.
  9. ^ Pearson, Drew (16 September 1944). “Ford May Convert Willow Run into Huge Tractor Plant”. St. Peterburg Times. https://news.google.com/newspapers?nid=888&dat=19440916&id=qpExAAAAIBAJ&pg=6922,2014592 19 May 2013閲覧。 
  10. ^ Pamela Hicks, Daughter of Empire: My Life as a Mountbatten - Weidenfeld & Nicolson, London, 2012
  11. ^ Lady Pamela Hicks (2013). Daughter of Empire: My Life as a Mountbatten. Simon & Schuster. ISBN 978-0297864820 
  12. ^ Bhatia, Shyam (10 April 2010). “A daughter's insight The Nehru-Edwina romance”. The Tribune. https://www.tribuneindia.com/2010/20100410/saturday/main1.htm 15 June 2019閲覧。 
  13. ^ Hough, Richard (1984). Edwina Countess Mountbatten of Burma. New York: William Morrow and Company, Inc.. ISBN 0-688-03766-6 
  14. ^ Edwina, Countess Mountbatten of Burma
  15. ^ James, Lawrence (1997). Raj: the Making and Unmaking of British India. Saint Martin's Griffin. p. 611 
  16. ^ See Alex von Tunzelmann. Indian Summer: The Secret History of the End of an Empire. New York: Henry Holt and Co., 2007.
  17. ^ “मां से प्यार करते थे नेहरू, शारीरिक संबंध नहीं थे: माउंटबेटन की बेटी” (ヒンディー語). https://m.aajtak.in/general-knowledge-in-hindi/history-general-knowledge-in-hindi/story/pamela-says-on-jawaharlal-nehru-and-edwina-mountbatten-relationship-943978-2017-07-30 
  18. ^ “Pamela Mountbatten on the Jawaharlal-Edwina relationship”. The Hindu. (18 July 2007). オリジナルの11 September 2007時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070911163209/http://www.hindu.com/2007/07/18/stories/2007071862131300.htm 
  19. ^ Philip Ziegler, Mountbatten (1985) p. 473.
  20. ^ “The Bulletin of the Pioneer Centre”. Peckham 1 (5). (September 1949). http://www.sochealth.co.uk/1949/09/21/peckham/ 21 October 2016閲覧。. 
  21. ^ “Lady Mountbatten dies in sleep on visit to Borneo”. The Sydney Morning Herald. Australian Associated Press (London). (21 February 1960). https://news.google.com/newspapers?nid=1301&dat=19600222&id=pbcyAAAAIBAJ&pg=4298,2221738 14 June 2013閲覧。 
  22. ^ Her Grave The Sea 1960”. British Pathe. 2024年4月8日閲覧。
  23. ^ As quoted in The Straits Times [Singapore] (7 August 2000).
  24. ^ A TASTE OF OTHER SUMMERS - Love may not be the only theme of the Nehru-Edwina letters”. 5 November 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月8日閲覧。
  25. ^ Morgan, Janet (1992). “Leave-taking”. Edwina Mountbatten - A Life of Her Own. London: Fontana. p. 481. ISBN 0006377874 
  26. ^ Hough, Richard (1983). “'Love and Serve'”. Edwina - Countess Mountbatten of Burma. London: Weidenfeld and Nicolson. p. 217. ISBN 0297782843. https://archive.org/details/edwina00rich/page/217 
  27. ^ Countess Mountbatten of Burma, The Right Honourable Edwina Cynthia Annette C.I. G. B. E. D. C. V. O.”. probatesearchservice.gov. UK Government (1960年). 1 March 2020閲覧。
  28. ^ The London Gazette, 1 January 1946”. 2011年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月8日閲覧。
  29. ^ "No. 37417". The London Gazette (英語). 1 January 1946. p. 203.
  30. ^ "No. 33453". The London Gazette (英語). 19 December 1928. p. 49.
  31. ^ "No. 38161". The London Gazette (25th supplement) (英語). 1 January 1948.
  32. ^ a b Louis Mountbatten, Earl Mountbatten of Burma; Edwina Cynthia Annette (née Ashley), Countess Mountbatten of Burma - National Portrait Gallery” (英語). www.npg.org.uk. 2024年2月11日閲覧。
  33. ^ John, Museum of the Order of St (2017年4月12日). “Edwina Mountbatten; Before Viceroy’s House” (英語). Museum of the Order of St John. 2024年2月11日閲覧。
  34. ^ Wiseman, Andreas (30 April 2015). “Hugh Bonneville, Gillian Anderson topline partition drama 'Viceroy's House'”. Screen Daily. http://www.screendaily.com/news/bonneville-anderson-topline-partition-drama-viceroys-house/5087176.article 19 February 2016閲覧。 
  35. ^ "The Crown" Misadventure (TV Episode 2017), https://www.imdb.com/title/tt6366744/fullcredits 2017年12月11日閲覧。 

情報源

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参考文献

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外部リンク

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