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「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の版間の差分

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{{政治家
{{出典の明記|date=2012年6月12日 (火) 02:46 (UTC)}}
[[ファイル:14th Earl of Derby.jpg|thumb|200px|第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー]]
| 人名 = 第14代ダービー伯爵<br />エドワード・スミス=スタンリー
| 各国語表記 = Edward Smith-Stanley<br />14th Earl of Derby
'''エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー'''(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, [[1799年]][[3月29日]] - [[1869年]][[10月23日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の首相(第1次内閣:[[1852年]]、第2次内閣:[[1858年]] - [[1859年]]、第3次内閣:[[1866年]] - [[1868年]])。
| 画像 = Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby (cropped).jpg
| 画像説明 =
| 国略称 = {{GBR3}}
| 生年月日 = [[1799年]][[3月29日]]
| 出生地 = {{GBR1606}}、[[イングランド]]、[[ランカシャー]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1799|3|29|1869|10|23}}
| 死没地 = {{GBR3}}、イングランド、ランカシャー
| 出身校 = [[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]
| 前職 =
| 所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]→[[ダービー派]]→[[保守党 (イギリス)|保守党]]
| 称号・勲章 = 第14代[[ダービー伯爵]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲爵士]](KG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)
| 親族(政治家) = [[エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|第13代ダービー伯爵]](父)<br />[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|第15代ダービー伯爵]](長男)<br />[[フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)|第16代ダービー伯爵]](次男)
| 配偶者 = エマ
| サイン = Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby Signature.svg
| ウェブサイト =
| サイトタイトル =
| 国旗 = GBR
| 職名 = [[イギリスの首相|首相]]
| 就任日 = [[1852年]][[2月23日]] - [[1852年]][[12月16日]]<ref name="秦(2001)509">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.509</ref><br />[[1858年]][[2月25日]] - [[1859年]]6月<ref name="秦(2001)509" /><br />[[1866年]][[7月6日]]
| 退任日 = [[1868年]][[2月25日]]<ref name="秦(2001)509" />
| 元首職 = [[イギリス国王|女王]]
| 元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]
| 国旗2 = GBR
| 職名2 = [[:en:Chief Secretary for Ireland|アイルランド担当大臣]]
| 内閣2 = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣
| 就任日2 = [[1830年]][[11月29日]]
| 退任日2 = [[1833年]][[3月29日]]
| 国旗3 = GBR
| 職名3 = [[陸軍・植民地大臣]]
| 内閣3 = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣<br />第二次[[ロバート・ピール|ピール]]内閣
| 就任日3 = [[1833年]]4月3日 - [[1834年]]6月5日<br />[[1841年]][[9月3日]]
| 退任日3 = [[1845年]][[12月23日]]
| 国旗4 = GBR
| 職名4 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員
| 就任日4 = [[1822年]][[7月30日]] - [[1826年]][[6月15日]]<ref name="HANSARD">{{Cite web |url= https://api.parliament.uk/historic-hansard//people/hon-edward-stanley-3/ |title= Edward Stanley |accessdate= 2014-04-12 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [https://api.parliament.uk/historic-hansard/index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref><br />1826年6月26日 - [[1830年]][[12月7日]]<ref name="HANSARD" /><br />[[1831年]][[2月10日]] - [[1832年]][[12月12日]]<ref name="HANSARD" /><br />1832年[[12月10日]]
| 退任日4 = [[1844年]][[8月31日]]<ref name="HANSARD" />
| 選挙区4 = {{仮リンク|ストックブリッジ選挙区|en|Stockbridge (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" /><br />{{仮リンク|プレストン選挙区|en|Preston (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" /><br />{{仮リンク|ウィンザー選挙区|en|Windsor (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" /><br />{{仮リンク|ノース・ランカシャー選挙区|en|North Lancashire (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD" />
| 国旗5 = GBR
| 職名5 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員
| 就任日5 = [[1844年]]
| 退任日5 = [[1869年]]<ref name="HANSARD" />
}}


'''第14代[[ダービー伯爵]]エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス=スタンリー'''({{lang-en|Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, {{postnominals|country=GBR|commas=true|size=100%|KG|GCMG|PC|PCi}}}}、 [[1799年]][[3月29日]] - [[1869年]][[10月23日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[世襲貴族|貴族]]。
== 経歴 ==
第13代[[ダービー伯爵|ダービー伯]]{{仮リンク|エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|label=エドワード・スミス=スタンリー|en|Edward Smith-Stanley, 13th Earl of Derby}}の息子として生まれ、はじめ[[ストックブリッジ]]選出の、次いで[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]選出の、さらに[[北ランカシャー]]選出の庶民院議員となった。最初は[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に属したものの、やがて[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]へ鞍替えした。その後トーリー党の後身である[[保守党 (イギリス)|保守党]]の党首に就いた。


[[保守党 (イギリス)|保守党]]とピール派の分裂後に[[ロバート・ピール]]に代わって保守党党首となり、3度にわたって[[イギリスの首相|首相]]([[1852年]]、[[1858年]] - [[1859年]]、[[1866年]] - [[1868年]])を務めた。しかしいずれも少数与党の短命政権であり、事実上[[選挙管理内閣]]だったため、[[庶民院院内総務]]の地位にあった[[ベンジャミン・ディズレーリ]]が政局を主導するところが多く、影の薄い首相だった。1868年に退任し、ディズレーリが保守党党首・首相の地位を継承した。
[[1851年]]まではダービー伯爵家の相続人であることを示すスタンリー卿({{lang|en|Lord Stanley}})の[[儀礼称号]]で呼ばれていたが、その最後の年に、祖父の第12代ダービー伯[[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]の創設した競馬の[[オークス]]をアイリス({{lang|en|Iris}})の馬主として制した。同年、第14代ダービー伯となる。最初の組閣は翌1852年である。


[[1834年]]から[[1844年]]まではスタンリー卿(Lord Stanley)の[[儀礼称号]]を使用し、1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)を、[[1851年]]には[[ダービー伯爵]]位を、それぞれ継承した。
[[1867年]]に[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ]]内閣に次いで選挙法改正([[第二回選挙法改正]])を成立させる。保守党党首を22年にわたって務め、その間三度[[イギリスの首相]]となった後、1868年に病気のため引退。[[ベンジャミン・ディズレーリ]]を後任とした。


== 概要 ==
翌1869年死去。ダービー伯爵位は長男の[[エドワード・スミス=スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]が継いだ。
第13代[[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]の長男。[[イートン校]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]へ進学する(''→[[#生い立ち|生い立ち]]'')


大学在学中の[[1820年]]に[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選した。はじめは[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の議員だった。[[1827年]]に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]自由主義派の[[ジョージ・カニング]]を首相とする内閣に{{仮リンク|陸軍・植民地省政務次官|en|Under-Secretary of State for War and the Colonies}}として参加した。[[1830年]]の[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]を首相とするホイッグ党政権にも{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}、のち[[陸軍・植民地大臣]]として入閣したが、[[1834年]]にはグレイ伯爵の[[アイルランド国教会]]の歳入を社会保障に回す政策に反発して辞職した(''→[[#ホイッグ党議員時代|ホイッグ党議員時代]]'')
イギリス領[[フォークランド諸島]]の首都[[スタンリー (フォークランド諸島)|スタンリー]](ポートスタンリー)の名は彼の名に因んでいる。


その後ホイッグ党右派を引き離れて分党し、[[ダービー派]]を形成したが、[[1837年]]夏の総選挙で議席を落とす(''→[[#独立会派時代|独立会派時代]]'')。以降[[保守党 (イギリス)|保守党]](旧トーリー党)へ接近し、1837年に同党に入党した。[[1841年]]の保守党政権[[ロバート・ピール]]内閣には陸軍・植民地大臣として入閣。[[1844年]]には[[繰上勅書]]でビッカースタッフのスタンリー男爵を継承し、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]へ移籍した(''→[[#保守党中堅議員時代|保守党中堅議員時代]]'')。
{{start box}}
{{s-reg|en}}
{{succession box | title=[[ダービー伯爵]] | before=[[エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]] | after=[[エドワード・スミス=スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]] | years=1844年 - 1869年}}
{{end box}}


[[1845年]]にピール首相が[[穀物法]]を廃止して穀物の自由貿易を行おうとしたことに反対した。最終的に穀物法は廃止されるも、ピールらが[[ピール派]]を立ち上げて保守党を去ったため、代わって保守党党首に就任した。1851年に父の死でダービー伯爵位を世襲する(''→[[#保守党党首に|保守党党首に]]'')。

[[ベンジャミン・ディズレーリ]]を保守党庶民院院内総務に任じて、庶民院対策を一任し、[[1852年]]に[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]のホイッグ党政権を倒して第1次内閣を組閣した。しかし少数与党政権だったので、大蔵大臣として入閣したディズレーリの予算案が否決されたことで、同年のうちに総辞職することとなった(''→[[#第1次ダービー伯爵内閣|第1次ダービー伯爵内閣]]'')。

[[1858年]]、ホイッグ党政権[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]内閣が議会で敗れて総辞職したため第2次内閣を組閣したが、やはり少数与党政権なので[[1859年]]には議会で敗北して総辞職に追い込まれた(''→[[#第2次ダービー伯爵内閣|第2次ダービー伯爵内閣]]'')

[[1865年]]に[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ラッセル伯爵]]内閣が選挙法改正法案をめぐって議会で敗北したことで、第3次内閣を組閣した。第1次、第2次同様に少数与党政権であったが、ディズレーリの主導により第2次選挙法改正を達成した。ダービー伯爵はこの法案の貴族院の通過にとりわけ大きな貢献をした(''→[[#第3次ダービー伯爵内閣|第3次ダービー伯爵内閣]]'')。

[[1868年]]に病気のため、ディズレーリに首相職を譲って退任、その翌年に死去した(''→[[#死去|死去]]'')。
{{-}}

== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Knowsleyhall.jpg|right|thumb|250px|ダービー伯爵家の自邸{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}。]]
[[ランカシャー]]のダービー伯爵家の自邸{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}に生まれる。父はスタンリー卿[[エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]](後の第13代[[ダービー伯爵]]。この頃は襲爵前でスタンリー卿の儀礼称号を使用していた)。母は[[ウィニック]][[教区]][[牧師]]ジェフリー・ホーンビーの娘シャーロット<ref name="バグリー(1993)282">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.282</ref><ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p1276.htm#i12755 |title= Edward Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby |accessdate= 2014-04-12 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。

[[イートン校]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]へ進学<ref name="バグリー(1993)292">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.292</ref><ref name="thepeerage.com" />。学生時代から作詞に熱心で、これは生涯にわたるエドワードの趣味となった<ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.292-293</ref>。
{{-}}
=== ホイッグ党議員時代 ===
大学在学中の[[1820年]]に[[ストックブリッジ]]選挙区から[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員選挙に出馬して初当選<ref name="バグリー(1993)293">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.293</ref>。ダービー伯爵家は代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]支持であり、エドワードも公式にはそう称していたが、彼は独自の判断で行動した。とりわけ[[イングランド国教会]]を守りたいと思っていたのでホイッグ党とは相容れない部分もあった<ref name="バグリー(1993)295">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.295</ref>。

[[1824年]]にエドワード・ブートル=ウィルブリアムの娘エマと結婚し、彼女との間に長男[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード]](第15代ダービー伯爵)と次男[[フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)|フレデリック]](第16代ダービー伯爵)、他一女を儲けた。

[[1827年]]に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]自由主義派の[[ジョージ・カニング]]内閣に{{仮リンク|陸軍・植民地省政務次官|en|Under-Secretary of State for War and the Colonies}}として参加したが、その後、トーリー党保守派の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]が首相となったために辞職した。この際にエドワードは「私がトーリー党政権を代表するのはカニングのようなトーリー党リベラル派が政権を握ったときのみである」と宣言した<ref name="バグリー(1993)296">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.296</ref>。

[[1830年]]、半世紀にわたったトーリー党政権が倒れ、[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]のホイッグ党政権が誕生すると、その{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}として入閣した<ref name="バグリー(1993)296">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.296</ref>。[[合同法 (1800年)|合同法]]廃止を求めるアイルランド独立運動家[[ダニエル・オコンネル]]議員と庶民院において激しく激闘した<ref name="バグリー(1993)296">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.296</ref>。一方でアイルランドに無宗派の学校を次々と創設することでプロテスタントとカトリックの教育をめぐる争いの解消を目指した<ref name="バグリー(1993)297">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.297</ref>。

[[1833年]]3月に[[陸軍・植民地大臣]]に栄転し、[[大英帝国]][[植民地]]における奴隷貿易廃止に尽力した(イギリス本国における奴隷貿易は1807年に禁じられていたが、植民地ではいまだ合法であった)<ref name="バグリー(1993)299">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.299</ref>。

しかし1834年5月には[[アイルランド国教会]]の歳入を社会保障費に転換しようというグレイ伯爵の政策に反対して陸軍・植民地相を辞職した<ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.299-300</ref>。

以降エドワードはホイッグ党から離れていくことになるが、これは彼の父スタンリー卿、祖父[[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|第12代ダービー伯爵]]からも賛同を得た上でのことであった。彼らスタンリー家3代によれば、自分たちがホイッグ党の本道から離れたのではなく、ホイッグ党の方がホイッグ党の本道にいる自分たちから離れたのだという<ref name="バグリー(1993)300">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.300</ref>。

=== 独立会派時代 ===
エドワードがホイッグ党を離党すると、80名ほどのホイッグ右派がそれに従ってホイッグを離党した。その後、彼らは[[ダービー派]]と呼ばれる独立会派を形成するようになり、トーリーとホイッグの間に立つ第三党を目指すようになった<ref name="君塚(1999)62">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62</ref>。

[[1834年]]10月に祖父である第12代ダービー伯爵が死去し、父が第13代ダービー伯爵位を継承したことで、以降エドワードは'''スタンリー卿'''(Lord Stanley)の[[儀礼称号]]を使用するようになった。

スタンリー卿とその会派は、1834年12月に成立した保守党政権の第1次ピール内閣を支持した。しかし同内閣は野党の結集で[[1835年]]4月にも倒閣された<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。続いて成立した[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]率いるホイッグ党政権から入閣要請を受けたが、メルバーン子爵がアイルランド独立運動家オコンネルに譲歩する構えだったのでスタンリー卿は入閣を拒否した<ref name="バグリー(1993)301">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.301</ref>。

[[1837年]]夏に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の即位に伴う{{仮リンク|1837年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1837}}が行われたが、スタンリー卿の会派は60議席に落ち込んだ。これにより独自会派のままでは議会の[[キャスティング・ボート (比喩)|キャスティング・ボート]]を握れる可能性が低くなった。そのためスタンリー卿は保守党と合流することを決意した<ref name="君塚(1999)66">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.66</ref>。

=== 保守党中堅議員時代 ===
[[File:Lord Stanley (1799–1869), 14th Earl of Derby by Thomas Henry Illidge.jpg|thumb|180px|1844年の肖像画({{仮リンク|トマス・ヘンリー・イリッジ|en|Thomas Henry Illidge}}画)]]
[[1837年]]12月に正式に[[保守党 (イギリス)|保守党]]に入党した<ref name="バグリー(1993)299">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.299</ref>。

[[1841年]]に誕生した[[ロバート・ピール]]保守党政権に再び[[陸軍・植民地大臣]]として入閣した<ref name="バグリー(1993)303">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303</ref>。[[阿片戦争]]の最終局面を指導して[[清]]に[[南京条約]]を締結させることに成功した。また[[英領カナダ]]と[[アメリカ合衆国]]の緊張の高まりを緩和してアメリカとの戦争を回避することにも成功した<ref name="バグリー(1993)303">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303</ref>。

スタンリー卿は[[保護貿易主義]]者であり、野党ホイッグ党や首相ピールが検討していた穀物法廃止には反対の立場であったが、植民地と本国間の関税を軽減することには賛成であり、[[カナダ]]産小麦の関税を下げるカナダ穀物法を通している<ref name="バグリー(1993)303-304">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303-304</ref>。

[[1844年]]10月に[[繰上勅書]]により、父の'''ビッカースタッフのスタンリー男爵'''(Baron Stanley of Bickerstaffe)の称号で[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]へ移籍した<ref name="バグリー(1993)304">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.304</ref>。

[[1845年]]夏に[[アイルランド]]で発生した[[ジャガイモ飢饉]]により、野党を中心にパンの値段を下げるため穀物関税を定めている穀物法廃止の機運が高まり、11月にピール首相も[[穀物法]]を廃止の方針を表明した<ref name="バグリー(1993)303">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303</ref>。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。スタンリー男爵も[[ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット (第5代バクルー公爵)|バクルー公爵]]とともに反対した。ピールは2人を説得できず、内閣は一度総辞職した<ref name="ブレイク(1993)260">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.260</ref>。しかし女王が大命を与えたホイッグ党の[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]が組閣に失敗したため、再度ピールに大命があり、12月にスタンリーとバクルー公爵の2人だけを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた(スタンリー男爵の後任は[[ウィリアム・グラッドストン]]だった)<ref name="バグリー(1993)306">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.306</ref><ref name="ブレイク(1993)261">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.261</ref>。

以降、スタンリー男爵は貴族院における反ピール運動の中心的人物となった<ref name="バグリー(1993)306">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.306</ref>。一方、庶民院でその運動を主導したのは[[ベンジャミン・ディズレーリ]]と[[ジョージ・ベンティンク]]卿だった<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.268-269</ref>。

=== 保守党党首に ===
穀物法廃止法案は保守党内自由貿易派と野党のホイッグ党や急進派の賛成多数により可決されたものの、保守党内には埋めがたい溝ができ、ディズレーリやベンティンク卿は野党勢力と連携して[[1846年]]6月にアイルランド強圧法を否決することでピール内閣を総辞職に追い込んだ<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.280-282</ref><ref name="神川(2011)124">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.124</ref>。

ロバート・ピール以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党して[[ピール派]]を結成した。これによって[[ウィリアム・グラッドストン]]など閣僚や政務次官経験者はほぼすべてピール派に流れていった<ref name="神川(2011)125">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.125</ref><ref name="ブレイク(1993)287">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.287</ref>。

[[7月18日]]の保守党両院議員による晩餐会が開かれ、その席上でスタンリー男爵が保守党全体の党首、ベンティンク卿が保守党下院院内総務と定められた<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.288-289</ref>。

ヴィクトリア女王は辞職したピールに代わってスタンリー男爵に大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断して、ホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう助言し、その結果[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]が組閣することとなった<ref name="君塚(2007)52">[[#君塚(2007)|君塚(2007)]] p.52</ref>。

[[1851年]]春に父第13代ダービー伯爵が死去し、52歳にして'''第14代ダービー伯爵'''位を継承した<ref name="バグリー(1993)308">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.308</ref>。

=== 第1次ダービー伯爵内閣 ===
ホイッグ党政権は首相ジョン・ラッセル卿とラッセルに解任された外相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]の内紛にディズレーリが付け入る形で崩壊した。その後を受けて1852年2月にダービー伯爵が大命を受けた<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.362-363</ref><ref name="バグリー(1993)311">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.311</ref>。

第1次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか3人の内閣で、後は全員新顔だった。そのため「{{仮リンク|誰?誰?内閣|en|Who? Who? Ministry}}」と呼ばれた<ref name="バグリー(1993)312">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.312</ref><ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.364-365</ref><ref name="モロワ(1960)195">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.195</ref>。

1852年7月の{{仮リンク|1852年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1852}}で保守党は議席を伸ばしたが、過半数には今一歩で届かなかったため、11月に議会が始まれば倒閣されることを覚悟せねばならなかった<ref name="バグリー(1993)313">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.313</ref>。

10月にオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に就任した<ref name="バグリー(1993)317">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.317</ref>。

12月には庶民院でディズレーリの予算案が庶民院で否決され、内閣総辞職を余儀なくされた。ピール派の[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣にとって代わられた<ref name="ブレイク(1993)403-404">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.404-404</ref><ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.151-153</ref>。

=== 第2次内閣までの野党時代 ===
以降5年にわたって野党党首時代を送った<ref name="ブレイク(1993)408">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.408</ref>。この間、保守党庶民院院内総務ディズレーリは政権に対して徹底対決路線をとったが、一方ダービー伯爵はピール派を保守党に呼び戻したいという意図から徹底対決路線を避けようとした<ref name="ブレイク(1993)414">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.414</ref>。

[[クリミア戦争]]については、アバディーン伯爵がはじめからフランスを支持するとロシア皇帝に通達しておけば、恐らくロシアはバルカン半島への侵攻など企まなかったであろうと主張して、アバディーン伯爵政権の優柔不断な外交を批判した。しかし開戦後は挙国一致体制のためとして、原則として政府の戦争遂行を支持するという立場をとった<ref name="バグリー(1993)318">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.318</ref>。

首相がホイッグ党の[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]に代わった後の[[1856年]]に勃発した[[アロー戦争]]については、「私は弱者を擁護する者である。強大なイギリスに対して弱き中国のために一助を惜しまぬものである」として戦争反対を表明した<ref name="バグリー(1993)320">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.320</ref>。一方、ディズレーリは国民の愛国ムードを敏感に感じており、これを争点にしても勝ち目はないと正しく予見していたが、党首ダービー伯爵はアロー戦争反対で政府に闘争を挑むことを決定してしまった<ref name="ブレイク(1993)435">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.435</ref>。

保守党、ピール派、急進派の賛成多数でパーマストン子爵を批判する決議が採択されると、パーマストン子爵は[[1857年]]4月に{{仮リンク|1857年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1857}}に打って出た<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.435-436</ref><ref name="神川(2011)168">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.168</ref>。選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員が大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった<ref name="ブレイク(1993)436">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.436</ref><ref name="神川(2011)169">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.169</ref>。

あてが外れてダービー伯爵は意気消沈したという<ref name="バグリー(1993)318">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.318</ref>。

=== 第2次ダービー伯爵内閣 ===
この後、パーマストン子爵が殺人共謀罪をめぐる採決で敗れて総辞職したことで、1858年2月にダービー伯爵に2度目の大命があった<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.441-443</ref>。しかし保守党は、庶民院の総議席の3分の1程度の議席しか有していなかったので、野党が団結したら即座に倒されてしまう不安定な内閣だった<ref name="ブレイク(1993)443">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.443</ref>。

息子のスタンリー卿(後の[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|第15代ダービー伯爵]])を植民地大臣に任じ、前パーマストン子爵内閣が鎮圧した[[インド大反乱]]後のインドの統治システムの構築に取り組んだ。女王や野党との協議の末に、インドを[[イギリス東インド会社]]統治からイギリス女王(実質的には「女王陛下の政府」)の直接統治へ移行した<ref name="バグリー(1993)321">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.321</ref>。

また、[[ユダヤ人]]が[[キリスト教徒]]としての宣誓を行えないがために、たとえ選挙で当選しても議場に入れない状態を解消すべく、庶民院院内総務ディズレーリとともに貴族院と庶民院でそれぞれ新しい宣誓の形を定めた<ref name="バグリー(1993)322">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.322</ref><ref name="ブレイク(1993)302">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.302</ref>。

さらに、ディズレーリの主導で選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは賃料価値にかかわらず男子戸主全員に選挙権を与える制度を欲していたが<ref name="モロワ(1960)214">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.214</ref>、保守党内の選挙権拡大慎重派を考慮して、10[[スターリング・ポンド|ポンド]]以上の賃料価値の住居の所有者、あるいは20ポンド以上の賃料価値の住居の間借人に選挙権を認めるとの改正を目指した<ref name="ブレイク(1993)462">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.462</ref>。選挙権拡大に慎重なダービー伯爵はさらに10ポンド以上の[[コンソル公債]]を所持しているか、あるいは60ポンド以上の銀行預金がある者という条件も加えさせている<ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.322-323</ref>。

1859年2月にディズレーリが庶民院に選挙法改正法案を提出したが、保守派からは選挙権を拡大しすぎると批判され、一方急進派からは選挙権拡大が手ぬるすぎると批判されて4月1日に否決された。これを受けてダービー伯爵は{{仮リンク|1859年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1859}}に打って出て、30議席ほど保守党の議席を上済みしたが、過半数には届かず、6月には議会で敗北を喫して総辞職する羽目となった<ref name="神川(2011)176">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.176</ref><ref name="バグリー(1993)323">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.323</ref>。

この退任の際に、女王より与野党の折衝の功を労われて[[ガーター勲章]]を授与された<ref name="バグリー(1993)323" />。

=== 第3次内閣までの野党時代 ===
[[イタリア統一戦争]]については、はじめイタリア・[[ナショナリズム]]に強い不信感をもっていたが、徐々に理解を示すようになり、1864年4月には[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]が主賓になっているロンドンでの晩餐会に出席して話題となった<ref name="バグリー(1993)327">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.327</ref>。

[[プロイセン王国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]の策動で始まった[[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]については中立の立場をとるよう政府に訴えた<ref name="バグリー(1993)327">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.327</ref>。

1865年7月の{{仮リンク|1865年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1865}}に保守党の総力を挙げて臨んだダービー伯爵だったが、結局20議席を失う敗北を喫している<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref><ref name="神川(2011)206">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.206</ref>。

1865年10月、選挙権拡大に慎重だった首相パーマストン子爵が死去し、代わってラッセル伯爵が首相となると、庶民院院内総務になった[[ウィリアム・グラッドストン]]の主導で選挙法改正法案が提出されたが、保守党や自由党右派の反対で否決され、ラッセル伯爵内閣は総辞職に追い込まれた<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref>。
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=== 第3次ダービー伯爵内閣 ===
[[File:The Derby Cabinet of 1867.jpg|right|thumb|250px|第3次ダービー伯爵内閣の閣議。右から3人目がダービー伯爵。]]
ラッセル伯爵内閣の総辞職を受けて、1866年6月末に女王より大命を受けた<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref>。この第3次ダービー伯爵内閣も少数与党政権であり、第1次や第2次と同様に[[選挙管理内閣]]の性質が強かった<ref name="ブレイク(1993)519">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.519</ref>。

選挙法改正の挫折で国民の抗議デモや暴動が多発し、急進派の[[ジョン・ブライト]]が国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.221-222</ref><ref>[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.111/114</ref>。ダービー伯爵は基本的に選挙権拡大に反対の立場だったが、ディズレーリからの説得で最終的には早急に選挙法を改正する必要性を理解した<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref>。

ディズレーリの主導で、1867年2月に選挙法改正法案が庶民院に提出された。都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る{{#tag:ref|地方税の納税方式には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、多くの人がこちらの納税方式を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけに高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民から選挙権を排除する最大の安全装置であった<ref name="神川(2011)231">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.231</ref>。|group=注釈}}、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった<ref name="村岡(1991)155">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.155</ref>

しかし、保守的なインド担当大臣クランボーン子爵(後の[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]])、戦争大臣{{仮リンク|ジョナサン・ピール|en|Jonathan Peel}}将軍、植民地大臣[[ヘンリー・ハーバート (第4代カーナーヴォン伯爵)|カーナーヴォン伯爵]]らは[[自由党 (イギリス)|自由党]]が強い大都市選挙区に有利な改正になるとして反対し、ついには辞職した<ref name="神川(2011)226">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.226</ref><ref name="ブレイク(1993)536">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.536</ref>。

一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃していった結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第2次選挙法改正が達成された<ref name="神川(2011)232">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.232</ref><ref name="ブレイク(1993)552">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.552</ref><ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.329-330</ref>。

可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。直接納税の条件は納税方式を直接納税のみにすることによって廃しており、2年の居住制限の条件は1年に減らされた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められていた。州選挙区の有権者資格については年価値12ポンド以上の土地所有者が選挙権を有することとなった<ref name="尾鍋(1984)113">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.113</ref><ref name="神川(2011)240">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.240</ref>。

この第2次選挙法改正によって、有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった<ref name="村岡(1991)155">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.155</ref>。ダービー伯爵にとってもディズレーリにとっても予想外の選挙権の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという<ref name="ブレイク(1993)555">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.555</ref>。

第2次選挙法改正法案をめぐる議会での論争の際には、すでにダービー伯爵の持病の[[痛風]]は相当悪化していた。閣議もしばしば[[ロンドン]]・{{仮リンク|セント・ジェームズ・スクウェア|en|St. James's Square}}23番地にある彼の自邸で開かれるようになっていた<ref name="バグリー(1993)330">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.330</ref>。1867年秋には[[ゾフィー・フォン・ヴュルテンベルク|オランダ王妃]]を所領の自邸{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}に迎えたが、ダービー伯爵の衰弱した様子を見た王妃は「伯爵は今にも燃えつきそうです。熱っぽい目と青白い顔を見ていると身の毛がよだちます」とその印象を語っている<ref name="バグリー(1993)330">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.330</ref>。

1868年2月に新議会が招集されたが、ダービー伯爵はもはや議会に出席できない状態だった。彼はまだそれほどの高齢ではなかったので引退生活に入ることを渋っていたが、医者の薦めで辞意を固めた<ref name="ブレイク(1993)566">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.566</ref>。女王もすでにディズレーリを後任にと考えていた<ref name="ブレイク(1993)566">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.566</ref>。

1868年2月24日に女王に辞表を提出した<ref name="バグリー(1993)331">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.331</ref>。その際にディズレーリに大命を与えるよう助言している<ref name="尾鍋(1984)116">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.116</ref><ref name="ブレイク(1993)566">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.566</ref>。

=== 死去 ===
[[File:Edward Smith-Stanley, Vanity Fair, 1869-05-29.jpg|right|thumb|150px|[[1869年]][[5月29日]]の『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌のダービー伯の似顔絵。]]
退任後は{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}で過ごすことがほとんどだったが、1869年3月には最後の力を振り絞って貴族院に出席し、自由党政権[[ウィリアム・グラッドストン]]内閣が提出したアイルランド国教会を廃止しようとする法案に反対する演説を行った(しかしこの法案は可決している)<ref name="バグリー(1993)331">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.331</ref>。

その後、1869年10月23日にノウズリー・ホールで死去した<ref name="バグリー(1993)332">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.332</ref>。ダービー伯爵位は長男[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード]]が継承した<ref name="バグリー(1993)342">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.342</ref>。
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== 人物 ==
[[File:Earl of Derby statue, Parliament Square SW1 - geograph.org.uk - 1324165.jpg|right|thumb|150px|[[ロンドン]]・[[パーラメント・スクエア]]にあるダービー伯爵の銅像。]]
[[貴族主義]]的な人物で、[[民主主義]]を嫌っていた。彼の理想とする社会は「貴族」による[[寡頭政治]]だった。ただし彼の言う「貴族」とは爵位を持つ者だけではなく、爵位のない地主層[[ジェントリ]]も含んでおり、つまり地方[[ジェントルマン]]全般のことであった<ref name="バグリー(1993)305">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.305</ref>。その貴族主義は徹底しており、大貴族として威張り、庶民を見下すことを好んだ。「成りあがり者の[[ヘブライ人]]」ディズレーリのことも、その才能は認めていたが、好んではいなかった<ref name="モロワ(1960)177">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.177</ref>。

外交では[[栄光ある孤立|孤立主義]]・[[不干渉主義]]を基調として、イギリスの名誉が傷付かない限り、戦争には消極的であった<ref name="バグリー(1993)327">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.327</ref>。

性格は激昂しやすかったという<ref name="ブレイク(1993)332">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.332</ref>。

[[クラシック音楽]]の愛好家であり、『[[イーリアス]]』を詩歌に翻訳したこともある<ref name="ブレイク(1993)332">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.332</ref><ref name="モロワ(1960)177">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.177</ref>。

競馬を愛し、競馬界の[[パトロン]]であった<ref name="ブレイク(1993)332">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.332</ref>。彼は競馬の[[ダービーステークス|ダービー]]と[[オークス]]を創設した[[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|12代ダービー伯]]の孫にあたり、祖父から競馬を学んだ。調教師{{仮リンク|ジョン・スコット (調教師)|label=ジョン・スコット|en|John Scott (horseman)}}に所有馬を任せ、ダービーでの優勝を目指したが、ダービーでの最高記録は[[1858年]]に出走させたトキソフィライト(Toxophilite、[[カーバイン]]の祖父)の2着だった<ref name="ロン(1976)131">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.131</ref>。一方オークスにおいては叙爵前の[[1851年]]に所有馬アイリス ({{lang|en|Iris}})で優勝を果たしている<ref name="バグリー(1993)367">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.367</ref>{{#tag:ref|[[オークス]]は第1回に祖父12代ダービー伯爵がブリジット ({{lang|en|Briget}}) で、第16回にもハーマイオニ(Hermione)で制しており、彼の1851年の第73回オークスでの優勝は伯爵家としては57年ぶりの快挙であった。この45年後の1896年のオークスでも次男[[フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)|第16代ダービー伯爵]]が[[カンタベリーピルグリム]]によってオークスで優勝している<ref name="バグリー(1993)367" />。|group=注釈}}。

公務より競馬を優先することもしばしばあり、補佐役のディズレーリは頭を抱えたという<ref name="バグリー(1993)316">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.316</ref>。ディズレーリは彼について「ヨーロッパ、いや世界が激変の最中にある時でも常に[[ニューマーケット競馬場|ニューマーケット]]と[[ドンカスター競馬場|ドンカスター]]の味方であった」と評している<ref name="ロン(1976)131">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.131</ref>。
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== 栄典 ==
=== 爵位 ===
[[1844年]][[11月4日]]の[[繰上勅書]]により以下の爵位を継承した<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP ED">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/derby1485.htm|title=Derby, Earl of (E, 1485)|accessdate= 2018-1-27|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
*'''ランカスター州におけるビッカースタッフのビッカースタッフの第2代スタンリー男爵''' <small>(2nd Baron Stanley of Bickerstaffe, of Bickerstaffe in the County of Lancaster)</small>
*:([[1832年]][[12月22日]]の[[勅許状]]による[[連合王国貴族]]爵位)
[[1851年]][[6月30日]]に父[[エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]の死により以下の爵位/準男爵位を継承した<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP ED"/>
*'''第14代[[ダービー伯爵]]''' <small>(14th Earl of Derby)</small>
*:([[1485年]][[10月27日]]の勅許状による[[イングランド貴族]]爵位)
*'''(ランカスター州におけるビッカースタッフの)第8代準男爵''' <small>(8th Baronet, "of Bickerstaffe, in the County of Lancaster")</small>
*:([[1627年]][[6月26日]]の勅許状によるイングランド準男爵位)

=== 勲章 ===
*[[1859年]]、[[ガーター勲章]]ナイト(KG)<ref name="thepeerage.com" />
*[[1869年]]、[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]ナイト・グランド・クロス(G.C.M.G.)<ref name="thepeerage.com" />

=== その他 ===
*[[1830年]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="thepeerage.com" />
*[[1831年]]、アイルランド枢密顧問官(P.C. Ireland)<ref name="thepeerage.com" />

== 家族 ==
[[1825年]]に{{仮リンク|エドワード・ブートレ=ウィルブラハム (初代スケルマーズデール男爵)|label=初代スケルマーズデール男爵|en|Edward Bootle-Wilbraham, 1st Baron Skelmersdale}}の娘エマ・キャロライン・ブートル=ウィルブラハム[[オナラブル|閣下]]({{lang|en|Hon. Emma Caroline Bootle-Wilbraham}})と結婚。彼女との間に以下の3子を儲けた<ref name="thepeerage.com" />。
*長男[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・ヘンリー・スタンリー]]([[1826年]] - [[1893年]]) : 第15代ダービー伯爵
*次男[[フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)|フレデリック・アーサー・スタンリー]]([[1841年]] - [[1908年]]) : 第16代ダービー伯爵
*長女エマ・シャーロット・スタンリー嬢({{lang|en|Lady Emma Charlotte Stanley}})(? - [[1928年]]) :[[チャールズ・チェットウィンド=タルボット (第2代タルボット伯爵)|第2代タルボット伯爵]]の息子で大佐階級の軍人ウェリントン・パトリック・マンヴェーズ・チェットウィンド=タルボット閣下({{lang|en|Colonel Hon. Sir Wellington Patrick Manvers Chetwynd-Talbot}})と結婚。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=尾鍋輝彦|authorlink=尾鍋輝彦|date=1984年|title=最高の議会人 グラッドストン|series=清水新書016|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389440169|ref=尾鍋(1984)}}
**新版『最高の議会人 グラッドストン』 清水書院〈新・人と歴史29〉、2018年。ISBN 978-4389441296。
*{{Cite book|和書|author1=神川信彦|authorlink1=神川信彦|author2=解説・君塚直隆|authorlink2=君塚直隆|date=2011年|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|authorlink=君塚直隆|date=1999年|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=2007年|title=ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”|publisher=[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉|isbn=978-4121019165|ref=君塚(2007)}}
*{{Cite book|和書|author=ジョン・ジョゼフ バグリー|authorlink=ジョン・ジョゼフ バグリー|translator=[[海保真夫]]|date=1993年|title=ダービー伯爵の英国史|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582474510|ref=バグリー(1993)}}
*{{Cite book|和書|date=2001年|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=秦郁彦|editor-link=秦郁彦|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[谷福丸]]|editor=灘尾弘吉監修|editor-link=灘尾弘吉|date=1993年|title=ディズレイリ|publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=ブレイク(1993)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor1=村岡健次|editor1-link=村岡健次 (歴史学者)|editor2=木畑洋一|editor2-link=木畑洋一|date=1991年|title=イギリス史〈3〉 近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*{{Cite book|和書|author=アンドレ・モロワ|authorlink=アンドレ・モーロワ|date=1960年|title=ディズレーリ伝|translator=[[安東次男]]|publisher=[[東京創元社]]|asin=B000JAOYH6|ref=モロワ(1960)}}
*{{Cite book|和書|author=ロジャー・ロングリグ|authorlink=ロジャー・ロングリグ|date=1976年|title=競馬の世界史|translator=原田俊治|publisher=[[日本中央競馬会]]弘済会|asin=B000J9355O|ref=ロン(1976)}}

== 関連項目 ==
*[[保護貿易主義]]
*[[スタンリー (フォークランド諸島)]]:イギリス領[[フォークランド諸島]]の首都。彼の名に因んでいる。

== 外部リンク ==
{{Commonscat|Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby|第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー}}
{{Wikisource1911Enc|Derby, Earls of|ダービー伯爵}}
* {{hansard-contribs | hon-edward-stanley-3 | Hon. Edward Stanley }} {{en icon}}
* [https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/edward-smith-stanley-14th-earl-of-derby Edward Smith Stanley 14th Earl of Derby] - ''[[ダウニング街10番地]]'' {{en icon}}
* {{gutenberg author | id=Edward+Earl_of_Derby | name=第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー }}
* {{worldcat id|id=lccn-n87-896612| name=第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー }}
* {{Find A Grave|10194 | name=第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー }}
* [http://www.npg.org.uk/collections/search/person/mp01265/ Edward Stanley, 14th Earl of Derby (1799-1869)] - ''[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]'' {{en icon}}

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[[fr:Edward Smith-Stanley (14e comte de Derby)]]
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[[it:Edward Geoffrey Smith Stanley, XIV conte di Derby]]
[[la:Eduardus Galfridus Smith Stanley]]
[[lt:Edward Smith-Stanley]]
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[[sv:Edward Smith-Stanley, 14:e earl av Derby]]
[[tg:Едвард Смит-Станлей]]
[[th:เอ็ดเวิร์ด สมิธ-สแตนลีย์ เอิร์ลแห่งดาร์บีย์ ที่ 14]]
[[uk:Едуард Джефрі Сміт Дербі]]
[[yo:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby]]
[[zh:愛德華·史密斯-斯坦利,第十四代德比伯爵]]

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第14代ダービー伯爵
エドワード・スミス=スタンリー
Edward Smith-Stanley
14th Earl of Derby
生年月日 1799年3月29日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国イングランドランカシャー
没年月日 (1869-10-23) 1869年10月23日(70歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス、イングランド、ランカシャー
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 ホイッグ党ダービー派保守党
称号 第14代ダービー伯爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者 エマ
親族 第13代ダービー伯爵(父)
第15代ダービー伯爵(長男)
第16代ダービー伯爵(次男)
サイン

在任期間 1852年2月23日 - 1852年12月16日[1]
1858年2月25日 - 1859年6月[1]
1866年7月6日 - 1868年2月25日[1]
女王 ヴィクトリア

内閣 グレイ伯爵内閣
在任期間 1830年11月29日 - 1833年3月29日

内閣 グレイ伯爵内閣
第二次ピール内閣
在任期間 1833年4月3日 - 1834年6月5日
1841年9月3日 - 1845年12月23日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ストックブリッジ選挙区英語版[2]
プレストン選挙区英語版[2]
ウィンザー選挙区英語版[2]
ノース・ランカシャー選挙区英語版[2]
在任期間 1822年7月30日 - 1826年6月15日[2]
1826年6月26日 - 1830年12月7日[2]
1831年2月10日 - 1832年12月12日[2]
1832年12月10日 - 1844年8月31日[2]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1844年 - 1869年[2]
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第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジェフリー・スミス=スタンリー英語: Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, GCMG, PC, PC (Ire)1799年3月29日 - 1869年10月23日)は、イギリス政治家貴族

保守党とピール派の分裂後にロバート・ピールに代わって保守党党首となり、3度にわたって首相1852年1858年 - 1859年1866年 - 1868年)を務めた。しかしいずれも少数与党の短命政権であり、事実上選挙管理内閣だったため、庶民院院内総務の地位にあったベンジャミン・ディズレーリが政局を主導するところが多く、影の薄い首相だった。1868年に退任し、ディズレーリが保守党党首・首相の地位を継承した。

1834年から1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用し、1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)を、1851年にはダービー伯爵位を、それぞれ継承した。

概要

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第13代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの長男。イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する(生い立ち

大学在学中の1820年庶民院議員に初当選した。はじめはホイッグ党の議員だった。1827年トーリー党自由主義派のジョージ・カニングを首相とする内閣に陸軍・植民地省政務次官英語版として参加した。1830年グレイ伯爵を首相とするホイッグ党政権にもアイルランド担当大臣英語版、のち陸軍・植民地大臣として入閣したが、1834年にはグレイ伯爵のアイルランド国教会の歳入を社会保障に回す政策に反発して辞職した(ホイッグ党議員時代

その後ホイッグ党右派を引き離れて分党し、ダービー派を形成したが、1837年夏の総選挙で議席を落とす(独立会派時代)。以降保守党(旧トーリー党)へ接近し、1837年に同党に入党した。1841年の保守党政権ロバート・ピール内閣には陸軍・植民地大臣として入閣。1844年には繰上勅書でビッカースタッフのスタンリー男爵を継承し、貴族院へ移籍した(保守党中堅議員時代)。

1845年にピール首相が穀物法を廃止して穀物の自由貿易を行おうとしたことに反対した。最終的に穀物法は廃止されるも、ピールらがピール派を立ち上げて保守党を去ったため、代わって保守党党首に就任した。1851年に父の死でダービー伯爵位を世襲する(保守党党首に)。

ベンジャミン・ディズレーリを保守党庶民院院内総務に任じて、庶民院対策を一任し、1852年ジョン・ラッセル卿のホイッグ党政権を倒して第1次内閣を組閣した。しかし少数与党政権だったので、大蔵大臣として入閣したディズレーリの予算案が否決されたことで、同年のうちに総辞職することとなった(第1次ダービー伯爵内閣)。

1858年、ホイッグ党政権パーマストン子爵内閣が議会で敗れて総辞職したため第2次内閣を組閣したが、やはり少数与党政権なので1859年には議会で敗北して総辞職に追い込まれた(第2次ダービー伯爵内閣

1865年ラッセル伯爵内閣が選挙法改正法案をめぐって議会で敗北したことで、第3次内閣を組閣した。第1次、第2次同様に少数与党政権であったが、ディズレーリの主導により第2次選挙法改正を達成した。ダービー伯爵はこの法案の貴族院の通過にとりわけ大きな貢献をした(第3次ダービー伯爵内閣)。

1868年に病気のため、ディズレーリに首相職を譲って退任、その翌年に死去した(死去)。

生涯

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生い立ち

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ダービー伯爵家の自邸ノウズリー・ホール英語版

ランカシャーのダービー伯爵家の自邸ノウズリー・ホール英語版に生まれる。父はスタンリー卿エドワード・スミス=スタンリー(後の第13代ダービー伯爵。この頃は襲爵前でスタンリー卿の儀礼称号を使用していた)。母はウィニック教区牧師ジェフリー・ホーンビーの娘シャーロット[3][4]

イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学[5][4]。学生時代から作詞に熱心で、これは生涯にわたるエドワードの趣味となった[6]

ホイッグ党議員時代

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大学在学中の1820年ストックブリッジ選挙区から庶民院議員選挙に出馬して初当選[7]。ダービー伯爵家は代々ホイッグ党支持であり、エドワードも公式にはそう称していたが、彼は独自の判断で行動した。とりわけイングランド国教会を守りたいと思っていたのでホイッグ党とは相容れない部分もあった[8]

1824年にエドワード・ブートル=ウィルブリアムの娘エマと結婚し、彼女との間に長男エドワード(第15代ダービー伯爵)と次男フレデリック(第16代ダービー伯爵)、他一女を儲けた。

1827年トーリー党自由主義派のジョージ・カニング内閣に陸軍・植民地省政務次官英語版として参加したが、その後、トーリー党保守派のウェリントン公爵が首相となったために辞職した。この際にエドワードは「私がトーリー党政権を代表するのはカニングのようなトーリー党リベラル派が政権を握ったときのみである」と宣言した[9]

1830年、半世紀にわたったトーリー党政権が倒れ、グレイ伯爵のホイッグ党政権が誕生すると、そのアイルランド担当大臣英語版として入閣した[9]合同法廃止を求めるアイルランド独立運動家ダニエル・オコンネル議員と庶民院において激しく激闘した[9]。一方でアイルランドに無宗派の学校を次々と創設することでプロテスタントとカトリックの教育をめぐる争いの解消を目指した[10]

1833年3月に陸軍・植民地大臣に栄転し、大英帝国植民地における奴隷貿易廃止に尽力した(イギリス本国における奴隷貿易は1807年に禁じられていたが、植民地ではいまだ合法であった)[11]

しかし1834年5月にはアイルランド国教会の歳入を社会保障費に転換しようというグレイ伯爵の政策に反対して陸軍・植民地相を辞職した[12]

以降エドワードはホイッグ党から離れていくことになるが、これは彼の父スタンリー卿、祖父第12代ダービー伯爵からも賛同を得た上でのことであった。彼らスタンリー家3代によれば、自分たちがホイッグ党の本道から離れたのではなく、ホイッグ党の方がホイッグ党の本道にいる自分たちから離れたのだという[13]

独立会派時代

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エドワードがホイッグ党を離党すると、80名ほどのホイッグ右派がそれに従ってホイッグを離党した。その後、彼らはダービー派と呼ばれる独立会派を形成するようになり、トーリーとホイッグの間に立つ第三党を目指すようになった[14]

1834年10月に祖父である第12代ダービー伯爵が死去し、父が第13代ダービー伯爵位を継承したことで、以降エドワードはスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用するようになった。

スタンリー卿とその会派は、1834年12月に成立した保守党政権の第1次ピール内閣を支持した。しかし同内閣は野党の結集で1835年4月にも倒閣された[15]。続いて成立したメルバーン子爵率いるホイッグ党政権から入閣要請を受けたが、メルバーン子爵がアイルランド独立運動家オコンネルに譲歩する構えだったのでスタンリー卿は入閣を拒否した[16]

1837年夏にヴィクトリア女王の即位に伴う解散総選挙英語版が行われたが、スタンリー卿の会派は60議席に落ち込んだ。これにより独自会派のままでは議会のキャスティング・ボートを握れる可能性が低くなった。そのためスタンリー卿は保守党と合流することを決意した[17]

保守党中堅議員時代

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1844年の肖像画(トマス・ヘンリー・イリッジ英語版画)

1837年12月に正式に保守党に入党した[11]

1841年に誕生したロバート・ピール保守党政権に再び陸軍・植民地大臣として入閣した[18]阿片戦争の最終局面を指導して南京条約を締結させることに成功した。また英領カナダアメリカ合衆国の緊張の高まりを緩和してアメリカとの戦争を回避することにも成功した[18]

スタンリー卿は保護貿易主義者であり、野党ホイッグ党や首相ピールが検討していた穀物法廃止には反対の立場であったが、植民地と本国間の関税を軽減することには賛成であり、カナダ産小麦の関税を下げるカナダ穀物法を通している[19]

1844年10月に繰上勅書により、父のビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)の称号で貴族院へ移籍した[20]

1845年夏にアイルランドで発生したジャガイモ飢饉により、野党を中心にパンの値段を下げるため穀物関税を定めている穀物法廃止の機運が高まり、11月にピール首相も穀物法を廃止の方針を表明した[18]。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。スタンリー男爵もバクルー公爵とともに反対した。ピールは2人を説得できず、内閣は一度総辞職した[21]。しかし女王が大命を与えたホイッグ党のジョン・ラッセル卿が組閣に失敗したため、再度ピールに大命があり、12月にスタンリーとバクルー公爵の2人だけを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた(スタンリー男爵の後任はウィリアム・グラッドストンだった)[22][23]

以降、スタンリー男爵は貴族院における反ピール運動の中心的人物となった[22]。一方、庶民院でその運動を主導したのはベンジャミン・ディズレーリジョージ・ベンティンク卿だった[24]

保守党党首に

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穀物法廃止法案は保守党内自由貿易派と野党のホイッグ党や急進派の賛成多数により可決されたものの、保守党内には埋めがたい溝ができ、ディズレーリやベンティンク卿は野党勢力と連携して1846年6月にアイルランド強圧法を否決することでピール内閣を総辞職に追い込んだ[25][26]

ロバート・ピール以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党してピール派を結成した。これによってウィリアム・グラッドストンなど閣僚や政務次官経験者はほぼすべてピール派に流れていった[27][28]

7月18日の保守党両院議員による晩餐会が開かれ、その席上でスタンリー男爵が保守党全体の党首、ベンティンク卿が保守党下院院内総務と定められた[29]

ヴィクトリア女王は辞職したピールに代わってスタンリー男爵に大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断して、ホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう助言し、その結果ジョン・ラッセル卿が組閣することとなった[30]

1851年春に父第13代ダービー伯爵が死去し、52歳にして第14代ダービー伯爵位を継承した[31]

第1次ダービー伯爵内閣

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ホイッグ党政権は首相ジョン・ラッセル卿とラッセルに解任された外相パーマストン子爵の内紛にディズレーリが付け入る形で崩壊した。その後を受けて1852年2月にダービー伯爵が大命を受けた[32][33]

第1次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか3人の内閣で、後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣英語版」と呼ばれた[34][35][36]

1852年7月の総選挙英語版で保守党は議席を伸ばしたが、過半数には今一歩で届かなかったため、11月に議会が始まれば倒閣されることを覚悟せねばならなかった[37]

10月にオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に就任した[38]

12月には庶民院でディズレーリの予算案が庶民院で否決され、内閣総辞職を余儀なくされた。ピール派のアバディーン伯爵内閣にとって代わられた[39][40]

第2次内閣までの野党時代

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以降5年にわたって野党党首時代を送った[41]。この間、保守党庶民院院内総務ディズレーリは政権に対して徹底対決路線をとったが、一方ダービー伯爵はピール派を保守党に呼び戻したいという意図から徹底対決路線を避けようとした[42]

クリミア戦争については、アバディーン伯爵がはじめからフランスを支持するとロシア皇帝に通達しておけば、恐らくロシアはバルカン半島への侵攻など企まなかったであろうと主張して、アバディーン伯爵政権の優柔不断な外交を批判した。しかし開戦後は挙国一致体制のためとして、原則として政府の戦争遂行を支持するという立場をとった[43]

首相がホイッグ党のパーマストン子爵に代わった後の1856年に勃発したアロー戦争については、「私は弱者を擁護する者である。強大なイギリスに対して弱き中国のために一助を惜しまぬものである」として戦争反対を表明した[44]。一方、ディズレーリは国民の愛国ムードを敏感に感じており、これを争点にしても勝ち目はないと正しく予見していたが、党首ダービー伯爵はアロー戦争反対で政府に闘争を挑むことを決定してしまった[45]

保守党、ピール派、急進派の賛成多数でパーマストン子爵を批判する決議が採択されると、パーマストン子爵は1857年4月に解散総選挙英語版に打って出た[46][47]。選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員が大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった[48][49]

あてが外れてダービー伯爵は意気消沈したという[43]

第2次ダービー伯爵内閣

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この後、パーマストン子爵が殺人共謀罪をめぐる採決で敗れて総辞職したことで、1858年2月にダービー伯爵に2度目の大命があった[50]。しかし保守党は、庶民院の総議席の3分の1程度の議席しか有していなかったので、野党が団結したら即座に倒されてしまう不安定な内閣だった[51]

息子のスタンリー卿(後の第15代ダービー伯爵)を植民地大臣に任じ、前パーマストン子爵内閣が鎮圧したインド大反乱後のインドの統治システムの構築に取り組んだ。女王や野党との協議の末に、インドをイギリス東インド会社統治からイギリス女王(実質的には「女王陛下の政府」)の直接統治へ移行した[52]

また、ユダヤ人キリスト教徒としての宣誓を行えないがために、たとえ選挙で当選しても議場に入れない状態を解消すべく、庶民院院内総務ディズレーリとともに貴族院と庶民院でそれぞれ新しい宣誓の形を定めた[53][54]

さらに、ディズレーリの主導で選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは賃料価値にかかわらず男子戸主全員に選挙権を与える制度を欲していたが[55]、保守党内の選挙権拡大慎重派を考慮して、10ポンド以上の賃料価値の住居の所有者、あるいは20ポンド以上の賃料価値の住居の間借人に選挙権を認めるとの改正を目指した[56]。選挙権拡大に慎重なダービー伯爵はさらに10ポンド以上のコンソル公債を所持しているか、あるいは60ポンド以上の銀行預金がある者という条件も加えさせている[57]

1859年2月にディズレーリが庶民院に選挙法改正法案を提出したが、保守派からは選挙権を拡大しすぎると批判され、一方急進派からは選挙権拡大が手ぬるすぎると批判されて4月1日に否決された。これを受けてダービー伯爵は解散総選挙英語版に打って出て、30議席ほど保守党の議席を上済みしたが、過半数には届かず、6月には議会で敗北を喫して総辞職する羽目となった[58][59]

この退任の際に、女王より与野党の折衝の功を労われてガーター勲章を授与された[59]

第3次内閣までの野党時代

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イタリア統一戦争については、はじめイタリア・ナショナリズムに強い不信感をもっていたが、徐々に理解を示すようになり、1864年4月にはジュゼッペ・ガリバルディが主賓になっているロンドンでの晩餐会に出席して話題となった[60]

プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動で始まった第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争については中立の立場をとるよう政府に訴えた[60]

1865年7月の解散総選挙英語版に保守党の総力を挙げて臨んだダービー伯爵だったが、結局20議席を失う敗北を喫している[61][62]

1865年10月、選挙権拡大に慎重だった首相パーマストン子爵が死去し、代わってラッセル伯爵が首相となると、庶民院院内総務になったウィリアム・グラッドストンの主導で選挙法改正法案が提出されたが、保守党や自由党右派の反対で否決され、ラッセル伯爵内閣は総辞職に追い込まれた[61]

第3次ダービー伯爵内閣

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第3次ダービー伯爵内閣の閣議。右から3人目がダービー伯爵。

ラッセル伯爵内閣の総辞職を受けて、1866年6月末に女王より大命を受けた[61]。この第3次ダービー伯爵内閣も少数与党政権であり、第1次や第2次と同様に選挙管理内閣の性質が強かった[63]

選挙法改正の挫折で国民の抗議デモや暴動が多発し、急進派のジョン・ブライトが国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった[64][65]。ダービー伯爵は基本的に選挙権拡大に反対の立場だったが、ディズレーリからの説得で最終的には早急に選挙法を改正する必要性を理解した[61]

ディズレーリの主導で、1867年2月に選挙法改正法案が庶民院に提出された。都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る[注釈 1]、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった[67]

しかし、保守的なインド担当大臣クランボーン子爵(後のソールズベリー侯爵)、戦争大臣ジョナサン・ピール英語版将軍、植民地大臣カーナーヴォン伯爵らは自由党が強い大都市選挙区に有利な改正になるとして反対し、ついには辞職した[68][69]

一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃していった結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第2次選挙法改正が達成された[70][71][72]

可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。直接納税の条件は納税方式を直接納税のみにすることによって廃しており、2年の居住制限の条件は1年に減らされた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められていた。州選挙区の有権者資格については年価値12ポンド以上の土地所有者が選挙権を有することとなった[73][74]

この第2次選挙法改正によって、有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった[67]。ダービー伯爵にとってもディズレーリにとっても予想外の選挙権の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという[75]

第2次選挙法改正法案をめぐる議会での論争の際には、すでにダービー伯爵の持病の痛風は相当悪化していた。閣議もしばしばロンドンセント・ジェームズ・スクウェア英語版23番地にある彼の自邸で開かれるようになっていた[76]。1867年秋にはオランダ王妃を所領の自邸ノウズリー・ホール英語版に迎えたが、ダービー伯爵の衰弱した様子を見た王妃は「伯爵は今にも燃えつきそうです。熱っぽい目と青白い顔を見ていると身の毛がよだちます」とその印象を語っている[76]

1868年2月に新議会が招集されたが、ダービー伯爵はもはや議会に出席できない状態だった。彼はまだそれほどの高齢ではなかったので引退生活に入ることを渋っていたが、医者の薦めで辞意を固めた[77]。女王もすでにディズレーリを後任にと考えていた[77]

1868年2月24日に女王に辞表を提出した[78]。その際にディズレーリに大命を与えるよう助言している[79][77]

死去

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1869年5月29日の『バニティ・フェア』誌のダービー伯の似顔絵。

退任後はノウズリー・ホール英語版で過ごすことがほとんどだったが、1869年3月には最後の力を振り絞って貴族院に出席し、自由党政権ウィリアム・グラッドストン内閣が提出したアイルランド国教会を廃止しようとする法案に反対する演説を行った(しかしこの法案は可決している)[78]

その後、1869年10月23日にノウズリー・ホールで死去した[80]。ダービー伯爵位は長男エドワードが継承した[81]

人物

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ロンドンパーラメント・スクエアにあるダービー伯爵の銅像。

貴族主義的な人物で、民主主義を嫌っていた。彼の理想とする社会は「貴族」による寡頭政治だった。ただし彼の言う「貴族」とは爵位を持つ者だけではなく、爵位のない地主層ジェントリも含んでおり、つまり地方ジェントルマン全般のことであった[82]。その貴族主義は徹底しており、大貴族として威張り、庶民を見下すことを好んだ。「成りあがり者のヘブライ人」ディズレーリのことも、その才能は認めていたが、好んではいなかった[83]

外交では孤立主義不干渉主義を基調として、イギリスの名誉が傷付かない限り、戦争には消極的であった[60]

性格は激昂しやすかったという[84]

クラシック音楽の愛好家であり、『イーリアス』を詩歌に翻訳したこともある[84][83]

競馬を愛し、競馬界のパトロンであった[84]。彼は競馬のダービーオークスを創設した12代ダービー伯の孫にあたり、祖父から競馬を学んだ。調教師ジョン・スコット英語版に所有馬を任せ、ダービーでの優勝を目指したが、ダービーでの最高記録は1858年に出走させたトキソフィライト(Toxophilite、カーバインの祖父)の2着だった[85]。一方オークスにおいては叙爵前の1851年に所有馬アイリス (Iris)で優勝を果たしている[86][注釈 2]

公務より競馬を優先することもしばしばあり、補佐役のディズレーリは頭を抱えたという[87]。ディズレーリは彼について「ヨーロッパ、いや世界が激変の最中にある時でも常にニューマーケットドンカスターの味方であった」と評している[85]

栄典

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爵位

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1844年11月4日繰上勅書により以下の爵位を継承した[4][88]

  • ランカスター州におけるビッカースタッフのビッカースタッフの第2代スタンリー男爵 (2nd Baron Stanley of Bickerstaffe, of Bickerstaffe in the County of Lancaster)
    (1832年12月22日勅許状による連合王国貴族爵位)

1851年6月30日に父エドワード・スミス=スタンリーの死により以下の爵位/準男爵位を継承した[4][88]

勲章

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その他

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家族

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1825年初代スケルマーズデール男爵英語版の娘エマ・キャロライン・ブートル=ウィルブラハム閣下Hon. Emma Caroline Bootle-Wilbraham)と結婚。彼女との間に以下の3子を儲けた[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 地方税の納税方式には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、多くの人がこちらの納税方式を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけに高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民から選挙権を排除する最大の安全装置であった[66]
  2. ^ オークスは第1回に祖父12代ダービー伯爵がブリジット (Briget) で、第16回にもハーマイオニ(Hermione)で制しており、彼の1851年の第73回オークスでの優勝は伯爵家としては57年ぶりの快挙であった。この45年後の1896年のオークスでも次男第16代ダービー伯爵カンタベリーピルグリムによってオークスで優勝している[86]

出典

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  1. ^ a b c 秦(2001) p.509
  2. ^ a b c d e f g h i UK Parliament. “Edward Stanley” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年4月12日閲覧。
  3. ^ バグリー(1993) p.282
  4. ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Edward Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby” (英語). thepeerage.com. 2014年4月12日閲覧。
  5. ^ バグリー(1993) p.292
  6. ^ バグリー(1993) p.292-293
  7. ^ バグリー(1993) p.293
  8. ^ バグリー(1993) p.295
  9. ^ a b c バグリー(1993) p.296
  10. ^ バグリー(1993) p.297
  11. ^ a b バグリー(1993) p.299
  12. ^ バグリー(1993) p.299-300
  13. ^ バグリー(1993) p.300
  14. ^ 君塚(1999) p.62
  15. ^ 君塚(1999) p.63
  16. ^ バグリー(1993) p.301
  17. ^ 君塚(1999) p.66
  18. ^ a b c バグリー(1993) p.303
  19. ^ バグリー(1993) p.303-304
  20. ^ バグリー(1993) p.304
  21. ^ ブレイク(1993) p.260
  22. ^ a b バグリー(1993) p.306
  23. ^ ブレイク(1993) p.261
  24. ^ ブレイク(1993) p.268-269
  25. ^ ブレイク(1993) p.280-282
  26. ^ 神川(2011) p.124
  27. ^ 神川(2011) p.125
  28. ^ ブレイク(1993) p.287
  29. ^ ブレイク(1993) p.288-289
  30. ^ 君塚(2007) p.52
  31. ^ バグリー(1993) p.308
  32. ^ ブレイク(1993) p.362-363
  33. ^ バグリー(1993) p.311
  34. ^ バグリー(1993) p.312
  35. ^ ブレイク(1993) p.364-365
  36. ^ モロワ(1960) p.195
  37. ^ バグリー(1993) p.313
  38. ^ バグリー(1993) p.317
  39. ^ ブレイク(1993) p.404-404
  40. ^ 神川(2011) p.151-153
  41. ^ ブレイク(1993) p.408
  42. ^ ブレイク(1993) p.414
  43. ^ a b バグリー(1993) p.318
  44. ^ バグリー(1993) p.320
  45. ^ ブレイク(1993) p.435
  46. ^ ブレイク(1993) p.435-436
  47. ^ 神川(2011) p.168
  48. ^ ブレイク(1993) p.436
  49. ^ 神川(2011) p.169
  50. ^ ブレイク(1993) p.441-443
  51. ^ ブレイク(1993) p.443
  52. ^ バグリー(1993) p.321
  53. ^ バグリー(1993) p.322
  54. ^ ブレイク(1993) p.302
  55. ^ モロワ(1960) p.214
  56. ^ ブレイク(1993) p.462
  57. ^ バグリー(1993) p.322-323
  58. ^ 神川(2011) p.176
  59. ^ a b バグリー(1993) p.323
  60. ^ a b c バグリー(1993) p.327
  61. ^ a b c d バグリー(1993) p.328
  62. ^ 神川(2011) p.206
  63. ^ ブレイク(1993) p.519
  64. ^ 神川(2011) p.221-222
  65. ^ 尾鍋(1984) p.111/114
  66. ^ 神川(2011) p.231
  67. ^ a b 村岡、木畑(1991) p.155
  68. ^ 神川(2011) p.226
  69. ^ ブレイク(1993) p.536
  70. ^ 神川(2011) p.232
  71. ^ ブレイク(1993) p.552
  72. ^ バグリー(1993) p.329-330
  73. ^ 尾鍋(1984) p.113
  74. ^ 神川(2011) p.240
  75. ^ ブレイク(1993) p.555
  76. ^ a b バグリー(1993) p.330
  77. ^ a b c ブレイク(1993) p.566
  78. ^ a b バグリー(1993) p.331
  79. ^ 尾鍋(1984) p.116
  80. ^ バグリー(1993) p.332
  81. ^ バグリー(1993) p.342
  82. ^ バグリー(1993) p.305
  83. ^ a b モロワ(1960) p.177
  84. ^ a b c ブレイク(1993) p.332
  85. ^ a b ロングリグ(1976) p.131
  86. ^ a b バグリー(1993) p.367
  87. ^ バグリー(1993) p.316
  88. ^ a b Heraldic Media Limited. “Derby, Earl of (E, 1485)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2018年1月27日閲覧。

参考文献

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  • 尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈清水新書016〉、1984年。ISBN 978-4389440169 
    • 新版『最高の議会人 グラッドストン』 清水書院〈新・人と歴史29〉、2018年。ISBN 978-4389441296
  • 神川信彦解説・君塚直隆『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年。ISBN 978-4905497028 
  • 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年。ISBN 978-4641049697 
  • 君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』中央公論新社中公新書〉、2007年。ISBN 978-4121019165 
  • ジョン・ジョゼフ バグリー 著、海保真夫 訳『ダービー伯爵の英国史』平凡社、1993年。ISBN 978-4582474510 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220 
  • ブレイク男爵英語版 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年。ISBN 978-4172820000 
  • 村岡健次木畑洋一 編『イギリス史〈3〉 近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460300 
  • アンドレ・モロワ 著、安東次男 訳『ディズレーリ伝』東京創元社、1960年。ASIN B000JAOYH6 
  • ロジャー・ロングリグ 著、原田俊治 訳『競馬の世界史』日本中央競馬会弘済会、1976年。ASIN B000J9355O 

関連項目

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外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
ジョン・フォースター・バーラム英語版
ジョン・フォースター=バーラム
ストックブリッジ選挙区英語版選出庶民院議員
1822年–1826年
同職:ジョン・フォースター=バーラム
次代
トマス・グローブナー英語版
ジョージ・ウィルブラハム英語版
先代
サミュエル・ホロックス
エドムンド・ホーンビー英語版
プレストン選挙区英語版選出庶民院議員
1826年–1830年
同職:ジョン・ウッド
次代
ヘンリー・ハント英語版
先代
ジョン・ラムズボトム英語版
サー・ハッセー・ヴィヴィアン準男爵英語版
ウィンザー選挙区英語版選出庶民院議員
1831年–1832年
同職:ジョン・ラムズボトム英語版
次代
ジョン・ラムズボトム英語版
サー・サミュエル・ブロック=ペッチェル準男爵英語版
新設選挙区 北ランカシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1832年–1844年
同職:ジョン・ウィルソン=パッテン英語版
次代
ジョン・ウィルソン=パッテン英語版
ジョン・タルボット・クリフトン英語版
公職
先代
サー・ヘンリー・ハーディング
イギリスの旗 アイルランド担当大臣英語版
1830年 - 1833年
次代
サー・ジョン・ホブハウス准男爵英語版
先代
初代ゴドリッチ子爵
イギリスの旗 陸軍・植民地大臣
1833年 - 1834年
次代
トーマス・スプリング・ライス英語版
先代
ジョン・ラッセル卿
イギリスの旗 陸軍・植民地大臣
1841年 - 1845年
次代
ウィリアム・グラッドストン
先代
ジョン・ラッセル卿
イギリスの旗 首相
1852年
次代
第4代アバディーン伯爵
先代
第3代ランズダウン侯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1852年
次代
第4代アバディーン伯爵
先代
第3代パーマストン子爵
イギリスの旗 首相
1858年 - 1859年
次代
第3代パーマストン子爵
先代
第2代グランヴィル伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1858年 - 1859年
次代
第2代グランヴィル伯爵
先代
初代ラッセル伯爵
イギリスの旗 首相
1866年 - 1868年
次代
ベンジャミン・ディズレーリ
先代
初代ラッセル伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1866年 - 1868年
次代
第3代マームズベリー伯爵
党職
先代
サー・ロバート・ピール准男爵
保守党党首
1846年 - 1868年
次代
ベンジャミン・ディズレーリ
先代
初代ウェリントン公爵
保守党貴族院院内総務英語版
1846年 - 1868年
次代
第3代マームズベリー伯爵
学職
先代
初代ウェリントン公爵
オックスフォード大学総長英語版
1852年 - 1869年
次代
第3代ソールズベリー侯爵
イングランドの爵位
先代
エドワード
第14代ダービー伯爵
1851年 - 1869年
次代
エドワード
イギリスの爵位
先代
エドワード
第2代ビッカースタッフのスタンリー男爵
繰上勅書により)

1844年 - 1869年
次代
エドワード