「マラッカ海峡」の版間の差分
m r2.7.2+) (ロボットによる 追加: ml:മലാക്കാ കടലിടുക്ക് |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
(59人の利用者による、間の100版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Selat Malaka.png|thumb|280px|マラッカ海峡近辺の地図]] |
|||
{{国際化|date=2012年4月}} |
|||
[[ |
[[ファイル:Map of the Strait of Malacca-de.jpg|thumb|280px|マラッカ海峡・スンダ海峡付近の地勢と主要航路]] |
||
[[File:Map of the Strait of Malacca-de.jpg|thumb|280px]] |
|||
'''マラッカ海峡'''(マラッカかいきょう、Strait of Malacca、 |
'''マラッカ海峡'''(マラッカかいきょう、{{lang-en|Strait of Malacca}}、{{lang-ms|Selat Melaka}})は、[[マレー半島]]と[[スマトラ島]]([[インドネシア]])を隔てる[[海峡]]。南東端で接続している'''[[シンガポール海峡]]'''とあわせて[[太平洋]]と[[インド洋]]を結ぶ[[海上交通]]上の要衝となっている<ref name=ninomiya>[[#二宮|『最新地理小辞典』(1997) p.370]]</ref>。2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超えており<ref name=hakusyo>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/06_hakusho/ODA2006/html/honbun/hp102060200.htm|title=『ODA白書 2006年版』「第I部第2章第6節 海の安全確保へのアジア沿岸諸国への支援-マラッカ海峡の安全航行への施策-」|publisher=[[外務省]]|accessdate=2012-07-12}}</ref>、[[タンカー]]、[[コンテナ船]]などの経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交っている。そのことから'''オイルロード'''と呼ばれることもある。経済的・戦略的にみて、世界の[[シーレーン]]の中でも[[スエズ運河]]、[[パナマ運河]]、[[ホルムズ海峡]]にならび重要な航路の一つである。 |
||
海賊による事件が多発することから、別名「海賊海峡」、『魔の海峡』。--> |
|||
== 地理・地誌 == |
|||
全長は約900km、幅は約70km~250km、平均水深は約25mで、岩礁や浅瀬が多い。このため大型船舶の可航幅が数kmの場所もある。シンガポール付近のフィリップス水路(Phillips Channel)は幅が2.8kmと非常に狭く、水深も23mしかなく世界の航路の中でも有数の[[ボトルネック]]となっている<ref>http://www.eia.doe.gov/emeu/cabs/choke.html</ref>。この海峡を通過できる船の最大のサイズは[[マラッカマックス]](Malaccamax)と呼ばれており、大型タンカーの巨大化を制限している。 |
|||
全長は約900[[キロメートル]]、幅は65キロメートルないし70キロメートル(北西側の海峡入口付近では約250キロメートルに広がる)ほどの[[北西]]方向から[[南東]]方向へとつながる細長い海峡であり、[[スンダ陸棚]]上にあるために平均水深は約25[[メートル]]と浅く、[[岩礁]]や小さな[[島]]、浅瀬が多い<ref name=shogaku>[[#大矢中村|大矢・中村 (2004)]]</ref>。このため、大型船舶の可航幅がわずか数キロメートルの箇所もある。 |
|||
世界で最も船舶航行の多い海域の一つであり<ref name=ota>[[#太田|太田 (1988) pp.179-180]]</ref>、太平洋の付属海である[[南シナ海]]とインド洋の一部である[[アンダマン海]]を最短距離で結ぶ主要航路となっている。通過する[[貨物]]で最も多いのは、[[中東]]産の[[石油]]および[[石油製品]]である<ref name=ota/>。しかし、[[シンガポール]]付近のフィリップ水路({{lang|en|''Phillip Channel''}}) は幅が2.8キロメートルと非常に狭く、水深も23メートルしかないため、世界の航路のなかでも有数の[[ボトルネック]]となっている。この海峡を通過できる船の最大のサイズは[[マラッカマックス]] ({{lang|en|''Malaccamax''}}) と呼ばれており、大型タンカーの巨大化を制限する要因の一つとなっている{{Refnest|group="注釈"|タンカーの巨大化は、一方でマラッカ海峡経由を避けてスマトラ島とジャワ島の南側を通る航路の新設を招いた。これにより、マラッカ海峡の混雑が多少なりとも緩和されることが期待される<ref>[[#太田|太田 (1988) p.180]]</ref>。}}。 |
|||
沿岸国は、[[インドネシア|インドネシア共和国]]、[[タイ王国]]、[[マレーシア]]と[[シンガポール|シンガポール共和国]]。[[海運]]業界では、この海峡付近を「海峡地」と一くくりにして呼ぶことがある。シンガポールのほか[[:en:Port Klang|ポートケラン]]などの港が所在する。 |
|||
[[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Luchtfoto van Tandjoengbalai TMnr 10017791.jpg|left|230px|thumb|スマトラ島の都市[[タンジュン・バライ]]([[1930年代]]の航空写真)]] |
|||
== 海賊など航路上の障害 == |
|||
[[ケッペンの気候区分]]では、海域と両岸のほぼ全域が[[熱帯雨林気候]] (Af) に属する。[[海流]]は年間を通して南東から北西へ向かって流れる<ref name=shogaku/>。通常は波が穏やかであるが、北東季節風が発達する季節には海流が速度を増す<ref name=ship>[http://homepage2.nifty.com/go_tokyo/308f_lif.htm 「船の生活」]</ref>。マラッカ海峡に流れ出すおもな河川にはスマトラ島の{{仮リンク|カンパル川|id|Sungai Kampar|en|Kampar River}}、[[アサハン川]]がある。 |
|||
沿岸国は、[[インドネシア|インドネシア共和国]]、[[マレーシア]]および[[シンガポール|シンガポール共和国]]であり、[[タイ王国]]を沿岸国に含める場合もある。[[海運]]業界では、この海峡付近を「海峡地」と一括して呼称することがあり、主な[[貿易港]]にマレー半島側の[[ペナン島|ペナン]]([[ジョージタウン (ペナン州)|ジョージタウン]]、[[ペナン州]])、[[ムラカ]](英名マラッカ、[[ムラカ州]])、[[クラン_(セランゴール州)|ポートクラン]](旧名ポートスウェッテナム、[[セランゴール州]])、シンガポール、スマトラ島側に[[ドゥマイ]]([[リアウ州]])などがあり、現代における最大の港湾都市はシンガポールである<ref name=shogaku/>。 |
|||
[[ファイル:Tanjung bunga.jpg|230px|right|thumb|ペナン島のリゾートエリア]] |
|||
海峡の両岸では、[[天然ゴム]]の栽培がさかんであり、世界的な産地となっている<ref name=ninomiya/>。海峡に臨むマレー半島側の主要都市として、上述の諸都市のほかに[[ペラ州]]の[[タイピン (ペラ州)|タイピン]]などがあり、インドネシア側にはスマトラ島最大の都市[[メダン]]([[北スマトラ州]])のほか、[[アチェ州]]の[[ランサ]]、北スマトラ州の[[タンジュン・バライ]]などの諸都市がある。また、マラッカ海峡を臨むタイの[[プーケット島]]、マレーシアのペナン島は世界的な[[リゾート|リゾート地]]として知られる。 |
|||
=== 範囲 === |
|||
{{座標一覧}} |
|||
[[国際水路機関]] (IHO) が『大洋と海の境界 第3版』において定めるマラッカ海峡の範囲は以下の通りである<ref>{{Cite web | url = http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf | format = PDF | title = Limits of Oceans and Seas, 3rd edition | publisher = International Hydrographic Organization | year = 1953 | accessdate = 2012-08-13 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20111008191433/http://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf | archivedate = 2011-10-08 | url-status=dead|url-status-date=2017-09 }}</ref>。 |
|||
; 西端 |
|||
: [[スマトラ島]]北端の Pedropunt ({{Coord|5|40|N|95|26|E|display=inline|name=Pedropunt}}) と[[タイ王国|タイ]]の[[プーケット島]]南端の Lem Voalan ({{Coord|7|45|N|98|18|E|display=inline|name=Lem Voalan}}) を結ぶ線 |
|||
; 東端 |
|||
: [[マレー半島]]南端の Tanjong Piai ({{Coord|1|16|N|103|31|E|display=inline|name=Tanjong Piai}}) から The Brothers ({{Coord|1|11|5|N|103|21|0|E|display=inline|name=The Brothers}}) を通り Klein Karimoen ({{Coord|1|10|0|N|103|23|5|E|display=inline|name=Klein Karimoen}}) を結ぶ線 |
|||
; 北端 |
|||
: マレー半島南岸 |
|||
; 南端 |
|||
: スマトラ島北東岸から、Tanjong Kedabu ({{Coord|1|06|N|102|58|E|display=inline|name=Tanjong Kedabu}}) を通り Klein Karimoen を結ぶ線 |
|||
== 歴史 == |
|||
西暦[[166年]]の「[[大秦]]王安敦の使者」{{Refnest|group="注釈"|[[ローマ皇帝]]16代の[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]](位[[161年]]-[[180年]])またはその先代皇帝の[[アントニヌス・ピウス]](位[[138年]]-161年)と考えられる。}}や[[4世紀]]末から[[5世紀]]初頭にかけての[[東晋]](中国[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]])の[[法顕]]、[[7世紀]]後半の[[義浄]]、[[14世紀]]の[[イブン・バットゥータ]]、[[15世紀]]の[[明]]の[[鄭和]]の大遠征など、いずれもこの海峡を利用した。また、[[13世紀]]末の『[[東方見聞録]]』の著者[[マルコ・ポーロ]]もこの海峡を利用し、風待ちのためスマトラ北端のペルラクに5か月間滞在している<ref name=nagazumi87>[[#永積|永積 (1977) pp.87-88]]</ref>。 |
|||
=== シュリービジャヤ王国とマジャパヒト王国 === |
|||
[[ファイル:Borobudur ship.JPG|thumb|230px|right|ジャワの[[ボロブドゥール遺跡]]([[シャイレーンドラ朝]])に刻まれた当時の[[帆船]]の[[レリーフ]](浮彫彫刻)]] |
|||
[[ユーラシア大陸]]の東西をむすぶ「インド洋ネットワーク」は、当初マレー半島を[[クラ地峡]]で横断するルートが主流であったため、東南アジアの物産は[[扶南]]や[[チャンパ王国]]を最大の集散地としたが、その後、[[7世紀]]から[[8世紀]]にかけて[[ムスリム]]商人が来航するようになると、マラッカ海峡を経由するルートに変わった。[[西アジア]]の船は[[広州市|広州]]や[[泉州市|泉州]]など中国南部に訪れ、これらの港町には[[アラブ人]]や[[ペルシャ人]]の[[居留地]]があったという。 |
|||
こうして、マラッカ海峡は太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となり、海峡沿岸に興った国家のなかには海峡の両側を領域支配することによって[[貿易]]を通じて富強をはかる勢力も、歴史上何度か現れた。7世紀にスマトラ島南部に興った[[港市国家]]{{Refnest|group="注釈"|陸上交通に困難さがあるため、海上交通の要所に港市が形成され、そのなかでも外部の文明とのつながりの強い港市が中心となって海域を支配する国家が港市国家である。当初、[[和田久徳]]がマラッカ王国を念頭に置いて構想した概念であったが、交易中心の国家全般を指すようになった。シュリーヴィジャヤ王国、マラッカ王国のほか、[[アユタヤ王朝]]、アチェ王国、[[バンテン王国]]、ジョホール王国、{{仮リンク|マカッサル王国|id|Kesultanan Gowa|en|Sultanate of Gowa}}などを指す<ref>[[#鈴木1998|鈴木 (1998)]]</ref>。}}、[[シュリーヴィジャヤ王国]]もそのひとつである。[[唐]]の義浄は、インドへの留学の前に5か月、留学を終えてインドからの帰途には10年もの間シュリーヴィジャヤに滞留し、[[サンスクリット語]]の[[仏典]]の筆写と[[漢訳]]を行った<ref name=nagazumi43>[[#永積|永積 (1977) pp.43-44]]</ref>。帰国後に彼が著した『{{仮リンク|南海寄帰内法伝|zh|南海寄归内法传}}』には、シュリーヴィジャヤには1,000人余りの[[仏僧]]がいて、仏教学のレベルもインドのそれに劣らないと記している<ref name=nagazumi43/>。義浄は復路、クダ(マレーシア・[[クダ州]])からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在の[[パレンバン]](インドネシア・[[南スマトラ州]])の辺りにあった<ref name=nagazumi43/>。 |
|||
シュリーヴィジャヤは、一時、[[ジャワ島]]を本拠とする[[シャイレーンドラ朝]]の勢力におされて衰退したが、政争に敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王として迎え、勢力を盛り返した<ref name=nagazumi47>[[#永積|永積 (1977) pp.47-50]]</ref>。 |
|||
唐が衰えると、陸上の「[[オアシスの道]]」「[[草原の道]]」の通行は決して安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「[[海の道]]」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。[[五代十国]]を経て[[宋 (王朝)|宋]]建国に至る[[10世紀]]の前半から中葉にかけては、[[イブン・ファキーフ・ハマダーニー|イブン・ファキーフ]]や{{仮リンク|アブー・ザイド・ハサン・イブン・ヤジド・シーラーフィー|wikidata|Q76154113|label=アブー・ザイド}}<ref>{{kotobank|アブー・ザイド・アッシーラーフィー}}</ref><ref>{{kotobank|アブー・ザイド}}</ref>などが[[アラビア語]]で記した地理書や旅行記にはシュリーヴィジャヤの繁栄が記され、そこでは「{{仮リンク|ザーパク|id|Kerajaan Sabak|en|Zabag kingdom}}」と呼称されている<ref name=nagazumi47/>。 |
|||
また、宋代には中国人もさかんに南海貿易に進出するようになり、[[周去非]]『嶺外代答』や[[趙汝适]]『諸蕃志』などのすぐれた書籍も現れた。これらによれば、東はジャワ島、西は[[アラビア半島]]や南インドなどの各地から来航する船舶でこの海峡を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、シュリーヴィジャヤの王国は[[水軍]]を出して攻撃を加えたこと、またパレンバンの港には鉄鎖があり、[[海賊]]の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している<ref name=nagazumi47/>。 |
|||
シュリーヴィジャヤは、10世紀から[[11世紀]]にかけてジャワに本拠を置く[[クディリ王国]]やインド南部の[[チョーラ朝]]の攻撃を受けたが、これは、王国がマラッカ海峡の貿易を独占し、それによる富を集積していたためであった。14世紀には、ジャワ島に本拠を置くヒンドゥー教国、[[マジャパヒト王国]]からの征服を受けている。マジャパヒト王国は14世紀に[[ガジャ・マダ]]が現れて、一時、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらに[[カリマンタン島]]の南岸を支配する広大な海洋帝国を建設した。 |
|||
その一方で、13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している<ref name=nagazumi87/>。13世紀末に当地に滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人々がさかんに[[イスラーム教]]に改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残している<ref name=nagazumi87/>。アラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでの目覚ましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、[[インド文化]]の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団[[スーフィー]]だったことなどが挙げられる<ref name=nagazumi87/>。 |
|||
そして、14世紀末から[[15世紀]]初頭にかけてムスリム政権としてマレー半島北西部に[[マラッカ王国]]が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家を築いたのである<ref name=nagazumi89>[[#永積|永積 (1977) pp.89-93]]</ref>。 |
|||
=== 帆船時代の東西交易とマラッカ海峡 === |
|||
[[ファイル:A 18th century Nanjing ship or sand ship from Tosen no Zu.jpg|320px|right|thumb|宋代の[[ジャンク (船)|ジャンク船]]]] |
|||
[[帆船]]の時代にあっては、[[古代エジプト]]、[[古代ローマ]]、[[アラビア]]、[[アフリカ]]、[[トルコ]]、[[ペルシャ]]、インドなど、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸のクダの港や[[ムラカ]](マラッカ)を利用した。古代にあっては、[[夏季]]([[6月]]-[[11月]])に吹く[[モンスーン]]([[貿易風]])に乗って西からの貿易船がクダなどに着き、[[冬季]]([[12月]]-[[3月]])に反対方向の風を用いて帰航するというケースが一般的であった。 |
|||
[[6世紀]]ごろ著名な港湾として繁栄していたクダには、[[はしけ]]、人足、[[象|ゾウ]]、[[税関]]などが整備されており、ここに着いた荷物は一旦陸揚げされて、マレー半島東海岸の[[クランタン州]]周辺まで陸上輸送され、[[中国]]などの東方へ輸出する場合はさらにクランタンなどの港から荷物を積み出していた。 |
|||
取引される各地の特産物としては、 |
|||
*インド…[[穀物]]([[米]]など)、[[象牙]]、各種の[[綿織物]]、[[染料]] |
|||
*[[アラビア半島]]・[[西アジア]]…[[乳香]]、[[没薬]]、[[馬]]、[[陶器]]、[[ガラス]]、[[絨毯]] |
|||
*東南アジア…[[香料]]、[[香辛料]]、[[木材]]、染料 |
|||
*中国…[[陶磁器]]、[[絹織物]]、[[銅銭]] |
|||
などがあり、マラッカ海峡は、中国を起源として南シナ海や[[東シナ海]]で用いられた[[ジャンク船]]とインド洋一帯で広く用いられた1本マストの[[ダウ船]]とがともに行き交う海域であった<ref name=omoto>[[#尾本|尾本 (2000)]]</ref>。 |
|||
[[12世紀]]から13世紀にかけて、東南アジアでは中国とインド・西アジア間の[[中継貿易]]のための港市が発達する。これは、モンスーン(季節風)の関係で、インド洋海域と東アジア地域との間を往復するには2年の歳月を必要としたが、東南アジアの港市との間を往復するだけであれば、その半分以下の時間しか掛からなかったからである。 |
|||
=== マラッカ王国の繁栄とヨーロッパ人の進出 === |
|||
[[ファイル:Malaccapalace.jpg|left|thumb|230px|復元されたマラッカ王宮]] |
|||
[[ファイル:DSCN3458.JPG|left|thumb|230px|ムラカ(マラッカ)のポルトガル人の要塞[[サンティアゴ要塞]]跡]] |
|||
15世紀における海峡最大の貿易港はムラカ(マラッカ)であり、中継貿易で繁栄した港市国家マラッカ王国の主要港としてにぎわった<ref name=shogaku/>。ムラカの港務長官は4人おり、第一長官はインド西海岸の[[グジャラート州]]、第二長官は南インド、[[ベンガル州]]およびビルマ(ミャンマー)、第三長官は東南アジアの島嶼部、第四長官は中国(明)、[[琉球王国]]、チャンパーをそれぞれ担当地域とした。ムラカは、[[商人]]や[[船員]]、[[通訳]]、港湾労働者、人や物流を管理する[[吏員]]、船乗りや商人の相手をする[[遊女]]などでにぎわった<ref name=omoto/>。 |
|||
[[16世紀]]初頭、[[ポルトガル人]]{{仮リンク|トメ・ピレス|pt|Tomé Pires|en|Tomé Pires}}の『{{仮リンク|東方諸国記|pt|Suma Oriental}}』によれば、ムラカの港市には、[[カイロ]]・[[メッカ]]・[[アデン]]のムスリム、アビシニア人([[エチオピア|エチオピア人]])、[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ]]や[[マリンディ]]など[[アフリカ大陸]]東岸の人びと、[[ペルシャ湾]]沿岸の[[ホルムズ]]の人、ペルシャ人、ルーム人([[ギリシャ人]])などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している<ref name=omoto/>。こうした繁栄を知ったポルトガル人は[[1511年]]、16隻の軍艦でこの町を攻撃、占領して[[ポルトガル海上帝国]]の主要拠点のひとつとした。[[1498年]]に[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が[[インド航路]]を「発見」してから15年足らずのことであった<ref>[[#弘末|弘末 (2004) pp.23-24]]</ref>。 |
|||
[[ファイル:Antique Map Valentijn Malacca.jpg|right|thumb|320px|「マラッカ古図」([[1726年]])]] |
|||
その後、マラッカ海峡の両岸は、[[ポルトガル]]とスマトラ島北端部の[[アチェ王国]]、マレー半島南部と[[リアウ諸島]]に基盤を置く[[ジョホール王国]]の三者が合従連衡を繰り返してマラッカ海峡の交易の利を独占しようとし(「三角戦争」)、[[17世紀]]前半にはアチェ王国が優位に立ってアチェ全盛時代を築いたが、最終的には、新規参入者であったオランダとマラッカ王国の末裔であったジョホール王国とが連合し、[[1641年]]にポルトガル勢力を駆逐し、ムラカはオランダの占領するところとなった<ref>[[#弘末|弘末 (2004) pp.31-32]]</ref>。しかし、ムラカ(マラッカ)は貿易港としては衰退し、17世紀後半には海上民を統制し。オランダ・アチェとも良好な関係を構築したジョホール王国が[[ジャンビ王国]]と抗争しながらも全盛期をむかえ、東西交易の中継として繁栄した。 |
|||
海峡地帯には[[マレー人]]はじめスマトラ内陸部[[ミナンカバウ人]]や[[スラウェシ島]]南部の[[ブギス族|ブギス人]]など東南アジア各地の諸民族、[[中国人]]、[[インド人]]、[[アラビア人]]、[[ペルシア人]]、[[ヨーロッパ人]]、[[日本人]]など数多くの[[人種]]・[[民族]]が住んだ<ref name=shogaku/>{{Refnest|group="注釈"|マレー半島最古の[[モスク]]もムラカ(マラッカ)にある<ref>[[#大矢中村|大矢・中村 (2004)]]</ref>。}}。ムラカはその後、19世紀初頭の[[ナポレオン戦争]]の際にはイギリスによって占領された。ムラカはいったんオランダに返還されたが、[[1824年]]、イギリスはオランダとのあいだに[[英蘭協約]]を結んで、マレー半島側をイギリスの勢力圏、スマトラ島側をオランダの勢力圏とした。 |
|||
[[1869年]]の[[スエズ運河]]の開通後は、それまでスマトラ島・ジャワ島間の[[スンダ海峡]]を利用していた船舶も、その多くがマラッカ海峡を利用するようになり、いっそう重要性を増した<ref name=shogaku/>。また、特にマレー半島側の[[鉱業]]・農業における大規模開発を促し、ペナン、シンガポールの両港の発展がもたらされた<ref name=ota/>。 |
|||
その一方で、オランダ東インド政庁は[[1871年]]の{{仮リンク|英蘭条約 (1870-1871年)|nl|Verdrag van Sumatra|en|Anglo-Dutch Treaties of 1870–71|label=スマトラ条約}}によってイギリスの干渉を排除し、[[1873年]]、海峡の安全確保を名目にアチェ王国の保護領化を企図して王国への侵攻を開始した<ref name=aheh>[[#鈴木|鈴木 (2004)]]</ref>。これが[[アチェ戦争]]であるが、アチェの人々の頑強な抵抗により、オランダ軍がスマトラ全土を制圧したのは[[1912年]]を待たなければならなかった。これにより現在のインドネシア全域がオランダの植民地となった<ref name=aheh/>。いっぽう、現在のマレーシアに相当する[[イギリス領マラヤ|英領マレー連合州]]が成立したのは[[1896年]]のことである。 |
|||
[[第二次世界大戦]]時にイギリス軍が[[日本軍]]に放逐され、終戦に至るまで日本軍の占領下におかれた。終戦後にイギリスやオランダの国力が低下したことを受け、インドネシアはオランダ領、マレー連合州は[[マラヤ連合]](のち[[マレーシア連邦]]、現在のマレーシア)としてイギリス領からそれぞれ独立した{{Refnest|group="注釈"|シンガポールがマラヤ連邦から分離独立したのは[[1965年]]のことである。}}。海峡沿岸国の[[領海]]は3海里から12海里に拡大され、かつて[[公海]]として{{仮リンク|航行の自由|en|Freedom of navigation|zh|航行自由|preserve=1|label=自由な航行}}に供されてきた海峡も現在は領海化されている<ref name=shogaku/>。 |
|||
マラッカ海峡は、[[1994年]]に発効した[[国連海洋法条約]]における「[[国際海峡]]」に該当するとされており<ref>{{Cite web|和書|url=https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00509/contents/0029.htm |title= 第VII章 国連海洋法条約に基づく国際海峡制度|author=日本海難防止協会 |date=2004 |work=マラッカ・シンガポール海峡の情勢 2004 |publisher=日本財団 |accessdate=2017-06-26 }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|国連海洋法条約(「海洋法に関する国際連合条約」)では、「国際海峡」とは同条約第37条で「公海または排他的経済水域の一部分と公海または排他的経済水域の他の部分との間における国際航行に使用されている海峡」と定義されている。}}、外国の艦船や[[航空機]]は、[[国際法]]上の取り決めと沿岸国の法令にしたがうことを条件として、海峡通過のための[[無害通航|通航権]]が認められ、沿岸諸国は現在、[[航路帯]]および[[分離通航帯]]を設定し、通航船舶にその遵守を求めている<ref name=shogaku/>。 |
|||
== 航行の障害と安全 == |
|||
長狭なマラッカ海峡の中でも{{仮リンク|ワン・ファザム堆|ceb|One Fathom Bank|wikidata|Q34747824}}{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|ワン・ファザム堆灯台|en|One Fathom Bank Lighthouse}}も参照}}からシンガポール海峡までの約400キロメートルは特に狭い上に浅瀬が多く、大型船は特に航行に困難をともなう<ref name=ship/>。海賊多発地域としても知られ、[[気象]]の変化が著しいことから突然襲う[[スコール]]が視界を妨げることも多い<ref name=ship/>。また、くびれた地勢を示すマラッカ海峡では、[[潮汐]]により強い潮流が発生し、さらに、この強い潮流が「サンドウェーブ」と呼ばれる波紋状の[[砂州]]を形成するため、水深が頻繁に変化する危険がある<ref name=ship/>。南シナ海域で多くみられる北東季節風が発達する季節には、東方向からの強い海流も加わり、この海峡で航行の安全を保持し続けることは必ずしも容易なことではない<ref name=ship/>。 |
|||
=== 海賊・沈没船・森林火災 === |
|||
{{main|マラッカ海峡の海賊}} |
{{main|マラッカ海峡の海賊}} |
||
[[ファイル:Malaysian Haze 2005 Aerosol Index.jpg|240px|right|thumb|山火事とそれによって広がる[[もや]]の範囲(2005年)]] |
|||
日本船舶のみならず、東アジアと中東・欧州などを行き交う各国船舶にとって死活的に重要な航路だが、近年、商船に対する[[海賊]]行為が横行している。[[1994年]]には25件だった船舶襲撃は、[[2000年]]には220件、[[2003年]]には150件以上と増加している。 |
|||
近代以降、マラッカ海峡は[[東アジア]]と[[中東]]・[[ヨーロッパ]]などを行き交う各国船舶にとって死活的に重要な航路となっているが、近年、海峡を利用する商船に対する[[海賊]]行為が横行している。[[1994年]]に25件だった船舶襲撃は、[[2000年]]には220件に激増し、[[2003年]]には150件以上、2005年でも世界全体の約37パーセントにあたる102件の海賊事件が発生した<ref name=hakusyo/>。 |
|||
[[2005年]][[3月14日]]、現地で日本籍の |
[[2005年]]([[平成]]17年)[[3月14日]]、現地で日本籍の[[タグボート]]「韋駄天」が襲撃され、日本人船長と機関長、フィリピン人船員3名を連れ去り、[[拉致]]事件が発生した(同[[3月21日]]に解放)<ref name=hakusyo/>。また、[[1999年]](平成11年)にも同様に日本の船が海賊に襲われるという事件が起こっている。 |
||
船に対する危険は海賊だけでなく、浅瀬などでの[[難破]]もある。海峡内には[[1880年代]]以来の難破して沈んだ船が少なくとも34隻あるとみられており、航路の障害となっている<ref>[http://thestar.com.my/news/story.asp?file=/2006/1/2/maritime/12941448&sec=maritime 34 wrecks in sealane threaten passing ships] (the star online)</ref>。 |
|||
またスマトラ島で |
また、スマトラ島では[[生活]]における失火や[[焼畑農業]]を原因として森林火災が毎年のように発生し、立ち上る[[煙]]は[[ヘイズ (気象)|ヘイズ]]と呼ばれマラッカ海峡を越えてマレーシアにまで達している。濃い煙が流れてくると、海上はわずか200メートルほど先しか見えなくなり、船は速度を落として運航せざるを得ない状況にある。 |
||
=== 座礁事故防止策と海賊対策 === |
|||
== 航行安全策の整備 == |
|||
1960年 |
[[1960年代]]以降、中東-[[東アジア]]間の大型タンカーの航行量が増大した{{Refnest|group="注釈"|[[1966年]](昭和41年)に[[石川島播磨重工業]]横浜造船所([[神奈川県]][[横浜市]])で建造された[[出光丸]]は、20万重量トンを超えた世界最初のタンカーとして知られたが、その就航ルートがマラッカ海峡であった<ref>[[#茂在|茂在 (2004)]]</ref>。}}。しかし、当海域は航行支援設備が不足し、[[海図]]の整備も不十分だったため、しばしば座礁事故が発生した。そのため、沿岸各国と日本が協力して、1960年代後半より航行支援設備や海図の整備を行っており、この協力関係は現在も継続中である。また、座礁事故防止のため、マラッカ海峡では船底と海底のあいだを一定の距離に保つ[[UKC方式]] (''Under Keeping Clearance'') が採用されている<ref name=shogaku/>。 |
||
2005年12月、日本とインドネシア、マレーシア、シンガポールの国際協力により、マラッカ海峡とシンガポール海峡の[[電子海図]]が完成した<ref name=hakusyo/>。[[2006年]]には、日本はインドネシアに対し[[政府開発援助]]の一環として円[[借款]]を行い、海難事故や海賊対策のため沿岸[[無線局]]を33局、船舶自動識別装置を備えた無線局を4局設置した<ref name=hakusyo/>。同年には無償資金協力として19億2100万円を供与し、巡視船3艇を供与してインドネシアの巡視船艇建造計画を支援した<ref name=hakusyo/>。なお、現在、[[日本財団]]が中心となり、利用者が安全確保のための費用負担を分担するための基金の設立を提案している。 |
|||
海賊対策として、マレーシア・インドネシア・シンガポールなど沿岸諸国の海軍が警備を強化しているほか、日本からも[[海上保安庁]]の巡視船が海賊哨戒にあたっている。[[2007年]]には、高速船を用いる海賊対策として、日本政府はインドネシアに対し、[[政府開発援助]](ODA)により[[巡視艇]]3隻を日本国内で新造し、無償供与した。操舵室等が防弾構造であり[[武器輸出三原則]]に抵触する恐れがあることから、運用を対テロ・対海賊に限定し、日本政府の同意なく第三国へ引き渡さない等の条件を付すことで武器輸出三原則の例外とした供与であった<ref>『世界の艦船』(海人社)2008年1月号 p50</ref>。 |
|||
海賊対策として、マレーシア・インドネシア・シンガポールなど沿岸諸国の[[海軍]]が警備を強化しているほか、日本からも[[海上保安庁]]の[[巡視船]]が海賊の哨戒に当たっている。また、技術や人材育成の面でも日本は東南アジア諸国に対し国際協力を行っている<ref name=hakusyo/>。[[2007年]](平成19年)には、[[高速船]]を用いる海賊対策として、日本政府はインドネシアに対し、[[政府開発援助]] (ODA) により[[巡視艇]]3隻を日本国内で新造し、無償供与した。操舵室等が防弾構造であり[[武器輸出三原則]]に抵触するおそれがあることから、運用を対[[テロリズム|テロ]]・対海賊に限定し、日本政府の同意なく第三国へ引き渡さない等の条件を付すことで武器輸出三原則の例外とした供与であった<ref>[[#艦船200801|『世界の艦船』2008年1月号 p.50]]</ref>。 |
|||
== ボトルネック解消策 == |
|||
この航路の浅さや危険性の改善のため、日本のマラッカ海峡協議会は[[1971年]]に浅瀬の浚渫を提案したことがあったが、[[冷戦]]下だったこともありソ連軍の艦船が出入りしやすくなる軍事上の危険が指摘されたほか、浚渫で漁業が打撃を受けるおそれがあるとして沿岸諸国が反対したことにより実現していない<ref>http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2000/report95.pdf を参照</ref>。 |
|||
さらに、海賊など海上犯罪の要因として沿岸地域の深刻な[[貧困]]が考えられるとして、日本政府はかつて[[ロンボク海峡]]付近で[[ため池]]や[[ダム]]などの[[灌漑]]システムの構築やこれらの維持管理する農業技術者育成などを行って一定の成果をあげており、マラッカ海峡においてもその経験を踏まえ、地域の農村開発に資する支援をおこなっている<ref name=hakusyo/>。 |
|||
一方、[[タイ王国]]は自国領土の[[クラ地峡]]に[[運河]]を作るという、マラッカ海峡の通航を緩和する一方で重要性も低下させるおそれのある計画を推進している。これが実現すればアフリカ・中東から太平洋への航路は600マイル(960km)ほど短縮される。しかしこの運河でタイ南部は分断され、しかも[[ムスリム]]が多く分離主義の動きもある[[深南部 (タイ)|パタニ地方]]がタイ本土から切り離されてしまう。[[2004年]]にワシントン・タイムズは中国が運河建設費を分担する申し出をタイに対して行ったと報じたが、タイの財政難や環境に与える影響の大きさもあり、クラ地峡運河計画は進んでいない。 |
|||
== 沿岸の開発とその計画 == |
|||
また、クラ地峡を横断するパイプラインを建設し、両端に超大型タンカーのための港を建設する案もあり、タイだけでなく[[ミャンマー]]も同様の提案をしている。中東からアジアへの原油運送コストを1バレルあたり0.5ドル圧縮することができるという試算もある。 |
|||
=== 工業開発 === |
|||
上述したように、マラッカ海峡を通過する貨物で最も多いのが中東産の石油であり、行き先は日本や中国などの東アジアが多い。その航路上にあるシンガポールは一大石油精製基地として発展し、[[1980年代]]には日系[[企業]]の[[石油化学]]工場が建設され、その南のインドネシアの[[バタム島]]でも石油工業の開発が進展した<ref name=ota/>。 |
|||
=== さまざまなボトルネック解消策 === |
|||
マラッカ海峡のかわりに、[[スンダ海峡]]や[[ロンボク海峡]]などインドネシア領内の海峡を通ってインド洋から太平洋側に出る航路もあるが、ロンボク海峡の場合、マラッカ海峡より650kmの遠回りになってしまう上、やはり小島や岩礁が多く難所となっている。 |
|||
上述のようにマラッカ海峡の水深の浅さからくる危険性回避のため、日本の[[マラッカ海峡協議会]]<ref>[http://msc-tokyo.or.jp/ マラッカ海峡協議会 | マラッカ・シンガポール海峡での船の安全確保、事故防止に努めています。]</ref>は[[1971年]]([[昭和]]46年)に浅瀬の[[浚渫]]を提案したことがあったが、当時は[[冷戦]]下だったこともあり、[[ソビエト連邦]]軍の艦船が出入りしやすくなるという軍事上の[[リスク]]が指摘されたほか、浚渫によって[[漁業]]が打撃を受けるおそれがあるとして沿岸諸国が反対したことにより実現していない<ref> {{PDFlink|[http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2000/report95.pdf 武石礼司『アジアにおけるエネルギー協力と日本の課題』]}}</ref>。 |
|||
一方、[[タイ王国|タイ]]領内の[[クラ地峡]]に[[運河]]を造るという、マラッカ海峡の通航を緩和する一方で重要性も低下させるおそれのある計画が昔から幾度か取り沙汰されている<ref name="thepage">{{Cite web|和書|title=中国がタイで「クラ地峡」運河を建設? 実現可能性はあるのか|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/96d48a199c2c23b6bad5835d805040e36fda3351|website=THE PAGE|date=2015-06-23|accessdate=2020-07-24}}</ref>。これが実現すればアフリカ・中東から太平洋への航路は約600マイル(約960キロメートル)ほど短縮される。これは、時間にすれば1日ないし2日間の時間短縮になり、燃料の節約もできることとなる<ref name="thepage" />。しかし、この運河の建設によりタイ南部の陸地が分断され、ムスリムが多く分離主義の動きもある[[深南部 (タイ)|パタニ地方]]がタイ本土から切り離されてしまうこと、タイ中南部は潮州系や福建系の華僑人口も多く、彼らがシンガポールの地位低下を喜ばないことなど複雑な要因がからみ合っており、タイ国内にも慎重論がある<ref name="thepage" />。[[2004年]]、[[ワシントン・タイムズ]]は、中国がタイに対して運河建設費を分担するよう申し出たことを報じたが、タイの財政難や[[環境|周辺環境]]に与える影響の大きさも指摘され、クラ地峡運河計画は進んでいない<ref name="lifeline">{{Cite web|和書|title=日本のライフライン・タンカーシーレーン:マラッカ海峡の安全航行施策|url=http://qyj00653.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-09a5.html|website=「日本貿易の将来像」国際貿易・資源市場研究:武上研究室(武上幸之助)|date=2010-12-26|accessdate=2020-07-24}}</ref>。また、クラ地峡を横断する[[パイプライン輸送|パイプライン]]を建設し、両端に超大型タンカーのための港を建設する案もあり、タイだけでなく[[ミャンマー]] |
|||
== マラッカ海峡大橋建設構想 == |
|||
も同様の提案をしている<ref name="lifeline" />。これにより、中東から東南アジアへの[[原油]]運送コストを1バレルあたり0.5ドル圧縮することができるという試算もある<ref name="lifeline" />。 |
|||
2009年10月9日、日本経済新聞はその紙面で中国の援助による[[ムラカ州|マラッカ州]]と[[スマトラ島]](地図上では[[リアウ州]]ドゥマイ)を結ぶ橋の建設構想が現地紙で明らかにされたと報じた<ref>日経新聞2009年10月9日、6面(中国・アジア)『マレーシア、鉄道・石油整備 / 大型開発計画に「中国色」 / 「影響力」への警戒感も』</ref>。[[中国輸出入銀行]]が建設費の85%を融資するとしているが、マレーシア政府の建設許可は下りておらず、公表した企業は知名度の低い民間企業にすぎないとして、計画の存在を報じながらもなお疑わしいとしている。しかし、[[ナジブ・ラザク]]・マレーシア首相の訪中後に計画が(マレー半島東岸・西岸縦貫高速鉄道や精油所の建設構想などと相次いで)公表された事から、両国政府の意向が働いているであろうと示唆している。 |
|||
マラッカ海峡の代わりに、[[スンダ海峡]](スマトラ島・ジャワ島間)や[[ロンボク海峡]]([[バリ島]]・[[ロンボク島]]間)などインドネシア領内の海峡を通ってインド洋から太平洋側に出る航路もあるが、スンダ海峡は水深が浅く大型船の航行には使えず、ロンボク海峡は水深は十分にあるものの、マラッカ海峡より650キロメートルもの遠回りになる、小島や岩礁が多いなどの難点がある<ref name="lifeline" />。 |
|||
== マラッカ海峡航路開拓以前の東西交易 == |
|||
かつて[[古代エジプト]]・[[古代ローマ]]・[[アラビア]]・[[アフリカ]]・[[トルコ]]・[[ペルシャ]]・[[インド]]など、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸の[[クダ州]]の港を使用した。当時は6月から11月にかけて吹く[[貿易風]]に乗って、西からの貿易船がクダに着き、12月から3月に反対方向の風に乗って帰っていった。クダにははしけ、人足、ゾウ、税関などが整備されあり、ここに着いた荷物は陸路マレー半島東海岸の[[クランタン州]]周辺に向け運ばれた。中国などへの貿易船は、クランタンなど東海岸から入出航していた。クダは[[6世紀]]頃有名な港として栄えたが、マラッカ海峡を通る航路が開拓されると廃れていった。 |
|||
2013年、中国は、ミャンマー西部の[[チャウピュ港]]から[[雲南省]]に至るパイプラインを完成。マラッカ海峡を経ずに中東から原油、天然ガスを移送する手段の一つを整えた<ref>{{Cite news |
|||
|url=https://web.archive.org/web/20150707134403/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0605&f=national_0605_022.shtml|title=中国・ミャンマーのパイプライン完成、マラッカ海峡を迂回|work=サーチナ|publisher=サーチナ|date=2013-06-05|accessdate=2014-07-26}}</ref>。 |
|||
=== マラッカ海峡大橋建設構想 === |
|||
[[2009年]](平成21年)[[10月9日]]、[[日本経済新聞]]は中国の援助によるムラカ(マラッカ)州とスマトラ島(地図上ではリアウ州ドゥマイ)を結ぶ橋の建設構想が現地紙で明らかにされたと報じた<ref name=nikkei>日本経済新聞2009年10月9日、6面(中国・アジア)『マレーシア、鉄道・石油整備 / 大型開発計画に「中国色」 / 「影響力」への警戒感も』</ref>。{{仮リンク|中国輸出入銀行|zh|中国进出口银行|en|Exim Bank of China}}が建設費の85パーセントを[[融資]]するとしているが、マレーシア政府による建設許可が下りておらず、公表された企業は知名度の低い一[[民間企業]]に過ぎないとして、計画の存在を報じながらも、なお疑わしい点もあることが示された<ref name=nikkei/>。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group=注釈}} |
|||
=== 参照 === |
|||
{{Reflist|3}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* {{Cite book|和書|author=永積昭|authorlink=永積昭|chapter=|editor=|year=1977|month=7|title=東南アジアの歴史|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=4-06-115857-0|ref=永積}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=太田勇|authorlink=太田勇 (地理学者)|chapter=マラッカ海峡|editor=|year=1988|month=4|title=世界大百科事典 第27(マク-ムン)|publisher=[[平凡社]]|series=|isbn=4-58-202700-8|ref=太田}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=|chapter=マラッカ海峡|editor=二宮書店|editor-link=二宮書店|year=1997|month=1|title=最新地理小辞典 三訂版|publisher=二宮書店|series=|isbn=4-8176-0149-3|ref=二宮}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=鈴木恒之|authorlink=鈴木恒之|chapter=東南アジアの港市国家|editor=|year=1998|month=8|title=岩波講座世界の歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成―16-18世紀|publisher=[[岩波書店]]|series=|isbn=4000108336|ref=鈴木1998}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=尾本惠市|authorlink=尾本惠市|chapter=|editor=|year=2000|month=11|title=海のアジア1 海のパラダイム|publisher=岩波書店|series=|isbn=4000265717|ref=尾本}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=|chapter=|editor=小学館|editor-link=小学館|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=4099067459|ref=}} |
|||
** {{Cite book|和書|author1=大矢雅彦|authorlink1=大矢雅彦|author2=中村洸|authorlink2=中村洸|chapter=マラッカ海峡|editor=小学館|year=2004|month=|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=|ref=大矢中村}} |
|||
** {{Cite book|和書|author=鈴木恒之|chapter=アチェー戦争|editor=小学館|year=2004|month=|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=|ref=鈴木}} |
|||
** {{Cite book|和書|author=茂在寅男|authorlink=茂在寅男|chapter=出光丸|editor=小学館|year=2004|month=|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn=|ref=茂在}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=弘末雅士|chapter=|year=2004|month=5|editor=|title=東南アジアの港市世界-地域社会の形成と世界秩序-|series=世界歴史叢書|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-026851-1|ref=弘末}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=|chapter=|editor=海人社|editor-link=海人社|year=2007|month=11|title=世界の艦船|publisher=海人社|series=月刊本(2008年1月号)|asin=B000YGNG0Q|ref=艦船200801}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{Commonscat}} |
|||
* [http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2000/report95.pdf 研究レポート No.95 November 2000 『アジアにおけるエネルギー協力と日本の課題』 富士通総研経済研究所 主任研究員 武石礼司] |
|||
* {{PDFlink|[http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/research/2000/report95.pdf 研究レポート No.95 November 2000 『アジアにおけるエネルギー協力と日本の課題』富士通総研経済研究所 主任研究員 武石礼司]}} |
|||
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/06_hakusho/ODA2006/html/honbun/hp102060200.htm 第I部第2章第6節「マラッカ海峡の安全航行への施策」]([[ODA白書]]2006年版、[[外務省]]) |
|||
*{{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/go_tokyo/308f_lif.htm |title=「船の生活」-マラッカ海峡通峡|date=20130427122458}} |
|||
*{{kotobank}} |
|||
*{{kotobank|マラッカ海峡問題}} |
|||
{{海}} |
|||
{{DEFAULTSORT:まらつかかいきよう}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{Good article}} |
|||
{{デフォルトソート:まらつかかいきよう}} |
|||
[[Category:インドネシアの海峡]] |
[[Category:インドネシアの海峡]] |
||
[[Category:マレーシアの |
[[Category:マレーシアの海峡]] |
||
[[Category:インド洋]] |
[[Category:インド洋の海峡]] |
||
[[Category:アジアの海峡]] |
|||
[[Category:チョークポイント]] |
[[Category:チョークポイント]] |
||
[[Category:国際水域]] |
[[Category:国際水域]] |
||
[[Category:国境を成す海峡]] |
|||
[[Category:インドネシアの国境]] |
|||
[[ar:مضيق ملقة]] |
|||
[[Category:マレーシアの国境]] |
|||
[[bg:Малака (проток)]] |
|||
[[Category:シンガポールの国境]] |
|||
[[bn:মালাক্কা প্রণালী]] |
|||
[[Category:アンダマン海]] |
|||
[[bo:མ་ལིའུ་ཅ་མཚོ་འགག]] |
|||
[[Category:マラッカ海峡|*]] |
|||
[[br:Strizh-mor Malaka]] |
|||
[[ca:Estret de Malacca]] |
|||
[[cs:Malacký průliv]] |
|||
[[da:Malaccastrædet]] |
|||
[[de:Straße von Malakka]] |
|||
[[en:Strait of Malacca]] |
|||
[[eo:Malaka Markolo]] |
|||
[[es:Estrecho de Malaca]] |
|||
[[et:Malaka väin]] |
|||
[[eu:Malakako itsasartea]] |
|||
[[fa:تنگه مالاکا]] |
|||
[[fi:Malakansalmi]] |
|||
[[fr:Détroit de Malacca]] |
|||
[[he:מצרי מלאקה]] |
|||
[[hi:मलक्का जलडमरूमध्य]] |
|||
[[hr:Malajski prolaz]] |
|||
[[hu:Malaka-szoros]] |
|||
[[id:Selat Melaka]] |
|||
[[it:Stretto di Malacca]] |
|||
[[jv:Selat Melaka]] |
|||
[[ka:მალაკის სრუტე]] |
|||
[[km:ច្រកមលក្កា]] |
|||
[[ko:믈라카 해협]] |
|||
[[ku:Tengava Malakayê]] |
|||
[[la:Fretum Malaccense]] |
|||
[[lb:Strooss vu Malakka]] |
|||
[[lt:Malakos sąsiauris]] |
|||
[[lv:Malakas šaurums]] |
|||
[[mk:Малачки Проток]] |
|||
[[ml:മലാക്കാ കടലിടുക്ക്]] |
|||
[[mr:मलाक्क्याची सामुद्रधुनी]] |
|||
[[ms:Selat Melaka]] |
|||
[[new:मलक्का जलसन्धि]] |
|||
[[nl:Straat Malakka]] |
|||
[[nn:Malakkasundet]] |
|||
[[no:Malakkastredet]] |
|||
[[oc:Estrech de Malaca]] |
|||
[[pl:Cieśnina Malakka]] |
|||
[[pnb:آبنائے ملاکا]] |
|||
[[pt:Estreito de Malaca]] |
|||
[[ro:Strâmtoarea Malacca]] |
|||
[[ru:Малаккский пролив]] |
|||
[[sh:Malajski prolaz]] |
|||
[[simple:Strait of Malacca]] |
|||
[[sk:Melacký prieliv]] |
|||
[[sv:Malackasundet]] |
|||
[[sw:Mlango wa Malakka]] |
|||
[[ta:மலாக்கா நீரிணை]] |
|||
[[th:ช่องแคบมะละกา]] |
|||
[[tl:Kipot ng Malaka]] |
|||
[[tr:Malakka Boğazı]] |
|||
[[uk:Малаккська протока]] |
|||
[[ur:آبنائے ملاکا]] |
|||
[[vi:Eo biển Malacca]] |
|||
[[war:Estrecho han Malacca]] |
|||
[[xmf:მალაკიშ საროტი]] |
|||
[[zh:马六甲海峡]] |
|||
[[zh-min-nan:Malacca Hái-kiap]] |
2024年8月3日 (土) 17:15時点における最新版
マラッカ海峡(マラッカかいきょう、英語: Strait of Malacca、マレー語: Selat Melaka)は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている[1]。2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超えており[2]、タンカー、コンテナ船などの経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交っている。そのことからオイルロードと呼ばれることもある。経済的・戦略的にみて、世界のシーレーンの中でもスエズ運河、パナマ運河、ホルムズ海峡にならび重要な航路の一つである。
地理・地誌
[編集]全長は約900キロメートル、幅は65キロメートルないし70キロメートル(北西側の海峡入口付近では約250キロメートルに広がる)ほどの北西方向から南東方向へとつながる細長い海峡であり、スンダ陸棚上にあるために平均水深は約25メートルと浅く、岩礁や小さな島、浅瀬が多い[3]。このため、大型船舶の可航幅がわずか数キロメートルの箇所もある。
世界で最も船舶航行の多い海域の一つであり[4]、太平洋の付属海である南シナ海とインド洋の一部であるアンダマン海を最短距離で結ぶ主要航路となっている。通過する貨物で最も多いのは、中東産の石油および石油製品である[4]。しかし、シンガポール付近のフィリップ水路(Phillip Channel) は幅が2.8キロメートルと非常に狭く、水深も23メートルしかないため、世界の航路のなかでも有数のボトルネックとなっている。この海峡を通過できる船の最大のサイズはマラッカマックス (Malaccamax) と呼ばれており、大型タンカーの巨大化を制限する要因の一つとなっている[注釈 1]。
ケッペンの気候区分では、海域と両岸のほぼ全域が熱帯雨林気候 (Af) に属する。海流は年間を通して南東から北西へ向かって流れる[3]。通常は波が穏やかであるが、北東季節風が発達する季節には海流が速度を増す[6]。マラッカ海峡に流れ出すおもな河川にはスマトラ島のカンパル川、アサハン川がある。
沿岸国は、インドネシア共和国、マレーシアおよびシンガポール共和国であり、タイ王国を沿岸国に含める場合もある。海運業界では、この海峡付近を「海峡地」と一括して呼称することがあり、主な貿易港にマレー半島側のペナン(ジョージタウン、ペナン州)、ムラカ(英名マラッカ、ムラカ州)、ポートクラン(旧名ポートスウェッテナム、セランゴール州)、シンガポール、スマトラ島側にドゥマイ(リアウ州)などがあり、現代における最大の港湾都市はシンガポールである[3]。
海峡の両岸では、天然ゴムの栽培がさかんであり、世界的な産地となっている[1]。海峡に臨むマレー半島側の主要都市として、上述の諸都市のほかにペラ州のタイピンなどがあり、インドネシア側にはスマトラ島最大の都市メダン(北スマトラ州)のほか、アチェ州のランサ、北スマトラ州のタンジュン・バライなどの諸都市がある。また、マラッカ海峡を臨むタイのプーケット島、マレーシアのペナン島は世界的なリゾート地として知られる。
範囲
[編集]国際水路機関 (IHO) が『大洋と海の境界 第3版』において定めるマラッカ海峡の範囲は以下の通りである[7]。
- 西端
- スマトラ島北端の Pedropunt (北緯5度40分 東経95度26分 / 北緯5.667度 東経95.433度) とタイのプーケット島南端の Lem Voalan (北緯7度45分 東経98度18分 / 北緯7.750度 東経98.300度) を結ぶ線
- 東端
- マレー半島南端の Tanjong Piai (北緯1度16分 東経103度31分 / 北緯1.267度 東経103.517度) から The Brothers (北緯1度11分5秒 東経103度21分0秒 / 北緯1.18472度 東経103.35000度) を通り Klein Karimoen (北緯1度10分0秒 東経103度23分5秒 / 北緯1.16667度 東経103.38472度) を結ぶ線
- 北端
- マレー半島南岸
- 南端
- スマトラ島北東岸から、Tanjong Kedabu (北緯1度06分 東経102度58分 / 北緯1.100度 東経102.967度) を通り Klein Karimoen を結ぶ線
歴史
[編集]西暦166年の「大秦王安敦の使者」[注釈 2]や4世紀末から5世紀初頭にかけての東晋(中国南北朝時代)の法顕、7世紀後半の義浄、14世紀のイブン・バットゥータ、15世紀の明の鄭和の大遠征など、いずれもこの海峡を利用した。また、13世紀末の『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロもこの海峡を利用し、風待ちのためスマトラ北端のペルラクに5か月間滞在している[8]。
シュリービジャヤ王国とマジャパヒト王国
[編集]ユーラシア大陸の東西をむすぶ「インド洋ネットワーク」は、当初マレー半島をクラ地峡で横断するルートが主流であったため、東南アジアの物産は扶南やチャンパ王国を最大の集散地としたが、その後、7世紀から8世紀にかけてムスリム商人が来航するようになると、マラッカ海峡を経由するルートに変わった。西アジアの船は広州や泉州など中国南部に訪れ、これらの港町にはアラブ人やペルシャ人の居留地があったという。
こうして、マラッカ海峡は太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となり、海峡沿岸に興った国家のなかには海峡の両側を領域支配することによって貿易を通じて富強をはかる勢力も、歴史上何度か現れた。7世紀にスマトラ島南部に興った港市国家[注釈 3]、シュリーヴィジャヤ王国もそのひとつである。唐の義浄は、インドへの留学の前に5か月、留学を終えてインドからの帰途には10年もの間シュリーヴィジャヤに滞留し、サンスクリット語の仏典の筆写と漢訳を行った[10]。帰国後に彼が著した『南海寄帰内法伝』には、シュリーヴィジャヤには1,000人余りの仏僧がいて、仏教学のレベルもインドのそれに劣らないと記している[10]。義浄は復路、クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在のパレンバン(インドネシア・南スマトラ州)の辺りにあった[10]。
シュリーヴィジャヤは、一時、ジャワ島を本拠とするシャイレーンドラ朝の勢力におされて衰退したが、政争に敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王として迎え、勢力を盛り返した[11]。
唐が衰えると、陸上の「オアシスの道」「草原の道」の通行は決して安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「海の道」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。五代十国を経て宋建国に至る10世紀の前半から中葉にかけては、イブン・ファキーフやアブー・ザイド[12][13]などがアラビア語で記した地理書や旅行記にはシュリーヴィジャヤの繁栄が記され、そこでは「ザーパク」と呼称されている[11]。
また、宋代には中国人もさかんに南海貿易に進出するようになり、周去非『嶺外代答』や趙汝适『諸蕃志』などのすぐれた書籍も現れた。これらによれば、東はジャワ島、西はアラビア半島や南インドなどの各地から来航する船舶でこの海峡を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、シュリーヴィジャヤの王国は水軍を出して攻撃を加えたこと、またパレンバンの港には鉄鎖があり、海賊の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している[11]。
シュリーヴィジャヤは、10世紀から11世紀にかけてジャワに本拠を置くクディリ王国やインド南部のチョーラ朝の攻撃を受けたが、これは、王国がマラッカ海峡の貿易を独占し、それによる富を集積していたためであった。14世紀には、ジャワ島に本拠を置くヒンドゥー教国、マジャパヒト王国からの征服を受けている。マジャパヒト王国は14世紀にガジャ・マダが現れて、一時、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらにカリマンタン島の南岸を支配する広大な海洋帝国を建設した。
その一方で、13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している[8]。13世紀末に当地に滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人々がさかんにイスラーム教に改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残している[8]。アラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでの目覚ましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、インド文化の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団スーフィーだったことなどが挙げられる[8]。
そして、14世紀末から15世紀初頭にかけてムスリム政権としてマレー半島北西部にマラッカ王国が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家を築いたのである[14]。
帆船時代の東西交易とマラッカ海峡
[編集]帆船の時代にあっては、古代エジプト、古代ローマ、アラビア、アフリカ、トルコ、ペルシャ、インドなど、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸のクダの港やムラカ(マラッカ)を利用した。古代にあっては、夏季(6月-11月)に吹くモンスーン(貿易風)に乗って西からの貿易船がクダなどに着き、冬季(12月-3月)に反対方向の風を用いて帰航するというケースが一般的であった。
6世紀ごろ著名な港湾として繁栄していたクダには、はしけ、人足、ゾウ、税関などが整備されており、ここに着いた荷物は一旦陸揚げされて、マレー半島東海岸のクランタン州周辺まで陸上輸送され、中国などの東方へ輸出する場合はさらにクランタンなどの港から荷物を積み出していた。
取引される各地の特産物としては、
などがあり、マラッカ海峡は、中国を起源として南シナ海や東シナ海で用いられたジャンク船とインド洋一帯で広く用いられた1本マストのダウ船とがともに行き交う海域であった[15]。
12世紀から13世紀にかけて、東南アジアでは中国とインド・西アジア間の中継貿易のための港市が発達する。これは、モンスーン(季節風)の関係で、インド洋海域と東アジア地域との間を往復するには2年の歳月を必要としたが、東南アジアの港市との間を往復するだけであれば、その半分以下の時間しか掛からなかったからである。
マラッカ王国の繁栄とヨーロッパ人の進出
[編集]15世紀における海峡最大の貿易港はムラカ(マラッカ)であり、中継貿易で繁栄した港市国家マラッカ王国の主要港としてにぎわった[3]。ムラカの港務長官は4人おり、第一長官はインド西海岸のグジャラート州、第二長官は南インド、ベンガル州およびビルマ(ミャンマー)、第三長官は東南アジアの島嶼部、第四長官は中国(明)、琉球王国、チャンパーをそれぞれ担当地域とした。ムラカは、商人や船員、通訳、港湾労働者、人や物流を管理する吏員、船乗りや商人の相手をする遊女などでにぎわった[15]。
16世紀初頭、ポルトガル人トメ・ピレスの『東方諸国記』によれば、ムラカの港市には、カイロ・メッカ・アデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワやマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している[15]。こうした繁栄を知ったポルトガル人は1511年、16隻の軍艦でこの町を攻撃、占領してポルトガル海上帝国の主要拠点のひとつとした。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を「発見」してから15年足らずのことであった[16]。
その後、マラッカ海峡の両岸は、ポルトガルとスマトラ島北端部のアチェ王国、マレー半島南部とリアウ諸島に基盤を置くジョホール王国の三者が合従連衡を繰り返してマラッカ海峡の交易の利を独占しようとし(「三角戦争」)、17世紀前半にはアチェ王国が優位に立ってアチェ全盛時代を築いたが、最終的には、新規参入者であったオランダとマラッカ王国の末裔であったジョホール王国とが連合し、1641年にポルトガル勢力を駆逐し、ムラカはオランダの占領するところとなった[17]。しかし、ムラカ(マラッカ)は貿易港としては衰退し、17世紀後半には海上民を統制し。オランダ・アチェとも良好な関係を構築したジョホール王国がジャンビ王国と抗争しながらも全盛期をむかえ、東西交易の中継として繁栄した。
海峡地帯にはマレー人はじめスマトラ内陸部ミナンカバウ人やスラウェシ島南部のブギス人など東南アジア各地の諸民族、中国人、インド人、アラビア人、ペルシア人、ヨーロッパ人、日本人など数多くの人種・民族が住んだ[3][注釈 4]。ムラカはその後、19世紀初頭のナポレオン戦争の際にはイギリスによって占領された。ムラカはいったんオランダに返還されたが、1824年、イギリスはオランダとのあいだに英蘭協約を結んで、マレー半島側をイギリスの勢力圏、スマトラ島側をオランダの勢力圏とした。
1869年のスエズ運河の開通後は、それまでスマトラ島・ジャワ島間のスンダ海峡を利用していた船舶も、その多くがマラッカ海峡を利用するようになり、いっそう重要性を増した[3]。また、特にマレー半島側の鉱業・農業における大規模開発を促し、ペナン、シンガポールの両港の発展がもたらされた[4]。
その一方で、オランダ東インド政庁は1871年のスマトラ条約によってイギリスの干渉を排除し、1873年、海峡の安全確保を名目にアチェ王国の保護領化を企図して王国への侵攻を開始した[19]。これがアチェ戦争であるが、アチェの人々の頑強な抵抗により、オランダ軍がスマトラ全土を制圧したのは1912年を待たなければならなかった。これにより現在のインドネシア全域がオランダの植民地となった[19]。いっぽう、現在のマレーシアに相当する英領マレー連合州が成立したのは1896年のことである。
第二次世界大戦時にイギリス軍が日本軍に放逐され、終戦に至るまで日本軍の占領下におかれた。終戦後にイギリスやオランダの国力が低下したことを受け、インドネシアはオランダ領、マレー連合州はマラヤ連合(のちマレーシア連邦、現在のマレーシア)としてイギリス領からそれぞれ独立した[注釈 5]。海峡沿岸国の領海は3海里から12海里に拡大され、かつて公海として自由な航行に供されてきた海峡も現在は領海化されている[3]。
マラッカ海峡は、1994年に発効した国連海洋法条約における「国際海峡」に該当するとされており[20][注釈 6]、外国の艦船や航空機は、国際法上の取り決めと沿岸国の法令にしたがうことを条件として、海峡通過のための通航権が認められ、沿岸諸国は現在、航路帯および分離通航帯を設定し、通航船舶にその遵守を求めている[3]。
航行の障害と安全
[編集]長狭なマラッカ海峡の中でもワン・ファザム堆[注釈 7]からシンガポール海峡までの約400キロメートルは特に狭い上に浅瀬が多く、大型船は特に航行に困難をともなう[6]。海賊多発地域としても知られ、気象の変化が著しいことから突然襲うスコールが視界を妨げることも多い[6]。また、くびれた地勢を示すマラッカ海峡では、潮汐により強い潮流が発生し、さらに、この強い潮流が「サンドウェーブ」と呼ばれる波紋状の砂州を形成するため、水深が頻繁に変化する危険がある[6]。南シナ海域で多くみられる北東季節風が発達する季節には、東方向からの強い海流も加わり、この海峡で航行の安全を保持し続けることは必ずしも容易なことではない[6]。
海賊・沈没船・森林火災
[編集]近代以降、マラッカ海峡は東アジアと中東・ヨーロッパなどを行き交う各国船舶にとって死活的に重要な航路となっているが、近年、海峡を利用する商船に対する海賊行為が横行している。1994年に25件だった船舶襲撃は、2000年には220件に激増し、2003年には150件以上、2005年でも世界全体の約37パーセントにあたる102件の海賊事件が発生した[2]。
2005年(平成17年)3月14日、現地で日本籍のタグボート「韋駄天」が襲撃され、日本人船長と機関長、フィリピン人船員3名を連れ去り、拉致事件が発生した(同3月21日に解放)[2]。また、1999年(平成11年)にも同様に日本の船が海賊に襲われるという事件が起こっている。
船に対する危険は海賊だけでなく、浅瀬などでの難破もある。海峡内には1880年代以来の難破して沈んだ船が少なくとも34隻あるとみられており、航路の障害となっている[21]。
また、スマトラ島では生活における失火や焼畑農業を原因として森林火災が毎年のように発生し、立ち上る煙はヘイズと呼ばれマラッカ海峡を越えてマレーシアにまで達している。濃い煙が流れてくると、海上はわずか200メートルほど先しか見えなくなり、船は速度を落として運航せざるを得ない状況にある。
座礁事故防止策と海賊対策
[編集]1960年代以降、中東-東アジア間の大型タンカーの航行量が増大した[注釈 8]。しかし、当海域は航行支援設備が不足し、海図の整備も不十分だったため、しばしば座礁事故が発生した。そのため、沿岸各国と日本が協力して、1960年代後半より航行支援設備や海図の整備を行っており、この協力関係は現在も継続中である。また、座礁事故防止のため、マラッカ海峡では船底と海底のあいだを一定の距離に保つUKC方式 (Under Keeping Clearance) が採用されている[3]。
2005年12月、日本とインドネシア、マレーシア、シンガポールの国際協力により、マラッカ海峡とシンガポール海峡の電子海図が完成した[2]。2006年には、日本はインドネシアに対し政府開発援助の一環として円借款を行い、海難事故や海賊対策のため沿岸無線局を33局、船舶自動識別装置を備えた無線局を4局設置した[2]。同年には無償資金協力として19億2100万円を供与し、巡視船3艇を供与してインドネシアの巡視船艇建造計画を支援した[2]。なお、現在、日本財団が中心となり、利用者が安全確保のための費用負担を分担するための基金の設立を提案している。
海賊対策として、マレーシア・インドネシア・シンガポールなど沿岸諸国の海軍が警備を強化しているほか、日本からも海上保安庁の巡視船が海賊の哨戒に当たっている。また、技術や人材育成の面でも日本は東南アジア諸国に対し国際協力を行っている[2]。2007年(平成19年)には、高速船を用いる海賊対策として、日本政府はインドネシアに対し、政府開発援助 (ODA) により巡視艇3隻を日本国内で新造し、無償供与した。操舵室等が防弾構造であり武器輸出三原則に抵触するおそれがあることから、運用を対テロ・対海賊に限定し、日本政府の同意なく第三国へ引き渡さない等の条件を付すことで武器輸出三原則の例外とした供与であった[23]。
さらに、海賊など海上犯罪の要因として沿岸地域の深刻な貧困が考えられるとして、日本政府はかつてロンボク海峡付近でため池やダムなどの灌漑システムの構築やこれらの維持管理する農業技術者育成などを行って一定の成果をあげており、マラッカ海峡においてもその経験を踏まえ、地域の農村開発に資する支援をおこなっている[2]。
沿岸の開発とその計画
[編集]工業開発
[編集]上述したように、マラッカ海峡を通過する貨物で最も多いのが中東産の石油であり、行き先は日本や中国などの東アジアが多い。その航路上にあるシンガポールは一大石油精製基地として発展し、1980年代には日系企業の石油化学工場が建設され、その南のインドネシアのバタム島でも石油工業の開発が進展した[4]。
さまざまなボトルネック解消策
[編集]上述のようにマラッカ海峡の水深の浅さからくる危険性回避のため、日本のマラッカ海峡協議会[24]は1971年(昭和46年)に浅瀬の浚渫を提案したことがあったが、当時は冷戦下だったこともあり、ソビエト連邦軍の艦船が出入りしやすくなるという軍事上のリスクが指摘されたほか、浚渫によって漁業が打撃を受けるおそれがあるとして沿岸諸国が反対したことにより実現していない[25]。
一方、タイ領内のクラ地峡に運河を造るという、マラッカ海峡の通航を緩和する一方で重要性も低下させるおそれのある計画が昔から幾度か取り沙汰されている[26]。これが実現すればアフリカ・中東から太平洋への航路は約600マイル(約960キロメートル)ほど短縮される。これは、時間にすれば1日ないし2日間の時間短縮になり、燃料の節約もできることとなる[26]。しかし、この運河の建設によりタイ南部の陸地が分断され、ムスリムが多く分離主義の動きもあるパタニ地方がタイ本土から切り離されてしまうこと、タイ中南部は潮州系や福建系の華僑人口も多く、彼らがシンガポールの地位低下を喜ばないことなど複雑な要因がからみ合っており、タイ国内にも慎重論がある[26]。2004年、ワシントン・タイムズは、中国がタイに対して運河建設費を分担するよう申し出たことを報じたが、タイの財政難や周辺環境に与える影響の大きさも指摘され、クラ地峡運河計画は進んでいない[27]。また、クラ地峡を横断するパイプラインを建設し、両端に超大型タンカーのための港を建設する案もあり、タイだけでなくミャンマー も同様の提案をしている[27]。これにより、中東から東南アジアへの原油運送コストを1バレルあたり0.5ドル圧縮することができるという試算もある[27]。
マラッカ海峡の代わりに、スンダ海峡(スマトラ島・ジャワ島間)やロンボク海峡(バリ島・ロンボク島間)などインドネシア領内の海峡を通ってインド洋から太平洋側に出る航路もあるが、スンダ海峡は水深が浅く大型船の航行には使えず、ロンボク海峡は水深は十分にあるものの、マラッカ海峡より650キロメートルもの遠回りになる、小島や岩礁が多いなどの難点がある[27]。
2013年、中国は、ミャンマー西部のチャウピュ港から雲南省に至るパイプラインを完成。マラッカ海峡を経ずに中東から原油、天然ガスを移送する手段の一つを整えた[28]。
マラッカ海峡大橋建設構想
[編集]2009年(平成21年)10月9日、日本経済新聞は中国の援助によるムラカ(マラッカ)州とスマトラ島(地図上ではリアウ州ドゥマイ)を結ぶ橋の建設構想が現地紙で明らかにされたと報じた[29]。中国輸出入銀行が建設費の85パーセントを融資するとしているが、マレーシア政府による建設許可が下りておらず、公表された企業は知名度の低い一民間企業に過ぎないとして、計画の存在を報じながらも、なお疑わしい点もあることが示された[29]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ タンカーの巨大化は、一方でマラッカ海峡経由を避けてスマトラ島とジャワ島の南側を通る航路の新設を招いた。これにより、マラッカ海峡の混雑が多少なりとも緩和されることが期待される[5]。
- ^ ローマ皇帝16代のマルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年-180年)またはその先代皇帝のアントニヌス・ピウス(位138年-161年)と考えられる。
- ^ 陸上交通に困難さがあるため、海上交通の要所に港市が形成され、そのなかでも外部の文明とのつながりの強い港市が中心となって海域を支配する国家が港市国家である。当初、和田久徳がマラッカ王国を念頭に置いて構想した概念であったが、交易中心の国家全般を指すようになった。シュリーヴィジャヤ王国、マラッカ王国のほか、アユタヤ王朝、アチェ王国、バンテン王国、ジョホール王国、マカッサル王国などを指す[9]。
- ^ マレー半島最古のモスクもムラカ(マラッカ)にある[18]。
- ^ シンガポールがマラヤ連邦から分離独立したのは1965年のことである。
- ^ 国連海洋法条約(「海洋法に関する国際連合条約」)では、「国際海峡」とは同条約第37条で「公海または排他的経済水域の一部分と公海または排他的経済水域の他の部分との間における国際航行に使用されている海峡」と定義されている。
- ^ ワン・ファザム堆灯台も参照
- ^ 1966年(昭和41年)に石川島播磨重工業横浜造船所(神奈川県横浜市)で建造された出光丸は、20万重量トンを超えた世界最初のタンカーとして知られたが、その就航ルートがマラッカ海峡であった[22]。
参照
[編集]- ^ a b 『最新地理小辞典』(1997) p.370
- ^ a b c d e f g h “『ODA白書 2006年版』「第I部第2章第6節 海の安全確保へのアジア沿岸諸国への支援-マラッカ海峡の安全航行への施策-」”. 外務省. 2012年7月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 大矢・中村 (2004)
- ^ a b c d 太田 (1988) pp.179-180
- ^ 太田 (1988) p.180
- ^ a b c d e 「船の生活」
- ^ “Limits of Oceans and Seas, 3rd edition” (PDF). International Hydrographic Organization (1953年). 2011年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月13日閲覧。
- ^ a b c d 永積 (1977) pp.87-88
- ^ 鈴木 (1998)
- ^ a b c 永積 (1977) pp.43-44
- ^ a b c 永積 (1977) pp.47-50
- ^ 『アブー・ザイド・アッシーラーフィー』 - コトバンク
- ^ 『アブー・ザイド』 - コトバンク
- ^ 永積 (1977) pp.89-93
- ^ a b c 尾本 (2000)
- ^ 弘末 (2004) pp.23-24
- ^ 弘末 (2004) pp.31-32
- ^ 大矢・中村 (2004)
- ^ a b 鈴木 (2004)
- ^ 日本海難防止協会 (2004年). “第VII章 国連海洋法条約に基づく国際海峡制度”. マラッカ・シンガポール海峡の情勢 2004. 日本財団. 2017年6月26日閲覧。
- ^ 34 wrecks in sealane threaten passing ships (the star online)
- ^ 茂在 (2004)
- ^ 『世界の艦船』2008年1月号 p.50
- ^ マラッカ海峡協議会 | マラッカ・シンガポール海峡での船の安全確保、事故防止に努めています。
- ^ 武石礼司『アジアにおけるエネルギー協力と日本の課題』 (PDF)
- ^ a b c “中国がタイで「クラ地峡」運河を建設? 実現可能性はあるのか”. THE PAGE (2015年6月23日). 2020年7月24日閲覧。
- ^ a b c d “日本のライフライン・タンカーシーレーン:マラッカ海峡の安全航行施策”. 「日本貿易の将来像」国際貿易・資源市場研究:武上研究室(武上幸之助) (2010年12月26日). 2020年7月24日閲覧。
- ^ “中国・ミャンマーのパイプライン完成、マラッカ海峡を迂回”. サーチナ (サーチナ). (2013年6月5日) 2014年7月26日閲覧。
- ^ a b 日本経済新聞2009年10月9日、6面(中国・アジア)『マレーシア、鉄道・石油整備 / 大型開発計画に「中国色」 / 「影響力」への警戒感も』
参考文献
[編集]- 永積昭『東南アジアの歴史』講談社〈講談社現代新書〉、1977年7月。ISBN 4-06-115857-0。
- 太田勇「マラッカ海峡」『世界大百科事典 第27(マク-ムン)』平凡社、1988年4月。ISBN 4-58-202700-8。
- 二宮書店 編「マラッカ海峡」『最新地理小辞典 三訂版』二宮書店、1997年1月。ISBN 4-8176-0149-3。
- 鈴木恒之「東南アジアの港市国家」『岩波講座世界の歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成―16-18世紀』岩波書店、1998年8月。ISBN 4000108336。
- 尾本惠市『海のアジア1 海のパラダイム』岩波書店、2000年11月。ISBN 4000265717。
- 小学館 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
- 弘末雅士『東南アジアの港市世界-地域社会の形成と世界秩序-』岩波書店〈世界歴史叢書〉、2004年5月。ISBN 4-00-026851-1。
- 海人社 編『世界の艦船』海人社〈月刊本(2008年1月号)〉、2007年11月。ASIN B000YGNG0Q。
外部リンク
[編集]- 研究レポート No.95 November 2000 『アジアにおけるエネルギー協力と日本の課題』富士通総研経済研究所 主任研究員 武石礼司 (PDF)
- 第I部第2章第6節「マラッカ海峡の安全航行への施策」(ODA白書2006年版、外務省)
- 「船の生活」-マラッカ海峡通峡 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)
- 『マラッカ海峡』 - コトバンク
- 『マラッカ海峡問題』 - コトバンク