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「箱根登山バス」の版間の差分

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{{Pathnav|小田急電鉄|小田急箱根|frame=1}}
{{基礎情報 会社
{{基礎情報 会社
|社名 = 箱根登山バス株式会社
| 社名 = 箱根登山バス株式会社
|英文社名 = Hakone Tozan Bus Co., Ltd.
| 英文社名 = Hakone Tozan Bus Co., Ltd.
|ロゴ =
| ロゴ =
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|画像説明 = [[箱根登山バス小田原営業所|小田原営業所]](左奥の建物が本社)
| 画像説明 = [[箱根登山バス小田原営業所|小田原営業所]](左奥の建物が本社)
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| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 = 非上場
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|略称 = 箱根登山、登山バス
| 略称 = 箱根登山、登山バス
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| 国籍 = {{JPN}}
|郵便番号 = 250-0003
| 郵便番号 = 250-0003
|本社所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]東町5丁目33番地1号
| 本社所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]東町丁目33番地1号
| 本社緯度度 = 35
|設立 = [[1998年]][[6月4日]](注1)
| 本社緯度分 = 15
|業種 = 5050
| 本社緯度秒 = 42.1
|統一金融機関コード =
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
|SWIFTコード =
| 本社経度度 = 139
|事業内容 = 旅客自動車運送事業、貨物自動車運送事業他
| 本社経度分 = 10
|代表者 = 代表取締役 伊藤悦充
| = 8億円
| 社経度秒 = 35.7
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
|売上高 =
| 本社地図国コード = JP
|総資産 =
| 設立 = [[1998年]][[4月1日]]<br />(沼津箱根登山自動車株式会社)
|従業員数 = 216名
| 業種 = 5050
|決算期 =
| 統一金融機関コード =
|主要株主 = [[小田急箱根ホールディングス]](100%)
| SWIFTコード =
|主要子会社 =
| 事業内容 = 旅客自動車運送事業、貨物自動車運送事業他
|関係する人物 =
| 代表者 = 野村尚廣([[代表取締役]][[社長]])
|外部リンク = http://www.hakone-tozanbus.co.jp/
| 資本金 = 1億円<br>(2019年3月期)<ref name="fy2019">[https://catr.jp/companies/27337/20602/settlements/30170/115978 箱根登山バス株式会社 第21期決算公告]</ref>
|特記事項 = 注1:旧商号は「沼津箱根登山自動車株式会社」。[[2002年]][[10月1日]]の会社再編により、同日より箱根登山バスとしての事業を開始。
|売上高 = 32億5600万円<br>(2019年3月期)<ref name="fy2019" />
|営業利益 = 2億4100万円<br>(2019年3月期)<ref name="fy2019" />
|経常利益 = 2億4300万円<br>(2019年3月期)<ref name="fy2019" />
|純利益 = 4億2,860万円<br>(2024年3月期)<ref name="fy2024">[https://catr.jp/companies/27337/20602/settlements/42ea3/363412 箱根登山バス株式会社 第26期決算公告]</ref>
|純資産 =
|総資産 = 36億1,734万7,000円<br>(2024年3月期)<ref name="fy2024" />
| 従業員数 = 234名
| 決算期 =
| 主要株主 = [[小田急箱根]] 100%
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク =
| 特記事項 = [[小田急電鉄]]の[[連結子会社]]。
}}
}}
[[File:Hakone Tozan Bus 8251 20190505.jpg|240px|thumb|路線バス]]
'''箱根登山バス'''(はこねとざんバス)は、[[箱根登山鉄道]]系列の路線バス事業を行なう会社。[[2002年]][[10月1日]]に当時の箱根登山鉄道株式会社<!--現:小田急箱根ホールディングス-->の分社化により事業を引き継いだ。
'''箱根登山バス株式会社'''(はこねとざんバス、{{Lang-en-short|Hakone Tozan Bus Co., Ltd.}})は、[[神奈川県]][[小田原市]]に本社を設け、神奈川県小田原市および[[足柄下郡]][[箱根町]]周辺を主な営業エリアとする、[[小田急グループ]]のバス事業者である。[[小田急箱根]]の完全子会社。


1913年3月1日に開業した'''小田原電気鉄道'''の貸自動車業<ref name="1995-112"/>と、1914年8月15日に開業した'''富士屋自働車'''<!--「働」は誤変換にあらず-->の貸自動車業<ref name="g100-40"/>を前身とし、1932年に両社が合併して'''富士箱根自動車'''となる<ref name="bjr58-26"/>が、戦時中の交通事業統合の流れの中で1921年創業の'''足柄自動車'''とともに箱根登山鉄道(現:小田急箱根)に合併し、同社の自動車部門となった<ref name="g100-88"/>。2002年10月には小田急グループ内での事業再編に伴い分社化された<ref name="bjr58-31"/>。
神奈川県小田原市、箱根町、南足柄市、湯河原町を中心に[[路線バス]]の運行と企業や学校などの受託運行をしている。本社は[[湘南箱根登山自動車]]とともに[[小田原市]]東町にある。通称は、箱根登山鉄道のバス部門だった頃から「登山バス」で、近年導入の一部車両には「ハートフルバス とざん」とも書かれている。一部路線は静岡県御殿場市へも乗り入れていて、[[小田急箱根高速バス]]と補完関係にある。かつては貸切バス事業も行なっていたが、貸切部門は7台を除いて湘南箱根登山自動車に一本化されている。


本項目では箱根登山鉄道のバス部門(自動車部)によって事業が行われていた時代についても説明する。
本項目では箱根登山鉄道のバス部門(自動車部)によって事業が行われていた時代についても記述する。


== 沿革 ==
== 歴史 ==
=== 創業期 ===
=== 創業期 ===
[[2012年]]現在の箱根登山バスが主な営業エリアとしている[[神奈川県]]西部において自動車業が開始されたのは、[[1912年]]([[明治]]45年)に営業を開始した箱根自動車の貸自動車業([[ハイヤー]])に端を発する<ref name="1995-109"/>。この頃に日本国外からの旅行者が自動車で箱根を訪れるようになっていた<ref name="1995-109"/>が、小田原電気鉄道の終点であった湯本駅の駅前にて茶屋を経営していたうちの1軒で、その親族が貸自動車業を開始したものである<ref name="1995-109"/>。これに驚いた小田原電気鉄道では、翌[[1913年]]([[大正]]2年)3月1日より貸自動車業に参入した<ref name="1995-112"/>。当初の車両数は5台で、国府津駅から強羅までと、芦ノ湖畔の箱根町を結ぶ区間での営業であった<ref name="1995-112"/>。これらの貸自動車業は、それまで人力車夫や駕籠かきからは脅威として受け止められ<ref name="g100-39"/>、路上にガラス片をまかれたり投石されたりといった運行妨害を受けることもあった<ref name="1995-110"/>。
箱根地区にバスが走り始めたのは、[[1913年]]に'''小田原電気鉄道'''が開始した貸自動車業で、現代で言えば[[ハイヤー]]に相当するサービス内容であった<ref name="bjr58-25">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.25]]</ref>。[[1914年]]には[[富士屋ホテル]]の経営者がホテル宿泊客の送迎のために'''富士屋自働車'''を設立した<ref name="bjr58-25"/>。富士屋自働車は[[1915年]]には[[国府津駅]]を起点として箱根各地域を結ぶ乗合自動車(路線バス)の許可を取得、[[1919年]]6月より運行を開始した<ref name="bjr58-25"/>。これが箱根地区における路線バスの端緒であるが、この運行開始は小田原電気鉄道が[[箱根湯本駅|湯本]]から[[強羅駅|強羅]]までの[[登山鉄道]]の開通と同時であり、即ち鉄道とバスの競合の始まりでもあった<ref name="bjr58-25"/>。


[[ファイル:Fujiya hotel Motors Kozu Car Stand Fiat and Rambler.jpg|thumb|創業当時の富士屋自働車の貸自動車]]
富士屋自働車が高級な車両を投入し<ref name="bjr58-25"/>、横浜や東京に至る長距離路線の運行を開始する<ref name="bjr58-25"/>と、対する小田原電気鉄道は[[小涌谷駅|小涌谷]]から箱根町まで、自社鉄道線に接続する路線バスの運行を[[1921年]]より開始した<ref name="bjr58-26">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.26]]</ref>。富士屋自働車はさらに[[三島市|三島]]や[[沼津市|沼津]]にまで路線網を拡大<ref name="bjr58-26"/>、[[1931年]]には省線との[[連絡運輸|連帯運輸]]を開始した<ref name="bjr58-26"/>。一方、小田原電気鉄道は[[1928年]]1月にいったん日本電力に合併した<ref name="bjr58-26"/>あと、同年8月に再度箱根登山鉄道として分社化された<ref name="bjr58-26"/>が、こちらも[[1929年]]には国府津まで、1931年には箱根湯本と箱根町を結ぶ自社鉄道線と並行する路線バスの運行に至った<ref name="bjr58-26"/>。
この1913年の夏、[[富士屋ホテル]]での滞在を終えて帰任するアメリカ陸軍少佐から予約を受けたにもかかわらず小田原電気鉄道の貸自動車が約束した時間よりも遅れて配車されるという事態が発生した<ref name="1995-113"/>。この陸軍少佐は辛うじて国府津駅から予定の列車に乗車し、無事に帰任できた<ref name="1995-113"/>ものの、帰任後に富士屋ホテルに対して「一流ホテルとしては、ホテル専属の自動車を所有すべき」と意見書を送った<ref name="g100-40"/>。当時、富士屋ホテルの取締役であった山口正造はこれに応えるべく翌1914年(大正3年)8月15日、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車を設立した<ref name="g100-40"/>。富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車は運転士に礼儀作法と英語を学ばせた上、当時としてはモダンな制服を着用させた<ref name="1995-114"/>。また、それまで人力車夫や駕籠かきを営業していたものに対して、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車の株主になることを薦めた<ref name="1995-114"/>。


富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車では貸自動車だけではなく、乗合自動車の運行を行なう構想を抱いており<ref name="g100-41"/>、1915年(大正4年)8月には国府津駅と箱根地区を結ぶ乗合自動車、1917年(大正6年)6月には小田原と熱海を結ぶ乗合自動車の運行許可を得ていた<ref name="1995-118"/>。貸自動車業を開始した際にも反対運動があった経験から<ref name="g100-41"/>、乗合自動車の運行については慎重に時機をうかがうこととした<ref name="1995-118"/>。なお、箱根で最初に貸自動車業を開始した箱根自動車は、1919年に富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車に買収された<ref name="1995-111"/>。
しかし、この2社の競合は次第にエスカレートし、現地での社会問題にまで発展した<ref name="bjr58-26"/>ことから、[[1932年]]には阪急電鉄社長の仲介により<ref name="bjr58-26"/>両社のバス事業を統合することになった。こうして、[[1933年]]1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働車に譲渡され、富士屋自働車は社名を'''富士箱根自動車'''に変更した<ref name="bjr58-26"/>。[[1934年]]には主に足柄地区の路線を運行していた足柄自動車(1921創業)を傘下に組み入れた<ref name="bjr58-26"/>。


{{Triple image|right|Fujiya Motors car Pierce-Arrow.jpg|170|Odawara Electric Railway Motors car.jpg|150|Ashigara Motors.jpg|140|富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車の乗合自動車|小田原電気鉄道の乗合自動車|創業当時の足柄自動車}}
=== 戦時統合 ===
その後、1912年に小田原電気鉄道が[[箱根湯本駅|湯本]]から[[強羅駅|強羅]]までを結ぶ[[登山鉄道]]の工事を開始した<ref name="1995-98"/>が、登山電車の開通は貸自動車業にとっては脅威であり、それに対抗するためには乗合自動車の運行を行なう必要があると考えられた<ref name="g100-41"/>。そこで、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車は登山電車の運行を待つこととし、[[1919年]]6月1日より国府津駅から宮ノ下、宮ノ下から箱根町において乗合自動車(路線バス)の運行を開始した<ref name="1995-120"/>。これが神奈川県下においても初となる本格的な路線バス運行であった<ref name="1995-118"/>が、同時に、鉄道とバスの競合の始まりでもあった<ref name="bjr58-25"/>。富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車では高級車両を投入し<ref name="bjr58-25"/>、横浜や東京に至る長距離路線の運行も開始した<ref name="bjr58-25"/>。対する小田原電気鉄道は、[[小涌谷駅|小涌谷]]から箱根町まで、自社の登山電車に接続する路線バスの運行を[[1921年]](大正10年)より開始した<ref name="bjr58-26"/>。一方、同年5月22日には足柄自動車が[[松田町]]で設立された<ref name="1995-160"/>。{{main|小田急箱根#計画変更・着工|小田急箱根鉄道線#難工事・運行開始}}
富士箱根自動車となってからも積極的な営業は行われ、サウラーなどの大型車が導入された<ref name="bjr58-26"/>が、この中にはオープンタイプの車両も含まれていた<ref name="bjr58-26"/>。


登山電車で小田原から宮ノ下までの運賃が下等で61銭で、それでも下りは歩いて湯本に戻る利用客も多かった状況では、小田原から宮ノ下まで1円80銭もの運賃が設定された路線バスの利用者はさらに少なかった<ref name="1995-120"/>。このため、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車では1922年には運賃の値下げを行い、小田原から宮ノ下までのバス運賃は1円となった<ref name="1995-121"/>。また、同年には小田原駅前に営業所を併設した食堂・売店として「カフェ・レゾート」をオープンさせた<ref name="1995-142"/>。一方の小田原電気鉄道側も運賃を値下げして対抗するなど、激しい乗客争奪が展開された<ref name="1995-123"/>。同年12月3日には両社の社員同士が乱闘事件を起こし<ref name="1995-124"/>、4人が傷害罪で送検された<ref name="1995-124"/>。{{see also|小田急箱根#苦しい経営}}
しかし、戦時体制の波は富士箱根自動車にも影を落とすことになる<ref name="bjr58-26"/>。[[1935年]]に電力統制が行われると、富士箱根自動車は箱根登山鉄道とともに日本電力の傘下に入った<ref name="bjr58-26"/>。戦時体制が強化されると、不用不急の路線は休止を命じられることになり、鉄道並行路線や観光路線などはこれによって休止されたが、これは全路線の6割強に達した<ref name="bjr58-26"/>。さらに、[[1942年]]に強制統合の通牒が出され、統合母体として箱根登山鉄道が選ばれることになり、富士箱根自動車と足柄自動車は[[1944年]]に'''箱根登山鉄道'''に合併となり、同社の自動車部門となった<ref name="bjr58-26"/>。また、同時に[[東京急行電鉄]]の傘下に入っている<ref name="bjr58-26"/>。

1923年9月1日に発生した[[関東大震災]]によって、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車では前年に完成したばかりの「カフェ・レゾート」が倒壊<ref name="1995-142"/>、車庫にあった数十台の自動車も破壊された<ref name="1995-142"/>。また、湯本と塔ノ沢の間では乗客5人を乗せた自動車が崖崩れにより埋没し行方不明となり<ref name="1995-142"/>、[[底倉温泉|底倉]]にある蛇骨川の橋を渡っていた自動車が谷底へ転落する<ref name="1995-143"/>など、保有していた自動車の半数近くが失われるという被害を受けた<ref name="1995-143"/>。{{main|小田急箱根#連続する災難|小田急箱根鉄道線#関東大震災}}

=== 競合の末の合併から戦時統合まで ===
[[ファイル:Fujiya Motors Map.jpg|thumb|200px|当時の富士屋自働車の路線図]]
震災後、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車は復旧とともに車両の改良に注力した<ref name="1995-146"/>。1924年には当時としては超大型となる25人乗りのバスを導入し<ref name="1995-149"/>、1925年から実際に運行を開始している<ref name="1995-149"/>。また、1924年には[[三島市|三島]]・[[沼津市|沼津]]にまで路線網を拡大した<ref name="bjr58-26"/>ほか、震災以来中断されていた横浜と箱根を結ぶ路線の運行も再開されている<ref name="1995-149"/>。一方の小田原電気鉄道も1927年までにはほぼ復旧している<ref name="1995-151"/>。なお、小田原電気鉄道は[[1928年]](昭和3年)1月にいったん日本電力に合併した<ref name="bjr58-26"/>あと、同年8月に再度'''箱根登山鉄道'''として分社化された<ref name="bjr58-26"/>。{{main|小田急箱根#合併の後再分離}}

鉄道やバスの復旧とともに、再び激しい乗客争奪が展開されることになった。小田原駅前では富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車の社員は「乗り換えなしで箱根へ」と宣伝<ref name="1995-155"/>、一方の箱根登山鉄道の社員は「電車の方が静かで安い」と声を上げ<ref name="1995-155"/>、観光客を自社へ誘導した。時には観光客の手を引っ張りあい<ref name="1995-156"/>、ひどい時には互いの社員同士が殴り合いを始める始末だった<ref name="1995-156"/>。

{{Double image aside|right|Fujiya Motors Odawara Sta.jpg|195|Tozan Saurer Ashinoko.jpg|140|富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車の高級車「ホワイト」|箱根登山鉄道の高級車「サウラー」}}
箱根登山鉄道が[[1929年]]には国府津まで、[[1931年]]には箱根湯本と箱根町を結ぶ自社鉄道線と並行する路線バスの運行に至り<ref name="bjr58-26"/>、小田原駅前に乗り入れるようになると、この2社の競合はさらにエスカレートし、現地での社会問題にまで発展した<ref name="bjr58-26"/>。富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車はアメリカ製の高級バス「ホワイト」を導入<ref name="1995-156"/>、対する箱根登山鉄道はスイス製の高級バス「サウラー」を導入し<ref name="1995-156"/>、女性の車掌が自社のバスに乗せようと大声を上げる有様であった<ref name="1995-156"/>。

ここにきて、小田原市や警察署長、さらには鉄道省が両社の合併を再三にわたって勧奨する事態になり<ref name="1995-156"/>、[[1932年]]には[[京阪電気鉄道]]の社長であった[[太田光凞]]の仲介により<ref name="bjr58-26"/>両社のバス事業を統合することになった。こうして、[[1933年]]1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車に譲渡され、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車は社名を'''富士箱根自動車'''<ref>[{{NDLDC|1234531/208}} 路線、車両]、[{{NDLDC|1234531/486}} 広告『全国乗合自動車総覧』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>に変更した<ref name="bjr58-26"/>。[[1934年]](昭和9年)6月8日には足柄自動車を傘下に組み入れた<ref name="bjr58-26"/>。{{see also|小田急箱根#小田原から強羅まで直通運転|小田急箱根鉄道線#登山電車が小田原へ乗り入れ}}

なお、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車は[[1931年]]には省線との[[連絡運輸|連帯運輸]]を開始した<ref name="bjr58-26"/>が、乗合自動車が省線と連絡運輸を行ったのは、日本ではこれが初めての事例である<ref name="1995-157"/>。

しかし、戦時体制の波は富士箱根自動車にも影を落とすことになる<ref name="bjr58-26"/>。[[1935年]](昭和10年)に電力統制が行われると、富士箱根自動車は箱根登山鉄道とともに日本電力の傘下に入った<ref name="bjr58-26"/>。[[1936年]](昭和11年)には2月22日に下吉田 - 長浜間、御殿場 - 須山間を、10月18日には今里 - 裾野間を[[富士急行|富士山麓電気鉄道]]に譲渡する一方、[[1941年]](昭和16年)2月26日には旭自動車(国府津 - 小田原間。1922年(大正11年)1月15日開業)を合併している。戦時体制が強化されると、不要不急の路線は休止を命じられることになり、鉄道並行路線や観光路線などはこれによって休止されたが、これは全路線の6割強に達した<ref name="bjr58-26"/>。さらに、[[1942年]](昭和17年)5月30日、箱根登山鉄道ならびに富士箱根自動車、足柄自動車の三社は日本電力から[[東急|東京急行電鉄]]に譲渡され、箱根登山鉄道の社長に東京急行電鉄社長の[[五島慶太]]が就任。かくして箱根登山は[[大東急]]の影響下に置かれることになった。また、同年[[陸運統制令]]に基づく地域統合の通牒が出され、統合母体として箱根登山鉄道が選ばれることになり、[[1944年]](昭和19年)7月31日付で富士箱根自動車と足柄自動車は箱根登山鉄道に合併となった<ref name="g100-88"/>。{{main|小田急箱根#戦時体制下|箱根山戦争#堤康次郎と五島慶太}}{{see also|東急電鉄#「大東急」の時代|東急バス#東横・目蒲の合併 - 大東急へ}}


本項では以下、単に「登山バス」とした場合は箱根登山鉄道および箱根登山バスをさすものとする。
本項では以下、単に「登山バス」とした場合は箱根登山鉄道および箱根登山バスをさすものとする。


=== 戦後の復興 ===
=== 戦後の復興 ===
終戦間もない[[1945年]]11月より、小田原から[[宮ノ下温泉|宮ノ下]]・江ノ浦への路線について運行を開始<ref name="bjr58-27">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.27]]</ref>、以後順次休止路線の運行再開を図るが、路線網がほぼ完全に復旧したのは1954年と、9年を要している<ref name="bjr58-27"/>。この間の[[1948年]]、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急から、小田急電鉄(小田急)・京浜急行電鉄(京急)・京王帝都電鉄(京王)が分離したが、元来旧・小田急電鉄が運行していた[[京王井の頭線|井の頭線]]は京王の所属となり、その代わりとして[[神奈川中央交通|神奈川中央乗合自動車]](当時)とともに新生・小田急の傘下に入ることになった<ref name="bjr58-27"/>。
終戦間もない[[1945年]](昭和20年)11月より、小田原から[[宮ノ下温泉|宮ノ下]]・江ノ浦への路線について運行を開始<ref name="bjr58-27"/>、以後順次休止路線の運行再開を図るが、路線網がほぼ完全に復旧したのは1954年と、9年を要している<ref name="bjr58-27"/>。この間の[[1948年]]、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急から、小田急電鉄(小田急)・[[京浜急行電鉄]][[行バス|京急バス]])・[[京王電鉄|京王帝都電鉄]][[京王電鉄バス|京王バス]])が分離したが、元来旧・小田急電鉄が運行していた鉄道の[[京王井の頭線|井の頭線]]は京王の所属となり、その代わりとして[[神奈川中央交通|神奈川中央乗合自動車]](当時)とともに新生・小田急の傘下に入ることになった<ref name="bjr58-27"/>。{{see also|大東急#成立と崩壊の経緯|神奈川中央交通#戦後の復興|東急バス#大東急解体と各社の離脱}}


1950年には貸切バス事業も再開、翌年には東京都・静岡県・山梨県にも営業エリアを拡大した。また、長距離路線の開設も目立ち、1950年には東京から箱根・熱海へ直通する路線を開設した<ref name="g100-62">[[#tozan100|『すばらしい箱根 グラフ100』 p.62]]</ref>ほか、1952年には[[富士急行|富士山麓電気鉄道]](当時)との運輸協定により小田原駅と山中湖を結ぶ路線も開設された<ref name="bjr58-27"/>。
1950年には貸切バス事業も再開<ref name="bjr58-27"/>、翌年には東京都・静岡県・山梨県にも営業エリアを拡大した。また、長距離路線の開設も目立ち、1950年には東京から箱根・熱海へ直通する路線を開設した<ref name="g100-62"/>ほか、1952年には[[富士急行|富士山麓電気鉄道]](当時)との運輸協定により小田原駅と山中湖を結ぶ路線も開設された<ref name="bjr58-27"/>。


貸切バス事業においても、1953年には東京都内で貸切バス事業を行っていた新光バスを買収し、1956年に箱根登山バス(2003年以降とは別の会社)と改称した上で1960年に登山バスに吸収合併した<ref name="bjr58-28">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.28]]</ref>。
貸切バス事業においても、1953年には東京都内で貸切バス事業を行っていた新光バスを買収し、1956年に箱根登山バス(2003年以降とは別の会社)と改称した上で1960年に登山バスに吸収合併した<ref name="bjr58-28"/>。


=== 箱根山戦争と事業拡大 ===
=== 箱根山戦争と事業拡大 ===
大正後期以降、[[芦ノ湖]]近辺では[[コクド|箱根土地]](当時)が別荘地の分譲などを中心とした観光開発を行なっており<ref name="rp679-98"/>、開発に欠かせない交通機関の整備についても[[西武グループ]]の手で[[熱海峠]]と[[箱根峠]]の間と、小涌谷から湖尻を経由して元箱根に至る[[有料道路]]を運営し、[[伊豆箱根鉄道|駿豆鉄道]](当時)の路線バスが運行されていた<ref name="rp679-98"/>。
{{seealso|箱根山戦争}}
大正後期以降、[[芦ノ湖]]近辺では[[コクド|箱根土地]](当時)が別荘地の分譲などを中心とした観光開発を行なっており<ref name="rp679-98">[[#青木679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.98]]</ref>、開発に欠かせない交通機関の整備についても[[西武グループ]]の手で[[熱海峠]]と[[箱根峠]]の間と、小涌谷から湖尻を経由して元箱根に至る[[有料道路]]を運営し、[[伊豆箱根鉄道|駿豆鉄道]](当時)の路線バスが運行されていた<ref name="rp679-98"/>。しかし、東京へ直通する交通機関を持たなかった駿豆鉄道では、小田原に路線バスを乗り入れさせ、観光の拠点とすべく<ref name="rp679-99">[[#青木679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.99]]</ref>、1947年9月に小田原から小涌谷までの路線バスの運行免許申請を行った<ref name="rp679-99"/>。しかし、この区域は登山バスの営業エリアであることから、自社防衛の見地から登山バスは反対の立場をとった<ref name="bjr58-27"/>。この時は1950年3月に両社の協定により、駿豆鉄道は途中停留所と運行回数の制限を、登山バスは1年ごとの有料道路利用契約の更新をそれぞれ条件とした上<ref name="rp679-99"/>で、小田原への駿豆鉄道バスの乗り入れを認める代わりに、登山バスが初めて芦ノ湖北岸へ乗り入れることになった<ref name="bjr58-27"/>。


1947年9月、駿豆鉄道では、小田原と小涌谷を結ぶ区間に路線バスの運行免許申請を行った<ref name="rp679-99"/>。傘下にあった大雄山鉄道(当時)との一貫輸送を図ったものであった<ref name="1995-179"/>が、当時まだ東急の傘下だった登山バスは、自社防衛の見地から反対の立場をとった<ref name="bjr58-27"/>。しかし、当時の登山バスではただちに増強を図ることは難しかった<ref name="1995-180"/>上、地元からも「独占はよくない」という声も上がっていた<ref name="1995-180"/>こともあり、1949年12月には駿豆鉄道の路線バス運行については条件付で認可された<ref name="1995-179"/>。これに対応して、小田急の傘下に入った直後の登山バスでは早雲山から大涌谷を経由して湖尻に至る路線バス運行の免許申請を行なった<ref name="1995-181"/>が、これは逆に駿豆鉄道から反対を受けた<ref name="1995-182"/>。最終的には、1950年3月に両社の協定により、駿豆鉄道は途中停留所と運行回数の制限を、登山バスは1年ごとの有料道路利用契約の更新をそれぞれ条件とした上<ref name="rp546-72"/>で、小田原へは駿豆鉄道バスが乗り入れ、代わりに登山バスが初めて芦ノ湖北岸へ乗り入れることになった<ref name="bjr58-27"/>。{{main|箱根山戦争#対立の序盤}}
これに続けて、小田急と登山バスは、それまで駿豆鉄道が独占して運航していた芦ノ湖の湖上交通への進出を図った<ref name="rp679-99"/>。1950年3月に箱根地区で西武グループに敵対の立場を取っていた有力者と共同で船舶会社([[箱根観光船]])を設立した<ref name="rp679-99"/>。当初は小型遊覧船のみの小規模な事業形態であったが、1954年には芦ノ湖一周航路の免許を取得し、1956年には大型船を就航させた<ref name="rp679-99"/>。


駿豆鉄道側ではこれにする報復とし<ref name="rp679-99"/>、1956年6月に有料道路通行契約が満了すると共に契約を破棄し、後の登山バスの通行を拒否した<ref name="rp679-99"/>。これ後に[[箱根山戦争]]として広く知られ、[[獅子文六]]の小説箱根山の題材にもなった西武グループと[[小田急グループ]]の対立の始まりであった<ref name="rp679-99"/>。
登山バスはこれに続いて、1950年3月に芦ノ湖への湖上交通に着手するために、箱根町や仙石原で西武グループに敵対の立場を取っていた有力者共同で船舶会社([[箱根海賊船#運航会社|箱根観光船]])を設立た<ref name="rp546-72"/>。当初の箱根観光船は小型遊覧船のみを保有する小規模な事業者であった<ref name="rp679-99"/>1954年には芦ノ湖一周航路の免許を取得<ref name="rp546-72"/>、さらに1956年には大型の遊覧船を就航させた<ref name="rp679-99"/>。駿豆鉄道側ではこれに対して、1956年3月に有料道路通行契約が満了すると共に契約を破棄する」と通告し、契約満了後の同年7月以降には有料道路に遮断機を設けて登山バスの通行を阻止した<ref name="1995-192"/>。これは箱根観光船の大型船導入に対する報復で<ref name="1995-192"/>、後に[[箱根山戦争]]として広く知られ、[[獅子文六]]の小説『[[箱根山 (小説)|箱根山]]』の題材にもなった西武グループと[[小田急グループ]]の対立の始まりであった<ref name="rp546-72"/>。{{main|箱根山戦争#箱根観光船の進出|芦ノ湖遊覧船#歴史}}


その後、[[1959年]]に[[箱根ロープウェイ]]開通、小田急グループのみで芦ノ湖北岸へ到達できるようになったこと<ref name="rp679-99"/>、[[1961年]]に有料道路を神奈川県が買い上げた上で一般道路として開放した<ref name="rp679-99"/>ことで、事実上の抗争は終結<ref name="bjr58-28"/>、[[1968年]]には数多くあった訴訟案件決着がついた<ref name="bjr58-28"/>ことから、両社は以後共存してゆくことになる<ref name="rp679-99"/>。しかし、既に独自の周遊ルートを築いていたこともあり、小田原駅での観光客の呼び込みや箱根地区でのターミナルの違いなど、競合の構図は残った<ref name="bjr58-28"/>。
その後、互いに訴訟を起こして争う一方で、小田急側では[[1959年]]に[[箱根ロープウェイ]]開通させたことにより、小田急グループのみで芦ノ湖北岸へ到達できるようになった<ref name="rp546-72"/>。また、[[1961年]]に有料道路を神奈川県が買い上げた上で一般道路として開放した<ref name="rp546-72"/>ことで、抗争は事実上終結した<ref name="bjr58-28"/>数多くあった訴訟案件決着がついた[[1968年]]には西武と小田急のトップが友好的な協定に調印した<ref name="1995-207208"/>ことから、以後両社は共存してゆくことになる。しかし、既に独自の周遊ルートを築いていたこともあり、小田原駅での観光客の呼び込みや箱根地区でのターミナルの違いなど、競合の構図は残った<ref name="bjr58-28"/>。{{main|箱根山戦争#終結}}


これらの紛争の間にも、事業区域の拡大は進められた。1950年代には東海道本線と並行する路線が新設されたほか、[[1958年]]には[[定期観光バス]]の運行を開始している。また、1960年代には三島・沼津地区において[[東海自動車]]・富士山麓電気鉄道との免許争奪合戦も行われた<ref name="bjr58-21">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.21]]</ref>。
これらの紛争の間にも、事業区域の拡大は進められた。1950年代には東海道本線と並行する路線が新設されたほか、[[1958年]]には[[定期観光バス]]の運行を開始している<ref name="g100-68"/>。また、1960年代には三島・沼津地区において[[東海自動車]](現・[[東海バス]])・富士山麓電気鉄道改め富士急行(現・[[富士急シティバス]])との免許争奪合戦も行われた<ref name="bjr58-21"/>。


貸切バス事業においても拡大傾向は続き、[[1963年]]には[[名古屋市|名古屋]]にも営業所を設置した<ref name="bjr58-28"/>上で、1968年には箱根登山観光バスとして独立させている<ref name="bjr58-28"/>。
貸切バス事業においても拡大傾向は続き、[[1963年]]には[[名古屋市|名古屋]]にも営業所を設置した<ref name="bjr58-28"/>上で、1968年には[[箱根登山観光バス]]として独立させている<ref name="bjr58-28"/>。


=== モータリゼーションの波と事業再編成 ===
=== モータリゼーションの波と事業再編成 ===
1970年代に入ると、モータリゼーションの進展に伴い、路線バスの走行環境は悪化の一途をたどる<ref name="bjr58-29">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.29]]</ref>。特に登山バスの主たる路線は[[国道1号]]という幹線でありながらカーブの多い山岳道路を経由しており、観光客を乗せたマイカーが特定の道路に集中することによる渋滞<ref name="bjr58-29"/>とそれに伴う利用者減は、登山バスに対して深刻な影響を及ぼすものとなった。このため、[[1982年]]より中型車の導入が開始され、通勤通学路線の開拓を進めた<ref name="bjr58-29"/>他、[[1985年]]からは地域密着経営の一環として、沿線の小学生の絵画を車内に展示する「ギャラリーバス」の運行を開始した<ref name="bjr58-29"/>。一方で、1978年からは箱根旧街道経由のバスを毎日運行に切り替えた<ref name="bjr58-29"/>ほか、定期観光バスのコースを拡充したり、祭りに合わせて会員制ツアーバスの運行を行う<ref name="bjr58-29"/>など、新規需要の開拓に努めた。[[1998年]]5月からは、箱根地区の施設を巡る循環バスの運行を開始した。
1970年代に入ると、モータリゼーションの進展に伴い、路線バスの走行環境は悪化の一途をたどる<ref name="bjr58-29"/>。特に登山バスの主たる路線は[[国道1号]]という幹線でありながらカーブの多い山岳道路を経由しており、観光客を乗せたマイカーが特定の道路に集中することによる渋滞<ref name="bjr58-29"/>とそれに伴う利用者減は、登山バスに対して深刻な影響を及ぼすものとなった。このため、[[1982年]]より中型車の導入が開始され、通勤通学路線の開拓を進めた<ref name="bjr58-29"/>他、[[1985年]]からは地域密着経営の一環として、沿線の小学生の絵画を車内に展示する「ギャラリーバス」の運行を開始した<ref name="bjr58-29"/>。一方で、1978年からは箱根旧街道経由のバスを毎日運行に切り替えた<ref name="bjr58-29"/>ほか、定期観光バスのコースを拡充したり、祭りに合わせて会員制ツアーバスの運行を行う<ref name="bjr58-29"/>など、新規需要の開拓に努めた。[[1998年]]5月からは、箱根地区の施設を巡る循環バスの運行を開始した。


しかし、モータリゼーションの進行に加え、箱根地区を訪れる観光客自体が減少傾向となった<ref name="bjr58-30">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.30]]</ref>ことにより、バス事業をとりまく環境はさらに厳しくなったため、長距離路線の廃止や短縮などが行われた<ref name="bjr58-30"/>。また、[[1996年]]には秦野市内の登山バス路線については神奈川中央交通100%出資の[[湘南神奈交バス]]に移管<ref name="bjr58-30"/>、さらに[[1998年]]には沼津地区の路線バスを分社化の上沼津箱根登山自動車を設立した<ref name="bjr58-30"/>さらに、2002年10月には小田急グループ全体の再編成が行われた。沼津箱根登山自動車は全路線沼津東海バスに譲渡された上、[[沼津登山東海バス]]と改称された<ref name="bjr58-31">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.31]]</ref>ほか、熱海営業所は伊豆東海バスに統合された。残った箱根登山のバス部門は沼津箱根登山自動車に譲渡の上社名を'''箱根登山バス'''と改称した<ref name="bjr58-31"/>。
しかし、モータリゼーションの進行に加え、箱根地区を訪れる観光客自体が減少傾向となった<ref name="bjr58-30"/>ことにより、バス事業をとりまく環境はさらに厳しくなったため、長距離路線の廃止や短縮などが行われた<ref name="bjr58-30"/>。また、[[1996年]]には秦野市内の登山バス路線については神奈川中央交通100%出資の[[湘南神奈交バス]]に移管<ref name="bjr58-30"/>した。{{main|神奈川中央交通西・秦野営業所#所管路線|湘南神奈交バス#秦野営業所}}


一方で、静岡県内では[[1971年]](昭和46年)、東海自動車が小田急グループ入りしたことで小田急系バス会社が2社併存することになる。非効率な状態を解消し、将来的な東海自動車の地域別分社化の際には統合させることも視野に入れて、[[1998年]](平成10年)4月1日付で沼津・三島地区の一般路線を分社化の上'''沼津箱根登山自動車'''を設立した<ref name="bjr58-30"/>。法的にはこの時をもって現社設立としている。{{see also|東海自動車#伊豆急行線の開業と小田急グループ入り}}
貸切バス事業についても、東京・横浜の各営業所については1996年に箱根登山観光バスに移管<ref name="bjr58-30"/>、[[1997年]]には横浜と東京の各営業所を移転の上統合した<ref name="bjr58-30"/>が、同社は2002年には営業を廃止した<ref name="bjr58-31"/>。また、小田原観光営業所の貸切バス事業は[[1994年]]設立の箱根湯本バスに移管された<ref name="bjr58-30"/>後に、2000年に[[箱根登山観光バス|湘南箱根登山自動車]]に社名変更した<ref name="bjr58-31"/>。その後、2010年には湘南箱根登山自動車を箱根登山観光バスに社名変更している<ref name="company">{{cite web| url = http://www.hakonetozan-charterbus.co.jp/company.html| title = 会社概要|publisher=[http://www.hakonetozan-charterbus.co.jp 箱根登山観光バス]| accessdate = 2010-12-27}}</ref>。


さらに、2002年(平成14年)10月には[[小田急グループ]]全体の再編成が行われた。沼津箱根登山自動車の路線は全路線が沼津東海バスに譲渡された上、'''沼津登山東海バス'''と改称された<ref name="bjr58-31"/>ほか、熱海営業所は[[東海バス熱海営業所|伊豆東海バス]]に統合された。残った箱根登山のバス部門は法人格上存続することになった沼津箱根登山自動車に譲渡、社名を'''箱根登山バス'''と改称した<ref name="bjr58-31"/>{{refnest|group="注釈"|この事業再編の結果、箱根登山バスは、小田急箱根ホールディングスの下で箱根登山鉄道・箱根ロープウェイ・箱根観光船と並列に位置することになる<ref name="rj480-107"/>。}}。これによって、静岡県内の路線バス事業からは撤退し、営業拠点は消滅した。
2004年度には、小田急グループと西武グループとの協力体制構築が発表された<ref name="bjr58-31"/>ことを受け、[[伊豆箱根バス|伊豆箱根鉄道バス]]とは共同歩調をとることになり、停留所名の統一などが行われた<ref name="bjr58-31"/>。さらに、2010年6月15日からは、伊豆箱根バス・小田急箱根高速バス・沼津登山東海バスと連携し、箱根地区の路線に[[系統番号 (バス)|系統記号]]を設定し、路線図も各社共通の様式で作成した上で各停留所や案内所で掲出することになった<ref name="oer20100615">{{cite press release| url = http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/5473_4627422_.pdf| title = 箱根エリアバス路線の系統記号化を実施します|publisher=[http://www.odakyu.jp/ 小田急電鉄]| accessdate = 2010-06-14}}</ref>。


貸切バス事業についても、東京・横浜の各営業所については1996年に箱根登山観光バスに移管<ref name="bjr58-30"/>、[[1997年]]には横浜と東京の各営業所を移転の上統合した<ref name="bjr58-30"/>が、同社は2002年には営業を廃止した<ref name="bjr58-31"/>。また、小田原観光営業所の貸切バス事業は[[1994年]](平成6年)設立の箱根湯本バスに移管された<ref name="bjr58-30"/>後に、2000年に[[箱根登山観光バス|湘南箱根登山自動車]]に社名変更した<ref name="bjr58-31"/>。その後、2010年には湘南箱根登山自動車を箱根登山観光バスに社名変更している<ref name="company"/>。{{main|箱根登山観光バス#沿革|東海自動車#地域分社化と再統合}}
=== 年表 ===

* [[1912年]][[3月1日]] 小田原電気鉄道が貸切自動車営業を開始。
一方、2002年には登山電車と登山バスに共通のプリペイドカードとして「とざんカード」を導入し<ref name="bjr58-31"/>、同時に[[バス共通カード]]も導入した<ref name="bjr58-31"/>が、2005年度にはICカード化の流れで「とざんカード」の販売は中止された<ref name="bjr58-31"/>。2005年3月からは、箱根湯本駅と宿泊施設との間で観光客の手荷物を託送する「箱根キャリーサービス」の運営を開始した<ref name="rj480-108"/>。
* [[1914年]][[8月15日]] [[富士屋ホテル]]が富士屋自働車を開業。当初は貸自動車業(現在のハイヤー)を営む。

* [[1915年]] 富士屋自働車がホテル顧客限定ながら横浜山下町-箱根宮ノ下間で乗合自動車を運行。(神奈川県のバス事業の嚆矢)
2004年度には、小田急グループと[[西武グループ]]との協力体制構築が発表された<ref name="bjr58-31"/>ことを受け、[[伊豆箱根バス|伊豆箱根鉄道バス]]とは共同歩調をとることになり、停留所名の統一などが行われた<ref name="bjr58-31"/>。さらに、[[2010年]](平成22年)6月15日からは、伊豆箱根バス・[[小田急箱根高速バス]]・沼津登山東海バスと連携し、箱根地区の路線に[[系統番号 (バス)|系統記号]]を設定し、路線図も各社共通の様式で作成した上で各停留所や案内所で掲出することになった<ref name="oer20100615"/>。{{see also|箱根山戦争#その後の展開|伊豆箱根バス小田原営業所#現行路線}}
* [[1919年]][[6月1日]] 富士屋自働車が[[国府津駅]]-箱根町間で乗合自動車を開業。

* [[1921年]]7月 小田原電気鉄道が小涌谷-箱根間で乗合自動車の運転を開始。
[[2016年]](平成28年)4月1日、沼津登山東海バスは'''東海バスオレンジシャトル'''に社名変更<ref name="shamei">{{Cite web|和書|url=https://www.tokaibus.jp/page.jsp?id=7768|format=|publisher=[[東海自動車]]|title=社名変更について|date=|accessdate=2016-04-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160426052839/https://www.tokaibus.jp/page.jsp?id=7768|archivedate=2016-04-26|url-status=dead|url-status-date=2020-05}}</ref>。静岡県内拠点の消滅後も社名の上にあった登山バスの名残が消えた。{{see also|東海バス沼津営業所#歴史}}
* [[1933年]] 箱根登山鉄道が富士屋自働車へ自動車事業を譲渡。同社は箱根登山鉄道の関連会社となり、富士箱根自動車と改称。

* [[1944年]] 箱根登山鉄道が富士箱根自動車および足柄自動車を合併(バス事業に再参入)。
[[2020年]]([[令和]]2年)[[2月1日]]、[[箱根登山観光バス]]を[[合併 (企業)#吸収合併|吸収合併]]した<ref name="merger">{{Cite web|和書|url=https://cops.ssl-odakyu.jp/www.hakone-tozanbus.co.jp/wp-content/uploads/2019/11/d2ed6821d9b46711e627ed37dab99c49.pdf|format=PDF|publisher=箱根登山バス・[[箱根登山観光バス]]|title=箱根登山バス株式会社と箱根登山観光バス株式会社の合併に関するお知らせ|date=2019-11-08|accessdate=2020-05-03}}</ref>。
* [[1996年]][[4月1日]] 秦野地区の路線を、同じ[[小田急グループ]]傘下の[[湘南神奈交バス]]に移管。

* [[1998年]][[6月4日]] 沼津地区の路線を「沼津箱根登山自動車株式会社」として分社化。
[[2024年]](令和6年)4月1日、小田急箱根グループの再編に伴い、親会社が小田急箱根ホールディングスから[[小田急箱根]](旧:箱根登山鉄道)に変更<ref name="pr20240124">{{Cite press release |title=小田急箱根グループの組織再編に関するお知らせ |publisher=小田急箱根ホールディングス株式会社(当時) |date=2024-01-24 |url=https://www.odakyu-hakone.jp/common/pdf/20240124_info.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2024-01-24 |archive-url=https://web.archive.org/web/20240124061915/https://www.odakyu-hakone.jp/common/pdf/20240124_info.pdf |archive-date=2024-01-24 |quote= |ref=}}</ref>。箱根登山バスは箱根地区以外でも事業を展開しているため、統合のメリットが限定的であるなどの理由から、合併の対象からは外れることとなった<ref>{{Cite web |title=「箱根登山鉄道」社名消滅へ 会社統合で96年の歴史に幕 何が変わる?バスはどうなる? |url=https://trafficnews.jp/post/130610 |website=乗りものニュース |date=2024-01-24 |access-date=2024-01-25 |language=ja}}</ref>。
* [[1999年]]7月 貸切部門を、箱根湯本バス株式会社(その後[[箱根登山観光バス|湘南箱根登山自動車株式会社]]に社名変更)と沼津箱根登山自動車株式会社に移管。

* [[2002年]]2月 東京・名古屋で営業をしていた「箱根登山観光バス株式会社」を清算。沼津箱根登山自動車の貸切営業を廃止。
== 事業内容 ==
* 2002年[[10月1日]] 箱根登山鉄道株式会社のバス部門を全て分社化する会社再編を実施。静岡県内の路線を、同じ小田急グループ傘下の[[東海自動車|東海バス]]グループに移管。熱海地区の路線を[[伊豆東海バス]]に譲渡。沼津箱根登山自動車の路線を沼津東海バスに移管(沼津東海バス株式会社は[[沼津登山東海バス|沼津登山東海バス株式会社]]に商号変更)。残りの箱根登山鉄道のバス路線を'''箱根登山バス株式会社'''(沼津箱根登山自動車株式会社から商号変更)に譲渡。
=== バス事業 ===
* 2007年[[3月18日]] [[PASMO]]導入
; 路線バス:2008年の時点では、営業区域は[[小田原市]]・[[箱根町]]を中心に<ref name="br110-39"/>、足柄地域([[南足柄市]]・[[開成町]]・[[松田町]])<ref name="br110-39"/>や[[真鶴町]]<ref name="br110-40"/>・[[湯河原町]]<ref name="br110-40"/>を主な営業エリアとしている。一部路線は[[静岡県]][[御殿場市]]や[[熱海市]]にも乗り入れる。かつては[[沼津市]]にもバス路線を開設していたが、小田急グループ内での事業再編に伴い他社への移管が行われている<ref name="bjr58-31"/>。
* 2008年[[9月1日]] [[ファンタスティックバス|レトロ調バス]]「スカイライト」2台導入。
; 貸切バス:2008年時点では7台が稼動している<ref name="br110-39"/>が、そのうち5台は小田原養護学校の[[スクールバス]]<ref name="br110-51"/>、1台が企業送迎用<ref name="br110-47"/>で、一般貸切車両は大型バス1台のみである<ref name="br110-43"/>。
* 2010年[[6月15日]] 箱根地区の路線に運行各社と連携し系統記号を導入<ref name="oer20100615"/>。
; 特定バス:2008年時点では8台が稼動している<ref name="br110-39"/>が、そのうち3台は箱根町立箱根の森小学校のスクールバス<ref name="br110-49"/>。富士フイルム系列企業の輸送も行っている<ref name="br110-43"/>。
* 2010年[[7月31日]] [[バス共通カード]]の取り扱いを終了。

=== その他事業 ===
; 箱根キャリーサービス:箱根を訪れる観光客の荷物を箱根湯本駅から提携している宿泊施設へ、また宿泊施設から箱根湯本駅へと託送するサービスで、2005年3月から開始された<ref name="rj480-108"/>。


== 営業所 ==
== 営業所 ==
以下の営業所を拠点として路線バスの運行を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozanbus/office/ |title=営業所のご案内 |access-date=2022-10-26 |publisher=[[小田急箱根ホールディングス|箱根ナビ]]}}</ref>。
* [[箱根登山バス小田原営業所|小田原営業所]](小田原営業所と小田原観光営業所の路線バス部門を統合)
; [[箱根登山バス小田原営業所|小田原営業所]]:小田原営業所と小田原観光営業所の路線バス部門を統合。2022年10月16日に、関本営業所を統合<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.hakonenavi.jp/_wp/wp-content/uploads/2022/09/754c503343c6d5edba271d7440c3ab4b-1.pdf |title=営業所の再編について |access-date=2022-10-26 |publisher=箱根ナビ}}</ref>。
: 所在地…神奈川県小田原市東町5-33-1
* [[箱根バス小田原営業所|宮城野営業所]](小田原観光営業所宮城野出張所を格上げ)
; 箱根山営業所:2022年10月16日に、湯本営業所宮城野営業所を統合<ref name=":0" />。

: 所在地…神奈川県足柄下郡箱根町宮城野618-1
* [[箱根登山バス関本営業所|関本営業所]](足柄営業所統合後に再分離)
;[[箱根登山バス湯河原営業所|湯河原営業所]]
:1956年5月に開設<ref name="g100-89" />。
: 所在地…神奈川県南足柄市関本588
* [[箱根登山バス湯河原営業所|湯河原営業所]]
: 所在地…神奈川県足柄下郡湯河原町城堀12-1


=== 過去に存在した営業所 ===
=== 過去に存在した営業所 ===
* 小田原観光営業所路線バス部門は小田原営業所に統合、貸切部門は箱根湯本バスに移管後[[湘南箱根登山自動車]]に商号変更
; 小田原観光営業所:1963年1月16日に開設<ref name="g100-89"/>。路線バス部門は小田原営業所に移管、貸切部門は1999年に箱根湯本バスに移管後<ref name="bjr58-30"/>、2000年に[[湘南箱根登山自動車]]に商号変更<ref name="bjr58-3031"/>。
* 熱海営業所[[伊豆東海バス]]に譲渡
; 熱海営業所:2002年10月に[[東海バス熱海営業所|伊豆東海バス]]に譲渡<ref name="bjr58-31"/>。
* 沼津営業所沼津箱根登山自動車離後、[[沼津登山東海バス]]に譲渡)
; 沼津営業所:1958年6月1日に開設<ref name="g100-89"/>。[[1998年]]には沼津箱根登山自動車として社化<ref name="bjr58-30"/>2002年10月に沼津東海バスに移管され[[東海バス沼津営業所|沼津登山東海バス]]と改称<ref name="bjr58-31"/>。
* 横浜観光営業所箱根登山観光バスに移管され、関東支店神奈川営業所となった後に東京営業所に統合
; 横浜観光営業所:1996年に箱根登山観光バスに移管され、関東支店神奈川営業所となる<ref name="bjr58-30"/>。1997年に東京営業所に統合して廃止<ref name="bjr58-30"/>。
* 東京営業所(箱根登山観光バスに移管され、関東支店東京営業所となった後、[[神奈中観光]]に譲渡
; 東京営業所:1953年に設立された新光バスを1956年に箱根登山バス初代)に改称し<ref name="g100-89"/>、1960年に合併<ref name="g100-89"/>。箱根登山観光バスに移管され、関東支店東京営業所となった後、神奈中ハイヤー(現・[[神奈中観光]]車両・乗務員ごと譲渡。これに伴って、神奈中ハイヤーは町田営業所を[[神奈川中央交通町田営業所|野津田車庫]]より移転。現在の神奈中観光東京営業所。
* 名古屋営業所箱根登山観光バスに譲渡後廃止
; 名古屋営業所:1964年3月1日に新設<ref name="g100-90"/>。1968年8月1日に箱根登山観光バス(初代)に移管された<ref name="g100-90"/>が、2002年に廃止<ref name="bjr58-31"/>。

;[[箱根登山バス小田原営業所|宮城野営業所]]
:2005年5月に小田原観光営業所宮城野出張所を格上げして新設<ref name="bjr58-31" />。2022年10月16日をもって、案内所へ移行<ref name=":0" />。

;[[箱根登山バス関本営業所|関本営業所]]
:1921年5月22日に足柄自動車として開設<ref name="g100-86" />。その後小田原観光営業所に統合されるが、足柄営業所統合後に再分離。2022年10月16日をもって、小田原営業所に統合され、案内所へ移行<ref name=":0" />。

;[[箱根登山観光バス|'''湯本営業所''']]
:2022年10月16日をもって、案内所へ移行<ref name=":0" />。


== 車両 ==
== 車両 ==
=== 車両史 ===
[[ファイル:Hakonetozanbus B928.jpg|thumb|right|250px|定期観光バス兼用車 B928]]
{{Double image aside|right|Fujiya Motors car White.jpg|170|Fujihakone Saurer.jpg|166|富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車が初期に導入した「ホワイト」|富士箱根自動車の「サウラー」}}
=== 車両概説 ===
路線バス車両は、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車では当初は[[ビュイック]]の乗用車を利用し、ラジエター上に行き先を掲出しただけであった<ref name="1995-119"/>。富士屋ホテルの宿泊客から意見を集めた上で、アメリカの高級車[[ホワイト]]<!--アメリカの自動車メーカーの記事がまだないようなのでとりあえず-->を導入した<ref name="1995-119"/>。当初はシャーシのみ輸入し、車体は日本国内で製造させていた<ref name="1995-120"/>が、1923年にはアメリカのベンダー車体製造に依頼して製造させた車体をホワイトに架装して輸入<ref name="1995-147"/>、さらに詳細な図面を取り寄せた上で[[日本自動車]]に依頼して、日本国内で車体を製造させた<ref name="1995-147"/>。これがその後日本国内で製造されるバス車体の原型となったといわれている<ref name="1995-147"/>。
いすゞ・日野・三菱の3メーカーを導入している<ref name="bjr58-32">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.32]]</ref>。箱根地区の道路環境から、自社導入の大型車は全て短尺の高出力車を採用している<ref name="bjr58-33">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.33]]</ref>。また、貸切車については、全て[[空気ブレーキ|フルエアブレーキ]]仕様である<ref name="bjr58-33"/>。排気ブレーキの使用頻度が高いため、日野RE100・RV731系では排気ブレーキのスイッチをハンドルの左側に取り付ける改造が施工されていた。

一方、箱根登山鉄道の自動車部門では、富士屋自働<!--「働」は誤字や誤変換にあらず-->車に対抗して、スイス製の高級車である[[サウラー]]が導入された。この車両は右ハンドル仕様ではあった<ref name="br6-93"/>が、スイス国内で使用される車両と同様にオープンタイプで<ref name="br6-93"/>、車体も含めて全てスイスから輸入されたものと推測されている<ref name="br6-93"/>。[[五十嵐平達]]は「活躍<!--ここは五十嵐氏の書いた部分なので、そのまま引用しているので直さないでください-->した場所から考えても、1930年代の遊覧バスを代表する1台」であるとしている<ref name="br6-93"/>。富士箱根自動車となってからもサウラーなどの大型車が導入された<ref name="bjr58-26"/>。

戦時中は他社と同様に代用燃料に対応させた車両が使用されたが、代用燃料車両では箱根を登りきることができず、宮ノ下で別のバスに乗換えを余儀なくされたという<ref name="1995-173"/>。

戦後にはディーゼルバスが順次導入され、1953年からは日野自動車(日野)のセンターアンダフロアエンジン車が大量導入された<ref name="bjr58-27"/>。

=== 1970年代以降の車両概説 ===
<!--車両の記述には出典を明記していただきますようお願いします-->
[[ファイル:Hakone Tozan Bus B174 Marugoto Hakone Selega Hybrid.jpg|thumb|right|250px|定期観光バス専用車 B174]]
1970年代頃は日野と日産ディーゼルの台数が多かった<ref name="br110-46"/>が、2008年時点ではいすゞ・日野・三菱の3メーカーを導入している<ref name="br110-47"/>。箱根地区の道路環境から、自社導入の大型車は全て短尺の高出力車を採用している<ref name="bjr58-33"/>。また、貸切車については、全て[[空気ブレーキ|フルエアブレーキ]]仕様である<ref name="bjr58-33"/><ref group="注釈">[[排気ブレーキ]]の使用頻度が高いため、日野RE100・RV731系では排気ブレーキのスイッチをハンドルの左側に取り付ける改造が施工されていた。</ref>。車両のタイヤは年間を通じて[[スタッドレスタイヤ]]を装着し<ref name="br110-44"/>、毎年冬に交換する<ref name="br110-44"/>ほか、状況に応じて[[タイヤチェーン]]を併用する<ref name="br110-44"/>。


箱根登山バスの路線バスの特徴として、トップドア車(乗降扉が前方1つだけ)であってもドアの直後の窓には側面方向幕を設置せず、1つ後の窓部分に設置するという独特の仕様が挙げられる<ref name="bjr58-33"/>。これは、方向幕の大型化に伴い、急カーブで極力視界を確保するためとされている<ref name="bjr58-33"/>。
箱根登山バスの路線バスの特徴として、トップドア車(乗降扉が前方1つだけ)であってもドアの直後の窓には側面方向幕を設置せず、1つ後の窓部分に設置するという独特の仕様が挙げられる<ref name="bjr58-33"/>。これは、方向幕の大型化に伴い、急カーブで極力視界を確保するためとされている<ref name="bjr58-33"/>。大型ノンステップバスは山間部では走りにくいという理由で小田原市内路線に投入 されている<ref name="br110-44"/>。


[[定期観光バス]]を運行していることから、標準床ながらオールリクライニングシートの観光仕様路線車も導入しているが、当初から路線・定期観光の兼用として導入された車両と、貸切・定期観光から路線車に格下げされた車両がある。2010年には、同社では11年ぶりとなる<ref name="br119-8">[[#br119|『バスラマ・インターナショナル』通巻119号 p.8]]</ref>定期観光バスの更新と同時に、神奈川県内では初導入となる<ref name="br119-8"/>[[日野・セレガ|日野セレガハイブリッド]]を導入している<ref name="br119-8"/>。
[[定期観光バス]]を運行していることから、標準床ながらオールリクライニングシートの観光仕様路線車も導入している<ref name="bjr58-33"/>。2010年には、同社では11年ぶりとなる定期観光バスの車両更新<ref name="br119-8"/>と同時に、神奈川県内では初導入となる<ref name="br119-8"/>[[日野・セレガ|日野セレガハイブリッド]]を導入している<ref name="br119-8"/>。


乗降方式は車両の扉位置にかかわらず前乗り前降りである<ref name="bjr58-33"/>。中扉車両については、以前は締切扱いにした譲受車の中には中扉埋めもあったが[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]施行以後は、中扉は車椅子専用の出入口として使用している。
乗降方式は車両の扉位置にかかわらず前乗り前降りである<ref name="bjr58-33"/>。ため、ベビーカーは折りたたんで乗降す<ref>[http://www.hakone-tozanbus.co.jp/how/user.html 箱根登山バス. ご利用のお客様へ]</ref>。扉配置は、ワンマン化初期は前中扉仕様<ref group="注釈" name="前中扉">前扉と中扉を配置した仕様。</ref>が採用されていた<ref name="bjr58-28"/>が後前後扉仕様<ref group="注釈" name="前扉"/>変わり<ref name="bjr58-29"/>、さらに1980年代以降座席定員極力増加させるめに前扉仕様<ref group="注釈" name="前扉">前扉みを配置し仕様。</ref>標準となった<ref name="br110-47"/>。2002年以降は[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]に準拠した前中扉仕様<ref group="注釈" name="前中扉"/>となり<ref name="br110-44"/>、中扉は車椅子専用の出入口として使用している<ref name="br110-47"/>
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画像:U-LV318L-Tozan-B839.jpg|方向幕が前から2番目の窓にあるのが自社発注車の特徴 B839(過去の車両)
画像:U-LV318L-Tozan-B839.jpg|方向幕が前から2番目の窓にあるのが自社発注車の特徴 B839(過去の車両)
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=== カラーリング ===
=== カラーリング ===
戦後に採用されたカラースキムは、クリーム色の上下に青い帯が入るものであったが、1980年からは白ベースに青の濃淡2色と赤のラインが入るものになった<ref name="bjr58-35">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.35]]</ref>。しかし、塗装パターンが比較的複雑である上に特別色も含まれていることからコストが高く<ref name="bjr58-35"/>、2000年代には「ハートフルバスとざん」色や試験塗色の採用なども行われた。2010年の新車からは、クリーム色ベースで灯火をイメージするオレンジ色(同社では「柿渋色」と呼称)の帯を配した上、箱根細工をイメージするデザインに変更されることになった<ref name="tozan0103">{{cite web
戦後に採用されたカラースキムは、クリーム色の上下に青い帯が入るものであったが、1980年からは白ベースに青の濃淡2色と赤のラインが入るものになった<ref name="bjr58-35"/>。しかし、塗装パターンが比較的複雑である上に特別色も含まれていることからコストが高く<ref name="bjr58-35"/>、2000年代には「ハートフルバスとざん」色や試験塗色の採用なども行われた<ref name="br110-47"/>。2010年の新車からは、クリーム色ベースで灯火をイメージするオレンジ色(同社では「柿渋色」と呼称)の帯を配した上、箱根細工をイメージするデザインに変更されることになった<ref name="tozan0103"/>。これまでの塗装デザインの車両については塗り替えは行わない<ref name="tozan0103"/>。
| url = http://www.hakone-tozanbus.co.jp/images/information/pdf/pdf_126991512503.pdf| title = 箱根登山バス新ボディーカラーの導入について|publisher=[http://www.hakone-tozanbus.co.jp/ 箱根登山バス]| format = PDF| accessdate = 2010-06-14}}</ref>。これまでの塗装デザインの車両については塗り替えは行わない<ref name="tozan0103"/>。
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画像:BU10D-Tozan-B530.jpg|1980年代までの旧塗色 B530(過去の車両・神奈川中央交通からの譲受車)
画像:BU10D-Tozan-B530.jpg|1980年代までの旧塗色 B530(過去の車両・神奈川中央交通からの譲受車)
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Image:KC-MP317K Tozan B917.jpg|試験塗色車 B917
Image:KC-MP317K Tozan B917.jpg|試験塗色車 B917
File:KK-LR233J1 Tozan B951 front.jpg|箱根施設めぐりバス専用車 B951
File:KK-LR233J1 Tozan B951 front.jpg|箱根施設めぐりバス専用車 B951
ファイル:HakoneTozanKanko39.jpeg|[[箱根登山観光バス]]の吸収合併に伴い、箱根登山バスに移籍してきた箱根温泉旅館組合シャトル
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=== 譲受車・譲渡車 ===
=== 譲受車・譲渡車 ===
1970年代から2000年代初頭までは、[[都営バス|東京都交通局]]・[[神奈川中央交通]]・[[長崎自動車]]からの譲受車や、東京都交通局の注文流れの車両を導入していた。近年は排出ガス規制強化に対応するため車両の更新は全て新車によって行なわれている。20077月現在、最も古い車両も1996式で、逆他社へ譲渡される事もみれる。最近では、グループ会社の東海バスへの譲渡が多い<ref name="bjr58-32"/>。
1970年代から2000年代初頭までは、[[都営バス|東京都交通局]]・[[神奈川中央交通]]・[[長崎自動車]]からの譲受車や、東京都交通局の注文流れの車両を導入していた。近年は神奈川県生活環境の保全等に関する条例([[ディーゼル車規制条例]])に対応するため車両の更新は全て新車によって行なわれている。2008時点は12以内代替されており<ref name="br110-47"/>、同条の規制を受けないことから、グループ会社の[[東海バス]]への譲渡が多い<ref name="bjr58-32"/>。
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File:K-CJM550-Tozan-B757.jpg|神奈川中央交通からの譲受車 B757(過去の車両)
File:K-CJM550-Tozan-B757.jpg|神奈川中央交通からの譲受車 B757(過去の車両)
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=== 車両番号 ===
=== 車両番号 ===
車種頭文字(B:路線、BH:貸切、特:特定車)の後に3桁の連番となる。2001年から2003年までの導入車両については、営業所頭文字(K:小田原観光、T:(2001年当時の)熱海、Y:湯河原、A:足柄)+年式記号(A:2001年、B:2002年、C:2003年)+2桁の連番となる附番方式を採用していた<!--ハンドブックシリーズR「58 東海自動車・箱根登山バス」-->が、2004年以降は2000年までの附番方式に戻されている。
小型車は001から099まで<ref name="br110-47"/>、中型車と大型車は100から999までの連番で<ref name="br110-47"/>、番号の前には車種頭文字(B:路線、BH:貸切、特:特定車)が付され<ref name="bjr58-60"/>。2001年から2003年までの導入車両については、営業所頭文字(K:小田原観光、T:(2001年当時の)熱海、Y:湯河原、A:足柄)+年式記号(A:2001年、B:2002年、C:2003年)+2桁の連番となる附番方式を採用していたが、2004年以降は2000年までの附番方式に戻されている<ref name="bjr58-60"/>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|3|refs=
<ref name="1995-98">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.98]]</ref>
<ref name="1995-109">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.109]]</ref>
<ref name="1995-110">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.110]]</ref>
<ref name="1995-111">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.111]]</ref>
<ref name="1995-112">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.112]]</ref>
<ref name="1995-113">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.113]]</ref>
<ref name="1995-114">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.114]]</ref>
<ref name="1995-118">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.118]]</ref>
<ref name="1995-119">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.119]]</ref>
<ref name="1995-120">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.120]]</ref>
<ref name="1995-121">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.121]]</ref>
<ref name="1995-123">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.123]]</ref>
<ref name="1995-124">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.124]]</ref>
<ref name="1995-142">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.142]]</ref>
<ref name="1995-143">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.143]]</ref>
<ref name="1995-146">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.146]]</ref>
<ref name="1995-147">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.147]]</ref>
<ref name="1995-149">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.149]]</ref>
<ref name="1995-151">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.151]]</ref>
<ref name="1995-155">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.155]]</ref>
<ref name="1995-156">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.156]]</ref>
<ref name="1995-157">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.157]]</ref>
<ref name="1995-160">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.160]]</ref>
<ref name="1995-173">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.173]]</ref>
<ref name="1995-179">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.179]]</ref>
<ref name="1995-180">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.180]]</ref>
<ref name="1995-181">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.181]]</ref>
<ref name="1995-182">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.182]]</ref>
<ref name="1995-192">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 p.192]]</ref>
<ref name="1995-207208">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』 pp.207-208]]</ref>
<ref name="rp546-72">[[#青木546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.72]]</ref>
<ref name="rp679-98">[[#青木679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.98]]</ref>
<ref name="rp679-99">[[#青木679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.99]]</ref>
<ref name="g100-39">[[#tozan100|『すばらしい箱根』 p.39]]</ref>
<ref name="g100-40">[[#tozan100|『すばらしい箱根』 p.40]]</ref>
<ref name="g100-41">[[#tozan100|『すばらしい箱根』 p.41]]</ref>
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<ref name="g100-86">[[#tozan100|『すばらしい箱根』 p.86]]</ref>
<ref name="g100-88">[[#tozan100|『すばらしい箱根』 p.88]]</ref>
<ref name="g100-89">[[#tozan100|『すばらしい箱根』 p.89]]</ref>
<ref name="g100-90">[[#tozan100|『すばらしい箱根』 p.90]]</ref>
<ref name="rj480-107">[[#野中2006|『鉄道ジャーナル』通巻480号 p.107]]</ref>
<ref name="rj480-108">[[#野中2006|『鉄道ジャーナル』通巻480号 p.108]]</ref>
<ref name="bjr58-21">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.21]]</ref>
<ref name="bjr58-25">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.25]]</ref>
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<ref name="bjr58-27">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.27]]</ref>
<ref name="bjr58-28">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.28]]</ref>
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<ref name="bjr58-30">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.30]]</ref>
<ref name="bjr58-3031">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 pp.30-31]]</ref>
<ref name="bjr58-31">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.31]]</ref>
<ref name="bjr58-32">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.32]]</ref>
<ref name="bjr58-33">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.33]]</ref>
<ref name="bjr58-35">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.35]]</ref>
<ref name="bjr58-60">[[#BJ2006|『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.60]]</ref>
<ref name="br6-93">[[#五十嵐br6|『バスラマ・インターナショナル』通巻6号 p.93]]</ref>
<ref name="br110-39">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.39]]</ref>
<ref name="br110-40">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.40]]</ref>
<ref name="br110-43">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.43]]</ref>
<ref name="br110-44">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.44]]</ref>
<ref name="br110-46">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.46]]</ref>
<ref name="br110-47">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.47]]</ref>
<ref name="br110-49">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.49]]</ref>
<ref name="br110-51">[[#br110|『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.51]]</ref>
<ref name="br119-8">[[#br119|『バスラマ・インターナショナル』通巻119号 p.8]]</ref>
<ref name="company">{{Cite web|和書| url = http://www.hakonetozan-charterbus.co.jp/company.html| title = 会社概要|publisher=[http://www.hakonetozan-charterbus.co.jp 箱根登山観光バス]| accessdate = 2010-12-27}}</ref>
<ref name="oer20100615">{{Cite press release|和書| url = http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/5473_4627422_.pdf| title = 箱根エリアバス路線の系統記号化を実施します|publisher=[http://www.odakyu.jp/ 小田急電鉄]| accessdate = 2010-06-14}}</ref>
<ref name="tozan0103">{{Cite press release|和書| url = http://www.hakone-tozanbus.co.jp/images/information/pdf/pdf_126991512503.pdf| title = 箱根登山バス新ボディーカラーの導入について|publisher=[http://www.hakone-tozanbus.co.jp/ 箱根登山バス]| format = PDF| accessdate = 2010-06-14}}</ref>
}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 社史 ===
* {{Cite book|和書|author =箱根登山鉄道株式会社総務部総務課 |authorlink = |coauthors = |year = 1988|title = すばらしい箱根 グラフ100|publisher = 箱根登山鉄道|ref = tozan100|id = |isbn = }}

=== 書籍 ===
=== 書籍 ===
<!--著者名順。著者名がないものは年順-->
* {{Cite book|和書|author = |authorlink = |coauthors = |year = 1988|title = すばらしい箱根 グラフ100|publisher = 箱根登山鉄道株式会社|ref = tozan100|id = |isbn = }}
* {{Cite book|和書|author = |authorlink = |coauthors = |year = 2006|title = [[バス・ジャパン|バスジャパン・ハンドブックシリーズR]]・58 東海自動車・箱根バス|publisher = BJエディターズ|ref = BJ2006|id = |isbn = 4434072730}}
* {{Cite book|和書|author =加藤利之 |authorlink = |coauthors = |year = 1995|title = 箱根山の近代交通 |publisher = [[神奈川新聞|神奈川新聞社]]|ref = 加藤1995|id = |isbn = 978-4876451890}}
* {{Cite book|和書|author = |authorlink = |coauthors = |year = 2006|title = 58 東海自動車・箱根登山バス|series =[[バス・ジャパン|バスジャパン・ハンドブックシリーズR]] |publisher = BJエディターズ|ref = BJ2006|id = |isbn = 4434072730}}


=== 雑誌記事 ===
=== 雑誌記事 ===
<!--著者名順。著者名がないものは年順-->
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* {{Cite journal|和書|author=[[五十嵐平達]] |year=1991 |month=7 |title=忘れえぬ1930年代の日本の遊覧バス|journal=[[バスラマ・インターナショナル]] |issue=6 |pages=92-93 |publisher=ぽると出版 |ref = 五十嵐br6|isbn =4938677067}}
* {{Cite journal|和書|author=野中祥史 |year=2006 |month=10|title=鉄道・軌道プロジェクトの事例研究54 小田急グループの箱根戦略 |journal= [[鉄道ジャーナル]]|issue=480 |pages= 106-108 |publisher= 鉄道ジャーナル社|ref = 野中480}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2008 |month=11 |title=バス事業者訪問123 箱根登山バス|journal=バスラマ・インターナショナル |issue=110 |pages=38-52 |publisher=ぽると出版 |ref = br110|isbn =978-4899801108}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2010 |month=3 |title=神奈川県第1号!箱根登山バスのセレガハイブリッド|journal=バスラマ・インターナショナル |issue=119 |page=8 |publisher=ぽると出版 |ref = br119|isbn =978-4899801191}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.hakone-tozanbus.co.jp/ 箱根登山バス] 公式サイト
* [https://www.odakyu-hakone.jp/group/ 小田急箱根グループ会社紹介] - [[小田急箱根ホールディングス]]公式サイト(箱根登山バスの会社紹介を含む)
* [https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozanbus/ 箱根登山バス] - 箱根ナビ Powered by 小田急箱根グループ
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2024年8月12日 (月) 04:19時点における最新版

小田急電鉄 > 小田急箱根 > 箱根登山バス
箱根登山バス株式会社
Hakone Tozan Bus Co., Ltd.
小田原営業所(左奥の建物が本社)
種類 株式会社
略称 箱根登山、登山バス
本社所在地 日本の旗 日本
250-0003
神奈川県小田原市東町五丁目33番地1号
北緯35度15分42.1秒 東経139度10分35.7秒 / 北緯35.261694度 東経139.176583度 / 35.261694; 139.176583座標: 北緯35度15分42.1秒 東経139度10分35.7秒 / 北緯35.261694度 東経139.176583度 / 35.261694; 139.176583
設立 1998年4月1日
(沼津箱根登山自動車株式会社)
業種 陸運業
法人番号 3021001033505 ウィキデータを編集
事業内容 旅客自動車運送事業、貨物自動車運送事業他
代表者 野村尚廣(代表取締役社長
資本金 1億円
(2019年3月期)[1]
売上高 32億5600万円
(2019年3月期)[1]
営業利益 2億4100万円
(2019年3月期)[1]
経常利益 2億4300万円
(2019年3月期)[1]
純利益 4億2,860万円
(2024年3月期)[2]
総資産 36億1,734万7,000円
(2024年3月期)[2]
従業員数 234名
主要株主 小田急箱根 100%
特記事項:小田急電鉄連結子会社
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路線バス

箱根登山バス株式会社(はこねとざんバス、: Hakone Tozan Bus Co., Ltd.)は、神奈川県小田原市に本社を設け、神奈川県小田原市および足柄下郡箱根町周辺を主な営業エリアとする、小田急グループのバス事業者である。小田急箱根の完全子会社。

1913年3月1日に開業した小田原電気鉄道の貸自動車業[3]と、1914年8月15日に開業した富士屋自働車の貸自動車業[4]を前身とし、1932年に両社が合併して富士箱根自動車となる[5]が、戦時中の交通事業統合の流れの中で1921年創業の足柄自動車とともに箱根登山鉄道(現:小田急箱根)に合併し、同社の自動車部門となった[6]。2002年10月には小田急グループ内での事業再編に伴い分社化された[7]

本項目では箱根登山鉄道のバス部門(自動車部)によって事業が行われていた時代についても記述する。

歴史

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創業期

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2012年現在の箱根登山バスが主な営業エリアとしている神奈川県西部において自動車業が開始されたのは、1912年明治45年)に営業を開始した箱根自動車の貸自動車業(ハイヤー)に端を発する[8]。この頃に日本国外からの旅行者が自動車で箱根を訪れるようになっていた[8]が、小田原電気鉄道の終点であった湯本駅の駅前にて茶屋を経営していたうちの1軒で、その親族が貸自動車業を開始したものである[8]。これに驚いた小田原電気鉄道では、翌1913年大正2年)3月1日より貸自動車業に参入した[3]。当初の車両数は5台で、国府津駅から強羅までと、芦ノ湖畔の箱根町を結ぶ区間での営業であった[3]。これらの貸自動車業は、それまで人力車夫や駕籠かきからは脅威として受け止められ[9]、路上にガラス片をまかれたり投石されたりといった運行妨害を受けることもあった[10]

創業当時の富士屋自働車の貸自動車

この1913年の夏、富士屋ホテルでの滞在を終えて帰任するアメリカ陸軍少佐から予約を受けたにもかかわらず小田原電気鉄道の貸自動車が約束した時間よりも遅れて配車されるという事態が発生した[11]。この陸軍少佐は辛うじて国府津駅から予定の列車に乗車し、無事に帰任できた[11]ものの、帰任後に富士屋ホテルに対して「一流ホテルとしては、ホテル専属の自動車を所有すべき」と意見書を送った[4]。当時、富士屋ホテルの取締役であった山口正造はこれに応えるべく翌1914年(大正3年)8月15日、富士屋自働車を設立した[4]。富士屋自働車は運転士に礼儀作法と英語を学ばせた上、当時としてはモダンな制服を着用させた[12]。また、それまで人力車夫や駕籠かきを営業していたものに対して、富士屋自働車の株主になることを薦めた[12]

富士屋自働車では貸自動車だけではなく、乗合自動車の運行を行なう構想を抱いており[13]、1915年(大正4年)8月には国府津駅と箱根地区を結ぶ乗合自動車、1917年(大正6年)6月には小田原と熱海を結ぶ乗合自動車の運行許可を得ていた[14]。貸自動車業を開始した際にも反対運動があった経験から[13]、乗合自動車の運行については慎重に時機をうかがうこととした[14]。なお、箱根で最初に貸自動車業を開始した箱根自動車は、1919年に富士屋自働車に買収された[15]

富士屋自働車の乗合自動車 小田原電気鉄道の乗合自動車 創業当時の足柄自動車
富士屋自働車の乗合自動車
小田原電気鉄道の乗合自動車
創業当時の足柄自動車

その後、1912年に小田原電気鉄道が湯本から強羅までを結ぶ登山鉄道の工事を開始した[16]が、登山電車の開通は貸自動車業にとっては脅威であり、それに対抗するためには乗合自動車の運行を行なう必要があると考えられた[13]。そこで、富士屋自働車は登山電車の運行を待つこととし、1919年6月1日より国府津駅から宮ノ下、宮ノ下から箱根町において乗合自動車(路線バス)の運行を開始した[17]。これが神奈川県下においても初となる本格的な路線バス運行であった[14]が、同時に、鉄道とバスの競合の始まりでもあった[18]。富士屋自働車では高級車両を投入し[18]、横浜や東京に至る長距離路線の運行も開始した[18]。対する小田原電気鉄道は、小涌谷から箱根町まで、自社の登山電車に接続する路線バスの運行を1921年(大正10年)より開始した[5]。一方、同年5月22日には足柄自動車が松田町で設立された[19]

登山電車で小田原から宮ノ下までの運賃が下等で61銭で、それでも下りは歩いて湯本に戻る利用客も多かった状況では、小田原から宮ノ下まで1円80銭もの運賃が設定された路線バスの利用者はさらに少なかった[17]。このため、富士屋自働車では1922年には運賃の値下げを行い、小田原から宮ノ下までのバス運賃は1円となった[20]。また、同年には小田原駅前に営業所を併設した食堂・売店として「カフェ・レゾート」をオープンさせた[21]。一方の小田原電気鉄道側も運賃を値下げして対抗するなど、激しい乗客争奪が展開された[22]。同年12月3日には両社の社員同士が乱闘事件を起こし[23]、4人が傷害罪で送検された[23]

1923年9月1日に発生した関東大震災によって、富士屋自働車では前年に完成したばかりの「カフェ・レゾート」が倒壊[21]、車庫にあった数十台の自動車も破壊された[21]。また、湯本と塔ノ沢の間では乗客5人を乗せた自動車が崖崩れにより埋没し行方不明となり[21]底倉にある蛇骨川の橋を渡っていた自動車が谷底へ転落する[24]など、保有していた自動車の半数近くが失われるという被害を受けた[24]

競合の末の合併から戦時統合まで

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当時の富士屋自働車の路線図

震災後、富士屋自働車は復旧とともに車両の改良に注力した[25]。1924年には当時としては超大型となる25人乗りのバスを導入し[26]、1925年から実際に運行を開始している[26]。また、1924年には三島沼津にまで路線網を拡大した[5]ほか、震災以来中断されていた横浜と箱根を結ぶ路線の運行も再開されている[26]。一方の小田原電気鉄道も1927年までにはほぼ復旧している[27]。なお、小田原電気鉄道は1928年(昭和3年)1月にいったん日本電力に合併した[5]あと、同年8月に再度箱根登山鉄道として分社化された[5]

鉄道やバスの復旧とともに、再び激しい乗客争奪が展開されることになった。小田原駅前では富士屋自働車の社員は「乗り換えなしで箱根へ」と宣伝[28]、一方の箱根登山鉄道の社員は「電車の方が静かで安い」と声を上げ[28]、観光客を自社へ誘導した。時には観光客の手を引っ張りあい[29]、ひどい時には互いの社員同士が殴り合いを始める始末だった[29]

富士屋自働車の高級車「ホワイト」 箱根登山鉄道の高級車「サウラー」
富士屋自働車の高級車「ホワイト」
箱根登山鉄道の高級車「サウラー」

箱根登山鉄道が1929年には国府津まで、1931年には箱根湯本と箱根町を結ぶ自社鉄道線と並行する路線バスの運行に至り[5]、小田原駅前に乗り入れるようになると、この2社の競合はさらにエスカレートし、現地での社会問題にまで発展した[5]。富士屋自働車はアメリカ製の高級バス「ホワイト」を導入[29]、対する箱根登山鉄道はスイス製の高級バス「サウラー」を導入し[29]、女性の車掌が自社のバスに乗せようと大声を上げる有様であった[29]

ここにきて、小田原市や警察署長、さらには鉄道省が両社の合併を再三にわたって勧奨する事態になり[29]1932年には京阪電気鉄道の社長であった太田光凞の仲介により[5]両社のバス事業を統合することになった。こうして、1933年1月に箱根登山鉄道のバス事業全てが富士屋自働車に譲渡され、富士屋自働車は社名を富士箱根自動車[30]に変更した[5]1934年(昭和9年)6月8日には足柄自動車を傘下に組み入れた[5]

なお、富士屋自働車は1931年には省線との連帯運輸を開始した[5]が、乗合自動車が省線と連絡運輸を行ったのは、日本ではこれが初めての事例である[31]

しかし、戦時体制の波は富士箱根自動車にも影を落とすことになる[5]1935年(昭和10年)に電力統制が行われると、富士箱根自動車は箱根登山鉄道とともに日本電力の傘下に入った[5]1936年(昭和11年)には2月22日に下吉田 - 長浜間、御殿場 - 須山間を、10月18日には今里 - 裾野間を富士山麓電気鉄道に譲渡する一方、1941年(昭和16年)2月26日には旭自動車(国府津 - 小田原間。1922年(大正11年)1月15日開業)を合併している。戦時体制が強化されると、不要不急の路線は休止を命じられることになり、鉄道並行路線や観光路線などはこれによって休止されたが、これは全路線の6割強に達した[5]。さらに、1942年(昭和17年)5月30日、箱根登山鉄道ならびに富士箱根自動車、足柄自動車の三社は日本電力から東京急行電鉄に譲渡され、箱根登山鉄道の社長に東京急行電鉄社長の五島慶太が就任。かくして箱根登山は大東急の影響下に置かれることになった。また、同年陸運統制令に基づく地域統合の通牒が出され、統合母体として箱根登山鉄道が選ばれることになり、1944年(昭和19年)7月31日付で富士箱根自動車と足柄自動車は箱根登山鉄道に合併となった[6]

本項では以下、単に「登山バス」とした場合は箱根登山鉄道および箱根登山バスをさすものとする。

戦後の復興

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終戦間もない1945年(昭和20年)11月より、小田原から宮ノ下・江ノ浦への路線について運行を開始[32]、以後順次休止路線の運行再開を図るが、路線網がほぼ完全に復旧したのは1954年と、9年を要している[32]。この間の1948年、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急から、小田急電鉄(小田急)・京浜急行電鉄京急バス)・京王帝都電鉄京王バス)が分離したが、元来旧・小田急電鉄が運行していた鉄道の井の頭線は京王の所属となり、その代わりとして神奈川中央乗合自動車(当時)とともに新生・小田急の傘下に入ることになった[32]

1950年には貸切バス事業も再開[32]、翌年には東京都・静岡県・山梨県にも営業エリアを拡大した。また、長距離路線の開設も目立ち、1950年には東京から箱根・熱海へ直通する路線を開設した[33]ほか、1952年には富士山麓電気鉄道(当時)との運輸協定により小田原駅と山中湖を結ぶ路線も開設された[32]

貸切バス事業においても、1953年には東京都内で貸切バス事業を行っていた新光バスを買収し、1956年に箱根登山バス(2003年以降とは別の会社)と改称した上で1960年に登山バスに吸収合併した[34]

箱根山戦争と事業拡大

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大正後期以降、芦ノ湖近辺では箱根土地(当時)が別荘地の分譲などを中心とした観光開発を行なっており[35]、開発に欠かせない交通機関の整備についても西武グループの手で熱海峠箱根峠の間と、小涌谷から湖尻を経由して元箱根に至る有料道路を運営し、駿豆鉄道(当時)の路線バスが運行されていた[35]

1947年9月、駿豆鉄道では、小田原と小涌谷を結ぶ区間に路線バスの運行免許申請を行った[36]。傘下にあった大雄山鉄道(当時)との一貫輸送を図ったものであった[37]が、当時まだ東急の傘下だった登山バスは、自社防衛の見地から反対の立場をとった[32]。しかし、当時の登山バスではただちに増強を図ることは難しかった[38]上、地元からも「独占はよくない」という声も上がっていた[38]こともあり、1949年12月には駿豆鉄道の路線バス運行については条件付で認可された[37]。これに対応して、小田急の傘下に入った直後の登山バスでは早雲山から大涌谷を経由して湖尻に至る路線バス運行の免許申請を行なった[39]が、これは逆に駿豆鉄道から反対を受けた[40]。最終的には、1950年3月に両社の協定により、駿豆鉄道は途中停留所と運行回数の制限を、登山バスは1年ごとの有料道路利用契約の更新をそれぞれ条件とした上[41]で、小田原へは駿豆鉄道バスが乗り入れ、代わりに登山バスが初めて芦ノ湖北岸へ乗り入れることになった[32]

登山バスはこれに続いて、1950年3月に芦ノ湖への湖上交通に着手するために、箱根町や仙石原で西武グループに敵対の立場を取っていた有力者と共同で船舶会社(箱根観光船)を設立した[41]。当初の箱根観光船は小型遊覧船のみを保有する小規模な事業者であった[36]が、1954年には芦ノ湖一周航路の免許を取得[41]、さらに1956年には大型の遊覧船を就航させた[36]。駿豆鉄道側ではこれに対して、1956年3月に「有料道路通行契約が満了すると共に契約を破棄する」と通告し、契約満了後の同年7月以降には有料道路に遮断機を設けて登山バスの通行を阻止した[42]。これは箱根観光船の大型船導入に対する報復で[42]、後に箱根山戦争として広く知られ、獅子文六の小説『箱根山』の題材にもなった西武グループと小田急グループの対立の始まりでもあった[41]

その後、互いに訴訟を起こして争う一方で、小田急側では1959年箱根ロープウェイを開通させたことにより、小田急グループのみで芦ノ湖北岸へ到達できるようになった[41]。また、1961年に有料道路を神奈川県が買い上げた上で一般道路として開放した[41]ことで、抗争は事実上終結した[34]。数多くあった訴訟案件の決着がついた1968年には西武と小田急のトップが友好的な協定に調印した[43]ことから、以後両社は共存してゆくことになる。しかし、既に独自の周遊ルートを築いていたこともあり、小田原駅での観光客の呼び込みや箱根地区でのターミナルの違いなど、競合の構図は残った[34]

これらの紛争の間にも、事業区域の拡大は進められた。1950年代には東海道本線と並行する路線が新設されたほか、1958年には定期観光バスの運行を開始している[44]。また、1960年代には三島・沼津地区において東海自動車(現・東海バス)・富士山麓電気鉄道改め富士急行(現・富士急シティバス)との免許争奪合戦も行われた[45]

貸切バス事業においても拡大傾向は続き、1963年には名古屋にも営業所を設置した[34]上で、1968年には箱根登山観光バスとして独立させている[34]

モータリゼーションの波と事業再編成

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1970年代に入ると、モータリゼーションの進展に伴い、路線バスの走行環境は悪化の一途をたどる[46]。特に登山バスの主たる路線は国道1号という幹線でありながらカーブの多い山岳道路を経由しており、観光客を乗せたマイカーが特定の道路に集中することによる渋滞[46]とそれに伴う利用者減は、登山バスに対して深刻な影響を及ぼすものとなった。このため、1982年より中型車の導入が開始され、通勤通学路線の開拓を進めた[46]他、1985年からは地域密着経営の一環として、沿線の小学生の絵画を車内に展示する「ギャラリーバス」の運行を開始した[46]。一方で、1978年からは箱根旧街道経由のバスを毎日運行に切り替えた[46]ほか、定期観光バスのコースを拡充したり、祭りに合わせて会員制ツアーバスの運行を行う[46]など、新規需要の開拓に努めた。1998年5月からは、箱根地区の施設を巡る循環バスの運行を開始した。

しかし、モータリゼーションの進行に加え、箱根地区を訪れる観光客自体が減少傾向となった[47]ことにより、バス事業をとりまく環境はさらに厳しくなったため、長距離路線の廃止や短縮などが行われた[47]。また、1996年には秦野市内の登山バス路線については神奈川中央交通100%出資の湘南神奈交バスに移管[47]した。

一方で、静岡県内では1971年(昭和46年)、東海自動車が小田急グループ入りしたことで小田急系バス会社が2社併存することになる。非効率な状態を解消し、将来的な東海自動車の地域別分社化の際には統合させることも視野に入れて、1998年(平成10年)4月1日付で沼津・三島地区の一般路線を分社化の上沼津箱根登山自動車を設立した[47]。法的にはこの時をもって現社設立としている。

さらに、2002年(平成14年)10月には小田急グループ全体の再編成が行われた。沼津箱根登山自動車の路線は全路線が沼津東海バスに譲渡された上、沼津登山東海バスと改称された[7]ほか、熱海営業所は伊豆東海バスに統合された。残った箱根登山のバス部門は法人格上存続することになった沼津箱根登山自動車に譲渡、社名を箱根登山バスと改称した[7][注釈 1]。これによって、静岡県内の路線バス事業からは撤退し、営業拠点は消滅した。

貸切バス事業についても、東京・横浜の各営業所については1996年に箱根登山観光バスに移管[47]1997年には横浜と東京の各営業所を移転の上統合した[47]が、同社は2002年には営業を廃止した[7]。また、小田原観光営業所の貸切バス事業は1994年(平成6年)設立の箱根湯本バスに移管された[47]後に、2000年に湘南箱根登山自動車に社名変更した[7]。その後、2010年には湘南箱根登山自動車を箱根登山観光バスに社名変更している[49]

一方、2002年には登山電車と登山バスに共通のプリペイドカードとして「とざんカード」を導入し[7]、同時にバス共通カードも導入した[7]が、2005年度にはICカード化の流れで「とざんカード」の販売は中止された[7]。2005年3月からは、箱根湯本駅と宿泊施設との間で観光客の手荷物を託送する「箱根キャリーサービス」の運営を開始した[50]

2004年度には、小田急グループと西武グループとの協力体制構築が発表された[7]ことを受け、伊豆箱根鉄道バスとは共同歩調をとることになり、停留所名の統一などが行われた[7]。さらに、2010年(平成22年)6月15日からは、伊豆箱根バス・小田急箱根高速バス・沼津登山東海バスと連携し、箱根地区の路線に系統記号を設定し、路線図も各社共通の様式で作成した上で各停留所や案内所で掲出することになった[51]

2016年(平成28年)4月1日、沼津登山東海バスは東海バスオレンジシャトルに社名変更[52]。静岡県内拠点の消滅後も社名の上にあった登山バスの名残が消えた。

2020年令和2年)2月1日箱根登山観光バス吸収合併した[53]

2024年(令和6年)4月1日、小田急箱根グループの再編に伴い、親会社が小田急箱根ホールディングスから小田急箱根(旧:箱根登山鉄道)に変更[54]。箱根登山バスは箱根地区以外でも事業を展開しているため、統合のメリットが限定的であるなどの理由から、合併の対象からは外れることとなった[55]

事業内容

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バス事業

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路線バス
2008年の時点では、営業区域は小田原市箱根町を中心に[56]、足柄地域(南足柄市開成町松田町[56]真鶴町[57]湯河原町[57]を主な営業エリアとしている。一部路線は静岡県御殿場市熱海市にも乗り入れる。かつては沼津市にもバス路線を開設していたが、小田急グループ内での事業再編に伴い他社への移管が行われている[7]
貸切バス
2008年時点では7台が稼動している[56]が、そのうち5台は小田原養護学校のスクールバス[58]、1台が企業送迎用[59]で、一般貸切車両は大型バス1台のみである[60]
特定バス
2008年時点では8台が稼動している[56]が、そのうち3台は箱根町立箱根の森小学校のスクールバス[61]。富士フイルム系列企業の輸送も行っている[60]

その他事業

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箱根キャリーサービス
箱根を訪れる観光客の荷物を箱根湯本駅から提携している宿泊施設へ、また宿泊施設から箱根湯本駅へと託送するサービスで、2005年3月から開始された[50]

営業所

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以下の営業所を拠点として路線バスの運行を行っている[62]

小田原営業所
小田原営業所と小田原観光営業所の路線バス部門を統合。2022年10月16日に、関本営業所を統合[63]
箱根山崎営業所
2022年10月16日に、湯本営業所と宮城野営業所を統合[63]
湯河原営業所
1956年5月に開設[64]

過去に存在した営業所

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小田原観光営業所
1963年1月16日に開設[64]。路線バス部門は小田原営業所に移管、貸切部門は1999年に箱根湯本バスに移管後[47]、2000年に湘南箱根登山自動車に商号変更[65]
熱海営業所
2002年10月に伊豆東海バスに譲渡[7]
沼津営業所
1958年6月1日に開設[64]1998年には沼津箱根登山自動車として分社化[47]、2002年10月に沼津東海バスに移管され沼津登山東海バスと改称[7]
横浜観光営業所
1996年に箱根登山観光バスに移管され、関東支店神奈川営業所となる[47]。1997年に東京営業所に統合して廃止[47]
東京営業所
1953年に設立された新光バスを1956年に箱根登山バス(初代)に改称し[64]、1960年に合併[64]。箱根登山観光バスに移管され、関東支店東京営業所となった後、神奈中ハイヤー(現・神奈中観光)に車両・乗務員ごと譲渡。これに伴って、神奈中ハイヤーは町田営業所を野津田車庫より移転。現在の神奈中観光東京営業所。
名古屋営業所
1964年3月1日に新設[66]。1968年8月1日に箱根登山観光バス(初代)に移管された[66]が、2002年に廃止[7]
宮城野営業所
2005年5月に小田原観光営業所宮城野出張所を格上げして新設[7]。2022年10月16日をもって、案内所へ移行[63]
関本営業所
1921年5月22日に足柄自動車として開設[67]。その後小田原観光営業所に統合されるが、足柄営業所統合後に再分離。2022年10月16日をもって、小田原営業所に統合され、案内所へ移行[63]
湯本営業所
2022年10月16日をもって、案内所へ移行[63]

車両

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車両史

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富士屋自働車が初期に導入した「ホワイト」 富士箱根自動車の「サウラー」
富士屋自働車が初期に導入した「ホワイト」
富士箱根自動車の「サウラー」

路線バス車両は、富士屋自働車では当初はビュイックの乗用車を利用し、ラジエター上に行き先を掲出しただけであった[68]。富士屋ホテルの宿泊客から意見を集めた上で、アメリカの高級車ホワイトを導入した[68]。当初はシャーシのみ輸入し、車体は日本国内で製造させていた[17]が、1923年にはアメリカのベンダー車体製造に依頼して製造させた車体をホワイトに架装して輸入[69]、さらに詳細な図面を取り寄せた上で日本自動車に依頼して、日本国内で車体を製造させた[69]。これがその後日本国内で製造されるバス車体の原型となったといわれている[69]

一方、箱根登山鉄道の自動車部門では、富士屋自働車に対抗して、スイス製の高級車であるサウラーが導入された。この車両は右ハンドル仕様ではあった[70]が、スイス国内で使用される車両と同様にオープンタイプで[70]、車体も含めて全てスイスから輸入されたものと推測されている[70]五十嵐平達は「活躍した場所から考えても、1930年代の遊覧バスを代表する1台」であるとしている[70]。富士箱根自動車となってからもサウラーなどの大型車が導入された[5]

戦時中は他社と同様に代用燃料に対応させた車両が使用されたが、代用燃料車両では箱根を登りきることができず、宮ノ下で別のバスに乗換えを余儀なくされたという[71]

戦後にはディーゼルバスが順次導入され、1953年からは日野自動車(日野)のセンターアンダフロアエンジン車が大量導入された[32]

1970年代以降の車両概説

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定期観光バス専用車 B174

1970年代頃は日野と日産ディーゼルの台数が多かった[72]が、2008年時点ではいすゞ・日野・三菱の3メーカーを導入している[59]。箱根地区の道路環境から、自社導入の大型車は全て短尺の高出力車を採用している[73]。また、貸切車については、全てフルエアブレーキ仕様である[73][注釈 2]。車両のタイヤは年間を通じてスタッドレスタイヤを装着し[74]、毎年冬に交換する[74]ほか、状況に応じてタイヤチェーンを併用する[74]

箱根登山バスの路線バスの特徴として、トップドア車(乗降扉が前方1つだけ)であってもドアの直後の窓には側面方向幕を設置せず、1つ後の窓部分に設置するという独特の仕様が挙げられる[73]。これは、方向幕の大型化に伴い、急カーブで極力視界を確保するためとされている[73]。大型ノンステップバスは山間部では走りにくいという理由で小田原市内路線に投入 されている[74]

定期観光バスを運行していることから、標準床ながらオールリクライニングシートの観光仕様路線車も導入している[73]。2010年には、同社では11年ぶりとなる定期観光バスの車両更新[75]と同時に、神奈川県内では初導入となる[75]日野・セレガハイブリッドを導入している[75]

乗降方式は車両の扉位置にかかわらず前乗り前降りである[73]。そのため、ベビーカーは折りたたんで乗降する[76]。扉配置は、ワンマン化初期には前中扉仕様[注釈 3]が採用されていた[34]が、その後前後扉仕様[注釈 3]に変わり[46]、さらに1980年代以降は座席定員を極力増加させるために前扉仕様[注釈 4]が標準となった[59]。2002年以降は交通バリアフリー法に準拠した前中扉仕様[注釈 3]となり[74]、中扉は車椅子専用の出入口として使用している[59]

カラーリング

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戦後に採用されたカラースキムは、クリーム色の上下に青い帯が入るものであったが、1980年からは白ベースに青の濃淡2色と赤のラインが入るものになった[78]。しかし、塗装パターンが比較的複雑である上に特別色も含まれていることからコストが高く[78]、2000年代には「ハートフルバスとざん」色や試験塗色の採用なども行われた[59]。2010年の新車からは、クリーム色ベースで灯火をイメージするオレンジ色(同社では「柿渋色」と呼称)の帯を配した上、箱根細工をイメージするデザインに変更されることになった[79]。これまでの塗装デザインの車両については塗り替えは行わない[79]

譲受車・譲渡車

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1970年代から2000年代初頭までは、東京都交通局神奈川中央交通長崎自動車からの譲受車や、東京都交通局の注文流れの車両を導入していた。近年は神奈川県生活環境の保全等に関する条例(ディーゼル車規制条例)に対応するため車両の更新は全て新車によって行なわれている。2008年時点では12年以内に代替されており[59]、同条例の規制を受けないことから、グループ会社の東海バスへの譲渡が多い[80]

車両番号

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小型車は001から099まで[59]、中型車と大型車は100から999までの連番で[59]、番号の前には車種頭文字(B:路線、BH:貸切、特:特定車)が付される[81]。2001年から2003年までの導入車両については、営業所頭文字(K:小田原観光、T:(2001年当時の)熱海、Y:湯河原、A:足柄)+年式記号(A:2001年、B:2002年、C:2003年)+2桁の連番となる附番方式を採用していたが、2004年以降は2000年までの附番方式に戻されている[81]

脚注

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注釈

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  1. ^ この事業再編の結果、箱根登山バスは、小田急箱根ホールディングスの下で箱根登山鉄道・箱根ロープウェイ・箱根観光船と並列に位置することになる[48]
  2. ^ 排気ブレーキの使用頻度が高いため、日野RE100・RV731系では排気ブレーキのスイッチをハンドルの左側に取り付ける改造が施工されていた。
  3. ^ a b c 前扉と中扉を配置した仕様。
  4. ^ 前扉のみを配置した仕様。

出典

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  1. ^ a b c d 箱根登山バス株式会社 第21期決算公告
  2. ^ a b 箱根登山バス株式会社 第26期決算公告
  3. ^ a b c 『箱根山の近代交通』 p.112
  4. ^ a b c 『すばらしい箱根』 p.40
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.26
  6. ^ a b 『すばらしい箱根』 p.88
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.31
  8. ^ a b c 『箱根山の近代交通』 p.109
  9. ^ 『すばらしい箱根』 p.39
  10. ^ 『箱根山の近代交通』 p.110
  11. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.113
  12. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.114
  13. ^ a b c 『すばらしい箱根』 p.41
  14. ^ a b c 『箱根山の近代交通』 p.118
  15. ^ 『箱根山の近代交通』 p.111
  16. ^ 『箱根山の近代交通』 p.98
  17. ^ a b c 『箱根山の近代交通』 p.120
  18. ^ a b c 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.25
  19. ^ 『箱根山の近代交通』 p.160
  20. ^ 『箱根山の近代交通』 p.121
  21. ^ a b c d 『箱根山の近代交通』 p.142
  22. ^ 『箱根山の近代交通』 p.123
  23. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.124
  24. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.143
  25. ^ 『箱根山の近代交通』 p.146
  26. ^ a b c 『箱根山の近代交通』 p.149
  27. ^ 『箱根山の近代交通』 p.151
  28. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.155
  29. ^ a b c d e f 『箱根山の近代交通』 p.156
  30. ^ 路線、車両広告『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  31. ^ 『箱根山の近代交通』 p.157
  32. ^ a b c d e f g h 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.27
  33. ^ 『すばらしい箱根』 p.62
  34. ^ a b c d e f 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.28
  35. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.98
  36. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.99
  37. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.179
  38. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.180
  39. ^ 『箱根山の近代交通』 p.181
  40. ^ 『箱根山の近代交通』 p.182
  41. ^ a b c d e f 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.72
  42. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.192
  43. ^ 『箱根山の近代交通』 pp.207-208
  44. ^ 『すばらしい箱根』 p.68
  45. ^ 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.21
  46. ^ a b c d e f g 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.29
  47. ^ a b c d e f g h i j k 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.30
  48. ^ 『鉄道ジャーナル』通巻480号 p.107
  49. ^ 会社概要”. 箱根登山観光バス. 2010年12月27日閲覧。
  50. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻480号 p.108
  51. ^ 箱根エリアバス路線の系統記号化を実施します』(プレスリリース)小田急電鉄http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/5473_4627422_.pdf2010年6月14日閲覧 
  52. ^ 社名変更について”. 東海自動車. 2016年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月26日閲覧。
  53. ^ 箱根登山バス株式会社と箱根登山観光バス株式会社の合併に関するお知らせ” (PDF). 箱根登山バス・箱根登山観光バス (2019年11月8日). 2020年5月3日閲覧。
  54. ^ 小田急箱根グループの組織再編に関するお知らせ』(PDF)(プレスリリース)小田急箱根ホールディングス株式会社(当時)、2024年1月24日。オリジナルの2024年1月24日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20240124061915/https://www.odakyu-hakone.jp/common/pdf/20240124_info.pdf2024年1月24日閲覧 
  55. ^ 「箱根登山鉄道」社名消滅へ 会社統合で96年の歴史に幕 何が変わる?バスはどうなる?”. 乗りものニュース (2024年1月24日). 2024年1月25日閲覧。
  56. ^ a b c d 『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.39
  57. ^ a b 『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.40
  58. ^ 『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.51
  59. ^ a b c d e f g h 『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.47
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  61. ^ 『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.49
  62. ^ 営業所のご案内”. 箱根ナビ. 2022年10月26日閲覧。
  63. ^ a b c d e 営業所の再編について”. 箱根ナビ. 2022年10月26日閲覧。
  64. ^ a b c d e 『すばらしい箱根』 p.89
  65. ^ 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 pp.30-31
  66. ^ a b 『すばらしい箱根』 p.90
  67. ^ 『すばらしい箱根』 p.86
  68. ^ a b 『箱根山の近代交通』 p.119
  69. ^ a b c 『箱根山の近代交通』 p.147
  70. ^ a b c d 『バスラマ・インターナショナル』通巻6号 p.93
  71. ^ 『箱根山の近代交通』 p.173
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  73. ^ a b c d e f 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.33
  74. ^ a b c d e 『バスラマ・インターナショナル』通巻110号 p.44
  75. ^ a b c 『バスラマ・インターナショナル』通巻119号 p.8
  76. ^ 箱根登山バス. ご利用のお客様へ
  77. ^ 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.57
  78. ^ a b 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.35
  79. ^ a b 箱根登山バス新ボディーカラーの導入について』(PDF)(プレスリリース)箱根登山バスhttp://www.hakone-tozanbus.co.jp/images/information/pdf/pdf_126991512503.pdf2010年6月14日閲覧 
  80. ^ 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.32
  81. ^ a b 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.60

参考文献

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社史

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  • 箱根登山鉄道株式会社総務部総務課『すばらしい箱根 グラフ100』箱根登山鉄道、1988年。 

書籍

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  • 加藤利之『箱根山の近代交通』神奈川新聞社、1995年。ISBN 978-4876451890 
  • 『58 東海自動車・箱根登山バス』BJエディターズ〈バスジャパン・ハンドブックシリーズR〉、2006年。ISBN 4434072730 

雑誌記事

[編集]
  • 青木栄一「小田急電鉄のあゆみ 路線網の拡大と地域開発」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、65-75頁。 
  • 青木栄一「小田急電鉄のあゆみ(戦後編)」『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、93-105頁。 
  • 五十嵐平達「忘れえぬ1930年代の日本の遊覧バス」『バスラマ・インターナショナル』第6号、ぽると出版、1991年7月、92-93頁、ISBN 4938677067 
  • 野中祥史「鉄道・軌道プロジェクトの事例研究54 小田急グループの箱根戦略」『鉄道ジャーナル』第480号、鉄道ジャーナル社、2006年10月、106-108頁。 
  • 「バス事業者訪問123 箱根登山バス」『バスラマ・インターナショナル』第110号、ぽると出版、2008年11月、38-52頁、ISBN 978-4899801108 
  • 「神奈川県第1号!箱根登山バスのセレガハイブリッド」『バスラマ・インターナショナル』第119号、ぽると出版、2010年3月、8頁、ISBN 978-4899801191 

外部リンク

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