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|caption = [[バーネットの戦い]](1471年)。同時代に近い時期のフラマン人による絵画。
|caption = ランカスター家の紋章である赤薔薇(右)とヨーク家の紋章である白薔薇(左)
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|result= ランカスター家とヨーク家の和解による[[テューダー朝]]の成立
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'''薔薇戦争'''(ばらせんそう、{{lang-en-short|Wars of the Roses}})は、[[百年戦争]]終戦後に発生した[[イングランド]]中世封建[[諸侯]]による[[内乱]]。[[1455年]]5月に[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]が[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]に対して反乱を起こしてから、[[1485年]]に[[テューダー朝]]が成立するまで([[1487年]]6月の[[ストーク・フィールドの戦い]]までとする見方もある)、[[プランタジネット朝|プランタジネット家]]傍流の[[ランカスター朝|ランカスター家]]と[[ヨーク朝|ヨーク家]]の間で戦われた権力闘争。
'''薔薇戦争'''(ばらせんそう、{{lang-en-short|Wars of the Roses}})は、[[百年戦争]]終戦後に発生した[[イングランド]]中世封建[[諸侯]]による[[内乱]]。[[1455年]]5月に[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]が[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]に対して反乱を起こしてから、[[1485年]]に[[テューダー朝]]が成立するまで([[1487年]]6月の[[ストーク・フィールドの戦い]]までとする見方もある<ref name=Wise2001_19/>)、[[プランタジネット朝|プランタジネット家]]傍流の[[ランカスター朝|ランカスター家]]と[[ヨーク朝|ヨーク家]]の間で戦われた権力闘争である。ヨーク家とランカスター家は、ともに[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の血を引く家柄であった


ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を{{仮リンク|ヘラルディック・バッジ|label=バッジ|en|Heraldic badge}}(記章)<ref name=badge group=n/>としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる<ref name=name/>。
ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を[[紋章]]としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、薔薇戦争という呼び名については後世のこととされる<ref>薔薇戦争という名称は当時はなかった。本名称が普及したのは、[[1829年]]に発表された[[ウォルター・スコット]]の小説『ガイアスタインのアン』(''Anne of Geierstein'')以来のこととされる。スコットがこの名称を用いたのは、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の戯曲『[[ヘンリー六世 第1部]]』において、対立する両陣営が寺院で互いに色違いの薔薇を摘むという架空の描写に依拠したものである。</ref>。


[[1422年]]、フランス王に対する勝利を重ね[[百年戦争]]における優位を確立した[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]が死去し、生後9ヵ月の[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]がイングランド王に即位した。1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃[[マーガレット・オブ・アンジュー]]や[[エドムンド・ボーフォート (第2代サマセット公)|サマセット公エドムンド・ボーフォート]]をはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流の[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]を中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった<ref group=n>対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.418-419.</ref>。両派は対立を深め、[[1455年]]に[[セント・オールバーンズの戦い (1455年)|第1次セント・オールバーンズの戦い]]で両派間に火蓋が切られた。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。
== ランカスター朝の成立 ==
百年戦争に苦戦していたイングランド王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]は、王族・諸侯・市民の支持を失い、頻発する反乱に悩まされ続けていた。目障りな存在であった重鎮の叔父・[[ランカスター公]][[ジョン・オブ・ゴーント]]が死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー・ボリンブロク]]に領地没収と[[国外追放]]を命じた。


勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃のランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。[[1460年]]の[[ノーサンプトンの戦い]]でヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、[[スコットランド王国|スコットランド]]の援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けて[[ウェイクフィールドの戦い]]で戦死した。[[1461年]]、マーガレット王妃は[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]を破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。ヨーク公の嫡男[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード]]がウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王'''エドワード4世'''に推戴された。[[タウトンの戦い]]でヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。('''第一次内乱''')
これに対しボリンブロクはリチャード王の退位を要求して兵を挙げ、逆に王を捕えて幽閉した。[[1399年]]、ボリンブロクは[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]を称して即位し、ここにランカスター朝が成立したが、国内にはリチャード2世派の残存勢力や自らの王権を否定する勢力が活発であったため、ヘンリー4世は国内統一の戦いを続け、治世晩年にようやく国内を安定させることができた。


王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は身分違いの[[エリザベス・ウッドヴィル]]との結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。[[1469年]]にウォリック伯は王弟[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公ジョージ]]とともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。
[[1413年]]、ヘンリー4世が死去すると[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、[[アジャンクールの戦い]]においてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。そして1420年、フランスと[[トロワ条約]]を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承権を認めさせた。ランカスター朝の絶頂期を築いたヘンリー5世は、トロワ条約成立後わずか2年で突然世を去ってしまう。


ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌[[1471年]]にイングランドへ攻め入り、[[バーネットの戦い]]でウォリック伯を敗死させ、さらに[[テュークスベリーの戦い]]でランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。ヘンリー6世と[[エドワード・オブ・ウェストミンスター|エドワード王子]]は殺害されランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。('''第二次内乱''')
== 薔薇戦争の開始とヨーク朝の成立 ==
[[1422年]]、生後9ヵ月のヘンリー5世の遺児[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]がイングランド王と併せてフランス王に即位した。ヘンリー6世はひ弱で精神を病んでいたと伝えられているように、その治世は一生を通じて有力者や勝気な王妃[[マーガレット・オブ・アンジュー]]によって左右された。


[[1483年]]に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟[[グロスター公]][[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード]]はエドワード4世の幼い遺児[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経て'''リチャード3世'''として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|リッチモンド伯ヘンリー・テューダー]]は、[[1485年]]に兵を率いてイングランドに上陸すると、[[ボズワースの戦い]]でリチャード3世を撃ち破った。('''第三次内乱''')
フランスでは[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]がイングランド軍を追い詰め、[[1453年]][[10月19日]]、イングランド軍最後の拠点であった[[ボルドー]]を攻め落した。その後イングランド勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている。


ヘンリー・テューダーは'''ヘンリー7世'''として即位するとエドワード4世の王女[[エリザベス・オブ・ヨーク]]と結婚してヨーク家と和解し、新たに[[テューダー朝]]が開かれた。
百年戦争の敗戦によってヘンリー6世の権威は完全に失墜し、イングランド国内は再び混乱に陥った。実力者であったプランタジネット家傍流の[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]の勢力が日増しに拡大し、無能なヘンリー6世とフランス貴族[[ヴァロワ=アンジュー家]]出身の王妃マーガレット、あるいはヘンリー6世の廷臣に憎しみを持つ者は、ヨーク公リチャードをイングランド王に推戴する動きを始めた。


==名称とシンボル==
ランカスター朝の始祖ヘンリー4世が民心の支持を失くしたリチャード2世を廃して即位したように、民心を失ったヘンリー6世にも、ヨーク公リチャードとの間に王位の正統性を巡る問題が発生したのである。ヨーク家とランカスター家は、ともに[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の血を引く家柄であった。
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'''薔薇戦争'''の名称は二つの王家の{{仮リンク|ヘラルディック・バッジ|en|Heraldic badge}}(記章)<ref name=badge group=n>[[紋章]]ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。[[#森(2000)|森(2000)]],p.274.</ref>である{{仮リンク|ヨーク家の白薔薇|en|White Rose of York}}、{{仮リンク|ランカスター家の赤薔薇|en|Red Rose of Lancaster}}に由来するものである<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.274.</ref>。もっとも、ランカスター家の赤薔薇の使用は戦争最末期である<ref>[[#指(2002)|指(2002)]],p.39;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.5.</ref>。この名称は19世紀の小説家[[ウォルター・スコット]]の『[[ガイアスタインのアン]]』(''[[:en:Anne of Geierstein|Anne of Geierstein]]'')以降に広く用いられるようになった<ref name=name>[[#指(2002)|指(2002)]],p.39;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.5;[[#森(2000)|森(2000)]],pp.275-276;[[#青山(1991)|青山(1991)]],p.447.</ref>。

当時の{{仮リンク|擬似封建制度|en|bastard feudalism}}のもと、この戦争に参加した者たちの多くが、直接仕えるまたは庇護者となっている諸侯のバッジがあしらわれた「お仕着せ」(そろいの制服:''[[:en:livery badge|livery badge]]'')を着用していた<ref>[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], pp.9–10.</ref>。例えば、[[ボズワースの戦い]]ではヘンリー・テューダーの軍勢は「[[赤い竜 (ウェールズの伝承)|赤い竜]]」の旗の下で戦い<ref name=sashi45>[[#指(2002)|指(2002)]],p.45.</ref>、ヨーク軍はリチャード3世のバッジである「{{仮リンク|白い猪|en|White boar}}」を用いていた<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.307.</ref>。戦後、ヘンリー7世は赤薔薇と白薔薇を合わせて、ヨーク家とランカスター家の融合の象徴とした{{仮リンク|テューダー・ローズ|en|Tudor Rose}}のバッジを用いた<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.322,326.</ref>。

ライバル両家の名称はおのおの[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]と[[ランカスター]]の町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない<ref name=Wise200105>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.5.</ref>。ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.445,466.</ref>に勢力をはり、家門名の[[ヨークシャー]]ではランカスター家が優勢だった<ref name=Wise200105/>。

==背景==
=== 百年戦争とランカスター朝の成立 ===
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| caption1 = ブレティニー・カレー条約時(1360年)のイングランドとフランスの領域。{{fr icon}}{{legend|#ea8b9d|イングランド王領域|border=1px solid #000}}{{legend|#fddcfa|ブレティニー・カレー条約によるイングランド獲得地|border=1px solid #000}}
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1330年代の[[スコットランド王国|スコットランド]]政策を巡ってのフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]とイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]との対立が[[百年戦争]]の発端となった<ref name=HundredYears/>。当時のイングランド王は大陸に領地を有する{{仮リンク|アキテーヌ公|en|Duke of Aquitaine}}を兼ねており、フランス王の封臣としての立場でもあった。フィリップ6世がエドワード3世の封臣礼の不備を理由にアキテーヌ領の没収を宣言すると、エドワード3世は[[ヴァロワ家]]のフィリップ6世の即位の不法性を申し立て<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.97.</ref>、1340年に自ら「フランス王」を宣言してフィリップ6世と開戦した<ref name=HundredYears/>。エドワード3世と有能な将帥である[[エドワード黒太子]]は[[クレシーの戦い]](1346年)と[[ポアティエの戦い]](1356年)でフランス軍に大勝して戦局を有利に進めた。1360年の{{仮リンク|ブレティニー・カレー条約|en|Treaty of Brétigny}}で王位請求権放棄の見返りに旧アンジュー王領の回復と[[カレー]]、ポンティユー、ギーヌの割譲をフランス王に呑ませることに成功する。だが、その後、国内では反乱が起こり、黒太子が病に倒れたことで戦況も不利になり、カレー、ボルドーを残して征服した領域のほとんどを失ってしまう<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.101.</ref>。

薔薇戦争につながる「大貴族間の抗争」はエドワード3世によって種をまかれた。エドワード3世と王妃[[フィリッパ・オブ・エノー]]は13人の子をもうけており、成人した男子は5人である。エドワード3世は彼らをイングランド貴族の女子相続人と娶わせ、[[クラレンス公|クラレンス]]、[[ランカスター公|ランカスター]]、[[ヨーク公|ヨーク]]そして[[グロスター公|グロスター]]といったイングランド初の公爵家を創設させた。これら公爵家の子孫たちは、最終的には国王位を巡って相争うようになる<ref>[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], p.23.</ref>。

1377年にエドワード3世は死去し、王位はその前年に没したエドワード黒太子の子で僅か9歳の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]が継承した。エドワード3世の子で初代クラレンス公[[ライオネル・オブ・アントワープ]]もまた後を追って死去しており、娘の{{仮リンク|フィリッパ (アルスター女伯)|label=フィリッパ|en|Philippa, 5th Countess of Ulster}}が残され、リチャード2世の[[王位継承権|王位継承権者]]となった。フィリパはマーチ伯{{仮リンク|エドムンド・モーティマー (第3代マーチ伯)|label=エドムンド・モーティマー|en|Edmund Mortimer, 3rd Earl of March}}と結婚した。1381年にエドムンドとフィリパは相次いで死去した。子のないリチャード2世は彼らの息子のマーチ伯{{仮リンク|ロジャー・モーティマー (第4代マーチ伯)|label=ロジャー・モーティマー|en|Roger Mortimer, 4th Earl of March}}を王位継承者に指名したが、彼は1398年に死去してしまい、マーチ伯{{仮リンク|エドムンド・モーティマー (第5代マーチ伯)|label=エドムンド・モーティマー|en|Edmund Mortimer, 5th Earl of March}}が残された。黒太子の系統が断絶した際には長男子相続権法に基づけばライオネル・オブ・アントワープの子孫であるエドムンド・モーティマーが王位を継承するべきであった。だが、実際にはそうはならず、このことが薔薇戦争の決定的な要因となった<ref>[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], p.24.</ref>。
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百年戦争に苦戦していたリチャード2世は[[ワットタイラーの乱]]をはじめとする頻発する民衆反乱に悩まされ<ref>[[#ブリッグズ(2004)|ブリッグズ(2004)]],pp.136-140;[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],pp.107-109.</ref>、国費の浪費と寵臣政治が議会から批判を受けた<ref>{{cite web|title=リチャード(2世)- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%EF%BC%882%E4%B8%96%EF%BC%89/|author=富沢霊岸|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年6月24日}}</ref>。1399年に叔父のランカスター公[[ジョン・オブ・ゴーント]]が死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー・ボリンブロク]]に領地没収と[[国外追放]]を命じた<ref name=kawakita113>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.113.</ref>。ヘンリー・ボリングブロクは帰国し、当初はランカスター公位の回復を主張していた。多くの貴族が彼を支持するようになると、彼はリチャード2世を廃位してヘンリー4世として即位し、ここに[[ランカスター朝]]が成立した<ref name=kawakita113/>。若年のエドムンド・モーティマーの王位継承権を支持する貴族はいなかった。しかしながら、即位から数年がたつとヘンリー4世は[[ウェールズ]]、[[チェシャー]]そして[[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバーランド]]での反乱に直面することになり、これらの反乱はエドムンド・モーティマーの王位継承を大義名分に利用した<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],pp.113-114.</ref>。これらの反乱は、幾らかの困難を伴いながらも鎮圧された。

[[1413年]]、ヘンリー4世が死去すると[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、[[アジャンクールの戦い]]においてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。そして1420年、フランスと[[トロワ条約]]を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承権を認めさせた<ref>{{cite web|title=トロア条約- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84/|author=松垣裕|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年6月24日}}</ref>。

ヘンリー5世の9年間の治世では{{仮リンク|サウザンプトンの陰謀|en|Southampton Plot}}が起こっており、エドワード3世の第四子[[エドムンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドムンド・オブ・ラングリー]]の子である[[ケンブリッジ伯]][[リチャード・オブ・コニスバラ]]が[[アジャンクールの戦い]]に先立つ1415年に反逆罪で処刑されている<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.118.</ref>。ケンブリッジ伯の妻で王位継承権を有する{{仮リンク|アン・モーティマー|en|Anne de Mortimer}}(ライオネル・アントワープの子孫でロジャー・アン・モーティマーの娘)は1411年に死去している。彼女の兄弟のマーチ伯エドムンドはヘンリーに忠実であり、1425年に子を残さずに死去しており、彼の王位継承権と称号はアンの子孫に相続された。

ケンブリッジ伯とアン・モーティマーの子の[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|リチャード]]は父が処刑された時には4歳であった。ケンブリッジ伯は{{仮リンク|私権剥奪|label=私権を剥奪|en|Attainder}}されたが、後にヘンリー4世はアジャンクールの戦いで戦死したケンブリッジ伯の兄のヨーク公[[エドワード・オブ・ノリッジ|エドワード]]の称号と領地をリチャードに相続させている。ヘンリー5世には3人の弟がおり、彼自身も壮健で結婚もしており、ランカスター家の王位は揺るがぬものと見られていた。

===ヘンリー6世の治世===
[[File:Henry VI of England.png|right|thumb|left|200px|ヘンリー6世。<br>作者不明、1620年頃。<br>穏和な性格で信仰心が篤く王者よりも聖人たる人物だったと言われる<ref>[[#鈴木(1994)|鈴木(1994)]],p.110.</ref>。治世中に幾度か精神錯乱を起こしており、大貴族たちの権力闘争を招いた。]]
1422年8月31日にヘンリー5世が急死し、即位した彼の息子[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]は僅か生後9ヶ月だった。その2ヵ月後にフランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]も死去しており、[[トロワ条約]]に従えばフランス王位はヘンリー6世のものとなるが、[[ドーファン|王太子]]シャルル([[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]])を擁する[[アルマニャック派]]はこれを容認しなかった。

ヘンリー6世には[[ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]と[[グロスター公]][[ハンフリー・オブ・ランカスター|ハンフリー]]の二人の叔父がおり、年長のベッドフォード公が[[護国卿]]([[摂政]])となり、彼がイングランド不在時はグロスター公がその役割を果たすことになった。だが、グロスター公とランカスター家傍系のウィンチェスター司教{{仮リンク|ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|label=ヘンリー・ボーフォート|en|Henry Beaufort}}、サフォーク伯[[ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公)|ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール]]とが反目するようになった<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.341;[[#森(2000)|森(2000)]],pp.248-249;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.418.</ref>。

1429年、[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍によってアルマニャック派が[[オルレアン]]を解放し、シャルル7世は[[ランス (マルヌ県)|ランス]]でフランス国王の戴冠式を挙行した。イングランド側もパリを一時的に確保して1431年にヘンリー6世のフランス国王戴冠式を挙行するが<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.337-338.</ref>、1435年の{{仮リンク|アラス会議|label=アラスの和平|en|Congress of Arras}}で同盟者であったブルゴーニュ公がシャルル7世と講和してしまい、イングランドにとって情勢は不利になった<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.338-339;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.424.</ref>。

ベッドフォード公が1435年に死去するとヘンリー6世は権力争いが絶えない評議員や顧問官に囲まれることとなった。グロスター公は護国卿の地位を求め、この目的を遂げるべく意図的に庶民の人気を得ようと画策したが<ref>[[#Royle(2009)|Royle(2009)]], pp.160–161.</ref>、枢機卿ヘンリー・ボーフォートやサフォーク伯の抵抗を受けた。

[[File:Jindrich6 marketaAnjou.jpg|thumb|250px|left|ヘンリー6世とマーガレット・オブ・アンジューとの婚儀。<br>Martial d'Auvergne画、15世紀。]]
サフォーク伯はフランス国王との和平政策を推進し、シャルル7世の王妃[[マリー・ダンジュー|マリー]]の姪にあたるアンジュー公[[ルネ・ダンジュー|ルネ]]の公女[[マーガレット・オブ・アンジュー|マルグリット]](マーガレット)とヘンリー6世との結婚を取り決めた<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.344-345.</ref>。1445年に結婚式が執り行われたが、この和平には[[マイエンヌ県|メーヌ]]の割譲が含まれており、イングランド国内では大変に不評だった<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.346.</ref>。1447年、サフォーク侯<ref name=Suffolk group=n>サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。</ref>は和平に反対するグロスター公ハンフリーを反逆罪で逮捕し、その5日後にグロスター公は{{仮リンク|ベリー・セント・エドマンズ|en|Bury St Edmunds}}の牢獄で死去した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.346-347;[[#森(2000)|森(2000)]],p.253.</ref>。

グロスター公を死に追いやったことで逆にサフォーク公<ref name=Suffolk group=n/>の立場が悪くなり、今度はフランスとの和議を破棄して攻撃を行うが失敗してフランスの領土のほとんどを喪失してしまう<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.347;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.426-427.</ref>。1450年にサフォーク公は失脚し、国外追放の途上で殺害された<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.348;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.428.</ref>。

代わってサマセット公[[エドムンド・ボーフォート (第2代サマセット公)|エドムンド・ボーフォート]]が和平派の中心人物となった<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.350-531.</ref>。一方、1446年まで「フランスおよびノルマンディの総督」職に就いていたヨーク公[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|リチャード]](グロスター公の死により第一王位継承権者となった)が主戦派の中心となり<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.350.</ref>、宮廷とりわけサマセット公を対仏戦において資金と兵士の供給を滞らせたと激しく非難した<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.419.</ref>。

1450年、[[ケント州|ケント]]において民衆暴動が発生した({{仮リンク|ジャック・ケイド|en|Jack Cade}}の反乱)。ヨーク公の従弟を自称するケイドに率いられた一揆軍は政治的要求を掲げてロンドンに向かい、政府軍と衝突するがこれを打ち負かしてロンドンの一部を占拠し、ケント州長官と廷臣1名を殺害した<ref>[[#ブリッグズ(2004)|ブリッグズ(2004)]],pp.144-146;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.429.</ref>。政府が赦免状を出したことによって暴徒は四散したが、ケイドを含む幾人かが処刑された<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], pp.123–124.</ref>。

1452年、アイルランド総督に左遷されていたヨーク公リチャードがイングランドに帰還し、サマセット公の排除と政府の改革を求めてロンドンへと進軍した。この時点では彼の大胆な行動に与する貴族は僅かであり<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.432.</ref>、{{仮リンク|ブラックヒース (ロンドン)|label=ブラックヒース|en|Blackheath, London}}でヘンリー6世と会見するが欺かれて拘禁された<ref>[[#富沢(1988)|富沢(1988)]],p.233.</ref>。彼は1452年から1453年にかけて投獄されるが<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.125.</ref>、恩赦により釈放されている<ref name=Britannica926/>。
[[File:A Chronicle of England - Page 400 - Henry VI and the Dukes of York and Somerset.jpg|thumb|250px|国王ヘンリー6世の御前で言い争うサマセット公とヨーク公。<br>''A Chronicle of England'',1864年]]
宮廷での不協和音は国内全土にも反映されるようになり、貴族たちは私闘を繰り広げ、国王の権威や宮廷法に対する不服従を示すようになった。北東部でのパーシー家とネヴィル家の争いはこの時代の典型的な私闘で<ref>[[#海保(1999)|海保(1999)]],pp.64-65.</ref>、他の貴族たちも制約を受けることなくこれを行った。多くの場合は、それらは古くからの貴族とヘンリー4世以降に台頭するようになった新興貴族間で戦われた。古くからノーサンバーランド伯の地位を有するパーシー家とこれに比べると成り上がりのネヴィル家との争いはこのパターンであり、これ以外では[[コーンウォール]]と[[デボン]]で行われたコートネイ家とボンヴィル家の私闘がある<ref>[[#Royle(2009)|Royle(2009)]], pp.207–208</ref>。

フランスでは[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]がイングランド軍を追い詰め、[[1453年]][[10月19日]]、イングランド軍最後の拠点であった[[ボルドー]]を攻め落した。その後イングランド勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.125.</ref><ref name=HundredYears>{{cite web|title=百年戦争- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89/|author=[[堀越孝一]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年6月23日}}</ref>。

1453年8月にヘンリー6世は最初の発作に見舞われて精神錯乱に陥り、王子([[エドワード・オブ・ウェストミンスター]])の誕生さえ認識できない有様となった<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.352;[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.126;[[#鈴木(1994)|鈴木(1994)]],p.110.</ref>。マーガレット王妃は自らを摂政にするよう要求したが容れられず、貴族院の指名によりヨーク公が護国卿に任命された<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.352;[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.126.</ref>。すぐに彼はこの権力を大胆に行使し、サマセット公を投獄するとともにパーシー家の[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ノーサンバーランド伯]](ヘンリー6世の支持者)と私闘を行っていた彼の同盟者ネヴィル家(義理の兄弟の[[リチャード・ネヴィル (第5代ソールズベリー伯)|ソールズベリー伯]]、その息子の[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯]])を支援した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.353-354.</ref>。

1455年にヘンリー6世が回復すると、ヨーク公の政策は覆され、サマセット公が復帰した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.354.</ref>。マーガレット王妃はヨーク公に対抗する党派を構築して、彼の影響力を奪う陰謀を画策した<ref>[[#富沢(1988)|富沢(1988)]],p.224.</ref>。次第に追い詰められていったヨーク公とその一党は、身を守るために武力をもって対抗することを決意する<ref name=Britannica926/>。
{{-}}

===大貴族と軍隊===
{|style="float:right"
|-
!!! 主な地域と都市
|-
|style="width:1em"|
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
{{Location map+|England|width=300|AlternativeMap=Map- Wars of the Roses.jpg|alt=|float=right|caption='''太文字''' &ndash;地域<br>[[File:Steel pog.svg|8px|link=]] &ndash;都市|places=
{{Location map~|England|label=<small>ロンドン</small>|position=bottom|background=#FFF|lat=51.8|long=-0.128056|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=<small>ヨーク</small>|position=bottom|background=#FFF|lat=53.7|long=-1.3|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=<small>サウザンプトン</small>|position=bottom|background=#FFF|lat=51.2|long=-1.6|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
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{{Location map~|England|label=<small>ブリストル</small>|position=top|background=#FFF|lat=51.8|long=-3.0|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
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{{Location map~|England|label='''ヨークシャー'''|position=right|lat=53.8|long=-2.5|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
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{{Location map~|England|label='''ノーフォーク'''|position=right|lat=52.5|long=-0.60|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
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{{Location map~|England|label='''サマセット'''|position=right|lat=51.2|long=-4.0|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label='''コーンウォール'''|position=right|lat=50.6|long=-6.4|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
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{{Location map~|England|label=<center>'''スコットランド王国'''</center>|position=right|lat=55.3|long=-5.8|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
}}
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15世紀のイングランドは神授権を主張し、民衆からは神に指示され導かれる「聖別された君侯」と信じられていた国王に統治されていた<ref name="W5">[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], p.5.</ref>。王権の主なる機能は敵から民衆を守ること、公正に統治すること、そして法を維持執行することであった<ref name="W5"/>。このような社会での主権者の性格は自らの安全確保と臣下の安寧に依拠するがために肝要であった<ref name="W6">[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], p.6.</ref>。統治と君臨によって国王は強大な権力を振るうが、300万人の国民を擁する政府の複雑性は政府機関の数が増すとともに臣下への権限の委任の増加を導いた<ref name="W6"/>。

王位継承法は明確なものではなかったが、一般的には年長の子とその相続人に継承させる長男子相続権の規則が適用されていた。12世紀の[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]]女王の短い治世から、1399年のリチャード2世の廃位までの時期は[[プランタジネット朝]]には多数の男系継承者が存在していたためにこの長男子相続権でも問題が生じなかった<ref name="W9">[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], p.9.</ref>。しかしながら、1399年から15世紀の末には、法学者[[ジョン・フォーテスキュー]]の1460年代の著作が言うところの、「強大化しすぎた臣下」の台頭により、王位は抗争の的となった<ref name="W7">[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], p.7.</ref>。この時代は王位を請求する者、もしくはその黒幕とならんとの野心を持つ、強大な大貴族があまりにも多くいた<ref name="W7"/>。この結果、新たなそして不穏な要素が王位継承の決定に加わることになり、権力に対する恣意の横行となった<ref name="W7"/>。

国土の防衛はとりわけ重要であり、イングランド国民の多くが軍事的成功に重きを置いていた。それ故に国王は有能な戦士と見なされねばならなかった。薔薇戦争の名で知られる一連の内戦の決定的な要因は国王自身は常備軍を有していなかったことである。国王は必要な際に自らを守る兵の動員を貴族たちに依存しており、そのため、もしも刺激させればその兵力を国王に向けかねない、貴族や[[ジェントリ]](郷紳)との関係を良好に保つことが不可欠であった。このことは国王が大貴族間の権力闘争(とりわけ、王国の安定を脅かしかねないもの)を抑止する責務にもつながっている<ref name="W6"/>。

[[File:Scudamorearmor2.jpg|thumb|left|175px|イングランド騎士の甲冑。写真は16世紀・テューダー朝時代のもの。]]
薔薇戦争は主に{{仮リンク|不在地主所有権|label=大土地所有|en|Landed property}}の大貴族の間で行われた。彼らは王族たる公爵、比較的少数の侯爵や伯爵、多数の男爵と騎士そして土着のジェントリたちであった<ref name="W8">[[#Weir(1998)|Weir(1998)]], p.8.</ref>。彼らは広大な私有地を持つ一方で、投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって政治的影響力を拡大していた<ref name="W9"/>。彼らは封建的な{{ルビ|扈従|こじゅう}}(''retainer''または''tenants'')からなる武力によって支えられており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。雇用された多数の兵士を統制する行為は「幇助」(''maintenance'')として知られる。このような私兵の規模のほかに、貴族の威信は「扈従団」(''affinity'':アフィニティ)によっても計られた<ref name="W9"/>。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ」(''livery'':そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍する。その見返りとして、貴族は年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を与えた<ref name="W9"/>。この非公式な「[[お仕着せと幇助]]」(''[[:en:livery and maintenance|livery and maintenance]]'')の制度は百年戦争に続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度本来の土地の授受を媒介とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、「仕着せされた扈従」(''liveried retainer'')として貴族と請負契約を結ぶ、歴史家の言うところの、「[[擬似封建制度]]」(''[[:en:bastard feudalism|bastard feudalism]]'')の一環であった<ref name="W9"/><ref>[[#グラヴェット(2002)|グラヴェット(2002)]],p.58,64.</ref>。薔薇戦争の時期にはフランスでの戦いに敗れイングランド軍から除隊させられた多数の兵士たちの存在があった。貴族たちは彼らを雇用して襲撃、または従臣とともに法廷に引き連れて行き原告や傍聴人そして判事に対する威嚇に用いた(訴訟不法幇助)<ref>[[#川北他(今井他(1990)|今井他(1990)]],pp.13-14.</ref>。
前世紀の戦争の経験から、弓兵に対する騎兵突撃が極めて危険なことが分かり、[[騎兵]](装甲兵)たちはほとんどの場合、徒歩で戦った<ref>[[#グラヴェット(2002)|グラヴェット(2002)]],pp.77-81</ref>。しかしながら、これはしばしば言われることだが貴族の方が兵士よりも危険が大きかった。ブルゴーニュ人の観察者{{仮リンク|フィリップ・ド・コミュンヌ|en|Philippe de Commines}}は、エドワード4世が戦場で勝利を決した際に「兵士は逃がしてやれ、だが貴族は容赦するな」と命じていたと伝えている<ref>[[#Wise & Embleton (1983)|Wise & Embleton (1983)]], pp.3-4.</ref>。
{{-}}

== 第一次内乱 ==
===第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日===
{|style="float:right"
|-
!!!第一次内乱初期(1455年)
|-
|style="width:1em"|
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{{Location map+|England|width=250|AlternativeMap=England south of the humber and east of the isle of wight.png|alt=|float=right|caption=
|places=
{{Location map~|England|label='''ロンドン'''|position=bottom|lat=51.8|long=-3.0|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=レスター|position=right|lat=53.8|long=-5.0|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=コヴェントリー|position=right|lat=53.5|long=-6.5|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=カレー|position=bottom|lat=50.7|long=1.0|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=<center><small>第一次セント・オールバーンズ</small></center>|position=left|lat=52.2|long=-3.5|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=25}}
}}
|-
|
|style="border:1px solid #000000"|
[[File:Yorkshire rose.svg|20px]] '''ヨーク派'''<br>
<small>
*[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]
*[[リチャード・ネヴィル (第5代ソールズベリー伯)|ソールズベリー伯リチャード・ネヴィル]]
**[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯リチャード・ネヴィル]]
</small>
[[File:Lancashire rose.svg|20px]] '''ランカスター派'''
<small>
*[[File:Chess kdt45.svg|20px]][[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]
**[[File:Chess qdt45.svg|20px]][[マーガレット・オブ・アンジュー]]
*[[エドムンド・ボーフォート (第2代サマセット公)|サマセット公エドムンド・ボーフォート]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
</small>
<br>
[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]–戦死または処刑。
|}
{{main|セント・オールバーンズの戦い (1455年)}}
[[File:Choosing the Red and White Roses.jpg|thumb|left|200px|[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]作『[[ヘンリー六世 第1部]]』の一場面。ヨーク公リチャード(左)と同志が白いバラを選び、サマセット公エドムンド(右)は赤いバラを選んでいる。<br>Henry Payne画。1908年頃。]]
1455年5月、大評議会開催のために[[レスター]]に向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃そしてサマセット公エドムンドの宮廷一行は、公正な審理を求めるべくロンドンに向けて南下していたヨーク公リチャードの軍勢と対峙することになった<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.355;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.9.</ref>。5月22日、ロンドン北方の[[セント・オールバンズ]]で両軍は衝突する。比較的小規模なこの[[セント・オールバーンズの戦い (1455年)|第一次セント・オールバーンズの戦い]]はこの内戦における最初の会戦となった<ref>[[#ブリッグズ(2004)|ブリッグズ(2004)]],p.147.</ref>。戦いはランカスター派の敗北に終わり、サマセット公は戦死し、ノーサンバランド伯をはじめとするランカスター派の主だった指導者たちは処刑された<ref name=Wise200109>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.9.</ref>。会戦の後、ヨーク派は評議員や従者たちに見捨てられて陣幕で一人たたずんでいたヘンリー6世を見つけ、国王は明らかに精神異常に陥った状態だった(国王は首に軽い矢傷を負ってもいた)<ref>[[#Farquhar(2001)|Farquhar(2001)]],p.131.</ref>。

この勝利により、ヨーク公と彼の同盟者たちは再び影響力を取り戻した。10月、国王が執務不能なためにヨーク公リチャードが再び護国卿に任命され、議会は彼が国王に武器を向けたことについて不問に付した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.355.</ref>。ヘンリー6世が回復すると、1456年2月にヨーク公は護国卿を解任された<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.136</ref>。同年6月、ヘンリー6世は[[ミッドランド・ディストリクト|ミッドランド]]地方に行幸をし、マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近い[[コヴェントリー]]に宮廷を置かせた<ref name=aoyama433>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.433.</ref>。その後、サマセット公[[ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公)|ヘンリー・ボーフォート]](戦死したサマセット公エドムンドの子)が国王の寵臣として台頭するようになった。一方、ヨーク公はアイルランド総督に復職しており、またウォリック伯はカレー総督となり、おのおのヨーク派の拠点となしていた<ref name=aoyama433/>。

首都と北イングランド(ネヴィル家とバシー家の戦闘が再開していた<ref name=Rowse138>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.138</ref>)での無秩序が広まり、南部海岸ではフランス海軍による海賊行為が増加していたが、国王と王妃は自らの地位を保つために動かなかった。一方、ヨーク派のウォリック伯(後にキングメーカーの異名を受ける<ref name=kingmaker group=n/>)は商人の守護者としてロンドンで人気を集めるようになっていた<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.356.</ref>。

1458年春、[[カンタベリー大司教]]{{仮リンク|トマス・バウチャー|en|Thomas Bourchier (bishop)}}は両派の和解を調停しようとした。大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、町は武装した従臣たちでいっぱいになった。大司教は第一次セント・オールバーンズの戦い以降の流血の私闘を解決するための複雑な和解策を話し合った。その後、3月25日の「[[聖母マリアの受胎告知の祝日]]」(''[[:en:Lady Day|Lady Day]]'')に国王は「愛の日」(''Love day'')の教会行列を[[セント・ポール大聖堂]]に向かって挙行し、ランカスター派とヨーク派の貴族たちが手に手をとってこれに続いた<ref name=Rowse138/>。教会行列と会議が終わるとすぐに陰謀が再開した。

カレー総督のウォリック伯は[[ハンザ同盟]]や[[スペイン]]の船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった<ref name=Britannica339>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXVIII. "WARWICK,RICHARD NEVILLE"|url=http://archive.org/stream/encyclopaediabri28chisrich#page/339/mode/1up|publisher=|page=339-340|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年6月23日}}</ref>。彼は査問のためにロンドンに召還されたが、自分の生命を脅かそうとする企てがあると主張してカレーに戻ってしまった<ref name=Britannica339/>。ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集されたものの、彼らは自らの支持者から切り離された上で逮捕されると危惧しており、これを拒絶した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.356;[[#Royle(2009)|Royle(2009)]], pp.239–240;[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.139.</ref>。

{{-}}

===戦闘の再開と合意令===
[[File:Ludlow Castle from Whitcliffe, 2011.jpg|left|thumb|250px|ラドロー城、[[シュロップシャー]]南部]]
ヨーク公はネヴィル一族を{{仮リンク|ウェールズ・マーチ|label=ウェールズ境界地方|en|Welsh Marches}}の[[ラドロー城]]に集結させた。1459年9月23日、ランカスター軍は[[ヨークシャー]]の[[ミドルハム城]]からラドロー城へ向かっていたソールズベリー伯の進軍をスタッフォードシャーの[[ブロア・ヒースの戦い]]で迎え撃ったが敗北した。それから暫く後の10月12日、合流したヨーク軍は[[ラドフォード橋の戦い]]で、数に勝るランカスター軍と対戦する。戦いはウォリック伯がカレー守備隊から派遣した{{仮リンク|アンドリュー・トロロープ|en|Andrew Trollope}}の部隊が寝返ったためにヨーク軍の敗北に終わった<ref name=Wise200109/>。ヨーク公はアイルランドへ戻り、彼の長男の[[エドワード4世 (イングランド王)|マーチ伯エドワード]]、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はカレーへ逃れた<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.434.</ref>。

ランカスター派が主導権を取り戻し、ヨーク公とその支持者たちは反逆罪で私権剥奪処分を受けて所領と称号を奪われ、ヨーク公とその子孫の王位継承権も欠格とされた<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.358;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.434.</ref>。サマセット公がカレーを接収すべく派遣されたが、ウォリック伯はカレー守り抜いた<ref name=Britannica339/>。1460年1月から6月にかけて、ウォリック伯はカレーからイングランド沿岸部を逆襲して国王軍に打撃を与えた<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],pp.434-435.</ref>。3月、ウォリック伯はヨーク公と作戦を協議するためにカレーを発し、[[ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)|エクセター公]]率いる国王艦隊をたくみにかわしてアイルランドに渡った<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.140</ref><ref name=Britannica339/>。

1460年6月、ソールズベリー伯とウォリック伯そしてマーチ伯エドワードが海峡を越えて[[サンドウィッチ (ケント州)|サンドウィッチ]]に上陸し、人望の厚いウォリック伯のもとに兵が集まり、7月にロンドン塔を除くロンドン市街を制圧した<ref name=Wise200110>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.10.</ref>。コヴェントリーの宮廷にいた国王と王妃は兵を軍隊を召集すると、ヨーク派に対するべくヘンリー6世の軍は南下し、マーガレット王妃はエドワード王子とともにコヴェントリーに留まった<ref name=Wise200110/>。7月10日の[[ノーサンプトンの戦い (1460年)|ノーサンプトンの戦い]]でウォリック伯は、{{仮リンク|エドムンド・グレイ (初代ケント伯)|label=グレイ卿|en|Edmund Grey, 1st Earl of Kent}}の裏切りもあって<ref name=Wise200110/>、ランカスター軍を撃破できた。この戦いで、ランカスター派の[[ハンフリー・スタフォード (バッキンガム公)|バッキンガム公ハンフリー・スタフォード]]、{{仮リンク|ジョン・タルボット (2代シュルーズベリー伯)|label=シュルーズベリー伯|en|John Talbot, 2nd Earl of Shrewsbury}}、エグリモント卿、ボーモント卿らが戦死した。ヘンリー6世はまたもヨーク派に捕らえられ、彼は明らかに精神異常に見舞われている様子だった。国王を手中に収めたヨーク派はロンドンに凱旋する。

この軍事的成功を踏まえ、ヨーク公リチャードはランカスター家系の非合法性を根拠とする王位請求へと動いた。ウェールズに上陸したヨーク公とその妻[[セシリー・ネヴィル|セシリー]]は国王と同じ形式でロンドンに入城した<ref name=Britannica926>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXVIII. "YORK,RICHARD"|url=http://archive.org/stream/encyclopaediabri28chisrich#page/926/mode/1up|publisher=|page=926-927|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年6月23日}}</ref>。10月に開催された議会でヨーク公は王座を占めようとするが制止され<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.435.</ref>、王位請求を宣言するものの、諸侯たち、ソールズベリー伯やウォリック伯までもが、依然としてヘンリー6世に対する忠誠義務を捨ててはおらずヨーク公に同調しようとはしなかった<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],pp.435-436.</ref>。

ヨーク公は、自らがランカスター家より兄の血統にあたるライオネル・オブ・アントワープの子孫であることを根拠に、より優位の王位継承権を有すると主張する文書を貴族院に送り、重ねて王位を請求した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.358;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.435;[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.127.</ref>。議会における長い議論の後に、妥協案である「[[合意令]]」(''[[:en:Act of Accord|Act of Accord]]'')が成立した。ヨーク公がヘンリー6世の王位継承者と認められ、6歳のエドワード王子の継承権は排除された<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.436.</ref>。この取り決めは彼に要求した大部分を与えており、彼は護国卿に就任し、ヘンリー6世の名の下で全土を支配しえた。

===ランカスター軍の反撃===
[[File:MargaretAnjou.jpg|thumb|200px|マーガレット・オブ・アンジュー。<br>Talbot Masterga画。1445年頃。<br>夫ヘンリー6世に代わり、ランカスター派の中核としてヨーク派に執拗に抵抗した。シェイクスピアは劇中で彼女を「フランスの雌狼」と表現した<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.260.</ref>。]]
マーガレット王妃とエドワード王子は依然としてランカスター派の勢力圏にあった北部ウェールズへと逃れた。その後、彼らは海路[[スコットランド]]に渡り、援助を仰いだ。スコットランド王[[ジェームズ2世 (スコットランド王)|ジェームズ2世]]の王妃[[メアリー・オブ・グエルダース]]は軍隊の貸与の条件として[[ベリック・アポン・ツイード|ベリック]]の割譲とメアリーの王女とエドワード王子との婚約を提示した。マーガレット王妃はこの条件を呑んだが、彼女には兵士に給与を支払う財産がなく、南イングランドでの略奪を認めた<ref name=WA12436>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.12;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.436.</ref>。

マーガレット王妃の軍はヨークシャーを制圧し、彼女の元へランカスター派が集結した<ref name=Wise200110/>。1460年暮れに、ヨーク公リチャードはソールズベリー伯とともに北部のランカスター軍を討つべくロンドンを出立した。12月21日にヨーク公は[[ウェークフィールド]]近郊の{{仮リンク|サンダル城|en|Sandal Castle}}に入るが、マーガレット王妃の軍勢はヨーク公の4倍に膨れ上がっており、彼は援軍を待って城に留まるが、ランカスター軍はこれを包囲して食糧補給を遮断した<ref>[[#グラヴェット(2002)|グラヴェット(2002)]],p.140;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.10.</ref>。12月30日にヨーク公は城を出撃してランカスター軍に対して野戦を挑んだ。[[ウェイクフィールドの戦い]]はランカスター軍の勝利に終わり、ヨーク公と17歳の次男の[[ラットランド伯エドムンド]]が戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された<ref>[[#グラヴェット(2002)|グラヴェット(2002)]],p.55;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.11.</ref>。マーガレット王妃はヨーク公の首に紙の王冠を被せたうえで彼らの首をヨークの城門にさらさせた<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.360;[[#鈴木(1994)|鈴木(1994)]],p.111.</ref><ref name=Britannica926/>。

[[file:Sundogs - New Ulm-Edit1.JPG|left|thumb|200px|太陽が三つに見える幻日現象の写真。]]
ウェークフィールドの戦いの結果、戦死したヨーク公リチャードの長男で18歳のマーチ伯エドワードがヨーク公位および合意令に基づく王位請求を継承することになった。彼はウェールズ境界地方の親ヨーク派の軍勢を糾合し、1461年2月2日、ウェールズに侵攻してきた[[オウエン・テューダー]]、[[ペンブルック伯]][[ジャスパー・テューダー (ベッドフォード公)|ジャスパー・テューダー]]父子と{{仮リンク|ジェームズ・バトラー (第5代オーモンド伯)|label=ウィルトシャー伯ジェームズ・バトラー|en|James Butler, 5th Earl of Ormond}}の率いるランカスター軍を[[ヘレフォードシャー]]近くの[[モーティマーズ・クロスの戦い|モーティマーズ・クロス]]で迎え撃った。この戦いの前、彼は払暁に見えた三つの太陽([[幻日]]現象として知られる)を故ヨーク公リチャードの生き残った三人の息子(彼自身、ジョージそしてリチャード)の具現であるとし、勝利の前触れであると告げて兵たちを奮起させた<ref name=Hicks37>[[#Hicks(2003)|Hicks(2003)]],p.37.</ref>。このことに因み、エドワードは後に太陽の光彩を自らの{{仮リンク|ヘラルディック・バッジ|en|Heraldic badge}}(記章)に取り入れさせている。会戦はヨーク軍の勝利に終わり、ヨーク公エドワードはオウエン・テューダーを処刑した。

一方、敵の首領ヨーク公リチャードを討ち取ったマーガレット王妃のランカスター軍は南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指して南下を続けていた<ref name=Wise200112>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.12.</ref>。ウォリック伯はこれをヨーク派への支持を強めるためのプロパガンダに利用し、[[コヴェントリー]]の町はヨーク派に鞍替えしている。ウォリック伯の軍勢は交通上の要衝たるセント・オールバーンズの北側に陣地を築いたが、敵軍に数で圧倒されており、マーガレット王妃軍は西に迂回して背後から彼の軍勢に襲いかかった<ref name=Wise200112/>。2月17日の[[セント・オールバーンズの戦い (1461年)|第二次セント・オールバーンズの戦い]]はランカスター軍の圧勝に終わった。ヨーク軍はヘンリー6世を置き去りにして潰走し、国王は町の一軒家の中で発見された<ref name=Wise200112/>。

戦闘後、すぐにヘンリー6世は30人のランカスター軍兵士にナイト爵を授けた。マーガレット王妃は6歳になるエドワード・ウェストミンスター王子にヨーク軍の騎士(ヘンリー6世の警護役で会戦の間中、彼に付き添っていた)の処刑方法を決めさせている。

ランカスター軍の南イングランドでの略奪行為によりロンドン市民は恐慌状態に陥り、ランカスター派の威信は地に落ちていた<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.128;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.12;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.436.</ref>。マーガレット王妃はロンドンの明け渡し交渉を行うが、市民は城門を閉じて国王と王妃の入城を拒んだ<<ref name=WA12436/>。

===ヨーク派の勝利===
[[File:Richard Caton Woodville's The Battle of Towton.jpg|thumb|250px|タウトンの戦い。<br>{{仮リンク|リチャード・カトン・ウッドヴィル・ジュニア|en|Richard Caton Woodville, Jr.}}画。1922年。]]
ウォリック伯の残存兵力と合流したヨーク公エドワードの軍勢は西部からロンドンへと進軍した。同じ頃、王妃軍は{{仮リンク|ダンステーブル|en|Dunstable}}に撤退しており、1461年2月27日、ヨーク公エドワードとウォリック伯は難なくロンドンに入城できた。ロンドン市民は彼らを熱狂をもって迎え、ヨーク派は市当局から財政援助も受けた<ref name=aoyama437>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.437.</ref>。

この時点においてエドワードはもはや「君側の奸を除く」とは主張しなくなっており、この内戦は王位争奪戦となった。ヨーク派は先年の合意令に基づく正当なる王位継承者(ヨーク公リチャード)の殺害を許したヘンリー6世は王位にあり続ける権利を喪失したと主張した<ref name=aoyama437/>。3月4日、7人の聖俗諸侯からなる評議会とロンドン市民からの推戴を受けたヨーク公エドワードは王位についた('''エドワード4世''')<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.128;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.437.</ref>。彼はヘンリー6世とマーガレット王妃を処刑するか国外追放するまで公式な[[戴冠式]]は行わないと誓った。

3月19日、ヨーク軍がロンドンを出立し、エドワードとウォリック伯は兵を集めつつ北上した。3月27日から28日にかけてウォリック伯率いる前衛部隊がランカスター派の本拠ヨーク近くでランカスター軍と衝突した([[フェリブリッジの戦い]])<ref>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.13.</ref>。

3月29日、ヨーク西方のタウトンで両軍の決戦が行われた。この[[タウトンの戦い]]は薔薇戦争最大の戦いとなった。強風と降雪の中で数万の兵が衝突し、終日戦われたこの会戦は、エドワード率いるヨーク軍の決定的な勝利に終わり、ランカスター軍は指揮官の多くが命を落として潰走した<ref name=Hicks37/>。ヨーク軍約12,000人、ランカスター軍約20,000人が戦死しており、イギリス本土において一日の戦闘で命を落とした数としては最大のものとなった<ref group=n>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]](p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって異動がある。</ref>。

ヨークで待機していたヘンリー6世と王妃そしてエドワード王子は敗戦を伝えられるとスコットランドへ逃亡した<ref name=Wise200114>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.14.</ref>。生き残ったランカスター派の貴族の多くは新国王エドワードに忠誠を誓い、それ以外の者たちは北部国境地帯やウェールズの城塞に立て籠もった。エドワードはヨークを占領すると城門に掲げられていた彼の父と弟そしてソールズベリー伯の首級を降ろさせ、代わりにウェークフィールドの戦いの後にラットランド伯エドマンドを処刑したことで悪名高い[[ジョン・クリフォード (クリフォード男爵)|クリフォード卿ジョン]]をはじめとするランカスター派貴族の首級をさらさせている。

===エドワード4世の即位とランカスター派掃討===
[[File:Edward IV Plantagenet.jpg|right|thumb|200px|エドワード4世。<br>作者不明。1520年頃。]]
1461年6月、ロンドンにおいて、エドワード4世の正式な戴冠式が、支持者たちからの熱狂的な歓迎を受けつつ挙行された。エドワード4世はおよそ10年間、比較的平穏な統治を行った。

北部では、エドワード4世の支配は1465年まで完遂しなかった。タウントンの戦いの後、ヘンリー6世とマーガレット王妃はスコットランドに逃れ、ジェームス3世の宮廷に身を寄せた。この年の暮れにランカスター軍は[[カーライル (イングランド)|カーライル]]を攻撃したものの、資金のない彼らは容易に撃退され、エドワード4世の軍隊は北部地方に残るランカスター残党を掃討を行った。{{仮リンク|ダンスタンバラ城|en|Dunstanburgh Castle}}、[[アニック城]](パーシー家の本拠)、{{仮リンク|バンバラ城|en|Bamburgh Castle}}といったノーサンバランドのランカスター派の城塞は数年に渡って持ちこたえている。

1464年には北イングランドでランカスター派の蜂起が起こった。サマセット公[[ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公)|ヘンリー・ボーフォート]](タウトンの戦い後、エドワード4世に帰順していた)を含むランカスター派貴族が反乱を指揮した。この反乱はウォリック伯の弟[[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|モンターギュ卿ジョン・ネヴィル]]によって鎮圧された。寡兵のランカスター軍は4月25日の[[ヘッジレイ・ムーアの戦い]]で打ち破られたが、この時のモンターギュ卿はヨークへと向かうスコットランド使節を護衛する任務中であったために即座に追撃することはできなかった<ref name=Wise200114/>。5月15日の[[ヘクサムの戦い]]でランカスター軍は撃滅されてサマセット公ら指導者たちは捕らえられ、後に処刑されている<ref name=Wise200114/>。

北部のランカスター派城塞はこれ以前に陥落しており<ref name=Wise200115>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.15.</ref>、1465年には[[ランカシャー]]の{{仮リンク|クリザーロー|en|Clitheroe}}でヘンリー6世が捕らえられた。彼はロンドンに連行されて[[ロンドン塔]]に幽閉され、当面は丁重に遇された。同時期にイングランドとスコットランドとの妥協が成立すると、マーガレット王妃とエドワード王子はスコットランドからの退去を余儀なくされ、海路でフランスに渡り、数年間の窮迫した亡命生活に甘んじなければならなかった<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], pp.155–156.</ref>。

唯一残っていたランカスター派の拠点、ウェールズの[[ハーレフ城]]は7年の包囲戦の末、1468年に降伏した。
=== 第一次内乱関係図表 ===
{|
|+'''<big>第一次内乱後期(1459年 - 1468年)</big>'''
!!!
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
{{Location map+|England|width=425|AlternativeMap=England location map.png|alt=|float=right|caption=[[file:Battle_icon_(crossed_swords).svg|20px]]–<span style="color:#00f">青文字:ヨーク軍勝利</span><br>[[file:Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|20px]]–<span style="color:red">赤文字:ランカスター軍勝利</span><br>[[file:Battle_icon_(crossed_swords).svg|20px]]–黒文字:引き分け<br>[[file:Icone chateau renaissance 02.svg|20px]]–城塞
|places=
{{Location map~|England|label=①<small><span style="color:#00f">ブロア・ヒース</span></small>|position=|lat=52.913611|long=-2.9|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=②<small><span style="color:red">ラドフォード橋</span></small>|position=right|lat=52.1|long=-3.1|mark=Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|marksize=18}}
{{Location map~|England|label=③<small><span style="color:#00f">ノーサンプトン</span></small>|position=right|lat=52.1|long=-1.3|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=④<small><span style="color:red">ウェイク<br>フィールド</span></small>|position=left|lat=53.6|long=-2.0|mark=Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|marksize=18}}
{{Location map~|England|label=⑤<small><span style="color:#00f">モーティマーズ<br>クロス</span></small>|position=left|lat=52.0|long=-3.5|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=⑥<small><span style="color:red">第二次セント<br>オールバーンズ</span></small>|position=left|lat=51.6|long=-0.8|mark=Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|marksize=18}}
{{Location map~|England|label=⑦<small>フェリブリッジ</small>|position=right|lat=53.6|long=-1.7|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=⑧<small><span style="color:#00f">タウトン</span></small>|position=right|lat=53.8|long=-1.8|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=⑨<small><span style="color:#00f">ヘッジレイ<br>ムーア</span></small>|position=left|lat=55.35|long=-2.7|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=⑩<small><span style="color:#00f">ヘクサム</span></small>|position=|lat=55.0|long=-2.7|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=<small>ベリック</small>|position=left|lat=55.7|long=-2.5|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>ロンドン</small>|position=bottom|lat=51.38|long=-0.4|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>ヨーク</small>|position=reft|lat=53.958333|long=-1.7|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>サンドウィッチ</small>|position=bottom|lat=51.3|long=1.1|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>コヴェントリー</small>|position=|lat=52.3|long=-1.8|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>ダンステーブル</small>|position=|lat=51.8|long=-1.0|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>カレー</small>|position=bottom|lat=50.8|long=1.4|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>クリザーロー</small>|position=left|lat=53.8|long=-2.9|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>ラドロー</small>|position=top|lat=52.3|long=-3.2|mark=Icone chateau renaissance 02.svg|marksize=15}}
{{Location map~|England|label=<small>アニック</small>|position=|lat=55.2|long=-2.1|mark=Icone chateau renaissance 02.svg|marksize=15}}
{{Location map~|England|label=<small>ダンスタンバラ</small>|position=|lat=55.35|long=-2.0|mark=Icone chateau renaissance 02.svg|marksize=15}}
{{Location map~|England|label=<small>バンバラ</small>|position=|lat=55.6|long=-2.2|mark=Icone chateau renaissance 02.svg|marksize=15}}
{{Location map~|England|label=<small>ハーレフ</small>|position=|lat=52.9|long=-4.8|mark=Icone chateau renaissance 02.svg|marksize=15}}

}}
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
{|class="wikitable" style="width:100%"
!番号!!会戦名!!年月日!!結果
|-
|style="text-align:center"|<big>①</big>||[[ブロア・ヒースの戦い]]||1459年9月23日||[[File:Yorkshire rose.svg|20px]]ヨーク軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>②</big>||[[ラドフォード橋の戦い]]||1459年10月12日||[[File:Lancashire rose.svg|20px]]ランカスター軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>③</big>||[[ノーサンプトンの戦い (1460年)|ノーサンプトンの戦い]]||1460年7月10日||[[File:Yorkshire rose.svg|21px]]ヨーク軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>④</big>||[[ウェイクフィールドの戦い]]||1460年12月30日||[[File:Lancashire rose.svg|21px]]ランカスター軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>⑤</big>||[[モーティマーズ・クロスの戦い]]||1461年2月2日||[[File:Yorkshire rose.svg|22px]]ヨーク軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>⑥</big>||[[セント・オールバーンズの戦い (1461年)|第二次セント・オールバーンズの戦い]]||1461年2月22日||[[File:Lancashire rose.svg|22px]]ランカスター軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>⑦</big>||[[フェリブリッジの戦い]]||1461年3月28日||引き分け
|-
|style="text-align:center"|<big>⑧</big>||[[タウトンの戦い]]||1461年3月29日||[[File:Yorkshire rose.svg|23px]]ヨーク軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>⑨</big>||[[ヘッジレイ・ムーアの戦い]]||1464年4月25日||[[File:Yorkshire rose.svg|23px]]ヨーク軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>⑩</big>||[[ヘクサムの戦い]]||1464年5月15日||[[File:Yorkshire rose.svg|23px]]ヨーク軍勝利
|}
{|class="wikitable" style="width:100%"
|+主要人物
! [[File:Yorkshire rose.svg|20px]] '''ヨーク派''' !! [[File:Lancashire rose.svg|20px]] '''ランカスター派'''
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
*[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**マーチ伯エドワード([[File:Chess klt45.svg|20px]][[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]])
**[[ラットランド伯エドムンド]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|ジョージ・プランタジネット]]
**[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード・プランタジネット]]
*[[リチャード・ネヴィル (第5代ソールズベリー伯)|ソールズベリー伯リチャード・ネヴィル]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯リチャード・ネヴィル]]
**[[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|モンターギュ卿ジョン・ネヴィル]]
*[[ジョン・モウブレー (第3代ノーフォーク公)|ノーフォーク公ジョン・モウブレー]]
*{{仮リンク|ウィリアム・ハルバート (初代ペンブルック伯)|label=ウィリアム・ハルバート|en|William Herbert, 1st Earl of Pembroke (8th Creation)}}
*{{仮リンク|ウィリアム・ヘイスティングス|label=ヘイスティングス卿ウィリアム|en|William Hastings, 1st Baron Hastings}}
*[[ウィリアム・ネヴィル (ケント伯)|フォーコンバーグ卿ウィリアム・ネヴィル]]
*[[ジョン・ネヴィル (ネヴィル・ドゥ・レビィ男爵)|ネヴィル・ドゥ・レビィ卿ジョン・ネヴィル]][[File:Human-process-stop.svg|20px]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
*[[File:Chess kdt45.svg|20px]][[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]
**[[File:Chess qdt45.svg|20px]][[マーガレット・オブ・アンジュー]]
**[[エドワード・オブ・ウェストミンスター]]
*[[ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公)|サマセット公ヘンリー・ボーフォート]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)|エクセター公ヘンリー・ホランド]]
*[[ハンフリー・スタフォード (バッキンガム公)|バッキンガム公ハンフリー・スタフォード]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[ヘンリー・パーシー (第3代ノーサンバランド伯)|ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*{{仮リンク|ジョン・タルボット (2代シュルーズベリー伯)|label=シュルーズベリー伯ジョン・タルボット|en|John Talbot, 2nd Earl of Shrewsbury}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*{{仮リンク|ラルフ・ネヴィル (第2代ウェストモーランド伯)|label=ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル|en|Ralph Neville, 2nd Earl of Westmorland}}
*{{仮リンク|ジェームズ・バトラー (第5代オーモンド伯)|label=ウィルトシャー伯ジェームズ・バトラー|en|James Butler, 5th Earl of Ormond}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[オウエン・テューダー]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**[[エドマンド・テューダー (リッチモンド伯)|リッチモンド伯エドマンド・テューダー]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**[[ジャスパー・テューダー (ベッドフォード公)|ペンブルック伯ジャスパー・テューダー]]
*[[ジョン・クリフォード (クリフォード男爵)|クリフォード卿ジョン]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
|-
| colspan="2" | [[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]–戦死または処刑<br>[[File:Human-process-stop.svg|20px]]—ランカスター派に寝返り。
|}
|}

==第二次内乱==
=== ウォリック伯の反乱 ===
[[File:A Chronicle of England - Page 412 - Edward IV and Lady Elizabeth Grey.jpg|thumb|300px|''A Chronicle of England''、1864年。<br>未亡人となったエリザベス・ウッドヴィルがエドワード4世の元へ領地の返還を請願に訪れたことが出会いとなった。彼女との身分違いの結婚が後の動乱を招くことになった。]]
エドワード4世擁立の立役者となったウォリック伯はイングランド最大の土地所有者になっていた。妻の財産によって、すでに傑出した大貴族になっていたが、この上、彼は父の領地を相続し、さらには没収されたランカスター派貴族の領地をも与えられていた。彼には五港長官職とカレー守備隊司令職が与えられた<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.362.</ref>。彼は親仏派の立場をとり、エドワード4世とフランス王族との縁組を[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]と交渉していた<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.438.</ref>。だが、エドワード4世はランカスター派騎士の未亡人の[[エリザベス・ウッドヴィル]]と1464年に秘密結婚をしていた。後にエドワード4世はこれを「くつがえせない事柄」(''fait accompli'')として公表し、縁談を進めていたウォリック伯の面目を失わせることになった<ref>[[#川北(1998)|川北(1998)]],p.130;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],pp.438-439.</ref>。

エドワード4世はエリザベス王妃の父{{仮リンク|リチャード・ウッドヴィル (初代リバース伯)|label=リチャード・ウッドヴィル|en|Richard Woodville, 1st Earl Rivers}}をリバース伯に、弟の{{仮リンク|ジョン・ウッドヴィル|label=ジョン|en|John Woodville}}をスケールズ卿に、そして連れ子の{{仮リンク|トマス・グレイ (初代ドーセット候)|label=トマス・グレイ|en|Thomas Grey, 1st Marquess of Dorset}}をドーセット候となし、親族の多くを貴族と結婚させ、その他の者たちも爵位や官職を授与した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.363-364;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.439.</ref>。エドワード4世はウッドヴィル一族の重用に留まらず、側近たちにも爵位を与え、さらにはネヴィル一族の宿敵であるパーシー家の遺児[[ヘンリー・パーシー (第4代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー ]]にノーサンバランド伯爵位を返還させ独自の党派形成を策した<ref name=Wise200115/>。

[[File:Warwick1.jpg|left|thumb|210px|ウォリック伯リチャード・ネヴィル。<br>第一次内乱ではエドワード4世即位に大功あり、第二次内乱では彼を廃してヘンリー6世を復位させたことにより、後世「[[キングメーカー]]」(国王製造人)の異名を受けた<ref name=kingmaker group=n>「[[キングメーカー]]」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。[[#森(2000)|森(2000)]],pp.275-276.</ref>。]]
エドワード4世がフランス国王との同盟ではなく、[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]](突進公)に王妹[[マーガレット・オブ・ヨーク|マーガレット]]を嫁がせて同盟を結んだことや、弟のクラレンス公、グロース公とウォリック伯の娘との縁組に乗り気でなかったこともウォリック伯を失望させる要因となっていた<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.364;[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.131;[[#青山他(1991)|青山他(1991]],p.439.</ref>。エドワード4世もウォリック伯の弟の{{仮リンク|ヨーク大司教|en|Archbishop of York}}{{仮リンク|ジョージ・ネヴィル|label=ジョージ|en|George Neville (archbishop)}}を尚書部長官職から解任して、ネヴィル一族排除の動きを見せる<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991]],p.439.</ref>。

ウォリック伯は任地のカレーから国王の不正を糾弾するとともに、エドワード4世の意に反してウォリック伯の娘[[イザベル・ネヴィル|イザベル]]と結婚した王弟クラレンス公ジョージと盟約を結んだ<ref>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.15;[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.131.</ref>。1469年4月、ウォリック伯の扇動によって北部地方で{{仮リンク|レデスデールのロビン|en|Robin of Redesdale}}の反乱が起き、エドワード4世は鎮圧に赴いた。ウォリック伯はカレーの軍勢を率いてケントに上陸するが、エドワード4世は7月6日の[[エッジコート・ムーアの戦い]]で反乱軍に敗れてしまっていた<ref name=Wise200115/>。エドワード4世はバッキンガムシャーのオルニーで捕らえられ、ヨークシャーの[[ミドルハム城]]に幽閉された<ref name=Wise200115/>。ウォリック伯は王妃の父親のリバース伯と弟のジョンを処刑し、エドワード4世の側近たちも粛清したが、エドワード4世自身の非合法性を唱えてクラレンス公擁立する動きをすぐには起こさなかった<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.162</ref><ref group=n>ウォリック伯はエドワード4世は母[[セシリー・ネヴィル]]の不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。<BR>{{cite web|title=Was King Edward IV illegitimate?|url=http://vanorabennett.com/book/figures-in-silk-aka-queen-of-silks-was-king-edward-iv-illegitimate/|publisher=|author=Vanora Bennett|page=|accessdate=2012年6月28日}}</ref>。

国内は大混乱に陥り、貴族たちは再び私兵を用いた抗争を始め、ランカスター派は反乱を扇動した<ref>[[#Baldwin(2002)|Baldwin(2002)]], p.43</ref>。ウォリック伯の権力掌握を支持する貴族は僅かだった。エドワード4世はヨーク大司教ジョージに伴われてロンドンに入り、ウォリック伯と表面的な和解をなした。

1470年3月、[[リンカンシャー]]でさらなる反乱が起った。エドワード4世はウォリック伯と疎遠な者を選んで国王軍を召集し<ref name=Wise200115/>、[[ルーズコート・フィールドの戦い]]で反乱軍を打ち破った。捕虜になった首謀者はウォリック伯とクラレンス公の教唆による反乱であったと証言した<ref name=Wise200115/>。彼らは反逆者と宣告され、フランスへの逃亡を余儀なくされた。
{{-}}

=== ヘンリー6世の復位と死 ===
[[File:A Chronicle of England - Page 417 - The Earl of Warwick Submits to Queen Margaret.jpg|thumb|270px|マーガレット王妃に忠誠を誓うウォリック伯。<br>''A Chronicle of England'',1864年]]
[[File:A Chronicle of England - Page 422 - Death of the 'King-maker' at Barnet.jpg|thumb|270px|ウォリック伯の最後。<br>''A Chronicle of England'',1864年]]
フランスにはマーガレット王妃とその息子が既に亡命していた。エドワード4世と彼の義弟にあたるブルゴーニュ公[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]](豪胆公)との同盟に危機感を持ったフランス王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]はウォリック伯とマーガレット王妃との同盟を提案した<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.131.</ref>。不倶戴天の敵同士だった両者は同盟に合意し、ウォリック伯は王妃に敵対行為を謝罪して忠誠を誓い、ウォリック伯の娘アンとマーガレット王妃の子エドワード・ウェストミンスターとの婚姻が成立した<ref name=Britannica339/><ref>[[#富沢(1988)|富沢(1988)]],p.229.</ref>。

この時、エドワード4世はヨークシャーでの反乱を鎮圧すべく軍を率いて北上中だった。従兄弟の{{仮リンク|トマス・ネヴィル|en|Thomas Neville}}率いる艦隊の支援を受けたウォリック伯とクラレンス公はイングランド南西部のダートマスに上陸した<ref name=Wise200115/>。ウォリック伯は10月にロンドンを占領し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてロンドン市街を行進させたが、獄中生活で憔悴しきり、文字通りの「影の薄い」姿だったという<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.259.</ref>。新たにモンターギュ侯爵位(実際の所領はなかった)を与えられたジョン・ネヴィルは大軍を率いてスコットランド辺境部へと兵を進めた。この事態はエドワード4世にとって予想外のことであり、軍隊を解散させると王弟グロスター公とともにドンカスターから海岸部に逃れて[[ホラント州|ホラント]]に渡り、ブルゴーニュに亡命した。だが、この段階になってもマーガレット王妃とエドワード王子はウォリック伯を信用せずにフランスから動こうとしなかった<ref name=Wise200115/>。

ウォリック伯の成功は短命なものであった。親仏派のマーガレット王妃とウォリック伯が牛耳るイングランドとフランスとの同盟成立に危機感を持ったブルゴーニュ公シャルルはこれに対抗すべく、エドワード4世にイングランド奪回のための軍を集める資金を提供する<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.285.</ref>。

1471年3月15日、エドワード4世はドイツとフランドルの傭兵からなる少数の軍勢とともにヨークシャー海岸の{{仮リンク|レーヴェンスパー|en|Ravenspur}}に上陸した<ref name=Wise200116>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.16.</ref>。彼はすぐにヨークの町を手に入れ、支持者たちを集めた。これを討つべくノーサンバランド伯、エクセター公、[[ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)|オックスフォード伯]]そしてウォリック伯の軍が差し向けられた。討伐軍をすり抜けてロンドンに向けて南下するエドワード4世の軍にウォリック伯を見限ったクラレンス公が合流した<ref name=Wise200116/>。4月11日、エドワード4世とクラレンス公はロンドンに入城し、ヘンリー6世を逮捕した<ref>[[#Hicks(2003)|Hicks(2003)]],p.45.</ref>。

4月14日、エドワード4世とウォリック伯の軍は[[バーネットの戦い]]で決戦をした。この会戦は深い霧の中で戦われ、ウォリック伯軍の一部は同士討ちを演じている<ref name=Wise200116/>。裏切りが発生したと思い込み混乱状態になったウォリック伯軍にエドワード4世軍の騎兵が突入し、ウォリック伯軍は総崩れになった<ref name=Wise200116/>。ウォリック伯は馬に乗ろうとしたところを斬られ、モンターギュ候も戦死した。
[[File:John Gilbert - Margaret of Anjou Taken Prisoner After the Battle of Tewkesbury (1875).jpg|thumb|left|250px|テュークスベリーの戦いに敗れ、連行されるマーガレット王妃。<br>John Gilbert画。1875年。]]
一方、マーガレット王妃とエドワード王子はバーネットの戦いの数日前に西南地方({{仮リンク|ウェスト・カントリー|en|West Country}})に上陸していた。フランスに引き返すよりは、ウェールズのランカスター派と合流することを選んだマーガレット王妃は[[セヴァーン川]]の渡河を図るが、グロスター公が通行を阻止したために失敗した<ref name=Wise200116/>。第5代サマセット公{{仮リンク|エドムンド・ボーフォート (第5代サマセット公)|label=エドムンド・ボーフォート|en|Edmund Beaufort, 4th Duke of Somerset}}が指揮する彼女の軍隊は捕捉され、5月4日の[[テュークスベリーの戦い]]で壊滅した。

捕らえられたエドワード王子とサマセット公は処刑された。戦いからしばらく後の5月14日にヘンリー6世も、ヨーク王朝を強固たらしめるために、殺害された。マーガレット王妃はフランス王ルイ11世が身代金を支払うまでの5年間、ロンドン塔に幽閉された<ref>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXVII. "MARGARET OF ANJOU"|url=http://archive.org/stream/encyclopaediabri17chisrich#page/702/mode/1up|publisher=|page=702-703|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年6月28日}}
</ref>。帰国後はフランス王にアンジュー家領の相続権を剥奪され、失意と貧窮の中で1482年に没した<ref>[[#石井(2006)|石井(2006)]],pP.19-20;[[#森(2000)|森(2000)]],p.262.</ref>。
{{-}}

=== 第二次内乱関係図表 ===
{|
|-
!!!
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
{{Location map+|England|width=500|AlternativeMap=England south location map.svg|alt=|float=right|caption=[[file:Battle_icon_(crossed_swords).svg|20px]]–<span style="color:#00f">青文字:ヨーク軍勝利</span><br>[[file:Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|20px]]–<span style="color:red">赤文字:ウォリック伯&ランカスター軍勝利</span>
|places=
<!--会戦-->
{{Location map~|England|label=|position=top|lat=54.4|long=-1.5|mark=Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=①<small><span style="color:red">エッジコート・ムーア</span></small>|position=top|lat=54.2|long=-1.5|mark=Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=|position=bottom|lat=55.5|long=-0.6|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=25}}
{{Location map~|England|label=②<span style="color:#00f"><small>ルーズコート<br>フィールド</small></span>|position=left|lat=55.49|long=-0.6|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=|position=top|lat=53.5|long=-0.3|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=25}}
{{Location map~|England|label=③<small><span style="color:#00f">バーネット</span></small>|position=top|lat=53.3|long=-0.3|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=|position=left|lat=54.2|long=-2.2|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=25}}
{{Location map~|England|label=④<small><span style="color:#00f">テュークスベリー</span></small>|position=left|lat=54.18|long=-2.2|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=1}}
<!--都市・地名-->
{{Location map~|England|label=ロンドン|position=bottom|lat=53.3|long=-0.1|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=カレー|position=bottom|lat=52.0|long=1.7|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
{{Location map~|England|label=ダートマス|position=bottom|lat=51.0|long=-3.6|mark=Steel pog.svg|marksize=12}}
<!--城塞-->
}}
{|class="wikitable"
!番号!!会戦名!!年月日!!結果
|-
|style="text-align:center"|<big>①</big>||[[エッジコート・ムーアの戦い]]||1469年7月26日|||[[File:Neville Warwick Arms.svg|20px]]ウォリック伯軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>②</big>||[[ルーズコート・フィールドの戦い]]||1470年3月12日||[[File:Yorkshire rose.svg|21px]]ヨーク軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>③</big>||[[バーネットの戦い]]||1471年4月14日||[[File:Yorkshire rose.svg|21px]]ヨーク軍勝利
|-
|style="text-align:center"|<big>④</big>||[[テュークスベリーの戦い]]||1471年5月4日||[[File:Yorkshire rose.svg|21px]]ヨーク軍勝利
|}
|style="vertical-align:top"|
{|class="wikitable"
|+主要人物
! [[File:Yorkshire rose.svg|20px]] '''ヨーク派''' !! [[File:Neville Warwick Arms.svg|20px]] '''ウォリック伯&[[File:Lancashire rose.svg|20px]] ランカスター派'''
|-
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
*[[File:Chess klt45.svg|20px]][[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]
**[[File:Chess qlt45.svg|20px]][[エリザベス・ウッドヴィル]]
*[[リチャード3世 (イングランド王)|グロスター公リチャード]]
*{{仮リンク|リチャード・ウッドヴィル (初代リバース伯)|label=リバース伯リチャード・ウッドヴィル|en|Richard Woodville, 1st Earl Rivers}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**{{仮リンク|ジョン・ウッドヴィル|label=スケールズ卿ジョン・ウッドヴィル|en|John Woodville}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**{{仮リンク|トマス・グレイ (初代ドーセット候)|label=ドーセット候トマス・グレイ|en|Thomas Grey, 1st Marquess of Dorset}}
*{{仮リンク|ウィリアム・ハルバート (初代ペンブルック伯)|label=ペンブルック伯ウィリアム・ハルバート|en|William Herbert, 1st Earl of Pembroke (8th Creation)}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*{{仮リンク|ウィリアム・ヘイスティングス|label=ヘイスティングス卿ウィリアム|en|William Hastings, 1st Baron Hastings}}
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
*[[File:Chess kdt45.svg|20px]][[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**[[File:Chess qdt45.svg|20px]][[マーガレット・オブ・アンジュー]]
**[[エドワード・オブ・ウェストミンスター]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯リチャード・ネヴィル]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**[[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|モンターギュ候ジョン・ネヴィル]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
**{{仮リンク|トマス・ネヴィル|en|Thomas Neville}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[ジョージ・プランタジネット|クラレンス公ジョージ]][[File:Octagon-warning-transparent.svg|20px]]
*{{仮リンク|エドムンド・ボーフォート (第5代サマセット公)|label=サマセット公エドムンド・ボーフォート|en|Edmund Beaufort, 4th Duke of Somerset}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)|エクセター公ヘンリー・ホランド]]
*[[ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)|オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー]]
*[[ジャスパー・テューダー (ベッドフォード公)|ペンブルック伯ジャスパー・テューダー]]
*{{仮リンク|レデスデールのロビン|en|Robin of Redesdale}}[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
|-
| colspan="2" | [[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]–戦死または処刑<br>[[File:Octagon-warning-transparent.svg|20px]]–ヨーク派に寝返り。
|}
|}
{{-}}

== 第三次内乱 ==
===リチャード3世の簒奪===
[[file:King Richard III from NPG.jpg|thumb|left|200px|リチャード3世<br>作者不明、16世紀後半。<br>テューダー朝時代の年代記作家によって人格を貶められ、シェイクスピアは彼を醜怪な容姿の稀代の悪人として描き、そのイメージは後世まで続いたが、彼の短い治世については再評価も行われている<ref>[[#指(2002)|指(2002)]],p.42;[[#森(2000)|森(2000)]],pp.297-299.</ref>。]]
エドワード4世の残りの治世は比較的平和が保たれた。彼の末弟グロスター公リチャードと長年の友であり支持者でもあったヘイステング卿{{仮リンク|ウィリアム・ヘイステング (初代ヘイステング男爵)|label=ウィリアム|en|William Hastings, 1st Baron Hastings}}には忠誠に対して十分な恩賞が与えられ、おのおの中部と北部の支配を任された<ref>[[#Baldwin(2002)|Baldwin(2002)]], p.56</ref>。クラレンス公ジョージは次第にエドワード4世と不和になり、1478年に謀反に関与した嫌疑で処刑された<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],pp.368-369;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.440.</ref>。一方、グロスター公はウォリック伯の遺児でエドワード・オブ・ウェストミンスターの未亡人であるアン・ネヴィルと結婚して、ネヴィル家の私党を引き継ぎ、北部で大きな勢力を蓄えるようになった<ref>[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.440;[[#海保(1999)|海保(1999)]],pp.70-71.</ref>。

1483年4月9日にエドワード4世が急死した。国王の死を契機に王妃の親族ウッドヴィル家(弟のリバース伯{{仮リンク|アンソニー・ウッドヴィル (第2代リバース伯)|label=アンソニー|en|Anthony Woodville, 2nd Earl Rivers}}と最初の結婚の時の子のドーセット候トマス)と古くからの側近のへースティング卿との対立が表面化した<ref>[[#石原(2011)|石原(2011)]],pp.6-10</ref>。エドワード4世が死去したとき、王位を継承する[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]は僅か12歳であり、リバース伯のもと[[ラドロー城]]で養育されていた。

死の床にあったエドワード4世はグロスター公リチャードを護国卿に指名したとされる<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.132;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.440.</ref>。エドワード4世が身罷った時、グロスター公は北部に滞在していた。ウッドヴィル一族は宝物庫と武器庫を兼ねていたロンドン塔を確保すると兵を集めて一種のクーデターを断行した<ref>[[#石原(2011)|石原(2011)]],pp.11-12</ref>。エドワード4世の死を受けて開かれた国王評議会はウッドヴィル一族によって主導され、へースティング卿の反対を退けて、グロスター公を実権のない名誉職に祭り上げる決定をした<ref>[[#石原(2011)|石原(2011)]],pp.12-14.</ref>。危機感を持ったへースティング卿はグロスター公にウッドヴィル家に対抗しうる兵力を持ってロンドンに入るよう伝えた<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.186.</ref>。

[[File:Paul Delaroche - The Death of the Sons of King Edward in the Tower - WGA6265.jpg|upright|thumb|250px|『ロンドン塔の若き王と王子』<br>[[ポール・ドラローシュ]]画。1831年。<BR>およそ200年後の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の時代にロンドン塔内から二人の子供の遺骨が発見され、これが兄弟のものとされたが、真相は謎のままである<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.295-296.</ref>。]]
4月28日、グロスター公リチャードと[[バッキンガム公]][[ヘンリー・スタフォード (バッキンガム公)|ヘンリー・スタフォード]]はエドワード5世を警護しつつロンドンに向かっていたリバース伯を{{仮リンク|ストーニー・ストラットフォード|en|Stony Stratford}}で拘束した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.370.</ref>。彼らはリバース伯に争う意図はないと伝えていたものの、その翌日に彼を投獄してしまい、エドワード5世には国王の身を害そうとするウッドヴィル家による陰謀を妨げるために行ったと告げた。リバース伯と王の異父兄のリチャード・グレイはヨークシャーの{{仮リンク|ポンテクラフト城|en|Pontefract Castle}}に送られ、6月末に処刑された<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.135.</ref>。

5月4日、グロスター公リチャードに保護されたエドワード5世はロンドンに入城し、ロンドン塔に送られた。エリザベス王太后は残りの子とともにウェストミンスター寺院に入り庇護を求めた。6月22日のエドワード5世の戴冠式の準備は進められ、この時点でグロスター公リチャードの護国卿の任期は終わることになっていた。6月13日、グロスター公リチャードはヘーステング卿を呼びだすと裁判なしでその日のうちに処刑した<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.371.</ref>。

カンタベリー大司教トマス・バウチャーはエリザベス王太后に対して9歳になる王弟ヨーク公[[リチャード・オブ・シュルーズベリー (ヨーク公)|リチャード・オブ・シュルーズベリー]]をロンドン塔にいるエドワード5世の元に送るよう説得した<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.293.</ref>。子どもたちの身柄を確保したグロスター公は説教師やバッキンガム公を使って故エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を違法であり、二人の子は庶子であると訴えさせた<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],pP.293-294;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.442.</ref>。議会はこれに同意して、「王たる資格」(''[[:en:Titulus Regius|Titulus Regius]]'')を発し、グロスター公を正式に国王リチャード3世であると宣言した。囚われの身の二人の少年は姿を消し、おそらくはリチャード3世に殺害されたと見られているが<ref>[[#永井(2011)|永井(2011)]],p.22;[[#指(2002)|指(2002)]],p.42;[[#青山他(1991)|青山他(1991)]],p.443.</ref>、王位継承権に疑義があったヘンリー7世によって殺害されたとする説もある<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],pp.304-306.</ref>。

7月16日に盛大な戴冠式が催され、それからリチャード3世は中部と北部への行幸に赴いて気前よく下賜金を施し、また自らの子に[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)の称号を与えた。
{{-}}

===バッキンガム公の反乱===
{|style="float:right"
|-
!!!第三次内乱
|-
|style="width:1em"|
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
{{Location map+|England|width=300|AlternativeMap=BLANK in England.svg|alt=|float=left|caption=: [[File:Battle icon active (crossed swords).svg|20px|link=]] &ndash; 会戦<br>[[ボズワースの戦い]](1485年8月22日)<br>[[ストーク・フィールドの戦い]](1487年6月16日)|places=
{{Location map~|England|label='''<small>ボズワース</small>'''|position=right|lat=52.591265|long=-1.410327|mark=Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=<small>ストーク・フィールド</small>|position=right|lat=53.029058|long=-0.892586|mark=Battle_icon_active_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=<small>ロンドン</small>|position=bottom|lat=51.507778|long=-0.128056|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>ヨーク</small>|position=left|lat=53.958333|long=-1.096667|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>ペンブルック<br>シャー</small>|position=bottom|lat=52.0|long=-5.04274|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<small>カレー</small>|position=bottom|lat=50.948056|long=1.856389|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
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{{Location map~|England|label=<small>ストーニー・<br>ストラットフォード</small>|position=|lat=52.056|long=-0.8526|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
{{Location map~|England|label=<small>ラドロー</small>|position=bottom|lat=52.2202|long=-2.43|mark=Steel pog.svg|marksize=8}}
}}
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{| class="wikitable"
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! ボズワースの戦い(1485年)
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[[File:Lancashire rose.svg|20px]] '''ランカスター派'''
<small>
*リッチモンド伯ヘンリー・テューダー([[File:Chess kdt45.svg|20px]][[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]])
**[[ジャスパー・テューダー (ベッドフォード公)|ペンブルック伯ジャスパー・テューダー]]
*[[ジョン・ド・ヴィアー (第13代オックスフォード伯)|オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー]]
</small>
[[File:Yorkshire rose.svg|20px]] '''ヨーク派'''
<small>
*[[File:Chess klt45.svg|20px]][[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ノーフォーク公ジョン・ハワード]][[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]
*[[ヘンリー・パーシー (第4代ノーサンバランド伯)|ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー]][[File:Human-process-stop.svg|20px]]
*[[トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)|スタンリー卿トマス]][[File:Human-process-stop.svg|20px]]
**{{仮リンク|ウィリアム・スタンリー (ボズワースの戦い)|label=ウィリアム・スタンリー|en|William Stanley (Battle of Bosworth)}}[[File:Human-process-stop.svg|20px]]
</small>
[[File:Death skull.svg|20px|[[死亡]]]]–戦死または処刑。<br>[[File:Human-process-stop.svg|20px]]—ランカスター派に寝返り。
|}
|}
[[File:Henry Stafford.jpg|thumb|175px|left|バッキンガム公ヘンリー・スタフォード。<br>William Sherlock画。18世紀。]]
1471年にヘンリー6世とその王子のエドワード・ウェストミンスターが殺害され、その他の者も命を落としたことでランカスター家の王位継承者としてリッチモンド伯[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]]の存在が浮上していた<ref>[[#永井(2011)|永井(2011)]],pp.13-14.</ref>。ヘンリー・テューダーの父リッチモンド伯[[エドマンド・テューダー (リッチモンド伯)|エドマンド・テューダー]]はヘンリー6世の異父弟であるが<ref group=n>ヘンリー5世の死後に[[キャサリン・オブ・ヴァロワ]](ヘンリー6世の母)と[[オウエン・テューダー]]が秘密結婚をして3男1女が生まれた。[[#石井(2006)|石井(2006)]],pp.12-13.</ref>、王位継承権自体は母[[マーガレット・ボーフォート]]からのものである。彼女はエドワード3世の四男[[ジョン・オブ・ゴーント]]の子[[ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)|ジョン・ボーフォート]]の孫である。ジョン・ボーフォートは出生時には私生児であり、後に両親が結婚して嫡出子となったが、ヘンリー4世の命によってジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は排除させられていた<ref name=mori320>[[#森(2000)|森(2000)]],p.320.</ref>。このためにヘンリー・テューダーの血統の王位継承権には疑義があった<ref name=mori320/>。

ヘンリー・テューダーは少年時代の大部分を包囲下にあったハーレフ城と亡命先の[[ブルターニュ半島|ブルターニュ]]で過ごしている。1471年以降、エドワード4世はリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承権について軽視しており、幾度か身柄の確保を試みるだけだった。ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートは二度再婚しており、最初はバッキンガム公の甥であり、その次はエドワード4世治世での要人のひとりである[[トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)|トマス・スタンリー]]と再婚して息子に対する支持を固めていた。1483年、マーガレット・ボーフォートはエドワード4世の長女であり、弟たち亡きあとはヨーク家の相続人となった[[エリザベス・オブ・ヨーク]]とヘンリー・テューダーとの婚約を成立させた<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.372.</ref>。

リチャード3世に対する反抗は南部で起こった。1483年10月18日、バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(リチャード3世の即位に貢献し、自らも遠縁ながら王位継承権を有する)がランカスター系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの擁立を標榜して挙兵した。ヘンリー・テューダーよりはエドワード5世か王弟を擁立すべしという意見もあったが、バッキンガム公は両人は既に殺害されていると認識していた<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.199</ref>。

南部における彼の支持者の一部が蜂起したが、時期尚早な蜂起であり、リチャード3世の代官ノーフォーク公[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]によってバッキンガム公との合流を阻止されてしまう。バッキンガム公自身は中部ウェールズのブレコンで蜂起した。彼は南イングランドの叛徒との合流を図るが暴風雨によって[[セヴァーン川]]の渡河を妨げられ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸したが形勢不利とみて引き揚げている。バッキンガム公の兵は飢えに苦しんで逃亡し、彼は裏切りにあって捕らえられ、処刑された。

バッキンガム公の反乱の失敗はリチャード3世に対する陰謀の終わりにはならなかった。身辺でも不幸が重なり、1484年に王妃アンと11歳の王太子を相次いで亡くしており、リチャード3世は兄の遺児エリザベス・オブ・ヨークとの再婚を考えるが断念している<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.134.</ref>。

===ボズワースの戦い===
{{main|ボズワースの戦い}}
[[File:A Chronicle of England - Page 453 - Richard III at Bosworth.jpg|thumb|left|200px|ボズワースの戦い。奮戦するリチャード3世。<br>''A Chronicle of England'',1864年]]
バッキンガム公の残党や不平貴族が亡命中のヘンリー・テューダーのもとに集まった。リチャード3世はブルターニュ公の重臣に賄賂を贈ってヘンリー・テューダーを裏切るよう唆したが、ヘンリー・テューダーは警告を受けてフランスへ逃亡し、ここで彼は庇護と援助を受けた<ref>[[#Rowse(1966)|Rowse(1966)]], p.212.</ref>。

大貴族やリチャード3世の官吏までもが自らに同心すると確信したヘンリー・テューダーは、1485年8月1日に亡命者とフランス人傭兵からなる軍勢を率いて{{仮リンク|アルフルール|en|Harfleur}}を出帆した。追い風により、6日目にウェールズの[[ペンブルックシャー]]に上陸した。リチャード3世が任命したウェールズ地方の代官たちはヘンリー・テューダーに合流するか、傍観した。ヘンリー・テューダーはウェールズと辺境地方を進軍しつつ支持者を募り、相当数の兵力になった<ref name=Wise200116/>。

8月22日、レスタシャーのボズワースでヘンリー・テューダーとリチャード3世の決戦が行われた。両者とも旗色を明らかにしないスタンリー兄弟([[トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)|スタンリー卿トマス]]と{{仮リンク|ウィリアム・スタンリー (ボズワースの戦い)|label=ウィリアム|en|William Stanley (Battle of Bosworth)}})の動静を睨みつつ戦いに入った<ref name=Wise200116/>。リチャード3世軍では初手の矢戦から配下のノーサンバランド伯の軍勢が動かず、乱戦に入るとスタンリー兄弟がヘンリー・テューダーの側につき、リチャード3世軍の側面を突いた<ref name=Wise200116/>。敗北を悟ったリチャード3世は自ら敵陣に突入してヘンリー・テューダーの目前にまで迫ったという<ref>[[#グラヴェット(2002)|グラヴェット(2002)]],p.145;[[#キング(1996)|キング(1996)]],p.372.</ref>。リチャード3世は沼地で落馬したところをウェールズ人の兵士{{仮リンク|リース・トーマス|en|Rhys ap Thomas}}によって{{仮リンク|ポール・アックス|label=長柄斧|en|Pollaxe}}で首を斬られて斃れた。

寝返ったスタンリー卿は戦死したリチャード3世の王冠をヘンリー・テューダーに捧げたと伝えられる<ref>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.3.</ref>。リチャード3世の遺体には汚辱が加えられ、裸にされて[[ラバ|騾馬]]で引き回された<ref>[[#キング(2006)|キング(2006)]],p.372;[[#鈴木(1994)|鈴木(1994)]],p.110.</ref>。
{{-}}

===ヘンリー7世の即位とヨーク派の反乱===
[[file:Tudor rose.svg|thumb|200px|テューダー家の徽章。ランカスター家の赤薔薇とヨーク家の白薔薇を合わせた形になっている。]]
勝利したヘンリー・テューダーはロンドンに入って議会を招集し、1485年10月30日に戴冠式を挙行した([[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]])。11月に開催された議会はヘンリー7世の血統についてはさほど詮索せず、ボズワースの戦いの勝利を「神の御意志」として即位の正当性を承認している<ref>[[#永井(2011)|永井(2011)]],p.14;[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.4.</ref>。

翌1486年1月18日、ヘンリー7世は自らの地位を固めるためにエドワード4世の王女であり、当時もっとも有力なヨーク家系の王位継承権を有していた[[エリザベス・オブ・ヨーク]]と結婚した<ref>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.4.</ref>。これにより、ヘンリー7世は二つの王家を統合することになり、ライバルだった白と赤の両家の図案を組み合わせた新たな{{仮リンク|テューダー・ローズ|en|Tudor Rose}}を用いるようになった。ヘンリー7世は王位を固めるために、様々な口実をもうけて潜在的な王位継承権者を粛清し、この政策は次代の[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]にも引き継がれている。
{{multiple image
| align = left
| direction = vertical
| width = 175
| image1 = Lambert Simnel, Pretender to the English Throne, Riding on Supporters in Ireland.gif
| caption1 = アイルランドで反乱軍に「エドワード6世」として推戴されたシムネル少年。<br>''Encyclopedia Britannica, 11th Ed.'',1910年
| image2 = Perkin Warbeck.jpg
| caption2 = パーキン・ウォーベック。<br>王弟ヨーク公リチャードを名乗り、リチャード4世を僭称した。
}}
多くの歴史家たちはヘンリー7世の即位をもって薔薇戦争の終了としているが、一部の者たちは、ヘンリー7世を打倒してヨーク王家を再興しようとする陰謀がなおも存在していたことから、この内戦は15世紀末まで続いたとしている<ref name=Wise2001_19>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.19.</ref>。ボズワースの戦いの翌1486年、リチャード3世の侍従だった{{仮リンク|フランシス・ラヴェル (初代ラヴェル子爵)|label=ラヴェル卿|en|Francis Lovell, 1st Viscount Lovell}}がヨークシャーで挙兵する事件が起こったが、烏合の衆であり戦う前に四散してしまった<ref name=imai06>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.6.</ref>。

1487年にラヴェル卿はスイス人およびドイツ人傭兵を率いてアイルランドに上陸する<ref name=Wise200119>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.19.</ref>。この反乱にはエドワード4世の妹でブルゴーニュ公の未亡人[[マーガレット・オブ・ヨーク|マーガレット]]が関与しており、リンカーン伯[[ジョン・ドゥ・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|ジョン・ドゥ・ラ・ポール]](リチャード3世の甥で王位継承者に指名されていたが、ヘンリー7世に帰順していた)も加わっていた<ref name=imai06/>。反乱軍の指導者たちは[[ランバート・シムネル]]という少年をヨーク系王族の生き残りで最も有力な王位継承権を持つウォリック伯[[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]](クラレンス公の遺児)の替え玉とし、ダブリンにおいてエドワード6世として戴冠させた<ref name=Wise200119/>。だが、本物のウォリック伯エドワードの身柄は既にヘンリー7世に確保されており、その証明としてウォリック伯エドワードはロンドン市街を行進させられた<ref>[[#Hicks(2003)|Hicks(2003)]],p.49.</ref>。反乱軍は[[ランカシャー]]に上陸してイングランド本土に侵攻するが、7月17日の[[ストーク・フィールドの戦い]]でヘンリー7世率いる国王軍に撃破され、リンカーン伯は戦死し、ラヴェル卿は逃亡した<ref>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.19;[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.6.</ref>。捕らえられたシムネル少年は赦免され、宮廷の厨房の使用人とされた<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.328.</ref>。

1491年にエドワード5世とともにロンドン塔に幽閉され消息を断った王弟ヨーク公リチャードを名乗る人物({{仮リンク|パーキン・ウォーベック|en|Perkin Warbeck}})が現れたことにより、ヘンリー7世の王座は再び脅かされた<ref name=imai06/>。ウォーベックはフランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]やブルゴーニュ公夫人マーガレットそして[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の支持を受けてリチャード4世を名乗り、ネーデルラントやアイルランドで活動し、幾度かイングランドへの上陸を図っている<ref>[[#永井(2011)|永井(2011)]],p.15;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],pp.19-21;[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],pp.6-7.</ref>。1496年にはスコットランド王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]の支援を受けてノーランバランドへ攻め込むがヨーク派からの支持を得られず失敗した<ref>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.20;[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.7.</ref>。

1497年にコーンウォールで重税に抗議する反乱が起きた({{仮リンク|コーンウォール人の反乱|en|Cornish Rebellion of 1497}})。ウォーベックはこの反乱に加わり、[[エクセター]]を包囲するが失敗して捕らえられた<ref>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.7.</ref>。彼は同じくロンドン塔に監禁されていたウォリック伯エドワードとともに脱獄を図るが失敗し、1499年に二人は処刑された<ref>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],pp.21-22.</ref>。

ヨーク家の血統を継ぐ者としてバッキンガム公[[エドワード・スタフォード (第3代バッキンガム公)|エドワード・スタフォード]]とサーフォーク公{{仮リンク|エドムンド・デ・ラ・ポール|en|Edmund de la Pole, 3rd Duke of Suffolk}}そして彼の弟の{{仮リンク|リチャード・デ・ラ・ポール|en|Richard de la Pole}}が残っていた。サーフォーク公は1501年に国外に逃れてヘンリー7世打倒を企てたが、もはや支援する君主はなくイングランドに送還されて1513年に処刑されており、この後、ヨーク派による陰謀はほぼ終息する<ref>[[#永井(2011)|永井(2011)]],p.15-16;[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],pp.7-8.</ref>。

バッキンガム公エドワード・スタフォードはヘンリー8世の時代の1520年にさしたる理由なく捕らえられ処刑された。リチャード・デ・ラ・ポールはフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の後援を受けてイングランド侵攻を企てるが実現せず、1525年の[[パヴィアの戦い]]でフランス軍に加わり戦死している。クラレンス公の娘の[[マーガレット・ポール]]はテューダー朝と和解して生き残り、ソールズベリー伯位の襲爵を許されたが、彼女も1541年にヘンリー8世によって処刑され、テューダー家に対抗しうるプランタジネット家系の王位継承権者は完全に抹殺された<ref>[[#森(2000)|森(2000)]],p.305.</ref>。
{{-}}

==戦後==
[[file:King Henry VII.jpg|thumb|200px|ヘンリー7世。<br>作者不明。1505年。]]
30年以上も続いたこの内戦によってイングランドの国土は荒廃したとされるが、これは新たに成立したテューダー朝によって誇張された[[プロパガンダ]]に過ぎない<ref>[[#ブリッグズ(2004)|ブリッグズ(2004)]],p.147;[[#指(2002)|指(2002)]],p.39;[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.4.</ref>。ヨーク家とランカスター家の権力争いであるこの内乱は他国の戦争や内乱と異なり、抗争を行う貴族たちは臣民の支持を得るために彼らを戦いに巻き込むことを避けており、同時代のフランスの歴史家{{仮リンク|フィリップ・ド・コミュンヌ|en|Philippe de Commines}}はイングランドでは田園も建物も破壊されなかったと述べている<ref>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],pp.3-4;[[#森(2000)|森(2000)]],p.317.</ref>。戦闘行動自体も合計で428日間に過ぎなかった<ref name=Wise200104>[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],p.4.</ref>。戦闘はごく短期間のものが時間を置いて断続的に続いたものであり、攻城戦やそれに伴う略奪は少なく、例外的な1460年の北部兵を率いたマーガレット王妃の反攻時の略奪も、現存する当時の記録からは僅かな影響しか認められない<ref name=Hicks14>[[#Hicks(2003)|Hicks(2003)]],p.14.</ref>。この内戦の30年間、民衆の生活はほとんど脅かされておらず、ヘンリー7世は良好な状態の国土を継承できた<ref name=Hicks14/>。

薔薇戦争の結果、貴族がほとんど絶滅したかのように説明されることがあるが、実際の減少数は25%程度であり、少ない数字ではないが「絶滅」という表現にはあたわない<ref name=Wise200104/>。家門断絶の理由も嫡出男子を欠いたことが戦死や処刑と同程度に存在した<ref name=Wise200104/>。一方で、この時代以前の大貴族(公爵家と伯爵家)がほとんど姿を消したのも事実である<ref group=n>ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアルンデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。[[#ワイズ(2001)|ワイズ(2001)]],pp.4-5.</ref>。ヘンリー7世は貴族数を抑制し、1485年の即位時の50家が、1509年に死去した際には35家になっていた<ref>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.13.</ref>。断絶した貴族の所領は王領地化され、王室財政の強化に資された<ref name=sashi45/>。

ヘンリー7世は貴族の私兵である扈従団の抑制を図り、最初の議会で貴族たちに扈従団を保有しないことを誓約させ、1504年には「揃い服禁止法」を出している<ref name=imai14>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.14.</ref>。もっとも、彼の治世中には{{仮リンク|疑似封建制度|en|Bastard feudalism}}を完全に解体することはかなわず、譲歩を余儀なくされることもあり、部分的・個別的な規制に留まっている<ref name=imai14/>。大貴族パーシー家をはじめとする在地貴族が根を張り、王権の支配の弱かった北部については、1489年に[[ノーサンバランド伯]][[ヘンリー・パーシー (第4代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]が横死すると<ref>[[#海保(1999)|海保(1999)]],pp.71-72.</ref>、これを好機にサリ伯[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]を送り込み秩序回復に成功した<ref>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.20.</ref>。

地方統治においては、国王にとって危険な貴族に頼らず、[[ジェントリ]](郷紳)に依存しようとするランカスター朝、ヨーク朝からの政策が踏襲されたが、その達成には長い時間を要することになる<ref>[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],p.19.</ref>。ジェントリは無給の[[治安判事]]として地方行政の中心的役割を担い<ref>[[#永井(2011)|永井(2011)]],p.17;[[#今井他(1990)|今井他(1990)]],pp.20-21.</ref>、有能な者は中央の国王評議会にも起用された<ref>[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.141.</ref>。身分の枠にとらわれない実用主義の人材登用がテューダー朝の特徴となる<ref>[[#永井(2011)|永井(2011)]],pp.16-17;[[#川北他(1998)|川北他(1998)]],p.141,143.</ref>。

ヘンリー7世以降、テューダー朝は王権の強化を通した[[絶対王政]]の基礎を固めてゆくが<ref>{{cite web|title=イギリス史 - 絶対王政と市民革命/1.チューダー朝の成立- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%8F%B2/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%8E%8B%E6%94%BF%E3%81%A8%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD/|author=富沢霊岸|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年6月28日}}</ref>、イングランド王は古来からの慣習法([[コモン・ロー]])や議会による制約が強く、同時代のフランスやスペインの様な強力な中央集権の完成には至らなかった<ref>{{cite web|title=絶対主義/1.イギリスの絶対主義- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9/|author=[[田中浩]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年7月2日}}</ref>。
{{-}}

== 作品 ==
[[File:CHANDOS3.jpg|thumb|200px|ウィリアム・シェイクスピア<br>John Taylor画、1610年頃。]]
[[ウィリアム・シェイクスピア]]の最初期の作品『[[ヘンリー六世 第1部]]』(1591年 - 1592年<ref name=daijiten25>[[#シェイクスピア大事典(2002)|シェイクスピア大事典(2002)]],p.25.</ref>)、『[[ヘンリー六世 第2部]]』(1590年 - 1591年<ref name=daijiten25/>)、『[[ヘンリー六世 第3部]]』(1590年 - 1591年<ref name=daijiten25/>)そして『[[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]]』(1592年 - 1593年<ref name=daijiten25/>)は百年戦争末期から薔薇戦争の時代を題材とした[[歴史劇]]であり、「第1・四部作」と呼ばれている<ref>[[#シェイクスピア大事典(2002)|シェイクスピア大事典(2002)]],p.25,28.</ref><ref group=n>1590年代後半につくられた『[[リチャード二世 (シェイクスピア)|リチャード二世]]』、『[[ヘンリー四世 第1部]]』、『[[ヘンリー四世 第2部]]』、『[[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]]』は「第2・四部作」と呼ばれている。[[#シェイクスピア大事典(2002)|シェイクスピア大事典(2002)]],p.25,28.</ref>。{{仮リンク|エドワード・ホール (歴史家)|label=エドワード・ホール|en|Edward Hall}}の『年代記』(1548年)、{{仮リンク|ラファイエル・ホリンシェッド|en|Raphael Holinshed}}の『年代記』(1577年、1587年)などが材源に用いられた<ref>[[#シェイクスピア大事典(2002)|シェイクスピア大事典(2002)]],p.28,30,33.</ref>。ヘンリー六世三部作については成立時期とともに執筆者を巡っても議論が続いており、第1部は合作説が強い<ref>[[#シェイクスピア大事典(2002)|シェイクスピア大事典(2002)]],p.29.</ref>。


歴史劇なので必ずしも史実に忠実ではなく、劇的効果のために人間関係は大胆にアレンジされ、事件の時系列は圧縮されている<ref>[[#シェイクスピア大事典(2002)|シェイクスピア大事典(2002)]],pp.29-30,31,33;[[#大山(1966)|大山(1966)]],pp.414-415.</ref>。リチャード3世は醜い容貌のせむし男として描かれ、劇中で王冠を狙う野心を吐露して悪党になると宣言する、際立った印象を与える人物となっている<ref>[[#シェイクスピア大事典(2002)|シェイクスピア大事典(2002)]],p.35;[[#大山(1966)|大山(1966)]],pp.416-417.</ref>。「第1・四部作」は幼王を殺害して王位を簒奪した悪王リチャード3世がヘンリー・テューダーに倒され、テューダー朝の成立により真の平和がもたされて完結する。
ヘンリー6世支持のランカスター派とヨーク公リチャード支持のヨーク派は対立を深め、[[1455年]]に[[セント・オールバーンズの戦い (1455年)|(第1次)セント・オールバーンズの戦い]]で両派間に火蓋が切られた。以後30年間、謀略渦巻く血みどろの内戦がイングランド国内でくり広げられる。


その後、これらの歴史劇が一度に上演されることはほとんどなかった<ref>[http://shakespeare.emory.edu/playdisplay.cfm?playid=21 {{en}} Shakespeare and the players]</ref><ref name="HALL-BART">{{en}} [http://www.geocities.com/baddi_101/war2.html Explications de Peter Hall et John Barton]</ref>。1963年、{{仮リンク|ジョン・バートン (監督)|label=ジョン・バートン|en|John Barton (director)}}と{{仮リンク|ピーター・ホール (監督)|label=ピーター・ホール|en|Peter Hall (director)}}がこれらの作品を要約した<ref name="HALL-BART"/>『[[薔薇戦争 (翻案)|薔薇戦争]]』(''[[:en:The Wars of the Roses (adaptation)|The Wars of the Roses]]'')<ref>{{en}} [http://www.geocities.com/baddi_101/war.html The royal Shakespeare company ''The Wars of the Roses '' ]</ref>を製作し、[[ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー]]による上演を行った。この上演は1965年にBBCで放映された<ref>[http://www.geocities.com/baddi_101/war.html The royal Shakespeare company ''The War of the Roses '' ]</ref>。1981年から1982年には原作の変更を最小限にとどめた4部作が上演され、BBCで放映されている<ref>''BBC Shakespeare collection'', BBC édition, 14/11/2005. VO anglaise sans sous titrages français. Ref. BBCDVD1767 Cette série a été diffusée sur [[:fr:France 3]] au milieu des [[:fr:années 1980]] (Diffusion de Henri VI sur [[:fr:France 3]] en nov. 1984 ; source : ''[[:fr:Le Nouvel Observateur]]'' du 09/11/1984, p.23)</ref>。
[[1459年]]9月の[[ブロア・ヒースの戦い]]に勝利し、王位を目前にしたヨーク公リチャードは、[[1460年]]12月の[[ウェイクフィールドの戦い]]で戦死した。この苦境にヨーク公リチャードの嫡男[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード]]は、[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]や弟たち[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公ジョージ]], [[リチャード3世 (イングランド王)|グロスター公リチャード]]をまとめてランカスター派に勝利すると、ヘンリー6世を退位させて[[1461年]]11月、エドワード4世を称して即位した。


その他の薔薇戦争を扱った主な作品には以下のものがある。
王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は結婚に絡む外交問題や政権内の主導権をめぐって、ウォリック伯やその娘婿であったクラレンス公と対立するようになる。愛人[[エリザベス・ウッドヴィル]]との結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したことから、ウォリック伯はマーガレット・オブ・アンジューと和解してランカスター派に寝返り、エドワード4世を追放して、[[1470年]]にヘンリー6世を復位させた<ref>このことから、人はウォリック伯を「キングメーカー」と呼んだ。</ref>。


*[[ウォルター・スコット]]の小説『[[ガイアスタインのアン]]』(''[[:en:Anne of Geierstein|Anne of Geierstein]]'')は亡命したランカスター派貴族の物語である。この作品以降に「'''薔薇戦争'''」(''Wars of the Roses'')の名称が広く用いられるようになった<ref name=name/>。
ウォリック伯の娘[[イザベル・ネヴィル|イザベル]]の夫であったクラレンス公も、密かにヘンリー6世以後の王位継承に望みを託していたが、イザベルの妹[[アン・ネヴィル|アン]]がヘンリー6世の継嗣[[エドワード・オブ・ウェストミンスター|エドワード]]と結婚したことから望みを絶たれ、復位したヘンリー6世の政権から離脱した。
*[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]の小説『[[黒い矢:薔薇戦争の物語]]』(''[[:en:The Black Arrow: A Tale of the Two Roses|The Black Arrow: A Tale of the Two Roses]]'')は薔薇戦争の時期を題材とした小説である。
*[[ジョセフィン・テイ]]の『[[時の娘]]』(''The Daughter of Time'')はリチャード3世に殺害されたとされるエドワード5世とヨーク公リチャードの殺害事件の真相を現代の警官が追究する推理小説である。
*{{仮リンク|フィリッパ・グレゴリー|en|Philippa Gregory}}は薔薇戦争の時代を扱った歴史小説シリーズ(''The Cousins' War'')を著している。
**'' The White Queen '' (2009)/『白薔薇の女王』(邦題<ref name=WhiteQueen/>) - エドワード4世の王妃[[エリザベス・ウッドヴィル]]を扱った作品。2013年映画公開予定<ref name=WhiteQueen>{{cite web|title=商品詳細|白薔薇の女王(下)|url=http://www.mediafactory.co.jp/c000051/archives/027/009/27994.html|publisher=メディアファクトリー|author=|page=|accessdate=2012年7月1日}}</ref>。
**'' The Red Queen'' (2010)
**''The Lady of the Rivers'' (2011)
**''The Kingmaker's Daughters'' (2012)
*[[ジョージ・R・R・マーティン]]のSF小説『[[氷と炎の歌]]』シリーズは薔薇戦争をモチーフとしている。


== 年表 ==
国外に逃れて反撃の機会を窺っていたエドワード4世とグロスター公は、クラレンス公と和解して兄弟3人の結束を確認すると、[[1471年]]にイングランドへ攻め入り、ウォリック伯とランカスター派の連合軍を破った。復位したエドワード4世はランカスター派を徹底的に駆逐し、実弟クラレンス公も粛清するなど、ことごとく反乱の芽を摘んで国内を安定させた。
{| class="wikitable"
|-
! 国王 !! 西暦 !! 薔薇戦争関連事項 !! 参考事項
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan="17" |[[ファイル:Lancashire rose.svg|20px]][[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1422年]]
|style="vertical-align:top" |(9月)[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]死去。ヘンリー6世即位
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1429年]]
|style="vertical-align:top" |
|style="vertical-align:top" |(5月)[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍によりアルマニャック派が[[オルレアン]]を解放。<br>(7月)[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]が[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で[[戴冠式]]を挙行。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1431年]]
|style="vertical-align:top" |(12月)ヘンリー6世、[[パリ]]でフランス王の戴冠式を挙行。
|style="vertical-align:top" |(5月)ジャンヌ・ダルク火刑に処される。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1435年]]
|style="vertical-align:top" |(9月)[[ジョン・オブ・ランカスター|べッドフォード公ジョン]]死去。
|style="vertical-align:top" |(8月)アラスの和議、[[ブルゴーニュ派]]がシャルル7世と講和。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1437年]]
|style="vertical-align:top" |
|style="vertical-align:top" |(2月)スコットランド王[[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]]死去、[[ジェームズ2世 (スコットランド王)|ジェームズ2世]]即位。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1445年]]
|style="vertical-align:top" |(4月)和平派の[[ウィリアム・ドゥ・ラ・ポール (サフォーク公)|サフォーク伯]]の斡旋により、ヘンリー6世とアンジュー公女のマルグリット([[マーガレット・オブ・アンジュー|マーガレット]])が結婚。
|style="vertical-align:top" |
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1447年]]
|style="vertical-align:top" |(2月)主戦派の[[ハンフリー・オブ・ランカスター|グロスター公ハンフリー]]が獄死。
|style="vertical-align:top" |
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1450年]]
|style="vertical-align:top" |(1‐5月)サフォーク公が失脚。[[エドムンド・ボーフォート (第2代サマセット公)|サマセット伯]]が和平派の中心となり重用される。<br>(7月)[[ジャック・ケイド]]の乱。
|style="vertical-align:top" |(5月)[[フォルミニーの戦い]]、イングランドが[[ノルマンディー]]を喪失。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1452年]]
|style="vertical-align:top" |(2-3月)[[リチャード・プランタジネット|ヨーク公]]、兵を率いてサマセット公排除を要求するが失敗。
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1453年]]
|style="vertical-align:top" |(6月)[[ボルドー]]陥落、[[百年戦争]]事実上終結。<br>(8月)ヘンリー6世が精神錯乱に陥る。<br>(10月)王子[[エドワード・オブ・ウェストミンスター]]出生。
|style="vertical-align:top" |(5月)[[コンスタンティノープルの陥落]]。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1454年]]
|style="vertical-align:top" |(3月)ヨーク公、[[護国卿]]に就任。(-1455年1月)
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1455年]]
|style="vertical-align:top" |(5月)[[セント・オールバーンズの戦い (1455年)|第一次セント・オールバーンズの戦い]]、ヨーク派勝利。サマセット公処刑。'''薔薇戦争はじまる。'''<br>(10月)ヨーク公、護国卿就任。
|style="vertical-align:top" |(この年)スコットランド王ジェームズ2世、黒ダグラス家を粛清。 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1456年]]
|style="vertical-align:top" |(2月)ヨーク公、護国卿を解任。<br>(6月)マーガレット王妃、宮廷を[[コヴェントリー]]に移させる。
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1458年]]
|style="vertical-align:top" |(3月)両派融和を目指した「愛の日」の教会行列
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1459年]]
|style="vertical-align:top" |(6月)ヨーク派が大評議会への出席を拒絶。<br>(9月)[[ブロア・ヒースの戦い]]、ヨーク派勝利。<br>(10月)[[ラドフォード橋の戦い]]、ランカスター派勝利。ヨーク派は[[アイルランド]]と[[カレー]]に退却。<br>(11月)ランカスター派の議会、ヨーク派諸侯の私権剥奪を決議。
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1460年]]
|style="vertical-align:top" |(6月)マーチ伯エドワードと[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯]]がイングランドに反攻。<br>(7月)[[ノーサンプトンの戦い]]、ヘンリー6世がヨーク派に捕えられる。<br>(10月)ヨーク公がロンドンに入城して王位を請求。合意令が成立し、ヨーク公がヘンリー6世の後の王位継承者になる。<br>(12月)[[ウェイクフィールドの戦い]]、ヨーク公と[[リチャード・ネヴィル (第5代ソールズベリー伯)|ソールズベリー伯]]が殺害される。
|style="vertical-align:top" |(8月)スコットランド王ジェームズ2世死去、[[ジェームズ3世 (スコットランド王)|ジェームズ3世]]即位。 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" rowspan="2" |[[1461年]]
|style="vertical-align:top" |(2月)[[モーティマーズ・クロスの戦い]]、ヨーク派勝利。<br>(2月)[[セント・オールバーンズの戦い (1461年)|第二次セント・オールバーンズの戦い]]、ランカスター派勝利。ヘンリー6世を奪回するが王妃マーガレットはロンドン入城を拒まれる。
|style="vertical-align:top" rowspan="2" |(7月)フランス王シャルル7世死去、[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]即位。
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan="6" |[[ファイル:Yorkshire rose.svg|20px]][[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]
|style="vertical-align:top" |(2-3月)ヨーク公の嫡男エドワードがロンドンに入城して国王に推戴される。(エドワード4世)<br>(3月)[[タウトンの戦い]]、ヨーク派の決定的勝利。<br>(11月)議会がヘンリー6世の廃位を正式に決議。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1464年]]
|style="vertical-align:top" |(5月)エドワード4世、[[エリザベス・ウッドヴィル]]と秘密結婚。<br>(5月)[[ヘクサムの戦い]]、ランカスター派残党壊滅。
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1465年]]
|style="vertical-align:top" |(7月)ヘンリー6世が捕えられ、ロンドン塔に幽閉される。
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1467年]]
|style="vertical-align:top" |(9月)[[シャルル (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公シャルル]]と王妹[[マーガレット・オブ・ヨーク|マーガレット]]が結婚。<br>(この年)ウォリック伯がカレーに退去し、クラレンス公に接近。
|style="vertical-align:top" | 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1469年]]
|style="vertical-align:top" |(6月)ウォリック伯派の[[レデスデールのロビン]]が蜂起。<br>(7月)[[エッジコート・ムーアの戦い]]でエドワード4世が敗れ、後に捕えられる。<br>(7月)ウォリック伯、リバース伯らエドワード4世側近を処刑。<br>(10-12月)エドワード4世とウォリック伯が和解。
|style="vertical-align:top" |(10月)[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|カスティーリャ王女イサベル]]と[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|アラゴン王子フェルナンド]]が結婚。(後の[[カトリック両王]])<br>(7月)スコットランド王ジェームズ3世、デンマーク王女[[マーガレット・オブ・デンマーク|マーガレット]]と結婚、持参金の担保として[[オークニー諸島]]と[[シェトランド諸島]]を獲得。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" rowspan="2" |[[1470年]]
|style="vertical-align:top" |(3月)[[ルーズコート・フィールドの戦い]]、エドワード4世がリンカンシャーの反乱軍を撃破。<br>(3月)ウォリック伯とクラレンス公がフランスに逃亡。<br>(6月)フランス王ルイ11世の斡旋により、マーガレット王妃とウォリック伯が和解。<br>(9月)ウォリック伯と[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公]]がイングランドに反攻。エドワード4世はブルゴーニュへ亡命。
|style="vertical-align:top" rowspan="2" | 
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan="2" |[[ファイル:Lancashire rose.svg|20px]]ヘンリー6世
|style="vertical-align:top" |(10月)ウォリック伯、ヘンリー6世を復位させる。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" rowspan="2" |[[1471年]]
|style="vertical-align:top" |(3月)エドワード4世がレーヴェンスパーに上陸。<br>(4月)クラレンス公、エドワード4世に帰順
|style="vertical-align:top" rowspan="2" | 
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan="5"|[[ファイル:Yorkshire rose.svg|20px]]エドワード4世
|style="vertical-align:top" |(4月)エドワード4世、ロンドンに入城。ヘンリー6世を捕らえる。<br>(4月)[[バーネットの戦い]]、エドワード4世勝利、ウォリック伯戦死。<br>(5月)[[テュークスベリーの戦い]]、ヨーク軍勝利、エドワード王子処刑、マーガレット王妃捕らわれる。<br>(5月)ヘンリー6世、ロンドン塔で殺害される。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1475年]]
|style="vertical-align:top" |(8月)エドワード4世、フランスに侵攻。ルイ11世と[[ピキニー条約]]を結ぶ。
|style="vertical-align:top" |
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1477年]]
|style="vertical-align:top" |
|style="vertical-align:top" |(1月)[[シャルル (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公シャルル]]戦死。ルイ11世、[[ブルゴーニュ]]を接収する。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1478年]]
|style="vertical-align:top" |(2月)クラレンス公処刑される。
|style="vertical-align:top" |
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1479年]]
|style="vertical-align:top" | 
|style="vertical-align:top"|(1月)[[スペイン王国]]成立
|-
|style="white-space:nowrap"|[[ファイル:Yorkshire rose.svg|20px]][[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" rowspan="2" |[[1483年]]
|style="vertical-align:top" |(4月)エドワード4世死去。長男のエドワード5世が王位を継承。
|style="vertical-align:top" rowspan="2" |(8月)フランス王ルイ11世死去。[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]即位。
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan="2"|[[ファイル:Yorkshire rose.svg|20px]][[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]
|style="vertical-align:top" |(6月)グロスター公リチャードが、エドワード5世を廃位し、リチャード3世として即位。<br>(10-12月)[[ヘンリー・スタフォード (バッキンガム公)|バッキンガム公]]の反乱。
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" rowspan="2" |[[1485年]]
|style="vertical-align:top" |(8月)ヘンリー・テューダーが南ウェールズのペンブルックシャーに上陸。
|style="vertical-align:top" rowspan="2" | 
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan="2"|[[ファイル:Tudor rose.svg|20px]][[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]
|style="vertical-align:top" |(8月)[[ボズワースの戦い]]、リチャード3世戦死、ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位。<br>(10月)ヘンリー7世、戴冠式を挙行。<br>(11月)ヘンリー7世とエドワード4世の王女[[エリザベス・オブ・ヨーク]]が結婚。 
|-
|style="white-space:nowrap;vertical-align:top" |[[1487年]]
|style="vertical-align:top" |(6月)エドワード6世を僭称するランバート・シムネルの軍がアイルランドから侵攻。<br>(8月)[[ストーク・フィールドの戦い]]、ヘンリー7世勝利、[[ランバート・シムネル]]捕えられる。'''薔薇戦争終了'''。
|style="vertical-align:top" rowspan="7" | 
|}


== 略系図 ==
== テューダー朝の成立 ==
{|
[[Image:Tudor rose.svg|thumb|テューダー家の紋章。ランカスター家の赤薔薇とヨーク家の白薔薇を合わせた形になっている。]]
|-
|{{legend|#fff|ランカスター派|border=2px solid red}}
|style="width:1em"|
|{{legend|#fff|ヨーク派|border=2px solid blue}}
|style="width:1em"|
|{{legend|#fff|ウォリック伯(キングメーカー)|border=2px solid purple}}
|}
<div style="overflow: auto;white-space:nowrap">
{{familytree/start|style=overflow: auto}}
{{familytree| | | | | | | | | | | | | | | | | | |EIII| EIII='''<small>[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]</small>'''}}
{{familytree| |,|-|-|-|v|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|^|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.|}}
{{familytree|EBP| |ELDY| | | |LADC| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |JGDL| EBP=<small>[[エドワード黒太子|エドワード<br>黒太子]]</small>|ELDY=<small>[[エドムンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|ヨーク公<br>エドムンド・オブ・ラングリー]]</small>|LADC=<small>[[ライオネル・オブ・アントワープ|クラレンス公<BR>ライオネル・オブ・アントワープ]]</small>|JGDL=<small>[[ジョン・オブ・ゴーント|ランカスター公<br>ジョン・オブ・ゴーント]]</small>}}
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</div>


==脚注==
[[1483年]]に再び転機が訪れた。エドワード4世が病死すると、グロスター公はエドワード4世の幼い遺児[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経て[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]として即位した。
=== 注釈 ===
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===出典===
リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱し、各地に戦乱が起こった。フランスに亡命していたランカスター派の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|リッチモンド伯ヘンリー・テューダー]]は、[[1485年]]に兵を率いてイングランドに上陸すると、[[ボズワースの戦い]]でリチャード3世を撃ち破った。ヘンリー・テューダーはエドワード5世の姉[[エリザベス・オブ・ヨーク]]と結婚してヨーク家と和解すると、ヘンリー7世として即位した。そして、打ち続く戦争と内戦に疲弊し、没落しつつあった諸侯を抑えて[[絶対王政]]を確立していった。
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== ==
==文献==
{{refbegin}}
* 一つの花に紅白の縞が入る[[バラ]]の品種に「ヨーク・アンド・ランカスター」というものがある。
*{{cite book|last=Baldwin|first=David|title=Elizabeth Woodville|publisher=Sutton Publishing|year=2002|location=Stroud, Gloucestershire|isbn=0-7509-2774-7|ref=Baldwin(2002)}}
*映画『[[ローズ家の戦争]](The War of the Roses)』のタイトルは薔薇戦争にちなんだ洒落である。
*{{cite book|last=Farquhar|first=Michael|year=2001|title=A Treasure of Royal Scandals|page=|publisher=Penguin Books|location=New York|isbn=0-7394-2025-9|reg=Farquhar(2001)}}
*{{cite book|last=Rowse|first=A.L.|title=Bosworth Field & the Wars of the Roses|authorlink=:en:A. L. Rowse|publisher=Wordsworth Military Library|year=1966|isbn=1-85326-691-4|ref=Rowse(1966)}}
*{{cite book|last=Royle|first=Trevor|authorlink=:en:Trevor Royle|title=The Road to Bosworth Field|publisher=Little, Brown|location=London|year=2009|isbn=978-0-316-72767-9|ref=Trevor(2009)}}
*{{cite book|last=Weir|first=Alison|year=1998|title=Lancaster and York: the Wars of the Roses|isbn=0-7126-6674-5|ref=Weir(1998)}}
*{{cite book|last1=Hicks|first1=Michael|title=The Wars of the Roses: 1455-1485|publisher=Osprey Military|location=London|year=2003|isbn=978-1841764917 |ref=Hicks(2003)}}
*{{cite book|last1=Wise|first1=Terence|last2=Embleton|first2=G.A.|title=The Wars of the Roses|publisher=Osprey Military|location=London|year=1983|isbn=0-85045-520-0|ref=Wise&Embleton(1983)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[今井宏 (歴史学者)|今井宏]](編集)|year=1990|title=イギリス史〈2〉近世 |series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460201|ref=今井他(1990)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[青山吉信]](編集)|year=1991|title=イギリス史〈1〉先史~中世|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634414105|ref=青山他(1991)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[川北稔]](編集)|year=1998|title=イギリス史|series=新版 世界各国史|publisher=山川出版社|isbn=978-4634415201|ref=川北他(1998)}}
*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[荒井良雄]]、[[大場建治]]、[[川崎淳之助]](編集主幹)|year=2002|title=シェイクスピア大事典|series=|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=4-8205-6822-1|ref=シェイクスピア大事典(2002)}}
*{{Cite book|和書|author=エイザ・ブリッグズ|translator=[[今井宏]]、中野春夫、[[中野香織]]|editor=|year=2004|title=イングランド社会史|series=|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480857583|ref=ブリッグズ(2004)}}
*{{Cite book|和書|author=エドマンド・キング|translator=吉武憲司、赤江雄一、高森彰弘|editor=|year=2006|title=中世のイギリス|series=|publisher=[[慶應義塾大学]]出版会|isbn=978-4766413236|ref=キング(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=クリストファー・グラヴェット|translator=須田武郎、斉藤潤子|editor=|year=2002|title=イングランドの中世騎士―白銀の装甲兵たち|series=オスプレイ戦史シリーズ|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4775301043|ref=グラヴェット(2002)}}
*{{Cite book|和書|author=テレンス・ワイズ|translator=斉藤潤子|editor=|year=2001|title=ばら戦争―装甲騎士の時代|series=オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ|publisher=新紀元社|isbn=978-4883178490|ref=ワイズ(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=[[石井美樹子]]|translator=|editor=|title=図説 ヨーロッパの王妃 |series=|year=2006|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309760827|ref=石井(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=石原孝哉|translator=|editor=|year=2011|title=エドワード四世の死 |url=http://wwwelib.komazawa-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/XC01010009/Body/link/jsb05-2-01.pdf|series=|publisher=[[駒澤大学]]総合教育研究部紀要|isbn=|ref=石原(2011)}}
*{{Cite book|和書|author=[[大山俊一]]|chapter=解説|translator=[[小津次郎]]、[[喜志哲雄]]、[[大場建治]]、武井ナヲエ、大山俊一、[[菅泰男]]、[[冨原芳彰]]|editor=|year=1966|title=世界古典文学全集〈第43巻〉シェイクスピアIII|series=|publisher=筑摩書房|isbn=|ref=大山(1966)}}
*{{Cite book|和書|author=[[海保眞夫]]|translator=|editor=|year=1999|title=イギリスの大貴族|series=|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582850208|ref=海保(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=[[指昭博]]|translator=|editor=|title=図説 イギリスの歴史 |series=|year=2002|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309760100|ref=指(2002)}}
*{{Cite book|和書|author=鈴木俊章|chapter=バラ戦争|translator=|editor=|year=1994|title=世界の戦争・革命・反乱総解説|series=|publisher=[[自由國民社]]|isbn=|ref=鈴木(1994)}}
*{{Cite book|和書|author=富沢霊岸|translator=|editor=|year=1988|title=イギリス中世史―大陸国家から島国国家へ|series=|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623018673|ref=富沢(1988)}}
*{{Cite book|和書|author=水井万里子|translator=|editor=|title=図説 テューダー朝の歴史 |series=|year=2011|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309761664|ref=永井(2011)}}
*{{Cite book|和書|author=[[森護]]|translator=|editor=|year=2000|title=英国王室史話〈上〉|series=|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4122036161|ref=森(2000)}}
{{refend}}


== ==
== 関連図書 ==
*{{cite book|last=Haigh|first=Philip A.|title=The Military Campaigns of the Wars of the Roses|year=1995|isbn=0-7509-0904-8|ref=Haigh(1995)}}
{{commons|Category:Wars of the Roses}}
*{{cite book|last=Peverley|first=Sarah L.|title=Adapting to Readeption in 1470–1471: The Scribe as Editor in a Unique Copy of John Hardyng’s Chronicle of England (Garrett MS. 142)|publisher=The Princeton University Library Chronicle|chapter=66:1|year=2004|pages=140–72|ref=Peverley(2004)}}
<references/>
*{{cite book|last=Pollard|first=A.J.|authorlink=:en:A. J. Pollard|title=The Wars of the Roses|publisher=Macmillan Education|location=Basingstoke|year=1988|isbn=0-333-40603-6|ref=Pollard(1988)}}
*{{cite book|last=Sadler|first=John|authorlink=:en:John Sadler (historian)|title=Towton: the Battle of Palm Sunday Field 1461|publisher=Pen and Sword Military|year=2011|location=Barnsley|isbn=978-1-84415-965-9|ref=Sadler(2011)}}
*{{cite book|last=Wagner|first=John A.|title=Encyclopedia of the Wars of the Roses|publisher=ABC-Clio|year=2001|isbn=1-85109-358-3|ref=Wagner(2001)}}


==外部リンク==
{{Wikiquote|en:Wars of the Roses|Wars of the Roses}}
{{Commons category|Wars of the Roses}}
*[http://www.wars-of-the-roses.com/ The Wars of the Roses] 薔薇戦争の兵士と戦況についての記事。
*[http://www.warsoftheroses.com/ warsoftheroses.com] 地図、年表、主要人物の情報そして個別の会戦の概要。
*[http://www.threetwoone.org/diagrams/wars-of-the-roses.gif diagram of the Wars of the Roses]
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2012年7月3日 (火) 11:46時点における版

薔薇戦争

バーネットの戦い(1471年)。同時代に近い時期のフラマン人による絵画。
戦争
年月日:1455 – 1485/1487
場所イングランドウェールズカレー
結果:ランカスター家とヨーク家の和解によるテューダー朝の成立
交戦勢力
ヨーク家 ランカスター家
指導者・指揮官
ヨーク公リチャード
エドワード4世
リチャード3世
ヘンリー6世
エドワード・オブ・ウェストミンスター
ヘンリー7世
薔薇戦争

薔薇戦争(ばらせんそう、: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱1455年5月にヨーク公リチャードヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年テューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある[1])、プランタジネット家傍流のランカスター家ヨーク家の間で戦われた権力闘争である。ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く家柄であった。

ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をバッジ英語版(記章)[n 1]としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる[2]

1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世がイングランド王に即位した。1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューサマセット公エドムンド・ボーフォートをはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった[n 2]。両派は対立を深め、1455年第1次セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。

勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃のランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。1460年ノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けてウェイクフィールドの戦いで戦死した。1461年、マーガレット王妃はウォリック伯リチャード・ネヴィルを破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。ヨーク公の嫡男エドワードがウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王エドワード4世に推戴された。タウトンの戦いでヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。(第一次内乱

王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。1469年にウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージとともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。

ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌1471年にイングランドへ攻め入り、バーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、さらにテュークスベリーの戦いでランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。ヘンリー6世とエドワード王子は殺害されランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。(第二次内乱

1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として即位するとエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解し、新たにテューダー朝が開かれた。

名称とシンボル

ヨーク家の白薔薇
ランカスター家の赤薔薇

薔薇戦争の名称は二つの王家のヘラルディック・バッジ英語版(記章)[n 1]であるヨーク家の白薔薇英語版ランカスター家の赤薔薇英語版に由来するものである[3]。もっとも、ランカスター家の赤薔薇の使用は戦争最末期である[4]。この名称は19世紀の小説家ウォルター・スコットの『ガイアスタインのアン』(Anne of Geierstein)以降に広く用いられるようになった[2]

当時の擬似封建制度英語版のもと、この戦争に参加した者たちの多くが、直接仕えるまたは庇護者となっている諸侯のバッジがあしらわれた「お仕着せ」(そろいの制服:livery badge)を着用していた[5]。例えば、ボズワースの戦いではヘンリー・テューダーの軍勢は「赤い竜」の旗の下で戦い[6]、ヨーク軍はリチャード3世のバッジである「白い猪英語版」を用いていた[7]。戦後、ヘンリー7世は赤薔薇と白薔薇を合わせて、ヨーク家とランカスター家の融合の象徴としたテューダー・ローズのバッジを用いた[8]

ライバル両家の名称はおのおのヨークランカスターの町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない[9]。ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)[10]に勢力をはり、家門名のヨークシャーではランカスター家が優勢だった[9]

背景

百年戦争とランカスター朝の成立

ブレティニー・カレー条約時(1360年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語)
  イングランド王領域
  ブレティニー・カレー条約によるイングランド獲得地
トロワ条約時(1420年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語)

  フランス王領域
  ブルゴーニュ公領

1330年代のスコットランド政策を巡ってのフランス王フィリップ6世とイングランド王エドワード3世との対立が百年戦争の発端となった[11]。当時のイングランド王は大陸に領地を有するアキテーヌ公を兼ねており、フランス王の封臣としての立場でもあった。フィリップ6世がエドワード3世の封臣礼の不備を理由にアキテーヌ領の没収を宣言すると、エドワード3世はヴァロワ家のフィリップ6世の即位の不法性を申し立て[12]、1340年に自ら「フランス王」を宣言してフィリップ6世と開戦した[11]。エドワード3世と有能な将帥であるエドワード黒太子クレシーの戦い(1346年)とポアティエの戦い(1356年)でフランス軍に大勝して戦局を有利に進めた。1360年のブレティニー・カレー条約で王位請求権放棄の見返りに旧アンジュー王領の回復とカレー、ポンティユー、ギーヌの割譲をフランス王に呑ませることに成功する。だが、その後、国内では反乱が起こり、黒太子が病に倒れたことで戦況も不利になり、カレー、ボルドーを残して征服した領域のほとんどを失ってしまう[13]

薔薇戦争につながる「大貴族間の抗争」はエドワード3世によって種をまかれた。エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーは13人の子をもうけており、成人した男子は5人である。エドワード3世は彼らをイングランド貴族の女子相続人と娶わせ、クラレンスランカスターヨークそしてグロスターといったイングランド初の公爵家を創設させた。これら公爵家の子孫たちは、最終的には国王位を巡って相争うようになる[14]

1377年にエドワード3世は死去し、王位はその前年に没したエドワード黒太子の子で僅か9歳のリチャード2世が継承した。エドワード3世の子で初代クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープもまた後を追って死去しており、娘のフィリッパ英語版が残され、リチャード2世の王位継承権者となった。フィリパはマーチ伯エドムンド・モーティマー英語版と結婚した。1381年にエドムンドとフィリパは相次いで死去した。子のないリチャード2世は彼らの息子のマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名したが、彼は1398年に死去してしまい、マーチ伯エドムンド・モーティマー英語版が残された。黒太子の系統が断絶した際には長男子相続権法に基づけばライオネル・オブ・アントワープの子孫であるエドムンド・モーティマーが王位を継承するべきであった。だが、実際にはそうはならず、このことが薔薇戦争の決定的な要因となった[15]

ヘンリー4世
ヘンリー5世

百年戦争に苦戦していたリチャード2世はワットタイラーの乱をはじめとする頻発する民衆反乱に悩まされ[16]、国費の浪費と寵臣政治が議会から批判を受けた[17]。1399年に叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子ヘンリー・ボリンブロクに領地没収と国外追放を命じた[18]。ヘンリー・ボリングブロクは帰国し、当初はランカスター公位の回復を主張していた。多くの貴族が彼を支持するようになると、彼はリチャード2世を廃位してヘンリー4世として即位し、ここにランカスター朝が成立した[18]。若年のエドムンド・モーティマーの王位継承権を支持する貴族はいなかった。しかしながら、即位から数年がたつとヘンリー4世はウェールズチェシャーそしてノーサンバーランドでの反乱に直面することになり、これらの反乱はエドムンド・モーティマーの王位継承を大義名分に利用した[19]。これらの反乱は、幾らかの困難を伴いながらも鎮圧された。

1413年、ヘンリー4世が死去するとヘンリー5世が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、アジャンクールの戦いにおいてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。そして1420年、フランスとトロワ条約を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承権を認めさせた[20]

ヘンリー5世の9年間の治世ではサウザンプトンの陰謀英語版が起こっており、エドワード3世の第四子エドムンド・オブ・ラングリーの子であるケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラアジャンクールの戦いに先立つ1415年に反逆罪で処刑されている[21]。ケンブリッジ伯の妻で王位継承権を有するアン・モーティマー(ライオネル・アントワープの子孫でロジャー・アン・モーティマーの娘)は1411年に死去している。彼女の兄弟のマーチ伯エドムンドはヘンリーに忠実であり、1425年に子を残さずに死去しており、彼の王位継承権と称号はアンの子孫に相続された。

ケンブリッジ伯とアン・モーティマーの子のリチャードは父が処刑された時には4歳であった。ケンブリッジ伯は私権を剥奪されたが、後にヘンリー4世はアジャンクールの戦いで戦死したケンブリッジ伯の兄のヨーク公エドワードの称号と領地をリチャードに相続させている。ヘンリー5世には3人の弟がおり、彼自身も壮健で結婚もしており、ランカスター家の王位は揺るがぬものと見られていた。

ヘンリー6世の治世

ヘンリー6世。
作者不明、1620年頃。
穏和な性格で信仰心が篤く王者よりも聖人たる人物だったと言われる[22]。治世中に幾度か精神錯乱を起こしており、大貴族たちの権力闘争を招いた。

1422年8月31日にヘンリー5世が急死し、即位した彼の息子ヘンリー6世は僅か生後9ヶ月だった。その2ヵ月後にフランス王シャルル6世も死去しており、トロワ条約に従えばフランス王位はヘンリー6世のものとなるが、王太子シャルル(シャルル7世)を擁するアルマニャック派はこれを容認しなかった。

ヘンリー6世にはベッドフォード公ジョングロスター公ハンフリーの二人の叔父がおり、年長のベッドフォード公が護国卿摂政)となり、彼がイングランド不在時はグロスター公がその役割を果たすことになった。だが、グロスター公とランカスター家傍系のウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート、サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールとが反目するようになった[23]

1429年、ジャンヌ・ダルクの活躍によってアルマニャック派がオルレアンを解放し、シャルル7世はランスでフランス国王の戴冠式を挙行した。イングランド側もパリを一時的に確保して1431年にヘンリー6世のフランス国王戴冠式を挙行するが[24]、1435年のアラスの和平で同盟者であったブルゴーニュ公がシャルル7世と講和してしまい、イングランドにとって情勢は不利になった[25]

ベッドフォード公が1435年に死去するとヘンリー6世は権力争いが絶えない評議員や顧問官に囲まれることとなった。グロスター公は護国卿の地位を求め、この目的を遂げるべく意図的に庶民の人気を得ようと画策したが[26]、枢機卿ヘンリー・ボーフォートやサフォーク伯の抵抗を受けた。

ヘンリー6世とマーガレット・オブ・アンジューとの婚儀。
Martial d'Auvergne画、15世紀。

サフォーク伯はフランス国王との和平政策を推進し、シャルル7世の王妃マリーの姪にあたるアンジュー公ルネの公女マルグリット(マーガレット)とヘンリー6世との結婚を取り決めた[27]。1445年に結婚式が執り行われたが、この和平にはメーヌの割譲が含まれており、イングランド国内では大変に不評だった[28]。1447年、サフォーク侯[n 3]は和平に反対するグロスター公ハンフリーを反逆罪で逮捕し、その5日後にグロスター公はベリー・セント・エドマンズ英語版の牢獄で死去した[29]

グロスター公を死に追いやったことで逆にサフォーク公[n 3]の立場が悪くなり、今度はフランスとの和議を破棄して攻撃を行うが失敗してフランスの領土のほとんどを喪失してしまう[30]。1450年にサフォーク公は失脚し、国外追放の途上で殺害された[31]

代わってサマセット公エドムンド・ボーフォートが和平派の中心人物となった[32]。一方、1446年まで「フランスおよびノルマンディの総督」職に就いていたヨーク公リチャード(グロスター公の死により第一王位継承権者となった)が主戦派の中心となり[33]、宮廷とりわけサマセット公を対仏戦において資金と兵士の供給を滞らせたと激しく非難した[34]

1450年、ケントにおいて民衆暴動が発生した(ジャック・ケイドの反乱)。ヨーク公の従弟を自称するケイドに率いられた一揆軍は政治的要求を掲げてロンドンに向かい、政府軍と衝突するがこれを打ち負かしてロンドンの一部を占拠し、ケント州長官と廷臣1名を殺害した[35]。政府が赦免状を出したことによって暴徒は四散したが、ケイドを含む幾人かが処刑された[36]

1452年、アイルランド総督に左遷されていたヨーク公リチャードがイングランドに帰還し、サマセット公の排除と政府の改革を求めてロンドンへと進軍した。この時点では彼の大胆な行動に与する貴族は僅かであり[37]ブラックヒース英語版でヘンリー6世と会見するが欺かれて拘禁された[38]。彼は1452年から1453年にかけて投獄されるが[39]、恩赦により釈放されている[40]

国王ヘンリー6世の御前で言い争うサマセット公とヨーク公。
A Chronicle of England,1864年

宮廷での不協和音は国内全土にも反映されるようになり、貴族たちは私闘を繰り広げ、国王の権威や宮廷法に対する不服従を示すようになった。北東部でのパーシー家とネヴィル家の争いはこの時代の典型的な私闘で[41]、他の貴族たちも制約を受けることなくこれを行った。多くの場合は、それらは古くからの貴族とヘンリー4世以降に台頭するようになった新興貴族間で戦われた。古くからノーサンバーランド伯の地位を有するパーシー家とこれに比べると成り上がりのネヴィル家との争いはこのパターンであり、これ以外ではコーンウォールデボンで行われたコートネイ家とボンヴィル家の私闘がある[42]

フランスではシャルル7世がイングランド軍を追い詰め、1453年10月19日、イングランド軍最後の拠点であったボルドーを攻め落した。その後イングランド勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている[43][11]

1453年8月にヘンリー6世は最初の発作に見舞われて精神錯乱に陥り、王子(エドワード・オブ・ウェストミンスター)の誕生さえ認識できない有様となった[44]。マーガレット王妃は自らを摂政にするよう要求したが容れられず、貴族院の指名によりヨーク公が護国卿に任命された[45]。すぐに彼はこの権力を大胆に行使し、サマセット公を投獄するとともにパーシー家のノーサンバーランド伯(ヘンリー6世の支持者)と私闘を行っていた彼の同盟者ネヴィル家(義理の兄弟のソールズベリー伯、その息子のウォリック伯)を支援した[46]

1455年にヘンリー6世が回復すると、ヨーク公の政策は覆され、サマセット公が復帰した[47]。マーガレット王妃はヨーク公に対抗する党派を構築して、彼の影響力を奪う陰謀を画策した[48]。次第に追い詰められていったヨーク公とその一党は、身を守るために武力をもって対抗することを決意する[40]

大貴族と軍隊

主な地域と都市
薔薇戦争の位置(イングランド内)
ロンドン
ロンドン
ヨーク
ヨーク
サウザンプトン
サウザンプトン
シュルーズベリー
シュルーズベリー
ブリストル
ブリストル
ノーサンバランド
ノーサンバランド
ヨークシャー
ヨークシャー
ランカシャー
ランカシャー
ノーフォーク
ノーフォーク
ミッドランド
ミッドランド
エセックス
エセックス
ケント
ケント
サマセット
サマセット
コーンウォール
コーンウォール
ウェールズ
ウェールズ
スコットランド王国
スコットランド王国
太文字 –地域
–都市

15世紀のイングランドは神授権を主張し、民衆からは神に指示され導かれる「聖別された君侯」と信じられていた国王に統治されていた[49]。王権の主なる機能は敵から民衆を守ること、公正に統治すること、そして法を維持執行することであった[49]。このような社会での主権者の性格は自らの安全確保と臣下の安寧に依拠するがために肝要であった[50]。統治と君臨によって国王は強大な権力を振るうが、300万人の国民を擁する政府の複雑性は政府機関の数が増すとともに臣下への権限の委任の増加を導いた[50]

王位継承法は明確なものではなかったが、一般的には年長の子とその相続人に継承させる長男子相続権の規則が適用されていた。12世紀のマティルダ女王の短い治世から、1399年のリチャード2世の廃位までの時期はプランタジネット朝には多数の男系継承者が存在していたためにこの長男子相続権でも問題が生じなかった[51]。しかしながら、1399年から15世紀の末には、法学者ジョン・フォーテスキューの1460年代の著作が言うところの、「強大化しすぎた臣下」の台頭により、王位は抗争の的となった[52]。この時代は王位を請求する者、もしくはその黒幕とならんとの野心を持つ、強大な大貴族があまりにも多くいた[52]。この結果、新たなそして不穏な要素が王位継承の決定に加わることになり、権力に対する恣意の横行となった[52]

国土の防衛はとりわけ重要であり、イングランド国民の多くが軍事的成功に重きを置いていた。それ故に国王は有能な戦士と見なされねばならなかった。薔薇戦争の名で知られる一連の内戦の決定的な要因は国王自身は常備軍を有していなかったことである。国王は必要な際に自らを守る兵の動員を貴族たちに依存しており、そのため、もしも刺激させればその兵力を国王に向けかねない、貴族やジェントリ(郷紳)との関係を良好に保つことが不可欠であった。このことは国王が大貴族間の権力闘争(とりわけ、王国の安定を脅かしかねないもの)を抑止する責務にもつながっている[50]

イングランド騎士の甲冑。写真は16世紀・テューダー朝時代のもの。

薔薇戦争は主に大土地所有英語版の大貴族の間で行われた。彼らは王族たる公爵、比較的少数の侯爵や伯爵、多数の男爵と騎士そして土着のジェントリたちであった[53]。彼らは広大な私有地を持つ一方で、投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって政治的影響力を拡大していた[51]。彼らは封建的な扈従こじゅうretainerまたはtenants)からなる武力によって支えられており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。雇用された多数の兵士を統制する行為は「幇助」(maintenance)として知られる。このような私兵の規模のほかに、貴族の威信は「扈従団」(affinity:アフィニティ)によっても計られた[51]。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ」(livery:そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍する。その見返りとして、貴族は年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を与えた[51]。この非公式な「お仕着せと幇助」(livery and maintenance)の制度は百年戦争に続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度本来の土地の授受を媒介とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、「仕着せされた扈従」(liveried retainer)として貴族と請負契約を結ぶ、歴史家の言うところの、「擬似封建制度」(bastard feudalism)の一環であった[51][54]。薔薇戦争の時期にはフランスでの戦いに敗れイングランド軍から除隊させられた多数の兵士たちの存在があった。貴族たちは彼らを雇用して襲撃、または従臣とともに法廷に引き連れて行き原告や傍聴人そして判事に対する威嚇に用いた(訴訟不法幇助)[55]

前世紀の戦争の経験から、弓兵に対する騎兵突撃が極めて危険なことが分かり、騎兵(装甲兵)たちはほとんどの場合、徒歩で戦った[56]。しかしながら、これはしばしば言われることだが貴族の方が兵士よりも危険が大きかった。ブルゴーニュ人の観察者フィリップ・ド・コミュンヌ英語版は、エドワード4世が戦場で勝利を決した際に「兵士は逃がしてやれ、だが貴族は容赦するな」と命じていたと伝えている[57]

第一次内乱

第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日

第一次内乱初期(1455年)
薔薇戦争の位置(イングランド内)
ロンドン
ロンドン
レスター
レスター
コヴェントリー
コヴェントリー
カレー
カレー
第一次セント・オールバーンズ
第一次セント・オールバーンズ

ヨーク派

ランカスター派


死亡–戦死または処刑。

シェイクスピア作『ヘンリー六世 第1部』の一場面。ヨーク公リチャード(左)と同志が白いバラを選び、サマセット公エドムンド(右)は赤いバラを選んでいる。
Henry Payne画。1908年頃。

1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃そしてサマセット公エドムンドの宮廷一行は、公正な審理を求めるべくロンドンに向けて南下していたヨーク公リチャードの軍勢と対峙することになった[58]。5月22日、ロンドン北方のセント・オールバンズで両軍は衝突する。比較的小規模なこの第一次セント・オールバーンズの戦いはこの内戦における最初の会戦となった[59]。戦いはランカスター派の敗北に終わり、サマセット公は戦死し、ノーサンバランド伯をはじめとするランカスター派の主だった指導者たちは処刑された[60]。会戦の後、ヨーク派は評議員や従者たちに見捨てられて陣幕で一人たたずんでいたヘンリー6世を見つけ、国王は明らかに精神異常に陥った状態だった(国王は首に軽い矢傷を負ってもいた)[61]

この勝利により、ヨーク公と彼の同盟者たちは再び影響力を取り戻した。10月、国王が執務不能なためにヨーク公リチャードが再び護国卿に任命され、議会は彼が国王に武器を向けたことについて不問に付した[62]。ヘンリー6世が回復すると、1456年2月にヨーク公は護国卿を解任された[63]。同年6月、ヘンリー6世はミッドランド地方に行幸をし、マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた[64]。その後、サマセット公ヘンリー・ボーフォート(戦死したサマセット公エドムンドの子)が国王の寵臣として台頭するようになった。一方、ヨーク公はアイルランド総督に復職しており、またウォリック伯はカレー総督となり、おのおのヨーク派の拠点となしていた[64]

首都と北イングランド(ネヴィル家とバシー家の戦闘が再開していた[65])での無秩序が広まり、南部海岸ではフランス海軍による海賊行為が増加していたが、国王と王妃は自らの地位を保つために動かなかった。一方、ヨーク派のウォリック伯(後にキングメーカーの異名を受ける[n 4])は商人の守護者としてロンドンで人気を集めるようになっていた[66]

1458年春、カンタベリー大司教トマス・バウチャー英語版は両派の和解を調停しようとした。大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、町は武装した従臣たちでいっぱいになった。大司教は第一次セント・オールバーンズの戦い以降の流血の私闘を解決するための複雑な和解策を話し合った。その後、3月25日の「聖母マリアの受胎告知の祝日」(Lady Day)に国王は「愛の日」(Love day)の教会行列をセント・ポール大聖堂に向かって挙行し、ランカスター派とヨーク派の貴族たちが手に手をとってこれに続いた[65]。教会行列と会議が終わるとすぐに陰謀が再開した。

カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟スペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった[67]。彼は査問のためにロンドンに召還されたが、自分の生命を脅かそうとする企てがあると主張してカレーに戻ってしまった[67]。ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集されたものの、彼らは自らの支持者から切り離された上で逮捕されると危惧しており、これを拒絶した[68]

戦闘の再開と合意令

ラドロー城、シュロップシャー南部

ヨーク公はネヴィル一族をウェールズ境界地方英語版ラドロー城に集結させた。1459年9月23日、ランカスター軍はヨークシャーミドルハム城からラドロー城へ向かっていたソールズベリー伯の進軍をスタッフォードシャーのブロア・ヒースの戦いで迎え撃ったが敗北した。それから暫く後の10月12日、合流したヨーク軍はラドフォード橋の戦いで、数に勝るランカスター軍と対戦する。戦いはウォリック伯がカレー守備隊から派遣したアンドリュー・トロロープ英語版の部隊が寝返ったためにヨーク軍の敗北に終わった[60]。ヨーク公はアイルランドへ戻り、彼の長男のマーチ伯エドワード、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はカレーへ逃れた[69]

ランカスター派が主導権を取り戻し、ヨーク公とその支持者たちは反逆罪で私権剥奪処分を受けて所領と称号を奪われ、ヨーク公とその子孫の王位継承権も欠格とされた[70]。サマセット公がカレーを接収すべく派遣されたが、ウォリック伯はカレー守り抜いた[67]。1460年1月から6月にかけて、ウォリック伯はカレーからイングランド沿岸部を逆襲して国王軍に打撃を与えた[71]。3月、ウォリック伯はヨーク公と作戦を協議するためにカレーを発し、エクセター公率いる国王艦隊をたくみにかわしてアイルランドに渡った[72][67]

1460年6月、ソールズベリー伯とウォリック伯そしてマーチ伯エドワードが海峡を越えてサンドウィッチに上陸し、人望の厚いウォリック伯のもとに兵が集まり、7月にロンドン塔を除くロンドン市街を制圧した[73]。コヴェントリーの宮廷にいた国王と王妃は兵を軍隊を召集すると、ヨーク派に対するべくヘンリー6世の軍は南下し、マーガレット王妃はエドワード王子とともにコヴェントリーに留まった[73]。7月10日のノーサンプトンの戦いでウォリック伯は、グレイ卿英語版の裏切りもあって[73]、ランカスター軍を撃破できた。この戦いで、ランカスター派のバッキンガム公ハンフリー・スタフォードシュルーズベリー伯英語版、エグリモント卿、ボーモント卿らが戦死した。ヘンリー6世はまたもヨーク派に捕らえられ、彼は明らかに精神異常に見舞われている様子だった。国王を手中に収めたヨーク派はロンドンに凱旋する。

この軍事的成功を踏まえ、ヨーク公リチャードはランカスター家系の非合法性を根拠とする王位請求へと動いた。ウェールズに上陸したヨーク公とその妻セシリーは国王と同じ形式でロンドンに入城した[40]。10月に開催された議会でヨーク公は王座を占めようとするが制止され[74]、王位請求を宣言するものの、諸侯たち、ソールズベリー伯やウォリック伯までもが、依然としてヘンリー6世に対する忠誠義務を捨ててはおらずヨーク公に同調しようとはしなかった[75]

ヨーク公は、自らがランカスター家より兄の血統にあたるライオネル・オブ・アントワープの子孫であることを根拠に、より優位の王位継承権を有すると主張する文書を貴族院に送り、重ねて王位を請求した[76]。議会における長い議論の後に、妥協案である「合意令」(Act of Accord)が成立した。ヨーク公がヘンリー6世の王位継承者と認められ、6歳のエドワード王子の継承権は排除された[77]。この取り決めは彼に要求した大部分を与えており、彼は護国卿に就任し、ヘンリー6世の名の下で全土を支配しえた。

ランカスター軍の反撃

マーガレット・オブ・アンジュー。
Talbot Masterga画。1445年頃。
夫ヘンリー6世に代わり、ランカスター派の中核としてヨーク派に執拗に抵抗した。シェイクスピアは劇中で彼女を「フランスの雌狼」と表現した[78]

マーガレット王妃とエドワード王子は依然としてランカスター派の勢力圏にあった北部ウェールズへと逃れた。その後、彼らは海路スコットランドに渡り、援助を仰いだ。スコットランド王ジェームズ2世の王妃メアリー・オブ・グエルダースは軍隊の貸与の条件としてベリックの割譲とメアリーの王女とエドワード王子との婚約を提示した。マーガレット王妃はこの条件を呑んだが、彼女には兵士に給与を支払う財産がなく、南イングランドでの略奪を認めた[79]

マーガレット王妃の軍はヨークシャーを制圧し、彼女の元へランカスター派が集結した[73]。1460年暮れに、ヨーク公リチャードはソールズベリー伯とともに北部のランカスター軍を討つべくロンドンを出立した。12月21日にヨーク公はウェークフィールド近郊のサンダル城英語版に入るが、マーガレット王妃の軍勢はヨーク公の4倍に膨れ上がっており、彼は援軍を待って城に留まるが、ランカスター軍はこれを包囲して食糧補給を遮断した[80]。12月30日にヨーク公は城を出撃してランカスター軍に対して野戦を挑んだ。ウェイクフィールドの戦いはランカスター軍の勝利に終わり、ヨーク公と17歳の次男のラットランド伯エドムンドが戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された[81]。マーガレット王妃はヨーク公の首に紙の王冠を被せたうえで彼らの首をヨークの城門にさらさせた[82][40]

太陽が三つに見える幻日現象の写真。

ウェークフィールドの戦いの結果、戦死したヨーク公リチャードの長男で18歳のマーチ伯エドワードがヨーク公位および合意令に基づく王位請求を継承することになった。彼はウェールズ境界地方の親ヨーク派の軍勢を糾合し、1461年2月2日、ウェールズに侵攻してきたオウエン・テューダーペンブルック伯ジャスパー・テューダー父子とウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーの率いるランカスター軍をヘレフォードシャー近くのモーティマーズ・クロスで迎え撃った。この戦いの前、彼は払暁に見えた三つの太陽(幻日現象として知られる)を故ヨーク公リチャードの生き残った三人の息子(彼自身、ジョージそしてリチャード)の具現であるとし、勝利の前触れであると告げて兵たちを奮起させた[83]。このことに因み、エドワードは後に太陽の光彩を自らのヘラルディック・バッジ英語版(記章)に取り入れさせている。会戦はヨーク軍の勝利に終わり、ヨーク公エドワードはオウエン・テューダーを処刑した。

一方、敵の首領ヨーク公リチャードを討ち取ったマーガレット王妃のランカスター軍は南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指して南下を続けていた[84]。ウォリック伯はこれをヨーク派への支持を強めるためのプロパガンダに利用し、コヴェントリーの町はヨーク派に鞍替えしている。ウォリック伯の軍勢は交通上の要衝たるセント・オールバーンズの北側に陣地を築いたが、敵軍に数で圧倒されており、マーガレット王妃軍は西に迂回して背後から彼の軍勢に襲いかかった[84]。2月17日の第二次セント・オールバーンズの戦いはランカスター軍の圧勝に終わった。ヨーク軍はヘンリー6世を置き去りにして潰走し、国王は町の一軒家の中で発見された[84]

戦闘後、すぐにヘンリー6世は30人のランカスター軍兵士にナイト爵を授けた。マーガレット王妃は6歳になるエドワード・ウェストミンスター王子にヨーク軍の騎士(ヘンリー6世の警護役で会戦の間中、彼に付き添っていた)の処刑方法を決めさせている。

ランカスター軍の南イングランドでの略奪行為によりロンドン市民は恐慌状態に陥り、ランカスター派の威信は地に落ちていた[85]。マーガレット王妃はロンドンの明け渡し交渉を行うが、市民は城門を閉じて国王と王妃の入城を拒んだ<[79]

ヨーク派の勝利

タウトンの戦い。
リチャード・カトン・ウッドヴィル・ジュニア英語版画。1922年。

ウォリック伯の残存兵力と合流したヨーク公エドワードの軍勢は西部からロンドンへと進軍した。同じ頃、王妃軍はダンステーブル英語版に撤退しており、1461年2月27日、ヨーク公エドワードとウォリック伯は難なくロンドンに入城できた。ロンドン市民は彼らを熱狂をもって迎え、ヨーク派は市当局から財政援助も受けた[86]

この時点においてエドワードはもはや「君側の奸を除く」とは主張しなくなっており、この内戦は王位争奪戦となった。ヨーク派は先年の合意令に基づく正当なる王位継承者(ヨーク公リチャード)の殺害を許したヘンリー6世は王位にあり続ける権利を喪失したと主張した[86]。3月4日、7人の聖俗諸侯からなる評議会とロンドン市民からの推戴を受けたヨーク公エドワードは王位についた(エドワード4世[87]。彼はヘンリー6世とマーガレット王妃を処刑するか国外追放するまで公式な戴冠式は行わないと誓った。

3月19日、ヨーク軍がロンドンを出立し、エドワードとウォリック伯は兵を集めつつ北上した。3月27日から28日にかけてウォリック伯率いる前衛部隊がランカスター派の本拠ヨーク近くでランカスター軍と衝突した(フェリブリッジの戦い[88]

3月29日、ヨーク西方のタウトンで両軍の決戦が行われた。このタウトンの戦いは薔薇戦争最大の戦いとなった。強風と降雪の中で数万の兵が衝突し、終日戦われたこの会戦は、エドワード率いるヨーク軍の決定的な勝利に終わり、ランカスター軍は指揮官の多くが命を落として潰走した[83]。ヨーク軍約12,000人、ランカスター軍約20,000人が戦死しており、イギリス本土において一日の戦闘で命を落とした数としては最大のものとなった[n 5]

ヨークで待機していたヘンリー6世と王妃そしてエドワード王子は敗戦を伝えられるとスコットランドへ逃亡した[89]。生き残ったランカスター派の貴族の多くは新国王エドワードに忠誠を誓い、それ以外の者たちは北部国境地帯やウェールズの城塞に立て籠もった。エドワードはヨークを占領すると城門に掲げられていた彼の父と弟そしてソールズベリー伯の首級を降ろさせ、代わりにウェークフィールドの戦いの後にラットランド伯エドマンドを処刑したことで悪名高いクリフォード卿ジョンをはじめとするランカスター派貴族の首級をさらさせている。

エドワード4世の即位とランカスター派掃討

エドワード4世。
作者不明。1520年頃。

1461年6月、ロンドンにおいて、エドワード4世の正式な戴冠式が、支持者たちからの熱狂的な歓迎を受けつつ挙行された。エドワード4世はおよそ10年間、比較的平穏な統治を行った。

北部では、エドワード4世の支配は1465年まで完遂しなかった。タウントンの戦いの後、ヘンリー6世とマーガレット王妃はスコットランドに逃れ、ジェームス3世の宮廷に身を寄せた。この年の暮れにランカスター軍はカーライルを攻撃したものの、資金のない彼らは容易に撃退され、エドワード4世の軍隊は北部地方に残るランカスター残党を掃討を行った。ダンスタンバラ城英語版アニック城(パーシー家の本拠)、バンバラ城英語版といったノーサンバランドのランカスター派の城塞は数年に渡って持ちこたえている。

1464年には北イングランドでランカスター派の蜂起が起こった。サマセット公ヘンリー・ボーフォート(タウトンの戦い後、エドワード4世に帰順していた)を含むランカスター派貴族が反乱を指揮した。この反乱はウォリック伯の弟モンターギュ卿ジョン・ネヴィルによって鎮圧された。寡兵のランカスター軍は4月25日のヘッジレイ・ムーアの戦いで打ち破られたが、この時のモンターギュ卿はヨークへと向かうスコットランド使節を護衛する任務中であったために即座に追撃することはできなかった[89]。5月15日のヘクサムの戦いでランカスター軍は撃滅されてサマセット公ら指導者たちは捕らえられ、後に処刑されている[89]

北部のランカスター派城塞はこれ以前に陥落しており[90]、1465年にはランカシャークリザーロー英語版でヘンリー6世が捕らえられた。彼はロンドンに連行されてロンドン塔に幽閉され、当面は丁重に遇された。同時期にイングランドとスコットランドとの妥協が成立すると、マーガレット王妃とエドワード王子はスコットランドからの退去を余儀なくされ、海路でフランスに渡り、数年間の窮迫した亡命生活に甘んじなければならなかった[91]

唯一残っていたランカスター派の拠点、ウェールズのハーレフ城は7年の包囲戦の末、1468年に降伏した。

第一次内乱関係図表

第一次内乱後期(1459年 - 1468年)
薔薇戦争の位置(イングランド内)
①ブロア・ヒース
ブロア・ヒース
②ラドフォード橋
ラドフォード橋
③ノーサンプトン
ノーサンプトン
④ウェイク フィールド
ウェイク
フィールド
⑤モーティマーズ クロス
モーティマーズ
クロス
⑥第二次セント オールバーンズ
第二次セント
オールバーンズ
⑦フェリブリッジ
フェリブリッジ
⑧タウトン
タウトン
⑨ヘッジレイ ムーア
ヘッジレイ
ムーア
⑩ヘクサム
ヘクサム
ベリック
ベリック
ロンドン
ロンドン
ヨーク
ヨーク
サンドウィッチ
サンドウィッチ
コヴェントリー
コヴェントリー
ダンステーブル
ダンステーブル
カレー
カレー
クリザーロー
クリザーロー
ラドロー
ラドロー
アニック
アニック
ダンスタンバラ
ダンスタンバラ
バンバラ
バンバラ
ハーレフ
ハーレフ
青文字:ヨーク軍勝利
赤文字:ランカスター軍勝利
–黒文字:引き分け
–城塞
番号 会戦名 年月日 結果
ブロア・ヒースの戦い 1459年9月23日 ヨーク軍勝利
ラドフォード橋の戦い 1459年10月12日 ランカスター軍勝利
ノーサンプトンの戦い 1460年7月10日 ヨーク軍勝利
ウェイクフィールドの戦い 1460年12月30日 ランカスター軍勝利
モーティマーズ・クロスの戦い 1461年2月2日 ヨーク軍勝利
第二次セント・オールバーンズの戦い 1461年2月22日 ランカスター軍勝利
フェリブリッジの戦い 1461年3月28日 引き分け
タウトンの戦い 1461年3月29日 ヨーク軍勝利
ヘッジレイ・ムーアの戦い 1464年4月25日 ヨーク軍勝利
ヘクサムの戦い 1464年5月15日 ヨーク軍勝利
主要人物
ヨーク派 ランカスター派
死亡–戦死または処刑
—ランカスター派に寝返り。

第二次内乱

ウォリック伯の反乱

A Chronicle of England、1864年。
未亡人となったエリザベス・ウッドヴィルがエドワード4世の元へ領地の返還を請願に訪れたことが出会いとなった。彼女との身分違いの結婚が後の動乱を招くことになった。

エドワード4世擁立の立役者となったウォリック伯はイングランド最大の土地所有者になっていた。妻の財産によって、すでに傑出した大貴族になっていたが、この上、彼は父の領地を相続し、さらには没収されたランカスター派貴族の領地をも与えられていた。彼には五港長官職とカレー守備隊司令職が与えられた[92]。彼は親仏派の立場をとり、エドワード4世とフランス王族との縁組をルイ11世と交渉していた[93]。だが、エドワード4世はランカスター派騎士の未亡人のエリザベス・ウッドヴィルと1464年に秘密結婚をしていた。後にエドワード4世はこれを「くつがえせない事柄」(fait accompli)として公表し、縁談を進めていたウォリック伯の面目を失わせることになった[94]

エドワード4世はエリザベス王妃の父リチャード・ウッドヴィル英語版をリバース伯に、弟のジョン英語版をスケールズ卿に、そして連れ子のトマス・グレイ英語版をドーセット候となし、親族の多くを貴族と結婚させ、その他の者たちも爵位や官職を授与した[95]。エドワード4世はウッドヴィル一族の重用に留まらず、側近たちにも爵位を与え、さらにはネヴィル一族の宿敵であるパーシー家の遺児ヘンリー・パーシー にノーサンバランド伯爵位を返還させ独自の党派形成を策した[90]

ウォリック伯リチャード・ネヴィル。
第一次内乱ではエドワード4世即位に大功あり、第二次内乱では彼を廃してヘンリー6世を復位させたことにより、後世「キングメーカー」(国王製造人)の異名を受けた[n 4]

エドワード4世がフランス国王との同盟ではなく、ブルゴーニュ公シャルル(突進公)に王妹マーガレットを嫁がせて同盟を結んだことや、弟のクラレンス公、グロース公とウォリック伯の娘との縁組に乗り気でなかったこともウォリック伯を失望させる要因となっていた[96]。エドワード4世もウォリック伯の弟のヨーク大司教ジョージを尚書部長官職から解任して、ネヴィル一族排除の動きを見せる[97]

ウォリック伯は任地のカレーから国王の不正を糾弾するとともに、エドワード4世の意に反してウォリック伯の娘イザベルと結婚した王弟クラレンス公ジョージと盟約を結んだ[98]。1469年4月、ウォリック伯の扇動によって北部地方でレデスデールのロビン英語版の反乱が起き、エドワード4世は鎮圧に赴いた。ウォリック伯はカレーの軍勢を率いてケントに上陸するが、エドワード4世は7月6日のエッジコート・ムーアの戦いで反乱軍に敗れてしまっていた[90]。エドワード4世はバッキンガムシャーのオルニーで捕らえられ、ヨークシャーのミドルハム城に幽閉された[90]。ウォリック伯は王妃の父親のリバース伯と弟のジョンを処刑し、エドワード4世の側近たちも粛清したが、エドワード4世自身の非合法性を唱えてクラレンス公擁立する動きをすぐには起こさなかった[99][n 6]

国内は大混乱に陥り、貴族たちは再び私兵を用いた抗争を始め、ランカスター派は反乱を扇動した[100]。ウォリック伯の権力掌握を支持する貴族は僅かだった。エドワード4世はヨーク大司教ジョージに伴われてロンドンに入り、ウォリック伯と表面的な和解をなした。

1470年3月、リンカンシャーでさらなる反乱が起った。エドワード4世はウォリック伯と疎遠な者を選んで国王軍を召集し[90]ルーズコート・フィールドの戦いで反乱軍を打ち破った。捕虜になった首謀者はウォリック伯とクラレンス公の教唆による反乱であったと証言した[90]。彼らは反逆者と宣告され、フランスへの逃亡を余儀なくされた。

ヘンリー6世の復位と死

マーガレット王妃に忠誠を誓うウォリック伯。
A Chronicle of England,1864年
ウォリック伯の最後。
A Chronicle of England,1864年

フランスにはマーガレット王妃とその息子が既に亡命していた。エドワード4世と彼の義弟にあたるブルゴーニュ公シャルル(豪胆公)との同盟に危機感を持ったフランス王ルイ11世はウォリック伯とマーガレット王妃との同盟を提案した[101]。不倶戴天の敵同士だった両者は同盟に合意し、ウォリック伯は王妃に敵対行為を謝罪して忠誠を誓い、ウォリック伯の娘アンとマーガレット王妃の子エドワード・ウェストミンスターとの婚姻が成立した[67][102]

この時、エドワード4世はヨークシャーでの反乱を鎮圧すべく軍を率いて北上中だった。従兄弟のトマス・ネヴィル英語版率いる艦隊の支援を受けたウォリック伯とクラレンス公はイングランド南西部のダートマスに上陸した[90]。ウォリック伯は10月にロンドンを占領し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてロンドン市街を行進させたが、獄中生活で憔悴しきり、文字通りの「影の薄い」姿だったという[103]。新たにモンターギュ侯爵位(実際の所領はなかった)を与えられたジョン・ネヴィルは大軍を率いてスコットランド辺境部へと兵を進めた。この事態はエドワード4世にとって予想外のことであり、軍隊を解散させると王弟グロスター公とともにドンカスターから海岸部に逃れてホラントに渡り、ブルゴーニュに亡命した。だが、この段階になってもマーガレット王妃とエドワード王子はウォリック伯を信用せずにフランスから動こうとしなかった[90]

ウォリック伯の成功は短命なものであった。親仏派のマーガレット王妃とウォリック伯が牛耳るイングランドとフランスとの同盟成立に危機感を持ったブルゴーニュ公シャルルはこれに対抗すべく、エドワード4世にイングランド奪回のための軍を集める資金を提供する[104]

1471年3月15日、エドワード4世はドイツとフランドルの傭兵からなる少数の軍勢とともにヨークシャー海岸のレーヴェンスパー英語版に上陸した[105]。彼はすぐにヨークの町を手に入れ、支持者たちを集めた。これを討つべくノーサンバランド伯、エクセター公、オックスフォード伯そしてウォリック伯の軍が差し向けられた。討伐軍をすり抜けてロンドンに向けて南下するエドワード4世の軍にウォリック伯を見限ったクラレンス公が合流した[105]。4月11日、エドワード4世とクラレンス公はロンドンに入城し、ヘンリー6世を逮捕した[106]

4月14日、エドワード4世とウォリック伯の軍はバーネットの戦いで決戦をした。この会戦は深い霧の中で戦われ、ウォリック伯軍の一部は同士討ちを演じている[105]。裏切りが発生したと思い込み混乱状態になったウォリック伯軍にエドワード4世軍の騎兵が突入し、ウォリック伯軍は総崩れになった[105]。ウォリック伯は馬に乗ろうとしたところを斬られ、モンターギュ候も戦死した。

テュークスベリーの戦いに敗れ、連行されるマーガレット王妃。
John Gilbert画。1875年。

一方、マーガレット王妃とエドワード王子はバーネットの戦いの数日前に西南地方(ウェスト・カントリー)に上陸していた。フランスに引き返すよりは、ウェールズのランカスター派と合流することを選んだマーガレット王妃はセヴァーン川の渡河を図るが、グロスター公が通行を阻止したために失敗した[105]。第5代サマセット公エドムンド・ボーフォート英語版が指揮する彼女の軍隊は捕捉され、5月4日のテュークスベリーの戦いで壊滅した。

捕らえられたエドワード王子とサマセット公は処刑された。戦いからしばらく後の5月14日にヘンリー6世も、ヨーク王朝を強固たらしめるために、殺害された。マーガレット王妃はフランス王ルイ11世が身代金を支払うまでの5年間、ロンドン塔に幽閉された[107]。帰国後はフランス王にアンジュー家領の相続権を剥奪され、失意と貧窮の中で1482年に没した[108]

第二次内乱関係図表

薔薇戦争の位置(イングランド内)
薔薇戦争
①エッジコート・ムーア
エッジコート・ムーア
薔薇戦争
②ルーズコート フィールド
ルーズコート
フィールド
薔薇戦争
③バーネット
バーネット
薔薇戦争
④テュークスベリー
テュークスベリー
ロンドン
ロンドン
カレー
カレー
ダートマス
ダートマス
青文字:ヨーク軍勝利
赤文字:ウォリック伯&ランカスター軍勝利
番号 会戦名 年月日 結果
エッジコート・ムーアの戦い 1469年7月26日 ウォリック伯軍勝利
ルーズコート・フィールドの戦い 1470年3月12日 ヨーク軍勝利
バーネットの戦い 1471年4月14日 ヨーク軍勝利
テュークスベリーの戦い 1471年5月4日 ヨーク軍勝利
主要人物
ヨーク派 ウォリック伯& ランカスター派
死亡–戦死または処刑
–ヨーク派に寝返り。

第三次内乱

リチャード3世の簒奪

リチャード3世
作者不明、16世紀後半。
テューダー朝時代の年代記作家によって人格を貶められ、シェイクスピアは彼を醜怪な容姿の稀代の悪人として描き、そのイメージは後世まで続いたが、彼の短い治世については再評価も行われている[109]

エドワード4世の残りの治世は比較的平和が保たれた。彼の末弟グロスター公リチャードと長年の友であり支持者でもあったヘイステング卿ウィリアム英語版には忠誠に対して十分な恩賞が与えられ、おのおの中部と北部の支配を任された[110]。クラレンス公ジョージは次第にエドワード4世と不和になり、1478年に謀反に関与した嫌疑で処刑された[111]。一方、グロスター公はウォリック伯の遺児でエドワード・オブ・ウェストミンスターの未亡人であるアン・ネヴィルと結婚して、ネヴィル家の私党を引き継ぎ、北部で大きな勢力を蓄えるようになった[112]

1483年4月9日にエドワード4世が急死した。国王の死を契機に王妃の親族ウッドヴィル家(弟のリバース伯アンソニー英語版と最初の結婚の時の子のドーセット候トマス)と古くからの側近のへースティング卿との対立が表面化した[113]。エドワード4世が死去したとき、王位を継承するエドワード5世は僅か12歳であり、リバース伯のもとラドロー城で養育されていた。

死の床にあったエドワード4世はグロスター公リチャードを護国卿に指名したとされる[114]。エドワード4世が身罷った時、グロスター公は北部に滞在していた。ウッドヴィル一族は宝物庫と武器庫を兼ねていたロンドン塔を確保すると兵を集めて一種のクーデターを断行した[115]。エドワード4世の死を受けて開かれた国王評議会はウッドヴィル一族によって主導され、へースティング卿の反対を退けて、グロスター公を実権のない名誉職に祭り上げる決定をした[116]。危機感を持ったへースティング卿はグロスター公にウッドヴィル家に対抗しうる兵力を持ってロンドンに入るよう伝えた[117]

『ロンドン塔の若き王と王子』
ポール・ドラローシュ画。1831年。
およそ200年後のチャールズ2世の時代にロンドン塔内から二人の子供の遺骨が発見され、これが兄弟のものとされたが、真相は謎のままである[118]

4月28日、グロスター公リチャードとバッキンガム公ヘンリー・スタフォードはエドワード5世を警護しつつロンドンに向かっていたリバース伯をストーニー・ストラットフォード英語版で拘束した[119]。彼らはリバース伯に争う意図はないと伝えていたものの、その翌日に彼を投獄してしまい、エドワード5世には国王の身を害そうとするウッドヴィル家による陰謀を妨げるために行ったと告げた。リバース伯と王の異父兄のリチャード・グレイはヨークシャーのポンテクラフト城英語版に送られ、6月末に処刑された[120]

5月4日、グロスター公リチャードに保護されたエドワード5世はロンドンに入城し、ロンドン塔に送られた。エリザベス王太后は残りの子とともにウェストミンスター寺院に入り庇護を求めた。6月22日のエドワード5世の戴冠式の準備は進められ、この時点でグロスター公リチャードの護国卿の任期は終わることになっていた。6月13日、グロスター公リチャードはヘーステング卿を呼びだすと裁判なしでその日のうちに処刑した[121]

カンタベリー大司教トマス・バウチャーはエリザベス王太后に対して9歳になる王弟ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔にいるエドワード5世の元に送るよう説得した[122]。子どもたちの身柄を確保したグロスター公は説教師やバッキンガム公を使って故エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を違法であり、二人の子は庶子であると訴えさせた[123]。議会はこれに同意して、「王たる資格」(Titulus Regius)を発し、グロスター公を正式に国王リチャード3世であると宣言した。囚われの身の二人の少年は姿を消し、おそらくはリチャード3世に殺害されたと見られているが[124]、王位継承権に疑義があったヘンリー7世によって殺害されたとする説もある[125]

7月16日に盛大な戴冠式が催され、それからリチャード3世は中部と北部への行幸に赴いて気前よく下賜金を施し、また自らの子にプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)の称号を与えた。

バッキンガム公の反乱

第三次内乱
薔薇戦争の位置(イングランド内)
ボズワース
ボズワース
ストーク・フィールド
ストーク・フィールド
ロンドン
ロンドン
ヨーク
ヨーク
ペンブルック シャー
ペンブルック
シャー
カレー
カレー
ブレコン
ブレコン
ダブリン
ダブリン
エクセター
エクセター
コーンウォール
コーンウォール
ストーニー・ ストラットフォード
ストーニー・
ストラットフォード
ラドロー
ラドロー
: – 会戦
ボズワースの戦い(1485年8月22日)
ストーク・フィールドの戦い(1487年6月16日)
ボズワースの戦い(1485年)

ランカスター派

ヨーク派

死亡–戦死または処刑。
—ランカスター派に寝返り。

バッキンガム公ヘンリー・スタフォード。
William Sherlock画。18世紀。

1471年にヘンリー6世とその王子のエドワード・ウェストミンスターが殺害され、その他の者も命を落としたことでランカスター家の王位継承者としてリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの存在が浮上していた[126]。ヘンリー・テューダーの父リッチモンド伯エドマンド・テューダーはヘンリー6世の異父弟であるが[n 7]、王位継承権自体は母マーガレット・ボーフォートからのものである。彼女はエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントの子ジョン・ボーフォートの孫である。ジョン・ボーフォートは出生時には私生児であり、後に両親が結婚して嫡出子となったが、ヘンリー4世の命によってジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は排除させられていた[127]。このためにヘンリー・テューダーの血統の王位継承権には疑義があった[127]

ヘンリー・テューダーは少年時代の大部分を包囲下にあったハーレフ城と亡命先のブルターニュで過ごしている。1471年以降、エドワード4世はリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承権について軽視しており、幾度か身柄の確保を試みるだけだった。ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートは二度再婚しており、最初はバッキンガム公の甥であり、その次はエドワード4世治世での要人のひとりであるトマス・スタンリーと再婚して息子に対する支持を固めていた。1483年、マーガレット・ボーフォートはエドワード4世の長女であり、弟たち亡きあとはヨーク家の相続人となったエリザベス・オブ・ヨークとヘンリー・テューダーとの婚約を成立させた[128]

リチャード3世に対する反抗は南部で起こった。1483年10月18日、バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(リチャード3世の即位に貢献し、自らも遠縁ながら王位継承権を有する)がランカスター系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの擁立を標榜して挙兵した。ヘンリー・テューダーよりはエドワード5世か王弟を擁立すべしという意見もあったが、バッキンガム公は両人は既に殺害されていると認識していた[129]

南部における彼の支持者の一部が蜂起したが、時期尚早な蜂起であり、リチャード3世の代官ノーフォーク公ジョン・ハワードによってバッキンガム公との合流を阻止されてしまう。バッキンガム公自身は中部ウェールズのブレコンで蜂起した。彼は南イングランドの叛徒との合流を図るが暴風雨によってセヴァーン川の渡河を妨げられ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸したが形勢不利とみて引き揚げている。バッキンガム公の兵は飢えに苦しんで逃亡し、彼は裏切りにあって捕らえられ、処刑された。

バッキンガム公の反乱の失敗はリチャード3世に対する陰謀の終わりにはならなかった。身辺でも不幸が重なり、1484年に王妃アンと11歳の王太子を相次いで亡くしており、リチャード3世は兄の遺児エリザベス・オブ・ヨークとの再婚を考えるが断念している[130]

ボズワースの戦い

ボズワースの戦い。奮戦するリチャード3世。
A Chronicle of England,1864年

バッキンガム公の残党や不平貴族が亡命中のヘンリー・テューダーのもとに集まった。リチャード3世はブルターニュ公の重臣に賄賂を贈ってヘンリー・テューダーを裏切るよう唆したが、ヘンリー・テューダーは警告を受けてフランスへ逃亡し、ここで彼は庇護と援助を受けた[131]

大貴族やリチャード3世の官吏までもが自らに同心すると確信したヘンリー・テューダーは、1485年8月1日に亡命者とフランス人傭兵からなる軍勢を率いてアルフルール英語版を出帆した。追い風により、6日目にウェールズのペンブルックシャーに上陸した。リチャード3世が任命したウェールズ地方の代官たちはヘンリー・テューダーに合流するか、傍観した。ヘンリー・テューダーはウェールズと辺境地方を進軍しつつ支持者を募り、相当数の兵力になった[105]

8月22日、レスタシャーのボズワースでヘンリー・テューダーとリチャード3世の決戦が行われた。両者とも旗色を明らかにしないスタンリー兄弟(スタンリー卿トマスウィリアム英語版)の動静を睨みつつ戦いに入った[105]。リチャード3世軍では初手の矢戦から配下のノーサンバランド伯の軍勢が動かず、乱戦に入るとスタンリー兄弟がヘンリー・テューダーの側につき、リチャード3世軍の側面を突いた[105]。敗北を悟ったリチャード3世は自ら敵陣に突入してヘンリー・テューダーの目前にまで迫ったという[132]。リチャード3世は沼地で落馬したところをウェールズ人の兵士リース・トーマス英語版によって長柄斧英語版で首を斬られて斃れた。

寝返ったスタンリー卿は戦死したリチャード3世の王冠をヘンリー・テューダーに捧げたと伝えられる[133]。リチャード3世の遺体には汚辱が加えられ、裸にされて騾馬で引き回された[134]

ヘンリー7世の即位とヨーク派の反乱

テューダー家の徽章。ランカスター家の赤薔薇とヨーク家の白薔薇を合わせた形になっている。

勝利したヘンリー・テューダーはロンドンに入って議会を招集し、1485年10月30日に戴冠式を挙行した(ヘンリー7世)。11月に開催された議会はヘンリー7世の血統についてはさほど詮索せず、ボズワースの戦いの勝利を「神の御意志」として即位の正当性を承認している[135]

翌1486年1月18日、ヘンリー7世は自らの地位を固めるためにエドワード4世の王女であり、当時もっとも有力なヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨークと結婚した[136]。これにより、ヘンリー7世は二つの王家を統合することになり、ライバルだった白と赤の両家の図案を組み合わせた新たなテューダー・ローズを用いるようになった。ヘンリー7世は王位を固めるために、様々な口実をもうけて潜在的な王位継承権者を粛清し、この政策は次代のヘンリー8世にも引き継がれている。

アイルランドで反乱軍に「エドワード6世」として推戴されたシムネル少年。
Encyclopedia Britannica, 11th Ed.,1910年
パーキン・ウォーベック。
王弟ヨーク公リチャードを名乗り、リチャード4世を僭称した。

多くの歴史家たちはヘンリー7世の即位をもって薔薇戦争の終了としているが、一部の者たちは、ヘンリー7世を打倒してヨーク王家を再興しようとする陰謀がなおも存在していたことから、この内戦は15世紀末まで続いたとしている[1]。ボズワースの戦いの翌1486年、リチャード3世の侍従だったラヴェル卿英語版がヨークシャーで挙兵する事件が起こったが、烏合の衆であり戦う前に四散してしまった[137]

1487年にラヴェル卿はスイス人およびドイツ人傭兵を率いてアイルランドに上陸する[138]。この反乱にはエドワード4世の妹でブルゴーニュ公の未亡人マーガレットが関与しており、リンカーン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポール(リチャード3世の甥で王位継承者に指名されていたが、ヘンリー7世に帰順していた)も加わっていた[137]。反乱軍の指導者たちはランバート・シムネルという少年をヨーク系王族の生き残りで最も有力な王位継承権を持つウォリック伯エドワード(クラレンス公の遺児)の替え玉とし、ダブリンにおいてエドワード6世として戴冠させた[138]。だが、本物のウォリック伯エドワードの身柄は既にヘンリー7世に確保されており、その証明としてウォリック伯エドワードはロンドン市街を行進させられた[139]。反乱軍はランカシャーに上陸してイングランド本土に侵攻するが、7月17日のストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世率いる国王軍に撃破され、リンカーン伯は戦死し、ラヴェル卿は逃亡した[140]。捕らえられたシムネル少年は赦免され、宮廷の厨房の使用人とされた[141]

1491年にエドワード5世とともにロンドン塔に幽閉され消息を断った王弟ヨーク公リチャードを名乗る人物(パーキン・ウォーベック)が現れたことにより、ヘンリー7世の王座は再び脅かされた[137]。ウォーベックはフランス王シャルル8世やブルゴーニュ公夫人マーガレットそしてハプスブルク家神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の支持を受けてリチャード4世を名乗り、ネーデルラントやアイルランドで活動し、幾度かイングランドへの上陸を図っている[142]。1496年にはスコットランド王ジェームズ4世の支援を受けてノーランバランドへ攻め込むがヨーク派からの支持を得られず失敗した[143]

1497年にコーンウォールで重税に抗議する反乱が起きた(コーンウォール人の反乱英語版)。ウォーベックはこの反乱に加わり、エクセターを包囲するが失敗して捕らえられた[144]。彼は同じくロンドン塔に監禁されていたウォリック伯エドワードとともに脱獄を図るが失敗し、1499年に二人は処刑された[145]

ヨーク家の血統を継ぐ者としてバッキンガム公エドワード・スタフォードとサーフォーク公エドムンド・デ・ラ・ポール英語版そして彼の弟のリチャード・デ・ラ・ポール英語版が残っていた。サーフォーク公は1501年に国外に逃れてヘンリー7世打倒を企てたが、もはや支援する君主はなくイングランドに送還されて1513年に処刑されており、この後、ヨーク派による陰謀はほぼ終息する[146]

バッキンガム公エドワード・スタフォードはヘンリー8世の時代の1520年にさしたる理由なく捕らえられ処刑された。リチャード・デ・ラ・ポールはフランス王フランソワ1世の後援を受けてイングランド侵攻を企てるが実現せず、1525年のパヴィアの戦いでフランス軍に加わり戦死している。クラレンス公の娘のマーガレット・ポールはテューダー朝と和解して生き残り、ソールズベリー伯位の襲爵を許されたが、彼女も1541年にヘンリー8世によって処刑され、テューダー家に対抗しうるプランタジネット家系の王位継承権者は完全に抹殺された[147]

戦後

ヘンリー7世。
作者不明。1505年。

30年以上も続いたこの内戦によってイングランドの国土は荒廃したとされるが、これは新たに成立したテューダー朝によって誇張されたプロパガンダに過ぎない[148]。ヨーク家とランカスター家の権力争いであるこの内乱は他国の戦争や内乱と異なり、抗争を行う貴族たちは臣民の支持を得るために彼らを戦いに巻き込むことを避けており、同時代のフランスの歴史家フィリップ・ド・コミュンヌ英語版はイングランドでは田園も建物も破壊されなかったと述べている[149]。戦闘行動自体も合計で428日間に過ぎなかった[150]。戦闘はごく短期間のものが時間を置いて断続的に続いたものであり、攻城戦やそれに伴う略奪は少なく、例外的な1460年の北部兵を率いたマーガレット王妃の反攻時の略奪も、現存する当時の記録からは僅かな影響しか認められない[151]。この内戦の30年間、民衆の生活はほとんど脅かされておらず、ヘンリー7世は良好な状態の国土を継承できた[151]

薔薇戦争の結果、貴族がほとんど絶滅したかのように説明されることがあるが、実際の減少数は25%程度であり、少ない数字ではないが「絶滅」という表現にはあたわない[150]。家門断絶の理由も嫡出男子を欠いたことが戦死や処刑と同程度に存在した[150]。一方で、この時代以前の大貴族(公爵家と伯爵家)がほとんど姿を消したのも事実である[n 8]。ヘンリー7世は貴族数を抑制し、1485年の即位時の50家が、1509年に死去した際には35家になっていた[152]。断絶した貴族の所領は王領地化され、王室財政の強化に資された[6]

ヘンリー7世は貴族の私兵である扈従団の抑制を図り、最初の議会で貴族たちに扈従団を保有しないことを誓約させ、1504年には「揃い服禁止法」を出している[153]。もっとも、彼の治世中には疑似封建制度英語版を完全に解体することはかなわず、譲歩を余儀なくされることもあり、部分的・個別的な規制に留まっている[153]。大貴族パーシー家をはじめとする在地貴族が根を張り、王権の支配の弱かった北部については、1489年にノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーが横死すると[154]、これを好機にサリ伯トマス・ハワードを送り込み秩序回復に成功した[155]

地方統治においては、国王にとって危険な貴族に頼らず、ジェントリ(郷紳)に依存しようとするランカスター朝、ヨーク朝からの政策が踏襲されたが、その達成には長い時間を要することになる[156]。ジェントリは無給の治安判事として地方行政の中心的役割を担い[157]、有能な者は中央の国王評議会にも起用された[158]。身分の枠にとらわれない実用主義の人材登用がテューダー朝の特徴となる[159]

ヘンリー7世以降、テューダー朝は王権の強化を通した絶対王政の基礎を固めてゆくが[160]、イングランド王は古来からの慣習法(コモン・ロー)や議会による制約が強く、同時代のフランスやスペインの様な強力な中央集権の完成には至らなかった[161]

作品

ウィリアム・シェイクスピア
John Taylor画、1610年頃。

ウィリアム・シェイクスピアの最初期の作品『ヘンリー六世 第1部』(1591年 - 1592年[162])、『ヘンリー六世 第2部』(1590年 - 1591年[162])、『ヘンリー六世 第3部』(1590年 - 1591年[162])そして『リチャード三世』(1592年 - 1593年[162])は百年戦争末期から薔薇戦争の時代を題材とした歴史劇であり、「第1・四部作」と呼ばれている[163][n 9]エドワード・ホール英語版の『年代記』(1548年)、ラファイエル・ホリンシェッド英語版の『年代記』(1577年、1587年)などが材源に用いられた[164]。ヘンリー六世三部作については成立時期とともに執筆者を巡っても議論が続いており、第1部は合作説が強い[165]

歴史劇なので必ずしも史実に忠実ではなく、劇的効果のために人間関係は大胆にアレンジされ、事件の時系列は圧縮されている[166]。リチャード3世は醜い容貌のせむし男として描かれ、劇中で王冠を狙う野心を吐露して悪党になると宣言する、際立った印象を与える人物となっている[167]。「第1・四部作」は幼王を殺害して王位を簒奪した悪王リチャード3世がヘンリー・テューダーに倒され、テューダー朝の成立により真の平和がもたされて完結する。

その後、これらの歴史劇が一度に上演されることはほとんどなかった[168][169]。1963年、ジョン・バートン英語版ピーター・ホール英語版がこれらの作品を要約した[169]薔薇戦争』(The Wars of the Roses[170]を製作し、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーによる上演を行った。この上演は1965年にBBCで放映された[171]。1981年から1982年には原作の変更を最小限にとどめた4部作が上演され、BBCで放映されている[172]

その他の薔薇戦争を扱った主な作品には以下のものがある。

年表

国王 西暦 薔薇戦争関連事項 参考事項
ヘンリー6世 1422年 (9月)ヘンリー5世死去。ヘンリー6世即位  
1429年 (5月)ジャンヌ・ダルクの活躍によりアルマニャック派がオルレアンを解放。
(7月)シャルル7世ランス戴冠式を挙行。
1431年 (12月)ヘンリー6世、パリでフランス王の戴冠式を挙行。 (5月)ジャンヌ・ダルク火刑に処される。
1435年 (9月)べッドフォード公ジョン死去。 (8月)アラスの和議、ブルゴーニュ派がシャルル7世と講和。
1437年 (2月)スコットランド王ジェームズ1世死去、ジェームズ2世即位。
1445年 (4月)和平派のサフォーク伯の斡旋により、ヘンリー6世とアンジュー公女のマルグリット(マーガレット)が結婚。
1447年 (2月)主戦派のグロスター公ハンフリーが獄死。
1450年 (1‐5月)サフォーク公が失脚。サマセット伯が和平派の中心となり重用される。
(7月)ジャック・ケイドの乱。
(5月)フォルミニーの戦い、イングランドがノルマンディーを喪失。
1452年 (2-3月)ヨーク公、兵を率いてサマセット公排除を要求するが失敗。  
1453年 (6月)ボルドー陥落、百年戦争事実上終結。
(8月)ヘンリー6世が精神錯乱に陥る。
(10月)王子エドワード・オブ・ウェストミンスター出生。
(5月)コンスタンティノープルの陥落
1454年 (3月)ヨーク公、護国卿に就任。(-1455年1月)  
1455年 (5月)第一次セント・オールバーンズの戦い、ヨーク派勝利。サマセット公処刑。薔薇戦争はじまる。
(10月)ヨーク公、護国卿就任。
(この年)スコットランド王ジェームズ2世、黒ダグラス家を粛清。 
1456年 (2月)ヨーク公、護国卿を解任。
(6月)マーガレット王妃、宮廷をコヴェントリーに移させる。
 
1458年 (3月)両派融和を目指した「愛の日」の教会行列  
1459年 (6月)ヨーク派が大評議会への出席を拒絶。
(9月)ブロア・ヒースの戦い、ヨーク派勝利。
(10月)ラドフォード橋の戦い、ランカスター派勝利。ヨーク派はアイルランドカレーに退却。
(11月)ランカスター派の議会、ヨーク派諸侯の私権剥奪を決議。
 
1460年 (6月)マーチ伯エドワードとウォリック伯がイングランドに反攻。
(7月)ノーサンプトンの戦い、ヘンリー6世がヨーク派に捕えられる。
(10月)ヨーク公がロンドンに入城して王位を請求。合意令が成立し、ヨーク公がヘンリー6世の後の王位継承者になる。
(12月)ウェイクフィールドの戦い、ヨーク公とソールズベリー伯が殺害される。
(8月)スコットランド王ジェームズ2世死去、ジェームズ3世即位。 
1461年 (2月)モーティマーズ・クロスの戦い、ヨーク派勝利。
(2月)第二次セント・オールバーンズの戦い、ランカスター派勝利。ヘンリー6世を奪回するが王妃マーガレットはロンドン入城を拒まれる。
(7月)フランス王シャルル7世死去、ルイ11世即位。
エドワード4世 (2-3月)ヨーク公の嫡男エドワードがロンドンに入城して国王に推戴される。(エドワード4世)
(3月)タウトンの戦い、ヨーク派の決定的勝利。
(11月)議会がヘンリー6世の廃位を正式に決議。
1464年 (5月)エドワード4世、エリザベス・ウッドヴィルと秘密結婚。
(5月)ヘクサムの戦い、ランカスター派残党壊滅。
 
1465年 (7月)ヘンリー6世が捕えられ、ロンドン塔に幽閉される。  
1467年 (9月)ブルゴーニュ公シャルルと王妹マーガレットが結婚。
(この年)ウォリック伯がカレーに退去し、クラレンス公に接近。
 
1469年 (6月)ウォリック伯派のレデスデールのロビンが蜂起。
(7月)エッジコート・ムーアの戦いでエドワード4世が敗れ、後に捕えられる。
(7月)ウォリック伯、リバース伯らエドワード4世側近を処刑。
(10-12月)エドワード4世とウォリック伯が和解。
(10月)カスティーリャ王女イサベルアラゴン王子フェルナンドが結婚。(後のカトリック両王
(7月)スコットランド王ジェームズ3世、デンマーク王女マーガレットと結婚、持参金の担保としてオークニー諸島シェトランド諸島を獲得。
1470年 (3月)ルーズコート・フィールドの戦い、エドワード4世がリンカンシャーの反乱軍を撃破。
(3月)ウォリック伯とクラレンス公がフランスに逃亡。
(6月)フランス王ルイ11世の斡旋により、マーガレット王妃とウォリック伯が和解。
(9月)ウォリック伯とクラレンス公がイングランドに反攻。エドワード4世はブルゴーニュへ亡命。
 
ヘンリー6世 (10月)ウォリック伯、ヘンリー6世を復位させる。
1471年 (3月)エドワード4世がレーヴェンスパーに上陸。
(4月)クラレンス公、エドワード4世に帰順
 
エドワード4世 (4月)エドワード4世、ロンドンに入城。ヘンリー6世を捕らえる。
(4月)バーネットの戦い、エドワード4世勝利、ウォリック伯戦死。
(5月)テュークスベリーの戦い、ヨーク軍勝利、エドワード王子処刑、マーガレット王妃捕らわれる。
(5月)ヘンリー6世、ロンドン塔で殺害される。
1475年 (8月)エドワード4世、フランスに侵攻。ルイ11世とピキニー条約を結ぶ。
1477年 (1月)ブルゴーニュ公シャルル戦死。ルイ11世、ブルゴーニュを接収する。
1478年 (2月)クラレンス公処刑される。
1479年   (1月)スペイン王国成立
エドワード5世 1483年 (4月)エドワード4世死去。長男のエドワード5世が王位を継承。 (8月)フランス王ルイ11世死去。シャルル8世即位。
リチャード3世 (6月)グロスター公リチャードが、エドワード5世を廃位し、リチャード3世として即位。
(10-12月)バッキンガム公の反乱。
1485年 (8月)ヘンリー・テューダーが南ウェールズのペンブルックシャーに上陸。  
ヘンリー7世 (8月)ボズワースの戦い、リチャード3世戦死、ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位。
(10月)ヘンリー7世、戴冠式を挙行。
(11月)ヘンリー7世とエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークが結婚。 
1487年 (6月)エドワード6世を僭称するランバート・シムネルの軍がアイルランドから侵攻。
(8月)ストーク・フィールドの戦い、ヘンリー7世勝利、ランバート・シムネル捕えられる。薔薇戦争終了
 

略系図

  ランカスター派
  ヨーク派
  ウォリック伯(キングメーカー)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード
黒太子
 
ヨーク公
エドムンド・オブ・ラングリー
 
 
 
クラレンス公
ライオネル・オブ・アントワープ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ランカスター公
ジョン・オブ・ゴーント
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルスター女伯
フィリッパ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード2世
 
 
 
 
 
 
マーチ伯
ロジャー・モーティマー
 
エリザベス・モーティマー英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
ウェストモーランド伯爵夫人
ジョウン・ボーフォート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー4世
ボリングブロク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サマセット伯
ジョン・ボーフォート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ケンブリッジ伯
リチャード・オブ・コニスバラ
 
アン・ドゥ・モーティマー 英語版
 
ノーサンバランド伯
ヘンリー・パーシー
 
エレノア・ネヴィル英語版
 
 
 
 
 
 
ケント伯
ウィリアム・ネヴィル
 
 
 
ソールズベリー伯
リチャード・ネヴィル
 
 
 
 
 
ヘンリー5世
 
キャサリン・オブ・ヴァロワ
 
オウエン・テューダー
 
サマセット公
ジョン・ボーフォート
 
 
 
サマセット公
エドムンド・ボーフォート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨーク公
リチャード・プランタジネット
 
 
 
 
 
ノーサンバランド伯
ヘンリー・パーシー
 
 
 
セシリー・ネヴィル
 
トマス・ネヴィル英語版
 
ウォリック伯
リチャード・ネヴィル
 
モンターギュ侯
ジョン・ネヴィル
 
マーガレット・オブ・アンジュー
 
ヘンリー6世
 
リッチモンド伯
エドマンド・テューダー
 
 
 
マーガレット・ボーフォート
 
サマセット公
ヘンリー・ボーフォート
 
サマセット公
エドムンド・ボーフォート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード4世
 
リチャード3世
 
クラレンス公
ジョージ・プランタジネット
 
 
 
 
 
 
イザベル・ネヴィル
 
アン・ネヴィル
 
 
 
 
 
エドワード・オブ・
ウェストミンスター
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード5世
 
エリザベス・オブ・ヨーク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー7世
テューダー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テューダー朝

脚注

注釈

  1. ^ a b 紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.
  2. ^ 対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.
  3. ^ a b サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。
  4. ^ a b キングメーカー」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。森(2000),pp.275-276.
  5. ^ ワイズ(2001)(p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって異動がある。
  6. ^ ウォリック伯はエドワード4世は母セシリー・ネヴィルの不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。
    Vanora Bennett. “Was King Edward IV illegitimate?”. 2012年6月28日閲覧。
  7. ^ ヘンリー5世の死後にキャサリン・オブ・ヴァロワ(ヘンリー6世の母)とオウエン・テューダーが秘密結婚をして3男1女が生まれた。石井(2006),pp.12-13.
  8. ^ ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアルンデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。ワイズ(2001),pp.4-5.
  9. ^ 1590年代後半につくられた『リチャード二世』、『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』は「第2・四部作」と呼ばれている。シェイクスピア大事典(2002),p.25,28.

出典

  1. ^ a b ワイズ(2001),p.19.
  2. ^ a b c 指(2002),p.39;ワイズ(2001),p.5;森(2000),pp.275-276;青山(1991),p.447.
  3. ^ 森(2000),p.274.
  4. ^ 指(2002),p.39;ワイズ(2001),p.5.
  5. ^ Weir(1998), pp.9–10.
  6. ^ a b 指(2002),p.45.
  7. ^ 森(2000),p.307.
  8. ^ 森(2000),p.322,326.
  9. ^ a b ワイズ(2001),p.5.
  10. ^ 青山他(1991),p.445,466.
  11. ^ a b c 堀越孝一. “百年戦争- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年6月23日閲覧。
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  23. ^ キング(2006),p.341;森(2000),pp.248-249;青山他(1991),p.418.
  24. ^ キング(2006),pp.337-338.
  25. ^ キング(2006),pp.338-339;青山他(1991),p.424.
  26. ^ Royle(2009), pp.160–161.
  27. ^ キング(2006),pp.344-345.
  28. ^ キング(2006),p.346.
  29. ^ キング(2006),pp.346-347;森(2000),p.253.
  30. ^ キング(2006),p.347;青山他(1991),p.426-427.
  31. ^ キング(2006),p.348;青山他(1991),p.428.
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参考文献

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  • 川北稔(編集) 編『イギリス史』山川出版社〈新版 世界各国史〉、1998年。ISBN 978-4634415201 
  • 荒井良雄大場建治川崎淳之助(編集主幹) 編『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。ISBN 4-8205-6822-1 
  • エイザ・ブリッグズ 著、今井宏、中野春夫、中野香織 訳『イングランド社会史』筑摩書房、2004年。ISBN 978-4480857583 
  • エドマンド・キング 著、吉武憲司、赤江雄一、高森彰弘 訳『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、2006年。ISBN 978-4766413236 
  • クリストファー・グラヴェット 著、須田武郎、斉藤潤子 訳『イングランドの中世騎士―白銀の装甲兵たち』新紀元社〈オスプレイ戦史シリーズ〉、2002年。ISBN 978-4775301043 
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  • 石井美樹子『図説 ヨーロッパの王妃』河出書房新社、2006年。ISBN 978-4309760827 
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  • 大山俊一 著、小津次郎喜志哲雄大場建治、武井ナヲエ、大山俊一、菅泰男冨原芳彰 訳「解説」『世界古典文学全集〈第43巻〉シェイクスピアIII』筑摩書房、1966年。 
  • 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社、1999年。ISBN 978-4582850208 
  • 指昭博『図説 イギリスの歴史』河出書房新社、2002年。ISBN 978-4309760100 
  • 鈴木俊章「バラ戦争」『世界の戦争・革命・反乱総解説』自由國民社、1994年。 
  • 富沢霊岸『イギリス中世史―大陸国家から島国国家へ』ミネルヴァ書房、1988年。ISBN 978-4623018673 
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関連図書

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  • Pollard, A.J. (1988). The Wars of the Roses. Basingstoke: Macmillan Education. ISBN 0-333-40603-6 
  • Sadler, John (2011). Towton: the Battle of Palm Sunday Field 1461. Barnsley: Pen and Sword Military. ISBN 978-1-84415-965-9 
  • Wagner, John A. (2001). Encyclopedia of the Wars of the Roses. ABC-Clio. ISBN 1-85109-358-3 

外部リンク

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