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ジョン・オブ・ゴーント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・オブ・ゴーント
John of Gaunt
ランカスター公
アキテーヌ公
在位 ランカスター公:1362年11月13日 - 1399年2月3日
アキテーヌ公:1390年3月2日 - 1399年2月3日

出生 (1340-03-06) 1340年3月6日
フランドルヘント、聖バヴォン修道院
死去 (1399-02-03) 1399年2月3日(58歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国レスターシャーレスター城
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国ロンドン旧セント・ポール大聖堂英語版
配偶者 ブランシュ
  コンスタンス
  キャサリン
子女 一覧参照
家名 ランカスター家
父親 エドワード3世
母親 フィリッパ・オブ・エノー
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ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, 1340年3月6日 - 1399年2月3日[1])は、イングランドの王族。イングランド王エドワード3世フィリッパ・オブ・エノーの成人へ達した3番目の息子。ランカスター家の祖で、ランカスター朝創始者ヘンリー4世の父。エドワード黒太子クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは兄、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーグロスター公トマス・オブ・ウッドストックは弟。イングランド宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフの保護者として知られる。

生涯

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1342年リッチモンド伯に叙爵。1359年、初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュと結婚し、ランカスター公となった。結婚によりダービー伯領・リンカーン伯領・レスター伯領も手に入れ富裕になった。ゴーントとは、出生地であるフランドル(現在のベルギー北部)の都市ヘントを指す[2][3]

1369年から再開した百年戦争において多くの戦いに参加、1371年にイングランド軍を率いていた長兄のエドワード黒太子が病気でフランスからイングランドへ帰国すると指揮を引き継いだが、さほどの戦果は挙げられず1374年に帰国した。国内では老いた父エドワード3世に代わって国政を取り仕切ったが兄と対立、1376年4月の善良議会で専制ぶりを非難され、課税撤回と宮廷腐敗をもたらした大臣達の議会弾劾、父の愛人アリス・ペラーズの追放などを議会で決められた。しかし、同年6月に議会の後ろ盾だった兄が病死すると巻き返しに出て、翌1377年の議会で決議を全て無効にして実権を取り戻した[2][4]

同年に父も亡くなり甥のリチャード2世が即位すると、補佐として置かれた評議会の筆頭として実権を振るったが、1381年に課税の失策によりワット・タイラーの乱を誘発させた。ランカスター公はスコットランドへ外交活動をしていたため不在だったが、ロンドンの邸宅・サヴォイ宮は反乱軍に破壊され、反乱鎮圧後の1383年にリチャード2世が親政を開始すると権力から遠ざけられた。リチャード2世に後継ぎが生まれなかったため、王位継承を目指してイングランドでもフランスのような男系継承のみを認めるサリカ法を採用することを主張したが容れられず、リチャード2世はランカスター公の兄であるクラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの女系の孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名した(ロジャーは1398年に死去)[2][5]

1386年からイベリア半島に遠征し、後妻の権利としてカスティーリャ王位を主張したが果たせず、王位要求を放棄する代わりに娘キャサリンとカスティーリャ王子エンリケ(後のエンリケ3世)を結婚、10万ポンドの金や年金受け取りで妥協して1389年に帰国し、留守中に生じたリチャード2世と訴追派貴族の対立および非情議会で生じた亀裂の修復に努め、貴族の国王追及を止める代わりに国王の専制も抑えることに尽力した。その甲斐あってリチャード2世からの信頼を獲得、1390年アキテーヌ公位を譲られた(実効支配せず)。更に1397年、リチャード2世から4人の庶子を嫡子に格上げする計らいもあり(後述)、晩年はリチャード2世寄りの姿勢を取っていた。

しかし同年、リチャード2世はランカスター公の弟で訴追派貴族のメンバーでもあるグロスター公トマス・オブ・ウッドストックらを逮捕して殺し、ランカスター公の死の前年の1398年、彼の息子で同じく訴追派貴族の一員だったヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)を国外追放した。さらに1399年にランカスター公の死を見届けるとランカスター公領の没収を命じた[2][6]

ボリングブルックは帰国して反乱を起こすとリチャード2世を捕らえて廃位し、ヘンリー4世として即位した。

子女

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詩人チョーサーの『公爵夫人の書』(The Book of the Duchess)において「白の貴婦人」と賞賛されたブランシュ(1345年/1347年 - 1368年)との間に7人の子を儲けたが、成人したのは1男2女だった[7]

ブランシュの死後、1371年に2度目の妃としてカスティーリャペドロ1世の娘コンスタンス(1354年 - 1394年)を迎え、1男1女を儲けた[8]

1394年にコンスタンスを失うと、1396年に10年来の愛人キャサリン・スウィンフォード(1350年 - 1403年)を正式に3度目の夫人にした。彼女はランカスター公の母フィリッパが嫁ぐ際に随行してきた騎士の子孫で、愛人であった間に3男1女が生まれていた。正式に結婚した翌年の1397年に、4人の庶子嫡出子になることが認められたが、その条件として王位継承権を剥奪された。さらに1407年にはヘンリー4世によっても王位継承から除外することを確認された。それにもかかわらず彼らはボーフォート家としてランカスター朝で繁栄し、子孫はヘンリー7世としてテューダー朝を創始することになった[9]

ヘンリー4世、キャサリン・スウィンフォードとの間の長子ジョン、末子ジョウン、その姪に当たる同名の孫娘、さらにその姪に当たる曾孫マーガレットを通じて、ジョン・オブ・ゴーントはヘンリー4世以降の全てのイングランド君主とジェームズ2世[10]以降の全てのスコットランド君主の共通の先祖である。

系図

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プランタジネット朝
エドワード3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード黒太子ライオネルジョンエドマンド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(プランタジネット朝)
リチャード2世
 
 
ランカスター朝
ヘンリー4世
ジョン・ボーフォート
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヘンリー5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨーク朝
ヘンリー6世
 
 
 
 
テューダー朝
 


脚注

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  1. ^ ジョン・オブ・ゴーント - Find a Grave(英語) ウィキデータを編集
  2. ^ a b c d 松村、P378。
  3. ^ 森、P177、青山、P367、ロイル、P32。
  4. ^ 森、P155、青山、P375 - P376、川北、P101 - P103、P105 - P106、松村、P291。
  5. ^ 森、P160 - P164、P176、青山、P378 - P379、P401、川北、P106、松村、P291、ロイル、P33、P40 - P41。
  6. ^ 森、P164 - P169、青山、P382、P386 - P387、P404、川北、P110 - P113、松村、P379、ロイル、P53、P59 - P60、P74 - P79。
  7. ^ 森、P177 - P178。
  8. ^ 森、P178、ロイル、P32。
  9. ^ 森、P179 - P180、ロイル、P75、P88。
  10. ^ イングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としては同7世)でなくその先祖

参考文献

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関連項目

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イングランドの爵位
爵位創設 ランカスター公爵
第2期
1362年 – 1399年
次代
ヘンリー・ボリングブルック
先代
ヘンリー・オブ・グロスモント
レスター伯爵
ランカスター伯爵
ダービー伯爵

1361年 – 1399年
先代
ロベール3世・ダルトワ
リッチモンド伯爵
1342年9月29日 – 1372年6月25日
次代
ブルゴーニュ公ジャン4世
フランスの爵位
先代
リシャール2世
アキテーヌ公爵
1390年 – 1399年
次代
リシャール2世
公職
先代
ヘンリー・オブ・グロスモント
大家令
1362年 – 1399年
次代
ヘンリー・ボリングブルック
請求称号
先代
エンリケ2世
対抗者のない王として
カスティーリャ国王
1372年 – 1388年
同職:コンスタンス
次代
フアン1世
対抗者のない王として