「陸奥国司」の版間の差分
陸奥国 2012年3月14日 (水) 14:13 (UTC)の版から「人物」節を転記 |
|||
25行目: | 25行目: | ||
== 近世 == |
== 近世 == |
||
朝廷によって五位級の[[地下家|地下官人]]が陸奥守に任命されていた一方で、[[武家官位]]としての陸奥守職は[[伊達政宗]]以降、[[伊達家]]当主・[[仙台藩]]主に与えられるのが慣例となり、代々[[伊達氏]]が世襲し[[幕末]]まで続いた。 |
朝廷によって五位級の[[地下家|地下官人]]が陸奥守に任命されていた一方で、[[武家官位]]としての陸奥守職は[[伊達政宗]]以降、[[伊達家]]当主・[[仙台藩]]主に与えられるのが慣例となり、代々[[伊達氏]]が世襲し[[幕末]]まで続いた。 |
||
== 人物 == |
|||
{{分割提案|陸奥国司|section=1|date=2012年3月}} |
|||
=== 国司 === |
|||
==== 陸奥守 ==== |
|||
定員は1名。従五位上相当。ただし、伊達氏の陸奥守は[[武家官位]]であり、京都には別に任官した陸奥守が存在した。 |
|||
※日付=旧暦 |
|||
* [[平維扶]] |
|||
* [[平貞盛]] |
|||
* [[藤原実方]](995年〈正暦6年〉~) |
|||
* [[源満政]] |
|||
* [[源忠重]] |
|||
* [[藤原登任]] |
|||
* [[源頼義]] |
|||
* [[藤原良経]] |
|||
* [[源信雅]] |
|||
* [[源義家]] |
|||
* [[藤原基家 (陸奥守)|藤原基家]] |
|||
* [[藤原基成]] |
|||
* [[藤原秀衡]](1181年〈養和元年〉8月15日~ |
|||
* [[大江広元]](1216年〈建保4年〉1月27日~1216年〈建保4年〉11月10日) |
|||
* [[北条義時]](1217年〈建保5年〉12月12日~1223年〈貞応元年〉8月16日)従四位下 |
|||
* [[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]](1224年〈貞応2年〉~ |
|||
* [[北条重時]](1249年〈建長元年〉6月14日~1256年〈康元元年〉3月11日)従四位上 |
|||
* [[北条政村]](1256年〈康元元年〉4月5日~1257年〈正嘉元年〉6月12日)従四位下 |
|||
* [[足利泰氏]] |
|||
* [[北条時茂]](1267年〈文永4年〉10月23日~1270年〈文永7年〉1月27日)従五位下 |
|||
* [[北条時村 (政村流)|北条時村]](1270年〈文永7年〉7月8日~1282年〈弘安5年〉7月14日)従五位下 |
|||
* [[安達泰盛]](1282年〈弘安5年〉7月14日~1284年〈弘安7年〉4月4日)秋田城介兼務。 |
|||
* [[北条業時]](1284年〈弘安7年〉8月8日~1287年〈弘安10年〉6月18日)正五位下 |
|||
* [[北条宣時|北条(大仏)宣時]](1289年〈正応2年〉6月23日~1301年〈正安3年〉9月4日) |
|||
* [[北条宗宣]](1301年〈正安3年〉9月27日~1312年〈正和元年〉5月29日)従四位下 |
|||
* [[北条維貞|北条(大仏)維貞]](1314年〈正和3年〉10月21日~1326年〈嘉暦元年〉10月10日)正五位下 |
|||
* [[北条貞直|北条(大仏)貞直]]( ~1333年〈元弘3年〉5月22日) |
|||
* [[北畠顕家]]( 1334年~)従三位 |
|||
==== 陸奥介 ==== |
|||
* [[源満実]] |
|||
==== 武家官位としての陸奥守 ==== |
|||
* [[島津立久]](1470年から1474年〈文明6年〉4月まで) |
|||
* [[三浦義同]]従四位下 |
|||
* [[武田信虎]]従五位下 |
|||
* [[大舘晴光]] |
|||
* [[毛利元就]](1560年〈永禄3年〉2月15日~1571年〈元亀2年〉6月14日)従四位下→従四位上 |
|||
* [[北条氏照]] |
|||
* [[島津貴久]](1564年から1571年まで) |
|||
* [[穴山信君]] |
|||
* [[佐々成政]](1536年〈天文5年〉2月6日(1月15日?) - 1588年〈天正16年〉7月7日(閏5月14日)までの間のいずれか) |
|||
* [[島津忠恒|島津家久]](1604年〈慶長9年〉6月~1617年〈元和3年〉7月18日)正四位下左近衛少将兼任。 |
|||
* [[伊達政宗]](1608年〈慶長13年〉1月~1615年(元和元>6月19日)従四位下右近衛権少将兼任。 |
|||
* [[伊達忠宗]](1639年〈寛永16年〉4月14日~1658年〈万治元年〉7月12日)従四位下右近衛権少将兼任。 |
|||
* [[伊達綱宗]](1658年〈万治元年〉閏12月27日~1669年〈寛文9年〉12月20日)従四位下左近衛権少将兼任。 |
|||
* [[伊達綱村]](1669年〈寛文9年〉~1703年〈元禄16年〉8月29日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将兼任。 |
|||
* [[伊達吉村]](1703年〈元禄16年〉8月29日~1743年〈寛保3年〉7月25日)従四位下侍従兼任→従四位上左近衛権中将兼任。 |
|||
* [[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]](1743年〈寛保3年〉7月25日~1756年〈宝暦6年〉5月26日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将 |
|||
* [[伊達重村]](1756年〈宝暦6年〉7月18日~1790年〈寛政2年〉)従四位下侍従兼任→従四位上左近衛権中将兼任。 |
|||
* [[伊達斉村]](1790年〈寛政2年〉6月25日~1796年〈寛政8年〉8月12日)従四位下侍従兼任→従四位下左近衛権少将兼任。 |
|||
* [[伊達斉宗]](1812年〈文化9年〉3月15日~1819年〈文政2年〉5月24日)従四位下左近衛権少将兼任。 |
|||
* [[伊達斉義]](1819年〈文政2年〉8月11日~1827年〈文政10年〉11月27日)従四位下左近衛権少将兼任。 |
|||
* [[伊達斉邦]](1828年〈文政11年〉2月~1841年〈天保12年〉7月24日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将 |
|||
* [[伊達慶邦]](1841年〈天保12年〉9月15日~1868年〈慶応4年〉)従四位下侍従兼任→正四位下左近衛権中将 |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2012年3月26日 (月) 08:10時点における版
陸奥守(むつのかみ)は陸奥国の国司の長官。その官職及び官職にある者をいう。行政・司法等、国務一切を総轄する。定員1名。従五位上相当の職。
略史
古代・中世
陸奥国府は現在の宮城県多賀城市にあり、8世紀前半から国司が派遣されるようになった。当初は蝦夷対策の重責を担っていた。陸奥国は66ヶ国中、日本の北限にあたり(当時は東限と認識されていた)、出羽国と並ぶ辺境の国であると同時に、広大な領域を有する大国でもあった。陸奥国は金山や良馬に恵まれる一方で、その国司は、朝廷の支配に属さない蝦夷を帰服させ、しばしば離反を繰り返した俘囚を服属させる任務を帯びていた。後代まで服属しない蝦夷がいたため、陸奥国の領域は下北半島または津軽地方に及ばなかった。そのため、陸奥国には征夷大将軍や鎮守府将軍が派遣され、平定した地域には陸奥国府と並んで鎮守府が置かれ、その長官たる鎮守府将軍は国司と同格とされた。
こうして代々の陸奥守には清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が任ぜられることが多く、また陸奥守が鎮守府将軍を兼ねる場合も少なくなかった。
その好例が河内源氏の棟梁 源頼義とその子、義家である。頼義は源氏始祖の経基王以来、父の代まて4代にわたり鎮守府将軍を歴任しており、蝦夷の俘囚長で奥六郡の支配者である安倍氏が国府と対立した際、これを平定するため陸奥守・鎮守府将軍として派遣され、12年の歳月を経て平定した。これを前九年の役という。
その後は、しばらく陸奥は平穏であったが、依然として東北には陸奥国に編入しきれていない蝦夷の領域があり、頼義の遠縁にあたる大和源氏の源頼俊が清原氏の援軍を得て、青森北端までを制圧し、陸奥国府の威光が東北一帯まで及ぶようになった。この戦いを延久蝦夷合戦という。
その後、頼義の子の義家も安倍氏の後に奥六郡の支配者となった清原氏の内紛に介入、これを鎮定し、武勲を挙げた。これを後三年の役という。
後三年の役が平定された後は奥州藤原氏が奥羽一帯の実質的な支配者となり、陸奥国司は徴税官的な側面が強くなった。奥州藤原氏三代の藤原秀衡は陸奥守・鎮守府将軍の地位を得たが、敵対心を抱いた頼朝により免官運動がなされ、程なく免官されたという。
秀衡の死後、奥州藤原氏は源頼朝に討たれ、鎌倉幕府が成立すると、陸奥守は北条氏や安達氏など有力御家人が務める栄職とされた。
鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇の時代には親王任国となっていたため、後の後村上天皇となる義良親王が陸奥国府に入り(奥州将軍府)、北畠顕家が陸奥大介鎮守府大将軍を務め、奥州勢を率いて足利尊氏の勢力と大戦を繰り返した。
近世
朝廷によって五位級の地下官人が陸奥守に任命されていた一方で、武家官位としての陸奥守職は伊達政宗以降、伊達家当主・仙台藩主に与えられるのが慣例となり、代々伊達氏が世襲し幕末まで続いた。
人物
国司
陸奥守
定員は1名。従五位上相当。ただし、伊達氏の陸奥守は武家官位であり、京都には別に任官した陸奥守が存在した。
※日付=旧暦
- 平維扶
- 平貞盛
- 藤原実方(995年〈正暦6年〉~)
- 源満政
- 源忠重
- 藤原登任
- 源頼義
- 藤原良経
- 源信雅
- 源義家
- 藤原基家
- 藤原基成
- 藤原秀衡(1181年〈養和元年〉8月15日~
- 大江広元(1216年〈建保4年〉1月27日~1216年〈建保4年〉11月10日)
- 北条義時(1217年〈建保5年〉12月12日~1223年〈貞応元年〉8月16日)従四位下
- 足利義氏(1224年〈貞応2年〉~
- 北条重時(1249年〈建長元年〉6月14日~1256年〈康元元年〉3月11日)従四位上
- 北条政村(1256年〈康元元年〉4月5日~1257年〈正嘉元年〉6月12日)従四位下
- 足利泰氏
- 北条時茂(1267年〈文永4年〉10月23日~1270年〈文永7年〉1月27日)従五位下
- 北条時村(1270年〈文永7年〉7月8日~1282年〈弘安5年〉7月14日)従五位下
- 安達泰盛(1282年〈弘安5年〉7月14日~1284年〈弘安7年〉4月4日)秋田城介兼務。
- 北条業時(1284年〈弘安7年〉8月8日~1287年〈弘安10年〉6月18日)正五位下
- 北条(大仏)宣時(1289年〈正応2年〉6月23日~1301年〈正安3年〉9月4日)
- 北条宗宣(1301年〈正安3年〉9月27日~1312年〈正和元年〉5月29日)従四位下
- 北条(大仏)維貞(1314年〈正和3年〉10月21日~1326年〈嘉暦元年〉10月10日)正五位下
- 北条(大仏)貞直( ~1333年〈元弘3年〉5月22日)
- 北畠顕家( 1334年~)従三位
陸奥介
武家官位としての陸奥守
- 島津立久(1470年から1474年〈文明6年〉4月まで)
- 三浦義同従四位下
- 武田信虎従五位下
- 大舘晴光
- 毛利元就(1560年〈永禄3年〉2月15日~1571年〈元亀2年〉6月14日)従四位下→従四位上
- 北条氏照
- 島津貴久(1564年から1571年まで)
- 穴山信君
- 佐々成政(1536年〈天文5年〉2月6日(1月15日?) - 1588年〈天正16年〉7月7日(閏5月14日)までの間のいずれか)
- 島津家久(1604年〈慶長9年〉6月~1617年〈元和3年〉7月18日)正四位下左近衛少将兼任。
- 伊達政宗(1608年〈慶長13年〉1月~1615年(元和元>6月19日)従四位下右近衛権少将兼任。
- 伊達忠宗(1639年〈寛永16年〉4月14日~1658年〈万治元年〉7月12日)従四位下右近衛権少将兼任。
- 伊達綱宗(1658年〈万治元年〉閏12月27日~1669年〈寛文9年〉12月20日)従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達綱村(1669年〈寛文9年〉~1703年〈元禄16年〉8月29日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将兼任。
- 伊達吉村(1703年〈元禄16年〉8月29日~1743年〈寛保3年〉7月25日)従四位下侍従兼任→従四位上左近衛権中将兼任。
- 伊達宗村(1743年〈寛保3年〉7月25日~1756年〈宝暦6年〉5月26日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将
- 伊達重村(1756年〈宝暦6年〉7月18日~1790年〈寛政2年〉)従四位下侍従兼任→従四位上左近衛権中将兼任。
- 伊達斉村(1790年〈寛政2年〉6月25日~1796年〈寛政8年〉8月12日)従四位下侍従兼任→従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達斉宗(1812年〈文化9年〉3月15日~1819年〈文政2年〉5月24日)従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達斉義(1819年〈文政2年〉8月11日~1827年〈文政10年〉11月27日)従四位下左近衛権少将兼任。
- 伊達斉邦(1828年〈文政11年〉2月~1841年〈天保12年〉7月24日)従四位下左近衛権少将兼任→従四位上左近衛権中将
- 伊達慶邦(1841年〈天保12年〉9月15日~1868年〈慶応4年〉)従四位下侍従兼任→正四位下左近衛権中将